2018/8/13, Mon.

 目覚ましは七時に設定してあった。止めた記憶がなかったがおそらく鳴ったのだろう。しかし気づけば八時前を迎えていた。ミンミンゼミの声が窓の外、朝の空気のなかに拡散していた。上階に行くと、母親は台所で素麺のサラダを作っている。前夜のうちに作り置きされてあったドライカレーを冷蔵庫から出し、電子レンジに収めた。父親が便所から出てきたのと入れ替わりに便所へ行き、その後、ドライカレーにサラダ、卵焼きを卓に並べた。サラダは素麺と野菜を混ぜてマヨネーズなどで和えたもの、卵焼きには前日の牛蒡の煮物の余りが混ざっていた。
 ものを食べ終えて皿を流しに運ぶと、冷蔵庫から飲むヨーグルトを取り出して一杯飲む。すると母親がゴミを出しに外に行っていたので、こちらも玄関を出た。午前八時の光はまだ勢いが少なく、透き通ったようで爽やかだった。燃えるゴミの袋にさらに小さな袋の塊を詰め込むのを手伝い、室内に戻ると薬を飲んだ。こちらが朝夕で飲んでいるのはクエチアピンというものが二錠、ロラザパムとスルピリドが一錠ずつである。このうちクエチアピンというのは、統合失調症双極性障害に使われるもので、気分を安定させる効果があって鬱病にも有効であるらしい。いわゆるメジャー・トランキライザーと呼ばれる効力の強いもので、2ちゃんねるのスレなど眺めていると、メジャーなど飲んだら人生終わる、などという言説もまま見られたのだが、こちらの人生がもはや終わっているのかどうかは定かでない。七月末から本が読めるようになり、いままた文章を書くまでに回復したというのは、実感としては曖昧だが、やはりこの薬が効いたということなのかもしれない。ロラゼパムスルピリドパニック障害時代に飲んでいたもので、効果はもはや何も感じられないのだが、惰性のようにして処方が続けられている。ほか、鬱病に良いというインターネット上の情報にしたがって、これらの薬と同時にマグネシウム錠剤を二粒飲んでいるのだが、これも何か効果があるのかどうか、実感として不明である。
 流しには母親が朝に食べた分、それにおそらく前夜の分も洗い物が溜められていた。それらを洗うとそのまま風呂も洗い、そして自分の部屋に戻って、窓を閉めるとSuchmos "YMM"をリピート再生させた。そうして屈伸などして下半身をちょっとほぐす。それからハーフパンツを空色のズボンに履き替え、上は黒の肌着のままで日記を書きはじめた。この日は、山梨の父親の実家へ行くことになっていた。出かける予定の九時までにもう時間がほとんどなかったが、少しでも前日の記事を書き足しておきたかったのだ。"YMM" の流れるなか打鍵を進めているとしかし、一二日の記事が終わりきらないうちに上階から、もう行こうという父親の声が聞こえた。それでコンピューターを沈黙させ、シャツと荷物を持って上階に行った。
 エディ・バウアーの半袖シャツを羽織り、車の助手席に乗りこむ。ラジオからは伊集院光の番組が流れていて、誰かゲストに識者を招いて自民党の総裁選について話を聞いていたが、どんなことが語られていたのかはもう忘れてしまった。ドライブ中のBGMとして、Donny Hathawayの『These Songs For You, Live!』を持ってきていた。父親がモニターの「Audio」の部分を押して操作すると、モニターが動いてその後ろからディスクを入れる場所が現れたので、CDをそこに挿入し、音楽を流しはじめた。
 母親も乗りこんで出発し、しばらくするとこちらは彼女からガムを貰ってもぐもぐとやりはじめた。道を走るあいだ、百日紅が至るところに花を膨らませていて、緑のなかに鮮烈な紅色を差しこませていた。木々の緑色も改めて見ると、密度の高い夏の濃さに満ち満ちている。その色を、今年初めて目にしたような感じがした。武蔵五日市駅周辺の通りには左右に街路樹として百日紅が植えられていて、鮮やかな色彩の列がしばらく続く。それらの木々は枝葉を四方八方に突き出しており、その先に花を灯しながら枝は幾分しなり、そのさまがソバージュというか、少々ぼさぼさとした髪の有り様を連想させるのだった。そうした印象は、一年前か二年前かに、同じく夏の帰省で同じ道を通った時にも日記に記したはずである。
 駅を離れて山に近づいたあたりから道がうねりはじめ、檜原村を抜けるあいだは激しい左右のカーブが続く山道で、左右に揺らされた。一月の時にはそれで随分気持ち悪くなったものだが、今回はほとんど何ともなかった。あれも当時の体調の悪さを証していたのだろう。流れるDonny Hathawayの音楽を時折り口ずさみながら揺られ、(……)に入り、(……)へと上って行き、スーパーに入った。昼食として、寿司でも買っていけば良いだろうという話になっていた。店内に入り、カートを引いて、寿司のパックを五人分籠に入れる。こちらは飲み物を確保しに両親の傍を離れたが、ペットボトルなどの置かれた区画が見当たらなかったので、パックのもので良かろうとオレンジジュースを選んだ。そのほか、唐揚げやポテトなどを盛り合わせた惣菜や、レタスやインゲン豆にミニトマト、豆腐などが籠に収められる。最後にビールなどの飲み物が求められたが、やはり区画が見つからない。母親が店員に尋ねたところ、壁の向こうになりますと言う。それで入り口に近いほうのスペースに戻って行き、目当てのものを発見して、ビール缶や、ノンアルコール飲料(「All Free」)や茶のペットボトルを確保し、終いとなった。会計には父親が向かった。長く待ちそうだったのでこちらは離れたところで待機して、(……)さんから来ていたメールに返信をした。これは前夜に、体調が回復してきたので近いうちに会いませんかとこちらが誘ったのに対する返答が届いていたのだ。(……)さんとはその後もやりとりを交わし、一九日の日曜日に久しぶりに代々木で会うことになった。
 会計の列が一向に進んでいないようなのを見て、何の目的もなくフロアをうろつきはじめた。少々ぶらぶらしてから戻ってくると、ようやく我々の品物の番が始まっていたので近くに立ち、会計された荷物を袋に整理した。飲み物の類は父親が店内の隅からダンボール箱を調達してきて、それに収められた。そうして両手に袋を提げて店をあとにして車に戻る。午前一一時の陽射しがのしかかるように頭に浴びせられるのに、これはこのなかで運動などしたらそれは倒れる者も出よう、ほとんど殺人的な光線だなと思った。
 車に乗りこむと(……)に向かう。途中にある貯水池の脇を通った際に窓の外に目をやると、濃緑に染まった水の上には細かな波紋が刻みつけられて緩慢に動いていた。上り道を走り、祖母の家に到着すると、父親が車内の収納を探った。取り出されたのはガレージの戸を開け閉めするリモコンで、それによってシャッターがひらかれてなかに車を収めた。降りると、先ほど買った荷物を手に運び、玄関の戸をくぐるとこんにちはと挨拶をした。上がって居間に入り、荷物を炬燵テーブルの上に下ろしてその場に座り込む。そうして祖母とちょっと話を交わした。毎日暑いけれど何をやっているかと問うのに、特に何もやっていないけれどと置き、でもだんだん元気になってきていると続けた。
 その後、母親とともに台所に立ち、サラダを皿に盛った。レタスを剝いて細く切り、水に晒して洗ったものを、大皿二枚に盛り付ける。そこに母親がミニトマトを加え、さらに家から持ってこられた素麺のサラダが乗った。ラップを掛けて冷蔵庫に収めておくとひとまず仕事は終わりである。時刻は一二時前だった。(……)さんが一一時五六分に四方津に着くということで、父親は迎えに行っていた。それを待ちながら居間の炬燵テーブルに集う。話はもっぱら母親と祖母が交わしているので(母親は祖母が漬けた梅干しを持ってきて一つ食べ、美味しいと言っていた)こちらは退屈し、そのうちに本を読もうと隣の部屋に移った。毛布や薄い掛け布団が重ねられてあったので、それにもたれながら、工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』を読む。しばらくすると、父親と(……)さんが到着したので、読書を中断した。廊下に出ると玄関に(……)さんがいたので顔を合わせ、どうも、こんにちはと挨拶をする。そうして居間の障子戸を開けるとすぐそこに(……)ちゃんがおり、こちらは早速傍らにしゃがんで頭を撫でた。
 食事のために食器を運び、テーブルの上に並べた。余裕の足りない卓上に所狭しと揃えられたのは寿司に先ほどのサラダ、大学芋、それに(……)さんが作ってきたというローストビーフのロールなどである。品物すべては乗り切らず、食べたあとからまた追加されることになった。こちらは両親や(……)さんに飲み物をつぎ、自分の分のオレンジジュースもコップに注いで、そうして乾杯がなされ、食事が始まった。山葵を溶かした醤油を小皿に用意して、寿司を次々と食って行く。その他大学芋やローストビーフ、サラダを黙々と食べ、あとから揚げ物の盛り合わせや、祖母が用意してくれた素麺も食べて、大層腹が膨れた。例によって会話は周囲の人間に任せて、こちらは黙ってものを食べながら時折りテレビに目をやったりするのだが、そのテレビは昼の情報番組を映しており、何か料理の紹介などがなされていた。(……)さんの手によって(……)ちゃんにも食事が与えられるのだが、赤子はじっとしておらず、うろうろと周囲を歩き回ったり動いたりして、食事をきちんと取らせるのに手間が掛かるのだった。彼女は玩具の鋏を手にしており、それで寿司を叩いたりするので、(……)さんは食べたいのかと言って玉子を小さく切り、それを与えたりもしていた。
 (……)ちゃんはまた、仏壇の前に行って、鈴[りん]を鳴らしながら笑みを浮かべたりもしていた。先日我が家にやって来た時もやっていたが、それをちーん、と鳴らすのがどうも面白いらしい。腹いっぱいになったこちらは、探検などと言って、彼女が居間を離れて家中をてくてくと歩き回るのに付き合ったりもした。そのうちに気づくと空が搔き曇ってきており、雨の気配が濃厚に漂いはじめた。小さな縁側のようなスペースに出ると、湿ってしっとりとした風が吹き過ぎており、庭の植木が葉を揺らしていた。空には青灰色の雲が折り重なって、雷が落ちるのも近く聞こえた。なかに入って、こちらが居間の片隅にあるマッサージチェアに就き、身体をほぐしはじめてまもなく、にわかに雨が始まって、あっという間に粒の横に流れる激しい吹き降りとなった。時刻は一時半過ぎだった。(……)ちゃんは縁側に続くガラス戸に寄って外を眺め、天気が荒れて植物が揺れているのが面白いのだろうか、笑いを立てていた。雷の閃光がほとんどひっきりなしというように部屋のなかにも走って届いた。
 そのまま二時を迎えると、テレビは『情報ライブ ミヤネ屋』を流しはじめた。冒頭、大阪は富田林の警察署から強制性交の容疑者が逃走をしたという報道がなされた。弁護士と接見をしたあとに、仕切りのアクリル板を無理やり押し破って外に逃げたらしい。とにかく怖いので早く捕まってほしい、などという近隣住民の言が伝えられるのを見ながら、こちらはマッサージチェアに居座り続けた。二時半頃になるとようやくチェアを立って隣室へ、家を発ってからここまでのことを思い返し、手帳にメモを取った。その頃には皆は居間で寄り集まって葡萄を食べており、流れるニュースについて(……)さんがもうこれはいいのに、とか何とか言うのが聞こえていた。
 メモを取り終えるとこちらもそのなかに加わって葡萄を食べ、さらに(……)さんが買ってきてくれた菓子、東京ミルクチーズ工場という店のクッキーも皆で頂いた。外はまだ曇ってはいたが、じきに雨は止んだようだった。母親が(……)ちゃんに、外に行くかと尋ね掛けたのを機に、こちらも一緒に外に出ることにした。椅子がないために胡座の姿勢を取り続けて腰が痛くなっていたし、腹も重くてちょっと動きたかったのだ。サンダル履きで玄関を抜け、ガレージも抜けてしばらく敷地の端に佇んだ。道路からは濡れた路面の水分が蒸発するように靄が立っており、彼方を見れば重なる山々の谷間に濃厚に白濁した霧が湧き、巨大な生き物のようにゆっくりと右から左へと推移していた。それから庭のほうへ戻り、母親と(……)さんが(……)ちゃんと一緒にいるのに合流した。庭の通路には青いビニールシートが敷かれていた。(……)ちゃんはその上を歩き、先ほどの雨で作られた水溜まりにも怖じることなく足を踏み入れ、そこに立ち止まり、地面に手を伸ばして、そこにある何かに指を触れさせたりしていた。そのうちに、その場で足踏みをして、水をびしゃびしゃとあたりに跳ね返させた。汚れてしまうよと大人たちが呆れ気味に見守っているのを意に介さず、その場にしゃがみこんでスカートの裾を濡らしてしまうのだった。
 反り返った庭木の葉のその下側に、露がいくつもぶら下がって極小の光をなしていた。こちらは茄子や胡瓜やネギが植えられている横を通って家の裏のほうに歩いて行き、あたりを眺めた。一月に来た時に(……)くんが滑り降りて遊んだ斜面は、草の海になっていた。その後、道を戻り、ふたたびガレージを抜けて敷地の入り口に佇んだ。そうしていると見覚えのあるオレンジ色の車が坂を上って来た。なかに乗っている人が手を振るのが見えたので、こちらも振りかえした。(……)さんの一家である。昼を食べてから午後に来るという話だったところ、ゲリラ豪雨によって一時は訪問が危ぶまれたが、雨が止んだのでやはりやって来たのだった。後部座席に乗った(……)(知的障害者である)が窓から姿を現し、ぶんぶんと手を振ってみせたので、笑って振りかえした。車が止まり、(……)さんが降りてくると、こんにちはと挨拶し、ご無沙汰していますと続けた。(……)さんにも同様に挨拶して、凄い降りだったねと言うのに同意を返した。
 室内に入ると、(……)さんの横に腰掛けた。飲み物はと問われたのに対して(……)さんは、酒が飲みたいなと言い、焼酎が用意された。父親は、(……)さん、と母親を呼び、何かつまみを、と要求した。それに応じて、先ほどの素麺のサラダや胡瓜などが出された。毎日暑いですけれど、どうですかと問うと、夏負けしてるよと(……)さんは言う。今頃(時刻は四時に近づいていた)になると飲みたくなると言い、おじさんは頚椎が悪いから、と続く。本を読んだりしていると苦しくなってくるのだが、酒を飲むと血行が良くなってそれが緩和されるのだと言った。じゃあエネルギー源みたいな感じですねとこちらが受けると、(……)さんは引き笑いを立てた。
 最近だかどうか知らないが、(……)さんは山崎豊子の『不毛地帯』という小説を読んだらしかった。こちらの兄がモスクワに勤めているというところから連想して思い出したらしく、シベリアのほうの話で、抑留時代を書いたものなのだが、などと(……)さんに説明するのだが、それは単なる連想から発された言葉で、話の落とし所がなく、尻切れトンボのようになってしまっていた。こちらはあとになって、山崎豊子というと去年あたりに亡くなった人ですよねとか(実際はもう数年前らしかった)、長いものを書く人ですよねとか話を拾った。こちらの会話だってそれ以上発展するものではないのだが、(……)さんとそのように、ぽつりぽつりとでもありながら普通に言葉を交わせていることは安心するべき材料だった。と言うのも、六月に祖父の十三回忌で山梨に来た際にも席を隣にしたのだが、その時は鬱気のまっただなかにいる時期で、本当に何も話すことが思いつかず、と言うかその気力が湧かずに、何か言われてもほとんど何の反応もできなかったからだ。こうした点を見ても、自分は確実に回復していると言えるだろう。
 四時半の電車に乗って帰ることになっていたので、時間は少なく、(……)さんとはほとんど話ができなかった。四時一五分頃出ようという話だったが、その時刻が近づくと寺の僧侶が訪ねて来た。盆で朝の七時から檀家の宅を回っているらしい。仏壇の前に座って務めと果たそうとしはじめるのだが、出発の時間が迫って我々は慌ただしくしていたため、坊さんの前でばたばたとしてしまうことになった。(……)さんともきちんとした別れの挨拶ができないまま、こちらは母親とともに外に出た。車に乗る前に、ついてきていた(……)さんに、(……)さんによろしく言っておいてくださいと伝えて、車に乗車した。
 (……)駅に向かって山道を下りて行くのだった。車中で母親は、(……)さんはまったく朗らかでいつも明るくしてるね、と言い、(……)さんがそれに同意するのに対して、知的障害者である(……)のことを指して、(……)さんだから育てられるんだねとの感想を漏らした。(……)駅に着くと車を降り、後部のトランクからベビーカーを取り出した。(……)さんが真菜ちゃんを抱き、ベビーカーはこちらが抱えて運ぶことになった。(……)駅にはエレベーターがなく、(……)ちゃんをベビーカーに乗せてしまうよりもそちらのほうが移動しやすいとの判断だった。それで改札をくぐって通路を行くのだが、貧弱なこちらにとってベビーカーはなかなか重く、進むあいだ母親と(……)さんから遅れを取った。普段は一人でこれを運ばなくてはならないのだから、(……)さんは大変である。ホームに入ると座れる席を探して進み、車両端の三人掛けが空いていたところに入った。席を確保すると(……)さんはベビーカーをひらき、(……)ちゃんを乗せた。発車までは数分の猶予があった。左のほうでは中年に掛かろうかという女性の集団が、笑い声を立て合いながら素早いやりとりで賑やかに話していた。
 道中、(……)ちゃんはパックの林檎ジュースを与えられて飲んでいた。疲れたのか、愚図りかけた瞬間もあったのだが、(……)さんが抱き上げると落ち着いて、大きな泣き声を上げることもなく過ごすことができた。駅に着いて乗客が乗ってきて、車両を移ろうとする人がいると、(……)さんは扉の前に置かれたベビーカーを手前に引き、母親は通る人に対して小声ですいません、と言って会釈をした。(……)さんは、優先席もなくて手すりだけついている車両があるじゃないですか、と母親に言う。あそこに入りたいなと思っても人が立っていることがあるのだけれど、子を育てる立場になってみて初めてわかる、自分も昔はそうしていたかもしれないから反省すると話した。こちらは一月の帰りの記憶から、高尾で乗り換えなくてはならず、その時はまたベビーカーを運ぶようだろうと思っていたのだが、今回の電車は直通の東京行きだった。それで高尾を過ぎたあたりから、本を取り出して読みはじめた。
 母親は立川の(……)さんに、急なことではあるが会えるかどうかとの誘いを送っていた。立川にそろそろ着こうという頃、それに肯定の返信があったので、母親は立川に寄っていくことになった。到着間際で(……)さんがこちらに、何の本を読んでるのと問うた。フローベールというフランスの作家の手紙ですと答え、何か聞いたことがあるとの言が返ったが、もうまもなく到着だったのでそれ以上会話を展開する猶予がなく、ありがとうございましたと礼を交わして(……)さんと別れた。来月あたりにまた遊びに行きますと彼女は残した。
 階段を上ったところで母親と別れ、こちらは(……)行きのホームに降りて乗車した。そうして手帳を取り出して時間をメモし、ふたたび本を読みはじめる。二五二頁に、「ぼくがやってみたいのは、生きるためには呼吸をすればいいのと同じように、(こんな言い方ができるとすれば)ただ文章を書きさえすれば[﹅7]いい書物をつくることです」とあった。文体の彫琢に精魂を尽くしたフローベールの言う意味とは多分違っているのだと思うが、こちらの日記もただ書きさえすれば良いと、そんなものであってほしいと思っている。二五四頁には推敲に苦慮している旨の証言があるのだが、そこを読んだ時には、(……)さんのことを、彼が『(……)』の推敲でやはり苦しんでいた時に、前世がフローベールだったとでも思って諦めるしかないですよという言を送ったのを思い出した。引いてみると、「今日の午後で、訂正はやめることにしました、もう何がなんだかわからなくなってしまったので。ひとつの仕事にあまり長くかかりきっていると、目がチカチカしてくる。いま間違いだと思ったものが、五分後にはそうでないように思われてくる。こうなると、訂正のつぎに訂正の再訂正とつづいて、もはや果てしがない。ついにはただとりとめのないことをくり返すことになる、これはもう止める潮時です」となる。
 (……)駅に着くと、ホームを歩いて自販機の前に行き、一〇〇円を三度挿入して小さなスナック菓子を三つ買った。それから待合室の壁にもたれ、本を読みながら乗り換えの来るのを待ち、乗ったあとも読書を続けた。時刻は六時過ぎだった。(……)で降り、機械にICカードをタッチさせると、残高不足の表示が出る。しまったなと思った。我が最寄り駅は無人駅なのでそのまま出ることはできるのだが、券売機がないのでカードに代金をチャージすることができないのだ。券売機の代わりに、乗車証明書発行機械などというものが置かれてあり、代金が足りなかった人はそれを発行して、次回どこかの窓口に行くようにと記されていたのだが、面倒臭いので券は発行しなかった。それで通りを渡り、坂に入ると、頭上に蟬の鳴き声が広がっている。下りて出た通りから見える空には、まだ雲が広く掛かっていたが、東の一角には弱い明るみが差していた。自宅まで来てポストをチェックすると、こちら宛の郵便が一つあった。小さな葉書で、差出人の名がないのだが、外国から届いたものなので(……)さんからだとすぐにわかった。表面には宛名、裏はクレヨンで描いたのだろうか、様々な色の線が乱雑に交錯して、落書きのようになっている。意図はわからないが、調子の回復したいま、彼ともまた会って話してみたいなと思った(以前のように哲学的な話題についていける自信はないが)。
 郵便物を持って家に入ると食卓灯を灯し、風呂の湯沸かしスイッチを押した。それからベランダの隅に出ていた僅かな洗濯物を屋内に入れる。激しい吹き降りにやられたのだろう、肌着のシャツは湿っていた。自室に戻って着替えると、Suchmos "YMM"を流した。昼にたらふく食って腹がまったく減っていなかったので、夕食を取るつもりはなかった。長くなるであろう日記を書きはじめなければならなかったが、疲労があったので、少し息をつくために先に本を読んだ。書見しながらベッドに腰掛け、ゴルフボールを踏むのだが、こうして足裏を刺激すると下半身が軽くなるのだ。それで七時まで本を読み、それからKurt Rosenwinkel『The Remedy』をバックに日記を書きはじめた。まずは前日の分を完成させなければならなかった。それを仕上げてブログに投稿すると今日の分に取り掛かったが、一時間に三〇〇〇字ほどのペースにしかならず、二時間が経過して九時になってもまだ中途だった。一旦中断して、先に風呂に入ることにして、上階に行った。仏間の箪笥から肌着を取り出し、洗面所に行って服を脱ごうというところで玄関の鍵が開く音がした。母親が帰って来たのだった。こちらが風呂に入ってまもなく、洗面所から母親の声がして、食事はと尋ねてみせたが、何もいらないと返答した。
 入浴を済ませて出てくると飲むヨーグルトを飲み、それから翌日のために米を研いだ。そうして自室に帰って、夕食の代わりに買ってきたスナック菓子を一つ食った(食べながら「(……)」を読んだ)。それからインターネットをちょっと眺めて、一〇時過ぎからふたたび日記に取り掛かり、現在時に追いつくと時刻はちょうど一一時半になっている。これだけ時間を費やして書いていてもやはり楽しいという感じはなく、記述を練る喜びなども特に感じない。つまらないわけでもないが、何にもならないことをよくも時間を掛けてやっているという感がなくもない。
 零時過ぎから『ボヴァリー夫人の手紙』を読み出した。日記が長くなったために今日は音楽に集中して耳を傾ける時間の余裕はなく、寝る前にいくらか読書をしたいという心だったが、ベッドに転がっているうちに微睡みにやられた。気づくと一時を回っていたので、もう駄目だなと眠ることにした。洗面所まで行って薬を飲む気力がなかったので、服用せずにそのまま消灯し、眠りに身を任せた。外出のためにさすがに疲れていたのだろうか、普段と違って入眠まで時間が掛かった覚えがない。

2018/8/12, Sun.

 一〇時台まで眠りに捕らえられていた。九時間ほどの睡眠となったわけだが、眠気がまったく生じないにもかかわらず、眠れば長く寝てしまうのが不思議である。起き上がると脚が重かった。上階に行き、テーブルに就いた母親に挨拶をしてから洗面所に向かったところで、カレーの匂いが鼻に漂った。顔を洗ってから便所に行くため玄関のほうに出ると、開け放たれた扉の向こうから、ミンミンゼミの鳴き声が響いている。用を足し、台所に戻るとフライパンを熱するかたわら大根をおろした。そうしてカレーとともに卓に運んで食べはじめる。新聞の一面には群馬で起きた墜落事件についてや、ドローン配送が始まるなどという記事が載っていたがあまり目を向けなかった。ものを食べ終えると、蚊を叩きながら皿を洗い、そのまま風呂洗いも行って、そうして下階に下りた。
 コンピューターを起動させるとまず、「(……)」を読んだ。それからTwitterに接続したのは、「日記がまた書けるようになって良かった」と前日呟いたのに対して、(……)という方からリプライがあったので、返信をしようと思ったのだ(この人はこちらの変調以来何度か、励ましや助言の言葉をくれた人である)。「たびたびのお気遣いをありがとうございました。感受性の希薄化を感じているのですが、ともかくも、また書けるようになったということだけでいまは良しとするべきでしょうね。大した文章ではないですが、読んでくださるのならありがたいです」と返答し、そうして早速日記を書きはじめた。まず前日の分、夜の九時以降のことを綴るのだが、やはり以前よりもすらすらと書けないような感じがする。それでも仕上げて、この日の記事にも入って進めると、現在時刻は正午前である。
 Suchmos "YMM"をリピート再生させながら、運動を行った。脚の筋を伸ばしたり、腹筋運動や腕立て伏せをしたりするのだが、鬱々と寝込んでいた時期のせいで身体は鈍く、ほとんど回数をこなせない。それから、二時間前にも食べたばかりなのだが、食事を取りに部屋を出た。上階に行くと、この朝はラジオ体操に出ていた(そのために五時起きだったと聞いた)父親がおり、作業着のズボンに上半身は裸になって食事を取ろうとしていた。朝食と同様、カレーをよそって食べる。皿を洗ってしまうと下階に戻り、一時直前から読書を始めた。この書見は五時半まで続くことになるのだが、そこに到ってみても四時間半の長きに渡ってものを読んだという感じはせず、欲望に駆られているわけでもなく、時間に応じた充実感もなかった。本を読むにせよ、音楽を聞くにせよ何をするにせよ、そもそも自分が日々を生きているということそのものに、以前はあったはずの実感が薄くなっており、張り合いがないようであるこれは、軽度のものではあるが、たしかに医者の診断通り現実感喪失症候群と言って良いのかもしれない。
 ベッドに腰掛けながらスツール型の椅子の上に本を置いたり、寝床に転がって左右に姿勢を変えながら読んだり、その二つの体勢を繰り返しながら読書をした。四時頃だったろうか、ベッドにいるあいだには薄い微睡みが訪れた瞬間もあったようだ。いつの間にかという感じで五時半に到っており、書見を中断した時には頁の上に薄暗さが浸透していた。外を見れば雲の広く掛かったなかに僅か切り込みが入って、合間から淡い水色が覗いていた。
 そうして食事の支度をするために上階に行った。何にしようかと母親は言ったそのすぐあと、魚を焼こうと思いつき、メカジキだろうか、冷凍になっていたものを取り出す。汁物は即席の豚汁があったので、それを飲めば良いだろうという話になった。こちらが便所に行っていたあいだに、調理台の上ではピーマンがいくつか、二つに切られてあった。魚を電子レンジで熱して解凍し、三枚をそれぞれ等分するとフライパンに油を引いて、チューブのニンニクと生姜のすりおろしを投入した。そうして魚とピーマンを炒めはじめ、良い具合になったところでオイスターソースと醤油を垂らした。
 ほかには牛蒡を煮るかというわけで、人参と牛蒡を薄く斜めに切っていく。さらに、先日(……)さんに貰った筍も入れようと母親が思いつき、それも切るとこれをまず湯がきに入った。こちらはその間、新聞を取ってきてひらき、適当に記事を眺める。母親は、メルカリに盆提灯が売り出されていたので驚いたと言った。売るようなものじゃないでしょと言うのに、こちらは興味が持てないので、そういう習慣もいずれは消滅するだろうとすげなく返す。ほか、台所にいたあいだに聞いた話としては、昼食中にも話題に出ていたのだが、近所の(……)さんという人が引っ越すのだということがあった。六四歳だかで夫を亡くして以来二十年一人暮らしをしてきたところ、ホームにでも入ろうかと思っていたら息子夫婦が新居を設けてそこに呼んでくれたのだと言う。母親はそれを自分の身に照らし合わせて、もし兄夫婦と一緒に住むことになったらと考え、複雑だなどと漏らしていた。また、父親の車がないことは便所に行った時に玄関の小窓から見て確認していたのだが、相撲開きに行ったのだと言う。この地区では九月の神社奉納祭に少年たちが相撲を行うのが習わしなのだが、その練習が今日から始まったのだろう。
 牛蒡の煮物が煮えるのを待つあいだに、台所に突っ立ったまま新聞を広げ、「首相 地方議員も囲い込み 3選に強い意欲 石破氏包囲網」、「物流悲鳴 担い手置き去り 規制緩和で参入続々 過当競争」の記事を読んだ。もう良いかと思われるところで火を消すと下階に戻った。六時半が近づいていた。先ほど読んだ記事の記述をちょっと日記に写しておき、そうして七時になると食事を取ることにした。
 階段を上がって行くと父親がいたのでおかえりと言ったのだが、台所に入って夕食を用意しているあいだにまたもや出かけて行った。また出かけるのかと問えば、(……)、と突き放したような風に母親は店名を口にする。自治会の会合である。納得したこちらは米をよそり、先ほど作った魚のソテーを電子レンジに入れ、そうして小皿に大根をおろす。即席の味噌汁にポットから湯を注いでいる時、テレビにはニュースが映っていて、五二〇人が亡くなった日航機墜落事故から三三年だと伝えていた。事故の現場である御巣鷹山に登る人々が見られ、そのなかに、結婚して今年はその報告に来ましたという二人がいた。卓に就いてものを食べはじめながらそれを眺めていると、次に、高円宮家の絢子女王が婚約したとの報が流れる。さらに、今日八月一二日は日中平和友好条約からちょうど四〇年だとテレビは続けた。そうして、当時の条約交渉の席にいた外交官の証言テープが紹介されるのだが、それによると鄧小平は、中国がこの先大国化しても覇権を求めないと明言したと言う。また、尖閣諸島(今年に入ってからも五〇回の領海侵入が繰り返されているとのことだった)についても、一〇〇年置いておいても良い、条約の精神に則って互いが受け容れられる解決策を探ろうとの言が伝えられた。
 食事を終えると皿を洗い、散歩、と母親に残して玄関を出た。林から聞こえる虫の音が、今日は気温が比較的低いためだろうか、数日前より薄いようだった。空気は殊更に蒸すのでなく、熱を持たずに肌に馴染み、歩きはじめは汗もさほど出てこない。道中、曇った空が一瞬、ぱっ、ぱっ、と明滅する薄光を掛けられるという現象が何度も見られたのだが、これが何なのか、その正体はわからない。空の遥か向こうで雷が落ちでもしているのだろうか? 街道との交差点で渡り、保育園のほうに続く路地に入って行き、駅が近づいてきた頃にはさすがに汗が湧き、腕が前後に振れるのに応じて脇の下や鎖骨のあたりがやや粘るようだった。ここまでの歩みにも、また駅を越えて自宅に戻るあいだにも、脳内での独り言、散漫な思考がついてくるのだが、その思考というものが変調以前よりもまとまりなく、音楽の想起も挟んで次々に移り変わって行き、統一感を持った形をなさないようだった。変調前よりも思考が(脳内での独り言が)下手になったというか、その範囲が制限されているように思われるのだが、これがこの先改善・向上されていくのかどうかはわからない。
 帰ってくると風呂に入った。頭を洗い、束子で腹のあたりをよく擦ってから上がる。洗面所では壁に取り付けられた扇風機を点け、タオルで頭をがしがしとやって水気をよく飛ばすと、パンツ一丁でドライヤーを取った。なおざりに髪を乾かすと室を出て、飲むヨーグルトをコップに注いで飲む。母親がメロンパンを半分くれると言うのでいただき、それをかじりながら階段を下って自室に戻った。時刻は八時半直前、日記を綴りはじめた。パンツ姿のまま椅子に腰を据えて進め、ここまで記すと一時間が経って九時半になっている。夢中になるほど集中しているわけではないのだが、あっという間、という感じである。このような調子で時間が過ぎていくのだから、一日も一生も短いものだろう。それにしても、その短い一日のうちに少なくない時間を割いて、このような日記を書いて、一体何になるというのか? 多分、何にもならないのだと思う。欲望に動かされている感じもなく、ある種の惰性で書かれているものかもしれないが、しかしまたできるようになったことをやめる気にはならない。結局、ほかにやることがないのだ。書くことこそが、自分の生に意味を与えてくれているのだろうか? 日記を書くだけで金が貰え、生きていけるのなら良いのだが。しかし、誰にとっても、自分自身にとってすらもどうでも良いような、些細で細々とした記述に満たされており、無駄に長々とした毎日のこの文章に付き合って、読んでくれている人がいるのだろうか? 楽しんでいる人が一人でもいるのだろうか? 誰か教えてほしい。
 一〇時からまた読書を始めた。スツール椅子をベッドの側に引き寄せ、その上に本を置き、じっと身体を動かさずに文を集中して追おうとするのだが、姿勢の固定に耐えられずにたびたび脚を組んだり、組み替えたりとしてしまう。読書は日付が変わる直前まで進められた。その終盤、歯を磨こうと室を出て洗面所に行くと、洗面台の上が何故か綺麗に片付けられており、一つのものも置かれていない。歯磨き粉はどこに行ったのかと、歯ブラシを持って母親の部屋を訪ねると、母親は布団の上に横たわってうとうとしていた。歯磨き粉はというこちらの声に意識を取り戻したようで、まだ眠そうな様子を残しながら上だと言ってみせる。それで上階に上がって行くと、飲み会から帰った父親がソファに腰掛け、前屈みになりながらカップ麺を啜っていた。おかえりと声を掛け、はい、と答えが返る。テレビには韓国ドラマが映っていた。そうしてこちらは洗面所で歯磨き粉を入手し、口のなかをごしごしやりながら下階に帰った。
 零時を迎えて(……)さんのブログ、「(……)」に接続してみると、更新されていたので最新の記事を読んだ。そこに日本にインターンに来ている中国人留学生の苦境、日本人によってもたらされる差別的な処遇について記されていて、これはひどいなと思った。力仕事や汚れ仕事を押し付けられ、朝食のパンは残り物が与えられるのだと言う。精神作用が感情的に希薄化している現在、また留学生らと直接の知り合いではないこともあってか、心が痛くなるような同情心とか、傲慢な日本人に対する生理的な嫌悪といったものは湧いてこないのだが、それでもこうした愚かしい状況がまかり通っていることに対しては理不尽を感じる。ブログを読んだあとは、Ella Fitzgerald『's Wonderful - Live In Amsterdam 1957 & 1960』を聞きはじめた。この夜は後半の一九六〇年代の公演を聞いた。三曲目に"Gone With The Wind"が演じられている。Ella Fitzgeraldのこの曲のパフォーマンスは『Mack The Knife - Ella In Berlin』のものが気に入りで、そちらと比べてどうかと言えば、甲乙付けがたいものの後者のほうが録音の質が良かったような印象があり、そちらに傾くか。アムステルダムの音源は、曲のアレンジがベルリンのものとまったく同じで、それで調べてみればこの二つの音源は同時期のもので、演奏のメンバーも同じなのだった。ベルリンのものが一九六〇年二月一三日、アムステルダムのものはすぐあとの二月二七日で、同じ欧州公演の一部なのだろう。曲目もほとんど重なっており、そうするとわざわざアムステルダムのものを聞くよりも、録音の良いベルリンの音源があれば良いのではないかと過ぎりもするのだが、それでも最後の"Roll 'Em Pete"は圧巻と言うべきだったろう。
 最後まで聞くと一時直前、洗面所に行ってオランザピンとブロチゾラムを服用し、室に戻って明かりを落として布団を被った。

2018/8/11, Sat.

 九時半が近くなって段々と意識が定かになってきた。カーテンをひらくと射し込む午前の陽が胸のあたりに当たって熱が溜まる。その熱さを嫌って遮光幕を閉じ、ちょっとしてから起き上がった。上階に行き、両親におはようと挨拶をしてから洗面所に入って顔を洗った。食事には、鮭があると言う。冷蔵庫に保存されていた皿を取り出し、一切れを取り分けて電子レンジで熱した。さらに、胃の助けにと小皿に大根をおろす。ほか、米と胡瓜のサラダが食卓には並んだ。新聞をめくりながら(書評面に山内マリコの本が取り上げられていた)塩気のある鮭と米を一緒に咀嚼する。ものを食べ終えたのと同じ頃、父親は床屋に電話を掛けて出かけていった。床屋のほかに、「(……)」などにも寄る用があるらしい。こちらは食器を片付け、洗濯機のなかにあった足ふきマットの類を三枚ベランダに干しておき、風呂を洗ってから室に帰った。
 一〇時半前である。コンピューターを点け、早速前日の日記に取り掛かり、完成させるとブログに投稿した。本調子でなく、描写がうまくできないなどの問題はあるが、久しぶりに日記らしい日記を書いたと思う。文章力、言葉に対する感覚は変調前より下がっていることは間違いなく、書くことに対する欲望も自分のなかにあるのか定かでないが、ともかくもまた書き続けてみようかという気にはなっている。二〇一三年からちょうど丸五年、毎日書き続けてきたことで得られたものは、精神の変調によって半ばおしゃかになったかもしれない、しかしそれだったら今からまた五年間、書き続ければ良いのではないか。それによって自分が自分の望むように変化するのか、何かが得られるのか、それはわからない。しかし結局、自分には、読んで、書くぐらいしか人生でやることはないのだ。
 ここまで記すと一一時過ぎだった。母親は帰ってきた父親とともに、「(……)」に出かけて行った。
 それから椅子にじっと留まって、流していたRobert Glasper『Everything's Beautiful』の残りの曲を聞いた。Stevie Wonderが招かれてハーモニカを吹いている最終曲の"Right On Brotha"あたりが少々良かった気がするが、ほかにはあまりピンとくる感じがなかった。しかし、それが作品の質の問題なのか、こちらの感性の衰えの問題なのかはわからない。音楽の質感が以前に比べてうまく捉えられないのは確かで、結局それだ、質感、音楽であれ風景であれ文章であれそのもの自体の個別性を特徴づける質感、ニュアンス、差異、それを感じ取る力が下がってしまった。パニック障害の症状はもう完全になくなって、あの忌まわしい不安を感じることもないのだが、その他の感情や感覚を定かに感じることもない、この(絶対的な? そうでないことを願いたいが)平板さが自分の症状の本質である。
 アルバムを最後まで聞き終えると、工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』を読みはじめた。仰向けになった寝床から見える空は白かった。しばらく読んでいると雨の音が立ちはじめたので、本を置いて上階に行き、ベランダに干された洗濯物をすべて室内に取りこんだ。下階のベランダにもシーツが干されていたのでそちらも仕舞いに行って、始末を付けるとそれを機に飯を食うことにした。寿司飯が出来ているという話だった。朝食に出た鮭の余りを胡瓜と一緒に米に混ぜこんだものである。上階に行って冷蔵庫を開け、目当てのものを皿に取り分け、卓に就くと新聞に目をやりながら口に運んだ。一面には、自民党の総裁選で石破茂が出馬表明との記事が出ていた。それを読み、飯のおかわりをしてさらに新聞をひらいて読んでいると、両親が帰ってきた。彼らも卓の向かいに就いて食事を始めるその一方でこちらは二面の、日米の閣僚間貿易協議についての記事を読んでいた。
 そうして一時半からまた部屋で読書を始めている。図書館に出かけようかという気持ちが兆していたのだが、もう少し遅くなってからにするつもりだった。フローベールの言葉を部分的にノートにメモしながら一時間と二〇分読み、三時前になると本を閉じて支度を始めることにした。Robert Glasper『Black Radio』を流してごくごく軽く運動をしたあと、上階に行って上半身裸になり、デオドラントシートで身体を拭った。それからオレンジと青のチェック柄のシャツを身につけ、下階に戻ってズボンも履いた。"Cherish The Day"が流れ終わるとコンピューターを閉じ、本と手帳とともにリュックサックに入れた。気分次第で外で書き物をしてくるつもりだったのだ。そうして上階に行って水を飲み、母親に誘われてゼリーを食べたあと、階を下っておざなりな歯磨きをした。そうすると三時半前、家を出発した。
 肌がべたついて仕方ない、蒸し蒸しとした曇り空だった。道を歩いているとぽつりと一粒、視界をまっすぐ縦に落ちる雨粒が見え、続いて仲間たちもぽつぽつ現れはじめた。坂に入ると、重なり合った蟬の鳴き声が頭上から覆いかぶさってくる。木の間を抜けて遮蔽のないところまで来ると、雨はこの短い時間のあいだにも降り増しており、しかし濡れるのを厭うて急がずに坂を抜け、道を渡った。駅のホームで屋根の下に入り、電車が来るのを待った。じっとしているとリュックサックに覆われた背の熱が籠り、手首のあたりや肩甲骨のあたりに汗の玉が転がる感触が感じられた。
 電車内には、山に行楽に行った帰りらしく、独特のリュックサックを足のあいだに置いて座る人々が多く見られた。(……)に着くと乗り換え、ちょっとごったがえすなかを向かいの電車に移る。席に就くと何をするでもなく、発車を待つ。右方に親と一緒に座った子供が猫の鳴き真似をしていた。発車するとしばらく揺られてから(……)で降りる。改札を抜け、駅舎を出ると、雨は弱くなっていた。通路を渡って図書館へ、カウンターで本を三冊返却するとCD棚を見に行く。新着作品のなかにDeep Purpleの名が見られて、まだ現役で活動していたのかと思ったが借りる気にはならない。Suchmos『The Bay』が誰にも借りられていないのはわかっていた。それを手に取り、ジャズの区画に行く。二枚目はElla Fitzgerald『's Wonderful: Live in Amsterdam 1957 & 1960』をすぐに選んだ。Ella Fitzgeraldは言うまでもなく素晴らしい歌手である。三枚目に何か良いものはないかと視線を推移させていると、Jose Jamesの、多分最新作だろうか、『Love In A Time of Madness』があったのでそれにすることにした。
 三枚を手に掴んで階段を上がる。新着図書の棚の前には人がいたのでちょっと見やったのみで後回しとし、歴史の棚を先に見分したのだが、興味関心の喪失というのもこちらの変調以後の症状にあって、あたりにある書物たちに、以前だったら多く惹かれるものがあったのだろうが、あまり欲望をそそらない。ふたたび見に行った新着図書も同様で、以前は貪るようにして興味を惹いたタイトルを手帳にメモしていたのだけれど、そうする気も起こらない。したがって何があったのかも定かに覚えていないのだが、それから海外文学のほうを見に行った。ル・クレジオなどを読もうかと思ってもみるのだが(その棚の前に立った頃には、雨が止んだらしく外が明るくなっているのが遠くに窺えた)決心が付かず、じきに、小説とそれ以外を交互にという読書のルールを崩すことになるが、最近の日本文学を何冊かまとめて読んでみようかという気になった。保坂和志『朝露通信』などをチェックしたのち、以前から読んでみようかと思っていた名前があったのだが、記憶にあるのは下の名前の「薫」のみで、名字が思い出せなかった。それで棚をうろついているうちに中原昌也が目に留まり、これを読もうというわけで『名もなき孤児たちの墓』を借りることにした。まもなく、金井美恵子の名も想起され、目当ての人というのは金井美恵子の近くにあったのではないかという記憶も蘇ってきて、「か」の区画に行ってみると件のものが見つかった。金子薫という人だった。彼の(それとも彼女だろうか?)『アルタッドに捧ぐ』を二つ目に手元に持ち、金井美恵子の例のピース・オブ・ケーキどうのこうのも見てみるのだが、これは棚に戻し、あと一冊は保坂和志にするかと決まった。最初は『朝露通信』を思っていたのだが、気を変えて、以前一度読んだことのある(文学に触れはじめてまだ間もない時期、二〇一四年くらいだったのではないか)『未明の闘争』を保持して、これで文学は終わり、フロアを渡って哲学のほうを見に行った。熊野純彦のカントについての著作などもやや気になるのだが決意しきれず、そのうちに『人文死生学宣言』のことを思い出して、それにするかと相成った。そうしてCDと合わせて七点を貸出手続きし、棚のあいだを抜けて窓際の学習席を見渡してみると、空きが一つある。そこに入ってコンピューターを立ち上げたのが四時半過ぎ、ただちに作文に入った。途中、いくらも経たないうちに便意を催したので、席を立った。トイレに行ったが個室は三つとも塞がっていたので階を下り(階段の途中には薄陽が射しこんでおり、外に見える隣の敷地には地面が光を反射するのが見られ、また紅色の膨らんだ百日紅の梢のその花の合間に光点が引っかかって点滅していた)、下のフロアのトイレで排便を済ませた。手を洗い、ハンカチを持ってくるのを忘れたので濡れたのをポケットに突っ込みながら席に戻った。そうしてここまで綴ると現在は五時半を回った直後、書きはじめてから一時間が経っているのだが、この時間が過ぎるということにも以前のような実感が感じられない。これは日を過ごしていて、眠気がまったく生じないという現象にも関連があるだろう。どういうわけなのか変調以来、時間が過ぎて夜になるのに応じて眠くなるということがなくなってしまい、朝だろうが昼だろうが夜だろうが、心身の、あるいは精神の感覚が変わりなく感じられるのだ。あるいはこれは、上にも記した差異=ニュアンスの線で言い換えるなら、それぞれの時間の個別性・具体性が感じられなくなったということでもある。その結果、時間が過ぎても精神感覚に変化が生じず、過ぎる時間に実感が持てないといった事態が生じていると思われる。とにかく、ものが十全に感じられないというのは退屈なことである。これが果たして治るのかどうか、あまり期待は持てないと思うが、あるいは年末の頃のような、感受性鋭くものを深く感じ、書くべき思考が頭のなかを軽々と遊泳するといった状態のほうがむしろ異常で、それによってその後の変調を招いたのであって、自分の元々の感受性は今の程度の味気ないものであるのかもしれないという見方もある。
 帰宅することにした。コンピューターや本をリュックサックに仕舞い、席を立つ。退館するとデッキ様になった通路の床が濡れ残っており、そこに空が映りこんでいた。歩を踏み出すと左方、マンションの窓の一つに、西に掛かった太陽の姿が膨らむが、一歩前に出るとすぐに見えなくなる。右方の本体のほうも見やりながら通路を渡り、駅に入った。ホームに下りるとちょうど電車が到着するところだった。乗車して、向かいの扉際に就く。空は雲がないわけでないが浮かんでいるものは希薄に背景に混ざり込みがちで、すっきりとした感触になっていた。(……)で降り、乗り換えのためにホームを進んで行くと、なぜだかわからないが妙に混み合っており、電車を待つ人々の列まで出来ている。その合間に入って乗り換えの電車が着くのを待ち、乗ると、浴衣を着たカップルの姿がいくつか見られた。こちらの左側に立っているそうしたカップルの一人の女性は、スマートフォンを横にして野球のアニメを見ていた。
 降りて駅を抜け、坂に入ると、頭上でツクツクホウシが輪唱のようにして次々と鳴きを上げ、その周りをほかの蟬の声が背景音として取り囲む。道を辿って帰宅すると、すぐにシャツを脱いで洗面所の籠のなかに入れた。そうして室に戻り、リュックサックから荷物を取り出すと、ズボンも脱いでハーフパンツの格好になる。時刻は六時二〇分頃だった。コンピューターを電源に繋ぎ、借りてきたCDを早速インポートしはじめた。それが終わって何やかやしているともう七時、食事を取りに行く。
 台所に入ると皿が置かれ、蒸した鶏肉と胡瓜に大根が一皿に取り分けられていた。ほか、フライパンには肉じゃがが作られてあって、それや米やマカロニのサラダをよそって卓に就く。父親も既に炬燵テーブルで食事を始めていた。テレビはニュースを掛けており、御巣鷹山日航機墜落事故から明日で三三年、などと流れたり、沖縄の辺野古基地建設反対集会の様子が映ったりする。ものを食べ終わるとすぐに風呂に入った。
 室に戻るとSuchmosをちょっと歌い、それから借りてきた彼らの『THE BAY』を流しながら日記を綴りはじめた。Suchmosのこのアルバムでは、以前、ライブ映像を目にしたことがあったが、冒頭の"YMM"がやはり格好良いと思う。ここまで記して、現在は九時直前に到っている。
 工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』を読みはじめたのだが、最初のうちは背景に流しているSuchmosが折に気になって、散漫な読書だった。アルバムが終わると"YMM"をふたたび流して歌って、そうして音楽を消してベッドに移った。ここから読書は零時まで続く。書抜こうと思う箇所の、自分のなかで中核となる文言をノートに写しながら読み進めるのだが、フローベールのこの手紙は写そうと思う言葉が頻繁にあって、あまり実感はできないが面白いと言うべきなのだろう。例の有名な、「なんについて書かれたのでもない書物」の言葉も出てきたので、この部分は引用しておこうと思う。この時点でフローベールは三〇歳である。

ぼくが素晴らしいと思うもの、ぼくがつくってみたいもの、それはなんについて書かれたのでもない書物、外部へのつながりが何もなくて、ちょうど地球がなんの支えもなしに宙に浮いているように、文体の内的な力によってみずからを支えている書物、もしそんなことが可能なら、ほとんど主題がない、あるいはほとんど主題が見えない書物です。もっとも美しい作品とは、もっとも素材の少ない作品なんです。表現が考えに近づけば近づくほど、言葉がそこにぴったり貼りついて見えなくなればなるほど、美しさは増すのです。(……)
 (101~102; ルイーズ・コレ宛、クロワッセ、一八五二年一月一六日金曜夕)

 一月三日に(……)さんと電話で話した時に、フローベールは通常文学史の上ではリアリズムの作家とされているけれど、実はそうではなかったのではないかという思いつきを語り合ったものだが、この部分を見る限りそれは当たっているだろう(註にも、「<芸術>は、いわゆる現実[レアリテ]を写し出し、その対象あるいは素材に支えられて成立するのではない。「宙に浮く地球」という見事な比喩が示すように、書物は自己完結的な空間を形成し、内部に完璧な力学的調和をたたえるべきものなのである」という説明がある)。同じ註にはまた、「小説の筋だとか出来事だとか、そんなものはどうでもよいのです」というフローベールの言葉も引かれている。物語の「筋」に対立する彼特有の概念として、「分析」「解剖」「描写」といったものがあるらしいのだが、言わば近代小説の始まりの時点で既に、非-物語的な姿勢もフローベールのうちには内包されていたわけだ(しかしおそらく『ボヴァリー夫人』は、スキャンダラスな姦通小説として、「面白い物語」として広く読まれることになった)。一月三日の日記に記した記述を、改めて下に引いておきたい。

 (……)まず、小説作品に「描写」的な細部がはっきりと取り入れられるようになったのが、概ねフローベールあたりからだという正統派文学史的な整理があると思う(これが確かなものなのか、それすらこちらは知らないのだが、ここではひとまずそういうことにしておいてほしい)。そうした理解では、「描写」とは現実世界の様相を緻密に、克明に写し取るための技術として認識されており、多分その後のゾラなどは実際にそういうつもりでやっていたと推測され、フローベールもゾラの先行者的な位置に置かれている気がするのだが(つまり、「リアリズム」の作家として位置づけられていると思うのだが)、しかし同時に、「描写」とはまた、物語的構造に対して過剰な細部として働くものでもあり、大きな構造に対する抵抗点として機能させることができるものでもある(絵画を遠くから一度見たあとに、近寄って様々な細部に目を凝らし、諸要素の配置を把握してのちふたたび距離を置いて眺めると、まったく違う様相として映る、そのようなイメージである)。ここで思い出されるのが、フローベールが書簡に記した(のだったと思うが)有名な言葉(と言いながら、引用を正確なものにできないのだが)、自分は何一つ言わない小説、何一つ書いていない小説を書きたいという宣言で(確か、「言語そのものの力によってのみ支えられている(だったか、「浮遊している」だったか)」というようなことも言っていたはずだ)、ここから推測するに、フローベールは現実世界のある側面を「そのまま」克明に写し取ろうなどとは考えていなかったのではないか? つまり、彼は「リアリズム」の作家などではなかったのではないか。

 零時を越えると本を閉じ、音楽を聞きはじめた。借りてきた『's Wonderful - Live In Amsterdam 1957 & 1960』を途中まで聞き、次に一九六一年のBill Evans Trioの"All of You (take 1)"、Nina Simone "I Want A Little Sugar In My Bowl"と以前のお気に入りを流したあと、Ella Fitzgerald『Mack The Knife - Ella In Berlin』の冒頭、"Gone With The Wind"を聞いた。おそらくEllaのパフォーマンスというよりは録音の問題が大きいのだと思うが、アムステルダムの音源よりもベルリンのそれのほうが質が高く思われる。それから『Live In Amsterdam』に戻って数曲聞き、一時を迎えた。いつものことだが、眠気はまったくなかった。布団に潜りこんでからも勿論眠くなるということがなく、折に姿勢を変えながら転がっているのだが、入眠の気配がないにもかかわらず、いつもいつの間にか意識が落ちているのだ。どうやって眠っているのか、自分でもよくわからない。

2018/8/10, Fri.

  • 夢。蓮實重彦。試験か授業を受けている最中で、それは詩を読むものだった(現実には蓮實重彦が詩の講義をすることなど一度もなかったのだろうが。彼はどこかで、詩に対してはある種の敵意すら感じているとか述べてはいなかったか?)。蓮實が話しかけてきて、ある種類のシャーペンを使うように促してくる(それをこちらは元々持ち合わせていたが、別のペンを使おうとしていたのだ)。蓮實が使っていた(使っている?)のと同じではないが、似たものらしく、普及させたいらしい。場にはもう一人、女子がいて、彼女は蓮實がそうした要求をしてくることに対して辟易しているような感じだった。
  • 七時二五分に起床した。明るい晴れの窺える部屋の空気だった。夢を手帳に記録してから上階に行くと、母親が台所で胡瓜と焼豚を炒めている。こちらはその横を通って洗面所に入り、顔を洗ってから便所に行った。放尿しながら、外でミンミンゼミたちが朝から激しく鳴きしきっているのが聞こえた。洗面所に戻ると髭を剃り、食事の用意をした。今しがた母親が炒めたものに、前夜のゴーヤチャンプルーの残りもの、さらにやはり前夜のネギと椎茸の味噌汁、そうして米は少なめによそった。卓に就いて、新聞をなおざりにめくりながらものを食べる。食後、精神科で貰っている薬とマグネシウムの錠剤を摂取した。
  • 室に戻って、前日の日記を僅かに付け足し、この日の分もここまで書いて八時半である。今日は医者に行く日になっている。
  • 中上健次『岬』の続きを読んだ。一時間ほど読み、一旦中断して何かをしたのだが、何をしたのか覚えていない。その後、洗面所から歯ブラシを持って戻ってくると、部屋のベッドの上に窓に切り取られた陽射しが落ちて、白い矩形が生まれている。そのなかに入ってふたたび本を読んでいると、一〇時を回って、母親がそろそろ行こうと言いに来たのだったと思う。上階に行き、デオドラントシートを一枚取ると、それで腹やら背やら脇の下やらを拭う。服装は、初めは階段口に掛かっていた白い麻のシャツを着ようかと思っていたが、母親がチェックのものはと言うので、そちらにすることにした。先日(……)さんが来た時に頂いたエディ・バウアーのものである。薄青さを基調にして爽やかなそれを身に着け、バッグに本と手帳を入れると上階に行った。
  • 夏休み中の父親も合わせて三人で行くことになっていた。父親の車に乗り込み、出発する。道中のラジオは福田彩乃がゲストに出ており、外でもどこでも物真似の練習をするとか言ったり、聴覚が結構敏感で、耳に入ってくる音によって心地良いとか不快だとか感じることがままあるというような話をしていた。そういった鋭敏な感受性は、世界を十全に感じる能力を失った今のこちらにしてみると羨ましいものである。
  • 駐車場はそこそこ空いていた。車を降り、ビルに入って階段を上って行く。待合室に入ると、先に待っている人たちが三、四人いたようだ。受付に診察券を出して座り、早速中上健次『岬』を読みはじめた。クラシック音楽の静かに掛かるなかで、これといった物音もなく、結構集中して読むことができたと思う。そのおかげか、二二一頁と二二八頁に書抜き箇所を発見した。呼ばれるまでに三〇分ほど待った。名を呼ばれるとはい、と答えて、診察室の戸をノックし、こんにちはと言いながらなかに入る。この一週間、どのように過ごしていたかと訊かれたので、前と変わりはないのだがと置き、飯を作ったり、散歩をしたり、本を読んだりと言った。調子は段々良くなってきていると思うと答え、一時よりも気分が全体的に底上げされたような感じがすると述べた。本に関してはしかし、よく読んではいるものの、内容が十全に頭に入って来るかどうかは覚束ない、と言うか、読んでいても前のように感想が全然湧いてこないのだと話した。(……)全体としてはまずまずと医者は言い、薬も同じままでさらに様子を見ることになった。
  • 礼を言って退出し、会計を済ませ(一四三〇円に対して五〇三〇円を出した)、ビルを抜けると隣の薬局に入った。僅かなあいだだが『岬』を読んで待ち、呼ばれたカウンターにいくと、この日の相手は(……)さんという人である(「(……)」なのか「(……)」なのか不明)。以前から何度か当たったことのある人で、なかなかに愛想の良い職員である。調子はどうかと訊かれたのに、段々良くなってきている気がすると答え、会計をして(七四〇円)局をあとにした。
  • 薬局から道路に出て振り向くと、小学校の校庭が僅かに見える。そこに誰の人影もなく、子どもたちの何の声も伝わって来ないのに、そうか、夏休みかとふと落ちてきた。車に戻る。先日も母親と行った「(……)」で飯を食おうということになった。発車して間もなく、薬局のすぐ傍の公園では紅白帽を被った幼稚園児(だったろうか?)たちがブランコに乗ったりして遊んでいた。角を曲がると、小学校の敷地の端、網の掛かったあたりに雀がいるのが視界の隅に流れる。晴れていて暑いのだが(外気温が三六度になっていると父親は言った)、街道に出たところで見える空には、もくもくと形を膨らませた雲が、南にも東にも生まれており、ことによると雨が来るかもしれないという気配を僅かに感じさせないでもない。それから、街道をまっすぐ走って「(……)」に入った。
  • 街道の交差する角にある店で、窓からは途切れることのない車の流れが見え、労働者たちが昼をさっと手軽に済ませるような風情である。こちらはチキンカツ定食、母親は柚子胡椒と大根おろしの掛かった特殊なチキンカツ定食、父親はロースカツ定食を注文した。カツにソースを掛け、辛子を付し、米と一緒に咀嚼して、それが終わればドレッシングを掛けたキャベツ、そして豚汁と、律儀に一品ずつ食べて行く。母親は食べきれないと言って、カツを二切れこちらに寄越した。先日両親が、ホームに入っている(……)のお婆さん(亡き祖母の姉。九四歳だと言う)のところを尋ねた件に関連して、親族の位置づけについて二、三、尋ねた。まず、(……)さんという人だが、この人は『ゲゲゲの鬼太郎』に出てきそうな顔をしている人で、祖母が入院中に見舞いに来てくれたのをこちらは覚えていたのだが、彼女は(……)さん(祖母の二人目の弟)の奥さんだということだった。それでは(……)のおばさんはと訊くと、こちらは(……)さんという祖父の弟の奥さんである。そのあたりやや混同していたのだったが、それらを除いても、親戚が多すぎて訳がわからないと言わざるを得なかった。
  • 店を出ると、すぐ傍のスーパー「(……)」に移った。入店するとカートを押すのは父親に任せ、こちらは茄子と大根を籠に加えたあと、飲むヨーグルトを取りに行く。二本を抱えてそれから菓子のコーナーをうろついたが、目当てのものがなかったのでそこを出て、持ったものを籠に入れた。ジュースや茶なども買っておいたほうが良いのではという話が出て見回った。こちらは、二〇〇ミリくらいだったか、小さく手頃のサイズの缶のものがあればそれをいくつか買っておけば良いだろうと念頭にあったのだが、見当たらない。それでスプライトのペットボトルを一本入れ、ほかには母親が茶の類を加えていた。その他買ったのは米やバナナやマンゴーなどである。会計を済ませている両親を整理台の近くで待ち、品物の値段読み込みが終わると籠を受け取って、袋にものを詰めた。そうして何袋かになったものを父親と分けて車に運び、後部に載せて乗車した。
  • 曇りと言うほど暗くはないが、雲が空の隙間を閉ざしはじめて、陽の明るさが少し和らいでいた。車中、特に覚えていることはない。家に着くと荷物を運び、玄関の鍵を開けてなかに入った。冷蔵庫にものを入れておき、服を着替えてくると風呂を洗った。洗面所から出てくると、母親が洗濯物の取り込みを始めており、タオルやらパジャマやらが一緒くたにされて床の上に投げ出されていたので、それらを拾い上げ、ソファの上で畳んで整理した。そうして室に戻り、ここまで記すと今は二時過ぎになっている。こうして書いてみると結構書けるという感じもするが、書いていて特に面白いといった感情はない。また、以前よりも記憶を想起する力が衰えているのは確かだと思われる。いまそれなりの分量を書けているのは、まだ体験からさほどの時間が経っていないうちに綴っているからで、以前のように、前日のことを綴る方式では良くも思い出せないのではないかと思う。何というか、記憶に定かな手応えがなく、それぞれの記憶内容と現在との距離がどれも等し並に同じくらいに感じられて希薄だと言うか、実感がないような感じなのだ。
  • 読書に入った。中上健次『岬』を最後まで読み終えると、古谷利裕が論考を書いていたのを覚えていたので、「秋幸は(ほとんど)存在しない—「岬」(中上健次) について」(https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n4044c933e871)もそのまま読んだ。評論文を読んでいるあいだは、部分部分を読んでいる時には一応そこで言われていることを、小説内容の記憶とも照らし合わせて理解できているようなのだが、過ぎてみるとうまく内容が頭に残らないというか、論の要約がうまく脳内で整理されて作られないといった感じである。論考を読み終えると四時半だった。Robert Glasper『Covered』を流して僅かに運動をしたり(鬱気にやられてろくに動かず寝転がってばかりいた時期があったために、身体は非常に固くなまっている)『岬』の感想をインターネットで検索したりしてのち、五時半頃になると上階に行った。
  • 母親は既に台所で夕食の支度を始めており、コンロには大根の煮物が掛かっており、いまさらに味噌汁のために大根を細切りにしているところだった。味噌汁用の鍋を火に掛けたあと、母親のあとから台所に立ち、茄子を切り分けた。水に晒した茄子を笊に挙げると、フライパンにオリーブオイルを引いて、チューブのニンニクを落として熱する。そこに茄子を加えて、あまりかき混ぜて炒めることはせずに、しばらくじっと熱してからフライパンを振ることを繰り返した。良い頃合いになって解凍しておいたひき肉も加えると、醤油と砂糖で味付けをして終いである。味噌汁用の大根はまだ柔らかくなっていないようだった。待つ合間に新聞でも読むかというわけで、玄関を出ると、隣家の(……)さんがやって来たところで、暑いねと言い合う。母親を呼んでからこちらはポストの郵便物を取り、台所に戻って新聞の一面を読んだ。日米の貿易協議が始まって、米側が二国間交渉を要求したという記事と、島根原発の三号機が安全審査に掛けられるという記事である。こちらがそうしているあいだ、母親は(……)さんに紫蘇のジュースを振る舞って、玄関口で話をしていた。(……)のお婆さんに会いに行ってきた時のことなどを報告していたようである(九六歳だか九七歳だかの(……)さんは、この(母方の)祖母の姉と面識があるのだ)。(……)さんが去ってからすぐ、インターフォンが鳴って、今度は宅配便が届けられた。山梨の(父方の)祖母が葡萄を送ってくれたのだった。そうしてこちらは味噌汁に味を付け、自室に帰ると、コンピューターを前にした。上昌広「東京医大が「女子差別」を続けた根本原因」、「長崎原爆の日 国連総長初参列「核の惨禍 最後の場所に」」の二記事を読むともう七時である。
  • 食事を取りに行く。茄子の炒めものと大根の煮物を同じ一つの皿によそって電子レンジで熱する。その他サラダや米、味噌汁もよそっているあいだに父親は風呂から出てきていた。酢と大根おろしを混ぜた納豆も用意し、卓に就いて食べはじめた。テレビはニュースを映していて、北関東で豪雨だとか伝えていたと思う。早々とものを食うと薬を飲み、皿洗いを済ませると玄関に直行して散歩に出た。
  • 沢の音は収まっていた。この日も雲は希薄で、星も飛行機の灯りも明瞭だった。歩調がいつもよりも僅かに速めで、足取りが自ずと力強いように、しっかりと地を踏んで蹴るようになっていた。坂を上って行き、裏通りをなだらかに行って街道との交差点に出る。そこから道を渡って、草に接して暗い路地にふたたび入って、人家のあいだを通って行った。風はほとんどなく、腕や背の表面が汗で濡れそぼり、耳を掠める音のなくて自分の足音や虫の声に何も混ざらない。家路を取っている人々とすれ違い、空を見上げて、青さを僅かにはらんだ鈍い色を見た。駅の前を過ぎて街道に沿いながら、以前のように十分にものが感じられないとしても、何だかんだで自分は日記を書けるのではないかと思った。見たもの経験したことをすぐさま言葉に置き換える頭のなかの自動筆記装置のようなものが、変調前より精度は格段に落としながらも、復活しかかっているような兆しが感じられるようだった。表通りには、車に引かれるようにして風があった。浴びながらしばらく行って渡り、また裏に入って坂を下って行く。救急車のサイレンが背後から聞こえてきて、風に吹かれて立つ物音のなかで次第に近くなり、林の向こうに光を灯した車の姿が見えた。この夏は救急車が多い、ほとんど毎日のように聞いた一時期もあったと思いながら角を曲がると、風が強めに流れて、そこの宅の庭木が頭上でばさばさと揺れた。
  • 帰宅するとすぐさま風呂に入った。散歩中にも道の脇から、単調な八分音符の連続で音波を送り続けていた虫の音が、湯のなかにあっても窓から聞こえた。上がって室に戻ると、ちょうど九時から日記を書きはじめた。Robert Glasper『Double-Booked』を聞きながらここまで記して、現在は一〇時前となっている。
  • 日記を書きながら、今日買ってきたスプライトを飲んでおり、ペットボトル一本飲み干してしまったので腹が苦しかった。それで寝床に横になりたくなかったので、インターネットに入って『(……)』の動画を視聴する。二本分見ると一一時、椅子を離れて歯ブラシを取りに行き、歯を磨きながら本を読みはじめた。新たに選んだのは、工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』である。文を書くことの喜びや作家たちへのかつての尊敬の情を半ば忘れてしまっているいま、書くことについて語るフローベールの言葉が、自分のなかで何かしらの触発材料になりはしないかとの考えだった。零時半頃まで読み続けた。フローベールは一〇歳に満たないうちから芝居を書いたり、僅か一五歳で散文作品をいくつも拵えたりしていたらしい。
  • (……)一時に至る直前に、瞑想に入った。瞑想によって感受性の鋭さが戻ってこないかと思うのだが、あまり期待できなさそうである。と言うのも、枕の上に腰掛けて瞑目しじっと呼吸をするという形は以前と同じでも、生まれる感触はまったく違うと言うか、端的に自分の心身に何の変化も現れないのだ。以前は容易に入れていたいわゆる変性意識状態にまったく入れず、したがって脳内物質も分泌されないのだろう、閉じた視界を蠢く光の類も見えない。瞑想によって以前は、耳鳴りを誘うほどの張り詰めた集中力を発揮することもできていたが、いまはそんな感覚を自分のなかに生むことができないのだ。そうした事ごとは、ものを感じられなくなったというこちらの実感と、やはり何かしら関係していることなのだろう。ともかくも一〇分を座って、明かりを落として布団を被った。

2018/8/4, Sat.

  • 赤子を見ようが花火を見ようが、結局、何も感じられない。書くこともできない。純然たる孤独。
  • 自分の生はやはり、実際上もう終わっている。あとはすべて無意味で余計な余生。二八にして。

2018/7/31, Tue.

  • 九時台起床。朝食は炒飯。母親はこちらが上階に上がってまもなく、(……)に出かけて行った。
  • 「言葉」の記事より、カフカの言葉を繰り返し音読したのち、一〇時半頃外出。図書館へ。(……)のところに孫が遊びに来ているらしく、自転車でこちらに向かって走ってくる少年を見送るほかの子の姿が見えた。頭上から蟬の声の降り注ぐ林中の道を駅へと上って行く。
  • 図書館。CD棚の新着を見ると、山中千尋『MONK STUDIES』があった。それから文芸誌の棚の前に移り、「群像」を手に取って、大江健三郎についての蓮實重彦筒井康隆の対談をところどころ読む。蓮實は八〇年代あたりには、柄谷行人と一緒になって大江を批判してもいたはずだが(二人の『全対話』で読んだ覚えがある)、ここでは絶賛していると言って良い様子だった。その後、CD棚のジャズのコーナーをちょっと見てから上階へ。
  • 新着図書には、水声社「ブラジル現代文学コレクション」の、ジョアン・ギマランイス・ホーザ/高橋都彦訳『最初の物語』などが見られた。新着棚を確認してから哲学の区画に向かうと、ちょうどそこの通路に人がいて書架を見ることができなさそうだったので、フロアの一番端の通路に入り、新書をちょっと冷やかしてから先に小説を見に行った。海外文学の区画をうろついてどれにしようかと迷った結果、結局文庫の棚から、パヴェーゼ/河島英昭訳『祭の夜』に決めた。これは以前にも読んだことがあるものなのだが、今の感受性の状態で読んでみて、前と比較してどうだろうかと思ったのだ。
  • それから哲学の区画へ。二冊目を借りるかどうか、それを哲学にするかどうか迷ったのだが、変調以前はミシェル・フーコーの思考に触発されていたはずだというわけで、その頃の流れを引き継いで、フーコーについての解説書を二冊借りることにした。重田園江『ミシェル・フーコー』に、桜井哲夫現代思想冒険者たちSelect フーコー――知と権力』である。
  • 貸出手続きをすると(機械の画面に映し出される手続きの案内表示が新しくなっていた)、便所に行き、排便した。そうして退館すると、雲もそれなりにあったと思うが、歩廊の上に陽射しが明るく照っている。階段を下りてコンビニに入り、まず奥のほうのカウンターで年金を支払った。それから、セブンイレブンにも飲むヨーグルトは売っているのだろうかと思っていたのだが、パックの飲み物のところを見ると、セブンプレミアムの品があって、これを買ってみることにした。さらに昼食用にサンドウィッチとおにぎり二つ、あとはポテトチップスも籠に入れて会計を済ませ、駅に戻った。
  • (……)駅で、一二時半発の(……)行きを待つ。そのあいだは先ほど借りてきた桜井哲夫の本の序盤を読んでいた。
  • 帰宅すると扇風機を点け、本に目を向けながら買ってきたものを食う。始末を付けると下階に下りて服を着替え、ポテトチップスを食べた。その後ここまで日記を書いて、二時前である。
  • 借りてきたパヴェーゼ/河島英昭訳『祭の夜』を読みはじめた。途中、水分を補給しながら三時半まで読んだあとは、上階に上がって、ベランダの洗濯物を取りこんだ。四角いハンガーからタオルを外して畳み、洗面所へ持って行っておく。その後、パジャマや肌着を畳んで、炬燵テーブルの上に置いておいた。
  • そうして室に戻ったあとは、どのくらいからだったか忘れたが、ベッドに寝転んで微睡んでしまった。微睡むと言っても、眠気というもののまったく身に生じないいま、健康的な昼寝のそれなどではなく、浅い意識の状態が保たれていたのだが、それでも長く起き上がれずに、六時台まで休んでしまった。途中で母親が帰って来ており、夕食にはカレーを作ったと言う。
  • 七時を回って、食事を取りに行った。台所に用意されていたサラダの皿を見た時には、あまり腹が減っている感じがしなかったが、カレーは味が結構濃厚で、美味いと言って良いものだった。父親がじきに帰ってくると言う。母親が見せた携帯の画面に映った表示によれば、LINEで帰ると知らせがあったのは七時一二分、したがって、八時四〇分頃には帰宅する。それまでに二人とも風呂に入ってしまいたいわけだが、こちらは音読をしたい気がしたので母親に先を譲って下階に下り、ふたたびパヴェーゼを読んだ。
  • 八時を回ってから、何となくSuchmosを歌いたい気分になって、"STAY TUNE"を流した。そのまま、"Pinkvibes"も"Tobacco"も歌う用意ができていたのだが(と言うのはつまり、歌詞を検索してあったということだが)、音楽の途中で天井が鳴ったので、"STAY TUNE"が終わったあと、風呂に入りに行った。さほど時間を掛けずに出て、戻るとSuchmosを歌った。そのままキリンジ『3』の楽曲も流して口ずさんだのだが、結構歌ったことのあるはずの曲の歌詞を忘れていたりして、これも自分の頭の記憶力(想起力)が低下しているその証ではないかなどと疑い深く思いもした。九時四〇分頃まで歌ったあとは、Cornelius『Mellow Waves』を流して、ふたたび読書をした。(……)
  • 室に戻るとふたたび読書、表題にもなっている「祭の夜」に入っているが、やはり読んでいてあまり文の質感などを感じられないと言うか、取り立てて何の感覚も感想も湧き上がってこないというのが困りどころである。それでも読まないよりは読んだほうがやはり頭にとってましではないかと思われるし、結局本を読むくらいしかやることがないので、読書を続けるつもりではいる。読む時は音読をしており、その効果なのだろうか、気分は悪くなく、今日は図書館にも出かけてきたし、希死念慮もなくなった。このまま取り組みを続けることで感受性の鋭さも戻ってきてほしいと期待しているのだが、しかしやはり、そこまで劇的な変化は望めないのではないかと予測してはいる。端的に、昨年末あたりの頭の状態(執筆能力)に戻したいのだが、困難だろう。
  • 音楽、Bill Evans Trioを聞いてから就寝。床に就いてしばらくしてから目を開けると、部屋が薄青く澄んだような明るみに包まれており、それで月が出ているのだなと気づいた。カーテンを分けて南窓から眺めてみると、ちょうどまっすぐ視線を伸ばしたところに満月が出ていた。
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2018/7/30, Mon.

  • 正午まで寝てしまう。
  • 夕食に茄子を炒め、玉ねぎとネギの味噌汁を作る。ほか、牛蒡と人参の煮物も。
  • 夕食後、散歩へ。薄曇り。シャツの下の背が汗に濡れる。
  • 石原吉郎『望郷と海』を読了。
  • 記憶の正確な反芻ができなくなっている。
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2018/7/28, Sat.

  • 久しぶりに読書をする。キャサリンマンスフィールド/芹澤恵訳『キャサリンマンスフィールド傑作短編集 不機嫌な女たち』を後半から始めて読了。しかし、やはり読みながら何を感じるということもない。書抜きをしたいと思うほどに印象に残る部分もない。以前のような感受性で文を読めていないのは明らかである。
  • マンスフィールドを読み終えた次は、石原吉郎『望郷と海』を選んで読み進めた。強制収容所体験から導き出された思考を語る石原の文からは、書抜きをしようかと思う箇所がいくつか見つかったのだが、これも前と比べて自分の頭をどれほど刺激しているかと言うと疑わしい。
  • これらの読書は音読で行った。今次の変調以前と比べて、感受性はもちろん、記憶力や思考力が下がっていることは明らかなのだが(例えば、以前だったら一日の目覚めの瞬間から床に就くまでのあいだのことを順番に思い出すことができ、それを日記として綴っていたわけだが、それができなくなった。感受性が死んでしまったために、何かを記憶する力や考える能力も衰退してしまったのではないのだろうか? 感受性とはそれらの精神機能の基礎となるものではないのか)、音読は脳を鍛える力があるとのことで、少しでもそれが回復してくれないかと願う次第である。
  • 「何も感じられない」と感じられる現在の状況は、医師によると鬱状態及び離人症・現実感喪失症候群が重なった様態として診断されている。こちらがインターネットを見回って得た情報では、これはまたアンヘドニア(失快楽症)と呼ばれる状態にも当て嵌まると思う。問題は、鬱はともかく、離人症にせよアンヘドニアにせよ、薬剤は効かないことが多く、有効な治療法がないらしいことである。実際、今もらって飲んでいる薬はどれも効いている感じはない。現在、朝晩の食後に、クエチアピンを二錠及びロラザパムとスルピリドを一錠ずつ、就床前にオランザピンとブロチゾラムを一錠ずつという処方になっている。このうち、ロラゼパムスルピリドパニック障害時代から飲み続けているものである。オランザピンとブロチゾラムは睡眠補助だろう。こちらの主たる病状に対してはクエチアピンの効果があるか試しているというところだが、これらの薬のどれも、飲んでも自分のうちに何の変化も感じられないというのが実情である。
  • そもそもどんなものであれ、感受性を取り戻す薬など存在するはずがないのではないか。薬を飲んだところで感性や頭の働きが戻ってくることなどあり得ないのではないか。何をしたところで、ものを感じられるようになる気がしない。自分の病状は、薬とか運動とか自律神経とか、そのような次元のものではないように思われる。何か頭の働き、そのシステムが、なぜかわからないが不可逆的に、鈍く変わってしまったような感じ、と言えば良いだろうか。
  • 欲望、そのなかでも書く欲望と、何かを知り、考えていきたいという欲望(これらは勿論、ある程度相関している)がなくなってしまったのが最も辛いところである。
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2018/7/9, Mon.

●音楽。流してもやはり気分が平板なのは変わらず、以前そこに感じていた豊かさをまた感じるべくもないが、ないよりはまだあるほうがましなような気がする。John Coltraneなど流して耳を向ける。My Favorite ThingsにI Want To Talk About You。
●要するに自分は、どういう仕組なのかわからないが、病気によってこの世界を愛する能力を奪われた。何も感じられないというのはそういうことだ。自分はまだ若い。この先の生で膨大な量の物事を感受し、それらを書き記すはずだった。その機会がすべて失われてしまったことを考える時、死にたくなる。
●読み書きの能力を奪われたいま(そしてそれは戻ってこないという確信がある)、自分がこの生でやるべきことはもう終わってしまった。あとの生はどうあがいても余計な付け足しでしかない。臆病風に吹かれることなく、ひょいっと軽く死ねる人間だったら良かったと思う。

2018/7/3, Tue.

●一応生きています。しかし、四月頃から本質的な変化はないです。感情や感覚の働きが何一つ感じられず、何にも意欲が湧かず、何もできない。抗鬱剤を飲んでいるが、効果はまったくないです。読み書きはもう二度とできないでしょう。読み書きだけをなすべきことと思い定めてきた自分なのですが。
●通院以外の外出はしていません。通院すら、親に連れられてやっと行っています。こんな状態で生きている意味はありません。希死念慮は常にあります。しかし、勇気がないため、自殺を実行できない。人が一人死ぬのも楽ではありません。勇気さえあれば、近所の橋からとうに飛び降りています。
●救いはありません。
●食事について、「砂を噛むような」という比喩がありますが、精神作用の全域においてその比喩が現実化したのが、いまの自分の状態です。三大欲求すらまったく感じられません。この世界の豊かさは自分のうちから消え去りました。そして、二度と戻ってこないだろうという実感があります。

2018/5/19, Sat.

●一月頃の日記を数日分読み返しているが、もはや自分がこんな風に文を書くことができていたのが信じられない。自分の頭は、三月くらいに掛けて、何か本質的に変質してしまった。もう二度と以前のような文章は書けないだろうという実感がある。
●そして、あのような形の日記を書き綴ること、生きることと書くことをできる限り一致させることだけが自分の生き甲斐だったはずで、それができなくなった今、生存や世界がまるで無意味に感じられて仕方がない。端的に、うつ状態に陥っており、無気力で、希死念慮が甚だしい。
●正直なところ、こうなった今、自分はもうさっさと死にたくて、自殺の方法について検索したり、近所の橋から飛び降りることを何度も考えてもみるのだが、臆病のために、あるいは気力のなさのために実行できずにいる。生きる意欲がないが、積極的に死を敢行するほどの気力もないといった状態である。
●何か別の生き甲斐がこの先見つかるという希望もない。なぜなら、書くことが失われたと前後して、世界に対する感受性がまったく働かなくなってしまったからだ。自分においてはまさしく、書くことと感じることとが、日記という形式を媒体にして、深く結びついていたのだと思う。
●自分の実感としては明らかに、「正常な」人間としての感受性や頭の働きを失ってしまい、この先それが取り戻されるとも思えず、生きていく自信がもはやないのだが、外見にはまったくそうは見えず、言われなければ普通に思われるらしい。いかにも中途半端に狂ってしまったようだ。
●とにかく早く死んで生まれ変わりたい。もう自分にはそれしかない。生まれ変わってもう一度文を、日記を書けるようになりたい。

病歴

●2009年10月
・最初の発作。パニック障害発症。2010年5月から一年間、大学を休学。
●2017年秋頃
・ほとんど寛解。おそらく二か月ほど、薬を飲まないでいた。
●2017年末から2018年始
・症状悪化。頭のなかに言語がぐるぐると渦巻いて止まない、という症状を体験し、不安に苛まれる。ピークだったのは一月四日から五日あたり。五日になって医者に行き、ロラゼパムスルピリドを処方してもらう。
●2018年1月から2月頃
・様々な形の自生的な思考を体験。そうとは思えない事柄に対し、自動的に、「キモい」とか「うるさい」とかいう言葉が湧き上がって来たり、これ以前の自分だったら思わなかっただろう意地の悪いような考え方が浮かんできたりする。また、自分が一度判断、評価を下した自明な事柄に対して、「本当にそうか?」という疑問が投げかけられることもあった。例えば、ものを食べて「美味い」と思ったのに対して、そうした疑問が差し挟まれるのだ。
・また、道行く人を見かけた際に、勝手に殺人のイメージや考えが浮かんでくるということもあった。早朝に目覚めて、そうした考えが自動的に頭のなかに展開しているということもあった。それで、自分は無意識のうちに人を殺したがっているのではないか、などと恐れる。
・またこの時期には、自分が統合失調症になりかけている、あるいはなっているのではないかという恐れが強かった。
・1月27日と2月27日に医者を訪れ、スルピリドおよびロラゼパムを処方してもらっている。一日二回の飲み方。
●3月10日
・上に記したような自生的な思考が収まらないので、アリピプラゾール3mgを処方してもらう。飲みはじめたのは12日から。一日一回、朝食後に一錠。
●3月中盤
・この頃から、意欲の減退、欲望の希薄化が見られる。何かをやりたいという欲求がなくなってしまい、自由な時間に何をすれば良いのか戸惑うような感じ。時間が過ぎて行かず、持て余してしまうのに苦しむ。感情も平板化し、楽しい、嬉しい、面白いなどプラスの情を感じなくなる(マイナスの感情もほとんどなかったが)。
●3月19日
・眠れないということで、ブロチゾラム0.25mgを処方。
●3月26日
・改善が見られないので、アリピプラゾールの量を増やすことに。朝食後に一錠だったのを二錠にする。
●3月30日
・発作。風呂に入っていた時、頭のなかの自生音楽が気になりだし、気が狂うのではないかという恐怖を覚える。中途で風呂から上がって、炬燵で休む。言語的なコミュニケーションができなくなることを恐れ、母親に、両親への感謝を告げたり、自分がどうにかなったら友人へも感謝を伝えておいてほしいと頼む。やや錯乱的な状態。
●3月31日
・前日の錯乱を受けて医者へ。アリピプラゾールは効き目がなさそうだということで外し、就床前にオランザピン5mgを飲むことに。
●4月7日
・医者へ。オランザピン2.5mgを追加。
●4月14日
・医者へ。処方は変わらず。
・現在の自分の症状をまとめておくと、一つには自生思考がある。頭のなかで音楽が流れ、繰り返しループしたり、脈絡のない独り言が発生したりといったものである。
・もう一つには、離人症的な現実感喪失、感情の平板化が見られる。何をやっていても、どこにいても、心が動くということがなくなってしまったのだ。本を読んでいても、文の意味をしっかり取れている感じがせず、面白く感じられない。漫画を読んだり、音楽を流したりしても同様。世界に対する興味関心や、何かをやりたいという欲求が消失してしまい、すべてが時間潰しのようになっているのだが、先にあった時間が過ぎて行かないという感覚は薄れ、むしろ、少々乖離的に、いつの間にかいまここのこの時間まで来ている、という感覚を覚えることが多くなった。とにかく現実感がない。そして、自分の状態が改善されないまま、時間だけが過ぎて行ってしまうことに対する焦りや、いたたまれないような気持ちがある。
・三つ目は、パニック障害の症状が回帰してきたことで、嘔吐恐怖があったり、一人で外出することに対する不安があったりする。その不安によるものか、心身症めいたものも出てきていて、心臓が痛んだり、胃腸のあたりが痛んだりする。胃のほうは、ストレスから実際に炎症を起こしたりしているのかもしれない。食欲も湧いてこないのだが、身体と生命を維持するために食べている感じである。
・また、薬のせいも多少あるのかもしれないが、うまく言葉が出てこなかったり、物事の説明や要約が難しくなっていると思う。それと関連するのだろうか、記憶も曖昧で、手応えの薄いようなものになっている。
● 4月27日
・オランザピンを5mgのみに減薬。
・連休中は兄夫婦がやってきて、祭りに少し出かけたりしたが、やはり際立って何を感じることもなかった。
●5月7日現在
・先月から本質的な変化はなし。何かをやりたいという意欲がまったくなくなってしまった。何事にも興味関心が湧かず、ただソファに寝転がったり、テレビをぼんやり眺めたりして時間を潰している。本はまったく読まなくなってしまった。生がまるで無意味に感じられてならない。
・両親の庇護下で何とか生きられている。この先、自分一人で生きていく自信がなくなってしまった。何にも意欲が湧かない状態で、どんな仕事が自分にできるとも思えない。
●5月11日
・通院。処方は変わらず。様子見とのこと。無感情・抑うつは薬の効果によるもの(だけ)でなく、原症状の表れもあるのだろうと。
●5月15日現在
希死念慮強し。何をやる意欲も湧かず、多くの時間を横になって過ごしている。散歩程度の外出もせず、引きこもりのようになっている。

2018/4/14, Sat.

●八時過ぎに起床。曇天。朝食、おじやの僅かな残り、小松菜、キャベツのサラダ、豆腐に大根おろし。食後、デザートとしてエクレアの半分(もう半分は母親が食べた)にバナナ、ヨーグルトも食べる。胃の具合は、やはり張っている感じがするが、痛みはほとんど生じていない。今日はこれから母親とともに医者に行く。
●昨夜は、夕食の席で母親に対して、何も感じられないということについての不満をぶちまけるようにしてしまった。きっかけは忘れたが、食事を取っても美味く感じられないというところから派生したものだったと思う。母親が何だかんだと励ましの言葉を掛けてくれるのは良いのだが、正直なところ、こちらはそのような気持ちになれない、その言葉を素直に受け止めることができない精神状態にある。もうずっとこのままではないかと、何をしても自分のこの無感情が治ることはないのではないかと、そういう風に思われてならないのだ。
●二〇一七年一二月の日記を冒頭から二日分、ちょっと見返してみたが、今から振り返るとやはり自分の頭が段々と自生的な思考に侵されて行っているのがわかる。一二月頭の時点ではまだしもそれが安定していたのだが、年末年始で完全に箍が外れてしまったのだろう。
●母親と医者に行く。一〇時前に出発。家から西にある十字路に行くのではなく、家の目の前の林のなかを上って駅まで行った。電車内では、(……)の母親に遭遇する。この人は、結婚相談所をやっていて、今日もその関係で三田まで行くと言っていた(三田というと、千葉県ではないのか? 慶応大学に三田キャンパスというのがあったような気がする)。随分と久しぶりに会ったこちらに驚いて、格好良くなっていると言ってくれ、モデルか何か、人前に出る仕事でもやりなよと繰り返し勧めてくれた(こちらとしては勿論、人前に出るなど大の苦手だから、今の状態から回復できたとしてもそんな気にはならないだろう)。旅行にでも出るようなキャリーケースを引いていたので、(……)駅に着くと、乗り換えるまでのほんの少しのあいだだが、それをこちらが運んであげた。
●(……)駅で降りて、便所に寄ってから医者へ。待ち時間は大体三〇分ほどだったと思う。もう一週間、薬の種類と量は変えずに様子を見るということになった。こちらとしてはパニック障害の症状がふたたび出てきていて、立川まで一人で行けるか不安があったり、嘔吐恐怖があったりするので、ロラザパムとスルピリドの服用を増やすか、別の安定剤があればそれを追加したいという風に漠然と考えていたが、医師の考えではその必要はないとのことだった。また、何をしていても感情の働きを感じられないという無感情・無感動に対しては、特に何らかの対策が講じられたわけではない。(……)先生が言うには、今はともかく休む時だということで、もう少し経って落ち着いてくれば気分を上向きに持ち上げにかかる、ただそれと言っても、薬によって持ち上げるというよりは、自然に持ち上がるのを期待するという口ぶりだった。思うに、(……)先生は多分、統合失調症の治療方針に添っていて、例えば、先般こちらが発作的に、もう自分は駄目だ、気が狂うという恐怖を覚えて錯乱のようになったことなどを(また偏在している自生思考を)、一種の陽性症状と見て、それで今は症状を抑えるべき時だと判断しているのではないか。無感情についても、統合失調症陰性症状に感情の平板化があるらしいので、それと見ているのかもしれない。こちらとしては、自分は統合失調症モデルには当て嵌まらないのではないかと思う。感情の平板化についても、薬でどうすることもできず、自然と解消されるものでもなく、この先ずっとこのままになってしまうのではないかという気がしてならない。
●年末年始頃のこちらは、感じたことを言語化して書くというよりは、ほとんど書いたことを感じるというような逆転のなかにあったのではないだろうか。何らかの体験をしたその場で脳内で独り言のようにして書きつけるその言葉が、そのまま自分が感じたことになる。書くことと感じることとがそのように密着しながら、前者の書くことのほうが優勢だったところ、その書く能力、言語化の能力が暴走しはじめて、自生的なものとなり、コントロールを失った。その結果として、自分がどう感じているかもわからなくなったというのが、現在の無感情の状態なのではないだろうか。
●医者のあとは、クレープ屋がすぐ近くにあるということで、そこに寄った。「(……)」という店である。医者からは、線路を北側に渡ってすぐの角のところに位置している。店内にはほかに客は一人もなかった。チョコバナナカスタードと、いちごチョコカスタードを注文。
●(……)駅で(……)乗り換えまでに時間があったので、歩いて帰ることに。母親は先にすたすたと行ってしまい、歩みの遅いこちらはだいぶ離れたところを、クレープの袋を右手に提げながら、とぼとぼと行く。歩いているあいだは気分がいくらか抑うつっぽくなって、また無感情なままで過ごさなければならないのかと、そのことを考えると、苛立ちというか、投げやりな思いになるようだった。
●帰宅後は、母親がうどんを煮込んでくれた。こちらはそれに加えて、米に納豆を食べ、ほかサラダの残りや先ほど買ったクレープ、バナナにヨーグルトも食べる。
●現在、二時一一分である。先ほど、名古屋に出張していた父親が帰ってきた。
●これは薬のせいもあるのかもしれないが、物事の理解や記憶もしにくくなっているような感じがする。以前は、一日のことを朝から晩まで順番に思い出すことができ、それを日記として記していたのだが、今はもうそのように秩序だった想起ができなくなっている。
●食事も、味がわからないのではないが、あまり美味いと感じなくなってきている。そもそも、一応食べられてはいるものの、食欲が湧かないのだ。食事から時間が経つと、段々と腹が空になってきているというのはわかるのだが、そこに空腹感、ものを食べたいという欲求がついてこない。
●ついでに言うと性欲も全然湧かず、眠気というものも明確になく、睡眠薬を使って何とか寝付いているような状態であり、人間の本能的な三大欲求がどれも希薄化している感じで、こうなるとまったくもって何のために生きているのかわからない。
●夕刊の一面に、米国がシリアを攻撃したとの報が大きく出ている。これが大変な事態だということは理解でき、以前だったらとても無関心ではいられず、いくらかの情報を日記に書抜きしていたはずなのだが、今は記事を読んでみても、その内容が全然頭に入ってこないような状態である。自生思考よりも、無感情、世界に対する興味関心を失ってしまったという状態のほうが辛い。
●『石原吉郎詩集』を読んでいる。読書も、以前の自分の習慣から続く惰性のようにして読んでおり、面白さや興味深さを感じないのだが、「オズワルドの葬儀」という詩のなかに、「遠雷と蜜蜂のおとずれへ向けて」という一節があるのが気になった。恩田陸の著作、『蜜蜂と遠雷』との類似のためである。恩田陸の本の元ネタなのか、それとも何か共通の由来があるのか?
●夕食。天麩羅(筍と鶏肉)に米と納豆、エリンギなどの入った汁物、菜っ葉の和え物にサラダ。やはり食欲や空腹感はなかったのだが、一応、食べることはでき、味も、わりあいに美味いと感じることができたと思う。しかし、嘔吐恐怖がまったくなかったわけではない。食後すぐのあいだは腹が張って、痛みも少々あった。それが、風呂に入ったあたりでは張りが収まっていた。入浴中には、自分の年末年始以来の変調について(その能力が残っているうちに)病歴をまとめておいたほうが良いだろうと思いついた。どこか今とは別の病院に行くにせよ、今までの症状の推移の説明が面倒だし、物事をうまく要約して説明する能力も失われつつあるような気がするのだが、時系列順でわかりやすくまとめておけば、新しい病院に行った時も、それを印刷して渡せば事が済む。また、日記に関しても、自分の体調や症状のついて気づいたことを記すという役割を持たせて、毎日の変化を記録するものにするのが良いかもしれない。

2018/4/8, Sun.

●読み書きを失った時点で、自分は象徴的に死んだようなものなのだと思う。以前の自分の脱け殻のようにして生きている自分がいる。自殺を考えないと言ったら嘘になる(と言うか、自生的にそうした思考も湧いてくることがままある)。しかし、気分がさほど落ちこむという感じもない。とにかく平板なのだ。
●文を考えることも難しくなってしまった。今日は高校の同級生らと会ったのだが、その何時間かの経験、そこにあったはずの幾許かの豊かさを書こうとしても、記憶もうまく秩序だって出てこず、考えをまとめてうまく文章化することができない。あるいはそうした意欲が湧いてこない。
●とにかく欲望が欲しい。読み書きでなくても良い、何に対するものでも良いのだ。最近の自分は、食欲や性欲といった身体的・本能的な欲求すら薄れてきているように思われる。腹が空になってくるのはわかるが、しかしそれで何かを食べたいという食欲や空腹感を覚えることがない。
●「何かが印象に残る」ということが絶えてなくなってしまった。
●以前のように書くことはもはや不可能だと思う。それでもせめて、五年後でも十年後でも良いので、読むことが、そちらのほうだけは復活してくれないだろうか。
●こうなってみると書くことが自分のうちに占めていた大きさというものがよくわかる。おそらく自分の体験はほとんどすべて、書くことを経由して価値/意味の秩序を構成していたのだろう。根幹にある書くことが失われたいま、そこには空虚だけが残り、その周囲を経巡る体験群もばらばらになってしまった。
●これらのツイートの文章も、きちんと意味の論理を作れているのか、それすら定かでなく感じられる。書けている感じがしないのだ。
●今日は「N」という地元の喫茶店に行ったのだが、そこでBGMに、John Coltrane『Blue Train』が掛かっていた。タイトル曲のサックスソロの入りに聞き覚えがあって(テーマは聞き逃していた)気になったのだが、次に"Moment's Notice"が流れてそれとわかった。
●不思議なもので、頭が今のようなごちゃごちゃの状態にあっても、このトランペットソロを聞きながら、これはどうもLee Morganらしいなという判断は付いた。

2018/4/5, Thu.

●八時頃起床。
●朝食、米に納豆、人参の炒め物、野菜スープとサラダ。野菜スープが美味くておかわりをする。
●食後、脚をほぐそうと屈伸をしたところ、それだけで動悸が激しくなり、不安を覚える。白湯を飲み、スワイショウを行って気持ちを落ち着かせた。
●下階へ。(……)さんの日記を読む。三月二八日分。実に長い。途中まで読み、ベランダの拭き掃除をしていた母親と合流し、こちらもベランダの床や雨戸を拭く。それで一一時半。
●散歩に出る。風の強い日。
●昼食は焼きそば。食後、まったくやる気が出ずにソファで休んでしまう。
●その後、上階のベランダも拭き掃除をする。それで三時半。
●(……)さんのブログを読もうとしたが、どうも読めず。じきに母親が部屋にやって来て、床や窓を拭いてくれた。その傍らでこちらは、(……)たちが来る日の電車の時間を調べ、メールを作成するのだが、文章を考えるのにもやはり苦労する。惑うようなところがあって、うまくさっと適した文言が出てこなかった。自分の頭はやはりもう相当におかしくなっている。会話だとまだましなのだろうが。