2017/4/30, Sun.

 玄関を出て外気のなかに入ったその瞬間から、旺盛な陽射しの熱を含んだ初夏の空気の匂いとも言うべきものが、肌と鼻孔に触れてきた。陽の当たった部分は広く、鳶が宙を行く影が、路上のみならず林の縁の、新緑の葉々の上にまで映って、駆け上がって行った。道に出れば実に暖かで、熱を中和する風も織物めいた柔らかさである。坂を上がっているあいだ、鶯の鳴きが、間も短く次々と、それぞれに僅か異なった音程と長さで、膨らんでは落ちる。周囲に生えた木々の、明るい若葉色のなかにただ一本、紅葉した春椛があって、緑に囲まれてそこだけ渋く抑えた緋の色が照られているその対照に目を惹かれた。道を行っているうちに、脇やら肩やら、服の内に汗の滲む感触が起こる。裏通りの中途に挟まれた坂を横断したところで、前方の植物がばたばたと騒いでいると思うや否や、そう幅の広くない道を突風が埋めて寄せて来て、前髪が額から巻き上げられて涼しい。道端の木の、先端に赤褐色を仄かに混ぜた丸い若葉が、震えているあいだではなく風の止んで葉鳴りの収まったそのあとになって、何枚かはらはらと落ちていた。

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 昭和記念公園――木々の葉の隙間にまで澄明な色が隈なく浸潤し、はしたないまでに明るく晴れ渡った青空の日である。広場の周縁部の、木蔭の一角にシートを敷き、座った。すぐ手近の周囲にも子連れの人々が何組も集まっており、遊具には子供らが蟻のように群がり、中央に巨木の一本聳えてだだっ広い平原には、老いも若きも幼きも思い思いに遊び交錯して、人々は沸騰した鍋のなかで揺動し行き交ってやまない泡のようである。話しているあいだにふと、広場の一角でシャボン玉の群れが発生し、いくらか傾いた太陽が夾雑物のない空から送りつけてくるまっさらな陽射しのなかで、赤や青やの色味を僅かに帯びて光りながら錯綜するのに目を惹かれた。泡は、二人連れの女性らの一方が持った筒から次々と噴出して宙に広がっているのだが、歩いてくる当人は自分が背後に生み出している色彩の散乱にまったく無頓着で、友人と話しながら一度として振り返ることもない。その後ろで、彼女らとはまったく関係のない別の集団の幼児が一人、惹かれて飛びこんで、両手を合わせてシャボン玉をすくおうとするのだが、手の上に降り立った泡は間髪入れず、その同じ瞬間に割れて消え去ってしまい、子どもは空になった手のひらのなかを見つめるほかはないのだった。

2017/4/29, Sat.

 六時、窓辺のベッドに乗って、姿勢を緩くして身体を寛がせながら『梶井基次郎全集 第一巻』を読んでいると、カーテンがいくらか膨らんで、夕刻の涼しさが流れこんで来る。空は白いが、明るめの曇りで、電灯を点けずともまだ言葉を読み取るのに支障がない。文字に目を落としているうちに、外から草の音が立って、間断を挟みながら時折りがさがさというその調子が、人というよりは動物のものらしく思えて、猫だろうか鳥だろうかと確認はせずにただちらちらと見やっていたところ、何度目かで窓正面の棕櫚の木に、鴉が一羽止まっているのに、これかと気づいた。冬枯れからまだ復活しきっておらず、幹の横に薄色に乾燥した葉の残骸をいくらか纏っているあたりに、鴉も掴まるようにして、虫がいるのかしばらく顔を木に近づけては離していたが、じきに飛んで行った。それから姿勢を変えて、本を窓の傍に持って行った拍子に、それまではまっさらに白かった頁が淡く橙の風味を帯びて色づいたのに驚かされて、何度か窓際と室内に本を往復させて色合いの変化を眺めた。外は一見して均質な曇天で、夕陽の感触などどこにも見当たらないが、紙という媒体を得て空中に確かに含まれているらしい光の色素が露わに浮かびあがった形である。頁と頁が最接近した谷底の部分が、殊更に色を溜めて、影を作っていた。

2017/4/28, Fri.

 風があっても心地よい涼しさに留まる、空気の軽い往路である。空は、東の方には晴れ間が見えるが、頭上のあたりから雲が湧いていて、西ではそれが一面に拡大され、波の弱い浅瀬めいて柔らかな薄灰色が落日を隠しきっていた。街道に出て歩いていると、車の途切れた隙に軒から発った燕が一匹、道路の上に切りこんで、演舞のごとく滑らかな曲線を描いて飛び回り、また軒下の巣へ帰っていくその動きに、思わず目を誘われる。ほかにも燕が何匹も、粒立ちの細かな鳴き声を降らせながら、屋根や電線を伝って行き交う春の夕べ道である。行くうちに行く手ではいくらか雲の布置に変化もあったが、裏から振り返った西空は変わらず白銅色の均質な平面で、太陽の姿は見事に覆われて雲の先のどこにあるのかその痕跡すら窺われず、暗くはないもののあたりに陽の色の一片もなくて地に影も湧かず、見えない光の気配としては東の正面に澄んだ空の青と、そこに浮かぶ灰色雲のなかに白く塗られた縁のその色くらいのものだった。

2017/4/27, Thu.

 家を出たのは午後七時である。青さの留まった宵の空で、ポストから夕刊を取り出せば、米国の三長官が対北朝鮮政策についての声明を発表と、一面の記事が定かに読めるほどに、まだ明るさが残っている。室内で身体を動かさずにいたから、外に出ると肉に熱がなくて、いくらか首もとの冷える空気である。街道に出る前の丁字路に集って立ち話をする行商の八百屋と、近所の婦人らの姿はこの日はない――そもそもいつも八百屋が野菜を積んだトラックを停めているのは五時過ぎで、この時間にいるはずがないのだが、ちょうど同じくらいの暗さのなかで彼らを目にした記憶の像が蘇るのに、あれは冬のことだった、と思い当たって、となると、それから一時間半か二時間ほども、日の暮れが遅くなったのだと思った。裏通りを行くうちに宵は深まって、空は暗く彩りを失って行く。こちらの左右両側に斜めに湧いた影が、歩みにつれてじりじりと中央へ移動して行き、しかし一つに重なる前に薄れて地に消える。行く手東は墨色で、振り返った西も青がもうよほど暗んで海の深みのようで、その上に煤煙めいた雲も掛かっていた。まだ距離の離れた後ろから、女子中学生だか女子高生だか二人くらいと、男子一人の声が伝わって来て、至極直截に性交を誘う歌詞の歌を大声で、恥も憚りもなく、頭を空っぽにしようと言わんばかりの邪気のなさで叫ぶ女子の声が聞こえた。その後も何曲か、あまり音程も確かでなく、いくらか幼さを残したような声音で歌っていて、それに触発されたわけでもなかろうが、前から来た自転車のすれ違う時に、わりと年嵩らしい婦人の乗り手の口からも、演歌風の節が洩れているのが耳に届いた。

2017/4/26, Wed.

 図書館で打鍵の合間に、小腹を満たすためにテラスに出て食事をした。午後五時の、少々肌寒くなった空気に、格子柵に絡んだ植物の葉が揺れ、視界をいくらか遮るその隙間から、円形歩廊を行き交う人々の姿が下方に見え、空は薄青く曇っている。向こうの駅で電車が入線してくるのを首を伸ばして眺めながらサンドウィッチを咀嚼しているその時間に自分が、純然たる自由を感じていることにふと気づいた――テラスにはほかに誰もおらず、目の前の、館内の学習席にはちらほらと人が就いているけれど、あいだに挟まれたガラスには自分の影やこちらの空間が淡く反映してなかの様子は見通しにくく、伝わってくるのは外から立ち昇る町音のみで、見下ろす先の人々も草の柵に阻まれて明瞭には見えず、多彩な表情と複雑な内面を備えた主体としての人間と言うよりは、自動的に歩き回る人形の往来のようで、そのように作業からも離れ、ほかの人間からも切断されてただ一人に画された空間で一歩引いて風景を眺める具合になったのが、何にも繋がらずそれそのものとしてほとんど純粋に自律した時間の充足らしきものを招いたらしい。

2017/4/25, Tue.

 往路、雲が淡く混ざっていくらか鈍く、長閑なようになった晴れ空である。裏道に入りながら目が行った西の、丘の稜線に接したまさしく際の空間に、落ち陽がすっぽりと、穴に嵌まったように円く光を満たしている。昼間には風の荒れた日で、居間にいる時に窓の外で甲高い唸りの響く時間もあって、午後五時になっても高い方ではそこそこ吹いているらしく、前を行く高校生らの話し声の裏で、丘の木々の鳴りが聞こえていた。物々の影が薄明るんだ塀に掛かって青みを添え、足もとからは、こちらのものも前の学生四人らのものも一様に、淡い影が前方に伸びて、ほんの少しだけ横に傾ぐ。合間に挟まれた坂を渡るとすぐ見えてくる一軒の、それは作業場か何かの風情の建物なのだが、薄朱色の花をつけた野草の繁殖した空き地に接する金属製の柵に、鴉が一羽止まっていた――つい先日も、飛んできた一匹ががしゃりと鳴らしながら降り立って我が物顔にあたりを見回し鳴くのを見た、その同じ柵である。この日の鴉も鳴きを上げて、すると林の方からもう一羽やってきて返すのを、どうも鳴き交わしているな、と見ながら過ぎた。寺の枝垂れ桜は緑を塗られている――そこだけ温度のちょっと下がって涼しいような、まだ未熟な梅の実を連想させる青緑色だった。

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 帰路も雲が僅かに残っているようで、青さのなく墨色に寄って、星の光も霞みがちな夜空だった。背後から街灯に照らされて道に浮かぶこちらの影の形が、やけにくっきりと見える。裏通りの左右を囲む民家のなかから人の気配らしきものも伝わってこない静けさのなかに、地を踏むに応じてこちらの靴の、ゴムが伸び縮みするらしい擦過音のみが立つ時間があり、それに耳を寄せながら行って空き地に掛かって空間がひらくと、表のどこの建物でやっているのか、五月の祭りに備えた囃子の練習の音が聞こえて来て、しかしそれもすぐに車の通る響きを被せられて届かなくなった。ふたたび目を落とした影は歩みに応じてこちらの横を追い抜かして行き、光の青さを僅かに滲ませた輪郭線を固めて色を濃くしては、前方に柔らかく伸びながら薄らいで行き、消えるとまた後ろに復活する――その繰り返しを眺めているといつも、梶井基次郎が、どの篇でのことだったかも忘れてしまったが、夜道を行くあいだに街灯に映し出される影の推移をやはり書き付けていたなと思い出されるのだった。

2017/4/24, Mon.

 三時前に外出。前日に続く晴天で、まだ陽だまりも広く、道を縁取った石壁の上から張り出している木々のその影が、路上に騒ぐ。裏通りを抜けて街道に出れば、一面に広がった日なたのなかで、肩の上に心地よい熱が乗って、汗ばんでくるくらいの温暖さだった。素早く宙を渡る鳥の影が、道や家壁の上を、水面を伝う波紋のようにして、瞬間過ぎ去っていく。表から一本裏に入ったところに覗く、中学校の校庭の端に並ぶ桜は、花を過ぎて萼の赤茶色と葉緑が混淆しており、鮮やかな華やぎの担当は花水木のそれに交替される頃合いである。小公園を過ぎざまに覗いてみても、地には褐色が砂のように散り敷かれている。裏に入って丘を見やれば、少し前は萌えはじめの薄緑と冬を越えた常緑樹のまだ深い色とが明暗の断層をくっきりと作って、森の中途に黴が湧き混ざったかのような不均衡に映らなくもなかったが、緑の摺り合わせがいくらか進んで、まだしも均整が取れてきたようである。同じ色合いの地帯や、同じ一本の木のなかにも、褐色が混ざったり淡かったりと、一口に緑とは言いながらも実に多様な色彩の変化が含まれて、細かく組み合わさっているなかに、高いところで桜の薄紅がほんの少しだけ残った一片があり、低みではまだ枝の露わないくつかが、芽生えたばかりでやはりほかとは違って黄味の強い若葉色を先の方にくゆらせていた。