2018/2/17, Sat.

 五時になる前に一度覚めたのではないか。覚醒時の緊張感というものも、最近ではだいぶ薄れて、この日も身体を動かして薬を飲むのが億劫で、そのままに任せてふたたび眠った。七時過ぎ頃から意識が浅くなり、七時四五分に自ずと覚めた。夢を見ており、詳細は覚えていないが、何か一帯の危機のなかで我が家は悪者扱いをされて、ボウガンで狙われている、というようなものだった。夢中にいる時には危機感も覚えていたと思うのだが、こちらの不安が反映されたものなのだろうか。
 八時を迎えると身体を起こして、便所に行ってきてから室に戻り、この朝は起き抜けに腕振り体操をしてみた。しばらくベッドの上で腕を前後に振ってから、上階に行き、母親に挨拶をする。ストーブはちょうど消されたところだったが、床に陽が落ちているのでそのあたりにちょっと座り、それから洗面所に入って顔を洗って髪を梳かし、台所に出て食事を用意した。鍋には前夜の汁物、フライパンには餡掛け風の炒め物があったので、それぞれをよそって卓に就く。テレビはオリンピックの報道をしていた。そちらを見やったり、母親の話すことに耳を傾けたり受け答えをしたりして、食事の味にばかり意識を向けることができなかったが、それでも食べていてどれも美味く感じられた。
 食器を洗って風呂も洗ったあと、洗面所の床にしゃがみこむ。と言うのは、母親がそこでネックレスの飾りを落としてしまい、行方が知れないのだということで、一緒に探してくれと頼まれたのだった。それでものをどかしたり、床の各所を注視したりするのだが、何しろ小さなものなので容易に見つからないなと思っていたところが、母親があった、と声を上げた。戸口の引き戸の隙間あたりに転がっていたようである。良かったと言って場を離れ、居間に出ると、明るい光が炬燵テーブルの上に落ちている。それに惹かれて、その上にあぐらをかいて乗り、温もりを感じながらヨーグルトを食べた。そうして下階へ下りる。
 コンピューターを点けると、インターネットを覗いたあと、一月一五日から二月一四日までの収支を整理しておき、それから日記を書いた。ここまで綴って一〇時ぴったりである。
 それから、ギターを弾いたのだが、弄りながらまた殺人について思念が流れるのを感じた。ノイズのようなものである。一人でいる時には、ノイズのような脈絡のない思念がずっと流れており、端的に言って自分の頭はひどく雑念まみれなのだが、しかし段々、それらに影響を受けないようになってきているのでは、という気もした。
 それから読書を行った。音読をしているうちに眠くなったのだが、天井が鳴ったので正気付き、上階に行ってみると、母親が天麩羅をやっていた。トイレに行きたいから見ていてくれと言うので了承し、そのまま揚げる仕事を担当した。具はエリンギに玉ねぎ、セロリの葉っぱである。それらを揚げ、昼食にはほかに水沢うどんというコシのあるうどんが用意され、また朝の炒め物の残りもあり、それぞれ分けて三人で食べた。どれも美味しくいただくことができた。食後、皿洗いを済ませてからさらに、父親がバレンタインデーに会社で貰ってきたチョコレートケーキとGODIVAのチョコレートをいただき、これも美味かった。そうしていると、母親がLINEだかViberだかの通知を発見し、何でも兄がチェコ料理店に行ったとのことである。豚の膝の肉を食ったらしいが、そのメッセージや写真を見せてもらった。
 自室へ戻ると、ルソーを音読し、続けて歯を磨きながら一時四五分頃まで読んだ。そうして、服を着替えて美容院に向かう。玄関を出ると、父親が水場で大根を洗っていた。行ってくると告げて、ゆっくりと歩いて行く。木の間の坂に入って上って行くと、道の脇、草木の手のつけられず自然そのままになっている空間から、こちらの足音を聞きつけて、鳥が何匹も羽音を立てて飛び立って行った。
 美容院ではちょっと待つ時間があったので、日帰り旅行特集の雑誌を手に取り、暇潰しに眺めた。金沢の頁を見ると、何でも鈴木大拙館というものがあるらしい。じきに呼ばれ、髪を洗ってもらい、鏡の前の椅子に就く。ここでも少々待つ時間があったが、(……)(助手の女性)の持ってきてくれた本や雑誌のなかから、今度は箱根についてのものを選んだ。箱根にも、彫刻の森美術館というものがあるらしく、ニキ・ド・サンファル作の彫像が置かれていたり、またピカソを特集したピカソ館というものもあるという。
 その後、ほかの客の世話が済み、美容師の婦人が来ると、今年は雪が降って以来寒かったですね、などと世間話をしながら、髪を切ってもらう。最近は筋肉をつけたいと思っているとか、やはり足腰が大事なのだろうとか、そうした何でもない話をするのだが、最近ではこうした雑談のスキルが上がったようで、以前と比べると結構こちらから話を継ぐことができたようだ。
 一時間ほどで散髪を終えると、戸口でありがとうございましたと二人に向けてそれぞれ頭を下げ、帰途に就いた。髪が短くなったので、やはり風が冷たく感じられたが、坂を下りて道に出ると、陽射しの恩恵があった。帰宅すると、母親は録画した『しゃべくり007』を見ていたところで、こちらも炬燵に入って、ちょうど三時でそのまま『マツコの知らない世界』の傑作選を視聴した。大学博物館と、シャボン玉兄弟の回である。最初のうちは、近くにやって来た反核団体か何かの演説が被さっていたのだが、じきに声は聞こえなくなった(母親は、畑のほうで働いている父親に飲み物などを持って行こうと用意していたようだが、団体がいるのに気後れして出ていきかねているようだった)。
 四時である。ギターを弾いたあと、自室に戻ってメモを取り、そのまま一五日の記事を三〇分間綴った。それで五時一五分、六時頃には家族で出かける予定だったので(ピザ屋に飯を食いに行き、ついでに近くの公園で星を見ようとのことだった)運動に入り、腕振り体操や各種トレーニングをこなすと、歯磨きをして、運動のためにジャージに替えていた服をもう一度着替えた。ちょうど六時頃に出発である。
 行きの道は父親が車を運転し、こちらは母親と並んで後部座席に座った。(……)を越えて埼玉のほうへと抜けるのだが、道中は実に暗く感じられ、電灯もあまりないようなところに家の灯が乏しく見られるような具合の場所もあり、ここにも人がいるんだなというような感じを抱いた。母親が、病院だか老人ホームだかがそのあたりにあるでしょうと言うのにも、その施設だか定かでなかったが、建物のいくつも並んだ窓の光を眺めて、そこに入っている人の暮らしを想像するような、そうした生、そうした生活もあるのだよなと思いを寄せるような心が働いた。
 ピザ屋には二〇分ほどで到着したと思う。車から降りると、宵の青さのなかに小さく湧いた雲の形がよくわかる空だった。店は、(……)という名前だった。六時半に予約を取ってあった。席に案内され、父親はビール、母親はノンアルコールのもの、こちらはジンジャーエールを飲み物に注文し、ほか、ミックスサラダにホタルイカのパスタ、ピザは、オーダーを聞きに来た女性店員(この店員さんを見た時、自ずと素直に、綺麗な人だなとの思いが湧いた)に野菜の乗っているものはと尋ねて、メニューのうちから指されたそれにした(名前は忘れてしまった)。
 サラダを三人で分けると思いのほかに量がなかったので、もう一種類の、タコとオリーブとジャガイモのサラダを追加で注文しようとしたが、タコを切らしているとかいうことだったので、代わりにバーニャカウダを注文した。ピザは、エビと緑の葉っぱの乗ったものだった。それを分けて賞味し、パスタを食い、バーニャカウダのあと、最後にカキフライを食べて終いとした。
 退店すると、母親が傍のスーパーに寄って行くと言ってすたすた歩いて行くので、そのあとを父親と二人でついていった。店内では父親がカートを押し、こちらは、ヨーグルトや茶漬けや即席の味噌汁などを籠に入れて行く。会計すると品物を袋に詰めて外に出て、寒い寒いと言いながら車に戻った。
 それから、近くの展望公園に移動した。夜気の冷たいなか、階段を上って行くと、頂上は円い広場になっていた。ほかに犬の散歩の人が一人おり、明かりはその人が持っているライトのものしかなく、高校生くらいだろうか、若者が二人いたのだが、暗闇のためにその姿も見えなかった。父親は寝転がって、星がよく見えると言っていたが、見上げた星空の明度としては、自宅の周りとあまり変わらないように思った。こちらとしては星よりも、町並みが一望できる周囲の見晴らしの良さがよく、特に、方角はわからないが、一方の果てに町の灯が並んで、地平線にうっすらと赤く、横線が引かれて浮かんでいるのに心惹かれた。じきに、罰ゲームの類か、若者が音楽を流し、スピッツの"チェリー"を歌いはじめた。少々やけっぱちのような声だったが、酒を飲んでいた父親が途中で声を上げて拍手を入れ、こちらも口笛をちょっと合わせて吹いたりした。終わると拍手を送り、それで我々三人は帰ることにした。
 帰りの車中では母親が、今度カラオケにも行こうよとこちらを誘ってきた。別に、と言ったが、それほど拒否する心も起こらなかったので、その時の気分で、と落とした。車内には兄が置いていったものらしく、Mr. Children『IT'S A WONDERFUL WORLD』が掛かっており、何かの拍子に音量が上がったので、歌いながら家に着くのを待った。帰宅すると、八時を過ぎたところだった。
 ストーブで温まってから自室に下りた。この時、本当に時間が過ぎるのが速いという感じがした。いつの間にかまたいまここにいる、ここまで来ていると気づく瞬間が何度もあって、コンピューターに向かい合った際にも、そう感じたのだが、それに不安を覚えはしなかった。この日のことをメモに取っておいてから、入浴に行く。
 風呂を浴びるついでに洗面器でストールを揉み洗いした。出ると洗濯機で脱水し、スーパーで買ったチョコデニッシュパンの、母親の食べたあとの半分が残っていたので、それをいただき、大根もおろして腹に入れて胃を助けた。自室へ帰ると一五日の日記を書き、インターネットを閲覧して零時近くになるとそこから読書に入ったが、途中で気を失った。起きると洗面所で短く歯を磨き、一時頃に就床した。

2018/2/16, Fri.

 五時になる前に一度目を覚ましたが、もう心身に緊張感はさほどないようだ。薬を飲むのも億劫で(あるいは服薬せずとも眠れるか試してみるような心もあって)そのまま寝付き、多分二度ほど覚めながら最終的に七時五〇分まで眠った。起き抜けの自動思考の渦巻きというのも、もうほとんど気にならなくなっている。この朝は一体どういった連想からなのか、"In Your Own Sweet Way"が鳴る時間があったと思う。カーテンをひらくと、比較的すぐに起き上がる気力が身にやってきた。
 上階に行き、母親に挨拶して、便所に行って放尿する(最後に起きた時、下世話な話だが股間の膨張、いわゆる「朝勃ち」があり、ということはおそらく身体的にはおおよそ健康だということなのだが、同時に尿意も大きかった)。それから洗面所に入り、櫛の付いたドライヤーで無造作に伸びた髪を梳かす(明日、切りに行く予定である)。特段のおかずはなかったので、卵を二つ、焼くことにした。黄身を固めないままにそれらを丼の米に乗せ、ほか、前夜から続く野菜スープや、ブロッコリーと人参である。卓に就いた時、初めはテレビはNHK朝の連続小説『わろてんか』を映していたが(このドラマに関してこちらに特段の関心はなく、以前は見ていたらしい母親も、先日、最近はあまり面白くないと言っていた)、じきにそれが終わると朝の情報番組『あさイチ』に移り変わる。内田有紀という女優が出演しており、彼女の最新出演作として、宮部みゆき原作『荒神』という作品が紹介されていた。江戸時代を舞台としていながら、「ゴジラ」に出てきそうな少々グロテスクな怪獣をCGで構成して混ぜ込むという趣向らしく、その舞台裏、メイキングの映像が少々見せられたのだが、怪獣の部分は実際の撮影の時には、緑色の棒を十字に組み合わせたものをスタッフが掲げて、怪獣の動きを模してのしのしと歩いていたり、やはり緑色の全身タイツ的な衣装に身を包み、バランスボールのようなものを抱えたスタッフに向かって役者が突撃していって、怪獣に跳ね飛ばされるシーンを撮っていたりと、そうした内情の暴露はちょっと面白かった。
 母親の分もまとめて皿を洗い、それから風呂を洗って、シャワーで浴槽についた泡を流していると、インターフォンが鳴るのが聞こえた気がした。水を流し続けていたのだが、母親が出て行く様子がないので、シャワーを止めて、直接玄関に出ていくと、やはり人がいて、母親が修理を頼んだバイク屋である。修理の終わったのを届けにやってきたのだ。少々お待ち下さいと告げ、下階に下りて、バイク屋の人が来ていると母親に知らせた。そうしてもう一度玄関に戻り、いま参りますのでと言っておいてから、あとはやって来た母親に任せてこちらは浴室に戻り、風呂洗いを完了させた。「(……)」というらしいこのバイク店は(この店のある地域には、同僚にも一人いるので多分それと同じく、「(……)」と漢字を書くのだろうが、この名字の人が多いらしい)、父親によるとぼったくるという噂だということだったのだが、ちょっと見たところでは愛想の悪くなくて明るい感じの人で、特段悪徳というような印象は受けなかった。
 そうして白湯を持って下階に戻ると(裸足で歩くと床が大層冷たいので、靴下を履いた)、コンピューターを立ち上げ、前日の記録を付けたのち、今日の記事をここまで書いた。九時二七分である。
 それから、伸びていた手の爪を切ることにした。傍ら、何らかの音楽を掛けたいと思ったが、それでは朝にも勝手に頭のなかで鳴っていた"In Your Own Sweet Way"にしようかと、Miles Davis『Workin'』に入っているその音源を流し、ベッドの上にティッシュを一枚敷いて爪を切って行く。曲が終わると、ライブラリでその上にあった'Round About Midnight』が目に留まり、これを久々に聞くかと、まだ朝九時で陽射しも少々洩れて明るくなってきたところだというのに、"'Round Midnight"を掛けた。この時期のJohn Coltraneは三、四年後の彼とはまったくの別人で、誰が聞いてもわかると思うが端的に言って技術的には未熟であり、むしろここから僅か三年でよく"Giant Steps"のレベルまで持っていったなと、彼の努力のほどを窺って賞賛するような思いがいつも湧く。五六年付近のColtraneの演奏はのちの極端な饒舌さとはまるで反対の、朴訥さ、口下手さ、「煮えきらなさ」とでも言うべきニュアンスをそこここに漂わせているように思うのだが、"'Round Midnight"はしかしその時期のなかでも、比較的うまく吹いているような気がする、と、爪をやすり掛けするかたわらそんなことを考えながら聞いていると、掃除機を持った母親が部屋に来て、その音で音楽は乱されてしまった。バイクにはいくら掛かったのかと訊けば、まだ正式にわからないが、今のところで(……)円とか言った。特に悪そうな人でなかったではないかと言うと、そうだねと母親は同意し、しかし付近ではそういう噂があるのだと、だから(……)(川のこちら側)と(……)(川向こう)とで派閥争いみたいなものがあるんじゃない、と笑って言い、こちらも本当だろうかと笑った。
 爪を切り終えるとその後、日記を僅かに書き足して、読書に入った。ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』である。ベッドに乗って布団を身体に被せ、窓から射し込む光を受けながら、例によって音読をしていく。しかし、この時の読書はやや散漫で、文を声に出して読みながら気が逸れることが多かったようだ。一一時を過ぎて区切りとしたが、眠気が湧いており、クッションに頭を預け、目を閉じて少々微睡んでしまう。微睡みのなかに安穏と安らいでいることに安心する自分があった。二〇分ほどうとうとと過ごすと、起き上がり、インターネットをちょっと覗いてから、書抜きを始めた。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』から長い一箇所、続けて、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』から二箇所を抜いて、そうすると一時も近く、食事を取りに上階に行った。
 母親は既に「(……)」の仕事に出かけており、姿はなかった。洗濯物が室内に入れてあったのだが、まだ陽射しの朗らかさが続いているので、もう少し出しておこうとベランダに吊るした(この時触れた空気の感触に寒さはなく、柔らかな調子だった)。母親は食事の支度も多少しておいてくれたのだが、それらを食べるのは夜に回すことにして、この時はカップ麺で済ませることに決めた。戸棚を見れば蕎麦があったのでそれを選び、胃の消化を助けるために大根おろしを用意する。温めた豆腐にも大根おろしを掛けて、卓に就いて食べはじめた。何の変哲もない、特別なところの何もない簡素な食事ではあるが、どれも美味く感じられた。飯が美味いということは、実にありがたいことである。パニック障害の最も酷かった時期のことを思い出すのだが、あの苦しみの日々のなかでは、食べるものに本当に味が感じられず、「砂を噛むような」という比喩の意味を身をもって体験した一日があった。そこから思うに、人間、食べるものが美味いと感じられているうちは、きっとまだ大丈夫なのだと思う。
 母親が流しに残していった食器もまとめて洗い、片付けて、下階に戻ると日記を僅かに書き足した。現在、一時半である。その後、一四日の記事を完成させてから上階に行き、洗濯物を畳んだらしいが、このあたりのことはまったく覚えていない(現在は、二月一八日に至っている)。
 自室に戻ると運動だが、腕振り体操を久しぶりに行った。腕を前後にぶらぶらと振るだけのもので、パニック障害に陥った初期の頃はよくやっていたものだが、柔軟をこなしたあとに最後にもまたやってみると、身体がほぐれて呼吸が落着いたものとなり、具合は悪くなさそうである。それから、(……)白湯を注いできて、日記を読み返し、続いて、三宅さんのブログも読んだ。最新記事からだいぶ遅れてしまっているのだが、この日読んだ一月三〇日の記事には、渡辺真也という人物によるらしい國分功一郎『中動態の世界』の書評が引かれており、そのなかに興味深い部分が含まれていたので、こちらにも転載させてもらう。存在を意味するbe動詞のルーツが「呼吸」を意味する語だったというのは、こちらが呼吸について考えていたことを裏付けるもので、自分はやはり仏教思想とかインド哲学のあたりをより勉強するべきではないのかという気がするものである。

ペルシャのブラフマニズムから影響を受けたインドでは、そもそも意識は受動的に生まれるものだと認識されており、その思想は唯識仏教において完成したと私は考える。バラモン教の経典ヴェーダでは、梵我一如のことをサンスクリット語でTat Tvam asi(古英訳:That art thou. 我はそれなり)と表記するが、ここでは梵(ブラフマン)すなわち宇宙を、特定できないが故に便宜的に「それ」と表記し、「それ」を「我(アートマン)」と一致させることで、「主体」の成立を退けつつ全てを一元論的に内在化させている。
このasi (as, asmi)が英語のbe動詞(ドイツ語のsein)のルーツだが、これは呼吸を意味し、さらに英語のbe動詞やドイツ語のseinは対格を取らず、右辺と左辺を一格と一格で繋ぐという特徴を持つ。例えば I am a student. という文章では、a student が私と完全に一致するという訳ではなく、地にある私(我)が、天すなわち宇宙の中における[学生]という集合と重なり合い、我すなわち「内(主語=わたし)」と「外(補語としての a student)」の間を、呼吸という再帰的な動詞が繋いでいるのだが、私はこの文法に、同じインド・ヨーロッパ語で書かれたヴェーダの梵我一如の影響を感じる。
呼吸とは、全ての生き物が生命維持の為に常に行い、「吸う」と「吐く」という陰陽を持ち常に自らの身体へと再帰する、対格を持たない特殊な動詞である。「私」と「補語」を一格同士で結ぶ「呼吸する」という動詞は、外部の宇宙と繋がることで存在可能となる私を規定しているから、そこから規定される主格は再帰的である。故に、常に再帰的であり続ける呼吸を意味していたbe動詞やドイツ語のseinが、存在を意味する特殊な動詞になったのだろう。

 その後、また腕振り体操をちょっとしてから、上階に行った。ゆで卵と林檎を食べる。陽射しはもう薄れて、外は白っぽい曇りになっていた。林檎は、一口一口、噛む感触を味わいながら、ゆっくりと食べることができた。そうして下階に戻り、ルソーを読みながら歯を磨いたあと、着替えをした。服を着替えているあいだ、脳内に"'Round Midnight"が流れており、ネクタイを締める一方でその自生音楽を聞く風になったのだが、しかしそれがあっても不安は覚えず、感触としてももうだいぶ薄いようだった。
 上階に行くと、五時まで一〇分余っていたので、靴下を整理し、下着を畳み、それから出発した。坂を上って行くと、出口の付近で風が流れ、篠竹というやつだろうか、斜面の細い竹が鳴りを立て、道の反対側の脇に生えた草々もざわざわと揺れる。しかし、身を震わせるほどの肌寒さは感じなかった。
 労働は余計な思考がなく、問題なくこなすことができ、結構楽しんで他人と話したりもしていたようである。九時半前に退勤すると駅に入り、通路を小走りに行って、電車に乗る。扉際で目を閉じて待ち、最寄りに降りたところ、ホーム上に雪はほとんどなくなっており、シャーベット状になったものが僅かに残っているのみで、それを爪先でちょっと踏んでみたりもした。
 坂を下りて行き、道に出たところで、またもういまここの地点に来ているな、という、いつの間にかまたこの現在に至っているという気づきが訪れた。それに気づいて歩調をちょっと落としたその意志、その動き、それすらも含めて、すべてが自動的に流れて行くような感じがしたが、それに不安を覚えることはなかった。歩きながら自分の横を流れて行く家々や、空などに目を向け、こうしてすべては流れて行き、そしていつか死ぬのだ、と考えると、『ダロウェイ夫人』のなかの一節が想起された。

 そんなわたしでも、一日が終われば次の日が来る。水曜日、木曜日、金曜日、土曜日……。朝には目覚め、空を見上げ、公園を歩き、ヒュー・ウィットブレッドと出会ったかと思うと、不意にピーターがやってくる。最後はこの薔薇の花。これで十分だわね。こんなことがあったあとに、死など到底信じられない――これがいずれ終わるなんて。わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……。
 (ヴァージニア・ウルフ/土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年、214)

 帰宅すると、ストーブの前に座った。母親が、ここで始めた新しい仕事の資料が鞄に入っていると言って示してみせる。ADHDの子どもの特徴や、彼らに対する接し方の注意などがまとめられたものである。それをちょっと読んでから下階に下り、着替えてきて食事を取った。レンコンと鶏肉、野菜の汁物などである。テレビは『ダウンタウンなう』を選び、五木ひろしが出演してダウンタウンと酒を飲んだりしていたのだが、あまり面白く感じられず、じきに母親が、これ面白いと訊いてきたのに、あんまり、と答えると、彼女は番組を変更した。『たけしのニッポンのミカタ!』である。高齢になっても、五〇〇円で食べ放題バイキングの食堂を続けている八二歳の女性が紹介されるのを眺め、食事を終えると入浴に行った。この日はなぜだか頭や身体が重くて、湯のなかで目を瞑ってしまうほどであり、温冷浴を繰り返してもあまり眠気が散らなかった。束子摩擦も全身をやる気力はなく、腹から胸のあたりと足の裏だけで済ませて、出てくると零時近くになっていた。歯を磨きながらルソーを読んだものの、そのまま続けて読書をする気力もなく、ベッドに倒れ伏してちょっと微睡んだあと、零時に至るとさっさと就床した。

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2018/2/15, Thu.

 一度覚めた時に時計を見ると、五時だった。前日は薬を追加したこともあって、そこそこ眠れたらしい。それからまた寝付き、最終的に覚めたのは八時五分だった。呼吸を意識しつつ少々布団に留まり、身体を起こして上階に行った。
 母親に挨拶し、洗面所で髪を梳かす。食事には、生野菜をレンジで熱したものがあった。ほか、米と、前夜の納豆の味噌汁である。テレビは朝の情報番組で、狭心症心筋梗塞について扱っていて、それを目にした途端、また自分は例の不安神経症で、ここで言われていることを自分の身に当て嵌めて考えてしまい、自分も狭心症ではないかなどと不安を自ら作り出すぞということを直感した。実際、ものを食べつつ番組を目にしながら、自分の身体の諸症状を思い返して頭がそうした方向に向かうのを感じたのだが、もう自分のそういう性向はわかりきっているので、気にしないように努めた。なかでは、家族性高コレステロール症とかといって、悪玉コレステロールが血管中に溜まりやすい病気というものが紹介されていたのだが、母親が健康診断の結果を記した紙を取り出して見てみると、そこで紹介されていた値と同じくらいに悪玉コレステロールの値が高くなっていたようだ。それでやはり塩分を減らさなくてはとか運動をしなくてはと言うので、とにかく歩かないと、という風に言い、のちにも散歩をしてくるように勧めた(ただ今日は、宅配便の再配達があるのでそれを受けなければならないとのことである)。
 食後、風呂を洗って、一度室に下りてから白湯を注ぐために居間に戻ったのだが、そこで、掃除機を掛けようという気になった。それで祖父母の暮らしていた部屋から掃除機を持ってきて、居間や台所や玄関の床を掃除し、そうしてから白湯を持って自室に帰った。インターネットをちょっと覗いてから、早速この日の日記を記しはじめたのだが、その最中、母親が、針に糸を通してほしいと部屋にやって来た。ベッドの縁に腰掛けたまま迎え入れて、道具を受け取り、三本分セットを作った。その後、記述を続けて、現在は九時四六分である。
 一三日の記事も続けて書いてしまったあと、日記の読み返しを行った。最近はブログに、「雨のよく降るこの星で」を始めた以前の過去記事の投稿も進めているため、二〇一六年一〇月一六日のものを読み返したのだが、そこにさらに過去の日記の引用がなされており、磯崎憲一郎の小説についての分析がされていた。それが二〇一四年の自分にしては随分とよく書けているように思われ、いま読んでみても特別反論もなかったので、ここに改めて引いておく。

2014/10/15, Wed.より。

 磯﨑憲一郎の小説には「未知」あるいは「謎」が充満している(それをあらわす記号が「どうしてか」「どういうわけか」「まったく不思議なことなのだが」などのいわば枕詞である)。そのことについて考えていたら、蓮實重彦のこの文章について腑に落ちるようなところがあった。「語ること」と「語られているもの」との無理のない調和による「レアリスム」とは、より具体的なかたちに言い換えると、ひとつには、小説のなかで起こる事象や人物の行動の理由や原因に想像がつく、ということだろう。何か事件が起こったとき、あるいは登場人物が何か行動=アクションを起こしたとき、そこに合理的な理由や原因や動機が設定されている、あるいは明確に書かれなくても読者にその想像がつく。磯﨑憲一郎の小説はまさにこれと逆をいっている。妻がなぜ不機嫌なのか、その理由は読者には明かされないし、想像もつかない、いや、読者どころではなくて主人公たる「彼」にとっても未知のままにとどまる。妻が十一年ものあいだ「彼」と口を利かなかった理由についても同様である。磯﨑の小説には、現実に起こりうることも(物理的な法則などに反していて)起こりえないことも含めて、「理由のわからないこと」=「未知」あるいは「謎」があふれんばかりに詰まっている。それによって、磯﨑の小説は(もしかしたら不安を誘うかもしれないような)奇妙さ、あるいは不気味さ、通常の現実と似ていながらそれとずれている(いわば「偽物の世界」のような)感覚を与える。
 通常の小説においては、人物の行動や事件の展開のあいだに合理的な因果の連関が設定されているか、少なくとも想像がつくため、そこにおいては要約が可能になり、そのような小説を要約してみると簡潔で受け入れやすいかたちにおさまる。磯﨑の小説は合理的な因果のつながりをとらない。我々の世界の論理=合理的な連関とはちがったつながりを事象のあいだに生みだす。本来道のないところに道すじをつけてしまうその手つきはもしかしたら豪腕と形容してもいいのかもしれないし、舗装された道をそれてわざわざ獣道を進むかのごとくでもある。
 蓮實も引用している満月の挿話を例にとって考えてみると、まずここで書かれていることは我々の世界の物理法則には反している、通常起こりえないことである。通常起こりえないことが起こってしまっているわけだが、そこに合理的な理由づけがなされることはない、なぜそれが起こっているのか読者に(そして主人公にも)明かされることはないし、想像することもできない。つまり端的にいって満月の膨張という現象は、原因不明=謎として提示されている(一般的に言われる「謎」というものは解き明かされることを前提としているのかもしれないが、ここにおける謎とはその解明が不可能な、まったくの謎そのものである)。この満月の挿話が前後の文脈とどういったつながりをなしているのか、それもほとんど明らかではなく、というよりはむしろほとんどつながり=物語の展開に寄与する合理的な連関はなく、挿話は挿話そのものとして単体で、独立して提示されている。実際この月の挿話はその後の物語の展開において何の役割も果たさない。当然、月が何を象徴しているのかといった意味の解釈もそこでは成り立たず(なぜならそういった「象徴」は物語の(合理的な)展開や人物の(一貫性のある)心情などとの関連で機能を果たすものだからだ)、むしろ蓮實重彦が言っているように、この挿話はそれ以外のものとの置き換え、別の意味として読まれることを禁じている(そしてそれこそが磯﨑憲一郎の言う「具体性」の内実であると蓮實は論じている)。
 合理=通常の論理からのずれというのが磯﨑の小説における「奇妙さ」の正体なのか?
 ひとはどういうときに「奇妙さ」を感じるのかということだ。通常考えられないこと、めずらしいことが起こったとき、ひとは「なぜか」とその理由や原因を考える(たとえば、通常ひとを殺すということは考えにくい子供が殺人を起こしたとき、その動機に合理的な説明づけをしようとする)。つまり起こりにくいこととその理由づけとは基本的には一体のものだ(つまりひとは謎を感じると解明したくなる)。通常の小説では、なにか起こりえないことやめずらしいことが起こった場合、そこに合理的な理由づけがなされる。磯﨑の小説にはそれがない。つまり謎は謎のまま放置される。

 その後、読書に入り、ゴーゴリの『鼻』を最後まで読み終えた。正午に至り、次に何の本を読むか迷って決められず、インターネットを回ったり、ギターを弾いたりして時間を使ったあと、上階へ行った。母親は、自転車屋へ出かけてきたと言う。自転車の空気を入れてもらい、その後、「(……)」という、少々割高の豆腐屋まで自転車に乗って行き、おからのコロッケとハンバーグを買ってきたらしかった。それから食事に入って、そのコロッケとハンバーグを食べたが、これが美味しいもので、美味い美味いと何度も言いながらいただいた。食後、食器を片付けると米を研ぐ。
 下階に戻ると日記の記述である。コンピューターに向かい合って書き物をしていると、頭を働かせるからなのか、モニターを見つめるためなのか、心身がやはり固くなってくるようだった。それで一時間で中断し、上階に行き、洗濯物を取りこんだ。ベランダに出て、明るみのなかで寒さを感じさせない緩い風を浴びながら、ああ、この瞬間だけでもう良いのだ、などと思った時があった。タオルを畳んで洗面所に運んだところで、インターフォンが鳴った。出ると、近所に住んでいる老婦人、(……)である。母親と二人で玄関に出て彼女を迎え入れ、こちらもそこに留まって話をした。以前よりも会話に加わって、口が自然とよく動き、相槌もよく打っていたようである。話をしている最中に電話が鳴ったのでこちらが取りに行くと、新聞屋で、いまちょっと手が離せないのだと断って戻り、ふたたび話を続けた。
 (……)は、二月七日が祖母の命日だからということもあって、話をしに来たのだろうが、線香を上げるとは言い出さなかった。饅頭か何かの贈り物を持ってきてくれたのに、母親もお返しに漬け物なり洋菓子なりを袋に入れる。(……)が帰る際には、それをこちらが持って、三人で一緒に、杖をつく(……)に合わせてゆっくりと歩いて、彼女の家の戸口まで送って行った。そのまま細道を下の通りに下りて、母親と一緒にあたりを一周する形で家まで戻る。良い天気だった。坂を上って行き、自家の敷地の前まで来ると、福寿草が咲いたのだと母親が言って、林の近くにあるのを示すので、そこまで進んで黄色い花を見下ろし眺める。そうして見ていると車がやって来て停まったのは、(……)で、我が家の向かいの家でちょっとした商売をしている人である。この人は先日我が家を訪れた(……)の娘なので、降りてきたところに、先日はいただきものをしてと礼を言っておいた。そうして、屋内に入る。
 アイロン掛けをしながら考えたことに、ここ最近は感謝の念が自分のなかに訪れることが多い。それはありがたいことだが、それだけではなく、物事に対して意地悪な見方や、自分は口にするつもりのない言葉が、心中に自動的に浮かんでくるような頭の状態になっている。これが何らかの症状なのか(「両価性」と呼ばれるものではないかとも思うのだが)、それとも自分のなかに本当にそのように思う部分があるのか(しかし、本当に感情を伴っているという感じはしない)、それはわからない。どちらにせよ、そのように頭がごちゃごちゃとした状態であるので、はっきりとした感謝の念が浮かぶとそれ自体がありがたいのだが、しかし今はそれが特別なもののように思われていても、これにも次第に慣れていくはずである。その時に自分は、おそらくまた、感謝という感情が自分のなかから薄くなってしまい、感じられなくなるのではないかということに、また悩むのではないか。と言うか、そのようなことを考えるからには、今現在、既にそういう不安があるということだろう。しかし結局、なるように任せるほかはない。少なくとも現在は自分のなかにそれが訪れる瞬間があるということ、いまはそれをただ生きるしかない。
 自室に帰ると、(……)から来ていたメールに返信をして、美容院に電話し、土曜日の二時に予約を入れた。それからちょっと運動をして、出勤前にものを腹に入れるために上階に行った。食べたのはゆで卵に豆腐である。豆腐には刻み葱を乗せて、鰹節も加えて麺つゆを垂らした。卓に就いてものを食べるあいだ、不安はなかったものの、やはり頭がよく回り、自分は統合失調症になるのが怖かったが、我々の存在は、そもそも本当は安定的な統合などしていないのだ、などと考えていた。自我や思念の動きは本当に動的で、常に動き回って止まず、断片的に散乱させられたもので、自己などとというものはその都度の瞬間に仮に立ち上げられる構成概念だということが、ますます腑に落ちつつあると思った。それでは何によって構成されるのかというと、それは他者との、あるいは自分の外にある世界との関わりによってだろう。
 その後、着替えを済ませて、上階に行き、出るまでにちょっとのあいだと炬燵に入った。向かいでは母親がレシートを並べて出して家計を計算している。携帯電話を渡されて、彼女が読み上げていく値段を電卓アプリで打ち込んで行った。それから出発、この日はさほど寒くなかったようである。三ツ辻まで行くと八百屋が来ており、久しぶりに顔を合わせたが、(……)もいる。挨拶をして、今日は暖かいと言っていると、今日は帰りも歩きかと八百屋の旦那が豪快に笑うので、こちらも笑いで受けた。最近は寒いから帰りは電車に乗っちゃうんですよと(……)に話し、風邪を引かないようにねと言ってくれるのに、ありがとうございます、失礼しますと言って場を離れた。以前は、このように他人とやりとりするのにも緊張と気後れがあったのだが、最近はこうした何でもない会話が好きになってきたかもしれないなと思った。
 街道に出る前、ガードレールの向こうでは紅梅が咲きはじめている。葉鳴りが流れるが、その音のなかで身に冷たさがついてこないのに、春が近いなとの感を得て、「春めく」という語から連想して、キリンジ "車と女"が頭に流れた(歌詞の冒頭が、「春めく フェアレディ うわの空に 思い出の雲をつかむよ」というものなのだ)。道中は、前日と違って殺害のイメージに悩まされることがなく、特段神経症的な思考もなかったようだ。
 労働も落着いて、余計な思考もなく集中していたと言って良いだろうが、ただやはりどこかに苦しさのようなものがあった。落着いてはいるがその裏で、何か早く終わってほしいというような心があって、時計もよく見たようだった。帰り際に、(……)について(……)に話しかけられたのだが、電車の時間が近かったので、今日は失礼しますと帰ろうとすると、最近は電車なんですねというようなことを振られた。最近はもう寒いので乗ってしまう、もう少し暖かくならないと、と返すと、お爺ちゃん、と(……)が笑って洩らし、こちらもそれを受けて笑ってしまった。
 電車で扉際に立ちながら、今の自分は、おそらくほとんど常に自分の意識の志向性が見えているために、何かある意味で、気の休まる暇がないのではないかというような気がした。「永井均先生のヴィパッサナー瞑想についてのつぶやきのまとめ~「不放逸は不死の境地、放逸は死の境涯」」(https://togetter.com/li/652043)で「放逸」と「不放逸」について述べられているが、自分のなかからはもしかすると、「放逸」的な時間が段々なくなりつつあるのではないか。そうすると本当に、瞬間が次々と移り変わって行くというか、留まることを知らない時間の流れに押し流されているような、まるで時間というものに操られているかのような感じを覚えることもあるようだ。そしてそうして流れて行った先には、最終的に死が待っている。
 最寄り駅で下りて、通りを渡る際、近くにいた男性が煙草に火をつけた。坂へ入っていくその後ろをこちらも歩くと、煙草の香りが漂ってきて、それが不快でなく思われて、こうしたささやかさをやはり自分は書きたいのではないかと思った。出口が近くなったところで見上げながら下って行くと、木々の影の合間に星が映っている。
 帰宅すると、職場からもらってきたラスクをポケットから出して母親に示し、着替えに行った。食事は、天麩羅である。ほか、米に、薄いジャガイモなどが入った野菜の汁物、ブロッコリーと人参に、ワカメの和え物だった。テレビはオリンピックのカーリングの、日本対韓国の試合を映しており、カーリングというのはルールもきちんと把握していないほど馴染みがなかったが、父親とちょっと話しながら見てみると、なかなか面白いものだった。
 入浴したのち、室に帰って歯を磨きながら、ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』を読んだ。その後メモを取り、零時からまた三〇分ほど読書をしたのち就床したが、本のなかに不安について、こちらの身にはリアルだと、その通りだと感じられる記述があったので、引いておく。

 (……)今、現実にある不幸など大して重要ではない。現在感じている苦しみについては、きちんと受け入れることができる。だが、この先、襲ってくるかもしれない苦しみを心配し始めると耐えられなくなるのだ。こうなったらどうしようと怖々ながら想像すると、頭の中であらゆる不幸が組み合わさり、何度も反復するうちに拡大、増幅していく。実際に不幸になるより、いつどんな不幸が襲ってくるのかと不安にびくびくしているときのほうが百倍もつらい。攻撃そのものよりも、攻撃するぞという脅しのほうがよほど恐ろしいのだ。実際にことが起こってしまえば、あれこれ想像を働かせる余地はなく、まさに目の前の現状をそのまま受け入れればいいのだ。実際に起こってみると、それは私が想像していたほどのものではないことが分かる。だから、私は不幸のど真ん中にあっても、むしろ安堵していたのだ。(……)
 (ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』光文社古典新訳文庫、二〇一二年、13~14)

2018/2/14, Wed.

 例によって三時台に一度目覚める。さっさと薬を飲んだほうが良く寝付けて良いのだろうが、空気の寒さのために、起き上がって布団から少しでも身体を出すのが億劫で、身体はやはり少々緊張感を帯びているのだが、そのまま目を閉じていた。そうすると、イメージの展開がずっと続いたようで、あるいはそれは夢を見ていたということなのかもしれないが、ただ実感としてあまり眠っているという感じはなく、時折り姿勢を変えているうちに、時計をふたたび見るとそれでも時間が過ぎていて、六時頃になっていた。ここで服薬し、するとやはり効果があって心身の感じがちょっとほぐれて、多少眠りらしい眠りに入れたのではないか。ここで夢を見た。蓮實重彦がジャズについて書いた批評文を読んでいると言うか、その文字列だけがイメージとして見えるような感じのものだったと思うのだが、蓮實はレッド・何とかという(レッド・カスケイド、みたいな感じだったと思うが、これは多分間違っており、正確には思い出せない)ジャズピアニストが好きだという話で、このピアニストは勿論実在しないのだが、設定としては、どこかのジャズクラブを根拠地にして五〇年台から三六年間ほどずっと演奏を続け、そのあいだ様々なプレイヤーと共演してきたということだった。どちらかと言えば燻し銀的な、メジャーでないプレイヤーのようで、そうした人を好むというのは蓮實らしいなと思った覚えがある。こちらの夢のなかの蓮實はもう一人、先の人とはまたタイプの違うプレイヤーとしてお気に入りを挙げていたはずだが、それについては覚えていない。また、この夢、というか蓮實の批評文自体に既視感があって、ここ数日で同じ夢を一度既に見ていたような気もする。
 そうして、七時を回り、陽も昇って部屋には明るみが入りこんでいる。これ以上は眠れないだろうという感覚がありつつも、目を閉ざし、あるいはひらいて、寝床に留まってしまうそのあいだ、脳内には高速で、イメージなり完全な形を取らない言葉・声のようなものなりが、まさしく渦巻いており、次々と流れすぎて行く。その流れはほとんどが記憶に残らないほど速く、まさに奔流といった感じなのだが、その動きが自分で見えるのだ。こんなものを頭のなかに抱えていながら、よく自分は生活をこなせている、狂わずにいられるなと思い、これが今よりも酷くなってしまうと、ことによると狂うのかもしれないという不安もやはり感じた(こちらが考える「狂い」というのは、具体的には、自分の行動や言動について適切な判断が下せなくなること、他者の言語が理解できなくなること、他者とコミュニケーションを取れなくなること、というあたりが内実のようである)。
 七時半前になると起きようという気持ちが湧いて、布団を抜け出した。上階に行って、ストーブの前に座る。それから洗面所で顔を洗い、髪を調え、台所に出ると、おかずらしいものが何もなかったので、卵を二つ焼くことにした。また、母親が、焼売があると言って取り出してくれる。それらを用意し、また米はもう炊飯器に残った最後のものだったので、茶漬けにして、卓に並べた(そうしたことをしている最中、父親が出勤していった)。ものを食べているあいだ、テレビに目を向けたり、母親の言葉を聞いたり、それに対して心中でコメントをし、あるいは実際に言語を発して応答したり、そうした動きのなかで目の前の食事を味わわなくてはと思い、ゆっくりと咀嚼する感覚に注意を振り向けたり、そのように常に動き回ってやまない自分の意識の志向性のいちいちが、くっきりと見える感じがした。ここに不安が伴うと、おそらく自動感が生まれてくるのではないかと思うが、この時はそれがなかったようである。
 食後もすぐには立たずにいると、母親がもう少し何か食べたいねと言って、林檎を剝いてくれる。それをいただいてから食卓を立って皿を洗い、そのまま風呂を洗ったのだったか、それともストーブの前に座ったのが先だったか、ともかく、温風に温められ、また同時に窓から射し入ってくる陽の暖かさも顔の左側に感じて、ありがたいという気持ちが湧いた。風呂を洗っている最中には、自分の心持ちが何だか明るいということに気づき、回復を証しているようでこれもありがたく思われた。その後、先日買ってきたアイスを食べようと思い立ち、チョコレート味のそれを持って、陽射しが温かいねと言いながら、光がもっとも当たっている炬燵テーブルの上に乗り、陽の感触を肌に浴びながら、アイスを少しずつ食べた。美味かった。テレビは、宝石類の整理や掃除方法、本物偽物の見分け方、査定額などについて放映していたが、これについては詳しく書くほどの興味はない。
 そうして白湯を持って自室に戻ってきて、今日は早速日記を綴るという気持ちになったので、ここまで書くと、現在は九時四〇分である。
 その後、ギターを弾いたりしたのちに、一〇時半過ぎから読書を始めた。南直哉『日常生活のなかの禅』である。音読をしている最中は、やはり脳が刺激されるのか、頭痛までは行かないが頭が固いような感覚が訪れ、その後、陽を浴びていることもあってかちょっと眠気が湧いて、目を閉じて休む数分もあった。南直哉の本を最後まで読み終えてしまっても、まだもう少し何か読みたいなという気持ちがあった。海外の小説でも読もうかと思い、何となくノサックが念頭に上がって来たのだが、迷いながら積んである本を眺めていると、岩波文庫ゴーゴリ/平田肇訳『外套・鼻』があるのに目が留まって、薄いものだし、先日後藤明生を読んだ流れでこれにするかというわけで、読みはじめた。そうして一二時一五分になると中断して、上階に行った。
 既に母親が米を炊き、また冷凍されていたキーマカレーを解凍しておいてくれた。母親が食べた残りを袋から米の上に掛け、電子レンジで温める。また、エノキダケとキャベツのサラダも卓に並べ、ものを食べた。デザートに、(……)(義姉)から貰ったというチョコレートをいただき、この時の食事はどの品も美味く感じられたので、そのことに感謝した。ちょっと休んでから立って皿を洗い、そのままアイロン掛けをする。最中、母親が、土曜日に父親と星を見に行こうと言っている、と話す。お前も行くかと訊くので、どちらでも、行っても良いと答えると、それでは行こうとなったので了承した。このあたりも、以前だったら間違いなく断って一人で家で過ごしていたはずで、ここ最近のこちらの、急激と言って良いだろう変化が現れている。
 その後、室に帰ってきて、日記を書き出し、二月一二日の記事を完成させて、現在、二時を回っている。振り向けば窓の外の空は、柔らかく、すっきりとして滑らかな青さに広がっており、良い天気である。
 その後、日記の読み返しをしてから、運動を行った。スクワットをしながら、自分が太腿に随分と力を籠めているのに、回復を実感した。それから、藤井隆 "ディスコの神様"を歌ったが、気分が持ち上がりすぎた感じがしたので、少々心を落着ける。そうしてSuchmos "STAY TUNE"も続けて流したのだが、やはり運動と音楽によって頭が浮き立っているような感覚があったので、音読をして気持ちを静めることにした。ゴーゴリの『外套』をゆっくりと読む。この時、話者の存在感というか、語り手がただニュートラルに物語を語ることに徹するのではなく、「読者」という語を用いたりもして、しばしば姿を現していることに気づいた。『外套』は一八四〇年に発表されたものだが、ほとんど不可視の、透明な話者による語りが成立する前の小説ということなのだろうか? ざっと読み返してみて、気づいた部分を、下にまとめておく。

 彼の名はアカーキイ・アカーキエウィッチといった。あるいは、読者はこの名前をいささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれないが、しかしこの名前はけっしてことさら選り好んだものではなく、どうしてもこうよりほかに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することができる。
 (7)

 こんなことをくだくだしく並べたのも、これが万やむを得ぬ事情から生じたことで、どうしてもほかには名前のつけようがなかったといういきさつを、読者にとくと了解していただきたいためにほかならないのである。(……)
 (8)

 こんな仕立屋のことなどは、もちろん多くを語る必要はないのであるが、小説中の人物は残らずその性格をはっきりさせておくのが定法[きまり]であるから、やむを得ずここでペトローヴィッチを一応紹介させてもらうことにする。
 (16)

 ところで、くだんの招待主の役人がいったいどこに住んでいたかは、残念ながら、しかと申しあげることができない。記憶力がひどく鈍り、ペテルブルグにある一切のもの、街という街、家という家が、すっかり頭の中で混乱してしまっているので、その中から何なり筋道を立てて引き出すということがはなはだむずかしいのである。
 (33)

 四時まで二〇分ほど読んだところで、食事を取りに上階に行った。ゆで卵に加えて豆腐を温め、さらにおにぎりを作って卓に就く。食べながら、例によって、苦しみというものは決してなくならないのだなどと考えていた。外面的にどんなに満たされているように見えようとも、何らかの苦しみは必ずある、なぜなら我々が感じ考える存在だからと、そんなことを思いながらおにぎりを食べていると、窓外で生まれた動きにはっと気づいて目を上げた。薄陽を掛けられた川沿いの樹々の前を、白い鳥がすうっと、まっすぐ右方へと宙を横切って滑空していくそのさまに、自ずと目を奪われ、気を取られていた。その後、同じ鳥なのかわからないが、今度は羽ばたきながら左のほうへ戻っていくのも見たのだが、まもなく、この瞬間も失われていく、いままさに失われつつあるのだと、またもや無常の感覚が湧き起こり、涙を催したのだが、それもすぐに収まった。無常感そのものすらも続かずに、絶え間なく移り変わっていくのだ。
 皿を洗うと下階へ戻り、歯を磨きながらまたゴーゴリを読んだ。この時、今度は、この小説のなかには妙に曖昧さが付き纏っているなということに気づいた。作品設定の細部において、「わからない」などという表明がたびたび見られるのだ(まず冒頭からして、「ある省のある局」と、アカーキイ・アカーキエウィッチの職場がぼかされている)。もう少し細かく作り込むか、それか別に言及しなくても良さそうなところを、わざわざはっきりしないということを明示するのである。やはりざっと読み返して気づいた部分を、のちに読んだ部分のものも含めて下に引く。

 ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。(……)つい最近にも、どこの市だったかしかとは覚えていないが、さる警察署長から上申書が提出されて(……)
 (6)

 この官吏の姓はバシマチキンといった。この名前そのものから、それが短靴[バシマク]に由来するものであることは明らかであるが、しかしいつ、いかなる時代に、どんなふうにして、その姓が短靴という言葉から出たものか――それは皆目わからない。
 (7)

 いつ、どういう時に、彼が官庁に入ったのか、また何人が彼を任命したのか、その点については誰ひとり記憶している者がなかった。
 (8~9)

 ところで女房のことが出たからには、彼女についても一言しておかずばなるまいが、残念ながら、それはあまりよく知られていないのである。
 (16)

 ペトローヴィッチは(……)円い嗅ぎ煙草入れを取った。それにはどこかの将軍の像がついていたが、いったいどういう将軍なのか、それは皆目わからない。というのは、その顔にあたる部分が指ですり剝げて、おまけに四角な紙きれが貼りつけてあったからである。
 (20)

 ところで、くだんの招待主の役人がいったいどこに住んでいたかは、残念ながら、しかと申しあげることができない。記憶力がひどく鈍り、ペテルブルグにある一切のもの、街という街、家という家が、すっかり頭の中で混乱してしまっているので、その中から何なり筋道を立てて引き出すということがはなはだむずかしいのである。
 (33)

 ところで、その有力な人物の職掌が何で、どんな役目についていたか、そのへんのことは今日までわかっていない。
 (41~42)

 ついに哀れなアカーキイ・アカーキエウィッチは息を引きとった。彼の部屋にも所持品にも封印はされなかった。(……)こうした品が残らず何人の手に渡ったかは知るよしもない。いや、正直なところ、この物語の作者には、そんなことはいっこう興味がないのである。
 (49)

 また、アカーキエウィッチが新調した外套を強奪される場面、そこまでの流れも、ゆっくりと音読していると何となく良い感じがしたので、引いておく。この強盗は結局、捜査もされず、犯人が誰だったのかもわからず、その後の物語のなかでその真相が明かされることはまったくなく、ヒントすらも与えられず、まったく純粋なこれだけの「事件」、言わばアカーキエウィッチを死に追いやるという機能しかほとんど果たしていないように思われる。

 (……)間もなく、彼の目の前には、昼間ですらあまり賑やかではなく、いわんや夜はなおさらさびしい通りが現われた。それが今は、ひとしおひっそり閑と静まり返り、街燈も稀にちらほらついているだけで――どうやら、もう油がつきかかっているらしい。木造の家や垣根がつづくだけで、どこにも人っ子ひとり見かけるではなく街路にはただ雪が光っているだけで、鎧扉[よろいど]をしめて寝しずまった、軒の低い陋屋がしょんぼりと黒ずんで見えていた。やがて彼は、向こう側にある家がやっと見える、まるでものすごい荒野みたいに思われる広場で街通りが中断されている場所へと近づいた。
 どこかとんと見当もつかないほど遠くの方に、まるで世界の涯[はて]にでも立っているように思われる交番の灯りがちらちらしていた。ここまで来るとアカーキイ・アカーキエウィッチの朗らかさも何だかひどく影が薄くなった。彼はその心に何か不吉なことでも予感するもののように、我にもない一種の恐怖を覚えながらその広場へ足を踏み入れた。後ろを振り返ったり、左右を見回したりしたが――あたりはまるで海のようだった。《いや、やはり見ないほうがいい。》 そう考えると彼は目をつぶって歩いて行った。やがて、もうそろそろ広場の端へ来たのではないかと思って目をあげたとたんに、突然、彼の面前、ほとんど鼻のさきに、何者か、髭をはやしたてあいがにゅっと立ちはだかっているのを見た。しかしそれがはたして何者やら、彼にはそれを見分けるだけの余裕もなかった。彼の目の中はぼうっとなって、胸が早鐘のように打ちはじめた。「やい、この外套はこちとらのもんだぞ!」と、その中の一人が彼の襟髪をひっつかみざま、雷のような声でどなった。アカーキイ・アカーキエウィッチは思わず《助けて!》と悲鳴をあげようとしたが、その時はやく、もう一人の男が「声をたててみやがれ!」とばかりに、役人の頭ほどもある大きなこぶしを彼の口もとへ突きつけた。アカーキイ・アカーキエウィッチは外套をはぎとられ、膝頭で尻を蹴られたように感じただけで、雪の上へあお向けに顚倒すると、それきり知覚を失ってしまった。しばらくして意識を取り戻して起ちあがった時には、もう誰もいなかった。彼はその広っぱの寒いこと、外套のなくなっていることを感じて、わめきはじめたが、とうていその声が広場の端までとどくはずはなかった。(……)
 (37~38)

 ついでにそのほか『外套』の感想を述べておくと、外套を奪われたアカーキエウィッチが突然死んでしまう展開は急に思われたのだが、しかもその後、物語の最後に至って、幽霊として街を彷徨うようになるというのも、結構な急展開ではないだろうか。話者はそうしたことに自覚的で、「しかもたまたまそんなことになってこの貧弱な物語が、思いもかけぬ幻想的な結末を告げることになったのである」とか、「この徹頭徹尾真実な物語が、幻想的傾向を取るに至った(……)」などと述べている。この幽霊が、警察官らに取り押さえられようという際にくしゃみをして、警官の取り出した嗅ぎ煙草が目潰しとなって逃げることができるというのも、幽霊がくしゃみをするのだ、という点が何かちょっと面白かった。結局、アカーキエウィッチの幽霊はその後姿を現さなくなるのだが、物語の結びに至っては、突然、「はるかに背が高くて、すばらしく大きな口髭をたて」た別の幽霊が登場し、「そしてどうやらオブーホフ橋の方へ足を向けたようであったが、それなり夜の闇の中へ姿をかき消してしまった」という風に話が終わる。この最後の幽霊が何者なのかはまったくわからず、それまでの物語内容と何の連関もないように思われ、この小説は終幕までこのように、不透明さが付き纏っているようである。
 その後、身支度を済ませて出発した。道中、人の姿を目にすると、やはり自ずと殺害のイメージが湧いてきて、それはまったく気持ちの良いものではなく、自分が不安を感じているのがわかって、あまり人の姿を見られないようになった。不安とともに回る頭では、自分が無意識のうちに人を殺すということを欲しているのではないか、などと考えてしまうのだが、これはやはり加害恐怖の一種で、自分が人を殺してしまうということを(そのようなことになる現実的な根拠はまったくないのだが)恐れるが故に、かえってそうしたイメージが浮かんでしまうのだろう。今まで自分が不安を乗り越えてきた相対化のパターンからすると、例えば嘔吐恐怖だったら、別に電車のなかで吐瀉物を吐こうが、ちょっと迷惑は掛けてしまうがそれで人が死ぬわけでなし、結局大したことではない、というような考えを作ってきたわけだが、しかし今回、殺人に対する恐怖となると、別に人を殺したところで大したことではない、などという風には自分は考えたくはない。そのあたりの道徳観を相対化するのだったら、自分はまだしも、不安を抱えてこの苦しみをそのままに受け止めて生きたほうがましであると考え、自ずとこの妄想が収まるのを待とうというスタンスを取った。わざわざ道徳観を相対化しなくとも、「殺害や暴力のイメージが浮かぶ」という現象そのものを相対化すること、要はそれに慣れて、イメージが浮かんでもこれは単なる妄想であると払い、何とも思わなくなるということは可能なはずであり、それを待つことにしたのだ。
 この日は道中、そんな様子だったので、職場についてからも不安を感じたままで(何しろ、屋内にたくさん人がいるわけで、それらのいちいちに殺害のイメージが付き纏うのではなどと考えると、やはりそう落着いてはいられない)、薬を追加して服用することにした。そのおかげで勤務中は落着き、言葉を発する際の苦しさもなく、ほとんど以前と同じような感覚で働けたようで、他人とやりとりをしているうちに楽しいような気持ちを感じた場面もあった。
 そうしたなか、労働中でありながら手隙の時間にちょっと奥の、見えないところに引っ込んで、道中のことをメモに取った時間があったのだが、自分がそのようにしていることを考えるに、書く欲望が自分の内にあるのかどうかわからなくなったなどと言いつつ、むしろ意欲が増しているのでは、とも思われた。結局のところ、自分はやはりこの日々を書いていくほかないのではないか。自分がこの生において最終的に出来ることは、このくらいしかないのではないか、と言うか、より正確には、自分の人生の物事は、それがどのようなことであれ大方、この書くという領域へと還元されてしまう、そのような主体としてもはや自分は構成されてしまったのではないか。
 帰路は、薬を追加したためだろう、やはり心が落着いていて、最寄り駅から坂を下って行きながら、頭のなかの雑念があまり見えないなと思った。脳内の独り言がまったくないわけではなく、蠢きは感じるが、頭の奥のほうに引いたような具合だったのだ。そうした落着いた心持ちで考えてみると、自分は人を殺したいなどとはまったく思っていないなということが確信された。そのような欲望、衝動は自分のなかにはない。坂を出て、家までの道を歩くあいだ、前方に灯る電灯の光の白々とした本体から、蝶の口吻のようにいくつもの光の筋が、鋭いようでもありまた先をちょっと曲げて柔らかいようでもありながら、顔の傍にまで伸びてくるのを見ていた。
 夕食は、鶏肉とエリンギをバジルソースで和えた料理に、納豆とエノキダケの味噌汁、ほか、ほうれん草やモヤシとオクラの和え物である。テレビは、宮部みゆきの小説を深読みするという番組がやっていて、集まった作家やら批評家やらのなかに、高橋源一郎の顔が見られた。参加者がそれぞれに、これは「~~小説」であるというように、色々な解釈(まさしく解釈)を披露していくのだが、あまり興味は惹かれず、そのように統一的な意味体系の像を構築するよりは、それよりもやはり自分は、ここにこんなことが書いてあるよね、こんなものが、こんな動きがあるよね、ここのフレーズは素晴らしいよね、などという原始的な読み方のほうが楽しいのだろうなと思った(統合よりも断片化を志向する性向であるということだろうか)。
 デザートに先日買ってきたグミを食べ、両親にも分けた。また、苺も父親と分け合っていただき、髪を染めた母親が先に風呂に行ったので、こちらは室に下りてメモを取った。その後、風呂を待つあいだにゴーゴリ『鼻』を読んだのだが、これがまたなかなかに訳の分からない小説で、ある朝突然小官吏の鼻がなくなってしまっているという、カフカを連想させるかもしれない物語の起点はともかくとして、こちらがこの時驚いたのは、その後、このコワリョーフ氏が、自分の鼻が紳士となっていることを発見した時の部分である。下に、前後を含めて当該箇所を引く。

 (……)不意に彼は或る家の入口の傍で棒立ちになって立ちすくんでしまった。じつに奇態な現象がまのあたりに起こったのである。一台の馬車が玄関前にとまって、扉[と]があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョーフの怖れと驚きとはそもいかばかりであったろう! 彼はじっとその場に立っているのも覚束なく感じたが、まるで熱病患者のようにブルブルふるえながらも、自分の鼻が馬車へ戻って来るまで、どうしても待っていようと決心した。二、三分たつと、はたして鼻は出て来た。彼は立襟のついた金の縫い取りをした礼服に鞣皮[なめしかわ]のズボンをはいて、腰には剣を吊っていた。羽毛[はね]のついた帽子から察すれば、彼は五等官の位にあるものと断定することができる。(……)
 (ゴーゴリ/平田肇訳『外套・鼻』岩波文庫、一九六五年改版(一九三八年初版)、69)

 おわかりのように、この紳士が自分の鼻であるということを気がつかせる根拠が、まったくもって、何一つ、ほんの一片の情報すらも明示されていないにもかかわらず、コワリョーフは無条件で、紳士が自分自身の鼻であることを確信するのだ。人間の姿をしたものが実は鼻であるなどと判断する理屈など、そうそう立てられるものでもないだろうから、ゴーゴリとしてはこのようにするしかなかったのかもしれないが、この唐突さ、強引さには驚かされた。
 その後入浴し、それからまた本を読み出したのだが、ベッドに横になっているうちにいつの間にか意識を失っていて、気づけば一時半前になっており、そのまま就寝した。

2018/2/13, Tue.

 やはり深夜に一度目覚める。尿意があるのが、心身が緊張している証拠と感じられる。薬を飲んで寝付き、この日はその後、七時になる前に覚めたが、もう少し眠っておきたかったので、目を閉ざし、八時五分まで寝床に留まった。
 ここ数日とは違って、なかなかに寒い。上階に上がってストーブの前に座ると、炬燵テーブルの表面に落ちる光の白さが眩しい。身体を温めていると、Maroon 5 "Sunday Morning"を自ずと口ずさんでしまったのだが、その時、何か自足感のようなものがあった。
 朝食のおかずは、前日にこちらが作った炒め物に里芋をあとから混ぜたものである。食べていると父親も起きてきて、また、じきに母親は(……)出かけるので、二人で行ってらっしゃいと見送った。デザートには、両親が前日に買ってきてくれたシュークリームをいただいた。
 皿と風呂を洗い、この日はその後、前日に忘れていたアイロン掛けをもこなし、それから自室に帰った。インターネットを覗いたのち、一〇時前から読書に入る。南直哉『日常生活のなかの禅』である。音読をしている最中、概ね落着いた心持ちでいられ、眠気が湧いて瞼が下りてしまうような時間もあった。そんな時は、目を瞑っている一分か二分のあいだにも、夢のような脈絡のないイメージが眼裏に展開されるが、それに不安を覚えることはなかった。空は晴れ晴れと青く、途中までは陽射しが顔に当たっていたが、そのうちに広い雲が湧いていて、太陽はそれに隠されてしまった。
 一一時半まで本を読むと、一旦上階に行って、掃除機を掛けた。台所や玄関のほうまで広く床のごみを吸いこんでおき、それから、母親が帰ってくるまでに(また、父親もこの日は休みで家にいたので)何か一品作っておこうと冷蔵庫を探り、変わり映えしないが、前日の肉の残りを玉ねぎと葱と炒めることにした。それぞれ切り分けてフライパンで炒め、砂糖と麺つゆを少々加えて味付けするとちょうど正午頃、飯を食べる前に運動をすることにして、自室に帰る。
 tofubeatsの音楽を流して身体を動かす。腕立て伏せや腹筋、背筋、スクワットもやると、身体が温まって少々汗が滲んだ。運動を終えると一二時半だったが、この日はここまで、落着いた心持ちで過ごせていた。思念の流れは相変わらずあって、それはもうなくならないものだろうが、呼吸に意識を向けることもそれとの共存を助けてくれているのだろうか、気になることはあまりなかった。
 再度居間に行くと、母親が一旦帰ってきており(午後からは、体操教室に出かけるとのことだった)、こちらが料理を拵えておいたことについて礼を言ってくれた。また、母親自身も、汁物に素麺を入れて煮込んでおいてくれた。食事を用意して卓に就き、テレビを点けて、適当なワイドショーを流しながらものを食べる。デザートに、前日に買ってきたアイスのなかの、バターサンド風のものを食べた。母親は一時を回ったあたりでふたたび外出した。こちらは皿を洗い、この日に干したシャツのアイロン掛けを済ませると、下階に戻った。日記をここまで綴って、一時四〇分である。
 その後、一一日を完成させ、一二日の分も綴ったが、どうも心身が固くなってくるのを感じたので、三時前までで中断した。それから、「【対談】ソーヤー海✕藤田一照①|呼吸につながって到着する。マインドフルネスの体現者であるソーヤー海氏が影響を受けた人物と、彼の人生とは?」(https://masenji.com/contents/95)というページを歯磨きしながら読む。ティク・ナット・ハン関連で検索していた時に見つけたものなのだが、瞬間瞬間に「到着」するという捉え方・言い方はこちらの頭のなかにはなかった。その後、身支度を調えて、背中にカイロを貼って出勤する。道に出て少々行ってから見返ると、家の脇に出ている父親(この日は休みだった)のほうに母親が寄って何とか言葉を掛けているのが、陽射しの向こうに見えて、そうした姿を見た瞬間に、突発的に涙を催した。また無常感にとらわれていたのだ。自分の死よりも、他人の死を考えることのほうが悲しみを覚えるようだ。呼吸に意識を向けて心を落着け、坂を上って行く。まだ陽射しのある時間帯なので、表通りを歩いていくそのあいだ、太陽の感触が背に温かい。辻でよく会う八百屋の傍を通りかかると、烏が、水道管理局だったか、褐色の建物のその上から鳴きを降らしていた。進んで行きながらやはり頭は勝手に巡るが、神経症的にそれが気になるということはなかったようだ。考えていたのは例によって辛気臭いようなことだが、苦しみというものは決してなくなることはないのだと思っていた。それを抱え、うまく付き合いながら、苦しみや不安があるけれどもそれでも生きていくのだ、そして生はそこまで悪いものではないのだと、そんな方向で生きていくことにしたい。勿論不安はないほうが良いが、自分の性向からして、と言うか不安神経症でなくとも、それを完全になくすということは不可能であり、不安があることによってその反面として物事に感謝できるのだとしたら、不安はむしろ必要なものなのだと思った。
 そうして歩いているあいだに、何だかんだで自分はこのようにして歩けている、ふらつきなども感じずに、二本の脚で立ってしっかりと歩けていると身体の調子を自覚した瞬間があり、力強く感じた。その後の労働も自動感が多少あったが、前日のように気になるというほどではなく、問題なくこなすことができた。また、普段はあまりしない雑談などもして、よく笑うこともできたようである。そうした雑談の際にも、物事を説明する際にも、以前の自分よりも言葉がよく出てきて、見通しを立てずに始めた言葉が自ずとうまく繋がっていくというようなところがあり、それを見る限り、頭の回転は確かにはやくなっているのではないか。音読の効果かもしれない。自生思考と自動感、不安性向を除けば、自分はおそらく健康である。頭のなかがちょっと変だというだけの話だ。
 退勤するといつも通り電車に乗り、扉際で到着を待った。最寄り駅の雪は、ほとんどなくなっていた。既に人々も先に去ってしまったあとの階段を一人で上っていると、静寂の感が強く覚えられ、上りきって今度は下りながら、道を車の、こちらに向かってくる白いライトのものと、あちらへ去っていく赤い後部ライトのものとがすれ違って流れていくのを見ると、無常感の芽があった。
 帰宅して夕食は、昼の炒め物の残りや、素麺、ほうれん草、生ワカメなどだった。テレビはオリンピックの様子を映し、父親がそれを眺めていた。母親が、先日こちらが買ってきたアイスを食べると言い出したので、こちらにも分けてくれるよう言い、父親と三人で分かち合って食べた。こちらは同じ時に買ったグミも食べた。父親は休日なので酒を飲んでいたようで、テレビに向かって色々と独り言を洩らしていたが、以前のように鬱陶しさを感じなかった。
 そうして入浴である。この日は全体に、呼吸をよく意識し、折々にそこに立ち戻ることができたようだ。しかし、そうして呼吸にばかり焦点を向けていると、今度は呼吸そのものが神経症の対象になるのでは、という考えがやはり思い浮かんでくる(ほとんどあらゆる事柄に対して懸念を考えてしまうのが、不安神経症というものである)。しかし、そうなったらそうなったでもはや仕方がない。自分の意思でどうにかできることではないのだ。
 風呂を上がると、自室で読書をした。小さな声で音読しているうちに眠くなってきたので、零時半に就床した。

2018/2/12, Mon.

 やはり三時か、そのくらいで一度覚めたはずである。その後、六時になる前、アラームが鳴るよりも早く覚めて、先んじてスイッチを切っておいたのだが、油断してふたたび眠りに入ってしまった。気づけば六時四五分になっており、カーテンに朝陽の色が付されている。
 上階へ行く。朝が早いのでさすがに寒く、ストーブで温まる。母親が汁物を作っておいてくれた。ほか、米を茶漬けにして食べたが、あまり時間がない。皿洗いをする頃には七時半前だったので、自分の分だけ洗って下階に下り、歯磨きや着替えをした。先月分の国民年金を支払うのをすっかり忘れていたので、今月のとまとめて二か月分を懐に入れ、出発する。
 林から、風の音が聞こえていた。竹の幹が僅かに触れ合う音もする。坂を上っていても風が吹いて寒い。表通りの日なたのなかを歩いて行く。空は晴れ晴れとしており、雲はほとんどなくて、僅かに希薄な染みのようにしてあるのみである。
 労働は概ね問題なかったが、しかし、自分の行動や発言がすべて自動的に流れているかのような感じがあって、気に掛かった。それとも関わっているのかもしれないが、喋る時には、やはりどこかに苦しさのようなものがあった。
 二時前に退勤すると、コンビニへ行った。ATMが空いていなかったので、パンの棚を見ながら待ち、その後、金を下ろしてまず年金の支払いをした。そうして籠を持って、昼食を入れていく。メインとしては、鶏肉の入ったグラタンを選び、ほかにパンを二つ、またアイスを四つほど買うことにした。さらにスナック菓子でも買って帰ろうかと考えたのだが、棚を前にすると気が向かなかったので、グミを選んだ。
 帰路、歩きながら、労働中の自動感が気になって、頭が回った。自己の自律感が薄いというか、自分の意志というものがなくなって、自分の身体が勝手に動いているような、とでもいう感覚である。どうもやはりこれは、メタ認知の問題で、主体として「見る」ほうの地位が優勢になりすぎてしまったのではないかという気がする。また、無常感、この世の無根拠性の感覚ともどこか関わっているようにも思えなくもない。すべてがあらかじめ決まっているというのではないが、ある種、運命論にも通じそうな感じに思われた。何か超越的な存在、「神」が自分の信じるものとして導入されれば、おそらくそうなるのだろう。自動的に動くようでも、振舞いとして特に問題は起こっていないので、適応できればむしろ楽なのかもしれないが、神経症的性分のなせる業か、今は気になってしまう。
 天気は、美しいと言って良いだろうものだった。道端の樹々や、民家の脇に小さく生えた植物の葉が、光で彩られていた。帰宅すると服を着替え、食事を取る。グラタンやソーセージを挟んだパンを温めて食べるのだが、食べているあいだも頭が回ってしまい、そのこと自体が不安でストレスである、という感じが少々あった。最終的に、それでは勿体無いというところに至った。思考、思念というものは抽象的であり、そちらにばかり意識が向いていると、目の前の、実体のある具体的な現実世界が疎かになってしまう。ものを食べているのにその味もろくに感じないようではいただけず、自分は生きているこの一瞬を大切にしたいと考えた。そういうわけで、デザートのアイスを味わって食べ、それから風呂を洗って米を研いだ。続いてタオルを畳んだのだが、このように家事をしているあいだも、行動に焦点を合わせるように心掛けた。思考も良いのだが、自分の頭は明らかに思考に偏ってしまっているので、意識的に行動のほうに注意を向けるくらいで、バランスが取れるのではないか。
 室へ帰って、白湯を飲みつつコンピューターを操作し、この日のメモも取った。それから(……)にメールを出した。返信を待つまでのあいだに隣室に入ってギターを弄んだ。目を瞑りながら弾く時間があり、ちょっとしてから携帯電話を確認してみると、気づかないうちに返事が来ていたので慌てて返信し、自室に戻ってSkypeにログインした。こちらからコールを掛け、そこから二時間、六時半くらいまで話した。
 会話を順序立てて再構成することはできないので、取っておいたメモに従って個々の話題に触れるが、まず自分の最近の症状について話す時間があった。自生思考というか脳内の言語が意思を離れて自走しており、妙な妄想を勝手に繰り広げたりするのだった。一番嫌だったこととして、町を歩いている時に可愛らしい犬を見かけたのだが、その直後に、その犬の首を締めて殺すというイメージが自動的に湧き上がってきたということを話した(この時は話さなかったが、両親についても同じようなことがあった)。これは一種の加害恐怖で、そうしてしまうのではないかという(根拠のない)恐れから、かえってそのことを考えてしまうということではないかと思ったのだが、当時は不安で頭がまとまらず、自分が本当に殺したいと思っているのでは、無意識のなかにそうした欲望を抱えているのではなどと考えてしまい、怖くなったものだった。また、ここ最近折に触れて、というか頻繁に抱いている無常感や、行動の自動感についても話した。自動感については上に書いたのでここには繰り返さないが、要は自己が客体化されすぎて外界の事物とほとんど同じ位相に置かれてしまったということではないのか(外界の事物とは、まさしく「勝手に動いていく」ものである)。神経症性向によって、今はそれが違和感として、不安として現れて気に掛かってしまうことがあるようだが、それに適応したものが要は「悟り」なのではないかということも話した。そうした自動感に適応できれば、まさしく流れていく世界のなかの一片としての自分として、随分と楽に生きていけるのではないか。最近の自分は、自生思考の件もあって、自分の頭のなかに考えが生じること自体が怖い、何かを感じてしまうことそのものが怖い、というようなところがあったもので、神経症もここまで来ると相当なものと言うか、ほとんど極地ではないかと思うが、しかし現在、薬の助けもあって、それにもどうやら改めて慣れつつある。今までに症状として発現してきた心臓神経症とか嘔吐恐怖とかも、概ね克服して来ているわけで、すべての不安の対象を一度不安として認識し、その後それに耐えて相対化し、要は「慣れて」行けば、ついには何も怖くないという境地、まさしく苦しみからの解放がやって来るのではないかという見通しも、(……)と共有した。しかし自分は別に、そのような悟りじみた境涯に至りたいとは思わない、もう苦しみや不安は、あまり過度にならなければあって良いと今は考えている。
 そうした話のなかで、宗教の起源について話が及んだ時があった。森達也が言っていたらしいのだが、なぜ宗教があるのかというと、やはり人間は自分が死ぬということを理解しているからではないか、という、これはやはり納得の行く考えである。仏教はその厳然たる事実を受け入れる方向を志向し、キリスト教は永遠の生とか救済とかいう「フィクション」(自分にはやはり、それは一つのフィクションだとしか思えないが、しかしこのフィクションを実際に必要とする人々が、この世にはいるだろう)でそこからの救いを志向する、と、方向性は違うがどちらもやはり「死」に対してどのように対応するのかという話なのだ。
 また、不安症のただなかにある時は、文字すらが、単なる意味すらが怖くなるということも共感し合った。(……)が一時期不安障害的な症状に陥った時には、死への恐怖が酷かったので、「死」という文字をまともに読めなかったと言う。こちらは嘔吐恐怖があったから、「吐く」が怖い時期があったとそれに応じた。「嘔吐」そのものの意味で使ってなくて、例えば「言葉を吐く」などと書いてあっても、自動的に連想が働いてしまい、怖くなるのだ。
 そうした精神衛生に悪い話ばかりをしていたのだが、その後この先のことも話し、こちらは、今年度までで職を変えて、知り合いの古本屋に雇ってもらえるよう頼んでみようと思っていたところが年末年始の例の変調で、今ちょっと環境を変えるのが怖くなって様子見していると言った。そうすると(……)は、こちらに古本屋は似合いである、こちらがカウンターの裏で寡黙に店番をしている姿、そのヴィジョンが完全に見えたと言って、転職するよう大いに勧めてくれて、そのように言われているうちに、こちらとしてもやはりそういう気が湧いてくるのを感じた。少なくとも、人間関係、「他者」との関わりから言っても、今の職場よりは確実に未来があると思うので、もう少し暖かくなってきたらやはり頼んでみようと思う。
 ブログにアフィリエイトを導入する可能性についても話した。以前は、何事にも繋がらない純粋な書く欲望のようなものを体現したいと思っていたのだが、変調を受けて、現実のこの先の生活の可能性を考えざるを得なくなったいま、なりふり構ってはいられない。今は両親の支えを享受させてもらっているけれど、当然のことながら親だっていつまでもあるわけでなく、こちらのこの先について、彼らを不安にさせるようなことはなるべく避けたい。しかし当の自分はこんな頭であって、自分がいつか狂うのではという考えが(今のところ、それに不安はもうあまり覚えなくなったものの)脳から去って行かないし、狂う云々は措いておいても、自分が不安神経症として結構厄介な脳を持っていることは確かであって、今更社会の本流に戻ってサラリーマンをするというのも難しいだろう。このまま行くしかないのだが、そうすると自分にできること、自分がここ数年で唯一磨いてきた能力というのは、やはりこうして文章を書くこと、それしかないのであって、文章と言ってもそれも自分の生活あるいは生を綴る類のそれでしかないのだが、この文章を載せているブログを、どれだけの人が読んでくれているのかはわからないが、やはり何かしら、生活や収入に繋げる方策を探って行くべきではないのか(生活を書くことで生活を立てて行くと言うと、まるで私小説作家のようだ)。そうすると自分が思いつくのはアマゾン・アフィリエイトであって、一応本は読むので、読んだ本を紹介するというような形で、幾許かの金銭を得られないか。勿論大した金額にはならないだろうが、一応この先も日記とブログは書き続けて行くと思うので、塵も積もれば、という感じで考えて、とりあえず導入するだけしてみてはと思うのだが、どうだろうか?
 そうした諸々を話し、六時半頃になると、(……)が夕食に呼ばれたと言うので、ありがとうございましたと礼を言って通話を終えた。上階に行くと居間は真っ暗だったので、明かりを点けてカーテンを閉めた。そうして、食事の支度である。自生思考がありながらもそれを気にせず、うまく受け流し、共存して行くには、やはり呼吸に意識を向けるのが大事だろうというわけで、ものを切りながら、そのように心掛けた。作ったのは、豚肉と玉ねぎの炒め物である。両親が帰ってくると(この日、両親は、父親の会社の同僚に誘われたとかで、「利き茶」の会に出かけていた)安堵し、彼らが居間に入ってきたあと、台所から目を上げて二人の姿を見て、そこにいてくれるということをありがたく思った。その後、レタスを千切り、人参を千切りにして、茹でるのは母親に任せて下階へ戻った。
 そうして、音楽を掛けながら運動を行った。最中はとにかく、呼吸を意識するようにした。これを自分の存在の中核として据え、思考とのバランスを保って行きたい。ティク・ナット・ハンも、呼吸を核とした存在性みたいな点についてはおそらくヒントをくれると思うので、その著作を今度買ってみるつもりである。身体を動かすというのはやはり良いようで、身体性を感じることができ、思考もあまり湧いてこないようだった。
 その後、歌を歌った。Suchmos, "STAY TUNE"を流しながら、気分が上がっていたので動き回りすぎて、頭が痛くなった。そうして、書抜きである。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』から文を写しながら、折々に先の電話での会話の内容が思い出されて、その都度メモをしつつ、このように自分の頭は随分と忙しい、多動的なものになってしまったのだなと思った。
 九時になると夕食に上がった。テレビには、ピンク・レディーの二人が映っており、もう六〇歳なのだが、三九年ぶりにレコード大賞の舞台に立ってパフォーマンスを行ったとのことだった。銀色のラメのついたきらびやかな衣装で、年の割にまったく見苦しくなく、身体も非常にキレを持ってよく動き、真剣に、熱を籠めたパフォーマンスを披露しているということが如実に感じられた。
 食後は母親の分も合わせて皿を洗い、入浴した。風呂に入っているあいだも、行動の自動感が気になったのだが、しかし、この時は不安は覚えなかった。出てからヨーグルトを食って自室に帰ると一〇時半、そこから一時間強読書して、一一時四五分に就床した。

2018/2/11, Sun.

 一度覚めた時、確か四時台で、前よりも覚めるまでの時間が長くなっていることに安堵する心があった。と言って心身にはやはり緊張感があったと思うのだが、しばらくしてから身体を起こし、机上の袋からベッドの上に薬のパッケージを取り出し、目覚まし時計のライトで間違えないように確認しながら二粒を服用した。その後、もう一度覚めたと思うが、それがいつだったのかは覚えていない。最終的には八時四五分頃覚醒して、あまり寝床でだらだらとせずに、比較的すぐに起床できたと思う。
 上階へ行き、洗面所で顔を洗ったり髪を梳かしたりする(そろそろ散髪に行きたい)。食事はモヤシの炒め物とともに米を食った。また、前日に作った葱と豆腐の味噌汁も残っていた。母親は、九時頃になると(……)の仕事に出かけて行った。
 皿と風呂を洗って自室に帰ると、一〇時から読書である。石井遊佳『百年泥』の続きを読み、一時間ほどで読了した。現在時の物語的展開としては、百年に一度の大洪水で川が氾濫したその三日後、家を出て、職場(インドのIT企業で新入社員に日本語を教える仕事)に向かって川の上に掛かった橋を渡って行く、という程度の短い時間幅しかないのだが、その合間に過去語りであったり、職場でのあれこれであったりが挟まれて紙幅が長くなっている、という構成になっている。橋の上には川の氾濫によって集積された泥(これが「百年泥」である)が溜まっており、そこから過去の姿のままに留まっている人間や、話者の過去に結びついている何らかの物品など、人々の「記憶」を喚起させる物々が掘り出されて、それに応じて何らかの挿話が語られるというような趣向である。人々の「記憶」がそのまま具象化して発見されるように、彼らの過去の友人や恋人などが、当時の姿のままで発掘されるというのが、不思議な点となっているのだが、そのほか、「翼」を背に付けて「飛翔出勤」するエリート層がいたり、話者のなかに他人の記憶が、「声帯のふるえ」によらない「メッセージの中身だけ」の声によって伝わってきたりというのが、帯に「魔術的」という文言が見られる理由になっているのだろう。終盤で発掘された一人の男が、話者の「五巡目の男」であるようでもあり、そのほかにも何人もの人が集まって、彼は自分の親友であるとか甥だとかいとこだとか言い合っているなかで、「こうなにもかも泥まみれでは、どれが私の記憶、どれが誰の記憶かなど知りようがないではないか?」という言葉が見られるのだが、これを「記憶」が個々人の垣根を越えているという風に取るとすれば、話者のなかに他人の記憶(一つは、話者の中学三年生の時の同級生である「新藤さん」のものであり、この女子はほとんどまったく口を利かない、という存在なのだが、その同じ性質を共有した話者の母親と重ね合わされている。もう一つの記憶は、デーヴァラージという、話者の教えるクラスの生徒の一人の幼少時のもので、現在時ではこの彼が、話者の目の前で泥のなかから物品を掘り出していく)が伝わってくるのも、まあ不思議ではないということになるのかもしれない(正確な読みではないが)。このように内容をまとめてみながら、芥川賞受賞作品ではあるけれど、自分としてはそんなに印象深く感じる部分もなく、さらさらと読んでしまって、書抜きをしたいと思う箇所もなかったのだが、「土」「地面」「踏む」「足あと」といったテーマが散見されることがちょっと気になりはしたので、以下にまとめておく。

 朝のカーテンの向こうに私は、ついに地面を見た。(……)地面を踏みたかった。三日ぶりに目にする地面、泥まみれだろうがなんだろうが片足ずつ、右踏んで、左踏んで、じん、と感触をあじわう。ああ地面、そのまま会社へむかう。(……)
 (9)

 (……)歩くにつれここは東京郊外かと目を疑うような鬱蒼たる森に入りこんでゆき、いろんな色かたちのきのこやシダ、さまざまな苔類をさんざん踏んで乗り越えやっとの思いでいりくんだ木立ちをぬけたとたん、いちめんの花畑がひらけた。
 (35~36)

 ふたたびあの森を通りかかり、(……)薄暗い中をまた苔をふんで歩いた。
 (38)

 結婚して半年もたたない頃と記憶するが、ちょうど雨上がりの美しい午前中、駅前の西友と隣のパチンコ屋との間にしっとりととても具合のいい土があるのを通りがかりに目にし、しんぼうたまらずそこに入りこみ足あとをつけて遊んでいると、(……)
 (39)

 春によく堤防でいっしょによもぎを摘んだことをおぼえている。ふたりで川を見ながら歩いた。(……)歩くにつれ、しっとりとした堤防の土に足あとがつく。母はしばしばじぶんの足あとを見るためふりかえり、そのときかすかに子供っぽい顔になった。自分が土をふむ、それを土がすなおにうけ足あとでへんじするそのことをたのしんでるふうにみえた。
 (74)

 (……)みわたすかぎりの浜辺、だまりこくって級友たちのうしろをゆく私とその子の前にあらわれる砂地はいたるところ級友たちの足あとだらけ、自分たちの足あとをつけることはむずかしかった。それでも波がしなやかな掌をのばし前方の足あとをうちけしてくれるのを待ち、潮騒のとどろきに抱きしめられてそのあとを踏めばほんのわずか、こころがあかるむのを感じた。
 (81)

 ときどきいっしょに海辺をさんぽした。はだしで砂浜に足あとをつけて遊んだ。かかとだけで歩いたり、足を真横にして、左右交互に方向を変えて進んでみたり、砂の掌がわたしたちにくれるへんじがうれしく、夢中になってふたりでいろんなもようを描いた。
 (82; ここは「新藤さん」の記憶)

 (……)靴屋で新しい運動靴を履いて、心の踊りはねるそのままおばあさんと手をつないで砂浜へ行き、うれしく砂をふむと、新しい靴は足あともくっきり新しい。世界はただ受け、おしみなくへんじする。新しい足あとをふりかえり、ふりかえり歩いた。(……)
 (84; 同上)

 それからちょっとインターネットを覗いたあと、さらに読書を続けることにした。次に選んだのは、南直哉『日常生活のなかの禅』である。この日の天気は曇りがちで、そう暗くはないが陽射しの感触もあまりなかった。一時直前まで読んでから、食事を取りに上階に行く。
 フライパンに余っていたモヤシ炒めは帰ってくる母親に残しておこうというわけで、こちらは納豆を用意し、そのほか、母親が作っておいてくれた人参のサラダや、味噌汁や、ゆで卵を卓に運ぶ。テレビを点け、『新婚さんいらっしゃい』を眺めながらものを食っていると、そのうちに母親が帰ってきた。彼女も食事を取り、食後、そのまま『パネルクイズ アタック25』を見て、皿を洗ってから、二時に至っても炬燵に入って居間に留まり、テレビを眺めてしまう。番組は、マイナーだが味は美味い魚を紹介するという趣向のバラエティで、炬燵の温かな心地良さに浸りながら、穏やかな気分になった。
 母親は翌日、出かける用事があったのだが、それに持っていく土産を買うとのことで、(……)に行くつもりらしかった。こちらも、いくらか歩いたほうが良いだろうということで、車で運んでもらい、帰り道を歩いてくることにしようと、外出についていくことにした。三時を過ぎて身支度を調えると、そうして出かけ、車に乗って店まで行く。すぐに歩きはじめるのでなく、こちらも何となく、母親と一緒に店内に入り、ショーケースのなかの品を眺めた。じきに母親が買うものを決めて会計を済ませると、外に出て別れる。道にはちょうど、ハイキング帰りのようでリュックサックを背負い、山登りをする人がよく持っている杖のようなものを携えた集団がぞろぞろと流れていた。彼らのなかに立ちまじり、歩くのが遅いのでどんどん抜かされながらゆっくりと行く。川の上に掛かった橋に入ると、高所恐怖で少々緊張したが、川のほうを眺めても思ったよりも恐怖感はなかった。渡り終えて街道を行くと、薬剤の効果もあるのか気分は心地良く、ゆったりと歩を進めて行く。道路を次々と走って行く車や、コンビニの駐車場で細かく揺れている旗を眺めて、揺蕩いの感覚を覚え、すべてはこのようにして流れ去って行くのだな、失われて行くのだなという無常の感じをまたもや覚えた。
 道をしばらく進み、神社の前まで来ると、樹々に薄陽が掛かっており、歩くうちに左斜め後ろの空に、太陽も顔を出した。このあたりでは歩きながら、ブログでアマゾンアフィリエイトをやったほうが良いのでは、ということをまた考えていた。そうした場合、アクセス数がやはり鍵となるわけで、また他者との関係を広げて行く、何になるかはわからないが自分の文章を何かしらに繋げて行くという観点からしても、Twitterをふたたび始めて(一応アカウントは残してある)、そこにブログの記事を投稿していくというようなこともやったほうが良いのでは、とも思うが、このあたり、迷うところである。
 帰宅すると書き物を行ったが、そうするとあっという間に五時半になった。上階へ行くと、帰ってきていた母親が既に飯の支度を済ませてしまっていたので、アイロン掛けをした。ストーブの石油を入れてほしいと言うので、それも行おうとしたが、『笑点』を見てからにしたらと言われたので、そうするかと居間に留まったが、この番組を見ているあいだは、ちょっと笑いを漏らしてはいながらも、何となく心中に虚しさのような感じがあった。それから石油を補充しに勝手口のほうへ出る。あたりは既に暮れて、薄闇が降りている。遠くの市街のマンションの、長方形の側面に点々と、上下左右に整然と並んだ灯りの点の集合が、ゆらゆらと震えて見えた。
 戻ると、自室で運動をした。その最中に、(……)から電話が掛かってきた。メールを貰っていたのに、あまり見なくて返事をしていなかったので、と言う。三月くらいになって温かくなったら、また吉祥寺の井の頭公園でボートにでも乗ろうと言うので、賛成した(昔、男二人で一緒にスワンボートに乗ったことがあるのだ)。運動をして、筋肉を刺激しているあいだに、虚しさは消散したようだったので、所詮はその程度のものなのだと思い、その後、何曲か歌を歌った。気持ちが持ち上がっていたので、そのままの勢いで、実に久しぶりのことだが、ヘッドフォンをつけて音楽を聞いた。まず類家心平『UNDA』から、冒頭の二曲を聞いたのだが、これがなかなか格好良いもので、有機的かつ弾力的にテンポを変えながらややフリー風の演奏を繰り広げる二曲目などは、ニューヨークでも充分通用するのではなどと思ったのだが、しかしやはりあちらにはこのくらいのミュージシャンたちは掃いて捨てるほどにいるのだろうか? それから、やはり相当に久しぶりに、Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"を聞いた。聞いていて、思わずフレーズに合わせて歌ってしまい(ベースソロはうまく歌えないが)、楽しんでいる自分がいるので、安心した。そうして最後に、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"を流し、やはり歌ってしまった。
 そうして、七時半になって夕食へ向かった。メニューは、エリンギなどを混ぜたマグロのソテー、白菜を足した味噌汁、モヤシ、蕪か何かのサラダで、どれも美味く感じられるのがありがたかった。じきに父親が風呂から出てきて、その後こちらも入浴し、その最中は、書くことについて頭が回った。書くことに対する欲望がもはやあるのかどうなのかわからないが、しかし何だかんだで毎日書いている自分はおり、生活している最中にも、過去の記憶を思い出して、メモを取らなければなどと考えたりしている。もはや強迫観念なのかもしれないが、頭のなかで常に何かを書き、考える、そのような主体に自分はなってしまったらしい。今まで自分は自分の欲望だけを根拠にして毎日の日記を書いていると思っていた、そのような、何の役にも立たないし、何にも繋がらないが、しかしただやるのだという欲望がこの世にあるということを示したいとも思っていた、しかし、その欲望が相対化されてしまったようである今になっても、何故か書き続けている自分がいるのだ。これは本当に、欲望すらも根拠ではなくなって、完全に無根拠の地点に至ったのではないかという気もするが、しかしやはりなかなかそうは行くまい、人間何だかんだで何かしらの根拠は必要である。今までは「自分の欲望」が根拠だったのが、それに入れ替わって、「他者の存在」が根拠として挙がってきているような気がする。
 風呂を上がると九時、メモを取った。翌日は朝からの労働だったので、六時には起きたいものだから早めに眠る必要があった。八時間と考えれば一〇時には就床するべきだったが、南直哉『日常生活のなかの禅』を読んでいるうちに、一一時に至り、そこで床に就いた。

2018/2/10, Sat.

 三時前に一度覚めた。この時、何らかの夢を見ていたのだが、そのなかで急に緊張が高まってそのまま覚醒するという形だった。薬を服用して寝付き、六時頃にももう一度覚めた記憶があるが、その後、最終的に八時二五分まで眠った。うまく入眠できず、眠っているのかいないのか、本当のところもわからないような眠りだった前日と比べて、この朝は一応眠ることができたようである。あまり寝床に留まることもなく、一〇分ほど経つと身体を起こした。と言うのは、この日は母親が九時頃に陶芸教室に出かけるという話だったのだが、その前に顔を合わせておきたいという気持ちがあったからである。
 それで上階に行って、挨拶をする。無造作に伸びてきた髪に寝癖がついているのを笑われた。洗面所に行き、顔を洗って櫛付きのドライヤーで髪を梳かす。食事は、炒飯である。母親はじきに出かけて行った。ものを食べると皿を洗い、そのまま風呂も洗ってから下階に下りた。
 インターネットを覗いたあと、一〇時ちょうどから読書を始めた。石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』である。ベッドの上で、窓から射し入ってくる光線を浴びながら、音読をしていく。晴れの日ではあるが、空には希薄な雲があり、陽射しは前日や前々日と比べると控えめで、太陽が雲の裏に隠れて陰る時間もあった。読んでいると、母親が帰ってきた音がした。母親はこの日、午後には前日面接を受けた職場(「(……)」という会社で、発達障害などのある子どもらと一緒に遊び、支援をするらしい)を見学(と言うか、実質初仕事ということなのだろうが)に行くとのことで、午前中の陶芸教室からそのまま向かうとのことだったが、思いのほかに早く終わったので、一旦帰ってきたのだった。一一時半まで本を読んだところで、中断して上階に行く。
 母親は、食事を取ったところだった。カップ蕎麦を利用した温蕎麦の残りが鍋にあったので、こちらもそれをいただくことにした。ほか、ゆで卵である。食後、母親が先日買ってきた苺風味のチョコレート菓子をいただき、また、オレンジ味のゼリー飲料も続けて貰い、どちらも美味く感じられ、ありがたいという気持ちが湧いたので、これはあとで記録しておくことにした(実は先日来、「感謝および良かったこと」として、その日に感謝したことを日記の別欄に記録しているのだ。このようにして、ささやかなことでもありがたいと感じることのできる感受性を失うことなく、それをより拡張させていきたいと考えているのだが、これもまた不安に対抗するための一手段として考えてもいる。自分の不安神経症は、最終的には不安そのものに対する不安、つまり再帰的な不安として定位されていると思われるのだが、それに対して、感謝・良かった・ありがたいというポジティヴな気持ち、再帰的な感謝を増幅させることによって対抗したいという考えである(感謝が再帰的なものであるのは、どのような感謝の情であれ最終的には、「自分が何かに感謝できるということそのものが最も感謝するべきことである」という地点に帰着すると思うからである)。
 昼食後、皿洗いを済ませて、南の窓辺に寄って陽の温もりをちょっと感じたあと、自室に帰った。そうして、久しぶりに過去の日記を読み返すことにしたのだが、二〇一六年一二月台の終盤までしか読めておらず、本当はその日の一年前の記事を読み返したいところが、もうとても追いつけないほどに距離が離れてしまったので、途中のものを読むのは諦めて、二月一〇日のものを読んだ。そうしてからふたたび、『記号の国』を読み出す。もう太陽が西寄りになって、通常の枕の位置には光が届かないようになっていたので、ベッドの端、南窓の際に寄って、ガラスの隅に浮かんでいる太陽の陽射し(高度も上がったので、もうあまり定かな感触もない)を辛うじて浴びる。時折り、窓外で立つ鳥(多分、鵯ではないか)の声に耳を取られながら、一時間四〇分を読んで、一気に読了してしまった。二日間で読んでしまったわけで、自分としては相当に速い。なかではやはり、「俳句」(意味の中断/免除、「悟り」)について述べられた部分などに主に興味が惹かれ、書抜き箇所として手帳にメモをするわけだが、自生思考があるということそのものに苦しめられている最近のこちらとしては、まさしくそうした、無秩序に増幅していく意味の停止/言語・思考の不在のような状態が実現されればなあという心だった。文中に引かれていた臨済義玄の言葉、「歩くときには、歩くことだけをせよ。座したときは、座すことだけをせよ。けっしてためらうな!」(「行かんと要せば即ち行け、座せんと要せば即ち座せ。一念心に仏果を希求する無し」)にも同じ憧れを抱いた。
 二時を迎えたので、洗濯物を取りこみに行った。タオルを畳み、シャツにアイロンを掛けていると、その最中にインターフォンが鳴る。出れば(……)(行商の八百屋さんだが、出勤時に辻で会うほうとは別の人である)で、母親は不在なわけだが、どうせ来てもらったのだから何か買ってあげようというわけで、ちょっと待ってくださいと告げて、財布を取りに室に下り、戻って玄関を抜けた。どうも、と挨拶をして、今日は良い天気ですね、雪が降って以来随分と寒かったですね、などと話しながら、トラックに積載された品物を見回って行く。それで、ヨーグルトと、葱と、人参(一袋)を買うことにした。五五〇円をぴったりと払って、礼を言って玄関の戸を入り際、目に入った林のほうの宙が、薄陽によって本当に煙ったようになっており、また、樹々の至る所に光の斑点が付されているのにも目を奪われて、少々眺めた。このような、以前のような感受性の働き方は、不安に苛まれてばかりいた最近のこちらにはほとんどなかったものであり、それがここでふたたび生まれたのはありがたいことである。八百屋のトラックが去っていったあとには、木の葉を撫でる風の響きが残った。
 そうしてアイロン掛けに戻り、また下着を畳んだりもするのだが、そのあいだ、目の前のことに集中できているような感じがした。と言うか正確には、何らかの行動を実行しながらその裏で、無秩序に思考が蠢いているのを感じてもいるのだが、それが明確な言語となって聞こえては来ず、だいぶ後景に引いたような感じで、思考があってもあまり気にならない、という感じだった(完全に言語化されないままの思考が高速で流れていくのだが、それは次々と流れ、移り変わって、こちらを「通過して」いくものなので、不安を感じる暇もない、というような? また、意識の志向性が思考にばかり定位されず、殊更に努力せずとも、目の前の外界の物事のほうにもたびたび焦点が合ったようだ)。これは一か月強薬を飲み続けて、その効力が定着してきたということなのか、それとも音読の効果なのか、あるいはその相乗効果なのかわからないが、やはり何となく、音読は精神安定に良いのではないかという気がするので、これからも続けてみるつもりである。
 下階に戻ると三時前で、日記を書くことにしたのだが、Evernoteを見ると、ネットワーク接続の不具合で同期が出来ていないという表示が出ていたので、階段下の室にあるスイッチをかちかちとやりに行った。その帰り、突如として気まぐれに、ギターを弄る気持ちが湧いたので、それに従って隣室に入り、少々弾いたのだが、ここでもやはり、ギターを弾きながら余計な思考が湧くという感じがほとんどなかった。そうして自室に戻り、前日の記事よりも先に、この日のことをここまで書いて、四時直前となっている。
 それから前日、九日の記事を仕上げて投稿すると、四時四〇分である。書き物をしているあいだも、不安はなかった。そうして、上階に行って夕食の支度を始める。まず、米である。新たに四合を用意して研ぎ、もうだいぶ腹が減っていたので、すぐに炊きはじめてしまった。それから、鶏肉を茹でて色の白くなったものが冷蔵庫にあったのでそれを取り出し、ジャガイモとともに炒めることにした。芋を三つ、皮を剝き、薄めにスライスして、そのあと鶏肉も細かく切り分ける。ジャガイモは本当は、多少茹でてから炒めたほうが柔らかくほくほくとなって美味いのだろうが、面倒臭かったので、オリーブオイルをフライパンに引き、そのまま炒めはじめた。この時、久しぶりに音楽を歌いながらやるかという気になって、台所のラジカセで小沢健二『刹那』を流した。そうして、歌を口ずさみながらジャガイモを炒めて行くのだが、途中、結構焼き目もついたあたりで一欠片食べてみても、少々固さの残っており、やはり茹でたほうが良かったなと思われ、遅ればせながら水を使うかということで、ちょっと水を投入して蓋を閉じ、蒸らしてみることにした。待つあいだも歌を歌い続け、そうして鶏肉も加えて念入りに炒めてから、塩コショウをほんの少し振って完成とした。それから、汁物を作る。これは先ほど買った葱を使えば良かろうと決め、さらにちょうど絹の豆腐があったのでそれも入れることにした。湯が沸くのを待ちながら葱を斜めに切り(切り終えてしまったあとは、居間の窓のカーテンを閉めた)、湯に粉の出汁と味の素を振ったあと、鍋のなかに投入する。煮えるのを待って豆腐も切り分けて入れ、血圧を心配している母親に薄味でと言われているので、こちらも味噌を少なめに溶かして仕上げた。
 そうすると、時刻は五時半を回ったころだった。"流星ビバップ"を歌いながら洗い物を済ませ、下階に戻ると、そのままの流れで久しぶりに、歌を歌いはじめた。このように、歌を歌おう、声を出そうという気分が自然と生まれたこと自体が、こちらの回復を示しているように思われる。最初は、ちょっと歌ってから、母親が帰ってくるまでのあいだに(母親の帰宅後に、一緒に食事を取ろうという気持ちだったのだ。以前はこんな心になったことはほとんどまったくなかったはずで、自分でも驚くべき変化なのだが、この点について多少の分析/解釈を加えておくと、例えばこちらが無意識のうちに抑圧していた「マザコン」傾向を認めるに至った、ということが言えるかもしれない。と言って別に自分は、以前のこちらも、今のこちらも、特段過剰に「マザコン」だとは自認していないが、もっとも、例のエディプス・コンプレックス的な図式に従うならば、素直にそれを認めるにせよ、反発するにせよ、すべての男子は最終的にはマザコンなのだということになるのかもしれないが、これは退屈な考え方ではあると思う。それはともかく、こちらがどちらかと言えば支持したいもう一つの解釈はと言えば、それはやはりこちらの内における「他者」像、「他者」に対する態度の転換で、思うに、自分にとって母親とはより広い「他者」を象徴する存在、最も身近で根源的な「他者」だったのではないか。同じ家族という小共同体のうちにありながら、明確に自分とは違う性質を持った存在、苛立たざるを得ない存在、端的に言って「話の通じない」存在として、こちらにとっての母親はあったと思うのだが、「他者」への姿勢が変化したことにより、そうした母親の存在を受け止め、受け入れ、彼女と概ね協和することができるようになったのではないだろうか。これは、ブログの読者の皆さんには、二八歳にもなって今更と思われるかもしれないし、あるいは逆に、二八歳にもなってマザコン的であると思われるかもしれないが、自分としては良い変化だと思うし、この思いやりのような心が、薬剤の効果によって精神が落着いているための一過性のものでないことを自分は願う)、いくらか書抜きをしようと思っていたのだが、勢いが止まらず、一時間ほど歌い続けてしまった。歌った曲を列挙しておくと、Suchmos "STAY TUNE"を皮切りに、Mr. Chilren "ファスナー", "NOT FOUND"、くるり "グッドモーニング", "ロックンロール", "How To Go "、小沢健二 "大人になれば", "ローラースケート・パーク"、James Morrison "Save Yourself"、Maroon 5 "She Will Be Loved", "Sunday Morning", "If I Never See Your Face Again"である。一人カラオケの前半部で、(……)のことを思い出す瞬間があり、この人は二〇一二年から二〇一三年のあたり、ちょうど文を書きはじめたのと同じ頃までこちらが恋慕していた高校の同級生の女性で、彼女のことと言うよりは正確には、彼女が、家族は大事にしなければいけないよという風に言っていたのを思い出し、それとともに一家の生活を支えてくれている父親のことなども思い合わせて、ああ、彼女が言っていたことは本当だった、自分は今までそうしたことを顧みず、良く感じ取ることなく、何と傲慢だったのだろうと反省し、歌を歌いながら感情が高ぶって涙を催す瞬間が何度かあった(彼女にまた会って、こうしたことを話してみたいとも思った)。このような感謝の情が湧くのは良いことだと思うが、しかし最近の自分は明らかに涙を催しすぎており、精神の安定の観点からするとややまずいと言うか、もう少し落着いて、動きの少ない頭と心になりたいという気はする。ともあれこの時、「他者に対して優しい人間になりたい」という気持ちが明確に自分のなかにあることを自認し、そうした気持ちがあることそのものに感謝したのだが、何とありきたりな、紋切り型の、「綺麗な」物語だろうか? 人によっては拒否感を催してしまうような言い草かもしれない(以前の自分もどちらかと言えば、そうした方面の人間だったと思うが、このように変化するほど、不安にこっぴどくやられたということなのだろう)。しかし、自分はこの紋切り型を堂々と生きたいと、少なくとも今のところはそう思っており、その願いがこの先消えないでほしいとも思っている。それは本心だろうか? わからない、ここ最近の自生思考の暴走のうちでは、自分のなかから「本心」というものが解体されてしまったように思えた時もあったし、そもそも人間に「本心」などというものがあるのかどうかすらわからず、疑う心もあるのだが、しかし自分は自分の意志で、こうした気持ちが自分の「本心」であると、今この瞬間は「信じて」おきたいと思う(「私の自由意志が最初に行う選択は、自由意志の存在を信ずるということだ」とウィリアム・ジェイムズは言った)。ところで、このように生活を舞台にして自分の「内面的な」事柄、「思い」ばかりを綴っていると、いかにも近代文学的な私小説のようなものをやっているのではないかという気がしてくるのだが、読者の皆さんの目にはどう映るのだろう? 自分はもはやこれを「小説」として書いているつもりはないし、「小説」にしようという心もないのだが、かと言って「日記」を綴っている、というような感じも(ほかに適した言い方がないので、便宜上そのように書くわけだが)薄くなってきたような気もする。
 随分と脱線してしまったが、話を戻すと、歌を歌い終えたあとは、書抜きを一箇所でもしようということで、ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』から一部分(それが長かったが)を写した。空腹の状態を持続させてしまい、かつ歌を歌い散らして交感神経を活性化させてしまったのか、頭や身体が緊張しているような感じがあったので、書抜きの途中にこの日二度目の服薬をした。そうして、七時半頃になって上階に行く。
 初仕事を終えた母親の話を聞きながら食事を用意し、卓に就いて食べはじめた。母親が帰りに小さな惣菜の酢豚を買ってきてくれていたのだが、これが、玉ねぎや人参にまで味がよく染みていて、美味いものだった。八時に至って新聞を見ると、出川哲朗が充電バイクで旅をする番組がやっているとあったので(その前に、新聞の一面に、石牟礼道子の訃報(九〇歳だと言う)が出ているのを見て、ああ、と嘆息するような風になった。と言って、彼女の作品は何一つ読んだことがないのだが、『苦海浄土』はやはり読むべきではないかと思うし、水俣病闘争についてもできれば学びたいという心はある)、それを見ようと母親に言って番組を回してもらった。ロンドンブーツの田村亮と一緒に四国を旅しており、途中、和菓子屋に止まって、わらび餅をいただいたり、充電させてもらう代わりに客引きをやったりしているのだが、そうした様子を見ながら、こういう何でもない他人との交流というのはやはり良いものだなという印象を持った。父親が早く帰ってくるというので母親は風呂に行き、こちらは皿洗いを済ませると自室に帰って、ここまで日記を記した。現在は九時二〇分である。前日とはうってかわって、日記を書きながら不安がなく、精神がまとまりを得ている感じがするのだが、このように久しぶりに長々と自分語りを展開できたということ自体が、やはりこちらの回復を物語っているのではないだろうか?
 その後、入浴するために上階へ行った。帰ってきていた父親におかえりと挨拶する。父親は、寝間着の上にダウンジャケットを羽織り、いつも通り炬燵テーブルで食事を取りながら、オリンピックのスピードスケートを見ていた。こちらも下半身を伸ばしながらちょっとそれを眺めたあと、ベランダに干しっぱなしだった束子を取る。すると、雨が降っているのに気づいたのだが、訊けば父親が帰ってくる途中から少々降り出していたと言う。
 入浴する。温冷浴を、久しぶりに腕の付け根のほうにまで冷水を掛けて、念入りに行った。窓に静かに響く雨音に、頭が俳句を作る方向に向いたが、形にならなかった。上がると室に戻り、他人のブログを読もうとしたのだが、何か緊張するところがあってやめ、コンピューターは閉ざして、読書をすることにした。ロラン・バルト『記号の国』のあとに選んだのは、先般芥川賞を受賞した石井遊佳『百年泥』である。これは、三月の頭に控えた(……)たちとの会合で読むことになっているものだ。一〇時半から一時前まで、二時間以上、一気に八〇頁近くを読み、そうして眠りに向かった。一日出かけず、運動もせず、あまり疲労感が感じられなかったので、うまく眠れるか懸念があったのだが、自ずと入眠することができた。

2018/2/9, Fri.

 うまく入眠できなかった。自動的な思考、また自動的なイメージの狭間に捕らえられ、寝ているという実感がなく、切れ切れに覚めた。六時前になってようやく薬を飲み、それで八時過ぎまで、一応眠ったようだ。日中、活動できているので休めてはいるのだろうが、とても質の良い睡眠ではないだろう。最後の覚醒時にも自動思考が回っており、しばらくしてから起床した。
 上階へ行き、ストーブの前に腰を下ろすと、テレビでは瀬戸内寂聴が秘書であるらしい若い女性と一緒に出演している。この女性が、六〇歳ほど年齢差のある瀬戸内とともに過ごす生活のことを綴った本を出したらしい。前夜の残り物で食事を取りながらテレビに目を向けたが、瀬戸内は、補聴器をつけてはいるものの、九五歳にしては実に元気で、喋りぶりにも淀みがなかった。彼女の小説は一作も読んだことがないのだが、そこまでの高齢になっていながらも文章を書き続けているというのは、やはりそれだけで素晴らしいこと、ことによると尊いと言っても良いかもしれないことではないかと思う。じきに母親が、テレビをもう消してと言うのでその通りにして、皿を洗った。
 母親は面接へと出かけて行った。発達障害などのある子どもを支援するような職場だと言う。あとで帰ってきた際、報告を受けたところでは、早速明日から出向くことになったということだった。母親の出かけて行ったあと、こちらは上階に掃除機を掛け、そうして自室に帰った。インターネットをちょっと覗いてから、読書である。一〇時直前だった。エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』をまもなく読み終わり、そのまま石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』を読みはじめた。和食(天麩羅やすき焼き)だとか箸だとかについてバルトが考察していることは、彼が体験したのはそうは言っても高級料理店などでの食事だろうから、一般庶民の暮らしをしているこちらとしては少々大袈裟にも思えてしまうが、しかし、彼が日本という文化形態に出会って、そこから非常に繊細に、形やイメージを豊かに引き出しているということは感じられる気がする。ここまで書くからには、バルトは本当に、見たもの、体験したもののそれぞれに、まさしく目を惹かれた[﹅6]、非常に惹きつけられたのだろうという印象が湧くものだ。
 正午過ぎまで読んだ。その頃母親が帰宅して、部屋の戸口に来て、面接の結果を報告した。その後、運動をしてから上階に行き、食事を取る。素麺に、母親が買ってきてくれたコロッケとカキフライである。またその後、キウイもいただいたのだが、揚げ物にしても果物にしても美味しく感じられ、そのことに感謝した。食後、母親は、(……)自転車屋に電話をしていた。と言うのは、翌日の出勤にはバイクで向かうつもりのところ、そのバイクが壊れていてエンジンが掛からないので、運んで行って見てもらおうとのことで、事前の連絡をしたのだったが、店の主人はポリープを取りに行くという話で、今日は見られないということだった。それでも外へ出て、家の側部、様々なものの置き場に停めてある原付を、玄関付近の陽の当たるところまで移動させるのだが、エンジンが掛からないので家の横にある短い坂を力づくで持ち上げなければならず、母親とこちらと一緒になって押して行くのだが、これがなかなかの苦労だった。店に運んで行こうと言うのを、気軽に了承していたが、店までの道には長い坂があるわけで、後日になるにせよ、これではとてもでないが運んで行くことなどできないぞと思った(結局その後、母親は付近の自転車屋を検索し、取りに来てもらったとのことである)。そうして、母親が跨る後ろを押して、エンジンが掛かるかどうか何度も試したのだが、やはり結局駄目で、最終的に駐車場の車の後ろに置いておいた。その後、自転車も取り出してきてみようと母親が言うので、こちらとしては面倒臭い気持ちもあったのだが、玄関前の陽のなかに運んで来て、もう長いこと使っておらず汚れきっていて、タイヤのシャフトには蜘蛛の巣が掛かっているようなものを、雑巾で掃除していった。前輪は空気が抜けてベコベコになっており、空気入れを探したのだが、結局見当たらなかった。元の置き場に戻しておいて、屋内に入る。
 二時過ぎだった。ギターを弾いたあと、書き物に入る。文を書きながら緊張するようなところがあったので、あまり気を張りすぎないようにした。そうして八日の記事を完成させると午後四時、歯磨きと着替えをして、薬を飲むとメモを取った。それで四時二五分になったので、『記号の国』を少しだけ読んでから上階に行った。
 炬燵に入ってしまう。バイクは取りに来てもらったと言うのを聞きつつ、炬燵の心地良さにしばらく囚われ、五時直前になって出発した。誰だかわからないが、通りがかった女性にこんにちはと挨拶をして、歩いて行く。道を行くあいだは、呼吸に意識を向けた。そのおかげか、余計な物思いがなかったようである。と言いながら、やはり考えてしまっているのだが、呼吸とは、「流す」ための技法なのではないかと思った。何か余計な思い、嫌な思いが去来してきたとしても、それにいつまでもこだわらず、それを流し、その都度の現在の時点に(現在時点には常に呼吸の動きが存在している)立ち戻るための技法ということである。
 時間が前後するが、街道に出た時には、西の空に黒い山の影と仄かな色の残光が見え、明るさのまだ残った空に虹のような形で雲の筋が掛かり、飛行機が細いV字型の軌跡を描きながら、斜め下に向かって、その雲のほうへと飛んでいる。裏通りを行く途中、(……)(我が家のほうにも時折り回ってくる行商の八百屋)のトラックが停まっているのに出くわし、挨拶をして少々言葉を交わした。
 勤務は、余計な思考がなく、集中してこなすことができた。ただ、同時に、頭の疲れた感じ、頭痛もあった。退勤するといつも通り駅に入り、電車で帰る。帰路に特段の印象はない。
 夕食は、昼の残りのカキフライや、素麺などである。テレビには、平昌オリンピックの開会式が映し出され、父親が興味深げに眺めていた。こちらは、頭というか意識が結構重くなっていた。皿を洗ったあと、『ドキュメント72時間』を見たいという気持ちがあったので、ストーブの前に座りこんで、『名探偵コナン』の映画版が流れるのを時間繋ぎに目を向けながら待つ。ドキュメンタリーは、おでん屋が舞台で、穏やかな気持ちで眺め、それから風呂に入った。湯に浸かっていても自ずと目が閉じて行き、そのたびに訳の分からない言葉が去来してくるような有様だったが、温冷浴をしているうちに少々意識が確かになった。それでも、出てきて歯を磨くと、読書はせずにすぐに眠りに向かった。

2018/2/8, Thu.

 二時前だったろうか、一度覚めて時間を確認した覚えがある。久しぶりにそこそこの緊張感が身に湧いていたのだが、起き上がるのが面倒でそこでは薬を飲めず、寝付いてもう一度覚めた時に服薬した。そうして、切れ切れではあったと思うが、一応八時まで眠った。カーテンをひらくと雲のない晴天で、窓外のネットに絡まったアサガオの残骸が、空気の流れに触れられて僅かに震えている。
 起床して上階へ行くと、ストーブで温まった。食事は、米がもう炊飯器に残り少なかったので、すべて払って前夜と同じく茶漬けにし、また、鍋料理にゆで卵である。その後、前夜の土産物であるショコラ風チーズケーキをいただいたが、これが濃厚なものだった。その後に苺を二粒食べたが、前日と同じく美味いと感じられ、そう感じられたことに感謝した。
 窓の上方、山の姿の上に覗いている空はまだ青の色が薄く、澄み切っている。風呂を洗ってから室に帰ると、インターネットを覗いてから読書を始めた。ベッドに乗って音読をしていると、途中、眠いような感じが出たが、それを越えると頭と身体が軽いようになった。陽射しが顔の左側に熱かった。
 一一時一五分頃まで読書をすると、その後、久しぶりに書抜きすることにした。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』である。三〇分ほど打鍵をして正午を回り、そのまま日記を記しはじめた。一時間ほどでここまで綴って、現在一時過ぎに至っている。
 その後、ギターを弾いた。楽器を弄っているあいだも、自分の意思が働くのではなく自動的に手指が動くというか、指と頭の赴くままに任せるといった感じがあった。二時前になると、上階へ行き、炬燵に入っている母親の隣に入れてもらった。テレビには、録画してあった『マツコの知らない世界』が流れていた。前半は、コーヒー焙煎の世界チャンピオンを獲ったという人が招かれており、コーヒーの美味しい淹れ方や様々なコーヒーメーカーを紹介する趣旨だったが、それを見ながら炬燵の安穏さに眠いようになって、そのように不安なく穏やかな気持ちになれたことに感謝し、これが幸福というものかもしれないと思った。
 そのうちに炬燵から抜け出して、食事を取ることにした。母親が鍋料理に素麺を入れて煮込んでおいてくれていた。それを食べる頃には、テレビの企画は片手袋研究に移っており、街に片方だけ落ちている手袋を一三年間、見つけるたびに必ず写真に収め、その傾向を分類するなどという妙な趣味を持つ人が出演していたのだが、なかなか面白いなと思いながらそれを眺めた。
 そうしているうちに、母親の携帯に着信が入り、出て声を高めて謝っている様子からすると、料理教室の日程を一週間勘違いして、すっぽかしてしまったらしい。この当日にあったものを、一五日と思い込んでいて、料理教室のメンバーたちから着信がいくつも入っていたのだが、散歩に出ていた母親は気づかず、ここでようやく連絡が繋がったという形だった。各方面に謝りの電話を入れたあと、母親は、駄目だな、という風に嘆きを漏らしたが、それを聞きながら以前のように苛立ちを覚えず、そういうこともあるよと穏やかに宥める自分がおり、このように落着きを持って母親に接することができるようになったのはありがたいことだと思った。
 その後、何か面白いテレビ番組でも見ようということで、録画されてあったなかから『しゃべくり007』を選び、笑った。前半は坂口健太郎という人と綾瀬はるかがゲストで、後半は二階堂ふみという女優がゲストだった。二階堂ふみは冒頭で、最近生活スタイルが変わったと語り、また湯葉が大好きなのだという風に話した。その後、しゃべくりメンバーとのあいだで、初対面の人と友達になることを目指すという寸劇が行われたわけだが、やはりホリケンの瞬発力が随一で、先の湯葉の件を踏まえて、(今井美樹 "PRIDE"の冒頭の「私はいま」のメロディーに合わせて)「私は湯葉」といきなり歌いだしたところが一番面白く、大笑いしてしまった。テレビの前でスクワットをしながら番組を眺め、その後、炬燵に入って歯を磨きながら四時前まで視聴した。
 その後、洗濯物を畳み、ストーブの石油を補充する。勝手口に出ながら空を見上げると、まだ青さが明るいものだった。室内に戻ると自室に下がり、メモを取って四時二〇分である。着替えをしたあと、出るまでにまだちょっと時間があったので、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を少々音読した。この日の読書では、書抜きをしたい箇所が見つかったのだが、そのうちの一つに、最近の自分の状態にほとんどぴったり当て嵌まるような記述があったので、ここに引用しておきたい。

 そんなことを考えているうちに、私は無意識のうちに両手で顔を覆っていた。孤独、不安に満ちた探求、日々出会う不条理な出来事、そうしたものが私の世界の一部を作り上げていたが、ものを書く上では何の役にも立たず、むしろ苦しみを増すだけだった。ほかの作家たちが自分の不安を大いに活用して小説を書いていることは知っていた、というかそういう話を聞かされていた。ところが、私は自分の不安を生かして作品を書くためにどうすればいいのか見当もつかなかったのだ。私は両手で顔を覆ったまま、床に敷いてあるぞっとするようなマットレスの上に倒れ込み、これ以上何も考えないでおこう、意識を消し去り、理解も分析もしないようにしようと心に決めた。知恵というのはおそらくそういうことなのだと考えた。しかし、何も考えまいとすること自体何かを考えることなのだと思い当たったとたんに、苦々しい思い、不安といった苦悩がふたたびよみがえってきた。あの頃の私はそうしたものを自分の文学に移し替えるすべをまだ知らなかった。
 (234~235)

 そうして時間が来ると上階に行き、ホットカイロを背に貼って出発した。坂を上って行き、辻まで来るとトラックで移動販売する八百屋が来ており、老女が一人いて、少々やり取りをした。コートを着ているのを指摘されたのに、雪が降って以来寒いですからねと答えると、今日もちょっと降った、ぱらぱらっと散ったと八百屋が言ったので、そうでしたかと受けた。それから、以前は帰りも歩いていたが、最近は寒いから電車に乗ってしまうなどと話して、じゃあ行ってきますと告げて別れた。このように、実に些末で何でもないやりとりだったのだが、そのような何でもないやりとりができるということ自体に、感謝の気持ちが湧き上がってきた。と言うのは、年末年始の変調以来、自分の感情や気持ちに確信が持てず、何かを感じることや考えることそのものが不安だというようなところがあり、自生思考が自走して思ってもいないはずの言葉や妄想が湧き上がってきたりして、端的に言って自分というものがわからなくなっていたからだ。そんな状態だから、テレビ番組を見て素直に笑えたり、他人と問題なくやりとりができるということ、それ自体が実にありがたいことのように感じられるのだった。ナイーヴにも、そのことに涙を催すほどだったのだが、一番感謝するべきことは、感謝の気持ちや言葉が自然に湧いてくるということ、自分のなかにそれが確かにあるということだと思った。このようなことで涙するというのは、やはり自分の精神が不安定であることを証しているものではないかと思うが、それは端的に、不安に冒されているからである。しかしこの時、街道を歩きながら、このような感謝の気持ち、尊いような気持ちになれるのならば、不安というものも、悪いものではないのかもしれないという考えが湧き、そう思えたということは、多分自分は大丈夫なのではないかと思った。自分は、この他者や様々な事柄への感謝の気持ちを決して忘れたくない、何とかそれを、この先もずっと持続させて行きたいと思う。
 街道から振り見た西空には、いくつかに分かれた雲が浮かんでおり、紫を帯びて縁取りされていた。その後、歩きながらまたどうしても考えが巡ってしまう。この思考すること、ものを感じるということによって苦しみが生まれるのは間違いない。釈迦の「一切皆苦」という考え方にはそのようなことも含まれているだろう。しかし人は、そして自分は、どうしても感じ考えてしまう存在である。考えないということは無理である。したがって、ものを感じ考えることによって生まれる不安や苦しみと共存していくほかはない。パニック障害になった最初の頃にも考えた考え方だが、この苦しみが自分に割り当てられたもの[﹅9]なのだ。何らかの意味で苦しまない人間などこの世におそらく一人としておらず、誰もが固有の苦しみを抱えている、そしてそれを生きることこそが生なのだと、この時はそんな風に考えた。
 職場に着くと、働きはじめるまでにちょっと時間があったので、先ほど感じたことを手帳にメモし、それから準備を始めた。勤務のあいだはだいぶ落着いており、以前とほとんど同じようにゆったりと働くことができたと思う。余計な思考、妄想もあまりなく、またよく笑えたようだった。しかし一方で、言葉を発すること、物事を説明するのが何かどこか苦しいような、そんな感じも途中にはあった。
 帰りは駅でSUICAに金をチャージし、電車に乗ると瞑目して到着を待った。降りた最寄り駅には、ホームの真ん中に雪がまだやや残っており、取り除かれないまま幾日も経ってしまったので、縁が凍りついていた。帰宅すると、一〇時前だった。水道の工事か何かの関係で、一一時から水が濁るという話だったので、野菜炒めだけをちょっと食べて、先に風呂に入ってしまうことにした。父親もじきに帰ってきたので、温冷浴は繰り返しやって、束子は全身でなく腹や腰回りだけを擦り、一〇時半には上がった。出ると父親が、こちらはもう食事を済ませたと思っていたようで、牡蠣を食べてしまったと言ったが、笑って、いいよと受けた。食事は、米に納豆を用意し、キクラゲの入った汁物に野菜炒め、また里芋の煮物である。テレビは最初、『カンブリア宮殿』でライザップの社長が話をしていたが、卓に就くと『ダウンタウンDX』に変えて、見ながらものを食べた。その後、一一時になると、『OUT×DELUXE』を映すと、野村克也が出演して、昨年亡くなったサッチーこと沙知代夫人についてなど話をする。夫人の最期の様子が語られたのだが、曰く、食堂で突っ伏しているのをお手伝いさんが発見して、向かった野村が背を揺らしたところ、「大丈夫だよ」と答え、それが最期の言葉になったと言う。様子が明らかにおかしいので救急を呼んで、心臓マッサージなどを施したがそのまま逝ってしまい、本当に五分くらいで亡くなったとのことで、マツコ・デラックスが言った通り、まさしく大往生だったらしい。
 歯を磨きながら番組を最後まで視聴し、その後、自室に下りてメモを取ると零時前になった。眠気があまりないようだったので、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を一時間、ゆっくりと、小さな声で読み、一時を回ったところで就床した。

2018/2/7, Wed.

 例によって深夜のうちに一度覚めた。さっさと薬を飲み、一応寝付いたのだが、しかし本当に眠れているのかどうかいまいち良くわからないようでもある。八時半になると意識がはっきりして、しばらく寝床で呼吸に集中してから、九時になって起床した。
 食事は、キーマカレーの残りである。母親は、九時四五分頃、外出していった。こちらはものを食べ、風呂を洗って下階に戻ると、やはり自生思考があるのが気になって、その関係の薬について調べたり、スレを覗いたりと神経症的な振舞いを取ってしまった。その後、読書、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』である。ベッドで好天の陽を浴びながら音読していく。途中、窓を見上げると、光を放つ太陽から湧くようにして薄雲が広がっており、光の混ざりも相まって雪のようになっている時があった。
 一二時半過ぎまで本を読み、その後、運動をした。前日の運動のために腹は筋肉痛になっていたので、腹筋は避けて済ませ、それからメモを取ると一時二〇分である。そのまま書き物に入り、五日の記事からここまで書いて一時間強が経っているのだが、時間があまりにも速く、ほとんど一瞬のようにして過ぎ去ってしまうこの感覚は一体何なのだろう。以前にも勿論、たびたびそうした思いを抱いたことはあるが、そのどの時よりも最近は一日が速く、時間が止めどない。記憶力も落ちたような気がするというか、そう言っては少々違うのか、何と言うか、以前よりも一日の各部、生活の細部が、自然と要約/縮約されて捉えられているような感じがする。
 上階へ行った。何かしらのエネルギーを補給しようというわけだが、その前にアイロン掛けをすることにして、エプロンやハンカチを処理した。台所には母親が作ってくれた鍋料理があったのでそれを温め、一方で例によって豆腐を熱し、それぞれを食べる。豆腐を食いながら、喉元を過ぎて胃の腑へと落ちて行く熱の感覚が気持ち良いようだった。ものを食べたあと、身体の力が抜けたように、楽なようになった。自生思考があるのがやはり気になるのだが、それをも受け入れるかのような心持ちに、この時はなっていた。最近の自分の思考は、脈絡のない妄想が甚だしく、そんなことを考えているとそのうちに本当に行動に移してしまうのではないかと不安なのだが、食後、これもやはり不安障害、あるいは強迫性障害の一種なのではないかと思いついた。「やってはならないこと」に対する不安があり、それを恐れるがゆえに、それについて考えてしまう、ということではないのか。
 その後、皿を洗ってから下階に帰り、(……)のブログを読む。そのあいだは不安は収まっており、自然なような感覚でいられ、四時一四分を迎えた現在も一応そのような状態ではある。
 そうして、本を読みながら歯を磨き、服を着替えた。室を出ると、母親もちょうど出かけるところだった。父親の会社の幹部連のあいだで、夫人も一緒の会食があるのだという話だった。上階に行き、母親が玄関を出たあと、こちらはホットカイロを背中に貼ろうと思って戸棚からそれを取ったところで、インターフォンが鳴った。玄関の戸が近かったので返事をしながら直接そちらを開けると、(……)で、父親のやっている自治会の組長の仕事の関連で、転出・転入か何かの調査結果を持ってきたのだった。頭を下げて礼を言い、封筒に入ったものを卓上に置いておくと、カイロを貼ったり、マスクを用意したりしてから、トイレに入った。
 排便すると五時、出発しようと玄関を抜けたところで、ちょうどまた人が来ており、先の(……)と同じ用事で、紙を受け取って卓に置いておくと、出発した。ガーゼのような質感の薄い雲が、空に広く掛かっているなか、東の果ての低みには隙間があって、すっきりとした青と白が覗いている。坂に入ると、川のほうからぴちぴちというような鳥の声が上ってくる。上って行っても、弦を軽くはじくような短い鳴き声が繰り返し聞かれる。街道に出ると、西の空に少々厚く溜まった雲の裾が、下から煽られるようにしてオレンジ色に焼けていた。歩いているうち、一刻ごとにその色が深まっていくような暮れ時で、裏通りに入ったところで見るとさらに濃くなったようで、またもう少々進んでから見返ると、紫を含んで茜色の風情になっていた。
 一方で例によって、頭のなかでは思考が回っており、時間が過ぎるのがとにかく速いなと思っていた。すべては生成し、変転し、過ぎ去っては流れ消えて行くのだという思いが湧いており、自分もその変転のなかで変化せざるを得ない、この先狂うかもしれないし、あるいは病に冒され、いずれは死ぬだろう。しかしそれでも、自分はこの生を生きていたいという気持ちがあるようだった。生が一切皆苦なのだとしたら、そんな場所からはさっさとおさらばするのが良いのかもしれず、生きたいというその心こそが苦しみの最終的な根源なのかもしれないが、それでも自分は、生の苦しみを受け入れ、この一瞬一瞬を精一杯生きようと思った。そのように考えて感情をやや高ぶらせていたのだが、少し経つと、精一杯などと気張る必要はない、ただ生きれば良いのだと冷静な気分になり、これこそがまた変転を証しているのだと考えた。思いさえも続かずに、移ろい続けて行くのだ。
 労働は一応問題なくこなせてはいたのだが、何か落着かないような、早く終わってほしいというような気持ちがあったように思われる。また、すべてが、自分の動きや言動さえもが自動的に動き、回って行くような、そんな印象に付き纏われて、自分が何か勝手な言葉を口にしないかと恐れるようなところがあった。この自動感というのは、良くわからないが、やはりメタ認知が鍛えられすぎたためのものなのではないかというような気がする。勤務が終わると、気持ちは落着いたようだった。帰り際、(……)に、元気ですかと尋ねられ、唐突だったので何で、と返すと、声があまり聞こえなかったと言った。また、(……)が、前日こちらの元気があまりなかったと言っていたと言う。(……)こそ、声の小さく、内気そうで、活発とはとても言えない人間なので、彼にそう言われるとは、と(……)なども笑い、こちらも面白く思って笑ってしまった。そこでちょうど彼が来たので、どのあたりが元気でなかったかと尋ねると、声のトーンが一段低かったと言う。前日は眠かったからそのためかもしれず、また、最近のこちらの変調が、意外と外に出ているのかもしれないとも思われたが、しかしともかくも生きている。(……)にもそのように、生きてはいる、とやや冗談めかして返したのだが、これはわりとこちらの本心であるように思われる。ともかくも自分はいまこの瞬間、生きており、存在している、最終的にはもうそれで十分なのではないか?
 退勤して駅に入った。改札を通る時、SUICAのなかの金が随分少なくなっていることに気づいた。今日あたり、入金しておかなければならない。電車に入ると席に就く。向かいには、風体の良いとはとても言えない老人がおり、ポテトチップスか何かをぱりぱりと食べていた。
 降りて帰宅すると、両親はまだ帰っていない。ストーブを点けて温まり、その後着替えに下りた。そこで携帯電話を見ると、(……)から着信が入っている。掛け直すと、長いことコールが続いていたが、切ろうと思って電話を耳から離したところで出た気配があり、もしもしと掛けて会話を始めた。体調はどうかと尋ねられたが、良いのか悪いのか良くわからないと言い淀んだ。少し前にも電話をして、近いうちに会おうという話をしており、あちらは水曜日が休みなので、それでは二八日の水曜日を空けておくと言った。そうしてほかの話はせずに短く通話を終え、服を着替えて食事を取りに行く。
 鍋料理に、米には茶漬けを振り、ほか、薩摩芋とほうれん草である。また、食後には苺を食べたが、これが美味しいものだった。食べ終えたあと、何となくバラエティでも見て気持ちをほぐそうかという気分が湧いてテレビを点け、『水曜日のダウンタウン』を眺めた。見始めた時間にはまず、人脈を活用して助っ人を呼んで行うサッカーというものをやっており、最終的に五〇人以上もメンバーが集まって、コートが人でいっぱいになり、ヘディングの連続でボールが回る、というような事態になっていたのが滑稽だった。その後、高田純次は普通に、「高田純次です」と自己紹介をしたことがあるのかとTBSの出演番組を検証するという企画が披露され、結果としては初期はそのように通常の自己紹介をしていたのだが、これを見ながら大いに笑った。
 そうして、一一時も近くなってから風呂である。出かける前に沸かしてあったのでもうだいぶぬるくなっており、それを追い焚きして、温冷浴を何度も行った。束子で身体を擦ることも、前日はあまりできなかったがこの日は下半身までもやり、結局、一時間近くの長きに渡って入っていたのではないか。風呂を上がるともう零時前になっていたが、両親の帰りは遅く、まだ帰ってきていなかった。自室に帰ってこの日のことをメモに取ると零時一〇分過ぎ、眠気は特段に湧いていなかった。それなので読書を行ったが、その最中に両親は帰宅した。カラオケに行っていたらしく、終電になったのだった。こちらは一時前まで読むと、欠伸が出るようになったので、明かりを落として床に入った。

2018/2/6, Tue.

 この日の朝というか深夜というかは、あまりうまく眠れなかった。眠ろうとしても意識が沈んでいかず、脳が自走して何か良くわからない妄想とかイメージとかを繰り広げているのを眺めてしまい、入眠できないという感じがあるのだが、やはり睡眠薬を貰うべきなのかもしれないと考えた。一応七時半まで寝床に留まり、起き上がるとゴルフボールをちょっと踏んでから上階に行った。食事は、焼きそばと野菜スープである。テレビは朝の情報番組で、おたまについて取り上げていたが、特段の興味はない。
 風呂を洗って洗面所を出てくると、母親が台所の床にしゃがみこんで何やらやっている。仏壇にあった香炉の灰を紙の上に広げて、線香の燃え滓を取り除こうとしているのだ。そこでこちらもしゃがみ、母親がスプーンで灰をふたたび香炉のなかに入れていく一方、黒い燃え滓を指で摘んで取り除いて行った。
 それが終わると自室に帰って、コンピューターを点ける。支出などを整理したあと、九時半から読書に入った。エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を音読するのだが、最中は、頭に負荷が掛かっている感じがして、眠気のようなものが湧き、目を閉じそうになる。終わったあとは、わりと落着いた気分になっていたようである。
 そうして、久しぶりにOasis "Wonderwall"を流しながら服を着替えて、歯を磨く。洗面所で磨いていると、上階から、まだかと母親に急かされた。上って行き、トイレに寄って外に出て、母親の車に乗り込んで出発した。墓参である。道中、車内にはMr. Childrenがごく薄く掛かっていたので、口ずさみ、まず母親の用事で眼科に停める。薬を貰ってくるあいだ、こちらは車のなかで待っていた。好天だが、足が冷える。しかし、洩れ入ってくる薄い陽の温もりも、左膝付近に掛かっていた。外を見れば、二本立った竹の葉が良く揺れている。
 目を閉じて休んでいると、気持ちが落着いて、ありがたいと思った。しばらくしてから目をひらき、ふたたび竹のほうを見やり、今度はその先にある空にも目をやると、実に青々としている。母親はなかなか戻って来なかったので、携帯電話でウェブに繋ぎ、他人のブログを読んだ。母親が帰ってきた頃には、一一時をちょっと回っていた。(……)(叔母)との待ち合わせは一一時だったのだが、まだ連絡がないと言う。ともかく駅へ向かったが、こちらからメールを送ってみればと提案すると、ネットワークがどうのこうのと出て送れなかったようで、それであちらからの連絡が届いていなかったのではないかとわかった。実際、行ってみると、駅前のベンチに叔母は座って既に待っていた。彼女を乗せて、寺へ向かう。
 降りて墓地に入り、水を用意しようとするのだが、井戸の水が凍っているようで、汲み上げポンプの取っ手を動かしてみても、水を汲み上げる抵抗の感覚がまったくなく、空回りするばかりでどうしようもない。幸いと言うか、手近の桶に、あまり綺麗ではなかったようだが水の入ったものがあったので、それを使わせてもらうことにした。墓所の前に行くとこちらは周辺を掃き掃除し、叔母が花を支度したりして、じきに線香を供える。手を合わせ、以前だったら金とか時間とかを願っていたところだが、ここではやはり精神の健康を願った。
 墓地を出ると、二人は外で食べてきたらいいと言って、こちらは一人、歩いて帰ることにした。車が出ていくのを見送ってから寺の居住区域に隣接した便所に行き、出てくると、猫がいる。鈴をつけており、寺の飼い猫のようである。しゃがんで手を伸ばしたりしてみるが、近づいてこない。じきに離れてしまったので、諦めて外に出て、道に出て帰りはじめた。好天だが風はやはり冷たく、立ち止まってモッズコートの前を閉ざす。街道へ出て、日なたの多い北側に渡って、歩いて行った。帰るあいだは折々陽に当たられて心地よく、穏やかな気持ちになって、今は以前と同じような安心した心持ちになっているのではと思われ、ありがたかった。
 家に帰ると、一二時二〇分頃だった。着替えて、食事はうどんを用意する。フライパンで生麺を湯がき、それを余っていた汁物に入れて煮込む。一方、豆腐をレンジで温め、卓に就くと、ゆっくり味わうようにして食べた。
 その後、室に帰ると書き物をしてから、運動である。運動はいつも、床の上で下半身の筋を伸ばし、ベッドに移ってさらに柔軟をやり、その後、腕立て伏せなどを行うといった順序なのだが、今までは最後の、やや筋トレ的な行程も、力を入れた状態で身体を静止させるという風に行っていたところ、この日は、通常の筋肉トレーニングと同様、身体を動かすことにした。それでいつもよりやや念入りにやって、するともう三時前なので、外出の支度である。
 着替えて上に行き、出る前に米をといでおく。冷えた手を電気ストーブで温めてから、出発した。まだ日なたの残っている表通りを、先ほど帰ってきたのとは逆方向に進んで行く。(……)
 勤務中も、最初はやや頭が散漫だったようなのだが、次第に集中できた。ただ、途中、意識が少々遠くなるようなというか、頭に違和感があり、どうもやはり脳が疲れて眠気が湧いているのではという感じがあった(実際、欠伸も結構出た)。
 労働を済ませて退勤すると、(……)そうして駅に入る。電車に乗ると扉際に立って、最寄りで降りて帰路を辿った。帰宅すると、食事はキーマカレーである。食後はやはり眠気というか、目を閉じたくなるような頭の重さがあって、テレビはフレッド・コレマツという、二次大戦中の米国の日系人収容に対して反抗し声を上げた人を取り上げていたのだが、それに目を向けながらも、折々に目を閉じてしまった。皿を洗ったあと、風呂に入る前にも、父親が場所を離れた隙に炬燵に入って休んでしまう有様である。その後の入浴時もやはり、湯に浸かりながら瞑目してしまった。温冷浴はこなしたが、身体を念入りに擦る気力はなく、下半身は擦らずに上がって、室へ戻った。その頃には多少眠気が弱くなっていたので、零時半前まで読書をしてから就寝した。

2018/2/5, Mon.

 例によって午前二時前くらいから何度も覚めるのだが、薬を飲まずともふたたび入眠できるようになってきている。六時頃に覚めたあとが難しかったが、七時を越えたあたりで一応寝付いたようで、覚醒は八時二〇分になった。不安はなく、わりあいに落着いた心での覚醒だった。カーテンをひらくと、空は青い。光のなかに塵が浮遊しているのをちょっと眺めてから、身体を起こす。
 背伸びをしたりと身体を和らげてから上階に行った。母親は前日に引き続き、臨時に頼まれた(……)の仕事で不在である。居間には南窓から陽が射しこんでおり、炬燵テーブルの上に乗り(食後、そのなかに入ってちょっと日なたぼっこのような時間を取りもした)、床にも引かれていて、玄関のほうの便所に行って戻ってくる際など、居間に続く扉のガラスが白く眩しくなっていた。ハムと卵をフライパンで焼き、米に乗せて簡単な食事とする。食卓から南の窓を見やると、山や樹々の大方はまだ影に浸されているものの、川沿いの樹々の梢のあたりには陽が届いて、そこだけ黄緑色を浮かび上がらせて空間に明るみの曲線を描き、柔らかいような質感を露わにしている。窓辺に吊るされた小さな水晶玉が、こちらの頭が前後に動くのに応じて、青やら緑やらの光を送ってみせる。
 皿を洗うと、そのまま風呂も洗った。ゴミが烏に散らかされていないか見ておいてくれとのことだったので(実際、寝床で覚めた時にも、烏が何匹も外を行き来し、鳴きを立てているのが見られた)、玄関を出た。今回のものかどうか知れないが、確かに烏がつついて千切ったらしいゴミ袋や紙の細かな破片が、少し散らばっていたので、一つずつ拾って塵取りに収め、林のほうに捨てておいた。
 そうして室内に戻り、白湯を持って自室に帰ると、早速日記を書きはじめた。前日の分を速やかに仕上げ、この日のものもここまで書いて、現在は一〇時直前である。
 その後、ベッドで光を浴びながら読書をした。エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』である。読後は落着いた気分になっていたようだ。そうして運動をしてから上階へ行き、卵一つのみを食べると速やかに下りて、歯磨きと着替えをした。薬を飲み、ホットカイロを背中に貼りつけて、出発である。
 玄関を出ると風が林に流れるところで、竹の葉の鳴りが響き、それのみならず幹同士が擦れ合う音も頭上で立った。坂を通るあいだも風が大きく流れて樹々を揺らし、身に冷たい。街道に出るあたりでちょっと不安が湧いたような感じになり、車の通る音や、道路工事の音のいちいちが耳につくようで、知覚が騒がしく、うるさいように感じられたのだが、歩いているうちじきに受け流すような感じになった。薬のおかげだろうか。裏通りの途中では、抹茶色のメジロが一軒の庭木にとまって細かく鳴いているのを目に留めた。
 財布のなかに札が一枚もないという状況だったので、駅前のコンビニで金を下ろした。それから公衆トイレに寄ってから駅に入り、電車に乗る。道中、立川までのあいだは瞑目して非能動の状態を保ち、どんなものかと自分の心身を探ってみたのだが、不安には襲われず、落着きがあったので安堵した。立川を過ぎると、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を取り出して読書をした。外を見れば空に雲は結構あるが、それでも明るくて良い天気だとの印象を否定できない。
 やや遅れる旨、(……)にメールを入れておき、中野で乗り換えて代々木へ渡った。駅を出るといつもの喫茶店に行き、先に入店していた(……)と合流する。カフェインを嫌って、葡萄ジュースを注文した。そうして、『後藤明生コレクション4 後期』について、何となく話しはじめる。特に後半の作品などは、作家が町を歩いた実体験を概ねそのまま書いているらしく、私小説的ではあるけれど、いわゆる近代文学的に内面や自意識を描くそれと違って、資料の引用などを交えて、私小説というよりもむしろ紀行文的な感触ではないかなどと話した。また、この時言うのは忘れたけれど、とりわけ後半の、大阪付近の文化や旧跡を扱った作品群の書き方はいかにも冗長であり、こちらは頭の調子がおかしかったこともあって、読んでいるあいだ、あまりきちんと読み取れた感じもしなかったのだけれど、この冗長さというのを、「蜂アカデミーへの報告」のなかにあった冗長さについての言及と結びつけて捉えることもできるのかもしれない。そこでは確か、岩田久二雄という、「日本のファーブル」とも呼ばれる学者の著作を引いて、観察記録というのはやはり省略をせず隈なく書く、そういう冗長な姿勢で書かれたのが本当なのだ、というようなことが話されており、後藤は確か、それをファーブルの昆虫記の書きぶりとも絡めて、「科学的」精神とちょっと対立させる風にしていたと思うのだが、後藤自身も後半の作品で、そうした冗長さを支持する振舞いを見せたということなのかもしれない(そして、この「冗長さ」とは言うまでもなく、「物語」と(単純に)対立させて考えられた時の「小説」的な態度でもある)。
 後藤の小説についての話が一段落すると、近況だとか最近の心境の変化などについて話した。こちらのそれについて言えば、読み書きに対する欲望に自信が持てなくなってしまったとか、他者というものの重要度が自分のなかで上がって来ているようだといったようなことである。諸々話したあと、三時半頃に退店した。(……)はトイレに行くと言うので、こちらがまとめて支払いを済ませ、店外で精算をした。そうして新宿へと歩き出す。
 まだ陽の感触は残っており、好天ではあるのだが、風が吹き、道は寒い。ジョギングや運動などについて話したりしながら、また三日に(……)と話したフローベール文学史的位置づけなどについても語りながら、新宿駅の南口へと歩いて行く。巨大な通りの横断歩道を渡って、東南口のほうへ移行し、下りて町中に入って行った。このあたりで(……)に、彼にとって「他者」とはどんなものかとそのスタンスを尋ねてみたのだが、「厄介なもの」というのが最初の答えで、それは確かに、と思わず笑ってしまった。ただその後、色々な意味で依存してしまう(あるいはせざるを得ない)存在でもある、それがまた厄介だ、というような話がなされたが、このあたりはあまりよく覚えていない。こちらは最近の変調のおかげで、以前からは考えられない変化だが、自分は一人でいないほうが良いのかもしれないと思うようになったと語った。自分一人で、脳内で独り言を繰り広げてばかりいると、それこそ頭がおかしくなってしまうのではないかという不安があり、家族がいるというのがありがたいような気持ちになっている、家を出るにしても、ルームシェアでもして誰かとの共同生活をしたほうが良いのかもしれない、などと話しながら、新宿紀伊國屋書店本店へと入って行った。
 次回の課題書は、喫茶店にいるあいだに決まっていた。今次復刊された、『フラナリー・オコナー全短編』(上下)である。これはちくま文庫から復刊されたのだが、しかし文庫のほうを見に行く前に、単行本の区画を見て回った。こちらはうろついたあと、後藤明生のコレクションや著作、また座談会をまとめた本などをぱらぱらめくり、(……)は(……)で何かしらメモを取っていたようだった。そうして、文庫の区画へ移る。件のものは平積みされているのがすぐに見つかった。(……)が見回っているあいだ、こちらはちくま学芸文庫の棚にR.D.レイン『引き裂かれた自己』を発見してしまい、そのうちの「統合失調気質における内的自己」を読み耽って、これは自分にも当て嵌まるところがあるのではないか、などと考えたりしていた。とにかく、自分がこの先、統合失調症などの精神病になるのではないか、もうなりかけているのではないかと気に掛かって仕方がないのだ。あまりこうした方面の情報に触れないほうがむしろ良いのかもしれないが、しかし結局、オコナーの文庫本と一緒に購入してしまった。
 退店すると、五時一五分だった。日が長くなりましたねと(……)が言うので、空を見上げて、今になって雲がなくなっていますねなどと返した。高層ビルの先に見える空は実際、まっさらな暮れの青さに染まっていた。腹が減っていると(……)が言い、飯を食っていくことになった。周辺を放浪した結果、(……)という野菜料理をメインとした店に入ることになった。通りから階段を上がって二階のフロアに入ると、通路の両側にカーテンで仕切られたテーブル席が並んでいるなかの一つに通された。飲み物を頼むと(こちらはジンジャーエール、(……)は生ビール)、カボチャの豆腐のお通しがついてきた。これはなかなか美味いものだった。そのほか、イクラのお浸し、安納芋、ブリを葱で少々辛味に和えたもの、大根の唐揚げ、ロールキャベツを注文してそれぞれ取り分け、追加でスパイシーチキンを注文し、最後に牡蠣の温蕎麦を食べた。
 話はこちらの変調だったり、互いの不安性向だったり、あまり精神衛生に良いとは言えないものが多かったようである。先々のことを考えると不安しかなく、特にこちらは最近、自分がこの先狂うのでは、精神病になるのではとそのことにばかり気を取られている。ほか、また他者について話して、自分のブログも他者に何かしら益するものになってくれていると良いと言い、また、この先の生活の不安と絡めて、こんな頭の状態であるし、十分な金を稼ぐような経済的能力もないから、ブログでアマゾンアフィリエイトでもできないだろうかなどと笑いながら話した。
 退店したのは、七時頃だったと思う。東南口に戻り、改札を入ったところで(……)と別れた。頭が固いような感じが生まれていた。駅の人波に圧されるような感じで、ホームに下りても人の多さに緊張するようだった。乗った電車も満員で、扉際に押し込められて逃げ場がなく、そうするとやはり、かつてのパニック障害時代のように、気持ち悪くなってくるのではとか、発作が起こるのではとか懸念が湧いて、実際、腹のあたりや呼吸の感覚など見てみても、自分が緊張しているのが明らかに認められたが、目を閉じて呼吸に集中することで何とかやり過ごした。こちらの前にいた女性は、満員でほとんど身動きが取れないなかにあってもスマートフォンでゲームをしており、電車が揺れるとこちらの腹のあたりにその身が当たってきた。武蔵境でだいぶ人が降りたので気持ちとして楽になり、立川まで来るとわりあいに落着いていたと思う。
 (……)に着くと、母親に何か菓子でも買っていくかと自販機に向かう。なかに、苺のふわふわショコラ、というようなチョコレートの類があったので、苺の類の菓子が最近好きらしい母親に良いだろうと二三〇円を払った。そうして待合室に入り、本を読みながら乗り換えが来るのを待つ。車内でも読書を続けて、最寄りで降りると、帰路を辿った。
 帰宅すると、ささやかな土産を差し出し、母親と分けて少々食べた。服を着替えてくるとアイロン掛けをして、翌日、(……)(叔母)がやって来て墓参に行くと言うので、自分も行くと申し出て、そのあたりのことをちょっと話した。入浴を済ませて自室に帰ると、この日のことをメモに取って時間を使ったようである。以前よりも早く、一一時とか零時になると眠気が重く湧くのは、やはり頭が過活動なのではないかと思われた。

2018/2/4, Sun.

 目を覚まして時計を確認すると、二時になる前で、普段よりも覚醒が早かったが、これは上階でまだ起きていた父親の立てる物音で目が覚めたらしかった。この日も薬を飲まずに一応寝付き、その後しかし、六時頃からは正式に入眠することはできなかったと思う。一〇分か二〇分かそこらの微睡みくらいのものはあったようだが。ボディスキャンと言うか、死者のポーズ的なものも何度か行いつつ、八時半頃に起床した。
 起床時には、比較的穏やかな気持ちだったと思う。上階に行って母親に挨拶し、前夜の餃子の残りや、サラダを用意する。新聞は書評面(若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』が取り上げられていた)をちょっと見たのみで閉じ(最近は新聞記事を読む気が全然起こらない)、呼吸をゆっくりとしながら餃子を米と合わせて咀嚼する。母親はじきに、(……)出かけて行った。それで、飯を食っているあいだだったか、もう食べ終えて一息ついている時だったか、電話が鳴ったので取ると、(……)ですけれど、(……)いる、と覚えのない名前と声が聞こえる。困惑していると、祖母の命日で(……)が来ていないかとか何とか訊いてきて、今日あたり来ていれば、沢庵をあげようと思って、とか言う。それで電話の相手がわかった。我が家との関係は良く覚えていないが(確か(……)の妹だったか?)、折に触れて漬物をくれる高年の婦人がいるのだ。(……)は六日に来るという話だったと思うが、母親は漬物にはもう辟易しているだろうから、確定的な日時は伝えずに詳しく知らない風で濁し、伝えておいてくれと言うのを了承し、礼を言って切った。そうして食器を洗い、自室に帰る。
 時刻は一〇時頃である。三〇分ほど娯楽的な動画を眺めたのち、一一時前から読書に入った。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。読書のあいだ、外の様子を見やると、本の内容にも触発されて、何ということもない景色だが、近所の屋根が薄明かりを帯びているさまなどに目が行き、風景全体が何とはなしに、綺麗だなと感じられ、そのように感じられたことそのものをありがたく思うような心が湧いた。音読でもって本を最後まで読み終え(三〇日に読みはじめたので、四〇〇頁ほどある本のわりに、こちらとしてはなかなか速いペースだと思う)、そうしてぼんやりとしていると、窓の上端付近に広がった雲から、段々と太陽の光が現れだす。そのさまを眺め、受け取るようにしていた。
 しばらくしてから運動を行う。そうすると一時も過ぎて、上階に行けば、どこかしら出かけていた父親が帰ってきていたが、ふたたび外出していった。こちらは豆腐を電子レンジで温め、ほか、朝にも食べたサラダとゆで卵を食べる。そのうちに母親が帰ってきて、テレビを点すと、『アタック25』が映し出される。それを眺めながら、甘味の類を母親と分け合って食べて、番組が最後まで至ると立ち上がって食器を洗った。母親の使った分もまとめて洗い、彼女が餅を食うのに用いた皿は、こびりついたものがすぐには取れないので水のなかに浸けておく。
 そうして、ベランダに続く西の窓からソファのほうに陽が細く射しているのに惹かれて、そのなかに座ってちょっとしてから、靴下を履いて下階に下りた。図書館に出かけるつもりだった。歯磨きをしたのち、出かける前にこの日のことをメモに取ってしまおうと思ったのだが、実際にはメモではなく正式に書き出してしまい、ここまで三〇分で綴って三時になっている。
 振り向くと、雨が降り出していた。服を着替えて上階に行くと、両親は二人とも玄関にいて、何やら話をしている。青い作業着姿の父親が座っているその先、玄関の扉は開け放たれており、雨とも雪ともつかない半端なものが宙を降っているのが見える。こちらも玄関に行き、折りたたみ傘を持っていったらとか、傘を差して行こうとかやり取りをしたのだが、結局、すぐに止むだろうということで、また実際、まもなく降りが衰えてきたようだったので、傘を持たずに出発した。降りはやはりすぐに止んで、坂を上りながら振り向くと、入り口の先に覗く空に陽の色が見え、斜面の下の道に停まった車の車体にも反射している。前に向き直って歩きはじめても、路面に薄陽が敷かれていた。
 街道を越えて裏路に入ると、前方に犬の散歩をしている二人連れがいる。並んで似たような犬を連れているのに、初めは夫婦だろうかと思ったのだが、よく見れば女性のほうは少々年嵩で、男性はまだ若く、近所の知り合いのようだった。呼吸に意識を向けながら行くと、不安が生じてこず、穏やかな落着いた心持ちでいられ、ありがたい気分が湧いた。(……)駅が近くなると、雨がまた始まって、少々冷たかった。
 駅のホームに上がり、寒いなか、立ち尽くして電車を待つ。来たものに乗ると、手帳にメモを取っておき、それから瞑目して到着を待った。(……)で降りると図書館に入り、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を返却すると階を上がって新着図書を見る。タイトルをメモする気にはならず、見るだけでその場を離れ、海外文学の棚のほうに行った。何か海外の小説を読もうという気持ちになっていたのだ。休日だけあって、席はあまり空きがなく埋まっているようだった。目当ての書架の前をうろついて、ラテンアメリカ、フランス、ドイツ、英米と見て行った結果、念頭に上がったのは、イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』か、メイ・サートン『七〇歳の日記』あたりだった。トロヤノフのこの小説は、リチャード・フランシス・バートンという探検家の生涯を綴ったものらしく、以前からちょっと読んでみたくはあったのだが、三〇以上の言語を話し、『千夜一夜物語』を翻訳したというこの人物は、この日にちょうど読み終えたトリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』にも探検家の一人として名前が挙がっていたのだ。メイ・サートンのほうは、先日にも記した通り、個人的な興味に加えて、山梨の祖母にどうかと思っていたのだが、なかを覗いてみると、これはやはり祖母にいきなり読ませるにはちょっと厳しいのではないかと思われた。それは措いても、自分でも読んでみたくはあるのだが、心を決めることができなかった。と言うのは、ロラン・バルト『記号の国』を加えて借りようと思っていて、そうすると『世界収集家』のほうは長すぎる気がし、またサートンのほうは小説ではなく日記である。もう少し短めの小説を何か一緒に借りようと思って書架を辿ったところ、エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』が目に留まり、これだなと即座に心が決まった。
 本を見ているあいだ、南の大窓から、西空に現れた夕陽の光が射しこみ、目に届く時間があった。二冊を持って、フロアの逆の端へと移り、老荘思想の本をめくったり、仏教関連の書籍(仏陀の言葉を収録したものや、坐禅についてのもの)を探ったりする。そうした関心にはやはり、何でもかんでも気にしてしまう自分の神経症的性向から逃れるヒントがないかという思いが寄与しているのだろう(ただ、この時は特に不安を覚えていたわけではなかった)。そうして五時を回って、貸出手続きを済ませると、退館に向かった。
 館を抜けて歩廊に出ると、空には雲が厚く出て大層青く、通路の路面にもその青さが反映している。東の方(と言うのは左方だが)は隙間なくその青い雲に籠められてもうだいぶ暮れの趣だったが、南西方向は山の周囲に(この山も雲とほとんど同じ青さの影となっていた)空白の地帯がいくらかあって、そこに残光の色が仄かに差し込まれていた。駅に入ると、ベンチに就いて電車が来るのを待つのだが、非常に寒い。改めて見てみても空は実に青く、特に東の方角は厚く塗り込められている。待っているあいだ、背後には小さな子どもを連れた母親がやって来て、セーターを着せ替えてやったり、写真を撮ったりしていた。子どもは風邪を引いていたのか、ちょっと咳を漏らしていて、しかし動き回って、声がこちらの耳に近くなる瞬間もあった。
 やって来た電車に乗って席に就くと、暖房に温められて、ありがたいという思いが湧く。正面には、面長で、頭頂の毛の少なくなった男性(良さそうなコートを羽織っていた)が乗っており、静かに瞑目している。左斜め前の座席のほうには、老夫婦が座っていた。到着して乗り換え、最寄りで降りると、空はもはや暮れきって大変暗い。階段を抜けて通りを渡り、坂に入ったところで見上げると、星や飛行機の明かりが見えた。
 道に出て歩いていると、背後から足音が近づいてきて、じきにこちらの影に追いつくようにして現れた影が、こちらのすぐ後ろのほうに添うようにしてきたので、警戒の心が働いて左にずれる。しかし、横から現れた人を見れば、(……)だったので、あ、こんにちは、と口にしたが、もう六時も回って薄暗闇だったのだから、こんばんは、と言うのが相応しかっただろう。
 帰宅するとストーブにあたって、身体を十分に温める。ソファに座っていた父親はじきに風呂に入りに行った。こちらは着替えてきて、夕食にする。頭から尾まで丸ごと食べられる鰯を三尾、それに冷凍の唐揚げ、ほか茸の汁物や、カボチャを使ったサラダなどである。テレビは中国のパンダ事情について放映していたようだが、ろくに見はしなかった。
 ものを食べ終えると、入浴に向かう。この日は温冷浴を念入りにやってみることにした。どうも、湯たんぽを入れているにもかかわらず、寝ている時に足が冷えているらしかったからである。今の時期は寒いので、まず膝のあたりまで冷水を浴びせてから湯船に戻り、二度目は腿の付け根まで、三度目で腰あたりまでという風に分けて下半身を冷やしては温めているが、その後、この日はさらに二回、冷水と湯のあいだを行き来した。そうすると、わりと具合は良さそうである。それから、身体を労るようなつもりで、束子で全身をゆっくりと擦り、風呂を上がる。
 出るとちょうど八時頃で、両親は炬燵テーブルに集って、大河ドラマ『西郷どん』を見始めるところだった。炬燵テーブルの横にはエプロンとハンカチが一枚ずつ放置されており、これにアイロンを掛けようと思って母親にそう言ったところ、自分がやるから良いと言う。いやこちらがという風に申し出をちょっと続けてみたのだが、母親はやはり自分がやるからと繰り返すので、そこをあまり押してもと引き下がり、自室に帰った。
 白湯を飲みつつ他人のブログを読んで九時、そこから日記を書き出して、現在は一〇時半前である。書いているあいだ、不安な気持ちがほとんど生じなかったのが、実にありがたいことである。
 それから、歯磨きをするために部屋を出て、歯ブラシをくわえて戻る。この時父親は、階段下の室で、コンピューターを前にしていた。口を濯ぐと、湯たんぽの用意をするために上階に行く。台所に入って、薬缶を火に掛け、沸くのを待つあいだ、日曜日で父親は酒を飲んでいたようで、下階から鼻歌を鳴らすような声が聞こえていた。
 自室に戻って湯たんぽを仕込むと、借りてきたエンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を読みはじめたのだが、いくらもしないうちに眠気が湧いたので、読書を中断してさっさと眠ることにした。まだ一一時一五分だった。

2018/2/3, Sat.

 例によって深夜に覚めたのだが、そのあたりの記憶ははっきりしない。ただ、この日は薬をすぐに飲むのではなく、そのままに寝付くことができ、薬はあとで飲んだのではなかったか。七時頃まで眠ったあと、ぐずぐずと寝床に留まり、半を迎えてから起床した。
 朝食は、炒飯である。上がって行くと、まだフライパンに米を入れただけで途中だと言うので、搔き混ぜて、皿によそった。ほか、前日の残り物である鶏肉とグラタンの料理があった。食後すぐに、ストーブの石油を補充し、その後、ベランダの雪搔きも率先して行うと、自室に帰った。
 この日は休日ということもあってか、いくらか娯楽的な気分が湧いており、室に帰ると、もう随分前に買ったものだが、スナック菓子をつまみながらインターネットを少々回り、その後、九時四〇分から読書に入った。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。一一時前まで音読をすると、その後またちょっとインターネットを回ったのだったと思う。正午が間近になっても腹が全然減っていなかったので、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』の書抜きをすることにした。この合間に、またヴィパッサナー瞑想などについて調べてしまう時間が挟まったが、一時前には書抜きを終えた。
 その後、上階に上がって、炬燵に入ってしまったのだが、この時には二時が近くなっていたと思う。テレビは、NHK連続テレビ小説わろてんか』の出演者がインタビューを受けるような番組を流していた。それには大して目をやらず、炬燵のなかで温もりながら目を閉じて、うとうととする。傍らには母親が洗濯物を畳んだり、動いたりしている音が聞こえる。休みながらも、「休んでいる、休んでいる」と頭のなかで呟いて実況中継をするというヴィパッサナー瞑想の実践を行っていたのだが、その声が折々に逸れていって、何か良くわからない妄想を展開しているのに気づく時間があった。そのたびに戻すわけだが、そうしながらも、全体として気持ちは安らぎ、心地良い微睡みの時間を過ごすことができた。母親は途中で出かけて行ったのだが、結局、三時半前くらいまでそのように休み、それから立ち上がって、米を研ぐ。そうしてから下階に帰った。
 インターネットを回るのだが、炬燵で休んだためだろうか、この時は落着いた心持ちでいることができた。四時半から、ふたたび読書を始める。最初は座って読んでいたが、じきにベッドに寝転がると、淡い紫色を微かにはらんだような暮れ時の空が見える。その空が段々と薄暗くなっていき、五時二〇分頃になったところで読書を切り上げ、上階に行った。
 食卓灯を点し、各方の窓のカーテンを閉めてから、餃子を焼きはじめる。フライパンに餃子を敷いて、ちょっと熱してから水を注ぎ、蓋をして、待っているあいだは脚を左右にひらいて筋を伸ばしていた。焼き上がると室に帰り、日記を書き出したのだが、まもなく母親が帰ってきてこちらを呼ぶので、すぐに中断して上がって行った。タイヤを買ってきたのでそれを運んでくれと言う。了承して外に出て、車の後部から重いタイヤを一つずつ取り出し(全部で四つあった)、玄関前の階段下のスペースに入れて行く。その後、買ってきたものを冷蔵庫に収めたあと、モヤシを茹でた。鍋がなかったので、餃子を焼いたのではない、もう一つのフライパンを使った。
 そうして室に帰り、書き物をする。二月一日の記事からである。文を記しながら、次第に心身が緊張していくのを感じていたのだが、呼吸を意識するとそれを和らげることができた。いま、正直なところ、生活の端々で自分の状態が気になったり、折に触れて不安が湧いたりと、全般性不安神経症のような心の状態になっており、記憶を思い返したり、日記を書いたりするのにも何か不安が付きまとうようなのだが、やはり呼吸を常に意識の中核に据えておくことで、精神の安定を図るというのが重要なのではないだろうか。ここまで記すと、六時過ぎから始めたのがもう八時直前に至っており、時間というものはこのように止めどなく過ぎ去ってしまう、そのことにもまた何か不安があるような気がする。
 夕食を食べに上階に行った。メニューは、先ほど焼いた餃子に、味の薄いうどん、ほか、牛蒡のサラダにモヤシを添えたものである。テレビは萩本欽一香取慎吾が司会を務める仮装大会を映しており、それを見ながら時に笑いを立てた。また、優勝したのは「参勤交代」という演目を披露した子どもたちの集団で、最後にそれがふたたび演じられるのを見ながら、何か感じ入るようなところがあって、それは演目自体の内容がどうこうと言うよりも、無常感のようなものに捉えられたことによるものだったと思う。最近ではこの無常の感覚に捉えられることが本当に多く、恥ずかしながら涙を催しそうになることもしばしばなのだが、それはやはり精神がまだ不安定だということなのか、それとも中世の日本人のように情感が細やかになったということなのかは知れない。このあと、洗い物をしているあいだにも、台所に立って流しに向かい合い、皿を擦っているだけなのだが、いまここにこうしてある、この瞬間だけでもう十分なのではないか、とそのような気持ちが立つところがあった。
 時間が前後するが、食後のデザートとして、母親が買ってきてくれた、どちらも苺味の品である(母親は最近、苺関連の甘味に目がないようだ)ロールケーキと、雪見大福的な菓子を分け合っていただいた。最近のこちらの変化としてもう一つ明確に挙げられるのは母親に対する感情で、何かしら慈しみのような情が基調となりつつあるように思う。母親と時空をともにしていて苛立つということがなくなったし、実にささやかなことではあるが、彼女のために家事の手伝いをすると、そうしたことができてやはり良かったなという気持ちが湧くことがある。端的に言って、家族とともにいるというのも悪くはないものだなというような心持ちになっており、これは以前の自分からすると信じがたいような変化だが、その底には、やはりどこかで常に不安を覚えているというような心の状態があるのではないかと思う。
 家族というのは最も身近な他者であるわけだが、他者のために何かをしたいというような気持ちも、以前よりも強くなりつつあるように感じる。正直なところここ数日、自分の感情だとか、自分のやりたいこと、自分の欲望というものに自信が持てず、この日記にしたって以前はこれこそが自分の成すべきことだと思い定めていたはずが、今や自分は本当にこれを書きたいのかわからず、欲望が相対化されてしまったのだろうか、惰性で続けているような気がしないでもないのだが、ただ自分が他者に何かしらの(良い、と信じたい)影響を及ぼすことができるとすれば、その手段はこの日記、一応日々続けているこの文章を措いてほかにはないのではないか。専ら他者のために書く、ということではない。書くということ、何かをするということ、そして「~のために」というのは、そんなに単純なことではないはずだ。ただ一応、自分がいまここにこうして生きている、このようなことを感じている、それを誰かが読んで、どんなものかはわからないが、何かしらの良い作用を受けてくれるとありがたいと思う。実に優等生的で、綺麗な考え方だが、何しろ自分は、中学一年までは文句なしの優等生だったのだ。
 入浴後、一〇時から他人のブログを読んでいる。その後、おそらく湯たんぽの用意などして、一一時からトリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を読みはじめているが、横になっているうちに意識を失っていたはずである。気づくと零時半頃になっていたので、そのまま就床した。