2017/5/16, Tue.

 この日も白く褪せた曇り空は引き続き、胃のなかが軽くなってくるといくらか身が冷たくもなるようで、温めて食った豆腐の熱が腹に染みて美味い。シャツの上にジャケットは羽織らず、ベストのみつけて、三時半には道に出ると、空気は動きがなければ涼しいというほどもなく、ただ柔らかく肌に馴染んで心地が良い。街道から先に見通した丘の緑の、締まりの具合を見る限り、前日よりも大気の濁りは弱いようだった。裏通りを行くあいだには風が前から流れて、身の前面をすっぽりと覆うような涼しい時間もある。その風に乗って渡るようにして、正面から雀が、上下に波打ちながら向かって来て、脇を抜けて減速しながら一軒の庭木のなかに、表の葉の遮りをものともせずにすり抜け突っこみ、着地する、その滑らかな軌跡を思わず追っていた。道の終盤に掛かると頭上、電線の上に一羽、小さな鳥が影となっており、秋虫の声にもちょっと似て澄んだ音色で、回転しながら数珠繋ぎに連なるような鳴きを降らせているのを、あまり聞かない、綺麗な声だと耳を寄せながら、下を抜けた。
 勤めを終えた夜の帰り道、裏路地を戻っていると、かすかに煙るような、植物から立つものかと思われる匂いが鼻で吸った空気のなかに感じられるのは、湿り気のなかに混じるものか。鼻を鳴らしながら行っていると、やがてそれが、左右の民家から洩れてくる、食卓の、肉料理らしきものの匂いに変わって、軽い腹に快いようだった。それから、踏切りの警戒音が鳴りだしたその裏に、何かの鳴きを数音聞いた気がして、摩擦の強い質感に、時鳥では、と遅れて思ったところが、音が止んでから耳を澄ましても気配がなく、これは空耳だったらしい。この日の寝入り際にもまた、時鳥のものらしき声を聞いた。帰って食事と風呂を仕舞えて室に戻った夜半、新聞を読むなり他人の文を写すなりを思っていたところが、疲れを和らげようと床に横になったのが運の尽き、眠気に捕まって、気づけばだいぶ夜が更けていた。その後、本を読みだして、新聞屋の無遠慮なようなバイクの音も過ぎて行った三時半に到って明かりを落としたが、先のこともあって眠りがやって来ない。姿勢を繰り返し変えて、窓を背にしていたその際に、遠くに薄く、天に向かって立ち上がってはまたすぐに折れて下るあの鳴きを、一声聞いたと思ったが、仰向けに直って耳を窓の向こうに張っても、やはり続きが来ない。実声とも、錯聴とも付かない。
 老人ホームの脇、表に出る角に掛かったところでそこの木が、いつの間にやら青葉を茂らせているのに目を惹かれて、帰路の終盤、しばらく立ち止まった。豆桜というものらしく、よく見る品種よりも花柄が長く、蕊も多いようで、花の底に口紅めいて深い緋色が艶に滲むのを、四月の霧雨の、やはり夜のなかで目に留めていた。木は下部からも細枝が伸びて、わりあい大振りの葉をつけて、足もとは土が見えないくらいに茂っている。目を上げるとほっそりと伸びた幹の中途に、浅い傷が縦に二、三、走っていて、樹液らしくそこから滲むものがあって、黒褐色に濡れていた。

2017/5/15, Mon.

 この日も午前から曇り空が続いて、夕刻まで晴れ間も見えない。四時頃、居間から外を見通すと、遠くの山とのあいだに積まれた空気層のなかに、石灰色が混ざり僅かに霞むようで、一瞥、雨が降っているのかとも見え、仄暗いような天気だった。気温もいくらか低いだろうとジャケットを羽織って往路に出たが、陽の気配は欠片もなくとも、やや蒸した空気が、服の内に溜まるようだった。大気の動きは仄かで、路傍の立ち木の、横にひらいた枝葉の先をちょっと揺らがせるほどはあるが、道を行くこちらの肌に定かに触れるものもない。静まっているなと思っているとしかし、裏通りの正面から吹いてきて、するとさすがに、湿り気のいくらか混ざって涼しいものだった。
 道を行くあいだの足取りが、緩くほぐれて、一見、気怠いようになっていた。ここ最近、その調子が習いとなって身に付いたようで、歩けば自ずとその足になるらしい。急ぐことはしない。身の内の時間を、いくらかなりとも、緩やかならしめるようにして、歩く。軽く力の抜けてはいるが、それでも付いてくる一歩の重さを、きちんと踏まえるようでもある。そうしても時間というものは、常に速く、既に過ぎているもので、世界常時開闢説ではないが、いつの間にか別の時間、別の場所に来ている自分にそのたびに気付いて、今しがたの時間がもう消えてどこかに行ってしまったことに、驚くように、訝るようになることはある。その日暮らし、という言葉があるが、その一日よりも短くて、前も後もないその都度、その時ばかりで暮らしているような気に、なることもある。生まれた端から砂のように零れ失われて行く時間というものを、そのままに放って済ませてはおけず、いくらかなりともすくい上げたいとの、流れ過ぎてやまないものに対しての愛着が、一つには、日々自分に文を綴らせるのでもあるだろう。
 帰路には耳が詰まった。じきに治っても、唾を飲む拍子にスイッチが入ったように、ふたたび籠るのが、何度か繰り返された。鼻から出し入れする呼吸の音が近く、耳のすぐ外に呼気が流れているかのような感じがする。耳鳴りでも始まるか、と思って注視していたが、鳴りはじめることはなかった。二日前の、夜の電車内でも耳は詰まって、前日にも、やはり夜だったように思うが、一度あった覚えがある。頭の内で変調が始まっているか。それとも疲れのせいか、あるいは気圧の影響だろうか。気圧の低くはあるのだろう、薄灰色の曇り空は続いており、月のない夜で、山は空と分かれてはいるが裾はぼやけて、その手前に低く溜まった家並みはいかにも黒く映った。欠伸が自ずと洩れて、歩調は行きよりもさらに気怠く、のろいような足になっていた。

2017/5/14, Sun.

 八時の目覚めの時には既に窓が白く、それから午前に掛けてもずっと平坦な曇り空が広がっていたが、二時頃から薄陽が洩れはじめ、空気が色付いてきた。三時に外出した時にも、西空に灰色を帯びた雲が押し出てはいるが、道の上には陽の色が淡く被さっている。端に散り敷かれた竹の葉は、まだ前日の湿り気を残していた。坂に入れば小鳥らの囀りがあちらこちらから、間断なく立ち、空間を縁取るようにして、時折り柔らかく降る鶯の音の背景を成している。そのなかを歩くあいだ、気怠いような足取りになった。街道に出ると正面から涼しい風が吹く。東では雲が乱雑に崩れており、搔き回されたようななかに冷えたような青さが垣間見えていた。裏路地を行き、空き地に掛かると、その白く褪せた淡青を後ろに、燕だろうか、鳥が何匹も素早く飛び交って、空中に黒い軌跡を描いて回る。それからまもなく、先を行った自転車が道の真ん中で一旦停まり、乗り手の女性が降りぬままに不審げな目を地に向けているその先に、何か落ちているのに気がついた。距離があって鈍い色の塊としか見えないが、大方、鳥らしい。死んでいるとも生きているとも、判断が付かない。女性は何度か振り返りながら去って行き、そのあと一台通った車は器用に道の端に寄って避け、続けて来た一台は左右のタイヤのあいだをくぐらせるようにして、どちらも鳥を傷つけることはなかった。傍に来てしゃがみこめば、鵯である。小鳥でなく成鳥の、間近でまじまじと見るとなかなか大きな体で、外から見える箇所に負傷らしきものは見当たらないが、飛べなくなったのか、俯いてじっと止まっている。死んではいないのだろうなと、薄青い羽毛に覆われた体の、顔のあたりに指の甲をそっと寄せ、触れさせてみると、途端に顔を上げてぴいぴいと、威嚇らしく、黄色く細長い嘴をひらいて、甲高い声で鳴き騒ぐのに、怯まされた。無体な車に轢かれないとも限らないので、せめて道の端にでも移動させたかったが、掴み取るわけにも行かず、下から掌に掬い上げることを思ってもうまく行く気がしなかったので、自ら動く気になるのを待つほかあるまいと立ち上がり、先の女性と同様に、後ろ髪を引かれながら立ち去ることとなった。
 図書館に行き、四時前から八時まで、窓際の学習席に居座って、自分の生活を記述に落としこみ、また梶井基次郎の文章を写しもした。それから黒々と密な宵空の下を、近間のドラッグストアに歩き、ビニール袋を提げて駅まで戻った。その行き帰り、路傍に設けられた茂みに躑躅の花がいっぱいに咲いており、朱を薄く混ぜた光の降るなかで、赤々と映えていた。腹の軽くなった身体に、風は涼しさが勝るようだった。最寄りで降りて一番後ろから歩いて行くと、両手に一つずつビニール袋を提げた老人が、先に階段に掛かって、足の悪いとまでは行かないがいくらか衰えているようで、一歩一歩を重い音でよく踏まえている。あいだに一つ挟まれたやや広い段の上では、また上りはじめる前に次段の前に足を揃えるようにしてから足を掛け、身体が横に揺れるらしく袋をがさがさと鳴らしながらゆっくり上がって行くその姿を後ろから見ていると、自分こそまだ三〇にも掛かっていない若造なのに、足から老いたような気になったか、慎重に測るような足取りになっていた。

2017/5/13, Sat.

 昨夜、夜半から始まった雨は、繁くならないうちに消えていたが、いつかまた降り出したようで、早朝に、風とともに窓に寄せてガラスに当たるその音で目を覚ました。結構な降りのようだったが、そのなかでも鶯が、勤勉なように声を膨らませているのに、この雨では鶯も、例え木の葉のなかにいたとしても、打たれるままで身を守る術もないだろう、しかし鳥は、雨など意に介さないものだろうか、などと思ってふたたび眠った。そのあとも降りは雨脚をいくらか弱めながらもずっと続いて、外出する三時過ぎに到ってもまだ残っていた。湿り霞んだ空気のなかでも、鶯は鳴く。普段よりもむしろ旺盛なように、間を短くして、よく鳴き募る。坂を上って行く途中で、道端から茶色いようなものが飛び上がったのを追えば、鳥が木の枝に止まって影になる。足場を飛び移るそのたびごとに、枝の下に溜まった水が、僅かな揺れで一斉に落ちて、地を打つ音が細かく重なって鳴った。街道は、水を含んだ車の走行音でかまびすしい。石灰色の飛沫を後ろに跳ね退けながら回るタイヤが、近づいて来て横を過ぎるまでじっと目を寄せて、すると車の向かって来るのが緩慢なようになるのに、タイヤの回って過ぎて行くこの短い間も、いくら短いものに見えても追いすがろうと思えば、その長さは追いつけるものでないだろう、ここにも時間というものの、実相とまでは言わず一つの相らしきものが、幾許かでも含まれているか、などと形の付かないことを思った。あちこちにできた水溜まりの、草の蔓延った沼のような色に沈んだなかに、波紋が大きいのも小さいのも輪を成して無数に生まれ、交錯するのに目をやりながら、歩くうちに靴のなかの足先が湿ってきた。
 立川の街へ出ても雨は続いており、歩廊の屋根の下にいても斜めに吹きこんで来る。書店を二つ、一時間ほど掛けてうろつき回って、津島佑子『寵児』ほか合わせて四冊を買ったそのあいだも、外の道では車が路面を擦り滑って行く水音がひっきりなしに膨らんで、高架歩廊の方まで立ち昇っていたに違いない。購入を済ませたあとは、大層久しぶりのことだが喫茶店に入って文を綴り、八時半を過ぎて外に出た。雨は過ぎていた。すっかり宵に入りこんで空の濃密に暗んだなかを駅の方に戻り、よくもこうするすると呆気なく、澱みもせず抵抗もなしに時間が過ぎるものだと思いながら駅舎前の広場に掛かると、鳩が一匹、行き場のない迷子のように人の足のあいだをうろうろとして、涼しい風が横から流れた。電車内では立ったまま古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を読んでいたが、じきに、空調の音の響きに何か感じるところがあってよく聞いてみると、耳が詰まったようになっている。久しぶりに街へ出て、駅の人波から川音めいて昇る籠った唸りやら、なかに入った店のみならず前を通り過ぎただけの店も合わせて音楽にもかわるがわるに晒されて、疲れが溜まったものか。席の埋まって、皆視線を落として多くはスマートフォンを覗きこんでいる電車のなかも、何となく圧迫的な感じがする。鼻から出入りする息の、あるかなしかの音が、耳のすぐ外に接して浮かんでいるように聞こえていたが、路程の終盤、人も減って座った頃からだろうか、いつか気づかぬうちに詰まりはなくなっていた。最寄りを降りれば、夜空の内にそこだけ白く、月が雲の裏に隠れているのが昇る煙のように浮かんでいて、歩きながら見やっているとまもなく、まだ雲の内にはあるが、いくらか像の晴れて円い形が定まった。南の正面だった。

2017/5/12, Fri.

 この日も朝から平らかに晴れて、さらに風があって、居間の東窓に掛かったレースのカーテンがよく膨らむ。ものを食っていると、幕を端に留めて外の露わになった南窓には、タンポポの綿毛が群れなして、羽虫の集まりのように舞って過ぎた。前日と同じく、昼頃から曇りはじめて空が白くなったが、三時前に再度食事を取りに来た時も変わらず風はよく通って、卓上に載せた腕を柔らかくくすぐる。それからアイロンを使ってシャツの皺を取っていると、母親が、あそこに鳥がいる、と言う。近所の屋根も電線も越えて川向こうの、岸から盛り上がった斜面の林の内の一本を指すのに、立ち上がって目を凝らしてみると、確かに白いものがあるのがわかったが、こちらの目にはただ木々のなかに色が混ざっているのみで鳥と定かに視認できるものでなく、いま横になった、いま立ったなどと母親が仔細に言うのに、目がよく見えるものだなと驚かされた。手近の抽斗から双眼鏡を取り出したのを受け取って覗いてみると、鷺か何かか、確かに鳥である。見ているうちに飛び立って横に滑って行くのを追って視線を滑らせ、翼の裏に美しい群青色を現したところで、家屋の裏に降りて行って見えなくなったのだが、鳥にも興味を惹かれはしたものの、それを追う前に既に惹き付けられていたのは双眼鏡を覗いた時の視覚像そのもので、丸い枠に切り取られた視界の、距離を無化して遠くのものをこの上なく明晰に映しながらも、同時にあまりに平面的で、無数の細部を緻密に貼り合わせて作ったような風なのに、大層驚かされた。木を見れば、木の葉の肌理など、空間にそのまま刻み込まれたかのような、極端に明るい細やかさである。手に取るよう、とはまさにこのことだと思った。何の変哲もない電柱を映して、くすんだ鼠色のその表面を上下に視線でなぞっているだけで、多少の快楽すら覚えるような有様で、なるほど、これではバードウォッチングとやらをする人の心もわかる、しかし人々は、鳥を見るのも勿論興だろうが、双眼鏡のなかがこれほど気持ち良ければ、鳥を見るなどと託つけて、そのあたりの何でも、手当たり次第に見ているようなものではないだろうかと、そんなことをさらに思った。
 三時半に到っても風は吹いていて、家を出ればちょうど林が葉擦れを鳴らしているところで、竹秋を迎えて薄山吹に染まった竹の葉がさらさらと斜めに流れる。滑らかに、薄白く濁った空には太陽の影が、そこだけさらに白く映っている。ベスト姿で出たが、空気には熱が混ざっていていくらか蒸し暑いようで、朝の陽射しが地面にまだ籠っているのか、歩道から温みが立って、脛のあたりが殊に暖かかった。勤めを済ませて一〇時の帰路には、風らしい風もなかったが、空気はさすがに涼しい。前夜が満月で、この日も空は明るいが、色は一面灰色で月の姿のどこにも見えず、光をいっぱいに溜めているはずの大きな月をこれほど確かに隠すとは、厚い雲が掛かっているらしい。
 風呂を済ませて日付替わりも目前に迫った頃に、ぱちぱちと、囁きめいた音が外で起こって、次第に間を狭く募って雨が始まった。夜半が過ぎる内に気づけば音は止まっていたが、眠りに既に落ちたあとの未明頃から、どうやらまた降り出していたようである。

2017/5/11, Thu.

 寝床で覚めた時から、柔らかくほぐれた空気の爽やかさが触れるようだった。気温は二八度まで上がると言って、その割に暑さの勝るでもなく、朗らかな初夏の日和である。昼下がりから雲が多くなって、四時頃には空の大方が白い曇りとなり、するとやはり多少の蒸し暑さが出てくるようだった。出かける頃には隙間が生まれていくらか青さが見えていたが、それでも雲は大きく湧き広がって、西の空では夕陽が止められていた。両側の家々の庭木や、丘の緑に目を向けながら裏道を行くその足取りが、一歩一歩、ゆっくりと着実に踏まえて行くようで、靴裏が砂利を擦る音の随分としっかりしているように聞こえた。世の尋常な勤め人に比べればよほど緩やかに暮らしてはいるはずだが、と言ってやはり時間に追われ追われて、何と取り立てて言うでなくとも生とは、生活とはままならぬもので、こちらもいまから勤めに出るところでいずれ目的地に縛られた移動の内にはあるけれど、せめて歩く時間くらいは前後なくその都度の一歩の現在に留まりたいと、そんな心か。中年の、髪を薄く刈り揃えたサラリーマンがはきはきと威勢良く歩いてこちらを抜かし、見る見る先に行くのに、そんなに急いでどうするのか、と思ったものだ。じきに薄陽の洩れてくる時間があって、家の壁に電線の影がうっすらと付されたのが、すぐに消えてしまう。鴉の鳴き声が聞こえたと思うと、低く流れるように飛んできたのが、住宅会社の旗のいくつも立てられて揺れている空き地と、作業場か何か、閉鎖的で無骨な感じのする建物とのあいだの柵に、がしゃりと音を立てて着地する。過ぎてからまた聞こえた鳴き声が、鳥というより、とぼけた猫のような感じだった。道の終わりに近くなってまた陽が、雲の端から空に出たようで、夕日影を踏むこちらの姿が路上に長く伸びる。周囲はまだよほど明るく、落ちているのも粘りのなくて滑らかな光の色だった。
 帰路は一一時も近く、遅くなった。北の丘の方から、あるいは西の行く手から風が流れてきて、上着を羽織っていない身体に涼しい。久しぶりに風というものを浴びた気がした。満月の夜で、雲は流されてかすかに残ったものもすぐに視界から消え、空は青々と深い。裏に入って坂の上まで来ると、月がちょうど正面にぽっかりと掛かって、あたりの物蔭にまで光の仄かに渡って見える。木々の樹冠の影が青い夜空に定かに刻印されていた。
 遅い入浴も済ませて部屋に帰り、眠る前に古井由吉『ゆらぐ玉の緒』 をひらいた。カーテンの裏で窓はいっぱいにひらいており、南の少々下ったところを流れる川の響きがくぐもって伝わってくる。初めはそれで身体に障るものもなかったが、二時を目前にして、空気が冷えてきた。窓を閉ざすと、不健康なような、あまりに静かな静寂が満ちる。そのなかで心安らかに落着くものでもあるが、愛想がなさすぎて、外の物音があった方が親しみやすいようである。時折り意識の零れそうになる眠い頭を押してもう少し読んだのち、布団を被るとふたたび窓をひらいて、眠りを待った。

2017/5/10, Wed.

 先夜の雨は未明にはもう収まっていたらしい。明けたこの日もしかし、居間の内から窓を透かした空気が、ひと目には降っているともいないともつかず曖昧に籠った曇りで、湿り気もかなり残っているようだった。五時に到って道に出れば、その頃には降りはなかったが、路傍から湿気に混じって濡れた草々の匂いが立つ。室内にいるあいだも、鵯らの間断なく時間を埋めて鳴き騒ぐその端で、鶯が我関せずといった風情で己が鳴きをゆったりと差し挟むのを聞いたものだが、外に出てみてもあたりで鳥たちがしきりに騒いでいて、口笛の旋律じみた声だとか、ちょっと聞き慣れないような種の声などが道を行く傍で林の内に反響していた。弱い涼気があって、顔の肌に染み入って、こめかみのあたりに留まる。街道に出て石壁の上から張り出した躑躅を向かいに見ると、昨日は白いものばかりが目についたが、紅紫のものも一緒に並んで鮮やかに膨らんでおり、下を通る車に煽られて上下に柔らかく揺らぐその下に、それぞれの花が、どれも一様にひらいた口を下に向けて散り落ちて、テントを立て並べたようになっていた。
 帰りは曲がりなりにも動いた身体が行きよりも熱を持っていて、いくらか蒸すような感じがする。風という風も流れない。もともとこの日は眠りすぎて起床の時からこごっていた身体が、疲れにさらに追いやられて、頭蓋の内、目の奥に、頭痛というほどのものではないが、固い感触が湧いていた。空は引き続く曇りだが、暗くはなく、雲にまみれた奥に青みがうっすらと透けて見えないでもない。月もそろそろ、大きく膨らむ頃ではないか。表に出て歩道を行っていると、虫の音の騒々しく響いて耳から顔を包むようにまつわって来たのに足を止めた。通りの向かいに砂利の庭を挟んで一軒あって、その方から渡ってくるが、電柱か家屋か庭木のどれかか、どこから鳴いているのかもとがわからない。小さい体なのだろうが、じりじりとざらついて宙を貫く線状の響きの大きく、季節を外れて気早に、時間も外れて夜に鳴く蟬のようだった。

2017/5/9, Tue.

 往路、この日はジャケットまで羽織った身体に、一様に白い曇天の大気は暑くもなく、風が流れても涼しいというほどでもない。街道を向かいに渡ると、行き過ぎる車の生む風に煽られて、石壁の上から迫り出した白躑躅の茂りが上下に撓んで、そのあとから一つ、花が落ちた。首を落とされたようにもとからすっと離れて、ゆっくりと柔らかく降って、地に触れても形を微塵も崩さず、生々しく張っていた。裏通りに曲がったところの一軒の庭内にも、白い花の集まっているのを見るともなしに目に入れて、遅れて、あれも躑躅か、と気付かされた。白い集合の、無性に滑らかに、一つひとつの境もそれほど明白ならず繋がって映り、ほとんど寒天か何かでできた拵え物じみて、さらりと食べられそうな、との幻想の立つほどだった。進む歩調は緩く、速まることなく抑えられて、背も自ずからまっすぐ立って心身が、何にということもないが満ちて、心が落着きに静まっているようだった。
 夜半前から雨が始まり、風呂場に入って湯に身を下ろしたところで、硝子の先から響く音に気付いて窓を開けた。林の竹の上に、何が落ちるのか、かーんと乾いて冴えた鳴りが、雨音のなかからひとすじ響いた。部屋に帰ってからも雨の響きはあって、夜半も丑三つも過ぎた頃、降り自体は止んだようだが、ベランダの、おそらく上階の下端から下階の柵に向かって雫が滴るものか、金属的な雨垂れの音が、いくらか間遠に続いていた。三時を過ぎて床に就くと、こつこつと、ひどく弱いが、何かの刻みが聞こえる。壁に掛かった時計の、一分六〇回のそれよりも遅く、横たわった自分の身体の内から響くようで、まるで機械仕掛けの心臓を持ったような気になる。しかし、音があまりに硬く、姿勢を変えても一定に続くので、心臓の鼓動ではない。まるでいま読んでいる小説のようではないかと、古井由吉の「時の刻み」に、やはり就床時に謎の滴りの音に悩まされた体験が書かれているのを連想して思った。壁の時計と、ベランダの雫と、由来の知れない微小の拍動と、暗闇のなかで、三つの刻みが交錯する。横になっていると胸に埋めこまれたようによく聞こえて、身体を起こすとかえって響きが遠くなるようだが、窓をちょっとひらいて隙間に耳を寄せてみると、雨降りに湿って薄白いような未明の空気の、そのどこかから渡って来るらしい。雨垂れかもしれないが、それにしては音の調子が、それこそ時計の刻みのように一定に過ぎる。機械的なものの働きと考えた方が得心の行くようでもあるが、こんな夜更けに他人の家の物音が伝わってくるとも思えず、いままでに聞いたことのない音でもあって、解せなかった。

2017/5/8, Mon.

 往路。風邪で家に籠る日が続いていたから、長く外気のなかには身を置いていなかった。道に出ると、四方を壁で囲まれ閉ざされていない空間の、無論様々なものはあいだにあるが果ての空までひらいて繋がったその広漠に、肉体が頼りなさを感じるようで、身の平衡を窺うようなところがあった。病み上がりでもある。坂を上って行くと、途中で正面に伸びる木が緑色の明るい若葉を被った樹冠に陽を受けていて、その茂りにも久しさの感を得た。軽い青さの広まった空に、白い乱れはチョークをすっと擦り付けた程度の薄さで、月も上りはじめというよりはこれから消えていくような淡さで馴染んでいる。背後から陽に照らされる街道で、こちらの影が、道端の草の上に映り出る。小公園の桜は花柄もなくなって皐月緑にまとまると、すっきりとなったようで涼しく、また入り口に設けられた木組みの屋根には、藤が小さく垂れ下がっていて、こんもりと積まれた葉が陽射しに透かされていた。落ち陽は旺盛に膨らんで、肩に熱の乗って汗の滲む道である。裏通りの途中、空き地で小さな子らが四人ばかり集って野球遊びをしていて、一人の投げたボールがバットに当たらずに流れて来て、こちらの目の前で壁に跳ね返って転がるのをまた一人が追いかけた。手の入らない空き地の隅は、草が背高く籠ってきており、タンポポの小毬やハルジオンが顔を出していた。

               *

 声を出す必要のある仕事で、勤めのあいだに喉の痛みがぶり返した。人のあいだに出れば、明らかな緊張はなくとも自ずと気が張ろう、頭の方にも熱が上がってきたらしい。コンビニに寄って、喉の不調を緩和する飴を買い、舐めながら夜道を歩く。道と道の繋ぎ目に掛かっても風の気配もない、静かな夜である。空には雲が広く掛かったようで、月が引っ込んで朧に明るむ。弱くとも、西の山際までその光が渡るようで、彼方が沈んでいない。街道に出ると、既に営業後で明かりも落とし、窓が暗んで運転手以外は無人のバスとすれ違って、振り向いて何とはなしに見ていると、乗せる者もいないのに停留所にしばらく停まってから、再び出発する。それからちょっと進むと花の匂いが香ったのは、一軒の家先に花があって、オレンジ色の小さな集まりは、躑躅の類らしかった。先のバスが発った停留所のベンチに、中年の男が一人で就いて、携帯電話をじっと覗きこんで静かにしていた。

2017/5/7, Sun.

 寝台の上に仰向けになって、古井由吉の最新刊を読んでいるうちに、文字の上にこごっていた視覚から意識が、耳の方へとふと逸れた。聴覚空間の、その外辺のあたりで先ほどから鳴いていた鶯の声の、放たれたあとの残響が、耳を掠ったのだった。目を閉じればそのあとからも繰り返し、一定の間を置いて、川の音の奥に籠った空気のなかに、威勢の良い鳴きが走っている。まさしく、撃つ、放つと言うに相応しい音色の、尾を引いて横に飛んで行く響きの声である。近間では鵯らが集って、浅瀬でぴちゃぴちゃと水を跳ね返すような声を立てる。空は白幕を被せられていて、ひらいた窓から、風というほどの厚みもない涼気が流れこんで来るのは、午後三時だった。読んでいたのは、四〇代の半ばの頃に、時鳥の声を聞きに比叡山を訪ねた旅のあとに、夜中に時鳥の空声めいたものに耳を澄まして苦しめられる時期があったと書かれた箇所だった。
 この二日だか三日だか前の夜の寝入り際にも、鳥の声を聞いた。眠気の一向にやって来なくて、仰向いた身体の脇に両手を寝かせてかすかな身じろぎもせずにいるうちに、やがて腕が重って、金具を被せてベッドに嵌め込まれたような具合に固まってきた安静のなかで、切れ切れの思念に巻かれていた頭が、窓の外で鳴った軽い声を、ふと聞き留めた。ガラスに阻まれていくらか遠く、特徴らしい特徴もないような、小さな鳴きだった。床に就いてから眠りに入れないままに結構な時間を過ごして、二時に掛かっていたのではないか。一度耳にしてからそのあとも聞こえたが、弱いもので、僅かな間も置かずほとんど常に鳴いているようにも聞こえてきて、幻聴と本物の区別が付かなくなった。本物が実際にあったのかどうかも、怪しかった。就床前に書見をしていて、臥位の顔先に掲げた本の頁から、桃の匂いが仄めいて鼻孔に触れるのを感じていた。嗅ごうとすればもうそれでなくなり、紙に鼻を寄せてみても、紙の匂いしかしない。意識を向けようとすると拾えなくなり、放って文字を追いはじめると、またその時間の端々に、薄く現れ束の間香った。そうして、風邪の熱のまだいくらか名残った身体で夜半を越えたためか、横になった時からもう、耳鳴りが、耳のすぐ近くに伸びていた。
 いつか寝付いて、覚めた早朝にも耳鳴りは残って、むしろ定かになっていて、左耳から二音重なって響いているのを、三度の音とそこから音階を一周下っての一度の、揺らぎもせず安らかに合わさった和音と聞き取って、耳の内部の詰まったような感じにちょっと嫌気を覚えながらも、艶のある鴇色めいた色の、綺麗な音だと思った。わざわざ自分から耳を寄せているのも不健康なので、姿勢を変えて意識を逸らしたところ、和音はすぐに薄れていってそのあとから新たに弱い音が浮かんできたのが、下の一度のすぐ傍の、今度は二度の音だった。

2017/5/2, Tue.

 往路は早めの、午後三時半過ぎである。市内では一年に一度の大きな催しである祭りの、二日続くその一日目で、二日目が本番でこの日はまだ規模も小さいが、坂を上って行くあいだも祭り囃子の音が、終始途切れずに、乾いて晴れた空気に乗って届いた。陽射しはほとんど夏に近いような厚みを持っており、ベストをつけた上にジャケットも羽織っていては明確に暑く、身の周りの空気が粘って重くなっているような感じがする。街道を行くと、公園の前に山車が一つ出て、二車線の道路の片側に停まっており、舞台上で囃子が奏でられ、周囲には法被姿の男らが集っていて、警官も棒を振って交通整理をするなか、皆で方向を転換させようと気張っているところだった。見上げながらその横を過ぎて、表をそのまま行けばほかの地区の山車も見られるだろうが、賑やかさのなかに混じるのがそれほど得意な性分でもなし、裏通りに入って、距離を置いてやや希薄化した音楽の鳴りを聞きながら歩いた。風は吹くというよりは撫でるような具合で、熱を大して散らしもしない。この道行きでは結局、四つの山車を見かけ、あるいは近くに遭遇した。

2017/5/1, Mon.

 外出する頃には、雨降りが始まっていた。傘をひらいて道に出ると、熱されたアスファルトが雨に打たれた時の匂いが、仄かに立ち昇って来る。雨音はまだ乏しいが、坂を上って街道へと向かうあいだ、小さい幅で強まり弱まりを繰り返しているその不安定さに、予報で伝えられたこのあとの雷雨の気配が窺われないでもなかった――実際にはその後図書館の席に座った頃には、雨はもう止んでおり、すっきりと淡い青空から陽が射し入って顔を火照らせる具合だったのだが、この午後三時前の往路では最後まで降り続けた。街道を歩きはじめた頃にはいくらか強まっていて、粒と粒のあいだはひらいているようで景色が白く霞むことはないが、一つ一つの粒子はそれなりの大きさを持っているらしく、音が固く、締まっている。裏に入っても引き続き固い降りが続いて、靴の先から湿り気がかすかに染みこんで来るような感じがし、傘の縁から白玉が落ちる――それには二種類のリズムがあって、一方では布地の縁に溜まって白い曇天を映しこみながら震えていた玉が重みに耐えきれず落下するその合間に、他方では布の上で周囲の粒を吸収して大きくなったものが一気に斜面を駆け下りて、まるで思い切り良く自殺するかのように飛び落ちるのだ。途中、濃い黄土色めいた茶髪の青年に抜かされた。半袖半ズボンの、コンビニにでも行くような軽い格好で、腰のあたりに落とした左手につまんだ煙草の匂いが、こちらの鼻にも通った。その後ろを行っているうちに、道の先から下校して来るまだ身体の小さな小学生らが現れはじめて、小児のなかの一人が、父ちゃん、と叫んで、どうしてこんなところにいるのと続けたのに、既に煙草は捨てたらしい先の青年が、迎えに来たんだと答えているのを見て、それまで青年を人の親だとは思っていないところに思いがけず新たな意味が付与されて一気に印象が転換された意外性の寄与もあろう、他人の生活や人生の一片がいくらかの具体的な手触りを伴って垣間見えたような気がした。

2017/4/30, Sun.

 玄関を出て外気のなかに入ったその瞬間から、旺盛な陽射しの熱を含んだ初夏の空気の匂いとも言うべきものが、肌と鼻孔に触れてきた。陽の当たった部分は広く、鳶が宙を行く影が、路上のみならず林の縁の、新緑の葉々の上にまで映って、駆け上がって行った。道に出れば実に暖かで、熱を中和する風も織物めいた柔らかさである。坂を上がっているあいだ、鶯の鳴きが、間も短く次々と、それぞれに僅か異なった音程と長さで、膨らんでは落ちる。周囲に生えた木々の、明るい若葉色のなかにただ一本、紅葉した春椛があって、緑に囲まれてそこだけ渋く抑えた緋の色が照られているその対照に目を惹かれた。道を行っているうちに、脇やら肩やら、服の内に汗の滲む感触が起こる。裏通りの中途に挟まれた坂を横断したところで、前方の植物がばたばたと騒いでいると思うや否や、そう幅の広くない道を突風が埋めて寄せて来て、前髪が額から巻き上げられて涼しい。道端の木の、先端に赤褐色を仄かに混ぜた丸い若葉が、震えているあいだではなく風の止んで葉鳴りの収まったそのあとになって、何枚かはらはらと落ちていた。

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 昭和記念公園――木々の葉の隙間にまで澄明な色が隈なく浸潤し、はしたないまでに明るく晴れ渡った青空の日である。広場の周縁部の、木蔭の一角にシートを敷き、座った。すぐ手近の周囲にも子連れの人々が何組も集まっており、遊具には子供らが蟻のように群がり、中央に巨木の一本聳えてだだっ広い平原には、老いも若きも幼きも思い思いに遊び交錯して、人々は沸騰した鍋のなかで揺動し行き交ってやまない泡のようである。話しているあいだにふと、広場の一角でシャボン玉の群れが発生し、いくらか傾いた太陽が夾雑物のない空から送りつけてくるまっさらな陽射しのなかで、赤や青やの色味を僅かに帯びて光りながら錯綜するのに目を惹かれた。泡は、二人連れの女性らの一方が持った筒から次々と噴出して宙に広がっているのだが、歩いてくる当人は自分が背後に生み出している色彩の散乱にまったく無頓着で、友人と話しながら一度として振り返ることもない。その後ろで、彼女らとはまったく関係のない別の集団の幼児が一人、惹かれて飛びこんで、両手を合わせてシャボン玉をすくおうとするのだが、手の上に降り立った泡は間髪入れず、その同じ瞬間に割れて消え去ってしまい、子どもは空になった手のひらのなかを見つめるほかはないのだった。

2017/4/29, Sat.

 六時、窓辺のベッドに乗って、姿勢を緩くして身体を寛がせながら『梶井基次郎全集 第一巻』を読んでいると、カーテンがいくらか膨らんで、夕刻の涼しさが流れこんで来る。空は白いが、明るめの曇りで、電灯を点けずともまだ言葉を読み取るのに支障がない。文字に目を落としているうちに、外から草の音が立って、間断を挟みながら時折りがさがさというその調子が、人というよりは動物のものらしく思えて、猫だろうか鳥だろうかと確認はせずにただちらちらと見やっていたところ、何度目かで窓正面の棕櫚の木に、鴉が一羽止まっているのに、これかと気づいた。冬枯れからまだ復活しきっておらず、幹の横に薄色に乾燥した葉の残骸をいくらか纏っているあたりに、鴉も掴まるようにして、虫がいるのかしばらく顔を木に近づけては離していたが、じきに飛んで行った。それから姿勢を変えて、本を窓の傍に持って行った拍子に、それまではまっさらに白かった頁が淡く橙の風味を帯びて色づいたのに驚かされて、何度か窓際と室内に本を往復させて色合いの変化を眺めた。外は一見して均質な曇天で、夕陽の感触などどこにも見当たらないが、紙という媒体を得て空中に確かに含まれているらしい光の色素が露わに浮かびあがった形である。頁と頁が最接近した谷底の部分が、殊更に色を溜めて、影を作っていた。

2017/4/28, Fri.

 風があっても心地よい涼しさに留まる、空気の軽い往路である。空は、東の方には晴れ間が見えるが、頭上のあたりから雲が湧いていて、西ではそれが一面に拡大され、波の弱い浅瀬めいて柔らかな薄灰色が落日を隠しきっていた。街道に出て歩いていると、車の途切れた隙に軒から発った燕が一匹、道路の上に切りこんで、演舞のごとく滑らかな曲線を描いて飛び回り、また軒下の巣へ帰っていくその動きに、思わず目を誘われる。ほかにも燕が何匹も、粒立ちの細かな鳴き声を降らせながら、屋根や電線を伝って行き交う春の夕べ道である。行くうちに行く手ではいくらか雲の布置に変化もあったが、裏から振り返った西空は変わらず白銅色の均質な平面で、太陽の姿は見事に覆われて雲の先のどこにあるのかその痕跡すら窺われず、暗くはないもののあたりに陽の色の一片もなくて地に影も湧かず、見えない光の気配としては東の正面に澄んだ空の青と、そこに浮かぶ灰色雲のなかに白く塗られた縁のその色くらいのものだった。