2017/6/16, Fri.

 起きた時から窓辺の空気が柔らかくほぐれており、午前はそのまま晴れていたはずだが、二時頃、ヘッドフォンを頭につけてモニターに向かい合っていると、いつか葉を打つような響きが耳に混ざりだし、背後で急な雨が始まっていた。ざっと一挙に盛り、雷も遠くから頻々と鳴って、時刻はやや早いが夏の夕立のようだった。引きも早く、家を出る頃にはもう、粒は確かな形を保って傘を鳴らすものの、ぱらぱらというほどに弱まっている。街道に出て望んだ空は薄白く濁りながらも明るく、北側は既に青さが現れているような具合で、雷の唸っていた南の方は一面霞み、雨はそちらに逸れたらしい。裏路地を行くあいだには、落ちるものが止みきらないままに陽射しが出てきて、頭部に楕円を描いたこちらの影が道に宿るとともに車のガラスに白さが収束して震えると、傘の下が熱っぽくなり、並んで既に傘を下げた小児らも暑さを零していた。
 図書館で過ごして七時前に帰路に就いたところ、宵どころか黄昏にもまだ到っていない明るさで、時刻から受ける感覚と実際の空の色との差に混乱を来たすような夏至前の日永に、西に浮かぶ雲が残照をはらんで、目から入って触覚を刺激するかのごとく滑らかに艶を帯びていた。乗り換えに一度電車を降りて、もう反映もないかと見回せば背後に、薔薇色の残骸が緩くくゆっている。最寄りに着く頃にはさすがに黄昏に入ったが、そこまで深くもなく、空にはまだ青さが明らかな下、道の空気は肌に涼しさが強かった。

2017/6/15, Thu.

 窓辺にいると、川の気を思わせる涼しさがカーテンの隙間から薄く入ってくる夕べだった。外に出ても空気は軽く、そのなかを抜けて行くのに、何らの抵抗もなく肌に添う。昼を過ぎるあたりまで曇っていたようだが、いまは晴れ間があり陽射しが通って、街道の二車線上に生まれた家々の蔭が、日なたに縁取られて巨大な切り絵のように浮かぶそのなかに、しかし夕刻の青さは稀薄で、空はまだ雲混じりで日なたも淡く、見通せば全体に混ざった明るさの穏和で、仄かな色調の夕景色だった。裏道へと角を曲がれば、淡青に接しながら丘の上に浮かんだ雲は太陽を隠して上端のみ明るんでいる。紫陽花がそこここで、花をひらきはじめている時節である。それぞれまだ小粒な花の周縁のみに色を塗って白緑を底に残したひらきかけのものは、集合して露出した吸盤めいて見えるが、裏路地にはもうだいぶ丸々と形を整えているものもあって、とは言えまだ色の統一が完成せずに、青のなかに赤味がかった紫が闖入して点じられたその混淆が目に触れて、過ぎざま、ミラーボールを思わされた。淡く長閑な夕方の気に誘われてか、幼児連れなり犬の散歩なり、道に人も、鳥も多い。
 月の遠くなった夜である。空は暗んで、地上でも線路の向こうの林の方に目をやれば、朧な家明かりと街灯の光がかえってそれを包む闇を濃くしているかのようだが、しかし雲は大方去ったようで、星が明瞭に現れてもいた。夕方よりも気温はやや下って、風もいくらかあったのだろう、二の腕を囲むシャツの布に、強い涼しさの貼り付いた感触が、覚えに残っている。家の近間まで来て眺めた近所の集落は、街灯と窓明かりをなかに挟みながらもいかにも暗く静かで、その先の川に沿った林も闇と同化し遠くの山影とひと繋がりに重なって黒々と満ちているそれらの上に見る星は、いくらか太く、膨らみを増したかのようだった。
 入浴中のこと、湯のなかにあった手をふと抜いた拍子に、水面に垂れて当たった滴の音のなかに、偶然生まれた明確な音程を聞き取ったのに惹かれて、それからしばらく、子どもの遊びのように繰り返し手を出し入れしては、ほとんどはうまく行かないが、稀に木琴を叩いたような軽く円い音色で、旋律の極々みじかな断片が現われるのを楽しんだ。夜半は文を書いたり読んだりで過ぎ、三時半の遅きに到って床に就いた窓の先に、遅れ馳せの月が浮かんでいた。まだ下弦まで減ってはいない膨らみがちの月で、正面に高く、ちょうど南中の頃合いかと思われた。

2017/6/14, Wed.

 午前には窓の外に陽の色も見え、空気に爽やぎが込められてもいたが、正午を越えて昼が下りはじめたあたりから曇りだし、外出の頃には窓が褪せていた。坂を抜けると暖気が雲を通ってくるようで、天を閉ざされた大気が温むなかに、それでも時折り風が走って軽やかに滑る。あまり周りを見ずに、ものをいくらか思いつつ路地を行くうちに、気づくと雲はさらに増えたようで、空の地の青さはほとんど覗かず、厚く詰まったものではなさそうだが青灰色に濃く沈んだ箇所も散見された。それでも雨はないと読んでいると、道の終盤に掛かって風が多くなったなかに、涼気が募って雨の気配が一滴点らないでもなかったが、大方降りはするまいとやはり払った。
 宵に到っても実際降るものはなく、むしろ空は、雲がいくらか減じて星が合間に覗いていた。何の虫なのか知れないがこの時期そこらで声を立てているのが林から鳴くのを聞くと、独り時季を外れた気早な蟬のようでもある。前日にもそれを聞いた空き地まで行くと今度はすぐ傍からじりじり発されていて、おそらく敷地の端の電柱からかと思われたが、至近に受けるといかにも押し付けがましいような声だった。家が近くなって入った下り坂で背後に突然、鳥の声が立ち、ちょっと蠢いて消えた。暗くなってから聞くのは珍しいが、画眉鳥のものかと思う。と言うより、あれほど闊達に滑らかにうねる声の持ち主をほかに知らないのだが、鳥の鳴き声というものにもある程度、本線のようなものがあるとするならば、それを敢えて回避し外れた道を行くその開拓精神の、フリージャズのサックス奏者の即興演奏を思わせもして、この時も、一瞬ではあったが、くねる煙の軌跡めいて流動し細く立ち昇って途切れた声の、木の間の静けさのなかに膨らむ無定形が眼裏に映って、一種、美しいようでもあった。

2017/6/13, Tue.

 薄い雨が淡々とした調子で、室内に音も伝わって来ず、降り続き、鼠色に霞んだ空気の薄暗い日だった。午後三時半、外に出れば、シャツの上にベストをつけていても、いくらか肌寒いような様子だった。鶯の声が林から膨らんで、濡れた大気のなかによく響いて抜ける。雨は弱く、傘を打つ音も立たないほどだが、その分、風と言うほどのものもなくとも空気の揺動に流されて東から西へと傾き、傘をくぐって腹のあたりを湿らせる。小学生たちはその程度の雨は意に介さず、畳んだ傘を振って裏路地を走り回っていた。路程の終盤にはさらに弱まって、降るでも流れるでもなく、羽虫のような粒がただ横に浮かぶほどに衰えたので、こちらも傘を閉じた。
 帰りにはもうかすかな粒も消えていたが、道は水気を含み残しており、交差点の信号機の赤がかき氷に掛けるシロップのように路面に滲む。世の一般に比べれば大した長さの労働でないのに、無闇な疲労感が身に乗っており、身体を動かす勤めでもないはずがとりわけ脚が固くなっていて、後ろ足の伸びて蹴り出す動きのなかにこごるものがあり、頭も重って頭痛の兆しが見え、欠伸がやたらと湧いた。路地の途中に暗くひらいた空き地に掛かると、薄闇の底に敷かれた草の間に鳴く虫の音に、甚だ散文的で詰まった声だが梅雨の肌寒もあってのことだろう秋を思ったようで、いまは表の車の音にも紛れてしまうような僅かな鳴きだけれど、九月にもなればこの広場もあの澄んだ蟋蟀の声でいっぱいに満たされるのだろうと、硝子色の響きを頭の内で先取りして聞くような思いがした。

2017/6/12, Mon.

 風がなくとも、涼しく、軽い空気だった。夕刻に到り、曇天が割れて晴れ間と陽射しが現れていた。影の定かに浮かびあがる暖かな西陽のなか、街道を渡り、背後に目をやって雲の裾に光る太陽を眩しがってから前に向き直ると、先ほどから鳴きを落としていた燕の姿が路上に現れ、まだ新しい一軒の方へ飛んで行ったのを、巣があるのだろうが、軒下に隠れきらずに宙を上下しているなと見ているうちに、もう一匹、誘いを受けたように出てきて、円弧を描いて家々の周りを回るその軌跡の、空中を切り取るような滑らかさが目に残った。
 裏通りを行っても、相変わらず、風は走らず、しかし空気は絶え間なく動いて肌をかすかに擦るのが、温もりのなかで心地良い。いつか、気怠さが湧いていた。肉体よりも精神のもの、二日間を家に籠ったあと、またこの道をあの場所へ行っているかと、生活の反復に倦み疲れたようなところがあるらしかったが、生とはその大方が、所詮は前の日の反復に過ぎない。陽に照らされてそのまま眠ってしまいたいような、鈍い倦怠だった。
 それでも勤めのあいだは人と話すので、段々と、望まなくとも気分が持ち上げられる。職場を出て一人に戻り、踏み出した途端に意識が切り替わって、いまの時間が如実に感じ取られ、そこまで一挙に飛んできたような気もして、背後に置き残してきた時間が、そこに入る前はいつも煩わしがってはいるが、また実に事もなく過ぎてもうなくなったようだと、不思議な感じがした。道には、風が生まれていた。満月を過ぎて出がだいぶ遅くなったのだろう、空に月の姿はなく、雲がまた湧いて埋めてもいるようで、その下に流れる風は湿り気をはらんでいるようだった。たまには表を歩くかと中途で曲がって街道を行くと、車の途切れ目に挟まる静寂が、日中、動きに満たされている空間であるだけに貴重で、裏道よりも深く、広い感じがする。街灯の距離が離れた一郭に入ると、前後の光が遠くて影も半ば混じりこむその暗がりに安らぐようなところがあって、普段の分岐路よりも前に折れてわざわざ暗い道を行った。中学校の脇の道で、片側の電灯は乏しく、もう片側に並ぶ家も古いものが多くて、人は住んでいるのだろうが窓明かりがなく、足もとの影の輪郭が崩れて頭が捻れたようになる。川沿いから立ち上がる林の横を行き、木の暗さに埋もれたようになっている家の前を抜け、分岐点に近くなると、風が通って、並ぶ梢が、夜空に溶けそうで目には定かに見えないが、さわさわと鳴りを立てていた。
 夜も相当に更けた頃、就床前に目を閉じて心身を落着けていると、沈みかかっていた意識が何かを感知して浮上した時間がある。カーテンを通して奥に小さいが、窓外の川の響きが、定かなようになっていた。耳を張っていると、遠くの方から気配が寄せてきて、風だろうかと窺っているとしかし早々と渡って来ず、葉鳴りもなくて、雨らしいと聞くうちに風を伴わないらしい降りの響きが近づき、膨らんだ。急に来たが窓を閉ざすほどの強さもなく、ごく短いもので、数分のうちに盛りを越して萎み、また静けさが戻った。

2017/6/9, Fri.

 道に出た夕刻、薄緑に染まった楓の横で、正面を走ってきた風の内に植物の匂いを嗅いだ。坂にはまだ多少距離があったが、その入口を通ってすぐ脇の、伐採された斜面の樹々の香りが乗ってきたものと見えた。傍まで来ると、かえって香りは立たずに消える。鵯が一匹、電線に乗って随分と切ないように、ざらついた声でしゃくり上げているその下を抜けて街道を行くあいだも、風に混じってさまざまな匂いが、数秒ごとに替わるがわる嗅がれる時間があった。風のなかの涼しさが肌にいくらか固まる刹那もあったが、曇天はやはり蒸して、歩くうちに汗も滲んで来る。
 夜になると空気の湿った感触も心地良く、捲った袖を肘の上まで引っ張ればさらに快く、肌に水気がはらまれているのがよく感じられる。満月の夜だが姿はなく、空にその在り処を指し示すほどの偏差も窺えず、雲はなかなかに厚いようだがその裏に光が渡っているのはわかると空の明るさに見ていたところ、徐々に現れはじめた。初めは繭の奥に籠った趣で朧だったが、家の程近くに来る頃には、やはり霞みが挟まってはいるものの、前日よりも黄に橙に明って燃えるように盛った円月が、暈もあまり広げずにぽっかりと露わになっていた。それから坂を下って、出口に掛かると伐られた樹の先の見晴らしが良くて、川音が立ち昇るなかのこちら側には近所の屋根の合間に街灯が忍び入り、対岸の灯も黒い壁と化した林に見え隠れして呼吸めくのを眺めるうちに、こうした夜があってそのうちに死んで行くのだろうと、思うともなく思われて、自分が既に晩年にいるかのような覚えが心安く点った。

2017/6/8, Thu.

 午前から正午付近までは曇りがちな空だったが、昼下がりから陽の色が出はじめて、四時頃には山の近くに低く浮かんだ雲が青さのなかで、溶けかけの氷のように稀薄に貼り付いていた。自宅の傍の坂を縁取る林では、しばらく前から伐採を行っていて、出かけて通るたびに作業員が樹に高く取り付いているのを見上げていた。もう大方終わったようで、この日の夕刻には人の姿はなく、ガードレールのすぐ向こうに、断面がやや歪んだ切り株が並び、そのあいだに嵌めこむように丸太が何本も寝かされて、頭上を覆っていたものがなくなりひらいた空間に広がる初夏の空の、五時を過ぎてもまだまだ失われない明朗さが、アスファルトに薄青く降り宿っていた。
 坂を抜けると走った風に、何か嗅いだような気がして鼻を鳴らしても、嗅覚に判別される定かな匂いはないがしかし、風の柔らかさそのものが香るかのようで、なるほど薫風とはこのことかと得心が行く。先刻よりもさらに晴れて、街道に出れば陽が射しており、影が斜めに伸びて先を行く。ポケットに手を入れて、肩肘張らずに身をすっと伸ばし、苦労のなさそうな、軽いような影だった。陽は思いのほか強くて、裏道の角で丘の傍から放たれるのをまともに浴びればなかなかに暑い。波の上の揺蕩いを思わせるような、ゆったりと進む吹奏楽の合奏が、中学校から渡ってきて林に跳ね返っていた。
 夜は蒸し暑いほどではないが夜気の肌に馴れたようなのに、暗んだ林の方に目をやればいつかどこかの夏の記憶らしきものが兆すようでもある。雲がまた出ており、しかし大陸めいて広く渡ったその量感も露わに明るく、ところどころにひらかれた穴に空の深い色が覗いているなかで一箇所、裾の方のみ白さが仄かに重ねられてほつれたようになっていて、あそこに月があるらしいと見ていると、じきに現れたのが満月だった。光暈を広げて近くは黄に、円周は仄赤く染めて、確かに雲の内に嵌まっているはずだが明るさは突き抜けて陰りなく、泳いで行く。下り坂の入り口まで来て再度正面に見上げても、まっさらに照って表面の模様も窺われず、光そのものが集合して円く固まり、形を成したかのようだった。

2017/6/7, Wed.

 起きた窓の外に風が多く、川の響きに混じって遠くから近くからさやぎが立ち、カーテンが円みを描く。梅雨入りと言う。出かける頃になっても風は続いており、坂の入り口に掛かると林が厚い響きを籠らせてよく騒ぐ。出口近くに立った木も、風にやられて葉を振り乱し、遠く市街の上にひらいた曇天を背景に黒緑の影が入り混じって形を変容させるそのざわめきに、目を惹かれて少々眺めた。街道に出て振り仰いでも、太陽の姿はない。
 風はしきりに走って道のあちらこちらで木立がよく音を立て、丘の樹々が枝葉をうねらせて流動化するが、肌寒さはなかった。白木蓮の大振りな葉を見ていると、その色濃い緑の前を流れて一粒、落ちるものがあった。雨の予報は聞いていたが、道行きのあいだ、降ることはなかった。下校する高校生らに抜かされながらとろとろと歩いているうちに、身体がほぐれてきたようで、恍惚でもないがいくらか心地が良いようになり、緩慢に駅に入ると、ホームに立って風を受けた。右から頬に当たってくるかと思えば、もう左に変わっている。帽子のつばを持ち上げては下げ、胸にも凭れかかってきて、ちょっと後ろに押されるくらいの強さがあったが、しかし、湿り気が弱いのだろうか、雨が降るようには思えなかった。
 図書館で窓際の席に就いているあいだに風はさらに強まり、厚いガラスの向こうから唸りが頻繁に鳴って、眼下では街路樹が頭をばさばさと回して狂っているのが見られた。六時に到り、腹にものを入れるとともに空気の質感を肌に確認しておくかと、外に向かうと、自動扉の境に掛かった途端に、円く突き出したような形の風が立ち向かってきて身を浸し、目を細めさせる。コンビニでおにぎりを買って、ベンチに座って食うあいだ、腹の軽さに加えて確かに気温も下がったようで、肌着にシャツ一枚の身体が震え、温かい飲み物が欲しくなるくらいだった。しかし、ともすれば強い吹き降りになりそうな風の募りではあっても、肌触りが軽いのだろうか、やはり雨の気のようなものが感じられず、降ってもさほど強くはなるまいと見えた。
 実際、降り出すには夜になるまで掛かって、館を出た頃にようやくいくらか散るものがある。最寄り駅に着くとそれでも強まっていて、短く繋がって枝分かれする雨の線が電灯に白く照らされるが、尋常の降りではあった。傘は持っていないが急ぐほどでもないと、シャツを湿っぽく濡らされながら帰った。

2017/6/6, Tue.

 窓から流れこんでくる涼気が、起き抜けの肌にやや寒い曇天だったが、日中には、アイロンを手に持ちながら上半身を晒した格好になっていた。三時半を迎えて出た道は、さほど蒸すでもなく、ベスト姿の身体に馴染みの良い大気の質感である。雲は場所によって青さを透かしながら薄く一枚敷かれた程度で、太陽は西の、まだだいぶの高さに、雲よりも白く刻印された姿があった。その温もりがやはり触れてくるようだが、折りに風があって、耳を包むくらいには速くなる。
 夜は南の空に、真月に近づきつつある月が、赤く籠った光暈を纏って浮かんでいた。道を行く途中、ふと、午後一〇時の涼しい夜気のなかにいる自分に気づく瞬間があり、この日は普段よりもいくらか長い勤務だったのだが、そのわりにいつの間にかのように、事もなく過ぎたなと、後ろに去って行った時間へと視線を振り返すようにすると、始まりの夕刻がもうずっと遠くに、見えないくらいに思われて、忘れてしまうようだった。しかし事もなく、とそう思うなかに、時の過ぎざまに触れられた時の、やるせない空疎さのようなものもない。煩わしい労働の時間だったから、気づかぬうちのように過ぎてくれて良かったと、そういう話でもない。消えてしまうものは消えながら、至ったこのいまの夜道に、自足らしきものがあった。
 左に月を見上げると、欠伸が出た。隠れがちの月白だが明るくて、雲のうねりに煙いような空の、それでも四方に浸潤しているのが確かに見て取れる青みを露わに映し出す。月が沈めば雲の姿形も紛れて、青さの深まりが水底めく。最後の坂に入るところで、正面に高く、ふたたび掛かったのは、南中を少し越えたほどらしかった。

2017/6/5, Mon.

 鴉が、声を遠くに向けて朗々と渡らせるのでなく、間の抜けたような調子でしきりに鳴き立てている夕べだった。ともすれば拍車が掛かって喘ぎのようになりかねない、妙な鳴き方だった。空気は、さらさらと流れて涼しく、肌に安い。街道まで来ると、東の地平に盛り上がってにわかに新造された山脈のようになっている雲の、あるかなしかの陽を掛けられて陰影をはらみながらくっきりと形を際立たせているのに、曇りがちの空ではあるが、大気の澄明さが表れていた。頭上に溶けて染みたようになっているものと比べれば、外周にしても内の襞にしても輪郭の強さは明白で、ありがちな形象ではあるが、まさしく雪を積み重ねたようで、にわかに新造された山脈の趣だった。その長い連なりが道を歩くあいだ残って、西陽は雲の奥に籠っているけれど、正面の空を占める白さが、ずっと明るかった。
 夜は風が吹いて、あちらこちらで樹のなかにさやぎをはらませる。それだから蒸すわけでないが、久しぶりに冷たいものでも飲むかと、自販機で炭酸飲料の缶を買った。缶を右手に嵌めて道を渡り、腕時計に目をやったところで、どうも今日は、時間がわりあいにゆっくりと流れているようだなと気付いた。理由は知れないが、落着いて一刻一刻に留まっており、のちに深夜の読書のあいだにも、時計を見ながらいつもは「もう」の感が差すところを、この日は「まだ」と思っていた。
 路程の最後の下り坂に入ったところで奥から、風が湧き上がってくるその冷たさに、雨の気配を嗅いだ。実際、その風のなかにも既に、かすかに散るものが混ざっていたようだ。食事を取るあいだに降り出し、風呂に入った頃には繁くなって、素早く直線的に落ちる降りらしいその響きを聞きながら湯に浸かっていたが、早々と衰えて、上がる時にはもう止んでいた。

2017/6/4, Sun.

 流氷のような雲の、空に広くこびりついて浮かんだ昼下がりだった。湿り気は薄く、上り坂を抜けて受けた涼気に、これでは汗もかかないなと思ったところが、直後、にわかに道が色づきはじめ、街道に出る頃には足もとに影も弱く浮かんだ。風は気紛れで、東から西から入れ替わって、それほど吹くでもない。鳥の声は周囲から引きも切らないが、なかでも裏道の中途で電線に、燕が四匹並んで、こちらが下にやって来ても飛び立つ気配もなくじっと留まっているのが珍しく、鵯と合わせて鳴きを降らせているのをちょっと見上げた。声を立てながら細かく震えるのが、風を受けて微動する楕円の木の葉のようだった。駅前まで来て寄った公衆便所でも、用を足して入り口のところで手を拭いていると、すぐ目前の宙を燕が割ってなかに飛びこんで行き、見れば壁に取り付けられた細長い電灯の上に巣があって、もうよほど大きくなって立ち上がっている子らに餌を渡してすぐ、ふたたび空を斬って駆け出して行くのを、顔の傍を通り抜けるその素早さに目を細めながら見た。電車に乗る直前、見上げた丘の上空に沈んだ色の雲がわだかまっていたが、雨の気配は感じられなかった。
 電車に乗っているあいだも、読んでいた本からふと目を離すと、床の上に、向かいの乗客らの影絵が生まれている。北側は境なく水っぽく曇ったままだが、南では晴れ間がひらいたようで、遠くの空に雲の塊がひしめきながら、その縁が白く明るんで分かれているのが見通せた。立川駅の改札を通れば身の周りを自ずと囲んでくる人群れに、今更煩わしく思うでもないが、随分とたくさんの人がいると改めて感じ入るようなところはあった。そのなかから、間近を過ぎて行く人の顔貌がくっきりと浮かび上がって人間の表情を成すのに対して、こちらがそれを捉えているそのあいだにも周囲を流れてやまない人波は人形の集合めいて、むしろ自然現象のようでもあり、人々の実体感が稀薄となるその情報の密度の断層を、不思議なように受け止めていた。広場から通路を進んで歩道橋まで来ると、西から陽が射しており、高架歩廊の高さまで背を伸ばした街路樹が揺れて、葉の合間に光の泡を崩してはまた生み出していた。
 CD店を訪れたが目当てのものが見つからず、ついでに寄った書店でもぶらついただけで何も買わず、出ると空に青さが広がっており、百貨店の高い壁が横から陽に灼かれて表面の起伏を露わに、銀色の物質性を浮き彫りにしている。中古のCD屋を訪れて、五枚を買って出るともう六時、思いの外遅くなったので喫茶店に寄るのは取りやめ、自宅で書き物をすることにして、帰途に向かった。住む町に戻った頃には、空はふたたび雲で隈なく埋まって、丘に接した一郭のみ、葡萄酒の色が漏れ出している。最寄りで降りるとその色も消えて、既に青暗く暮れきっていた。

2017/6/2, Fri.

 風の厚く、多い日で、寝覚めてからしばらく窓辺に留まっているあいだ、葉を擦りながら渡っていく気流の響きが、ガラスの外の空間を賑やかに満たしている。上空でも流れるものが雲を掃き払ってしまうのだろう、空は明るく、夕刻に近づいても、食卓から見た窓の上部にちょっと覗く露草色が、穏やかでありながら目を惹く鮮明さである。その頃には、地上の風はいくらか収まっていたようだ。景色のなかにある緑は騒がず、川沿いに伸びた林と、実際には対岸の家々の向こうに遠く位置する山の麓とが、距離を殺して縦に一続きに繋がったかに映って、そうして改めて見ると樹々の合間に覗く屋根は小さく、いかにも緑のなかに埋もれた集落の風情だった。アイロンを操る手もとにしばらく目を落としてからふたたび窓へと上げると、もう蔭の増えはじめている室内に慣れた瞳に、川沿いの樹の緑がやはり明晰で、よくもあんなに明るい色になったものだとまじまじ見つめるようだった。山の斜面には一つ、数年前に一面伐られたものがあって、今年になると新たな緑もだいぶ育ってきたようで斜めに立った草原のようになっているが、その低みに一本残った樹の影が大きく斜面に映っているのを、気づくやいなや、何も不思議なことはないのに、あんな風に影ができるかと驚いていた。
 裏道の薄青さの合間に陽が射しこむその上に、鶯の声が降るのも似つかわしい、長閑で澄明な夕刻だった。街道まで来て日なたの真っ只中に入ると、途端に肌が水気を吐き出しはじめるのが感じられる。ふたたび裏に入った角で降ってくる光が頬に強く、目を斜めに送れば丘の際で伸縮を繰り返している純白の発光体の、嵩にしても白さの密度にしても、春に見たそれに勝って明らかに烈しい。しかし道中、折々に東風が吹き、吹かずとも流れるもののやまぬ爽やぎに、暑気の不快は起こらず、ともすれば汗をかいている感覚もなく、背に転がる玉が肌をくすぐってようやくそれを思い出すような具合だった。一ミリもないのではないか、陽射しのなかで浮かびあがる微細な虫たちが、虫とも見えずただ塵のような点となって、あたりを舞い、揺らいでいた。

2017/6/1, Thu.

 ベッドに腰掛けて新聞を読んでいると、背後の窓先でぱちぱちという鳴りが始まって、カーテンをめくれば、雨が落ちてきている。ベランダの洗濯物を取りこみに行けば、空は雲間に水色が細く覗いて、近間の瓦屋根も明るみを淡く跳ね返すさなかの降り出しだが、粒と粒のあいだが広いわりに速く重く落ちるようなのが、まだ正午過ぎだが夕立めいた気配を醸した。室に帰ってふたたび腰を掛けた後ろで、粒の結構大きいようで葉や窓に当たる音がやけに固く、募りだすかと背に窺っているとじきに繁くなって外が薄白く包まれたが、それもすぐに過ぎて、あとには陽の色がほの見えた。
 夕方にはまた明るくはあっても曇りに閉じた空になり、雨が過ぎたおかげかひどく蒸すわけでもないが、風もない。街道沿いを行くあいだにただ一度、車に連れてこられたように、西から追い風が立って背に当たったが、その後裏路地では吹くものも吹かず、微細な空気の揺らぎがあるのみで、そんなものでもあればやはり肌は敏感に拾っていくらか安らぎ、なくなれば額に温みが留まる。寺の付近まで来ると突如鈍い唸りが空に渡って、飛行機が丘の向こうからやって来るかと思ったが続かずに拡散したのは、どうも雷が遠くで落ちたものらしい。感応するように、鴉が一匹、林のなかからざらついた声で繰り返し鳴き立てていた。狭い路地に燕が活発で、人に当たりやしないかと思うほどに低く、路面近くを通って軒下へ電線へと行き交ってやまない。張り渡されたものの上に数匹並んで止まっているさまと言い、体を伸ばして静止しながら宙を滑らかに流れる姿と言い、鳥というよりは水中の魚のように映る瞬間がある。
 上弦月の夜のはずだが、月の姿は雲に乱されて、オレンジ色の暈が朧げに円く広がっているのみで、歩くうちにそれも色を失って丘の傍で消え入りそうになっていた。それでも空は明るく、稜線の間近に雲がひときわ灰色にわだかまっているその層の差が見て取れる。街道を車の走っていく響きのなかに時鳥の高い声を聞き取って、また空耳だろうか、それにしても自動車に時鳥とは、と取り合わせのちぐはぐさをおかしんでいると、静かになってからも続くものがあった。深夜二時三時によく鳴いていたのが、気温の上がったせいかここのところ早く聞くようになったと思えば、この日は明るい夕刻の出掛けにも、近所の家々の屋根を越えて渡ってくるのを聞いたのだった。
 外にいればそうでもなかったが、屋内に入るとやはり停滞した空気が蒸し暑く、洗面所で手を洗うのに灯した天井の明かりさえもが首筋に温もる。気温の下端がだいぶ持ち上がったようで、深夜に至っても涼しさが募らず、窓を開けたままに肌を晒していても支障のなさそうな長閑な夜気だった。

2017/5/31, Wed.

 湿り気の多くて、室内にいても肌が汗を帯びる曇天だが、三時頃に外に出ると、風は走る。絶え間も少なく、繰り返し流れるのに、林の樹々がさざめきを宙に返す。普段とは違って駅に向かわず、車で運んでもらい、町の南側、四車線を満たす風切り音の騒がしいバイパス路から直接、図書館へと歩いた。振り向けば白くひらいた空の果てに平板な山影が薄青く映り、上方には陽がやや透けて、隈なく塗られた雲の下に暖気が籠るのだろう、風があっても大気は蒸している。坂を上り、立体交差の急な階段も上がって線路沿いの細道に入ると、リュックサックに隠れた背が粘りはじめ、額に手をやればそちらもややべたついている。踏切りを渡ったところで風が厚く走ったが、涼しさに芯がなく、あまり肌を抜けないような、身体に当たると左右に滑って過ぎていくような、と思った。駅前まで来ると、ビルに当たったものが落ちるか、通りを風がひっきりなしに埋めて汗も引く。
 例によって文を書いたり写したりで時を費やし、館を出れば一面黒々と籠められた宵の空に、月も大方隠れきって、仄白い濁りがそこだけ、手違いのように小さくくっついている。最寄り駅に着いた頃にはそれがいくらかひらいて、赤と黄をはらんだ月が霞みがちではあるが、西空で上弦になりかかっていた。坂に入って見上げれば、星も一つ、濁りに消されずに見える。下りながら、木の間の闇が視線を吸いこんで行くのに、またもう夜になってしまったか、と諦念と組んだ倦怠のようなものが立ち、このつるつると走り過ぎてやまない時の滑りの勢いを、せめてもう僅かなりとも遅らせるにはどうすれば良いのかと思った。数年前には、幾許かでも時が過ぎるというそのことのなかには既に、感傷が含まれていると思っていたこともある。しかしそれでは何か、時とは常に既に過ぎているもので、それでない限り生はなく、生とは、駆けることも滞ることも折々にあり、その猛りに追い立てられることも、その粘りに苦しむこともまたあろうが、ともかくも時が流れるというそのことなのだから、生そのものが感傷の連なりか、とそんな妄言は措くとしても、かつての自分は切ながりが過ぎるが、しかし留まりを知らずあまりに事も無げな流れを前にして、無力感のようなものに引かれることはある。誰にも似たことはあろう。坂を抜けて通りに出ると、時鳥の、近頃は深夜にばかり聞いていたのにここでいくらか気早な声が、どこからと方向もあまり知れず、届いた。

2017/5/30, Tue.

 覚めたあと、用足しから戻ってくれば、カーテンの裏で窓はひらいているのだが、それでも室内に暖気の籠っているのが感じられる。三〇度の日らしい。居間の窓の先では光の通った空中に、山の上にひらいた空の清い色が溶け混ざっているようで、空気が自ら薄青さを放っているかに映る。風はあり、室内にも入って、部屋のベッドに腰掛けて本を読む背に波打って寄せるが、アイロンを操る時にはやはり暑くて、肌を晒した。出かける前に肌着を身に戻し、その上にシャツを一枚重ねただけで、皮膚が籠められて息苦しいような、肌に触れる布の感覚が煩わしいような、そんな昼下がりである。
 普段は肉体的健康のためにも、世界に浮遊する微細な差異を感知することの精神的享楽のためにも、一駅先まで歩いて行くが、陽射しの重そうなこの日はさすがに、最寄り駅への道を取った。身体の前面に付着する熱を抱えるようにして行き、木蔭の坂に入ればさすがに涼しくなって、頭上で木々が鳴るのに合わせて、木洩れ陽によって路上にひらいた円型舞台のなかに、葉の影が入り乱れて蠢動を演じ、葉鳴りの続くあいだ、足もとを水面[みなも]のように騒がせる。駅の階段で、知り合いの老女に会った。足が弱っていて一段を、手すりに頼りながらゆっくり慎重に上って下るその横に就き、ホームに入るとベンチに並んでしばらく話をするあいだ、風が折々東から西へ、横向きに身体を通過して行くのに汗が収まって心地良く、外では青草が明るく照りながら揺らぐ。
 七十八だと言う。電車に乗って帰ってくる小学生らを、駅に立ち迎え続けて幾星霜、こちらも小児の頃によく会ったものだが、始めたのはこちらの叔母が小学三年の時と言うからもう四十数年、五十年にも近くなる。この身の生まれ落ちていままで通ってきた歳月を、その倍とまでは行かないが、遥かに越えて日々、駅に立ってきたのだから、長く、想像の及ばないものだ。この屋根の下にいればわりあい涼しいけれど、日なたがもうここまで寄せてきていますねと、ホームの端に控えめに乗っていた陽の足が、電車を待つあいだに、靴に掛かるほど進んでいたのに気付いて振れば、そうよ、こんな方まで来ますよと老女は答えて、椅子の背に触れた。下りはじめた太陽の余波に、屋根の縁から僅かに覗く北西の青空が、輝きを増しているようだった。
 そのように晴れ晴れと光をはらんだ空が、図書館で書き物に傾注して気付かないうちにいつか失われ、六時前に顔を上げると、フロアを越えて高く立てられた大窓いっぱいに、視線の引っ掛かる余地のない一面の曇り空が、白とも淡青ともつかない色に広がっていた。宵に入って館を去ると、歩廊の上の空気に、植物のものなのか、何かを燃やしているような、ちょっと煙いような匂いが、かすかに嗅がれた。月は五日目、西南寄りの夜空に浸かって、雲を網のように掛けられて、形も朧に、貼り付いていた。