2017/5/11, Thu.

 寝床で覚めた時から、柔らかくほぐれた空気の爽やかさが触れるようだった。気温は二八度まで上がると言って、その割に暑さの勝るでもなく、朗らかな初夏の日和である。昼下がりから雲が多くなって、四時頃には空の大方が白い曇りとなり、するとやはり多少の蒸し暑さが出てくるようだった。出かける頃には隙間が生まれていくらか青さが見えていたが、それでも雲は大きく湧き広がって、西の空では夕陽が止められていた。両側の家々の庭木や、丘の緑に目を向けながら裏道を行くその足取りが、一歩一歩、ゆっくりと着実に踏まえて行くようで、靴裏が砂利を擦る音の随分としっかりしているように聞こえた。世の尋常な勤め人に比べればよほど緩やかに暮らしてはいるはずだが、と言ってやはり時間に追われ追われて、何と取り立てて言うでなくとも生とは、生活とはままならぬもので、こちらもいまから勤めに出るところでいずれ目的地に縛られた移動の内にはあるけれど、せめて歩く時間くらいは前後なくその都度の一歩の現在に留まりたいと、そんな心か。中年の、髪を薄く刈り揃えたサラリーマンがはきはきと威勢良く歩いてこちらを抜かし、見る見る先に行くのに、そんなに急いでどうするのか、と思ったものだ。じきに薄陽の洩れてくる時間があって、家の壁に電線の影がうっすらと付されたのが、すぐに消えてしまう。鴉の鳴き声が聞こえたと思うと、低く流れるように飛んできたのが、住宅会社の旗のいくつも立てられて揺れている空き地と、作業場か何か、閉鎖的で無骨な感じのする建物とのあいだの柵に、がしゃりと音を立てて着地する。過ぎてからまた聞こえた鳴き声が、鳥というより、とぼけた猫のような感じだった。道の終わりに近くなってまた陽が、雲の端から空に出たようで、夕日影を踏むこちらの姿が路上に長く伸びる。周囲はまだよほど明るく、落ちているのも粘りのなくて滑らかな光の色だった。
 帰路は一一時も近く、遅くなった。北の丘の方から、あるいは西の行く手から風が流れてきて、上着を羽織っていない身体に涼しい。久しぶりに風というものを浴びた気がした。満月の夜で、雲は流されてかすかに残ったものもすぐに視界から消え、空は青々と深い。裏に入って坂の上まで来ると、月がちょうど正面にぽっかりと掛かって、あたりの物蔭にまで光の仄かに渡って見える。木々の樹冠の影が青い夜空に定かに刻印されていた。
 遅い入浴も済ませて部屋に帰り、眠る前に古井由吉『ゆらぐ玉の緒』 をひらいた。カーテンの裏で窓はいっぱいにひらいており、南の少々下ったところを流れる川の響きがくぐもって伝わってくる。初めはそれで身体に障るものもなかったが、二時を目前にして、空気が冷えてきた。窓を閉ざすと、不健康なような、あまりに静かな静寂が満ちる。そのなかで心安らかに落着くものでもあるが、愛想がなさすぎて、外の物音があった方が親しみやすいようである。時折り意識の零れそうになる眠い頭を押してもう少し読んだのち、布団を被るとふたたび窓をひらいて、眠りを待った。

2017/5/10, Wed.

 先夜の雨は未明にはもう収まっていたらしい。明けたこの日もしかし、居間の内から窓を透かした空気が、ひと目には降っているともいないともつかず曖昧に籠った曇りで、湿り気もかなり残っているようだった。五時に到って道に出れば、その頃には降りはなかったが、路傍から湿気に混じって濡れた草々の匂いが立つ。室内にいるあいだも、鵯らの間断なく時間を埋めて鳴き騒ぐその端で、鶯が我関せずといった風情で己が鳴きをゆったりと差し挟むのを聞いたものだが、外に出てみてもあたりで鳥たちがしきりに騒いでいて、口笛の旋律じみた声だとか、ちょっと聞き慣れないような種の声などが道を行く傍で林の内に反響していた。弱い涼気があって、顔の肌に染み入って、こめかみのあたりに留まる。街道に出て石壁の上から張り出した躑躅を向かいに見ると、昨日は白いものばかりが目についたが、紅紫のものも一緒に並んで鮮やかに膨らんでおり、下を通る車に煽られて上下に柔らかく揺らぐその下に、それぞれの花が、どれも一様にひらいた口を下に向けて散り落ちて、テントを立て並べたようになっていた。
 帰りは曲がりなりにも動いた身体が行きよりも熱を持っていて、いくらか蒸すような感じがする。風という風も流れない。もともとこの日は眠りすぎて起床の時からこごっていた身体が、疲れにさらに追いやられて、頭蓋の内、目の奥に、頭痛というほどのものではないが、固い感触が湧いていた。空は引き続く曇りだが、暗くはなく、雲にまみれた奥に青みがうっすらと透けて見えないでもない。月もそろそろ、大きく膨らむ頃ではないか。表に出て歩道を行っていると、虫の音の騒々しく響いて耳から顔を包むようにまつわって来たのに足を止めた。通りの向かいに砂利の庭を挟んで一軒あって、その方から渡ってくるが、電柱か家屋か庭木のどれかか、どこから鳴いているのかもとがわからない。小さい体なのだろうが、じりじりとざらついて宙を貫く線状の響きの大きく、季節を外れて気早に、時間も外れて夜に鳴く蟬のようだった。

2017/5/9, Tue.

 往路、この日はジャケットまで羽織った身体に、一様に白い曇天の大気は暑くもなく、風が流れても涼しいというほどでもない。街道を向かいに渡ると、行き過ぎる車の生む風に煽られて、石壁の上から迫り出した白躑躅の茂りが上下に撓んで、そのあとから一つ、花が落ちた。首を落とされたようにもとからすっと離れて、ゆっくりと柔らかく降って、地に触れても形を微塵も崩さず、生々しく張っていた。裏通りに曲がったところの一軒の庭内にも、白い花の集まっているのを見るともなしに目に入れて、遅れて、あれも躑躅か、と気付かされた。白い集合の、無性に滑らかに、一つひとつの境もそれほど明白ならず繋がって映り、ほとんど寒天か何かでできた拵え物じみて、さらりと食べられそうな、との幻想の立つほどだった。進む歩調は緩く、速まることなく抑えられて、背も自ずからまっすぐ立って心身が、何にということもないが満ちて、心が落着きに静まっているようだった。
 夜半前から雨が始まり、風呂場に入って湯に身を下ろしたところで、硝子の先から響く音に気付いて窓を開けた。林の竹の上に、何が落ちるのか、かーんと乾いて冴えた鳴りが、雨音のなかからひとすじ響いた。部屋に帰ってからも雨の響きはあって、夜半も丑三つも過ぎた頃、降り自体は止んだようだが、ベランダの、おそらく上階の下端から下階の柵に向かって雫が滴るものか、金属的な雨垂れの音が、いくらか間遠に続いていた。三時を過ぎて床に就くと、こつこつと、ひどく弱いが、何かの刻みが聞こえる。壁に掛かった時計の、一分六〇回のそれよりも遅く、横たわった自分の身体の内から響くようで、まるで機械仕掛けの心臓を持ったような気になる。しかし、音があまりに硬く、姿勢を変えても一定に続くので、心臓の鼓動ではない。まるでいま読んでいる小説のようではないかと、古井由吉の「時の刻み」に、やはり就床時に謎の滴りの音に悩まされた体験が書かれているのを連想して思った。壁の時計と、ベランダの雫と、由来の知れない微小の拍動と、暗闇のなかで、三つの刻みが交錯する。横になっていると胸に埋めこまれたようによく聞こえて、身体を起こすとかえって響きが遠くなるようだが、窓をちょっとひらいて隙間に耳を寄せてみると、雨降りに湿って薄白いような未明の空気の、そのどこかから渡って来るらしい。雨垂れかもしれないが、それにしては音の調子が、それこそ時計の刻みのように一定に過ぎる。機械的なものの働きと考えた方が得心の行くようでもあるが、こんな夜更けに他人の家の物音が伝わってくるとも思えず、いままでに聞いたことのない音でもあって、解せなかった。

2017/5/8, Mon.

 往路。風邪で家に籠る日が続いていたから、長く外気のなかには身を置いていなかった。道に出ると、四方を壁で囲まれ閉ざされていない空間の、無論様々なものはあいだにあるが果ての空までひらいて繋がったその広漠に、肉体が頼りなさを感じるようで、身の平衡を窺うようなところがあった。病み上がりでもある。坂を上って行くと、途中で正面に伸びる木が緑色の明るい若葉を被った樹冠に陽を受けていて、その茂りにも久しさの感を得た。軽い青さの広まった空に、白い乱れはチョークをすっと擦り付けた程度の薄さで、月も上りはじめというよりはこれから消えていくような淡さで馴染んでいる。背後から陽に照らされる街道で、こちらの影が、道端の草の上に映り出る。小公園の桜は花柄もなくなって皐月緑にまとまると、すっきりとなったようで涼しく、また入り口に設けられた木組みの屋根には、藤が小さく垂れ下がっていて、こんもりと積まれた葉が陽射しに透かされていた。落ち陽は旺盛に膨らんで、肩に熱の乗って汗の滲む道である。裏通りの途中、空き地で小さな子らが四人ばかり集って野球遊びをしていて、一人の投げたボールがバットに当たらずに流れて来て、こちらの目の前で壁に跳ね返って転がるのをまた一人が追いかけた。手の入らない空き地の隅は、草が背高く籠ってきており、タンポポの小毬やハルジオンが顔を出していた。

               *

 声を出す必要のある仕事で、勤めのあいだに喉の痛みがぶり返した。人のあいだに出れば、明らかな緊張はなくとも自ずと気が張ろう、頭の方にも熱が上がってきたらしい。コンビニに寄って、喉の不調を緩和する飴を買い、舐めながら夜道を歩く。道と道の繋ぎ目に掛かっても風の気配もない、静かな夜である。空には雲が広く掛かったようで、月が引っ込んで朧に明るむ。弱くとも、西の山際までその光が渡るようで、彼方が沈んでいない。街道に出ると、既に営業後で明かりも落とし、窓が暗んで運転手以外は無人のバスとすれ違って、振り向いて何とはなしに見ていると、乗せる者もいないのに停留所にしばらく停まってから、再び出発する。それからちょっと進むと花の匂いが香ったのは、一軒の家先に花があって、オレンジ色の小さな集まりは、躑躅の類らしかった。先のバスが発った停留所のベンチに、中年の男が一人で就いて、携帯電話をじっと覗きこんで静かにしていた。

2017/5/7, Sun.

 寝台の上に仰向けになって、古井由吉の最新刊を読んでいるうちに、文字の上にこごっていた視覚から意識が、耳の方へとふと逸れた。聴覚空間の、その外辺のあたりで先ほどから鳴いていた鶯の声の、放たれたあとの残響が、耳を掠ったのだった。目を閉じればそのあとからも繰り返し、一定の間を置いて、川の音の奥に籠った空気のなかに、威勢の良い鳴きが走っている。まさしく、撃つ、放つと言うに相応しい音色の、尾を引いて横に飛んで行く響きの声である。近間では鵯らが集って、浅瀬でぴちゃぴちゃと水を跳ね返すような声を立てる。空は白幕を被せられていて、ひらいた窓から、風というほどの厚みもない涼気が流れこんで来るのは、午後三時だった。読んでいたのは、四〇代の半ばの頃に、時鳥の声を聞きに比叡山を訪ねた旅のあとに、夜中に時鳥の空声めいたものに耳を澄まして苦しめられる時期があったと書かれた箇所だった。
 この二日だか三日だか前の夜の寝入り際にも、鳥の声を聞いた。眠気の一向にやって来なくて、仰向いた身体の脇に両手を寝かせてかすかな身じろぎもせずにいるうちに、やがて腕が重って、金具を被せてベッドに嵌め込まれたような具合に固まってきた安静のなかで、切れ切れの思念に巻かれていた頭が、窓の外で鳴った軽い声を、ふと聞き留めた。ガラスに阻まれていくらか遠く、特徴らしい特徴もないような、小さな鳴きだった。床に就いてから眠りに入れないままに結構な時間を過ごして、二時に掛かっていたのではないか。一度耳にしてからそのあとも聞こえたが、弱いもので、僅かな間も置かずほとんど常に鳴いているようにも聞こえてきて、幻聴と本物の区別が付かなくなった。本物が実際にあったのかどうかも、怪しかった。就床前に書見をしていて、臥位の顔先に掲げた本の頁から、桃の匂いが仄めいて鼻孔に触れるのを感じていた。嗅ごうとすればもうそれでなくなり、紙に鼻を寄せてみても、紙の匂いしかしない。意識を向けようとすると拾えなくなり、放って文字を追いはじめると、またその時間の端々に、薄く現れ束の間香った。そうして、風邪の熱のまだいくらか名残った身体で夜半を越えたためか、横になった時からもう、耳鳴りが、耳のすぐ近くに伸びていた。
 いつか寝付いて、覚めた早朝にも耳鳴りは残って、むしろ定かになっていて、左耳から二音重なって響いているのを、三度の音とそこから音階を一周下っての一度の、揺らぎもせず安らかに合わさった和音と聞き取って、耳の内部の詰まったような感じにちょっと嫌気を覚えながらも、艶のある鴇色めいた色の、綺麗な音だと思った。わざわざ自分から耳を寄せているのも不健康なので、姿勢を変えて意識を逸らしたところ、和音はすぐに薄れていってそのあとから新たに弱い音が浮かんできたのが、下の一度のすぐ傍の、今度は二度の音だった。

2017/5/2, Tue.

 往路は早めの、午後三時半過ぎである。市内では一年に一度の大きな催しである祭りの、二日続くその一日目で、二日目が本番でこの日はまだ規模も小さいが、坂を上って行くあいだも祭り囃子の音が、終始途切れずに、乾いて晴れた空気に乗って届いた。陽射しはほとんど夏に近いような厚みを持っており、ベストをつけた上にジャケットも羽織っていては明確に暑く、身の周りの空気が粘って重くなっているような感じがする。街道を行くと、公園の前に山車が一つ出て、二車線の道路の片側に停まっており、舞台上で囃子が奏でられ、周囲には法被姿の男らが集っていて、警官も棒を振って交通整理をするなか、皆で方向を転換させようと気張っているところだった。見上げながらその横を過ぎて、表をそのまま行けばほかの地区の山車も見られるだろうが、賑やかさのなかに混じるのがそれほど得意な性分でもなし、裏通りに入って、距離を置いてやや希薄化した音楽の鳴りを聞きながら歩いた。風は吹くというよりは撫でるような具合で、熱を大して散らしもしない。この道行きでは結局、四つの山車を見かけ、あるいは近くに遭遇した。

2017/5/1, Mon.

 外出する頃には、雨降りが始まっていた。傘をひらいて道に出ると、熱されたアスファルトが雨に打たれた時の匂いが、仄かに立ち昇って来る。雨音はまだ乏しいが、坂を上って街道へと向かうあいだ、小さい幅で強まり弱まりを繰り返しているその不安定さに、予報で伝えられたこのあとの雷雨の気配が窺われないでもなかった――実際にはその後図書館の席に座った頃には、雨はもう止んでおり、すっきりと淡い青空から陽が射し入って顔を火照らせる具合だったのだが、この午後三時前の往路では最後まで降り続けた。街道を歩きはじめた頃にはいくらか強まっていて、粒と粒のあいだはひらいているようで景色が白く霞むことはないが、一つ一つの粒子はそれなりの大きさを持っているらしく、音が固く、締まっている。裏に入っても引き続き固い降りが続いて、靴の先から湿り気がかすかに染みこんで来るような感じがし、傘の縁から白玉が落ちる――それには二種類のリズムがあって、一方では布地の縁に溜まって白い曇天を映しこみながら震えていた玉が重みに耐えきれず落下するその合間に、他方では布の上で周囲の粒を吸収して大きくなったものが一気に斜面を駆け下りて、まるで思い切り良く自殺するかのように飛び落ちるのだ。途中、濃い黄土色めいた茶髪の青年に抜かされた。半袖半ズボンの、コンビニにでも行くような軽い格好で、腰のあたりに落とした左手につまんだ煙草の匂いが、こちらの鼻にも通った。その後ろを行っているうちに、道の先から下校して来るまだ身体の小さな小学生らが現れはじめて、小児のなかの一人が、父ちゃん、と叫んで、どうしてこんなところにいるのと続けたのに、既に煙草は捨てたらしい先の青年が、迎えに来たんだと答えているのを見て、それまで青年を人の親だとは思っていないところに思いがけず新たな意味が付与されて一気に印象が転換された意外性の寄与もあろう、他人の生活や人生の一片がいくらかの具体的な手触りを伴って垣間見えたような気がした。

2017/4/30, Sun.

 玄関を出て外気のなかに入ったその瞬間から、旺盛な陽射しの熱を含んだ初夏の空気の匂いとも言うべきものが、肌と鼻孔に触れてきた。陽の当たった部分は広く、鳶が宙を行く影が、路上のみならず林の縁の、新緑の葉々の上にまで映って、駆け上がって行った。道に出れば実に暖かで、熱を中和する風も織物めいた柔らかさである。坂を上がっているあいだ、鶯の鳴きが、間も短く次々と、それぞれに僅か異なった音程と長さで、膨らんでは落ちる。周囲に生えた木々の、明るい若葉色のなかにただ一本、紅葉した春椛があって、緑に囲まれてそこだけ渋く抑えた緋の色が照られているその対照に目を惹かれた。道を行っているうちに、脇やら肩やら、服の内に汗の滲む感触が起こる。裏通りの中途に挟まれた坂を横断したところで、前方の植物がばたばたと騒いでいると思うや否や、そう幅の広くない道を突風が埋めて寄せて来て、前髪が額から巻き上げられて涼しい。道端の木の、先端に赤褐色を仄かに混ぜた丸い若葉が、震えているあいだではなく風の止んで葉鳴りの収まったそのあとになって、何枚かはらはらと落ちていた。

               *

 昭和記念公園――木々の葉の隙間にまで澄明な色が隈なく浸潤し、はしたないまでに明るく晴れ渡った青空の日である。広場の周縁部の、木蔭の一角にシートを敷き、座った。すぐ手近の周囲にも子連れの人々が何組も集まっており、遊具には子供らが蟻のように群がり、中央に巨木の一本聳えてだだっ広い平原には、老いも若きも幼きも思い思いに遊び交錯して、人々は沸騰した鍋のなかで揺動し行き交ってやまない泡のようである。話しているあいだにふと、広場の一角でシャボン玉の群れが発生し、いくらか傾いた太陽が夾雑物のない空から送りつけてくるまっさらな陽射しのなかで、赤や青やの色味を僅かに帯びて光りながら錯綜するのに目を惹かれた。泡は、二人連れの女性らの一方が持った筒から次々と噴出して宙に広がっているのだが、歩いてくる当人は自分が背後に生み出している色彩の散乱にまったく無頓着で、友人と話しながら一度として振り返ることもない。その後ろで、彼女らとはまったく関係のない別の集団の幼児が一人、惹かれて飛びこんで、両手を合わせてシャボン玉をすくおうとするのだが、手の上に降り立った泡は間髪入れず、その同じ瞬間に割れて消え去ってしまい、子どもは空になった手のひらのなかを見つめるほかはないのだった。

2017/4/29, Sat.

 六時、窓辺のベッドに乗って、姿勢を緩くして身体を寛がせながら『梶井基次郎全集 第一巻』を読んでいると、カーテンがいくらか膨らんで、夕刻の涼しさが流れこんで来る。空は白いが、明るめの曇りで、電灯を点けずともまだ言葉を読み取るのに支障がない。文字に目を落としているうちに、外から草の音が立って、間断を挟みながら時折りがさがさというその調子が、人というよりは動物のものらしく思えて、猫だろうか鳥だろうかと確認はせずにただちらちらと見やっていたところ、何度目かで窓正面の棕櫚の木に、鴉が一羽止まっているのに、これかと気づいた。冬枯れからまだ復活しきっておらず、幹の横に薄色に乾燥した葉の残骸をいくらか纏っているあたりに、鴉も掴まるようにして、虫がいるのかしばらく顔を木に近づけては離していたが、じきに飛んで行った。それから姿勢を変えて、本を窓の傍に持って行った拍子に、それまではまっさらに白かった頁が淡く橙の風味を帯びて色づいたのに驚かされて、何度か窓際と室内に本を往復させて色合いの変化を眺めた。外は一見して均質な曇天で、夕陽の感触などどこにも見当たらないが、紙という媒体を得て空中に確かに含まれているらしい光の色素が露わに浮かびあがった形である。頁と頁が最接近した谷底の部分が、殊更に色を溜めて、影を作っていた。

2017/4/28, Fri.

 風があっても心地よい涼しさに留まる、空気の軽い往路である。空は、東の方には晴れ間が見えるが、頭上のあたりから雲が湧いていて、西ではそれが一面に拡大され、波の弱い浅瀬めいて柔らかな薄灰色が落日を隠しきっていた。街道に出て歩いていると、車の途切れた隙に軒から発った燕が一匹、道路の上に切りこんで、演舞のごとく滑らかな曲線を描いて飛び回り、また軒下の巣へ帰っていくその動きに、思わず目を誘われる。ほかにも燕が何匹も、粒立ちの細かな鳴き声を降らせながら、屋根や電線を伝って行き交う春の夕べ道である。行くうちに行く手ではいくらか雲の布置に変化もあったが、裏から振り返った西空は変わらず白銅色の均質な平面で、太陽の姿は見事に覆われて雲の先のどこにあるのかその痕跡すら窺われず、暗くはないもののあたりに陽の色の一片もなくて地に影も湧かず、見えない光の気配としては東の正面に澄んだ空の青と、そこに浮かぶ灰色雲のなかに白く塗られた縁のその色くらいのものだった。

2017/4/27, Thu.

 家を出たのは午後七時である。青さの留まった宵の空で、ポストから夕刊を取り出せば、米国の三長官が対北朝鮮政策についての声明を発表と、一面の記事が定かに読めるほどに、まだ明るさが残っている。室内で身体を動かさずにいたから、外に出ると肉に熱がなくて、いくらか首もとの冷える空気である。街道に出る前の丁字路に集って立ち話をする行商の八百屋と、近所の婦人らの姿はこの日はない――そもそもいつも八百屋が野菜を積んだトラックを停めているのは五時過ぎで、この時間にいるはずがないのだが、ちょうど同じくらいの暗さのなかで彼らを目にした記憶の像が蘇るのに、あれは冬のことだった、と思い当たって、となると、それから一時間半か二時間ほども、日の暮れが遅くなったのだと思った。裏通りを行くうちに宵は深まって、空は暗く彩りを失って行く。こちらの左右両側に斜めに湧いた影が、歩みにつれてじりじりと中央へ移動して行き、しかし一つに重なる前に薄れて地に消える。行く手東は墨色で、振り返った西も青がもうよほど暗んで海の深みのようで、その上に煤煙めいた雲も掛かっていた。まだ距離の離れた後ろから、女子中学生だか女子高生だか二人くらいと、男子一人の声が伝わって来て、至極直截に性交を誘う歌詞の歌を大声で、恥も憚りもなく、頭を空っぽにしようと言わんばかりの邪気のなさで叫ぶ女子の声が聞こえた。その後も何曲か、あまり音程も確かでなく、いくらか幼さを残したような声音で歌っていて、それに触発されたわけでもなかろうが、前から来た自転車のすれ違う時に、わりと年嵩らしい婦人の乗り手の口からも、演歌風の節が洩れているのが耳に届いた。

2017/4/26, Wed.

 図書館で打鍵の合間に、小腹を満たすためにテラスに出て食事をした。午後五時の、少々肌寒くなった空気に、格子柵に絡んだ植物の葉が揺れ、視界をいくらか遮るその隙間から、円形歩廊を行き交う人々の姿が下方に見え、空は薄青く曇っている。向こうの駅で電車が入線してくるのを首を伸ばして眺めながらサンドウィッチを咀嚼しているその時間に自分が、純然たる自由を感じていることにふと気づいた――テラスにはほかに誰もおらず、目の前の、館内の学習席にはちらほらと人が就いているけれど、あいだに挟まれたガラスには自分の影やこちらの空間が淡く反映してなかの様子は見通しにくく、伝わってくるのは外から立ち昇る町音のみで、見下ろす先の人々も草の柵に阻まれて明瞭には見えず、多彩な表情と複雑な内面を備えた主体としての人間と言うよりは、自動的に歩き回る人形の往来のようで、そのように作業からも離れ、ほかの人間からも切断されてただ一人に画された空間で一歩引いて風景を眺める具合になったのが、何にも繋がらずそれそのものとしてほとんど純粋に自律した時間の充足らしきものを招いたらしい。

2017/4/25, Tue.

 往路、雲が淡く混ざっていくらか鈍く、長閑なようになった晴れ空である。裏道に入りながら目が行った西の、丘の稜線に接したまさしく際の空間に、落ち陽がすっぽりと、穴に嵌まったように円く光を満たしている。昼間には風の荒れた日で、居間にいる時に窓の外で甲高い唸りの響く時間もあって、午後五時になっても高い方ではそこそこ吹いているらしく、前を行く高校生らの話し声の裏で、丘の木々の鳴りが聞こえていた。物々の影が薄明るんだ塀に掛かって青みを添え、足もとからは、こちらのものも前の学生四人らのものも一様に、淡い影が前方に伸びて、ほんの少しだけ横に傾ぐ。合間に挟まれた坂を渡るとすぐ見えてくる一軒の、それは作業場か何かの風情の建物なのだが、薄朱色の花をつけた野草の繁殖した空き地に接する金属製の柵に、鴉が一羽止まっていた――つい先日も、飛んできた一匹ががしゃりと鳴らしながら降り立って我が物顔にあたりを見回し鳴くのを見た、その同じ柵である。この日の鴉も鳴きを上げて、すると林の方からもう一羽やってきて返すのを、どうも鳴き交わしているな、と見ながら過ぎた。寺の枝垂れ桜は緑を塗られている――そこだけ温度のちょっと下がって涼しいような、まだ未熟な梅の実を連想させる青緑色だった。

               *

 帰路も雲が僅かに残っているようで、青さのなく墨色に寄って、星の光も霞みがちな夜空だった。背後から街灯に照らされて道に浮かぶこちらの影の形が、やけにくっきりと見える。裏通りの左右を囲む民家のなかから人の気配らしきものも伝わってこない静けさのなかに、地を踏むに応じてこちらの靴の、ゴムが伸び縮みするらしい擦過音のみが立つ時間があり、それに耳を寄せながら行って空き地に掛かって空間がひらくと、表のどこの建物でやっているのか、五月の祭りに備えた囃子の練習の音が聞こえて来て、しかしそれもすぐに車の通る響きを被せられて届かなくなった。ふたたび目を落とした影は歩みに応じてこちらの横を追い抜かして行き、光の青さを僅かに滲ませた輪郭線を固めて色を濃くしては、前方に柔らかく伸びながら薄らいで行き、消えるとまた後ろに復活する――その繰り返しを眺めているといつも、梶井基次郎が、どの篇でのことだったかも忘れてしまったが、夜道を行くあいだに街灯に映し出される影の推移をやはり書き付けていたなと思い出されるのだった。

2017/4/24, Mon.

 三時前に外出。前日に続く晴天で、まだ陽だまりも広く、道を縁取った石壁の上から張り出している木々のその影が、路上に騒ぐ。裏通りを抜けて街道に出れば、一面に広がった日なたのなかで、肩の上に心地よい熱が乗って、汗ばんでくるくらいの温暖さだった。素早く宙を渡る鳥の影が、道や家壁の上を、水面を伝う波紋のようにして、瞬間過ぎ去っていく。表から一本裏に入ったところに覗く、中学校の校庭の端に並ぶ桜は、花を過ぎて萼の赤茶色と葉緑が混淆しており、鮮やかな華やぎの担当は花水木のそれに交替される頃合いである。小公園を過ぎざまに覗いてみても、地には褐色が砂のように散り敷かれている。裏に入って丘を見やれば、少し前は萌えはじめの薄緑と冬を越えた常緑樹のまだ深い色とが明暗の断層をくっきりと作って、森の中途に黴が湧き混ざったかのような不均衡に映らなくもなかったが、緑の摺り合わせがいくらか進んで、まだしも均整が取れてきたようである。同じ色合いの地帯や、同じ一本の木のなかにも、褐色が混ざったり淡かったりと、一口に緑とは言いながらも実に多様な色彩の変化が含まれて、細かく組み合わさっているなかに、高いところで桜の薄紅がほんの少しだけ残った一片があり、低みではまだ枝の露わないくつかが、芽生えたばかりでやはりほかとは違って黄味の強い若葉色を先の方にくゆらせていた。

2017/4/23, Sun.

 ストーブのタンクに石油を補充するために外に出た――それ以外は終日籠って、外気との触れ合いがなかった日である。勝手口の方に回ってポンプが液体を汲み上げタンクを満たすのを待つあいだ、あたりを眺めた。光の渡って穏和で爽やかな快晴で、傍の林の木々が風を受けてさらさらと震えながら鳴りを立てるその影が、薄緑の下草や、地に積もった竹の葉の上で同じように震えてうねる。竹は竹秋を迎えはじめているようで、葉には黄味が断片的に混ざっており、ほかの木も鮮やかな緑が実に明るい。影から葉本体の揺動に目を移して見つめていると、ほとんど搔き回されて無数の波紋を生む水面のようでもあり、もっと凝視すればもっと細かな色のささめきに微分されて、煌めきのような、あるいはざらざらとした粒立ちのような感覚が生じ、電子ノイズを視覚化して眺めているような感じをもたらす瞬間もあった。