2017/10/2, Mon.

 坂を上りはじめたところで視界のひらいた南を向くと、曇天を背景に黒点と化した鳥の一団の、鳥というよりはむしろ羽虫のように、遠くで小さくぱらぱらと飛んでいるのを見つけたが、空から山の手前に移るとそれらの姿の途端に目に映らなくなった。川を越えた向こう、山の麓の地区からは煙が僅かに湧いて、薄青さが宙にひとひら印せられており、伸ばしていた視線をそこから目前に巻き戻すと、草の上に黄色い蝶が一匹舞っていた。
 生暖かさの空気に籠った昼だった。道中、随所で柿が実っている。青々とまだ若いものを吊るした樹から、かなり熟れて色濃いものをぶら下げたのまでさまざまあって、裏通りの途中ではトマトのように全面真っ赤に染まって破裂しそうな実も見かけられた。空は白く均された上から、遊び回って砂埃で汚れた少年の服のように、黒ずんだ雲を付されてくすんでいる。
 本を読みつつ電車に揺られ、町々を渡って代々木に至り、二月に一度の会合で喫茶店で話したあとに、新宿の書店に歩いて行った。南口付近の広場に出ると、駅舎の上にひらいた空に、雲の先ほどよりも厚くなってやや煙めき、そのなかで鴉だろうか二匹の鳥が、聳える建物の合間を渡る。雨がかすかに散らばっていたが、気に掛けるほどのものでなく、すぐに忘れた。
 書店を回って出ると暮れ方、空は雲に覆われたまま海色に籠ってきており、視界の果てまで太く伸びて行く新宿通りを縁取るビルの、灯りの輪郭が厚く滲んで浮かびはじめていた。CD屋に寄ってジャズの近作を四枚買い、店を出てくるとアオマツムシの声が、僅かに置かれた人工の草木をよすがとするのだろう、この大都会にも確かに降っているのが聞こえた。駅の近間の高層ビルの、建物の合間に高く伸し上がっているその姿を雑然とした路地のなかから見上げると、無数の四角に整然と区切られた各々の窓に、蛍光灯の白さが数本斜めに走り、それが窓ガラスの色か、あるいは室内の壁や天井の地色とうまく組み合わさるのだろう、ビルの一面全体が市松模様に彩られたようになっていた。
 町々を通り抜けて最寄りの駅まで帰ってくると、雨がまた弱く降っており、足もとには雨滴の痕が暗い色で散らばっている。ホームを進みながら視線をちょっと上げると、電車や駅の通路の向こうに広がる空の黒々と、淀むでも籠るでもなくて、かえってすっきりと切り取られたような闇に吸いこまれるようで、黒い空白、と思った。しかし明かりの乏しい坂に移って見上げれば、灰色ではあるけれど実際にはむしろ明るい夜空であり、道の脇に繁った植物の造作も明らかに、葉の形とそのなかにひらいた穴まで見分けられた。鈴虫もいくらか鳴いたようだがこの日は目立たず、アオマツムシの音が圧倒的にあたりを占めて、林のなかに、青緑色に透き通った板か柱か立てられて、絶えず震えているかのようだった。

2017/9/30, Sat.

 木の間に跳ねる鵯の声を耳に坂を上って行き、着いた駅のホームから見上げた空は一面が薄白く、つい先ほど、坂下の道であるかなしかに洩れていた陽射しもいまはもうない。線路を挟んで向かいの道に連れられた犬の、縮れた毛のふさふさとして可愛らしいような顔をしたのが、電車到着のアナウンスが鳴ると途端に盛んに吠えだして、入線してくる車両に向けても威嚇するように哭いて止まらなかった。
 立川に着くと、駅前に溜まっている黒塗りのタクシーの、窓ガラスの縁に沿って光が横にゆっくり滑り、雲の分かれて空には薄水色の顕れはじめている昼前だった。雑居ビルとそれに付随した看板のこまごまとした連なりの下、線路沿いの通りをそぞろ歩きながら揺らめく人々の姿の、淡い空を伴ってまっすぐ遠くまで見通されるのが、気持ちのひらくような一つの風景として映じたようだ。友人と喫茶店で話しているうちに、雲が勝って陽射しは薄れたらしかったが、三時前には外の空気がふたたび明るんでおり、窓の端に覗いた空の白く満たされてはあるものの、艶のような光の触感を帯びていた。
 午後も進むと書店に移り、各所の棚を見回って出ると五時前、落ち行く途中の夕陽がちょうどビルの線上に掛かっており、濃密なオレンジの塊の身を歪めながらも目映く溢れ、背後を向けば並び立つビルが薄布を掛けられたように色づけられて、雲は掃かれてすっきりと晴れた空だった。たびたび横から射しこんでくる夕色を目に受けながら駅に向かい、構内に入ると、境のあたりに佇んでいる托鉢僧の鈴の音が、雑踏のなかでも際立って渡る。
 扉に寄って本を繰っているあいだ、電車の外では下る太陽の西空に広がり、光に巻きこまれた近くの雲が雪花石膏の彫刻めいて固められていた。太陽はもう結構低くて建物に隠れがちだが、時折り手もとに寄ってきて、ガラスに映るこちらの手首を血色良く色づかせるとともに、本の小口を明るませ、頁の表面で瞬間的に、白と薄青の配置を反転させる。降りる頃には暮れた空気のだいぶ涼んで、乗り換えを待つうちに、和紙のような空の青が暗むにつれて寒々として、最寄りに着くと上弦を越えたほどの半月が出て、群青色の空にまっすぐ立っていた。

2017/9/29, Fri.

 三時過ぎの明るい道に赤蜻蛉が舞って、斜面の下からそびえ立つ樹の、道と同じ高さの宙に掛かって臥所のような葉叢の上に、ふっと降りて停まったのに足が止まって、ガードレールのこちら側から見つめていた。弱い風に枝葉がちょっと揺れるくらいでは蜻蛉はまるで意に介さず、翅の位置を僅かに移すのみで、いつ飛ぶかと、予想に反して静まり続けるその姿を眺める身に、横から陽射しが降りかかってやや暑かった。
 淡い青さの染み渡ったなか、出てきてまもない半月の、うっすらと浮かびあがった晴れの午後を電車に乗って、三鷹古書店に着いたのは五時頃のこと、そこから長々と時間を掛けて隅まで書棚を見て回り、六冊を買って帰途に就いた。濃密なような宵空のビルの上に覗く通りの奥から、演説の声が伝わってくる。解散が宣言されたばかりの今次衆院選のものかと思えば、武蔵野市長選のほうで、駅前に出ると湧き流れていく雑踏の傍に女性候補が立っていた。その声を背後に駅舎に入り、ホームに立って本の入った袋を下ろすと、涼しい風が吹いて過ぎる。
 最寄り駅から見上げた空に久方ぶりで月を見て、もう上弦まで膨らんだ姿の凛々しい白さに、清けしという語のまさしく相応しいと自ずから思った。下り坂の入口の電灯のない暗がりのなかでも、道端の植物の輪郭が浮かぶのに月明かりが現れている。もう死んだかと思った鈴虫の音がこの夜には幽かに聞こえたようだったが、ちょうどやってきた郵便局のバイクの音に搔き消されて捉えられなかった。通りに出ると南の空には藍色が澄み、しかし低い位置には雲が湧いて、公営住宅の棟の際まで広く詰まって大陸じみた灰白色の、なだらかな海岸線を挟んでくっきりと分かれ、夜空のなかに即席の陸地と海が生み出されていた。

2017/9/28, Thu.

 前夜は一一時頃、風呂に浸かっているあいだに雨が始まり窓に響きが寄せてきて、深夜に掛けて弱まりながらも、虫の音と競うようにして断続的に降っていたらしい。この日も日中いくらか降ったが、暮れ方に出た道の湿りはさほどでなかった。坂を上って行くと木枝の向こうに覗く空の、真っ白ななかにしかし、色にもほとんど顕れないほどかすかながら確かに夕映えの艶が混ぜられていて、黒く焼きつけられたような枝々の、歩みに応じて流れるその隙間に際立って明るむ。
 鵯の引き絞られた声を耳に街道に出ると、空は青いが晴れ晴れというのでなくて、雲の溶かされて穏やかな淡い青さが頭上にひらき、東の低い一帯のみが、雲の厚みの差異なのか距離の問題なのか知らないが、ある高さを境に白く変わっており、残光のないなかそこに含まれたほんの僅かな色素ばかりが、太陽の残滓を辛うじて嗅がせる。湿り気の重さのなくて肌に馴染んで軽い空気に、この分では雨はもう降るまいと読んだが、これは外れることになる。裏路地のなかの一軒の前で、それまで遠くから伝わっていたアオマツムシの声が、突然高まってすぐ頭上から降ってきた。極小の金属片のちらちらと煌めきながら宙を舞っているような、粒子のように細かく連なって光るのが目に見えるような音だった。
 予想と違って勤めのあいだに雨が降り、出るとほとんど止んでいたけれど一応電車に乗ったところが、降りた駅ではふたたび始まっていた。坂道に鈴虫の音が漂わないのに、もう死んでしまったのだろうかと下りて過ぎ、傘もないので濡れながら通りを行った。大した厚さと勢いでないが顔に降り掛かってくるものを俯き気味に受けていると、シャツにぽつぽつと、水の痕の重なり広がっているのが目に入り、するとまるで病に冒された皮膚を纏っているようだなどと、妙に不吉な比喩が浮かんだ。

2017/9/27, Wed.

 坂道の脇の草の間に紅色を差しこむ花々も、彼岸が明けて大方は色褪せ、細い先端をだらりと垂らして天を指さずに萎んでいる。空は一面平らかに曇って、しかし太陽が、西空を見ても白さのなかにその気配すら窺えないが、暖気をいくらか通してくるのか、少々蒸すような感じがあって、ワイシャツだけでも肌寒くはない。
 たまには違う道でも取るかと路地に入らず街道を進み、北にも渡らずあまり歩かない南側を行くが、だからといって特段、普段は見えない印象深いものたちと出会うわけでもない。路上の空気は何か仄暗いというか、一時間余りあとの暮れに掛かる頃のそれを先取ったような感じで、くすんだ色合いがどうも雨の気配を醸し出している。家にいるうちから、風の音の高まって窓に寄せる間があった。排ガスの臭いも漂う街道で、あたりに植物もあまりないのに、どこかの家の小さな草に隠れているのか、車の音の重なる合間をアオマツムシの音[ね]が割って、走行音の満ちたなかにも鳴いて聞こえるものだなと耳を寄せた。
 働くあいだにやはり雨が降ったらしいが、引けた頃には消えていた。駅を降りて来た人らと一緒にコンビニの前に差し掛かったところで、突如として目覚めたようにはっとする感覚が訪れた。今しがたそのなかをくぐり抜けて背後に置き残してきた労働の時間が、陳腐な比喩だが夢であったかのように茫漠とし、本当にあったのかどうか疑わしくなるようで、いつの間にかどこかからここに飛んできたように感じられるこれもまた、前日に続いての離人感の一種だろう。
 夜道に漂う涼しさが時折り肌に寄っては来るが、何か貼りつくようなと言おうか、柔らかく撫でて過ぎる滑らかな快さのそれではなかった。空き地の上に広がった空は東から西の隅まで一様に平板で、何の形も見えず何色というほどの明瞭な色もなく、積極的な意味素の一つも含まずにただあまりにも空漠とひらけている。月はそろそろ落ちる直前のものが見られる頃のはずだが、樹々を吸収する西空の闇に気配すらなかった。

          *

 裏通りから表道へ折れるこちらを車が追い越して行く。テールランプの赤い光が、車の背後に分離して置き残されるように、粒子状になって宙に漂うのは、まだ空気に湿り気が残っているものらしい。

2017/9/26, Tue.

 道にまだ日なたの明るく敷かれている三時半、坂への入り際に、西空から降りかかる露わな陽射しに背中が暑い。上って行きながら温んだ空気に、シャツのボタンを一番上の首元まできっちり留めていることもあってか、息苦しいような感じがちょっとあった。街道に出るとまだ新鮮な、剝かれたような太陽が浮かび、光の空に満たされたその膜に呑まれてあるせいだろう、西の雲は実体を抜かれて純白の空とほとんど同化するほど稀薄になっていた。その下に、トタンのものだろうか小屋のような建物の屋根が、激しい輝きの凝縮に襲われている。
 この日は薬を飲まずに出た。もう四日間飲んでいないが、それで体調に乱れが生じるでもなく、気は怖じず心身はまとまって歩みも落着いている。パニック障害というものを患ってもう八年ほどになるから、考えてみればそこそこ長いものだ。一時は相当苦しめられたが投薬によって回復し、ここ二、三年は日常生活にもほとんど支障もないまでになっていたものの、何だかんだで止められずにいた服薬と、いよいよさらばの時が来たのか。
 長めの労働を済ますあいだも不安に触れられることもなく過ぎて、帰る夜道は風が時折り湧いて、なければ空気は揺らがず止まって随分静まる。そんななかを歩きながら虫の音も大して聞かず、昼間に聞いた毒々しいようなロックミュージックの叫びが頭のなかに繰り返し回帰し、途中で見上げれば夜空には雲間があって星が見え、その傍らを同じくらいの大きさの飛行機の光が通って行く。欠伸は湧いて来るものの、あまり夜のなかにいるという感じもしなかった。深い夜更かしの常態となった生活のせいもあろうが、そもそも自分がいまこの地点にいるということそのものに釈然としないような現実感の稀薄さがあった。前日にも風呂から出たあと髪を乾かしながら、鏡に映る自分の顔の、見馴れたはずのそれであることが不思議なような、腑に落ちないような感じがあって、これは離人感と呼ばれるもののごく薄い症状だろうと思う。ことによると、独我論にも通じてくるような気分のようだが、瞑想を習いとしているそのことがあるいは影響しているのだろうか。仏教における最終到達点であるはずのいわゆる「悟り」と呼ばれる境地など、知ったことでなく目指してもいないが、方法論としては現在の瞬間を絶えず観察し続けることとされており、それには一応従って続けてきた結果、観察する主体としての自己が強く優勢になりすぎたと、そんなことがあるものだろうか。主体的自己と対象的自己の分裂、などとちょっと思ってもみたが、ともかく大したものでなく、単に歳月を重ねて時空が摩耗したのだと、三十路に達せぬ若輩でそれもないものだが、つまりは曲がりなりにも歳を取ったのだと片付けてしまいたくもなる。そうは言いつつも、歩く自分の身体の動きもこちら自身から独立して勝手に動いているような分裂感があり、それを見ながら、狂いの始まりとはあるいはこういうものかもしれないと、また大袈裟なことが浮かんだ。不安障害の長かった余波からいよいよ完全に逃れるかと、昼にはそう思った同じ期に、縁起でもないことではある。しかし続けて、人が狂うという時に、一挙に果てまで発狂するよりも、気づかぬうちに忍び寄られて静かに、徐々に狂っていくものではないかと、そんな馬鹿なことを思いながら玄関の戸をくぐった。

2017/9/25, Mon.

 玄関を出ると正面の林に、ツクツクホウシが辛うじて残って、ただ一匹で鳴いているのが耳に入った。ポストから夕刊を取っておいて出発すると、家の近間の道にも坂にも陽はもう射しこまないが、空気がかすかに黄色いような暮れ方の風情である。街道まで行って西空を仰げば丘の間際に掛かった雲の、焼けるというほどでなく穏やかに色づいて、橙色に暖められたようになっている。日なたも光線もやはりないものの、この日はそれほど涼しさはなくて、ふたたびネクタイを外したワイシャツのみの装いに戻った身体に、温みが生じていた。
 落着き払ったような足取りで裏路地を進むと、ここにも蟬が残っていて、森のなかから跳ねるような声が、玄関前とは違ってまだいくつか重なり合って伝わってくる。歩いているうちに、表にいる間はまだ淡かった東の果ての雲の薔薇色が強くなり、応じて反対側のオレンジ色もいくらか密になって、辻で目の前を横切り下って行く車のガラスに、淡青と夕映えとを組み合わせた空が映りこんで過ぎて行った。
 同僚の一人が肌寒いと言って上着を着ていたけれど、夜になってもやはり大して涼しくもなく、汗を感知するほどでないが肌は温もった。特段の印象もなく裏道を過ぎて、表道で真っ黒な車の脇を通り際、ガラスのなかに夜空とともに街灯の入って隅で光っているのが月を思わせた。空には青さが窺えるものの月の出のよほど遠くなった時期で、もう明けたあとになっているだろうと思ってあとで調べてみると、この日は朝の一〇時だったらしい。入りが九時前、ということはこの夜は落ちてしばらく経っての帰路で、暗夜は過ぎて青みの戻ってきながらも、菌のように雲に侵食された空だった。

2017/9/22, Fri.

 昼下がりには降っていた雨が、午後も深まって道に出た頃には止んでいた。仄白く濁りの混ざって、雨の通ったあとで冷たい空気に、この秋初めてベストを羽織りネクタイも締めたが、捲ったシャツの袖口が肌寒くて頼りないようだった。坂道の脇を縁取る緑の斜面には、彼岸花が旺盛にひらいて隙間を開けずに連なっている。
 空はただ白く広がるのみで、偏差のない一面性のさらにその上に煙色の煤けたような雲が薄く仄めいている。裏通りには通る人も車も多少はあるが、合間には静かな時間が挟まって、そうすると道の先のその空隙の方へと耳が広がり寄って行くようで、応じて心も静まった。周囲の虫の音やら自分の足音やら、地を突く傘の打音やら、立つ物音のそれぞれに次々と耳が移って、よく聞こえるようだった。
 夜にはふたたび、軽く雨が降り出していた。傘の下をくぐって流れる風の、頬を柔らかく撫でて通るのが快く、そのなかにほんのひととき感覚の高まって、何からも離れてその時しかないような一瞬がある。どうせ刹那のものですぐにまた平常の心に戻ってはしまうのだが、それが純然たる自由と、あるいは自足というものだろうか。降りは大したものでなく、雨音の虫の音を妨げるほどでもなく、しかし風があるので胸や腹がいくらか濡れた。傘の裏を見上げれば表に溜まった水滴の発光するのが透けて見え、光の点が無数に、川のようにして移ろい流れるのが、速送りのようにもスローモーションのようにも見えて惑わされる。『After Hours』に聞かれるSarah Vaughanの歌声が頭に付きまとって止まなかった。
 表に出ると雨の日はいつもながら、濡れた路面に車のライトが強く反映されて、この日は殊更にそれが明るい。長年に渡って夥しい数のタイヤに擦られてきたためだろう、アスファルトに作られている僅かな起伏に添って、黒い水溜まりの細く帯状に伸びていて、電球を埋めこまれたかのような強烈な白さでそこを滑って行く光の、思わず熱さを想像させるほどだった。走行音も水を含んで膨らみ、空間を破るような、という比喩を昔もどこかで使ったと思うが、この夜もまさしく破る、という語の相応しい騒がしさである。
 路地に入って光量が落ちると通りの靄っているのがよくわかり、特に電灯の周りは暈のなかが煙っていて、坂の上から遥かに見れば遠くの山も呑まれているが、しかし空には青みも微かに見て取れるようだった。集団で蠢く微生物のような傘の裏の光の踊りをまた見ながら坂を下って行くと、出口でひらけた夜空の、山を消し去って大層暗く、と言って色としては薄白いような感じで黒々と染まった空よりも暗くはないはずなのだが、何かかえって禍々しいような印象を受けた。

2017/9/21, Thu.

 茶を用意しながら居間の南窓を見通すと、眩しさの沁みこんだ昼前の大気に瓦屋根が白く彩られ、遠くの梢が風に騒いで光を散らすなか、赤い蜻蛉の点となって飛び回っているのが見て取られる明るさである。夕べを迎えて道に出た頃にはしかし、秋晴れは雲に乱されて、汗の気配の滲まない涼しげな空気となっていた。街道に出て振り仰いでも夕陽の姿は見られず、丘の際に溜まった雲の微かに染まってはいるがその裏に隠れているのかどうかもわからず、あたりに陽の気色の僅かにもなくて、もう大方丘の向こうに下ったのだとすれば、いつの間にかそんなに季節が進んでいたかと思われた。空は白さを濃淡さまざま、ごちゃごちゃと塗られながらも青さを残し、爽やかなような水色の伸び広がった東の端に、いくつか千切れて低く浮かんだ雲の紫色に沈みはじめている。
 裏通り、エンマコオロギの鳴きが立つ。脇の家を越えた先のどこかの草の間から届くようだが、思いのほかに輪郭をふくよかに、余韻をはらんで伝わってくるなかを空気の軽やかに流れて、それを受けながら歩いて行って草の繁った空き地の横で、ベビーカーに赤子を連れてゆったり歩く老夫婦とすれ違うと、背後に向かって首を回した。夕陽が雲に抑えられながらも先ほどよりも洩れていて、オレンジがかった金色の空に淡く混ざり、塊を成した雲は形を強め、合間の薄雲は磨かれている。歩く途中で涼しさのなかに、気づけばふと肌が温もっている瞬間があったが、あの時、周囲に色は見えなくとも光線の微妙に滲み出していたらしい。それから辻を渡って、塀内の百日紅が葉の色をもう変えはじめていると見ていると、もう終わったと思っていた樹の枝葉の先に、手ですくわれるようにして紅色が僅かに残って点っていた。

2017/9/19, Tue.

 室内に暑気の漂う晴天が続き、この日も三〇度まで上がると聞く。モニターに向かい合って日記のためにメモを取っていると、背後の窓の先から、ツクツクホウシか、ちりちりと低く燻る蟬の声が立って、もうそんな力もないものか、高まらず鳴きに繋がらないままに終わった。洗濯物を取りこみにベランダに出ると柔らかな風が肌をくすぐり、玄関を抜けた三時半にも、林に空気が通って葉叢がさざめいている。伐採はもう終わったようで作業員はおらず、道の脇の林の縁が、石壁の上に土の側面を露出させていた。川の流れは岸の樹をそのまま溶かしこんだような深緑に戻って、ところどころに白波を差しこんでいる。
 雲は前日のように大きく塊を成すのでなくて、薄く引き伸ばされて全体に掛かり、しかし淡いので陽は支障なく貫いて、街道には日蔭のひとひらも生まれず道端から突き出す影もなく、全面に陽を敷かれながら道路が果てまで伸びている。最高気温は下がったはずだが、湿気があるのか前日よりも汗の感覚が強かった。百日紅はそろそろ終わりが近いようで、道中見るものはどれも花が萎んで、老い衰えた姿になっている。尻から下を熱に包まれながら裏路地を行くと、束の間のものだろうが、森に蟬の鳴き声が復活していた。
 疲労感に欠伸の繰り返し湧いて出る夜道、空気はゆるゆると動き回って涼しく、雲は変わらず広がっていて、月も遠い時期で通りが暗い。あたりを満たす虫の音に耳を寄せつつ俯きがちに行っていると、気づかず、白線の上を辿ってまっすぐ歩いており、そうしながらあれはアオマツムシ、あれはエンマコオロギ、ツヅレサセコオロギと、かわるがわるに消えては生じて次々と耳に触れてくる声をいちいち名指して追っているうちに、心が深く静まって、いつの間にか欠伸も消えていた。表道へ折れて左右のひらいたところでもう一度、ちょっと見上げた夜空の、くすんだ雲を掛けられて籠っているのに煙色、と語を当てて、車の途切れた通りを渡り、静かな歩みを続けて行った。

          *

 空き地、繁った草むらの合間に少年。自転車に乗り、猫背になって身体を曲げながらゲーム機を覗きこんでいる。その姿に目を向けながら進むと、視界に西陽が入ってきて、ススキの穂が光に透けて飴色じみた色合いに染まる。

2017/9/18, Mon.

 前夜の遅くには吹き降りになって家がごとごとと鳴らされてもいたが、明けて台風一過、夏がいくらか戻ったように、居間の空気に熱が漂う晴れの昼だった。家の傍の道では数日前から人足が出張って、林から伸び出した枝葉が電線に及ばないようにというのだろう、伐採作業を行っている。三時半頃家を出て、作業員のあいだを通り過ぎ、坂の入口で振り仰ぐと、天に向かって突き立ったクレーン車の長い首の向こうに、大きな雲の塊が広がっていた。
 坂から下方に覗く川の水は、昨日の雨で土が混ざって濁った緑を湛えており、絵筆を浸したあとの筆洗、といつかの比喩を芸もなしに反復する。斜面にいくつも並んだ彼岸花の上を、黒の艶やかな揚羽蝶がひらひら舞って、しばらく歩みに添ってきて、出口に至ると道端の樹から、ツクツクホウシがただ一匹で鳴きを降らしていた。陽射しはあって三三度まで上がると聞いたが、もはや酷暑は戻って来ず、気温は高くても夏の手触りは感じられず、暑気のなかにも涼やかな風味が確かに含まれている。裏路地に入らず表を進むと身体は陽射しに包まれて、陽がもういくらか下ったためか脹脛のあたりがとりわけ熱を受けるが、行く手には低気圧の名残りで濃い鼠色を溜めた雲が浮かび、背後にも大きく広がっていて、太陽は折々に隠される。駅前まで来て日陰に流れたそよ風は、爽やかな秋の涼しさだった。
 夜はさらに涼しく秋めいて、細い裏道を囲む左右の家々から虫の音が絶えず、かわるがわるに次々と、様々な種類で立ち続けて、家の連なりに隙間が空くと森の方からも伝わってくる。途中で一軒の門をくぐって何かの動物が飛び出して、こちらが心臓を揺らされているあいだに道を渡ると、大層な勢いで向かいの柵に突撃し、それを安々と越えてあっという間に草のなかに潜って行った。あまりに素早かったので定かに見留められなかったが、どうも猫ではなかったようなので、狸か何かではないか。斑に雲の掛かった空に藍色のほうが少なくて、暗い道には誰も通らず家から気配も洩れないなかに、虫の音ばかりを聞きながら黙ってゆったり歩いていると、自分が幽霊か何かになったかのような気分が湧かないでもない。

2017/9/17, Sun.

 立川、六時。暮れの青さに浸った空から雨が降り続く。高架の通路から見下ろす道路に連なった車列の、テールランプの無数の赤。ビルの合間や路上に浮遊する光が雨と混ざって、宙空が靄っている。

          *

 夜、最寄り駅、薄雨。電灯の暈のなかで細かな粒が風に流され、光色の宙が布のように襞を帯びて柔らかく撓む。

2017/9/15, Fri.

 風はあまり吹かなかったらしく、その質感の覚えはない。しかし、樹に囲まれた上り坂を抜けると、気温が一昨日昨日よりも一段下がったらしいと、肌に感じる涼しさの確かな夕べの道だった。空気の蒸す感触もなく、街道に出て仰いだ空の、西まで雲が張って僅かな綻びもないのに、今日は陽射しは洩れなさそうだと見た。ちょっと進んで、くすんだ白の上からかすかな青さを被せたような空をまた見上げ、無感情な風なと思わず浮かぶのに、凡庸でありふれた形容であり、安易に情緒を投影するのも良くないと自分で自分に批判を入れたが、浮かんでしまったものは仕方がない。
 裏路地に入るとあたりの家々の敷地から、エンマコオロギの声が立って続く。森を賑わしていた蟬の鳴きは、傍を通る高校生らの声の隙間に耳を澄ましても、さすがにもう聞こえてこない。出かける前から眼にどんよりと疲れが籠り、歩きながらも欠伸が湧きそうで湧かず、半端な眠気を伴って頭の曇った気怠い道行きだった。駅前ロータリーまで来たところで、聳えるマンションに軌道を成型されるのだろう、流れるものがあって、初めて風を定かに覚えた。
 ちょうど職場を出たところで寒くないですかと訊かれて、上着もベストもなしでも寒くはないが、たしかに涼やかな夜気だった。あと少し気温の下降が進めば、肌寒さに転じるくらいだったろう。気怠さが勤労のあとの疲労感を加えられて、重たるいようになっていた。月はまだ東の地平の向こうにあって、夜空がまた暗くなる時期である。街灯の裏で西空は暗み、その小暗さを見据えようとしても、手前の道に連なる灯りの宙に膨らみ目を遮って邪魔臭い。道の終わりの坂まで来ると、いままで歩いて芯は温まっていながらも、風はなくとも涼しさの肌表面に隅まで張りついて、下るあいだに消えず残った。

2017/9/14, Thu.

 普段よりも遅い七時前の出になり、涼しげな空気のなか、坂に入ると既にアオマツムシが木立の方から鳴きしきっている。いつもと違う宵の口の往路に、気分も少々異なって、周囲の暗がりに迫られた視界が狭いようで何とはなしに、現実感が稀薄なようだった。
 男女混ざって四人連れだか五人連れだかの高校生の一団が、何か妙な通話をしている横を抜いて行く。昼間は晴れた青が見え、暮れ方にもオレンジに染まった雲の断片的に漂うのみと見ていた空が、いまは曇りに沈んでいた。裏道を進んでいると、先のグループのなかの二人らしいが、男子と女子がそれぞれ前に勢い良く走り出て、無邪気なように追いかけっこを繰り広げる。その後、別の女子高生たちに何人か抜かされながら駅前まで来ると、椋鳥はもういないようでアオマツムシの声だけが樹から降っていた。
 勤めを仕舞えて建物から出ると、雨が散って顔に触れる。粒は大きめとはいえ降り増しそうでもなかったが、万一濡れてはと案じて電車を選んだ。最寄り駅を出て坂に入ると、例によって鈴虫の音が木蔭から響いてくるのだが、我が家の近間でこの虫が住んでいるのは、どうも駅にまっすぐ通じるこの坂くらいらしい。それも、下りかかってすぐの、まだ木立に囲まれず片側には家が建っているあたりでしか聞こえず、進んで林のなかに入ると替わってアオマツムシなり蟋蟀なりが盛んになって、辻に出ても回転するような色味のない鳴きばかりが周囲からは立つ。アオマツムシが大方まっすぐ鳴くのに比べて、鈴虫は少々躊躇うような揺らぎをはらんで慎ましいようであり、前者よりも僅かに低い音程をさらに微妙に落としてフラットするのが、何色とも言えないが、単純でなく精妙なような色合いを眼裏に浮かばせるようだ。
 夜空は雲が切れ目なく掛かって濃淡の差もさほどなく、藍色が見えずなだらかにくすんでいる。家の間近まで来て見上げた林の、深浅さまざまな奥行きの消えてただ黒一色の影と化しているのが、その平面性のために余計に大きく伸し上がるように映り、まさしく壁である。そう思いつつ直後に、こんなありきたりの印象は今まで何度も抱いてきて、もう書くには退屈だと心中付け足したものの、結局のちになって、このように飽かず律儀に記すことになるわけである。