2017/11/26, Sun.

 床に就いたのはもう夜明けも近い午前四時五〇分とかなり遅くなったのだが、そこから四時間ほど経った時点で一度覚めていたらしい。ふたたび眠りに入って、次に覚めたのは一一時台の後半だった。正午も目前だが、消灯の時間を考えると思いのほかに早い。前日、一年前の日記を読み返していると、この一年後と同じように眠りの長さや寝起きの悪さに悩んでおり、そこでは布団に入ってから入眠までのあいだに深い呼吸を繰り返すという方策を実行して、それなりの成果を得ているようだった。いつの間にか習慣が途切れてやらなくなっていたこの技法を、それではまた試してみるかとこの夜に行ったのだったが、やはり深呼吸というのは効果があるのかもしれないなと思った。思えばパニック障害の時期だって、とにかく不安を少しでも和らげ、発作を遠ざけるために、四六時中ゆっくりと深い呼吸を心掛けていた覚えがある。睡眠は時間にすると七時間一五分と、ここのところでは一番遅く眠ったのに一番短くなった。
 起床後の瞑想も入眠時と同様に、とにかく呼気を吐ききることに重点を置いて実行し(ヨガの呼吸というのは多分こういうものなのではないか)、すると二三分の長きを座ることになった。そうして上階に行くと、(……)おでんを温めているあいだに、前日に買ってきた納豆を一つ取り出し、酢と大根おろしを混ぜて用意し、諸々揃えて卓に就いた。新聞の二面に、エジプトのテロの続報が載せられていた。「エジプトテロ 襲撃時「イスラム国」の旗 死者305人、軍は報復空爆」と言う。それを読み、そこから国際面に移って、そこに並べられた記事のほとんどを読んだ。「過激派 標的拡大か エジプトテロ 神秘主義者が礼拝 異例のモスク襲撃」とこちらにもエジプトの事件の関連記事があり、ほか、「クルドに武器提供停止 トルコ「米大統領が伝達」」、「独、大連立維持を模索 メルケルSPD党首と会談へ」、「ワールドビュー: 欧州ポピュリズムの底流」である。あいだに、ドナルド・トランプが米誌「タイム」の「今年の人」を辞退したとあるが、これはまったくもってどうでも良い情報だと思った(しかしそのように、「どうでも良い」と思ったということを記憶し、メモに取り、書き記すことができるということは、「どうでも良い」というのもまた一つの差異なのだ。本当にどうでも良く、自分の脳がまったく関心を抱かない事柄を記すことはできないだろう)。さらに続けて二面に戻って、「基礎控除10万~15万円増 政府・与党調整 高所得者は段階的縮小」という所得税改革についての記事をも読んだ。毎週日曜版に設けられている書評欄は仔細には見なかったが(新聞の書評は、普段自分が触れないような書物を知るにはいくらか役に立つが、そこに寄せられている文を面白いと思ったことは一度もない)、ちょうどこの前日に図書館の新着棚に見かけた神崎繁『内乱の政治哲学』を納富信留が紹介していた(「神崎繁様」と冒頭に宛名を置き、一年前に亡くなった著者に対して二人称で呼びかけるという趣向を取っていた)。
 新聞に切りを付けると一時一五分くらいだったらしい。立ち上がって洗い物をし、風呂桶も擦ったのち、緑茶を持って自室に下がった。何とはなしに気分が良いような感じがしたのだが、これも深呼吸のために良く眠れたということなのだろうかと、半ばこじつけ気味にそう思った。しかし、日付上で一二月二日に入った現在、この数日の体感を顧みるに、ゆっくりと吐ききる呼吸を意識することで心身にいくらかの作用が働くことは確かだと思われる。まず端的に、心が落着くようになり、この日記にもたびたび書きつけていることだが、他者や外界に対して折々覚える不安や緊張のようなものが薄くなった(それが完全になくなるわけではない)(また、自分においては、こうした方面から見るその日の心的安定性は、道を歩いている時にすれ違う相手にまっすぐ遠慮なく視線を向けることができるかとか、通りがかりに行き会った知人と話す際の言動のリズムや声の高さといった点から容易に測ることができる)。さらに、深い呼吸によって血液が良く巡るようになるのか、あるいはこれもセロトニンなどの脳内物質の分泌による効果か知れないが、全体として肉体もほぐれて軽くなるように感じられる。それにしても、このような技法の実践に現れる自分の執心、「常に落着いた心持ちでいたい」「不安や緊張というものを微塵も感じたくない」「いつも万全の精神状態でありたい」というような願望は、それ自体がまさしく神経症的ではないだろうか?(「苛立ちという感情の存在自体に苛立つ」という心的傾向も、この性質と軌を一にしたものだろう) 一種の完璧主義とでも言うべきなのかもしれないが、こうした性向をこちらが身につけたのも、やはりパニック障害という経験ゆえであると、これは確かな実感としてそう思われる。実際、こちらが自分の現在時点での「体調」、その瞬間瞬間における心身の調子を生活の折々に確認する癖を習得したのは、パニック障害に対抗するそのなかでのことである。それは勿論、発作に対する恐怖心がそうさせたのであって、「習得」などと言うと何かポジティヴな能力を意志的に身につけたかのような響きがあるが、そうではなく、自分はいま疲れていないか、身体が凝ってはいないか、気分が悪くはないかという風にして、こちらが気づかないところから発作が忍び寄って来ている兆候を見落としていないかと、自らの状態を「監視」せざるを得なかったのだ(パニック障害という疾患の内に長期的に巻き込まれれば、誰でもそうなるのではないかと思う)(「監視」「見張り」(より広くすれば「観察」)というのは、ヴィパッサナー瞑想の実践のなかに含まれているはずのテーマであり、また、言うまでもなく、フーコー的な主題の一つでもある。と言ってこちらは『監獄の誕生』をまだ読んでいないので確かなことは言えないのだが、自分の体験と結びつけて予想するに、おそらく、「監視」という主題はフーコーの権力論と主体論を接続する蝶番の一つなのではないだろうか。つまり、「監視」という活動においては、「視線」のうちに対象を(その行動様式や心身[﹅2]の働き方を)変容/変形させるような「権力」が含まれているわけだが、主体は自らに絶えず「視線」を差し向けることによって、すなわち自分自身に対して「権力」を作用させることによって、主体そのものの存在様式を変容させていくことができる(そのようにして時には、外部から迫ってくる望ましくない(抑圧的な?)「権力」に抵抗/対抗することができる)というようなことが、そこでは考えられているのではないか。パニック障害を患って以来自分が実践してきたのも、結局はこういうことだったのではないかとまとめられるようにも思われる。こうした文脈における「書くこと」や「ロゴス」の位置づけや、こちらの神経症的性向の方向転換(?)についてなど、まだ考えるべきことはあるが、しかし既に一二月二日の深夜二時半前に至っており、疲れも高じてきたので、ひとまず今日はここまでとしよう)。
 その日の生活を記録するのみでなく、上のように、連想される思考を書き付けていては、要するに現在の時点からの「注釈」を付してばかりいては、日記の記録がいつまで経っても生活そのものに追いつかないのは必定である。ロラン・バルトが「省察」と言って、日記というものが「作品」たりうるのかということを考察した文章(『テクストの出口』に収録されていたはずだ)のなかで、もしそうしたいのだったら、人は(あるいは「私は」だろうか)非常に熱心に、必死になって、それこそそれしか見えないくらいにその営みに没頭しなければならないだろう、というようなことを結論として述べていた覚えがあるが、要するにそういうことなのだ。「日記」と称されているこのテクストを本当に(十全に)「書こう」と思ったら、自分の生活の大部分はそれに占領されてしまうことになるだろう。本を読むこともできず、ほかの種類の文章を書くこともできず、その他諸々の活動もできなくなるわけだが、さすがにそれはこちらとしても困る事態だ(一応こちらは、いつか「小説」を作りたいという願望をまだ持ち続けている)。このテクストは、もっと気楽に、毎日無理なく続けられるという種類のものであるべきなのだ(何よりも重要なのは、「毎日続ける」というその一点である)。そうでなくては、明らかにいつまで経っても小説作品を拵えることなど出来はしない。「思考」や「注釈」の類を書きつけるにしても、それが自分の頭のなかでどの程度明晰な形を成しているのか、いま書き付けておくほど「確かな」ものとなっているのか、という点を見極めるべきだろう(自分のなかで「確かな」ことが記録できればそれで良いのだ)。基本的にはやはり、「過去(記憶)に付く」こと、これが肝要だろう(しかし、この段落全体の記述がそもそもそうした方針を裏切るものである)。
 自室に下りたあとは、日記の読み返しをする(二〇一六年一一月一八日金曜日及び一九日)。その後、この日のことをメモに取り、上階に行くと取り込まれた服にアイロンを掛けた。テレビには、『マツコの知らない世界』が映っていた。アイロン掛けを終えたあともソファに就いて、ローカルな各地域のパンだとか、世界の護身術だとかが紹介されるのを眺めて少々笑った。そうして自室に戻ったが、さて次に何をしようかと立ち迷うところがあり、決められないままに隣室からギターを持ってきて弄びはじめてしまった。例によって適当に鳴らすだけなのだが、結構長く没頭してしまい、四時前に至る。Oasisのファーストアルバムを掛けながら、運動を始める。身体をほぐすと、他人のブログを読み、その後、『ダロウェイ夫人』から気を引いた部分を抜き出して記録しておいた。
 五時を過ぎると室を出て台所に行き、紫玉ねぎを隼人瓜を洗面器様のトレイのなかへスライスしていった。ほか、茄子とブナシメジを合わせて炒めることにした。(……)炒め物はバターと醤油で味付けをして、料理ののち、ストーブの石油を補充しに外に出た。タンクを持って勝手口のほうへ回る。あたりは空間全体が濃淡さまざまな墨色で塗られ、満たされている。二つのタンクをいっぱいにすると屋内に持ち帰り、自室に下がった。空腹が差し迫っていたが、ふたたび『ダロウェイ夫人』の記録を始めて、そうすると熱が入って七時過ぎまで続けることになった。思考がうまくまとまらず、その形が良く見えないので一旦区切り、食事を取りに行った。
 煮込みうどんを食べたいという気分になっていた。それで鍋に湯を沸かし、合間に玉ねぎと白菜を切る。生麺をさっと湯がいて、新しく水を火に掛け、麺つゆと粉状の出汁と味の素を加えると、野菜を投入した。その上から生姜をふんだんにすりおろして、野菜が煮えるのを待つあいだに、丼に卵を溶いておく。具合の良い時点で麺を入れ、ちょっと経ってから卵も垂らして、完成とした。丼から零れそうになるくらいに盛られた上にさらに大根おろしを乗せ、ほか、先ほど炒めたものなどを用意して卓に就いた。テレビ番組やウツボカズラや、以前シンガポール土産に貰ったその置物などについては割愛する。
 食後、入浴に行き、上がって室に帰ると緑茶を飲みながらインターネットを回った。この時、官足法のスレを眺めたが、有用なあるいは興味深い情報は特に見当たらなかった。官足法というのは、脚を揉みほぐすことで体調を整え、健康を保とうという養生法のことで、こちらが自室内で良くゴルフボールを踏んでいるのも、その手軽な実践形態の一つということになるだろう。官足法を非常に熱心に実行することで病気が治ったとか癌が消滅したとか、そのような噂が流通してもいるようだが、そこまで行くとさすがにこちらには胡散臭く思われ、仮にそのような体験をした人がいても治癒にはほかにも要因が重なっていたのではないかと推測するものだが、しかし血行が良くなるのは確かではないか。もっとも、「血行が良くなる」というのも考えてみるといまいちどういうことなのか良くわからないようでもあるのだが、疲労感が軽くなるというのは体感として確かに感じられるので、病気がどうのこうのと大袈裟なことを言わなくとも、その程度の効果が得られれば十分だろうと落とした。
 その後、ふたたび『ダロウェイ夫人』の記録を行い、続けて、武田宙也『フーコーの美学――生と芸術のあいだで』の書抜きも大変久しぶりに行った。読み終えた本の書抜きを全然できていないというのは、最近の懸案事項の一つではある。そうして瞑想をしてから音楽を聞き出したが、眠気と疲労が散っておらず、目を閉じて耳も塞いでいると意識がぼやけてくるようで、音も明晰に聞こえてこないので、三曲で切り上げた(Bill Evans Trio, "All of You (take2)", "My Man's Gone Now"、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5))。かと言って眠る気にはならず、それから書き物に入る。二三日の記事を仕上げ、この日のメモを取って一時四〇分、さらに二時二〇分まで二四日の記事を進めたあと、『ダロウェイ夫人』を読んだ(二一四頁から二二四頁まで)。瞑想をして三時半に就床である。


ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年

●126
 「(……)そのとき十五分の鐘が鳴った。十二時十五分前の鐘が」

  • 現在時の指定。


●135
 クラリッサは、「(……)要するに女らしい女だったということだ。どこにいても自分だけの世界を作り上げるあの才能――あれが女の持つ力でなくて何だろう」(ピーター・ウォルシュ)


●137
 「結婚生活で起こりがちな悲劇の一つだ。夫の二倍も頭のいい妻が、夫の目で物事を見るようになるんだから。自分で考える頭がありながら、口を開けばリチャードの受け売りをするんだから。リチャードの考えなど、朝にモーニングポスト紙を読めばすむことではないか。パーティにしたところで、すべてはリチャードのため、クラリッサの思い描くリチャードのためだ(客観的には、ノーフォークで農業をやっているのが一番なのに)」(ピーター・ウォルシュ)

  • 「パーティの動機」に対する、(クラリッサ自身とピーター・ウォルシュのあいだの)見解の相違。212でクラリッサ自身は、「わたしはただ生きたいだけ」、「だからパーティを開くの」と述べている。そして「パーティを開く」ということは、彼女にとっては「捧げ物」という言葉で表現されるような実質を持つ(しかし、この語が表す意味の内実は(クラリッサ本人も認めている通り)あまり判然としない)。


●138~139
 「それでいて懐疑主義なんだから奇妙だ。それも、めったにお目にかかれない徹底した懐疑主義ときてはな。わかりやすさとわかりにくさが同居するクラリッサ。(……)神々などいない、誰が悪いわけでもない――そう思うようになって、善のために善をなすという無神論者の宗教が生まれた」(ピーター・ウォルシュ)


●140
 「ダロウェイの役に立つかもしれないというだけの理由で、食卓の主人役として老いぼれ相手の時間を堪え忍ぶ(……)」(ピーター・ウォルシュ)


●141
 「(……)こうして五十三にもなると、もう他人などほとんど必要なくなる。生きていることだけで十分。人生の一瞬一瞬、生の一滴一滴、ここ、いま、この瞬間、日の光、リージェント公園――それで十分だ。いや、多すぎるとさえ言える」(ピーター・ウォルシュ)

  • クラリッサとの類似(現在の「瞬間」に対する志向性)。→ ●21: 「わたしが愛するのは目の前のいま、ここ、これ。タクシーの中の太ったご婦人」 → ●214: 「わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……」
  • しかし、クラリッサは生の一瞬一瞬を「愛している」が、ピーター・ウォルシュはそれに対して愛を抱いているとは述べていない(それで「十分」あるいは「多すぎる」とだけ言っている)。また、ピーターの場合、こうした心境を抱くようになるには、加齢が条件として必要だった(「こうして五十三にもなると」)。


●147
 「レーツィアは、何週間もひどく不幸だった。起こること起こることに暗い意味づけをし、ときに善良で親切そうな人を路上で見かけると、呼び止めて、一言「わたしは不幸です」と言いたい衝動に駆られた


●154
 ルクレーツィアは、「悪趣味や過剰な装いを目にするとけなしたが、辛辣に言い募るというより、むしろ手の動きでいらいらを表した(まじめに描かれていても明らかな駄作を見た画家が、いらいらとそれを遠ざけるときの手の動きに似ていた)」


●165~166
 「いまちょうど十二時。ビッグベンが十二時を打った。(……)十二時の鐘が鳴ったとき、クラリッサ・ダロウェイは緑のドレスをベッドに置き、ウォレン・スミス夫妻はハーリー通りを歩いていた。十二時が約束の時刻だ。たぶん、灰色の車が止まっているあそこ、あれがサー・ウィリアム・ブラッドショーのお宅ね、とレーツィアは思った。鉛の同心円が空気中に溶けていく

  • 現在時の指定。
  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の三度目。
  • 「鉛の同心円が空気中に溶けていく」の反復(三度目)。 → ●13: 「ほら、始まった。まずは警告、これは音楽的。そして時報、鳴ったら取り消せない。鉛の同心円が空気中に溶けていく」 → ●88「半を告げるビッグベンの音が降り注いでくる。鉛の同心円が空気中に溶けていく


●180
 「ハーリー通りの時計という時計が六月の一日をかじりとっていく。(……)やがて時間の山がほとんど侵食されつくし、オックスフォード通りのある店の上に設置された店舗用時計がやさしく、親しげに、一時半を告げた(……)」

  • 「六月」への言及。
  • 現在時の指定。


●182
 「ヒューの親切は忘れられないもの。ほんとうに驚くほど親切な人。いつ、どう親切にしてもらったかはもう忘れたけれど、とにかくヒューはとても親切な人」(ミリセント・ブルートン)


●183
 「他人を切り刻んで喜ぶ、クラリッサ・ダロウェイみたいな人の気が知れない」(ミリセント・ブルートン)

  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の四度目。


●186
 「その意識は男相手の昼食会などよりずっと深くを流れ、レディ・ブルートンとクラリッサ・ダロウェイを特異な絆で結びつける」

  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の五度目。


●195
 レディ・ブルートンは、「眠りはしなかったが、気だるく、眠かった。この六月の暑い日。太陽に照らされたクローバーの野のように、気だるく、眠かった」

  • 「六月」への言及。


●205
 「これが幸せだ、とディーンズヤードに入りながら声に出した。ビッグベンが鳴りはじめた。まずは警告、これは音楽的。そして時報、鳴ったら取り消せない。昼食会があると午後が丸々つぶれてしまうな――そう思いながらドアに近づいた」(リチャード・ダロウェイ)
→ ●12~13: 「クラリッサには確信があった。ビッグベンが時を告げようとする直前のあの沈黙、あの荘厳、いわく言いがたい一瞬の休止、あの緊張(でも、心臓のせいなのかしら。インフルエンザの後遺症があると言われたし)……ほら、始まった。まずは警告、これは音楽的。そして時報、鳴ったら取り消せない。鉛の同心円が空気中に溶けていく。人はみな愚か者、とビクトリア通りを渡りながら思った」


●210
 「世間は「クラリッサ・ダロウェイはだめなやつだ」と言うでしょう。アルメニア人より薔薇が大切らしいと言うでしょう」

  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の六度目。


●212
 「二人とも――少なくともピーターは――わたしが人前に出るのが好きだと思っている。有名人に囲まれるのが好き、大物の名前が好きだと思っている。要するに、単なる俗物ということね。それがピーターの考え」
→ ●136~137: 「はっきり言えるのは、クラリッサは世間ずれした――これだ。地位や階級を気にしすぎ、世俗的な成功に目がいきすぎる。ある意味そのとおりね、とはクラリッサ自身も認めている(……)。(……)クラリッサの客間で出会うのはお偉方に、公爵夫人に、白髪頭の伯爵夫人だ。おれに言わせれば、この世で多少なりとも意味のあるものから恐ろしくかけ離れている連中だが、クラリッサはそこに大きな意味を見る。(……)もちろん、ここにはダロウェイの影響が大だ。公共心、大英帝国、関税改正、支配階級の責務……クラリッサの中でそんなことが大きくなった」(ピーター・ウォルシュ)


●212
 「でも、二人とも見当違いよ。わたしはただ生きたいだけ。
 「だからパーティを開くの」と、クラリッサはに向かって語りかけた。
 こうやって部屋にこもり、何もせずソファに横になっていると、常々当たり前のように感じているが物理的な存在となって迫ってくる。日の当たる通りから立ちのぼる騒音の衣をまとい、熱い息を吐き、そのささやきでブラインドを揺らす」

  • 「生」のテーマ。


●213
 「心の中でもっと深く掘り下げてみたら、わたしが生と呼んでいるものはいったいどんな意味を持っているのかしら。考えると、とても不思議。サウスケンジントンに誰かがいる。ベイズウォーターにも誰かがいる。さらに……たとえばメイフェアにも誰かがいる。それぞれの存在をわたしは絶えず感じている。なんという無駄、なんたる口惜しさ、と思う。みんなを一つ所に集められたらどんなにすばらしいか、と思う。だから、やる。つまり捧げ物結び合わせて、作り出して……でも、捧げる相手は誰? /たぶん、捧げ物をするための捧げ物ね」
→ ●『灯台へ』(御輿哲也訳、岩波文庫)、310~311:
 「[ラムジー]夫人は、これとあれと、またこれと、というふうに実に無造作に結び合わせて、取るに足りない愚かさや憎しみの中からでも(……)、何か大切なものを――たとえばあの浜辺での一場面、あの友情と好意の瞬間のようなものを作り出すことができた。そしてそれは長年月を経ても少しも色あせなかったので、(……)その場面自体がほとんど芸術作品のように、心の奥に宿っているのだった。
 「芸術作品[ワーク・オブ・アート]のように」とリリーは繰り返して、(……)絵と風景をぼんやり見比べながら休んでいると、絶えず心の中の空を横切り続ける昔からの疑問が、またしても頭をもたげてきた。(……)人生の意味とは何なのか?――ただそれだけのこと。実に単純な疑問だ。だが年をとるにつれて、切実に迫り来る疑問でもあった。大きな啓示が訪れたことは決してないし、たぶんこれからもないだろう。その代わりに、ささやかな日常の奇跡や目覚め、暗がりで不意にともされるマッチの火にも似た経験ならあった。そう、これもその一つだろう。これとあれと向こうのあれと、わたしとチャールズと砕ける波と――ラムジー夫人はそれを巧みに結び合わせてみせた、まるで「人生がここに立ち止まりますように」とでもいうように。夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(絵画という別の領域でリリーがやろうとしていたように)――これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ(彼女は雲が流れ、木の葉が震えるのを見ていた)、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように――そう夫人は念じたのだ。(……)」

  • 「結び合わせる」こと、および「作り出す」ことの一致。そして、これらの共通する語彙は、どちらの作品にあっても、「人生の意味とは何なのか」という疑問とともに登場している。
  • ダロウェイ夫人にとっては、「結び合わせて、作り出」すこととは、「みんなを一つ所に集め」ることであり、それはすなわち、「パーティを開く」ことと同義である。そして彼女にとって、「パーティを開く」こととは、「捧げ物」としての意味合いをはらんでいる。
  • 灯台へ』の記述を総合するに、リリー・ブリスコウの考えによると、ラムジー夫人が実現した「結び合わせて」「作り出す」こととは、「ある一つの(「何でもない」ような)瞬間/場面を芸術作品(=「いつまでも心に残るもの」)にすること」と言えるだろう。それは、「絶え間なく過ぎゆき流れゆくもの」を、「しっかりとした動かぬもの」に変えること、という表現に言い換えられてもいる。
  • 語彙及び主題の同一性を根拠にして、『灯台へ』における論理を『ダロウェイ夫人』のなかにも導入するならば、後者において曖昧だったダロウェイ夫人の「捧げ物」の意味は、「芸術作品化された生の瞬間」というようなものとして措定されることになるだろう。あるいはむしろ、テクスト外の伝記的事実に添って読むならば、『ダロウェイ夫人』(一九二五年)よりも『灯台へ』(一九二七年)のほうがあとに書かれたのだから、前者においては未だ「捧げ物」という判然としない表現で詳細な内実を明らかにせずに提示されていた主題が、後者に至ってより明確な形を持って展開されたと見るべきなのかもしれない。

2017/11/25, Sat.

 一〇時半の時点で一度目覚めて、七時間の睡眠と計算したらしい。カーテンをひらくと陽射しがあって、顔にも多少触れたのだと思うが、しかしやはりどうしても目がひらいたままにならなかった。次に時計の時間を定かに確認したのは一一時五分で、そこから二五分に正式な覚醒を迎えるまでのあいだに夢を見たが、内容はすぐに忘れた。どうにも寝起きが良くならないが、起き上がると脚は軽かったようで、体内の流れのようなものもすぐに回り出すように感じられる。一年前二年前と比べれば、全体として肉体はかなり軽く、確かなものとなってはいる。便所に行ってから瞑想をすると、階段を上った。(……)
 卵とハムを焼いて食事を取る。食いながらいつも通り新聞を読む。国際面からは、「ジンバブエ新大統領就任 平和的な権力移行強調」、「移民社会アメリカ 下 分断の家族」。次に四面に戻り、「退位へ 残された課題 3 「上皇」あるべき姿とは」。さらに二面に移り、「「自衛隊改憲議論 影響も 自民・維新 連携不透明に」、それに接する「モスク襲撃184人死亡 エジプト 礼拝中に爆発・銃撃」、そして最後に、「韓国に「慰安婦記念日」 8月14日 日韓関係 影響も」と辿って、普段よりもやや多く読んだような感じがする。すると、一二時三五分だった。立ち上がり、食器乾燥機の中身を片付けてから自分の使った皿を洗い、さらに風呂を洗いに行った。磨りガラスの嵌め込まれた窓が好天に明るく、外のガードレールの白さが、上下の輪郭を曖昧に広げた筋として横に走っていた。同じような主題(効果)は、ここのところ夜道を歩いていると、街路の端々に設置されたミラーのなかにことごとく見られる。結露で曇った鏡面に街灯や信号の明かりが朧にぼやけて、普通に映るよりも広がりを持って彩っているのが何とはなしに心惹かれるものだ。浴槽を洗い終えると、食後の緑茶を用意する。合間に外を見やると空は澄み渡っていて、晴れやかにひらけたそのなかに、ちょっとものを掠った痕のような曇りが僅かに見える。右上に弧を据えた細い曲線形のそれが、月でないかと思われたが、答えは知れない。
 自室に帰ると(……)を読んだ。すると一時半前で、出かけるかどうしようかと迷う心があった。天気が良いので陽の下を歩きたい気持ちはあったが、どうもやはり、日中ただ散歩するという気にはならず、外出するのなら何らかの目的地もしくは理由が必要なようだった。それで、昨日Nina Simoneを聞いて元ネタのほうも聞きたいと思ったBessie Smithを図書館に借りに行くかと目的を呼び寄せたのだが、それでもまだ迷いが抜けきらなかった。決めきれず、ひとまずギターに流れ、ブルース風に鳴らして二時を過ぎ、洗濯物を取りこみに行った。タオルなどを畳んで戻ってきた頃には、どうせこのような気分が湧いた時でもないとわざわざ外に出ないのだから、ともかくも出かけてみようと心を決めていた。その前に身体をほぐすことにして、この日はtofubeatsでなくて何となくくるり『アンテナ』を掛けて軽い運動をし、その後、また諸々歌を歌ってしまって二時台を過ごした。歯磨きをして街着に着替え、出発する。
 三時も越えると既に陽は薄い。北東のほうに逃げはじめており、空には雲も結構多いのだが、坂の入口あたりにぼんやりと淡い日なたが置かれてはいる。楓は内側を覗いてももう橙の色も少なくなって、注視しながら前を歩くと、空を背景にして赤の葉の折り重なりが、ちらちらと視神経に刺激を与えながら交錯するのが瞳に良い。坂の日なたに入っても、特段の温もりは感じなかったようだ。眼下の銀杏に目を向けて過ぎ、上って行きながら自らの内側を、胸のあたりの感覚を探ったが、この日は不安というほどのものは何も感じないようだった。
 西にひらいた丁字路に掛かっても、太陽は雲に留められて照射がない。もっと早く出れば良かったのだろうが、と勿体ないような気がしたが、街道まで来ると一応、それなりの日なたが用意されていた。裏に折れず表を進む。道端の家の、真っ赤に染まった植木に目が行く。家々の側面や、それらを越えた先の林はまだ陽を掛けられている。坂下の辻で信号待ちに立ち止まると、向かいの通りの一軒の窓に山際の暖色が映りこんでいたが、目を振っても家屋に遮られて直接には見えない。解体工事中の会館の前に差し掛かると、頭上の足場で作業員が鉄骨の類を取り扱っている。年嵩の、穏和そうな顔貌の警備員が、通ってしまうようにという風に身振りをしてくるので、会釈して下を通過する。過ぎたあとで、あそこでもし鉄骨が落ちてきて頭に直撃したらそれだけで死んでいたな、とちょっと思った。図書館(分館)に続く折れ口に掛かったあたりで、考えの理路は不明だが、散漫な物思いのなかに、「書く」という語は「綴る」と比べて実に散文的で良いなとふと浮かんできた。Kの子音が二つ重なるその音の軽さが良かったようで、対して「綴る」は濁点の響きが粘るように感じられたらしい。
 駅に着いて改札を抜けると、通路の途中の便所に寄ってから、ホームへの階段を上った。ゆっくりとした調子で、足取りも何か重く、老人になったような心地がする。先頭車両に乗ってしばらく、降りて駅舎を出ると、歩廊の上でカメラを構える高年の男性がいる。その後ろを通りつつ、レンズの向いた先を追うと、西の空に陽が沈んでいくところで、雲が出張って眩しくはないが縁に薄朱の灯っているのが小さく見られ、その上にも雲は出て、左右に搔き乱されたように荒くなっていた。図書館に入ると、雑誌の区画から『思想』と『現代思想』の表紙をチェックするのだが、見ることは見ても今まで一度も実際に借りたことはない。文芸誌にはあまり興味を惹かれないので素通りして、CDのコーナーに入り、Martin Scorseseが編集したBessie Smithの音源を獲得した。一度に三枚まで借りることができるので、どうせだからもう二枚何か借りようと見てみると、James LevineというピアニストがScott Joplinを演じたアルバムが見つかり、これも借りてみることにした。そのほか、現役の演者のものでは類家心平やら大西順子やらBill Frisellやらのアルバムが見られ、また、女性ボーカルに合わせてHelen Merillにするかとか、Esperanza Spaldingの作品も結局聞いていないなどと考えたが、ひとまずロック/ポップスのほうに移行してみると、ここに区分を間違えられてArt Tatumがある。古い時代の音楽でまとめるかということで、その『Gene Norman presents An Art Tatum Concert』を三枚目として、CDを小脇に抱えて階段を上った。新着図書の棚を一通りチェックしてから、先に貸出機で手続きを済ませ、CDをバッグに収めてから棚の前に戻って、気になった書名を手帳にメモしていった。長く陣取ってメモしているあいだに、当然ほかの人々もその場にやってきて棚を眺める。邪魔にならないようにとちょっと後ろに退きながらもメモを続けるわけだが、そうしているあいだに、顔が熱くなって赤面しているのが感じられた。何しろほかに、そんな風に熱心に書物を見分している人間などいないから(しかし自分がこのようにやっているのだから、見たことがないだけでほかにも何人か、そういう人間はいるはずだろう)、珍しい人だとか変な人だとか思われやしないかと、そんな意識が働いたのだと思う。要するに自意識過剰なのだが(自意識過剰でなければ、多分パニック障害になどなりはしない)、同じような行為をしていても、こうした恥の感覚があからさまに発揮される日とそうでない日があるのはどういう要因によるものなのか、いまいち良くわからない。この時記録された書物は以下の通りである。

・土田知則『現代思想のなかのプルースト
・ウラジーミル・ソローキン/松下隆志訳『テルリア』
ブルガーコフ『劇場』(白水Uブックス
松田隆美『煉獄と地獄』
・指昭博・塚本栄美子編著『キリスト教会の社会史』
・クレイグ・オリヴァー/江口泰子訳『ブレグジット秘録』
・ハーバート・フーバー『裏切られた自由 上』
神崎繁『内乱の政治哲学』
・『火の後に 片山廣子翻訳集成』
・カマル・アブドゥッラ『欠落ある写本』(水声社
・鈴木範久『日本キリスト教史』
・フランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』

 それから哲学の区画を見に行く。ブノワ・ペータース『デリダ伝』を読みたいものだと大層厚いそれを手に取ってめくる。それから東洋哲学のほうにずれる。日本国と呼び慣わされている地理・文化的圏域に一応は生を享けて育ってきた身だから、この国の(あるいはより広く、「アジア」や「東洋」と呼ばれている地域の)先人たちがどういったことを感じ、考えてきたのかということにも触れたいとは思っている。並んでいるなかでは、長谷川宏『日本精神史』上下巻が、見取り図を掴むには良さそうに思った。また、前田勉という研究者の平凡社選書から出ている二冊、『兵学朱子学蘭学国学 近世日本思想史の構図』と『江戸の読書会』にも少々興味を惹かれた。そのほか、無骨で巨大な本居宣長の研究書などもあった。
 出先で書き物をできたらと、コンピューターを持ってきていた。それで空いている席はないかと窓際を辿って行くのだが、予想通りすべて埋まっている。書架の角からテラスのほうを覗いてみても混んでいるので、そのなかに入って行って作業をする気にはなれない。どうしようかと考えながら海外文学の列を眺め、ひとまず隣のビルにある喫茶店を見に行き、実際にその場を目にした時の気分で滞在するか否か決めようと相成った。それで退館し、歩廊を渡ってビルに入り、喫茶店をガラスの外から眺めたところ、それほど混んでいるわけでもないのだが、やはりどうもなかに入る気持ちが起こらない。先の自意識過剰にも、この日の内向的な精神状態が表れていたのだと思うが、人間たちのあいだに座って作業をするということに気が向かないようだった。やはり自室が一番良いのだろうと落とし、買い物だけして帰ることにした。スーパーのほうに進んで行き、籠を取って、まず三個でセットの豆腐を二組取り、次に生麺のうどんを獲得した。それから納豆を入手しようと思ったところが、納豆の区画の前には人がいたので、方向を変えて野菜のコーナーに入り、長茄子を二袋確保してから戻って、納豆は一パックを取った。そこまで来たところで、何か寿司が食いたいという欲求が湧いており、フロアの端に設けられた区画の品々を見に行ったものの、一旦保留として棚のあいだに入り、麻婆豆腐の素を籠に加えた。それからスナック菓子の類を見に行ったが、棚を眺めてみてもこれを買おうという気が起こらないので不要と判断し、フロアを渡って行ってヨーグルトを一つ、入手した。そうして寿司に戻った(……)こちら個人の分と、ほかに一応ネギトロの中巻を一パック買って帰ることにした(……)。鰤やら真鯛やら鯖寿司やら(これはもしかすると、関サバというやつだったのだろうか)、九州の味覚を取り揃えたという触れ込みのものを選び、そうして会計に行った。列に並んでいる途中で、隣のレジが空いたようで女性店員が拾い上げてくれる。その女性は感じの良い、穏やかそうな雰囲気の人だったのだが、会計はやはり、何か緊張があるというか、居心地の悪さの感じが否めなかった(しかし過去、パニック障害の時代に、会計の列に並んでいて大きな不安を招いたということはなかったように思う)。支払いを済ませると品物をバッグとビニール袋に仕分け、両手を塞いでビルを出た。
 既に宵がかった暗さである。空の中央にペンキをぶち撒けたようにして、大きな雲の影が挿し込まれ、その外縁はところどころ蔓のように細くなって伸びている。雲の裏には黄昏の青さが残っているものの、内実を抜き取られて醒めたような淡色で、微生物の集合めいて浮遊する橙の色素が山際にまったく窺えないではないが、残照と言えるほどの厚みはもはやなかった。円形の歩廊を駅舎のほうへ回っている僅かなあいだにも、微かになり、消え行くようにすら思われた。
 ホームに入るとベンチに就き、脚を組めば自ずと腰が前に滑って座りが浅くなる。そのように偉そうな姿勢で座りながら、何をするわけでもない。欠伸を漏らすと涙が瞳の表面に張られて、正面に見える街灯や駐輪場の白い明かりがいくらか水っぽく艶を帯び、まばたきをする瞬間にこちらの眼球に向けて一斉に筋を伸ばしてくる。やって来た電車に乗って降りると、乗り換えを待ってまたベンチに就いた。横に座っていた中学生二人が、去って行く間際に、見えなくても聞こえるな、というようなことを口にする。確かに、線路を挟んで正面の小学校の校庭から、既に闇が降りてものの姿も動きも視認できないその暗がりの内から、子どもらの遊び声が湧いては昇り、音のみで動き回っている。ジャンケンをしたり、やっほー、と声を合わせたりしたあとに、何が面白いのかわからないが、必ず皆で一斉に大きく笑い声を重ねるその邪気のない様子に、こちらも心和んでちょっと笑みを浮かべそうになった。それから、ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読みはじめる。空気は冷たいのだが、しかし待合室に入る気にはならない。文庫本を持つ手が大層冷えるのに、片手をコートの内に差し込み、脇で挟むようにして守って、交代させながら文を追った。
 (……)最寄りからの帰路に、特に印象に残ったことはない。自宅まで来て、ポストから夕刊を取って玄関の鍵を開けると、その音が静まった夜の路上に、思いのほかに定かに響く。居間の卓上に荷物を置くと食卓灯を点し、まず窓のカーテンを閉ざした。それから買ってきたものを冷蔵庫に収めたのち、室へ行き、何故か知らないが入浴まで街着を着たままで過ごそうという気分があったので、コートだけを脱いでダウンジャケットを羽織った。そうして上階に戻り、台所に入ると、風呂の湯沸かしスイッチを押す。(……)麻婆豆腐を作ることにした。ここの行動の連鎖は記すのが面倒なので省略するが、白菜も加えたものを作り、そのまま食事に入った。麻婆豆腐は丼に盛った米に掛け、ほかに大根と紫玉ねぎをスライスしたのみの簡素なサラダを添えた。寿司は美味だった。真鯛から食べはじめて、二貫を平らげて鰤も食い出すと、胃が空だったところに栄養価が高いものを入れたためか、刺激がちょっと強い感じがした。つまり、気持ち悪くなるのではないかという予感が微かに兆したのだが、それで麻婆豆腐のほうに一旦寄り道し、野菜も腹に入れて調子を取って、その後は問題なく食事を進めることができた。夕刊にはエジプトのテロの続報が出ていた。「エジプト モスクテロ死者235人に イスラム過激派犯行か」というものである。現場はシナイ半島は北部アリーシュ近郊、ビルアベドという町のラウダモスクと言う。この地域はスーフィー教徒が多いらしく、イスラム国関連の組織は彼らを異端視しているので、今回の犯行に及んだのだろうという話だった。一一面にも関連記事があって、「集団礼拝に手投げ弾 エジプトテロ 逃げる信者を銃撃」と題されている(「ラウダモスク」という施設の名前はこちらに載っていた)。こちらには、目撃者の証言がいくつか紹介されているのだが、そのなかの一つ、「あらゆる場所から攻撃され、多くの人が逃げ切れずに死んでいった」というものが印象に残った(特に、「あらゆる場所から攻撃され」という部分に(この事件の襲撃は、包囲攻撃[﹅4]である)、傍点による強調が見えるかのようだった)。
 食器を片付けて室に帰り、(……)日記の読み返しを行った。二〇一六年一一月一七日である。そのまま続けて、岡崎乾二郎「抽象の力」を読みはじめた。途中の記述に触発されて、過去に自分が考えたことを(と言うよりはむしろ、書き記した文=言語のことを)思い出した。この日のメモを取った時点では、回帰してきた思考を改めてまとめ直そうと思っていたのだが、今の気持ちとしてはそれはやはり面倒臭く思われるので(現在は、一一月三〇日の午後一一時三〇分である)、触発の元となった岡崎の記述と、自分の過去の文章を合わせて引いておくことで間に合わせとする。これは、二〇一六年六月二八日に(……)に送ったメールの一節である。

 「(……)事物に関わり、何かを形づくることはむしろみずからを陶冶する=形成することに繋がるのだ。これは柳宗悦が見出した、手工芸制作過程に内在する倫理性とも通じるものだった(『民藝とは何か』1929)」

 「しかし《フレーベルの教育遊具》は、その演習が、あまりに詳細な操作方法まで指定されていたことによって形式的すぎる、儀式的であるという批判もされていた。ここまで詳細に事物との関わりに指示を与えてしまうと、児童の自発性、自由はむしろ抑制されるのではないか。後続するモンテッソーリの《教育遊具》はそもそもマリア・モンテッソーリ(1870-1952)が知的障がい児の知能向上育成にあげた驚異的な成果をもとに発想されており、事細かな指示がいっさいなくても、ただ遊具と具体的に接していれば自動的に思考や感情が促されるように工夫されていた[fig.109]。まさにモンテッソーリの《教育遊具》は主知的な指導がなくても事物が身体を触発し、知性を生成させるという発想に基づいていたのである。
 《感覚教育》として知られる、そのメソッドは以下のようなものだった。身体的な運動およびその感覚から、抽象的な概念、法則性の理解を自動的に促すこと。そして身体的な交渉、試行錯誤を繰り返すことで、その過程で与えられる具体的な感覚、感性的感受から高度な抽象概念の習得へと導くこと。すなわち事物との関わりこそ知性を維持し育成するきっかけになる。むしろ知性を誘うのは事物である。人は事物に触発され考えさせられるのだ。触発すなわち事物が与える感覚が人間を育てる」


 事物の具体性と一般性、そのそれぞれを明晰に認識する能力を鍛え、――通りの良い言葉を使えば――統合させることこそが、必要なのではないでしょうか。しかし、僕の個人的な感覚からすると、この「統合」という言葉はあまりしっくり来ておらず、その代わりに「交雑」とでも言ってみたいような気がします。つまり、一つには勿論、具体的な個々の事物に対する観察力を養い、またそこから一般的な図式や概念などを見出し、抽出すること。そしてもう一つには――逆説的で、矛盾している表現かもしれず、したがってこうした考えが有効なのかどうかについても自信がないのですが――観念の具体性とでも言うべきものを、掴むこと。抽象的な思考に長けた人は、まるでそれを舌で味わうかのように、観念と接することができるのではないでしょうか? 鋭敏な数学者は、ある種の数式に美しさや、エロスさえも感じるということも、聞いたことがあります。こうしたことを考えるのは、抽象的な情報の塊に過ぎないはずの言語に対して、僕自身(そして多かれ少なかれ、ほかの人もきっと)、それがまるで手に触れられる物質であるかのような、特殊な質感を覚えることがあるからです。

 ここにおいて、僕が「統合」という言葉を採用しなかったのは、それがはらむ静的な感触に不足を感じたからなのだと思います。統合という語は、複数のものをまとめて、ある一つの定まった形を作りあげること、というような意味を持っていると理解していますが、我々の認識は固定された一つの形に行儀良く収まるというよりは、もっと流動的に入り組んでおり、複数的でさえあるものではないかと感じるわけです。そうしたニュアンスを表現するために、別の語が必要とされ、ここでは差し当たって「交雑」という言葉が選ばれました。したがって、ここで僕の言う「交雑」は、具体的なものをその具体性とともに一般性において把握する能力、また、抽象的なものをその抽象性のみならず具体性において捉える能力、そして、それらの認識のあいだの諸段階を滑らかにスライドするように、絶えず動的に行き来すること、というほどの意味になるでしょう。

 このようにして考えてくると、ここでの思考が前提としてきた二項対立は、我々の認識上、あるいは言語上の罠であるのかもしれません(だとしても、ある程度有効な罠だとは思うのですが)。なぜなら、具体的とか一般的とかいうことは、おそらく常に相対的な事柄であって、ある一つのものに対する位置取りの違いに過ぎないように思われるからです。二つの領域は、対立的なものと言うよりは、相補的なものであるのかもしれません。そうだとすれば、小説家の性格と関連させて、物事の具体的な側面の感受ばかりを強調したのは、あまり適切ではなかったとも考えられます。優れた小説家は、具体物のみならず、抽象概念に対する鋭利な感受性をも、持ち合わせているはずだからです。むしろ、先に述べた「交雑」を言い換えるようにして、そうした小説家の持つべき資質、そして優れた文学が担っており、時には読者に教えることもあるはずの性質を、比喩を交えて次のように言い表してみることができるかもしれません。すなわち、泡のように微細な世界のニュアンスを汲み取る繊細さ――あるいは、夕刻の空に描かれる青と紫と薔薇色の階調にも似て、最小の具体性から最大の抽象性まで連なる、差異のグラデーションを見分ける視力、と。

 岡崎の論文中、この日読んだ部分のなかには、パウル・クレーが息子のために作ったという人形の画像が載せられていたのだが、これを見て、一人でくすくすと笑ってしまった。グロテスクと言うか、悪夢にでも出てきそうな感じのもので、とても子どもに与えるようなものには思えなかったからである。ほか、fig.133の、長谷川三郎の写真は格好良く思われ、また、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキというポーランドの画家の絵画も良い感触を受けた。
 八時半に至ると入浴に行き、戻ると、Ernest Hemingway, The Old Man And The Seaを久しぶりに読んだ。九時四〇分まで三〇分ほど、足の裏をゴルフボールでほぐしながら読んだのだが、外出したためだろう、疲労感があったので、瞑想をすることにした。枕の上に座しているあいだ、身体の諸部分の肌の表面に、微細な痺れと言うか、泡立ちのようなと言うべきか、ともかく疲れが溜まった時の鈍いような感覚がある。それで一二分しか座っていられず、瞑想を済ませても眠気が抜けなかった。ベッドのヘッドボードに凭れて、脚を前に伸ばしながら五分ほど微睡みに入る。
 その後、便所に行ってから上に行く(……)残った三切れをこちらが食べることにした。(……)テレビを漫然と眺めていると、白鵬が四〇回目の優勝をしたと流れて、そんなにたくさん優勝しているのかと驚いた。寿司を食うとすぐに室に帰って、用意した緑茶を飲みながら、借りてきたCDをコンピューターにインポートした。その後、この日の生活のメモを取ったのち、音楽を聞いた。Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "Gloria's Step (take 2)"、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5)、Bessie Smith, "Need A Little Sugar In My Bowl", "Backwater Blues"(『Martin Scorsese Presents The Blues: Bessie Smith』: #9, #15)、Big Bill Broonzy, "Backwater Blues"(『Big Bill Broonzy Sings Folk Songs』: #1)、Brad Mehldau, "Someone To Watch Over Me"(『Live In Tokyo』: #1-6)、Radiohead, "Paranoid Android"(『OK Computer』: #2)で、五〇分ほどである。Martin Scorsese編纂のBessie Smithのこのアルバムの冒頭には、「善良な男はなかなかいない」("A Good Man Is Hard To Find")という曲が据えられているのだが、これはフラナリー・オコナーの小説の題名と同じである(そちらでは、「善人はなかなかいない」という訳になっている)。元ネタであるに違いないと思う。最終曲の"Backwater Blues"というのはBessie Smith自身が作った曲らしい。このタイトルにどうも見覚えを感じていたのだが、ちょうどライブラリで上下に接しているBig Bill Broonzyのアルバムの先頭曲がそれだったので、ここで見知っていたのだなとわかった。それも聞いたあとに、思い立って、Brad Mehldauの独奏を聞く。一〇分に及ぶ演奏の中途で感動が迫ってきて、ナイーヴな話だが、涙が少々湧き出すのを禁じ得なかった。
 日付が変わった頃から書き物を初めて、一一月二一日から二三日までの記事に二時間半を費やした。(……)四時に到達する直前からまた『ダロウェイ夫人』を読んで、五時も間近になっての遅い就床となった。

2017/11/24, Fri.

 ほとんど毎日のことだが、一〇時頃から意識をたびたび取り戻しつつも起床に結びつかず、最終的には寝床に就いたまま一時を迎えた。意識の混濁と闘っているうちに、いくら頑張っても閉じていこうとする動きを抑えてくれなかった瞼から、突然重さが抜けてひらいたままに保たれるようになる境の瞬間というものが明確にある。起き上がってベッドの縁に腰を掛け、肩をぐるぐると回して肉をほぐした。午後に起きる生活の何が良くないと言って、世間一般的な基準から見たところの「だらしなさ」という点にもまったく引け目を感じないではないが、それよりもやはり、一日の活動を開始してからいくらも経たないうちに夜になってしまうということである。もっと陽射しを浴びたい、浴びるまでしなくとも、瞳に太陽光の明るい感触をもっと感じたいという気持ちはある。その一方で、深夜の静けさというものが非常に心を落着けるので、つい夜を更かしてしまうわけだが、明るさに触れることの少ない生活というのは、確かに精神にも影響があるように思う。日照時間の減る冬季にのみ発現する鬱があるというのも頷ける話で、この昼に起きたこちらも、身体が固いこともあって何となく不安を感じないでもなかった。
 便所に行ってから二〇分の瞑想を済ませて、上がって行くと、(……)前日のおじやや、豚肉と玉ねぎの炒め物の残りを電子レンジで温め、また、冷凍されていたカレーパンも同じように熱して、食事を取った。卓に就いて新聞に目をやる(……)。
 新聞記事はいつも通り国際面から読みはじめて、まず、「カタルーニャ議会選 来月21日 独立の賛否 伯仲」の記事に目を通していたのだが、その合間にふと顔を上げて窓のほうを向くと、空中に薄白い漣めいた大気の動きが生まれているのが見える。どうもどこか近くでものを燃やしていて、その煙が流れてきているらしいと判別し、洗濯物に臭いがついてしまうのではと思ったが、立ち上がってベランダのものを避難させるのが億劫に感じられて、そのまま捨て置いた(その後すぐに、煙の動きはなくなったようだった)。それから、「独大連立継続 説得へ 大統領 SPD党首と会談」、「パレスチナ 来年議長選 和解協議 6月以降、評議会選も」と読み進め、二面に遡って、「ジンバブエ 前副大統領が帰国、演説 ムガベ独裁に決別 表明」の記事を読んで切りとした。(……)
 食事を終えて食器を洗うと、既に二時に至っていたらしい。風呂場から束子を持ってきてベランダに干しておくとともに、吊るされたタオルに触れて乾き具合を確かめたが、半端だったので、まだ留めておくことにした。風呂を洗ってから(……)緑茶を用意して自室で一服する。おかわりを注ぎに行ったところで(……)タオル類を畳んで整理した。自室に戻って二時四〇分から日記の読み返し(二〇一六年一一月一六日水曜日)をしたあとは、三時を迎えて掃き掃除に出た。空気にさほどの冷たさはなかった。箒を動かしていると、背後のほうで車が曲がった気配を感知して、ふと振り向けば、坂の下り口のところでその車が停まっている。運転手がこちらを見ているようなのに、思い当たるところがあって見返していると、手を挙げてきた。(……)のお祖父さんである。(……)というのは、保育園から中学校まで一緒だったこちらの同級生で、幼い頃はすぐ近所にあるこのお祖父さんの家に遊びに行き、サイダーなどのジュースを良く飲ませてもらったのだ。今となっては別に付き合いがあるわけでもないが、このように、時折りこちらを見かけると挨拶を送ってきてくれる。それでこちらもこんにちは、と声を届かせ、会釈をしてから掃除に戻った。(……)また、その件よりも先だったかあとだったか定かでないが、やはり終盤、自宅から東側の路上に見える楓に陽射しが掛かっているのを眺めた。空はやや雲がちで、楓からまっすぐ視線を伸ばしたその先には、石切場から切り出した石材のような雲が浮かんでいた。それほどに時間を掛けずに掃除を終えると、屋内に入って手を洗った。
 三時半よりも前には自室に帰っていたはずだ。多少インターネットを逍遥したのだが、次に日課の記録に登場する時間は四時半過ぎ、これは音楽を聞き出した時刻である。この日のことを思い返してメモを取った際に、これは遊びすぎではないかと思った。そんなに長くインターネットを回っていた記憶もないのにおかしいなと引っ掛かり、ブラウザの履歴を確認してもみたのだが、三時台後半からはまったくの空白になっており、何をしていたのか自分で自分の足取りが掴めない。しかし、のちになって就寝前の瞑想中に思い出したけれど、ここの時間は隣室に行ってギターを弾いたのだった。それも、確かこの日のことだったはずだが、一弦の切れて指板の汚れもひどいテレキャスターを大層久しぶりにアンプに繋いで弄ったのではなかったか。即興演奏などと言えるほどのものではない、ブルース風のフレーズを適当に散らかして遊んだのち、この日は早めの時間から音楽を聞く気が向いた。五時半までの一時間ほどで、Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "Solar"、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5)、Fabian Almazan, "Alcanza Suite: Ⅳ. Mas (feat. Camila Meza)", "Alcanza Suite: Ⅴ. Tribu T9", "La Voz De Un Bajo (Linda May Han Oh)", "Alcanza Suite: Ⅵ. Cazador Antiguo", "La Voz De La Percusion (Henry Cole)"(『Alcanza』: #5-#9)、Ibrahim Maalouf, "Intro", "DIASPORA", "Improvisation kanoun", "HASHISH"(『Diaspora』: #1-#4)である。Nina Simoneのこのナンバーは、大変に素晴らしいと思う。元々この曲はBessie Smithが歌っていたものらしいのだが(Nina Simoneが間奏中に、"Bessie Smith, you know"と呟くのでそれと知られたのだ)、そちらの音源も聞いてみたいものだと思った(そして、図書館にちょうどそれを含んだCDが所蔵されていたので、翌日に早速借りてきて聞くことになる)。前日に続いて聞き進めたFabian Almazanの作品中、この日聞いたなかでは六曲目が面白く感じられ(しかし何が面白かったのか細かなところはわからない)、続くLinda Ohのベースソロも耳を惹くところがあった。音楽に集中して耳を傾ける時間というものは、端的に言って最高[﹅2]である(最高に「気持ちが良い」)。正直なところ、小説を読んでいるあいだよりも満足の度合いは高いと感じられる(そのわりに、音楽を聞こうという気が起こらない日もあるのが不思議だが)。それはやはり、表象によらない感覚的直接性の成せるわざなのだろうか、あるいは言葉というものの肌理を汲み取るこちらの感受力がまだまだ未熟だということでもあるのかもしれない。
 その後、いくらかの料理をするために上階に移った。(……)米は既にといであるものが笊に入って置かれてあったので、それを釜に移し、水を張って炊飯器にセットした。そして、フライパンで茹でたあとの大根の葉を取り上げ、両手で強く圧迫して水気を絞り、それを端から刻んでいった。ハムも細かく切り分けて、胡麻油でもって双方炒める、と簡単な具合に一品を拵えると、すぐに自室に帰ってヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読みはじめた。七時を回るあたりまで書見を続けて、一二七頁から一四八頁まで渡った。その後、瞑想に入ったのだが、空腹のためかじっと座っているだけでも身体が少々苦しいように感じられたので、すぐに一度、切り上げるかと顔を擦ったものの、そうしているあいだにやはりもう少し頑張ってみるかと気が変わって続行した。記憶を探りながら一五分を過ごすと、食事を取りに行った。メニューは、先ほど用意した大根の葉の炒め物のほかには、カキフライおよび白身魚のフライの惣菜があった。テレビには何かしらの料理番組が映っており、谷原章介が出演していて、彼が黄色のパプリカを切りはじめたところ、その包丁の動きが高速で無駄なく流れ、実に手際が良い。いかにもイケメンらしい(「イケメン」のイメージ(=「物語」)に過たず合致している)、と思ったものだ。新聞の一面には、「北国境の橋 中国が閉鎖 きょうから10日間予定 貿易制限 警告か」という記事が載っており、その本文を追いたかったのだが、どうも気が散らされて読むことができなかった。
 食後、散歩に出たのが、七時四五分頃だったと思われる。休みが続いていて出歩かないので、身体が全体的に鈍り、こごっているように感じられ、そろそろ道を歩いて肉体をほぐさなくてはという気持ちが高まっていたのだ。しかしこの夜は、凄まじい寒さだった。ダウンジャケットを着ていても身体が勝手にぶるぶると震える強烈な冷気であり、肩が自ずと上がって首もとを固めるようにこわばる。倒れるのではないかと、歩きはじめにちょっと頭に過ぎったくらいだった。それで一歩一歩慎重なように踏んで行き、坂を上りながら短い襟を持ち上げて口もとも覆わせる。空は例の、透き通って凍てたような冬の夜の色合いで、雲は欠片が一つ擦られたようになっている程度でほとんど見られないそのなかを、飛行機の明滅が露わに通って行く。とてもでないが、悠長に長時間の散歩に洒落込むような気温でなかったので、ルートをカットして早めに表の通りへ出た。街道まで来たあたりで、身体も温まってきたようで、震えは一応止まっていた。と言ってそれでもやはり寒くて、周囲の物々に注意を向ける余裕もあまりなく、歩調も速まっていたのではないか。帰ってくると八時五分だった。すぐに風呂に入ると危ないように思われたので、緑茶を飲みながら書き物をちょっとして身体を落着け、それから入浴に行った。(……)出ると(……)白湯を持って室に帰り、書き物の続きに取り組んだ。二〇日の日記である。一〇時半過ぎまで一時間半ほどを掛けると、身体が固まったのでベッドに移り、読書をしながら脹脛を刺激した。わりあいにゆっくりと、言葉を良く見ながら読むことができたようである。この時は『ダロウェイ夫人』を一四八頁から一七六頁まで進めた。すると零時前、途中で起き上がってゴルフボールを踏みもしたところ、身体がだいぶ軽くなっていたので、ふたたびコンピューターと向かい合った。この時には、それまで椅子の上にコンピューターを載せてベッドの縁に座りながら作業をしていたのをやめて、テーブルに就く形に戻した。と言うのは、ベッドに腰を下ろしながらモニターを前にすると、座る場所の感触や機器との距離などの条件によって、顔が自然と前に突き出してしまい、姿勢も猫背になって、そうすると身体全体が容易にこごってしまうからである。それで書き物はやはりスツール式の椅子に座って背すじを伸ばした状態で取り組むことにして、この時もそのように進め、その途中で新聞を持ってくるために上階に行った。(……)そうして、白湯を新しく注いで室に戻り、二一日の日記を綴っているうちにいつの間にか二時間が経過していた。おのれの心中に(と言うかむしろ、心身に[﹅3])生じた不安についての考察を記したところまでで切りとした。この日の書き物は合わせて四時間、字数で見ると七〇〇〇字ほどとなった。
 その後ふたたび『ダロウェイ夫人』を読み進めた(一七六頁から一九五頁まで)。前日よりも早く眠るつもりだったので、三時過ぎに切り上げて、瞑想をこなすと三時半に消灯した。暗闇の寝床で、心臓神経症の残滓が微かに生じるようだった。不安について書き記したので、それについてあるいは死についていくらか思いを巡らせたのだが、そうするとやはり少々怖くなってくる感じがあった。つまりまた、自分は次の瞬間には死んでいるのではないかという例の妄想が頭に湧いてくるのだが、こちらもこの数年でよほど耐性を身に着けているので、それに囚われることもなく、姿勢を変えたりしてやり過ごしているうちに、じきに寝付いたらしい。

2017/11/23, Thu.

 一〇時台のうちに一度、目を覚ました。しかしいつものことで気付かないうちにまた眠りに落ち、次に覚めると既に午後一時になりかかっていた。カーテンをひらくと、窓の向こうの空は一面、一片のくすみもない青に満たされていた。また眠ってしまわないようにと注意しつつ、姿勢を変えながら自分の呼吸や身体の感覚に意識を寄せて、起き上がる意志が自然と生じてくるのを待った。布団から抜け出すと一時五分か一〇分というところだった。睡眠時間を計算すると、四時四〇分から一時五分までとして、八時間二五分となるが、やはりもう少し縮めて七時間台には収めたいと思うものだ。ベッドの縁に腰を掛けて肩を少々回してから、洗面所に行って口のなかをゆすぐとともに水を飲んだ。それから便所に入って用を足すと、部屋に戻って枕の上に尻を乗せた。遅い起床にはなってしまったものの、やはり起きてすぐ、一日の始めに瞑想を行っておくことは大切だろうと考え、この日はきちんとこなすことにしたのだ。布団で脚を覆い、薄手のダウンジャケットを羽織ると、外の音が聞こえるようにと窓を細くひらき、瞑目して何らの能動性もない自然さのうちに身を委ねた。そうして一時一六分から三〇分ちょうどまで一四分間を過ごすと、食事を取るために部屋を出た。
 (……)前夜の餃子の残りがあったので、それを電子レンジで加熱して、椀によそった白米とともに卓上に並べた。ほか、白菜やニンジンを小さく分けて多少熱したものらしく、飾り気のない野菜の入った皿も横に置き、食事を始めた。新聞をめくって興味を惹く話題を確認している最中に、あいだの頁に挟まれたユニクロの広告のなかにカシミヤのセーターを着た女性の画像があり、見れば佐々木希と名が付されているのに、佐々木希という人はこんな顔だったかとちょっと意外に思った。結婚をしたから、人妻らしく(というのも良くわからず、疑問符が付く言い方だが)、化粧が以前よりも落着いて「ナチュラル」な風になっているのだろうと、そのようなことを考えながら、この情報が自分の頭のうちで「あとで書き記すこと」のほうに分類されかかっているのを感じ、このようなささやかな、特段の興味もない人物についての印象は、わざわざ記さなくとも良いのではないかと自分自身の脳の動きに対して反論した。記録の必要は明らかにないだろうと思ったが、しかし必要性で考えるとなると、日々あれほど長々とした日記を綴る必要そのものがもとよりまったく存在しない。結局は自分の気分と欲望に任せて、自ずと書き記されるものは記されるに委ねればそれで良いわけだが、そもそもそれがどのような物事であれ、何かがそこに「ある」(存在している)ということは、それだけですなわち、「書かれる価値がある」ということと同義なのだ。この世に生起するすべての[﹅4]物事のうちで、(現実的には勿論、能力的に書けないこと、感情的に書きたくないことが様々あるにせよ)「本来的に(原理的に)書くに値しない」ことなど、ただの一つとして[﹅8]存在しない、というのが、二〇一四年の頃以来、変わらずこちらの主体の根幹に据えられている「信条」(信仰)である(「法」でも「神」でもなく、「筆」の前の平等という意味での平等主義)。
 新聞のなかでは例によって国際面から読みはじめ、まず、「パレスチナファタハ幹部 「統一政府樹立に遅れ」」という記事を読み、次いで、「レバノン首相帰国 辞任は保留の意向 大統領が要請」、「ムラジッチ被告 終身刑 旧ユーゴ戦犯法廷 ボスニア虐殺 判決」、「新たな独裁懸念も ジンバブエ ムナンガグワ氏 政敵弾圧の疑惑」と進んだあとに、一面に戻って、「19年5月1日 改元へ 新元号、来年中に公表」というトップニュースを読んだ。それに隣接して、「退位へ 残された課題」と題したシリーズものの記事が始まっていたのでそれにも目を通し、四面に続きがあるとされていたので、そちらも最後まで読み通すと切りとした。食べるものも既に食べ終えていたので、そうして席を立ち、台所に食器を運んで洗い物を済ませると、風呂場へ行った。そこから湿った束子を持ってベランダに行き、陽射しのなかに吊るしておくと浴室に戻って、ゴム靴を履いた。浴室の床には、普段立てられてあるはずのマットが何故か寝かされていたが、室内に漂白剤の香りが僅かに感知されたので、処理中なのだろうかと放っておくことにして、ゴム靴でその上を踏みつけながら浴槽の蓋を取り、ブラシを使って縁や内側を洗った。風呂洗いを行ったあとは緑茶を用意して室に帰り、ベッドの縁に腰を掛け、椅子の上にコンピューターを置いて起動させた。Evernoteを立ち上げて前日の記録を付け、当日の日記記事も作成すると、Twitterを覗くなどしてインターネットをほんの少し回ったが、すぐにブラウザを閉じた。それでこの日は初めに何をするかと気分を探ったところ、このところ中断していた日記の読み返しのほうに気が向いたので、二〇一六年一一月一五日火曜日の記事を読みはじめた。描写的な一節を二つ、この日の記事にも引いておきながら、二時三一分から四〇分までの九分で読み返した。三時になったら洗濯物を取りこむつもりでいたところ、それまでの少しの時間で何をするかと考え、これも久しぶりに、半端に読みさしていた岡崎乾二郎「抽象の力」の続きを読もうと固まった。それでページにアクセスして、二時四三分から三時二分まで文章を読み進めて、「自由学園」という学校について触れた短い部分を日記のほうに引いておいた。「フレーベルの方法の批判改良もした(1919年に来日もしていた)ジョン・デューイの方法を取り入れた」という部分が少々気を惹いたのだ(ジョン・デューイの名が目に留まったわけだが、このアメリカの哲学者がいくらかの興味の対象となっているのは、(……)知人が研究しているのを瞥見したところ、いずれこちらも著作を読むべきではないかと思われていたからである)。この部分は、村山知義という美術や演劇など多方面で活動したらしい人物について記述されているその途中にあったのだが、この村山という人は初めて知る名前だった。
 そして三時に至ったので一旦上階に移り、まず便所に行って放尿してから、ベランダの洗濯物を取りこんだ。先ほど食事をしているあいだなどには空気に光の感触が含まれていたが、この時には西の空に雲が広く無造作に湧き、陽射しの暖かみはなくなっていた。とは言え、気温としてはさほど低くないようで、戸口に立って外気を受けると、冷気が寄せてくるのでなく、どちらかと言えば爽やかというような大気の感触だった。それからソファに腰掛け、タオル類を畳んで洗面所の籠まで運んでおくと、ヨーグルトを一つ食ったのちに下階に戻った。ベッドの縁に腰を下ろし、ふたたびインターネットを覗くと、(……)が更新されていたので、それを読むことにした。二〇一七年一一月二二日分の記事である。三時一三分から四四分まで掛けて読み通し(途中には、何に触発されたのだったか、こちら自身のブログにもアクセスして前日に綴った一八日の記事を少々読み返した)、それから、身体をほぐすことにした。コンピューターをテーブルの上に移し、アンプから伸びたケーブルを繋いで音楽を室に満たせるようにしてから、例によってyoutubeを用いてtofubeatsの"WHAT YOU GOT"を流した。その音のなかで脚を前後にひらいて筋を伸ばしたり、左右にひらいてスクワット様の姿勢で静止したり、屈伸を行ったりした。音楽が自動的に"BABY"に移行されると、こちらもベッドに場所を移して、柔軟運動を行って下半身をさらにほぐした。"Don't Stop The Music"、"朝が来るまで終わる事のないダンスを"と音楽を移行させて、それが終わると運動も終いとして、三時四七分から四時九分までと時間を日記に記録した。そのまま例によって、またもや歌を歌いはじめた。初めにMr. Children "ファスナー"を歌い、それからライブラリを探っていると、実に久しぶりのことだがOasisを掛ける気になって、『(What's The Story) Morning Glory?』の二曲目から連続する三曲、"Roll With It"、"Wonderwall"、"Don't Look Back In Anger"を流して歌った。さらに同じアルバムから、最終曲である"Champagne Supernova"を流したが、Oasisセカンドアルバムのなかでは、自分はこの曲が一番好きなのだと思う。それで興が乗ったのだろうか、熱の入った歌いぶりになって、昨日(この記事は、溜まっているものを後回しにして二三日の当日に記しており、現在は午後七時九分である)、一八日の記事に記した「ゾーンに入った」とでもいうような状態になり、そういう時にままあることだが、太腿のあたりの筋肉がぶるぶると細かく震えた。
 ここからは、一一月二六日の深夜一時三一分に記しはじめている。上の記述は二三日当日に書いたものであり、まだ時間が経っておらず記憶も詳細に残っていたので、自分の行動や印象をできるだけ細かく追い、正確に記してみようと試みたのだったが(と言うか、明確な意思を感じないまま、書いているうちに記述が勝手にそうした方向に進んだのだが)、これはやはり面倒臭い。何時何分から何分まで何をやったなどと、日課の記録から正確な時間の数値を引き写してもみたが、これはまったくもって億劫で、やる必要はないなと判断された。自分が何の歌を流したり歌ったりしたかなどということも、日記本文に仔細に跡付けるほどのことではなく、端的に言ってどうでも良いではないかと思う(しかし対して、何の音楽を聞いたか(じっくりと腰を据えて耳を傾けたか)ということについては、きちんと記しておきたいという気持ちがある)。そういうわけで、OasisのあとにまたSuchmos "STAY TUNE"を流したり、Stevie Wonderを歌ったりもしたのだが、そのあたりの詳細は省いて次の行動を述べると、五時に至ったあたりで上階に行った。暗くなった居間のカーテンを閉めていると(……)その時こちらはベランダに通じる西のガラス戸の前に立っていたところで、水晶的な青さの夕空に細い三日月が掛かっているのが目に入った。
 それから台所に立って多少の料理を行うわけだが、"いちょう並木のセレナーデ"を聞きたいという気分があったので、この日も小沢健二『刹那』をラジカセで流した。件の曲を聞いてから冒頭に戻し、手軽なところで肉と合わせて炒めるために玉ねぎを切った。また、炊飯器にもう米がほとんどなく、それをおじやとして食べることになったので、その具として人参や大根も細かく切り分けてから、冷凍されていた肉と玉ねぎをフライパンで調理した。
 食事の支度に切りを付けると室に帰り、一時間五〇分ほど書き物をしている。この時記したのが、この記事の冒頭からの四つの段落である。七時を回ると瞑想をしてから食事に行ったはずだ。食事の席ではテレビが『プロフェッショナル 仕事の流儀』を流しており、この日の放送は舞妓スペシャルというような形で、舞妓という存在を成り立たせるのに欠かせない専門的な職人たちを取材していくという趣向だった。インタビュアーとして滝沢カレンという女性モデルが招かれており、職人の人々に話を聞いていたのだが、この人は確か、Instagramの写真に付すコメントで個人言語とも言うべき「狂った」文章を発明している人ではなかったかと思い出された。最初に取り上げられていたのは簪を作る職人で、記憶が正確でないが、多分仕事の動機の中核は何かというような問いが向けられたのに対して職人が、自分の道具を使ってもらえて嬉しいという気持ちよりも、責任感のほうが強いですね、これがないと舞妓さんは座敷に出られないわけだから、というような具合で答えたのに対して、滝沢カレンは、珍しい言い分だという風に評価していた。それが本当であれ嘘であれ、わかりやすく嬉しいからとか、「笑顔のために」とか言う人が多いじゃないですか、でもそうじゃなくて、「責任」ということをおっしゃったので、すごく頑固なんだなと思いましたという風に述べて、職人のほうも、それは大変褒め言葉ですと受けていた(支配的な「物語」に対して批判的/批評的距離を取るという身振りの、実にささやかな水準ではあるものの、一具体例)。次にフォーカスされたのは帯を作る職人で、こちらは確か七〇歳にもなるというくらいの女性だった。手機を使って糸を一本一本手作業で織り上げているわけだが、その手機というものが何と言うか、無数の糸が取り付けられた細密な構造物で、有機的な生き物のように動くもので(蜘蛛のイメージが微かに喚起されたかもしれない)、あそこにも多分、あの女性にしかわからない小宇宙みたいなものがあるのだろうなと思われた。実際、カメラの前で作業をしている途中に、手もとで織られている布地に何か異変があったらしく(正しい模様とは違う場所に妙な筋が入っているという話だったが、こちらには見分けられなかった)、それでどこかの糸が切れているなと女性は判断して、無数に垂れ下がっているもののなかから切れた箇所を見つけ出していた(業者を呼んでいる暇がないので自ら直すわけだが、老齢のために機械の上部に登って下りるのが難儀そうで、骨を折ったことも二回あると言っていた)。
 食後は自室に緑茶を用意してふたたび岡崎乾二郎「抽象の力」を読み、一箇所を日記に引いたのち、風呂に行った。戻ってくると九時半から一九日の日記を綴りだし、おおよそ一時間ほど続けて完成させたらしいが、そのまま次の日の分には入らず読書に移っている。それはおそらく、腰のあたりがひどくこごっていたからだったと思う。入浴前に岡崎乾二郎の論文を読んでいる際にも、ベッドに腰掛けながら腰回りを良く揉みほぐしていたのだったが、ここまで来てこわばりのために、スツール式の椅子に背すじを伸ばして座りながら打鍵を続けるのが辛くなったのだろう。それでベッドに寝転がり、ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を一時間強読みながら休んだのち、書き物を再開する前に音楽を聞いた。原則に従って、Bill Evans Trioの一九六一年の音源から、"All of You (take 2)"と"Some Other Time"を聞いたのち、一七日に購入したTHE BLANKEY JET CITY『Live!!!』の冒頭三曲を流した("絶望という名の地下鉄", "冬のセーター", "僕の心を取り戻すために")。至極曖昧な印象でしかないのだが、浅井健一の歌唱というのはある面で、Robert Plantとタイプとして近いところがあるのではないかと思った。浅井健一も声は甲高いけれど、ハイトーンがどうのこうのという話ではない。基本的に「歌唱」というのは、旋律を構成する音群を整然と区分けしながら、そのそれぞれの高さをなるべく正確になぞって発声するという技術を基盤として、その上に何らかの質感だとか「表現力」とか呼ばれる類のものを付与する(要するに、ニュアンスを凝らす)、というものとして披露されると思うのだが、浅井健一とかRobert Plantとかいうボーカルは、そうした意味での「歌唱」や「歌声」というものから不安定にはみ出た、ある種の「語り口」のようなものが優勢となる場面が多いのだ(だから、他人がそれを真似する/彼らの楽曲を歌いこなすのは難しい)。THE BLANKEY JET CITYのあとは、現代ジャズと呼ばれているジャンルの音楽を続けた。Fabian Almazan, "Alcanza Suite: Ⅰ. Vida Absurda y Bella", "Alcanza Suite: Ⅱ. Marea Baja", "Alcanza Suite: Ⅲ. Veria", "La Voz De Un Piano (Fabian Almazan)"(『Alcanza』: #1-#4)、同じくFabian Almazan, "H.U.Gs (Historically Underrepresented Groups)"(『Personalities』: #2)、最後に、Ryan Keberle & Catharsis, "Madalena"(『Azul Infinito』: #8)である。Fabian Almazanの『Alcanza』は、数か月前にBandcampで購入したのをようやく聞きはじめることができたわけだが、ここまで来るともはや「ジャズ」という言葉を使う意味が良くわからなくなってくるような気がする(「現代ジャズ」と呼ばれる分野には、多分ほかにも結構そういった作品はあって、いまに始まったことではないのだろうが)。一曲目が面白かったのだが、このあたりは「ジャズ」というよりも、(「前衛的な」?)クラシック作品とか、あるいはプログレッシヴ・ロックなどのほうが作法として明らかに近いのではないか。
 音楽には一時間をたっぷり費やし、その後一時半からふたたび書き物に入って、二〇日の記事を四五分間進めた。新聞記事を写したあとはだらだらと過ごしたらしい。その時だったか、書き物のあいだだったか忘れたが、Twitterをちょっと覗いた時に、阿部公彦を聞き手として古井由吉がインタビューされた映像を発見し、全篇を見るのは有料だったが、短いサンプルが三つ公開されていたのでそれらを視聴した。眠る前には瞑想を二〇分行って、四時一〇分に消灯である。

2017/11/22, Wed.

 既に一一月二六日の午前零時三九分を迎えているのだが、この日の生活の様子は中途半端にしかメモを取っておらず、日付として四日も前になる一日の記憶を念入りに探って仔細に記すのが面倒臭いので、大方は省略して一言だけ触れることにする。ここからこちらが得た教訓は、やはり記述を見てすぐに記憶が蘇ってくるくらい詳細なメモを記録しておかないと、書きたかったことがあっても書けなくなってしまうということだ。非常に粗いが情報量だけは豊富な細かい下書きというような感じで、時間を経てから見ても文を書き記す気持ちが起こるような記録をつけておかねばならないだろう。
 新聞記事についてだけ言及しておこうと思うが、一度目の食事(また八時間半に渡る怠惰な眠りを過ごしてしまった結果、食事時には既に一時半頃になっていたようだが)のあいだに、「退位 19年3月末か4月末 政府2案 来月1日 皇室会議」、「北の更なる孤立化図る 米が「テロ国家」再指定」という二記事を一面から読んだ。退位と改元に関しては、翌日の朝刊で、統一地方選終了後の一九年五月一日案が本線となる見通しだと続報が述べられていた。この二二日の朝刊内ではほか、一〇面に寄せられた井上智洋「AI時代 人間が働くには」という小文も読んだが、この人は『ヘリコプターマネー』という本の著者である(この著者及び著作の名は、(……)で知った)。


ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年

●38
 「肩にショールをかけ、歩道で花を売るモル・プラットは、愛すべきあの子に幸あれ、と願った(あれは絶対に皇太子殿下だよ)」
 → 12: 「クラリッサは縁石に立ち、やや緊張して待った。すてきな人だ、とスクロープ・パービスは思った」
 → 35: 「ブルック通りのこちら側にはクラリッサ、向こう側には老判事サー・ジョン・バックハースト(長年法律上の判断をなさってきた方、身なりのよいご婦人がお好みの方)」

  • おそらくこのテクストにおいて、ただの一度しか[﹅7]その名前を書き記されずに終わるであろう人物たち(「通りすがりの」人々)。


●38
 「その間も噂は体内をめぐって血管に堆積し、この身が王族の目に触れた、王妃様に会釈された、皇太子様に手を振られたと思っては、太腿の神経をうずうずさせた」


●41
 「この異様な静けさと平和、この淡い青さ、この清らかさの中で、鐘が十一時を打った」

  • 物語の現在時の判明。


●58
 「いえ、立ち向かうのは、正しくはにらみつけてくる月並みな六月の朝ね」

  • 「六月」への言及。


●68~69
 「違う、わたしはまだ老いてなんかいない、と思った。人生五十二年目に入ったばかりだもの。(……)クラリッサは、落ちていく水滴を捕まえにいく勢いで化粧台に駆け寄り、この瞬間の核に飛び込んで、それを固定した。ほら、これが六月の今朝の――あらゆる朝の重さを背負った今朝の――この瞬間。クラリッサは、鏡と化粧台とそこに並ぶすべての瓶を新たな目でながめ、この一瞬におけるわがすべてを鏡の中に据えた。女の小さなピンク色の顔をながめた――今夜パーティを開く女の、クラリッサ・ダロウェイの、自分自身の顔を」

  • クラリッサの年齢の判明。
  • 「六月」への言及。
  • 「クラリッサ・ダロウェイ」という呼称の初出。ここではその名は、何よりも「パーティ」と結び合わされている(「今夜パーティを開く女」)。


●69
 「この顔――何百万回見てきたことか。いつも、傍にはそれとわからないほどにちょっと引き締めて(クラリッサは鏡を見ながら口を結んだ)。これでわたしの顔になる。これがわたし。尖って、ダーツの矢みたいで、輪郭がはっきり。意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めたときのわたし。いつもとどれほど異なり、どれほど相容れないか、わたし以外は誰も知らない。世間向けに作られた一つの中心、一つの菱形、一人の女。その女は客間にすわり、大勢の集まる場を用意する。人生に退屈している方々にはきっと一瞬の気晴らしになるでしょう。孤独な方々にはたぶん慰めの場になるでしょう。若い人を助けて感謝もされた。わたしはいつも同じ自分であろうと努め、それ以外の自分は――欠点だらけで、焼餅焼きで、自惚れ屋で、疑心暗鬼の自分は――おくびにも出さないようにしてきた。たとえば、レディ・ブルートンの昼食会に招かれなかったときのわたし。(……)」

  • 「意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めたときのわたし」「世間向けに作られた(……)一人の女」 対 「それ以外の自分」「欠点だらけで、焼餅焼きで、自惚れ屋で、疑心暗鬼の自分」。
  • 「客間にすわり、大勢の集まる場を用意する」という記述を、「パーティを開く」ということと同義と取り、上の項目で触れたことを考え合わせるならば、ここでの前者の「わたし」は「クラリッサ・ダロウェイ」としての夫人の様態だということになる(これが以前に出てきた「ダロウェイ夫人」=「リチャード・ダロウェイの妻」と等しいものなのかどうかは、まだいまいち良くわからない)。夫人にとって、その様態の自分であるためには、「意識的な努力」が必要である(「意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めた」「わたしはいつも同じ自分であろうと努め」)。後者の「それ以外の自分」は、「クラリッサ」としての夫人ということになるだろうか?

 

●82
 「「いま、恋をしている」とピーターは言った。クラリッサにではなく、闇の中によみがえらせた誰か――手では触れられず、暗闇の芝生で花輪を捧げるしかない誰かに言った。
 「恋を」と繰り返した――今度はさほど感情を込めず、クラリッサ・ダロウェイに。
 「インドにいるある女に恋を」。さあ、花輪は捧げたぞ。それをどうするかはクラリッサしだいだ。」

  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の二回目。


●88
 「ビッグベンが半を打ち、鐘の音が異様な力強さで二人の間に割り込んできた」

  • 物語の現在時の指定(十一時半)。


●93
 「軍服の若者が隊列をなし、銃をかつぎ、まっすぐ前を見据えて行進していく。その腕は固定され、顔には銅像の台座に刻まれた碑銘のような表情がある」

2017/11/21, Tue.

 一一時台に一度覚めたらしい。その時にはまだ、カーテンをひらくと太陽が寝床に少々光を射しこんでくる位置にあり、陽射しを多少受けもしたようだが、起き上がる気力は湧かなかった。布団のなかで首や肩のあたりを揉んでいるうちに、結局は正午を過ぎての起床となった。前日よりも暖かな空気の調子だった。
 (……)食事を取っているあいだ、新聞からは、「和解後のガザ 生活劣悪 電気は1日5時間 薬届かず」という記事を読んだ。また、連日の報道を追ってこの日も「ムガベ氏強制退陣へ ジンバブエ 弾劾案 可決の方向」の記事も読んだはずだが(なぜ自分がジンバブエ情勢の話題をここのところ追いかけているのか、自分でも理由ははっきりしない。ジンバブエという国家については何も知らないし、特段の興味の手掛かりも掴んでいないはずだが)、これについてはあまり印象に残っていない。
 室に戻ったあとはいつものごとく緑茶で一服しながらコンピューターに向かい合い、前日に綴った一七日の日記を自ら読み返しているうちに二時が近くなった。それで運動を行い、歌もちょっと歌ってから上階に行き、ベランダの洗濯物を取り込むと畳むものを畳み、それからゆで卵を一つ食した。さらにアイロン掛けをしたあとに、炊飯器にもう米がなくなっていたので研いでおきたいと思い、四合半を笊に用意して洗ったが、手を晒す水がさすがにもう相当に冷たいもので、まさに骨身に染みるという慣用句を地で行く刺激の強さだった。
 着替えを済ませて三時半頃に玄関を出ると、(……)出勤に向かった。坂道に入ると、斑に色づき明るくなっている風景のなかで、眼下の道に立つ銀杏の樹がもう上から下まで一色に整って、薄陽を添えられて周辺でも殊に明るんでいるのが目に入る。上って行きながら、確固とした訳もなく、不安めいた気持ちを少々感じ取った。二〇日の記事には書き漏らしてしまったが、この前日にもやはり同じ坂を上りながら、何か覚束ないような不安の類を覚えていたのだ(だからと言って、この木の間の坂という場所自体がこちらにそうした心情を喚起させる何らかの特殊性を備えているわけではない)。その時のそれは、どちらかと言えば離人的なものというか、周囲の知覚情報や自分の現今の存在の現実感が朧であることに起因するものではないかと、その場では推測された。このような離人感(という名称分類で合っているのか確信がないのだが)の類は、これまでも折に触れて感じたことのあるものである。この時はさらに続けて、(文章化すると飛躍があるように思われるかもしれないが)自分は時間が流れるということそのものが怖いのではないか、と思いついた。それはすなわち、自分の死がいつか到来することを恐れているということだろうか、と更なる解釈が継ぎ足されたものの、これはわかりやす過ぎるもので、実感に照らしてもあまり確かだとは思われなかった。現在のところ、こちらの心としては、死んだところで所詮大したことではない、というような(虚無的な?)気分がどちらかと言えば支配的であるように感じられる。言い換えれば、自分の死についてあまり興味が湧かないということで、あれはストア派の考えだったかエピクロス派のそれだったか忘れたけれど、古代ギリシア・ローマの哲学流派で、自分が死ぬ時にはその自分自身は既に存在していないのだから、それについて考えても仕方がないというような捉え方を唱導したものがあったと思うが、これは現在のこちらの心情とわりと近いものであるような気がする。自分の死というものは、完全に自分の「外部」にあるということだ(この点で(自分自身の)「死」とは、「無」や「神」というものと似ている)。要するに、それは自分にとって「確かに見えない」もの、「考えることのできない」ものなので、それについて諸々の感情を抱くこともないということだろうか(しかしまた、いま(一一月二五日の午前一時半)書き記しながら思ったのだが、「自分の死」そのものと、「自分がいずれ死ぬという事実」は異なる思考対象のはずで、主体にとって実存的問題となるのは主に後者のほうではないか)。以前の自分は明らかに「死」を恐れていたと思う。と言うのも、「死への恐怖」によって生み出される幻想的な神経症状を体験した時期があるからだ。そのうちの一つは頭痛や頭の違和感で、これは二〇一二年の八月に祖母がくも膜下出血で倒れたという出来事がきっかけで、自分もいつ何時あのように脳出血を起こして死ぬかもわからない、という思いが頭に根付いたことが直接的な要因である(祖母はその後、二〇一四年の二月七日に死去した)。もう一つは心臓神経症で、これがなぜ始まったのかはわからないが、夜の寝床で眠りを待っていると心臓の鼓動が気に掛かって、これがどんどん速く高まっていってそのまま心臓が破裂するのではないか(不安の具体的内実は、「心臓が停止するのではないか」ではなく、物理的に考えればあり得ないのだが、やはり「破裂するのではないか」だったように思われる。あるいは「破裂する」というのは一つの象徴的イメージで、要するにこれも「死ぬのではないか」ということと同義だったと考えるべきだろうか)という幻想的な不安に囚われてしまうのだ(そして、それによって実際に心臓は爆発的に亢進する)。そうした時期を何とか乗り切ったいま、その当時に死を恐れるだけ恐れた反動のようなもので、ある種吹っ切れたような心境になっているのではないかと思うこともある(これもありがちな解釈ではあるが)。このように一応は言ってみるものの、しかしそれでは自分がいま死をまったく、完全に恐れていないかと言えば、そう確言する自信はない。何らかの理由で、自分がいよいよ、そろそろ死ぬのだということが確かに見えるようになれば、また怖がりだすのではないかという気もしないではない。
 前日の不安についての言及が思いのほかに長くなってしまったが、この日の不安のほうに話を移すと、これは言わば「内臓的な」不安で、胃のあたりだろうか身体の奥に実体的な苦しさがちょっと滲むような感じだった。前日のような離人感は伴わなかったらしく、この時に自分の感覚を探って下した解釈としては、自分は(私的領域ではなく)外界にあることそのものに緊張しているのではないかと考えられた。「外界にあること」を、「他者との接触可能性があること」と読み替えるならば、要は自分は「他者」と関わること(誰であれ他人と言葉(すなわち、意味/力の作用)をやりとりし、コミュニケーションを交わすこと)そのものに対して、ある種の不安を覚えがちなのではないかと思われるわけだが、もしそうだとすれば、自分は主体の基本的な性質として、社会性(あるいは全般性)不安障害的な性向を備えているということになるだろう(パニック障害を発症したのも、結局はそこが核心だったのではないか)。そのようなことを諸々考えはしたものの、実際にはそんなに大袈裟な話ではなく、単に食後に飲む緑茶に含まれているカフェインの作用なのかもしれないが、とも思った。
 道中、裏路を歩いていると、女子高生二人が前方で立ち止まり、スマートフォンを掲げて写真を撮っている。それは、もう角度もだいぶ鋭くなった西陽を受けて明るんでいる森の姿を収めているらしく、こちらも合わせて目を向ければ、渋くなった緑の合間にところどころ丹色も挟まる樹々の上から暖色を掛けられた様子の確かに鮮やかで、美しいと言っても良いかもしれない。色のうちに、甘いような調子が僅かに覗かれるようだった。
 勤務中や帰路や、帰宅してのちの食事中のことは覚えていないので割愛するとして、自室に戻ったあとの時間に話を移すと、ベッドに座った位置でもアンプを通して音楽を聞きたいと考え、上に積まれた本をどかして機材の位置を移して試行錯誤をしたものの、ケーブルの長さなどが不都合で諸々面倒だとなり、結局元のままに直すという一幕があった。零時半過ぎから書き物を始めたのだが、爪が伸びているためにキーボードを打ちにくいのが気に掛かって、すぐに中断して手の爪の処理を先にした。Robert Glasper『Covered』をヘッドフォンで聞きながら切り終えると、一一月一八日の記事に取り組んで、二時半前までで二〇〇〇字を足した。その後は四時二〇分までヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読み(四五頁から七七頁)、一〇分瞑想をして就床である。

2017/11/20, Mon.

 例のごとく、一〇時頃に一度覚めたらしい。時間を認識して即座に、ここで起きれば六時間だから悪くないと睡眠を計算したようなのだが、これもいつも通り、また眠りに捕まって、一一時を越えた。何度も意識を取り戻す浅い微睡みを通過しながら、決定的に起きることができなかったのには、寒さのせいもやはりあったのではないか。結局一一時四五分が正式な起床時間となり、一二時一〇分から二七分まで瞑想を行うと部屋を抜けた。
 以前に買ってきたレトルトのカレーがあっただろうと思いだし、食事はそれを食べることにして、玄関のほうの収納棚から箱を取りだして、鍋でパウチの湯煎をした。ほかに前夜の野菜スープの類も一緒に食べるあいだ、新聞からはジンバブエの情勢の続報を追った。二面にある「ムガベ大統領、退陣不可避 ジンバブエ 与党代表解任」という記事を読んだはずだが、これについてはあまり良く覚えていない。一一月二四日の深夜二時七分を迎えている現在、ムガベ大統領の退任は既に現実のものとなっており、いまざっと見ても特に写しておきたい情報もなさそうなので、この記事については書抜きを行わない。その後一面に戻って、「日本版トマホーク開発へ 政府検討 対地・対艦ミサイル」というトップ扱いの記事を読んだが、これに関してはいくらかの情報を書抜いておくべきだろうと判断される(「トマホーク」というのは、今年の四月六日(シリア時間だと七日の午前三時台で、新聞の一面に、暗闇を背景にした艦の写真が載っていたのを覚えている)に米国がシリアのシャイラト空軍基地を攻撃する際に使用された巡航ミサイルである。その時には五九発が撃ちこまれた。当時写しておいた関連記事を下のほうに改めて引いておく)。
 室に帰ったあとは、普段だったら他人のブログを読むなり自分の日記を読み返すなりをするところだが、この日は『ダロウェイ夫人』の気になった箇所を日記に抜き出し、場合によっては短いコメント(個人的注釈)も付すという作業に時間を費やした。ちょうど一時間ほどそれに掛けると、それだけでもう二時半近くを迎えており、そろそろ外出の支度を始めなければならない。しかし身体をほぐすことだけはしておくことにして、多分またtofubeatsを流しながら柔軟運動を行い、その後で前日に引き続きSuchmos "STAY TUNE"を歌ったらしい。この曲のMV(ミュージック・ヴィデオ)のなかでこちらに一番気に入られるのは、一度目の「Scramble comin'」のあたりで、顔を前に突き出すようにして首をちょっと傾げながら視聴者にまっすぐ視線を送ってくるさまが挑発的で好感が持てるものだ。さらに、その後に続く短い「yeah yeah」の発声に合わせて、逆方向にまた首を傾げるとともに、眉を見ひらいてみせるというのも、いかにもな演出で少々「あざとい」と感じられなくもないものの、挑発の具合としてはさらに高まり生意気ぶりが増していて格好が良いと思う。
 その後上階に行き、ゆで卵一つのみを食べて僅かなエネルギーを補給すると、下に戻って服を着替えた。服を脱いで新たに身に着けるその背景には、またもや"STAY TUNE"を流していたらしい。そうして出発すると、道の先の楓の、赤々と鮮やかにあるいは艶やかに装ったのが目に映えて、もうすべて赤に染まりきっているなと見ながら近づけばしかし、表面の紅の奥に隠れてまだわりあいに残っていた薄緑が、突如湧き出すようにして現れ、それに一瞬の微かな惑乱が差し挟まったようで、はっとするような心地になった。空気の質感は明らかに冬のものだった。最高気温が一〇度、最低が五度ではそのはずだろうと、新聞の天気欄に読んだ数字を思い出しながら道を行った。
 行きもなかなかの肌寒さだったと思うが、夜の帰り道は当然ながら冷気がさらに厳しくて、空気の冷たさがここで一段移行したなと、そんな風に感じられるものだった。裏路の先には女性が一人歩いており、あちらが振り返ったところに、視線など見えてはいないだろうがちょうど真っ向から目が合うようになり、その後は追い抜かせるでもなく自ずと遠ざかるでもなく、互いの歩みの速さがちょうど良く噛み合って、そんなつもりは勿論ないのにあとをつけるようになるのに何となく決まりが悪い。それで辻から表に出ることにして、曲がったところで目に入った東の空が、寒い時季特有の凍てたような、金属的な質を帯びている。この寒さではさすがに、何か温かいものでも飲みたくなるなと自販機を見ながら行って、酒屋の横でココアを見つけたので、買ってその場で立って飲んだ。立ち尽くしてちびちびやっているこちらの前を、夜でも意外と人通りがあって、自転車や徒歩やらで何人か過ぎて行く。ちょうど丁字路のところで、正面にひらいた下り坂の向こうに、電灯の白い塊が四つ五つ、行儀良く整列しているのが目に入る。ココアを飲み干してもそこにごみ箱がなかったので、缶を持ったまま歩き出したところ、冬には良くあることだが中身のなくなった缶が途端に冷気を吸いはじめて、指が大層冷やされるので持て余した。持ち手を変えながら進んで、ローカルなコンビニめいた商店のところでようやく捨てることができた。
 帰宅後は、Ernest Hemingway, The Old Man And The Seaを三〇分読み(英語に触れることはこの時以来今まで(一一月二四日の午後九時三六分まで)怠けている)、食事を取りに行った。(……)テレビには、何の番組だったのか忘れたが、「ANZEN漫才」というお笑いコンビが取り上げられており、このうちの「みやぞん」という人が特に人気らしく、彼らは今年の学園祭にも引っ張りだこだという話だったが、こちらはこの人々の存在をここで初めて目にするものだった。彼らのパフォーマンスが面白いものなのかどうか、こちらには良くわからなかったが(そもそも密着取材のような形のVTRで、舞台上での芸の場面はあまりフォーカスされていなかったのだが)、会場いっぱいに集まった観客らが楽しそうに騒いでいるのを見て、あれだけの人間たちを一挙に沸かせることができるのだから、やはり大した能力なのだろうなと思った。夕刊からは、「ムガベ氏 辞任表明せず ジンバブエ 与党、弾劾手続きへ」という記事を読んだが、先にも記した通り、ムガベ大統領は既に辞任しており、後任となるだろうムナンガグワ元副大統領が南アフリカから帰国して、「我々は新たな民主主義の誕生を目の当たりにしている」というような演説を行ったと、今日(一一月二四日)の朝刊で読んだところである。この時にはまた、「ドイツ 連立協議決裂 FDPが離脱表明 メルケル氏に暗雲」という記事も読んだ。これについても、ちょうど今日の朝刊に続報が出ていて、自由民主党(FDP)との交渉に失敗した与党が、大統領を仲介役として、下野を表明していた社会民主党SPD)に連立への復帰を働きかけているというような話だった(社会民主党と連立できれば、合わせて三九九議席になって、下院の全七〇九議席過半数を悠々と越えることができる)。
 食後、一〇時から五〇分ほど書き物をしたのちに風呂に行った。湯に浸かって、身体を水平に近く寝かせながら周囲に視線を動かすと、浴槽の縁の上面に溜まった大小様々な水滴に目が惹き寄せられた。平面から緩やかに盛り上がってなかに微細な光の反映を含んでいるそれらの、液体でできているというよりは、貼りつけられたセロファンか何かが空気をはらんで内側から小さく膨らまされているようにしか見えなかった。髭を剃って上がり、自室に帰ると、ふたたび一一月一七日の記事に取り組み、それで気づけば三時間以上が経っていたから、やはりこちらの本分というのはこうした方向の書き方なのだろうなと判断された。一一時三六分から午前二時五八分まで続けて八〇〇〇字弱を足し、一七日の記事は全体では一四〇〇〇字を数えるというから、なかなかに長い。
 その後は三時半前からヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読み(三四頁から四五頁まで)、就床前の瞑想に入った。何かか細い持続音がかすかに鳴っているのが右耳に捉えられたが、室内の何かの機器の発するものなのか、それとも自分の身体が作り出している耳鳴りなのか、区別が付かなかった。一九分を座って、四時四〇分に床に就いた。


ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年

●13
 「なぜこれほど生を愛し、生を見つめたがるのか、誰も知らない」
 「みな生きることを愛してやまない」
 「人々の眼差しに(……)わたしの愛するものがある。怒鳴り声と喧騒に(……)わたしの愛するものがある」

  • 「(生に対する)愛」のテーマ。

●14
 「青みがかった灰色の朝の空気が、柔らかい網目のように辺りを覆い、でも時間とともに薄らいで、ほどけて、競馬場の芝に飛び跳ねるポニーが見えてくる」

●15
 「わたしも同じだ。愚かしくもひたむきに、情熱的に、この生を愛し、のめり込んでいる」

  • 「(生に対する)愛」のテーマ。

●17
 「いまは六月。木々の葉が出そろい(……)」
 → 12: 「ピーター・ウォルシュ……もうすぐインドから戻る。六月? 七月?」(「六月」の初出。しかしここでは、現在時の明確化ではない)
 → 13: 「生と、ロンドンと、この六月の一瞬がある」
 → 13: 「いまは六月半ば。戦争は終わった」

  • 「六月」の反復的明示。

●17~18
 「天の生気が波となって木々に押し寄せ、葉を熱くまぶしくそよがせる。クラリッサはその生気を愛した

  • 「(生に対する?)愛」のテーマ。

●18
 「離れ離れで何百年。ピーターとはそんな感じだ。こちらは何も書かないし、向こうから来る手紙は味も素っ気もない。でも、ときどき、ふと、あの人がここにいたら何と言うかしら、と思う。日により、光景により、あの人が静かに――昔のとげとげしさを捨てて――戻ってくることがある。たぶん、かつて人を好いたことへのご褒美ね」

●20
 「わたしは何も知らない。(……)なのに、いま、目の前のすべてに心を奪われる。もう夢中。行き交うタクシーさえもおもしろい」

●21
 「わたしが愛するのは目の前のいま、ここ、これ。タクシーの中の太ったご婦人」

  • 「(生に対する)愛」のテーマ。

●22~23
 「言いようもなく小さく干からびてしまったあの方には、病室に入るとき一瞬でもいい、元気になってほしいけれど、そのきっかけになりそうな本が見当たらない。入ってしまえば、いつもどおり、また女の病気について際限のないおしゃべりが始まるとしても、入室の一瞬、あの方が嬉しそうにいてくれたらどんなにいいか……」

●24
 「豌豆の蔓を這わせる棒みたいな細い体に、鳥の嘴のような鼻がついた変な顔」

●24
 「でも、この体、わたしがいままとっているこの肉体は、どんな能力があるにせよ無だ(足を止めてオランダ派の絵を見た)。完全な無に思える。クラリッサは、自分が透明になったような奇妙な感覚にとらわれた。見えず、知られず、もう結婚することもなく、子を生むこともない。ボンド通りの意外なほどの――でも、なんだか厳かな――行進に混じり、ついていくだけ。ダロウェイ夫人というこの感覚。もうクラリッサですらなく、リチャード・ダロウェイの妻というこの感覚」

  • 「クラリッサ」という登場人物/主体の存在様態の二分。彼女はここで初めて、「ダロウェイ夫人」=「リチャード・ダロウェイの妻」として名指される(そして、少なくともこの箇所ではそれは、「クラリッサ」とは異なる(分離された?)ものとして(「もうクラリッサですらなく」)示されている)。
  • この部分をそうして読んだ時にやはり連想せざるを得なかったのは、蓮實重彦の「発見」した『ボヴァリー夫人』の「テクスト的現実」、つまり、『ボヴァリー夫人』という作品のなかには「エンマ・ボヴァリー」という固有名詞がただの一度も[﹅6]書きこまれていない、という事実のことである(こちらは『「ボヴァリー夫人」論』をまだ読んでいないので、彼がその事実からどのような「意味」を引き出したのかは知らないのだが)。それと同じように、ことによると、『ダロウェイ夫人』のテクストにおいても、「クラリッサ」が「クラリッサ・ダロウェイ」として指示されることは一度もない、という事態が存在しているのではないか、という可能性を思わず考えてしまったのだが、しかしそれは勿論、この先のテクストを読んでみないとわからない。

●28
 「贅沢な夏の一日、ほとんど藍色に見える空の下でデルフィニウムカーネーションとオランダカイウの咲く一日が終わり、モスリン地のドレスを着た娘らがようやく繰り出して、スイートピーや薔薇を摘みはじめる夕方。六時と七時の間のひと時」
 → 14: 「クリケット場には走りまわる若者の一団。透き通るモスリン地の服を着た娘たちもいて、昨夜は踊り明かしたふうなのに、もう、ばかばかしいほど毛深い犬を連れ出し、駆けまわらせている」

●28~29
 「六時と七時の間のひと時。薔薇もカーネーションもアイリスもライラックも、すべての花が白に紫に赤に濃いオレンジに輝き、かすみはじめた花壇で花の一輪一輪が柔らかく、清らかに、自力で燃える一瞬。ヘリオトロープと待宵草の上を飛びまわる青白い蛾の隠れん坊を、わたしはどれほど愛したことだろう

  • 「(生に対する)愛」のテーマ。ここでは過去時。

●30
 「くたびれた外套を着て、茶色の靴をはき、榛[はしばみ]色の目に不安を浮かべている」

●34
 「この水曜の朝に歩道をせわしなく往来していたすべての人が骨と化し(……)」

  • 物語の現在時のより細かな指定(曜日の判明)。

2017/11/19, Sun.

 この日の午前中の時間はすべて睡眠によって覆い尽くされ、午後の一時に至ってようやく起床した。四時三五分から一時ちょうどまでとして、八時間二五分に渡る眠りである。時間が遅くなったので、起床時の瞑想は行わなかった。この日一度目の食事には、炒飯を食べた。食事のあいだ、新聞からは二面の「パレスチナ代表部 閉鎖警告 米、アッバス氏演説理由に」という記事を読んだ。また、読売新聞の日曜版では一面と二面を用いて「地球を読む」というシリーズが設けられており、名の通った識者が交代で小規模な論考を寄稿している。細谷雄一が寄せたこの日のものも、この食事の時と、夜の食事の時とで目を触れさせたが、これは結局、最後まできちんと読みきらない中途半端なものとなった。
 一一月二三日(午後九時五二分)現在、この日の生活の記憶は大方失われており、メモも大してなされていないので、書き記せることは少ないだろう。おそらく食事を取ってすぐのち、二時台だったかと思うが、家の前の掃き掃除を行った。(……)掃除中、道の先に見える楓の木の、整然とまとまった紅の色に、もうよほど赤くなったなという風に目を留めたようだ。足もとで箒に弾かれる落葉のなかにも、盛りの林檎そのままの色の赤に染まったものが混ざっていた。
 (……)三時四六分から運動を始めた。記憶に残っていないが、例によってtofubeatsを流しただろうと思う。四時九分まで身体をほぐし、それから歌を歌って遊んだ。何を歌ったのかも覚えていないが、唯一印象に残っているのは、Suchmos "STAY TUNE"をyoutubeで繰り返し流して何度も歌ったことである(しかし、「風船ばっか見飽きたよ」の「あ」の部分、続く「うんざりだもう」の一部、終盤の二回目の「Scramble Comin'」のハイトーンは、完全にこちらの現在の音域の範囲外で、何度歌っても声にならなかった)。いささか流行遅れの嵌まり具合ではあるが、youtubeで"YMM"という曲のライブ映像も視聴した。ライブの舞台でも、目に入った限りボーカルの人は一度も笑わず、眉根をちょっと寄せるような表情もしばしば見られ、そうでなくとも視線をまっすぐ張ったようにしており、人間味のない機械じみたような印象を与えないでもないその「愛想の無さ」は好感が持てるものだった。(……)
 台所に立って、汁物を作るために大根や牛蒡などの野菜を切り分けるあいだも、"STAY TUNE"が頭のなかに自ずと再生されていた。鍋で野菜を炒めて水を注いだところまでで残りを任せると、下階に帰って、日記の読み返しをした。五時一二分から二六分までで二〇一六年一一月一四日月曜日の記事を読み、描写を三箇所、この日の記事にも写しておいた。その後、前日のことをメモに取りはじめた。五時二七分から六時三九分まで、一時間以上も費やしたのだから、かなり細かく記録したのだと思う。そのまま続けて一六日の記事に取り組み、八時六分まで掛けて三一七七字を綴り足し、完成させることができた。書き物に切りをつけても、まだ食事には行かなかったらしい。前日には瞑想ができず、この日の起床時にも行わなかったので、ここでできる時にやっておこうと考えて、八時三五分から四九分まで枕の上に座った。そうして夕食を取りに行っただろうが、そのあいだのことは何一つ覚えていない。
 次に記録に現れる時間は午後一〇時一九分で、一七日に読んだ新聞の書抜きをしている。「レバノン「代理戦争」不安 首相辞意 サウジ強制の見方」、「ムガベ氏・軍 南アが調停 ジンバブエ 前副大統領、帰国か」という二つの記事から一部を写しておくと、一〇時三六分、そこからふたたび書き物に入った。一七日の日記を午前一時二六分まで休みなく書き続けて、五七八五字を綴ったところで切りとしたらしい。それから他人のブログを読んだのち、二時五分からヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読みはじめた。当初は三時くらいまで読んだら音楽を聞きたいと考えていた。ここのところ、生活のなかで音楽にじっと耳を傾ける時間を作れずにいたし、そろそろFabian Almazanの『Alcanza』もどんなものなのか聞きはじめたかったのだ。しかし、『ダロウェイ夫人』が面白く感じられて、そちらのほうに気を惹かれ、この夜はこれをできるだけ多く読もうという気分になったので、音楽に触れるのは断念された。それで三時四八分まで読書を続けて、一一頁から三四頁を読み、すぐに瞑想に入って、四時二分まで座ると消灯した。

2017/11/18, Sat.

 この日の睡眠は四時一〇分から一二時五五分までと、久しぶりに九時間近くの長きに達してしまい、これにはさすがに眠りすぎだろうとの反省の声を自らに差し向けざるを得なかった。これほど眠ってしまったところを見ると、この前の晩はやはり、街に出て様々な情報(=「意味」)に触れたことや、深夜にモニターを前にして書き物に邁進したことによって、結構な疲労が溜まっていたらしい。床を離れるのが遅くなってしまったので、起床時の瞑想は行わなかった。かなり冷え冷えとした調子の曇天だったようである。(……)厳しい寒さのために、台所に行くより先にまず自ずと椅子に就いてストーブを点けてしまい、足先をしばらく暖めてからハムと卵をフライパンで焼いた。黄身まで熱が通らないうちに丼に盛った米の上に移し、卓に戻ると醤油を垂らしながら黄身を崩して、米と絡めて混ぜつつ食べ出した。新聞をひらいて読むのは相変わらず国際面ばかりで、この時は、カタルーニャ州議会選に向けた見通しを述べる記事、ジンバブエムガベ大統領が退陣を拒んでいるという記事、イラクで「イスラム国」の最後の拠点が奪還されたという小さな記事、そして、カンボジア最高裁判所が最大野党の救国党に解党命令を下したという記事(そんなことができるものなのか、とナイーヴに驚いたものだ)を読んだと思う。これらの記事は未だ(現在は、前文が語る時点から丸三日と半日ほどが過ぎ去った一一月二二日の午前一時二六分である)書抜きをされずに放置されていたので、日記を綴っているいま、ついでに済ませてしまおうと思う。
 二一日の記事に、新聞からの引用を済ませて戻ってきたわけだが、この日の生活に話を戻すと、食後に自室へ帰ったあとは、いつものように緑茶を飲みながら日記の読み返しを行った。二〇一六年一一月一三日、日曜日の記事である。これは両親とともに兄夫婦の宅を訪れた休日で、長く外出していたから全体で一万字を越えた長い日記になっている。兄夫婦の家では昼食に、豚カツやたこ焼きなど豪勢な食事を振舞われてたらふく食っておきながら、その後の会話には退屈を覚えてソファに移ってうとうと微睡むという、礼を欠いたような振舞いを取っている。「キヌア」と言って南米の穀物だったと思うが、それを初めて目にして食しているのもこの時である(そしてその後、この食材を口にする機会は得ていない)。特段に美味いものでも不味いものでもなかったはずだが、サラダ様にしてあって、ぷちぷちとした独特の触感を持っていたのではなかったか。一年前の自分もなかなかに頑張って文章を綴っていたようで、現在の記事に引いておこうというくらいに興味を覚える部分が結構発見された。そのなかから一つ、特に印象に残っている場面を、この日記本文にも引いておく。

 (……)神田に着くと、乗り換えである。ホームの端に陽が掛かって、温かいそのなかを殊更好んで歩く。首を振れば、小さな虫が空間から欠片が零れて遊ぶようにして、白い軌跡を空中に丸く描いている。前方に視線を戻せば、先に行く両親は、身体が接しそうなほどに近づきながら、ゆるゆる進んでいる。腕を組まないのだろうかと、その距離感に思っていると、目を離したうちにやはり、母親が父親の腕を取ったようで、次に見た時には腕が交差していた。二人のその背を、電線の影が斜めに渡って宿り、何か線の上に設置されている機具だろうか、時折り出っ張りを作りながら、歩みに応じてするすると、縄が引かれるように流れて行く。

 「腕を組まないのだろうか」と書いてしまった部分は、「腕を組むのではないか」と言うのが正確だったように、今からは思われる。両親が腕を組んで寄り添っている姿など、当然ながら、普段見付けているわけでない。この時にはしかし何だか、そんな予感がしたのだ。それはあるいは「予感」と言うよりもむしろ、「期待」だったのかもしれない。つまり、快晴の正午前の「美しい」光に染まった空気のなか、ここで二人が腕を組めば、「物語」的な場面としてより完成されたものになるではないか、というこちらの気持ちの現れだったのではないか(もしそうだとするならば、先の記述は「腕を組まないのだろうか」のほうが、こちらの「期待」が正確に反映された表現だということになる)。実際、「美しい」という言葉を思わず恥ずかしげもなく使ってしまいたくなるような、ひどく透き通った明るさの大気だったことをよく覚えている(そしてやはり、小沢健二"さよならなんて云えないよ"の感傷的な一節、「本当は分かってる/二度と戻らない美しい日にいると」をこの時にも思い出している)。
 日記の読み返しを仕舞えると、その後はインターネットを回ったのだろうか、日課の記録には空白が挟まれている。そうして、三時から他人のブログを読み、続けて運動を行った。二〇分ほど体操と柔軟をこなしたのち、例によってそのまま歌を歌っている。四〇分も歌い散らして四時を回ると書き物に入った。と言って、正式な文を作るのでなく、メモである。この時点で一六日の記事がまだ済んでいなかったので、一七日のことを忘れてしまう前にと記録したのだったが、そのメモを取るだけで一時間も掛かっている有様である。それだったらもはやメモなど取らずに記憶に基づいてさっさと書いたほうが良いのではないかとも思われるが、そうするとやはり与えられた時間内には終えられず、記憶が失われて、記したかったはずのことを記せなくなってしまうだろう。
 五時二〇分頃、上階へ行った。(……)こちらは台所に入って夕食の品を拵えることにして、冷蔵庫を覗くと、前日にも食った牛肉がパックにまだわりあい残っていたので、手軽なところでこれを炒めるかと固まった。玉ねぎと、赤いピーマンも僅かに残った半端なものがあったので加えることにして切り分け、牛肉も元々薄かったものをさらに少々細かくした。肉は全面に偏差なく、鮮明と言って良いほどに赤の色に満ちていて、包丁で切り分けながらその色の強さに目を惹かれたのを覚えている。作業の背景には、料理の傍らに音楽を掛けるのは久しぶりのことだが、小沢健二『刹那』をラジカセで流していた。"さよならなんて云えないよ(美しさ)"を口ずさみながら、野菜を炒めはじめ、自ずと顔を前に出してフライパンの上に持って行ったが、すると玉ねぎの成分が目に痛い。しばらく炒めてからにんにく醤油で味付けをして仕上げると、時間が早いがもう食事を取ることにした。七時台後半から勤め先でのミーティングがあったからである。白米と即席のシジミのスープに、今しがた炒めたものを卓の上に用意し、夕刊に目をやりながらエネルギーを補給した。この時読んだのは、三面に載っていたシリア調査団任期切れの記事のみで、これは例によってまだ書抜きをしていないので、いまここでついでに済ませてしまおうと思う(現在は、一一月二二日の二一時〇二分である)。
 食事を終えると洗い物を処理し、アイロン掛けを始めた。この時テレビには『MUSIC FAIR』という音楽番組が映っており、東方神起から二人がゲストとして招かれて、なかなか上手な日本語で喋っていた。MCの一人である仲間由紀恵が、私も彼らの曲が好きで、楽屋などで聞いているんです、というようなことを言っていて、少々意外に思ったと言うか、何となくイメージに合わないような気がしたが、そんなことはまったくどうでも良く、わざわざ書き記しておくほどのことではないと思う(その時に流れたVTRは過去のものだったようなのだが、そこで披露されているラップ調の曲を見てみても、何と言えば良いのか、「オラオラ系」と言うとちょっと違うと思うのだが、ある種の「男性らしさ」の印象=意味素を感じさせるようなもので、ありがちな考え方ではあるけれど、甘いマスクを持っていながら同時にそうした「男らしさ」をも兼ね備えているという点が、女性ファンの心を掴むのかもしれない)。アイロン掛けを続けていると次に登場したのはAKB48の面々で、二列になってずらりと並んでいるのに、何人いるのかと数えてみたところ、前列には九人が並んでいた(後列は、この時はカメラの対象がすぐに全景から個人に移ってしまったために数える隙がなかったが、あとで確認してみると八人だった)。AKB48並びにアイドルというジャンルには、今のところ特段の興味はない。この時にも、渡辺麻友がここで卒業だという話が成されていたが、彼女の名前自体は聞いたことがあったものの、顔を明確に認識したのはこれが初めてである。その隣には柏木由紀というメンバーがいたのだが、彼女のほうはどこかで見たことがあって、辛うじて名と顔が一致していた。トークののち、渡辺麻友の過去の番組出演映像が流れはじめて、(……)。次に、水樹奈々渡辺麻友が共演した回に移ったが、水樹奈々の歌う楽曲はさすがに良くできたものだと思われた。声優に提供される楽曲やアニメソングの類をどこかで端々耳にするたびに、こちらがそうした方面の音楽に覚える全体的な/一般的な印象を一言にまとめれば、それは「手が込んでいる」というものである。アニメというものを今は基本的に視聴しないので(パニック障害のために大学を休学していた時期などは、多少見ないでもなかったが)知らないけれど、そちらのほうの音楽というのは、ポップミュージックの一ジャンルとして、かなりユニークな分野になっているのではないかという気もしないでもない。
 掛けるものを掛け終えると室に帰り、Radioheadの『Kid A』を流しながら歯磨きをした。その後、服を着替えて外出へ向かう。今秋初めてのことだが、さすがにストールを巻かないわけには行かない気温の低さだった。行きの道中には、この日のメモを取った時点で、「驚くほど印象に残っていることがな」かったらしい。外界に目を向けるのではなく、大方頭のなかの動きを見ていたようである(その物思いだって散漫なもので、記憶に残るほどの形を成さなかったわけだが)。
 (……)
 夜更けた帰路はかえって、行きよりも身に寒さがない。こちらの身体に熱が生まれているのだろう。特に動いたわけでなく、この日は働いたわけでもないが、人中にあるとそれだけでやはり気もいくらか張り、体温も上がるのではないだろうか。疲労感もなかなかにあった。面白いことがあって、手を叩いて馬鹿笑いをしたりもしたのだが、しかしから騒ぎの類だな、と一人になった夜道を行きながら醒めたような気分になった。人々のあいだにあると、何をしなくともそれだけで、やはり精神的に疲れるようだった(こちらに差し向けられてくる意味の量が多いのだ)。それで歩調が自ずと緩いものになった。裏路を通りがかりに見上げた樹の樹冠の影が、背景の夜空よりも尚更暗んできのこ雲のような形となっており、過ぎる間に葉が離れたようで頭上の梢からも葉っぱ同士で擦[す]れる音がして、そのあと地に触れる音も立った。風は道よりも高いところに吹いていたようで、道中、線路の向こうの林の梢が鳴るのを聞いた覚えがある。
 帰り着いて玄関に入ると、(……)時刻は一〇時四五分頃だった。居間に入るとテレビは『超入門!落語 THE MOVIE』という番組を流しており、(……)。自室へ行って着替えをして、足を少々ほぐしてから、一一時を過ぎて食事に向かった。(……)要するに、(……)傲岸/厚顔な振舞いは何よりも、端的に不快であり[﹅8]、互いに目の前に向かい合った人間と人間とのコミュニケーションとして望ましいものではまったくない、ということなのだ。エドワード・W・サイードが、自分は「怒り」という感情は勿論理解でき、それを抱いてもいるが、「憎しみ」という感情については正直なところ良くわからない、イスラエル側の人間に対しても、彼らを「憎んだ」ということは今までないように思う、というようなことをどこかで述べていた曖昧な記憶があり、自分も今までそれには同意するところだったのだが、しかし、こちらがこの世のうちで明確に「憎む」もの(つまりは、この世界から完全に[﹅3]消滅してほしいと、心の底からはっきりと[﹅10]願う対象)、これこそが自分の「敵」であると言いたくなるものがもしあるとすれば、それはこうした「傲岸さ/厚顔さ」を措いてほかにはないだろうとこの日には思った(そして何よりも厄介なのは、そのように考える自分自身ですら、この「傲岸/厚顔」から免れているかどうか確言できないということなのだ。例えばこうした日記を綴り、それを(部分的に検閲しながらも)公開しているということが、誰かにとって「傲岸」な振舞いとして映るということも(どのような理屈でそうなるのかはわからないが)ないとは言えないのではないか?)。
 (……)
 (……)食事を終えるとこちらは入浴に行った。湯に浸かっているあいだ、風に流される枝葉の響きが耳に届いてきた。出るともう零時に掛かっていたようである。室に帰ると、一六日の日記を書きはじめ、急ぐことなく気楽に進めた。これも折に触れて目標として心中に浮かんでくる考え方だが、この日の書きぶりは、「ただ書く」という方向により近づいていたと自分自身によって評価されたらしい。脳の自然な動きに従うと言うか、歌を歌っている時など、興が乗ってくると、どのように歌おうとか音程を正確に調整しようとか何らかの能動性を働かせなくとも、自分の歌声を「見ている」だけで、声のほうが勝手に適した方向に動いてくれて、そんな時には自分自身が歌声そのものに「なっている」かのような感覚を覚えるものだが(スポーツ選手などが体験する「ゾーンに入る」というような状態も、おそらくこれと同種のものだろう)、それと同じように、自分が書くことそのものに「なっている」、書くという動きと完全に一致していると感じられるような状態が、「ただ書く」の内実ではないか(それはおそらく、「書くこと」が一つの高度な瞑想となるような体験である。そして、この「なっている」というような状態が、書くことやその他の時間に限られず、生の全域にまで拡張され、存在の基盤として据えられたような様態がいわゆる「悟り」というものなのではないだろうか。ヴィパッサナー瞑想は、おそらく究極的にはそれを目指しているのだと思うが、実際のところやはりそれは実現困難なもので、現実的には「悟り」というのは多分、断片的な/部分的な/局時的な状態としてしか顕れてこないのだろう)。この時の書き物は、一時間四〇分で三七七六字を綴ったらしい。
 その後は特段のこともないが、古井由吉『白髪の唄』を読み、「紫の肌」の篇まで読み終えたところで、この本の読書は一旦中断することにした。と言うのは、一二月四日に(……)会合を控えており、その日のためにヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を読まねばならないところ、『白髪の唄』をこのまま読んでいては間に合わないのではないかと危ぶまれたからである。この夜は、就床前の瞑想は怠けたらしい。起床時のものも遅くなってやらなかったので、一日瞑想をせずに終わった。

2017/11/17, Fri.

 この朝もやはり、正式な起床よりも前に、二度くらい覚めた記憶の感触が稀薄に残っている。例によって起き上がることはできず、一一時四〇分を起床時刻として定めることになったわけだが、四時三五分から数えて七時間五分なので、量としてはそれほど悪くはないだろう。肉体の感覚も、前日よりはかなり軽かった覚えがある(しかし、体温はやはり下がっていたのではないか。また、いま思い出したが、起床以前に一度覚めた際、下腹部に鈍痛がわだかまっていたのだ。胃と言うよりは、腸のほうが痛んでいるのではないかと思われたが、胃のあるあたりまでも波及してくるようでもあった。その痛みとともに覚醒した時には仰向けの姿勢を取っていたのを、まず左向きになると、これでもいくらか痛みの和らぐようではあった。しばらくしてからまた仰向けに直ると、やはり痛みが復活したので、今度は右向きに寝ると先ほどよりもさらに楽になったのだが、そんなことをしているうちにふたたび微睡んでしまったのだ)。床を離れてからは、すぐに上階に行ったわけではなく、まず隣室に入ってギターに触れた。寝床にいるあいだから、目を閉じた視界のなかに指板の配置と指の動きを思い浮かべて、頭のなかで音を鳴らすようにしていたのだ。ただ実際に楽器を弄ってみると、寝起きで脳があまり回らないこともあって、音が良く「見えない」ようだった。
 しばらくしてから上階に行き、食事はうどんを前日の野菜スープの残りに投入して煮込んでこしらえた。(……)新聞のなかからは、レバノンジンバブエの情勢についての記事を読んだ(この二記事に関しては、先ほど(というこの言葉を書きつけている現在は、一一月一九日の二二時五一分である)書抜きを済ませておいた)。それで片付けなどをしてから室に帰ると、一時半頃だったらしい。いつものように他人のブログを読み、その後は普段なら日記の読み返しをするところだが、この日はすぐに運動に移っている。例によってtofubeatsをBGMとして流し、しばらく体操と柔軟を行ったあと、そのまま歌を歌ったようである。Mr. Childrenなどを最近は良く歌っているのだが、自分の音楽遍歴はこのミスチルから始まったと言って良い(小学校の五、六年の頃ではないかと思うが、兄が好きで、隣室で流しているのを自ずと聞き知ったのだ。ついでに言えば、兄はまたRadioheadも好きで、『Kid A』に収録されている"Everything In Its Right Place"とか、"Idioteque"のあのふわふわとしたファルセットなどを聞いて、これは多分頭のおかしい人が作った音楽なんだな、と素朴に思っていた記憶がある。さらについでに付け加えておくと、こちらの音楽的起源をもう一つ挙げるとするならばそれはB'zで、これもやはり自宅に兄が持っていたベスト盤があったのを中学生になってから聞くようになったのだが、Mr. ChildrenとB'zと言えばおそらく当時のJ-POPのなかでも合わせて最もメジャーに売れただろう、二大巨頭のようなグループだったはずで、そうした言わば「本流」ど真ん中のところからこちらの音楽的嗜好が始まっているというのは少々興味深い(もっとも、B'zからすぐにAerosmithVan Halenに流れた時点で、周囲の大勢からは逸れてしまったようだが))。近年のMr. Childrenには特段の興味はないが、『DISCOVERY』(このアルバムはRadioheadの『The Bends』や『OK Computer』から影響を受けていると思われる)の曲などはいま聞いてもそれなりに楽しめる(彼らの曲を歌う際もいつも"光の射すほうへ"から始めている)。この日はまた、ものすごく久しぶりのことでJohn Legendの『Live From Philadelphia』から"Heaven"と"Slow Dance"を流した。彼のアルバムを良く聞いていたのは大学時代、パニック障害が最も猛威を奮って心身がどん底まで弱っていた時期のことであり、当時は"Ordinary People"などを聞いてそれなりに慰められてもいたのだ(凄まじく紋切型の、ありふれた「物語」的な慰めがまだこちらの精神にポジティヴな力を及ぼしていた時代)。John Legendまで流すと、どうも随分とポップなほうに寄り過ぎたなという感じがしたので、Derek Baileyの"Laura"の独奏(『Ballads』)と、『Duo & Trio Improvisation』の最初の一トラックを聞いて聴覚的口直しをした。すると三時半を回ったあたりで、外出の支度を始めた(歌を歌っている最中、三時になったあたりで一度部屋を出て、洗濯物を取りこんで畳むものを畳んだはずである)。
 この晩秋で始めてモスグリーンのモッズコートを着用することになる肌寒さだった(マフラーはつけなかったが、それがあっても何の支障もなかっただろう)。リュックサックにコンピューターと古井由吉『白髪の唄』を収めたのを背負って、玄関を抜けると、取っ手のところに回覧板の入った袋が掛かっている。それを室内に入れておき、ポストまで行って夕刊を取るとそれも玄関に置いておき、そうして道に出た。明らかに肌に冷たい冬の空気で、前日にも張り詰めた、という言葉を思ったが、あれはもう日も暮れたあとのことでいまはまだ四時前で太陽が落ちきっておらず明るさも残っているにもかかわらず、さらに張ったような感じのする冷気が顔や首もとに触れてきた。坂を上って行くと、駅舎前の椛の木が色を変えているのが正面に現れるが、あまり赤や紅という色合いではなく、オレンジの色味のほうが定かに瞳に入るようだった。ホームに渡って先のほうへ進み、立ち止まると林の縁、黄色く染まった葉の群れの一角に視線を定めて凝視したのだが、するといくらかくらりと来るような感覚と言うか、平衡感が僅かに乱れる感じがあった。以前は駅のホームのように、周りに掴まるものが何もなくひらけた空間に立ち尽くすと良くあったことで、この時もちょっと不安(という語を使うと言葉のほうが強すぎるくらいのささやかなものだが)を覚えはしたものの、それ以上何の問題も起こりはしなかった。
 電車は行楽に行ってきた帰りの人々で混んでおり、扉際は埋まっているのでなかにちょっと進んで身を据える場所を見出して、リュックサックを足もとに下ろすと、左方の会話が耳に入る。髭を白くした声の大きな老人と、こちらもわりと高年らしい女性が話しており、女性の口から南千住という地名が洩れると、老人のほうは対して三河島とか言っている。そのあたりに住んでいたという昔話を交わしているようで、老人は、国鉄の事故があったところだが、とかその地にまつわることをいくつか挙げながら、いまの若い人などは知らないだろうと繰り返していた。国鉄の事故と聞いて(「国鉄」などという(「古い」/「歴史的な」)語が実際に人間の口から音として発されるのを聞くのは、ほとんど初めてではないか)、こちらは戦後すぐの頃にあった怪事件のことを思ったのだが(『白髪の唄』のなかでそれがほんの僅かに触れられていたのだと思ったが、詳しい記述と箇所は覚えていない。また、この時こちらが思い出した怪事件というのは、「下山事件」と呼ばれているもののことだったはずだが、のちになって調べてみると(つまり検索してみると)これは国鉄の総裁だった下山定則が失踪後に変死体となって発見されたという事件であり、正確には列車事故ではなかったようだ。さらに余談を続けると、この事件は、浦沢直樹の『BILLY BAT』のなかで物語上の一挿話として組み込まれていた記憶がある(この漫画を読んだのはもう相当に前のことで、それもどこかのブックオフで立ち読みをしただけなので、細部はまったく覚えていないが))、それは外れで、この日のことをメモに取っている最中(それは現在=一九日の二三時五八分からすると昨日にあたる一八日の午後四時台のことだが)に検索してみたところ、まさしく「三河島事故」という列車事故があったらしい。一九六二年のことだと言う。それでまた思い出したのがやはり『白髪の唄』のことで、この作の冒頭の篇では、山越(「やまごし」なのか「やまごえ」なのか読み方がわからない)という青年が病院の談話室で語り手と初めて会った際に、自分の家では家族の生まれたり死んだりが大きな事故と重なるのだと言って、つらつらと「細った節をつけて唄うようにして」(一三頁)列挙する場面があるのだが、そのなかにちょうど六二年頃の事柄が含まれてはいなかったかと思ったのだ。それで確認してみると、まさしくはっきり「三河島事故」という語が記されていた(ついでなのでここにそれを含む一文を引いておくと、「姉の生まれたのはその前の年で、三河島事故とか、やっぱり二重衝突が起って、同じぐらいの数の犠牲者が出たそうですね」(一一頁)となる。「その」が指示しているのは、山越自身が生まれた年として設定されている「昭和三十八年」(一九六三年)のことで、その年にもやはり、「鶴見事故という列車の二重衝突と、三池炭鉱のガス爆発が、同じ日に起った」と言う)。
 降りると乗り換えだが、向かいの電車の発車まで間がなく、普段は先頭車両まで行くところだがそんな余裕は与えられずに、すぐ手近の口から乗るほかなかったが、車内も移った人々で混み合って歩いて抜ける隙間もない。次の(……)駅で一旦降りて隣の車両に移り、そこから揺れるなかを先頭まで歩いて行った。座ってからは本を読む気が起こらなかったので休むことにして目を瞑ったが、すぐに目の前が真昼のような白さに染まって思わずひらき返すと、西陽がちょうど山際に入って峰を越えていくところである。こちらと向かい合って並んでいる線路の近間の建物まではもう陽射しはあまり届かず、その北向きの正面も薄暮れているが、側面にオレンジ色を掛けられた遠くの家並みの様子が時折り覗いて、電車のなかにまで光が届いてくる瞬間も何度かあった。瞑目を続けていると、(……)で勢い良く隣に座ってきた者があったので思わず目を開けると、艶を帯びた金髪の高校生で、この時はその顔をまっすぐ見たわけでないが髪の色合いからして外国人の血が混じっているらしいと思われた(あとで横顔に視線を向けると、やはり大層高くすらりとした鼻があった)。彼はイヤフォンをつけてスマートフォンでゲームをやりながら、鼻をずるずると頻繁に吸っており、時折り苦しげな呻き声まで洩らしているのを聞くとこちらもそれに影響されたのか、何となく鼻水が分泌されてきて、くしゃみが二、三度、出ることもあった。
 立川に就くと、便所に寄ってから改札を抜ける。平日の四時半であっても人波は厚く、そのなかにいると不安とまでは行かないが、周囲がやたらと忙しないように感じられ、どことなく落着かない気分を覚えたようだ。オリオン書房へと向かい、ビルに入ると、本屋に上がる前にHMVに寄ろうかともちょっと思ったのだが(FISHMANSが欲しいし、Suchmosも買っても良いかなとも思っていたのだ)、結局入らず素通りしてエスカレーターを上がった。フロアに踏み入るとまず最初に、久しぶりに音楽の棚のところへ行った。あれが出たのはもう去年のことか一昨年のことか忘れてしまったが、Derek Baileyの本のことを思い出して、もしあれば欲しい気もすると見に行ったのだったが、棚の前には人がいて書籍の並びが良く見えない。それで(……)海外文学のコーナーへ行った。区画の端のほうに、お目当てのミシェル・レリスの新しい邦訳(岡谷公二訳『ゲームの規則Ⅰ 抹消[ビフュール]』と『ゲームの規則Ⅱ 軍装[フルビ]』)が平積みで置かれていたのを確保し、一角の入口付近に戻ると、そこに特別に設けられた棚(ナボコフの『アーダ』の新訳が目立つように取り上げられていたと思う)から、トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』という本も手もとに保持した。これは先週この書店に来た際に見つけて、なかなか良さそうな本だと目をつけていたもので、とは言っても自分はこの「日常を探検に変える」ということを、多分既に大方実践していると思われるので、わざわざ買って読むまでもないのかもしれないが、そう思いながらもともかく購入することにした。その場を離れて続いて岩波現代文庫の棚の前に行ったのは、田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』という講義録が欲しかったからである。並んだ背表紙をつぶさに眺めても見つからなかったが、二〇〇四年に発刊されたものだからさすがに仕方がない。棚の上に視線を滑らせる過程で、入矢義高『自己と超越』という著作が目に留まったので、このタイトルは忘れないように手帳に記しておいた。それから音楽のコーナーに戻ったのだが、Derek Baileyの本も見当たらず、代わりというわけでないがケネス・シルヴァーマン『ジョン・ケージ伝』が置かれているのには、やはり欲求を駆り立てられるものの、七〇〇〇円くらいしたので諦めてメモを取るのみとした。その後、コミックの区画に移る。これは、『ロトの紋章』の続篇の所在を確認しておこうと思ったのだ。藤原カムイ作画『ロトの紋章』という漫画は、「思い出の」などと言うほどではないが、兄が持っていたのを子供の頃に楽しんで読んだ懐かしの作品であり、先日になって大変に遅まきながらその続篇が(もうこれも随分長く)描かれていたということを知って、物語の続きを読んでみたくなったのだった。しかしこの時には棚を回っても、その在り処を見つけられなかった。それでまあ良いかと払い、三冊を持って会計に行った。(……)
 ミシェル・フーコーの講義録を収めた文庫本がないかどうか、淳久堂のほうも見に行ってみるつもりだった。ビルの外に出ると、既に落日も終えてあたりはよほど暗んでいる。高架の通路を通って高島屋の前まで来たところで、長いコートを纏った男性が目に入り、その外套の色に気を惹かれた。臙脂色、と一旦は思ったが、そうと言うにはそこまで紫を含んでおらず、むしろ色味の強い紅葉のような渋い赤、と続けて当て嵌めて、あのような素敵な服を自分も身につけてみたいものだと、ちょっと心に働いたようでもあった。なかに入るとエスカレーターに乗って書店のフロアへ上がって行き、入店するとまっすぐ岩波現代文庫の棚の前に行ったが、目当ての本はやはり見当たらない(淳久堂は、単行本は丈の高く長大な棚にずらりと収められて圧巻の品揃えだが、岩波現代文庫に関してはオリオン書房のほうと同等か、むしろ後者のほうが少々勝っていたような気もする。この文庫の著作のなかでは、フーコーの件の本のほかに、カール・ポパーの自伝(確か上下巻になっていたはずだ)を以前から欲しいと思っているが、これももう古い本のようで新刊書店には置かれていない)。それで諦めて、せっかく来たから思想の棚でも多少覗いて行くかと歩き出すと、選書の区画に表紙を正面に見せて置かれたものの一つで、プリーモ・レーヴィ『これが人間』というのがある。思わず立ち止まって見れば、『アウシュヴィッツは終わらない』の完全版だという話だ(『アウシュヴィッツは終わらない』もまた、読まねばならないと思っていた本である。プリーモ・レーヴィでは、化学元素の名を題に付した章立てで構成された短編集である『周期律』という作品も、面白そうで読んでみたいと思うのでここにその旨記録しておく)。これもまた手帳にメモを取っておき、思想の棚のあいだに入って、ミシェル・フーコー関連の一角を眺めた。元々この日、これ以上本を買い足すつもりはなかった。コレージュ・ド・フランスの講義録の九巻目である『生者たちの統治』が棚には見られて、これはさすがに欲しくなるが、六〇〇〇円かそこらしたので、やはりいま買う気にはならない。このあとどうしようかと考えを巡らせながら漫然と周囲の棚を見ていると、尿意が催されてきて、それに不安の匂いがかすかに添ってくるようでもあり、過敏であるとは思ったが、先日(と言うのは一一月三日のことである)のようにまた激しく高潮されても困るので、大事を取って便所に行っておくかと長い棚のあいだを出た。それで便所の位置を探って進んでいると、行きがかりにちょうどコミックの区画があったので、こちらでも『ロトの紋章』続篇の在り処を見ておくことにした。昔のやつは確かガンガンコミックスではなかったかとは曖昧に覚えていたものの、現在の掲載誌は記憶しておらず、棚の周りを練り歩いたが、やはり発見できなかった(帰ってから調べたところ、続篇もやはり『ヤングガンガン』に連載されており、この時、該当箇所であるはずのスクウェア・エニックスの区画の前も通ったのだが、どうも見落としたらしい)。そうしてトイレに行くと、室の奥に踏み入った途端に、除菌液の類らしい薬品的な匂いが鼻に触れて、実に「衛生的な」香りだと思った。
 これで書店での用は済んで、ビルの外に出てきた頃には、久しぶりにディスクユニオンに行ってみるかという気分になっていた。強いて言えばFISHMANSくらいしか、事前の目当てはない。家を発つ前には、本屋を終えたら喫茶店に長く籠って、溜まっている書き物をできるだけ進めたらどうかなどと漠然と思い、それでコンピューターも荷物に加えてきたのだったが、どうも行く気にならなかった。レジで店員とやりとりを交わしたり、周囲にほかの人々のいるそのなかで作業を行う雰囲気を想像したりすると、何だか面倒臭い気持ちが優ってきたのだ。『白髪の唄』のなかには、話者が深夜にコンビニへ煙草を買いに行きながら、コンビニというストア(古井由吉的用語法)は普通の商店と違って、店員とのあいだのコミュニケーションが稀薄な分、気楽だと得心する箇所がある(「あれは夜にもひらいている便利さだけでなく、普通の商店には何となく入りそびれる、店に入って店の人間と対面して口をきくのがどうにも億劫な時があるものだが、そういう軽度の抑鬱の心理にも添うのだろうな、と思った。コンビニでも人と対面して口をきくことには変りがないが、あれは勘定だけのことで、こちらも客というよりは通行人みたいなもので、気の重くなっている人間にとってはよっぽど楽だ」; 五七頁/『白髪の唄』は一九九六年の発行、『新潮』への初出は一九九四年からである)。しかしこちらに言わせれば、コンビニでの流れ作業的なやりとりですら、億劫だと感じることのほうが圧倒的に多い(あるいはむしろ、コンビニだからこそ、なのかもしれない。つまり、「店員」と「客」という(「公共的な」?)役割にぴたりと収まって無機質なコミュニケーションを演じなければならないということに、ある種の「窮屈さ」もしくは「居心地の悪さ」を感じるのではないか(この社会/世の中が総体としてこちらの心身に[﹅3]生じさせる感覚を簡潔に表そうという時に、「居心地の悪い」という形容ほどぴったりとくる言葉はない。この「居心地の悪さ」は、おそらく一生涯、消え去ることはないはずだ))。そういうわけでこの時も、喫茶店に行くことを考えても面倒臭さの感が先に立ったのだが、こういう時というのはこちらの経験上、気持ちが内向きになっていると言うか、目立った支障はなくとも、どこかしらでかすかに不安なり緊張なりを感知している時である。書店やこのあとに行ったCD店では、そうした内向的な億劫さは物欲によって覆い隠され、克服されるわけだが、ともかくディスクユニオンに向かうことにして、高架の通路から下の道に下り、交差点に掛かった。横断歩道を渡りながら中途の小島で足もとを見下ろすと、黄色い落葉が散り積もっており、樹々の根元に設けられた植え込みには、春の桜花を思わせる白く小さな花が点いていた。
 ディスクユニオン立川店に入店すると、まずFISHMANSの在庫を見に行ったが、シングルしかない。ついでにその傍の、THE BLANKEY JET CITYの並びを見ると、『LIVE!!!』というそのまま直球のライブ盤が五五〇円で安くある。これにはちょっと欲しいなという気持ちが湧き、頭に入れておくことにしてジャズのほうに移った。新着のものから見ていき、そこを終えるとそのままアルファベット順に辿ったのだが、途中で面倒になって飛ばし飛ばしになった。以前は楽器別に分かれて整理されていたはずだが、その区別はなくなり、アルファベットを一つのカテゴリとして統合されている。ドラムの区画がなくなったので、Pの箇所に行ってPaul Motianの作品がないかと見ると、『Paul Motian Trio 2000 + One』というものがあり、Chris Potterが参加しているのに惹かれて買うことにした(しかし帰ってからプレイヤーのライブラリを確認したところ、これは既に所有済みの作品だった。Paul Motianは大変に興味深いプレイヤーであり、誰かしらが個人研究(モノグラフィー)を拵えるべき音楽家ですらあるとこちらは思ってその作品は多少集めているのだが、買っても一向に聞かないままに放置しているので、このようなところでその報いが出るのだ)。フリージャズの区画も、以前もよほど小さかったのが、さらに縮小されて隅のほうに追いやられている。回っていると現代ジャズの最近の作品も結構見かけたのだが(Mark Guilianaの新譜(Fabian Almazanが参加しているのは知らなかった)、Derrick Hodgeの『The Second』、Marcus Stricklandの近作(クレジットに見られたBIGYUKIという名前は、Twitterなどで見かけた覚えがあり(Mさんのブログにも確か現れていたのではないか?)、ヒップホップ方面の人間らしいという断片的な情報から、こちらは勝手にラッパーだと思いこんでいたところが、どうも違ったらしい。今のところヒップホップを好んで聞かないこちらからすると特段の興味の対象ではないなと思っていたところに、思いがけずジャズの文脈に繋がってきた形である)、あとはAntonio Sanchezの新譜も見た記憶がある)、どれもやはり結構値が張って、いま購入する気持ちにはならない。ジャズを回り終えると、書店で伝記を目にしたこともあって、ジョン・ケージの音源はないのかと思ったのだが、現代音楽がどこにあるのかわからなかった(クラシックの区画は見たが、そこにはコーナーが設けられていないようだった)。それでクラシックの横のソウル/ブルースに移行して、ソウルのほうは早めに流してブルースを探り、Fred McDowell『Long Way From Home』(六六年の録音)とMuddy Waters『The Complete Plantation Recordings』(四一から四二年の「歴史的な」音源)を買うことにした。それらに初めに目をつけておいたTHE BLANKEY JET CITYを加えて四枚をレジに持って行き、会計を行った。
 出てくると帰途に就くことにして、交差点を駅のほうへと渡る。メイド喫茶の客引きが立っている前を過ぎて進むと、中学生らしくブレザー姿の少年たちがこちらの横に現れて、「大根足」と口にしている。先ほどの客引きの女性の脚(こちらは注視していなかったが、多分肉付きの良くてふくよかな感じだったのだろう)に言及したものらしく、まだおそらくは一年生だろう身の小さくて声変わりもしていない子供らが、いっぱしに女性の脚(すなわち、性の記号)を評しているのかと思ったが、彼らの会話はすぐに、脚そのものを云々するのではなくて、「大根足」という言い方はいまはもうしないのではないかという風に、その語の古さを検討する方向に流れていた。駅前の広場に上がるためのエスカレーターには、やはり下校中の中学生らが多く混ざって長い列ができていたので、こちらはそこを素通りして横断歩道を渡り、階段から駅舎のほうへ上った。来た時よりも厚くなった人波をくぐり、改札を抜けて電車に乗るとここも混んでおり、扉際に立ったまま古井由吉『白髪の唄』を読み出した。最初は周囲の物音などが気になってなかなか意味が入ってこなかったが、じきに視線が定まったようだ。途中で座って到着を待ち、降りるとホームを相当に冷えた風が前から流れて、身の真ん中を突いてくる。幸い乗り換えはもう来ており、乗って読書を続けたのちに最寄りで下りると、樹間の坂を下って行った。やはりコオロギの音が復活していた。家までの道で特に覚えていることはない。
 帰ると買ったものを記録しておき、それから食事へ行った。面倒臭いのでこのあたりの詳細は省くとして、食後に室に帰ると八時半、日記の読み返し(二〇一六年一一月一二日土曜日)をしたあとに、ゴルフボールを踏みながらの半端な姿勢で、自然と日記を書きはじめた。これは今までにはなかったことである。コンピューターは普段、背の高めな白い矩形のテーブルの上に置いてあり、椅子は上下に高さを調整できるスツール式で、書き物をする時にはそれに座って腰を据えてやっていた。もっと気楽にインターネットを回ったり、コンピューターで何かを読んだりする際には、最近では椅子に機械を置いてベッドに腰掛け、ボールで足裏をほぐしながら過ごしていたのだが、この日は後者の状態のままで自ずと文を記しはじめたのだ。ここにも、文を書くことに対する気負いがこれまでよりもなくなって、それがこちらのなかでより「自然な」行いとして位置づけ直されたことが表れているだろう。二〇時五四分から二一時四三分まで一五日の記事を綴ると入浴に行き、戻ってくるとふたたび日記を記した。二二時一四分から二三時四五分まで一時間半を費やすと、身体が大変こごって、肩のあたりが重たるく固くなったので、ベッドに転がって休みながら読書に入った。『白髪の唄』を一時間四〇分、一二六頁から一三六頁まで読むと一時半である。寝転がって読書をする時にはいつも、片方の膝でもう片方の脹脛を刺激するのが習慣になっているのだが、この時にもそれを続けていると、じきに身体全体のこわばりが緩んでいくのが感じられた。これもゴルフボールによる足裏健康法と眼目は同様で、結局は血流を促進するということが肉体にとって肝要なのだろう。
 そうしてふたたび書き物に入って、午前三時の前まで取り組んでようやく一一月一五日の記事を完成させた。それをブログに投稿する前に、まず「転換(変身)」と題した記事を作り、ロラン・バルトの言葉を引いておいた。また、「題辞」としていた部分にはヘルダーリンムージルの言葉を掲げていたが、ブログの様相が変わるのでこれも変更することにして、「題辞」の語は「About」に、引用は『彼自身によるロラン・バルト』の有名な文言に取り替えた。こうした変化は、「雨のよく降るこの星で」というブログに載せられた文章の主題が変わったことに相応する変更である。先般までのこちらは、「雨のよく降るこの星で」というブログを一つの「作品」として持続させていこうという目論見を明確に持っており、そこにおいて主題は、一日のなかでこちらが感応した「天気」や「ニュアンス」に限定されており、こちら自身の「内面」や「人格」といったものはほとんど現れないようになっていたはずである(別にそれを自覚的に意図していたわけではないのだが)。毎日の感応=官能の瞬間のみを集めて、なるべく緻密に構築された(そのように形作ったつもりでいるのだが)文体で描き出し、そうした記事のみをただひたすらに集積させて、ある種非常に「貧しく」「愚直な」形の「作品」をこちらの生とともに継続させて行こうと試みていたようなのだが、そのような構築的熱情にこちら自身が応えられなくなり、書き物が日記としての体を成さなくなってきたので(つまり、文を作るのに時間と労力を掛けすぎるようになってしまい、一日分の記事を作るのに二日三日も掛かるようになったので)、転換を図ることになったのだ(もっとも、一日分の記事を一日で書き終えることができないのは、転換を済ませた現在も同じなのだが。この一七日の記事だって、昨日から取り組み続けているわけである)。その「転換」は、一六日の記事にも記したように、こちらの「書くこと」の内実が記録的欲望の方向に大きく振り直される形で実行されたわけだが、その後においてあのブログは、前ほど明確にはこちらの内で「作品」としての地位を保っていない。いまここで(と言うこの「いま」とは、一一月二一日の午前一時三二分だが)書いているこの文章は、明らかに「日記」ではある。つまり、ブログという仕組みがこの世にあろうがなかろうがそれに関わらず、自分がこれから毎日書き綴っていくだろう文章であることは間違いない。現在のブログはそれを部分的に省略(検閲)して、そのまま載せる場になっているわけだが、それが「作品」として成立し得るのか、こちらの内にはっきりとした解答がないのだ。と言ってしかし、「作品」ではないと明確に断言する気持ちにもならない。「作品」への欲望、「日記」をそのまま「作品」(あるいは「小説」)にして行きたいという未練はまだ残っているのだが、「雨のよく降るこの星で」で試みていたほど、それが確かな形(コンセプト)で実行されているとは思えないのだ。事ほど左様に、あのブログに載っている文章は、まず何よりもこちらのコンピューター内に書きつけられている「日記」であり(これは間違いない)、次にそれを検閲して公開した「ブログ」でもあり、その上もしかすると「作品」でもあるかもしれない、という中途半端な位相に置かれている。その半端さを表すのが「題辞」から「About」への表記の変化で、「題辞」という語を採用するには、こちらの感覚ではこの言葉は大仰過ぎる(つまり、格好つけすぎている)のだ。「転換(変身)」などという記事をわざわざ作ってバルトの文言を引くというのも、よほど大仰な振舞いなのだが、ここにも、「ブログ」を(あるいは「日記」を)そのまま「作品」にしたい気持ちを捨て切れないという別方向からの形で、こちらの中途半端さが露わになっているわけである。こうした様態の変容を果たした以上、あのブログはもはや「雨のよく降るこの星で」ではないとこちらは判断するのだが(なぜなら、このタイトルは小沢健二の"天気読み"という曲の一節から取ったものであり、「天気を読む」ということが、まさしく以前のブログにおいて、(生身の存在であるこちらがテクスト的変換を通過したあとの)話者が示していた振舞いそのものだったところ、現在のこちら=話者は、もはや明らかに「天気を読む」だけの存在ではなくなっているからである)、と言って替わりになる良いタイトルを思いつきもしないので、ひとまず(仮)を付して間に合わせておくことにする。
 ブログの変形と一五日の記事の投稿を済ませたあとは、音楽を聞いた。Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "My Romance (take 1)"に、Will Vinson, "Skyrider"(『Perfectly Out Of Place』; #4)である。Will Vinsonのこの作は、やはり"Skyrider"が一番印象に残るようである。終盤に、ソプラノサックスとボイスのユニゾンが披露されており、このボーカルはJo Lawryと言ってVinsonの配偶者の女性らしいのだが、サックスの複雑で細かいフレーズとほとんどずれることもなく、また相当な高音部までカバーしているこの歌唱は、相当に凄いと言って良いのではないか。本来はさらに、来月にライブを控えていることでもあるから、Fabian Almazanの『Alcanza』を聞きはじめたかったのだが、そこまで気力が保たなかった。重い頭痛が生じていたのだ。
 そうしてふたたび古井由吉『白髪の唄』を読んで(一三六頁から一四四頁まで)四時一〇分に至ると、疲労が大きかったのでこの夜は瞑想をせずに眠ることにした。床に就いてからも頭痛は続き、仰向いていると左の側頭部からこめかみあたりに掛けて、頭蓋のなかを虫が這っているような圧迫感が通過していく。それを観察していると、圧の感触にあるいは気絶するのではないかとちょっと恐れられたが、しかし気絶したらしたで眠れはするだろうと払った。意識は冴えきっており、まったくほぐれていかなかったが、しかし頭痛を避けるのではなくむしろそちら注視するようにして長く過ごしていると、いつのまにか頭が軽くなっていた。その後、何とか寝付くことができたが、何時頃になっていたのかはわからない。おそらく床に入ってから一時間近くは経っていたのではないか。

2017/11/16, Thu.

 この朝の(と言うかもはや昼なのだが)寝床は、どうしてなのか、かなり身体が重くなっていた(前夜の就床時には、三〇分もの長きに渡って瞑想を行ったのだが、それが睡眠の質にまったく反映されていないわけである。とは言え、その瞑想が長くなったのは、日記の書き方をまた(構築への熱情ではなく)記録的欲望に基づいた方式、つまりは、文の質などには大して拘らずに、一日の自分の生活をなるべく詳細に跡付けて行くというやり方(短く言い換えれば、書きたいこと/書けることを「すべて」書く、という方式)に戻すことにしたので(と自分が明確な意思を持って決めた/判断(判決)を下したと言うよりは、欲望が勝手にそちらの方向に転換して行く動きが窺えたので)、枕の上に尻を乗せて瞑目しているあいだ、一五日のおのれの生活の記憶を起床時から細かく辿っていたためである。それで頭を回しすぎて、かえって脳が疲労してしまったのかもしれない)。(……)一一時頃か、あるいはそれよりも前にも覚めた記憶があるのだが、肉体の固さのために起きられなかったようだ。また、何故かわからないものの、普段の寝起きより体温が下がってもいたようで、布団のなかにありながら寒気を感じた覚えがあり、起き上がってから鼻をかむと鼻水が(透明なもので、黄色く濁ってはいなかったので鼻炎にはなっていないようだが)結構吐き出されたし、その後の起床時の瞑想のあいだにも、くしゃみが出たのだ。
 (ここで一応、改行をしたわけだが、これに関しても迷われるところだ。と言うのも、一年前のこちら(記録的情熱に従っていた時期のこちら)は、改行をまったく使わず、一日の記事の初めから終わりまで切れ目なく一段落で綴るという方式を採用しており、いましがた(と言うこの現在は一一月一八日の午前二時(体感上は一一月一七日の二六時)だが)この記事を書きはじめる前の自分は、自ずとそれを想定していたからだ(既に投稿した一五日の記事に関しては、日記に対する新たな態度/向き合い方をどうするのか、はっきりと決められないうちに中途まで綴っており、そこでは改行が採用されていたので、最後までそれに従ったのだ)。しかし実際には、迷いながらも自然と改行を使う心になったので、当面はそれに応じてみるのが良いのだろう(書き方などわざわざ悩まなくとも、これに関しても自分の欲望が勝手に適した場所に連れて行ってくれる、と言うべきだろうか?))それで瞑想を済ませると階を上がって行き、食事を取った。(……)テレビは、食事のあいだはちょうど、NHK朝の連続テレビ小説わろてんか』の再放送が流れており、そのまま『ごごナマ』に移行したあたりで食事を終えていたのだが、毒蝮三太夫がゲストで来ているその昼の情報番組を少々眺めた。毒蝮氏がラジオだか何だかの仕事で各地に行った際には、放送を終えたあとに必ず、三〇分かそのくらい集まったファンの人々(大方は老年のようである)と寄り合って話をするようにしている、というようなことが紹介されていた。食後、室に帰ると、他人のブログを読み、続けて日記の読み返しをした(二〇一六年一一月一一日金曜日の記事である)。すると二時に至ったので上階にふたたび行き、洗濯物を取りこんでタオルを畳むとともにアイロン掛けをした。家事をこなしながら視線を上げて窓の外に送ると、近所の家の屋根から生えた金色の風車が良く動いており、回転のなか、光が各部にかわるがわる細かく宿って弾かれる。その動きからすると、風が結構吹いて、あまり途切れる間もないようである。(……)アイロン掛けを終えたこちらは石油ストーブのタンクを持って、玄関から外に出た。そして勝手口のほうに回り、石油の保存してある箱をひらいて、電動ポンプを使ってタンクに補給をする。液体が流しこまれるのを立ったままに待っていると、道の先にある楓の樹の、薄緑混じりのグラデーションを描く過渡期を終えて、一面に赤(その赤の濃淡には、それはそれでまた各部の差異が見受けられるようだったが)に染まったのが風に揺らいでいるのが目に入る。道には陽射しも降りてはいるものの、空は晴れ晴れという風でなく、青さの上にへばりつくような雲の多い天気だった。そうした風景に目を向けるあいだ、頭の内でそれらの様子が自動的に言語に落としこまれていくのだが(つまり、脳内の「テクスト的領域」とでも呼びたいような区画に(まさしくノートの白い頁にメモを取るように)「書き込まれて」いくわけだが)、そのような頭の働きを感じながら、「反芻」の技法を習慣的に行ったほうが、「現在」の時間に遭遇する物々への感度が高まるのではないかと浮かんだ。「反芻」と言うのは、要はおのれの日常生活の記憶を折に触れて思い返すということであり、ここで直接的に考えられていたのは、前の晩眠る前に行ったような、その日の生活を初めの覚醒時から順番に覚えている限り辿っていくという方式だったのだが、これが感受性を高めるというのは、一七日と一八日を経過してきた現在(この現在は、一九日の零時四九分である)、確からしく思われる。と言うか、正確にはこれは「反芻」の技法の問題と言うよりは、むしろこちらの意識内における「書くこと」の内的なシステムの転換による変化で、要はつい先日までは構築的な欲望のほうが優勢だったから、しっかりとした文を作り上げて書きたいと思うほどの事柄でなければあまり顧みられずに捨て置かれていたところが、今は「書くこと」の記録的な機能のほうが主に発揮されるようになったので(こちらの意識のなかで、「書けること/書く気になることは大方何でも書く」という方針が前提となっているので)、大した印象(意味/ニュアンス)をもたらさないおよそささやかな物事でも、拾い上げられるように(脳の内で「あとで書き記すこと」として振り分けられるように)なってきたということだろう(毎日の生活及び経験を文に綴ることを習慣化した人間の脳というのは、こうした主題の取捨選択を自動的に(それこそほとんど機械のようにして)行っている)。そうした話は措いて、石油の補充を済ませてタンクをストーブ本体に戻してくると、また玄関を抜けて掃き掃除を始めた。竹箒を動かすそのあいだにも風が流れて、一箇所に集めようとしている葉の群れを少々乱し、数枚を集団から奪って滑らせていく。途中で、小学生が下校することを知らせる二時半の市内放送が響いてきた。
 掃除に区切りをつけて屋内に戻ると、手を洗ってから肌着を畳み、室へ戻って運動を始めた。youtubeにアクセスして例によってtofubeatsの曲を流し(必ず"WHAT YOU GOT"から始まり、"BABY"を経由して、場合によっては"朝が来るまで終わる事のないダンスを"を挟み、最後に森高千里と組んだ"Don't Stop The Music"に至る)、脚の筋を伸ばしたり、スクワット風に屈み込んだ姿勢のまま静止したり、ベッドの上で柔軟運動を行ったりした。ここのところ怠けていた柔軟運動を久しぶりにやったところ、下半身が相当に軽くなり、身体も全体的にまとまって輪郭と中身がぴったりと一致し、自身の一挙手一投足が良く「見える」ようになったので(それによってさらに、気持ちの静まりが得られるわけだが)、肉体を良くほぐすということが精神にとっても大事だという今更のことを改めて実感した。その後は歌を歌って気持ち良くなり、三時半から書き物に入った。一五日の記事に取り組んだのだが、外出の時間が近づいても終わりそうになかったので、終盤はのちのちのために細かなメモを取るほうに移行した。
 そうして四時を回ると上階に行き、味噌汁に豆腐とゆで卵の食事を取った。片付けをして下階に戻り、歯磨きをするとFISHMANSの曲を流しながら服を着替え、"いかれたBABY"などを歌ってから室を出た。(……)そして靴下を足につけると出発である。
 空には先ほどから変わらず雲の網が形成されており、東側ではその隙間に醒めた水色が覗き、煤けたような鈍い乳白色の雲がそのなかにあるとあるかなしかの赤の色素をはらんだように見えるのだが、視線を西に振ればそちらは冷たい青さのうちに完全に沈み、山際は綿を厚く詰め込まれたように雲の壁が閉ざして残照など微塵もない。比喩でなくそのまま身体の震える寒さであり、ポケットに両手を突っ込んで身を縮めるようにして坂を上って行った。(……)街道に入って気づけば、身体が温まったようで震えは止まっている。とは言え気温の低さはやはり結構なもので、裏路を行きながら、頬に当たる冷たさが張り詰めているようだ、あるいは頬そのものが張り詰めてくるような、とその場で体感に言葉を当て嵌めた。じきに耳の穴も、冷気に痛むようになった。
 (……)
 帰り道は、この日の冷気のなかをまた歩いていくのには気後れがしたので、電車を取ることにしたが、職場を出るのが発車間近になってしまったものだから急いで駅に入り、機械に小銭を一遍に投入して切符を買うと(ICカードを持ってきていなかったのだ)、改札を抜けてまた走った。何とか間に合って乗ると扉際に就き、この日の起床時のことを反芻しながら到着を待つ。最寄り駅から坂を下って行けば、やはりコオロギの音が木立のなかから洩れてきて、少し前にはこれももうなくなったと思っていたのだが、気温が下がってからかえって復活したような印象を受ける。
 帰り着くと(……)自室に帰って足の裏をほぐしつつ、Ernest Hemingway, The Old Man And The Seaを五〇分ほど読んだ(七〇頁から七五頁まで)。そうして一一時も近くなってから食事に行った。(……)(本当に関心を持っているとは言えないはずの事柄について、誰もが何かを言いたがってやまないというのが、この現代という時代の醜悪さである)。その後、(……)TEDのスピーチを取り扱う番組が映し出された。初めは、R・ベンジャミンという米国の黒人のジャーナリスト(この日のプログラムはどうやら、黒人差別に関しての演説を取り上げるものだったらしい)が、ホワイトピアと言って白人のみで固まって暮らすコミュニティに滞在した経験について報告していた。スピーチ映像が終わると一旦スタジオに場が戻って、MITのメディア関連の教授だったと思うが何とか言う人と、スプツニ子という人(この女性についてもその名は聞いたことがあるものの、アーティスト/現代美術作家と呼称される類の人であるということしか知らない)がいくらかコメントをして、その次に、名前を忘れてしまったのだが、詩人だという男性のスピーチが始まった。これは自分の幼少期の体験も踏まえて大変に真剣味を帯びたもので、直截に黒人(人種)差別廃絶を訴えるものだった(「呼吸をしているすべての人が生きる価値を持てる社会に」というような文言で末尾を締めていた)。その様子を受けるとこちらもやはり真面目なような気分になって、映像を黙って見つめ続けた(……)。印象に残っているのは、演説者が子供の頃(一二歳くらいのこととして話していたのではなかったか)の体験として語ったことで、曰く、夜になって友人と駐車場かどこかで水鉄砲を使って戦争ごっこをしていたところ、父親に腕を強く掴まれて室内に連れて行かれた。そこで父親が大層真剣に子供の目を真っ向から覗きこんで言うことには、お前には悪いと思うが、自分たちは、黒人の子供というのは、ああいうことをしてはいけないのだ、と。白人の子供と同じように、暗いところを走ったり、銃を打つ真似をしたりしてはいけないのだ、なぜなら、水鉄砲を本物の銃と勘違いされてその場で即座に[﹅7]撃ち殺されるかもしれないからだ、と諭されたと言う(父親がその後も折に触れて子供に与えた助言のなかには、「動作をする時はゆっくりと、はっきり見えるようにしたほうが良い、突然、速い動きで身体を動かしたりしてはいけない」というものもあったと語られていた)。これは当時の米国という国家の社会の一側面を明らかにする、大変に具体的で説得力に富んだ証言ではないだろうか?(この「当時」と言うのは、正確にはいつなのかわからないが、演説者の外見を見る限り、彼は三〇代後半からせいぜい四〇代前半くらいの歳ではないかと思われた。そうだとすれば、概ね二五年から三〇年ほど前の時期に当たるわけで、と言うことは最も古くとも八〇年代後半の話だということになる。五〇年代や六〇年代のことではまったくない! 公民権運動を通過して二〇年が[﹅4]経った時点での話であり、そしておそらく、現在においてもこうした挿話は色々な場所で起こっているのだろう) 
 食後、入浴を済ませ、出てくると緑茶を用意して室に帰った。茶を湯呑みに注ぎながらまたニュースを瞥見したところでは、例の横綱問題には色々と不透明な事柄があり、被害者側の動きにも疑問を呼び起こす点がたくさんあるというような語られ方をしていたようで、そんな展開になっているのかと意外には思ったものの、しかしこの件に関してこちらのなかには特段の興味はない。自室ではインターネットを回って何をしたいのかあまりはっきりしないような時間を過ごし、その後、音楽を聞いた。一時半から二時を回るまでの四〇分ほどで、FISHMANS, "SLOW DAYS"(『空中キャンプ』; #3)、Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "My Foolish Heart"、Will Vinson, "The Clock Killer"(『Perfectly Out Of Place』; #9)、Nina Simone, "Seems I'm Never Tired Lovin' You"(『Nina Simone and Piano!』; #1)、同じくNina Simoneの"I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』; #5)と移行し、大変に素晴らしく満たされた気持ちになった。
 そうして二時過ぎからようやく書き物に入ったのだが、書き物と言ってもこの時に行ったのは、この一六日の生活のメモのみだったようである。そのあとのことはメモをつけておらず、思い出すこともできないので、この日に関してはここまでとする。

2017/11/15, Wed.

 起床、正午を過ぎてしまう。(……)睡眠が一二時を過ぎるかどうかというのは、やはり何となく一つの大きな境界線になるもので、なるべくそこは越えたくないと思う。
 (……)
 この日一度目の食事が何だったかは思い出せない。食後は風呂洗いなどをしてから室に帰り、日記の読み返しをした。去年の一一月八日、MさんとH.Tさんと一緒にワタリウム美術館ナム・ジュン・パイク展を見た日で、展示を見ているあいだの様子や感想を長々と綴っているのには、特に批評的な分析などないものの、なかなかしっかりとした言葉で頑張って書いているではないかという気分にもなった。その部分はTwitterに投稿しておいたが、三〇ツイート以上になってしまったので、多分誰も読んでいないのではないか(……)。この日の記事は前日に引き続き、一万字弱になっているので、その一日分を読み返すだけで三〇分以上掛かった有様である。
 (……)
 日記を読み終えると上階に行って、アイロン掛けなどを行った。それで戻ってくると、書き物である。まず前日のことを記し、それから三日に遡って、Will Vinson Trioのライブの感想を、当日から一二日遅れということになるが、ようやく綴り終えた。それをTwitterに投稿しておくと、もう四時が過ぎていたので、何かしら腹に入れるために部屋を出た。(……)
 そうしてすぐに下階に戻ると、歯磨きをして(ものを食ってすぐ、歯のあいだに食べ滓がまだ残っているような時点だったので、歯磨きのあとに口をゆすぐと、吐き出した水がピザソースの赤い色にかすかに染まっていた)、tofubeatsの音楽をyoutubeで流しながらスーツに着替えた。出るまでに残った時間で、景気づけに歌でも歌おうと初めは思っていたのだが、すぐに別の意思が割り込んできた。と言うのは、H(N)さんにゴルフボール健康法を勧めるメッセージを送ろうという気になったのだ。(……)お節介な心を発揮したのだった。そうして作ったのが上に記してある文章で、出発の時間が迫っていたため少々急ぎがちになったようで、あまり十分に練ることもできなかったが(特に、ゴルフボール健康法の推奨そのものからフーコー的な「自己への配慮」へと結びつけているのは、間違ってはいないのだろうが唐突な感じはする)、Twitterのダイレクトメッセージを介して相手に届けておいた。(……)
 (……)
 そうして家を発ち、坂に入ると、左方の林から虫の音が乏しく湧くのみの静けさのなかに、右のほうからは川の音が昇ってくるのが妙に耳を惹く。そちらの方向に目をやると、眼下の道の中途に街灯の明かりを捉えて、ちょうどあそこに銀杏の樹があるのではなかったかと思い出した。この時期には黄一色に染まって燃えるようになっているのを毎年見留めて、何かしらの形で日記にも記しているものだが、この時は暗さのためにあまり色がわからなかった。街道まで来ると、車の流れの引いてくる風が前から身体に掛かってくるが、肌寒さというほどのものもなく、顔に触れても強めの涼しさ、と言い表す程度の感触である。裏路の途中では、エンマコオロギの鳴き声がただ一つ、先日と同じ一軒の前で聞こえ、やはり先日と同じように、実際にはすぐ手近から立っているのに、何か遠くから響いてくるような気味が微かにあった。ほかには、カネタタキだと思うが、短く味気ないような打音が折々に散るのみである。見上げた空は雲に広く占められており、灰色と普通には言うだろうし、また白っぽくもあるが、暗さのためにその実何とも言えないような色味になっている。色の詰まった球がローラーか何かで潰されて、一挙に塗りひろげられたような、そんな印象を得た。
 (……)
 帰路に就いたのは八時前だが、夜道を行きながら空に視線を放てば、当然のことだがその色がやはり夕刻とは違うもので、行きの道もよほど暗いと感じたが、この時の空はさらに黒く、闇の色に変化していて、樹々の姿も深く籠っている。風の動きが少々あり、気温も落ちたようで、今度は明確な肌寒さが服を通ってくる。道端にたくさん散った落葉の、路面の端から中央へとはみ出して波線を描いているのに、黴の侵蝕めいたイメージを持った。歩くにつれて身体が温まってくるかと思いきやそうではなく、風が吹くというほどでないが空気の動きが絶えず身の周りについてきて、冷気に浸透されるから、むしろ次第に寒さが増した。脇の家並みが途切れて駐車場に掛かると、線路の向こうの林まで空間がひらいて繋がったために、そちらから蟋蟀の声が届いてきて、それと同時に背後の遠くで、巡回の消防車が鳴らす火の用心の鐘の響きも薄く伝わってきた。暗色の空に星は半ば埋もれて瞬きもはっきりしない。空と森の影の境も、闇がもっと濃ければその分かえって際立つのだろうが、視界を遮る電灯に乱されて黒い宙空の希薄化したようで、暗視カメラで撮った映像をモニター越しに見ているような、曖昧なざらつきの感覚があった。街道を行っていると、火の用心の鐘の音がふたたび遠くからうっすら広がってきたのに、何か灰色の侘しいような意味素を得たのだろう、聞いた途端に意識もせずに自ずと弔鐘の語が浮かんできたが、しかし弔鐘など、耳にしたことはないではないかと、直後に自分でとりなした。自宅の傍へ通ずる坂に入ると、川向こうの町並みの一角から光の仄白さが漂い昇って、宙に籠るようになっている。そちらのほうからまたもや鐘が渡ってきて、今度は火事への注意を促す男の声も不明瞭ながら添ってきたのに、耳を向けながら道を下ると、頭上でさやぎの音が始まって、既によほど散り集まっているその上に、更なる落葉がはらはらと降って重なった。
 帰宅すると、疲労を和らげるために足の裏をほぐしながら、Ernest Hemingway, The Old Man And The Seaを三〇分ほど読む。そうして九時頃になってから飯を食いに行く(……)。(……)。食事を取っているあいだには、『家、ついて行ってイイですか?』という番組が掛かっていたのをそれなりに関心を持って眺め、色々と思ったことはあったのだが、それらについては現在、面倒臭い気分のほうが優勢になっているので記すのは省略する。その後、入浴に行き、浸かっているあいだ、湯の表面に浮いている数本の短い毛に目が寄せられて、何の変哲もないそれをまじまじと凝視した。奥の壁の天井近くに掛かっている電灯の白さが液面に映りこんで、それがゆっくりと推移する毛の背景で丸くなっており、同時に上からも光が浴びせられるから、毛は上下から明るさに挟まれるような形になって、浅く曲線を成したその形に応じて液体が僅かに変形し、線の中途で両側から微小な水のへこみが生じているのが見受けられる。身体を動かさずに(湯をちょっとでも揺らすと、背景幕となっている電灯の像が途端に壊れて、ばらばらに崩れてしまう)じっと視線を寄せていると、視覚の比率が変化し、背後に敷かれた純白の幕(船の帆のような?)の上を漂っている一本の毛の図が切り取られて拡大されるかのようだった(ロベルト・ムージルが「グリージャ」で書いていた蝿だか何だかの挿話がそんな主題ではなかったか? また、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』にも、海岸へ遊びに行った少女が(名前が思い出せないのだが、ナンシーとか言っただろうか?)水溜まりを覗きこんでいるうちに、見ているものの縮尺が変化し、小さな水溜まりが広大な一世界のように錯覚されて、そこにいた蟹だったか何だかの生き物を動かすことで、自分が神にでもなったかのような気分を感じる、というような場面があったはずだ)。勿論自分はここで、ムージルの小説の登場人物のように何かしらの「啓示」や深淵めいた意味の訪れを体験したわけではない。とは言え、上に記した以上にもう少し、何らかの具体性の気配を覚えたようではあったのだが、それはその場で言葉にならなかったので、今更探り寄せることはできない。その後、外から虫の音が届いてくるのに気がついた。上の記述のうち、帰路の最後に書き記すのを忘れていたのだが、自宅のすぐ傍まで来ると、林のほうから蟋蟀(あれは多分、ツヅレサセコオロギという種だと思うのだが)の声が立ってきて、この声は、それこそ夏の終わり頃からずっと聞いており、近寄る冬の気配にほかの虫がほとんど消えてしまった今になってまで、随分と長く残っているなと思ったのだった。
 風呂を上がって室に帰ると、多分インターネットを回って、その後、岡崎乾二郎「抽象の力」を少々読み進めたのではないか。疲労が結構あったようで、零時前から三〇分ほど微睡んで、それから音楽を聞いた。Bill Evans Trio, "All of You (take 2)", "Alice In Wonderland (take 1)"、Will Vinson, "The Clock Killer", "Perfectly Out Of Place"(『Perfectly Out Of Place』)である。それで一時を迎えて、書き物に掛かった。まず一四日の記事に、勤務中に体験した緘黙めいた心理的現象について記しておき、それから一一月六日の記事に遡って、「雨のよく降るこの星で」用の記述を作ったのだったと思う。そうして三時、その後は古井由吉『白髪の唄』を読み、四時一〇分から瞑想を長く、三〇分も行ったのちに消灯した。

2017/11/6, Mon.

 五時過ぎでもう暮れきって宵に移行しつつある空の下、街道を行けば、車に引かれて前から滑ってくる風が肌に寒くて、服の内で背のほうに鳥肌が立っているのがわかった。裏路に入ると空気の流れが途端に収まる。乱れのない快晴の空だったらしいが、折々にすれ違う対向者の顔の造形は埋没し、視線がどこに向いているのかさえ見えない道の暗さである。
 帰りの夜道で振り向くと、東の空の丘の近くに掛かった月の、満月を過ぎて右上がほんの僅かに欠けはじめていた。空はそれで明るく、変わらず雲もないようで、頭上に見える星の合間で飛行機が、赤と白の色味を辛うじて見分けられる小さな光をかわるがわるに点滅させる。こちらの歩みに添って流れていく左右の建物の、そのゆっくりとした移行に合わせて、星と星のなかを下っていく。

2017/11/3, Fri.

 昼の日なたに踏み入り、温もりに染み入られているだけで鎖骨のあたりに快感を滲ませるような、長閑さの極まったような快晴だった。木洩れ陽の坂を上れば木の下でも温かく、しかし同時に涼しさも前から流れて触れてきて、それがまた肌に具合良い。眼下に覗く川の水は軽いような青磁色を湛えており、先日の台風以来色が変わったななどと思ったが、そんなはずもなく、昨年のさまを覚えていないが秋の川というものはもともとこんな色なのだろう。樹々が老いれば、川の面も応じて老いて淡くなる。
 欲も得もないという表現は、欲得を考える余裕すらもないほどに差し迫ったという意で使われるのが一般らしいが、日溜まりに寛ぐ老人の自足を古井由吉が確かこの言葉を使って書いていただろうと、まさしくそんな老人になった心地で思い出し、背に陽射しの寄る道を行く。ぴりり、ぴりりと鳴る虫の音の、あどけないような小ささに響く裏路を歩き空き地に掛かると、こちらの背を越えるほどの芒の並んで簾のように視線を遮るその向こうに、まだ五歳にもならないと見える女児が三人集まって、ボール遊びをやっている。艶々と光を帯びたボールを脇に転がして三人寄ったその場面が、一つの風景として映じたようだ。芒は白い毛を生やして豊かな花穂を作っていたが、この一週間ほどあとに通り掛かった夜には、敷地が一面刈られて貧しく残った草の地に伏して、荒涼とした風情になっていた。
 坂と交わる辻から家屋根の先に見た森の、粉をまぶして着色したような乾いた紅葉が、快晴と接して映えていた。一番手前に覗く林の縁の木枝が、風を取り込んで上下左右に細かくうねる。もう少し進んでから寺の枝垂れ桜に視線を向ければ、夏頃は濃緑の合間で薄紫に烟るようだった枝にもそうした色味はもはやなく、葉も大方落ちきったあとで、いくらか残る黄色いものが葉というよりは実のように見えた。
 これも天気の得難いほどの明るさのためか、電車の窓に切り取られた町の情景が常になく滑らかに流れていく。座って本を読みつつ移動を待っているなか、ふとした拍子に膝の、ズボンの襞の先端に生えた繊維の微かな毛羽立ちに目が行った。扉の窓を通って四角くなった明かりのなかではっきりと見えるその細糸は、水底に並ぶ海藻を思わせる具合に縮れながら伸びているものの、空調の生む空気の動きが密室内にあるはずのところを、しかしほとんど不動で静まっている。扉がひらくと駅によっては床に目映く光が撒かれて、それを少々凝視してから頁の上に目を戻すと、緑色の光の残像が文の途中に入りこんできて、文字が束の間塗りこめられて見えなくなってしまうのだった。
 武蔵境でサックストリオのジャズライブを観覧して出てくるともう暮れ方、線路に沿って長い道の果てる空の低みに、海面に集ったプランクトンの群れのようにして名残りの赤が仄めいている。駅の高架ホームに上がって今度は東を向けば、昇ってまもない満月の、遥かに向かい合った残照の色を吸ったように朱を帯びながら、上下に二つ並んだ雲の筋の隙間をくぐって乱されていった。

2017/11/1, Wed.

 家を出て傍の道の上から見晴らす南の山に、金色の西陽が掛けられている。もっと近間の樹々からまとめて覆い尽くした夕方の色の、温かみのあるという形容を付すべきだろうが、身に寄ってくる空気が冷え冷えとするそのせいで穏和さもあまり感じられず、目で見るものと肌に感じるものとの落差ばかりが不調和に際立つ午後四時だった。表の道に向かう途中で丁字路に掛かると、西にひらいた坂道を包んで光の走る目映さのなかに、ひときわ締まった光点と化して羽虫が何匹か浮いている。過ぎて脇の宅の前で知り合いとちょっと立ち話をして別れると、身体の傍に、正式な名前は知らないが例の「雪ん子」と呼ばれる白い虫、綿の端切れのように漂い冬の先触れめいたあの虫が寄ってきて、先ほど輝きのなかに点々と浮かんでいたのもこれだったかと思われた。
 円いような青さの空に月が早くも出ていたが、稀薄な雲の近くにあってその破片とも見紛うような同じ淡さである。太陽はちょうど丘と接しはじめるくらいで、西を見返れば空の際で大きく眩しく広がったそれの、表の街道を進むあいだはまだ落ちず、家壁に濃い西陽色の浸透してゆかしいようで、その奥に覗く林の樹々も下のほうまで彩られ、向かいから来た人の顔を見れば半面が血色良く染まっているのに、自分の顔もあのようになっているのだろうと思った。
 駅のホームから眺めた小学校の裏山は、もうだいぶ斑になって渋いような紅色もなかに混ざっている。まさしく炎のような形で毎年黄色く燃え上がる銀杏の樹はしかし、まだ絵筆のように先端に僅かに黄色を付されたのみである。校庭で遊び回っている子供らの声が響いて昇るその上で、校舎の窓ガラスに暮れの空の仄かな朱色の写し取られているのが、色のついた水を張ったかのように澄んでいた。