2018/1/4, Thu.

六時前覚醒。ボディスキャンして待つ。
勤務中、概ね落着いている。


テレビ番組。相対化自体を相対化。それが悟り?しかし速すぎる。もう少しゆっくり進みたい。不安から逃れるための相対化だろう。
風呂、発狂に対する恐怖、ふたたび。モノローグが秩序を失う。相対化のしすぎで。最終的にはやはり、発作がトラウマになっているのだろう。

     *

 この日のことを細かく書く気は起こらない。

2018/1/3, Wed.

 何時に起床したのか覚えていないのだが、多分一一時くらいまで眠ったのではないか。一日の初めのほうの食事やその他のことも覚えていないので省略する。前日には概ね気分は落着いており、往路に車に乗っているあいだなども、どうやら自分は大丈夫そうだな、と思った瞬間があった(同時に、しかしわかったものではない、またいずれ症状に苛まれる時が来るのだろうとも思ったが、その警戒のなかに不安が伴わないのがまた自分の気の確かであることの保証となった)。しかしこの日は、まだ心身の調子がおかしくなっていた。この日の夜には、中学校の同級生らとの会合が予定されていたが、それにはキャンセルの連絡を入れることにした。むしろ一人で籠っておらず、他人と交流をしたほうが良いのではないかとも思われたのだが、やはりこのような状態で他人と会うのは厳しいだろうと判断されたので、当日になって申し訳ないのだが、と(……)にメールをしておいた。
 それで前日の記事を書こうと思ってコンピューターに向かい合ったのだが、頭のなかに言語が浮かんでくることそのものが恐ろしく、二、三文書いたところで、どうもこれ以上は続けられないなと判断されたので、一旦書き物を離れ、何か言語的でないものに触れようということで、隣室に入ってギターを弄った。自分の指が動き、それに応じて音が流れるさまが、非常に明晰に感知された。そうしながらもしかし、頭のなかでは考え事が続くのだが、それによって思考が整理されて、多少落ち着きを得るところがあった。この日は非常にたくさんのことを考えたので(非常にたくさんの言語がこちらの頭のなかを通過して行ったので)、どこまでがこの時考えたことなのかもはやわからないのだが、多分この時はまず、自分にとっての恐怖の対象を見極めることになったのだと思う(と言うか、それ以降の思考もすべてそうなのだが)。自分が何を恐れているのかと考えると、まず何よりも、自分の頭が狂うことだった。頭に言語が自動的に浮かんでくるということが怖いというのもそのためで、止せば良いのに(とわかっていながら調べてしまうのが精神疾患の患者というものなのだが)インターネットを検索して、統合失調症の症状として思考が止まらず溢れ出してくる、というものがあるということを知り、自分は統合失調症になりかけているのではないか、このままだと頭のなかの言語がコントロールを失って、そのうちに幻聴のようになってくるのではないかという恐れがあったのだ。話がちょっと脇道に逸れてしまうのだが、統合失調症について調べた時、同時に、「スキゾイドパーソナリティ障害」というものの存在も知った。ウィキペディアに載っている診断基準を読む限り、自分はこれにかなり当て嵌まるのではないかと思う。以下に引用する。

DSM-IV-TRでは次の診断基準のうちの少なくとも4つ以上を満たすことで診断される。

1. 家族を含めて、親密な関係をもちたいとは思わない。あるいはそれを楽しく感じない
2. 一貫して孤立した行動を好む
3. 他人と性体験をもつことに対する興味が、もしあったとしても少ししかない
4. 喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない
5. 第一度親族以外には、親しい友人、信頼できる友人がいない
6. 賞賛にも批判に対しても無関心にみえる
7. 情緒的な冷たさ、超然とした態度あるいは平板な感情

 まず一番はそこそこ当て嵌まるし、二番はこちらの性分そのものである。三番もわりあいに当て嵌まる。四番はあまり良くわからない(自分にとって「喜びを感じられるような活動」の中核は、おそらく読んで書くことなのだが、この「読み書き」は言語のみならず世界そのものを対象とするものなので、極端な話、どのような活動であれ「読み書き」を通して喜びになり得るからである)。五番は一見当て嵌まらないようだが、読み書きという共有事項がある人々のことを、比喩的にちかしい「親族」と考えるならば、当て嵌まるのかもしれない。六番もわりあいにそうだし、七番の超然性というのはある種こちらが目指してきた心の平静そのものだろう。
 しかしウィキペディアの記事にはまた、「本人は、本障害によって、生活する上で困ることが何一つないため、カウンセリングなどを受けに行くことはなく、また行ったとしてもすぐ診療を受けることをやめてしまう。しかし、それによって他人に迷惑をかけることはないので、本人が困っていなければ診療をする必要はない」とあるわけで、別に精神医学的に何らかの「障害」という概念で分類されたとしても、他人にそう致命的な迷惑を掛けず、自分の内面としても不安を感じずに生きていければ、特段の問題はないわけである(しかし、この記事を見た時には、自分が「障害」という語で名指しされてしまうことそのものが怖い、というような感じがあった)。ここで先ほどの話と繋がってくるのだが、気が狂うことが怖いと言って、それでは気が狂うことの何が怖いのかと考えた時に、解答として浮かんできたのが「他者」の存在である。要は、他人から、例えば彼は統合失調症なのだという風に明確なレッテルを貼られて、完全に共同体の「外」の存在として疎外されることが怖いのだと判明した(統合失調症と呼ばれる病理を現実に生きている方々を愚弄するつもりはまったくない)。もう一つのイメージとしては、自分の主体が解体し、それによってこの世界そのものも解体した時に、完全に何も見えない、何も聞こえないような、あるいはそのような「無」ではなく「混沌」の様相なのかもしれないが、ほかの人々とまったく共有できない世界像のなかに放り込まれ、その「ほかの人々」の存在すら認識できなくなり、まさしく極限的な、純粋な孤独[﹅5]に陥るのが怖い、というようなものがあった。
 これはそこそこ、意外な話ではある。と言うのも、自分は、「他者」の存在に配慮をせねばならないという多少の倫理観は持ち合わせているものの、実際のところ、わりあいに他人のことなどどうでも良く、社会の「本流」からずれていようが何だろうが、あまり致命的な迷惑を掛けない範囲でこちらのやりたいようにやらせてもらおう、というつもりでいたからだ。しかしここに至って、自分は「他者」の存在を無視できない、ということがわかった。このことから考えるに、こちらは物心ついて以来、どうも自分はほかの人々とちょっとずれているのではないかということを折に触れて感じてきたし、この社会共同体に流通している最大公約数的な「物語」に安住してやまない人々を、多少は軽蔑もしてきたと思うのだけれど、自分はことによると本当は、彼らと世界観を共有したかったのかもしれない、彼らの仲間になりたかったのかもしれない、と思われた。
 ここで話がのちの時間、風呂に浸かっていた時間のことに飛ぶのだが、主題がちかしいので、「他者」に対する恐怖についても触れておこう。風呂のなかでは、今までのパニック障害の体験からして、自分が何に不安を覚えてきたのか、ということを整理した。そのなかの一つに、「他者」の存在がある。これは「恥」の観念に結びついたものなのだが、正確には、「他者」とのあいだに齟齬を起こすこと、として帰結するものである。つまり、パニック障害の前期には、症状は主に電車のなかで発生していたわけだが、そこにおける不安の主な現れ方は、このまま呼吸が止まって倒れるのではないか、あるいは胃のなかにあるものを嘔吐してしまうのではないか、というようなものだった(したがって、大学時代には、空腹が頂点に達しても昼食を取らず、帰ってくるまで何も口に入れないという生活を続けていた時期が長くあった)。それは結局、そのようなことを招いてしまうのは恥ずかしい[﹅5]、周囲の人たちに迷惑を掛けてしまう、という危惧である。
 こうしたことを鑑みるに、自分はいわゆる「承認欲求」、他者と仲良く協調し、他者に認めてもらいたいという気持ちが結構強かったのかもしれない。そうした気持ちを持ちながらも、現実に多数の人々とのずれを感じるなかで、一方では承認欲求が強化される方向に向かい、他方ではそれを抑圧して彼らの外に出ようとするという二方向に自己が分裂し、そのあいだの葛藤がパニック障害として顕在化したと見ることもできるだろう。今、この文章を書くと同時に頭のなかで思考を巡らせながら、自分の不安の根源について更なる認識の更新があったのだが、それはここでは記さず、のちに書く余裕があったら書こうと思う。
 このように、自分の不安の対象を言語的に明晰に分節し、相対化することで、やはり気分がわりあいに落着くところはあった。言語を操り続けることで狂うかもしれないという恐怖はまだあったと思うのだが、しかし同時に、自分はやはりこの方向しかないだろう、脳内に言語が湧き出てくるならそれをそのままにしておくしかなく、それでもし自分が狂ったとしても、それは言ってみれば死と似たようなもので、自分にはどうにもできないことなのだから仕方がない、という風に開き直る心があったと思う。
 それで自室に戻り、ふたたび書き物に取り組んでみることにしたのだが、そうは言っても不安は抜けきることはなく、他人に話を聞いてもらって考えを整理したり、自分の分析の確かさを確認したりしたかったので、(……)に話を聞いてもらって良いかとメールを送っておいた。返信を待つあいだに前日の日記に掛かったのだが、この時は概ね覚悟が決まっていたので、文を作るという営みを前にしながら恐怖を感じることもなく、わりあいにすらすらと書くことができたと思う。三時近くになって返信があったので、電話をしたいのだがと願い、返信を待っていると、あちらからコールが掛かったので通話ボタンを押した。
 こちらの話したことは概ね上記した通りなので、ここでは繰り返さない。印象に残っていることを順序にこだわらずに書くと、まず、(……)の日記の書き方が転換した契機として、細かい部分は忘れてしまったのだが(と言うか、やはり通話のあいだにも不安に苛まれていたようで、あまり話をうまく聞くことができなかったようである。何しろ、携帯電話から漏れてくる声を聞きながら、自分は今耳に入っているこの言語を果たして「正しく」理解できているのだろうか、という疑いがあったからだ。これはそのまま、ここ数日に折に触れて抱いた不安と通じるもので、要は、両親と言語を交わしていても、自分は今本当に、他人とのあいだにコミュニケーションを成立させることができているのだろうかという危惧があったのだが、それはさらに先に引き伸ばせば、現前しているこの世界の様相は確かなものなのか、という不安に直結する)、日記を書くというのが親しい身内(この場合、具体的には、(……)という(……)の長年の友人)に向けて体験したことを喋っている時のトーンとまったく同じだと実感した時があったらしく、そこから日記というものが、「身内への報告」のようなものに変質したという話だった。この「駄弁り」の感覚は自分も先日実感したものではあるのだが、それで、あまり自分一人で自己再帰的に書くのではなく、誰か具体的な友人などに向けて喋っているようなつもりで書いたほうが良いかもしれないという助言があり、これは確かにこちらとしても頷かれるところだった。図式的に考えると、観察・言語化する主体と観察・言語化される主体とに自己が分裂しているに違いない自分において、最近の事態は、観察主体のほうが優勢になりすぎたこと、言い換えれば、分裂の度が増して両主体のあいだに距離がひらきすぎてしまったことによる症状だとこちらは解釈していたのだが、その閉じた関係のなかに外部への志向性を導入することによって、閉塞的な構図を意味論的に打破し、ことによると両主体をふたたび統合することができるかもしれないという気がしたのだ。
 「順序にこだわらずに」、こちらの最近の症状について話し合ったことをいくつか記すつもりだったのだが、改めて思い返してみると、記憶が全然蘇ってこないことに驚かされる。その他の話、いわゆる「悟り」の話だとか、こちらが最近考えていた「実践的芸術家/芸術的実践者」のこと(これを別の比喩で表現すると、この世界そのものをテクストとしてそこに意味を書き加えていく「作家」ということなのだが)は、あとでその類のことを記すことになる気がするので、ここには書かない。ほか、文学や小説界隈の話もしたのだが、(……)が今書いている『(……)』が「絵画のような小説」を目指されているという話題があった。それは大まかに言い換えれば、極論すれば読むたびにその様相が変化するようなテクストということになるのではないかと(その点、多分バルトが一時期夢想していたようなものと言えるのかもしれない)訊き、そこからいくらかの流れがあって、フローベール文学史的位置づけに話が移ったのだったと思う。こちらはフローベールの作品自体も関連文献も、いわゆる文学史関連の本も読んだことがないので、これはあくまで当てずっぽうの思いつきに過ぎないのだが、まず、小説作品に「描写」的な細部がはっきりと取り入れられるようになったのが、概ねフローベールあたりからだという正統派文学史的な整理があると思う(これが確かなものなのか、それすらこちらは知らないのだが、ここではひとまずそういうことにしておいてほしい)。そうした理解では、「描写」とは現実世界の様相を緻密に、克明に写し取るための技術として認識されており、多分その後のゾラなどは実際にそういうつもりでやっていたと推測され、フローベールもゾラの先行者的な位置に置かれている気がするのだが(つまり、「リアリズム」の作家として位置づけられていると思うのだが)、しかし同時に、「描写」とはまた、物語的構造に対して過剰な細部として働くものでもあり、大きな構造に対する抵抗点として機能させることができるものでもある(絵画を遠くから一度見たあとに、近寄って様々な細部に目を凝らし、諸要素の配置を把握してのちふたたび距離を置いて眺めると、まったく違う様相として映る、そのようなイメージである)。ここで思い出されるのが、フローベールが書簡に記した(のだったと思うが)有名な言葉(と言いながら、引用を正確なものにできないのだが)、自分は何一つ言わない小説、何一つ書いていない小説を書きたいという宣言で(確か、「言語そのものの力によってのみ支えられている(だったか、「浮遊している」だったか)」というようなことも言っていたはずだ)、ここから推測するに、フローベールは現実世界のある側面を「そのまま」克明に写し取ろうなどとは考えていなかったのではないか? つまり、彼は「リアリズム」の作家などではなかったのではないか。こうした路線でフローベールを読み、正統派文学史の神話を解体しようとしているのが、蓮實重彦の試みなのではないかと思ったのだが、例の『「ボヴァリー夫人」論』も読んでいないので、確かなことは良くわからない。
 そのほか、(……)が気になっていた作家として、牧野信一の名が挙がり、青空文庫に彼の書いたものが多数取り揃えられているので、いずれ読んでみようかと思っていると言うので、牧野信一と言えば、古井由吉大江健三郎が、「群像」だったか「新潮」だったか忘れたけれど、この一〇〇年の短編小説を読むという企画で諸作を読んで対談した時に、二人ともが一番良かった作家だとして口を合わせていたものだ、と情報を提供しておいた。
 覚えているのは概ねそんなところである。(……)が、そろそろ充電が切れると口にしたので、それでは終いにしようというわけで、長々とありがとうございました、と礼を言い、別れの挨拶を交わしながら、失礼しますと電話を切った。そうすると五時になったあたりで、電話は二時間ほどしていたようだ(部屋が薄暗くなっていた)。そのまま七時半前まで二時間強、二日の記事を書き進めた。
 夕食時のことは良く覚えていない。その後、風呂に入って、色々と思い巡らすなかで、思考のブレイクスルーが訪れた。まず、どこかの時点で、自分の最近の症状と言うのは、不安障害の症候そのものだったのだと気づく瞬間があった。それまでは、自分は本当に、統合失調症か何かになりかけているのではないかと危惧していたのだが、このままだと気が狂うかもしれないという不安というのは、パニック障害の特徴の代表的な例として良く紹介されているのだ。それでは、自分は根本的には一体何を恐れているのかと問うてみた時に、確かな解答はわりと速やかに出てくる。それは、不安という心的状態そのものである[﹅16]。おそらく不安障害も一番初めは具体的な何かに対する不安から始まるのだろう。しかし、症状が進むなかで不安は転移していき、次々と新たな不安の対象を発見していき(あるいは作り出していき)、最終的には不安そのものを怖がる不安不安症、恐怖恐怖症に至ってしまう。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がこのようなことを言っていたらしいのだが、これは自分には非常に納得される考えである。自分は明らかに、こうした地点にまで至っている。
 こちらが今まで不安や恐怖を感じてきた対象を大まかに区分すると、一つには上にも挙げた「他者」がある。もう一つは、「死」である。三つ目が、不安そのものである。これらに共通することは、「受け入れるしかないもの」だということである。「他者」はこちらから独立自存して存在しているものだから、その存在は受け入れるほかなく、また彼らは自分と異なった存在なので、彼らとのあいだに齟齬が生じることも仕方がない。「死」は言うまでもなく、どうやら誰の身にも訪れるものらしく、またそれがいつ来るかはわからないのだから、どうにもならない。そして不安という心的現象は、不安障害者である自分にあっては、コントロールできるものではない。
 このように、自分は「受け入れるしかないもの」を受け入れることができていなかった、それが不安の根源ではなかったかとまず考えた。これらのうち、最も根源的なものだと思われるのは、不安そのものに対する不安である。おそらく初めは、「他者」やそこから生じる齟齬そのものが怖かったはずだが、その後、病状が不安不安症と言うべき様相に至った時点で、不安そのものを軸として関係が逆転し、「他者」や「死」とは、不安を引き起こすから怖い[﹅12]という同義反復的な論理の認知が生まれたのだ。そして、ここから先が重要なポイントだと思われるのだが、不安の発生そのものを怖がる不安障害患者にとって、この世のすべてのものは潜在的に不安に繋がる可能性を持っている[﹅30]のだ。言い換えれば、彼にとっては、すべての物事の最終的な帰着先、究極的なシニフィエが不安だということである。したがって、彼にあっては、生きていることそのもの、目の前に世界が現前していることそのもの、自己が存在していることそのものが不安となる。生の一瞬一瞬が不安の色を帯び、ほとんど常に不安がそこにある状態を体験することになるのだ。
 自分がこのような状態に至っていることをまず認識した。そして、ここから逃れる方法は一つしかない。それを受け入れることである。すなわち、不安からは絶対に逃れられない、ということを心の底から確信して受け入れられた時、初めて自分は不安から逃れることができる。まるで禅問答のようだが、これがこちらの根底的な存在様式なのだ。こうしたことは、パニック障害を体験する過程で考えたことがあるし、自分はそれをわかっていたはずだったのだが、薬剤に馴染んで症状が収まるにつれて忘れていたのだろう。今回、自分は改めてこのことを定かに認識した。自分は自分が思っていた以上に不安障害患者だったのだ。ここ数日、頭が狂うのではないかなどという恐れを抱いていたが、何のことはない、上のような意味で、自分の頭ははるか昔に既に狂っていたのだ。
 現在一月五日だが(上記は昨日に綴った)、この日のことをこれ以上記す気にはならない。

2018/1/2, Tue.

 九時頃には山梨に向けて発つという話だったので、前夜は早めに床に就いたのだが、そのおかげで七時三五分には起床することができた。上階に行き、食事を済ませたのち、自室に戻ると、既に八時半かそのくらいになっていたような気がする。何をしたのだったかあまり覚えていないのだけれど、歯を磨き服を着替えたのち、九時になって出立する前に前日の日記を仕上げて投稿してしまおうという心があったので、キーボードに触れた。ほんの僅かに書き足していると、階上からもう出かけるらしき音が聞こえたが、慌てずに気持ちを落着けて記事を完成させ、ブログに投稿もしておくと部屋を出た。上階に行くと両親の姿はもはやなく、既に玄関を出て車に乗り込んでいるらしかったが、こちらは排泄欲求があったので便所に入り、用を足すと玄関を抜けた。
 父親の車の助手席に乗り込む。発車する。道行くあいだ、自分の身体の感覚を確認すると、前日よりも定かな実在感があるので安堵する。しかし、森のあいだの勾配のある道を越えて行くのだが、左右の樹々に目を向けながら、ガラスを通して見ていたためかもしれないが、やはり何だか平面的に感じられるな、というところもあった。とは言え、フロントガラスに光が落ちて、目を眩しくさせるのには気分が和らぐ。
 高速道路には乗らず、檜原村から峠の道を越えて行く。上りにせよ下りにせよ、左右にぐねぐねと大きく曲がる道が続いて、縦に揺れるのはこちらの心身に大した影響を与えないのだが、横揺れが覿面に効いて、胃のあたりが妙な感じになり、大層気持ちが悪くなった。時折り呻きを上げ、ラジオに耳をやりながら、気分の悪さが増大してくるのに耐える。ラジオは伊集院光がパーソナリティを務める番組を流しており、初めのうちは何だか良くわからないが、女性プロレスラーであるらしき人と、もう一人やはり何だか良くわからない人をゲストとして招き、もうなくなってしまって行くことはできない思い出の店の料理について語るコーナーなどを扱っていた。そのうちに、番組内容が切り替わって、山田洋次が出演する(生放送ではないような話だったと思うが)。それで小津安二郎について話を聞くのだが、伊集院光が言うには、小津と言えば二十歳ぐらいの頃に周囲から見ろ見ろと急かされて一応見たけれど、全然良さがわからなかった、それが四〇ぐらいになってから改めて見ると、とんでもなく凄い、という体験をしたらしい(題名を失念してしまったけれど、伊集院は、直接その体験をした作品だったか、それとも単に自分が一番好きな作品ということだったか、「テレビを買いに行くだけの話」を挙げて語っていた)。それはやはり、加齢に伴って変化するニュアンスに対する感受性の差なのだろうなと、穏当なところに落とした。ほか、山田洋次が、小津の作品の特徴を一言で表して、「上品さ」「品の良さ」と言っていたことは覚えている。そうしたことを聞いていた頃には、既に車は(……)に入っていた。
 あらかじめ注文をしておいた(……)の前に停車する。店は一一時開店らしかったが、まだ一〇時四〇分かそこらだったのでいくらか待たなければならないところ、車内にいても窮屈なだけだし、座り続けて鈍った身体をほぐしたくもあったので、その辺を散歩してくると言って外に出た。母親もまた車を出て、近くにある(……)まで行ってみるということだった。こちらは外に出ると母親とは反対方向に歩きはじめて、明るく朗らかな光のなかを行く。どこか座ってぼんやりとできる場所でもあればと思ったのだが、周囲に適当なところが見当たらないので、足を停めずに裏路地に折れた。特段に物珍しいものがあるわけでもない。ちょっと行ったところで、元々来た方向に続く細道に入ると、並ぶ家々のベランダや窓外の柵に、布団が掛けられていたり洗濯物が干されたりしているのが、それ以上の何の意味ももたらすでもなくただ目に留まる。長方形の辺上を沿うような具合で、四角く回る形で戻ろうと思ったところが、細道がやや斜めになっていたようで、抜けると車の停まっている(……)のすぐ傍だった。まだ時間があったので、当てもなく今度は反対側に歩きはじめる。こちらは表の通りに沿っており、並ぶ建物によって蔭が作られて日なたは少なく、歩いていても肌寒さがあった。進んでいると、前方から来る人があって、見れば(……)に行っていた母親である。何人も並んでいたので、トイレだけを借りて戻ってきたと言う。そろそろ一一時になるというところだったので、合流して駐車場に戻り、両親が店内に入って寿司を受け取っているあいだに、こちらは車の脇に立ち尽くして待っていた。
 上の記述と時間が前後するのだが、(……)に行くよりも(……)というスーパーに行って買い物をしたのが先だったと思う。店に行ってみると駐車場はいっぱいになっており、順番待ちをして路肩に並んでいる車も何台か見られた。父親が車に残ってスペースが空くのを待ちながら、母親とこちらが買い出しに行くことになった。こちらは気持ち悪さが抜けておらず、車内で休んでいたい気持ちがあったのだが、ともかくも車を降りて、店舗に向かう。店の入口には福袋の購入を待つ人々が横向きに列を成しており、そのあいだを通り抜けて店内に入った。籠を載せたカートを押して行く。店内を回るあいだ、身体がぶるぶると震えたが、これは離人症的な不安によるものではなく、腹が空になっていたことと、気持ちの悪さが残っていたことによるものだろう。四種類入った大きなピザや、チキンや手羽元などの惣菜や、サラダの類などを籠に入れて、会計を通った。品物を袋に収めて店を出ると(ふたたび福袋の列のあいだを抜けた)、車がどこに停まったのか探してうろついたのだが、ちょっとして母親が、手を振っている父親を見つけたので、そちらに行って、品を車に入れた。まだ寿司が出来るまでに時間があったので、母親はスーパーに隣接する洋品店を見に行くと言う。父親もトイレかどこかに行った。そのあいだ、こちらは車中で一人、何をするでもなく席に座っていたわけだが、陽射しが射し込んで顔に当たるのが大変に気持ち良かった。しばらく待っていると二人が戻ってきたので、その後、寿司屋に行った。
 寿司を受け取ったあとはまた車を走らせて、(……)から山のほうへと上って行き、父親の実家に至る。坂上から下って家に至るほうのルートを取ったのだが、近づくと道に出てきた人があって、それが(……)だった。父親の姉である(……)の娘なので、こちらには従姉に当たる。同様に従兄である(……)(彼は生まれつき、知的障害を持っている)もいて、なぜだか頭に鉢巻をつけていた。降車し、挨拶を交わして、荷物を持って家に入る。
 居間に入って祖母と挨拶を交わし、常設されている掘り炬燵に加えて、もう一つ出されている炬燵テーブルの一角に就いて身体を温めたが、じきに飯の支度をする様子だったので、こちらも台所に入って母親や(……)の手伝いをした。と言っても、買ってきたチキンを細かく切り分けて皿に盛ったり、同じくサラダを盛り付けたり、それらを運んだりという程度のことである。兄夫婦は一二時半頃、(……)に着くという話だったので、彼らの到着はまだだったが、先に食事を始めることになった。寿司やらチキンやらを適当につまんで腹に入れる。
 食事というか、慎ましやかな宴席のようなものは、四時くらいまで続いたわけだが、そのあいだに二回、外に出る機会があった。と言うのは、(……)の息子である(……)(七歳)が遊びに行きたがったので(あまり室内でじっとしていられない性質らしい)、ついていったのだ。一度目は、兄夫婦が来る前だったかそのあとだったかわからないが、食事を取りはじめて比較的まもない頃に、(……)が障子を開けて外に行くと言うので、誰かに何か言われたわけでないが自発的に、すっと席を立って、俺と一緒に行こうと誘いを掛けた。(……)は、こちらがあまり知らない相手だったからだろう、うん、と言いつつもその声は低いものだった。それで玄関で靴を履きながら(祖母の家は、もう亡くなった祖父(父親の実父)が手ずから造ったもので、まだ幼かった(か、若かった)こちらの父親もそれを手伝ったという話だが、昔の家らしく土間と床の端の段差が大きくなっている)、横の(……)に、俺の名前知ってんの、と問いかけた。何だっけ、とか何とか笑いながら言うので、(……)というのだと自己紹介し、そうして外に出た。
 一度目の外遊びと二度目の外遊びを整然と分けて書くような記憶の整理が付いていないので、一緒くたにして印象に残っていることを記してしまおうと思うが、どちらの場合もまず、玄関を出た付近の庭で遊んだ。遊ぶと言っても特に何があるでもなし、(……)が植木鉢を蹴ったり、何かどうでも良いようなものを拾ったり、土に刺さっていた細い支柱を抜いて振り回したりするのを、時折り言葉を掛けながら眺めているだけである。庭は以前はたくさんの鉢に花々が育てられていたのだが、祖父も死に、祖母も寄る年波で世話をするのが苦労だから、大方片付けられてしまったようだった。庭のうち、鉢を置くようにちょっと段になった一画があるのだが、その端に取り付けられていたやはり支柱めいた金属製の棒を、(……)は引っ張り放して遊んでいた(棒が撓って震えるので、「びよよよよ~ん」というような掛け声を出すのだ)。ほか、先に触れた支柱というのは、良くある園芸用の緑色のものだったが、(……)はこれを振り回すあいだ、槍(か剣だったか?)に見立てたり、銃に見立てたり(こちらに向けて銃弾を発射してきたが、こちらはそのイメージには付き合ってやらず、死なないぞ、と笑って返した)、次々と比喩的にイメージを変えて扱って、その比喩の移り変わりに何らかの印象を覚えたという瞬間もあった(そんなに大した出来事でないと思うのだが)。
 二回とも、しばらくすると家の裏手に広がっている斜面のほうに移動し、そこを上ったり下ったりとして遊んだ(こちらはあまり動かず、主にしゃがんで陽を浴びたりしていたが)。見上げると、山に近いところで空が広いが、その内に雲は一片もなく(二度目に来た時には、多分南の方角だったと思うが、山影の稜線に掛かって一塊の雲が湧いていて、(……)に、あそこにだけ雲があると注意を促した)、ただ青さのみが渡って満ち、背後を見てみても、斜めになった地面の上に生えて乾いた雑草の類の、至る所が光を帯びて煌めいている(か細い茎が金属的に映った)。前を向いていても、視界のそこここで風を受けて微かに揺れ動く小さな草々の立ちざわめきに、これは凄いなと思う瞬間があった。斜面を下りた先にはより広く緩やかな傾斜になった敷地があって、その一画に、芒だろうか草がいくらか固まって群れており、風が吹くとそこから穂の触れ合う音が立つのにも、凄いなといちいち感じ入っていた。
 (……)は、斜面を滑り下りたいと考えて、一度室内に戻り、尻の下に敷くために紙袋を貰って来ていたが、勿論そんなものでうまく滑れるわけがない。そのうちに諦めて、紙袋に怒りをぶつけるようにして蹴飛ばしていた。二度目に斜面に来た時には、彼は今度は自らの脚で駆け下りようというつもりになって、一応は危ないぞとか怪我をするなよとか掛けつつも、まあ子どもの遊びはこういうものだろうと見守っていたところ、走って下りた(……)はその先で見事に転び、額をちょっと打ち付けていたようだった。しかし泣いたりもせず、失敗しちゃった、とか何とか言いながら戻ってきて、特に怪我もしていなかったようなので、安堵した。服の前面から背面から顔にまでついた土草の滓を払ってやり、随分と汚れたな、お母さんに怒られるぞ、などと笑って言ってからかったが、その後、報告に行って戻ってきた(……)によると、特に怒られず、はいはい、というような調子で答えられたと言う(上に記した草々の立ちざわめきを見たのは、この時、(……)を待っているあいだだったと思う。芒らしき草の触れ合う音は、三、四回耳にした)。
 時系列に沿って正確に再構成することはできないが、室内でのことに話を戻そう。兄夫婦は、父親が迎えに行って、一時頃に着いたかと思う。その時、父親がオレンジジュースをついでに買ってきてくれたので、飲み物がなかったこちらはその後はそれを二、三杯飲んだ。二人が到着したので改めて乾杯をしようとなったところで、動き回りたくて仕方のないらしい(……)が、大人たちがそのような儀礼をもたもたと準備して待たせるのに我慢できず、また外に行きたいと主張するので、乾杯が終わったあとふたたびこちらが同行したのだった。そこから戻ってきたタイミングだったか、席を移って、(……)の横に座った。この人は高倉健が好きで、彼の出演する映画を愛好しており、何年か前に彼が死んでしまって以来がっかりしているという話を前回会った時に聞いていたので、そのあたりのことを振って、また話を聞いた。高倉健の出演作品はビデオに録画してあり、何回も繰り返して見ていると言う。そのなかで、今までに一番見たのは何ですか、と尋ねたところ、『居酒屋兆治』だという返答があった(耳にした時は、こちらは『居酒屋長寿』として認識していた)。監督は、と訊くと、降旗康男、と言う(こちらは初耳の名前だった)。山口瞳という作家が原作で、国立だか立川だかのガード下にあった飲み屋で実際に作家が体験したことを、舞台を函館に移して書いたものだという話だった。ほか、往路で聞いたラジオの話を出して、(……)が若い頃は小津というのは周囲でどのように言われていましたか、と尋ねたりもしたが、これには明確な返答は得られなかった(伊集院光が二〇歳だった頃というのは、(主として)蓮實重彦小津安二郎の「神話」を解体し、多分『監督 小津安二郎』も出したあとだろうと踏んでいたので、それ以前の状況がどうだったのか、何らかの証言を得られないかと思ったのだ。それで言えば、山田洋次は、自分が若い頃には小津などというのは「古臭い」映画だと言われていた、と語っていた。しかし、色々と映画のことを勉強し、技術を積んで一周りしたあとに、気づけばその古臭いものに影響を受け、惹かれている自分に気づいた、というようなことも言っていた)。
 そのようにして(……)と話したあとだったと思うが、兄が世話していた(……)を受け取り、脚の上に抱きかかえて可愛がった。顔を寄せながら頭を撫でたり、手や足をぽんぽんと叩いたりするのだが、赤子が首を傾けてこちらの顔を見上げて来たりするのを見ると、やはり非常に愛らしいと思うものだった。
 三時に至る前あたりになると、椅子もなく床に直接座っているために腰が疲れてきたので、廊下を挟んで隣の室に行って休むことにした。隣室に行ってみると二つに畳まれた布団があったので、ひらいて伸べ、仰向けになり、目を閉じてボディスキャンを行った。それから布団を被るかわりに、手近に積まれてあった座布団を二枚取って身体の上に載せ、持ってきていた古井由吉『白髪の唄』を読んだ。座布団を載せた胸から太腿までのあたりは熱が生じるけれど、本を持った両手が大層冷たかった。そうして転がっているとそのうちに(……)がやって来て、こちらの上に飛び乗ってくる。また、(……)も来て、掛け布団を持ってきて乗せてくれたので、礼を言ってしばらく本を読み続けたが、やはり両手は温かくならなかった。三時半頃まで読んだところで、居間に戻った。
 その後、四時を過ぎたあたりで(……)の一家が帰ることになったので、外まで出てオレンジ色の車で去って行くのを見送った。その後は残ったものをまたちょっとつまんだり、マッサージチェアに乗ってその機能を堪能したりした(特に脚を左右から圧迫してくれるのが気持ち良く、兄夫婦が帰るまでのあいだ、何度も繰り返し稼働させて身体をほぐした)。兄夫婦は、五時台後半の電車で帰るということで、その頃になるとふたたび外に出て、父親の運転する車に乗って去って行くのを見送った。そうして戻ったあとは、居間の炬燵に入って、祖母と母親と席をともにしながら例によってあまり喋らず、そのうちに横になって眠りはじめた。しばらく微睡んだのち(じきに父親も戻ってきた)、起き上がって、そろそろ帰るものだろうと思っていたところが、母親と祖母の話が弾んでいるのを受けてだろうか、父親が一向に帰宅を切り出さない。こちらとしてはそろそろ帰りたいなという気持ちになっていたものの、久しぶりに会って女性同士で色々と話すこともあろうというわけで、口を出さず、池の水を抜いて外来種生物を駆除したり、掃除をしたりする番組を眺めて待った。そうして、山梨の宅を発った頃には、七時くらいになっていたと思う。
 車に乗って長い時間を過ごすのが嫌だったので(車というものはこちらの体質に合わず、自分はすぐに酔ってしまうし、身体も大変固くなる)電車で帰ると言って、(……)で降ろしてもらった。改札を抜けたところで携帯電話を取り出すと、兄からメールが入っている。もう結構前の時間で、電車が遅れているようだから面倒臭いかもしれないぞとある。ホームに行ってみると実際、数分遅れて到着するというアナウンスが入った。兄にはもう駅に入ってしまった、わざわざすまんと返信をして、待合室の外側に寄り掛かって本を読みながら電車を待った。乗ると、扉際に立って読書を続ける。読んでいる文字の意味もそうだが、乗客の顔がくっきりと見え、また電車の物音にもよく耳が行って、知覚が先鋭化されていることが感じられた。じきに、若い男女がこちらの目の前に乗ってくる。たまに顔を寄せ合って、どうも口づけもしていたようにも思われたが、男の汗の臭いなのか、口臭なのか、そんなような臭気がこちらの鼻にまで届くのが不思議だった。
 高尾で降りる。人混みを嫌って、乗客らがホームからの上り口へ大挙して向かうのを横目に立ち止まったが、人群れが消えるまで思いのほかに時間が掛かっていたのでここでも少々本を読んだ。最後尾についてエスカレーターを上がり、ホームを替えてふたたび電車に乗る。先頭の車両は結構空いており、ここでは座ることができた。ふたたび読書をしながら運ばれて、立川で降り、また乗り換える。また座り、やはり本を読んで到着を待つ。(……)に着くと、既に乗り換えが来ていたので、同じようにして最寄り駅に至った。
 帰宅すると、既に九時半過ぎだったと思う。その後のことは特段、記憶に残っていない。書き物はせず、また読書を主に行って、二時過ぎに床に就いた。
 この日の生活のあいだにも、ここ最近の自分の変調や、世界像の相対化などについて色々と思いを巡らせたが、よく覚えていないし、本日一月三日に至って自分の症候に大方の整理がついたので、そのあたりは三日の記事に書くつもりである。

2018/1/1, Mon.

 時刻を確認しなかったが、まだ明けないうち、おそらく寝付いてからまもないうちに一度覚め、その時、不安がかなり高まっていた。手足の冷えや身体の内を通り抜ける寒気も発生しており、また、頭のなかもかなりぐるぐると回っていたと思う。前夜のうちだったか、この目覚めの時だったか忘れたが、このままだと自分は狂うのではないか、パニック障害ではない何か別の精神疾患になるのではないかと思ったこともあった。ここ最近の変調のうちには、頭の働きにせよ、身体のそれにせよ、「過活動」の向きがある。それでこの時、やはりこの分ではまた医者に行って精神安定剤を貰い、心身が落着くまでのあいだでも薬を飲んだほうが良いかもしれないなとも思った。しかしひとまず、軟酥の法あるいはボディスキャンを実行していると、まず不安が概ね抜けていったようで、ふたたび寝付くことができたらしい。その後、最終的な覚醒を得たのは一一時二〇分だったのだが、それまでのあいだに何度か覚めており、目覚めるたびに段々と身体の冷えが取れている、というのが感じられた覚えがある。一一時二〇分に覚めた時にも、大丈夫だろうかと警戒する心があり、布団のなかにちょっと留まって身体をもぞもぞ動かしてみてから起き上がったのだが、概ね大丈夫そうだった。
 また調子が崩れては敵わないので瞑想はしばらく取りやめることにして、布団を抜けるとそのまま上階に行き、両親に対して明けましておめでとうございます、と挨拶をする。台所に入ると、フライパンに鶏肉の塊が調理されていたので、それを牛乳パックの上に取り出して薄く切り分けた。その他、白米や野菜のスープ、前日に用意した蛸や蒲鉾の重箱などが卓には並ぶ。そうして、飲み物をそれぞれに注いで(こちらは酒ではなく、三ツ矢サイダーである)、新年の乾杯を行った。そうして食事を取るのだが、ものを食うあいだにやはり、身体がぶれる/ずれるような感覚がちょっと生じたものの、ボディスキャンを行って身体の各部に目を向けて、肉体の輪郭を取り戻す。そうして鶏肉を白米と一緒に食べていると、実に美味いなと感じられる瞬間もあるものだから、大丈夫そうだなと安堵される。腹を満たしたところで食器を片付け、風呂も洗ってから自室に帰った。
 一二時半くらいだったのではないか。携帯電話を見ると、(……)からメールが届いている。彼は中学の同級生で、もう何年か顔を合わせていない(二〇一四年か二〇一五年かに一度会ったはずだ)。元気か、と問う簡潔なものだったが、やはりこうして連絡を送ってくるというのはありがたいものだと前日にも思ったことをまた思い、ここ数日ちょっと変だが、概ね元気でやっていると返信した。そうしてこの日の記事を作り(Evernoteに「日記: 2018年」のカテゴリが新設された)、インターネットを少々回ってから、三〇日の日記を書きはじめる。モニターを前にしているあいだも、身体の奥(特に胃のあたり)が勝手に疼く、というような感じが折々に生じたが、合間にちょっと目を閉じて短くボディスキャンを行ったりもしていると、次第に落着いていった。一時間ほど綴って二時を回ったところで、背後の窓の外から、母親の呼ぶ声が聞こえる。窓を開けて何かと問えば、柚子の実を採ってくれ、と言う。面倒臭いなと反射的に思ったのだが、いや、ここで外気のなかに出て身体の調子を確認してみようと即座に思い直して、日記を中断して室を抜け、裸足にサンダルを履いて表に出た。家の南側にゆっくり下りて行き、母親から鋏を受け取って、台の上に足を載せながら柚子の実を収穫する。仕事を終えてもすぐには戻らず、極々短い石階段の途中に腰を下ろして、しばらくそこでぼんやりとした。ぼんやりとした、とは言っても、こちらの頭は絶えず自動的に、周囲に浮遊/浮動してやまない意味の断片を収集し続けているわけである。薄陽が射していて肌に温[ぬく]いが、風が流れるとその温もりはすぐに冷たさに取って替わられてしまい、一つの肉体の違う部分に暖と冷の二種の感覚がそれぞれ生じて、混ざり合わず同居する。サンダル履きの裸足にも、風の感触は吹き寄せてくる。冷たいとは感じたが、寒いとは感じられなかった。明確な風というほどのものが生まれなくとも、周囲の空気が絶えず動き、止まらないでいるのが感得される外の空間のこの感じというのは、やはり気持ちの良いものだなと思われた。そんな風に、身体感覚に目を向けながら考えたのは、やはりここ最近の変調のことで、この時立てた仮説では、ヨガ的な実践がもたらした何らかの作用(それがどういったものなのかは勿論わからない)によって、知覚や認識が鋭くなりすぎたことにより、身体の各部の感覚がそれぞれ脳に対して大きく主張されるようになり、身体感覚の統合的な秩序=恒常的な平衡が崩れてしまったのではないかとひとまず考えた。そうだとするとボディスキャンの技法は、身体の各部に目を向けて、それを落着いて観察することで、肉体感覚の再統合を図るものなのではないかとも思われる。同時に思い出すのはまた、瞑想の二種の区分けのことであり、瞑想といった場合大まかには一点集中的な種類のもの(呼吸に意識を向け続けるような類のもの)と、拡散的な種類のもの(観察技法によるヴィパッサナー瞑想はこちらとして自分は考えている)とがあり、前者をあまり熱心にやり過ぎるとかえって悪いというような知識が、どこで得たものなのか、過去に実際に体験されたものだったのか忘れてしまったが、自分の内にはあったのだ。どのような仕組みなのかわからないが、集中的な意識を練り上げすぎると、やはり心身のバランスが崩れるということなのだろう。それで、もしまた瞑想をやるにしても、拡散的な方向のものとして実践しなければならないと改めて認識した。要は身体に何らかの作用を働かせよう、気持ちを落着かせようなどということは考えず、そこにあるものをただ観察し、受け止め続けるという仏教的・ヴィパッサナー瞑想的な考え方の原点に立ち戻ったということである。
 そうしてしばらく座って外気を浴びてから室内に戻り、ついでに石油ストーブのタンクに燃料を補充しておく。それから室に帰って、日記の続きを書き出す。現在、五時二〇分を迎えようとしているが、ここまで三時間弱、ずっと言葉を記し続けて、三〇日及び三一日の記事を完成させてブログに投稿した。前日の三一日のほうでは、書抜きのあいだに考えたことを、あれは今日の時点からの補完は少なく、概ねその場で頭のなかで組み上げた言葉及び理路なのだが、それを記すのに苦戦して、やはり時間が掛かってしまった。
 その後、上階へ行く。食事の支度をせねばならないはずだったが、時間が遅くなってしまい、既に母親の手によってすべて調えられてあった。それで卓に就き、新聞からイラン関連の記事を読むのだが、そのあいだも、脳内に沸き返る言語の蠢きや身体各所の感覚が気に掛かって、文がうまく読めなかった(したがって、その内容をいま思い出すこともできない)。そこからちょっと経つと、もう飯を食ってしまうことにした。久しぶりに納豆を用意し、そのほか前日の残りの野菜の汁物などを卓に並べた。食事を取ると、散歩に出る。やはりいくらか身体を動かして、身体的直接性の感覚を確保したほうが良いのではないかと思ったのだ。靴下をつけ、サンダルではなくてきちんとした靴を履いて玄関を出る。西に向かって道を行くと、額にやや冷たい感触が生まれ、そのちょっとあとには首周りも含めて顔が空気の流れに包まれた。歩いていると、やはりいくらか寒くて身体が震える。身体の感触を確かめるようにして、一歩一歩定かに踏みつつ、また身体の各部へと目を向けながら進む。概ね悪くない感じだったが、平衡が少々緩いような感覚もあった。
 三〇分歩いて戻ってくると、六時三五分である。室に帰って、七時前から音楽を聞きはじめる。Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "My Foolish Heart"、Bessie Smith, "A Good Man Is Hard To Find", "On Revival Day (A Rhythmic Spiritual)", "Send Me To The 'Lectric Chair", "Gimme A Pigfoot And A Bottle of Beer", "Backwater Blues"(『Martin Scorsese Presents The Blues: Bessie Smith』: #1,#12-#15)、James Levine, "Paragon Rag", "Maple Leaf Rag", "Weeping Willow"(『James Levine Plays Scott Joplin』: #1-#3)、BLANKEY JET CITY, "僕の心を取り戻すために", "胸がこわれそう"(『LIVE!!!』: #3,#12)で五〇分。Bessie Smithは"Send Me To The 'Lectric Chair"が、James Levineは"Maple Leaf Rag"が良かった。音楽に意識を集中させてしまうとまたあまり良くないことが起こるかと危惧されたのだが、一、二曲聞いたところでは大丈夫そうだったので、そこにあるものをすべて聞き取るのだという姿勢で臨んだところ、やはり大変に気持ち良く、また手や足の先の感触なども自ずと意識されて、身体が温まって行った。心身の調子が良い具合に落着いたのだが、音を聞きながら、音楽というのは自分にとっては感覚的直接性を確実に担保できるものなのではないか、それで心が落着くのではないかと考えた。また同時に、最近の自分の不安症状というのは、最終的には離人感に対するものだったのではないかと思いついた。その離人感が何から生まれてくるかと言うと、それは明らかに、自分の生の瞬間瞬間を隈なく言語化しようというこちらの精神の働きからだと思われる。
 ウィキペディアの「解離性障害」の記事には、「離人症性障害/現実感喪失」という項目があり、そこに定義要件の一つとして、「自分の精神過程または身体から遊離して、あたかも自分が外部の傍観者であるかのように(例えば夢の中であるかのように)感じることが持続的または反復的である」と書かれているのだが、これは自分の感覚にぴったりと適合する記述である。自身を絶えず観察/傍観し続けるというのはヴィパッサナー瞑想の中核を成す技法であって、したがってヴィパッサナー瞑想はそもそも、場合によっては離人症を促進するような性質を持ったものだと言えるのかもしれないが、自分の場合さらにそこに「書くこと」に対する欲望が結びついて、「観察」がほとんどそのまま「言語化」として定式化されてしまった。感覚的直接性を絶えず言語に変換しようとするのがこちらの主体としての存在様式なのだが、それによって感覚的直接性が切り離され、この世界そのものが記号の体系として現実感を失ったものとして構成される、それが怖いのではないかということである。
 元々自分は、自分の体験したもの、この世界の豊かさを隈なく書き記したいという欲望を持っており、物事をより緻密に感じ取れるように感受性を磨くことを目指してきた。だから当初は感覚が大元としてあり、それを表現/記録するために言語を使う、という関係だったはずが、言語的能力(文を作成する能力)が発展してくるにしたがい、いつの間にか言語の地位のほうが優勢になってしまうという転倒が起こったのではないだろうか。つまりは自分の体験がすべて言語に還元されてしまい、感覚的直接性を確保できなくなるかのようであること(これが離人感というものだろう)に不安を覚えるのではないか。
 別の説明の仕方をしてみると、世界の認識における区分として、まずカントが「物自体」と呼んだこの世界そのものの姿、というような段階がある。これがどのようなものなのか我々人間は知ることができず、人間が認知することができる世界の像は、人体の感覚器官を通して構成されたものにならざるを得ない。これが通常「世界」とか「現実」とかと言われているものであり、先ほど言及した「感覚的直接性」もこのレベルのものとして考えている。この「世界」は言わば、「物自体」の表象としてあると考えられるわけだが、この上にさらに、二番目の「世界」の表象として、言語によって構成される意味論的体系の領域としての世界像が個々人において作り出されるだろう(それを「物語」とか「フィクション」とか呼ぶはずだ)。二層目の世界像と三層目の世界像は勿論相互に関連し合っており、そう截然と区分できるものではないはずだが、自分は今まで、感覚的直接性の世界の「真正性」を信じていたはずのところ、言語的に構築された世界のほうが優勢になってきて、言わばそちらのほうが「リアル」に感じられるようになり、感覚世界の像が相対化されて崩れていく、それに不安を感じているということではないのだろうか(要はこの世界そのものが記号の体系(「テクスト」)として、「フィクション」としてますます感じられるのが怖いということではないか)。
 それではもっと感覚的直接性を確保するのが良いのではないか、平たく言えば身体を動かして肉体を感じるのが良いのではないか、という案が当然すぐに思いつくが、これはあまり確かなものではない。なぜなら、そのようにして感覚を確保する努力をしたところで、それすらもまた対象化/相対化/言語化されてしまうだろうというのがこちらの危惧だからである。では脳内の言語の働きを緩くすれば良い、あるいは物事をいちいち言語に変換することをやめれば良いとなるが、これは端的に言ってもはや無理である。自分の頭は既に自動的な言語変換機能を備えてしまっており、その動きを意志的に止めることはできない(自分は既に、「言語に貫かれた」「言語に占領された」主体である)。
 風呂に浸かりながらそのようなことを考え、対処策をも思い巡らしたのだが、率直に言って、どうにもしがたいなと思った。離人感について言えば、もう離人感があっても仕方がないと考え、言語的世界のほうをこちらにとって「リアル」なものとして受け入れるというのが一つの策である(「言語の内に住まう人間」になるということ)。しかしまた、いくら自分が頑張って言語化機能を働かせようと、この世界はそれとは比較にならないほどの豊かな実在性を備えているはずで、物事を隈なく言語に還元することなどできないはずであり、自分の言語機能がどれだけ発達しても肉体的世界がそこからなくなるわけでもないと、そのことを確かに自分に言い聞かせておいた。
 また、世界像の相対化=解体/フィクション化に対する不安について言えば、これも仕方のないことで、一度相対化を行ってしまったあとから以前の状態に戻ることはできないのだから、相対化を推し進めて行って、その先にどうしても還元することのできない確かな世界像を自ら構築するほかはない。だから結局は、今まで通り物事を言語的に捉え、あるいは今まで以上に徹底してものを書き続けて、それによって揺るぎのない定かなものを発見するしかなく、頭のなかに言語が蠢き沸き返っても放置しておき、不安が生じてもやはりそれを観察しながらあるがままにして放っておくということになる。要は今までと、生き方として何ら変わらない。不安が厳しかったら、抗不安薬を利用したって良いだろう。
 自分の脳内(あるいは「心中」なのか?)に言語が湧いてくることそのものが怖いというこの不安は、まさしく「意味という病」、言語による病であり、実にポストモダン的な症状だと言えると思うが、このような議論が正確なものなのかはわからないものの、一応このように考えを構築して開き直った気持ちになったところ、不安がわりあいに収まったのは確かである。また、音楽を聞いているあいだに、自分の症状と関連して、いとうせいこうが『想像ラジオ』を出した頃に文芸誌で語っていたエピソードを思い出していた。曰く、ものを言語で指し示すことそのものに嫌悪感を覚えるようになり、山で蝶を見かけて、「あ、蝶だ」と言おうとした瞬間に、それだけで吐きそうになったという話である。それを探して検索してみると、千葉雅也との対談が発見されたので(こちらが元々読んだのは、星野智幸との対談だったが)、自分の場合にそのまま適合するわけでないが、以下に関連すると思われる部分を引用しておく。

千 葉
 「動きすぎろ」と言う人って、危ない精神状態になってくるのがわからない人なんじゃないかなという気がします。

いとう
 たしかにそうですね。たとえば接続の側に動きすぎた場合、関係妄想になるでしょう。 僕も一時期完全に関係妄想になっていて、これが「接続過剰」ですね。その反動で今度は「切断過剰」になっちゃったら、十六年間書けない状況になった。ほとんど鬱病のようですけど、シンタクスが書けなくなって、文章を並べること自体に嫌気がさしてしまったんです。それは千葉くんの本に出てくるD・ヒュームの「関係の外在性」の問題にすごく関わってきます。特に初期に自分の中で何が起きたのかが千葉さんに言われてはっきりしたんだけど、明らかに「切断過剰」で、きわめてヒューム的状態になっちゃったわけ。たとえば「私はどこで何をしていた」という文章を書くこと自体が気だるくなっちゃって、吐き気がするわけです。 一番ひどかったときは、かなり鬱の状態が深刻で、友人の藤原ヒロシが「もっと自然の中でゆっくりしたほうがいいよ」って田舎のほうに連れていってくれた。山のほうに登っていったときに、雑木の中にいて、風が吹いているんですけど、ぐしゃっとしているんです。そこに蝶が一匹とんできて、これは蝶だって思いたいんだけど、そう思うことに異様な吐き気があるわけ。それを自分で名指したくない。個体を認識すること自体が嫌になっちゃった。それは千葉先生としては、かなりまずいでしょう?

千 葉
 まずいですね。分節化して世界を組み立てることができないということですからね。

いとう
 世界を切断することによって、丸山圭三郎的に言えば「言分け」し、ソシュールで言えば、言葉によって世界を切断し、そのことによってある構成的な世界を把握する、ということで接続する。それで人はなんとか狂わずにいられる。しかし認識として、因果律というものはほぼ何もないから、それが蝶だと言うべきではない、となっちゃったんです。

千 葉
 「意味的切断」ができなくなるわけですよね。なぜなら意味を切り取ろうとしても、そもそもあらゆる切り取りは非意味的でしかないから。だったら非意味的切断でまあいいやと思えばいいのですが、そうだとしてもやはり意味を深く求めてしまって、非意味的切断で済ませることが許せなくなるわけですよね、きっと。そうなると何も納得して分節化できなくなるから全部ぐちゃぐちゃになってしまう。

いとう
 そうだね。非意味的切断の究極にいきたくなって、もうすべてのものが認識できなくなってしまう。

千 葉
 非意味的切断の過剰になっちゃって、ほどほどに非意味的切断にしておくということができなくなる。いとうそのまずいことを、そのときの自分は“正しい”と思っているんです。ある意味では正しいんだよね。世界の把握として原理的には正しい。けれども、だったら狂気の側にいけばより正しいのに、踏みとどまってじっと汗をかいている自分がいるわけ。だったらもう戻ってきなさいよっていうのが、千葉くんの本なんじゃない?

千 葉
 そうです、意味の世界へ、です。言分け、身分けがない状態は、一つの真理ではあるとおっしゃったじゃないですか。その真理に対して、ものが分けられている状態というのに何らかの優先権を与える意味があるんですかね。

いとう
 そこからが問題なんだよ。

千 葉
 結局ものに意味がある、「これがコップ」「これが本」と分かれていて、個物であって、別々であって、というのが常識の世界じゃないですか。常識の世界で「ものは別々にありますよ」と言うけれども、よくよく考えると、蝶を蝶として認めるなんてことは成り立たない。すべてはぐちゃぐちゃの相互関係に溶けていく、と考えるほうが、むしろ容易ですし、哲学的にものの本質を突き詰めていくと、容易にそっちのほうにいく。むしろ常識の世界に立ち戻って「これとこれとは別々のものだ」って考えるほうが、よほど難しいんですよね。

http://www.kawade.co.jp/souzouradio/talk_b04また、.html)

 風呂を上がると室に帰って、色々と歌を歌った。その後、一〇時前からここまで記して、現在一一時一五分過ぎになっている。
 その後、歯磨きをしながら他人のブログを読んだあと、零時を迎える直前に早々と床に就いた。翌日は山梨にある父親の実家に行くということで、早く起きなければならなかったし、心身のほうもかなりおかしくなっているという自覚があったので、さっさと休むことにしたのだった。寝床のなかではまたボディスキャンを行ったのだが、身体の感触を前日に比べると、手は引き続き冷えているものの、足の冷えはもうなくなっており、全体としても前日よりは改善しているようだったので、安堵された。

   

2017/12/31, Sun.

 九時四五分に一度目を覚ました。七時間だからちょうど良いなと睡眠を計算しながらも、呼吸に集中しているうちにいつの間にかまた眠ってしまっていた。よく覚えてはいないが、九時四五分より以前にも覚めていたような記憶の気配がないではない。そのあたりの睡眠のあいだだと思うが、RPG的な夢を見ており、小さな埴輪のような姿形をした手強い敵(一体)を仲間とともに撃退しようとしながら苦戦する、という場面があり、微睡みのなかでそれを反芻したのだが詳細はもはや残っていない。最終的な覚醒は一〇時四五分になって、その時は、何か窓をこつこつと打つような音が聞こえていた。上階で窓掃除をしているらしき物音が聞こえていたので、その関連の現象だろうかとカーテンを少々ひらくと、ガラスに水が付着していたので、上から垂れ流れてくる水滴がどこかに打ち当たる音らしいと判明した。
 寝床をしばらく呼吸を繰り返してから、水場に行く。用を足して戻ると、瞑想を始めた。ここ数日、呼吸を深くしすぎることによる弊害を体験したので、この時には鼻呼吸の自然な調子に任せたが、そのように能動性を発揮しないでいても呼吸が以前よりもよほど軽く、滑らかな感触になっていることを認識した。じきに、自分の頭のなかに流れる言語に視線を寄せはじめる。先日読んだミシェル・フーコー・セミナーの本に収録されていたルソー『告白』論のことを思い出し、自分の日記というのは要はルソーが『告白』でやったことを一日一日の単位においてやっているようなものだろうとか、ほか、純粋に観念的な存在である「読み手」に対して常に「報告」を送り続けているようなものだろうとか、だとするとそれは信仰者の「神」に対する「宗教的な」態度と類似しているのではないかとか、以前にも考えたことのある事柄をまた考えた。この際、言語が不完全な形のままに流れるのに任せるのではなくて、自分の脳内に向けて集中力/志向性をいくらか収束させ(つまりは「目を凝らし」)、言語の動きを端々で堰き止めつつそれが明確な形を作るようにして、はっきりとした形で独り言を行おうと試みたのだが(今よりも遥かに明晰な水準で常にこうすることができれば、あとで日記を書くのも楽になるはずで、つまりは自分の頭そのものがほとんどそのままペンとノート、あるいはモニターとキーボードと化すということになる)、そうしていると母親が部屋にやって来た。近づいてくる足音が聞こえていたので、直前に目をひらいて待ち受けていると、針に糸を通してくれと言う。それで三本分、セットを作っておき、母親が去るとコンピューターを立ち上げた。
 上階から雑巾を取ってきて、tofubeatsの音楽を流しながら、掃除を始めた。こちらの部屋には、南の窓際に置かれたベッドに座った視点から見て右側、東側の壁に接するようにして机がある。これは幼少の頃からずっと廃棄せずに残されてあるもので、小学生の時分のこちらの背丈に合ったものだから、当然現在は向かい合って作業をするのには使えず、新聞やらティッシュ箱やらの置き場となっているのだが、その上にさらに、良くわからない棚のようなものが置かれており、その上面に雑多なものがごちゃごちゃと散らかされているこの区画を整理しようという気になったのだ。と言うのは、そこのものを片付けてスペースを開ければ、最近また増えてきた本をそちらに移すことができるからである。そういうわけで、置かれたものを一つ一つ取り上げて、雑巾で埃を拭い、「薬」、「音楽関係」、「工具」、「手紙・名刺」などのテーマ別に分けていき、それぞれの場所に移動させていった。なかに、例えば(……)が結婚式の時にくれたメッセージ・カードなどがあり、これももう捨ててしまって構わないだろうとは思うのだが、やはり何となく捨てる気にならず、ひとまず引き出しのなかに仕舞っておいた。
 そうしてあいたスペースに、部屋の各部に積まれた本を移して積み上げて行く。壁に接する後列は単行本、前列は文庫本である(こうしておけば、後列が隠れないので、本をどけることなくそこにある著作を見分けることができる)。三柱に並んだ後列の一番左は、プルースト全集やミシェル・レリスの著作、またロートレアモン全集やサドの『ソドムの百二十日』、マラルメ全集など、大方箱に入った重厚なものを選んで積んだ。文庫本はどれを移そうかと迷ったが、右側は柄谷行人蓮實重彦ジル・ドゥルーズなどの一向に読み出すことのできない現代思想系を集めておき、真ん中の列には、ちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション』全七巻を鎮座させ、さらにその上にちくま文庫宮沢賢治全集の一巻から三巻までを置いた。左の列は中上健次古井由吉の文庫本を集める、とそのように何となくテーマ性が生まれてしまったので、高さは半端になったが、文庫はうず高く積み上げなくても良いだろうとそのくらいにして、既に必要のなくなった薬やごみを持って上階に行く。
 食事は炒飯と野菜の汁物である。それぞれ用意して卓に就き、口に運びながら新聞をひらく。カタルーニャ関連の記事を読もうとするのだが、文を追っていたはずがいつの間にか自分の頭のなかの言語にまた目を移しており、目の前に書かれてある文章を読み取ることができない、ということが繰り返されたので、食事を取りながら新聞を読むということも、もうあまり自分の心身に馴染まない行動になっているのかもしれない、新聞を読むなら読むで一カテゴリの時間として独立させたほうが良いのだろうと落として、記事を読むのを諦めた。そうして折り畳んだものを横に退けておき、何となくテレビのほうを見やりながらものを食べる。テレビは初め、大して見ていなかったので良くわからないが、紅白歌合戦に向けた番組が映っていた。多分、出演する歌手らを何人か呼んで、意気込みを聞く、というようなものだったのではないか。その途中に、歌合戦の会場で開場を待っている人々の姿が映って、彼らにもマイクが向けられる。父親が、朝の四時から待っているんだって、と苦笑いのような調子で言って、それにはこちらも、よくそうまでやるものだなとは思った。紅白歌合戦というものに特段の興味はないし、以前だったら彼らのような人間たちに対しても、何をそこまでくだらない、馬鹿ではないかと思ったかもしれないのだが、今のこちらはそのようなことをまったく思わず、むしろ、朝の四時から皆で集って目当てのイベントを待ちながら並ぶ、その期待感やわくわくとする感情のようなものを理解できるような気がし、きっとその時間はとても楽しいものなのだろうなと、(彼らの身になって、なのか、自分の身に引き寄せて、なのかわからないが)ある種の具体的な感触(リアルさ?)を持って想像できるような感じがした。最近のこちらはおそらく「主体化」と呼ばれる過程を日々に進行させていると思われるのだが、そうした過程のなかで、今までよりもさらに、生活のなかで関わりを持ったり遭遇をしたりする「他者」に対して、この人は本当に、自分とはまったく違う[﹅6]人間なのだな、と感じることが増えた。ネガティヴな意味合いで言うのではない。むしろ反対であり、「主体」として「自己」というものがより確立され、その特殊性がより見えるようになったとともに、「他者」とはこの「自己」とは「まったく違う」存在なのだということが実感として(肌において[﹅5])感得されることによって、かえって相手のこと、相手が考えているであろうことや相手が感じているであろう感情を、これまでよりもよく想像することができるようになった気がするのだ。この時もテレビを見ながらそのようなことを考えた。
 テレビはその後、宝くじの当選番号発表会の様子を映し、挨拶として、全国宝くじ協会的な組織の会長も務めているらしい小池百合子東京都知事が登場する。当たり障りのない言葉をよどみなく述べるそのさまを眺めながら、なるほど確かに、「貼りつけたような笑み」とはこのことだなと(小池氏には失礼だが)そう思った。自己を相当程度に統御=操作できる主体でないと、政治家などという職業は務まらないのだろう。そのあたりの「操作感」のようなものを感じ取ったものかどうか知れないが、挨拶のあとに会場の席に就いている人々の顔が映されたのを見ても、大方皆が皆、何となく、冷ややかなような無表情に見えた。そのあとには野田聖子総務大臣も登場して同じく挨拶を述べるのだが、こちらのほうが何となく「人間味」のようなものが感じられたような気がする。
 食事を終えると台所に立ち、母親の使ったものもまとめて食器を洗う。その後、風呂を洗って、さらにシャツにアイロンを掛けると、自室に帰った。この日の記事を作成したり、今月の家計を記録しておいたりしたのち、白湯を持ってきて、前日に買ったスナック菓子を食べながら、(……)を読んだ。そうすると一時二〇分過ぎ、そのままこの日の日記を記しはじめて、現在は二時半を迎えている。
 その後二六日の日記も記していたのだが、確かこのあいだに母親のこちらを呼ぶ声が聞こえて、書き物を中断して上階に行くと、洗面所にいる母親が、天井近くにある換気扇のカバーを外して掃除してくれと言う。それで、腰掛けの上に乗って手を伸ばし、雑巾でプロペラやその奥の埃を拭って行く。さらにはついでに、洗面台の上部に溜まった埃や、すぐ右手の壁にあった配電盤にこびりついた汚れも擦り取っておく。切りがつくと手を洗い、自室に帰ってふたたび日記を書いた。一時間を掛けて二六日の記事は完成させ、すると四時である。
 その後、運動をした。三〇分間行うと、また書き物に入り、二七日の記事を短く仕上げると五時過ぎ、上階に行く。食事の支度をしようと思ったのだったが、既に大方出来ていたので、こちらの仕事は、翌日の元旦に食べる蛸や蒲鉾やだし巻き卵などを切り分けるに留まった。それぞれ薄く切って、木造りの小さな重箱に、弁当に使うような小さな容器のなかに入れて収めて行く。その後、アイロン掛けもしたのだったか、それともそれはのちの時間のことだったか。ともかく、仕事を終えて室に帰ると、六時前からふたたび日記を記しはじめた。二八日の記事は既に仕上げてあったので、二九日のものである。この日は兄が企画した会食に出たり、その後本屋で棚を見て回ったりしたので、当然のことながら書くことが多くて、二時間半を費やして八時を回ってもまだ終わらなかった。ここで一旦、食事に行ったと思われる。
 食事をしながら、やはりどことなく不安感が身の内に生じてくるのを感じつつも(特にテレビのほうに目を向けると、微妙ながら感じが高くなるようだった)、まあ大したことにはなるまいと受けて、食物を口に運ぶ。離人感めいたものがあったかもしれない。食後、身体の感覚を慮ってすぐには風呂に入らず、一旦室に下りた。そこで何をしていたのかは記録が付いておらず不明だが、確か歌を歌ったような気がする。そうして、九時を回ってから入浴に行ったと思う。戻ってくると、二九日の記事を僅かに書き足して完成させてから、ミシェル・フーコー中山元訳『真理とディスクール パレーシア講義』の書抜きを始めた。
 まず、一四二から一四五頁に、プラトンの『ラケス』が紹介されており、「話す人と話されることが同時に、互いにふさわしくて、調和しているということを観る(……)。そしてこのような人はたしかに「音楽家[ムーシコス]」であると私には思われる」という作中のラケスの発言や、「ラケスはソクラテスの語ることと行動、言葉[ロゴイ]と行為[エルガ]が調和していると語るからです。ですからソクラテスはたんに自分の生について語れるだけではありません。自分の生についてのロゴスが、行動においてすぐに<見える>ようになっているのです。語ることと行うことの間に、いかなる齟齬もないのです」というフーコーの説明が見られる。ここにある「言葉と行為の調和」とは、こちらの言葉に置き換えれば明らかに、「書くことと生きることの一致」に相当するテーマだろう。さらに別の言葉を使えばそれは、「ロゴスとビオスの一致」ということになるわけだが、例えば自分の「日記」の営みにおいて/関連して、ここで言われている「生についてのロゴスが、行動においてすぐに<見える>ようになっている」という状態は、どのように実現されるのか? まず、この「日記」の意義を考えてみるに、第一にそれは、自らの生活/生に対して「隅々まで目を配ること(視線を向けること/監視すること)」である。コンピューターに向かい合って脳内に記憶を想起させながらキーボードを打っている時は勿論そうだが、それに留まらず、そもそもこちらは生を生きているその場において[﹅7]、そこで認知したものなり、自分の行動/心理/身体感覚なりに目を配っている(ヴィパッサナー瞑想の技法)。すなわち、自分においては「目を配ること」(そしてそれはこちらの場合、「書くこと」に等しい)は即時的/即場的な行為である。一方ではこちらにおける「書くこと」は、過去の経験の「想起」の問題/技法としてあるが、他方ではその場における「記憶」の問題/技法としてある(あるいは後者を、「瞬間的な想起」として考えても良いのかもしれないが)。つまりはこちらの生/存在様式においては、ヴィパッサナー瞑想の技法及び書き記すことに対する自分の欲望を経由して、「目を配ること」が「書くこと」に直結し(前者が後者とほとんど等しくなり)、「書くこと」が生の領域において「全面化/全般化」している。
 ここにおいて自分自身(及びその体験)に「目を配り」、「書くこと」とは、自己の存在そのものを(即時的に、また回顧的に)テクスト化するということであり、言い換えればそれは、自分をテクスト的存在として(再)構築すること、あるいはまた、自己のテクスト的分身=影を構成/創造するということになる。そしてそのようにして構成されたテクスト的な自己が、逆流的/還流的に、生身の存在としてのこの自分自身[﹅16]に戻ってくる/送り返される、このような生と言語のあいだの往還がそこにおいては発生するだろう。言語を鏡として自己を観る、という言い方をしても良いと思う。
 自己を言語的に形態化することによって定かに観察/認識し、自分にとって望ましい基準/原則に沿ってその方向性/志向性を調整/操作することになるわけだが、これを言い換えれば、反省/反芻による自己の統御/形成ということになると思う(「書くこと」は明らかに(即時的/回顧的に)「反芻すること」から生じ/「反芻すること」ができなければ「書くこと」は存在せず、「反芻」に「評価」という一要素を加えるだけでそれは「反省」に変化する)。よく覚えていないのだが、グザヴィエ・ロート『カンギレムと経験の統一性』を読んだ記憶によると、一九世紀から二〇世紀のフランス哲学のなかには、確か「反省哲学」というような系譜があったらしく、具体的な名前で挙げれば、まずラニョーという人がおり、その弟子がアランだったらしい。そしてカンギレムは若い頃アランに傾倒していたらしく、この著作はカンギレムをこの伝統/系譜のなかに位置づけつつ、彼が受け継いだもの、受け継がなかったものを明瞭化するというような試みだったと記憶しているが(具体的な論点はほとんど思い出せないのだが)、ここにおいて自分にとって何よりも重要なことは、ジョルジュ・カンギレムという思想家は、ミシェル・フーコーの師だった[﹅30]ということである(確か、論文の指導教官を務めていたはずだ)。このあたり、どうも繋がってくるのではないかという気がする。
 話を戻すと、「自分の生についてのロゴスが、行動においてすぐに<見える>」というような状態を実現させるためには、「反省/反芻による自己の統御/形成」のその痕跡/形跡が、具体的な個々の行動において表れるようになっていなければならない。つまりはこのように日記を綴り、「反省/反芻」の目を自分自身に向けることによって導出された言語的な原則/行動基準(ロゴス)が、ある時空における行動/実践において具現化されていなければならないというわけで、言い換えれば、自己を「彫琢された存在」として現前させなければならないということだ。より平たく言えば、「あの人は自分自身及び他人に(ある何らかの仕方で)気を配っているな」という感じを他人に与えなければならないということで、したがって当然、「ロゴスとビオスの一致」の現前を実現させるためには、「目撃者の生産」がそこに伴うことになる。
 そのような「ロゴスとビオスの一致」を実現し、「彫琢された存在」となった主体の例を考えてみるに、最も直近のものとして思いつくのは、この二日前に中華料理屋で見かけた女性店員の所作の「優雅さ」である。彼女だって働きはじめた当初からあのような動作形式を身に着けていたわけではおそらくなく、自らに視線を差し向けることで(自らに気を配ることで)「自律」を働かせ、それを次第に自然さにまで高めたのではないか。つまり彼女は、身ぶりに「芸術的」ニュアンスを付与することに成功しており(少なくともある一面において自己を「芸術作品化」することに成功しており)、それを見た自分は(「目撃者」として生産された自分は)、彼女は自分自身に気を配っているな、という印象=意味をそこから引き出すことになった。これが何に繋がるかと言えば、(芸術作品による)「感染/感化」のテーマであって、フーコーが一五八頁で述べているのだが、グレコ・ローマン期のパレーシアの目標は、「ある人物に、自己と他者について配慮する必要があると納得させることです。その人物に、自分の生活を変えなければならないと考えさせるのです」という言も、そうした方面から読み、考えることもできるのだろう。
 現在時点からの注釈をまた多少補完してしまいはしたものの、書抜きをする合間には概ね上のようなことを考えた。それで零時前からまた日記を書き出して、今度は前日、三〇日の分である。この日も外出したので書くことが多く、今日中には終わりきらないなと思われたので、一時半になる前あたりからメモに切り替えた。そうして一時四〇分で区切ると、この日は計七時間も書き物に費やしており、字数で言えば二万二〇〇〇字ほどを拵えていたのだが、一日でこんなに書いたのは多分初めてのことではないか。あまりに疲れない、と言うか疲れはするのだが、以前より遥かに、その疲労の程度が薄く、前はモニターに向かい合って一時間かせいぜい二時間打鍵をすれば肩や背が凝り固まってきて、ベッドに寝転がっていたのだが、この日はそうした強張りもほとんど生じなかった。頭も重くならず、明晰さが終始保たれているというのが凄いことで、率直に言ってこれは異常である。ヨガ的な試みによって身体が何かしら変質したのは確かだと思うが、それが行き過ぎてしまったというのがおそらくここ最近のこちらの変調の内実であり、この状態のまま心身が落着く方向にどうにかしてうまく調整できればと思う。
 その後は、(……)、それから古井由吉『白髪の唄』を少しだけ読んで床に就く。日記を終えたあたりからだったと思うが、足の先が大層冷えていた。確かこの夜のあいだにいわゆる「禅病」についても検索したのだが、白隠禅師が経験した「禅病」の症状のなかに足が冷え切ってしまうというものがあったので、そのままそれではないかと思った。ヨガの「好転反応」であれ、「禅病」であれ、要は自律神経が失調しているということだろうと考えられ(とは言え、この「自律神経」というものも一体どのような代物なのかこちらには良くわからないのだが)、もっと平たく言えば心身のバランスが崩れているということになり、現在のこちらの症状もそういうことなのだろう。寝床に入っても手足が一向に温まらず、身体の内を繰り返し寒気が通っていくような有様だったのだが、白隠が禅病を克服したという「軟酥の法」を試みて対処してみることにした。これは頭の上にバター様のものが乗っているさま、そしてそれが下方に向かって身体を通って浸透していくさまをイメージするというような技法で、実行してみたところ、これはマインドフルネス心理療法の方面で言うところの「ボディスキャン」と、概ね同じものだろうと思われた(そしてそれはまた、自律訓練法とも大体同じものだろう)。症状が完全に収まるということはなかったようだが(足はやはりいつまで経っても暖かくならなかった)、多少は楽になり、そのうちに眠りに入れたらしい。

2017/12/30, Sat.

 七時台に一度覚醒した時、心臓神経症の症状が見られた。意識がはっきりするとともに、気づけば左胸が不安に疼くようになっているのだ。仰向けで、あるいは横に身体の向きを変えつつ、深呼吸を繰り返して心身を宥め、睡眠時間は四時間台で短いのでもう一度眠ろうとした。意識がかなり明晰だったので眠りに落ちることができるか怪しんだが、じきに何とか入眠した。次に覚めたのは一〇時台である。この時には心身も落着いており、身体も隅々までいつになく軽い感じがして、実に暖かで穏やかな目覚めだった。仰向けのまま膝を立て、寝床でしばらく深呼吸をして、気力が出てきたところで布団を抜けた。便所に行ってきてから瞑想である。一〇時半から四五分まで一五分間座って、上階に行く。
 上に行くと、父親が風呂場で掃除をしている。年末の大掃除には父親が浴室を隅まで念を入れて綺麗にするのが恒例となっているのだ。こちらはハムと卵を焼き、それを米に載せると、ほかに野菜スープを椀によそって卓に就いた。食べながら読んだ新聞からは、解説面に加藤典洋のインタビュー記事があったので、ひとまずそれだけを読む。そうして食器を片付けると、炬燵テーブルの上に乗って両手を伸ばし、居間の電灯のカバーを外した。床に降ろしたカバーのなかを母親が掃除しているあいだに、こちらは食卓の上に吊るされたほうの電灯の、その傘の表面の汚れを雑巾で擦り取ったり、先ほどカバーを外した電灯の、普段は隠れた内側を拭いたりした。そうしてカバーを戻しておき、白湯を持って自室に帰る。
 コンピューターを立ち上げてTwitterをちょっと覗き、それからEvernoteで前日の記録を付けようとしたところが、母親が部屋にやって来る。窓を拭くように、と言う。元々、一〇時台に覚めた時にも、掃除機を稼働させた母親が部屋に来て、拭き掃除をしなよと言っていたのだ。こちらとしては窓が土埃にまみれていても特段汚いとも感じないし、むしろ光がそこを通った時にガラスに浮かび描かれる模様など、綺麗だと思うことすらあるもので、何ら支障を覚えず、窓を掃除する必要性も感じなければ掃除したいという欲求も感じなかった。掃除をするにしても、こちらが何となくそうした気持ちになった時に(しかしそれがいつ来るかはまったくわからないし、実際に来るのかも怪しいところだが)、自ら進んでやらせてほしいというのがこちらの心だったが、他者とはそんなことに構わずこちらの領域にずかずかと踏みこんでくるものである。一応、いいよ、と抵抗してはみたものの、それならば母親が自らやるという調子だったので、それはさすがにこちらとしても不甲斐なく思うから、雑巾と洗剤のボトルを受け取ってベッドの上に立ち、ガラスを磨きはじめた。
 洗剤を雑巾に吹きつけながら、内側の面と外側の面とを擦って行く。当然、窓をひらくわけだが、肌寒さを感じた覚えはない。桟の上に茶色く(油で揚げられたように?)乾いた蟬の死骸が乗っているのに初めて気づいたのだが、そのくらいのあいだ、掃除を行っていないというこれは証であるわけだ。こちらが掃除をしているあいだ、母親はベッドの上に乗り、脇にある棚の漫画を探って、これはどんなもの、などと訊いてくるのだが、説明をするのが面倒臭かったのできちんとした返答を与えなかった。何か怖いものはないのと尋ね、サスペンスが好きだと言う。そのうちに、『蟲師』を発見したのに、『蟲師』は面白いよと言えば、ベッドに寝転がって五巻を読み出した。
 ガラスの周囲を縁取る枠の細かな縁をも拭き、大方これで良いだろうと判断されたところで仕舞いとしたが、母親はベッドに寝転がったままでいる。自分の部屋に行くようにと促したのに、何で、と返してくるので、人が隣にいては文が書けないのだと伝えると、大人しく部屋を去ってくれた。そうしてコンピューターに向かい合い、この日の記事を作成すると、そのまま起きて以降のことを記しはじめた。一二時一五分で区切る。そろそろ外出の支度を始めなければならないなと思われたのだ。その前に、tofubeatsの音楽を流して運動を行う。体操とともに、ベッドに乗って柔軟運動や、「コブラのポーズ」も行う。そうして歯を磨き、着替えをして出発した。
 玄関を出る。林のほうを見やって、そうだ、昨日の朝に家を出た際に、竹の葉が集団で風に揺らいでいるのを見上げたのだった、と想起し、メモに取り忘れたな、と思った。もう手帳に綴って一連の流れを作ってしまった二九日のメモの合間にそれを差し挟むのが面倒臭く思われたが(端的に、手帳の紙面にそのスペースがないのだ)、ここで前日のことを思い出したということを、一つの出来事として三〇日の日記に組み込んでしまえば良いのだと思いついて、あとでメモを取る時にそのようにした(そして実際、先ほど二九日の日記を記していても竹の葉の風景を見たという一場面を思い出すことはなく、この三〇日の日記において(メモを見て)想起されたわけである)。
 坂に入りながら自分の身中/心中を探るに、不安がある。その不安を受け入れそのままに放置しておくのではなく、不安を収めたい心も同時にある。坂の出口に掛かりながら、これはまずいかもしれないなと思った。と言うのは、不安をどうにかしたくて苦慮するというのは、パニック障害が盛っていた時期の心理と同じものだったからだ(こちらの疾患からの回復は、まず、不安の存在を受け入れ、不安があっても良いのだ、それが通常なのだと認識するところから始まった)。
 街道や裏通りを行きながら、具体的には、呼吸をどうすれば良いかということが迷われた。深くするか、自然に任せるか、ということだが、深くすれば気持ちは落着くだろうが、身体が不安定になり(まさしく平衡感覚が不安定になるのだった)、どういうわけか頭痛も生じる。この前日にも、帰路に就いたあたりから頭痛があって、それは結局、ヨガの真似事をして深い呼吸をあまり熱心にやり過ぎたための身体の変調、いわゆる「好転反応」と呼ばれているものの類ではなかったかというのがこちらの仮説なのだが、これについてはあとで記せたら記す。ここにおいては結局のところ、不安を抑えたいなどというのもいわゆる一つの「我執」であって、そんなものに囚われて周囲の物々を見聞きし感得できないのは勿体ない、死ぬわけでなし、自然に任せれば良いし、不安があるならばその不安も観察して隈なく書き記せば良いのだという心に至った。それでこの時、裏路地の途中で確かに何かの風景を目にしたのだったが、一体何を見たのだったか? 思い出せない。思い出せたらまた記そうと思う。
 電車に乗る前に、駅前の公衆トイレに寄った。放尿しておき、駅舎に入ると、既に着いている電車の一番先頭の車両に乗り込む。席に就き、人がいくらか増える(……)まで行くあいだ、手帳にメモを取り、それ以降は古井由吉『白髪の唄』を読んだ。文字を追っていると、車内に射し入る陽射しが頁の上に薄く乗り、紙の表面の肌理が露わになって文字の姿形が微かに乱れる瞬間がある。別に自分は電子書籍を嫌うものでないし、やはり紙の本でないとというようなこだわりもないが、つるつるとしたモニターに比べて、紙という物質の帯びているこのニュアンスは、まったく悪いものではないなとは思われた。立川の手前ではよく、赤ん坊を連れた若い親が乗ってくるのだが、この時もベビーカーを操る母親が乗車してきて、入口をくぐらせたり、押しながら車内を移動したりするのを、前日に兄夫婦とその赤子を見たということもあってか、やはり大変だろうな、と思わず目で追ってしまう。
 待ち合わせの二時にはいくらか遅れることがわかっていたので、メモを終えたところでメールを送ってあった。そう急がねばならぬ相手でもあるまいと緩く考えて、改札を抜けると、まず金を下ろしたかったので郵便局に向かった。広場に出ず、下り階段に折れて地上に出ると、すぐそこに、何やら緑色のゼッケン(らしきもの)を付けた集団が集まっており、「立川を明るくする会」とか何とか書かれていたか、忘れてしまったのだが、台の上に何かポスター様のものが束になっていくつも置かれていた。その横を過ぎて通りを行き、郵便局に入る。少々待ってから鷹揚な動作で金を下ろし、出るとすぐ傍の喫茶店に向かった。
 入店すると、すぐに(……)と(……)の顔が見つかる。四人掛けの円卓の席を取っている。寄って行き、こんにちはと挨拶をして、首に巻いていたストールを取る。上着も脱いで椅子に掛けておき、席に座った。お冷やを持ってきた女性店員に、その場でホットココアをと注文する。そうして、パク・ミンギュ/ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳『カステラ』を鞄から出して、卓上に置く。すぐに本の話は始めずに、明日で今年が終わるのか、とぽつりと口にして、全然実感が湧かないなと続ける。何とか返ってきたのに、年を取ってくると暦というものが意味を失ってくるねと、社会的観念の相対化が云々などという話はせずに穏当なところに落として告げた。
 その後またいくらか雑談をしたと思うが、それについては覚えていない。そうして、読んできた本の話に入ったのだが、こちらはこれについてはあまり言うこともなかった。どの篇が良かったかという流れのなかで、「ヤクルトおばさん」の与太話感が良かったとか、「ダイオウイカの逆襲」という篇では、どうでも良いようなことにこだわる子どもの感じというのが結構良く出ていてよかったとか、至極素朴な感想を述べる。
 そのほか、「カステラ」という表題作に関連して、言語とそこから生じる表象の違いということを説明した一幕があった。「カステラ」の篇では、冷蔵庫のなかに「アメリカ」とか「中国」とかを収めて閉じ込めてしまう(そしてそれによって、小説内の世界では「アメリカ」という国が消えてなくなり(その記憶は残っている)、例えば「マクドナルド」なども消滅する)という展開があるのだけれど、それは大方、確か冷蔵庫をひらき、「アメリカ」だとかをなかに入れ、そして閉じる、という風な簡潔さ/単純さでしか書かれていなかったと思う。それで何でもなかに入れてしまうわけだが、(……)はそこを例えば、「アメリカ」がひゅうぅぅん、という音を立てて一挙に凝縮され、吸い込まれていくというようなイメージで考えていたと言うので、別にそれに苦言を呈したかったわけでないが、この小説自体にはそのようには書かれていない、そうしたイメージを抱く時、読み手である我々のほうが小説の言葉にイメージを付け加えているのだと指摘した。そのようにイメージ化するというのは概ね誰でもやることだろうし、それはそれで勿論良いのだが、ただ小説そのものは言語で出来ているものであり、例えば今回の例のようなイメージは我々が付与/補完しているのだということ、この位相の違いを認識し、理解しておくことは、小説を読むという行為に限ったことではなく、重要ではないかと思うと述べた(これは要するに、物体/物質と観念/意味、あるいは上部構造と下部構造の違いという話になるのだと思う)。
 また同時に、この場面などは映像化できないのではないかという問いが出されたので、「どのように」アメリカが冷蔵庫のなかに入るのかが書かれていない以上難しいだろう、もし映像化するのだったら、何かしらの「解釈」を施さなければならないというようなことをこの時には述べたが、そもそもそこにはっきりと書かれてあることを「忠実に」映像化する場合だって、言語を言語でないものに移すのだから、それも勿論、結局は「解釈」にならざるを得ないわけだ(メディア間の変換/翻訳において、「忠実に」などという事態はあり得るのだろうか?)。しかしまた、言語間コミュニケーションを考えてみても、例えば我々は「林檎」という言葉を用いるわけだが、その語が指し示す意味/概念を知覚/認識した際、それを「林檎」という言葉に収め/当て嵌め/形態化し(言わば暗号化し)、発出することができる。その言葉を送られた受け手のほうは、「林檎」という語からその意味/概念を読み取り(解凍/解読し)、またそれをイメージ化もするだろう。このモデルで考えた際に、おそらく「意味/概念」のレベルでは両者が認識しているものは相当程度一致し、「イメージ」のレベルではまったく違っているのではないかと推測するのだが、どうなのだろうか? 「林檎」という単純な一語の例を扱ったからそのように思えるだけで、「意味/概念」のレベルにおいても、個々人の「解読コード」が異なっているのだろうか? 多分そうなのではないかという気がするが、このあたり、自分にはまだ良くわからない。
 また関連して、例えばこの作品のように、小説という領域においては、我々の現実から外れたものであれ何であれ、とにかくそう書けばそうなってしまう[﹅13]、アメリカが冷蔵庫のなかに入った、と書けば、その小説のなかにおいてはそれが確定的に起こってしまうのだとも説明し、これが言ってみれば、言語というものの「恥知らずな」ところであり、また「破廉恥さ」のようなものだと述べた。そう考えると、このパク・ミンギュという作家は、この言語の「破廉恥さ」を意外とうまく活用している作家だったのかもしれないなという感想も、今更ながらここで(喫茶店でこの発言をした時点で)初めて浮かんできた。
 四時を過ぎたあたりで、腹が減っていたのでなにか食べるかという気分になり、チキンとチーズを添えたトーストを注文した。実のところ、公共の場で食事を取って、かつてのパニック障害時代のように気持ちが悪くならないかという危惧があったのだが、どうなるか試してみようという心も同時にあったのだ。それでやはり、トーストをかじって腹に入れていると、何か身体の奥のほうが勝手に疼くようにして不安が生じる、という感じがあったのだが、やはり恐怖や危機感というほどのものはなかった。怯まずに食べていくと、味は美味く感じられる。この時だったかわからないが、この日の、あるいは最近の日々のどこかで、まるでパニック障害時代を反復しているようだなと思った瞬間があった。しかしともかくも、ゆっくりとではあるがすべて平らげ、そうして二人に次回の課題書を考えておいてくれと言って席を立つ。便所に行ったのだが、また同時に、携帯電話を見ると(……)から着信が入っていたのだ。(……)というのはこちらが大学時代に音楽をやっていた時の仲間で、(……)という高校の同級生(音楽の専門学校に通っていた)に誘われたバンドのドラマーだった人で、年齢は一周り以上年上で当時で四〇になる前だった。用足しを済ませたあと、階段口の脇に立って電話を掛けると、繋がらない。しかしちょっと待っているとすぐに返ってきたので、出て挨拶をした。一年の終わりなので(……)の声を聞かなくては、とか言っており、井の頭公園に来ていてこちらのことを思い出したらしかった(かつて二人でその池のボートに乗ったことがあるのだ)。前回会ったのはあれは、一昨年でしたか、あれも年末で、と確認をする。やはり久しぶりに電話があって、今ブルースのバンドで叩いていて、今日ライブがあるから良かったら来ないかと誘われ、(……)に出向いてライブを見物したその帰りに、送ってもらう車のなかで色々と話をしたのだった(今しがた日記を見返してみると、やはり二〇一五年の一二月二六日だった)。書き続けているかと問われたので、肯定を返す。そちらはどうですかと問い返すと、会社のほうは外から見れば順調に見えるのかもしれないとあり、音楽のほうはと訊けば、あまり進歩していない、というような口ぶりだった。四三になると言う。この歳になると、やはり自分のことが色々とわかってくる、会社は本当にやりたいことではないな、とか、と言うので、こちらはもうそのあたり決まってしまっていると応じ、何かと問われるのには、毎日読み書きをするというただそれだけだと答えた。それが一番いいよ、と(……)は言った。
 また飯でも、と言を合わせ、今日はどうですかと性急に訊けば、今日は忘年会があるのだと言うので、また近いうちにと交わして通話を終えた。店内に戻ろうとすると、(……)がトイレに出てきて、入れ替わりに席に帰る。座るやいなや、自分には珍しいことではないかと思うが、問わず語りに電話の相手のことを説明し、しかし一年に一度であれ、そのように連絡をくれて、関係を繋いでくれるというのはまったくありがたいことだと落とした。その後は細かい記憶は特にない。会計をして書店に向かう。
 四時半過ぎくらいでなかったかと思う。建物を出て見上げると、空は明度を抑えて薄青くなっており、雲は見られない。駅舎入口のエスカレーターから上に上がり、広場を過ぎて、歩きながら来たほうに振り向くと、東はもう暗く暮れており、そのなかで派手派手しい彩りの看板をいくつも灯したビルの姿が、平面的に、書割のように映った(こうしたイメージは以前も同じ場所、同じビルについて体験したことがある)。西の方面には残光が幽かにあったようだが、高層ビルに遮られて定かには見えない。
 オリオン書房へ行った。次の会合の課題書は、(……)の興味で、講談社学術文庫から最近出ている「興亡の世界史」シリーズでどうかという話になっていた。こちらとしても異存はないので、そのシリーズをいくつか見分し、『地中海世界ローマ帝国』の巻に決定された。(……)はその場で買ってしまうと言う。こちらは何か見ていくかと訊かれて、哲学の棚を見たい気持ちもあったが、昨日買ったばかりだからと答えて抑えた。書架のあいだを出ると、雑誌の区画の入口あたりに、スター・ウォーズの特集コーナーが設けられている。こちらは特段の興味がないが、(……)などは、施設や戦いの細かな設定がイラスト入りで紹介された資料集をめくって興奮していた。彼女が会計に行っているあいだ、特集コーナーの横に作られていた映画関連の本が集まった区画の前にぼんやりと立つ。平積みにされているなかに、『ゾンビ論』という本があり、ジョージ・ロメロがどうのとか書いてあるのだが、見れば中原昌也の名があったので手に取ってちょっとめくってみたが、いくらも読まないうちに(……)が帰ってきたので戻し、退店に向かった。
 既に西側も暮れきって、空は黄昏の藍色に浸っている。駅へ戻り、改札を抜けたところで、良いお年をと言って別れ、発車間際の電車に乗った。扉際で古井由吉『白髪の唄』を読む。(……)に着く頃には、明らかに体温が上がっており、発熱をしているような浮遊感、ふわふわとした身体の感じがあって、外気のなかに降り立っても寒くないほどだった。身体が熱を帯びるのに応じて鼓動も自ずと高まっており、明らかにどうもおかしいなと思われた。ひとまず自販機で例によってスナック菓子を買い、ベンチに就くと古井由吉を読んだのだが、身体に響く鼓動が苦しいほどなので五分のみで取りやめ、自身の変調について考えた。ここで冒頭近くに記したヨガの好転反応の話が出てくるわけだが、二七日二八日あたりからヨガの真似事を始め、また二八日二九日あたりは生活をしているあいだもほとんど常に呼吸を意識し、呼気を吐ききるようにする、という風にしていたのだが、それによって心身に何かしらの変調が生じたのではないかとひとまず仮説された。実際、深呼吸によって身体が芯から軽くなるということは明確に体験されたのだが、同時に、浮遊感が強まり、鋭い頭痛が生じるということも確認された。電車に乗っているあいだもそのようなことを思い巡らせ、帰ったら調べてみようと思いながら帰路を行くあいだ、発熱の感触から風邪やインフルエンザではないかとの可能性も考慮されたが、しかしそれにしては咳などまったく出ないし、身体も重さや気怠さがなくてむしろ軽いので、否定に傾いた。
 帰宅するとインターネットで、ヨガの好転反応について検索してみるのだが、検索のトップページに出てきた付近のサイトをちょっと覗いてみても、大した情報はない。大概、毒素が抜けて云々という風に記されているのだが、「毒素」というのは一体何なのかこちらには良くわからず、何となく胡散臭い感じがする。ヨガに限らず、官足法などにおいても、東洋のほうの養生法では「好転反応」ということがまま言われるようなのだが、実際のところ、本当に「好転」なのかどうかも怪しいような気がする。しかしやはり、深い呼吸を熱心に繰り返したことやヨガ的な筋肉の使い方を(急に)したことによる何らかの(体内物質やホルモンの分泌などの)作用ではないかと、こちらにはその程度の仮説しか立たない。実際、ヨガの真似事を行って以来、身体の感覚は相当に柔らかくほぐれたのは確かで、大袈裟な比喩で言うならば肉体を丸ごと取り替えたような、と言いたいほどの変化があったので、それは変調も起ころうと思う。やりすぎも良くないという常識に落着いて、深い呼吸はせずに自然に任せることに決めた。
 腹が減っていなかったので、その後、インターネットを回ったり、他人のブログを読んだりする。そうして八時前から運動を始めた。肉体の調子が収まっていたので、運動をすることでどうなるか、試したかったのだ。身体を伸ばしながら、呼吸は深くせず、鼻から通して自然に任せた。結果は明確に覚えていないのだが、覚えていないということは、大きな変調はなかったに違いない。
 そうして、音楽を聞く。Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "Alice In Wonderland (take 1)"、BLANKEY JET CITY, "胸がこわれそう"(『LIVE!!!』: #12)、Bessie Smith, "A Good Man Is Hard To Find", "Need A Little Sugar In My Bowl", "Downhearted Blues", "Nobody Knows You When You're Down And Out"(『Martin Scorsese Presents The Blues: Bessie Smith』: #1,#9-#11)である。一九六一年のBill Evans Trioの"Alice In Wonderland"というのは端的に言って名演なのだが、このテイク一ではベースソロのあいだに一拍の脱落があるように聞こえる。どこかで一拍ずれているはずなのだが、しかしそれにもかかわらずソロの終わりはぴったりと合っており、どういうことが起こっているのかどうしても見極められないのだ。もう少し具体的に言うと、ベースソロの後半でLaFaroが少々もたるような部分があり、その少しあとに、Paul Motianが、あれはライドシンバルなのかオープンのハイハットなのかわからないが、三拍子の本来の頭よりも一拍早くシンバルを鳴らすところがあって、それ以降はそこを新しい小節の起点として数えると拍子が合うようになっているのだ。だからこちらは何となく、LaFaroが一拍ずれたのにどのようにしてか気づいたMotianが、一拍削って帳尻を合わせたのではないかと予想しているのだが、確証はまったくない。
 食事や入浴のあいだの記憶はない。一〇時過ぎから少々インターネットに遊んで、その後、日記を記した。二五日の分である。(……)に会ったことを書いているところから横道に逸れて自分語りが始まってしまい、予想外に二時間二〇分も費やしてしまう。それを受けて、やはり記憶に付かなくてはならないなと改めて思った。言語というものはそれ自体で次々と別の言語を呼んでいき、ほとんど際限なく膨張していくものなので(つまりは、言語とは自己増殖的なもの[﹅8]なので)、過去の記憶・体験に寄り添うのではなく、現在時点からの補完・注釈にあまり流れてしまうと、取り留めがつかなくなって無闇に時間を消費してしまう。それはそれで楽しいのだが、こちらにはほかにもやりたいことがある。結論としては、ここでこうした思考をしたなと明確に記憶されている場合のみ、つまりは思考が一つの出来事として独立した形を成して保存されている場合のにみ、思弁的なことを記すべきだろうと、この時そう考えた。
 その後、古井由吉『白髪の唄』を読み進め、瞑想を行って三時直前に床に就いた。

2017/12/29, Fri.

 携帯電話のアラームを九時に設定していた。父親の還暦祝いということで兄が昼食の席を企画し、一〇時半頃には家を出ることになっていたからである。この朝のこちらはアラームが鳴るより前、八時四五分に覚醒して(それよりも以前に一度覚めた記憶もある)、布団のなかに留まったまま二度寝に陥ることなく、呼吸を繰り返して身体の感覚が調うのを待った。そうして携帯が鳴り出す直前にベッドを抜けてアラームの設定を解除し、便所に行ってきてから瞑想を行う。九時五分から二六分である。
 上階に行き、昼食までさほどの間もないので、食事は前夜のサラダの残りとゆで卵のみで取ることにした。それぞれを用意して卓に就き、早々と食べると、使った食器を片付ける。風呂を洗っておいてから下階に戻り、さっさと歯を磨いて着替えをした。フーコー・セミナーの本を読み終えて、次に何を読むのか迷っていた。小説とそれ以外のものを交互に読むという原則を一応は設けているので、順番としては次は小説、それも日本のものが読みたかった。清岡卓行アカシヤの大連』が良いような気がしたのだが、何となく煮えきらず、夏目漱石『門』を考えたり、あるいは原則を破ることにはなるが石原吉郎『望郷と海』が読みたくなったりしたものの、最終的に古井由吉『白髪の唄』が読みさしだったではないかと思い出して、ひとまずはこれを最後まで読んでしまおうと決定した。そうしてカバーを取り払ったその本を鞄に入れて、上階に行く。
 父親の運転する軽自動車(母親のもの)に乗って出発である。車内で、(……)のビル(我々はこれからそこへ向かうところだったわけだが)の、上層階にある駐車場に続く通路の入口の看板に、「右折禁止」という表示が書かれているということを母親が言い、それに対して父親が、それは「公の」ものではないから大丈夫だ、破っても逮捕されるわけでない、などと返しているのを聞きながら、「恥の心性」について少々思考が駆動されるところがあったが、詳しくは記さない(勿論この時想起されていたのは、例のルース・ベネディクトの『菊と刀』の書名だが、自分はまだこの本を読んだことがない)。(……)に着き、七階の駐車場に停めると、建物の内に入る。エレベーターが上がって来るのを待つ。フロア内には、ヨーロッパの(何となくフランスの)それを思わせるような、洒脱な、と言われるだろう類の雰囲気を持ったジャズ風BGMが掛かっており、オルガンとヴァイオリンが編成に含まれていたと思う。エレベーターに乗って、階を下りる。店舗の合間を抜けて外に向かうのだが、母親は一人ですたすたと、随分と早足で先に行ってしまい、建物の外に出たあたりから父親も先行しはじめて、こちらはそんなに急ぐでもあるまいとのろのろと離れてあとを追う。駅舎に続く円型の通路を行けば、太陽の光が目に眩しい。
 駅に着くまでに、両親の姿は見当たらなくなってしまった。こちらはひとまずトイレに寄ることにして、清掃中の看板が置かれているが入って行くと、小便器を掃除している女性の清掃員がいたので、使っても良いですか、と声を掛けようとしたところが、喉に痰が絡んで声がうまく発せず、咳払いをしてから言い直すことになった(その時には既に、了承が返ってきていたのだが)。放尿したのち、礼の声も掛けておき、手を洗って室を出る。ホームに下りると、ちょうど目の前に両親がいたので合流し、やって来た電車に乗った。
 座席に座るとメモを取ろうと思って手帳を取り出し、ほんの少しだけ書きはじめたのだが、すぐにやめた。と言うのは、隣に座っている母親に見られたくないなという心があったからである。それで瞑目して休むことにした。前日の労働中に突発的な緊張の高まりがあったので、この日もまた何かの拍子にそれが訪れやしないかと警戒する頭があったのだが、心身の感覚を探ってみるに、特段の緊張の要素は見当たらなかった。行程の序盤は、車両内に話し声がほとんどまったくなく、静かななかに電車の走行音だけが聞かれていたのだが、じきに乗ってくる人が増えると、いくらかの会話が聞こえるようになった。
 立川で降りる。階段を上がり、両親はトイレに寄るというので、そこで別れる。この時一一時半というところだったが、待ち合わせは一二時、(……)という中華料理屋だったので、もうそこに行っておけば良かろうと改札を抜け、ビルに入った。エスカレーターに乗るのだが、ここには四階だか五階だかまで繋がった長いエスカレーターがあり、それに乗っていると、通常のものよりも長く、高く感じられるものだから、こわごわとした気持ちが湧いた。
 七階まで上がると、フロアを回って店を探す。場所を確認しておくと、ふたたびトイレに行く。トイレにせよフロア内にせよ、若い父親と男児の組み合わせを多く見かけるような気がした。その後店の場所まで戻ってきて、店舗の外、通路の脇に並んだ椅子の一番端に腰掛けて、時間が来るまでと読書を始めた。古井由吉『白髪の唄』である。メモを取ろうかとここでも試してみたのだが、行き交う人の気配や音が気になって、記憶がうまく想起されてこなかったので、やはり駄目だなと書見に移ったのだった。周辺の知覚情報のために文字を読み取るのもなかなか難しいので、意識を集中させていると、こんにちは、と声が降ってきて、はっと顔を上げれば兄夫婦だった。兄が抱っこ用の道具を身に着けて、(……)を胸に抱いていた。こんにちはと挨拶を返して、店内に入っていくのに続きながら腕時計を見ると、一一時五三分だった。奥にある個室へ通される。
 円卓である。(……)用の椅子も用意されて、両親が来るのを待つあいだ、彼女の隣に腰掛けて、目を大きくひらいて見つめてくるその視線と瞳を合わせた。じきに両親も到着する。
 飲み物は、父親と兄がビール、母親と(……)がノンアルコールのビール、こちらは例によってジンジャーエールである。食事は、いくつか品の入っているものが良さそうでないかと兄が提案して、皆でそれにすることに決めた。こちらは実のところ、五目焼きそばが食べてみたいとちょっと思っていたのだが、特段こだわるつもりもなし、周りに合わせた。注文の際には、個々人で選択可能な品目を選んでいく。一つには、エビや野菜の炒め物か、酢豚かという選択があり、もう一つには、炒飯か、担々麺か、あるいは五〇〇円をプラスしてフカヒレスープか、という選択があった。こちらは炒め物と炒飯(辛いものは苦手であるため)を選んだ。父親は酢豚と担々麺、母親は炒め物と炒飯、(……)は酢豚と炒飯、兄は酢豚と、後者は一人フカヒレスープを注文していた。
 やって来た膳には、先の前者の選択品が右上にあるほかに五つの小さな品目が揃えられており、四角形のスペースの下辺と左辺に接するようにして並べられている。店員が説明していくのを聞きながら、詳細をすぐに忘れてしまったのだが、まず右下の角にあったのが、帆立の一品で、その左隣りが大根と蕪を小さなブロック状にしたもの(「聖護院かぶら」という固有名が聞かれた)、左下の角が春菊の巻物、そこから上に行ってクラゲの和え物に、最後がよだれ鶏と言うらしい鳥の肉で、固形の山芋が添えられていた。
 食事の始まってすぐの頃合いだったかと思うのだが、兄がロシア土産を母親にプレゼントする一幕があった(兄はロシアに赴任しており、年末年始で一時帰国してきたのだ)。青い彩色が成されたカップの類(三つ)で、こちらは全然知らないのだが、「グジェリ」というブランドだか何だかのものらしかった。母親が欲しいといって、頼んでいたのだと言う。
 店内に流れていた音楽は、大方J-POPのヒット曲をBGM用にアレンジしたもので(オルゴール風の音色がメインだったような気がする)、例えばコブクロ絢香が組んで出した"Winding Road"などが聞かれたのだが、なかに一つ、毛色の違うものが流れるのに気づいた時があった。メロディに覚えがありながら、何だったかと思い出せないでいるうちに、これは確かThe Beatlesだったなと思い当たったのだが、その先の曲名までは繋がらない。旋律に当て嵌まる歌詞を探ったところ、何となく"sun"という語が入るような気がしたらしく、二枚目だかにそんなような曲がなかったかと当たりをつけて(しかしこれは四枚目の間違いだった)、帰ったあとに調べてみると、『Beatles For Sale』に"I'll Follow The Sun"という曲がある。これでなかったかと掛けてみたものの、明らかに違う曲で、しかしThe Beatlesであることは違いないはずだがとほかの曲目を眺めていると、"Here Comes The Sun"に行き当たって、ああそうだ、これだった、と解決に至った。
 曲を同定しようと頭を回していた時というのは、ちょうど(……)が食事を取りはじめたあたりで、疑問に気を取られていたためにあまり定かな印象をその場面から引き出すことができなかったが、(……)が(……)に食べさせていたのは、しらすの雑炊である。ゼリー風の容器に入れられた既製品で、ああしたものがあるのだなと目に留めた。またさらに、バナナを潰したものも食べさせられた((……)がバナナの断片を取り出して皮を剝いた時、その香りが円卓の上を渡ってこちらの鼻にまで広がり、伝わってきた)。その後また、ミルクも与えられたが、この時には兄が(……)を抱いて飲ませていた。その後に背中を刺激してゲップを出させると、兄は隣のこちらに赤子を差し出してきたので、受け取って膝の上に乗せ、胸に抱えこんだ。以前はうまい抱き方もわからず、生まれてまもないこともあっていかにも脆そうで、こわごわとしてしまい、うまく抱くことができなかったのだが、もうだいぶ身体も出来てきており、多少力を込めて扱っても大丈夫だろうというわけで、この時には気楽に受け持つことができ、こちらの顎を赤子の頭に乗せながら腹を触ったり、足をさすったりした。自分の父母以外の人間に抱かれるのにも慣れたらしく、抱いているあいだ、泣かれることはなかった。しばらくして、父親に渡し、そこから母親にと移って行く。
 デザートの杏仁豆腐を食べてちょっとするとこちらはトイレに立った。その時、フロアを行きながら携帯電話を取り出して時刻表示を見やると、一時三八分だった。戻ってきたあとだったか、それともこちらが立つ前に既に行っていたかわからないが、(……)は赤子のおむつを替えに行った。待っているあいだ、こちらはドアの脇に控えて、ドアボーイの真似事をする。と言うのも、この室の引き戸が一部滑りが悪くて(店員も少々苦慮していた)、赤子を背負って荷物を抱えた状態で片手で引き開けるのには力がいるだろうと、(……)が出て行った際に見留めていたからである。やはりトイレに立っていた母親が帰ってきた時なども扉を開けるのを手伝ってやり、(……)も戻ってきたあと、ふたたび赤子がこちらの手に渡された。立ったままで受け取って、席まで移動して座り、こちらの脚の上でじたばたと動くのを押さえていると、写真を撮ろうということになった。それで皆の視線が一挙に向いたためだったのだろうか、赤子が泣きはじめて、しばらく泣かせるがままに抱いていたのだが、そのうちに仕方がないと隣の兄に受け渡して、すると兄は、赤子を胸に引き寄せた状態から、声を出しながら上体を前傾させて赤子を前方に倒すようにして(この時、赤子の姿勢は、その頭が少し前の床を指すくらいの傾きを得る)、戻してはまた倒す、という風にしてあやしはじめて、そうすれば子も楽しそうにして笑顔を見せたので、さすがだなと思われた。
 その後、店員にも手伝ってもらい、写真撮影を終えると退店である。店員と言えば、なかに一人、所作の優雅な女性がいた。身体の動作が大変に落着いていてしなやか[﹅4]であるのが、明らかに目に見えてわかり、顔に浮かべた笑みも柔和で、不自然さのまったくないものだった。
 退店したのは二時過ぎである。フロアを通ってエレベーターに至り、下階へと下りる(人が乗ってくるたびに、操作盤の前に陣取った父親が、一階で良いですか、と尋ねていた)。皆はアイスを食べに行くと言うが、こちらはそれに同行する気にはならなかったので、別れることにした。駅舎を南北に抜ける大通路を歩きながら、(……)と少々会話をする。まず、立川は(……)の庭だもんね、というようなことを言われ、そうは言っても本屋くらいしか行かないですけどねと返し、(……)その後ちょっと歩いて、(……)は、と今度は訊かれたのに、四日からまた始まりますとか、何を言ったのかは忘れたが、ここでも多少の言を返した。こちらにはこのようにして、問われたことに対する説明をし終えると、それで自分の仕事は終わりとばかりにまた黙ってしまうという性向が基本的にあって、会話を繋ごうという努力をしないから、そのあたり、(……)が、何を話せば良いのかわからない、というような、ややぎこちないような雰囲気を少々発していたような気がしないでもない。何か言いたいことや問いたいことが思いつかなければ無理に話さなくても良かろうというのがこちらのスタンスであり、この時もそれにしたがって黙っていたのだが、また、騒がしい雑踏のなかで歩きながらこちらの声を相手に届かせるということが面倒臭かったのかもしれない。さらには、そうした見地とも関連するはずだが、こちらにとって「話す」というのは、別に「真面目な」話でなくて世間話でも雑談でも、基本的に一対一で、正面から向かい合ってするコミュニケーションとして捉えられているのではないか。
 兄夫婦とありがとうございましたと挨拶を交わし、皆と別れると、こちらは一人、書店に向かった。特別、行きたいという強い欲望もなかったのだが、このまま帰るのも何だかなあという気分があって、見に行くだけは行ってみるかと決めたのだ。駅前広場を過ぎて歩廊を歩きながら、一人で歩くというのは、やはりとても落着くものだな、と思った。別に家族といる時間が退屈だとか、嫌だとか、以前ならばともかく今はもうそのように思うことはないが、こちらが最も心落着くのは自分一人でいる時(ハンナ・アーレントの言葉を借りるならば、「自分自身とともにいる」時、一人のうちで二人/単独性のなかにおける複数性という状態にある時)であるということは、疑いがない。道の脇に寄って、手に持っていたストールを首周りに巻きつけた。
 モノレールの駅舎下の暗い通路を行くと、北西方向にひらいた街並みと青空を背景にして、手前を歩いてくる人々の姿形が、その先の明るさに作用されて黒く塗り潰され、顔が見分けられなくなっている。書店は、高島屋のなかに入っている淳久堂のほうに行くことにした。思想関連の棚でも眺めて、めぼしい本を確認しておくかと思ったのだ。
 百貨店のなかに入り、エスカレーターで上って書店に着くと、まっすぐ件の棚に入る。入口から近いところにある言語学関連の棚を眺めていると、大学生らしい若い男女が入ってくる。話しているのを盗み聞きすると、男性のほうが女性のほうに、何やら「真面目な」調子の話を語っており、女性のほうも誠実そうにそれに受け答えをしている。良いなあ、自分もあんな風に思想やら社会やらの話を真正面からできる恋人、あるいは女性の友人でも欲しかったなあなどと、とりあえず頭のなかでそう思ってはみたものの(そのような言葉を形成してはみたものの)、しかし自分が本当にそんな風に思っているのかと気持ちを見直してみると、疑わしいところもあった。そんなことはもうどうでも良いのではないか? ともかくも、そのようなことはすぐに忘れて、棚を見ていると面白そうな本ばかり次々と見つかってしまい、手に取ってひらき、目次を見たり適当に頁を眺めたりしては、興味の度合いが一定以上に達したものは手帳にメモを付けていく。バンヴェニスト『言葉と主体』、アラン・クルーズ『言語における意味』、ジョージ・レイコフ/マーク・ジョンソン『肉中の哲学』、ヤコブソン『言語芸術・言語記号・言語の時間』、S・ダーウォル『二人称的観点の倫理学』、三浦俊彦『虚構世界の存在論』、リチャード・シュスターマン『プラグマティズムと哲学の実践』がこの周辺の区画でメモされた著作群である。なかでは特に、レイコフの『肉中の哲学』というのが、何がどうというのは勿論わからないが、何かしら「やばい」雰囲気を持っているように直感された。
 その後、フーコーの区画に移って、そこを起点として周辺を見分する。ジャコブ・ロゴザンスキー『我と肉』、M・アンリ『受肉 <肉>の哲学』、入谷秀一『かたちある生』、B・ヴァルデンフェルス『講義・身体の現象学』『経験の裂け目』、中敬夫『行為と無為』『身体の生成』『他性と場所 Ⅰ』、田口茂『フッサールにおける<原自我>の問題』、山形賴洋『声と運動と他者』、吉永和加『感情から他者へ』、斎藤慶典『生命と自由』、菊地恵善『始めから考える』が、ここでメモされたものたちである。せっかく来たのだし、何かちょっと買おうかな、という気持ちが生じていた。そこで、少し前に発刊されたガタリの『カオスモーズ』の新装版のことを思い出し、ガタリの区画を見に行く。フェリックス・ガタリという思想家も、こちらはまだまったく読んだことがないが、何かしら「やばい」類の雰囲気を感じる気がする人で、『なぜ人は記号に従属するのか』だったか、そのような題の本も気になったのだが、ここでは『カオスモーズ』を取った。それ一冊で良かったはずが、何となくもう一冊何か欲しいなという気になっており、しかしいま自分が購入するほどに欲望を感じている相手となると、やはりミシェル・フーコーの著作となる。これが大概どれも値が張るので困るのだが、例の箱入りの三作、『狂気の歴史』、『言葉と物』、『監獄の誕生』のうちのどれか一つをそれでは買って帰ろうと心が決まり、見比べた結果、『言葉と物』に決定された。それで会計に向かおうというところだが、先ほど大学生らが立っていて見られなかったあたりの区画を眺めると(認知哲学とか科学哲学とかその類である)、ここにもまた面白そうな本がたくさんある。ジョン・マクダウェル『心と世界』、ブリュノ・ラトゥール『近代の<物神事実>崇拝について』、ヤン・エルスター『合理性を圧倒する感情』、ゼノン・W・ピリシン『ものと場所』、ブルーノ・ラトゥール『虚構の「近代」』、D・デイヴィドソン『行為と出来事』『真理と解釈』などである。それらをまた記録してから、棚のあいだを出た。
 メモを見ると、上の経緯は違っており、『カオスモーズ』を保持した時点で一旦区画を抜け、詩の棚を見に行っていた。松本圭二セレクションの続刊が出たという情報を入手していたからで、それがあるかと確認に行ったところ、確かに棚にあるのだが、手に取ってみても、これはまだだなという感じがしたので戻し、その後に海外文学の棚をちょっと眺めてみてもやはり心を大きく惹かれる瞬間が訪れないので、それでフーコーを買おうと決めたのだった。
 二冊を持って会計に向かうのだが、その前に文庫本も見ておくかという気になって、棚のあいだを通って壁際まで行き、岩波文庫の並びを前にしたところで、そうだ、ルソーだった、と思い出した。先日の、フーコー・セミナーの記録に収録されたルソー論を読んで以来、彼の『告白』を読まなければならないだろうと思っていたのだ(あまり精密に考えることができていないが、そのルソー論を読むに、要は自分の日記というのは、ルソーが『告白』でやったことを一日ごとにやっているようなものだと思われ、言わばルソーはこちらの先駆者に当たるからである)。しかし棚に『告白』はない(『エミール』はあった)。それで全集でもないかと思想の区画のほうに戻って見てみると、全集はないが、永見文雄『ジャン=ジャック・ルソー 自己充足の哲学』という大きな著作があって、これも面白そうだったので手帳にメモを取った。そうして、会計である。
 百貨店の外へ出たのが、四時過ぎくらいだったと思われる。並ぶビルの上方にのみ陽射しは掛かり、そこだけが薄いオレンジ色に彩られて、下方は既に日蔭の色のなかに入れられている(陽射しは、上空に向かって[﹅7]退いて行く/逃げて行く)。また確か、青い空のなかに薄白い月が出ていたのだと思う。LOFTやブックオフの入ったビルの横から駅へと向かう。
 ホームに下りると、席に座って眠りながら帰りたかったので、後発の電車に乗った。その一両目は、まだほかに誰も人がいなかった。席に就くと、二八日のことをメモに取り、その後、瞑目した。じきに眠り、(……)と(……)で目を覚ます。(……)に着いてホームに降りると、五時過ぎで既に一日は暮れており、濃い藍色の西空のなかに雲が黒く沈んで散らされている。例によって自販機でスナック菓子(チョコクッキー)を買い、ベンチに就いて読書をした。電車内でも古井由吉を読み続け、最寄り駅で降りると、坂道を行く。暗いなか、前方から箒の音が聞こえてくる。見れば、高年の男性が落葉の掃き掃除を行っている。この寒いなかにご苦労なことだとちょっと会釈をしながら通り掛けると、こんばんはと言ってきたので、こちらも挨拶を返した。
 帰宅すると、空腹感がほとんど頂点に達していたらしい。室に戻って着替えをし、記事の作成などを済ませておいてから、食事へ行った。鍋様のスープに煮込んだうどん、野菜炒め、また前日の残り物である肉巻きである(肉のなかにピーマンやエリンギが挟まれている)。食後、久しぶりに蕎麦茶を飲むことにして用意し、室に戻ると駅で買ったクッキーをつまみながら他人のブログを読んだ。
 その後、二八日の日記を綴る。一時間半をキーボードに触れながら過ごし、九時直前に至ったところで運動を行い、それから入浴に行った。湯のなかで息を吐ききる呼吸を繰り返し行い、出てくるとふたたび日記を書こうとコンピューターに向かい合ったのだが、モニターを見ていると鋭い頭痛が生じるために大して続けられず、一〇時四〇分で読書に移った。布団を身体に被せながら古井由吉『白髪の唄』を読んでいると、本を持つ両手が次第に温まってくる。零時まで読んだのち、インターネットを回り、その後、手帳にこの日のことをメモ書きした。三五分間で現在時まで記録を取ることができ、(……)そのあとふたたび読書をして、二時四〇分に就床した。

2017/12/28, Thu.

 六時に起床。ベッドを離れて携帯電話のアラームを停めると、また布団に戻ってしまう。しかし二度寝をするわけではなく、瞑想に移る前に、暖かい布団のなかで身体をほぐしておきたかったのだ。したがって、膝を立て、腰を少々浮かせた姿勢で静止して、下腹部の筋肉がほぐれるのを待つ。ヨガに「橋のポーズ」というものがあるらしく、それをいい加減に真似たものである。ほかに、「コブラのポーズ」の真似事もしておいた。
 その後、六時半過ぎから瞑想を行った。一五分ほど座って上階へ。外出前の諸々の時間の記憶は脳裏に蘇ってこないので割愛し、出発時に記述を飛ばすと、家を発ったのがちょうど八時頃である。道に出てすぐに、冷気が昨日よりも強いようだな、と肌に感じ分けられた。しかし同時に、起床後すぐに身体を動かしておいたので、身中に熱が生まれているのが明確に知覚され、冷たさに耐える力も前日よりも備わっている。風が頭上にあり、弱い葉の鳴りが聞こえていた。
 例によって表道を行く。日蔭はやはり寒々しい。身体がよくほぐれていて、歩調は自然と速めになったようだ。この前二日間は歩いているうちに尿意が固まってくるのを感じて、公衆トイレに寄ったのだったが、この日はさほどそれが感じられなかった。駅前まで来たところで、胸を張って肩甲骨を寄せるようにしながら職場に向かう。
 勤務中、この日は目立った出来事があった。と言っても外界的なものでなく、こちらの内部における出来事に過ぎないのだが、久しぶりに突如として緊張が強まってくるということがあったのだ。発生したのは勤務を始めた序盤、おそらく一〇時になるかといったあたりだったように思う。(……)と向かい合って喋っていると、本当に突然、緊張感が高まってきて、そうなると落着いてゆっくりと喋っていることなどできないのでその後の発話もなおざりなものになってしまい、早めに切り上げて一旦その場を引き、自分の心中/身中の様子を観察した。まず、この時の自分の状態として明確に観察されたのは、分離感[﹅3]である。自分の心身が緊張に追いやられて[﹅6]いるのはまざまざと感じており、ことによるとそれがコントロールできなくなり/抑えきれなくなるのではないかという危惧もあったものの、我が身に生じている変事が対岸の火事めいていて、危機感が迫ってこなかったのだ。つまり、自分の身体が何か勝手に[﹅3]本来の状態から逸れているな、というような感じで、今回の出来事はパニック障害が盛っていた頃の症状の発生と感じとして似ていたとは思われるものの、危機感がないということ、緊張に伴って恐怖というものをほとんど覚えなかったということが、今までの精神症状と異なる重要なポイントだと思われる(これは、自己を相対化/対象化する能力の向上を意味しているのではないか)。ただ、そうは言っても、このまま発作のようになったら当然困るという判断もあり、財布のなかにただ一つのみ残っていたスルピリド錠を飲んだ(これで手持ちの薬剤はすべてなくなったわけだ。現在のところは、もう薬がなくても大方大丈夫だろう、どうにかなるだろうと思っているが、今回のような事態に備えて、頓服用に数錠は貰っておいても良いかもしれない)。これは不安を鎮めるのではなく、気分を持ち上げるタイプの薬だったはずだが、それが効いたのか否か、実際時間が経つにつれて、いくらか気分が上向き、口調なども微妙に明るくなっていたようだ。
 もう一つ、症状の目立った特徴として発見されたのは、座ると緊張が増し、立っていると比較的収まる、ということだった。体位の違いによって一体どのような要因が生じているのか、不思議なことだが、これは間違いなく観察された事実である。そういうわけで、立ったままに呼吸を深くして精神を落着かせるようにして、状態が改善されるのを待った。薬を飲んだこともあってか、回復は早く、(……)には平常に服していたと思う。
 今回の事態を招いた要因としては、やはり眠りの少なさがあったのだろうか、という気がしないこともない。しかし、ヨガの真似事をしたおかげで肉体はほぐれていたはずで、症状の発生していた前後も、意識が眠気によって濁っているということはなく、むしろかなり明晰なほうだったと思われる。頭が晴れているために時間の流れがゆっくりと感じられ、まだこんな時刻か、時間が過ぎるのが遅いなと思った覚えがあるのだ。以前にも記したと思うが、精神が明晰であるがゆえにかえって、不安や緊張を招き寄せるような余計な意味の断片をも明瞭に拾い上げてしまう、ということがあるのでは、という気もする。もう一つには、ヨガの真似事をしたことで肉体の状態が何らかの形で普段のそれから変容していたのではないか、ともちょっと考えられた。具体的にどうということは勿論わからないが、座位と立位によって緊張の度合いが変わるというのは、何かそのあたりが関係していたような気がしないこともない。
 また、この時自分が何に対して不安を覚えていたのか、ということを考えるに、それはやはり、他人とのコミュニケーションなのではないかと思う。座位と立位の差異も、こちらの肉体内部の要因を措いて、相手との位置関係の面から捉えてみると、椅子に座った状態では相手と同じ目線の高さで正面から向かい合って顔を合わせることになる一方、立っていれば、座っている相手をやや見下ろす感じになり、相手がこちらをまともに見上げてこなければその表情も見づらく、視線が合うことも少なくなる。そのような形で、立位においては少々相手との距離が生まれることになるのではないか。
 それでは他人とのコミュニケーションの何が怖いのかと言ってそれも良くわからないが、やはりそこにおいて生じる齟齬ではないかというのが、ひとまずの仮説である。この点自分は、対人恐怖的な(あくまで「的な」に留まるわけだが)性向を備えており、ある程度の大きさを持った「衝突」ばかりか、微細な「齟齬」すらもまったくないユートピア的な(ロラン・バルトが、『いかにしてともに生きるか』でそのようなユートピア的な共同体の可能性を探っていなかったか。あるいは、「可能性を探っていた」というよりはむしろ、「フィクショナルなものとして夢想していた」とでも言ったほうが正確なのかもしれないが)人間関係を求めている、という向きがあるのではないか。こうした精神の傾向がこちらにあると仮定してみて、しかしそれは、ある種「幼児的」で、「甘えた」ものだと言うこともできるかもしれない。なぜなら、言うまでもなく、意味/力の作用のやりとりとそこにおいて生じる齟齬こそがこの世の常態なのであり、まったく齟齬の生まれない関係など現実にはまず存在せず、そうしたものを求めるというのは、おそらく、自分を少しも傷つけてほしくない、という願いに平たく翻訳できるとも思われるからである。
 今回の出来事についての解釈を整理するのはひとまずここまでとしておき、次の事柄に移ると、帰りは電車に乗った。座席に就き、手帳に記憶をメモしようかとも思ったが、やはり疲れていたので目を閉じて到着を待つ。(……)で降り、階段を抜けて通りを渡る。坂に入ると、女性と横に並ぶ形になり、ちょうど歩調が噛み合ってしまい、互いに先に行こうとしながら決定的に抜かすことができず位置関係がほとんど変わらない、というような気配があった。しかしそのうちにこちらが譲って、落葉を踏み鳴らしながら歩幅を小さくして、その隙に女性が先に下りて行く。並ぶ者がなくなると何となくこちらも緩やかな気分になって、あたりに目を送りながら行っていると、右手のガードレールの向こう、下方に沢の流れる木の間の宙に、虫が光のなかで溜まって上下に浮遊し、群れの形を撓ませているのを見かけた。道の脇の木の緑葉の各々に白さが集中し、先を行って出口に掛かった女性の背に、薄い木洩れ陽が断続的に現れてするすると流れて行く。 
 平たい道に出て自宅に向かいながら空を見るに、明度の高い水色の満ち満ちて雲はなく、明晰、明瞭、澄み渡った、などと形容語をいくつか頭のなかで回した先に、澄明、という一語に行き当たり、それが自分の感覚と適合したものと思われて、そうだ、澄明というのはまさしくこのことだな、と決定した。いびつな形の真昼の月が、南側にうっすらと現れ出ていた。
 帰宅すると服を着替えて、また身体を少々動かしてから食事へ行った。食後は、前日よりはましだったがやはり眠気があって、椅子に就いたまま立ち上がれず、その場でじっと瞑目してしまう。ちょっと微睡んだあと、食器を片付けて風呂を洗い、自室に帰った。
 インターネットをしばらく回ってから、ギターを弾いたはずである。その後、五時前からミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』を読み出した。もう終盤に掛かっていたので、日記などに取り掛かる前にこの本を読み終えてしまいたいと思ったのだったが、ベッドに転がって読んでいたのが間違いで、あえなく眠気にやられることになった。覚めると、布団を掛けていなかったので身体が大層冷えていた。それで布団を被って温まりながら読み進めようとしたところが、七時に至ったあたりでふたたび意識を落とされ、八時まで眠る体たらくである。
 夕食を取りに行き、入浴も済ませて室に帰ってくると、一〇時半過ぎから最近の新聞記事を写しはじめた。パレスチナの状況やカタルーニャ州議会選の結果を記録しておき、さらにそのまま、ミシェル・フーコー中山元訳『真理とディスクール パレーシア講義』の書抜きも少々行った。そうして一一時二〇分、(……)から来ていたメールに返信しようと文を作りはじめる。彼のブログを覗いて見かけた記述に触発されて、最近こちらが思い巡らせていたことをちょっと述べるつもりが、例によって書いているうちに長々となってしまい、結局気づけば二時間ほど費やしていた。以下がその返信文である。

 (……)返信をありがとうございます。「哲学」が「生きている」と感じられるような具体的な現場に触れられていることを、とても羨ましく思います。

 今しがた、ブログのほうをちょっと覗かせていただきましたが、なかに、「哲学に共通点などがあるとすれば、それは、問い直してはならないことなど何もないことである」という一節がありました。これはこちらにおいても同意される考え方です。「哲学」とは、気づかないうちに我々を取り囲み、外部から規定している「制度」や「常識」、そういったものに視線を向け、真っ向から対象化して吟味し、それに本当に確かな根拠があるのか、自分自身としてそれに本当に賛同することができるのかと精査する営みのことではないでしょうか。

 このようなことは最近、自分には今までよりも心身に迫って、実感として感じられるものです。一例としては、時間に対する感覚の変化があります。自分には、いつも出来る限り落着いた心持ちで、穏やかに自足して一瞬一瞬の生を送りたいという、おそらく根源的なとも言うべき欲望があります。そこにおいて、「時間がない」という焦りはまったく煩わしく、精神の平静を欠くものであり、何とかして自分の内からこのような感じ方を追い払いたいと前々から願っていました。そのようなことを日々考えるにしたがって、そのうちに自分は、そもそも時間が「ある」とか「ない」とかいう捉え方が間違っているのではないか、それはこちらの感覚にそぐわないものなのではないかと直感的に思うようになりました。我々が非常に深く慣れ親しんでいる何時何分とか、三〇分間とかいうような時間は、数値という抽象概念を外部から当て嵌めて世界の生成の動向を(恣意的に)区分けしたものに過ぎず、自分がその瞬間に感じている感覚とはほとんど何の関係もないと思われるからです。それは実につるつるとして襞のない、(ありがちな比喩ですが)言わば「死んだ」時間であり、こちらはそれよりも、自分がその都度具体的に知覚・認識している個々の時間を優先して捉えるようになり、その結果、最近では「時間がない」と感じて焦る、ということはほとんどなくなったようです。つまりは、例えばこの文章を記している「現在」は西暦二〇一七年一二月二八日の午後一一時五六分ですが、この瞬間がその時刻であることには、根本的にはまったく何の根拠もないはずだ、ということです(このことをさらに別の言い方で表すと、「未来」などというものは純粋な観念でしかないということが、自分のなかでますます腑に落ちてきている、ということではないでしょうか)。

 こうした事柄は、多少なりとも抽象的な思考をする人間だったらわりあいに皆、考えるものではないかと推測しますが、それを繰り返し思考することで、自分の「体感」がまさしく変わってくるというのが大きなことではないかと思います(驚くべきことに、「思考」には「心身」を変容させる力があるのです)。このようにしてこちらは、大いなるフィクションとも言うべき「時刻」の観念を相対化し、半ば解体することになったわけですが、勿論だからと言って、例えば約束事の時間をまったく気にせず無闇に遅刻して行くということはありませんし、労働にもきちんと間に合うように真面目に出勤しています。社会的な共通観念である「時刻」というものが所詮は「フィクション」でしかないということを理解しながら、それに従うことを自覚的に/意志的に選択しているわけです。この、選択できるようになった、という点が重要なのではないでしょうか。「時刻」を所与のものとして受け入れ、それに疑問を抱かない状態においては、時間を守るかどうかに選択の余地はなく、それに規定されるまま、囚われの身になってしまっているはずです。したがってここにおいて、非常に微々たるものではありますが、こちらの個人的な認識及び生活選択の領野のうちに、物事の相対化による「解放」と「自由」が生まれているのではないかと思います。

 「哲学」とはこのように、相対化と解体の動勢を必然的にはらむものだとこちらは考えます。しかし、そればかりでは純然たる相対主義に陥ってしまい、我々は何事も判断できず、極論すれば何も行動できなくなってしまうはずです。したがって我々は、物事の吟味による相対化と解体を通過しながら、そこから新たに、自分にとってより納得の行く根拠を見つけ、世界の捉え方を自ら「作り出して」いかなければならない。これもまた手垢にまみれた比喩になってしまいますが、このような解体/破壊と建設/構築のあいだを(日々に、あるいは、ほとんど瞬間ごとに、とこちらとしては言いたいものです)往来するその運動[﹅2]こそが、「哲学」と呼ばれる営みを表しているのではないかと自分は考えました。「哲学」とは、凄まじく動的[﹅2]なものであるはずです。

 言うまでもなく、こうした精神の運動は、人生行路の道行きのなかで程度の差はあっても誰もが体験することだと思いますが、武器として活用される言語及び意味と概念に対する感覚を磨き、高度に優れた水準でそれが行われる時、「哲学」と呼ばれるのでしょう。このようなことを考えてきた時に、自分の念頭に浮かんでくる事柄がもう一つあります。哲学は「役に立つ」のかどうか、という非常に一般的な話題が時折り語られることがあると思いますが、こちらとしては、「哲学」とは「役に立つ」云々などという穏当無害なものではなく、場合によっては「危険な」ものですらあり得るのではないかと感じられるわけです。この営みを続けるうちに、共同体の「本流」となっている考え方から次第に逸れていくということは避けがたい事態でしょうが、そこにおいて方向を少々誤れば、人々との関係に齟齬を生む独善に陥り、極端な場合には狂信者や悪辣なテロリストのような人間を生み出しかねないとも思われるからです。だから我々は、自分にとって「確か」だと思われる事柄を探し求めつつ、しかし同時に、その自己が痩せ細った狭量さのなかに籠もらないように、常に外部から多くの物事を取りこんで自分自身を広く、かつ深く拡張していくことを心掛けなければならないのではないでしょうか。

 (最近、このようなことに思いを巡らせながらこちらは、前回お会いした時に(……)が話してくれたRichard Bernstein教授(でしたよね、確か?)の発言を思い出していました。朧気な記憶ではありますが、確かそこで(……)は、哲学とは何なのでしょうと教授に尋ねたところ、物事が本当に確かなのかどうか、繰り返し考え直す[﹅8]、ということだと明快な返答を受けたというエピソードを話してくれたと思います。自分としては、教授のこの短い発言を、上に述べてきたような事柄として敷衍して解釈したいと思うものです)

 書いているうちに、返信としてまた長いものになってしまい、いつもながら恐縮です。日記のほうもじきに読ませていただきます。こちらのブログ、「雨のよく降るこの星で(仮)」(http://diary20161111.hatenablog.com)も、最近は生活の詳細を載せる方式に戻したので、もし興味が生じたら読んでみてください。

 その後はふたたびフーコー・セミナーの記録を読んで、最後まで至ったところで二時四五分、瞑想をして三時に就床した。

2017/12/27, Wed.

 六時起床。携帯電話のアラームの音で眠りから強制的に引っ張り出される前に、何らかの夢を見ていたはずだが、覚醒とともにまったく失われてしまった。ベッドを抜け出し、反対側の壁の手前、積んだ本の上面に置いておいた携帯を手に取り、響きを停める。そのままその場に立ち尽くして息をつき、身体が眠りの鈍さを脱するのを待つ。部屋は薄暗闇に包まれていた。非常に冷たい空気だった。ベッドに戻ってカーテンをめくると、南の山際に密な青さと仄かに兆しはじめた曙光の橙とがある。
 枕に尻を載せて瞑想を行うが、寒くて仕方がないので途中で目をひらいて空調を入れた。そうして三〇分間を座り、上階に行く。台所に入り、フライパンでハムと卵を焼く。それを米に載せ、黄身を崩して醤油を混ぜるいつもながらの朝食である。
 食って下りると、七時二〇分頃だったようだ。この日はコンピューターを点さず、白湯を飲みながらミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』を読む。その後、読書を続けながら歯磨きも済ませると、さっさと支度をして出勤に向かわなければならない。音楽も掛けずに服を着替えて、室内でもうストールを巻いてしまい、上階に行くと靴下を履き、便所に入って出すものを出し、そうして出発した。八時五分頃だった。
 当然ながら寒いのだが、天気予報では最高気温が昨日から五度落ちると言っていたわりに、二日目で耐性ができたのか前日よりも冷気が何となく凌ぎやすい。コートは何だか面倒臭くて着る気にならない。街道まで行くと日なたを求めて北側に渡った。そうしてやはり裏に入る気にはならず、車の通り過ぎる横を歩いて行く。中途で珍しく、少々急ぐかという気になって、歩幅を気持ち広めにして進む。前日と同じく駅前の公衆便所に寄って用を足す。この日の清掃員は昨日とは違って女性の人で、排尿したあと手を洗おうとすると行き会ったので、ありがとうございましたと礼を告げた。
 労働は、やはり眠りが少ないためだろう、終盤になって何か頭が緩いようになってきて参った。そうすると職場にいる、公共の場にいるという緊張感がまったくなくなり、(……)と向かい合っていても友達と話しているような感覚になってくる。不安を覚えるよりはそのように気楽にやれたほうが良いのだろうが、この緊張感のなさはこれはこれで危ういと感じられるものであり、余計な口を滑らせやしないかと警戒が働く。徹夜をすると気分がハイになるなどとは良く言われることだと思うが、ある種そういった状態だったのだろうか。また、最近のこちらの認識における相対化機能の強化も寄与しているのかもしれず、社会的通念(場合によっては道徳的通念もそこに含まれるかもしれない)の類がより解体されたということの現れなのかもしれないが(要は「職場」などというのは、不安や緊張を身に生じさせながら振舞いを律するほどに大した場ではないという心持ちになってきているということだ)、あまりそれにしたがって自由にやりすぎても、無用な齟齬を生むのではないかとやはり危うい気持ちがする。とは言ってもしかし、もう長くいる同僚の様子など見ていても、何か得々としているというか結構楽しそうにやっているもので、(……)など、(……)とのコミュニケーションもこちらよりもよほど親しげで、友達めいていると思う。彼らはこちらよりも随分と職場に「馴染んで」、かなり気楽/気軽に働いているのではないか。何と言うか、自意識過剰で神経質な性分のこちらが今まで勝手に自己を萎縮させていただけで、世の人々はわりあいに皆、図太く、ある意味で「恥知らずに」生きているのではないかという気がしたものだ。
 眠気で頭が重かったが、退勤して駅を覗くと電車が来るまで結構あったので、徒歩を取った。裏路を行くが、中途で表に折れた。緩い坂になった道を下って行くと、新聞屋の前で数人、中年の男性たちが溜まって煙草をふかしている。こちらが通り掛かると、店舗のなかから一人、配達に向かうのだろう、行ってくると言って出てきたものがあって、その背に頑張れよ、と声が掛かった。
 街道をしばらく行って南のほうを見上げれば、雲が大きく湧いていて、太陽は時折りちょっと出てくることもあるが、その裾に引っ掛かっており、色の曇った空気のなかに風が寄せて冷たく、昼日中なのに身体が震える。
 帰って食事を取ると、やはり前日と同様、眠気が重くてすぐには立ち上がれない。頬杖を突きながら瞑目して休み、その後、もうここでしばらく意識を落としてしまったほうが良いなと思われて、卓上に突っ伏し、二〇分ほど仮眠を取った。起きると、体温が下がったのだろう寒気を感じ、腕も痺れて冷たくなっていたが、しかし頭のほうはわりと定かに固まっていた。
 諸々のことを行ったあと(書抜きはミシェル・フーコー中山元訳『真理とディスクール パレーシア講義』にようやく入ることができた)、七時前から運動を始めた。背景に流したのは、Thelonious Monk『Solo Monk』である。体操および柔軟運動を行い、この日は何か身体が軽いようだったので、そののち、腹筋や背筋の運動、また腕立て伏せも久しぶりに行うことにした。と言って、筋力トレーニングとして行うのではなくて、あくまで身体をほぐし温めたいという程度の動機しか持たず、この時はヨガのポーズを検索して、見様見真似でそれらしいことをやってみることにした。「コブラのポーズ」というものがあり、うつ伏せの状態から胸の横、あるいはやや前方に両手を置き、上体を反らして持ち上げるという姿勢だが、これなどを実行してみると、筋肉が伸びてほぐれるのがまざまざと感得されて、今まで自分の肉体がいかに凝り固まっていたのかがいっぺんに理解された。そのほか、腹筋様のもの、背筋様のもの、仰向けの状態から腰のあたりを持ち上げる「橋のポーズ」と呼ばれるものなど諸々行ってみると、身体がほぐれていくのが非常に気持ち良く、終えると気分がとても落着いて、明るいように、爽快になっていた。四五分間も運動を行ったのは初めてである。その後、二四日の日記を記しはじめたのだが、これを書いていても時間の流れが遅くなったかのようで、打鍵もゆっくりと落着いて、先を急ぐ心が微塵も生まれなかった。
 その後のことは、メモがないし、何か特段頭に引っ掛かることを思い出すこともできないので、省略する。

2017/12/26, Tue.

 六時のアラームの前から覚めていたらしい。時間が来てもまだ明けず、南の山際に現れている青と朱の色を見て、「トワイライト」という言葉を思った。
 朝食時、テレビのニュースに目を向けていると、大阪は寝屋川で監禁事件があったと流れる。両親が、精神疾患のある娘を、暴れるのでと一〇代後半から監視カメラ付きの小屋に閉じ込めていたと言う。食事は一日一食、水はチューブを通して摂取するような形で、発見時の体重は一九キロ、死因は栄養失調による凍死だったと、情報が次々と流れるのを追い、これにはやはり強い印象を残されるなと思った。
 八時一〇分あたりに出発した。空気は実に冴えていて、朝陽が道のところどころに射してはいるものの、前夜の帰路よりもむしろ寒いようだなと肌に思った。坂道を上って行き、出口に掛かると、右方の(南方向の)ガードレールの影が路面の真ん中に通って、本体の二倍程度に太く膨らんでいる。街道に出ると、そのまま裏路に入らずに表を行った。日なたがあまりひらいていないので、それを惜しむようにして歩調を抑える。そのうちに尿意が生じて下腹部が重いようになっているのに気がついた。それによる緊張の兆しはあったが、兆しのみに留まって、意外と大丈夫そうだぞと見ながら公衆トイレへと向かった。
 労働中の気分は落着いて、心に乱れはなかったらしい。(……)一時過ぎに退勤した。駅に向かうと、駅舎の入口の横にある売店の前に小学生の男児が三人集っている。改札を抜けて、乗車して座っていると、向かいの席に先ほどの子どもたちがやって来た。発車すると、窓の外、奥の線路に停まっている電車の車体の上を光が滑って行く。瞑目をせずに、明るい林が窓外を流れる風景を見ながら到着を待った。(……)に着くと、三人の子どもたちもこちらと同時に降車する。南から送られてくる太陽の光が目に眩しい。階段のところまで来ると、老女がキャスター付きのバッグを持ち上げて、やや難儀そうに階段を上っている。その横を小学生らがどんどん上がっていき、そうするといかにも若さと老いとが対比されるようである。こちらも子どもたちよりはよほどゆっくりと、老女の横を過ぎかけたのだが、見ればやはり一気に上れず大変そうに立ち止まっているので、ちょっと上の段から持ちましょうか、と声を掛けた。いいですか、とか何とか返してくるのに、全然いいですよと答えて、荷物を受け取り、並んで段を上り、また下りて行く。駅舎から出たところで、どちらかと帰る方向を訊けば、こちらとは違うほうだったので、自分はこちらなので(と手を差し出して)、ここまでですみません、と言って別れた。
 坂道に入って下りて行きながら、別れ際の老女の顔が、あまり嬉しそうでなかったなと思い返して引っ掛かった。親切の押し売りというか、何か偉そうな態度になってしまっただろうかとも考えたのだが、むしろ、表情も曇るほどにやはり身体が難儀だということなのではないかと、そちらの可能性のほうが強いように思われた。背がやや曲がっており、終始、姿勢も低かったはずである。
 坂道の中途で、左の土壁に寄り添った緑葉のことごとくに純白の光が宿されているのが目に留まって、これはやはり凄いなと少々足を停めた。一つの風景の形を拵えているように感じられたのだと思う。右手のガードレールの向こう、沢の上に繁った枝葉にも同様に白さが降っており、それらが空気の流れに弱く揺らめいているのを見ながら、適した言語表現を頭のなかで探ったところ、まさしく光が散りばめられて[﹅7]いるのだ、散りばめられるとはこのことだ、と思った。
 道に出て行っていると、向かいからゆっくり歩いてくる老女があって、近づいてみれば(……)である。その宅の前で一言挨拶を交わして過ぎた。ほかにあたりに人の気配も生じず、いかにも昼下がり、という感じの静けさで、林の葉をくぐって行く弱い風の音が耳によく届いた。
 帰宅する(……)食事を取ると、さすがに四時間の眠りのために意識が重くなり、椅子に座ったまま顔を両手で覆い、じっと静止して休んだ。そのままやや微睡んでいたようで、脳内に夢未満のイメージの展開があった。
 食後、風呂を洗ってから自室に帰ると、眠気を散らそうと音楽を聞きはじめたのだが、二曲ほど聞いたところで、結局ベッドに流れてしまった。食事を取ったばかりで横になりたくないので、初めはクッションと枕を使って姿勢を高くしていたのだが、そうして微睡んでいると、結局はそのうちに横たわってしまっていた。そのまま仮眠に入り、あいだ、夢を見た。何か祭りの支度をしていたようだったのだが、一緒に立ち働いていたのは職場の人々で、覚めても覚えていたところでは(……)がいたようだった。もう一つは、女子高生に勉強を教える夢である。先の夢から何がしか繋がっていたはずだが、自宅の前の林のなかにいたところが、いつの間にかその場がそのまま机と椅子のある空間に重なって、そのような事態になっていた。いわゆるギャル系と言って良いのだろうか、そのような雰囲気の女性で、目鼻立ちがじつにはっきりしていて、夢のなかではその顔が相当に明晰に見えていたのだが、しかし、こちらの記憶のなかに該当する顔はなく、誰をも思い起こさせるものでもなかった。
 覚めると室内が既に暗くなっており、どうも六時を過ぎてしまったのではないかと思ったところが、五時二〇分だった。二時間を眠ったことになる。何か家事をやろうと上階へ行ったものの、寝起きの重さを振り切れないままにソファに就いてしまう。テレビには小田和正のコンサートの様子が流れており、TRICERATOPS和田唱が招かれて、映画音楽のメドレーを披露した。"Moon River", "Chim Chim Cheree", "Raindrops Keep Falling On My Head", "My Favorite Things"といった曲たちで、大方、ジャズスタンダードとして耳にしたことのあるものだった。なかに、確か最後の"My Favorite Things"の一つ前ではなかったかと思うが、"Live And Let Die"が差し挟まっていて、これだけ少々毛色が違うように思われた。と言うのも、この曲はGuns N' Rosesが演じていたものとしてこちらには知られていたからで、ハードロックの記憶と結びついていたためにそう感じられたのだろうが(また、曲調自体としてもほかとは少々違う部分があっただろう)、これが映画音楽だったということはここで初めて知ったものである(今しがた検索したところ、元々はPaul McCartneyのWingsの曲だということだ)。
 心身が調ってきたところで、アイロン掛けを行った。その後、台所に入って、豆苗、玉ねぎ、人参などを切り分けて豚肉とともに炒めた。塩胡椒を振って味付けを施し、そうして自室に帰ると、先日途中まで視聴した浅田彰東浩紀、千葉雅也の鼎談動画の続きを閲覧した。印象に残った事柄を仔細にまとめているとまた時間が掛かってしまい、面倒臭いので、簡潔に主題だけ記しておくと、まず、ドナルド・トランプと引用符の話があった。ほか、ここ一〇年か二〇年かで知識人のほうが素朴な実証主義へと退化しているのに対して、むしろ「ポストモダン」の徹底が必要だと千葉が発言する瞬間があった。また、これも彼の説明でカンタン・メイヤスーの立場が短く要約された場面があって、それによれば彼の考えというのは、この世の物事というのはすべて、物理法則すらも含めて一つのシステムで、根本的には無根拠なものであるところ、真理性のない単なる事実(として構成されているもの)としての世界観に開き直ることで、そこにおいてある種の「実証」が可能になる、というようなものであるらしい。また、「アイロニー」(この言葉の意味が自分にはまだ良くわかっていないのだが)に対する三者の違いが端的に表れた場面があった。東浩紀が、千葉雅也の『勉強の哲学』を取り上げて、千葉さんは外部に出るということを、凄く意志的なものだと考えている、言わば修行のようなものとして捉えているというようなことを述べたところがあり、対して、東氏自身が自分のことを言うには、自分はこれでも最大限、世の中に合わせようとしているのだが、それでも勝手に逸れていってしまうのだ、自分にとって外側に出るというのは、そのように偶然的なものだ、というようなことを述べたのだが、そこに浅田彰が鋭く切り込んできて、そのようなことは大したことではない、要はこんな馬鹿共と一緒にいたくない、というだけの話だ、と両断してみせたのにはやはり大きく笑ってしまった。
 八時過ぎまで時間を掛けて、動画をすべて視聴した。その後のことはメモも取っていないので省略するが、武田宙也『フーコーの美学――生と芸術のあいだで』の書抜きをした際に、「自己をひとつの芸術品/技法の対象[objet d'art]にすること、それこそが価値あることなのです」というフーコーの発言を引用した部分があって、「芸術品」という言葉に含まれたこの意味の二重性には、なるほどな、と頷いた、ということはあった。

2017/12/25, Mon.

 夢。驚くべきことに、ある女性と結婚をしており、かなり幸福に、あるいは熱情的に「愛し合って」いた(性行為をしていたということではない)。女性は完全に匿名的な人で、現実にこちらが知り合ってきた女性たちの誰をも思い起こさせることが少しもない。本当は偽装結婚だったか、あるいは女性を騙して結婚したのだったか、少々屈折した前段の筋があったはずなのだが、それは忘れてしまった。微睡みのなかにいて夢を思い返している際に、この夢は昨日か数日前から見ていたのではなかったか、日を置いて継ぎ足されたのではないかという混乱が差し挟まったので(実際には、この日の睡眠中に初めて生まれた物語だったはずだ)、結構長いものだったのではないか。
 一一時四〇分頃、確かな覚醒を得る。布団を抜けて洗面所に行き、嗽をする。それから用を足して戻り、瞑想。窓を開けても少しも寒さを感じず、非常に朗らかな感触の晴れの日である。一八分座って正午を越え、上階へ。前日の味噌汁やおでんが残っているのでそれらを温めて用意する。ほか、やはり残り物のサラダ。米は食わず。新聞、一面から「日豪地位協定 大枠合意へ 自衛隊と豪軍 来月、首脳会談で」を読む。
 この日は三時過ぎには出発したい。すると遅くとも二時半には支度に移らねばならないが、食事を終えた時点で既に一時が近いので、ほとんど何をする間もない。帰ってきたあとも、翌日が早番だから六時頃には起きたいと考えると、やはりせいぜい一時くらいには床に就きたいが、夕食や入浴を済ませるとそれで大方一一時は回るはずだから、やはりさほどの余裕はない。と、そのように頭のなかで計算してみると、時間の少なさに焦りが湧くのではなく、かえって諦めの気持ちが生まれてくるというか、まあ与えられた時間の内でできることをやれば良いだろうと緩く落とす心になる。しかしそうは言っても、もう少しどうにかしたいという気持ちも同時にあって、睡眠を短くするというのが手っ取り早い解決策なのだが、これが何年も前から一向に改善できていない難事である。
 食後、食器を洗って浴室に行く。まあ落着いてゆっくりやろうではないかと、浴槽を隅から隅まで、ブラシを使ってよく擦る。その後室へ帰るとコンピューターを立ち上げて、Evernoteをひらき、前日の日課の記録を付ける。その後この日の記事も作成し、また、一月の勤務日程を写しておく。そうして、前日の記事を正式に記している余裕はないので、頭(頭のなかに生まれる言葉の文体[﹅2])をメモのモードにして断片的に記録していき、それからこの日の記事を書きはじめた。これはまだ起きてまもないので容易に現在時に追いつけるだろうと、文の形を作って行き、ここまで記すと一時四六分になっている。
 懸案事項としては、まず二二日の記事を仕上げられていない。また、カタルーニャ州議会選の結果も記録していないし、昨日の新聞に載っていたパレスチナ関連の記事も写していない。今日の新聞からはクルド自治区についての記事を読んでいない。ほか、読んだ本の書抜きもかなり溜まっているのだが、どうもこれにうまく時間を取れないでいる。
 それから、白湯を一杯湯呑みに注いできて、前日に買ったスナック菓子も持って室に帰る。今日はこのコンソメ味の小さなポテトチップスを出勤前のエネルギー補給源とすることにして食べながら、(……)を読む。そうして二時を回る。白湯を飲んだ際に腹に熱の溜まる感じや、そこからさらに少々汗ばんでくる肌の感覚などを見ても、相当に気温の暖かな日である。
 出勤路に就いたのは三時過ぎ。道に出るとすぐに、知らない高年だが散歩をしているらしい男性がいたので、すれ違いざまに挨拶を掛ける。気分は柔らかだったらしい。陽のまだ通う路上に風が吹き、転がった葉の動かされるのが、小動物めいて見える。
 街道を渡る際、西へ道の先を見やると、光の膜が宙に掛かっているのが砂埃が一面舞っているかのようだった。労働は面倒だなと欠伸を洩らしながら表の道を行く。途中、こちらの脇から抜かして先に行く後ろ姿を見れば、(……)らしい。(……)すたすたと、速い歩調でどんどん先へ行くのに比べて、こちらはいかにものろいと思われた。
 空は端的な快晴で、空中に漂う塵なのか、眼球の表面を蠢く何かなのか知れないが、明るい青を背景にちらちらと舞うものがはっきりと視認される。南を向けば遠く山際に雲も湧いてはいるが、襞の形は明瞭にわかるものの全体としては一面に均されたように希薄な感触だった。(……)バス停に、先ほどこちらを抜かして行った(……)がいる。ちょっと手前から視線を送ると、あちらも向いてきて、顔を見合わせながら近づき、挨拶とともに名を名乗った。こちらのことを忘れているのではないかと思ったのだ。そうして少々、立ち話をする。いまどうしているのかと訊かれたので、相変わらず同じ職場でフリーターだと答えると、小説家を目指して、というような反応がある。この人とは、多分一昨年のことかと思うが、(……)でも顔を合わせたことがあり、もう覚えていないが、その時にそうした話を多少なりともしたのだろう。はあ、まあ、というような感じで曖昧に受けたのは、職業作家になるという気持ちなどもはや少しもないからである。前々から別にそんな気持ちはなかったものの、一応以前は、作品ができたらひとまず新人賞には投稿してみようと思っていた頃もあったのだけれど、今はそうする気はまったくない(そもそもこちらが作品を作り出す気配が一向にやって来ない)。結局こちらは、毎日文を読んで文を書くことができればそれでもう良いのであって、生活をどう立てて行くかという現実的な経済的問題はあるにせよ、そのためにいわゆる「作家」になる必要も欲望ももはや微塵も感じない。しかし、こうしたこちらの性向を知らない人に、読み書きをしたいとか、小説作品を作りたいのだとか話すと、おそらくほとんど例外なく皆、こちらは「作家」を目指しているのだと受け取ると思う。以前、高校の同級生と集った席でそのようなことをちょっと話した時にも、(……)に、「素敵な夢だね」と言われたのだが、実に釈然としない話である。こちらは「夢」を追っているつもりなどまったくないからで、既に読むこと書くことはこちらの現在の/現実の生活の内に確固としたものとして根付いているのだ。勿論現在のところ、それには両親の施してくれる恩恵が大きく、その点やはり大変にありがたいと思うものだが、自分のこの先の課題としては、このような生活をどうやって独力で保っていくかというその一点に尽きるだろう。
 先の点に話を戻すと、世の人々は多分大概、何かの活動をするといった時に、その先には何かしらのわかりやすい概念で指し示される存在になるとか(この場合、「作家」がそれである)、何かしらの「結果」を残さなければいけないという考えを前提としているのではないだろうか(「残さなければいけない」というのは言い過ぎかもしれない。「残すために活動するものだ」というくらいが妥当だろうか)。この「ために」の思考、つまりは目的論的な思考の形式が、自分にはもはや実感として良くわからない(つまり、それはもうこちらに馴染むものではない)。言葉にしてしまうと実にありがちな言い分になってしまうが、自分は明らかに、何かのために生きているのではないし、何かのために書いているのでもなく、ただ生き、ただ書くという状態に、よしんば完全にではないにせよ、なってきていると思う。この先、毎日ただ読み、書くという生活を実際に続けていけたとして、それによって金なり地位なり評価なり作品なり、そういった明確な形で表れる諸々の「結果」を何も残せなかったとしても、自分は多分全然後悔しないのではないかと思う(あるいは、その都度その都度のこの自分の存在そのものが「結果」なのだと言っても良いかもしれない)。もしこちらが死ぬ時に後悔することがあるとすれば、それはもうこれ以上長く己の生を書き続けられないというその一点だけだろう、と、しかしここまで言ってしまうと少々格好付けが過ぎるが、今のところはまあ大方そんな気分ではいる(勿論この先、何らかの「目的」や目指す「結果」が生まれてこないとも限らない)。それでは単なる「自己満足」ではないか、というお定まりの疑問を他人からは投げかけられそうな気がするが、「自己満足」というものの何が駄目なのか、自分には端的に良くわからない。他人に大した迷惑も掛けずに自分一人で何かを行い、自分一人でそれに満足できていれば、それはむしろ素晴らしいことではないかという気がするものだ。そもそも、よほど他人と関わりを持たず、極端に抽象的な生活を送っていれば別だが、生きていく上で他者との関係を避けることなど事実上ほとんど不可能なのだから、「活動」というものは必然的に、どれほど微細なものであれ何らかの社会性を帯びてしまうものだろう。また、現代にはインターネットという空間も存在している。自分もこうして書いた日記を、どうせ書くからにはまあ一応読み手を作るかというわけでインターネット上に放流しているわけだが、具体的な反応など得られなくとも(と言うか、そうしたものがあるとむしろ面倒臭いので、コメント欄は使えないようにしているし、メールアドレスも載せていない)どこかの誰かが読んでくれているだろうというだけで今の自分は概ね満足である(この点、現代は「承認」がとても得やすくなった時代であるはずだ)。仮にインターネットがなかったとしたって、日記に書いてまとめたようなことを友人に話したりもするわけで、それで何らか相手の思考を触発できたりすれば、それもそれで非常に微小ではあるが一つの社会性というものだろう。
 こうしたことを考えてきた時に、いま思いついたのだが、自分の日記というものは、自分を絶えず変容させていくための、あるいは「より良く生きていく」ための(実に古典的な、古代ギリシア的なテーマだ)有力なツールなのではないか。ここに至って、自分にも腑に落ちるような「ために」が出てきた。自分においては、もはや「書くこと」が「生きること」に直結しているということなのだろう(「書くこと」と「生きること」の一致というのは、こちらが文を書きはじめた当初から惹かれていた(ロマン主義的な?)テーマで、そもそも(……)のブログを発見してその真似事を始め、現在に至るまでこうして続けているというのもそういうことなのだろうし、プルーストにせよカフカにせよウルフにせよミシェル・レリスにせよ、作品自体よりもそうした存在様式においてまずは興味を持ったのではないか)。言い換えれば、書くために生き、生きるために書くという永遠の循環のなかに自分という主体は既に投げ入れられているということであるはずで、自分の欲望としては、作品を出版して広く読まれようとか、人々を啓発しようとか、金をたくさん稼ごうとかいうことよりも、「書くこと」を通して「より良い」生の形を探究し/構築し、その「生」の道行きの内の具体的な、個々の瞬間において、非常に微細なもので良いので(自分は「慎ましい」、「欲のない」人間なのだ(?))何らかの「社会性」を確保していきたいと、概ねそんなところがあるのだろう。これはそのまま、ミシェル・フーコーの「生の芸術作品化」のテーマに繋がる事柄であるはずだ(例によって、核心的な文献はまだ読めていないのだけれど)。要は、まことにロマン主義的で面映いものではあるが、「書くこと」を通して己の「生」そのものを彫琢していき、自分自身を一つの芸術作品のように「洗練」させていきたいというのがこちらの中核的な欲望だということになるのだろう(大袈裟な言葉を使って言い換えればそれは「実践的芸術家/芸術的実践者」になるということであり、ここにさらに、ヴァージニア・ウルフの小説に見られる「瞬間の芸術作品化」のテーマを当然接続できるはずだという直感を少し前から抱いている)。
 (全面的に言語的な[﹅8]存在=機械になること?)
 思わぬ駄弁=自分語りに逸れてしまったが、この日の先の事柄を急ぐとして、労働中のことに移ると、挙措の面から見ても概ね落着いていたらしい。ただ一度、心臓神経症で胸のあたりが少々苦しくなった時があったようで、こういう時には必ず、このまま倒れるのではないかと思ってしまう。明らかに大袈裟であり、実際に倒れたことは一度もないのだが、もうそうした思考が自動的に浮かんでくるような精神の構成になってしまっているのだ。この日はまた、クリスマスと呼ばれている日だった。クリスマスと言っても所詮は文化的歴史的に構築された観念なのだし(それを言ってしまえば、そもそもすべての暦や時刻そのものがそうなってしまうわけだが)特段の興味は湧かないな、と最近精神に根付いてきた相対化の技法によって小賢しく考えていたのだが、職場に着いてみると机上に何やら置かれた箱がある。見れば(……)からのもので、ドーナツを用意したので皆さん食べてくださいとのことであり、こうして実に具体的かつ即物的な利益が自分の身に降り掛かってくると、それだけで嬉しくなるのだから現金なものである。皆、遠慮したのかあまり食べなかったようで、退勤の時間になってもたくさん残っていたので、残っていたメンバーで分けてしまうことにして、こちらは三個も頂いて帰った。
 職場を出ると、弧を真下に描いた月が西南方向の空に白く掛かっている。ドーナツの袋を片手に持って帰路を歩く。露出したその手が冷たくひりつくので、かわるがわる持ち手を変える。しかし、なぜだかコートを着ようという気持ちは起こらない。帰宅すると、ドーナツを卓に置く。(……)ストーブの前に座って熱風を浴びると、冷えた手がちりちりと刺激される。
 手を洗って室に帰ると服を着替え、この日はどうもすぐに食事に行ったらしい。室に持ってきていた新聞を、食事の合間に読もうと思って持って行き、多分クルド自治区の記事と、安倍政権の五年を振り返った記事とを読んだのだと思う。手帳のメモにはまた、「広告。マインドフルネス」と残されているのだが、これは三面あたりの下部に、マインドフルネスの本が紹介されていたのを、どうも最近流行ってきているらしいなと目に留めたというだけのことである。「マインドフルネス」という語は、こちらにおいてはまず「マインドフルネス心理療法」として知られたもので(勿論、パニック障害に苦しめられて有効な治療法を探していた時期のことである)、それはヴィパッサナー瞑想の方法論を西洋の精神医学に取り入れたものだったはずだから、昨今の流行(?)は言わば逆輸入ということになるのだろう(仏教方面の瞑想文化の蓄積は日本にも相当にあるはずだと推測するのだが、西洋の動向を経由しなくてはそれを自国で俗化=流行させることもできない、ということになる)。こちらが件の語を知った数年前には明らかにここまでの隆盛(新聞広告になるほどの)は見られなかったと思われ、元々心理療法として医療現場に取り入れられたものが、手軽なストレス軽減法として一般に膾炙しつつあり、その風潮が日本にも移ってきたという次第ではないかと推測するが、当てずっぽうで見当を付けると、多分スティーヴ・ジョブズが瞑想を習慣としているとかいう情報が広まったあたりから(それがいつなのかわからないのだが)段々そのようになってきたのではないか。多分三、四年くらい前のニューヨーク・タイムズ紙か何かで、米国の企業で瞑想が導入されてきているとかいう記事を読んだような覚えもうっすらとあるし、確か同じ頃のGuardian紙でも、英国の一部の学校で瞑想を取り入れる試みをしていると読んだ覚えもある。
 またどうでも良い記憶にかかずらわってしまったのだが、食後入浴したところ、湯のなかで胃が痛んで、こちらのほうは良く覚えている。瞑目しながらその痛みを観察したところ、どうも胸のほうへと波及している感じがあったので、最近の心臓神経症というのはもしかして胃の不調に起因するものなのだろうかとちょっと思ったが、この可能性は現在、疑わしい。髭を剃って出ると、ドーナツを持って自室に帰った。そうして白湯を啜りながら、胃の痛みに構わず腹に入れる。時間が前後するが、居間でポットから白湯を注いだ際に、テレビには『激レアさんを連れてきた。』という番組が掛かっており、九龍城という香港のスラム街に住んだ経験のあるという人が出演していた。九龍城というのはこちらとしては、漫画『金田一少年の事件簿』のなかで舞台となっていたのを思い出すものであり、そもそも現実の場所として存在していたのをここで初めて知り、面白そうだったのだが、翌日の勤務が早かったからさっさとこの日のメモを取り、本も読んで早めに寝なくてはならないというわけで、テレビを見るのは諦めて下階に下りたのだった。
 その後、手帳にメモを取り、零時二〇分過ぎからミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』を読んで、二時に就床した。

2017/12/24, Sun.

 一二時二五分まで寝過ごしてしまう。九時間も眠りに費やしたのは久しぶりのことである。八時か九時かそのくらいから何度も目覚めてはまた眠りに戻って、夢をたくさん見たが、こういう時の常でほとんどあとには残らない。まず一つには、図書館で書架を眺めている場面があった。もう一つには、自分はこれが夢だと知っている、と自覚した瞬間があった。いわゆる明晰夢だが、それが訪れたのは浅い微睡みのあいだで、完全に眠りに落ちているわけでなくて軸足を半分現のほうに残しながら、自分の意識に展開されるイメージを眺めているといった感じで、したがって夢というほど深いものでなかったような気がする。実際、明晰夢は実に短く終わって、すぐに布団に包まれた我が身の現在に戻ってきた。ほか、死と記憶といったようなテーマに関わっていたように思われる一連の、おそらく何度かに分けて継ぎ足された夢があって、これが覚めたあとになってみると物語として面白いものだったような匂いが幽かに残っているのだが、詳細は何も思い出せない。何か非常に不思議なことが描かれていたはずなのだが、わからない。微睡みのなかで、また心臓が痛むことがあった。前夜の読書のあいだにも、寝転がって本を読むあいだに、本を支えている左腕の肘のあたりが胸の左側に触れていると、そこが痛みはじめるということがあった。離すと、散る。確か心臓神経症の特徴として、胸を押さえたり押したりすると痛みが生じる、というものがあったはずだ。それに該当していることからしても、やはり最近の胸の痛みは何か実体的・器質的なものなのではなく、幻影的な種類のそれではないかと思うのだが、よほど心身も調ってきているという自覚のある今になって、心臓神経症の症状がまた復活してきているというのはどういうわけなのか、見当がつかない。
 どうしても起きられないまま一二時二五分に至ったところでようやく、身体が少々動くようになり、仰向けになって、伸ばしていた脚をやや折り膝の位置を高くして、それでやっともう寝付かないだろうという感覚になった。それでもそこから起き上がるまでにはまた時間が掛かる。深呼吸を繰り返して身体の感触が軽くなるのを待ち、布団を抜けると既に一二時四〇分に至っていた。ダウンジャケットを羽織り、ベッドに腰掛け、息をつきながらちょっとゴルフボールを踏んでから上階に行く。(……)ストーブの前で脚を左右にひらいて、身を屈めて身体をほぐし(……)それから上方に、また前後に腕を伸ばして肩のあたりも柔らかくしてから、洗面所に行った。顔を洗い、嗽をする。口に含んだ水が大して冷たく感じられない。
 出ると食事の支度をする。米を炊いたのでそれを食べることにして、納豆を一つ冷蔵庫から取り出し、タレに加えて酢を混ぜて、さらに山葵をほんの少し添えた。次に米を椀によそって卓に運んでおく。さらに汁物の代わりでもないが、カップラーメンを食べたい気持ちがあったので、カレー味のものを戸棚から出して湯を注いだ。そうして新聞をひらきながらものを食べる。新聞からは国際面の、パレスチナ関連の記事とカタルーニャ関連の記事とを読んだ。パレスチナの記事は、例のエルサレム首都問題を受けながらも抗議運動は下火になりつつあって、金曜日にベツレヘムで行われたデモにあっても、集まったのは僅か五〇人ほどという話だった。ドナルド・トランプの宣言があって以来、パレスチナの情勢が、「第三次インティファーダ」とのちに呼ばれることになるような事態へと発展するのではないかと素人心に危惧していたのだが、どうもそこまでの気配はないらしい。その理由としては、パレスチナ自治政府への不信感が高まっているために彼らのために生活を投げ打ってまで闘争をしようと思う者がほとんどいないこと、さらに、イスラエル経済のほうに生活を依存している者が増えたことが挙げられていた。過去のいわゆるインティファーダの時以来、パレスチナイスラエル間の経済関係がどのように変化したのか、具体的なことはまったく知らないのだが、イスラエルはこのおよそ十数年のあいだに、自治区の住民の生活基盤を握ることで、彼らを去勢し、ある種うまく「取り込んで」きたということになるのだろうか?
 書評面は各委員が今年の注目書を三つ選んで載せていた。納富信留が星野太『崇高の修辞学』を挙げていた。この著作も読んでみたいものの一つである(確かそこまで値段が高くなかった気がするので、買ってしまっても良いのではないか)。ほか、松浦寿輝『名誉と恍惚』を挙げている者が二人おり、東浩紀の『ゲンロン0』を挙げている人も二人いたと思う(そのうちの一人は、三浦瑠麗である)。
 ものを食べて新聞にも切りを付けると、立ち上がって洗い物をして、そのまま風呂を洗った。そうして白湯を持って室に下りると、一時半である。コンピューターを点し、すぐに日記を書きはじめる。前夜のことをまず記し上げ、この日の記事を頭から書き綴ってここまで来ると、現在二時二〇分である。
 その後、東浩紀の新たな動画は上がっていないかとインターネット内を検索する。するとまず、新発売の『ゲンロン7』にサインをしながらその宣伝をするという動画が見つかる(七時間もの長きに渡っていた)。ほとんど同時に、今年の三月にゲンロンカフェで行われたものだが、浅田彰と千葉雅也を招いて鼎談をした映像がVimeoに新しく上がっているのを発見する。浅田彰が還暦を迎えたことを祝ったイベントである。この時にはこちらもいよいよゲンロンカフェという場所に実際に足を運んでみようかとも思ったのだったが、気づいた時には既に入場券が完売となっていたので、果たせなかった。この鼎談の映像が見られるのはありがたく、一二〇〇円を払ってその場で即座に購入する。それから、『ゲンロン7』の宣伝動画を少々見た。
 図書館で借りたCDの返却日が過ぎていたので、返しに行くつもりだった。そのためにはまず、各作品の曲目などの情報をコンピューター内に記録しておかなければならない。そういうわけで始めたのだが、Robert Glasper『Everything's Beautiful』は、確か曲ごとに使用スタジオが違っていたり、また起用ミュージシャンとか、サンプリングされているMiles Davisの音源とか、情報が細かくて時間が掛かると思われたので、一旦諦めることにして、曲目のみを記事に記入した。聞いてみて気に入られたら、また借りて記録すれば良い(あるいは、ディスクを買ったって良いだろう)。Harry Allen Quartet『For The King Of Swing』と類家心平『UNDA』はそれぞれ記しておきたいことを記し、その後運動をした。『川本真琴』を背景には流した。そうして先のサイン動画をまた眺めながら歯を磨く。口を濯いでくると、スピーカーから流れ出す川本真琴 "タイムマシーン"と、続けて"やきそばパン"を聞く。"やきそばパン"は、具体的に何がということはわからないが、かなり良いのではないかという印象を改めて抱いた。それから燃えるごみを階上のごみ箱と合流させておき、そうして出発した。四時過ぎだった。
 道を歩いていると、軽自動車に抜かされる。見ていると、近所の車庫に入っていく。(……)である。その宅の手前、道の脇に生えている柚子の樹を見上げ、黄色の鮮やかな実が丸々とよく生っているなと眺めつつ進む。車庫の前まで来て覗いてみると、奥さんかと思っていたところが旦那さんのほうで、彼とこちらは面識がないが、会釈をしておいた(向こうはこちらが誰なのか、わからなかったのではないか)。道にはもはや日なたはなく、風が流れて、鞄の持ち手を引っ掛けている右の手指の先端が冷たい。
 (……)へと坂を上がって行き、表に出る間際で、救急車の音が近づいてくる。左方、すなわち西からだなと聞き分ける。車が過ぎたあとに通りを渡り、階段に入ると、上っているあいだにまた心臓のあたりが少々痛む。
 電車内に特段の印象はない。(……)に着いて改札を抜けると、券売機に寄って、SUICAに入金する。駅舎を出ると、目の前に、黒服姿の三人組がいる。和装の婦人に連れ合いらしい男性と、その子である。男性が携帯電話を耳に当てて喋っていたのだが、韓国か中国かどちらかの言語と聞こえた(母語の連なりのあいだに、「スペシャル」という横文字の闖入が聞き取られた)。焼き芋らしき匂いが鼻に触れるが、あたりに源らしいものはない。眼下のコンビニの前では、クリスマスケーキを店頭販売しているらしく、赤服を身に着けた店員がマイクを使って客を呼び込んでいた。
 図書館。CDを返却する。CD棚に行く。新着、新しい顔ぶれがある。John PizzarelliがJobimを取り上げた作があった。ほか、Fairport Conventionを脱退したメンバーの一人が作ったバンドのアルバムや、プリンスがデビュー前に属していたバンドの音源とやら。また、Thunderの新譜もあって、このバンドはまだ現役だったのかと思ったが、そもそもハードロックの類を好んでいた時分でも、彼らの音楽を聞いたことはほとんど一度もない。そして、Cornelius『Mellow Waves』を発見すれば、やはりこれは聞きたいなと思うもので(Corneliusも今までほとんど聞いたことがないのだが)、そうなるともう二枚もと欲が出て、ジャズの棚を見に行った。するとここに、Avishai Cohen(トランペッターのほうである)がECMから出した『Into The Silence』が発見されて、これには気持ちが高まる。この田舎町の図書館がAvishai Cohenなどを入荷するとは嬉しい予想外である(レーベルがECMなのが多分大きいのだろう)。さらに見れば、BIGYUKI『Greek Fire』も発見されて、現代ジャズの近作が新たに二つも入っているとは実にありがたい、とこの二枚を借りることにすぐさま決定した(棚を見る前に念頭にあった大西順子『Tea Times』とBill Frisell『When You Wish Upon A Star』は借りられているようで、見当たらなかった)。
 貸出機で手続きを済ませると、階を上がる。新着図書の棚に並ぶ本の背表紙に目を凝らしてじっくりと見分し、その後、気に掛かったものを手帳にメモして行く。ダン・ザハヴィ『自己と他者』が入荷されているのは大変ありがたかった。この著作は一二月四日、(……)と会った日に新宿の紀伊國屋書店で見かけて、読んでみたいという欲望を強く感じながらも、ひとまず購入を見送ったものなのだ。ほか、エリク・H・エリクソンアイデンティティ』、河本英夫『経験をリセットする』、『人文死生学宣言』、『バーク読本』、『トラウマの過去』(みすず書房)、ティム・インゴルド『メイキング』、『サルは大西洋を渡った』(みすず書房)、リチャード・リーヴス『アメリカの汚名』、『欧州統合は行きすぎたのか』(上下)といった著作群をメモに取った。それから、哲学の区画を見に行く。目新しいものは特にないが、ダン・ザハヴィの名前を知った『自己意識と他性』が棚に見られる。その訳者あとがきのなかを探ってみると、こちらの本のほうが『自己と他者』よりも先に書かれたもののようなので、借りる時にはひとまずこちらから読んでみようと目星を付けた。
 そうして早々と帰途に向かう。退館すると、時刻は五時一五分頃だったと思うが、既に暮れて空が青暗い。正面の高くに掛かった三日月の影がいくらかぼやけており、どうも雲が広く引かれているらしいと見えたが、西側(と言うのはこの場合、右手となる)の空のなかにほんの僅か差し込まれた希薄な白さの、宵の宙から雲の浮かび上がったものなのか、それともその切れ目なのか判別が付かなかった。
 駅舎に入り、電車に乗る。戸口を入ると目の前に、(……)巨漢が座っている。右手に進み、その男性と反対側の端に就いた。(……)に到着すると先の男性も降りるが、その手に袋を提げている。なかに入っている背の低くて白い箱の、ケーキのものだと思われた。続いて降りる女性の持つ袋も赤くて、何かしらクリスマスの仕様が施されていたようである。
 降車するとホームを歩き、スナック菓子を売っている自動販売機の前に立つ。細長い筒状のパッケージに入った小さなポテトチップスの類である。二つ買って鞄に入れ、ホームを来たほうに戻ってベンチに掛ける。まず手帳を取り出し、この日過ごした時間のなかで記憶に残っていることを断片的にメモ書きした。その後、読書に入る。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』である。(……)じきに着いた電車から降りた女子五、六人のグループが、ベンチの傍に立ち尽くして溜まる。運動服姿でスポーツバッグを携えており、中学生と見えたが、あるいは高校生なのかもしれない。彼女らはそのうちに二つの組に分かれて去って行った。その後、左隣に座った人を見れば、先ほどの巨漢である。持った袋が増えており、漂ってくる匂いからしてチキンらしい。
 空気は大変に冷たい。片手をコートの内側に挿し込みながら本を読み続ける。やがて、消防車の音が遠くから聞こえて、近づいてきたが、丘に反射するので東西どちらから来てどちらに向かったのか良くわからなかった。目的の電車が来ると乗り込み、座席には就かず扉際に立って読書を続けた。読んでいたのは、ウィリアム・E・ペイドン「謙虚の劇場と疑念の劇場 ――砂漠の聖者たちとニューイングランド清教徒たち――」という論考である。「自己」及び「自己」と「神」の関係について、五世紀の修道僧(ヨアネス・カシアヌス)と一七世紀ニューイングランド清教徒(主にトマス・シェパード)の態度を比較分析したものなのだが、後者の徹底した自己否定ぶりがとても面白く思われた。紹介されている清教徒の発言をいくらか引いてみると、「<自己>や<自身>というまさにその名前(……)は罪や悪魔の名前に近いのだから」(九六頁)とか、「自己は「大きな落とし穴」であり、「贋のキリスト」、蜘蛛が「我々のはらわたで(紡いだ)巣」、「地獄の予表あるいは予型」である。「神なる自己を捨て去ること」、「悪魔の毒や毒液つまりは自己という病毒」を根こぎにする(……)」(九七頁)などといった調子である。ここは書抜く箇所としてあとで記しておこうと、頭に印象を刻み込んだ。
 (……)で降りる。階段を昇り降りしていると、呼気が灰がかった白に浮かび上がって、すぐに散って消えて行く。通りを渡って坂に入る。足もとから湧いた自分の影を見下ろしていると、頭上で葉の鳴りが始まった。頭の表面に風の感触があったが、うまい具合にこちらからは逸れて顔や身体に当たってこない。右方からはより軽く、詰まったような音が立って、それは多分、葉っぱ同士が擦れ合うものではなく、大きな葉が幹に当たる音だったのではないか。
 帰り着くとストーブの前に座りこんで身体を温める。その後手を洗って下階に行き、モッズコートとカーディガンのみを脱いで、外着の上からダウンジャケットを羽織る。そうして食事へ。台所に入ると、フライパンにコーンが炒められており、バターを落としたところで止まっていたので、母親の仕事を引き継いでさらに炒めた。醤油をちょっと振って味を付けると、味噌汁やサラダを用意して卓に運び、食べはじめる。一方で、即席のハンバーグが鍋で温められていた。頃合いになって皿に取り出して切ってみると、加熱が不十分だったのでレンジで追って熱し、丼に盛った米の上から載せて食った。新聞は一面から、「安保理 北追加制裁を決議 石油精製品9割削減」という記事を読もうとしたのだが、テレビのほうにも視線を送ってしまい、きちんと文字を追えない。流れていた番組は、『モヤモヤさまぁ~ず』である(放送は府中市の会だった。僅かに紹介されていた大國魂神社というのは、もう何年も前になるが、(……)と一緒に初詣に行った覚えがある)。食事中、火事が鎮火したという市内放送が窓の外に聞こえた。
 食後、室へ戻り、買ってきたスナック菓子をつまみながら(……)を読んだ。八時を過ぎると入浴に行く。湯に浸かっているあいだにふたたびサイレンの音が耳に届き、マイクを通した人声らしいものもちょっと聞こえた。長く伸びて昇る唸りであり、またもや消防車らしい。風呂を出て自室に帰ると瞑想を行い、その後(……)にメールの返信を送った。一〇時前から、昼間に買ったゲンロンカフェでの鼎談動画を視聴しはじめる。白湯を何度か注いできながら、一時間強見続ける。印象に残っていることの一つは、全体性の話である。家族から始まり、村落共同体、社会、国民国家と人類の全体性は拡大してきたわけだが、それをそのまま世界全体、「人類」へと拡張するには、人間の想像力というものには限界がある、だから順当な拡張型の全体性ではなく、何か別の形のそれ、穴のあいたような、ある種の欠陥を備えた(という言い方をしていたと思うが、あるいは「欠如」だったかもしれない)全体性を構築しなければならないという話だった。(……)もう一つ、「事実」というものの地位について共通的な理解だったカール・ポパー式の反証主義が失われた結果、九〇年代あたりに非常に素朴な形の「実証主義」が復活したという整理のあとに、例えばガス室否定派なども歴史修正主義と言うよりは、新しい形の実証主義者だったのだという捉え方が述べられたところでは、なるほどなとうなずかされた(ガス室があったことを示す確定的な「証拠」がないからといって、相手の主張は疑わしい、すべて嘘だと断じてしまうというのは、「歴史」や「事実」というものの地位を素朴に信じ込んだ、言わば非常に原始的な形での実証主義だということだろう)。
 その後、武田宙也『フーコーの美学――生と芸術のあいだで』の書抜きに入り、打鍵を進めるかたわら借りてきたCDをコンピューターにインポートする。零時過ぎまで作業を続けると、それから二一日の日記を書きはじめた。三〇分くらいで切り上げるつもりだったのが、時間を見失って、結局記事が完成するまで一時間以上を費やした。そうして、音楽を聞く。Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "Jade Visions (take 2)", "A Few Final Bars..."、Bessie Smith, "A Good Man Is Hard To Find", "'Tain't Nobody's Bizness If I Do"(『Martin Scorsese Presents The Blues: Bessie Smith』: #1,#6)を流して二時過ぎ、『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』を読み出した。ベッドに腰掛けてゴルフボールを踏みながら文を追っていると、雨が降っていることに気づいた。雨が降ること、そしてその音を聞くのは随分と久しぶりのことだと思われた。三時半まで書見をしたあと、瞑想をして就床した。

2017/12/23, Sat.

 出し抜けに、といった感じでちょうど八時頃に一度目を覚ました。アラームが鳴るように仕掛けたのは一〇時である。朝陽の明るさがカーテンを浸していた。三時四〇分に就床したからこれでは睡眠が足りない、労働に備えてもう少し稼いでおいたほうが良いだろうと考えてふたたび眠ろうとしたが、思いのほかに頭が軽く冴えていた。それでもじきに寝付いて、次に覚めたのが九時四〇分のあたり、携帯が鳴るまで待つかと微睡んでいると、着信音のようなアラームが響き、心臓がびくりとなった。布団を抜けて、すぐにベッドに戻ってしまわないように遠くに置いておいた携帯を止め、その場で立ったまま堪えて伸びをした。そうしてダウンジャケットを羽織ると、そのまますぐに瞑想に入った。どうも緊張のようなものが、ごく幽かにではあるものの感じられ、心臓のあたりが疼くようになっている。それを解消するように呼吸を続けて、このくらいかと目をひらくとちょうど三〇分が経っていた。
 上階へ行く。各方の窓のカーテンを開けて、室内に陽射しを取り入れる。それから台所で嗽をして、洗面所に入ると顔を洗った。前髪を濡らして整えておき、冷蔵庫から前夜の炒め物の残りを出して、電子レンジで温めた。待つあいだに、居間の東側の端に生まれた日なたのなかに入って身体をほぐす。南窓の先、川向こうの町からは、青白い煙が湧いている。すぐ対岸に見える寺(らしいのだが)の敷地内からだろうか。煙は実に緩慢なうねり方であとから継がれて、樹々の合間から空中に昇って東のほうに広がって行く。電子レンジの作動が終わると台所に行き、さらにもう少し加熱しているあいだに米をよそったり、サラダの残りを出したり、即席の味噌汁を用意したりした。食べ物を卓に並べるとポストから新聞を取ってきて、ものを食べはじめる。九面から、「エルサレム 「無効」決議 米は冷静 賛成国へ報復 不透明」の記事を読む。そのままカタルーニャ関連の記事(「欧州の選択 カタルーニャ問題: 「独立」勝利 続く混迷 州議会選 過半数維持 強権ラホイ首相に反発」)に移るところで目を上げると、対岸の煙はまだ湧いており、風向きが変わったようで今度は西側へと、低く伏せるようにして流れていた。その後一面に戻って、「北、公海で石油密輸 制裁強化後 中国船など関与か」、「「人づくり」重点予算 閣議決定 来年度97兆7128億円」の記事も読むと、椅子から立ち上がった。一一時一五分頃だった。食器を台所に運んで洗っておき、アイロンを掛けていなかったシャツたちを始末する。済むとそれぞれ階段の途中や、自室の外に吊るしておき、白湯を用意してきてコンピューターを立ち上げた。前日の記録を付けたあと、この日の記事も作ると即座に記しはじめて、ここまで書いたところでちょうど正午を迎えている。
 その後、tofubeatsの音楽を流して、手の爪を切った。ベッドの上にティッシュを一枚置いて、その上で処理をし、切ったあとからやすりも掛ける。そのまま運動に入って、二五分使って身体をじっくりほぐすと(背後には、久しぶりにキリンジを流した)、歯磨きをした。歯磨き中、ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』を僅かに読む。そうして口を濯いでくると、Oasisを聞きながら服を着替え、一時一〇分という頃合いだったのでコンピューターを停止させて室を抜けた。ハンカチを尻の側のポケットに入れて出勤である。
 道はまだまだ明るい。空気に冷たさはなく、ここまで寒気が弱いのは久しぶりではないかとも思われる。坂を上って行きながら、林中に浮遊する鳥の声を聞く。進むと今度は反対側からも聞こえてくるが、あまり澄んでいない、妙なような声である。その場でも形容を思いつかなかったし、今も何と言って良いのかわからないが、音の元を探ると裸木の枝先に小さな姿が空を背景に影となってある。
 街道から裏に入らずに日なたの多い表道を行く。背から温まり、足もとも温もる。空には南側にも北側にも雲が湧いているが、希薄なものに過ぎない。この日は(……)一日職場の番を任されていた。面倒な話である。また、電話を取らないといけないのだが、こちらはこれが苦手で、それに対して緊張するような心も多少あった。道行きの初めのうちはそれで、頭のなかで対応の仕方を想定してシミュレーションしていたのだが、そんなことに頭を使っても仕方がないしつまらないというわけで、歩行の現在に心を戻すことにして、それとともに歩調も緩くなった。そうして駅前まで来る。横断歩道で止まる。南のほうを向くと光が眩しく、目を細める。渡って折れる際に、頭上から音楽が降ってくる。そこのビルに入っている喫茶店で、何か催しをやっているらしい。七〇年代風味と言うか、わりと雰囲気の良いロックだった。
 職場に着くと貰っていた鍵を使って、裏からなかに入る。明かりを灯し、準備を始める。労働中のことは書いておきたいという気にならないので、細かな部分は省略する。初めのうちはやはり緊張があったが、じきに電話の対応にも慣れてきて、余裕が生まれた。とは言え、こちらの単独性においてではなく、会社の一員という属性を背負って振舞わなければならないのが面倒臭い。労働においてこちらが煩わしく感じられることのうちの大きな一つが、この余計な、欲しくもない属性の付与ではないかと思われる。ともかくぎこちない部分もありながらも何とか仕事をこなし、見落としがないか仔細に確認した(……)
 帰途に就く。道中、半ば過ぎくらいまでは自分の仕事ぶりやノートに記した文言を思い返して、抜けがなかったかと頭のなかで検査を行う(こうしたことを自然と行ってしまうあたり、我ながら律儀な性分だと言っても良いだろう)。そのうちにそれにも満足したようで、仕事のことは考えなくなった。その後、この帰り道の終盤から入浴あたりに掛けて、精神が非常に落着いたと言うか、自足するような心持ちが続いていた。やることも終えて翌日は休日ということもあり、自ずと気持ちがほぐれたのだろうか(一方で、帰路の最中には心臓のあたりがまた痛むということもあったのだが)。道の終わり、坂道を下りていると、脇の林の内から何かが落ちる音が立つ。出口のところで風が流れて、葉が一枚、ほかの葉と身を擦り合いながら梢を出てくる音が、今度はそれとはっきり聞き分けられた。
 家に入る。(……)
 自室に下りる。部屋に入ると、いつの間にか自ずと、といった感じでOasis "Wonderwall"を低めの声で口ずさんでいる。先に記した通り心が大層落着いていたわけだが、そういう時の常で分裂的に意識の「見る」働きが強くなっていて、その声も自分が発しているという感じがあまりしなかった。服を着替えてジャージとダウンジャケットの格好になり、食事を取りに行く。米がなくなっていたのでうどんである(外出間際に、釜のなかの固くなった米を皿に取って、ラップを掛けて冷蔵庫に入れておいた)。既に鍋に拵えられている汁に麺を投入し、少々煮込んで丼に盛る。ほか、ハムを使った炒め物を熱して卓に並べ、食事を取りはじめる。新聞は自室に持って行ったきりで手もとにない。それを取ってくることもせず、テレビが流している『出没!アド街ック天国』を眺めながらものを口に運ぶ。この日の主題は銀座だった。精神をさほど冴えさせていたわけでないので、大して感銘を受ける瞬間もなかったが、何とか書店と言って一週間ごとに一冊の本を決めてそれのみを売るとともに、ギャラリーめいた店内でそれに関連する展示を行うという本屋はちょっと面白そうだと思ったし、また富貴寄と言って、楕円状の缶や瓶に江戸和菓子がぎっしり詰められている色鮮やかな品も少々面白く見た(瓶詰めには設計図があって、それに沿って職人が一つ一つ手作業で詰めているのだが、それができる職人がもはや三人しかいないという話だった)。そうしてテレビに目をやりつつものを食うあいだ、やはり自分自身の挙措、細かな身体の動きを、それらを追うことをいちいち意識しなくとも心身そのものが自然と把握するような感じになっている。脚を組んだ姿勢とか、うどんの丼に向けて前かがみになる、箸を使って麺をいくらかすくい取る、それらを啜って途中で切る、といったような行動のそれぞれである。食後、食器を洗って風呂に入っているあいだもそれは続いた。現在の知覚に自ずと意識がフォーカスされていて、そうするとかなり自足的な気分になるのだが、ヴィパッサナー瞑想が目指すのも大方こうした種類の意識の有り様のさらに強力なものなのではないか。その目標というのは、要は数値によって(つるつると滑らかで襞のない)抽象概念化されている我々の時間意識を解体し、未来と呼ばれているものなど所詮はこの世に存在せず、純然たる観念的構築物でしかないということを心の(むしろ身体の?)底から実感的に理解する、という類のことではないかと今しがたちょっと思ったが、定かでない(これを綴っているのは二四日の午前一時前である)。
 一〇時頃風呂に浸かりはじめて、浴槽のなかで自分の頭のなかに生まれる言葉の動きを眺めていると、いつの間にか二五分が経っていた。「考える」などという動詞も、本来はほとんど存在しないようなものではないかとちょっと思った。こちらの感じとしては、「考える」と呼ばれている事柄は、脳内の言語の蠢きをただ見て追うというそれだけのことであって、「行為」というほど能動的なものには思われず、何と言うかほとんど機能的な、とも言うべき類の事柄のように感じられる。「考える」の主語は主観的には明らかに「私」ではなく、「私」の脳だか意識だか主体だかわからないが、あるいは言語そのものと言っても良いのかもしれないが、何かそういった類のもので、「私」はそれらが勝手に/常に展開しているその動きをただ感じ、見ているだけである(言語とは去来する[﹅4]ものである。向井去来とはなかなかうまい筆名を付けたものだと思う)。だからこちらとしては、感じることと考えることの差がもう良くわからない。何も違いがないのではないかと感じられてならない。こうしたことは、自分は全然知らないけれどフランス文学とかフランスの思想のなかで良く語られているのではないかというイメージが何となくあるのだが、そちらの方面ではありふれた感じ方なのかもしれない。と言うか、文を長く書き続けていれば大方皆そういう風になって行くのではないのだろうか?
 風呂を出ると、米を研いで翌朝に炊けるようにしておき、仏壇に備えられた花の水も取り替えておいてから自室に帰った。インターネットをちょっと回って、一一時を過ぎたところでこの日の日記を書きはじめようとしたのだが、すぐに、そう言えばギターを弾きたかったのだと最近触れていなかったことを思い出して、キーボードを隣室に入った。もう時間が遅いのでアンプの音量を絞って楽器を弄る。今のこの意識の状態で弾いてみたらどうなるかと思っていたのだが、特に音が良く見えるとか、音を自在に統御できるということはなかった。それでも三〇分ほど遊んでから自室に戻り、そうして正式に日記を書きはじめる。書いているあいだも実に肩の力が抜けて、急ぐということがまったくなく、かと言って無闇にだらだらとした心持ちになるでもなく(文章自体はだらだらと弛緩しているように見えるかもしれないが)綴れて、一時間と少し書いて現在は一時を僅かに回ったところとなっている。
 その後、読書に移る。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』。ルーサー・マーティン「シリアのトマス伝説における自己のテクノロジーと自己認識」を通過し、ウィリアム・E・ペイドン「謙虚の劇場と疑念の劇場 ――砂漠の聖者たちとニューイングランド清教徒たち――」に入るのだが、じきに眠気に意識をやられる。多分、二時頃になって意識を失ったのではないか。気づくと、三時を越えていた。読書をしながら眠りに落ちてしまうというのも随分と久しぶりのことだと思われる。やはりこの日はそれ相応に疲れていたらしい。ベッドの上で布団も掛けず、ストーブも消してあったので、体温の落ちた身体がかなり冷たくなっていた。電気ストーブを点して身体を温める。本当ならばこの夜は、何となく夜食にカップラーメンを食べたいなとか、日記をもう少し進めなくてはとか考えていたのだが、こうなってしまっては仕方がないというわけで、もう眠ることにした。しばらくすると室を出て洗面所に行く。歯磨きも時間を掛けずなおざりに済ませて、戻ってくるとそのまま明かりを消して布団に潜り込んだ。三時二五分くらいだった。

2017/12/22, Fri.

 記憶に残っておらず、メモも残していない諸々については省略する。
 出勤時、玄関の外に出て、ポストから夕刊を取る。「エルサレム首都 国連総会が「無効」 日本など128か国賛成」という記事をちらりと見る。ヘイリー米国連大使が実に無感情な顔で映った写真が載っている。帰宅後にストーブにあたりながら記事を読んだところ、「米国のヘイリー国連大使は、「米国は主権を行使したことを攻撃されたきょうの日を忘れない」と述べ、「投票結果は覚えておく」として「報復」を示唆した」と言う。これは平たい言葉に翻訳すれば、「お前ら、覚えておけよ」と言っているのに相違ないはずで、そう考えると一体どこのチンピラなのかという感想も浮かんでくるものだった。あとは、「各国の投票態度」として、賛成、反対、棄権の三項目に分けた表が付されていたのだが、反対の九か国をみると、米国、イスラエルグアテマラホンジュラスマーシャル諸島ミクロネシア連邦ナウルパラオトーゴという面々で、この並びも少々面白いように見えた。
 往路のことに話を戻す。時刻は四時前だった。日なたを求めて表の道を歩く。街道の湾曲部まで来ると、大きな日なたが作られており、西南からの陽射しを浴びせられる。こちらの影が道から離れて伸び、沿道の家の壁や塀の上にまで掛かる。カーブを曲がってまた道がまっすぐになるところで、向かいの家を意識に留めて、そう言えばここが稲葉の実家ではないかと改めて認識した。その宅にも光が放射されており、壁に細かな襞というか凹凸が施されているのだろうか、ラメ状とも言うべき白光の帯び方になっており、塀の家に僅かばかり生えた低木の影がその上から付されていた。
 駅前の交差点まで来ると、何やら警官が一人いる。こちらが横断歩道の信号を待っていると、警官は笛を大きな音で何度か鳴らしていたのだが、警告といった感じでもなく、かと言って交通整理をしているわけでもなく、一体何に対して吹き鳴らしていたのかわからなかった。
 帰路、焼肉屋の駐車場、あるいはスナックの脇で、いつもの猫に遭遇する。炭を使って肉を焼いている匂いが漂っていた。
 この日は午後から両親が北関東へと旅行に出ていたので、夕食は自ら用意しなければならない。カップ麺でも一向に構わないわけだが、折角だからやはり何かしら作ろうという気になり、台所に立つ。簡単なところで、玉ねぎやエノキダケと豚肉の炒め物を作る(あと一つ、何かしらの具があったと思うのだが、思い出せない)。材料を切ってフライパンで炒める段になり、調理台の下部をひらき、油を取ろうというところで、オリーブオイルというものを使ってみても良いのではないかという思いつきが到来し、いつも使う通常の油ではなくてそちらを使用した。味付けは、バター醤油という気分になって、そのように施す。思いのほかに多く、フライパンがいっぱいになるほどにできる。翌日の一食目もこれで良かろうというわけで、食後、皿に取り分けて冷蔵庫に保存しておく。
 時間が前後するが、この日の労働は、あまりうまく声が出ず、心の落着きの具合もどちらかと言えば低次だったらしい。具体的な記憶はまったく残っていないが、気分がやや急いていたような気はする。

2017/12/21, Thu.

 起床、一二時四五分。寝床を抜けるとベッドの縁に腰掛けて、パク・ミンギュ/ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳『カステラ』を一〇分間だけ読む。起きるのが遅くなったためだろう、瞑想はしなかったようだ。上階に行き、洗面所に入って、濡らした手指で髪に触れて寝癖を曖昧に整える。食事は炒飯。新聞からは、「パレスチナ 中東和平 露に仲介打診 エルサレム首都 「米は立場失った」」(九面)と「首都無効決議案 国連総会採択へ エルサレム」(九面)の記事を読んだらしい。
 風呂を洗った(……)室に下りたあと、何をやっていたのかは不明。二時過ぎから一九日の日記を記しはじめている。二時半に至ったところで、一度中断して洗濯物を取りこみに行った。タオルや肌着類を畳んでおき、すぐに戻るとまたキーボードに触れている。
 三時を回ったところで切って、そのまま運動に入る。例によってOasisの二枚目のアルバムを流したらしい。三〇分近く使って、しっかりと肉体をほぐしたようだ。その後、起き抜けにできなかった瞑想を行っている。
 長寝のためか、室にいて諸々の活動をしているあいだ、自分の手から垢の臭いか汗のものか、何かそのような類の臭気が感じられたらしい。
 出発は四時台後半である。玄関を抜けると、煙の臭いが感知された。道を僅かに進んで西のほうを見やると、綻びをたくさん作りながらも空に掛かった雲の広がりが目に入る。さらに、我が家の屋根の向こう側から、煙が立ち昇っているのも視認される。隣の(……)の家で何か燃やしているらしい。そちらのほうに視線を送りながら先へ歩くと、煙を透かして西空の際から洩れる残照が見え、雲の裾近くには極めて細い、新月を脱したばかりの月が右下に弧を置いて入りかけているのも映っている。雲の様子を、鍋に浮かんだ灰汁のようだと思った。
 街道を行く途中、どこかから料理の匂いが香った。直後に、おそらく醤油で味付けをされた煮物だろう、と同定される。その推測は何故か、ほとんど確信的に里芋の煮物として浮かんできたのだが、そこまでは断定できないだろう。裏通りの中途、空き地に散りばめられている保安灯の灯りをふたたび眺める。空気はあまり寒くなかったらしい。
 労働中と帰路の記憶はない。(……)
 夕食中、夕刊を読む。「エルサレム首都 無効賛成国へ「援助停止」 トランプ氏 国連総会採決けん制」という記事が出ている。「トランプ米大統領は20日、自身がエルサレムイスラエルの首都と認定したことに関し、国連総会で21日にも決定を無効だとする決議案が採択される見通しであることについて、採決で賛成した国への援助を打ち切る考えを示し、けん制した」、「トランプ氏は「(米国から)何億ドル、何十億ドルと受け取っておきながら、我々の意に反して投票する国がある」と指摘。「彼らの投票を注視している。我々に反した投票をすればいい。そうすれば、多くの(援助費用の)節約になる。我々は気にしない」と述べた」という話で、読みながら、笑ってしまうほど/可笑しくなってしまうほどに傲慢な人間だなという感想が浮かんできた。こうした発言が意味しているのは、米国民が今まで「民主主義」と呼んで、現実には色々と屈折/曲折がありながらも一応は尊重してきた理念/考え方/態度を、彼らのリーダーが自ら豪快に投げ捨てようとしている、ということではないのだろうか。ドナルド・トランプの言動においてはそうしたことは今に始まったことではないのだろうし、過去の大統領たちも現実には色々とやってきたには違いないのだろうが、何というか、ここまで堂々と、清々しいまでの厚顔さで一国の指導者がこうした発言をするというのはやはり凄いことなのではないか? 「建前」というものがこの世から消滅しつつあるような気すらしてくる。もしそうだとすると、それはインターネット上に蔓延している「本音」の大群とも、やはりどこかしらで通じている問題なのかもしれない。
 夜半はまず、読書である。パク・ミンギュ/ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳『カステラ』を読み終え、そのままミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』に移る。一時半まで。その後瞑想し、二時から音楽。Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "Jade Visions (take 1)"、THE BLANKEY JET CITY, "Bang!", "不良少年のうた"(『LIVE!!!』: #4,#7)、Bessie Smith, "A Good Man Is Hard To Find", "I Ain't Goin' To Play No Second Fiddle", "Me And My Gin", "Muddy Water (A Mississippi Moan)", "St. Louis Blues", "'Tain't Nobody's Bizness If I Do"(『Martin Scorsese Presents The Blues: Bessie Smith』: #1-#6)、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5)、Nirvana, "Come As You Are", "Lithium"(『Nevermind』: #3,#5)と色々聞いて一時間。その後ふたたび読書。フーコーの本では、三四から三五頁に掛けてマルクス・アウレリウスの(青年期/二四歳の時の)書簡が取り上げられ、ストア派の人々が実践していた「自己への配慮」の技術の一例として紹介されているのだが、師に宛てて自分の一日の生活のこまごまとした細部を順番に語っているこの手紙は、こちらの観点から言えば明らかに「日記」である。要はこちらが毎日綴っているこの「日記」と、大方同じようなものだということなのだが、フーコーは、この書簡が大部分「何を行ったか」を語ることに終始して、「何を考えたか」については記されないことに注目しており、「日記」の執筆は「キリスト教時代に始まるのであり、魂の葛藤という概念に的がしぼられる」と述べている。フーコーの観点からすると(あるいはそれは西洋文化の総体における一般的な見方かもしれないという気もするのだが)、「日記」というのは「内省」「省察」といったようないわゆる「内面的な」思索を綴るものとして、基本的には考えられているのではないだろうか?(ロラン・バルトが書いた日記に関する小論も「省察」という題だった) その点はおそらく、こちらの「日記」観との大きな相違である。最近は自分もこのようにして思索の類を書きつけるようになってしまったが、この「日記」は元来、そういったものではまったくなかった。「日記」を始めた当初は、大方自分が何をしたか、何を見たかということしか記しておらず、「内面的」と言われるような事柄がよしんばあるにしても、それはせいぜいある物事に遭遇しての「感慨」といった程度の小さなものだったはずである。だから、こちらの「日記」はそもそも、その第一の側面において「行為/行動」に関するものとして始まったのではなかったのか。この点は、自分の「日記」行為、その営みの意味を解釈する際に、重要な部分になってくるのではないかという気がする(この「日記」が自分なりの「自己への配慮」の実践であるという点は、疑いのないことだと思うが。/「偶発事」の類、「ニュアンス」との遭遇が「日記」行為のなかでどのような位置づけを成されるのかという点も大きな問題だろう)。(そう言えば、今思い出したが、こちらの最初の目標は、「日記で小説をする/日記を小説にする」ということだったのだ。多分、この「小説」という要素の存在こそが、こちらの「日記」が「内面の思索」に限定されない上での中核的なポイントであるように思われる)
 四時まで読書をしたのち、瞑想をして一五分に就床。