2017/4/30, Sun.

 玄関を出て外気のなかに入ったその瞬間から、旺盛な陽射しの熱を含んだ初夏の空気の匂いとも言うべきものが、肌と鼻孔に触れてきた。陽の当たった部分は広く、鳶が宙を行く影が、路上のみならず林の縁の、新緑の葉々の上にまで映って、駆け上がって行った。道に出れば実に暖かで、熱を中和する風も織物めいた柔らかさである。坂を上がっているあいだ、鶯の鳴きが、間も短く次々と、それぞれに僅か異なった音程と長さで、膨らんでは落ちる。周囲に生えた木々の、明るい若葉色のなかにただ一本、紅葉した春椛があって、緑に囲まれてそこだけ渋く抑えた緋の色が照られているその対照に目を惹かれた。道を行っているうちに、脇やら肩やら、服の内に汗の滲む感触が起こる。裏通りの中途に挟まれた坂を横断したところで、前方の植物がばたばたと騒いでいると思うや否や、そう幅の広くない道を突風が埋めて寄せて来て、前髪が額から巻き上げられて涼しい。道端の木の、先端に赤褐色を仄かに混ぜた丸い若葉が、震えているあいだではなく風の止んで葉鳴りの収まったそのあとになって、何枚かはらはらと落ちていた。

               *

 昭和記念公園――木々の葉の隙間にまで澄明な色が隈なく浸潤し、はしたないまでに明るく晴れ渡った青空の日である。広場の周縁部の、木蔭の一角にシートを敷き、座った。すぐ手近の周囲にも子連れの人々が何組も集まっており、遊具には子供らが蟻のように群がり、中央に巨木の一本聳えてだだっ広い平原には、老いも若きも幼きも思い思いに遊び交錯して、人々は沸騰した鍋のなかで揺動し行き交ってやまない泡のようである。話しているあいだにふと、広場の一角でシャボン玉の群れが発生し、いくらか傾いた太陽が夾雑物のない空から送りつけてくるまっさらな陽射しのなかで、赤や青やの色味を僅かに帯びて光りながら錯綜するのに目を惹かれた。泡は、二人連れの女性らの一方が持った筒から次々と噴出して宙に広がっているのだが、歩いてくる当人は自分が背後に生み出している色彩の散乱にまったく無頓着で、友人と話しながら一度として振り返ることもない。その後ろで、彼女らとはまったく関係のない別の集団の幼児が一人、惹かれて飛びこんで、両手を合わせてシャボン玉をすくおうとするのだが、手の上に降り立った泡は間髪入れず、その同じ瞬間に割れて消え去ってしまい、子どもは空になった手のひらのなかを見つめるほかはないのだった。

2017/4/29, Sat.

 六時、窓辺のベッドに乗って、姿勢を緩くして身体を寛がせながら『梶井基次郎全集 第一巻』を読んでいると、カーテンがいくらか膨らんで、夕刻の涼しさが流れこんで来る。空は白いが、明るめの曇りで、電灯を点けずともまだ言葉を読み取るのに支障がない。文字に目を落としているうちに、外から草の音が立って、間断を挟みながら時折りがさがさというその調子が、人というよりは動物のものらしく思えて、猫だろうか鳥だろうかと確認はせずにただちらちらと見やっていたところ、何度目かで窓正面の棕櫚の木に、鴉が一羽止まっているのに、これかと気づいた。冬枯れからまだ復活しきっておらず、幹の横に薄色に乾燥した葉の残骸をいくらか纏っているあたりに、鴉も掴まるようにして、虫がいるのかしばらく顔を木に近づけては離していたが、じきに飛んで行った。それから姿勢を変えて、本を窓の傍に持って行った拍子に、それまではまっさらに白かった頁が淡く橙の風味を帯びて色づいたのに驚かされて、何度か窓際と室内に本を往復させて色合いの変化を眺めた。外は一見して均質な曇天で、夕陽の感触などどこにも見当たらないが、紙という媒体を得て空中に確かに含まれているらしい光の色素が露わに浮かびあがった形である。頁と頁が最接近した谷底の部分が、殊更に色を溜めて、影を作っていた。

2017/4/28, Fri.

 風があっても心地よい涼しさに留まる、空気の軽い往路である。空は、東の方には晴れ間が見えるが、頭上のあたりから雲が湧いていて、西ではそれが一面に拡大され、波の弱い浅瀬めいて柔らかな薄灰色が落日を隠しきっていた。街道に出て歩いていると、車の途切れた隙に軒から発った燕が一匹、道路の上に切りこんで、演舞のごとく滑らかな曲線を描いて飛び回り、また軒下の巣へ帰っていくその動きに、思わず目を誘われる。ほかにも燕が何匹も、粒立ちの細かな鳴き声を降らせながら、屋根や電線を伝って行き交う春の夕べ道である。行くうちに行く手ではいくらか雲の布置に変化もあったが、裏から振り返った西空は変わらず白銅色の均質な平面で、太陽の姿は見事に覆われて雲の先のどこにあるのかその痕跡すら窺われず、暗くはないもののあたりに陽の色の一片もなくて地に影も湧かず、見えない光の気配としては東の正面に澄んだ空の青と、そこに浮かぶ灰色雲のなかに白く塗られた縁のその色くらいのものだった。

2017/4/27, Thu.

 家を出たのは午後七時である。青さの留まった宵の空で、ポストから夕刊を取り出せば、米国の三長官が対北朝鮮政策についての声明を発表と、一面の記事が定かに読めるほどに、まだ明るさが残っている。室内で身体を動かさずにいたから、外に出ると肉に熱がなくて、いくらか首もとの冷える空気である。街道に出る前の丁字路に集って立ち話をする行商の八百屋と、近所の婦人らの姿はこの日はない――そもそもいつも八百屋が野菜を積んだトラックを停めているのは五時過ぎで、この時間にいるはずがないのだが、ちょうど同じくらいの暗さのなかで彼らを目にした記憶の像が蘇るのに、あれは冬のことだった、と思い当たって、となると、それから一時間半か二時間ほども、日の暮れが遅くなったのだと思った。裏通りを行くうちに宵は深まって、空は暗く彩りを失って行く。こちらの左右両側に斜めに湧いた影が、歩みにつれてじりじりと中央へ移動して行き、しかし一つに重なる前に薄れて地に消える。行く手東は墨色で、振り返った西も青がもうよほど暗んで海の深みのようで、その上に煤煙めいた雲も掛かっていた。まだ距離の離れた後ろから、女子中学生だか女子高生だか二人くらいと、男子一人の声が伝わって来て、至極直截に性交を誘う歌詞の歌を大声で、恥も憚りもなく、頭を空っぽにしようと言わんばかりの邪気のなさで叫ぶ女子の声が聞こえた。その後も何曲か、あまり音程も確かでなく、いくらか幼さを残したような声音で歌っていて、それに触発されたわけでもなかろうが、前から来た自転車のすれ違う時に、わりと年嵩らしい婦人の乗り手の口からも、演歌風の節が洩れているのが耳に届いた。

2017/4/26, Wed.

 図書館で打鍵の合間に、小腹を満たすためにテラスに出て食事をした。午後五時の、少々肌寒くなった空気に、格子柵に絡んだ植物の葉が揺れ、視界をいくらか遮るその隙間から、円形歩廊を行き交う人々の姿が下方に見え、空は薄青く曇っている。向こうの駅で電車が入線してくるのを首を伸ばして眺めながらサンドウィッチを咀嚼しているその時間に自分が、純然たる自由を感じていることにふと気づいた――テラスにはほかに誰もおらず、目の前の、館内の学習席にはちらほらと人が就いているけれど、あいだに挟まれたガラスには自分の影やこちらの空間が淡く反映してなかの様子は見通しにくく、伝わってくるのは外から立ち昇る町音のみで、見下ろす先の人々も草の柵に阻まれて明瞭には見えず、多彩な表情と複雑な内面を備えた主体としての人間と言うよりは、自動的に歩き回る人形の往来のようで、そのように作業からも離れ、ほかの人間からも切断されてただ一人に画された空間で一歩引いて風景を眺める具合になったのが、何にも繋がらずそれそのものとしてほとんど純粋に自律した時間の充足らしきものを招いたらしい。

2017/4/25, Tue.

 往路、雲が淡く混ざっていくらか鈍く、長閑なようになった晴れ空である。裏道に入りながら目が行った西の、丘の稜線に接したまさしく際の空間に、落ち陽がすっぽりと、穴に嵌まったように円く光を満たしている。昼間には風の荒れた日で、居間にいる時に窓の外で甲高い唸りの響く時間もあって、午後五時になっても高い方ではそこそこ吹いているらしく、前を行く高校生らの話し声の裏で、丘の木々の鳴りが聞こえていた。物々の影が薄明るんだ塀に掛かって青みを添え、足もとからは、こちらのものも前の学生四人らのものも一様に、淡い影が前方に伸びて、ほんの少しだけ横に傾ぐ。合間に挟まれた坂を渡るとすぐ見えてくる一軒の、それは作業場か何かの風情の建物なのだが、薄朱色の花をつけた野草の繁殖した空き地に接する金属製の柵に、鴉が一羽止まっていた――つい先日も、飛んできた一匹ががしゃりと鳴らしながら降り立って我が物顔にあたりを見回し鳴くのを見た、その同じ柵である。この日の鴉も鳴きを上げて、すると林の方からもう一羽やってきて返すのを、どうも鳴き交わしているな、と見ながら過ぎた。寺の枝垂れ桜は緑を塗られている――そこだけ温度のちょっと下がって涼しいような、まだ未熟な梅の実を連想させる青緑色だった。

               *

 帰路も雲が僅かに残っているようで、青さのなく墨色に寄って、星の光も霞みがちな夜空だった。背後から街灯に照らされて道に浮かぶこちらの影の形が、やけにくっきりと見える。裏通りの左右を囲む民家のなかから人の気配らしきものも伝わってこない静けさのなかに、地を踏むに応じてこちらの靴の、ゴムが伸び縮みするらしい擦過音のみが立つ時間があり、それに耳を寄せながら行って空き地に掛かって空間がひらくと、表のどこの建物でやっているのか、五月の祭りに備えた囃子の練習の音が聞こえて来て、しかしそれもすぐに車の通る響きを被せられて届かなくなった。ふたたび目を落とした影は歩みに応じてこちらの横を追い抜かして行き、光の青さを僅かに滲ませた輪郭線を固めて色を濃くしては、前方に柔らかく伸びながら薄らいで行き、消えるとまた後ろに復活する――その繰り返しを眺めているといつも、梶井基次郎が、どの篇でのことだったかも忘れてしまったが、夜道を行くあいだに街灯に映し出される影の推移をやはり書き付けていたなと思い出されるのだった。

2017/4/24, Mon.

 三時前に外出。前日に続く晴天で、まだ陽だまりも広く、道を縁取った石壁の上から張り出している木々のその影が、路上に騒ぐ。裏通りを抜けて街道に出れば、一面に広がった日なたのなかで、肩の上に心地よい熱が乗って、汗ばんでくるくらいの温暖さだった。素早く宙を渡る鳥の影が、道や家壁の上を、水面を伝う波紋のようにして、瞬間過ぎ去っていく。表から一本裏に入ったところに覗く、中学校の校庭の端に並ぶ桜は、花を過ぎて萼の赤茶色と葉緑が混淆しており、鮮やかな華やぎの担当は花水木のそれに交替される頃合いである。小公園を過ぎざまに覗いてみても、地には褐色が砂のように散り敷かれている。裏に入って丘を見やれば、少し前は萌えはじめの薄緑と冬を越えた常緑樹のまだ深い色とが明暗の断層をくっきりと作って、森の中途に黴が湧き混ざったかのような不均衡に映らなくもなかったが、緑の摺り合わせがいくらか進んで、まだしも均整が取れてきたようである。同じ色合いの地帯や、同じ一本の木のなかにも、褐色が混ざったり淡かったりと、一口に緑とは言いながらも実に多様な色彩の変化が含まれて、細かく組み合わさっているなかに、高いところで桜の薄紅がほんの少しだけ残った一片があり、低みではまだ枝の露わないくつかが、芽生えたばかりでやはりほかとは違って黄味の強い若葉色を先の方にくゆらせていた。

2017/4/23, Sun.

 ストーブのタンクに石油を補充するために外に出た――それ以外は終日籠って、外気との触れ合いがなかった日である。勝手口の方に回ってポンプが液体を汲み上げタンクを満たすのを待つあいだ、あたりを眺めた。光の渡って穏和で爽やかな快晴で、傍の林の木々が風を受けてさらさらと震えながら鳴りを立てるその影が、薄緑の下草や、地に積もった竹の葉の上で同じように震えてうねる。竹は竹秋を迎えはじめているようで、葉には黄味が断片的に混ざっており、ほかの木も鮮やかな緑が実に明るい。影から葉本体の揺動に目を移して見つめていると、ほとんど搔き回されて無数の波紋を生む水面のようでもあり、もっと凝視すればもっと細かな色のささめきに微分されて、煌めきのような、あるいはざらざらとした粒立ちのような感覚が生じ、電子ノイズを視覚化して眺めているような感じをもたらす瞬間もあった。

2017/4/22, Sat.

 家を出たのは午後七時を回ったところで、雨降りのなかに歩み出ればあたりはいかにも暗く、振り向いた西の先では山と空と家並みとがひと繋がりに闇に籠められて黒々と澱んでいた。坂を上って行って先の出口あたりには、街灯が立たない一角があり、前後の光の区画から独立したそこに入ると視界が殊更に暗んで、思わずちょっと止まって左右を見やることもしてしまう。抜けるとしかし、前方からやってきた車の明かりが対照的に白く広がり、落ちる雨の線が半透明の膜のようになって光のなかに掛かるのが、むしろ逆方向に、地から蒸気が湧いて斜めに立つようなさまに見えた。街道のアスファルトは、日々にタイヤが擦れる場所はやはりいくらか窪むものだろうか、車線の中央付近は光を薄く反映して浮かびあがっているが、その左右は水が僅かに溜まるようでまっさらに黒く沈んだ帯が二本走って、遠くの車明かりが突端部による遮断を挟みながら帯の上を縦に渡って長く垂れ下がり、水に混ざることで離れた距離を越え、こちらの近くまでやって来ている。増幅された走行音の唸る表通りから裏に入ると、途端に静かになって、いつもながら線香花火の弾ける音を連想させる雨の打音が頭上にはっきりと響きはじめる。丘は一様に黒い影で、表面の木々の起伏はまるで見えず、いくらか形の変化めいたものが観察されるのは稜線の不均一な上下のみで、その輪郭線を見ていると、もとは墨色の空までもを覆っていた一平面が乱雑に破り剝がされたかのような想像を覚えた。駅近くまで来てから見上げると、あれほど暗いと思っていた空が、地上の光の多さによる差異なのかここでは明るげな薄灰色で、道の左右と奥の建物の線もくっきりとその上に引かれているのに、不思議な気持ちになった。

2017/4/21, Fri.

 往路、坂を上って行くあいだ、道の左右から鳥たちの声が、各々の持つ律動と声調で、それぞれ自律した流れを形作りながら立ち交わすのが、旋律はなくともまさしく多様な楽器の交錯で織られた音楽を聞くような気分にさせる――そのなかで、初めは頼りなげに浮かびだしながら、まもなく大きく跳ね上がって一際厚く響くのはやはり鶯の声で、こちらの乏しい知識のなかに名があるのもそれのみなのがつまらない。雲のある夕刻で、東のものは色も形もそう強くなく生地に混ざって青を和らがせているが、ちょうど頭上あたりが境となろうか、西の方では砂糖を敷き固めたあとから罅の入ったような白さが空を埋めて、その裏から落日が明るんでいた。その断片が漂うのだろう、かすかな温もりの、肩や腕あたりに触れて馴染む日の入りの気である。街道に接する小公園の桜はだいぶ葉も混じって、薄紅色はほとんど溶け尽くして萼桜となり、暗い紅と緑の混濁して渋い色味を帯びているのが、季節外れにそこだけ晩秋に向かう前の植物めく。裏通りを行って空き地に差し掛かると、向こうの宙を燕が何匹か、湿った毛布めいた青さを後ろに鳴き騒ぎながら飛び回るのが見え、行く手には陽の色が薄く混ぜこまれはじめる。向かいから来て脇を通り過ぎて行く、主婦らしき女性の乗った自転車の、乗り手と乗り物の見えなくなってもまだこちらの横に影が長くあとを引いて残り、するすると遅れて去って行ったあとを見れば自身の影法師も、かなり先まで伸びていた。振り向けば落日が、西の丘とこちらとの距離の関係なのだろう先ほど見た時にはもうすぐにも隠れてしまいそうなほど木々に近かったはずが、そこからちょっと浮かび戻したようなあたりで、雲に遮られつつも橙色の明かりを、大きく膨らませていた。

2017/4/20, Thu.

 往路、この日は普段より遅くて午後七時の道である。陽の名残りも既に消えて宵がかった空が深く青い。坂を上って行くとあたりに鳥の音も立たず、暮れて静かななかに、木の間の先から、川の音が随分と厚く立ち騒いで昇って来た。西から東まで晴れているようだが、南の山に接した一角には雲が混ざっているらしいのが、形成すものは一片もないがそこだけ白炭色に変化しているのからわかる。街道に出ると先まで伸びた道の遠くに車の、いびつな円を描いた明かりがひと繋がりになって続き、道の曲がった最奥から次々に備給されて連なりをやめないが、近くまで来ると純粋な発光体だったそれらは間をひらき分解されて、光の裏の本体も露わに単なる物質と化す。公園の桜はもはやほとんど散りきって明かりせず、色の窺えない暗さに沈んでいた。裏道の途中でも、広がった空き地に差し掛かると、敷地に接した二、三軒の窓が、人が不在なのか雨戸が閉まっているのかどれも灯らずに、宵闇を掛けられて家が上から下まで薄黒く静まっているのに、随分と暗いなと思われた。その頃には空も、青さを失って暗色に入っている。出てしばらくは少々肌寒いような感触だったが、歩いているうちに身体が温もったようで、のちには風にも冷えず、体温と同化する滑らかな空気の肌触りだった。

2017/4/18, Tue.

 往路。歩いているうちに服のなかに熱が籠るのが感じられて、前髪の裏もやや湿って来るような気温の高さである。空は雲混じりの薄く柔らかい青さで、ところどころに形を成す雲の塊もあるその前を、街道を渡る電線に止まった燕が黒い影となって鳴きを落とし、二つに分かれた尾羽根の形がよく映った。裏通りを行っているあいだにも、ふと見上げた拍子に、随分と高く遠くを飛んでいるようで小さな鳶の姿が、声を降らせもせず、飛行機のように滑らかにゆっくりと滑って行くのに、首を傾け傾け歩く。桜の時節が終わりかけていた。

2017/4/17, Mon.

 往路、薄白い曇り空の午後五時である。坂を上りながらすぐ傍で立つ鶯の音に、姿を見たいとあたりに視線を振るが、声は近くても一体どこに止まっているのか影がどうしても捉えられない。街道沿いの公園の桜は大方花を落として、薄紅色の方が少ないくらいになっていた。裏通りでも鶯の鳴き声が、林の奥の方から立って届くのが耳に入る。一軒の家先に立つ山桜が葉を旺盛に緑に茂らせて抱えているのが、もうこんなに膨らんだかと驚かれて見やりながら過ぎると、茂みの奥にはまだ僅かに残って潜んでいる白花の姿が捉えられた。それから顔を正面に戻してすぐに、頬に痒いような感触が点打たれて、気のせいのようでもあったが、整然と緑にまとまった四手辛夷に、花の燃え殻もおおよそ落としきって同じく緑葉を纏った白木蓮と過ぎているうちに、水滴が確かに落ちはじめているのがわかった。湿り気を含んだ風が時折り強くなって顔に当たり、耳の横をはたはたと素早く過ぎて行くのに、予報で伝えられている春嵐の気配が兆すようでもあったが、いまはまだ、降るというほどでもなくかすかなもので、傘をひらく必要もなかった。寺の枝垂れ桜は色が濁って背景の木々との色彩の差が小さくなって混ざりはじめている。ほかの場所でももう大方、葉桜に移行しかけているが、裏道の途中、丘のあいだを北に続く道路に差し掛かったところで、森の縁に遅れて満開の一本が、砂糖菓子の甘さを香らせて淡紅に浮かんでいるのが映って、優しかった。

               *

 帰路は雨が始まっていた。大した降りではないが、同時に風があって、時折り強まって傘に寄せて来るとぱちぱちと音が厚くなり、雨粒が飛ばされるから傘の下でジャケットの表もそこそこに濡れる。道中、傘にはしばしば、上に向けての浮遊感がいくらか加わり、一度は風が決然として強く攫おうと引っ張ったこともあった。視界が限られるからあたりにそれほど見えるものもなくて、視線を落とし、濡れたアスファルトが街灯を反映して微光を放っているのなどを見ながら歩いていると、周囲で風が止まっていても高みでは駆けているようで、丘の木々が鳴り騒ぐのが耳に届いた。空は一面曇っているが、それでかえって明るいような具合で、家屋根の輪郭もくっきりと画される、薄く褪せた色である。表通りに出る角で、老人ホームの脇に桜が一本あるその花が、傘で区切られた視界にも入ってきて、足を止めて顔を寄せれば、楕円形の花弁の集まったその中央に、光の下で血のように色を深めた紅色が滲んでいるのが、艶だった。

2017/4/15, Sat.

 往路、午後四時。坂の中途の、木の間がややひらいた斜面に、菫の種らしい青紫色の小さ花が密集して一角を埋めている。空はこの日も、端から端まで天色に満たされ澄み渡った快晴である。丘を見れば少し前までは箒を逆立てたようになっていた裸木の地帯に、葉が萌えはじめたようで淡い緑が煙るように掛かって、全体に明るくなったなかに差しこまれた桜の甘い淡紅色がくゆって浮かぶようだった。街道では燕が活発化して、道の両側を繋ぐ電線の上に止まって分かれた尾を振りながら、あるいは巣を作ったらしい家の軒先に寄りながら、泡立つような鳴き声を立てている。小公園の桜は散花が進んで乱れが目立ちはじめており、幹からは緑葉も芽生えはじめていた。過ぎざまになかを覗くと、地には粉が撒かれたように花弁が散っていた。背後から照る陽が暑いほどで、歩いていれば服の内に汗も滲んでくる初夏の陽気である――最高気温は二五度とか言った。鳶が長閑に飛んで声の降る下を歩いて行き、寺のあたりまで来て枝垂れ桜に目を送ると、こちらも散りはじめているようで、薄桃色の合間に隙間が点じられて連なりが薄くなっていたが、それはそれで実をつけた果物の房のようだった。

2017/4/14, Fri.

 例日通り五時に外出。坂の入り口から右にひらいた細道に立つ桜の小木は、花の嵩を減じており、既に陽も当たらない場所で澄んだ空を背景に、水で塗られたごとく白さの上から薄青い蔭に染まっている。街道に出ると、車道の左右に伸びる電線のあいだを、燕だろうか鳥がしきりに渡っているのが、通る車の上に見える。空は一面の青さで、遮られるものなく陽がよく通って、小公園の桜の花が、雪白のなかに茜色を混ぜこまれていた。枝先の方では散って萼の鈍い紅の覗いた箇所も見え、崩れが始まっている。摩擦のまったくなく、肌に触れる感触の稀薄な空気に含まれた幾許かの温さに、匂うような、と思った。裏通りに入ると前方を帰る女子高生の、スカートから出た脚の色が、西陽の照射を受けてこれも濃い橙色に色づいている。春の気に誘われたのか、裏道は普段よりも人が多い。祖母らしい婦人に連れられた幼子が道の向かいからてくてく走ってきて、こちらが行く手にいるのも見えず目前に来てからいとけなく立ち止まるのに、笑みを返してやった。駅が近くなってマンションが見えると、最上階を彩る陽の具合が先日と違って、端の方の窓に僅かに映るのみであるこれも、日の伸びを表すものらしい。建物の全景が露わになる駅前ロータリーに来ると、三、四階あたりの一つのガラスに太陽が入りこんで濃縮され、内から破裂させんばかりにいっぱいにオレンジ色を輝かせた。

               *

 帰路の空気は快い涼しさに収まって、肌寒さに脚が知らず速まった時節も遠く、歩調が自ずと緩む。昨晩の満月にこの日も東に月を探して、振り向き歩いたが、なかなか見えず、空の青さも昨日よりもだいぶ暗んでいた。低みで家々に隠れていた月は、広めの空き地に差し掛かってようやく現れ、夕刻に見た西陽の色を注入されたかのように赤らんでいる。街道に出て対岸から見る小公園の桜は花明かりして、暗中に仄めき浮かんでおり、枝の一番先を僅かに揺らすこともなく、白く凍りついたように静止していた。足もとには枝から落ちて渡ってきた花が散らばっており、歩を進めて結構離れるまでかすかに残って点じられていた。