2017/9/13, Wed.

 彼岸花のひらきはじめた時季である。暮れも近い五時から出かけると、林の横を通るあいだに次々と落ちるものがあり、見れば足もとには若緑色の団栗が葉をつけたままでたくさん散らばって、踏み砕かれた実の粉で道に薄茶色が差している。蒸し暑い日で、外に出る前から汗が滲んでいたが、坂では風が丸く膨らんだシーツのように正面から身に触れてきた。ミンミンゼミが木立のなかに、もう時節も過ぎてやはり鈍いようだが、一匹、鳴き残っている。空は一面曇って、しかし雲は薄いようで水色がうっすらと透けて混ざっていた。
 凝った身体を前に押し出す力も湧かず、とろとろとした調子で路地を行くうちに、いつか行く手に陽の色が洩れ出しているのに気がついた。応じて振り向けば、雲を半ば逃れて丘の際から、艶めき燃えるオレンジの塊が光を発している。ちょっと進んでからまた見返ると、背後に伸びて行く細い路地のまっすぐ正面、道の果てた先の空に穏やかになった夕色が溜まっていた。
 駅を降りると、円形歩廊の内に立った街路樹に、例によって鳥が群がってけたたましく騒いでいる。高架通路からは梢が近くて、枝葉のなかに見え隠れする姿の、墨色を基調に茶の混ざって濁ったような色合いのあれが、やはり椋鳥なのだろうか。自然界に本来備わった声というよりは、ほとんど人工的な電子音とも思える渦巻くような質感の鳴きを周囲に撒き散らしているその横を過ぎ、図書館に入って各所を見回った。元々目当てだった金井美恵子カストロの尻』に加えて、以前から気になっていたマリ・ゲヴェルス『フランドルの四季暦』も、取って見てみると読みたくなって、二冊を持って貸出機へと踏み出すと、南の大窓にひらいた黄昏の空が一面、紫色に染め抜かれている。淡く広がっているらしい雲が退きかかった光の色を各地点で受け止めて、西から東にかけて赤から青へと色調を移しながらも、それらがすべて紫の膜に包まれ、統合されていた。

          *

 老婆が自転車に乗って行く。後部の荷物のなかから一本飛び出した、ススキのような穂のある植物。

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 駅、ホーム。正面、線路の向こう、居酒屋の室外機の起こす風に、その前にある雑草が揺れて、手を振っているように見える。歓迎の記号とも別れのそれともつかない左右への傾き。

2017/9/12, Tue.

 蟬の声のもうない坂に、替わりに鵯が盛んに鳴きを降らしている。木下坂を出てからも道端で別の一匹の張り上げるその声が、蟬があたりを占める前、春に聞いたものの記憶よりも、乾いたような、掠れたような風に聞こえた。
 裏路地を行っているあいだに雨が落ちはじめ、すると途端に宙に匂いが浮かぶ。何の匂いとも定かにつかないが、アスファルトなり、左右の家から流れてくるものなり、水気に混ざって膨らむのか、鼻に触れてくる。傘は持たなかったのでシャツを濡らしながら、やや降り増してくるのにさすがに少々脚を急がせたが、ちょっと行ったところで前方が明るみはじめ、振り向けば西の丘の向こうから伸び出た雲の幕が薄金色に、滑らかに染まっていた。正面に顔を戻すと、まだ降るものの残るなか、こびりついた雲に濁った空に、大きく綺麗なアーチを描いて虹が掛かっている。虹など、物心ついて以来見た覚えを思い出せない。進むうちにくっきりとしてきて、森から出てくる端の方は迸るようではないかと見ていると、その外側にももう一つ、いつの間にかうっすらと生まれている。二重の虹を見るのもなかなか珍しい機会だろう。理科の知識はからきしなのでどういった作用かわからないが、外のものは内のものの反転した像なのか、色の順序が反対になっていた。
 労働中にも人々が虹だ虹だと騒いでいて、入口までちょっと見に行くと、虹は見えなかったがもう暮れ六つで西の雲の群れが、火口から噴出したマグマのようにひどく赤々と焼けているのを目にした。夜にも雲は残って、深い青の覗きつつも全体にくすんだ空である。月は気配すら見られず、満月も過ぎてそろそろ昇りの遅い時期だろうが、調べてみるとこの日の出はやはり一〇時過ぎで、ちょうど家に着いた頃に現れていたらしい。途中の小さな辻で、たまには車の明かりでも見ながら歩くかと早めに表へ出たが、と言って特に印象を残したものもない。いくらか蒸して汗の滲む夜だった。

2017/9/11, Mon.

 陽のある床で覚めてしばらく、窓辺に留まっていると、ミンミンゼミの生き残りが一匹、遠くからかすかな声を伝えてきた。食事中、外の林に風の音が起こる。風呂場で身を屈めながら浴槽を擦っている最中にも、飛行機が来たかと一瞬錯誤するほどの唸りが耳を通り、その風に運ばれたか、三時頃には雲の多い空になっていた。
 坂道で聞こえるツクツクホウシもさすがにもう大方は独唱となり、せいぜい二匹で声を重ねるくらいである。空は全面に雲が掛かったその上に、襤褸切れのように細かくほつれたものやら、滑らかに筋を成して通るものやら、秩序なくさらに重なって、夕陽の気配はどこにも見えない。裏道に入ると、町を縁取って伸びる森に蟬の声が、まだ思いのほかに残って泡立っていた。風は昼より衰えて走るほどではなくなっているが、東から、と言うのは正面から、滑ってくる。あたりはまだ暗いでもなく、どちらかと言えば明るさが残っている風なのだが、それでも平坦な宙の色に暮れが滲んで、夕方が早くなったようだと感慨を得ながら歩いていると、じきに西の、雲の弱い地帯にうっすらと、太陽の色が洩れていた。
 夜に至ると風はほとんどなくなって、道の空気は緩く微動するのみ、雲に閉ざされ月を呑みこんだ空の下で肌が生温い。しばらく歩くと鼻に当たる感触があり、気のせいかと窺っていると雨が散りはじめたが、それで確かな涼しさが流れるでもない。降るというほどに増さないうちに、いつの間にやら消えていた。表から裏に入ったところで、木立のなかから赤子の泣き声が立った。なかからと聞こえたのは錯覚で、大方近くの家から出たものか、あるいは樹々の向こうの道を子供を連れて散歩している人でもいたのかもしれないが、今までそこで赤ん坊の声など聞いたことがないから少々気味の悪いようで、まさか心霊現象かと馬鹿を思いながら振り返り振り返り行っていると、ようやく吹くものが吹いてきた。渇いた喉に水を与えるように、肌に冷涼で快い風だった。

2017/9/8, Fri.

 端々に陽の色が覗きながら空には雲も多くて、晴れと曇りの移り変わりの素早い昼だったようだ。雨を思わせるほどに薄暗む時もあったが、午後も深くなって出た頃には晴れ間がひらいてその気配も失われていた。風が、吹くと言うほどではないが途切れずよく流れて、明確な清涼感が肌に生まれる。同時にしかし、歩いて行くうちにいくらか汗をかくだろうと、そのように予感させるほどには気温もあった。
 背後で太陽が、雲の縁にちょっと覗いて、緩い下り坂になって伸びて行く街道の先に、夕陽色が見える。建物の頭を浸して、さらに先では丘の上空に湧き並んだ雲の、上部の盛り上がりをも白く明るませている。横断歩道に止まって西空を横から見た際には、太陽をふたたび裏に収めた雲の、向こうから照らされて青く籠って、沼、との語が覚えず頭に湧いたが、そう言うには暗み澱みが足らないと、道を渡って背を向けながらすぐに打ち消し、では何かといってぴったりと来る比喩も浮かばなかったが、ともかく水の意味素をはらんだ雲の、大きな体を白っぽい橙に縁取られているのが眼裏に残った。
 その後しばらく夕日影の途絶えていたが、路地の後半に掛かって陽が、落ちていくところで今度は雲の下端から顔を出し、先ほどよりも濃い橙色[とうしょく]の通りに渡って浸透し、こちらの影がまっすぐ長く、尖塔のように正面に伸ばされる。アスファルトに陽射しが染みて色が混ざり、朱と青のどちらが優るでもなく半端なようでもあるが、何とも言えぬ精妙な風合いを醸し出していた。道の終わりに至って気づいてみれば、まだ風が流れている。道中も、ほとんど止まる合間はなかったのではないか。
 夜になっても風の流れは残って、空気は涼しさを増していた。身体の各部に疲労感の凝[こご]っているのに、脚もあまり大きく出ずに、ゆっくりと行った。何かの拍子に晴れた夜空に目が行って、月はと見上げて振り向けば、昇りはじめてまださほどでもなく、東の空に掛かっている。昨日一昨日あたりが満月だったようで、早くも右上が隠れはじめていた。
 自分にあって何からも離れているという自由の充足を与えてくれるのは結局、いずれ始まりがあり終わりがある移動の内だとはしても、道の上をただ歩んでいるその時間のあいだのみなのだろう。いくら目の前のものばかりを見据えようとしたところで、人間所詮はいつの間にかないものを、過去を未来を考えてしまう。考えようとも思わずに、頭が勝手にそちらに流れている。それでもしかし、この時間しか、この一歩しかないという一瞬が、繰り返される歩みのうちに稀に宿ってくるようだ。
 雲は南にいくつかまだらに浮かぶのみで月もまだまだ肥えており、青々と深まった夜天だが、光がいまだ西の端まで届いていないこともあってか、不思議と澄んだという感じは受けなかった。裏道に入ってまもなく、頭上のひらいて月を向かいに戴く場所でふたたび見上げると、透明感を帯びて澄んだというよりは、詰まって充実したような空に、何度も塗り籠められたような群青の、重い艶をどこか含んで液体めいた質感だった。

2017/9/7, Thu.

 昼日中から薄灰色に沈みきって既に日暮れのような雨もよいに、室内もよほど暗んで、コンピューターのモニターが目に悪いほどになる。窓の内からは降っているともいないとも定かにはつかず、音もなく、ただ霧っぽい白さが湧いているのを見ていたが、夕刻を迎えて外に出ると、郵便受けの上に雫が溜まっていた。傘を持って坂に入ると、鵯の張る声が瞭々と通って、よほど衰えた蟬の声に取って替わりつつある。坂を出際にミンミンゼミの鳴きが一つ追ってきたが、上がらぬ気温に生気の鈍ったような、低く這うように間延びして勢いのない声だった。
 風はない。しかし温くはなくて、と言ってとりたてて涼しくもない。湿り気を含んだ空気が、柔らかく安々と肌に馴染んでくる。路地を行くあいだの百日紅には、主として目を向けているものが三本ある。初めに当たるのは、街道から一度垂直に折れて進み、裏路地に入る角をもう一つ折れる間際の家の抱いたもので、近頃は萎えているようにも見えたが、この日は色を薄めた花の端に、新しい紅色が咲き継がれているのを見つけた。路地の中途の一軒に、低い塀からちょっと顔を出しているのが二つ目で、これはほかの二本よりも紅色が強く、極々小さな細い木で花も多くはないが衰えを知らず日増しに充実するようで、この日も目を向けると思わず驚くほどに赤々と、水を吸ってなおさら色濃くなったか、湿った空気のなかで目覚ましいほどに鮮やかだった。もう一本は、裏道の合間に直交した坂を渡ってすぐの家の、これはなかなかに高くすらりと伸びた木だが、今年は早めに枝を落とされて以来奮っていない。
 帰路には雨がややあった。大した仕事でないのだが、労働というものはやはり疲れるなと、疲労感によって精神のひらかず狭く縮こまったようになっているのを感じながら行く。傘を打つ雨の音というものを、久しぶりに聞くような気がした。道中、周囲から盛んに鳴き寄せてくるのは、青松虫というものらしい。高く澄んだ声で、遠く聞いては鈴虫の音とも紛らわしいようで、今までそれと思っていたなかにもあるいは聞き違えがあったかもしれないが、後者に比べると青松虫は屈託なくまっすぐに、群れで堂々と鳴き盛るのではないか。鈴虫と言って思い出すのは家の近間から最寄り駅へ続く坂を夜通る時に聞こえるもので、そこに漂うのは輪郭の周囲に光暈めいた余韻をはらんだ音色であり、狐火を思わせて繊細に震えながら樹々の合間の闇の奥に見え隠れする控え目な声である。精妙な揺らぎのうちに金属の擦れ合うような感触もより強い、あれがまさしくそうなのだろう。
 雨はじきにほとんど降り止んで虫の音の方が高くなり、またもや作句の頭が働き出したが、今回はうまく形にならなかった。街道を行く車が途切れると、道の左右からふたたび、青松虫の声が湧き出て鳴きしきっていた。

2017/9/5, Tue.

 昼、鈴虫が、窓の外に鳴いている。気温がやや高戻った日で、蟬もいくらか合わせて鳴いて、夏の虫と秋の虫の声が両方入り交じる。季節がちょうど、跨ぎ越されている頃合いらしい。昼過ぎにベランダに出ても、曇天を透かして暖気が漂っており、その後、室内にもミンミンゼミの声が定かに届いた。
 暮れの近い道にはツクツクホウシがよく鳴いて、跳ねるような声が林からいくつも飛び出して来る。ミンミンゼミは遠くかすかで、気づいてみれば蜩は一体いつの間に消えたのか、まったく声が聞こえない。曇った空に煤煙めいた薄灰色の雲が重なり、ともすれば雨の落ちてきそうな天の色だが、のちには汗が背を転がったほどの蒸し暑さで、涼気の気配のかすかにも感じられないので、これでは降らないだろうと読んだ。街道を行っていると車の騒音の合間に鈴虫の声が漂って、それを聞いて過ぎると自ずと断片的な単語がいくつか浮かび、それらが五七五の音律の内に不完全ながら組まれはじめて、作句の頭が駆動しはじめた。珍しいことだ。和歌俳句を読みつける身でなく、今まで読んだ集の数も両手の指を辛うじて越えるに過ぎない。作りつける身ではさらになく、あれももう二年以上も前か、正岡子規を読んだのに触発されて試みていた一時期があったが、ひどく拙い児戯のようなもので、数としても六〇か七〇かそのくらいで途絶えたはずだ。それが久しぶりに、頭が句を拵えたくなったようで、道中そちらにばかり気が行って周りの物々もあまり目に入らなかった。
 裏通りへ入ってきた男子高校生の三人連れの、スマートフォンか何かで垂れ流している音楽が、ヒップホップと言って良いのだろうか、重い伴奏の、野暮ったいような気怠いようなラップ調のものである。周囲に女子高生もいるのを構わず猥雑な詞のそれが撒き散らされるのに、こちらは鈴虫を句に乗せようなどといくらか風流ぶっているのに、そう闖入されてはまるで風情がないなと苦笑を禁じ得なかった。それでも彼らが遠ざかってしまうと、また考え出して、言葉が頭のなかで取り上げられては置き換えられ、回される。結局、歩くあいだには仕上がらず、職場に就いて働きはじめる間際になって一応の格好に固まった。
  鈴虫を聞いて傾くひぐれかな
 行きには聞いてこうして詠みもした鈴虫が、夜の道に鳴きしきる声の内には意外と聞かれず、よく聞こえるのは蟋蟀ばかりらしい。月の記憶がないのは、出ていれば気づくはずだから、この日も昨日に続いて曇天の暗夜だったのだろう。曲がりなりにも拵えはした一句を、これで良いのかと相変わらず頭に回していたらしく、やはり周りの物らに大して耳目が行かなかったようだ。

2017/9/4, Mon.

 林から湧き出す蟬の音の、薄く疎らな七つ時に発ち、坂に入ればそこでも虫は退いて、鳥の声が替わって落ちる。木立のなかをいっぱいに占めていた蟬の覇権も、そろそろ終わりに近い。曇天を頂いて、冷たさに結実するほどでないが、かなり秋めいた涼しさが肌を擦った。裏の入口、角の家の百日紅は、やはり色味が褪せて果ても近いかとも見えるが、百日続くとの由来の通り、ここからまた衰えながらも咲き継ぐだろう。道中、ほかに見かける濃い紅のものは対して、ますます締まって色を強くしているようにさえ映る。
 週日の頭、じきに夕刻に掛かる頃合いに、それぞれに帰る人らで路地の往来が多い。こちらと同じく駅に向かう高校生が道の奥に遠のき、向かいからは次々と、ランドセルを背負った子らが現れて過ぎる。森から蟬の音の、ほとんど伝わってこないようだが、しかし丘に広がる林のすべてがそのもので震えているように覚えた先の晴れ日から、まだ一週間も経っていないのではと思われた。駅の近間まで来て、久しぶりに寺の枝垂れ桜に目が合ったのは、薄く渋いような、年寄ったような色に気づいたからだ。改めて見れば周囲の樹々もいくつか、老いの風合いを仄かにはらみはじめていた。
 折口信夫死者の書』を読みつつ電車に揺られているあいだ、ただ一度のみ、西南の空から陽が洩れて、身体の脇の席の仕切りにかすかな明るみが差したが、直後に駅に入り、また屋根の下を抜けるともう消えていた。立川のビルの合間からは、平たい曇り空が覗く。歩道橋に出ても左右の果てまで全面白く、襞も窺えずなだらかに延べられており、吹くほどの風もなくて街路樹の端が揺らぐのみである。
 松本圭二が復刊したと聞いて書店にやって来たのだが、インターネットで目にした画像を念頭に、詩の区画に行けば平積みだろうと思っていたところが見当たらず、見れば棚に一冊ずつしかない。誰かに取られないうちにと三冊とも確保してから、店内の諸所を回って長々と時間を使った。文芸も哲学も気に掛かるものはあるが加えて買うに到らず、珍しいことに漫画を開拓してみるかと派手派手しい一角に入って、とは言っても漫画というものを読みつける身でなく、事前情報もないので棚から手当たり次第に取り出しては表裏を眺めて、直感的な興味でもって二作を決めた。
 出ると七時である。モノレールの駅の下の暗がりを広場に抜けると、駅正面の、人々の影が左右に蠢く通路を横から越えて向こうにビルの灯が浮かぶ。けばけばしいような色に様々飾られた窓の建物がしかし平板で、こちらも黒くて平たい空とともに描かれた書割のようで、大きく立ち上がってはいるのだがどうも実在感がついて来ず、模型のようなとさらに連想が流れて最後に、まるでミニチュアの都市のなかに入っているようなとそこに至って比喩が落着いた。駅舎に入れば雑踏の話し声と足音が反響してざわめき、空間を煙いように満たしている。ホームから見上げた宙は黒々として、あれは立体駐車場か、駅に接して聳えたビルの、側面に階段か何かついているのか影に遮られたその奥の殊に暗んでいるのが、蛍光灯の光と前髪の向こうに見えていた。
 最寄りへ来ても暗夜のままで、月はそろそろ望のはずだが位置を知らせる薄靄すらなく、空は均一に静まっている。しかし暗色のなかにもかすかに澄んだような、さやかな調子が見て取れるのは、光が雲の裏に渡っているしるしだろう。秋虫の音は林中に満ちて、木の間を出てからも道に添ってついて来る。水のように豊かに、溢れている。

2017/9/2, Sat.

 四か月の赤子を連れて兄夫婦の遊びに来た休日、寿司など取り、またほかにも卓の上や狭しと諸々並べて豪盛にやったあと、たらふく詰めこんだ腹を助けに散歩に出た。既に一〇時が近かったはずで、半ズボンから露出した膝のあたりが肌寒い。虫の音の満ちる夜気に涼んで気楽にゆったり歩いていたが、上り坂に掛かったあたりから、足取りがさらに丹念なようになってきた。一歩を重く、厚いように踏んで木立の脇を行っていると、表の方から囃子の楽が伝わって来る。九月初めの土日は、土地の神社の例祭に当たる。ごく小さいものであり、この夜は前夜祭に過ぎないが、それでもなかなか賑やかに鳴らしているらしい。
 すぐそちらには折れず、そのまま道に沿って裏を進むと、家並みの合間の通りの宙が大層暗くて、空にもどす黒いような雲が蔓延っている。見上げていると僅かな雲間に、小さく圧された月がちょっと現れ、すぐにまた吸われて一片の痕もなく消えた。表道を来た方角に折れて行きながら、やはり足が丹念に、そのあまりほとんど慎重とも言うほどになっている。顔は動かぬままに目は左右にあちこち移り、耳も近くへ遠くへ張っている。何をやっているのかと自分で訝しみ、何かを待っているような、と思った。待つとすればやはり、何がやはりなのか知らないが、啓示をだろうか。顕れを、真実などと大袈裟なことは言わないが、何かの開示を待っているかと思い、そうかと言って無論何が顕れてくるでもないが、振り仰いでみると月が白々現れている。見る場所角度で随分空の模様が変わると思っていたのは、雲の動きが思いのほかに速いようだった。
 階段に赤提灯の連なった神社の下まで来ると、坂上から威勢の良い囃子の奏と、呼応する叫びが飛んでくる。太鼓の音というものの、これほど耳を楽しませたことも今までなかったようだ。屋台も見えたが、金も持ってきておらず、一人で祭りの柄でもない。素通りして黙々と歩き、地区の端から裏に戻って下り坂まで来ると、月がふたたび掛かっている。望も遠くない。黒々と粘る雲を物ともせず、抵抗を受けずするすると、事も無げに泳いで行く姿を木の間に見上げつつ、下りて行った。

2017/9/1, Fri.

 遅く起きた午前、窓には青々と、偏差なく晴れて一筋の乱れも見せない空が映るが、もはや夏の空気でない。窓辺に風のするすると、湧き水めいて流れこみ、時折身体の上でうねるのが起き抜けの肌を震えさせた。秋晴れの空は昼過ぎから曇り、道に出た夕刻には全面隙間なく、雲に覆われている。色と明度の差のみで襞もなく、ひと繋がりに推移して区分の曖昧な雲の膜である。坂を行くあいだ、蟬の声がまったく聞かれなかった。
 まもなく雨が落ちはじめたが傘を取りに戻るのも面倒で、降り増さぬようにと願いながら行く顔に、風に乗った粒が掛かってシャツにもぽつぽつ染みを生む。その風がしかし、湿り気の重さはなくて肌に柔らかいようで、となれば雨は増さないかと、当てずっぽうの天気読みだがそう思って行けば、確かにじきに消えた。裏に入る間際で見上げた百日紅の、澱んだ白さの曇天に枠取られてか、紅色の褪せていくらか衰えたように映った。路地をしばらく行ってからもう一度見上げるとしかし、灰色混じりに白いなかにも行く手に青みが透けていて、雲はそれほど厚くないようではあった。
 勤めのあいだに一時降って帰る頃には止んでいたけれど、電車と一度固まった気分が変わらず駅に入った。最寄りに降りると夜空は暗んで、海底から見上げたように闇の濃く張って包みこむなかに、かすかな靄の、たった一息のみ吐かれたようにくゆって、あそこに月があるなと辛うじて見分けられた。坂には風が吹き、周囲の樹々が絶えず揺らされ、地に落ちた影も応じてざわつく左右から、鈴虫のようで繊細な震えを帯びた鳴き声が余韻をはらんで伸びる。林のあちこちに楽器の仕掛けられていて、通る風に感じて奏でられるかのようだった。

2017/8/31, Thu.

 曇り空のなか東南の、市街のあたりの空に灰色の雲が重ねられている。各々引かれた段の滑らかに混ざらず区切りの明瞭な、子どもの拙い手で雑に塗ったような雲である。街道に出ると、排ガスの臭いの混じった風が湧くが、流れるものに湿り気はなく、むしろ乾きの感触が感じられた。風が止まれば涼しくもなく温もるでなく、中性的な空気で、そのなかをくぐって行くと、裏に向けて折れたところで雨に濡らされた百日紅が、枝を撓らせて重そうに垂れている。
 気温が落ちて、林から伝わってくる蟬の音が薄い。日中も室内にいて聞こえたのはミンミンゼミの弱い鳴きのみ、思い返してみればこの往路の初めの木下坂でも、耳には入っていたかもしれないが、聞いた覚えがない。行く手の空には曖昧な青さを裏に灰色雲が浮いており、遙かな下端には帯状のものが沈んで、背後から反影されて山がもう一つ拵えられたかのようだった。右手、南に行くにつれて群れは数を増して湧き乱れ、そのまま振り向くとこちらには、凄まじい大きさの、巨砲のような塊が突き出しており、先端のあたりはちょうど西南の空が僅かに陽を受け容れて白んでいるから、余計にくっきりとその巨大さが際立つのだった。
 勤めの済んだ夜、雨は降らず、横断歩道を渡りながら見上げるとちょうど、ビルの縁で月が闇に吸いこまれていく。空気に確かな涼しさが生まれていた。不要の傘をかつかつ突いて、足音の合間の合いの手のように鳴らしながら行く。道に虫の音のひとときも途切れず、どこにいても必ず添ってきて、和声も旋律も拍子もなくただ種々の音の重なりが生むその抽象音楽を聞くうちに、いつか路地が尽きていた。
 濁った空に遮られながらも光は渡って、露わな青さが雲をもまとめて浸している。上弦を過ぎて厚くなりかけている月の、雲を逃れれば殊に明るくて、くっきりと張って艶を帯びながら照っていた。道の終わりに木の間の坂に入ったところで、奥から風が湧き出して、その厚く柔らかな流れのうちに包まれると、行き先の不明な感傷と身内をくすぐる官能とが綯い交ぜに生じて、思わず顔を歪めていた。こうした不意の感応も、もう何度も経験してきて馴れたもので、まだ馴染みのなかった頃のような忘我の強さはもはや訪れない。身を震わせる官能の瞬間をも逃さず観察し、細かく解析して言葉に変えようという病のような理性が勝るらしい。常に言語を忘れることのできない肉体に、とうに変わってしまったのだ。そんなわけでこの時も結実はしなかったものの、しかし恍惚の芽はあり、ほんの仄かなものではあるが涙の気配も香ったらしい。坂を下って行きながら、ヘルダーリンが妹宛ての手紙に書いた言葉が自ずと思い起こされた。一七九九年七月のもので、曰く、「もしぼくがいつか灰色の髪の毛を持つ一人の子供になるとしても、きっと春と朝と夕暮れの光とは毎日、まだいくらかはぼくを若返らせてくれることだろう」と言う。

2017/8/30, Wed.

 七時台に一度覚めても、前夜と変わらず鈍い痛みが顔の奥に居座ったままだった。出先に長く留まって活動してきた夜など、頭痛を起こすことはしばしばあるが、眠りを跨いでも痛みが抜けないのは珍しい。ひとまず起きて、効くかどうか疑わしかったが風邪薬を飲み、食事を取るとふたたび眠った。正午を越えて意識が戻ると経過は良好、気怠さが薄くなごってはいたものの、忌々しい鈍痛はほとんど消えていた。風邪にしては喉の症状がまったくないので、花粉の影響で一時的に鼻炎を生じたのではないか。
 体調も戻ってアイロン掛けをこなしていると、暗く閉ざされていた空に雨が始まり、にわかに搔き降って一時はテレビの音も聞こえないほどだったが、すぐに衰えた。しばらく秋虫の声のみが聞かれていたが、広がった静けさの奥からじきに蟬の音が戻ってきて、雷も遠く伝わってきた。出かける頃にはほとんど降り止んで、坂を行けば枝葉に溜まった水がぼたぼた降って肩に水玉模様を作る。湿り気をふんだんにはらんだ風が肌をべたつかせ、髪の奥まで痒いようになる。薄くせせらぎめいた蟬声を聞きながら裏を行くうちに、雨がふたたび勝って傘をひらいた。
 この日は鼻水を垂らすこともなくつつがなく勤めが済んで、出ると途端に虫の声が耳をくすぐる。風も吹かず、動きというほどのものもなく、虫の音のみに彩られて静寂を湛えた夜道を伏し目がちに歩いていると、意識が暗がりの内へと溶け出すかのようで、心地良い夜だった。傘を差すと、細かな雨音がそこに加わる。暗夜に雨の線も見えず無頓着に行くうちにいつか、思いのほかに降っていて、粒は大きくないがじきに繁くなり、雨に濡らされた上から電灯を掛けられた百日紅が、紅色を変じて鈍い橙を発していた。
 妙なもので雨音の内に、祭り囃子の太鼓を聞いた。すると歩道の脇を流れる水の音にも、木魚のようなクラベスのような、木製の鳴り物めいた響きが含まれはじめるが、いずれ陰気な祭りだ。坂の上から望んだ空は霧混じりの仄白い闇に塗られて暗い。下りて行くうちにふと、傘の裏に視線が嵌まって、微生物のような細い曲線状の光が無数に演舞を繰り広げているのを、黒い生地を透かして見つけ、目を奪われた。表面に付着した雫の縁を、微細な光が辿って滑り回るものらしい。原始の生命体を思わせるその蠢きに惹かれて目前ばかり見つめていると、目に映る像が途切れ途切れのスローモーションのようなぶれを帯びてくる。凄い凄いとただ喜んで足もとを顧みない、ひとときの童心の回帰だった。

2017/8/29, Tue.

 誰が依頼したのか知らないが、昼頃から人足の出張る姿が近所に見られて、こちらが出かける頃には仙人草の群れは完全に駆除されていた。毒を持っており、触れると皮膚炎を生ずると言う。その草のことを知ってから改めて歩いてみると、道端に生えているのをいくつか見かけ、これでは子供などが知らずに触って苦しむこともあろうと思われた。坂では蟬の裏から、短く高い声が落ちる。鳥の声というものを、随分と久しぶりに聞くような感じがした。
 裏路地は全面に陽が敷かれて、避けようがない。出発の前から汗をかいていたところに肌が尚更濡れて、鼻水もやたらと出て、鼻をすんすん鳴らしながら行く身に、眩むと言うと言い過ぎだが、どこか不安定な調子があって、このままくらりと倒れるのではと久しぶりに過ぎった。不安障害の残滓と言うべき大袈裟な思考で、症状が重かった時期にもそう思って実際に倒れたことはない。しかし陽の重さに、道は長くなる。そう思うと、かえって急がず、長さに身を委ねるような心地になる。のたりと歩きながら、険しい顔をしていたようだ。
 働くあいだは終始鼻水に難儀させられた。粘りのない、ほとんど水のような液が止まらず、マスクの裏で垂れ流しとなり、ハンカチやティッシュをしばしば顔に当てる。鼻を吸い続けたために空気を呑んだのだろう、どうも身体がおかしくなって、熱を持った感じもあり、風邪のようでもあるが、花粉が飛んでいるという話も前日聞いた。終える頃には大層疲れ、頭痛もあったが、前歯の神経が疼くのが煩わしかった。
 電車に乗って降りるとホームをまっすぐ辿った正面、西の空に赤味を帯びた半月が浮かんでいた。坂には鈴虫のものだろうか、鉄琴めいた澄んだ鳴き声が余韻を残して長めに伸びる。忌々しい歯の疼きを感じながら下りていると、目の前を素早く通過して落ちる葉があった。暗がりで色も定かに見分けられなかったが、重みを持った速さからして実がついていたのだろう、その勢いは飛び降り自殺を思わせた。
 頭痛のために書き物をする気力も湧かず、風呂を済ませたあとは鈍い刺激に耐えつつ書見を続けて、二時前には床に就いたが眠れなかった。頭というよりは鼻や目の奥、顔の内部で虫が動き回っているように痛んで、目を瞑っていると殊に痛みが迫り、中身をそのまま取り出して捨てたいというほどに消耗させられた。何とか寝付いたのは結局、四時を迎えた頃だった。

2017/8/28, Mon.

 温もりはかすか、腹のあたりに寄ってくるものの、全体に涼しげな朝の街路である。表から裏へと折れてすぐ、盛りの百日紅の紅鶸色が家と家の合間に差しこまれているのが道の先に覗き、通りざまに横から見上げると、鮮色の満ち満ちたなかにまだひらいたばかりのものなのか、淡く控え目な花弁が混ざっている。道中、ほかにもところどころで、丸くふくよかに盛っているのが見られた。
 朝の早きに、森から届く蟬の声がまだ心なしか弱いような気がする。空は雲がちで白波が長く湧いたようになっているが、眩しさも含まれており、高い所まで見上げることはならない。暑さはなくて、起伏なく穏やかで、清潔な空気だった。駅前に入ると陽がかすかに洩れだしたが、圧はなく、温もりもほとんど感じられないような軽さだった。
 朝からと思ったのは勘違いで、この日から労働は夜番、来たままにとんぼ返りをすることになった。散歩の時間が取れたと考えれば、悪くはない。帰り道の足もとには薄影が浮かび、既に歩いてきて血が巡っているためか、行きとは違って暑くなり、汗も滲んで背を伝う。体感による錯覚とも知れないが、蟬の声も、行きよりも強くなったような感じがする。家に続く下り坂の終盤、近所の家並みが眼前にひらくと、青々と深んだ緑色の広くを占めて優勢ななか、林の縁に一本闖入した百日紅の、はぐれ者の赤さが殊更目を惹いた。
 午後の遅きに再度出勤する頃には晴れて風が湧き、玄関を抜けると近間の樹々が音を立てて靡いている。肌に沁み入る陽の感触に、液体じみた、と久しぶりの比喩を思いながら行くと、裏道に届く蟬の合唱も泡立ちが細かく密になって、森そのものが全体で揺れ、立ち騒いでいるようにも聞こえてくる。視線を上げれば鮮明な青さに、手で柔らかく丸めたような雲が浮かんで、やや盛り上がった上部の縁は殊に白く明るんで、確かな形と量感を成していた。
 夜道を歩いて帰るのも久しぶりのことである。もうよほど秋らしく、種々[くさぐさ]の虫たちがてんでに鳴き乱れるなかに、露の溜まった葉が揺らされて雫の一挙になだれ落ちる瞬間を思わせるものや、室外機の駆動音のように鈍く持続するものやらが聞かれる。カネタタキも、そこここで鳴いていた。鉦の打音に喩えられるあの短く詰まった鳴きを聞くといつも、尾崎放哉がこの虫のことを随筆に記していたのを思い出す。正確な文言は覚えていないが、地の底から遠く響いて来るような、などと言っていたはずだ。共感とともに思い出すのではない。凡庸とも言えるほど愛想なく単調に鳴き重ねる実際の声を聞いても、放哉の抱いた暗鬱な、いくらかおどろおどろしいようなイメージをどうしても引き出すことのできない、その差の故に思い出すのだ。
 道の最後の下り坂に入ると、足もとに浮かんだ影が濃いように思われて、それは勿論電灯の生んだ影だが、月はとそこで初めて見上げると、雲が混ざっているらしく、くすんだ色に広がったなかに姿は見えず、星もない。と言って暗むでなくて明るい空に、暦を読んでいないからいまどのあたりか知れないが、月はそう遠くはないようだった。家に入ると居間の気温計は三〇度、かえって昼間よりも夜の室内のほうが暑いようで、更けても蒸して汗ばむ夜が続く。

2017/8/27, Sun.

 起き上がって枕に腰を乗せた窓辺に、細い湧き水のような、清潔なそよ風が流れ入る。陽の明るさに布団を干し、もう晩夏だが今年初めての西瓜など食べたのち、四時になって家を出た。すぐ傍の駐車場の脇から白く小さな花が咲き群れて、地から伸び上がり柵にまで絡まって嵩んでいるのをこの日初めて気がついた。十字にひらいたなかに毛を生やした細い四弁花が密集して厚く膨らんでいるそれの、あとになって調べたところでは、髭になぞらえて仙人草と言うらしい。過ぎて坂の入り口、若い青緑に染まった団栗が葉についたまま散らばっているのを、ぱきぱきと踏み鳴らしながら行った。
 街道から裏に入らず、車の音を伴連れにそのまま表を歩いていると、ある家の庭内に、周りよりも高い樹冠にピンク色の花が集まっているのに行き会った。百日紅かと一度思いながらも、花の量感にいやと疑ったが、過ぎざまに横から見やればやはりその花である。梢から放射状に連なる花の隙間なく豊かで、縮れが目に入らなかったらしい。裏路地で見かけるものよりも、紫の色味を強く含んだ花だった。
 車はほとんど途切れず流れ、このような田舎町でも、と人の多さを思ったが、たまに間が空くと家々の向こうから、シュワシュワと鳴る蟬の音が静けさのなかに入ってくる。空は曇って陽の姿は見られず、行く手に混ざった雲の縁が細く白んでいるのに辛うじてその気配が現れるのみ、頭上は煤色が広く占めて、雲というよりは、色彩だけが純粋な性質として物質的な実体を持たずにそこに浮遊しているような感じがした。湿った空気に服のなかがべたつくが、風に汗が涼みもする。
 電車が発ってまもなく、濃緑の樹々が現れて窓が少々暗むと、ガラスのなかに向かいの様子が鏡写しになる。こちらの座る背後の窓のみならず、その外の町並みまでがまとめて影像となって写し取られ、正面の窓の先に突き出して浮かんでいるかのようで、同時に眺めることはできないはずの線路の両側の風景が、一つ所に集まり重なり合って流れて行くその複雑さを見つめていた。図書館ではコンラッド『闇の奥』を返却し、せっかく来たので何か一冊借りるかと文庫本の棚を探っていると、折口信夫死者の書/口ぶえ』に行き当たり、垣間見た言葉の列から直感的に強く惹かれるものを覚えたのでそれに決めた。出口の一つ目の扉をくぐると外から騒立つ声が聞こえ、遅い夕刻に蟬が随分鳴いているなと思ったところがさもあらず、出れば鳥の群れの騒ぎで、街路樹の梢に夥しく集まって鳴き立てて止まない。薄青く暮れた空を向こうに見上げても起伏のない影となるばかりで姿を見分けられず、種も知れないが、あれがおそらく椋鳥というやつではないか。コンビニで支払いを済ませて出てくると、手近の木から白くて円い小さな羽根が出てきて、煙草の煙が漂うように落ちず緩慢に浮遊していた。

2017/8/25, Fri.

 一週間の労働もこの日で終い、済めば二日の休みが待ち受けている金曜だが、それを思っても気持ちは特段晴れ晴れとせず、気怠いような朝の出発となった。昨日とは違ってこの日は風が走らず、坂に落ちる葉もなく、ただ蟬の声だけがうねりながら降る。街道を越えて裏路地に入る間際、角の家に咲いた百日紅をちょっと見上げた。路地の途中にある一軒の、花の落ちたあとにはまるで枝が短く縮んだようだと先日記したほうの木は、その後見ると実際早めに手が入って伐られていたのだとわかったが、こちらの角のものはまだ触れられておらず、ピンクの飾りが明るく膨らみ、無骨な瘤を隠して小さな屋根のようになっている。
 道に雲が多かったが、隙間もあるようで時折陽が洩れ、そうするとやはり暑く眩しく、視線を上げることもできず俯き気味になって、すれ違う人の顔も空の模様も定かに見た覚えがない。駅の間近になった頃、見える範囲に一人も他人のいない静かな時間があって、角を曲がればすぐに破れてしまったが、それまでの束の間は朝の出勤路でなく昼下がりに歩いているような、気分の広くなる落着きを覚えた。
 今週最後の仕事が引けるとすぐさま駅に入って、電車では扉際に就き、ガラスの外の何でもない雑草をまじまじと見下ろして発車を待った。家の最寄りに曇りは続いており、朝よりも広がったようで陽も射さず、勿論暑いには暑いがそれで蒸すでもなく、三六度まで上がると聞いていたわりに凌ぎやすい大気だった。雲の下の空気は遠くで霞んで、下り坂の途中で木の間に現れた山の、緑が平坦に薄まって空間を埋めるのが瞬時には山とも見えず、林のすぐ外にまさしく壁が立ったかのように映った。そうして出た通りの、近所の家の隣で斜面から張り出すように生えた百日紅の、空中に掛かった薄紅さをやはり鮮やかだなと見て、過ぎてからも振り返り振り返り、何度か見上げながら帰った。