九時二五分起床。九時頃だったか、母親が、もう雪が積もってきているから早く起きて行ったほうが良いんじゃないと(医者に行く予定だったのだ)部屋に来た時があり、それで第一の目覚めを得たのだったが、寒さや意識の重さのためにすぐには起床できず、布団のなかに潜り込んで唸り声を立てたりしたのちに床を抜けたのだった。さすがに、寒気が格別だという感じがした。ダウンジャケットを寝巻きの上に羽織って上階へ行き、ストーブの前に立ってちょっと身体を温めてから台所へ。焼豚とブロッコリーを合わせたものが皿に入れられてあり、ほか、前夜の鶏ガラスープの残りもあった。米をよそって卓に就き食べているあいだ、母親が、ロシアにいるT子さんから送られてきたMちゃんの画像や動画を見せてくれる。家に帰るのが嫌で、地面に這いつくばるようにして顔を地に向け動かない図だった。そうして薬を飲み、皿を洗うと自室に戻って、Twitterなどちょっと覗いたり、Takuya Kuroda "Promise In Love"(Jose Jamesの曲で、彼が歌っている)を歌ったりしたあとに電車の時間を調べると一〇時二九分だかがある。それで行こうと身支度を調え(前々日に買ったばかりの新しい茶色のズボンを履いた)上階に行くと、母親も石油を買ったり、あるいは場合によっては医者に行ったり(身体のあちこちがとにかく痛いらしい――しかし医者でレントゲンなど撮っても骨に異常はないと言われるだけなので、神経から来るものではないかとこちらは言った)するので乗せていこうかと言う。どちらでも良かったのだがまあ甘えるかというわけで母親の準備を待つのだが、彼女は医者の診察券が見つからないと言ってそのあたりをごそごそと探し回って一向に出発が来ない。しかし文句を言わずに立ち尽くして待っていると、結局診察券は財布のなかに見つかったのだが、このあたり母親はもう注意力散漫になって来ていると言うか、頭の働きが衰えてきているような気がするのだが、将来はことによると痴呆になってしまうかもしれない。そうしたらこちらが世話をしなければいけないわけで、それは気の滅入るような未来図だ。そうして出発、降るものは雪などとは言えず、薄い雨になっていて、それもほとんど消え入るような幽かなものだったので傘は持たなかった。ポストの上や車の上には朝方降ったものが既にうっすらと積もっている。ポストの上のその雪を指で少々弄って搔き乱し、水場のバケツに張られた氷にも触れたが、これはさほどの厚みがなくて指で押せばすぐにぱり、と割れてしまう程度のものだったから、寒気もまあそれほどではないのだろう。しかし今冬一番の寒さであることは間違いない、最高気温は二度と新聞に記してあった。車に近寄ると、鼻から出てきた吐息が途端に白く染まって、湯気のようにあたりに広がって、自分の吐息の形が如実に視覚化される。助手席に乗って、ディスコ調の音楽が流れるなか、河辺へと向かう。ワイパーを動かすと雪の欠片が転がって落ちる。市民会館跡地では交通整理員が膝を頻りに曲げては伸ばしていて、あの人らも寒いだろうなと思われた。会館跡地前を右に折れて、千ヶ瀬のほうから河辺へと進んで行く。そうしてファミリー・レストランの向かいで下ろしてもらい、路地に入ってNクリニックを目指す。空気は顔に冷たく、やはり今冬一の寒波だと感じたが、モッズコートの前を閉めてストールも首に巻いていればがたがたと震えることにはならない。降るものは変わらず幽かに舞い散るのみである。クリニックの前まで来ると、通りの先の小学校でサッカーか何かやっているらしく、「子供は風の子」という言葉に似つかわしく賑やかな声が聞こえていた。ビルに入り、階段を上って行き、待合室に入ると受付に挨拶して診察券と保険証を差し出す。保険証を返してもらうとソファの端に腰掛けて、斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』を読みはじめたのが一〇時四五分だった。こちらの前には三人ほどしかおらず、待ち時間はさほど長くはなかった。一一時三分に呼ばれて、時計を確認しながら扉をノックし、診察室に入ってこんにちはと言う。革張りの椅子に鷹揚に腰を下ろし、いつも通りどうですか、調子はと訊かれるので、まあ、変わらず良いと、と答える。三週間の処方だったが四週間ほど時間が空いていると言われたので、出かける機会が結構多くて、夜に飲まないことがあったのだと返す。先日も、二月五日から七日ですか、京都から友人がやって来まして、三日間、行動を共にして、その三日は朝に飲んで夜は飲まないという形だったんですが、それで特に問題はなかったと思います。そうですか、活動的ですね。かなり良くなってきたと。はい。日記は書いていますか。書いています(と強く頷く)。活動的ですね(と先生は繰り返す)。はい、ただまあ、こちらの感覚としては、やはり感情の動きなどは以前よりも希薄になっている気がするんですが……しかし、そのおかげで、と言いますか、緊張しなくなったり、パニック障害の症状もほとんど出なくなったので、まあ……悪いことではないのかな、と考えてはいます。処方は三週間だったところを四週間にすることになった。飲み方は、ひとまず以前と変わらず朝晩の二回。たまたま飲めない日があっても大丈夫だろうが、せっかく安定してきたところなので、安全策を取って行こうということになった。それで礼を言い、立ち上がって扉に寄り、失礼しますと会釈して外に出る。本を仕舞ってすぐに会計し(一四三〇円)、どうもありがとうございましたと受付にも礼を言ってビルをあとにし、隣の薬局に入った。お薬手帳と処方箋を受け取って番号の書かれた紙をくれたのはU.Aさん、こちらの中高時代の同級生である。以前見かけた時は髪がうねうねとしてパーマが掛かっていたが、今日はストレートになっていた。あちらがこちらが同級生であると気づいているのかわからないのだが、何となく気づいているのではないかという気はする。それでも雑談などは交わさずに、それぞれ局員と患者の役割に徹して紙を受け取ると、席に就いた。ムージルを読みはじめてから待ち時間はほんの僅か、三分ほどしかなかった。呼ばれたのでカウンターに行き、U澤さんを相手にやり取りをする。三週間から四週間に処方が変わっていることを確認し、お変わりはないですかと訊かれたので良くなってきたと答えると、それまで丁寧な口調を保っていた彼女は、うん、良かった、と少々砕けた語調を漏らしてみせた。それで金を払い(二〇八〇円)、薬局をあとにすると、降るものがやや増していた。それでも雨とも雪ともつかない半端な降りである。駅まで歩き、電車の時間を確認すると、一〇分ほどあと、一一時四〇分の電車が奥多摩行きへ接続するものだったので、時間つぶしに図書館に行った。CDの新着棚を見て(SUNNY DAY SERVICEの新作らしきものがあった)、それから上階へ、新着図書の棚には、『ドイツの新右翼』という本があってこれはちょっと興味を惹かれる。その後、フロアを渡って海外文学の区画からイタリア文学をいくつか眺め(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』はまだ書庫に入れられず棚にあった)、三五分になったところでトイレに行き、用を足して館をあとにした。駅に戻って改札を抜けるとちょうど電車が来たところで、ホームに下りて即座に乗車する。席に就いて何をするでもなく揺られ、青梅で降りるとすぐに発車する向かいの電車に乗り換えである。青梅ではさらに降るものが増しているように見えたが、このままならば積もりはしないだろうという程度ではある。最寄り駅に着くとちらちらと降るもののなかを歩き、街道から細道に折れて林のなかに入った。林中では周囲を埋め尽くしている落葉や草々に降るものが当たり、空間に幽かな音、せせらぎの比喩を使うには小さすぎるほどの響きが絶えず立っており(そこに鳥の囀りが重なる)、そのなかに包まれているとやはりこれは雨の直線的な打音ではなく、雪のものだなと感じられた。帰宅すると薬をテーブルの上に出しておき、自室に帰って服をジャージに着替え、それからすぐに(正午を回ったところだった)日記を書き出した。ここまで一時間で記して現在は一時二分を迎えている。自分がアマゾン・アフィリエイトに加入していたことを思い出し、昨日、記事を投稿する際に『ムージル著作集』へのリンクを作ってみたのだが、そうすると五回クリックされていた。やはり少しでも金はあったほうが良いので、この試みをまた始め、継続してみようと思う。
それで腹が減ったので食事を取りに上階へ。冷凍の唐揚げを五つ皿に取り分けて電子レンジに突っ込み(三分加熱)、釜に残っていた米はすべて払ってしまう。そのほか、即席の味噌汁とゆで卵。新聞を読みながら食べ、皿は洗わずに水に浸けて放置したまま自室に戻って、「記憶」記事を読んだ。BGMはTakuya Kuroda『Rising Son』。最新の番号まで読み終えると新たにムージル著作集第七巻や三宅誰男『亜人』からも文言を引いて足しておき、五〇番まで項目を作成してそれも読み、一番最初に戻って八番まで音読した。新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』の情報はもう結構頭に入ってきていると思う。それで二時半、そこから「ワニ狩り連絡帳」をちょっと読み、さらに、宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談「民主主義は崩壊の過程にあるのか コモンセンスが「虚構」となった時代に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4728)も途中まで読んで三時を回った。引き続き文を読む――今度は斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』である。部屋のなかは寒く、手が実に冷たかった。それでも、ストーブを点けてベッドに転がっていると眠気が差してうとうととしてしまい、切れ切れの読書になった。意識がはっきりした頃には雪が降り増しており、近所の屋根や畑の上にいくらか積もって、外の風景が白く染まっていた。五時過ぎまで書見を続け、それから食事の支度をしに上階に行った。母親は帰ってきており、居間のカーテンを閉めているところだった。ストーブの前にちょっと座ってから風呂を洗っていなかったことを思い出し、浴室に行って風呂桶を擦って洗うと台所で夕食の準備、まずは自分が放置した皿と炊飯器の釜を洗い、米を三合半新たに用意した。六時半に炊けるように設定すると、もう五時半を過ぎていたので即座に炊飯が始まる。それから肉じゃがを作ろうということになり、玉ねぎを切り(なかが少々腐っていたので部分的に取り除かなければならなかった)、ジャガイモも皮を剝いて三つ切り分ける。ほか、野菜スープのために牛蒡を洗って母親に渡したりしたのち、フライパンで肉じゃが用の野菜を炒めはじめた。四つで一〇〇円だったというシューアイスを一つ頂きながら(結構美味かったが、所詮は二五円の味である)フライパンを振り、途中で投入された冷凍肉が解けてほどけたあたりで水を注ぎ、居間の露芯式ストーブの上にフライパンを乗せた。これであとは自動的に煮込んでくれるわけだ。一方で野菜スープも煮込むところまで進んでおり、あとは鯵を食事の直前に焼けば良かろうというわけで、下階に戻った。Mさんのブログが更新されていたので、自分の日記と見比べながらそれを読み(Sさんなど両方とも読んでいるので、結構比較する楽しみがあるのではないか)、それからここまで日記を書き足した。空腹である。
昨日読んだErnest Hemingway, Men Without Womenからの英単語メモを以下に。
- ●12: The two matadors stood together in front of their three peones, ――peon: 召使い
- ●12: One of them, a gypsy, serious, aloof, and dark faced, he liked the look of.――aloof: 超然とした
- ●13: Zurito rode by, a bulky equestrian statue.――equestrian: 騎手
- ●13: 'Lean on him, Manos,' Manuel said./'I'll lean on him,' Zurito said. 'What's holding it up?'――lean on: 脅す / hold up: 遅らせる
- ●13: Zurito sat there, his feet in the box-stirrups, his great legs in the buckskin-covered armor gripping the horse――stirrup: 鐙[あぶみ] / buck: 雄鹿
- ●13~14: Then the bull came out in a rush, skidding on his four legs as he came out under the lights,――skid: スリップする、横滑りする
- ●14: he woofed through wide nostrils as he charged, glad to be free after the dark pen.――pen: 檻
- ●14: the gypsy ran out, trailing his cape. ――trail: 引きずる
- ●14: The gyp sprinted and vaulted the red fence of the barrera――vault: 飛び越す
- ●15: Zurito sunk the point of the pic in the swelling hump of muscle above the bull's shoulder, leaning all his weight on the shaft, and with his left hand pulled the white horse into the air, front hoofs pawing,――swell: 膨れる / hump: 瘤 / hoof: 蹄
- ●15: The horse, lifted and gored, crashed over with the bull driving into him, ――gore: 突く
- ●16: He'd stay on longer next time. Lousy pics! ――lousy: 質の悪い
そうして日記を記して七時を越えると食事を取りに行った。米、鶏ガラで味付けした野菜スープ、肉じゃがにモヤシなどの和え物である。それらを食べているうちに母親が鯵を焼いてくれて、それも白米とともに頂いた。新聞は読まなかった。テレビは、膝痛に効くという食材を紹介しており、生姜・玉ねぎ・牛蒡のうちのどれかがそれだったらしいのだが、答えを見る前に皿を洗って風呂に入った。洗面所に出てきて髪を乾かしていると、父親が帰ってくる前に風呂に入ってしまいたい母親が入ってきて、早く出てくれと言う。それで退出し、台所の炊飯器の脇にラップを敷いて米を取り分け、「錦松梅」の振りかけを掛けたのを手に乗せて、巨大なおにぎりを作っていると父親が帰宅して居間に入ってきた。こちらの手にあるものを見て、何だ、雪か、と笑ってみせるのに、おにぎりだと差し出すと、何だおにぎりかとさらに笑いを深め、それにしても随分でかいなと言ってみせる。こちらも笑ってそれを持って自室に下り、それで時刻は八時だっただろうか。ここから読書時間が記録されているのは、宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談「民主主義は崩壊の過程にあるのか コモンセンスが「虚構」となった時代に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4728)の続きを読んだのだったと思う。以下、引用。
宮台 もう一つ深い指摘がある。ジョナサン・ハイトらの道徳心理学やロビン・ダンバーらの進化心理学に詳しい[木村忠正]氏[『ハイブリッド・エスノグラフィー』]はこう述べる。仲間を大切にするがゆえにフリーライダーや仲間以外の人間を叩き出したがるのは、ゲノム的基盤を持つ自然感情。ところが先の「最終戦争」に対する反省に、トマ・ピケティが指摘した「G(生産の利益)>R(投資の利益)」という資本主義の例外的期間が重なり、「みんなで分けよう」というリベラルな政策が拡がる。政策だけでなく言論の主流にもなって自然感情が抑圧された。その抑圧された層がバックラッシュしているのが現在で、この層はゲノム的基盤を持つ道徳感情に従う潜在的多数派だから、リベラル叩きは永続するだろうと。
木村氏は、この鼎談で何度も取り上げたジョナサン・ハイトの道徳基盤理論も援用します。人間には五つ、最新の説では六つの「感情の押しボタン」がある。弱者への配慮・公平への配慮・聖性への帰依・権威への忠誠・伝統の尊重・自由の尊重。ところが人口学的に比較すると、リベラルな人々は、集団尊重価値である聖性・忠誠心・伝統への反応が平均より極端に小さい。氏はそれを指摘し、仲間の尊重という集団価値に反応しない普遍主義的リベラルは元々例外的で、特殊な条件がない限り多数派にはならないとします。総じて、現在の「右傾化」は一過性の事態ではなく、僕の言い方ならば「エントロピーが高い状態」つまり「よりありそうな状態」に戻っただけ。特殊な条件が与えた「エントロピーが低い状態」が、長く続くと思い込んだ点に知識人の間違いがあった。
宮台 中国は、アメリカと違い、AI統治と信用スコアを全面化しつつある。前者から言えば、ネットを使っていると公安が訪れて「あなたはAIによってマークされた」と連行される。「政治ネタは書いてない」と反論しても「AIの判断。我々には分からない」で終了。AIで得られた情報が優先される。僕の言葉を使えばAIを用いた奪人称化によって統治コストを下げる戦略です。
信用スコアは、人々に損得計算をさせ、道徳心がなくても見掛け上は道徳的に振る舞わせます。やはり統治コストを下げる戦略で、刑務所も取り締り人員も要らなくなります。中国では既に地域によっては、遠隔地の親を世話するとスコアが上がり、不動産取引でトラブルを避ければスコアが上がり、ネット履歴を汚さなければスコアが上がり、交通違反を避ければスコアが上がります。
これは統治コストを超えた問題に繋がります。僕ら三人が家族だったとする。苅部さんも渡辺さんも僕に非常によくしてくれる。本来ならば感謝します。でも、信用スコア社会では「信用スコアを上げるためにやってるのかな」という疑心暗鬼を生みます。マイケル・サンデルがアリストテレスを援用して言うように、罰を受けて損するから人を殺さない社会よりも、殺したくないと思うから人を殺さない社会のほうが、よい社会だとされてきました。それはどうなるのか。むろん中国政府に言わせれば、そんな呑気なことを言っていたのでは統治できない、で終了です。
渡辺 マイケル・サンデルの議論に一〇〇パーセント同意はしませんが、サンデルがデザイナーベイビーに反対していますよね。その理由が、今日の議論に繋がってくると思います。人間社会が持つ最後の共通項として、「運」というものがありますよね。たとえば、お金持ちに生まれてきたけれど、運動神経が悪いとか、頭が悪いとか、どこか人と比べて劣った部分がある。そのレベルにおいては、コントロールできない。それが最後の共通項であった。デザイナーベイビーを含むゲノム編集は、そこに人為的に介入できるということであり、最後の基盤さえも壊れてしまう。これは人間社会にとって堪えられない苦痛になるし、共同体としての倫理的な基盤も根本的に崩れてしまう。やはり個人では左右できないところがあることを、最後の平等性の担保として残すべき必要がある。これがサンデルの議論です。アルゴリズムにしても、ゲノム編集にしても、人為的介入によって生じる世界においては、ボトムラインでの社会の共通感覚も壊れてしまう。果たして我々は、そんな事態に耐えられるのか。大きな懸念が残ります。
BGMとしてはFISHMANS『ORANGE』を流していた。その後、書抜き。蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』と、福間健二『あと少しだけ just a little more』。Carlo De Rosa's Cross-Fade『Brain Dance』とCarmen McRae『After Glow』を背景にして打鍵を進めると、一〇時過ぎ。そこから少々娯楽に遊び、一〇時五〇分からムージルを読み出したが、例によってまた途中でうとうととしてしまい、気づくと一時。歯磨きしながらゲーム動画など眺めたあと、また書見をちょっとだけして、二時過ぎに就床した。
・作文
12:04 - 13:02 = 58分
18:54 - 19:07 = 13分
20:47 - 21:03 = 16分
計: 1時間27分
・読書
10:45 - 11:03 = 18分
11:12 - 11:15 = 3分
13:34 - 14:24 = 50分
14:33 - 15:09 = 36分
15:09 - 17:10 = 2時間1分
17:55 - 18:54 = 59分
20:06 - 20:47 = 41分
21:14 - 22:11 = 57分
22:50 - 25:07 = 2時間17分
25:45 - 26:06 = 21分
計: 9時間3分
- 斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』: 64 - 90
- 「記憶」; 40 - 50, 1 - 8
- 「ワニ狩り連絡帳2」: 「「忘れえぬ人々」国木田独歩:著(筑摩書房「現代日本文學体系11」より)」; 「「牛肉と馬鈴薯」国木田独歩:著(筑摩書房「現代日本文學体系11」より)」; 「2019-01-25(Fri)」; 「2019-01-26(Sat)」
- 宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談「民主主義は崩壊の過程にあるのか コモンセンスが「虚構」となった時代に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4728)
- 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-02-06「双頭の蛇が口づけして出来る輪で首を括って逝く夢を見た」
- 2018/2/7, Wed.
- 蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』青土社、二〇一八年(新装版)、書抜き
- 福間健二『あと少しだけ just a little more』思潮社、二〇一五年、書抜き
・睡眠
2:45 - 9:25 = 6時間40分
・音楽
- Takuya Kuroda『Rising Son』
- FISHMANS『ORANGE』
- Carlo De Rosa's Cross-Fade『Brain Dance』
- Carmen McRae『After Glow』