2019/8/18, Sun.

 にんげんの耳の高さに
 その耳を据え
 肩の高さにその肩を据えた
 鉄と無花果がしたたる空間で
 林立する空壺の口もとまでが
 彼をかぎっている夜の深さだ
 名づけうる暗黒が彼に
 兵士のように
 すぐれた姿勢をあたえた
 夕暮れから夜明けまで
 皿は適確にくばられて行き
 夜はおもおもしく
 盛られつづける
 酒が盛られるにせよ
 血が盛られるにせよ
 そこで盛られるのは
 彼自身でなければならぬ
 雄牛の背のような
 偉大な静寂のなかで
 彼はうずくまり
 また立ちあがり
 たしかな四隅へ火の釘を打った
 ひとつの釘へは
 笞を懸け
 ひとつの釘へは
 祈りを懸け
 ひとつの釘へは
 みずからを懸け
 ひとつの釘へは
 最後の時刻を懸け
 椅子と食卓があるだけの夜を
 世界が耐えるのにまかせた
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、13~14; 「Gethsemane」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 何度も覚めてはいるのだが、起床を掴み取ることが出来ず、一二時二五分まで相変わらずの寝坊をした。起き上がって上階に行くと、テレビは『のど自慢』を映しており、父親はソファに座って薄笑みを浮かべながらそれを見ていて、母親は洗濯物を何か処理しているようでベランダにいた。呻き声を上げていると、父親がおはようと言ってくるのでおはようと返し、便所に行った。放尿してきてから台所に入ると、焜炉に置かれた鍋には野菜のスープが拵えられている。また、カレーもあると言うので冷蔵庫からフライパンを取り出した。一杯ずつ温めてと母親が言うので、フライパンを火に掛けるのではなく、大皿によそった米の上に冷たいカレーをよそい掛けて電子レンジに入れた。そのあいだに円筒形の容器に入って冷やされた水をコップとともに卓に持っていき、野菜スープも温めてよそってきて、食事を始めた。カレーは二分半温めただけでは充分に熱を持たなかったので、もう一分加熱時間をプラスしておき、スープを食っていると加熱の終わったカレーを母親がカウンター上に出してくれたので受け取る。そうして水を飲みながらそれを食べるあいだ、新聞を瞥見した。斜め読みしかしていないのだが、細谷雄一が現今の日韓関係に関して、感情的になるのではなく冷徹で現実的な計算を、と呼びかける記事があった。またこちらも斜め読みしかしていないが、キャンプ瑞慶覧の一部が返還される見通しだという報告が二面にあった。真面目に詳細に読む気も起こらず、瞥見程度で済ませて、食事を終えて抗鬱薬を忘れずに服用しておくと、台所に移って母親や父親の使ったものもまとめて皿洗いをした。それから風呂も洗う。洗剤がもうほとんどなくなってしまったが、詰め替えるのが面倒なので横着して、レバーを引きまくって残り少ない洗剤の泡を絞り出すようにしながら浴槽を擦った。
 それから下階に下りて自室に戻ると、Brad Mehldau『Live In Tokyo』の流れるなか、だらだらとした時間を過ごした。日記を書かなければならないのだが、その気力が湧かなかった。それで、鬼気迫るかのようで非常に素晴らしい"From This Moment On"の途中からベッドに移り、読書をしながら身体を休めて気力を養おうとしたのだが、ベッドに就くと目を閉ざしてしまい、音楽に耳が行って一向に書見が始まらなかった。"Alfie"、"Monk's Dream"と聞いて、"Paranoid Android"の序盤まで聞いた記憶はあるのだが、その頃には姿勢が崩れて臥位になっており、事の当然として意識を失ったようである。散発的に目覚めつつ、身体に薄布団を絡めながら五時過ぎまで眠ったあと、五時二二分になるとようやく意識を定かなものにして読書を始めた。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。

 さあ、ピコロ、注意してくれ、耳を澄まし、頭を働かせてくれ、きみに分かってほしいんだ。

  きみたちは自分の生の根源を思え。
  けだもののごとく生きるのではなく、
  徳と知を求めるため、生をうけたのだ。

 私もこれを初めて聞いたような気がした。ラッパの響き、神の声のようだった。一瞬、自分がだれか、どこにいるのか、忘れてしまった。
 ピコロは繰り返してくれるよう言う。ピコロ、きみは何といいやつだ。そうすれば私が喜ぶと気づいたのだ。いや、それだけではないかもしれない。味気ない訳と、おざなりで平凡な解釈にもかかわらず、彼はおそらく言いたいことを汲みとったのだ。自分に関係があることを、苦しむ人間のすべてに関係があることを、特に私たちにはそうなのを、感じとったのだ。肩にスープの横木をのせながら、こうしたことを話しあっている、今の私たち二人に関係があることを。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、145)

 「オデュッセウスの歌」という章からの一節である。レーヴィは仲間の一員とともにスープを運ぶために一キロ離れた配給所まで歩いていく途中だ。そこに着いたら、五十キロの大鍋に角材を二本渡して、協力してかついで道を戻らなければならない。その途中、「ピコロ」の任務――書記を兼ねた使い走りの小僧――を担っているジャンという囚人仲間に、レーヴィはダンテの『神曲』について講釈をする。そのうちのハイライトと目されるのが上の引用の場面だろう。
 「この有名な三行句は、著者と友人のピコロにとって、恐ろしいほど現実的な意味を持った」とレーヴィは註で付記している。ダンテが遥か時空の彼方に書きつけた詩句が、六〇〇年もの時間の厚みを越えて、現代の極限的な状況のなかで痛々しいまでのリアリティを持ってレーヴィたちのもとに迫ってくるさまは感動的である。これらの言葉が記憶の底から思い出され、二人のあいだに共有されたからと言って、別に状況が何か変わるわけではない。事態は何一つ良くなってなどいない。レーヴィたちはいまだ地獄の深淵に囚われたままである。それでも、文学という人類の遺産が、強制収容所という絶望的な環境のなかでも人と人を結びつけることが出来たということ、そのように機能する[﹅4]ことが出来たということ、そしてそれがレーヴィの手によって今に伝えられているという事実には、何かしら人の心を打つものが含まれているように思われる。極端な話、ここでレーヴィは、ほんの一瞬のあいだではあっても、「救われた」のではないだろうか。彼は一瞬間だけではあるが、「自分がだれか、どこにいるのか、忘れて」しまい、収容所のことも忘れ、自分が囚われの身であることも忘れ、忘我の境地に至っている。それは勿論、たった一瞬しか続かないのだが、しかしここにはもしかすると人間の「自由」というものが生じているのかもしれない。強制収容所という凄惨で暴力がすべてを支配する状況のなかで、もし人の精神の「自由」などという高貴な概念が実現されるとしたら、それはこうした本当に短い束の間の形でしかあり得ないのかもしれないが、しかしレーヴィの記述は、それが微かではあっても確かに生じ得るものだという一つの証言を、生き生きと伝えてくれているのではないだろうか。そしてその一瞬の体験は、その後のレーヴィのなかに確固として残り、おそらくは彼が収容所を生き延びていく上での一抹の支えとなっただろう。レーヴィがこの場面を記憶し、のちになって具体的に書き記し、文学作品という形に仕立てて我々に伝えてくれたという事実こそが、それを証明しているように思われるのだ。
 六時ちょうどまで書見を続けてから、上階に上がった。何かやってくれるの、とソファに座っていた母親が言うので、ああ、と肯定する。母親はまた、これ、すごく美味しいと言って、ロシアから買ってきた菓子をこちらに示してみせる。チョコクリームの織り交ぜられた濃い焦茶色のロールケーキである。もっと甘ったるいかと思ったら、思いの外にほろ苦くて美味しいと言う。食べるかと訊くので肯定の返事を送り、母親が一切れ切ってくれたのを口に入れ、食べてから乾燥機のなかの食器を片付けた。それから、茄子と豚肉の炒め物を作ることにした。長茄子の五つ入った袋を冷蔵庫から取り出し、開封してそのうち三つを調理台の上に取り出す。洗い桶には綺麗な水を溜めておいて、茄子を切り分けるとそのなかに放り込んでいく。三本を切り終えたあと、冷蔵庫から今度は豚肉を取り出して、左手で掴み持ち上げて牛乳パックの上に置いた。そうして左手で肉を押さえながら切り分けると、手指に肉の脂と臭いが付着したので、泡石鹸を用いて手を洗っておき、それからフライパンを火に掛けてオリーブオイルを垂らした。続いてチューブのニンニクをほんの少しだけ落とし、それがぱちぱちと音を立てて跳ねるなか、笊に上げておいた茄子を投入した。つまみを横に引き火を最強に設定して加熱していく。茄子でいっぱいに満たされたフライパンからは、油と水分が反発し合って立てる土砂降りの雨のような音が響き、そのなかに時々ぱちぱちと火が燃えるような音が混じる。しばらく熱して茄子が焼けてきた頃、豚肉も投入してしまい、菜箸で搔き混ぜながらちょっと火を加えて、肉の色が大方変わったところで砂糖を振り掛けた。さらに醤油を回し掛け入れて、火をふたたび最強に設定し、液体を絡めながら揮発させる。そうして完成、あとはやってくれと言い残して下階に戻ろうとしたところが、オクラを茹でてくれと注文が入ったので、小鍋に水を汲んで火に掛けた。それで一旦、ゴミ箱を持って――書き忘れたが、上階に上がって来る時に燃えるゴミの箱を持ってきて、中身を上階のゴミと合流させておいた――室に戻り、手帳を持ってきて、それを眺めながら湧いた湯にオクラを投入した。タイマーで三分間を測り、手帳に目を落としながら火を調整して茹で上がるのを待ったが、三分経たないうちに母親がもう良いと言うので鍋を持ち上げて、熱湯とオクラを笊に開けた。それで仕事は終了、自室に戻ってくるとようやく日記を書き出した。BGMとしてはBrad Mehldau『Live In Tokyo』を、"Paranoid Android"からふたたび流しだした。今日の記事を先に認めたのだが、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』についての感想を――あの程度のものなのに――書くのに結構時間が掛かって、現在時刻に追いつけないまま切りがついた頃には、八時直前になっていた。
 食事を取るために部屋を出た。上がっていくと母親は既にものを食べ終わっており、彼女の前には空になった皿が並んでいた。こちらは台所に入って茄子と豚肉の炒め物を皿に取ると、電子レンジに入れた。そのほか米をよそり、オクラと漬け物を合わせて入れた小鉢や、野菜スープの椀も運び、電子レンジのなかの炒め物も持ってきて卓に就いた。炒め物をおかずにして白米を口に入れていく。テレビは『ポツンと一軒家』を流しており、今日の舞台は山梨県の七面山という山の上の宿坊だった。麓から二時間だか三時間だか掛けて山を登っていったその先の、標高一二五〇メートルかそこらの高所に、九四歳になる老婆が娘と一緒に住んでいるのだった。この山の寺の住職だった旦那に嫁いで、その人が亡くなった数十年前からは、坊守の役目を引き継いでこなしてきたとのことだった。半年に一度は病院に行くために山を自ら歩いて下りると言う。この七面山の寺は結構有名な寺院らしくて、年間四万人が峻厳な山を登って訪れると言い、この母娘はそうした参拝客に飲み物を売ったり、その世話をしたりする仕事をしているのだった。
 こういうところにも人の暮らしというものがあるのだなあと結構興味深く感じられて、食事を終えてからもソファに就いて番組を追っていたのだが、参拝客に売る飲み物の類や生活用品などはどのようにして運搬しているのか気になるところである。答えはリフトだった。大きなリフトが麓から通っていて、それに載せて品々の入った段ボール箱が届けられるのだが、このリフトは麓の発着所でしか操作できないため、今は老婆に代わって運搬の任を担っている六八歳の娘さんが、リフトの中継所から無線機で下と連絡を取り合って、うまいタイミングで停止させてもらうのだった。山には霧が掛かっており、リフトが上ってくるさまなど白濁した空気に紛れてとても見えないのだが、何故かこの娘さんは、今もう一〇メートル付近に来ていると思いますなどとその動向をぴたりと言い当て、すると本当にまもなく霧のなかからリフトの影が姿を現して出てくるのだった。リフトから箱を下ろすと、一つ六キロほどあるというそれらの箱をいくつか、背負子を使って背に載せて宿坊まで運んでいかなければならない。合わせて二〇キロかそこらの荷物を負って山道を行く難事だが、娘さんはさしたる困難でもないように、事も無げに重い箱を背負って足取りも滑らかに下りていくのだった。
 番組を見終わったあと食器を洗い、そのまま風呂に入った。窓の外からは虫の音が響いていたが、昨日の深夜に帰ってきた時に聞いた夜蟬の声はそのなかになかった。湯のなかで姿勢を水平に近くして頭を浴槽の縁に預け、身体をぴくりとも動かさずに温かな湯の安楽に静止させながら、プリーモ・レーヴィのことを考えたり、昨晩の後輩らとの飲み会での会話を散漫に思い返したりした。そうして出てくると、背や胸から汗を吹き出させながらパンツ一丁で自室に戻り、エアコンと扇風機を点けてしばらく涼むと、Brad Mehldau『After Bach』とともに日記を記しはじめた。ここまで綴って午後一〇時を越えている。
 引き続き、前日の記事を綴り、一一時を回ったところで疲れたので中断した。書けたのは居酒屋に行く手前の場面、西分の交番前で待ち合わせをしているところまでだった。残りは翌日の自分に任せることにして、その後の時間はBorodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』とともにだらだらと過ごした。そうして一時四〇分になってようやくベッドに移って読書を始めた。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。
 レーヴィは収容所の悪魔的な環境のなかで、ロレンツォという一人の善良な民間人労働者と巡り合う。彼はレーヴィに対して好意を示し、パンの残りを持ってきてくれたり、肌着を提供してくれたりした。そうした善意にロレンツォは何の見返りも求めなかった。

 (……)同じような仲間が何千といた中で、私が試練に耐えられた原因は、その究明に何か意味があるのだとしたら、それはロレンツォのおかげだと言っておこう。今日私が生きているのは、本当にロレンツォのおかげなのだ。物質的な援助だけではない。彼が存在することが、つまり気どらず淡々と好意を示してくれた彼の態度が、外にはまだ正しい世界があり、純粋で、完全で、堕落せず、野獣化せず、憎しみと恐怖に無縁な人や物があることを、いつも思い出させてくれたからだ。それは何か、はっきり定義するのは難しいのだが、いつか善を実現できるのではないか、そのためには生き抜かなければ、という遠い予感のようなものだった。
 この本に登場する人物たちは人間ではない。彼らの人間性は、他人から受け、被った害の下に埋もれている。さもなくば彼ら自身が埋めてしまったのだ。意地悪く愚劣なSSから、カポー、政治犯、刑事犯、大名士、小名士をへて、普通の奴隷の囚人[ヘフトリング]に至るまで、ドイツ人が作り出した狂気の位階に属するものはすべて、逆説的だが、同じ内面破壊を受けているという点で一致していた。
 だがロレンツォは人間だった。彼の人間性には汚れがなく、純粋で、この否認の世界の外に留まっていた。ロレンツォのおかげで、私は自分が人間であるのを忘れなかったのだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、157)

 代償を要求しない善行を実現するのは難しい。外の世界[﹅4]でもそうなのだから、収容所においてはなおさらそうであり、それは途方もなく困難なこととなるに違いない。そこではごく少量のパンを分けるといったような「ささいな」、「つまらない」行為でさえも、ほとんど英雄的な輝きを帯びるように見える。実際、ロレンツォの行動は少なくとも、プリーモ・レーヴィという一人の人間の精神[﹅2]を、その人格を救ったのだ。「ロレンツォのおかげで、私は自分が人間であるのを忘れなかったのだ」。ラーゲルという場所において彼の行いはおそらく、ほとんど「聖なる」という修飾語を付して語られるに相応しいものだろう。
 「この本に登場する人物たちは人間ではない」という文章に註を付して、レーヴィは、「ラーゲルは否定の世界で、人間性を、つまり人間の尊厳を抹殺する。それは犠牲者だけでなく、抑圧者の側でも同じだ」と言っている。それは確実なことだろう。そして、被害者だけではなく加害者の側もまた、内面を破壊され、人間性を損なわれているのだというレーヴィの指摘は啓発的である。しかしそれにしては、レーヴィがほかの囚人たちを描くその記述は、非常に具体的で生き生きとしており、実に人間的[﹅3]なのだ。例えば、エリアス・リンジンという囚人の個性的な[﹅4]描写を見てみよう。

 エリアスの働きぶりを見ると、めんくらってしまう。ポーランド人やドイツ人の監督[マイスター]たちも時々立ち止まって、エリアスの働きぶりを感心しながら眺めている。彼には不可能なことは何一つないように見える。私たちだったらセメント一袋がやっとなのに、エリアスは二つ、三つ、四つと持ち、どうするのか、うまくバランスをとって、ずんぐりした短い足でとことこと歩き、重さに顔をしかめながらも、笑い、ののしり、叫び、息もつかずに歌う。まるで青銅の肺を持っているようだ。また木底の靴をはいているのに、猿のように足場によじ登って、空中に突き出た横板の上をあぶなげなく走る。煉瓦は六つ、頭にのせて、うまく均衡を保って運ぶ。鉄板のきれはしでスプーンを、鋼鉄のくずでナイフを作れる。どんなところでも乾いた紙や木が石炭を見つけ出し、雨が降っていてもすぐに火がつけられる。仕立て屋、大工、靴直し、床屋の職をはたせる。信じられないほど遠くまで唾を飛ばせる。なかなか良いバスの声で、聞いたこともない、ポーランド語やイディッシュ語の歌を歌う。六リットル、八リットル、いや十リットルのスープを飲んでも、吐いたり、下痢したりせずに、すぐに仕事に取りかかれる。肩甲骨の間に大きなこぶを出し、体を曲げて猿のまねをし、訳の分からないことをわめき散らしながらバラック中を回って、収容所の権力者たちを楽しませる。私は彼が頭一つ背の高いポーランド人と喧嘩したのを見たことがある。頭突きを胃に見舞って、一撃で倒してしまったのだ。力強く、正確で、カタパルトから発射されたかのようだった。彼が休んだり、じっと静かにしているのは見たことがない。病気になったり、怪我したりしたのも知らない。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、120~121)

 このエリアスという囚人の動くさまは、ほとんどガルシア=マルケスの小説にでも出てきそうな出鱈目な躍動感を湛えている。彼は収容所という地獄の環境には似つかわしくないくらい、逞しい生命力に溢れた存在なのだ。もう一人、「溺れるものと救われるもの」と題された同じ章で言及されている、アンリという男に関する文章を引いてみよう。

 イギリス人から来る物品の取り引きはアンリの独占だ。ここまでは組織を作ることだ。だが彼がイギリス人に食いこむ手段は同情なのだ。アンリの体つきや顔だちは繊細で、ソドマの描いた聖セバスティアヌスのように、かすかに倒錯的なところがある。瞳は黒くうるみ、まだひげはなく、動作には生来のしどけない優雅さがある(それでも必要な時には猫のように駆け、跳ぶことができる。彼の胃の消化力はエリアスにわずかに及ばないほどのものだ)。こうした自然のたまものをアンリは十分にこころえていて、実験装置を操る科学者のように、冷たい手つきで利用する。その結果たるや驚くべきものだ。実質的には一つの発見だ。同情とは反省を経ない本能的な感情だから、うまく吹きこめば、私たちに命令を下す野獣たちの未開な心にも根づく、ということをアンリは発見した。何の理由もないのに私たちを遠慮会釈なく殴り、倒れたら踏みつけるようなあの連中の心にも根づくのだ。彼はこの発見が実際にもたらす大きな利益を見逃さずに、その上に個人的産業を築き上げた。
 (125)

 ここで取り上げられている囚人たちは、収容所を生き延びた選ばれた者たち、「救われるもの」の側に属することが出来た人間たちだ。その事実は、彼らが最良の存在だったということをいささかも証明しない。彼らは適応した者たちである。そして、最良の者たちは適応できず、死に追いやられていったのだ。後年、まさしく上の引用を含む章と同じ表題を持つ著作のなかで、レーヴィはその点を明確に断言している。「最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった」(プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、91~92)。
 そのなかでもエリアスは「最も適応した人間」だった。彼やアンリといった男たちは、外の世界[﹅4]においてははみ出しものとなるべき個性を持っている。「もしエリアスが自由を得たら、牢獄か、精神病院か、いずれにせよ人間社会の外縁に押しこまれることだろう」とレーヴィも認めている。しかし、彼らが褒められるべき人間ではないということを認めた上で、こういう言葉を使って良いものか自信がないのだが、レーヴィが描く彼らの肖像は実に魅力的[﹅3]なものだと言いたくなる。端的に言って、レーヴィの文章は、強制収容所というこの上なく非人間的な状況を描いていながらも、同時に、ここにも確かに人間がいるのだ[﹅14]、という実感を与えるものとなっているのだ。それを文学による人間性の救出、と大仰に言い表しても良いのだとしたら、レーヴィの作品は一つの「救済の文学」として成立しているものなのかもしれない。
 それを可能にしたのは、レーヴィが個人的に持っていたある一つの性質である。「偶然が自分の前に運んで来た人間たちに、決して無関心な態度を取らないという習慣」(『溺れるものと救われるもの』、162)を彼は備えており、そうした好奇心は彼の生の一部を確かに「生き生きとさせるのに貢献していた」(163)と言う。「アウシュヴィッツが私の前に広げてみせた見本帳は、豊かで、多彩で、奇妙であった」。彼は殺伐とした地獄の底の不毛な領域に落とされても、人間存在に対する関心を失わなかったのだ。「ラーゲルは大学であった。それは私たちに、周囲を眺め、人間を評価することを教えてくれた」とさえ彼は言う。
 そうしたレーヴィの人間に対する健康な[﹅3]、生命的な[﹅4]関心の結実を、今我々は読んでいる。彼の文章は常に具体的で、通り一遍でないとともに文脈にぴたりと合った比喩で装飾され、新たな視点を教えてくれるような知見や洞察を含み、堅実な緊密さに溢れている。またもこういう言葉を使っても良いものかわからないのだが、『これが人間か』は一篇のテクストとして、単純に、「面白い」のだ。それは、強制収容所という、我々がいつまでも語り伝えていくべき極限的に凄惨な環境を証言する一つの記録でありながら、同時に確かに、文章というものの力に満ち満ちた魅力的な文学作品でもある。逆説的なことだが、おそらくその「面白さ」は、我々がラーゲルを記憶し続けることの助けとなるだろう。レーヴィの筆致に、恨みや憎しみや告発といった後ろ向きの、どろどろとした感情がまったく感じられないのも特筆するべき点である。彼の文章は、地獄の底を目撃してきた者のそれとしては、ほとんど奇跡的と言いたいような明澄さを湛えているように思われる。
 三時五分まで読書を進めたあと、就床した。


・作文
 18:44 - 19:57 = 1時間13分
 21:39 - 23:04 = 1時間25分
 計: 2時間38分

・読書
 17:22 - 18:00 = 38分
 25:39 - 27:05 = 1時間26分
 計: 2時間4分

・睡眠
 4:00 - 12:25 = 8時間25分

・音楽

  • Brad Mehldau『Live In Tokyo』
  • Brad Mehldau『After Bach』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』

2019/8/17, Sat.

 充足理由律(Principle of sufficient reason) 「どんな出来事にも原因がある」「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」という原理。すなわち、どんな事実であっても、それに対して「なぜ」と問うたなら、必ず「なぜならば」という形の説明があるはずだ、という原理のこと。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、115; 注4)

     *

 2016年はライプニッツ没後300周年だったわけですけども、300年前にそのライプニッツが、なぜ無ではなくて何かがあるのかという問いを問うていくわけです。そのときに、何かがあるということを一生懸命彼は論じようとして、たとえば充足理由律のようなことを論じていました。しかし、今の素粒子物理学の展開は、なにかもうその先に行っているような気がします。ライプニッツたちの問いのもとで抑圧されていた無というものに迫ろうとする勢いがあるのではないのか。浅井先生が論じられている真空の議論とか、質量の議論を拝見するだけでも、何かがあるということを、別な形で、科学の言語で表現されているのではないかという気がしています。
 その議論の中で特に面白いと思ったのは、力という概念です。たぶんそれには非対称性と傾きという概念も関わっていると思いますが、何かこうモノが一様にあるというだけじゃなくて、そこに何らかの非対称性が出現することによって、ある場が形成されていく、というイメージですね。このイメージは非常に面白いと思います。その際に、深い偶然性の影がここには差しているんじゃないかという気がするんですね。ライプニッツ自身も、この偶然性の問題を、繰り返し、繰り返し考えていて、彼なりに非常に苦しむわけです。彼の場合は、最終的には神を持ち出すことによって、何とかこの偶然性の問題を切(end115)り抜けようとしたと思います。
 最近、科学と哲学の接点で議論をしている人たちが多くいるんですが、ここではメイヤスーという名前を挙げました。カンタン・メイヤスーというフランスの人です。彼はライプニッツのような充足理由律ではなくて、非理由律といった言い方をします。実は理由というのがないかもしれない、この世界がこのような形であることに関しては、ひょっとしたら理由がないのかもしれないということを言いだしているわけです。たとえば、われわれは普段生きているときに、ニュートン的な物理学がある程度機能している世界に住んでいるわけですけども、ひょっとしたらその原理が大きく変容したってかまわないかもしれないと考えます。なぜこの世界とそうじゃない世界があるのか。そのことに関して、偶然性という概念を武器に迫ろうとしているんですが、それはひょっとすると確率論を洗練していくだけではもはや迫れない地点ではないのか。なにか別のアプローチが必要なのではないのか。そんなことが、今や問われているわけです。
 (115~116; 市川裕・浅井祥仁・永井良三・小野塚知二・中島隆博「存在の語り方」)

     *

 人間原理(anthropic principle) 物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理。
 (117; 注6)


 色々と夢を見たあと、一一時四〇分頃ようやく起床。暑い正午前だった。今日は東京の最高気温は三七度、今夏一の暑さになるという噂だ。部屋を出て上階に行き、母親に挨拶をして、洗面所に入って顔を洗った。それから台所でコップに水を汲んで飲んだが、水が少々温いように感じられた。食事は前日のうどんの残りと、サラダがあると言う。それで冷蔵庫から二品を取り出し、細切りにした大根やら何やらをシーチキンで和えたサラダを皿に移し、椀に麺つゆを用意した。そうして食卓に向かい、新聞から香港情勢の記事を瞥見しながら麺を啜った。うどんをすべて食べてしまうと、豆腐を少しずつ箸で分割して、それも麺つゆに浸けて食った。テレビは『メレンゲの気持ち』を掛けており、鈴木福くんとその弟妹が出演していた。そのほか小籔千豊も招かれていた。食後、彼のトークをちょっと眺め、食器を洗って風呂も洗ったあと、ふたたびテレビをちょっと眺めてから下階に下った。部屋に戻って扇風機とエアコンを点け、コンピューターを起動させる。まもなく母親が、隣室の兄の布団をベランダに干してくれとやって来たので、それを受け取ってベランダの戸口の前に置いた。それからシーツとマットも持ってきて、ベランダに移った母親に受け渡し、そうしてこちらはコンピューターを前にして、ceroの音楽を一、二曲歌った。それで日記に取り掛かったのが一時半前だった。BGMにはMilt Jackson『At The Museum Of Modern Art』を流した。
 大した文章ではないのだがやけに時間が掛かって、三時前になってようやく前日の記事を仕上げた。その後、三時二〇分からインターネットに繰り出し、MさんのブログとSさんのブログを読んだ。それで時刻は四時前、出勤前に腹を満たそうと上階に上がった。上がっていくと、母親が、それ食べちゃ駄目だよと言う。何かと思えば、クッキーの詰め合わせをメルカリに出品したところ、今ちょうど売れたのだということだった。この詰め合わせは仏事のお返しとして父親が貰ったものらしく、全部で四〇個くらい入っている結構大きなものであり、売りなどせずに我が家で食べれば良かったのにとこちらは思ったけれど、母親は、甘いものがたくさんあるからと言うのだった。
 カレーパンがあったので、それを頂くことにした。そのほかにも二品ほど何か食った覚えがあるのだが、それが何だったのか今うまく思い出せない。一つには、昼にも食ったシーチキン和えのサラダが残っていたので、それを食べたのではなかったか。もう一品は完全に忘れてしまった。
 食事を終えて皿を洗うと、米を笊に三合用意した。洗い桶のなかに笊を入れて、流水が上から落ちてくるなか、米を右手でじゃりじゃりと擦って洗った。そうして炊飯器の釜にもう入れて、水も汲んでおき、六時五〇分に炊けるようにセットをしておいた。それから――あるいはこの時ではなくて、食事を取る前だったかもしれないが――ソファの上に乗っていた母親の寝間着などの衣服を畳んで整理した。そうして下階に戻ると、まもなく仕事着に服を着替えた。ワイシャツとスラックスで肌を覆うとさすがに暑いので、室内にはエアコンを掛けていた。そうして四時半前から、家を発つ五時頃までのあいだにと、星浩「「殺されてもいい」小泉首相捨て身の郵政選挙の罪 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(14)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019041100006.html)を読みはじめた。特にメモを取りたいと思う事柄もなく、さらに次の星浩「戦後最年少宰相・安倍氏と常識人・福田首相の挫折 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(15)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019042500008.html)に入って、第一安倍政権が二〇〇六年の九月二六日から始まったこと、続く一〇月八日には「電撃的な」訪中があって首相が胡錦濤国家主席と会談したことなどを手帳にメモし、このコラムを読んでいる途中で五時がやって来たので中断して、上に行った。
 母親にそろそろ行こうと告げた。メルカリの送料支払いをしなければならないので、ついでに送っていってくれるという話だったのだ。室長と教室に差し上げるロシア土産は、クラッチバッグのなかに何とか収まった。室長の方の土産は、グム百貨店の薄黄がかったクリーム色のビニール袋に包んだ。それで出発、こちらは先に出て、母親の車の脇で彼女が出てくるのを待った。林からは蟬の声が降りしきっていた。今日は東京の最高気温は三七度、今夏一番暑いという予報だったが、さすがに五時にもなるといくらか暑気は和らいでいるようだった。
 母親が車を出すと、助手席に乗り込んだ。車内にはAir Supplyの曲が掛かっていた。走っている途中、教室の方に置いておく土産として持ってきたレーズン・クッキーの箱に蓋がないなという事実に思い当たった。包装を取り除いてしまうと、クッキーが剝き出しになってしまうのだった。教室には冷蔵庫などもなく、テーブルの上に置いておくほかはないので、それでは保存に悪かろうということで、コンビニに寄ってラップを買うことにした。それで駅前のコンビニの横で下ろしてもらい、入店すると棚のあいだを巡って、サランラップの大きめのものを発見したのでそれを一つ掴み、レジに向かった。二〇四円の品を五〇〇円玉で精算し、礼を言って退店すると職場に向かった。
 こんにちはと挨拶してなかに入り、靴をスリッパに履き替えると、バッグからビニール袋に包まれた品物を取り出して、ささやかなものですが、ロシア土産ですと言って室長に渡した。それから奥のスペースに向かい、長テーブルの上にもう一つのレーズン・クッキーを、まだ包装を取らないままに置いておき、準備を始めた。珍しく数学に当たっていたので、予習で方程式の利用の問題などに奮闘したのだが、結果、この範囲は今日は扱わなかった。
 授業一コマ目は(……)くん(中三・英語)、(……)さん(高三・英語)。(……)くんは英語は夏期講習用テキストの予定をすべて消化し、今日から学校準拠のワークに戻るとのことだったので、まとめ問題で復習を扱った。わからなかった単語など自ら率先してノートに記してくれ、なかなか良い調子だった。(……)さんは前置詞の単元。しかも群前置詞などの、複数語を合わせて使うものについて学ぶところだったので、ほとんどイディオムのようなものであり、個々に覚えなければならないようなものなので、こちらから手助けできることはあまりなかった。授業中は二人にもクッキーを一枚ずつおすそ分けした。その実、毒見役と言うか、初めに食べてもらって味の感想を聞こうと思っていたのだが、(……)くんは美味くも不味くもないと言い、(……)さんも普通だと言った。しかし彼女はそのあとに続けて、美味しい寄りの普通だ、とフォローしてくれたが。
 二コマ目は(……)さん(中三・英語)と、(……)くん(中三・数学)。(……)さんも(……)くんと同様、学校準拠のワークで復習。前回こちらが当たった時にレッスン四のまとめ問題を扱っていたので、最初にそこをもう一度やらせてみたところ、全問正解することが出来たので良い具合である。しかしその後、レッスン一の方に戻ってまとめを扱うと、こちらの内容はやはり結構忘れてしまったようで誤答が多かったし、和訳の四問など手をつけられずにいたので、それに関しては答え合わせを待たずに一緒に解説しながら解いた。(……)くんは真面目な子で、問題も結構出来るのでやりやすい。今日扱ったのは平面図形の単元で、扇形の弧の長さや面積の求め方などである。特段に問題はなかった。このコマもクッキーを二人に配ろうとしたのだが、(……)さんはいらないと言って固辞した。(……)くんは受け取ってくれ、あとで礼とともに美味しかったとの評価をくれた。
 二コマ目の授業中、既に授業終わりだった(……)先生と(……)先生にもクッキーを勧めた。(……)先生は結構美味しいですよ、レーズンサンドみたいで、と言って食べてくれていたが、(……)先生がどう感じたのかはわからない。授業が終了したあとは、残っていた(……)くんと(……)先生にも、さあ食べてください、と言って半ば無理やりにクッキーを勧めた。その時こちらも、自ら買ってきた品を初めて口にしてみたのだが、やはりまあ不味くもないけれど取り立てて美味くもない、微妙な品だったなと認めざるを得なかった。(……)くんもそのようなことを口にしていたが、(……)先生は無言で二枚食べていた。
 それから片付けをしていた(……)くんに寄って、明日何かあるのと尋ねた。何もないと言うので、それじゃあまた飯に行こうかと誘って了解を得、(……)先生も誘ってみようと言って奥のスペースにいた彼のところに行って、我々、飯食いに行きますけど、(……)先生も行きますかと尋ねると、意外にも――あまりそうした会合に行きたがらなさそうなタイプだと見ていたのだが――行きますと即答があった。どこに行くかと話して、先日行った地ビールの店でも良いのだけれど、西分の途中に新しい焼き鳥屋みたいなのが出来たからそこに行ってみようかという流れに緩く決まった。それで(……)くんは今日は財布を持っているけれど、携帯がないので取ってくると言って、先に教室をあとにした。待ち合わせは、西分の交差点の元交番の前ということになった。それで(……)先生と教室の鍵閉めを済ませ、自転車を引く彼と並んで歩きはじめた。彼は今、大学三年生、学校では数学をやっている。数学と言ってこちらはまったくの門外漢で全然わからない。それでどんなことをやっているのかと訊いても、彼も門外漢に説明するのになかなか苦心していたようだが、分野で言うと幾何学をやっており、より具体的には多様体というものについて勉強しているのだと言う。幾何学って言うと、とこちらは曖昧な記憶を何とか呼び起こし、ユークリッドだっけ、『原論』とかありますよねと話を向けてみたが、彼がやっているのは非ユークリッド幾何学のなかに入る方であるらしかった。理屈は勿論わからないけれど、そうした空間内では、例えば平行でないけれどずっと伸ばしていっても交わることのない二直線、といった関係が成立するのだと彼は言い、感覚的にはおかしいんですけれど、そういう空間があるのだと付け加えた。
 就職活動についても少々尋ねてみると、やはり数学などの知識を活かせるようにということだろう、IT系の、SEなどを狙ってみようかと考えていると言っていた。しかし、大学院に行こうかという気持ちも若干あって、まだ迷っているところなのだと言う。
 元交番の前に着いたところで、幾何学と言って、例えば学んでいる数学者で言うと誰なのかと訊くと、ポアンカレとの名が最初に返った。名前だけは聞いたことはある。しかし、名前以上のことは何も知らないと言って笑うと、ポアンカレ予想というワードが出てきたが、これについてもこちらは良くもわからない。続いて、リーマンの名前が挙がった。ニクラス・リーマンという人が社会学の方にいなかったか、その人のことかと一瞬思ったのだったが、いやあれはルーマンだったかとすぐに思い直した。あとは最後に、一番有名な人として、ガウスの名前が告げられた。有名だからと言ってこちらは彼についても何も知らないわけだが、結構昔の人だったはずだ。
 そうこうしているうちに(……)くんがやって来たので、焼き鳥屋に向かった。彼は走って来たので、汗を搔いており、ワイシャツの首元を前後にぱたぱたとやりながら暑そうにしていた。件の焼き鳥屋は休業だった。それで仕方なく道を戻っていき、地ビールの店に至ったのだが、なかに入ると男性店員が、フードのラストオーダーは一〇時で終わりだと言う。飲み物しか飲めないのもさすがに嫌なので、それじゃあ仕方ないが魚民に行こうかということで、すみませんがまたと店員には告げて、店をあとにし、結局元の駅前に戻ってきた。魚民の前に三人向き合って立ちながら、駅の方にもいくつか店があるようだが、どうするかと訊いた。すぐ脇の魚民の入口を指しながら、安牌を取るか、と口にすると、俺は安牌を取る方ですと(……)くんが言うので、今日は魚民に入るかと固まった。
 それで入店し、木製の靴箱に靴を入れ――こちらの番号は七五番だった――店員に三人と告げてちょっと待った。店内は騒々しかった。入口に一番近い室の客が賑やかに騒ぎ、燥いでおり、その前を通る時になかに日本人に加えて外国人の男女がいるのが目に留まった。切れ切れの、断片的な片言の英語が飛び交っていた。その並びの一番端の個室に通され、こちらは奥の席に就いた。飲み物は二人はビール、こちらはジンジャーエールを注文し、そのほか食事として、枝豆、たこわさ、燻製の魚が乗ったポテトサラダ、餃子、鶏の唐揚げが注文された。それらが食べ尽くされたあとにさらに、鶏の軟骨の唐揚げに海鮮アヒージョ、海鮮モダン焼きが追加で頼まれた。
 交わされた会話は、この夜から二日ほど経ってしまった八月一九日午後七時現在、あまりよく覚えていない。そんなに実のある話も特段なかったのだが、(……)くんが人間をあまり信頼できない、という話が一つにはあった。彼は高校時代の部活動周りや恋愛絡みの人間関係で辛い思いをして、それ以来いくらか人間不信なのだと言う。そうは言っても本当に人間不信だったならば、こちらが誘ったところでこうした食事の席にも顔を出さないだろうし、その話自体を他人にすることもないだろうと思うから、そこまで酷いものではないとは思うが、高校の頃には弓道部の主将を務めていたところ、練習方針を巡って残りの部員全員と対立し、ハブにされた、というような話だった。それに加えて、同じ部活で恋慕していた女子が、自分の友達と付き合っており、彼らがいちゃいちゃと仲良く睦むさまを間近で毎日見せられる、そのような生活が高校生活のあいだずっと続いたと言う。それで一時期は精神的に追い込まれて、学校から帰ってきてはすぐに寝るような生活をしていた頃もあり、体重を減らしもしたと話した。それは鬱症状というやつだね、とこちらは適当な診断を下したのだが、(……)くんは、やっぱりそうですかね、僕も病院に行こうかなとは思ったこともあったんですけど、でも時間が解決してくれましたね、と言いながら、いや、解決……? 解決したのか? と疑問を残していた。
 それ以来彼は恋愛には縁のない身だと言う。(……)先生に振ってみても、彼も恋人が欲しいとはあまり思わないタイプらしく、恋愛には今までとんと縁がなかった人種で、ここの三人皆、女っ気が全然ないなと言って三人で笑った。(……)くんは恋人欲しいんだよねと訊くと、いや彼女が欲しいんじゃないんですよ、結果としてそうなりたいんですよ、というような言が返った。異性の相手と人間的に信頼しあえる関係を築いていったその先に、結果として恋人という関係に至りたい、と言うので、面倒臭いでしょ? と(……)先生相手に茶化してこちらは笑った。しかしまあ言っていることはわからないでもない。こちらも、一般的な結婚という形式に対する願望はないが、人生を共に歩んでいける信頼できるパートナーのような存在は欲しいような気がする。それはでも、極論、男性でもいいわけでしょうと訊くと、男友達ならそういう人間は既にいるという返答があり、だからやはり異性の相手が欲しいのだということだった。
 と言って出会いのきっかけが掴めない。(……)くんは、周りの人間が全然ものを考えず、適当に生きているように見え、自分だけが鬱々と悩んでいるような気がするのだと言った。それをのちには彼は、ハイデガーの用語を使って、皆被投性のなかで生きているんだ、自分の存在を投企していない、などと言い表した。要は、世人は大方、自分が必ず死ぬというその厳然たる事実に真正面から目を向けず、ただこの世界に投げ出されたままの頽落した、受動的な生の段階に留まっており、そこから積極的、能動的に自分を生のなかに投げ込み、自らの生を企て構築していくことをしていない、というような話だろう。ハイデガーを引いてそのような生硬な、堅苦しい言葉を使うので、こちらは、こいつ、だいぶ酔っ払ってきたみたいだななどと(……)先生相手にふたたび茶化して笑った。(……)くんの言うことは多分一面では真実でありつつも、もう一面では当たっていないだろう。確かに世の人間というものは結構皆、図太く、ものを大して考えることもなく日々あくせくと生きていると思う。しかし同時に、考えたくなくても悩みを見つけ、それについてうだうだと思考を費やしてしまう神経症的な性分の人間も一定数存在するものだ。彼の悩みというものも、まあ言ってしまえば青年期にありがちな「理想の相手探し」に類するもので、青臭く未熟な種類のものであり、時とともに解決されるだろうと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、こちらは読書会を例に挙げて多少アドバイスをした。大学を卒業して以来――鬱病に苛まれていた期間は除いて――、毎月一回集まって本について話を交わす相手――Aくん――がこちらにはいる。二〇一二年以来なのでもう七年間も続いていることになる。それは代えがたい、貴重な人間関係なのだが、そのように卒業してからも関係が長きに渡って続いたのも、Aくんが読書会をやりたいとこちらを誘ってくれたからである。それでは彼が何故こちらを誘ってくれたのかと言えば、自分が折に触れて彼に話していたことなどからして、こいつを誘うとなかなか面白そうだと彼が評価してくれたからだと思う。大学当時はまだ文学に出会っていなかったので、大したことは話していなかっただろうし、どんなことを話していたのかもはや覚えてもいないのだが、多分その時々で興味のあることや、考えていることなどを伝えていたはずである。それが読書会に繋がり、今の人間関係にまでずっと繋がっているという一つのこちらの体験を例にして、それに相応しいタイミングを掴んで、折々に自分の能力や自分の個性、存在といったものを開陳する[﹅4]ことをすれば、見る人は見ていてくれるのではないか、と語った。ともかくも大事なのは狭く閉じて行かず、多様な関係に向けて自分の回路をひらいていくことである、と大方そのようなことを述べたのだ。説得力のある話になったかどうか自信はないが、(……)くんは神妙なような表情で頷いていた。
 (……)先生が持っていた数学のテキストを見せてくれた時間もあった。件の「多様体」というものについての本だったのだが、まず目次に書いてあることからして全然理解が出来なかった。(……)先生自身も、これをうんうん言いながら頑張ってゆっくり読み進めていると言い、極端な時には一日で一頁進むのがやっとということもあると言っていた。訳の分からない数式が記された頁をちょっと眺めたあと、本を返したこちらは、素晴らしいね、と口にした。やっぱりこういう何が何だかわからないようなものが世の中には必要なんだ、今は何でも訳の分かるものしか尊重しない世になって来ているでしょう、などと述べた。それで言えば、(……)先生に、文学というものは何が面白いのかと問われた時もあった。こちらはそれに対して、ありがちな言い分ではあるが、自分が持っていないような表現や考え方に出会うとやはり面白いと答え、実にありきたりで月並みな表現を使って、自分の世界が広がっていくことだろうと言った。今、全世界的に人間が狭く閉じ籠もる風潮になってきていると思うのね、安倍晋三なんかを見ていてもそうだし、ドナルド・トランプもそういった類の手合いでしょう、そういう世の中でやっぱり、他者に向けて自分を押し広げていく、他者というものを取り込んで自分自身を広く拡張し、変化させていく、そういったことが大事だと思う、だから文学とか哲学とかいうものが面白いなって思っているんだけれど、と述べ、最後に、まあでも流行らないねと付け加えて笑った。
 零時二〇分かそこらに至っておひらきとなった。(……)くんが手もとのタブレットで一人当たりの金額を計算してくれた。二三〇〇円ほどだったので、じゃあ、千円で、と前回と同じく宣言し、二人からそれぞれ千円札を頂いたのだが、千円で、とこちらが言った時の(……)先生の表情が、何か苦々しいようなものだったので、もしかすると彼は全額奢ってもらえるものだと期待していたのかもしれない、と邪推をした。あるいは、日付が変わるまでの長きに渡って拘束されて、それで千円も払わなければいけないのは割に合わないな、とか思っていたのかもしれない。この日の会は途中から(……)くんの悩み相談みたいな感じになっていたし、(……)先生が楽しめたのかどうか覚束ないのだが、まあ一応店を出たあとは、またやりましょうと言っておいた。
 それで横断歩道を南に渡ったところで二人とは別れ、西へ向かって歩を進めた。文化交流センターの前まで来て横断歩道で立ち止まると、建物の向こうの林から、夜の蟬たちの声が液体のように広がってきた。車の通りがなかったので、歩行者用信号の、動かず静止した人を象る赤いランプの光を見つめながら通りを渡った。歩いて行きながら、俺も随分と社交的になったものだなと心中独りごちた。この日、何故後輩を誘って飯に行く気になどなったのか、自分でも答えがわからなかった。正直なところ、特段に大したことを話すわけでもなし、それほど楽しい時間だとも思えないのだが――別に悪い時間でもないけれど。ただ何となく、人間関係というものを以前よりも気楽に見ていると言うか、相手が良かろうが悪かろうが、その時間が面白かろうがつまらなかろうが、ともかくも同じ時空を共有するということ、それを重ねるだけで良いのではないかと思っている自分がいるようではある。
 夜気が涼しげだと言っても歩いているとやはり蒸し暑く、服の裏はべたべたと湿った。家の間近まで来ると、既に午前一時も近いと言うのに、ふたたび林から夜蟬たちの声が重なり合って湧き出てきて、激しく、騒がしかった。家に入ると居間の明かりはもう消されており、両親は寝室に下がったあとである。ワイシャツを脱いで汗だくの肌を解放して、下階に戻り、気楽な格好に着替えてインターネットをちょっと眺めると風呂に行った。出てきて居室に戻ると既に一時台後半、星浩「戦後最年少宰相・安倍氏と常識人・福田首相の挫折 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(15)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019042500008.html)の続きを読んだ。その後、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』を四時まで読んで就床したが、読書中、終盤は例によって意識を落としていたようだった。


・作文
 13:27 - 14:52 = 1時間25分

・読書
 15:20 - 15:44 = 24分
 16:24 - 16:58 = 34分
 25:45 - 26:08 = 23分
 26:10 - 28:00 = = 1時間50分
 計: 3時間11分

・睡眠
 3:00 - 11:40 = 8時間40分

・音楽

2019/8/16, Fri.

 しかし、この構造には、重大な問題がある。それは、――「バベル問題」と呼んでもいいのだが――人間の自然言語はひとつではない、ということ。われわれ人間には、たくさんの(しかしけっして無限ではない)異なった言語があり、それぞれの個別の人間は、そのうちのせいぜい一、二の言語のなかでしか生きていないということ。つまり、言語は、「人間」という普遍的な一般性に対しては開かれておらず、むしろ、そのなかの部分集合である、たとえば「部族」や「民族」などの共同体に対して共同性の場を開き、保証するものとしてある。「言語」は、はじめからたとえば「民族」という「存在」規定[﹅4]によって囲い込まれている。つまり、われわれが自然言語のなかで、「意味」と問う以上、その「意味」はけっして完全な普遍性を獲得することはできないのであって、「絶対」「真理」「普遍」などをどのように語ろうとも、それは、その個別の言語のなかで打ち立てられた「部分世界」にすぎないのだ。あらゆる宗教――(そして哲学もまた!)――は普遍性を標榜するが、しかしその「普遍性」は個別言語という限界のなかに封じ込まれている。その意味では、言語は、厳密に、不完全なのである。根源的に不完全であり、じつはそれゆえにこそ、言語こそが「民族」などの共同性を保証するということになる。言語の「不完全性定理」は、言語による「部分共同性の原理」と表裏一体なのだ。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、78~79; 小林康夫「「人間とはなにか?」という問い」)

     *

 存在は西洋哲学の核心的概念だと考えられてきた。そして、その強度に見合った概念を有さない東洋哲学は、異なる哲学もしくは哲学以前だとさえ考えられてきたのである。
 ところが、近代になると存在をめぐって新たな思考が登場してくる。その典型がマルティン・ハイデガーであり、存在論的差異すなわち存在者と存在を区別し、存在者をあらしめる場としての存在を際立たせた。しかし、それは中世以来考えられてきた存在としての神の別名にすぎないのではないか。ハイデガーカトリックへの傾倒を考えると、この疑問はあながち外れたものではない。しかし、重要なことは、創造主のような超 - 存在者として想定されるような神ではなく、人間のような存在者をあらしめる場としての存在に神を変換したことである。そして、それに伴って、人間を語る語り方もまた大きく変容し、「現存在」として特権的に存在への通路を有したものとされたのである。
 こうした存在の語り方の変容(人間の語り方の変容)に対して、ユダヤ人哲学者のエマニュエル・レヴィナスはきわめて厳しい批判を行い、ハイデガーのような存在論は、存在の全体主義であるとして、そこからの離脱を思考した。それは、存在から存在者への離脱であって、場としての存在ではなく、他者のためにある主体の擁護に向かうものであった。その際レヴィナスは、ラビに伝承されていたユダヤ教に発想の源泉を求め、タルムードを読解しながら、たとえば「神よりもトーラー(律法)を愛す」という言い方で、トーラーを現代的に再解釈したのである。
 (105~106; 中島隆博「存在の語り方」)

     *

 ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(Yuri Alekseyevich Gagarin, 1934-1968) 旧ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。1961年、世界初の有人宇宙飛行士としてボストーク1号に単身搭乗した。
 (114; 注3)


 二時前まで糞寝坊。相変わらず肉体の睡眠欲に打ち勝てない日々である。両親は二人とも仕事で、家のなかに人の気配はなかった。点けていた扇風機を切り、上階へ向かう。卓上には書き置きとともに、先日成田日航ホテルのコンビニで氷などを買った際に母親に貸した代金の分の金、一五〇〇円が置かれてあった。台所に入ると、冷蔵庫から小松菜とシチューの鍋を取り出し、大きな白い鍋を火に掛けているあいだに便所に行った。用を足して戻ってくると鍋のなかのシチューがぼこぼこと沸騰していたので、慌てて火を弱め、もうしばらく熱してから、鍋つかみの代わりに雑巾で手をカバーしつつ鍋を持ち上げ、底の深い大きめの椀にシチューを注ぎ込んだ。そうして卓へ。新聞の一面には戦没者追悼式の様子が伝えられている。それを斜め読みしながらものを食って、さらに薬を服用すると、食後の薬を飲んだばかりなのにその傍から細長い棒状の、コーラ味のチューイングキャンディーを食った。歯にくっついた滓を取り除いたあと、それから食器を片付け、そうして風呂場に行って浴槽を洗った。それで下階に下りてくると室にエアコンと扇風機を点けたが、部屋が冷えてくると腹も冷えてきたのだろうか、下腹部がいくらか痛くなって便意を催したので便所に行った。下痢は一応収まっていた。糞を垂れてから、個室内にトイレットペーパーの予備がなかったので、水を流して出ると上階の洗面所に行き、ペーパーを四つ持って戻り、それを個室内の収納のなかに入れておいてから部屋に戻った。そうして前日の記録を付けたり、LINE上のやりとりを見てメッセージを送っておいたりしてから、日記を書きはじめるともう三時前だった。
 四時半過ぎまで日記を認めているあいだ、同時にLINE上でメッセージのやりとりをしていた。T谷からどうやらデング熱に掛かったらしいという報告があった。とにかくゆっくり休んでくれ、そしてやばくなったら躊躇せずに救急車を呼ぶんだとの言を送っておいた。そうして日記を終え、五時に至ると読み物に入った。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。一時間強読んだところで、上階の床を叩く音がしたので、読書を中断して上がっていくと、うどんを茹でてくれとのことだったので台所に入った。冷蔵庫から三パック入りのうどんを取り出し、前日にシチューに使った白い平鍋を網状の布で洗って汚れを落とし、水を汲んで火に掛けた。湯が沸騰するのを待つあいだに洗い桶のなかの食器も片付けてしまい、桶には綺麗な水を溜めておく。そうしてうどんのビニール包装を鋏で切り開け、鍋の湯がぼこぼこと沸騰するとそのなかに三パックをいっぺんにまとめて投入した。菜箸でちょっと搔き混ぜて麺を崩してから、タイマーで三分を設定し、それから既に茹でられてあった小松菜を少しずつ掴み、絞って切断した。切ったものは細長いオレンジ色のスチームケースに入れておき、のちに胡麻油と胡麻と麺つゆで味付けを施した。うどんが茹であがると洗い桶のなかに開け、水を取り替えながら両手で麺を掴んで擦り合わせるように洗っていく。傍らで母親が冷蔵庫のなかで冷やされた水や氷を投入してくれた。そうして洗い終えたうどんを笊に上げておき、今度は小鍋に水と麺つゆを混ぜて用意して火に掛けると、玉ねぎを半分、切り分けて投入した。煮込みうどんにして食べるつもりだったのだ。玉ねぎが煮えているあいだに卵を椀に割り落として溶かしておき、鍋の方には味の素を振り落とし――粉出汁や椎茸の粉は切らしていた――麺も投下して、しばらく煮込むと出来たものをまとめて丼いっぱいに流し込んだ。そのまま持つと暑いし、ほとんど丼の上端まで中身が満たされているから零れそうだったので、珍しく料理を卓に運ぶのに盆を用いた。小松菜の胡麻和えと一緒にうどんを運び、そのほか炊飯器に僅かに残っていた最後の米を茶漬けで食うことにして椀に取り、茶漬けを振り掛けてポットから湯を満々と注いだ。そうして食事である。時刻は七時になる前だった。食べているうちに七時のニュースが始まって、昭和天皇の発言を記録した未公開資料が発見されたという知らせが報告された。田島道治と初代の宮内庁長官が「拝謁記」という形で、昭和天皇との会見録を大量に残していたということだった。そのなかで天皇は、先の戦争に対する痛切な悔恨や反省の念を述べているとのことである。何故もっと早く終戦のために介入しなかったのか、戦争を止める手立てはなかったのかという疑問を抱かれるのは当然あり得ることである、しかし当時は軍部の専横のため――天皇はこれを「下剋上」という言葉で表現していた――どうしようもなかったのだ、という天皇の発言が紹介されていた。また、天皇は何かの式典に際して「悔恨」の念をはっきりと表明することを強く要望したが、当時の首相だった吉田茂の反対で最終的にそれは実現しなかったと言う。コメントを求められた専門家の一人は、今回の資料は我々のような普段から研究をしている者の目から見ても第一級のものだと述べていた。
 食事を終えると抗鬱薬を服用して下階に戻り、七時半から日記を書きはじめた。そうして一時間のあいだ打鍵を続け、八月一二日の記事を完成させ、ようやくロシア旅行記を完結させることが出来た。八月一二日から一五日までの四日分の記事をまとめて投稿しておいてから、入浴に行った。風呂に入る前に洗面所で、ロシア旅行中のあいだ伸び放題に放置していた髭を剃ったが、顎髭が結構長くなっていたため、綺麗に剃るのが大変だった。それから風呂に入って汗と垢を流し、自室に戻ってくるとだらだらとした時間を過ごして、一〇時半前からふたたび読書に入った。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。次のような記述があった。

 凍った雪の上を、ぶかぶかの木靴をはいて、よろめきながら作業に向かう時、私たちは少し言葉を交わして、レスニクがポーランド人であることを知った。彼は二十年間パリに住んでいたのだが、ひどくへたくそなフランス語しか話せなかった。三十歳なのだが、私たちがみなそうであるように、十七歳とも五十歳とも見える。身の上話を語ってくれたのだが、今ではもう忘れてしまった。だが苦しく、つらい、感動的な物語だったのは確かだ。というのは、何百何千という私たちの話がみなそうだからだ。一つ一つは違っているが、みな驚くほど悲劇的な宿命に彩られている。私たちは、夜、交互に話をする。ノルウェーや、イタリアや、アルジェリアや、ウクライナでの出来事だ。みな聖書の物語のように簡潔で分かりにくい。だがこうした話が集まれば、新しい聖書の物語になるのではないだろうか?
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、80)

 「新しい聖書の物語」を作るという考えは魅力的な着想である。現代の新たな、途方もない規模で成された迫害による苦難と、かつての聖書の時代のユダヤ人の苦境とのあいだにレーヴィは連続性を見て取っている。そうした古い時代の歴史に繋がる「新しい聖書」の状況が生じたということに、束の間であっても慰めを得ることが出来たと彼は註において述べている。
 収容所においては人間の名前は剝奪され、それぞれの人間の個性は殺される。人は単なる番号としてしか認識されず、平均的で画一的な行動を常に保つように支配される。そこにあってレーヴィが出会った人物を個性豊かに、生き生きと描き出すことは、人間性の墓場から彼らを救出することであるだろう。それは還元すれば、統計に逆らうということでもある。アドルフ・アイヒマンが残したという言葉の一つとして、「百人の死は悲劇だが/百万人の死は統計だ」というものが知られている。自身ソ連の収容所に抑留され、「確認されない死のなかで」の劈頭にこの言葉をエピグラフとして引いた石原吉郎は、そのエッセイの冒頭で、ジェノサイドの恐ろしさとはそのなかに一人一人の死の固有性がないということだ、と指摘している。生においても死においても人間の固有性を回復し、個性が殲滅させられる不毛の領域から個人を救済すること。それこそがやはり文学という営みの務めの一つではないだろうか。
 三時直前まで本を読み、部屋を出ると洗面所に行って水を二杯飲んで、戻ってくるとスイッチを押して明かりを落として就床した。


・作文
 14:54 - 16:37 = 1時間43分
 19:28 - 20:27 = 59分
 計: 2時間42分

・読書
 17:00 - 18:14 = 1時間14分
 22:23 - 26:58 = (1時間引いて)3時間35分
 計: 4時間49分

・睡眠
 2:40 - 13:50 = 11時間10分

・音楽

2019/8/15, Thu.

 「人間とはなにか?」――古いふるい問いである。人間はいつでも「人間とはなにか?」と問うてきた。だから、「人間とはなにか?」という問いへのもっともシンプルな(?)答えは、「人間とは『人間とは何か?』と問うことをやめない存在である」ということになるかもしれない。(……)
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、74; 小林康夫「「人間とはなにか?」という問い」)

     *

 対象としての人間がどのようなものであるのかはわかっているとして、その存在にはいったいどのような意味があるのか? ――そう問うことが可能なのは、当然ながら、その問いが言語を通して行われているからである。言語は、対象と意味を分離する。「花」という言葉は、いま、わたしの目の前に咲く具体的で、個別的な一本のチューリップを指示することもできるが、それだけではなく、「花」という言葉が喚起するあらゆるイメージや概念、さらにはそれにまつわる発話者の「思い」までも意味し、含意することができる。実際、それが「なに」を意味するのかはっきりしないまま、われわれはたとえば「秘すれば花[﹅]なり」とまで言うことができるのだ。
 一方に現実的な、具体的な対象としての存在者、他方に、多様な意味。われわれの言語とは、「世界」のなかに、このような分断・分離を導入する根源的なオペレーションである。言語によって、人間は意味へと運命づけられる[﹅7]。極端な言い方をすれば、「意味」へと断罪される。そして、この「意味」が意味するのは、たんなる「語義」や「文意」などではなく、人間が世界に存在しているその「意味」にかかわる。分断・分離が導入された以上は論理的に当然のことかもしれないが、それは、分断・分離されたものが、ふたたび結び合わされること、再結合が起こって、そこに「世界」が取り戻されるという意味での[﹅4]「意味」なのである。
 (75~76; 小林康夫「「人間とはなにか?」という問い」)

     *

 となれば、これは、通りすがりにほのめかしておくだけだが、「宗教」を意味するラテン語のことば religio の語源のひとつが re-ligio (ふたたび結び合わせる)であることを思い出してもいいかもしれない。つまり、宗教とは、人間に、この世界のなかで、みずからが存在として「ゆるされ」、「意味」をもつことを、言語を超えて[﹅6]、保証する「信」の言説であったのかもしれない。それは、疑いなく、「人間とはなにか?」という問いに対する、人間がこれまでにもちえたもっとも強力な答え方であった。religio は、なんらかの仕方で人間を超越する存在を導入し、それとの根源的な関係を実践的に[﹅4]設定することによって、その問いへの最終的とみなすべき[﹅9]解答を提起する。言い換えれば、「神」という、現実的な存在者なき絶対的「存在」を設定することで、言語の限界線において、言語がもたらす「意味」という分離が引き起こす実存的不安を、確固たる「信」へと転換するわけである。
 だが、言っておかなければならないのは、religio は、けっして言語の論理的な操作からだけ導かれるのではなく、多くの場合は、人間のなかの、選ばれた特別な存在[ひと]による実践的経験に裏打ちされているということ。つまり、「人間」と「人間ならざるもの」との(再-)結合は、言語の一般論の地平ではなく、ひとりの歴史的な[﹅4]「人間」において起こっているのであって、religio の言説は、一個の特異性において普遍性を開く、つまり「全体のための一」、「共同性のための個」という、強いて言えば、「犠牲」の倫理に貫かれているのが一般的である。それは、「人間」の「顔」をもつ。「人間とはなにか?」という問いに、(それがどのように想像されたのだとしても)ひとつの「名」をもったひとつの「顔」が応答している。それこそが、religio の根源なのである。
 (76~77; 小林康夫「「人間とはなにか?」という問い」)


 何と午後三時まで驚異的な、完膚無きまでの寝坊。半日以上を寝床で過ごしたわけだが、これほどまでに起きられなかったのはほとんど初めてではないだろうか。三時に至ったところでようやく身体を起こすと、コンピューターを点けてTwitterやLINEなどを確認した。それから上階に行き、居間でテレビドラマを見ている両親に、おはようではなくておそよう、と告げた。食事はおじやだと言う。テーブルの上に手持ち鍋が置かれてあったので、そこから椀におじやをよそり、台所に行って電子レンジに入れた。料理を温めているあいだに卓に戻り、ピンクグレープフルーツを二切れ食べて、それから加熱が終わったおじやを持ってきて食した。食事を終えると抗鬱薬を服用し、食器を洗うとともに、洗濯物の吊るされている戸口をくぐって風呂場に入り、浴槽を洗った。そうして下階に戻り、コンピューターを再起動させ、それを待っているあいだはルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を少々読み進めた。コンピューターの準備が整うとEvernoteやらブラウザやらを立ち上げて、Twitterを眺めるとともに、T谷が熱を出しているとのことだったのでLINE上でメッセージを送っておいてから、四時直前に日記を書きはじめた。とりあえずこの日の分をここまで先に綴った。さて、八月一一日以降の日記がまだ記されずに溜まっているのだが、何日のものから取り掛かるのが良いのだろうか。
 Franck Amsallem『Out A Day』を流しながら、ひとまず前日分、八月一三日から一四日の分を完成させた。それからさらに、八月一一日の分に取り掛かったが、一時間三〇分綴って五時半に達したところで疲労感に負けて打鍵を中断した。そうして六時前からベッドに転がって書見に移った。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を四〇分ほど読んで六時半に至ったところで、天井が鳴ったのでベッドを下りて部屋を出た。階段を上がっていくと、ジャガイモを持ってきてくれと言うので、階段途中にあったジャガイモの入った袋を持って段を下り、下階の廊下の窓を開けて、その先の物置に保管してあるジャガイモをいくつか袋に入れた。それで上階の台所に行くと、母親はシチューを拵えている途中だった。ジャガイモの皮を剝いて分割し、シチューの鍋のなかに入れると、木べらでもって凍った豚肉の塊を突き崩した。その後、冷凍庫で凍らせてあった牛乳が投入され、煮込まれているあいだ、こちらは大根や玉ねぎをスライサーで下ろしてサラダを拵えた。それで下階に戻り、ふたたび七時半までものを読んだあと、食事を取りに行った。夕食のメニューはシチューやサラダのほか、鮪や鰤などの刺し身がいくらかあった。それらを食べるあいだ、テレビでは火山噴火に際して救出活動に励む自衛隊員の活躍を描いた再現ドラマが放映されており、このドラマVTRがもう物語も物語、隅から隅までお約束と紋切型の印象と既視感しか醸し出さない、最も低劣な類の物語だったのだが、それを見ながら父親がうんうん頷いてちょっと涙を催してもいるのがまた実にみっともない。こうした最大公約数的な物語への弱さというものは、一体何なのだろう。こういう物語のいけ好かないところは、その経済性と効率性、つまりは必要な事柄を最低限にしか描かないという点だ。そうした部分で物語というものは、資本主義と相同的であり、相性が良い。このVTRのなかで唯一見る価値があったのは、実際に火山の噴火に立ち会った人の映した現地の映像のみで、噴煙が朦々と湧き上がりはじめたのを見ても、撮影者や周囲の人々はしばらくのあいだ呆けたように停止して動けず、ちょっと経ってからようやく危機感に突かれて逃げ出すといった様子や、灰色の煙が天空に届かんとする巨大な岩壁のように空間を埋め尽くして聳え立つさまなど、リアルだったと思う。
 物語の魔力に毒されて恥じることのない父親と同じ空間にいるのが居心地悪かったので、さっさと食器を洗い、便所で糞を垂れてから、勘弁、勘弁、と心のなかで思いつつ下着を持って洗面所の扉を閉めた。そうして入浴。雨が途中で激しく降ってきた。出てくるとさっさと下階に戻り、ふたたび一時間ほど日記を書いたのち、それ以上気力が続かなかったので、一〇時二〇分頃から読書に移った。途中で一時間ほど微睡みの時間を挟みつつ、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』はすべて読み終え、次にプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』を読みだした。それで二時四〇分頃まで読み進めたところで就床。しかし蒸し暑く、パンツから伸びる脚のシーツに触れる部分が汗を帯びて煩わしく、なかなか眠りがやって来なかった。一時間ほど寝床で過ごし、もう起きてしまおうかとも思ったのだったが、身体を起こすのも面倒臭くてそれからも留まっていると、そのうちに眠れたようである。


・作文
 15:57 - 17:28 = 1時間31分
 20:37 - 21:44 = 1時間7分
 計: 2時間38分

・読書
 17:52 - 18:30 = 38分
 18:53 - 19:30 = 37分
 22:17 - 26:37 = (1時間引いて)3時間20分
 計: 4時間35分

・睡眠
 2:20 - 15:00 = 12時間40分

・音楽

  • Franck Amsallem『Out A Day』
  • Brad Mehldau『After Bach』

2019/8/13, Tue. - 8/14, Wed.

 小林 モラルというところに話が来てしまったとなると、わたしが考えるのは、中島さんの専門分野かもしれないけれども、やっぱり「道」みたいなことかな。「心の語り方」という始めの問いに戻るとして、「心」とは何? となると、「魂」と「精神」と「意識」と「無意識」等々といっぱいあって、それぞれの定義もわからないのだけど、「心」を問題にする以上は、「道」みたいなものが見えてこないといけないような気が、個人的には、します。非常に古い東洋の知恵なのかもしれないけれども。
 わざわざそんなことを言うのは、それによって超えていくべきものがあるからなんですね。それは、じつは、西欧の根底にあるもっとも強いイデアで、つまりキリスト教的な「創造」という問題です。つまり、イマジネーションの想像力ではなくて、クリエーションという「創造」。創造主と被創造者としての人間という強固な「対」、そのあいだが、神人同型(アントロポモルフィスム)によって規定されている。これは強力ですよね。人類にとっての最強のドクトリンと言いたいくらいです。なにしろ、ある意味では、科学技術というものが根づいているのは、そういう世界創造のコンセプトとも言えるかもしれないので。それに対して、東洋的な思想は、そのような神と人間とのあいだの相互規定、いや、「神」に「人間」を投影することなしに、むしろ「無」のうちに見出したように思いますね。あまりにも粗雑な大雑把な議論ですけれど。そして、わたし自身は、そこで西欧的な「創造」のアイデアディコンストラクションするために、東洋的な「無の道」を通っての世界への到達を、もう一度、考え直してもいいのではないか、と漠然と思っているということです。わたしには、科学技術は、数学も情報科学も生物学も全部含めて、「クリエーション」の壮大な自己展開のようにも見えるということです。それに対して、「無の道」の根源的な「慎ましさ」みたいなものに、微かな希望の光を見出したいみたいな。そこに、なにかこの世界の極東という端っこにいる人間として、ラディカルに人間であること[﹅13]をもう一度、根底から考え直すきっかけがないかなあ、と思っているわけです。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、62~63; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 小林 すなわち、われわれの脳は、無限小の差違の括弧付きの「無限」というか、膨大な量の組み合わせによって維持されているということから、先ほどチラッと口走ってしまった「モラル」の方向へ進めないか。われわれの自分自身のあり方から、自分の「道」を見つけていく方向に一歩進めないかと考えるわけですね。つまりわたしもまたこの膨大な世界の中の「無限小」にすぎないということから出発して、その「無限小」にこそ「世界」の可能性があると言い換えてもいいかな。さっき「梵我一如」とも口走っちゃいましたけれども、それも「梵我一如」だから「わたしと世界は1対1」だというのではなくて、無限小なのだけど、そこから無限の時間やものが現れてくるというかな。その意味で時間というのは想像力の展開だと言えるのではないか。でもここで言う想像力は、わたしが想像しているというより、世界が想像する力ですよね。そのような方向に考えていくことに、一つの可能性がないかなということを考えています。
 (66; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 中島 小林さんがおっしゃった広い意味でのモラル。以前はたぶん弱い倫理だという言い方でおっしゃっていたと思うんですね。わたしは中国のことを少しはやっていることもあって、たとえば儒学なんかを考えると、じゃあモラルって究極的には何だろうといったら、やっぱり道というのが出てくるわけです。でも道ってそんなに簡単に行けるわけじゃなくて、道に行くためにはいろんな努力をしなければいけない。その中で、やっぱり重要なのは礼という概念です。その根本は何かというと、〈かのように〉世界を見るということなんです。まるでそこに先祖がいるかのように、祀ってみる。しかし、実際には先祖などいないわけです。そんなことはみんなわかっている。しかし、その〈かのように〉という、非常に不思議な、ある種の微分空間なんですけれども、それが倫理を支えていくわけです。たぶん、ここに人間のある種の古いタイプの意識が組み込まれているんだろうと思います。さっき差異の話をなさいましたけれども、差異に敏感じゃないと〈かのように〉は出てこないわけですよね。
 尾藤 それはやっぱり、動物の世界では本能とか刷り込みとかいう形で言われている非常に原始的な記憶で、獲得されるものではなくて、持ち合わせているわけなんですね。それが人にも部分的にあるというのは、学問的には証明されていませんけれども、生物学的にはあり得ることだと思います。
 横山 学問的に証明されていないんですか?
 尾藤 実験的には、です。
 中島 〈かのように〉は難しいです。
 小林 名前こそが〈かのように〉ですね、ある意味では。名は実体と離れてある。まあ、言葉ってそういうものですけど、ですから、言葉の極限的様態は名です。でも、名があるかないかって、実体的には、ほとんど微小な差違じゃないですか。実体的には変化はほとんどないけれども、名前がつけられた瞬間に他者とのあいだで、想像力が動員されて、一つの全き世界が立ち現れるわけです。生まれた子どもに名を与えた瞬間から、その存在が「家族」という一世界の中に登録される。この「世界」が「うその世界」だと誰も言えません。人間の世界というものは全部これだとも言えるわけですね。
 (67~69; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 八時四〇分起床。起きていくとMちゃんは居間で、先に起きた両親と戯れていた。こちらは洗面所に行って顔を洗い、GATSBYの寝癖直しウォーターを後頭部に吹きかけて寝癖を整えておくと、寝室でMちゃんとしばらく遊んでから食事へ行った。メニューはここのところ毎朝出ているような菜っ葉とトマトのサラダに、アサリの入った野菜スープ。このスープは物資として取り寄せた茅の舎の出汁で味付けをしたものだと言う。そのほか、黒パンにゆで卵。朝食の前だったか昼食の前だったか忘れたが、Mちゃんがキッチンダイニングの室の端、物置台と暖房のあいだに頭を挟み、嵌め込んでしまった時があった。室の端で立ってもじもじしていたかと思うと、突然泣き出したので何かと思ったのだが、後頭部が見事にすっぽりと嵌まってしまっていたのだ。兄が近寄っていって、膝を折らせて何とかそこから頭を抜くことに成功した。激しく泣きじゃくって涙を流すMちゃんを兄が抱きかかえてあやし、食事にした。
 Mちゃんはまた、ここ数日毎日のことだが、食事の最中に席を離れてダイニングを出て、我々の寝室や居間などに行ってしまうことがあった。大概食卓での会話にあまり参加しないこちらがそのあとを追って一緒に遊ぶことになるわけだが、コンピューターのある寝室にいるあいだにMちゃんが、ゆーちゅーぶ、と漏らした時があったので、Youtubeにアクセスして、しまじろうの動画を見せてあげた。そうするとMちゃんは、一つの動画をいくらも見ないうちに、画面右方に表示されている関連動画のなかから一つを指して、これ、と言う。そのたびにこちらが、ポインターがずれないように片手でマウスを固定しながら、かちっ、ってやってみな、と言ってマウスをクリックさせた。
 食事のあとは着替えて荷造り。今日の格好はモザイク柄の白Tシャツに、ガンクラブ・チェックのズボンと、上着にグレン・チェックのブルゾンを羽織った。Tシャツが青いフレンチ・リネンのシャツだったのを除けば、昨日と同じ格好である。上着とズボンでチェック同士の組み合わせがどうかなと思ったのだったが、昨日着てみた際に思いの外に決まっているように見えたので帰国の服装にも採用したのだった。しかし、Tシャツよりもやはり襟付きのシャツの方が、フォーマル度が高くてはっきりと決まっているようにも思えた。荷造りは衣服を畳んでキャリーバッグに詰めるだけなので簡単、すぐに終わった。父親の方は荷物が多いし、たくさん買った土産もパッキングしなければならないしで大変だった。最初は一番大きなスーツケースに土産物を全部詰めようとしていたのだが、それではアリョンカのクッキーがバキバキに割れてしまう恐れがあったので、兄の持っていたスーツケースを借りることになった。それで、T子さんが梱包材――例の、「プチプチ」と呼ばれるビニール製のあれ――でクッキーを包んだりするのを手伝ってくれた。父親とT子さんが奮闘しているあいだ、こちらは荷物整理が終わっているのを良いことに、Mちゃんと遊んでいた。遊んでいたと言うか、手が空いているものが誰もいなさそうだったので、彼女の面倒を見ていたのだ。
 その後こちらは布団に寝転がって休んだ。どうも疲労感があったのだった。連日長丁場の外出ばかりで、ものもたくさん食っているので、内臓も身体も疲れるのは当然だろう。Mちゃんはそのあいだ、別室で荷造りを終えた両親が相手をしていたようだ。休んでいるうちにふたたび食事の時間がやって来た。T子さんがブロッコリーと海老の入ったスパゲッティを作ってくれたのだった。そのほか、トマトとモッツァレラチーズのサラダと、前夜のシャシリクの残りも提供された。パスタが大層美味かったので、こちらは二杯目をおかわりした。食事を終えるともう一時過ぎだった。最後の出立準備をする――と言ってもこちらは荷物はもう完成しているので、リュックサックにコンピューターを詰めて、ポケットに手帳とペンを入れるくらいである。出る間際になって兄夫婦は、我が家の隣家のTさんに手紙を書いていた。と言うのは、日本を出発してくる際に、Tさんが祝いとして五〇〇〇円をくれたからだ。Mちゃんに対してのものだったのか、我が家全体に対してのものだったのかいまいち不明だったが――「海外旅行のお祝い」などと言っていたように思うが――ともかく兄夫婦はお返しをすることにしたのだった。返礼品は褐色の紙袋に入った紅茶二種類である。Tさんのほかに、山梨の祖母と、我が家にも一セットずつ贈られた。
 それで出発である。MちゃんとT子さんもアパートの下まで見送りに来てくれる。エレベーターで一階まで下りていき、アパートの入口に詰めている守衛の男性に、Goodbyeと言って挨拶をした。兄が呼んだタクシーは既に来ていた。運転手は太ましい体格の男性で、煙草を吸って待っていた。荷物を彼に受け渡してトランクに載せてもらう。その際、こちらがありがとう、と日本語で言うと、運転手はちょっと会釈をしてくれた。それから乗ろうとすると、こちらの背負っていたリュックサックも載せたら、と言うので――と言うのは勿論兄に通訳してもらったわけだが――今度はスパスィーバ、と言いながら背中のものを下ろして渡した。そうして、T子さんに皆で有難うございましたと礼を述べ、Mちゃんにバイバイ、と手を振って乗車した。乗ってからも窓から手を出して、最後まで手を振って別れを告げた。
 道のりは長かった。一時半過ぎに出て、ちょうど三時くらいに空港に着いたのではなかったか。タクシー内では、ロシアに着いて最初に乗った時と同じように、心持ちが悪くなった。車という乗り物とこちらは相性が悪く、たびたび酔ったようになってしまうのだ。窓を少々開けた。すると高速で走る車の外から流れ込んでくる空気の勢いが、頭にバタバタと激しく当たって、それでかえってまた気持ち悪いようになってしまうのだった。そのうちに、姿勢を楽にした。浅く腰掛けて、脚を前に出し、後ろに凭れて体勢を緩くした。それで目を瞑り、うとうととしているうちに空港に到着した。
 運転手は空港のすぐ正面の車寄せにつけてくれた。降車し、運転手がトランクから荷物を下ろしてくれるのを受け取る。礼を言って運転手と別れ、兄の先導で空港内へ。劇場やサーカスと同様に、ゲートが用意されている。荷物をベルトコンベアーに置いていき、台にポケットのなかのものを出して金属探知機か何かのゲートをくぐるのだが、ここで何度もブザーを鳴らされてしまい、繰り返し行き来することになった。最終的には、時計を外していなかったのが原因だとわかった。それで通過して歩き出したのだが、パスポートの入った袋をまだ取らずにいたことを忘れていて、空港の女性職員が届けて来てくれたので、危ない危ない、失くすところだったと安堵した。それで荷物を預けてチェックインするわけだが、その前に皆で替わる替わるトイレに行った。トイレは地下に下ったところにあり、なかは清潔に白く光っていて綺麗だった。戻ると、すぐ近くのカウンターで荷物を預ける。預ける荷物は、行きは二つ――一番大きなスーツケースと、こちらの衣服が入ったキャリーバッグ――だったが、今回は土産物の入ったケースが一つ加わって、三つになった。応対をしてくれた職員はイヤリングをつけた白人女性で、日本語を少し喋れるようだった。そうして荷物を預け終わり、搭乗券を発行してもらうと、エスカレーターを上って二階に行った。宇宙食を売っている自動販売機などを見たあと、もう保安検査を受けてなかに入ってしまうことにした。それでゲート前で兄と握手を交わして、礼を述べて別れ、搭乗券とパスポートを職員に提示してもらって入場。空港内の様子がどのような風景だったのか、全然覚えていないのだが、この次は確か機械に搭乗券を読み込ませて通ったのではなかったか。いや、その前に再度の荷物検査があったような気がする。手荷物を薄汚い、古びたようなケースに入れてふたたびベルトコンベアーの上を流していく。今度は忘れずに時計を外し、手帳やパスポートなども一緒にケースに置いた。一方でこちら自身はゲートを通り、探知機のなかで『ドラゴンボール』の「元気玉」よろしく、両手を天に向かって挙げた。それで問題なく通り、荷物を回収してから搭乗券を読み込ませる機械のところに行ったのだったと思う。そこを通ると、今度は空港職員による顔を合わせての出国審査である。今度の職員も若い男で、入国審査の際の男は険のある目つきでこちらを睨みつけてきて、少々軽蔑するような態度を取っていたが、今度の男は終始ニヤニヤして、隣のもう一人の職員の男と雑談をしながら――明らかに雑談のトーンと態度だったと思う――時折り笑っていた。こちらがパスポートを差し出すと、コンニチハ、と彼は言ったので、こちらも挨拶を返した。それから結構長く待たされて、ようやくパスポートと搭乗券にスタンプが押されたあと、職員はサヨナラ、と言いながら台の上にパスポートをどん、と置いたので、こちらも大きな声で、有難うと返してやった。
 それで入場の審査は終了である。進んでいくと、免税店のエリアがあった。そのうちの最初の店には酒ばかりが売っていたが、隅の一角にチョコレートなどの菓子が少々置かれていたのに母親は目をつけた。彼女が買っていこうかと言ったのは、マトリョーシカのイラストが表面に描かれている円筒形の容器に入った菓子で、それはアプリコットをチョコレートでコーティングした類のものであるらしかった。母親はその品か、何かチョコレートでも買っていこうかと言ったのだが、こちらは面倒臭かったので、早く行こうぜと漏らし、父親と一緒に先に店を出てしまい、歩き出した。母親はそのあとを着いてきながら、買おうかな、とまだ漏らしていたが、父親が、この先にも店があるだろうと言って先を進んだ。大した店はなかったが、一つ、本なども売っている土産物屋のような店舗があって、その入口横でガラスケースのなかにマトリョーシカが並べられていた。そのなかで楊枝挿しになっている小さな品に母親は目をつけた。それで父親が、店内カウンター向こうの店員を呼びに行き、この品が欲しいとガラスケースのなかを指す傍らで、母親がハウマッチ? と訊いた。Two hundred and forty、と店員は言った。ルーブルを日本円に換算すると二倍弱だから、一個四〇〇円かそこらである。それで二つ購入することにして、父親のカードで決済して店をあとにした。
 それでもう搭乗口に向かった。ドモジェドヴォ空港はそれほど広い空港ではなかった。我々の搭乗口は一一番だった。そこには既に人々がたくさん集まっていて席の空きが少なかったが、二席空いているところを探し出して、両親がそこに就き、父親が座ったらと勧めるのをこちらは固辞して傍らの柱に凭れながら立った。そうして立ったまま、手帳にメモを取った。ロシア滞在中に持ってきていた赤いペンのインクが切れてしまい、兄から借りた黒いボールペンを使っていたのだが、このペンは芯先が太めで書きにくかった。それでも搭乗手続きが開始されるまで文字を手帳に書き付け続け、四時四五分に至って手続きが始まった。まずは小さな子供連れの乗客などからである。その次にビジネスクラス、その次にエコノミーの後ろの方の席の人々と、順番に段階を区切って呼ばれていき、最後にすべての乗客の手続きが始まったので、そこで列に並んだ。そうしてパスポートと搭乗券を職員に差し出し、通路を通って飛行機内へ。席番号は二五のF、行きの便も確か同じ番号だったような気がする。席のところまで行くと、引いていたキャリーバッグを父親に渡して頭上の収納に収めてもらい、自分の席に就いた。
 機内中央に並ぶ四席のうち、左側から父親、母親、こちらと占めているわけだが、こちらの右隣の一席には外国人の青年がやって来た。Hi、と挨拶をしてくれたので、会釈を返した。こちらと彼の前の席の背凭れの上に、「VLML」と記された緑色のシールが貼られた。すると隣の青年は、What is it? What is it supposed to be? と話しかけてきたので、I don't know、とちょっと笑みを浮かべながら返すと、彼は近くのキャビンアテンダントを捕まえて質問した。ベジタリアン用の食事を提供する相手の目印にするものだということだった。こちらと彼の前の席の二人がベジタリアンだったのだ。行きの便でこちらの隣だった日本人女性も、同じシールをテーブル上に貼られていた。彼女にはほかの乗客よりも先に、フルーツの食事が提供されていたので、こちらはあれはベジタリアンで特別な配慮を受けていたのだろうかと推測したものだったが、それは当たっていたわけだ。
 その後、離陸して――飛行機が地上を離れたのは五時半だった――シートベルト着用のサインが消えると、こちらはコンピューターを取り出した。隣の青年もDELLの大きめのコンピューターを取り出して、何かを書きはじめた。横目で画面を覗くと、英語の論文のようだった。飲み物と煎餅が配られた際に、隣の青年が、you also writing? と訊いてきたので、I'm writing my diary、と返答した。それを皮切りに少々会話が始まった――と言ってもこちらの英語はとてもきちんとした会話の体を成していない、片言のものだったが。ヒアリングの方も上手く聞き取れず、よくわからなかったのだが、彼は多分学生で、大学に入学するためのペーパーを書いていると言った。出身はブラジルで、ドイツに住んでいるとのことらしかった。大学入学前よりももっと年上のように見えたので、大学院に入るということだったのかもしれないが、そのあたりはこちらの聴力の貧困さのためによくわからない。何についてのpaperかと尋ねると、counter-productive work behaviorと彼は答えて、こちらは、全然聞いたことのない単語だったので、んん? と聞き返し、復唱した。彼はちょっと説明してくれたのだが、全然理解できなかったので、sounds very difficult、と言ってお茶を濁した。
 それからしばらくまた日記を記し、ここまで書くと七時一七分に至っている。二時間弱書いたわけだが、普段よりも進みが遅いのは、やはり飛行機という慣れない環境のためだろうか。
 まもなく食事が出た。メインの品目はチキンドリアか和風ハンバーグを選ぶことが出来た。CAから渡された絵付きの用紙を隣の青年と見ながら、I'll choose this、とハンバーグの方をこちらは指した。青年もハンバーグにすると言っていたが、その後土壇場で、チキンドリアの方にチェンジしていた。そうして食事がやって来た。メインのメニューのほかは、ハムと卵のサラダに、ビーツのサラダに、弾力のあるカヌレの類。それにアリョンカのチョコレートとアイスとフルーツがデザートについてきた。途中で隣の顔を寄せて、is it good? と尋ねると、彼は親指を挙げてvery good、と言った。それからこちらは、母親に頼んで味噌汁を貰って、隣の彼にもThis is miso soup、と呼びかけ、Do you know? と訊いた。彼は知らないと言ったので、Do you want to drink? と勧め、Can I try? と返って来たので、try、と応じた。彼は味噌汁の匂いを嗅いだあとに一口飲むと、Does it make you awake? と言った。目を覚まされるような感じだ、ということらしい。それは面白い感想である。
 食事を取り終えると隣の彼が便所に行ったのを機にこちらも席を立ち――と言うのも、いちいちこちらが通路に出るために、彼を座席から立たせるのが心苦しかったので、彼が立ったのと同じタイミングでこちらも行ってしまおうと思ったのだ――、便所の近くに陣取った。トイレはなかなか空かなかった。それに加えて、一度、番を抜かされてしまったが、まあそのくらいのことで憤るこちらではない。用を足して戻ってくると、隣の彼に許可を取るようにして手を挙げ、彼がどいてくれるとThank you、と言って自分の席に入った。そこからここまでまた書き足して八時二〇分。まだ八月一〇日の記事すら書けていないので出来るだけ進めなければならないが、バッテリーがもうあと四〇パーセントくらいしかない。
 八月一〇日の記事は何とか完成させることが出来たが、それでもうバッテリーが尽きたので、読書に移行した。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読み進める。機内は既に消灯して、あたりは暗くなっていたが、テレビの明かりを頼りに読書に邁進した。タッチパネルに触れると画面が点くのでその青白い明かりでもって頁を視認することが出来るのだが、しばらくすると画面は暗く落ちてしまうので、ふたたび指を触れないといけないのだった。ロシア時間で九時半まで読んだところで目が疲れてきたので読書を中断し、音楽を聞くことにした。隣の青年もヘッドフォンを頭につけながら眠っていたようだ。最初にJohn Coltrane『My Favorite Things』を聞いて、このアルバムが流れているあいだくらいは起きていたようだ。次には確かJoshua Redmanの音源を聞いたと思うのだが、この時はだいぶうとうとして、頭が隣の青年の方に傾いて起きる、といったことがあった。
 ロシア時間で一一時一五分からふたたび書見を始めた。この時もまだ機内は暗かったと思うが、日本時間では既に早朝なので、次第に明るくなっていったと思う。外には、青い窓を透かして、純白で真円の巨大な太陽が彼方に浮かんでいるのが見えた。ロシア時間で零時二〇分、つまり日本時間で早朝六時二〇分まで本を読んだところで、軽食がやって来たので中断した。ハムとチーズの挟まれたパニーニのようなサンドに少量のフルーツ、それにロシア製のプレーン・ヨーグルトだった。ほかにも何かあったかもしれないが、記憶が定かでない。軽食を食ってしまうとふたたび読書を始めた。隣の青年は何か映画を見ており、時折り笑いを漏らしていた。何度目かの時に、こちらがその横顔に目をやって、つられて笑みを浮かべていると、ヘッドフォンを外した青年は、笑いながら、この映画はbadだと言った。これは多分、「とても良い」という意味を敢えて逆の意味合いを持つ言葉を使って表す用法だったのではないかと思う。あるいは、bad humorとか何とか言っていたようにも思うので、黒いユーモアが面白い、というような意味合いも含んでいたのかもしれない。What movie? とこちらが尋ねながら相手の画面を見ようとすると、It is called "TED" と彼は言った。熊のぬいぐるみが活躍するコメディ映画である。
 その後も青年は時折り笑いを漏らしていた。その隣でこちらは読書を進め、着陸まで残り一時間ほどになった七時半に書見を止めた。残り時間で隣の青年といくらか話を交わしたいなと思ったのだが、相手はヘッドフォンをつけて映画を見ているので、話しかけるタイミングが掴めなかった。そのうちに、乗客には税関関連のカードが配られた。一家族一枚で良いと言うので、我が家では父親が受け取り、隣の青年は税関以外にも、滞在証明書みたいなもう一枚のカードを受け取っていた。そのうちに映画が終わったのか、彼はペンを取り出して書類を記入しはじめたので、それが終わったらしいタイミングを掴んで、It's OK? と尋ねた。青年は親指を挙げてみせた。続けて、Could I see your name? と言って用紙を見せてもらった。相手の名前は、J.A.C.Gと言った。ガルシア・マルケスと同じだね、と言ったが、相手はマルケスの名を知らなかったようなので、コロンビアの作家だと言った。すると、スペイン語圏では良くある名前だからね、というようなことを彼は言った。
 その後、あなたのおかげでフライトを楽しむことが出来た、と言うのは自分は英語を喋る体験をあまり持ってこなかったからだ、だから今回はprecious experienceだった、と告げると、相手はもしあなたが良かったら連絡先を教えてもらって、あとでメッセージを送るよ、というようなことを言ってきた。LINEかWhatsappはあるかと訊かれたのだが、ガラケーユーザーのこちらはどちらも利用していなかったので、Gmailのアカウントなら持っているよと答え、相手の携帯を借りて名前とそのアドレスを入力した。あとでメールを送るよと彼は言った。
 それからしばらく、雑談を交わした。本を読むのは好きかと訊くと、好きだという答えがあって、しかし今は大学のために読む時間があまり取れていないとのことだった。ジャンルは心理学が好きらしい。例えばフロイトとか、と訊くと、いやいや、フロイトは難しすぎるね、という反応があった。先ほど論文を書いているあいだに音楽を聞いていたようだったので、あれは何を聞いていたのかと問うと、彼は携帯を見せてくれて、John Mayerだと言った。John Mayerはいいねとこちらも受けると、そのほか、ドイツのエレクトロニカなどを聞くとの返答があった。そのほか、Do you know some Japanese words? と訊くと、a few、との答えがあり、ハジメマシテ、ワタシノナマエハJデス、という片言の自己紹介があったので、こちらは笑って、very goodと返した。
 そうこうしているうちに飛行機は成田に到着した。シートベルト着用のサインが消えるとベルトを外し、席から立ち上がった。父親が頭上の収納から荷物を下ろした。もう行くのかと問うともう行くという返答があったので、携帯を弄っていたJに近づき、Thank you、と声を掛け右手を差し出した。Thank you very muchとふたたび言いながら握手をした。柔らかな握手だった。あなたと会えたのはmy pleasureだ、というようなことを相手は言ってくれた。それから、I'll write later、とふたたび口にしたので、enjoy your trip、とこちらは受けた。こちらの後ろから母親が、カタカナ的な発音で、ハブアナイスデイ、と言ったので、Jはそれに対しても、Thank you, too、と答えていた。
 そうしてしばらく待ったあと、お待たせ致しましたとのCAの声とともに、退出が始まった。捌けていく乗客のなかに混ざって、キャリーバッグを持った我々一家も飛行機を降り、通路を行く。その通路の途中でJが後ろからやってきてこちらを抜かしていったので、その際にふたたび手を挙げて挨拶を交わしあった。そうして動く歩道のある通路を行く。途中でトイレに寄りながら進んで行って、預けた荷物を回収すると、入国審査を通過した。
 ロビーから出て、バス乗り場へ。日本はモスクワと比べると甚だしく蒸し暑く、空気がむわむわとしている。乗り場は確か三三番だったと思う。近づいていくと運転手の中年女性が荷物を受け持ってくれたので、渡し、バスに乗り込んだ。乗客は我々三人以外にいなかった。時刻は九時ちょうどだった。まもなく出発し、しばらく走って第一ターミナルかどこかに停まったが、そこでも新たに二人、外国人が乗ってくるだけでバス内はガラガラだった。そうして日航ホテルに到着。ホテルの入口正面で降ろしてもらう。
 父親は駐車場に車を取りに行き、母親はホテル内のコンビニで氷を買いに行った。そのあいだ、こちらは薄い陽射しのなか、荷物の番をしながら待つ。じきに父親の車がやって来たので、トランクにスーツケースやキャリーバッグを積載し、助手席に乗った。父親はトイレに行き、母親は入れ替わるようにしてまもなく帰ってきた。暑いので飲み物が欲しかったが、氷以外は特に何も買ってこなかったと言うので、氷を一欠片貰って口に入れた。大きな欠片だったので、喉に詰まらせないように注意しながら口内で溶かし、その雫を飲み込んだ。そのうちに父親も戻ってきて発車。
 高速道路に乗った。こちらはまた心持ちが悪くなっていたので、途中で座席を後方にちょっと倒して、姿勢を水平に近く楽にして目を瞑って休んでいた。だだっ広い緑の田園地帯。そのなかに聳え立つ壮大な牛久大仏。フロントガラスに激しく打ちつけて車の表面を濁らせる大雨。時折り目を開けてそうしたものを目にしながら休んだ。掛かっていたラジオは伊集院光のもので、柳田何とか言うバレーボールの選手を招いて話を聞いていた。それもぼんやり聞きながら、途中でいつの間にか眠りに落ちたようだった。気づくと、菖蒲パーキングエリアに着いていた。両親は飲み物を買いに車を降りていった。こちらは車内で待っていると、両親は飲み物のほかにアイスを買ってきていた。特に食いたい気はしなかったが、母親がバニラアイスを半分渡して来たので、一応食った。そうしてふたたび発車。また目を閉じて休んでいるうちに、いつの間にか高速から降りて青梅の近くに来ていた。
 そうして帰宅し、車のドアを開けると、激しく降り注ぐ蟬時雨の音が耳に固かった。リュックサックから玄関の鍵を取り出して家のなかに入ると、途端に便意が高調しはじめたので、慌ててすぐ傍のトイレに入り、ズボンとパンツを下ろした。下痢だった。用を済ませて出てくると、クロックスを履いて外に出て、父親がトランクから下ろす荷物を受け取って家のなかに運び込んだ。そうして居間に入り、自分のキャリーバッグから洗ってもらうべき衣服をいくつも取り出して洗面所に置いておくと、リュックサックとジャケットなどを持って下階に帰った。コンピューターを机上に据えて電源を繋ぎ、起動させるとTwitterやLINEに帰国の報告をしておいた。時刻はちょうど一時頃だった。
 その後、一時四〇分頃からベッドに寝転がって本を読みはじめたのだが、当然のごとく、まもなく眠りに落ちた。起きたのは六時半頃だった。上階へ。母親が米を炊き、餃子や鯖を焼いてくれたと言う。感謝の言葉を掛け、ソファで彼女の横に座ってしばらくニュースを眺めた。常磐道におけるあおり運転の事件が取り上げられていた。加害者は車を停めたあと、殺してやる、殺してやると叫びながら降りて、被害者のもとに詰め寄り、窓の外から被害者の顔を殴って出血させたと言う。母親は怖いね、恐ろしいねと漏らしていた。頭のおかしい事件である。その報告を眺めたあと、ふたたび室に戻って、七時前から本を読みはじめたのだが、これも大概眠気に乱された散漫な読書だったと思う。八時半で中断し、食事を取りに行った。
 母親はまた、煮込みうどんが食いたいと言ったこちらのために、うどんではないけれど、素麺を煮込んでおいてくれた。餃子や鯖や米のほか、丼いっぱいに入ったその素麺も食ったあと、薬を飲んで、風呂に入った。そうして部屋に戻ってきて、LINE上でロシア体験をいくらか報告したのち、一一時前からベッドに寝転がって読書に入ったのだが、例によっていつの間にか眠っていた。気づくと二時二〇分かそこらで、明かりを消してそのまま就床した。


・作文
 17:39 - 19:18 = 1時間39分
 19:57 - 20:38 = 41分
 計: 2時間20分

・読書
 20:42 - 21:23 = 41分
 23:15 - 24:20 = 1時間5分
 (8/14: 日本時間)
 6:35 - 7:30 = 55分
 13:43 - 14:38 = 55分
 18:56 - 20:30 = 1時間34分
 22:58 - ? = ?
 計: 5時間10分

・睡眠
 1:30 - 8:40 = 7時間10分

・音楽

  • cero『Obscure Ride』
  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL』

2019/8/12, Mon.

 小林 ビッグバンが起きたとして、その時点からこの宇宙では、時間が一方向的に流れ始めるわけですよね。これはエントロピーですよね。エントロピーが増大していくというのは一方向性の規則で、なおかつこれは、奇妙なことに、プランク定数という不連続性の値をとりますよね。わたしは素人なりに、それを非常にポエティックな想像力で考えてしまうのですが、量子力学的世界というのは、なんとなく時間以前の世界という感じがするんです。つまり、時間があって何かが生まれるんじゃなくて、時間そのものが生まれるという……。
 中島 時間未生の世界ですね。
 小林 そう、時間未生の世界みたいなもの、時間も空間もないところから、時間や空間が生まれるという方向に、今の自然科学の最先端の理論は行きつつあるのではないか。でも、奇妙なことに、そのような構造というか、出来事のあり方は、さっきのゲーデルと意識の問題じゃないけれども、実はわれわれの意識の構造みたいなものとどこかでつながるのではないか。だから極言すれば、「われわれは、毎瞬間に、じつは時間をつくっているんだよ」といきたいんですよね。
 尾藤 それはそうだと思う。わたしは記憶のメカニズムを研究していますけれども、記憶というのは、何かいったん覚えたものが安定的に残っているというイメージが、つい最近まであったんですけれども、今は絶えず書き換えている、上書きしていると考えているんですね。上書きしているので、何が本当に最初だったかということは、もう忘れちゃっている。そうしないと十分な情報量を確保できないし、後になってから、あれは必要ないということがわかったら、もう必要ないので切り捨てるべきなんです。
 中島 まさにそれはデカルトの連続的創造と同じ構造じゃないですか。
 小林 連続的創造ですね。だから、連続的創造という概念を世界に当てはめるのではなく、われわれが連続的創造であるという方向に考える。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、51~52; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 小林 尾藤さんの話で衝撃を受けたのは、多体問題を考えているということですね。
 尾藤 そうです。
 小林 一体じゃなくて多体で考えなければ、意識も心もわかりませんよと。
 尾藤 そういうふうに、実験屋としては今考えています。
 中島 それはめちゃめちゃ面白いです。
 合原 それは僕も同感です。一人しか人間がいなかったら、こんなふうに心とか意識が発達したかという問題なんですよ。周りに集団があるからこそ発達してきたと思うんです。集団があってこそのわたしなんだと。だから、そういう生活の仕方を人類というのは見つけて、そういう環境で育つ。脳というのは脳だけで存在するんじゃなくて、体とも相互作用するし、環境とも相互作用するし、環境の最たるものが他者なんですよね。その中で初めて存在するので、集団という存在がやっぱり大きかったんだと思います。
 (55; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 中島 (……)小林先生がおっしゃった、広い意味でのモラルに、想像力はどういう形で効いてくるんでしょう。
 小林 それはとても難しい問題だけれども、わたしが勝手に思っていることを混線的に言ってしまえば、最終的には世界と自分が一つであるというところに行くと思う。つまり想像力の究極は「梵我一如」というインド的な言い方でもいいのですが、そういうところに向かっていくと思いますね。それが、もっとも根源的なモラル。それを「神」と呼ぶ必要もないし、いや、何と呼んでもいいのですけれども、自分が世界の中にいるのではなくて、世界と自分がどこかで通底しているという感覚を持つことが、今露呈してきている、近代的なものの限界を乗り越える一つのモラルの方向だろうと思います。
 (59; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 八時五〇分起床。洗面所に行き顔を洗うとともに、寝癖直しウォーターを後頭部に吹きかけ、手櫛で髪を押さえた。それから居間にいたMちゃんとひととき戯れたあと、食事の時間である。メニューはここのところ毎朝出ているサラダ――様々な種類の菜っ葉と胡瓜とトマト――にブロッコリー、パン二種――濃い褐色の黒パンと、もう少し薄い色のもの――、それにゆで卵を頂いた。苺味のヨーグルトは例によって母親と半分ずつ食べ、飲み物はオレンジジュースを頂いた。黒パンを食べているとキッチンダイニングを離れていたMちゃんが戻ってきて、こちらの近くにとてとてとやって来て、音楽出来た、と嬉しそうに言った。それからこちらの手を取って、音楽、音楽、と言いながら寝室に連れて行こうとする。それに応じて手を繋いで寝室まで行くと、先ほど点けたコンピューターから音楽が流れ出していた。先ほど一度、MちゃんがYoutube、と言うので、Youtubeceroの音源のMVを流して途中で止めていたのだったが、それを自分でもう一度再生させたらしかった。それでMちゃん、音楽出来たね、凄いねと褒めてあげて、またひととき戯れた。その後も、ダイニングの食卓に戻っても、たびたびMちゃんが部屋を出て寝室に向かうので、こちらもそれについていって、そのたびに音楽を流したり、一緒に遊んだりした。Mちゃんは嬉しそうに笑いながらこちらの寝床にうつぶせになって身を伏せた。Mちゃんはまた、部屋の隅にひらいたまま置かれていた父親のスーツケースの車輪に目をつけて、車輪をくるくると回したり、左右に動かしたり、ぱんぱん、だんだん、と言いながら叩いたりして遊んでいた。そうやって戯れているあいだに、食卓では食事が終わり、片付けが始まっていた。今日はそういうわけで皿洗いは出来ず、代わりに母親がやってT子さんが食器を食洗機に入れていた。
 食事を終えたあとは寝室に行って、日記を書かなければならないのだが、気力が湧かずに寝床に転がってしまった。そのまま布団を被ってしばらく休んだ。そのあいだMちゃんも寝室に入ってきて、両親と戯れているようだった。こちらがようやく起き上がると、既に正午前だった。Mちゃんは母親の傍らでベッドに乗り、昨日のサーカスの写真を見せてもらっていた。写真を見せてもらい終わっても、繰り返し、ピエロ、ピエロはと言ってもう一度写真を見せるようにせがむのだった。彼女が言うピエロというのは、サーカスの舞台を包んでいた幕に描かれていた大きな顔の絵で、一種ひょっとこのように口を窄ませているのだが、Mちゃんは前夜はどうやらそれが怖かったらしく、サーカスの観客席に入ると泣いてしまって、舞台を見ようとしなかったのだった。その絵の写真を見せるとMちゃんはそのたびに、怖かったね、と呟き、何で怖かったんだろう、と自問するのだった。いや、面白いことに、本当にそのように発語しているのだ。何で怖かったんだろう、ということは、今はもう怖くないということなのだろうか。そのうちにMちゃんは、そのピエロのひょっとこ口を真似して口を突き出しはじめて、両親やこちらを笑わせてくれた。彼女はまたコンピューターで日記を書いているこちらの下にやってきて、かちっ、かちっ、と言う。これはマウスのクリックのことを言っているのだ。それで、マウスのポインターYoutubeの動画の再生ボタンのところに合わせてこちらがマウスを固定し、Mちゃんにクリックさせて、動画を止めたりもう一度再生させたりして遊んだ。日記をここまで書くと一二時半である。
 それから八月一〇日付の記事を書き足した。そうしているあいだにT子さんが炒飯と麻婆豆腐、それに野菜スープを拵えてくれた。それを食べてから近くの巨大ショッピングモールに出かけようということになった。そうしてキッチンダイニングの食卓に集まる。部屋には炒飯の良い匂いが漂っており、中華屋の匂いがすると皆口々に言い合った。炒飯はそれぞれセルフで取りたいだけよそるということで、兄が最初に調理台の上のフライパンに寄って米を皿に盛った。その次にこちらがよそることになったが、兄が遠慮なくたくさんよそってしまい、炒飯の量が思いの外に少なくなっていたので、こちらは欲望を控えて少なめによそった。そうしてあとは母親が三人の分をそれぞれ盛りつけ、そうして食事が始まった。麻婆豆腐も大きな容器に入れられて食卓の真ん中に置かれたので、母親が全員の分を椀に取り分けて行った。そのほか、薄色の野菜スープがT子さんの手によって皆に配られた。こちらは飲み物にはコカ・コーラ・ゼロを飲ませてもらった。T子さんは簡単なものだ、適当に作っただけだと謙遜したが、どの料理も美味だった。Mちゃんは炒飯に入っていた海老だけ食べると椅子から降りて、またどこかに行ってしまったので、こちらはそのあとを追った。そうして寝室でまたマウスをクリックさせて遊んだり、その隣にある兄の寝室に入ってベッドに寝転び、布団を被ったMちゃんの傍らに寄り添ったりした。兄の寝室には二〇〇一年に発刊された群像社版のゴーゴリ『検察官』が置かれてあったので、少々なかを覗いた。そのうちに、Mちゃんとこちらを呼ぶ声が聞こえたので、Mちゃんの手を引いて食卓に戻り、こちらのために残されてあったサクランボを頂いた。Mちゃんは炒飯を一口食べるとまた部屋を出て行ってしまった。そういう具合でほかの部屋と食卓を何度も繰り返し行き来して時間を費やしたのだが、最後にはこちらがスプーンを持ってMちゃんを椅子に座らせ、炒飯をすべて食べさせた。
 その後もMちゃんと戯れ――この家にいるあいだ、自分は彼女と遊んでばかりいるが――一方でこちらは服を着替えた。フレンチ・リネンの真っ青なシャツと、ガンクラブ・チェックのズボンである。そうして二時四〇分からこの日の記事を書き足しはじめて、現在はもう三時に至っている。
 その後、ショッピングモールに行くために外出した。前日と同じく、T子さんとMちゃんは遅れて合流するということだった。エレベーターで地下階まで下りて、だだっ広い駐車場を歩き、扉と通路をいくつか越えてかなり移動したあと、ようやく兄の黒い車に辿り着いた。乗り込み、発車。地上に出て一〇分か一五分かそのくらい走り、アヴィアパルク(Aviapark)に到着。だだっ広い駐車場に車を入れ、降りて、建物のなかに入る。エスカレーターを上がって行って一階に出ると、Natura Sibericaの店舗の前で立ち止まってT子さんが来るのを待った。このNatura Sibericaという店は化粧品などを売っている店なのだが、そこに安いハンドクリームが売っているという話をT子さんから聞いており、それが土産に良いのではないかと両親は考えていたのだった。こちらも、女友達のために買っていくつもりでいた。それで待っていたのだが、なかなかT子さんがやって来ないので、あたりを少々うろついてみることになった。ZARAの店舗があり、なかを覗いた母親が、良さそうな臙脂色のジャケットがあったよと言うので、あとで寄ってみることになった。そのほか、Massimo Duttiや、Tommy Hilfigerや、Trussardi Jeansなどの店舗が近くにはあった。兄や両親は便所に行った。便所までの通路は非常に奥行きが長かった。そのあいだこちらはそのあたりで立ち尽くして待ち、通り過ぎる人々を眺めたりしていた。自転車に乗って通る者があったり、スケボーやキックボードに乗って通る者もあった。そうして、そろそろT子さんが来ると言うので元のNatura Sibericaの前に戻って、彼女と合流し、店に入った。入ると店員の女性が、サービスの茶を皆にそれぞれ注いでくれた。それでハンドクリームを見分。様々な種類のものがあったが、なかに最初に確認したもので、三〇〇円くらいのものがあったので、こちらはこれで良いかと目星をつけた。これはオブレピーハという植物を原料として作ったものらしく、マンゴーのような少々甘い匂いがした。父親もこの品を買うことにしたらしかった。そのほか、母親は、レジの横にあった一本一〇〇円くらいの小さなものをたくさん選んで購入していた。店内に陳列されている商品のなかには、「Tsunami」とか、「Shikotan Birch」という名前が付されたものがあり、それには「soul of kuril」という売り文句もつけられていた。どうやら北方領土や千島列島でこうしたものが生産されているらしい。
 会計。店員は会計時に、プレゼントだと言って何かのオイルを一本くれた。確か松のオイルと書かれていたのではなかったか。それから主にこちらの興味関心に基づいて、服を見分することになった。まずMassimo Duttiの店に入る。おそらく麻で作られたらしい白の、線の入ったジャケットがあって良かったのだが、着てみるとサイズが大きすぎた。遂にZARA。件の臙脂色のジャケットはぴったりのサイズもあったが、西洋人に合わせて作られているため、それでも袖のあたりが僅かに長い風には見えた。父親が一生に一度だから、記念だからと言って買いたいものがあれば買うように勧めてくるのだが、ZARAなら日本にもあるし、どうせならもっとモスクワでしか買えないような服を買いたいなあとこちらは迷って、ひとまず保留とした。そのほか、薄青いチェックのジャケットや、タータン・チェックの薄手の裾の長いコートのような商品もあってかなり格好良かったのだが、これらはちょうど一万ルーブルほどの値がつけられていた。一万七〇〇〇円といったところである。そのほか、良いと思う品はやはりどれも一万ルーブルはするようだった。
 ZARAの女物の方にも入った。母親に何か良い服がないかと思ってのことだったが、やはりどの品も基本的にもっと若い年代層を対象としており、還暦を迎えた母親に合いそうなものはあまり見つからなかった。それでも母親はいくつかシャツに目を付けていて、父親はここでも一生に一度だからなどと言って購入を促していたが、母親は決めきれず、まああとでまた戻ってきても良いのだから、という曖昧なスタンスに落着いた。しかし結局、このあと食器を見たりスーパーを見たりしているうちに思いの外に時間が経ってしまい、あとで戻ってくる機会はなかったのだ。
 それから、フロアを移動して、ポーランドの食器を取り扱っている小さなカウンター造りの店を見分した。青を基調にした彩色がどれも素晴らしい品々だった。赤い花の描かれた小さな皿を見せてもらった母親は、ちょっと重いと言って購入を躊躇っていたが、ここでも父親が、一生に一度なんだから、と言って頻りに購買を主張し、結局それに負けた形で最終的に三枚を買うことになった。ほか、小さなミルク入れとソーサー。チューリップめいた赤い花の描かれたハート型の器も取り出して見せてもらったのだが、こちらはそれなりに名のある作家が彩色したものらしく、その分高めになっており、三二〇〇円かそのくらいはするらしかった。
 それから大型スーパー「アシャン」に移動した。そこで鍋を見たり、タオルを見たり、ノートを見たり。その後に食料品のフロアに下りて、土産にする菓子類を見分した。ロシアに来て一日目だか二日目に買ったアリョンカのクッキーはここにはなかった。似たような商品ならたくさんあったのだが、やはりアリョンカのあれがパッケージも含めて良いのではないかというわけで、このあとにアリョンカショップに帰りに寄ってもらうことに決めた。そのほか、職場の室長のためには九種類のビスケットが入った詰め合わせの商品を、同僚たちのためにはレーズンのクッキーがたくさん入った品を選んだ。父親もクッキーを大量に籠に入れていた。T子さんは独自に、自分の買い物として、野菜やMちゃん用のパズルを取ってきていた。そのほか、クノールボルシチなどのスープの素を見たり、ポテトチップスの類を見たりしてから会計。スーパーのレジは、品物を台の上に全部出し、座った店員がそれらを一つずつ読み込ませて送ってくるのをその場でどんどん袋に入れていくという方式だった。兄から受け取って大きなものをこちらも袋に入れていき、商品の入った大袋二つが作られた。それで機械で精算をして外へ。
 荷物を運んで駐車場の近くまで来て、そこでタクシーに乗って帰るT子さんとは一旦別れた。我々は兄の車に戻り、乗って発車。時刻は確か既に七時頃だったのではなかったか。それでもモスクワは陽が落ちるのが遅いので、まだまだ明るく、空は水色だった。しばらく走って、モール「五番街」の地下に入る。車を降りて階段を上っていき、フロアに出ると、アリョンカショップに入った。先日Mちゃんにチョコレートをプレゼントしてくれたおじさんは見当たらなかった。こちらはクッキーを八袋、すぐに決めて籠に入れたのだが、母親が何を買うのかすぐに決められずぐずぐずしていて結構時間を使うことになった。結局彼女は紅茶や、量り売りのチョコレートなどを買っていた。また、父親によって小さな紙袋も何枚も購入された。土産物を贈る際にこれに入れれば良いだろうということらしい。
 それで帰宅。夕食は、ウズベキスタン料理の店で取ろうということになっていた。兄が電話して予約を入れ、しばらく経つとまた外出。エレベーターで一階まで下りていき、入口に座って詰めている守衛の男性に、また行ってきます、と日本語で告げながら通り過ぎた。もう顔も覚えられただろう。母親は、よく出かけるなと思うだろうねと漏らしていた。
 二台のタクシーに分乗して店へ。「黄金のブハラ」という名前の店で、建物表面は確かに黄金色の電飾で明るく飾られていた。店内は照明の周りにタイル状の飾りが貼られていたり、年代物風の戸棚が隅に置かれていたり、中近東風の内装で、掛かっている音楽もアラビア的な雰囲気を感じさせるものだった。この店でもMちゃんのためにすぐに子供用の椅子が持ってこられ、またのちには塗り絵も用意された。しかし塗り絵はすぐに放擲され、後半、MちゃんはiPadに熱中して大人しくしていた。
 注文されたのはまず、サラダ二種。一つは胡瓜と卵が麺のように細切りにされたもの、もう一つはトマトと玉ねぎのものだった。ほか、馬の肉や牛の干し肉や、大きなベーグルのようなパン。またラフマン――と言っていたと思うのだが、今インターネットで検索すると「ラグマン」という名前で出てくる――という麺料理。それが終わったあとにプロフとシャシリク。プロフというのは要するにピラフのことで、シェフが大皿とともに出てきてその場で米を混ぜ、胡瓜や紫玉ねぎやトマトやニンニクを添えて人数分、皿に用意してくれるのを給仕が配っていくのだった。このニンニクが、どうやってあのようにされたものなのか、非常に柔らかく、口に入れると溶けてしまうような具合だった。勿論、プロフそれ自体の味もスパイシーで美味かった。そして最後に出されたシャシリクというのは、グルジア料理を食った際にも頼んだもので、肉や野菜の串焼きのことである。これを二人前頼んだのだったが、三皿に分けてかなり多くの量が出てきて、その時点で既に結構腹いっぱいだった我々は頑張って食ったのだけれど、最終的に一皿はどうしても食えないということになって、持ち帰りを頼むことになった。シャシリクとして出てきた品々は、牛肉、レバー、つくねのような肉、鶏肉、トマトやズッキーニやパプリカなどの野菜である。
 給仕の青年は穏やかで慇懃な物腰であり、こちらがMちゃんの傍に立ってジュースを飲ませたりしていると、それを見て笑みを浮かべたりもしてくれた。食事中の会話は特段覚えていない。スイスの話があったのは一応メモにちょっと取ってある。スイスは物価がやたらと高いということだった。T子さんも何度かスイスで公演をしたことがあるのだが、その時のギャラは、こんなに貰っても良いのと思うほどに高いものだったと言う。確か、一晩で、それも主役では全然なくても、三〇万だか四〇万円くらい貰えたという話ではなかっただろうか。兄も、やはり永世中立国ということもあって、あそこはヨーロッパのなかでもちょっと雰囲気が違うような気がしたなと話していた。
 最後、シャシリクを食っている頃合いになると、帰国も翌日に迫って、何となくこの旅の終幕のような雰囲気が醸し出されはじめたと言うか、兄が総括のような言を漏らしはじめ、まあ大学に行かせてもらったこと、また留学をさせてもらったことなど感謝している、あそこでロシア語学科に進んでいなければ、まったく違った人生になっていただろうと思う、というようなことを述べた。しかし結局、どこが一番のきっかけだったかと考えてみると、兄が高校生の時だったか大学生の時だったか忘れたが――確かこちらが中学三年生の時だったような気がするので、そうなると兄は既に大学生だったことになる――Oを夏のあいだホームステイさせたことがその後の人生を決めたような気がする、そのあとロシアとは切っても切れない関係になったと続けて述べられた。まあともかく、ロシアという国もそれほど怖いところではない、楽しくやっていると兄はまとめ、それを父親などは満足気な様子で聞いていて、今回の旅に対する感謝の念を述べた。実に物語的な雰囲気が卓上には醸し出されつつあった。なるほどこれが家族の幸せ、というものなのだろうな、とそれに浸かりきっていない外部からの観察者の視点でこちらは思った。
 そうして一〇時過ぎに帰宅。帰りのタクシーにはまた半端な感じのダンスミュージックが掛かっていた。英語だった。アメリカの音楽というものも、結構入ってきているのかもしれない。月は満月に近く、大きなものだった。兄のアパートに着いて降りると、守衛の男性に会釈しながら入口を通り過ぎて、エレベーターに乗って室に帰った。Mちゃんは我々の寝室にやって来て、布団の上に寝転がったり跳ね回ったりして燥いでいた。風呂に行こうと何度も言っても聞かず、スーツケースの車輪で遊んだりしていた。しばらくしてようやくT子さんに引き渡すことに成功し、こちらは日記を綴った。その後のことは特に覚えていないし、特段のこともなかったはずだ。ただ、毎日美味い食事と洗濯の用をこなしてくれたT子さんには、感謝の一念のほかはないとここに明記しておく。


・作文
 11:54 - 12:44 = 50分
 12:53 - 13:29 = 36分
 14:41 - 14:59 = 18分
 23:30 - 24:15 = 45分
 24:44 - 25:26 = 42分
 計: 3時間11分

・読書
 なし。

・睡眠
 1:10 - 8:50 = 7時間40分

・音楽
 なし。

2019/8/11, Sun.

 小林 最近、ジム・アル=カリーリ/ジョンジョー・マクファデンの『量子力学で生命の謎を解く』(邦訳、SBクリエイティブ、2015年)という本を読んでいたら、単なる比喩ですけど面白いことが書いてあった。それは、道ばたにラジオが落ちていた。ラジオを知らない人がそれを分解し、細かく分析してみたら、音が、つまり放送が、聞こえてくるかというと、聞こえてこない。電波が来なければラジオはラジオにならないので、電気回路をどれほど細かく説明することができても、電波が入ってこない限りラジオはラジオにならない。そういうことに近いかもしれないということを、生物の領域で量子力学的なアプローチをしている人たち自身が書いているわけです。比喩がとてもわかりやすいと思いました。
 基本的には、われわれ人文系の思考は、そういう立場を取らざるを得ないだろうと思いますね。正しいとか正しくないとかではなくて、フィロソフィアの立場からは、――中島さんがしきりに「神」という言葉を持ち出すのもそうだと思いますが――どうしても「いやあ、みなさんは一生懸命システムや電気回路を勉強していらっしゃいますけど、それだけでは心は聞こえてきませんよ、なにしろ心は目に見えない電波なんですから」という感じで答えるしかないという立場を取らないわけにはいかないように思いますね。われわれも一緒に電気回路をハンダごてで分解してみましょうという方向にはいかない。われわれの立場は、「ラジオをいくら調べても、ラジオそのものからは音は聞こえてきません」という立場に立って、それで何が起こるかを試してみるしかない。
 ただし、いまの時代、ラジオの回路がどのぐらい精密に解明されているかを踏まえなくてはならない。そしてそこでは、「計算」ということが非常に重要なポイントだと思うんです。すべては、データ、情報、それらの計算によって説明可能になるということ。しかも、いまその情報を制御し統御する文法というか方程式というか、それが線形的な一意的決定性を持ったものだけではなくて、非線形的なものも入り、確率論も入り、決定論ではないようなさまざまな方程式が導入されている。一方には、無限の情報の回路の解明があり、他方では全く新しい、非決定論的な、非ニュートン的ですらある文法があって、両者がドッキングされていく。すると、カオス、複雑系創発と、ありとあらゆる非決定論的、非線形的法則や分布が試されていて、最終的には、唯物論的に下から上が、装置から「放送」がどのように可能になるかが、説明できるはずというのが基本的な方向ですね。
 わたし自身は、これらを非常にセンセーショナルなものとして、面白く見ているのだけれども、それに対しては、最終的には、先ほどから中島さんが執拗に提起している意識という問題に戻ってきてしまうように思います。もし心が意識だと仮定したら、意識が持っている絶対的内在性、それをどのように受けとめるかですね。つまり、ラジオが聞こえるのは、「わたし」だけだ、ということ。誰にでもわかる外側からのアプローチに止まっているかぎりは、それは、「わたし」という「放送」ではなく、単なる電気の回路にすぎないのではないか、ということですね。電気回路の中には、それがどれほど複雑であろうが、「わたし」は住んでいないのではないか、ということ。そして、逆に、もしそのような絶対的な「わたし」こそ、意識の本質だとすると、それは、ラジオにとっての電波のようなもので、そうなれば、――中島さんが言おうとしていることを先取りして言えば――そんな「わたし」って「神」とどこが違うんですか、という話に当然なっていく。つまり、とても不思議なことに、これだけ唯物論的に攻められた結果として、われわれはもう一回、唯心論的というか、神学的構築をしなくちゃならないはめに迫られているように思えますね。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、44~47; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 小林 論理学も20世紀の後半に入ると時間論理学とか様相論理学とか、いろいろな論理学がたくさん出てきましたけれど、わたしの感覚では、むしろ数学という論理の極限におけるセリーの問題が面白いなあ、と思います。なぜ数学が論理の極限に行き着いたかと言えば、それは、数学こそまさに「数」以外にはいかなる現実的な事象もない、そういう言葉ではない「数」に還元して組み立てられた純粋論理だからですよね。そうした純粋論理が、無限を扱った途端に、論理そのものが破綻するというか、ゲーデル不完全性定理でもいいんですけれども、この論理構築そのものが論理的にディコンストラクション脱構築)されてしまうということがわかったわけですよね。それはとても大きな発見だったと思います。論理的に世界を構築することがある種のカオスというか、破綻なしには成立しないという。でも、その破綻は何によって起きたかというと、ループによって起きたんですよね。わたしはよくわかっていないのですけれど、不完全性定理では、不完全性になる理由はループなわけじゃないですか。つまり、リカレントな構造だ。自己言及的な構造を論理にぶち込んだ瞬間に、集合論において、論理的な構築が矛盾にぶちあたってしまう。
 そうなると、そこに自己意識というか、あくまでも「わたし」という自己言及性そのものであるような自己意識という問題となにかリンクが可能なのではないか、と直観するわけです。自己意識とは何かというと、どう考えてもループですから、それが、数学的論理学が行き着いたところとつながってきているような、非常にスリリングな状況になっていると思うのですね。つまり、究極的には、「わたし」というものが、ディコンストラクションとしてある、論理の不可能性そのものとしてあるという方向かしら。これが今のわれわれの状況ではないでしょうか。
 (49~50; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 八時半に起床。まだ寝床にいると、もう既に着替えて歯磨きか何か終えた父親が、あの風鈴のやつ、と話を向けてきたので、ボルタンスキーねと受ける。あれが国立美術館でやっているって、と言うので、国立新美術館ね、それを見に行ったんだとこちらは言った。それからちょっとしてこちらも起き上がり、コンピューターを点けた。Twitterを確認しておいてから、洗面所に行き、顔を洗い、後頭部の寝癖に水をつけて押さえたあと、食事へ。キッチンダイニングのテーブルを囲む。こちらは例によってMちゃんとテーブルを挟んで向かい合うお誕生日席である。こちらから見て左の辺には母親とT子さん、右辺には父親と兄が座る。食事のメニューは、まずサラダが二種。レタスや胡瓜やトマトのサラダと、アボカドとトマトとモッツァレラチーズのサラダである。そのほか茶色いパンにチーズ、それとサラダはもう一種類あった。前日の残り物だろうか、ポテトサラダである。さらにはゆで卵も食べ、デザートとしては、前日にスーパーで買われた菓子――ロシア語で何という名前だったか忘れたが、レアチーズケーキをチョコレートでコーティングし、包んだようなもの――が提供された。食事を終えるとこちらは皿洗いをした。汚れを落とした皿を傍らに置き、母親がそれを食洗機に入れていく。終わると手を洗い、布巾で水気を拭って、居間に移った。そこでMちゃんが父親と戯れていた。テレビには「ドーモくん」の番組が移っており、「ディアボロ」という、二つの棒のあいだに渡した糸を使って独楽を回しながら放り投げたりするパフォーマンスが披露されていた。こちらもMちゃんとちょっと戯れたあと、自室に戻って日記を書きはじめたのが一〇時前、現在は一〇時を回ったところである。音楽はcero "POLY LIFE MULTI SOUL"を流したあとに、Jose James『No Beginning No End』に繋げている。
 何時に出かけたのだったか覚えていない。この日はイズマイロフというところにある、ヴェルニサージュという市場に出かけようということになっていた。MちゃんとT子さんは一旦家に残って、あとから合流するとのことだった。それで外出し、アパートを出て、環状線の駅まで歩いた。晴れているが、いくらか肌寒い陽気だった。こちらの格好は確か、薄褐色のチェックのシャツに、煉瓦色のズボンだったと思う。半袖シャツだけでは結構冷たい気候だったので、兄がT子さんにメッセージを送って、のちほどジャケットを持ってきてくれることになった。青空に雲が断片的、散発的に浮かんでおり、四角四面の巨大な建物に陽射しが掛かって美しかった。
 駅は「パンフィロフスカヤ」という名前だったらしい。入口を入って、高架通路を通っていき、改札をくぐった。改札をくぐる際には、日本とは違って、兄が回数券を持っており、それを一人一回分繰り返し機械に読み込ませることで四人全員が通ることが出来るのだった。ホームに下りると、ソーセージなどを売っている自販機があった。ここで買って、電車内で一杯やるんじゃないかと父親が笑った。
 電車は赤い色の、いくらか近未来的な感じも受ける綺麗なものだった。車内は新幹線風の内装になっており、床は固く、自転車を停めておくスペースなどもあった。最初は両親だけが座っていたが、そのうちにその前の席も空いたので、そこに兄と隣り合って入った。電車内では、ポーランドの話をした。二〇一三年だかその頃に、兄はポーランドに行ったことがあると言う。ワルシャワクラクフに行ったと言うので、アウシュヴィッツには行かなかったのだろうかと思っていると、兄は、あそこは行かなかった、あの、何だっけ、と漏らしたあと、そうだ、アウシュヴィッツだとまさしくその名前を思い出した。アウシュヴィッツと言えば、こちらにとっては、と言うかこちらにとってだけでなく、おそらく一般的にホロコーストの代名詞、その象徴となるような収容所名で、忘れることなど出来ない固有名詞なのだが、兄でさえもそれを短時のあいだ忘れてしまうような、ホロコーストに対してその程度の認識なのかとこちらは密かに思った。こちらはそれを受けて、今丁度、アウシュヴィッツの所長だった人が書いた本を読んでいるよと告げたのだが、兄が何と返したかは覚えていない。それ以上特に詳しい説明もしなかった。
 それでイズマイロフに着いた。駅に着く途中で、母親が言った通り、「お伽の国」にでもありそうな城のような建物が街中に建っているのが見えていた。ガイドブックには、絵本のなかに出てきそうな、というような形容で紹介されていたらしい。そこはちょうど駅と駅の中間地点あたりにあって、イズマイロフ駅からそこまでいくらか歩かなければならないとのことだった。それで駅を降りると高層ホテル――「アルファ」とか「オメガ」とかいう名前のビルがいくつか並んでおり、中国人がよく泊まっていると言う――のある一画を抜け、牧歌的な芝生の地帯の広がるなか、ヴェルニサージュへと歩いて行った。陽が照っていて、良い天気だった。
 黒い柵のあいだを抜けて、ヴェルニサージュの正面に着くと、白と緑の城のような建物を背景にして皆で写真を撮った。それから道を渡って右方に折れ、しばらく歩いてマーケットの入口からなかに入った。祭りの屋台のような、あるいはクリスマスマーケットのそれのような木造りの土産物屋が軒を接して所狭しと並んでいるのだった。入ってすぐのところの店には、売り子代わりというわけか、台の上に黒猫が座って自分の体を舐めていた。それが大層可愛かったので近づいて触れたが、さすがにこのような場所にいる猫だけあって人馴れしているようで、こちらが撫でているあいだも黒猫は我関せずといった様子で毛繕いを続けていた。
 店々のあいだの通路をゆっくりと歩いていく。途中で、タオルやクロスのような彩色された布を扱っている店に母親が注目した。テーブルに敷くような類の、花柄の入ったクロスめいた布地が、台の上に並べられ、また、洗濯物干しのようなハンガーに洗濯挟みで吊り下げられているのだった。店主は真っ赤な服を着て身体の非常に大きな、胸の腹もふくよかに突き出たおばさんで、早口でセールストークを繰り広げてみせた。母親は青とピンクの布を何枚か買うと言うので、こちらもこれはNさんあたりに良いのではないかと思って一枚買うことにした。しかし、どうせだったら読書会のNさんだけでなく、TやMさんら、女友達に全員あげるつもりで三枚買えば良かったと思う。おばさんは二〇〇ルーブルの品を五〇ルーブル値下げしてくれた。母親がさらに値下げを試みたが、おばさんはそれには応じず、モスクワ市の中心部では二五〇で売っているところを、こっちは一〇〇で売っているのだから、買ってもらわなくちゃ、みたいなことを言ったらしかった。別れ際に我々が日本人であるということを告げると、おばさんは、日本は好きだと言いながら、ヒロシーマ、ナガサーキ、と口にした。やはり原爆の落とされたこの二市は外国人のあいだでも名を知られているのだろう。
 それから、屋台のある一帯、二、三列の通路を行き来して、先の店に加えてあと二軒でものを買った。二つ目の店で買ったのはエプロンで、青とオレンジ色の花柄のやつだった。ここの店員のおばさんも身体が大きい人だったが、しかし先のおばさんとは違って控え目な感じで、セールストークは特に披露せず、値段を訊くといくらか訛った英語で返すのだった。三軒目ではマグカップの類を購入したのだったが、そこにいたのは赤ら顔のおじさんで、おそらく生来非常にお喋りなのに加えて、多分この時は酒を飲んでいたのではないか。それできっとお喋りに拍車が掛かっていたと思うのだが、ロシア語のわかる兄に向かって、ほかの三人を置き去りにしながら何か捲し立てるようにして喋り続け、その話が滅茶苦茶長く、苦笑するほかなかった。あとで兄に訊くと、この人はサハリン生まれで、父親が炭鉱で働いていて、子供の頃に日本人が家に遊びに来たことがあってそこで日本の遊びをいくつか教わった、というようなことを話していたらしい。要は日本が好きだという話だ。彼は日本語もいくつか喋った――「高くない」とか「皆さん」とか、「二五〇」とか、「ありがと」などの言葉である。母親が何かの品を、可愛い、と言った時には、「you、カワイイ」と世辞を言ったこともあった。それで結局、マグカップを一つ買うことになったのだが、そのあとこのおじさんと、もう一人いた老人と一緒に写真を撮った。老人も英語をいくらか喋った。おじさんには息子がいて、二八歳と四歳らしかった。母親がこちらを指してマイサン、と言うと、お前は何歳かと訊かれたので、二九だと答え返した。
 その後、屋台の一画を抜けたところで兄がT子さんに連絡を取り、フリーマーケットの一画で合流することになった。フリーマーケットの地帯は業者ではなく一般の人々も店を出して雑多な売り物を陳列しているのだが、なかには薄汚れた鍋とか、どう考えても売れるはずがないだろうというようなガラクタの類も売りに出されているのだった。そこを見ていると、T子さんが通路の向こうからやって来た。ジャケットを持ってきてくれたと言うので、わざわざすみませんとこちらは礼を言ったが、今のところは陽の出ている場所にいることもあって寒くはなかったので、まだ良いですと言った。それからフリーマーケットの一画を抜け、先ほどよりもいくらか広い道を行った。そちらに母親の好きなグジェリ焼きの店が一、二軒あるとのことだったのだ。それで件の店に着いたが、鮮やかな青で彩色されたグジェリの食器で店舗が埋め尽くされている様は美しく、圧巻だった。母親やほかの皆が品物を見ているあいだ、こちらはMちゃんの傍に寄っていた。彼女はゼリーやグミを与えられて大人しくしているのだった。グジェリ焼きの店では、母親が欲しかったグジェリのスプーンが見つかり、三本が購入されることとなった。その後母親は、店員の女性と一緒に記念写真を撮った。
 そうしてから階段を上って、建物の上の方に向かった。広場に出ると、馬がいたのだが、こちらは馬ではなくて、一人の女児に注目していた。ただ一人で広場をうろついており、親や同行者が近くに見当たらないので、迷子ではないかと思ったのだ。しかしそれにしては、泣くこともなく、慌てたような様子もなく、両親を探している素振りもない。それどころかそのうちに、段に座ってのんびりと休みはじめ、近くの子供らが遊んでいるのに混ざりたそうな視線を向けている。編み帽子を被ってちょっと冬めいた装いをした、非常に可愛らしい子供だった。皆が蜂蜜ビールを買って飲んでいるあいだも、こちらは一人、その子に視線を送っていたのだったが、彼女はそのうちにどこかにとてとてと歩いて行ってしまい、視界から見えなくなった。
 近くにロシア料理の店があると言うので、そこに行くことになった。それでヴェルニサージュを抜けて、少々歩き、田舎家風の店に着いた。テラスには誰一人として客がおらず、外見には休みなのではないかと思われたが、兄が入っていくと普通に営業しており、六人入る席もあるとのことだった。それで入店。八人掛けくらいの長方形の大きなテーブルに通され、Mちゃんが座るための子供用の椅子も用意された。ロシアではどこの店に行っても、必ずこうした子供用の椅子が準備されていて、すぐに出てくる。
 例によって前菜やら摘むものやらは兄に任せることにして、メインの一品をそれぞれ決めることになったので、こちらはチキンのヌードルを頼むことにした。飲み物は皆はビール、妊娠中のT子さんは水かレモネードか何かを頼んでおり、こちらは途中で買ったペットボトルのコーラが残っていたので何も注文しなかった。店員は、メイド服ではないけれど、少々それらしいデザインの格好をしていた。白いブラウスの上にそれぞれ赤、水色、黄色の原色に近い鮮やかな色合いのエプロンをつけ、小さなバッグを掛けていたのだった。応対をしてくれたのはそのうち赤いエプロンの店員で、愛想はわりと良かった。三人とも、忙しく厨房とフロアを行き来し、立ち働いていた。
 それで注文された料理は、まずオードブルに牛タンや豚肉やチキンの盛り合わせと、サーモンとチョウザメの燻製。それらには大きな丸パンとバターがついてきた。ほか、ボルシチとチキンヌードルが来て、また、メインの料理は茶色くこんがりと焼けたチキンの塊に、ソースの掛かった豚肉、そうしてやはり黄色のソースが掛かった鮭とチョウザメに、蕎麦の実の混ざったビーフストロガノフだった。ボリュームたっぷりで、腹いっぱいになるまで食うことが出来た。こちらの背後の壁にはテレビが設えられてあって、何かミュージック・ヴィデオの類が絶えず流されていたのだが、そこから流れ出る音楽は打ち込みのダンスミュージック的なポップスが主調で、田舎家的な店の様子に全然相応しくなかった。MちゃんはタブレットYoutubeを見せられて大人しくしていた。途中、虹色のきらきらとした飾りをつけた服を着た老婆が店に入ってきて、二階の方に上がっていくとともに、何やら着飾った男女も現れたので、何かパーティーのようなものが催されているのかなと推し量られた。
 そうして食事を終え、退店。そこからまたしばらく歩いて、地下鉄の駅に行った。夜はサーカスを観る予定で、まだいくらか時間があったものの、サーカスの傍に公園があると言うのでもうそこに行ってしまい、時間を潰すことになったのだった。地下鉄の車内では、兄がMちゃんを抱いて入っていくと、すぐに席が譲られた。そうして隣り合った婦人がにこやかに話しかけて来て、最終的に偶然持っていたナナカマドの描かれたスプーンをくれたのだった。こちらはそのやりとりからは少々離れて、車両の端でベビーカーの番をしながら立っていた。隣には読書をしている男が立っていた。車両内にはもう一人赤ん坊がいて、泣きじゃくっていたが、Mちゃんはそれにつられることもなく静かにしていたようだ。降りてベビーカーを押して運び、上りのエスカレーターに乗ったのだが、これが以前のそれと同じく途方もなく長いもので、奈落の底から地上に向けて出ていく感じがして、とても怖かった。
 駅を出て、公園の向かい、サーカスの前に着いたところで、兄夫婦と母親の三人はカフェに行って飲み物などを買ってくると言うので、こちらと父親がベビーカーに乗ったMちゃんの傍に残った。父親は、道行く人々が持つ風船や、犬などにMちゃんの注意を促して、あやすように甘ったるいトーンで終始幼児に話しかけていた。まるで形なしだな、とこちらは思ったが、こちらがMちゃんに話しかける時の様子も、もしかしたら同じようなものになっているのかもしれない。しばらくして三人が帰ってきたので、通りを渡って公園に入った。ベンチを一つ陣取った。ベビーカーから下ろされたMちゃんは広場内をうろうろして危なっかしいので、こちらが近くについてやった。広場中央には噴水があり、水柱が何本も無数に立っていて、時間とともにその勢いが増減して柱の高さが変わるのだった。そのなかにはさらに、ピエロの像が立てられていた。Mちゃんは噴水を見ながら、おっきいねえ、などと漏らしていた。
 そのうちにMちゃんにシャボン玉を作る玩具が渡された。Mちゃんが吹き出して宙を漂っているシャボン玉にその玩具を近づけると、玉が割れず枠にくっついてぶら下がった時があって、するとその石鹸水の玉のなかに、虹色の光とともに周囲の風景が三六〇度、コンパクトに圧縮され、収納されて映りこんでいるのだった。のちになると兄が玩具を受け取って、穴に向けてゆっくりと息を吹きかけ、酷く大きなシャボン玉を拵えていた。Mちゃんはふたたび歩き回って、噴水に近づきながらシャボン玉を吹き出し、そうすると玉は噴水の濡れた縁の上に落ち、ここでも割れずに形をしばらく保ちながら光を映しこんでいるのだが、それをMちゃんは指で触れて割ってしまうのだった。
 我々の座っていたベンチの後ろにはパンジーか何かの花が咲いている一帯があって、その向こうでは蛍光色の黄色いベストを着た清掃員の老人が休んでいた。彼は鳩の餌をばら撒いて、自分の元に鳩を集めていた。なかの一匹などは、その老人に首を掴まれ、動きを封じられながら餌を沢山食っていた。シャボン玉はその老人の方へも飛んでいき、老人はにこやかな様子でMちゃんの方を眺めていた。Mちゃんはまた、ベンチの傍の段の上を行ったり来たりして遊んでいたので、こちらがMちゃんの前に立って通せんぼするようにしながら後退りし、端まで行くとまたMちゃんは引き返すのでそのあとを追いかける、といった風に遊んだ時間もあった。
 それで六時半頃に至って、公園を出て横断歩道を渡り、ニクーリン・サーカスへ入った。観光客らが続々と入口に詰めかけているところだった。券を提示してなかに入ると、ロビーの一角では、チーターや虎の子供と写真を撮るサービスが催されていた。虎の子は哺乳瓶から与えられるミルクにむしゃぶりついており、なかなか可愛らしかった。それを見ているあいだに、兄が水を買ってきてくれた。かなり高齢らしく見えた老婆が孫と一緒に写真を撮ろうと進み出ているのを全部は見届けないうちに大理石の階段を上がっていき、すり鉢状の観客席に入った。席は結構前の方で、見応えがありそうだった。空間には煙が焚かれており、紫色の光が宙に通っていた。巨大なヤドカリの殻のように盛り上がった綿飴を持った子供がいた。今はまだ舞台を囲むように幕が垂らされており、その表面には口をひょっとこのように窄めたピエロの大きな顔が描かれていたのだが、Mちゃんはそれが怖いのか、泣いてしまい、T子さんに抱かれながら顔を彼女の胸に埋めて、舞台の方を見ようとしないのだった。後日、Mちゃんは、ピエロ、怖かったねえ、などと言いつつ、母親が撮った写真を何度も見せるようにせがんで、見ると、何で怖かったんだろう? などと漏らすのだった。
 それで七時に達して開演。オープニングはきらきらとした衣装を身につけた集団での華やかな演舞である。皆が帯を引き出して、その中央では女性が一人、一枚の帯に掴まって上っていき、空中でくるくると回ったり、上下方向に回転しながら高速で下りて来たりする。それが終わって、本篇の最初はジャグラー平均台をいくつか繋げたような大きな台の上に乗りながら、複数人がクラブを空中で交錯させながら投げ合う。左右の二人に加えて、真ん中に女性が立ち、その人は中継役を担っているのだが、後方をまったく見ずに後ろにクラブを投げて、過たず相手にキャッチさせているのが実に見事だった。しかも、台が大きく回転するなかでそれを行うのだ。とは言え、さすがに一、二度、クラブが落ちる場面もあったのだが、それでも充分に凄い。
 ジャグラーの次はピエロが観客席に出てきた。風船をラケットで打って、観客にプレゼントしていく。その次にはジョッキー。白いパンツに黒いブーツ、黒ジャケットの、ちょっとSM的な雰囲気も漂う女性たちが鞭を持ちながら踊る。その後、白い斑のついた馬と、同じく白い体に斑模様の入ったダルメシアンが出てきて、舞台上をぐるぐると回る。回っている馬の背中に犬たちが飛び乗ったりする。
 次に印象に残っているのは、ブランコの演技である。中国の拳法家などを意識しているようで、赤くそれっぽい服装の男たちが出てきて、舞台の左右で揺れる大きな足場の上に立つ。それを大きく左右に揺らしながら、なかの一人が高く高くジャンプして、空中で宙返りをしつつもう一方の足場に飛び移るというアクロバティックな演目だ。一歩間違えれば着地を誤って、ことによると頭から足場に追突してしまい、首の骨など折ってしまうのではないかと思われたが、どの演者も危なげなく確かなジャンプをこなしていて見事だった。
 前半の最後ではアフリカの草原にいるような動物たち――キツネザル、猿、シマウマ、騾馬――などが一同に介し、その周囲では綺羅びやかな衣装を身につけた女性たちが、アマゾネスを意識しているらしく、槍を持って佇んでいた。そのほか、熊が一瞬出てきてでんぐり返しを披露した時間もあった。ピエロはたびたび、舞台の設備を入れ替えているあいだの繋ぎとして出てきて、観客を舞台上に呼んで一緒に戯れたりすることもあった。Mちゃんは眠いのか、T子さんや兄が手を取って拍手をさせても、目を瞑ってしまって舞台を見ようとしないのだった。
 演奏は生演奏と音源を併用していたようだ。舞台の上方に楽団が詰めており、その影が見られた。結構質の良い演奏隊だったと言うか、トランペットなどかなりのハイトーンまで難なく出していたし、後半には熱情的なサックスソロや、ベースのソロなども聞かれて演奏面でもなかなか面白かった。
 観客席の通路には赤いベストを着たおばさんが巡回しており、写真が禁止されているにもかかわらずスマートフォンを取り出して舞台に向けている客を見つけると、小型ライトをその人の方に照射して気づかせ、写真は禁止されているとの身振りを取って注意するのだった。
 休憩を挟んで後半の最初は猛獣使いが男女一人ずつ出てきて、チーターや黒豹やライオンや虎を操るのだが、これが結構難しそうで、なかなか動物たちが言うことを聞かない場面もあり、猛獣使いの方に向けて虎などは威嚇するような瞬間もあって、なかなかスリリングだった。動物たちは待機時はそれぞれ台の上に座っているのだが――そこからもたびたび下りてしまうことがあって、猛獣使いはそのたびに鞭を振るって動物を台の上に戻さなくてはならず、常に舞台全体を把握していないといけないような様子だった――その台の上に一匹、糞をしたチーターがいて、その糞は舞台を囲む金網の外から、黒い棒を持った係員が台の上から落として始末していて、これはちょっと面白かった。それで言えば、後半のどのタイミングだったか、多分ハーピーめいた女性が空中ブランコを演じている際に、白い鳩が一緒に放たれたのだったが、その鳩のなかに一匹マイペースなやつがいて、ほかの鳥たちが皆捌けていっても一匹だけ舞台の縁に居残っていたのもちょっと面白かった。サーカスの空間というのは高度に、ほとんど完璧に構築された夢の世界であるわけだけれど、そうした「物語」の時空が、上のようなささやかな細部によって一瞬綻んでいたのだ。それは夢幻的な時空の構築性の観点からすれば一つの瑕疵のようなものでもあり、人によってはそれによって物語への没入から覚まされて幻滅してしまうかもしれないけれど、それによってフィクショナルな空間が瞬間破れ、色気のない散文的な現実味が醸し出されているのがこちらにはむしろ面白かった。
 そのほか、後半にも色々と見せ場はあったのだけれど、これについてはメモを取れておらず、記憶もそれほど整理されて定かに残ってもいないし、それを上手く文章に仕立てる気力もないので、割愛させてもらう。兄のアパートに帰ってからのことも同様。ほか、この日のことで印象に残っているのは、サーカスが終幕して外に出たところ、群衆のなかで光る風船を売り歩いている男たちがいたことで、これも綺羅びやかなサーカスという施設に付随する散文的な現実の一場面であると言うか、端的に言ってここにも人の生活が、人生があるのだなあと思わせるような光景だった。


・作文
 9:53 - 10:34 = 41分
 23:29 - 24:41 = 1時間12分
 計: 1時間53分

・読書
 なし。

・睡眠
 0:30 - 8:30 = 8時間

・音楽

  • Jose James『No Beginning No End』

2019/8/10, Sat.

 尾藤 ある意味単純化して言うと、われわれの記憶の容量というのは限定されているわけです。それから時間も限定されている。起きている時間は限られていますので。そうすると、有限の経験の空間の中で、どういう情報を自分が生き延びるために貯蔵して、それを使うかということが問題です。そのときに、結論的にはほとんど捨てるわけです。必要なものしか覚えないし、必要なものしか理解しないという形でしか生物は生存できない。情報そのものよりも何が自分にとって大事かという、そういうノウハウをむしろ蓄積してきたわけです。それをアプリオリにどうやって獲得したのかというのはよくわかりません。しかしながら、系統発生からずっと連綿としてそういうことができるような仕組みに、少なくとも神経系はなっている。
 生まれてから限られた時間で、たかだか100億か1,000億個の神経細胞を使って、無限に近いような情報を処理していると見えるんだけれども、実は自分が生存するために必要な情報だけを厳密にソートしてセレクトしていくわけです。そのときに大事なポイントは、何が正しいかということです。何が予測可能で、何が予測可能じゃないかという、そこを神経細胞はものすごく詳しく分けた。そこで、予測可能なものというのは、あまり面白くないというか、あまりエネルギーを使わないんですね。予測可能じゃないものが起きた時に、ものすごくそのたびにエネルギーを使って、その情報を理解したり、情報処理をしたりして、それを記憶として覚えようとしているというふうに、今の脳科学では思える。
 そういった、非常にシンプルなパラダイムですべてが理解できるのかどうかはわかりません。創発ということが日常的に起きているというふうにおっしゃいましたけれども、常に不連続で新しいことが起きた、予測が必ずしもできないということを理解したときに、それをどう解釈するかを、脳は一つひとつのイベントとして見ていきます。そこは、コンピュータであらかじめプログラムが決まっていて、コードが決まっていて、あるいはすべてを規格化した情報として全部AIみたいに読み込むという、そういう手続きとは全く違う手続きで、情報を取り扱っていると言えると思うんです。
 横山 AIは美しいと感じますか?
 合原 今は感じないと思います。
 横山 感じないですよね。いつまで経っても感じないだろうと思うんです。だから、AIをずっと突き詰めていくと、できないことがすごく明確になってきて、その分野をどう扱うかという話になっていくのではないでしょうか。
 合原 そこは僕もそう思っていて、脳とAIの隙間はずっと残るんじゃないかと思っています。そこの部分が、まさに人間がAIを使いこなしながらこれからやっていくことになると思います。
 横山 その部分が明確になってくると、すごくテーマがはっきりしてくる。
 合原 そうですね。だからAIはどんどん進歩してもらっていいんです。それで逆に、脳にしかできないことが浮き彫りになってくるので、僕はウェルカムだと思っています。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、20~22; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 横山 ガザニガの『〈わたし〉はどこにあるのか』(邦訳、紀伊國屋書店、2014年)というのがありますよね。さっきの内的な時間というのは行ったり来たりできると。要するに、先に手を出しているのに、自分が意志をもってやったというふうに脳は調整してしまうわけです。だから、時間は一方向に流れていないかもしれない。少なくとも脳の「わたし」というところに関しては。
 尾藤 主観的にはそうなんですけれども、ヒトの脳のシグナルを測ると、確実にある行動が起こる7秒ぐらい前に、その行動を規定するシグナルというのが必ず見つかります。7秒かけて、それが自分の行動の予測にたがわず、やっていいことかどうかということを無意識に確認して、それで7秒後に意識下で行動するというふうになっているんです。
 横山 それを、自分の意志だと思うわけですね。
 (31~32; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 八時二〇分頃起床。両親が起き上がったのを機にこちらも寝床を離れて、歯ブラシを用意し、父親の歯磨き粉を借りて歯を磨きながら、Twitterを眺めたりなどした。しばらく歯を磨くと寝室を抜けて、便所兼洗面所に行って口を濯ぐとともに、ついでに用を足した。そうして戻ってきて、またインターネットをちょっと見たあと、八時五〇分から日記を書きはじめた。二〇分書いたところで、良かったら朝食をどうぞとT子さんから声が掛かったので、室を抜けてキッチンダイニングに集まった。朝食は茶色いパンに、菜っ葉やビーツやトマトなどのサラダにゆで卵など。パンにはチーズを乗せて食った。そのほか、バナナとヨーグルトを母親と半分ずつ。母親は、一つは多くて食べられないと言って、何でも半分ずつにしようとするのだ。飲み物はオレンジジュースと、T子さんが温かいハーブティーを淹れてくれた。食後にはさらに、母親が先日、近くのモールのアリョンカ・ショップで買った紅茶を淹れてみようということになって、それが用意された。こちらは母親の分をほんの少しだけ貰ったが、正直なところ別にそんなに美味いと感じるようなものではなかった。紅茶というものを飲みつけないので、舌がそれ用に整備されていないのだ。父親もそれは同じなようで、俺は別にそんなに、と漏らしていた。母親やT子さん、そして兄によると、カモミールの風味がかなり利いているらしかったが、こちらは勿論それもわからない。
 食後はこちらが皿洗いを駆って出て、食器を洗剤で洗っては調理台の上に置いていき、それをT子さんが食洗機に入れていく。それが終わるとこちらは寝室に一旦戻ったが、すぐにまた部屋を出て、Mちゃんを追いかけはじめた。居間で遊んでいたMちゃんは忙しくキッチンダイニングと居間とを行き来して、かあか、かあか、と言ってT子さんの方に寄っていく。T子さんはキッチンでコーヒーを作ったりしながらMちゃんの相手をしてやっていた。そのうちに居間に戻って、Mちゃんはジグソーパズルをやりはじめた。その脇でそれを見つめたり、Mちゃんの頭を撫ででやったり、しばらく戯れたり、あるいは小型のピアノをちょっと弄ったりしたあと、寝室に戻って日記を書きはじめたのが一一時過ぎだった。ここまで書いて一一時四〇分。今日はボリショイ劇場でバレエ『白鳥の湖』を見に行く予定だが、MちゃんとT子さんは留守番である。バレエのあとは、トレチャコフ美術館かプーシキン美術館に行こうというような話になっている。
 一二時一五分頃には出るという話だった。それでもう着替える。ボリショイ劇場に行くので、多少はフォーマルな格好をして行かねばというわけで、白い麻のシャツ――ボタンの色がそれぞれ違っていてカラフルである――に下はガンクラブ・チェックのズボン、そうして上からBANANA REPUBLICの落着いた水色のジャケットを羽織った。それからまた日記をほんの少々綴って、一二時を回ったところで中断。留守番のMちゃんに行ってくるねと手を振って出発。部屋を出る。エレベーターに乗り込み、下階へ。ロビーに出て歩いていき、アパート入口に座って待機している警備の男性に、片手を上げて会釈しながら通り過ぎる。そうして脇の門から出て、兄が呼んだタクシーに乗車。と言って、この時のタクシー運転手がどんな人だったかよく覚えていない。市内を一五分か二〇分くらい走ってボリショイ劇場のすぐ近くで降りた。そう、この日は雨が降っていて、しかも結構な降りだったのだ。それでスパスィーバ、と言ってタクシーを降りると、兄と両親は折り畳み傘を差していたが、こちらは面倒なので傘を手にせず、母親と父親のあいだで背を低くして、傘にちょっと入れてもらって俯きながら歩いた。大きな噴水のある広場を抜けて、劇場の入口へ。傘を仕舞ってから、劇場内へ。入口で兄が厳めしい顔の警備員にチケットを見せて、四人、通過する。なかではさらに、荷物検査があったので、ポケットのなかのものを出して台に置き、その横のゲートをくぐる。そうしてようやく入場出来た。ロビーを通り過ぎ、廊下に降りて、荷物を預ける。と言って預けるのは傘くらいしかないので、兄が列に並び、手続きをしているあいだ、我々三人は通路の端で立ち尽くして待つ。そうして手続きが済むと兄に先導されてホール内へ。入って最初の印象は天井が馬鹿高い、ということだった。それに応じて舞台の幕も物凄く高くから垂れ下がっている。席は前から七番目の列の中央付近に四人分。そこに就いて、開演までしばらく待っているあいだにあたりを眺めた。首を目一杯曲げて直上を見上げると、馬鹿高い天井の表面にはライム色を背景としながら、あれは美の女神たちだろうか、竪琴を持って各々に装った女性たちの絵が描かれている。天井が高く、また非常に広大なので、首を思い切り曲げても天井画その全容がすべては視界に入らなかった。ホールの両端には桟敷席が設けられ、全部で六階分積み重なっている。それぞれの階の壁面には、壮麗な金細工がびっしりと、埋め尽くすように設えられている。桟敷席の一番舞台に近い部分は、仕切りを設けられて特別な感じが出ており、どうやらあそこはVIP席らしい。舞台の幕の大きさは、四階分くらいあった。
 そのうちに一時を過ぎて、開演。最初はオーケストラの演奏のみ、演奏が盛り上がったところで幕が左右にひらき、森のなかで踊っている娘たちが登場する。ああ、演目を書き忘れていたが、今回観ることが出来たのは『白鳥の湖』である。席は前から七列目の真ん中あたりと、結構な好条件で観ることが出来た。椅子は赤いクッションが敷かれた密度の濃い褐色の木造りのものである。劇の粗筋は面倒臭いのでウィキペディア記事を引用しよう。

序奏
 オデットが花畑で花を摘んでいると悪魔ロットバルトが現れ白鳥に変えてしまう。

第1幕
王宮の前庭
 今日はジークフリート王子の21歳の誕生日。お城の前庭には王子の友人が集まり祝福の踊りを踊っている。そこへ王子の母が現われ、明日の王宮の舞踏会で花嫁を選ぶように言われる。まだ結婚したくない王子は物思いにふけり友人達と共に白鳥が住む湖へ狩りに向かう。

第2幕
静かな湖のほとり
 白鳥たちが泳いでいるところへ月の光が出ると、たちまち娘たちの姿に変わっていった。その中でひときわ美しいオデット姫に王子は惹きつけられる。彼女は夜だけ人間の姿に戻ることができ、この呪いを解くただ一つの方法は、まだ誰も愛したことのない男性に愛を誓ってもらうこと。それを知った王子は明日の舞踏会に来るようオデットに言う。

第3幕
王宮の舞踏会
 世界各国の踊りが繰り広げられているところへ、悪魔の娘オディールが現われる。王子は彼女を花嫁として選ぶが、それは悪魔が魔法を使ってオデットのように似せていた者であり、その様子を見ていたオデットは、王子の偽りを白鳥達に伝えるため湖へ走り去る。悪魔に騙されたことに気づいた王子は嘆き、急いでオデットのもとへ向かう。

第4幕
もとの湖のほとり
 破られた愛の誓いを嘆くオデットに王子は許しを請う。そこへ現われた悪魔に王子はかなわぬまでもと跳びかかった。激しい戦いの末、王子は悪魔を討ち破るが、白鳥たちの呪いは解けない。絶望した王子とオデットは湖に身を投げて来世で結ばれる。
メッセレル版以降、オデットの呪いが解けてハッピーエンドで終わる演出も出てきたが、原典とは異なる。

 序奏部分は省略されることが多いとウィキペディア記事には記されているが、この時の演出もそうで、第一幕の森のなかの広場らしき場面で皆が踊っているところから始まった。背景の遠くには城の塔が聳えているのが望まれる。
 娘たちや若い男たちが集団で実にしなやかな身体の動きを披露するわけだが、最初に気になったのはジャンプをした時の着地音である。明らかに意図的に演出として着地の際の足音をどん、と立てている瞬間もあったのだが、それ以外の場面では大体足音は最小限に抑えられていたと思う。しかし時折り、音楽が静まった際など、やはり足音がいくらか響き、こちらの耳にまで届いて来る瞬間があったのだが、あれはどれくらい静かに抑えられるものなのだろうか。そして、やはりそれもダンサーの力量を評価する際の一つの基準になるのだろうか。それで言うと素晴らしかったのは道化役の役者だった。道化の格好はオレンジっぽい色の、いくらかけばけばしいような衣装で、頭には左右に角のような突起がついていた。彼は役に相応しく、走る時など脚を膝から曲げて大袈裟に、ばたばたとした挙動で走るし、またジャンプをする回数も多かったと思うのだが、それでいて足音はちっとも立たないのだ。ジャンプも、劇中で最も高い跳躍を披露していたのはこの道化だったと思う。その生き生きとした肉体の躍動感は素晴らしく、正直なところ、主役の王子ジークフリートよりも注目されたくらいだ。第一幕はこの道化がメインに割り当てられた場面だったのだと思う。幕が閉まったあとも素早い動きで勢い良く隙間から出てきて、観客に投げキッスの挨拶をしたからだ。
 第二幕は月夜の湖が舞台である。例の、『白鳥の湖』のなかで一番有名なテーマの一つが途中で演奏されたが、思いの外にテンポの速い演じ方だった。第二幕に出演するのは、悪魔と王子以外はおしなべて真っ白な装いの娘たちである。短いスカートがある種の茸の傘のように平べったいものだった。日本の伝統的な編み笠のごとくである。この娘たちを演じる女性らは皆ほとんど背格好が同じで小柄であり、下世話な話だが胸の膨らみも、遠目に見た限りでは大方一定のように見えた。集団的な匿名性に埋没しながら、一つの群体としての舞踏を表現していたわけだ。そのなかで一人際立って現れるべきヒロインのオデットは、しかし、こちらの目が悪いせいかもしれないが、衣装もほかの娘たちと同じで、さほどの個性を光らせていたようには見えなかった。とは言え、王子に支えられて背中を大きく反らせる際の肉体の曲がり方など、しなやかであり、爪先立ちと摺り足を一瞬で移行・交代させながら舞台上を駆け回る演技の滑らかさはやはり見事なものだった。オデットの周囲を飾る娘たちは、完全に一糸乱れぬ、というわけには行かず、手の角度やその曲げ方、上げる速さやタイミングなどにはずれが見られた。これは、やはり北朝鮮マスゲームのように完璧な集団性を構築するのは至難の業でプロと言えどもこのくらいが限界だということなのか、それともより格の高いバレエ団ではもっと洗練された動きが見られるのだろうか。
 第二幕まで終わると一回休憩に入った。こちら以外の三人はトイレに行くと言ったが、こちらはメモを取りたかったので一人席に残った。そうして劇を見ながら気になった部分や抱いた印象を赤いボールペンで手帳に記録していく。そのうちに、ベルの音が遠くから鳴り響いた。開幕時もそうだったが、このベルが三度鳴ると開演なのだ。
 第三幕は舞踏会。色とりどりの目もあやな仮装に身を包んだ綺羅びやかな男女たちが替わる替わる登場して、各々に見せ場が用意されていた。第一幕から第二幕に掛けては、主人公たる王子の見せ場がその地位に比してあまりなかったような印象だったのだが、第三幕においては彼のソロの時間が設けられていた。同様に真っ黒な衣装を身につけたオディールのソロもあり、王子とオディールの二人での舞踊あるいは掛け合いも見られた。オディールとオデットは同じ一人の女性役者が演じているわけだ。彼女の柔らかな、縦方向へのまっすぐ垂直な開脚ぶりを見ていると、以前テレビで見かけたヨガの世界チャンピオンの女性のパフォーマンスのことが思い出された。その女性も、軟体生物のようにしてとても人間業とは思えない体勢を取っていたのだ。王子が後ろでオディールを支え、彼女の腰を掴んで高速で回す技も何度か見られた。このテクニックが披露されたのは第三幕のみで、第二幕のオデットとの組み踊りの際には見られなかったと思う。第三幕の終わりは、オディールがひたすら音楽に合わせて連続で回転し続ける形で終わりを告げたと思ったが、それほど長い回転が演じられたのはこの場面のみで、この演出の単調さは劇全体の絶え間ない動感のなかでちょっと違った感触を与えていたと思う。オデットとオディールの演じ分けをどのようにするかが見所だなと休憩中に兄が言っていたが、オデットとオディールが――同一人物が演じているにもかかわらず――舞台上で共存する瞬間が確か二回あった。舞台後方の鏡のなかに、囚われたようなオデットの姿が短時間、映し出されるという演出だった。彼女はおそらく白鳥としての形象や動きを表現するべく、両腕を柔らかに動かしてゆっくりと羽ばたかせるような姿勢を取っているのだが、あれは事前に録画した映像を再生しているということだったのか、それともあの時だけはオデットの姿をほかの女優が演じていたのだろうか。その点は不明である。そのほか第三幕で注目されたのはやはり道化で、ここでは彼は第一幕のオレンジっぽい装いから変わって、薄い青緑色めいた服を着ていたのだが、ふたたび劇中一の高いジャンプを披露していたりもして、彼の肉体の動き方がやはり役者のなかで随一だと思われた。
 第三幕と最終第四幕のあいだにふたたび休憩が入った。この時兄は、席を離れて舞台に近づき、オーケストラ・ピットを眺めていた。こちらは例によって休憩のあいだはメモを取っていた。そうして第四幕。ここはふたたび白鳥の湖が舞台となっている。冒頭、幕がひらくと舞台には霧が敷き詰められていて、それで身を低くしている白鳥役の娘たちの身体の下部は見えないくらいの濃さだった。この四幕が始まった際、周囲にいた中国人らが、写真は禁じられているはずにもかかわらずスマートフォンやカメラを掲げて撮影をしており、それを見た兄は、こういうところがまさに中国人だよなと苦笑していた。第四幕の一番有名なテーマの盛り上がりの瞬間には、空に雷が走り、演奏の最高潮の大音量とともに背景の砦のような建物が崩れ落ちる演出が見られて、これは少々大仰でキッチュ――俗悪――ではないかと思われた。しかし同時に、崩壊する砦の前で真っ黒な装束で翼を生やした悪魔がくるくると回って身を振り乱しているのを見ると、キッチュではあるけれどちょっと面白いと言うか、俗悪さが一周回って暗黒的なニュアンスを醸し出しているようにも感じられた。終幕は、悪魔に立ち向かう王子がその翼を片方もぎ取って、悪魔は倒れ伏し、王子の勝利でもって終わるというハッピー・エンドとして演出されていた。
 そうして終了。席を立ち、通路を辿っていくと、途中で兄が、写真を撮ろうと言うので、通路の真ん中で四人並んだ。兄はいわゆる「自撮り棒」を持ってきていたので、四人でいっぺんに撮ることが出来たのだ。壮麗な舞台を背景に写真を撮ったあと、ホールを出て、建物のなかをしばらく歩いてトイレに行った。しかし、どのようなトイレだったか八月一二日の――ロシア時間――零時三二分現在、もはや覚えていない。綺麗だったことは確かだと思う。トイレに行ったあとはクロークに預けた傘を取りに行き、その後、劇場のショップに寄った。しかし特に買うものもなかったので早々に退散し、外に出た。
 雨は止んでいた。広場に出て、ボリショイ劇場の豪壮な姿を背景に、ふたたびセルフィーで写真を撮った。それから、プーシキン美術館を見に行くことに。その前に何か軽く食べたいと母親が言うので、近くの通りに行くことに。それで劇場の横の道を歩く。途中で道端の車の周りに警備員らしき黒い制服の、屈強そうな男たちが集まっていた。そこを過ぎてしばらく行くとある通りに入った。その並びにPRIME CAFEという店があったので、そこに入った。兄によれば、このPRIME CAFEは最近ロシアで普及してきているチェーン店らしく、オーガニックな軽食を売りにしているカフェだと言う。それでスタンドのなかからそれぞれ食べ物を選んで買った。こちらはサーモンの挟まった小さなバーガー、母親はやはりサーモンとクリームチーズが織り込まれた巻き寿司、兄はサラダロールの類、父親の分は何だったか忘れた。飲み物もコーヒーやカフェラテなどがそれぞれ注文されたが、こちらは何も頼まなかった。また、母親が頼んだオレンジ風味のマフィンを皆で分け合って食べた。そうしてひととき飲み食いすると退店して、通りをふたたび行った。この通りは、カメルゲルスキー横町という通りらしく、モスクワ芸術座というのが有名だと言う。モスクワ芸術座というのはほかにもう一つ、ゴーリキーが誰かに関係したものが別の場所にあるらしいが、この通りにあるものはチェーホフに関連した方のもので、その近くにはチェーホフ像が立っていた。
 それで大通りに出てタクシーを呼んだ。プーシキン美術館に行くことになったのだった。この時乗ったタクシーの運転手からは洗っていない靴下のような臭いが漂っていた。音楽に関しては特に印象に残っていない。しばらく走ってプーシキン美術館ギャラリーの前に着いた。プーシキン美術館は巨大な本館もあるのだが、別館であるギャラリーは一九世紀から二〇世紀の欧米美術を所蔵しているということで、こちらはそちらに興味があったのだった。ただ、この日この期間はルイ・ヴィトン財団が集めたコレクションを展示する特別展が催されていて、所蔵品を展示する常設展のようなものがあるのかどうかわからなかった。結果から言うとそれはなくて、特別展の現代美術の作家たちの作品が三階分集められているだけで、規模もそれほど大きくはなかった。所蔵品にはピカソだとかマティスだとかセザンヌだとかがあるという話だったので、それが見られなかったのは残念である。
 ギャラリーの前には長大な列が作られていたので、その後ろに四人で並んだ。入口の前には警備員の老人がいて、頃合いを見て何人かずつなかに誘導しているのだった。それほど大きくはない建物だったので、そのように間を開けないと観客で室内がいっぱいになってしまうのだろう。警備員の老人は煙草を吸いながら、道案内などもこなしていた。それでしばらく並んで待ち――そのあいだは例によってこちらは手帳にメモを取っていた――遂に入館した。劇場と同じくここにもゲートが設けられていて、バッグの口をひらいて警備員に渡し、チェックしてもらったり、ポケットのなかの荷物も出して台にに置いたりしなければならないのだった。こちらは荷物はほとんど持っておらず、手ぶらで、手帳とパスポートをポケットに入れているくらいだった。そのうち手帳を警備員に差し出して示すと、Telephone、と言われたので、Telephone? と聞き返し、No、と答えて通過した。それからチケットを購入したのち、母親がトイレに行ってくると言うので三人は通路の途中で待機した。母親が戻ってくるまでには結構な時間が掛かった。おそらくトイレが混んでいたのだろう。そのあいだこちらは通路を行き交う異国人たちを眺めていたが、美術館という場所柄か、結構美男美女が多いような印象だった。
 そうして展示室の方へと進んでいく。展示室に入る前、階段の下のスペースには、ジャコメッティの「背の高い女」と、イヴ・何とかいう人の抽象画が展示されていたのだが、そこのスペースに入る前にも確かチケットを職員に渡し、機械に読み込んでもらって通る必要があったと思う。そこからさらに展示室に行くには階段の入口に立っている職員にチケットをもぎってもらわなければならなかった。時刻は六時だった。自分のペースで自由に見て回りたかったので、待ち合わせ場所と時間を決めて、分かれて回ろうと提案した。それで、チケットをもぎってくれた職員がいるあたりの階段の途中に、七時に集まるということになった。そうして家族と別れ、こちらはさっさと展示室に入って目ぼしい作品をチェックしていった。
 展示品はすべて現代美術で、近代と称される時代の作品は一つもなかったと思う。並んでいたのは、ジャコメッティゲルハルト・リヒタージャン=ミシェル・バスキアアンディ・ウォーホル、マーク・ブラッドフォード、ウォルフガング・ティルマンズ、クリスチャン・ボルタンスキーなどの作品である。
 一階の最初にあったジャコメッティの作品が展示されている室のなかでは、中央に飾られていた目玉らしい作よりも、壁際にガラスケースに入れられて置かれていた"Tête sur tige"という作の方が印象深かった。頭、と言うか生首が上向きに棒に刺されているもので、水面で餌を求める魚のように口をひらいている。顔の妙な細さが魚の印象を強めるのだが、それは断末魔の表情を記録したデスマスクのようでもあり、苦悶の色合いが強かった。
 次の室はゲルハルト・リヒターの作品が壁に大きく掛けられていた。絵画は三つあったのだが、そのなかでは"Gudrun"という作品が一番こちらには気に入られた。ごちゃごちゃと何層にも様々な色が重ねられているのだが、その一番表面では赤い絵の具がモザイク状に、あるいは鱗のような質感で散乱していて、その色とざらざらとした広がり方が苛烈な印象を与えるのだった。「烈」という字の相応しい作品である。キャンバスの左方、端には色の氾濫の向こうに澄み渡った水色も微かに垣間見えて、青空が底に敷かれているような想像もなされる。上端では暗雲めいた、墨のような黒さが湧いていて、右上の端から左方に向けて垂れ下がっているのだった。
 一階にはほか、ウォーホルの自画像がいくつも並べられていたり、クリスチャン・ボルタンスキーの映像作品が展示されていたりした。ボルタンスキーの映像は、暗い室のなかで流されていたが、どこか荒野のような場所に鈴をつけた棒が大量に立ち並んでおり、風を受けて鳴らされるその鈴のきらきらとした音色がひたすらに響き続けているという趣向のもので、これはNさんYさんと先日国立新美術館に行った際に見た、「アニミタス(白)」の違うバージョンである。しかしこちらとしては、「アニミタス(白)」の方が、どこまでも続く真っ白な雪原空間に神秘的で清冽な鈴の音が似つかわしく思われ、そちらの方が美しかったなと想起された。
 次に二階。入って最初の部屋には、初めて知る名前だったがマーク・ブラッドフォードという人の絵画が飾られていた。"OK, now we're cooking with gas"と、"Reports of the Rain"という作品である。ほかにももう一品か二品くらいあったかもしれないが、そちらについては印象が残っていない。前者、後者ともになかなか良い感触を得た。前者はチラシ広告のようなイラストあるいは漫画が下敷きとなっていて、それが濡れた新聞のような灰色に染まり、どのような手法で実現したものなのか、表面が損なわれたような質感になっていた。その上からさらに、ナイフで絵画表面を切り裂いたような傷が縦横斜めに無数に走り、葉脈の迷宮図を思わせる。その傷によって生まれた溝のなかにも、蛍光的・化学的な青の色が差し込まれていた。"Reports of the Rain"も同種の作品だが、これは白が地となっており、その上に縦横に青い筋が描かれて、横はともかく縦の線は確かに雨の軌跡を思わせるようでもある。前者の作品に比べると比較的整然としているが、しかし同時に荒々しくもあって、無数に引かれた縦横の筋は檻の柱のようでもあった。
 次の室にはWolfgang Tillmansという作家の写真が集められていた。この作家も初めて聞く名前だった。スニーカーを拡大して映したものや、人の足を大きく映したものなどがあったのだが、そのなかに"Einzelgänger"という、全面真っ赤な写真の作品があって、これがこの日見た作品のなかでこちらとしては一番良かった。全面を満たしている真っ赤な色は少々暗く、血液を思わせるような色合いで、そのなかにインクが水に混ざって流れているような黒い影が、もうほとんど枯れかけた植物の細い茎のように、あるいは菌糸の集合のように生えている。この偏差のない一様な暗赤色はどうも液体のような質感を持っていて、その点も血液を思わせ、血管のなかを拡大接写して見せているような印象を得る。さらにはそのなかに流れている黒い影も毛細血管を想起させるかのように張り巡らされていて、血管のなかを覗き込んだらさらにまた無数の枝分かれした血管に出会ったというような趣だった。
 そのほかには特別に印象深い作品もなかったので、残りの時間のことは書けない。三階まで一通り見て回ったあと、一階や二階に何度か戻り、先に記した作品の前に立って手帳に印象などをメモした。そうして約束の七時を待たず、六時四五分くらいに待ち合わせ場所の階段に行って家族と合流した。そうしてもう満足したので良いと言って、階段を下り、もぎりの職員に礼を言って過ぎ、出口に向かった。出ると七時頃だが、まだまだ空は明るい。モスクワは緯度が高いので日本と比べるとかなり遅い時間まで陽が落ちず、明るいままである。体感としてはおおよそ二時間くらいは日暮れが遅れる印象だ。まだ明るいので、プーシキン美術館のすぐ向かいにある救世主キリスト大聖堂も見ていこうということになって、そちらに移った。綺麗な白の威容を誇る巨大な聖堂である。最初は五時くらいでもう閉まっているだろうから外観のみ眺めていこうということだったのだが、聖堂前の広場に入ってみると、聖堂内に入っていく人の姿が見られて、まだ開いているらしいと判明したので、なかにも入っていくことになった。聖堂前の広場に入る門のあたりだったか、それともほかの入口だったか忘れたのだが、物乞いの女性が立っていて、筒のような容器を差し出して慈悲を求めていた。ロシアに来てから物乞いを見たのはこれが二回目くらいで、街中にも物乞いや浮浪者の姿は少ない印象である。今回と同様に兄が赴任しているあいだに招かれてベルギーに行った際には、もう少し多く見かけた気がする。
 聖堂内に入っていく女性たちのなかには、スカーフで頭を覆っている姿が多かった。それを見て兄が、敬虔な女性の信者はああやって髪を隠すのだと言う。我々は異国の異教徒なので許されると思うが、それを受けて母親も、ハンカチでも被った方が良いかなと言って、結局ピンクっぽい色のハンカチを三角頭巾のように頭につけていた。聖堂内に入るとまたもやゲートが用意されていて、そこをくぐって警備員の脇を過ぎ、フロアの奥へ。ドームの天井が馬鹿高く、目の悪いこちらには遠くてあまり解像度が高くないが、天井にはあれは何の場面だったのだろうか、神らしき人物の絵が描かれていた。この天井画については父親があとで、力があったなと漏らしていた。彼は、泣きながら出ていく女性信者も見たらしく、熱心な信者だったら本当に、何かを受け取るような感覚になるかもしれないなと感想を言っていた。祭壇では丁度、司祭が祈祷文を読み上げているところだった。祭壇には、あれは「イコノスタス」と言って日本語では「聖障」と訳されるものだと思うが、聖人か何かの絵が諸所に描かれた大きな建物様の壁が聳え立っていた。集まっている人々のなかには、司祭の言葉に合わせて十字を切る姿が多く見られた。細かいことはよくわからないが、十字の切り方は西方カトリックのそれとは多少違っているような気がした。司祭の祈祷は兄によれば、古代ロシア語のような古い時代のロシア語で読み上げられているらしかった。おそらくは聖書の文言ではないか。
 しばらくその場に佇んだあと、出ることにした。出る間際には司祭が同じフレーズを何度も何度もひたすら繰り返し唱えていたのだが、兄によるとそれは「主よ、御慈悲を」というような祈りを捧げていたらしい。ふたたびゲートをくぐり、警備員の脇を通って聖堂の外へ。聖堂の裏には橋があるらしく、そこからクレムリンの方が見えるのでそこで写真でも撮ろうとのことだった。それで兄の先導で馬鹿でかい聖堂の横を通り抜け、後ろ側へ。聖堂のそちら側の一帯は工事中で、補修作業のようなことが行われていた。その脇を過ぎて大橋の上へ。太陽が聖堂の向こうで落ちていくところだった。右方にはピョートル大帝の巨大な像と、トレチャコフ美術館の新館が見え、左方の彼方にはクレムリンの赤煉瓦色の外壁と、その向こうに玉ねぎ屋根の白い建造物が覗いた。兄がふたたびセルフィーを取り出して、スマートフォンを棒に嵌めて、四人並んで写真を撮った。スマートフォンと接続・連動したこの棒を使えば、わざわざ携帯画面に触れなくとも、手もとのスイッチを押して簡単にいわゆる「自撮り」写真が撮れるのだった。しかし、セルフィーでは所詮棒の長さが足りず、背景のクレムリンがあまり大きくは入らないので、結局離れた場所から誰かが撮影しなくてはならないことになった。それで替わる替わる撮影者が入れ替わってその他の三人が並ぶ写真を撮った。橋の上には観光客が無数にいて、皆同じように写真を撮っていた。
 それでそこから下の道に下りてタクシーを呼ぶことになった。橋の上をもと来た方に戻っていると、あれは何の鳥だったのだろうか、鳩だったのだろうか、無数の鳥の群れが背後で飛び立ち、頭上を越えてまだ暮れきっていない青空の上で蠢く点の集合と化した。階段を下って下の通りに入り、そこでタクシーを呼んだ。しばらく待つとやって来たので乗車。この時のタクシー運転手はわりと大柄のおじさんで、運転のあいだたびたびスマートフォンを弄り、LINEのようなメッセージアプリで文言を打ち込んでいたので、それを見て母親は、スマホ弄りながらやってるよと小さく漏らして不安がった。スーパーマーケットに寄って、何かサラダや惣菜の類を買っていこうという話になっていた。それで、訪露二日目にも行った場所だが、兄のアパート近くの、「五番街」というモールの前で下ろしてもらった。そうしてモール内に入り、スーパーへ。入店し、店内を回っているうちに、両親は菓子か何かを見に行って、こちらは兄と二人で惣菜を見に行った。春雨サラダと手羽先のような鶏肉が二種類選ばれた。カウンターの向こうにいる女性店員に欲しいものを指示して取ってもらうのだが、この女性店員の愛想が悪く、兄が言葉を投げかけても返答をせずに仏頂面で料理を取るのだった。それでも彼女も最後には、兄がスパスィーバ、と言うと何とか返答していた。
 そうしてスーパーから歩いて兄のアパートへ戻る。夕食時のことはよく覚えていないので省略しよう。夕食の途中だったか、夕食後だったか、Mちゃんとこちらの部屋でまた遊んだ時間があった。彼女は遮光カーテンの裏にたびたび隠れてしまい、こちらが、Mちゃん隠れちゃったの、Mちゃんどこ、などと呼びかけると、嬉しそうな顔をしながら幕をひらいて出てきて、こちらの寝床の上に破顔しながら滑り込むのだった。そのほか、例によってまた音楽? 音楽? と言うのに答えてceroの曲などを流したのだったが、すると彼女は、解読できない何かの言葉を発する。「~~は?」か「~~しよう?」と言っているように聞こえるのだが、「~~」の部分が「後ろ足」というような発音に聞こえて、全体としては「うしゃーしよー?」みたいな意味をなさない言葉に聞こえるのだった。意味はわからないのだが、それに応じてこちらが、後ろ足? とかうしゃーし? などと言うと、Mちゃんはそのたびに奇声を発して大喜びするのだった。
 その後、床に就く少し前に、父親と将来に関する話などをした。最初は日記に関して何か訊かれたのだったと思う。そこから、お前みたいなことをやっている人はほかにいるのかね、と訊くので、いない、Mさんというこちらの友人くらいだと答え、Mさんについて少々説明した。今は中国の大学で日本語教師をしているが、それまではアルバイトを転々として小説を書いていたことなどを紹介した。それでお前は将来どうするのかと訊かれるので、まあどうするという展望もなく、こちら自身もそれを訊きたいくらいだが、ともかく日記だけは死ぬまで書き続けたいと宣言した。父親は、まあ別に好きなようにやってくれて構わないけれど、と言ったので、有難い限りである。人生長いので、どのようになるかわからないが、ともかく文章だけはこれからも書き継いでいきたい。それが金になれば一番良いのだが、それもなかなか難しいだろう。同じように、パトロンを見つけるのが一番手っ取り早いのだが、それもやはり難しいだろう。とは言え、日記を金にしている先例というのはあると言って、fuzkueのAさんの『読書の日記』についても言及した。あのような形で出版して金に出来れば良いのかもしれないが、何と言うかこちらの日記はAさんのそれよりも人を選ぶと思うので、それも難しいだろう。
 一一時半過ぎにシャワーを浴びて就床した。


・作文
 8:50 - 9:10 = 20分
 11:08 - 11:39 = 31分
 11:52 - 12:02 = 10分
 22:10 - 23:23 = 1時間13分
 24:02 - 24:24 = 22分
 計: 2時間36分

・読書
 なし。

・睡眠
 0:50 - 8:20 = 7時間30分

・音楽
 なし。

2019/8/9, Fri.

 科学の意義、テクノロジーとの関係の仕方、広がる格差、予想もつかないほどの政治状況の変化、超高齢化、医療化する社会、地球の持続可能性、復興する宗教、望ましい未来の社会等々の、差し迫った現実的な課題にどう立ち向かうのか。東大EMPはこうした課題解決の力を育むべく、最先端の自然科学や社会科学そして人文学の問いの立て方(プロブレマティーク)を、受講生とともに探求してきました。今日の学問は、何を答えるのかという以上に、どう問いを立てるのかが重要だという方法論的転回を経ていますが、その問を立てる力を、現実的なテーマに対する課題設定力に注ぎ込んだわけです。
 その際、東大EMPでは「本質を捉える」ことを重視しました。それは本質主義のように、何か都合のよいものを本質に立てて容易に物事を理解したこととする道では決してありません。「本質」とい概念それ自体がどのような歴史的・学問的文脈で構成されたのかまで問い直すことを要求するものです。それを「関与する知」だと呼んでもよいかもしれません。本質を真に捉えるためには、その物事に対して距離をとって眺めるだけでは不十分で、それらに関与するという、より積極的で反省的な知の態度が必要なのです。
 関与するためには適切な道具が必要です。その物事をさまざまな倍率で分析し、比較し、さらには感じとるための道具です。わたしたちはそれを「教養・智慧」と言ってみたり、「新しい常識」と言ってみたりしています。どちらにしても重要なことは、わたしたちが通常あまり疑うことなくそれを生きている常識、すなわち「自然的な見方」に抵抗し、物の見方を自然化するプロセスまで見通す道具です。その道具は、古来繰り返し問われてきた難問(心とは何か、存在とは何か、言語とは何か、倫理とは何か、等々)を新しく語り直すことによって、磨かれていきます。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、ⅰ~ⅱ; 「はじめに」)

     *

 中島 合原先生が考えられている複雑系数理科学は、複雑系としてより繊細なシステムを構想しうる力を有しています。その際、創発(emergency)という、システムのどこか外れたところにある出来事を考えなければならない、と論じられているわけですが、もしそうだとすれば、いったいそれは、いかなる心の語り方を発明しようとしているのでしょうか。
 (5~6; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 合原 それから二つ目として、まさに中島先生もおっしゃいましたが、脳の意識を考えようとしたときに、実はそれよりもはるかに広い無意識の世界が広がっている、ということです。われわれのイメージから言うと、無意識の広大な海の中に意識が氷山の一角みたいにちょこっと出ているという、そういうイメージなんです。その無意識の世界に、膨大な情報処理であったり、アクティビティであったり、そういうものがあるからこそ、脳は高次の能力を発揮できているんじゃないか。そういう実感を持っています。そういう立場で考えたときに、無意識をどう理解して、かつ、意識との関係をどう結わえつけるかという、その部分がこれからのもう一つの研究課題です。
 (9; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 深夜に目覚めつつ、七時四〇分に正式な覚醒。ちょっと身体を起こしてコンピューターを起動させ、Twitterを眺めたあと、ふたたび横になって休んでしまう。そうして九時を過ぎた。両親は起きてMちゃんの相手をしたりしていた。そろそろ食事らしいなという段になって起き上がって、洗面所で顔を洗い、キッチンダイニングの卓へ。食事は、パン三種――黒パン、オリーブの入ったパン、チーズの入ったパン――に、ハム、胡瓜やレタスやトマトのサラダなど。バナナとヨーグルトを母親と半分ずつ食べた。Mちゃんは食事中、椅子を動かして調理台の前に持って行った。それに上って台の上にあるスマートフォンを取ろうとしたらしいのだが、T子さんが先回りして回収すると、Mちゃんは途端に機嫌を損ねて泣き出し、床にべたりと伏せて顔を隠し、泣き声を上げるので、こちらはイスラーム教徒の五体投地のようではないかと笑った。こちらがMちゃんの近くに行って、Mちゃん、元気出して、と呼びかけているとMちゃんは立ち上がって、音楽、と言いながら室を抜け、我々の寝室へと向かっていった。それでこちらのコンピューターの傍に待機するので、音楽が聞きたいのだろうかと思って、Tuck & Pattiの音源を再生してあげたが、Mちゃんは音楽にはあまり興味を示さずにすぐに、バナナ食べようか、と言って戻っていった。Mちゃんが愚図りだすことはあと一回あったが、何が原因だったのかそちらは覚えていない。
 食後は母親が皿を洗う横で、食器を受け取って食洗機に収めていった。それから寝室に戻り、日記を書きはじめた。この日の分を先にここまで書いて一〇時半。前日の分はまだ地下鉄駅を抜けたところまでしか書けておらず、まだまだ先は長い。
 それから一二時まで前日の日記を書き綴ったが、まだ終わらない。一二時に達したところで疲労感に負けて寝床に寝そべった。兄は先日に手続きしたレジスレーション・カードを取りにホステルまで行っていた。その帰りに、シャウルマという料理を買ってくると言う。ケバブの仲間のような料理だと言う。それでこちらが休んでいると兄が帰ってきて、食事が始まる気配だったのでキッチンダイニングに向かった。食事はそのシャウルマというものが人数分、それぞれ一本ずつ用意されていた。薄めパン生地のなかに野菜や肉を詰めて巻いた円筒形のものである。正直、腹はそこまで減っていなかったのだが、これが結構大きなもので、食べきれるか不安になったものの、残しても別に問題はなかった。味は美味だった。しかし半分くらい食べたところで、もう満足ですとなったのだが、美味いので癖になるような感じで、それからも間を置きながら少しずつ食って、最終的に完食することが出来た。飲み物は麦茶と、食後にはT子さんがイヴァン・チャイというものを用意してくれた。以前彼女から頂いたルイボスティーにちょっと風味が似ていると母親は言ったが、確かにそうかもしれない。食べ終わった時点で一時が近くなっていた。今日はこのあと、三時頃からモスクワ川を船でクルーズする予定だった。それまでのあいだは、どこか教会でも見に行くか、それとも家でゆっくりしているかという感じだった。食後、こちらは母親が洗う食器をふたたび食洗機に入れていき、それが終わったあとは寝室に戻って日記をふたたび書きはじめた。記録によれば一時七分から書きはじめ、二六分まで綴ったあと、一旦中断して、四分後の三〇分からまた書きはじめているのだが、この四分のあいだは確か着替えをしていたのだと思う。その時間になるとそろそろ出かけようという話になっており、クルーズの前に救世主キリスト聖堂というものを見に行こうということだった。時刻は一時半、二時半から二時四五分くらいにはクルーズの場所に着いていなければならないのだが、そうなると一時間くらいしかないわけで、時間が少なくないか、余裕がないのではないかと兄に指摘したところ、聖堂まで行くのに車で二〇分ほど、それから三〇分ほど見物してから河に向かえば丁度良かろうということだった。しかし、いざアプリでタクシーを呼ぼうとすると、丁度渋滞が発生しているようで所要時間が四五分とか表示されたらしく、それなので結局、救世主キリスト聖堂は外して、直接河に向かうことになった。それでもう少し時間に猶予が生まれたので――二時頃に出れば良かったのだ――さらに日記を書き進め、家を出る直前の一時五六分に前日の記事を仕上げることが出来、投稿も済ませた。
 そうして出発。この時Mちゃんは確かまた激しく泣き、愚図っていたのだと思う。こちらの格好はモザイク柄のTシャツに、煉瓦色のズボン、そうしてグレン・チェックのブルゾンを上着として羽織った。エレベーターに乗って下階へ。外に出るとタクシーがもう来ており、一台の方にベビーカーを運んでいた兄がそれを載せに行く。そうしてそちらのタクシーにはMちゃん、T子さんと母親の女性陣が乗り、我々男性陣三人はもう一台の方のタクシーに乗り込んだ。このタクシーの運転手は短髪の男性だった。音楽はやはり毒にも薬にもならないような種類のダンス・ミュージック。しかしこれは運転手個人の趣味と言うよりは、掛けているラジオの問題なのだろう。モスクワ市内を車で走っていき、一五分か二〇分くらいだっただろうか、河の傍に到着する。スパスィーバと礼を言って降りると、丁度女性陣のタクシーも着いたところだった。合流し、河岸に下りると、船の前にはダウンジャケットを羽織って冬のような装いをした人々が並んでいる。その脇を通り抜け、別の船の入口に設けられたゲートをくぐり、入船。船室と言うか、テーブルがいくつも並んで飲み食いの出来るホールのようなだだっ広い室に入り、スタッフに席まで案内される。一番端の、デッキと言うか舳先の外の一画に出る扉がすぐ傍にある丸テーブルの席だった。それで各々腰掛ける。テーブルに掛けられた真っ白なクロスは舵のマークが入ったちょっと洒落たもので、それぞれの席の前には船の運行ルートを示した地図が置かれていた。一番から二二番まで番号が振られて、モスクワ市内の名所が地図上にピックアップされていた。
 飲み物を注文することに。こちらはコーラ、父親はグレープフルーツジュース、母親はココア、兄はカプチーノ、T子さんはレモネード、Mちゃんには林檎ジュースが注文された。そうして三時に至ると船が動き出した。モスクワ川を上流へ遡っていく。あいだ、兄がここは何々で、と河岸に見える様々な建物を説明してくれた。印象に残っているのはまずやはりトレチャコフ美術館で、そのうちの新館――現代美術の館――が見えて、建物の外面には替わる替わる絵が映し出されていた。セザンヌっぽいような静物画とか、マーク・ロスコみたいな抽象画っぽいやつなどである。そのほかクレムリンも見たし、馬鹿でかい、本当に巨大なピョートル大帝像も見えた。あと河の上空を渡るロープウェイなど。と言うか、本当に色々な施設や建物が見えた。途中で小雨のなか外に出たのだが、屋内にいるとやや暑かったものの、外に出ると風がやはり強くて、打ちつける雨粒も冷たくて、結構涼しかった。あるいは肌寒いくらいだった。河岸に見えるどの建物も巨大で四角四面で整然としているが、それは大半住居なのだと言う。巨大マンションが連なっているような感じだ。外ではMちゃんを抱えたT子さんと並んで、母親に写真を撮ってもらった。
 Kotelnicheskaya Embankment Buildingsという壮麗な建築物が見えたところで船は引き返した。我々のテーブルの周りにはいつの間にか、蛾のような虫が一匹姿を現していて、それをこちらが指差して文字通り指摘すると、兄は嫌そうに顔を少々顰めていた。テーブルに就いているあいだに交わした会話は、文学関連のことしか覚えていない。マヤコフスキーの話があった。母親が持っていたガイドブックにマヤコフスキー博物館について載っていて、マヤコフスキージョージア出身だと書かれていたので、それを話題にしたのだ。それから、『ズボンを履いた雲』という作品があると言うと、兄も大学時代にそれだけは読んだが――兄は東京外国語大学ロシア語科出身である――全然わからなかったと言う。こちらは、小笠原豊樹という翻訳家がいて――兄はこの名前は知っていた――、それが岩田宏という詩人と同一人物で、自分はこの岩田宏が好きなので、彼が訳したマヤコフスキー叢書の全一〇巻だか一五巻くらいもすべて買って揃えているのだと話した。すると兄は、驚いたようだった。ほか、ゴーゴリの話。『鼻』の名前が挙がる。また、『外套』も。『外套』も読んだけれど変な話だったなとこちらは漏らす。兄がそれに応じて、小役人が一生懸命仕立てた外套を、追い剝ぎか何かに奪われる話だろ、それでショック死してしまうんだけれど、死んでも死にきれず、化けて出るっていう、と。そうそう、とこちら。『鼻』に関しても、ある日朝起きたら自分の鼻がなくなっていた、と兄が冒頭の粗筋を説明し、こちらも続けて、それでその鼻が人間になっていることに気づくんだよなと補足した。その時、主人公が見た人間というのは何の変哲もない普通の人間で、何故主人公がその人間が自分の鼻だと気づいたのか、その根拠がまったく、何一つ書かれていなかった、その不合理な飛躍が面白かったとこちらは述べ、だからある種、この主人公は狂っているのかもしれないと読むことも可能かもしれないと言った。過去の書抜きから当該箇所を引いておこう。

 (……)不意に彼は或る家の入口の傍で棒立ちになって立ちすくんでしまった。じつに奇態な現象がまのあたりに起こったのである。一台の馬車が玄関前にとまって、扉[と]があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョーフの怖れと驚きとはそもいかばかりであったろう! 彼はじっとその場に立っているのも覚束なく感じたが、まるで熱病患者のようにブルブルふるえながらも、自分の鼻が馬車へ戻って来るまで、どうしても待っていようと決心した。二、三分たつと、はたして鼻は出て来た。彼は立襟のついた金の縫い取りをした礼服に鞣皮[なめしかわ]のズボンをはいて、腰には剣を吊っていた。羽毛[はね]のついた帽子から察すれば、彼は五等官の位にあるものと断定することができる。(……)
 (ゴーゴリ/平井肇訳『外套・鼻』岩波文庫、一九六五年改版(一九三八年初版)、69)

 そのほか、ソローキンの名前をここで出してみたのだったが、兄は多分知らないのではないかと思っていたところが、ああ、ウラジーミル・ソローキンね、という反応があったので驚いた。兄が彼の名前を知っているのは、ソローキンが東京外大で教えていたことがあるからだと言った。ソローキンがやばいという噂を聞いているとこちらは続けると、兄は、何か昔逮捕されたとか何とか、と受けた。それは初耳だった。さらには、ワシーリー・グロスマンっていうのは聞いたことある、と尋ねたが、さすがにそれは兄も知らなかった。と言ってこちらも特に詳しく知っているわけではなく、みすず書房から出ている『人生と運命』全三巻とか、『システィーナの聖母』――というタイトルだったと思うのだが――などの作品が以前からちょっと気になっているというだけなのだが。確かソ連時代の作家だったと思う。ソ連時代で言ったら、ソルジェニーツィンの名も一瞬挙がった。
 ゴーゴリに話を戻すと、『検察官』が一番面白いが、翻訳が古いものしかないと兄は言った。また、『死せる魂』も良いけれど、これも翻訳が古いと言ったので、いや、『死せる魂』は新訳が出ていたよとこちらは受ける。光文社古典新訳文庫かと訊くので、そうではなくてハードカバーだとこちらは答えた。こちらがそれを知っているのは、このハードカバー版『死せる魂』の新訳に金井美恵子がお勧めの帯文を寄せていたからである。
 ドストエフスキーの話も出た。と言ってこちらはドストエフスキーはまだ一冊も読んだことがないのだが――兄は、『罪と罰』が滅法面白かったと言った。新潮文庫の訳で読んだけれど、上巻はこんなに退屈かと思うようなものだったところが、下巻に入ってラスコーリニコフがどんどん狂っていく様がスリリングで貪るようにして読まされてしまったと言う。T子さんも読んだことがあるらしく、一気に読んだと言っていた。こちらは、そんな風に物語的に優れた小説だったのかと、少々意外な感を得た。『カラマーゾフの兄弟』も兄は亀山郁夫の新訳で読んだらしい。その兄が置いていった光文社古典新訳文庫の新訳はこちらの部屋にもあるのだが、ただ二巻か三巻だけがどうしても見つからなくて抜けていたと思う。ロシア文学の研究者も、兄の同年代の人が准教授になるくらいだが、新世代への交代があまり進んでいないと言うか、やはり代表となるような若手研究者というのはいないよなあ、というのが兄の評価だった。亀山郁夫を継ぐ者もあまり見当たらない。沼野さんとかが有名だよなとこちらは受けると、兄は、沼野先生はもう長老という感じだねと返した。
 Mちゃんは途中からまた泣き出していたが、そのうちにタブレットを与えられて、Youtubeの動画を眺めたり、ゲームのアプリで遊んだりして大人しくしていた。室内に流れていた音楽が突然変わって、ジャズ風に、ちょっと洒脱にアレンジした"Happy Birthday To You"が流れはじめた時があった。振り返って見てみれば、客のうちの一人の女性が誕生日だったらしく、店員がテーブルの周りに集まって、ケーキか何か運ばれてきて女性は祝われていた。彼女は感極まったのか泣いてすらいたのだが、T子さんが見るに、嬉し泣きと言うよりは、何か不幸なことがあって泣いたような感じだと言う。
 モスクワ川の途中で引き返した船は五時半に至って元の乗り場に到着した。その頃にもまだ雨が降っており、外に出ながら一行は傘を差したが、こちらと兄だけは差さずに――兄はベビーカーを運んでいた――いた。アプリでふたたびタクシーを二台読んで、今日夕食を取る予定のジョージア料理の店があるアルバート通りに行くことになった。河岸の隅で、ひらかれた折り畳み傘の下に身を寄せながら兄とT子さんが携帯電話でタクシーを呼び、上の通りに上がってまもなく、二台がやって来た。また男性陣と女性陣に分かれてそれぞれに乗車する。この時のタクシー運転手はどんな感じだったか覚えていないし、車内で掛かっていた音楽も覚えていないが、やはり半端なロックみたいなものだったのではないか。
 しばらく走って、アルバート通り近くのバス停の前に着いた。雨、と言うよりは風が非常に激しくなっていた。それでバス停の屋根の下に退避したのだが、それでも背後の隙間からひっきりなしに強風に押された雨粒が吹き込んでくるほどだった。ここでこちらは、風と、だだっ広い通りを滔々と流れる車の騒音のなかで、兄に、チェーホフの「学生」は読んだかと訊いた。兄は、その名前は当然知っていたが、読んではいないと思う、と答えたので、あれも結構良い物語だよと伝えておいた。しかし、その良さの内実を説明することはしなかった。鎖の端の震えが伝わって、もう一方の端が震えたのに触れた、みたいな比喩表現があったのを覚えているけれど――そして保坂和志が多分小説論のなかでそれを取り上げていたことも覚えているけれど――その他の事柄や前後の物語の文脈について詳しく記憶してはいなかったから、上手く説明が出来なかったのだ。そうこうしているうちに、女性陣を載せたタクシーもやって来たので、合流し、地下道に入った。Mちゃんはベビーカーに載せられて、ぐっすり眠っていた。地下通路の途中には、ヴァイオリンの演奏をしている中年くらいの男性がいた。素人にしては結構上手いように思われたが、細かなところのリズムや音程には甘さが見えた。地下道を通っていき、階段を上って、出口の前で雨が弱まるのを少々待とうということになって、しばらく待機した。我々の後ろにはやはりベビーカーを伴って幼児を連れた母親がおり、彼女が抱き上げた子供が泣き声を上げる時間があったので、どこの国でも、どんな人種でも母親の苦労は同じだなと思った。こちらや彼女が接していたガラス窓の向こうは、キオスクと言うか小規模なコンビニと言うか、そんなような店になっていて、アイスのケースなどがなかに見えた。我々の横を通行人が無数に流れ通っていく。どこからか煙草の匂いが漂ってきていた。
 しばらく待つと雨はほとんど止んだようだったので外に出て、もう少し歩いてアルバート通りに入った。この通りは歩行者天国である。通りの両側には四角四面の建物がまさしく軒を接するように隙間を開けずに連なっていて、長大な壁を成している。こういうのを、パサージュ、と言うのだろうか。
 書き忘れていたことを唐突にここに挿入してしまうが、船のなかでは母親に還暦祝いのプレゼントが贈呈されたのだった。それはスカーフで、母親が、何かちょっと寒いから首に布を巻こうかなと自分のスカーフを取り出した際に、スカーフという話題が出たから、とサプライズで渡されたのだった。灰色の、暖かそうなスカーフで、何が素材なのかはわからないが、柔らかな質感だった。
 アルバート通りに話を戻すと、観光客らしき人々が至る所にそぞろ歩いており、そのなかに何とか書いてある看板を背負い、あるいは身体の前にも掛けたサンドウィッチマンもたくさん立っていた。途中にプーシキンの若い頃の像があって、それは正装して妻と寄り添っている姿なのだが、その像の前では観光客が写真を撮っていた。詩人の像はもう一つ、何と言う詩人なのかわからないがあって、作家や芸術家のイメージにそぐうような、ちょっと顔を俯かせて陰鬱そうな雰囲気の像で、晴れている日などはその前で詩を朗読している人などが見られると言う。やはり西洋圏では、あるいは西洋圏に限らず異国はどこもそうかもしれないが、詩人という職業が確立していて、日本とはその地位も段違いなのだろう。通りの途中にはそのほか、何か馬のような着ぐるみを纏った人もうろついていて、これは子供を相手にした商売であるらしかった。スパイダーマンのような機械仕掛けの人形がいくつも匍匐前進している一帯もあり、これも子供を餌にして金を得ようという商売に違いなく、迂闊に近づくと売りつけられてしまうということだった。
 途中で母親の希望で土産物屋に入った。入口の扉が風で半分閉まってしまい、ベビーカーが入りにくくなっているところに店員が来て扉を開けてくれたのだが、その若い女性店員は中国人のような顔立ちだった。母親は入ってすぐのところにあった、あれはショットグラスと言うのだろうか、おそらくウォッカを煽るようの小さなグラスに目を付けた。それで、父親の分と揃いで二つ、買うことにして、籠に入れていた。店内の奥に進むと、マトリョーシカが無数に陳列されており、人形の顔は西洋風の風貌ばかりではなく、なかにはアラビア的と思われるような顔のものも見られた。また、ガラスケースのなかに、涼しげな美しい青で彩色されたグジェリ焼きのカップや皿も並べられていた。グジェリ焼きのカップは兄が以前、母親にプレゼントしてくれて、我が家にも二つくらい所蔵されている。母親はそれに合うような同じグジェリ焼きのスプーンが欲しいらしかったが、スプーン単体では売っていなかった。そこからもう少しガラスケースの前を移行していくと、今度は色とりどりの小さなペンダントトップがガラスケースのなかで壁にずらりと取り付けられているところがあって、母親はこれにも目をつけた。見分していると、先ほど入口で扉を開けてくれた女性店員が、Miss、と話しかけてきた。going to see? と言って、ガラスケースの扉を開けて、母親が指差した品を取り出してくれた。母親がカタカナ的な発音で、ハウマッチ? と訊くと、one thousand、という返答が返った。まあ二〇〇〇円しないといったところである。店員はほかにもお勧めのものをいくつか取り出してくれたが、母親は、どれも持ってみるとちょっと重すぎると言って、購入には至らなかった。店の奥の方では中国人らしき客が物凄く大きな声で店員と話をしていた。店員の方も流暢な中国語を使っていたらしいので、やはり店員が中国系の店だったらしい。我々はその後、会計。会計を担当した女性店員もアジア系の顔立ちで、英語を喋っていたが、会計したあとにはアリガト、と日本語で礼を言ってくれた。我々が日本人だということがわかったらしい。
 それで通りに戻ってふたたびちょっと歩いたところで、母親がもう一つ土産物屋を見つけて、そこに寄りたいと言う。それで両親とT子さんが店内を回っているあいだは、こちらとMちゃんの寝ているベビーカーを伴った兄は外で待っていた。遠くの店のテラスに何か火を燃やしているのが見えたので、あれは何か、などと話しながら待った。それからふたたび道を歩くのだが、さらに母親が、今度はレース編みの店を見つけた。これは空港で買ったガイドブックに載っていたものらしい。ガイドブックをひらき、兄に店の名前を確認してもらうと、確かにその通りで、レース編みのハンカチなどが安く買えるらしかったのでなかに入ってみることになった。母親は、ガイドブックに載っているのを見せようかなどと持ち前の天真さで言っていたが、兄はいいよ、と苦笑した。それで入店。「ヴィシフカ」という店である。ガラスケースのなかにハンカチなどが飾られているカウンターの向こうには、膨らんだ身体の、腹も胸も大きな高年の婦人が二人静かに、落ち着いた笑みを浮かべて控えていた。ハンカチで一番安いものは、一五〇ルーブルか二五〇ルーブルかそのくらいだったと思う。店にはほかに衣服や、エプロンも陳列されていた。母親はエプロンに目を留めて、可愛いと言って色々見分していた。白地の表面にロシア語の赤い文字が記されているもので、兄やT子さんによればそれは、「ロシアで一番良いおばさん」とか、「気立ての良い息子の嫁」みたいなことが書かれているらしかった。そのうち、後者の方の品を母親は買うことに決めた。加えて、カウンターのケースのなかに入っていたハンカチ――「C」というアルファベットと花か何かの刺繍が成されているもの――も購入が決定した。それで会計をして退店。
 そうしてもう寄るところはなく、ジョージア料理の店に向かった。これも偶然だが母親が空港で買ったガイドブックに載っている店で、「ゲナツヴァレ」という名前である。「田舎家風内装」とガイドブックには記されているが、少々薄暗いなかに、干し柿のような植物が置かれていたり、天井から緑色の葡萄が吊り下がっていたりした。入口を入って、階段は兄がベビーカーを抱えていき、しばらく進んでようやく店員のいるフロアへ。一旦席に案内されたが、聞けば席の近くのスペースで音楽の演奏があるらしく、うるさいかもしれないと言う。それで、個室もあるけれど、どうするかという話だった。眠っている子供がいたのでそのような配慮を見せてくれたのだろう。それでT子さんが個室を見に行き、彼女が戻ってくると、音楽は見聞きしたければ室から出て見ることも出来るわけだし、静かな個室に入ろうということに決まった。そうして個室へ。室の壁には静物画が一枚、掛かっていた。葡萄などの果物が描かれたもので、果物に付属している葉には黒と赤の翅をひらきかけた――あるいは閉じかけた――蝶が止まっていた。テーブルは六人掛けの、濃い暗褐色の広いものだった。こちらは例によってお誕生日席、室の一番奥の方に掛けた。そうして飲み物を頼んだあと――こちらはコカ・コーラで、三人はビール、T子さんはレモネードで、Mちゃんはまた林檎ジュースか何かだった――兄の主導で、ジョージア料理を色々と頼んだ。前菜は、ほうれん草などの野菜を三種類、ペースト状に仕立てた三色サラダが一つで、これは「プハリ」と言うらしい。もう一つは、チキンをたっぷりの胡麻マヨネーズのようなソースで和えた品である。そのほか、「ハチャプリ」という、チーズの乗ったピザのような料理に、「ハルチョー」という牛肉の煮込みスープ、そして「ヒンカリ」という水餃子のような小籠包のような料理が注文された。どれも美味かったが、こちらとしては一番美味かったのはハチャプリだろうか、チーズの味が濃厚で、塩気もよく利いていた。ハルチョーは一見すると辛そうな赤い色のスープだが、全然辛くはなく、何という味と言えば良いのだろうか、ありきたりな表現だがエスニックと言うのだろうか、今までに食べたことがないような味わいだった。ヒンカリは玉ねぎ型の包み料理で、ほとんど小籠包そのままである。これは玉ねぎ型の突起を持って逆にし、齧って食べるのだと言う。齧ると当然肉汁が漏れ出てくるわけだが、それを零さないように啜りながら食べるのが作法なのだということだった。
 食事中の会話は全然覚えていない。一つだけ覚えているのはこちらから兄に振った話題で、兄貴、髪の毛とかどう、とテーブルを挟んで向かいの兄に差し向けたのだった。どうとは、と聞き返されるので、いやつまり、生え際とかさ、と言って、この家系だからと父親の方を指し示す。兄は、生え際は別に退行していないが、やはり全体的に髪にボリュームがなくなっては来ると返答した。明確にいつからとか、きっかけがあるとかいうものでもなく、ただ歳を取ってくるといつの間にかそうなっていることに気づかされるとのことだった。我が家は父親も、母方の祖父も父方の祖父も髪が薄かったので、こちらもいずれはそうなる運命なのかもしれない。
 音楽は二、三曲やっては中断するということを繰り返していた。三回目に音楽が始まった時、演奏された曲がなかなか良いものだった。編成はギターとドラムとアコーディオン、哀感が滲むコード進行とメロディで、母親が口にしたのだが、"Besame Mucho"をちょっと思い出させるような感じだった。ロシアの音楽というものは、やはり何となく哀愁漂うものが多いと言うか、タクシーのなかで掛かっている半端なロックあるいはポップスも、どちらかと言えばそうした旋律のものが多かったような気がする。
 ジョージア料理を堪能したあと、Mちゃんが食べられるものということで、フライドポテトが追加注文された。Mちゃんは今日は泣き通しで、この夕食時もほとんどずっと激しく泣き声を上げており、タブレットの効果も虚しかったが、最後には何とか機嫌が直ったようで泣き止んでいた。兄は食後にコーヒーを頼んでいた。T子さんも、ティーの類を何か頼んでいたはずだ。それらを飲み終わると、会計。いくらだったのかは知らないが、チップの代わりとしてこの店はサービス料を向こうで決めて請求する方式で、それが一〇八〇ルーブルだった。これは父親が払ったのだったと思う。そうして退店。通りすがりに店員にスパスィーバ、と告げながら店を抜けた。
 アルバート通りは歩行者天国なので車は入って来られない。それなので近くの大通りまで出なければならなかった。それでそちらに歩いて移動。この時雨が降っていたのだったかどうだったか。記憶が鮮明でない。大通りに出ると、通りの向かいに並んでいるいくつかの高層ビルの表面が、あれはプロジェクトマッピングというものだろうか、虹色に装飾されていた。時間が経つに連れて下階から上層階まで連なっている色彩のグラデーションの構成が変わるそのマンション――だと思うのだが――を母親は写真に収めていた。男性陣と女性陣に分かれてタクシー二台にふたたび分乗。今度のタクシー運転手は帽子の下からややもじゃもじゃとカールした髪の覗いている男性だった。音楽はモスクワに来て初めてのことだが、なかなか良い選曲だった。と言って、これは運転手の趣味というわけではなく、モンテカルロ・ラジオというラジオ局の選曲である。最初の一曲は泥臭く濃密な、ブルージーでもありゴスペル風でもあるような音楽で、"Let my people go"というフレーズを繰り返しているのが耳に残った。何となくDr. Johnみたいだなと思ったあとに、独特の濁声に耳が行き当たって、これはもしやLouis Armstrongではないかと思ったのだったが、帰ってきたあとに調べてみるとやはりそうだった。二曲目はMilt Jackson "Bag's Groove"。このジャズスタンダードは勿論知っているものなので、テーマが始まった瞬間に曲がわかったが、曲だけでなくMilt Jacksonの音源だと同定出来たのは、ヴィブラフォンの演奏の特徴でわかったわけではなく、前部のモニターにアーティスト名と曲名が表示されていたからである。三曲目はSade "Smooth Operator"だった。これもこちらの知っている曲だ、しかもなかなかの佳曲だとあって、このタクシーは何だか良い曲ばかり流すぞと驚き、そう口にした。"Smooth Operator"に合わせて口笛を吹いていると、運転手が隣の兄に向かって何とか言った。曰く、兄の通訳の細かな部分は聞き取れなかったのだが、ロシアには夜口笛を吹くと縁起が悪いみたいな諺があるのだと言う。日本にも似たような諺があるなとこちらは受けて、それを兄が訳して伝えると、運転手は笑っていた。それ以降は口笛は控えた。次の曲はBillie Holiday "Summertime"だった。Milt Jacksonと言いBillie Holidayと言い、ロシアに来てから街中でジャズを耳にしたのはおそらくこれが初めてである。さらに次の曲はQueen "You Don't Fool Me"。タクシー運転手はその後、もう一度兄に話しかけてきた。曰く、ベンツなどもEUの規制だか規格変更だか何だかでアルミか何かを使うようになって耐久性が弱くなってしまったが、その点日本製の車はまだ大丈夫だ、日本がEUに加入していなくて良かった、と言うのだった。ロシアのタクシー運転手というのは、少なくとも今まで乗った車の人たちはあまり自ら話しかけて来なかったが、この男性はその点ちょっと違っていた。
 アパートに着くと、スパスィーバ、と言いながら降りて、部屋に戻った。その後のことはほとんど覚えていないし、大したこともなかったはずだ。一〇時二二分から一時間ほどと、零時五分から四三分間、日記を綴っている。また、「夜、日記の途中でMちゃんと戯れる」というメモが残されているが、これについてもあまりよく覚えていない。一時前に就床した。


・作文
 10:24 - 12:00 = 1時間36分
 13:07 - 13:26 = 19分
 13:30 - 13:56 = 26分
 22:22 - 23:25 = 1時間3分
 24:05 - 24:48 = 43分
 計: 4時間7分

・読書
 なし。

・睡眠
 1:00 - 7:40 = 6時間40分

・音楽

2019/8/8, Thu.

 わずかな風の動きにも敏感に反応して漂いつづける白銀の綿毛は視界のあらゆる方向にあって、それは目の錯覚のような、それでも前髪に触れ鼻先を掠めるたびに払いのける動作を繰り返さずにはいられないのだった。見晴らしのある側にはむかし海と島々だったという地形が確かに見えていて、つづみ[﹅3]山にせよ筆耕山にせよ眺めは今もほとんど変わらない。ネコヤナギの綿毛は手にした虫眼鏡の表面にもこびりつくように絡み、子どものKはちょうどそのころレンズを使って日光の焦点を集める遊びを覚えたばかり――図鑑や本でいちど見た図版の内容は忘れない、そのような性質[たち]でも確かにあったから、国土地理院の名が刻まれた三等三角点についての知識もまたKの脳内に間違いなく存在したのだった。
 (山尾悠子『飛ぶ孔雀』文藝春秋、二〇一八年、27~28)

     *

 奴の巣ならばそこにある、綿毛が飛び交う空中の一方向を男は妙にながい人差し指でもって指し示した。つられてKが見ると、今までまったく気づかなかったのが不思議なほどのつい近くにいちめんが真っ白に冠雪したような姿の若緑の大木があった。この季節に多い、繊細で地味な房状の花がちょうど満開になったところと思われたが、全体にもくもくと膨らんだ白い雲のように見えるこのような木をKは図鑑でもどこでも他に見た覚えがなかった。陽光の筋目をつけた葉叢が羽毛の迷彩のようになっていて、奥に何か見つかるどころではない。ネコヤナギの綿毛の飛散とこのような珍しい木の満開の時期が一致したこと、それ自体が何らかの符合であるようにも思われてくるのだった。
 (31~32)


 二時半、三時半、と起きた。三時半に起きた時には便所に立った。その後ふたたび眠り続けて、最終的に七時半頃起床。起きていき、T子さんに挨拶をして、便所の順番を待ち、出てきた兄にも挨拶。それから寝室に戻って早速書き物。朝から勤勉である。始めたのは七時四〇分だった。それから一時間ほど書いていると、Mちゃんが起きてきたので、一時彼女と戯れてからふたたび日記に戻った。それで一〇分少々綴って前日の記事を仕上げたあたりで、T子さんが、良かったらご飯どうぞと声を掛けてきたので書き物を中断して食事に向かうことに。キッチンダイニングへ。メニューはレタスやトマトのサラダ、黒パン、切り分けられた小さなバゲットスクランブルエッグ、ゆで卵に、ヨーグルト的なもの。こちらは飲み物にはオレンジジュースを頂く。黒パンやバゲットには、蜂蜜と、イクラのペーストがつけられた。黒パンにイクラのペーストをつけたものは兄の好物なのだと言う。書き忘れていたが、兄は八時四〇分頃、仕事に出かけていった。今日は午後は半休を取ったと言う。
 ヨーグルト的なものは、ヨーグルトなのか何なのか、味が薄かったが、カッテージ・チーズのような粒々とした食感で、付属している苺もしくはブルーベリーのジャムをそれに混ぜて食べる方式だった。カッテージ・チーズなど我が家では一度も口にしたことがないので、新感覚の食感。食べ終えると、Mちゃんは前夜に貰ったお子様ランチの玩具で遊びたがって仕方がないので――今日起きてからも早速、繰り返しやっていたのだ――父親が別室で相手をしにいった。残ったこちらと母親とT子さんの三人は雑談。ベビーシッターの話など。以前一度頼んだベビーシッター、それは日本人のあいだで評判が良い人だったのだが、その人がさすがの腕だったと言うか、もう入ってきた瞬間のオーラからして違ったのだと言う。Mちゃんもすぐに懐いて好きになったらしい。その人の出身を言う時にT子さんが一度、アムールという地名を口にしたので、バイカル・アムール――石原吉郎が抑留されていた地帯である――とこちらは受けたが、アムールではなくて、タミル山脈の方の出身のタジキスタン人だということだった。ベビーシッターに関しては驚くべき事件がこの地区では以前あったと言い、聞けば、特に何の変哲もない真面目なベビーシッターだと思われていた人が、四年くらいずっと勤めていた家の子供の首を斬って、その生首を持って地下鉄かどこかに押し入り、アッラーの名を叫んで回った、ということがあったらしい。それで近くのベビーシッターを頼むのはちょっと不安だったので、日本人のあいだで評判の良い件の人に頼んだのだということだった。
 食事を終えると、こちらは洗い物を担当した。こちらがスポンジで洗剤を使って擦っていった食器を、T子さんが傍らに立って次々と食洗機に入れていく。その途中、Sくん、太ったって言うからもっと太ったのかと思ったら、全然そんなことないじゃん、と言われた。まあ今が適正ですよ、と苦笑して答え、前は細すぎた、以前のパスポートの写真なんか見ると、顎が尖っていますからねと受けた。それから、先日兄の上司だか誰だかが家に来た際に、結婚式の写真を見せると、弟イケメンじゃんと言われたと報告してくれるので、満面の笑みでもって返答した。有難い限りである。その他夏期講習の話などしながら洗い物を済ませ、それから居間のMちゃんの下に行ってほんの少し戯れたあと、寝室に戻ってきて日記をここまで書いた。現在、一〇時半である。
 それから、近くの小規模なショッピングモールに行ってみようということになった。T子さんもスーパーで買い物をしたいらしかった。それで寝間着姿から服を着替えた。フレンチ・リネンの真っ青なシャツに、オレンジっぽい煉瓦色のズボンである。靴下はカバー・ソックス。ズボンのポケットに手帳と、パスポートの入った袋を入れて、バッグの類は持たずに手ぶらで行くことにした。各々準備をして、出発。ベビーカーが駆り出されたが、Mちゃんはベビーカーには乗りたがらないらしく、最初のうちは歩かせることに。エレベーターで下っていき、ロビーから出て、正面出口ではなく敷地側面の通用口のような扉から外に出る。表通りに出て、陽射しの下、歩いていく。モスクワは大体気温が二〇度くらいだと聞いていたのだが、今日は晴れて、陽射しがなかなか熱かった。最高気温は二五度くらいになると言う話だった。途中、横断歩道を二度渡ったが、こちらの歩行者用信号は信号が変わるまでの秒数が表示されており、カウントされる。それが、赤のあいだは六〇秒待たなければならないのに、青で渡る時間は二〇秒くらいしかなく、赤と青の比率おかしくないですかとT子さんに言って笑った。当然、幼児の足では二〇秒以内に通りを渡り終えることは出来ないので、その時には父親がMちゃんを抱き上げて一緒に渡った。それで一〇分も掛からないくらいの時間歩いて、近間のショッピングモールへ到着。入る。スター・バックスが入っていた。最初にチョコレートやビスケットなど菓子類を専門に売る店があったので、そこに入ってみることに。入るとレジカウンターの向こうにいた婦人の店員が、Mちゃんに向かってあやすような言葉を掛けていた。店の中央には量り売りの小さなチョコレートや飴類がたくさんケースに入れられている。その周辺の壁際にはもう少し高めのビスケットやらチョコレートやら。なかにたくさんのビスケットが連なった品があって、土産はこのあたりのもので良いのではないかと思った。「たべっこどうぶつ」のロシア版のような動物の形をしたビスケットもあった。紅茶も並んでいて、紅茶というものも土産に良いかもしれないなと思ったが、こちらが紅茶を飲まない人種なのでそれはどうだろうか。店員のおじさん――ジャージのようなラフなズボンを履いていた――が、気さくに話しかけてきて、Mちゃんにチョコレートを一つくれた。この店に来るといつも大体くれるらしい。おじさんはその後、品物を見ていた母親にも、言葉が通じないのなど気にせずにセールス・トークを繰り広げていた。この店で早くも土産の候補となる菓子類をいくつか買い込んだのだが、あとで帰ってきてから母親が食卓に取り出したのを見たところ、「アリョンカ」というチョコレートメーカーの――しかしチョコレートではなく――一〇枚くらい入っているビスケットがあって、友人たちへの土産はそれを一人一つずつ買って行けば良いのではないかと思った。
 その他固くなったマシュマロみたいな菓子や、量り売りのチョコレートとキャラメルなどなどを買ったが、会計は全部で五〇〇ルーヴルしないくらいの値段だったので、日本円にすると八〇〇円かそこらである。安い。それからスーパーへ。スーパーの入口には無線を持った強面の老人が立っていた。これは明らかに警備員である。あとで兄が言っていたところによると、軍人などが引退が早いので、再雇用で警備員などをやることが多いのだということだった。ここからはMちゃんはベビーカーに載せられ、T子さんについて店内を回る。T子さんは野菜やピザなどを買っていた。我々家族、と言うか母親はたくさん気になるものがあったようで、目移りしているようだった――たかがスーパーマーケットなのだが。それでここでも菓子の類をいくつか選んで、T子さんにまとめて会計をしてもらった。品物を収めたエコバッグはベビーカーの下部に載せられた。それで退店。モールからも退出して、ますます強くなった陽射しのなか、来た道をそのまま反対に歩いて帰る。
 アパートの敷地内にある公園で遊んでいくことになった。T子さんは一旦荷物やベビーカーを置きに部屋に帰り、そのあいだ我々三人でMちゃんと一緒に公園へ。Mちゃんは公園に一目散に駆けていった。公園には先客が何人かいた。一つはまだ若い婦人と、Mちゃんと同じくらいの幼児の親子。我々とは互いに愛想笑いを浮かべて僅かに視線を交わし合うような微妙な距離感を保ったが、あとでT子さんに聞くとこの人とは多少顔見知りだったようで、娘の名はRちゃんと言い、Mちゃんとちょうど誕生日が一か月違いなのだと言う。もう一組は、おそらく祖父母と孫娘二人で、こちらの旦那さんは愛想が良く、ふくよかな低音でにこやかにMちゃんや我々にも言葉を掛けてくれた。Mちゃんは砂場に入った。そこにはRちゃんが先にいたのだが、Mちゃんは特に相手に話しかけることはせず、Rちゃんの方もMちゃんと絡んでこようとはしなかった。Mちゃんは、そのあたりに散らばっていた型に砂を詰めて、ぱんぱんと手で叩き、型を砂でいっぱいにすると引っくり返して地面の上にいびつな砂のオブジェを作っていた。手やズボンやシャツは砂まみれになって汚れてしまった。Mちゃんの様子を眺めたり、話しかけたり、写真を撮られたりしているうちにT子さんがやって来た。彼女は我々三人分の水のペットボトルを持ってきてくれたので、受け取って飲んだ。加えて、左右に振って大きなシャボン玉作成するような器具も持ってこられていたので父親が最初に、筒のなかの石鹸水に棒を浸して、手本を披露した。それから、Mちゃんに渡してシャボン玉を作らせたのだが、彼女は振るのではなく枠のなかに息を吹きかけてシャボン玉を生み出していた。そのうちに振る方式でも作っていたが。空中に漂うシャボン玉に先の女児二人が反応を見せて、興味ありげに我々の方を眺めていたので、父親に、やらせてあげたらとこちらは提案した。それで石鹸水に棒を浸けた父親は、女児に棒を渡して、遊ばせてやっていた。もう一人のまだ小さな妹の方にも同じように渡して、遊ばせてやっていた。禿頭の祖父の方はそのあいだにも何かしら言葉を口にし、にこやかにしていたのだが、祖母らしき女性の方はこの時は姿が見えなかったし、彼女がベンチに座っていた時、Mちゃんがその隣にいっても、やって来た異国人の赤ん坊の方を見ようともせず、愛想が悪かった。異国人が嫌いなのか、子供がそれほど好きではないのか、単純に冷淡な感じの性格なのか。そうしてしばらくシャボン玉で遊んだ。公園にはいつからかもう一人新たな少女が現れていて、彼女は真っ赤なオーバーオールのような装いをしていて、吊り輪に掴まって身体を上下反転させたり、ぐるぐる回る円形の台に乗りながら小さく歌を口ずさんだりしていた。こちらとしては彼女にもシャボン玉をやらせてあげたかったのだが、機会が掴めず、そのうちに部屋に戻ろうということになった。それでこちらは帰り際、少女に向けて手を振ってやると、彼女も小さく、ちょっと手を挙げたようだった。
 部屋に戻って、ペリメニという水餃子のような料理を食おうということになった。ということになった、と言って当然こちらは何もせずにT子さんが作ってくれるわけだが、それを待つあいだこちらは寝室で休んでいた。いや、その前にMちゃんと戯れた時間があった。寝室でTwitterを眺めるか何かしているとMちゃんが傍にやって来て、音楽掛ける? と訊いてきた。これよりも以前に、Jose James "Promise In Love" を流してやった時があったのだが、それでMちゃんは、コンピューターは音楽が出てくる箱のようなものだと認識したらしかった。それでもう一度音楽を流してやると、それでテンションが上がったのだろうか、Mちゃんはベッドの上に上ってぴょんぴょん跳ねはじめ、母親がトイレに行こう、おむつを替えようと言ってもまったく聞かないくらいだった。最終的に、T子さんが新しい便座カバーを取り出してきて見せると、ベッドから下りてトイレに向かった。新たな便座カバーの取り付けられた便器にMちゃんは自ら上って跨ったが、脚を閉ざしてしまったので、それでは出来ないだろうと皆で笑った。それからこちらは寝室に戻って、Takuya Kuroda『Rising Sun』が薄くコンピューターから流れ出るなか、布団に寝転んで休んだ。休みながら時折り手帳を取ってメモを取った。
 それでそのうちに兄も帰宅して、ペリメニも完成したのでキッチンダイニングに集合。食事。「ディル」というハーブを掛け、サワークリームをつけて食べるとのことだったので、そのようにしたが、何もつけなくても充分美味かった。これは冷凍食品だと言う。しかし、さすがに冷凍と言っても、高級な方の冷凍食品らしく、それで味もそれなりだということ。食事中何を話したのかは覚えていない。デザートには黄色いキウイが出て、これは味が濃くて美味い品だった。
 それで食事を終えると今度は母親に皿を洗ってもらって、こちらはそれを受け取って食洗機に収めていった。それを終えると寝室に戻って日記を書いたのだと思うが、このあたりのことはもうあまりよく覚えていない。三時半前から四時一五分まで作文の記録がついている。確か日記を書いているあいだ、Mちゃんがたびたび遊びにやって来て、こちらの傍らにも寄ってきて、音楽? 音楽掛ける? と言うので、そのたびに掛けてやった。Tower Of Powerである。そうするとMちゃんは嬉しそうにして踊るような素振りを見せるのだった。四時半に出かけるという話だった。モスクワ市の中心部まで地下鉄で行って、赤の広場あたりを見物しようとのことだった。両親は午前の外出で既に疲れていたようで、二人ともベッドの上に寝転がって休んでいたと思う。それで四時半近くなると、こちらも上半身肌着の格好からふたたびフレンチ・リネンの真っ青なシャツを着込み、準備を整えた。小型バッグは持っていかないことにした。金は父親が兄から両替してもらって持ってくれているし、こちら個人はパスポートさえ持っていればいざという時どうにかなる。そしてパスポートはズボンのポケットに入れていれば失くすことはない。母親は、バッグに入れていった方が安心だと主張したが、こちらとしてはポケットにいつも収めている方が安心である。それなので、ケースに入れたパスポートと、手帳とボールペンをズボンのポケットに入れ、尻の方のポケットにはハンカチと、兄から貰った乗車チケットを収めた。真っ赤なこのチケットはこの一枚で地下鉄でもバスでもトラムでも乗れるものらしかったが、回数は二回までだということだった。往復分、ということだろう。
 それで出発する。出発前、T子さんが靴を履いたMちゃんにゴミ袋を渡して、これ捨ててきて、と言うと、外に出たMちゃんはとてとてと歩いていってエレベーター前のゴミ捨て場所に袋を置きに行くのだった。ゴミはここに出しておけば、清掃員か誰かが回収してくれると言う。エレベーターに乗って下階へ。アパートを出る。Mちゃんはこの時は確か最初からベビーカーに乗っていたと思う。表通りに出て歩いていき、五、六分くらいで地下鉄駅の入口に着く。兄がベビーカーを抱えて階段を下りていく。いや、Mちゃんはベビーカーに乗っていなかったか? どうも覚えていない。まあどちらでも良い。兄に貰ったカードを使って改札を抜け、地下鉄駅のホームへ。風が非常に強い。電車はすぐにやって来たが、これが結構古めかしいもので、いかにもソ連時代の電車という感じだった。乗車。扉の閉まり方が勢い良く、ガン、と音を立てて閉まる。日本よりも激しく、誤ってこれに挟まれると怪我をしそうだと思われるくらいだった。走行中の騒音も強い。スピードは日本のものとあまり変わらないのかもしれないが、騒音が大きいせいで速度も速いように錯覚されるのだった。揺れも結構あって、日本の地下鉄よりも荒っぽいと思う。途中、反対側のホームにも電車が停まっているのを見かけたのだが、これは新しい、小綺麗な車両で、扉の閉まり方もゆっくりだった。新旧二種類の電車があるようだ。
 途中で乗ってきた老婆が空いている席に掛けた時、その隣に座っていた婦人がちょっとずれて僅かにスペースを空けて、それに対して老婆は、多分礼の言葉だろうが、何とか呟いていた。車内は日本と同じく、スマートフォンに目を落としている人が多い。本を読んでいる人の姿は誰も見かけなかった。何という駅で降りたのかすらわからない。ホームに降り、強い風の吹くなか、兄夫婦二人は地図の前に行ってルートを話し合う。そのあいだに父親などは辺りの写真を撮り、母親はこちらの腕を取ってはぐれないようにしている。結局、すぐ近くの上り口から地上に上がることになった。それでエスカレーターに乗ったのだが、このエスカレーターが日本のものとは比べ物にならないほど馬鹿長いもので、一体何階分を一気に上ったのだろうか、立川のグランデュオなどには一階から一気に四階か五階まで上る長いエスカレーターがあって、高所恐怖の気があるこちらなどはそれに乗る時結構怖い思いをするものだが、それでは全然きかない、七階分とか八階分くらいはあったのではないか。何しろ頂上が全然見えないくらいだった。それでやはり結構恐ろしい思いをして、落ちたらやばいなと思いながら手摺りをきちんと掴んでいた。上りだったからまだ良かったのだが、これが見通しの利く下りだったりすると、奈落の底に下りていく感じがして、相当に怖かっただろう。
 地上に出て、駅舎を抜け、表通りの方へ。途中、何か紙の断片みたいなものが、小さな旋風に巻き込まれて螺旋状に回っているところを通り抜けた。T子さんが、鳩の羽根が気持ち悪い、と言ったので初めてそれが鳩の羽根だと気づいた。表通りに出ると、近くでエレアコのギターを弾いている人間がいた。少々辛気臭いような音楽だった。
 大都会である。石造りの壮麗で巨大な建物がいくつも立ち並び、じきに赤褐色と言うか、赤っぽい煉瓦色の馬鹿でかい建物も見えてきた。そうして、ボリショイ劇場ボリショイ劇場の傍には、名前は忘れたがもう一つ劇場があって、そちらはより大衆的な芝居を催し、ボリショイ劇場ではオペラやバレエなどの公演があるとのことだった。ボリショイ劇場ともう一つの劇場のあいだには「ツム」という百貨店があった。「ツム」と「グム」がモスクワでは有名な百貨店らしく、後者が代表で、前者は後者に比べるとややグレードダウンするらしかった。ボリショイ劇場は言うまでもなく巨大で、正面ファサードには真っ白で豪壮な柱が八本立ち並び、そこから聳える三角屋根の上には青銅色の像が君臨していた。将軍だか誰だかが馬を何匹か駆っている像で、あれは誰かと訊いてみたのだが、わからない、昔のツァーリか誰かではないかとのことだった。ボリショイ劇場前の噴水のある広場で並んで写真を撮った。
 そこから横断歩道を渡ってもう一つの広場に出た。そこにも見上げるほど――こちらの背丈の三倍くらいはありそうな――巨大な石造りの像が鎮座していた。髭を蓄えた男性の像である。T子さんに、あれは誰の像かと訊くと、像正面に刻まれた文字を彼女は読んで、プロレタリアートとか、全世界がどうのこうのとか漏らしたので、マルクスかと思い至った。実際、像の側面にはカール・マルクスの名前が書かれていた。マルクス像は右腕を身体の前に横に出していた。左腕は身体の横に下げていたと思うが、そちらの方はやや欠けたようになっていて、最初からそういうデザインで作られたのか、風雪に損なわれたのかはわからなかった。像の頂上部には鳩が何匹も止まっていた。像の周囲をひたすらぐるぐるゆっくりと回っている赤ん坊と母親の親子もいた。
 そこからさらに奥の方に進んでいき、煉瓦色の門の下をくぐって、赤の広場へ。赤の広場はいつもはだだっ広く、何もない場所らしいのだが、この時は軍関係のイベントが催されていて、高い足場が設けられたり、クリスマスマーケットめいた三角屋根の小さな商店が立ち並んだりしていた。観光客らの群衆とすれ違い、またその一部と化しながら――滔々と無限に流れ続ける大河のような、あるいは時間の流れのような人の群れ――商店の並びに沿ってそぞろ歩いた。途中で母親が、商店の一つで売っている飴に目をつけて、あれを買いたいと言った。それは小さな缶のようなものに入っているもので、その表面には青い彩色がされていて、グジェリ焼きのようなところが母親は気に入ったらしかった。兄が通訳を務めながら支払いをしようとするのに、父親がこちらに財布を渡してきて支払うように求めてきたので、こちらも兄と母親の傍に行った。飴は一〇〇ルーヴルだったので、こちらが父親の財布から一〇〇と書かれた札を一枚出して支払った。そのほか、確かこれよりも前のことだったが、クワスを売っているので皆で飲んでみようと兄が提案して、一杯買った時があった。クワスというのは黒パンから作られた飲料らしく、確かに黒パンの風味があって酸っぱいような味で、こちらは思わず顔を顰めてしまった。
 そのうちに「クレムリンの時計塔」の前の広場に着いた。砦の壁の中央に聳える時計塔は言うまでもなく巨大で、時計の枠と文字と針は金色に輝いていた。左方にはワシーリー聖堂という建物があって、これは玉ねぎ型の屋根をした尖塔がいくつも聳えている有名な建物で、テレビなどでも映ることがあるような気がする。建物全体は赤褐色を基調としているのだが、玉ねぎ型の屋根は色々な模様になっていて、それがコミカルと言うか、壮麗ではあるけれどちょっとポップな感触も与えるような感じだった。メロンのような筋が斜めに入ったものや、ストライプ柄のものや、アイスクリームのように斜めにうねっているような模様のものや、モザイク的な柄のものなどである。その広場でも並んで写真を撮った。そこに集まっている群衆たちも至る所で写真を撮っていたが、日本人らしき人間はほとんど見当たらなかったと思う。
 それから、クレムリンの向かいにあるグム百貨店のなかに入った。入口には金属探知か何かのゲートがあって、警備員がついていた。入館。ここのアイスが美味いとのT子さんの評だった。入ってすぐのところで通路の真ん中にアイスを売っているスタンドみたいなものがあったのだが、そこには長い列が出来ていたので、一旦素通りして、奥へと進んだ。通路の両側にはCHANELとかCOACHとか、Brooks BrothersとかPaul Smithとか、そういった高級なブランドの店舗が並んでいた。
 進んでいくと、食料品やら何やらを売っている一画と言うか、この一画がやたらと長いのだが、細い通路の両側にそういう色々な店や食べ物やら土産物やらが並んでいる一帯があって、そこに入った。初めのうちに、蜂蜜を専門にして何種類も何種類も売っている店があって、そこで母親は小さな容器に入った蜂蜜が六個セットになっている品を買いたいと言って、籠に入れていた。一帯の両端にレジがあって、この一帯の品は全部そこで精算できるらしかった。それで一帯を通っていき、寿司だとかワインだとかチョコレートだとか惣菜の類だとか、とにかく色々な物々が並ぶあいだを通っていき、片側の端に着いたところで、精算。こちらは先に一帯から外の通路に出て、T子さんとMちゃんと一緒にいた。Mちゃんはベビーカーを降りてしまっていた。
 それからアイスを食いに行こうというわけでまた進み、通路の角に店員――赤いベストが色鮮やかだった――がやる気なさげに立っているところへ着いた。その店員にT子さんが話しかけて、アイスを購入。こちらと母親はピスタチオ風味の緑色のもの、父親とT子さんはチョコレートチップス的なものを選んでいた。その場に立ったり、ベンチに座ったりして食す。Mちゃんはここでは確か機嫌が悪くなって、アイスを食べながらも泣いていたのだと思った。近くには、何やら展示物があって、見てみるとパノラマ画像だったのだが、兄が言うにはそれは、クリミア橋の建設風景を映したものだと言う。ロシアによるクリミア併合を既成事実とするために、そういう橋の建設が進められているらしい。エカテリーナ二世だか誰だかの時までクリミアというのはロシア領だったので、ロシア人の大方はクリミア併合についても不法だなどとは思っておらず、奪われた領土を取り返したくらいの感覚でいるのだという話があった。
 それでアイスを食うとグム百貨店を出ることに。高級ブティックの並ぶ通路を通っていき、外に出ると、頭上からは電飾が無数に吊るされて輝いていた。蝶の形に切られたフィルムが吊るされて、その表面にも電飾が取り付けられていた。不揃いな四角い石畳の道を通っていくと、前方から何やらドラムを叩く大音声が響いてきた。さらに近づいていくと、「インドの日」という催しの前宣伝みたいな感じで、ドラム演奏を披露しているのがわかった。ドラムと言うか、ジャンベにもちょっと似ているようなインド独特の太鼓みたいなものらしく、肌の黒い男性二人がそれを身体の前に横にして吊り下げて持って叩き、もう一人、服の裏で竹馬に乗ってでもいるのか、脚がやたらと長くなった格好で踊るパフォーマーがいた。それを少々見物したあと、さらに進んでいった。インド人のドラム演奏の前だったかあとだったか、たった一人で、アカペラで歌を歌っている女性もいた。どこかで聞いたことのあるような旋律だったが、アカペラでストリートで歌うとはなかなか勇気のある人だなと思った。力量はまあそこそこといった感じ。気持ちよさそうに歌ってはいた。
 それで百貨店のある一帯を抜けて、食事に行くかということになった。既に時刻は七時を過ぎていたかもしれないが、まだまだ明るかった。ロシアは緯度が高いので、この日も八時かそこらくらいまでまだ空は明るかった。それで、ベトナム料理のフォーでも食うかということになっていたのだが、その店まで行くのに、タクシーで行くべきかバスで行くべきかとT子さんと兄は話し合っていた。両親はその場をちょっと離れて、DOLCE & GABBANAのウィンドウの前に立っていた。兄は元々タクシーで店まで行くつもりだったようだが、アプリで確認してみると、ルートが妙に遠回りになってしまうことが判明して、それでT子さんはバスで行く方式を主張し、最終的にその案が採用された。バス停はボリショイ劇場のすぐ前にあるらしかった。それで先ほど通った横断歩道をまた通って、バス停へ。
 バスは混み合っていた。真ん中の入口から乗った。それで苦労しながら、柱に取り付けられた機械に兄から貰ったカードをタッチさせた。日本の満員電車も大概だが、ここロシアはモスクワのバスも大概満員だった。苦慮しながら頭上の棒に掴まっていると、途中、兄がMちゃんを載せて伴っているベビーカーを見た男性が一人、窓際のスペースに立っていたのを代わってくれた。ロシアは子供連れには優しいらしく、T子さん曰く、Mちゃんを連れて公共交通機関に乗っていると、老婆などが若い衆に対して、あんたたち、ベビーカーがいるんだからどきなさいよとか言ってくれることもあるのだと言う。それどころか、自分で若い者にどいてくれるよう頼んで座ることもあるらしかった。その後もしかし満員は続き、何という名前かすらわからないが、降車駅に着くと皆でバスを降りた。
 それからちょっと歩いて件の店に着いた。地下の店である。兄が先に、席が空いているか訊きに行ったのだが、何と満席ということだった。中国人だかのグループが丁度貸し切りのようにしていて、五人入る余裕はとてもないと言われたらしい。普段、アジア系の料理店がこんなに混んでいることはまずないのだが、と兄も予想外のようだった。それでどうするかとなって、いくつか候補が上がったなかで、ちょっと歩けばモールのような施設があり、そこにGoodman Steak Houseという店があると言うので、そこに行くことになった。それでしばらく、一〇分だかそのくらい歩く。途中、何とか言う人の――何とかピンという名前だった――家兼博物館という施設があったが、どういう人なのかは知れない。作家なのだろうか? 
 それで店に到着。モール的な施設のなかに入るには、やはりふたたびゲートをくぐらなくてはならなかった。無愛想な警備員。それでGOODMAN STEAK HOUSEに入店すると、一階はガラガラだった。訊けば、一階はバーとなっていて、STEAK HOUSE本体は二階だと言う。それで、The Policeの"Every Breath You Take"の女声カバーが流れるなか、階段を上がり、腹の突き出た背の高く大柄な店員――しかし愛想はなかなか良く、好感が持てる風貌――に案内されて席へ。そうして先に飲み物を頼んだあと――大人四人はビールで、こちらはスプライトだが、このスプライトが全然冷えておらず、ぬるいものだった――メニューを見てステーキを決めるのだが、勿論こちらや両親などは文字が読めないので、何が書いてあるのか全然わからない。兄に教えてもらって、こちらはフィレ・ミニョンというものを食ってみることにした。二四五〇ルーブル。一ルーブル一. 七円ほどなので、まあ二倍弱と考えて、四二五〇円くらいか。今まで食った肉のなかで当然、一番値の張るものである。この店はどれくらいのレベルなのかと兄に訊いてみると、いや、普通のロシア人は来れないよという返答があった。続けて、普通のロシア人が来れないってのは語弊があるかもしれないけれど、例えば、会社で俺は部長だから、いわゆるお誕生日席にいるわけだけれど、そうでないほかの社員たちの月給は、まあ一五万かそのくらいなんだな、だからそういう人たちは来ないよね、という補足説明があった。父親もわからないからとこちらと同じフィレ・ミニョン、ソースもきのこソースとこちらと同じものを選んでいた。兄はリブ・アイという大きな塊の肉。T子さんと母親は、女性用に用意されているスペシャル・メニューの中から、小さなフィレ・ミニョンに海老などがついていて、ブルーチーズのソースを添えた品を選んでいた。ほか、前菜としてサラダと、サーモンのタルタルソース和えみたいな品に、あれは何と言う品だっただろうか、黒パンの上に肉が乗っている料理。ステーキの付け合わせとしてはフライドポテト、ほうれん草を何か細かくしてマヨネーズやら何やらと和えたような料理、それに茄子やらパプリカやら玉蜀黍やらを焼いたものが選ばれた。店員は先にも書いたように、結構愛想が良くて、食い終わった皿などをこちらが持ち上げて渡してやると、スパスィーバ、と言ってくれた。やはりそれなりのレベルの店なのだろう。
 店員の愛想で思い出したが、グム百貨店を出たあとに、一度母親の希望で土産物屋に入った時間があった。これはまあ庶民的な店だった。品物については特に印象深いものもなかったと思うが、店員の愛想が悪く、女性店員が三人くらいいたのだが、常にぶすっとしたような顔をしており、声も掛けてこなかった。宝石類のケースの前に立っていた店員に関しては、勤務中にもかかわらずスマートフォンを堂々と弄っていて、客の相手をする気がなさそうだったので、最初は店員ではなくて客なのかと思ったくらいだ。しかしそんななかでも、アジア系の――中国人のような――顔立ちをした背の高い男性店員が一人いて、この人は兄が抱いたMちゃんに顔を近づけてあやしたりしてくれて、一人だけやたらと愛想が良かった。
 GOODMAN STEAK HOUSEでの話に戻ると、肉はさすがに美味だった。先にも書いたが、今まで食べた肉のなかで勿論一番値段が高く、質も良いものだった。父親に関してもそうだったのではないか――以前、サイボクハムで四八〇〇円だかの肉を食ったと母親が言っていたから、それと同じくらいかもしれないが。ちなみに焼き加減はメニューにお勧めとして記されていたミディアム・レア。血がやや滴る程度の焼き方で、なかの方などは赤くなっていたが、特にそれで不味いということもなかった。我々がものを食べているあいだ、Mちゃんは燥いで、ソファ席の上を移動し回っていた。子連れの入店に関しては、ロシアの食事店は大体歓迎というムードなのだと言う。この店でも、すぐに子供用の椅子が持ってこられたし――結局我々はそれを使わなかったが――T子さんも以前、有名で高級なフランス料理店に行った際に、電話をして子連れでの入店が可能かどうか訊いてみたのだが、一体何が問題なんですかと逆に尋ねられたくらいだと言っていた。日本ではそのあたり考えられないよね、と彼女は漏らした。
 食事中の会話はあとはあまり覚えていない。こちらは待っているあいだは手帳を取り出してこの日のことを断片的にメモしたりしていた。食事を取っているあいだは、ビールを三杯とワインを飲んで酔っ払った父親が、こちらに関して、日記を書いているのだ、ブログをやっているのだということを兄夫婦に明かした瞬間があった。何か余計なことを言わないだろうなと思いながらもこちらも鷹揚にそうなのだと受け、何を書くのかとT子さんから問われたのには、全部、と答えた。そのブログが、とにかく長くて、およそ読みきれないものなのだと言って父親は笑った。
 美味い肉を堪能したあと、帰ることになったのは九時半かそこらだっただろうか? 会計は結構な値段だっただろう。それに加えて、兄が父親に、チップだけ出してもらいたいと言うので、チップを二〇〇〇ルーブル払った。三四〇〇円くらいだろうか。結構な額のチップである。それで退店。建物を出る際に、対応をしてくれた太ましい店員と行き合わせたので、スパスィーバ、と皆で礼を言った。母親はそれに加えて、有難う、と日本語で掛けると、店員もありがと、と日本語を返してくれた。
 タクシーを二台呼んで、男女に分かれて乗車。男性陣の乗ったタクシーは中年の男が運転手だった。音楽はやはり半端なロックみたいな感じのもので、これは何か音源を流しているのではなく、ラジオらしかった。それを聞いた父親が、何かちょっとBon Joviみたいな音楽だなと言うので、こちらは苦笑して、そうでもないぞと受けた。父親は酔いを残して良い機嫌になっていたらしく、車中で口数が多く、外に見える色々な建物について、あれは何かとたびたび兄に尋ねていた。チャイコフスキー "白鳥の湖" の有名な旋律をダンスミュージック的なポップスにアレンジした曲も途中で掛かった。
 それでしばらくタクシーに乗って、兄のアパートに帰還。Mちゃんはタクシーでシートベルトをつけられて拘束されたのが嫌だったらしく、アパートに着いた頃には激しく泣いていた。部屋に帰還。T子さんが激しく泣き続けるMちゃんを風呂に入れる。そのあいだ我々三人は寝室で休む。こちらも、日記を書かなければならないのだけれど、さすがに疲労が嵩んで気力が湧かず、両親がシャワーを浴びて番が来るまでにずっと寝床に伏していた。しかしその甲斐あってシャワーを浴びた頃にはいくらか回復したので、戻ってくると、父親がもうベッドに寝ており、母親もまもなく床に就いたなかで一人、薄ぼんやりとした明かりの下で書き物を行った。四〇分弱書いて、一時に就床。


・作文
 7:39 - 8:42 = 1時間3分
 8:53 - 9:05 = 12分
 10:15 - 10:29 = 14分
 15:23 - 16:15 = 52分
 24:20 - 24:56 = 36分
 計: 2時間57分

・読書
 なし。

・睡眠
 0:00 - 7:30 = 7時間30分

・音楽
 なし。

2019/8/7, Wed.

 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。
 大人たちがそう言うのを聞いて、少女のトエはそうかそうかと思っただけだったが、火は確かに燃え難くなっていた。まったく燃えないという訳ではないのだが、とにかくしんねりと燃え難い。すでに春で、暖房の火を使う場面はなかった。喫煙する祖母が奥の間で舌打ちするのを聞くことはあったものの、少女のトエにとってたちまち不自由が生じたのは煮炊きの場だった。七輪で火を熾すにも場所を選ぶ必要があり、高い場所で試みたり、低い場所に移動してみたり、また日により時刻によって火の燃え難さには明らかな違いがあるらしく、まったく難儀なことではあった。狭い台所では空気が足りないとでもいうかのようだったので、トエは外の物干し場まで七輪を持ち出してみることがあった。下流に向けてどうどうと動いていく川の気配を全身で感じながら火箸を使っていると、いつものことだがまるで舟の艫[とも]に座っているようだと思う。中洲の最南端に細く突き出たこの場所は、少しの増水でも真っ先に水没してしまう場所であるから、物干し場の構造は何度も濁水に浸かった挙句の傷み放題、床板は波打ち、七輪とトエのかるい重さにも耐え難いようだった。
 背後には階段状になってごたごたとバラックが積み重なり、その頭上に橋げたがある。家と家の隙間がなく、足場のような板を渡して道がわりにひとが使う、それらの住居をバラックと呼ぶことをトエは知っている。対照的に趣があるのは横に渡った石橋で、やなぎの欄干に石灯籠、このところ少し暗くなった気がしなくもない丸ガラスの街灯が並び、川面に枝葉の影のそよぎを落とす――京橋桜橋小橋なかけう[﹅4]橋、微妙に紛らわしい名の橋ばしが中洲の多いこのあたりに集中しているが、路面電車が通っているのはこの柳小橋だ。通過の振動とともに轟々と音がする、その通過はゆっくりで、夜にはわずかばかりの火花がぱっと架線に纏わるのが見える。石切り場の事故があっても電気はまだ生きている。大人たちはそう言うのだったが、それでもトエの擦る燐寸はへし折れるばかりでなかなか熱を持たず、多めの焚きつけを使って騙しだまし熾した炭火はどう見ても火力に乏しかった。冬の寒風にも逆らう凛乎とした勢いはどこへ行ってしまったというのか、欠片ほどもなく、小鍋のべか[﹅2]や小芋はぐじぐじと泡のたつ生煮えになった。
 (山尾悠子『飛ぶ孔雀』文藝春秋、二〇一八年、7~8)


 あまりよく眠れなかったが問題はない。両親は替わる替わる、といったような感じで鼾を立てて眠っていた。五時に達すると母親が起きだした。トイレに行って、歯も磨いていたらしい。戻ってくると、カーテンをめくって外の明け具合を確認している。そこでこちらも起き上がって、部屋の明かりを点け、目が痒いと言って目を擦った。母親はシャワーを浴びると言った。危ないよと掛けると何で、と返されるので、答えあぐねていると、血圧が、と訊くので、そうだと言った。母親は外に泊まった時は朝にシャワーを浴びるのが習いなのだと言う。だって勿体ないじゃん、と言うが、その論理はいまいちよくわからない。こちらは寝床を離れて、部屋の隅に畳んで置いてあった服を取り上げ、昨日と同じ格好になったあと、テーブルに就いてコンピューターを起動させた。Twitterを覗くと、「#好きです韓国」というタグと、「#嫌いです韓国」というタグとが双方ともトレンドに入っていて、苦々しく思った。まるで小学生の争いのようではないか。国民のあいだの分断が加速するばかりだ。それから早速、日記を書きはじめ、前日の記事をさっと仕上げてこの日の分もここまで書くと、五時半を過ぎている。先ほど五時半に達したところで父親の携帯が音を立てたが、当の父親は呻き声を上げながらそれを止めると、ふたたび眠ってしまったようだ。
 それからこちらはTwitterなど眺めて過ごした。シャワーを浴び終えた母親は化粧をし、六時近くになると父親も起きてきた。こちらと同様昨日と同じ格好――ピンク色の線が入った格子模様のシャツと、灰色のスラックス――に着替えた父親は、車の鍵がないと言って探しだした。もしかして車のなかに置いてきたのだろうか、車の鍵を閉めないままで来てしまったのだろうかと言うのに、母親は不安気な声を出したが、こちらは何ということもなく受けて、それでは見に行ってみれば良いと言った。それで見に行き、そのついでに食事も済ませてくるかとなったところで、そのあたりにないのかとこちらがキャリーバッグを指差し、父親が一応その外側の口を引き開けて調べてみると、そこに見事にあったので良かった良かったとなって問題は解決した。それで食事へ。部屋を抜け、カーペットの敷かれて整然とした雰囲気の廊下を通ってエレベーターへ。一階に下りて、昨日と同じダイニングレストラン「SERENA」に入る。入り口に立っているのは今日は高年の男性で、慇懃で丁寧な物腰であり、声もふくよかで、年嵩ではあるがいかにも紳士らしい。その紳士に朝食のチケットを渡してなかに入った。朝食はバイキング形式である。盆と皿を取って、サラダやパンやソーセージなどを取り分けていく。サラダはレタスと水菜に薄白いオニオンにミニトマトを二つ、パンはクロワッサン二つに饅頭のような丸いミルクロールを一つ、揚げ物はソーセージ三本に唐揚げ二つ、それにフライドポテトを少量取った。そうして一旦席に行き、品物を置いておくと、飲み物を取りに行った。グレープフルーツジュースを選んだ。それで食事。さしたる会話もなく、母親が時折り話を漏らすのみで、それぞれ黙々と食べる。フロアには真っ赤なポロシャツとチェック柄のハーフパンツを履いた中国人らしき集団が集まって食事を取っていたのだが、あれは何の一団だったのだろうか。そのなかに一人、物凄く脚の長い女性がいた。女性陣はポロシャツを着ているのでウエストの形がよくわかるのだが、どの女性も酷く腰が細く窄まっていた。食事を終えたあとは一旦室に戻って出る準備をし、シャトルバスに乗りに行くわけだが、バスは乗れたら八時五分のものに乗ろうという話だった。それで食事を終え、食器類はテーブルにそのまま残して退出。出口で先ほどの高年の紳士に、有難うございましたと礼を言うと、あちらも礼を返してきて、良い一日を、と付け加えてくれた。それから、母親がコンビニに寄りたいと言うので、ホテル内に併設されているローソンへ。アイスがあって、ちょっと食いたい気はしたが、満腹だったので控えた。バスのなかで気持ち悪くなるかもしれないという恐れもあったのだ。それでロシアに持っていくためのハイチュウやらグミやらを購入し、部屋に戻った。葡萄味の「ピュレグミ」をつまみながら日記をここまで書き足して、七時二二分である。
 排便。七時半頃には既に部屋を出て出発した。エレベーターで一階まで下り、ロビーへ。女性スタッフがすぐさま近づいてきて声を掛け、荷物を預かってくれる。大きなスーツケースを独力で持ち上げ、台車の上に載せてしまう。ほかの荷物も。それから、よろしければあちらで掛けてお待ちくださいと手近のテーブルを示されたのでそちらへ移動。卓の真ん中の溝に、円筒型の容器に入ったドライフラワーが飾られていた。なかには普通の明るい色の花のほかに松ぼっくりなど。こちらは例によって手帳を読みながら過ごす。そのうちに八時五分のバスが来ましたと声が掛かったので、席を立って外へ。バスに乗り込む。父親と並んで腰掛け、母親は一つ前の席へ。陽射しが窓から射しこんでおり、そのなかに埃が浮遊しているのが白く際立って見え、こちらの左手首につけられている時計の表面が光を反射して、バスの天井に小さな光点が生まれ、こちらが手帳を持ちながら手を動かすのに応じて高スピードで移動するのだった。車内には外国人の二人連れが見られた――勿論、ほかにももっといたかもしれない。メデューサのような髪型の白髪の婦人と、彼女より幾分若いように見えたが配偶者なのだろうか、男性一人だった。
 バスはじきに発車した。快晴のなかを走っていき、すぐに第二ターミナルに到着。降りて荷物を回収し、空港内へ入った。Qと記された手荷物預かり所に並ぶ。列が進むのを待っているあいだは例によって手帳をひらき、立ったままメモを取り、それが終わると記してある文言を読みながら無沙汰を紛らわした。あたりには野球の海外遠征に向かうらしい子供らの姿。結構待って、じきに番がやって来た。相手をしてくれた職員は、一人だけ黒い装いだったので、主任か何か、ベテラン級の人だったのではないか。荷物を預ける。一番大きなスーツケースと、こちらの衣服が入ったキャリーバッグも預けてしまうことにした。手続きはすぐ終わり、搭乗チケットを受け取ってフロアの奥へ。母親がトイレに行く。トイレに入る間際、そのすぐ外にあったゴミ箱に彼女は持っていたペットボトルを捨てるが、ゴミ箱からはペットボトルが溢れていて、そのなかに無理やり挿すような感じだった。こちらと父親が立ち尽くして母親を待っているあいだにも、続々と捨てに来る人がいて、もう入らないので口の外側に置かなければならないくらいである。そのうちに清掃員がやって来た。短髪。無表情、あるいはつまらなそうな表情をしていて、愛想はあまり良くなさそうだ。ペットボトルを一個、あるいは二個ずつ掴んで巨大なビニール袋に入れていく、ゴミ箱に素手を突っこんで。
 じきに母親が戻ってきた。すると父親が、店がたくさんあるから何か見るかと言って歩き出し、エスカレーターを上って四階に行くことになった(バスから降りてそのまま入ってきたのだが、今までいたフロアは既に三階だった)。エスカレーターを上がってすぐのところに書店があった。改造社書店という名前だったと思う。入店して回ってみたが、大方どうでも良いような本ばかりである。『日本国紀』が平積みされていた。目ぼしいのはアルフレート・デーブリーンの『運命の旅』くらいである。むしろほかの本のラインナップのなかで海外文学のなかから何故このような本だけピックアップして売られているのか不可思議である。母親は迷いながら、ロシアの観光案内本を買っていた。一四〇〇円。父親も何か買っていたようだ。店を出て、ちょっと周辺を回ると、プレス・バター・サンドの店などがある。しかし、特に用もないので、もうなかに入っちゃうかと父親が口にし、エスカレーターを下りて出発口に行った。荷物検査である。水色に緑が少々混ざったような色の古びたケースが台の上にたくさん並び、人々がそこに自らの荷物を入れて検査に送っている。こちらもその後ろにつき、何の説明もされなかったので良くもわからなかったのだが、周囲の挙動を見てリュックサックをケースのなかに入れる。もう一つの小さな黒のELLE PETITEのバッグもリュックサックのなかから出して別の籠に入れ、ポケットのなかのものを尻のハンカチ以外すべて出した。さらにコンピューターもリュックサックから出して見えるようにしておき、そうしてゲートへ。くぐり、係員の指示に従って両手を挙げてゆっくりと一回転した。その後、女性職員に背と胸を触られ、検査される――物凄く汗を搔いていてTシャツの背がじっとりと濡れていたので、職員は手が冷たかっただろうと思う。それで検査はOK。進み、荷物を受け取ってあたりを見回すと父親が少し離れたところで手を挙げていたのでそちらへ。合流し、次は顔認証である。パスポートの写真の頁をひらいて機械の上に置くと、自動で読み取って顔を認証してくれるのだ。それで問題なく通過。スタンプは省略するのだと言う。
 搭乗ゲートは六八番である。向かう途中に書店がふたたびあり、父親は、内田康夫の本がないかどうか見てくると言ってなかに入っていった。それで何か買っていたよう。通路で待ち、戻ってくると先へ進んでいく。動く歩道に何度も乗っては降り、長々しい通路をひたすらに歩いていく。母親が、飛行機に乗る前から疲れちゃうねと言っていたがその通りである。そうして六八番ゲート付近へ。席に就いた。あたりにはマラソンを映しているテレビと、無機質な席の列と、アイスの自販機のみ。飲み物の自販機すらない。それで父親は道を戻って水を買いに行った。こちらと母親は並んで待ち、こちらは手帳にメモを取っていた。時刻は九時半を回ったあたりだった。出発予定時刻は一〇時五五分である――元々一〇時四五分だったのだが、機体の点検か何かで一〇分遅れたのだった。父親が戻ってきたあと、両親は途中で、大窓の向こうに広がる滑走路に面した別の席へと移っていった。こちらは一人、黙々とメモを取り続けて、そうして一〇時二五分。
 その後は手帳を読んでいた。そうして一〇時四〇分頃から搭乗手続きが始まる。ビジネスクラスの人が先で、エコノミークラスの人はさらに五〇番以降の座席の人が先で、我々は二五番の席なので最後のグループだった。番が来ると席を立ち、パスポートと搭乗券をスタッフに渡す。最初の女性スタッフはパスポートと券を見比べてチェックし、次のスタッフは券を機械に読み込ませていた。そうして赤いカーペットの敷かれた通路を辿って飛行機内へ。こちらは二五Fの席である。父親はDで母親はE、機内中央の四席並んだ列の左から三人連続だった。こちらの右隣には四〇代くらいだろうか、黒い装いの婦人。目の前の座席の裏にはテレビが設えられている。それでフライトマップが見られたので、弄ってモスクワまでの航路を確認したりしているうちに、飛行機は動き出した。発着の飛行機が多くて離陸許可を待つのにやや時間が掛かると言い、実際に離陸したのは一一時半頃だった。こちらはやはり何となく吐き気のような感覚が兆していると言うか、あれはやはり緊張していたということなのだろうか。母親は冗談めかしたようにして、無事に飛び立ちますようにと手を合わせて祈っていた。がたがた揺れて、重力が上方から身体に乗ってくる感覚があり、無事に離陸出来た。こちらはその後、テレビを操作してオーディオプログラムを探った。ジャズを選んでどんな音源が入っているのか見てみたところ、これが予想外になかなか質の良いものが揃っていた。John Coltraneの『My Favorite Things』は古典的名作なので入っているのはまあわかる。しかし、Joshua Redman Quartet『Come What May』とか、Chick Corea Akoustic Band『Live』とか、Brad Mehldau『Finding Gabriel』などが入っているのは率直に言って驚かされる。ほか、Hakuei Kim & Xavier何とかいう人がやった『Conversations In Paris』や、Snarky Puppy『Immigrance』、『Blue Note Covers』などといった音源も収録されていた。なかなかに攻めたラインナップで、五〇年代六〇年代のモダンジャズばかり聞いている人にとってはある種拠り所のないような品目なのではないか。こちらからすると勿論大歓迎で、JAL、なかなかやるなという具合である。上に記したような音源は、大体ここ一、二年ぐらいのあいだに発売された作品ではないのか? 最新のジャズを積極的に取り入れているわけだ。
 それで最初は、『Blue Note Covers』というコンピレーションを聞いた。Michel Camiloの"The Sidewinder"とか、山中千尋がカバーした"Don't Know Why"とかが収録されているアルバムである。Blue Note All-Stars『Our Point Of View』に入っている長尺の"Witch Hunt"も収録されていた。なかでも、最終曲の黒田卓也 "Think Twice"という音源が格好良く、これはのちほど入っている音源を調べてみなければなるまいと思われた。書き忘れていたが、最初のうちは各席に備え付けのヘッドフォンを使っていたのだが、それだとあまりうまく聞こえないし、トランペットの音などがんがん周りに漏れていたので、途中で自分のイヤフォンに変えた。これは耳に深く挿し込むカナル型なので、音漏れもしないし、空を飛ぶ機内の騒音のなかでもよく聞き取れる。
 そのうちにキャビンアテンダントが飲み物を聞きにやって来たので、スプライトを頼んだ。隣の婦人はこの時点で既に、何故かほかの客に先んじて食事を取っていた。しかもそれが見たところ、全部フルーツだったようなのだが、これはどういうことだったのだろう。ベジタリアンの人か何かで、特殊な配慮を必要としていたために、先に食事が提供されたということなのだろうか? 実際その後、我々が食事を取る時間帯にはこの人は食事を取っていなかったので、先のフルーツが昼食替わりだったようなのだ。ちなみにデザートのアイスは普通に食べていた。わからない。食事の時間まではこちらはひたすら音楽を聞いていた。目を閉じて集中して聞く時間も多く取ったが、やはりそうした時間は良いものである。食事はメインディッシュがネギ塩鶏の三色丼と彩り野菜のドライカレーから選ぶ仕様で、こちらは前者を選び、母親が後者のドライカレーを選んで、互いにほんの少量ずつ分け合った。サイドディッシュは夏野菜揚げ浸し翡翠餡にかぼちゃとレーズンのサラダだった。デザートはタルトシトロンオランジュという、何なのかよくわからないがとりあえずタルトらしきもの。そのデザートに加えて、ハーゲンダッツのバニラ味がさらなるデザートとして配られた。味は全体的にまあまあ。所詮は機内食である。こちらは食事を取っているあいだも何となく心持ちがあまり良くなく、ことによると吐くかもしれないという危惧を抱えて、エチケット袋の口を予め切っておいたほうが良いかなどと考えていたのだが、食べ終わってみるとむしろ心持ちは落ち着いた。
 食事を終えてトレイを回収してもらったあと、コンピューターを取り出し、引き出し式テーブルの上に載せて――勿論食事もこのテーブルを使って取ったのだ――日記を書きはじめた。それが二時前だった。一〇分ほど書いたところで尿意が高まってきたので、一旦コンピューターを閉じ、左隣の母親にちょっと持っていてと渡して――スペースが狭いので、そうしないと動けないのだ!――右隣で映画を見ていた婦人に、すみません、いいですかと声を掛けて通路に出させてもらった。そうしてすぐ背後の便所に向かったのだが、トイレは使用中だった。それでそのあたりに立ち尽くしたまま待っていると、キャビンアテンダントの女性たちがひっきりなしに行き来して、こちらの傍も通るので邪魔にならないようにたびたび移動したり身を引いたりした。トイレはなかなか開かなかった。結構待って、ようやく出てきた主は、老人だった。そのあとに入ると便器の奥にトイレットペーパーが残っていたので、一度流した――流すと言うか、吸い込ませたと言った方が正確だろうか。飛行機のトイレというものは凄い勢いで排泄物を吸い込んでいくものである。それで便器の上に腰掛け、排尿及び排便し、トイレットペーパーできちんと尻の穴を拭いてから立ち上がり、ズボンを履きながらセンサーに手を翳して自分の身体から出た汚物やペーパーをまとめて吸い込んでもらった。そうして出て、自席に戻り、引き続き打鍵。音楽はChick Corea Akoustic Band『Live』を経由して、Joshua Redman Quartet『Come What May』に繋げている。現在時刻は日本時間でおよそ午後三時、目的地までの飛行時間は残り五時間四四分となっている。
 その後はひたすら読書。Joshua Redman QuartetのあとはJohn Coltrane『My Favorite Things』を聞いたが、音楽を聞いていると――聴覚を埋められた閉鎖空間にいると――何だか眠気が兆してきて、目を瞑って前屈みになり、うとうととした時間もあった。タイトル曲におけるColtraneのソプラノはやはり改めて耳にしてみても凄い。『My Favorite Things』の録音は一九六〇年、Miles Davisのいわゆるマラソンセッションは一九五六年なので、そのあいだに四年の歳月しかない。John Coltraneはこの僅かな期間で完全な別人と化した。人間は、音楽家というものは僅か四年間でここまで変われるのかという思いを禁じ得ない。
 途中で音楽を聞くのを止めて、聴覚を雑音に晒しながらルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読んだが、その方が眠気が湧いてこないようだった。ヘスの記述ぶりは編者の序文において、「大量ガス虐殺に関する彼の描写はすべて、それにまったく加担していない観察者のそれである」(39)という評価を得ているが、ガス虐殺についての描写のみならず、彼の記述は全般的にすべてを俯瞰しているかのような趣がある。そこにはナチスへの忠誠も、翻って人類史上未曾有の大犯罪に関与したという事実への反省のようなものも、双方とも感じ取れないのだ。ある意味中立的と言うか、自ら実行したはずの行いに寄与したという責任感が見えず、例えば囚人の類型についての考察など、確かに収容所を運営していたヘスでなければわからないことなのだろうが、ほとんど外部から招かれた部外者のような淡々とした観察のトーンを帯びている。この冷徹とも言うべき自分自身への距離の取り方は何なのだろう。
 到着の一時間か二時間かそのくらい前に、サンドウィッチとフルーツの軽食が配られた。この時も隣の婦人はほかの人々に先んじて、やはりフルーツの食事を配布されていた。サンドウィッチは二種。ハムと卵のものとチキンのもので、どちらも仄かに温かかった。フルーツはキウイ、林檎、西瓜がそれぞれ一切れずつ。こちらは三杯目のスプライトを飲み物に頂いた。
 そうして到着二〇分前くらいまで本を読み続けて、その後は本を閉じて着陸を待ったのだが、待ち時間が手持ち無沙汰だったので結局、テレビを操作して電子書籍の漫画を間歇的に読んだりしていた。それでドモジェドヴォ空港に着陸。時刻はロシア時間で丁度三時頃。着陸時にはさすがに機体が結構揺れて、甲高い軋み音のような響きが背後から聞こえた。それで無事着陸成功し、しばらく徐行と言うか、ゆっくり滑走路上を移動して停止。シートベルトのランプが解けると皆一斉に立ち上がって頭上から荷物を取り出しはじめる。こちらはそんなに急がなくても良かろうとゆったりと脚を組んで手帳を眺めていたが、父親が早々に荷物を取り出して、行く気配を見せたので追随して通路に出た。リュックサックを背負い、キャリーバッグを持ちながら通路を行っているあいだ、下りて来ていた収納スペースの蓋にしたたか頭を打ちつけた。痛え、と呻きながら、両親に笑われつつ通路を辿り、出口を抜ける。空港と飛行機のあいだの歩廊をキャリーバッグを引きながら渡り、空港に入る。階段下りてしばらく行くと便所があったので、寄ることに。便所はやや混んでいた。個室二つ。順番を待って室に入り、小用を足す。水は壁に取り付けられたレバーのようなものを押すと流れるタイプだった。便所の壁には風で手を乾かす機械らしきものが設置されていると思いきや、それは風を送るものではなくて、手を翳すと紙が自動的に出てくるものだった。しかしこちらは紙を使わず、ハンカチで手を拭きながら出て、待っていた父親と合流。母親もトイレに行っていたので彼女を待つ。待っているあいだ、近くには大学生らしき男女の集団――全部で一〇人か一二人くらいか――が集まっていた。あとで母親に聞いたところによると、彼女はトイレで行き合ったその集団のなかの一人に素性を訊いたところ、上智大学の学生だと言っていたと言う。母親が戻ってくると通路を進み、入国チェックの区画へ。列で待っているあいだ、例によって手帳を取り出してメモを取っていると、六〇代くらいの外国人の男性が、Can you speak English? と話しかけてきた。一度聞き返し、ちょっと迷ってから、a little、と答えると、こちらの手帳の文字に目を留めたらしい男性は、mandarinがどうのこうのとか言ってきた。mandarinというのは漢字のことだったかなと覚束ない記憶を思い起こしたのだが、そうではなくて、北京官話のことだった。Chineseかと訊いてきたので、Japaneseだと答え返した。娘の配偶者だったか、息子の配偶者だったかが中国人で、みたいなことを言っていたと思う。漢字は自分にとってso complicatedだと言っていた。どれくらいのcharactersがあるのかと訊いてくるので、I don't knowと端的に答え、数えたこともないやと受けた。それからこちらは、平仮名って知っている? と問うたが、相手は平仮名は知らないようだったので、手帳に「あいうえお」と書き、これが平仮名だと示した。この平仮名だったら、fifty charactersあると答えると、simplified、と返ったので、そうだと答え、平仮名を理解してくれたと思ったのだったが、あとから考えると、simplifiedというのは簡体字のことを言っていたのではないか。そうだとしたら間違った受け答えをしてしまったわけだが、時既に遅し。手帳の文字を指しながらこちらは、It is my diaryと紹介した。すると相手は、自分もdiaryをつけているけれど、君のもののほうがbetterだねと言ってきたので、笑いでこちらは受ける。そのあたりで一旦やりとりは終わって、礼を言い合ったあと、男性はスマートフォンを眺めはじめたが、こちらはちょっと経ってから、Where will you go in Russia? と尋ねた。すると何らかの返答があったのだけれど、地名が聞き取れなかった。と言うか明らかにこちらの知らない固有地名だった。それでんん? と反応すると、シベリア鉄道、みたいな言葉が聞こえた。こちらはモスクワで、兄に会いに行くのだと告げると、モスクワは巨大でwonderfulな街だ、しかし東京の方がよりbigで素晴らしい、みたいな返答があり、だけれどso busyだけどね、と言うので笑って同意を返した。
 やり取りはそんな感じで終了。そうしてじきに列が尽き、我々三人の審査の番がやって来た。一番先に窓口に行った父親は、ロシア語で何か訊かれていたが、当然何を訊かれているのかは何もわからない。適当にJapanとかsightseeingとか答えていた。二番目に母親が行った窓口は女性が相手だった。さらにこちらが次に行った窓口は、若い男性が相手で、この男が粋がっている若造というような雰囲気の人間で、愛想はまったくなかった。こちらがパスポートを渡した当初は何やらにやついていたし、その後は無愛想な表情でこちらを睨みつけてきたと言うか、それは勿論パスポートの顔写真と実際の顔を見比べるためではあったのだろうが、端的に言ってガンを飛ばして来たので、こちらも真正面から怖じずに視線を返してやった。相手が発言したのはこちらの下の名前だけで、それに対してこちらもYes、と答えたのみだった。それで何やら相手はパスポートの頁をめくってたらたらと検査していた。拡大鏡のようなものも使って調べていたようなのだが、何となく挙動と言うか勤務態度のようなものがだらだらとしているような雰囲気があった。そのうちに機械から二枚繋がった紙が印刷されて出てきた。入国カードである。このようなものに署名をするのだということは事前に聞き及んでいた。相手は無言で、その用紙の署名欄を指差してきたので、頷き返し、手元のボールペンで二枚に署名をした。そうしてそれを差し返すと、相手はパスポートに用紙を挟んで切り離したのだが、その時の切り離し方は思いの外に丁寧と言うか、乱雑ではなかった。それで入国審査は終了。有難うと言い残してこちらはゲートをくぐり、両親と合流して預けていた荷物を受け取りに行った。荷物を回収すると出口へ。ロビーヘ。出ていくとすぐ近くに兄の姿があった。近寄って行くと、我々三人と順番に握手を交わしながら、兄はようこそと言ったので、こちらは有難うと返して手を握った。兄の傍には誰だかわからないロシア人の姿があり、その男性も我々と順番に握手を交わした。こちらは兄の友人なのかと思ったり、母親は兄の会社の人なのかと思ったりしていたのだが、訊けばこの人は定額タクシーの運転手なのだと言う。それで彼について歩いていき、途中で父親が便所に寄ってからふたたび歩き出し、空港の外に出て、ロシア人たちとすれ違いながらだだっ広い駐車場を辿っていく。母親は、車までの道のりが長いねと漏らして苦笑していた。長々しい道のりを辿ってようやくタクシーに辿り着いた。タクシーはバン型だった。荷物をトランクに積み込み、乗車。バンの後部座席は席が向かい合うタイプだった。発車。タクシーはフロントガラスに罅が入っていた。流れていた音楽はあまりセンスの良いものではない。何か半端なロックといった感じのもの。しかしこれはどうやらラジオを流していたらしい。
 運転は荒い。しかしどうやらロシアではそれが普通のようだ。ガンガンスピードを出して隙あらば周りの車を抜かそうとし、ウィンカーも出さずにバンバン車線変更していく。ほかの車もどんどん割り込んで入ってくる。それで母親はたびたび、怖いよ、怖いよと漏らしていた。こちらは車というものがやはり苦手で、酔って、軽い吐き気を催していた。このままではやばいのではないかと思い、兄の家に着くまで耐えられるように祈っていたのだが、途中で胃のなかから空気が上がってくるような感覚があって、要するに軽い噫のようなものを出すとそれでだいぶ楽になった。道中、何とかスタジアムというものが見えた時があって、その傍のドーム的な建物はモスクワ大学だと言う。兄によれば、スターリン・ゴシックという建築様式らしい。そのほか、こちらは現代ロシアで最近人気の作家というのは誰なのかと訊いてみたが、兄はそこまで文学に造詣が深いわけでもないので、あまり知らないようだった。それでも、トルストイの孫娘が活躍しているという話があったり、そのほか、ヴィクトル・ペレーヴィンやリュドミラ・ウリツカヤの名前が挙がったりした。わざわざ訊かなかったが、多分ソローキンは兄は知らないだろう。ロシアの男性は大柄でふくよかな体型の人が多いが、こちらの正面に座っていた兄の身体をまじまじと見ると、その点彼もなかなか負けておらず、恰幅が良くてロシア人めいた貫禄が出てきたのではないかとちょっと思った。
 それで兄のアパートに到着。空港からは一時間か一時間半かそのくらい掛かったはうだ。入口のゲートをくぐる際、警備員が出てきて、兄はロシア語で何とか言っていた。あとで聞いたところによると、徒歩で買い物に出る際の行き帰りなどもいちいちこの警備員にゲートを開けてもらわないといけないと言う。そのようにして安全対策がなされているわけだ。アパートは全部で一三階建てのようだ。兄の部屋はそのうちの一一階と言うか、一階がグラウンド・フロアーとして数えられているので、日本式で言うと一二階ということになる。アパートの玄関のすぐ前まで車をつけてもらって降車した。運転手がトランクから荷物を下ろしてくれるのだが、その際の手つきは乱暴ではなく丁重なものだった。それで両親とこちらは一人ずつ順番に、運転手と握手を交わして礼を言う。母親はその際に、日本から持ってきた――ホテルのコンビニで買った――「ハイチュウ」の桃味二つを渡して、ジャパニーズ・チューイング・キャンディー、と言っていた。母親のこうした物怖じしないところと言うか、人懐っこさのような部分は素直に美点だと思う。
 アパートに入ると、入口には高年の男性が座っていた。その横を通り過ぎてなかに入ると、そこにも一人、腹の大きな男性がカウンターの向こうに控えている。あとで聞くと前者は警備員のようなもの、後者はレセプションで、交代で二四時間ずっとこうした人たちが控えているのだと言う。エレベーターに乗る前には、そのあたりに設えられたソファに女性が二人座っていて、母親は先の男性たちにもこの女性たちにもこんにちは、と日本語で挨拶をしていたが、この女性たちは掃除婦だということだった。そうしてエレベーターに乗って、一一階で降り、部屋の扉を開けると、T子さんが出迎えてくれた。Mちゃんは今、眠っているらしかった。入ったところで靴を脱ぎ、T子さんが用意してくれていたスリッパに履き替える。部屋は広く、室がいくつもあった。キッチンダイニングみたいな室、リビング的な室――ここにはMちゃんの玩具が色々と用意されていた――、トイレが一つに、もう一つトイレ付き洗面所兼バスルーム、それに兄夫婦の寝室と、来客用の寝室に、倉庫みたいな室、といった感じだ。来客用の寝室にはベッドが二つあり、もう一つ、布団が敷かれていた。洗面所で手を洗ってからキッチンダイニングに集った。T子さんが麦茶を用意してくれたので頂く。それに、「きのこの山」にそっくりなチョコレート菓子と、紅白の蕪のチップス。冷蔵庫がどうも動作していないとT子さんは兄に言った。なかの電灯が点いていないのだと言う。それで兄が冷蔵庫を少しずつじりじりと前に引出し、コンセントの差し口を替えてみると、無事復旧したようだった。そのほか、のちには寝室の明かりが点かないという事態があって、点検員か何かの男性――腹が物凄く大きく、前に突き出していた――がやって来る時間もあったのだが、最終的にはよくわからないがこれもうまく復活したようだった。
 麦茶を囲みながら雑談を交わす。このあと、ユースホステルのような施設に行って、外国人登録を済ませなければならないということだった。ロシアでは外国人滞在者はそういう登録をしなければならないらしいのだが、登録だけそのホステルにしておいて、実際には兄の家に滞在するという方式を取るということだった。おそらく法的にグレーなやり方なのだと思うが、どうも皆そういうことをしているらしい。それでじきに出発することに。もう一度靴を履いて、扉をくぐり、エレベーターに乗って下階へ。アパートの外に出て、通用口のような脇の扉を越えるとそこに兄がアプリで呼んだタクシーが来ていた。乗車。運転手は若い男性だった。発車。音楽は先の人の車と同じような感じで、まあ言ってしまえば大したセンスではない。半端なロックみたいなもの。ジャズなど掛けるタクシー運転手はいないのだろうか? 
 それで一五分かそこら走って、件のユースホステルに到着。なかに入り、兄が受付にチェックインがどうのこうのと告げると、別室に案内された。そこでパスポートを見せて登録をするのだということらしい。空港の入国審査の際と同じように、ガラスの張られた向こうにいる女性職員に入国カードの挟まったパスポートを差し出す。女性職員は常に怪訝そうな顔と言うか困ったような顔をしている人だった。それで兄と彼女が何とかやりとりを交わしていたのだが、どうも相手には渋っているような雰囲気があった。大丈夫なのだろうかと思っていたが、結局登録はやってもらえることになったらしい。渋っていたのは、以前も同じように登録だけ行って別のところに滞在していたケースがあったのだが、その際に当局から指導が入って金を払い戻したことがあるので、自分の一存では決められないとのことらしかった。それで女性は電話を取って上役のような人のもとに連絡を入れたのだが、無事許可が出たらしい。そうして、ソファに座って待っていてくださいとのことらしかったので、革張りの真っ黒なソファに就いて女性がキーボードをカタカタとやって何かデータを入力し終えるのを待った。女性の発言は勿論何一つわからないわけだが、「ダーク」だか「ダンク」というような発音の言葉をやり取りのなかで何回か漏らしていたのが耳に残った。あと、「ニェット」みたいな言葉も聞こえたが、これは多分Noの意味合いだろう。室内で女性が作業を終えるのを待っているあいだは、ホステルに泊まっているほかの客だろう、小さな子供連れの父親が室に入ってきたので、子供に向けて手を振ってやったが、見慣れぬ外国人を怪しいと思ったのか、芳しい反応はなかった。そのほか、明らかにヘヴィメタル愛好者であることがわかる格好の男も入ってきた。裸の上半身に黒い革のベストに禿頭という出で立ちで、ほとんどRob Halfordそのままの格好で、メタラーでなければハードゲイだとしか思われない。
 それで結構長い時間を待ったが、最終的にパスポートは返却された。翌日の一二時以降に登録書類か何かが出来るということだった。その際は我々三人の帯同は必要ではなく、兄だけが取りに来ることが出来るらしい。兄は翌日仕事なので、半日勤務したあと取りに行くかどうしようか、という感じのようだった。それで退出。ホステルから出ると、近くの車からまさしくヘヴィメタルが大きな音声で流れ出ていて、近くには、視力が悪いので定かに捉えられなかったが、メイクをして、悪魔的な雰囲気の長髪や長装をした男だか女だか遠目にはわからない人が立っていたので、あいつら絶対さっきの男の仲間だろ、となった。兄はアプリでふたたびタクシーを呼んだ。雨が降りはじめていた。冷たい雨粒に打たれながらちょっと待っていると黄色いタクシーがやって来て、今度の運転手は若い女性だった。乗り込む。音楽はやはり大したものではない。車内にはケースに飴が大量に入れられていて、これは多分サービスで自由に取って食っていいのだと思うが、頂かなかった。兄は途中で、女性に音楽の音量を下げるように頼んで、どこかに電話していた。仕事関係の通話のようだった。
 それでアパートに戻り、スパシーバと礼を言って降り、ふたたび建物内に入ってエレベーターに乗り、部屋に戻った。Mちゃんが起きていた。彼女と遊んでいるあいだに夕食の準備が出来たので、キッチンダイニングに集まって卓を囲んだ。こちらは飲み物はコーラを頂き、父親や兄はビールをたくさん、何種類も飲んでいた。T子さんはビールを飲まないと言って、と言うのは最近新たに懐妊したからだと言うので、おめでとうございますと皆で祝いの言葉を掛けた。そろそろ五か月だと言う。子供は男の子らしい。以前はロシアで生むのは環境的に厳しそうだと物怖じしていたT子さんだが、いざ病院に行ってみると医師が非常に丁寧で信頼の出来る人で安心したとのこと。検査も日本よりむしろ発展しているような感じで、血液検査をするだけで子供の性別やら遺伝的な欠陥があるかどうかやらがかなりの高精度でわかるのだという話だった。遺伝的欠陥については、九九. 九九九パーセントくらいない、との診断が下ったらしかった。
 食事は鯖の半身を丸ごと焼いたものと、ブロッコリーなどの野菜が一皿。ほか、ズッキーニをシーチキンで和えたサラダに、「毛皮を着た鰊」という奇っ怪な名前の、色も紫めいてやや奇っ怪な料理。これは鰊とジャガイモやらビーツやらを層にして作った料理らしい。そうして汁物はかきたま汁。これがなかなか美味くて、おかわりをしたかったのだが、遠慮して言い出さないでいるうちに、こちらはMちゃんと遊びに別室に行ってしまって、そのあいだに食膳が片付けられてしまったのだった。野菜には日本から持ってこられた牛角のチョレギドレッシングが掛けられた。
 それでこちらは、食事中に喋ることが少ないものだから、一人黙々と食ってさっさと食べ終わってしまい、そのあとはMちゃんの相手をして別室にいた。玩具のたくさんある居間のような室である。そこでMちゃんと玩具を使ったりして遊んだ。Mちゃんは色々な言葉をよく喋る。適当に喋っているのではなくて、明らかに意味を理解して口に出しているようだ。例えば、アンパンマンのパズルがあるのだけれど、これは誰、と言ってそれぞれのキャラクターを指差すと、バイキンマン、とかどきんちゃん、とか正しく答えるし、水を含んだ刷毛で塗ると色が浮かび上がる紙というものもあるのだが、それで出てきた色を指差して、これは何色、と訊いても、紫、とか青、赤、とかやはり正しく答えていた。彼女のおかっぱ頭をたびたび撫でながら、Mちゃんの口にする言葉にそれぞれ反応してお話しをしながらひととき過ごした。
 そのうちにふたたび食卓に戻って、こちらはMちゃんにヨーグルトを食べさせた。そうしてMちゃんとT子さんは風呂に行った。そのあいだは何をしていたのか覚えていない――と書いて思い出したが、母親が洗い物をしていたのだった。洗い物はちょっと泡を使って洗ったあとに、キッチンの棚の下部に設えられている食洗機に食器を収めて自動で洗うという方式が取られているのだが、母親がトイレに行ったあいだに父親と既に軽い洗いを終えた食器を食洗機に収めていった。そのうちに二人が風呂から出てきたので、ふたたびMちゃんと遊んだりした。Mちゃんには、新たな玩具が両親からプレゼントされた。お子様ランチを模したもので、スプーンをランチのところどころに設けられている開口部に挿し込んで引っ張ると、スプーンの上に食べ物が現れる、という趣向のものだ。それを「メルちゃん」というMちゃんお気に入りの人形に食べさせる真似をして遊ぶものなのだが――食べ物は押すとふたたびかちっと音を立ててスプーンの内部に戻って消えてしまうので、人形の口元に押しつければあたかも人形がものを食べたかのように見えるという代物だ――Mちゃんはこれにど嵌まりしてしまい、何度も何度も繰り返し遊んでいたので、永遠に遊べそうだなとこちらは言って笑った。
 そのうちにこちらは寝室に移って日記を書き出した。父親と母親に先にシャワーを浴びてもらい、そのあいだロシア時間で一〇時前から三〇分ほど書き物をしたのち、こちらもシャワーを浴びにいった。浴槽は半円形といった感じで、シャワーを浴びるには充分な広さである。カーテンを閉ざし、しゃがみこんで熱い湯を浴び、頭と身体を洗って上がった。使わせてもらったバスタオルとフェイスタオルは、T子さんがどんどん入れてくださいと言っていたので、洗い物用の籠のなかに遠慮せずに入れておいた。それで寝室に戻って、一一時前からふたたび書き物。両親はもう眠くなっていて先にベッドに伏して眠りはじめていた。枕元の明かりが一つ点いたなかで一時間ほど書き物を進めて、零時前に至ったところでこちらも眠ることにした。布団に仰向けになり、手帳とペンを取って目を瞑り、この日のことが思い出されるとそれを断片的にメモに取るということを繰り返していたのだが、じきに意識を失った。


・作文
 5:21 - 5:34 = 13分
 7:08 - 7:22 = 14分
 13:52 - 14:04 = 12分
 14:13 - 14:57 = 44分
 (ロシア時間)21:57 - 22:27 = 30分
 (ロシア時間)22:55 - 23:50 = 55分
 計: 2時間48分

・読書
 15:00 - 20:08 = 5時間8分

・睡眠
 0:30 - 5:00 = 4時間30分

・音楽
 なし。 

2019/8/6, Tue.

 蓮實 そうなんですけどね。フーコーがやっぱりフランスが最も上質な部分において生産しうる人かというと、これ、正直いってぼくはいまだによくわかりませんけれども、〈新哲学派〉みたいなものが出てくるってことは、これ、よくわかっちゃうんですね。つまり教育制度のうえからいっても、社会制度のうえからいっても、官僚組織のうえでは国立行政学院がいま手に権力を握ってるから、「エナ」がやってることを高等専門学校、つまりエコール・ノルマルが非官僚的な組織のうえでやろうとしてるんでしょう。政治体制の面で「エナ」のやってるフランス支配みたいなものを、文化の面で「ノルマル」がやる。――フランス人の九九%ってのは、いってみれば中程度の馬鹿ですよね。中程度の馬鹿に向って、中程度の馬鹿よりはいささか利巧な一%ほどの連中がなんかものを言えば、制度の強化はともかくとして温存ぐらいはできる。たとえばレヴィにしても彼の文体というのは、さっきぼくはある種のオマージュをこめて、フランソワーズ・サガン的と言ったけれども、中程度の馬鹿には快い文章になってるわけですよ。そしてまた旧左翼というか、いにしえサルトルのところにいて、そこから飛び出したジャン・コーなんていう転向右翼が、最近の若い連中はほんとに文体に苦心してかわいらしい、なかなか立派な連中だっていうようなことを言ってからかってるところもあるんだけれども、たしかに文章の面でフランスのいわゆる一般の人が書く文章よりもはるかに魅力的だってことはある。そんな種類の連中をフランスは年に数十人ずつ生産しうる国だという点は、これはよくわかるし、さっきのトロイア的包囲状況の悪化につれて彼らがフランシオン神話を強化する方向で結束するというのもわかるんですけど、ところがフーコーみたいな人の存在ってのはなお現象としてぼくには不思議ですね。どれほどフーコーがすごいかというのを、実はぼく自身あんまり言ってなくて、猿みたいにすごいということしか口にしえないわけだけれども、そんな猿みたいなフーコーが出てきちゃうってのは、やっぱり非常に閉ざされたどうしようもない時代にフランスがさしかかってるのか。たとえばラシーヌが出てくるにしても、あの時代というのもどうしようもない時代なわけですよね。政治的にいっても文化的にいっても。どうしようもないというのは、少しものが見えている人たちは絶望的たらざるをえないような時代で、いま少しものが見えているような人は、その絶望に自分を埋めこむこともできないほどもっともっと絶望的にならざるをえない。つまり、誰も猿の出現なんか待望してはいないわけ。みんな「フランス論」を読んで程よく満足しているのだから。そこへ期待されざる不可解な過剰として身元不明の猿がけたたましく登場するというんだからやっぱりぼくにはわかりませんね。ただわかるのは、現在のフランスの感性的な鈍感さ、というか頽廃の蔓延ぶりってことだけで、さっきちょっと話の出たサルトルの映画ってのも、ぼくは、あれは実はもうほんとに吐き気がして、十五分で出てきてしまったんです。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、300~302; 渡辺守章豊崎光一+蓮實重彦「猿とデリディエンヌ」)

     *

 豊崎 キリスト教というものが、真実を与える点で無力になっちゃって以後、フランスは精神分析というものを取り入れるのが遅かっただけ、やっぱりあれが一種の真実を与えてくれるという期待が大きかったと思うんですよ。そういう期待の最大の現われはシュルレアリスムですけどね。それ以後そういう期待がある程度つづいてきたわけですね。それに対する幻滅ってこともあるし、そろそろ幻滅し始めたころになって、こんどはフーコードゥルーズデリダ、そういう点では共通するんだけれども、この人たちには大文字で書かれるような種類の真実、Vérité ってなものは、いかなる段階でもありえないという意識がある。そういうことと関係があるような気がしますね。そうなると、もちろん精神分析であろうとも、真実を与えてくれるものではない。で、逆に今度はフーコーでもデリダでも、あるいはドゥルーズでも、これは顕著なことなんだけども、哲学なり学問というディスクールを、なんらかの意味でフィクションと自覚するということがありますね。その場合、ヴェリテとフィクションというのは、オポジシオンというかアンティノミーじゃなくなってくるわけですね。だから精神分析の読み方も、ヴェリテを与えてくれるものとしてではなく、一種のフィクションとして、ヴェリテも含んだ、あるいはそれをフィクションとして延長していくもの、というほうに重点が移りつつあるんじゃないかっていう気がする。
 渡辺 その真実と虚構の話の前に、やっぱり「プヴォワール」(pouvoir)という不定法で書かれるものと、「サヴォワール」(savoir)という不定法で書かれるもの――両方とも不定法と名詞になるという話はこの間も豊崎さんとしたんだけれども――その場合にフランス語のひとつの仕掛けとして、サヴォワールというのも「できる」という意味があるわけだから、そういう知と権力との相互補完性というか、交換可能性のようなものについて、フーコーにしてもドゥルーズにしてもすごく神経をとがらせてることはたしかだと思う。その場合にフーコーが、「真理の生産」というのが、決して伝統的にヨーロッパ哲学で言われてたようにきれいごとではなく、そこには必ず権力、場合によっては暴力というものが介入してきた。つまりサヴォワールは必ずプヴォワールを背景にしていたということを言う。ところがフーコー自身はやっぱりサヴォワールの生産に携ってるわけだから、そうすると、単に専門知に関わる人間の後めたさなんてことより、もっともっとラディカルなレベルで、自分たちの生産する「知」というものが全部「権力」に転化するという恐迫観念があるわけでしょう。精神分析というのは、それの一種の最も顕著な例で、だから戦略的にそういうものをつかまえているのじゃないのかな。
 (323~325; 渡辺守章豊崎光一+蓮實重彦「猿とデリディエンヌ」)


 一〇時一五分に起床。コンピューターを点けて、LINE上で返信をしておいてから上階へ。母親は仏間でエアコンを点けて涼んでいた。彼女はカレーを作っておいてくれた。それで洗面所で顔を洗ったあと、カレーを火に掛け、炊きたての米の上に掛けて食卓へ。新聞はおそらく今日から止めているようで、食卓の周りには見当たらなかった。冷たい水を時折り飲みながら黙々とカレーを食べ、二杯目もおかわりして食べると、抗鬱薬を服用し、食器を洗うとともに風呂も洗った。そうして下階に戻り、コンピューターを再起動して動作速度を回復してから――と言っても最近はシャットダウンして新たに立ち上げても動作速度は遅いままで、そろそろこのコンピューターも寿命が来ているのかもしれない――日記を書き出したのが一一時一五分だった。FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなか、打鍵を続けて、そこから一時間ほどが経って現在地点に至っている。
 前日の記事をブログやnoteに投稿したのち、ベッドに移って書見を始めた。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』である。ジプシーの子供たちは、「とても人なつっこくヘスに信頼を寄せてくれるので、ヘスにとって「最愛の抑留者たち」であった」(39)と言う。おそらくヘスにも、いたいけな子供たちを可愛がるようなごく普通の人間的な心は存在したはずである。実際、彼は人懐っこい子供たちを「無慈悲」に殺すことの困難さを語ってもいる。「こういったことを、冷酷で容赦なく、無慈悲に実行に移さなければならないことほど難しいことは、おそらく他にあるまい」(40)と言うのである。しかしそこではあくまで殺害は既定事項であり、任務の遂行は覆しがたい前提とされている。ヘスは自らの任務を疑うことはなかったのだろうか? 子供を慈しむ「人間らしい」心と、その子供の運命、命に関する最終的な無関心とのいびつな共存。
 五八~五九頁には、幼少期からヘスが義務感を育むように躾けられてきたことが語られている。「年長の人の頼みやいいつけは、すぐに実行し、あるいはそれに従い、どんなことがあっても、それをなおざりにしてはならない、と絶えず私はいましめられた」。彼の父親は、熱心なカトリック信者として帝国の政策に反対していたにもかかわらず、「国家の法と指示には無条件で従わねばならない」と事あるごとに口にしていたと言う。この二つの引用のどちらにも、「従う」という語が書きつけられているのが注目に値する。ヘスの原則は「従うこと」なのだ。それも自分自身の内発的な欲望や動機に従うのではなく、外部の権威(年長の人、国家)に凭れ掛かり、忠実に、唯々諾々とそれに服従して、その利益を図ることこそが、彼が自らに与えた「最高の義務」なのである。言い換えれば、自己放棄がヘスの根源的な存在様式なのであり、体制に対する無批判な服従の芽は、既に幼年期の教育において現れていたと言えるかもしれない。
 例によって途中で眠りながら読書を進め、二時一〇分になったところで切り上げて上階に上がった。ふたたびカレーを食べることにした。大皿に米を乗せ、その上にカレーを掛けて電子レンジに入れて二分間温める。そのあいだは卓に就いて何をするでもなく待っていると、母親がサラダ――細切りにした胡瓜などにシーチキンを混ぜたもの――を持ってきてくれた。それからカレーも運んできて食べ、完食すると食器を洗って下階に下りた。干してあった布団を母親が入れてくれているところだったので、マットを持ってベッドの上に広げた。それからLINE上にメッセージを返信しておき――トレチャコフ美術館にあるトロピーニンの「レースを編む女」がT田のお勧めだということだった――、さらにAくんから来ていたメールにも返信をする。次の読書会は八月二五日を予定していたが、Nさんの都合が悪くなってしまったのでリスケジュールをお願いできないかと言われていた。九月一日はどうだろうと提案されていたのだが、一日は「G」のメンバーで空間展示を見に行く予定である。そう送ったところ、それでは八月一八日などはどうかと返ってきていたのだったが、明日からモスクワに一週間行くそのあいだは本を読んでいる暇などないだろうし、帰国したあとも日記の作成に追われるに決まっているので、一八日までに課題書を読み終えられる見込みがない。それなので、結局今回は二五日にNさん抜きで開催しようかということに決まりそうだった。
 その後、上階に上がってベランダに干されていたシーツを取り込み、自室に持ってきて寝床に敷いたあと、Alex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』とともに日記を書きはじめて、三時一一分に達した。先ほど父親が帰ってきたらしい。今日はこれから成田に行き、ホテルに一泊して翌朝モスクワに向けて発つ。
 Mさんのブログを読みはじめた。一時間ほど掛けて読み進め、最新記事の一つ手前、八月三日まで読んだところで天井がどんどんと鳴った。時刻は四時を回ったところだった。もう行くのだろうかと思って部屋を出て階段を上がり、もう行くのかと問うと肯定が返ったので、肌着を脱いでボディ・シートで身体を拭い、グラフィティ的な絵のプリントされたTシャツを身に纏った。そうして下階に下りていき、自室に入って押入れからガンクラブ・チェックのズボンを取り出して履いた。それからコンピューターをシャットダウンして、リュックサックに荷物を詰めていく。コンピューターは欠かせない。多分あちらではまともに日記を書く時間は取れないだろうが、出来る限り現地で書いてしまいたい。音楽を聞くために、ハードディスクとイヤフォンも入れた――イヤフォンを使うことになるのは久しぶりだ。そのほか、書籍はルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』。また、大きめの読書ノートも入れた。書き物の時間と同じく読書の時間もそう取れないだろうが、もしまとまってものを読む時間が生まれた時に思考などを記録しておくためのものだ。手帳も忘れずに入れて、財布と携帯をリュックサックの小さな口の方に収めて、上階に行った。上階に来てからは抗鬱薬を忘れずにリュックサックに入れた。と言うか正確には、母親から借りた極々小さな真っ黒のリュックサックのようなバッグがあって、そのなかに詰めた状態で自分のリュックサックのなかに収めた。メーカーはELLE PETITEと書いてある。ELLE PETITEのバッグのなかにはほかに、父親から渡されたパスポートとeチケット控えも収めた。父親は前をひらいたままシャツを着た格好で、疲れたような顔をしながら荷物を準備していた。じきにその父親が外に出て車を家の前に出したので、こちらは荷物を持って玄関を抜け、トランクに運び入れた。荷物は大きなスーツケースが一つと、キャリーバッグ二つ――うち一つはこちらの衣服が入ったもの――に、母親のボストンバッグ一つである。そのほか、こちらのリュックサックは助手席に置かれた。そうして母親の準備などを待って出発。最後の最後になって母親がトイレに行ったので、こちらは玄関と外の境に立って手帳を読みながら待った。そうして母親が出てくると、隣のTさんに挨拶をするとのことだったのでこちらもついていって隣家の勝手口へ続く階段を下り、開け放たれた扉口の前に立った。母親が呼びかけると、Tさんがよろよろとした足取りで出てきたので、行ってくるということを告げ、母親は旅行中に賞味期限を迎えてしまう卵と、茄子と人参か何かを渡していた。おばさん、エアコン点けてるの、と訊くと、点けていると言う。扇風機も加えて使っているらしい。母親はTさんに、気をつけて、気をつけて、と何度も繰り返し言っていた。それで辞去し、車に乗り込む。と言うか、Tさんに挨拶しに行ったのは車に乗る間際ではなくて、もう少し前の時点だった。それでそろそろ出発しようという段になって、Tさんが勝手口から上がってきて見送りに来てくれたのだが、その手には「御祝」と記され、Tさんの名前の印が捺された袋が握られていた。聞けば、海外に旅行に出るなんてお祝い事だから、と言う。九八歳である。母親は恐縮するのだが、結局受け取り、父親もどうも申し訳ありませんと言って頭を下げていた。
 そうして出発。出発してまもなく、坂に入ったあたりで父親が、母親に勝手口の鍵は閉めたかと訊き、それを受けた母親は閉めたと答えながらも、何だか不安になってきちゃったと漏らして、それで一回戻ることになった。坂道をバックで下りていき、家の前まで来ると、何故か母親はこちらに確認しに行ってほしいと頼んできたので、仕方なく車を降り、勝手口に続く階段を上がると、そこに蜘蛛の巣が張られていた。それを片手で切るようにして取り払って勝手口に辿り着き、レバーを捻るときちんと鍵は掛かっていた。それで車に戻り、ふたたび発車。
 途中で父親が、チャイコフスキーの"白鳥の湖"の音源を流しはじめた。モスクワで、バレエを観ることになっているので、その予習というわけだ。最初のうちこちらは、軽い吐き気を感じていた。車のなかの空気というものが苦手で、相性が悪く、しばしば気持ちが悪くなるのだが、もしかしたらそれだけではなく海外渡航を前にして多少緊張しているのだろうかとも思った。しかしそのうちに吐き気はなくなっていった。高速道路に乗ってしばらく経ったあたりで、音楽をただ受動的に聞いているのも退屈だし、そもそも走行音に乱された聴取なのでそれほど質が良くないし、というわけで手帳をひらきはじめた。以前は車内で文字を読むということも、覿面に気持ち悪くなってしまって出来なかったものなので、今回も気分が悪くなるかと思いながら試してみたのだが、問題なかった。圏央道に乗って、埼玉県及び茨城県を経由して千葉の成田まで向かうルートだった。埼玉や茨城では、高速道路の周囲に青々とした田んぼの風景が広がっている場所がたびたび見られた。果てまで建物が連なっていて、地平線まで至っても山の見えない風景というものは見慣れないものだった。それで二時間くらいのあいだひたすら高速道路を走り続けた。六時頃になると陽もだいぶ傾いて、車の斜め後ろの空で暖色を広げ、雲と対抗しており、水平線上には四角い建物がシルエットとなって生えていた。七時を回って陽も完全に落ち、あたりが暗くなって手帳の文字が見えなくなるまで言葉を追い続けた。そのあとは、もう音楽も終わっていて流れていたニュースを聞きながら退屈な時間を過ごした。ニュースで印象に残っているのは、今日が八月六日、広島原爆の日だということが一つ。平和記念式典についてや、確か八王子と言っていたと思うのだが、都内にも被爆者の遺物を展示した施設があるということが伝えられていた。八王子ならわりあい近いので、行ってみても良いかもしれないなと思ったのだ。あとは渋野日向子という、ゴルフプレイヤー関連のニュース。こちらは門外漢なのでよくもわからないが、何かの大会で優勝したらしい。父親が顔を綻ばせながら、この人、面白いんだよ、などと漏らしていた。
 そうして成田で高速道路を降りて、ちょっと走るとホテルに着いた。正面玄関で先に荷物を下ろせば良かったのだが、誰もそのことに気づかずに玄関から結構離れた第三パーキングまで走ってしまった。それで仕方なく、駐車して降りると、キャリーバッグやスーツケースをがらがらと引いて歩かなければならなかった。そうして正面玄関からホテル内に入り――書き忘れていたが、ホテルはホテル日航成田である――受付でチェックイン。受付の女性はさすがにホテルの顔役とあってか、なかなか見目麗しい人だった。代金は一泊三人で二五〇〇〇円かそこらだったと思う。父親がカードで支払い。これくらいの大金――こちらにとっては勿論、大金である――をぽんと支払える父親の財力は、やはり大したものである。そうして部屋のカードを受け取った。翌朝はシャトルバスで空港まで行く。バスは玄関を出てちょっと左に行ったところのバス停から出ているとのこと、フライトは一〇時四五分なので、八時二五分発のバスで行けば充分間に合うのではないかとのことだった。それでエレベーターに行き、九階へ。角を二つ曲がって、九二六番の部屋へ。やや和風の部屋で、一段上がったカーペットの敷かれてあるフロアへの上り口には、踏み台として大きな石が据えられていた。バスルームとトイレは同室。当然だが、綺麗でこざっぱりとした部屋である。部屋に入るともう八時頃だった。皆腹が減っており、飯はというわけだが、メニューを見て、寿司か中華か和食か、どれにするかと話し合った。寿司の店が一一階にあって近かったのだが、最終的に膳の方が色々なものが食べられるのではないかというところで纏まって、一階のダイニングレストランのような店に行くことになった。それで部屋を出て、ふたたびエレベーターに乗り、一階へ。フロントの前を横切って奥の方へ行き、入店した。店の入口に構えていた男性スタッフは、大柄で、髪を見事に撫でつけており、漫画に出てきそうな風貌と雰囲気だった。女性スタッフに案内されて四人掛けのテーブルへ。部屋でメニューを見た時には天丼にしようと思っていたのだが、店に着てより詳しい完全なメニューを見ると、海鮮丼があったので、それにすることにした。三〇〇〇円である。両親は二人とも、「季節御膳」というものを選んで、ご飯少なめでと頼んでいた。三八〇〇円である。二人はそれに加えてビールを注文した。こちらもジンジャーエールか何か飲めばと勧められたが、いや、いいと言って固辞した。ジンジャーエール一杯に六〇〇円も使っていられない! ウェイターやウェイトレスの人々は、皆白いシャツに真っ黒なズボンを履き、長い黒のエプロンを纏い、首元にはやはり黒いタイをつけた姿でフロアを慇懃に歩き回っていた。じきに膳の前菜三種が届いた。お通しのようなものだろう。蛸のマリネと、合鴨の肉と、あと一種類は何だったか忘れた。母親が食べなと言って合鴨の肉を一枚分けてくれた。美味だった。そのうちに海鮮丼もやって来て、季節御膳もやって来たのでそれぞれに食べはじめた。海鮮丼は香の物と味噌汁にフルーツがついていた。香の物は胡瓜に何か茶色の野菜。味噌汁は母親によればおそらくアオサではないかとのことだった。フルーツはオレンジが二欠片とパイナップルが一欠片。肝心の丼は、鮪三枚に、おそらくあれは鰤だろうか、薄ピンク色の筋が入った綺麗な魚の刺身が三枚、イカが一枚に頭付きの海老、そしてサーモンとイクラが少々、というラインナップだった。ほかに、赤紫色の細かな草が入っていたので、これは何だったかと母親に尋ねると、蓼、紅蓼、という返答があった。また、同時に実と花のついた紫蘇の小さな茎も一本入っていた。これは本当は実を全体に散らして食べるんだよと母親が教えてくれたので、そのようにした。別の器に注がれていた醤油に山葵を混ぜて搔き混ぜ、丼の上から垂らしかける。スプーンがついていたが、箸でもってかっ喰らった。父親はビールを全部で三杯飲んで、良い気分に酔っ払っていたようだった。こちらは食べ終わったあとや品物を待っているあいだなど、会話にはほとんど参加せず、手帳にこの日のことを断片的な言葉でメモ書きしていた。父親は一人のろのろとものを食っていたのだが、その途中でやって来たウェイターが、膳の一部を片付けてしまった。それでウェイターが去ったあと、母親は、まだ食べているのに、何か嫌だね、と漏らした。しかも、大根がまだ残っていたのに、と言う。刺し身のツマとしてついてきていた大根を父親は食っていなかったのだ。父親もそうだなと同意し、母親は、アンケートに書いておけばなどと言って笑っていた。こちらは母親が天麩羅すべては食べ切れないと言うので、茄子と海老の天麩羅を貰った。さらに、膳にはデザートがついてきたのだが、父親の分はこちらが「代理で」頂くことになった。デザートは海鮮丼にもついてきたのと同じフルーツ二種と、一見するとプリンのような、器に入ったチーズケーキか何かだった。それを頂き、父親もすべてを食し、ビールも飲み終えて、それでは行くかとなった。書き忘れていたが、食後にはサービスとしてほうじ茶が出てきた。これがさすがにと言うべきか、なかなか風味のあって香ばしく、美味いものだった。
 店を出てフロントの前まで行くと、集団客が丁度入ってくるところで、大きな荷物を持った男女が集まっており、あたりはがやがやと賑やかになっていた。レストランでは外国人の姿も多く見かけたし、ホテル内を歩いていても中国語を喋る人々とたびたびすれ違ったりもする。それでエレベーターに乗って部屋まで戻った。部屋の隅に置かれた棚の上部から、LANケーブルが引き出せるようになっていた。それでこれを繋げばインターネットが出来るのだなというわけで、最大限に引き伸ばして、テーブル上に置いたコンピューターに接続した。それでTwitterを眺めたり、LINE上でホテルにいると報告しておいたあと、九時半から日記を書きはじめた。久しぶりにイヤフォンを使ってAlex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』とR+R=NOW『Collagically Speaking』を聞きながら一時間強、書き進めて、現在一一時前である。これでひとまず旅行開始の一日目はほとんど書くことが出来た。あとはMさんのブログでも読んで眠るだけである。両親はこちらが日記を綴っているあいだに風呂を済ませてしまった。
 シャワーを浴びた。浴びたあと、浴槽の上に物干しロープを渡せるようになっていることに気がついたので、ロープを張り、そこに自分の使ったバスタオルと足拭きマットを掛けておいた。そうして出てくると、Mさんのブログを読む。父親は既に寝床に入って眠り出しており、母親も布団に移ってうとうととしていた。こちらは家から持ってこられたTropicanaのオレンジジュースをコップに注ぎ、母親も飲みたいと言うのでほんの少しだけ分けて注いだが、このオレンジジュースが何か変な味のするもので、あまり美味くなかった。その後起き上がってきた母親も飲んで、変な味がするねと顔を顰めていた。Mさんのブログを二日分読み、最新記事に追いつくと、こちらは寝床に移り、自分の頭上の明かりだけ点けてルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読みはじめた。隣の母親からはじきに鼾のような音が立ちはじめた。そうして五〇分ほど読み進めたところで目が疲れてきたので眠ることにして、明かりを落とした。シャワーを浴びたあとちょっとのあいだは、部屋に備え付けの裾の長い寝間着を羽織っていたのだが、これが暑かったので結局はそれを脱ぎ、パンツ一丁になって清潔な白い布団に潜っていた。


・作文
 11:16 - 12:26 = 1時間10分
 14:45 - 15:11 = 26分
 21:31 - 22:49 = 1時間18分
 計: 2時間54分

・読書
 12:41 - 14:10 = (30分引いて)59分
 15:13 - 16:08 = 55分
 23:11 - 23:33 = 22分
 23:39 - 24:27 = 48分
 計: 3時間4分

  • ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』: 58 - 92
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-30「殴られてぐらつくようになった歯が抜け落ちないまま十年になる」; 2019-07-31「数式に固有名詞を代入し演算結果を待つ一生」; 2019-08-01「傾ける耳を世界の心臓にあなたにだけは伝えたかった」; 2019-08-02「人影に凝らす目もなし明日から事物の輪郭を引き直す」; 2019-08-03「きみの後れ毛をくすぐるこの風の元をたどればテロの爆風」; 2019-08-04「足のない幽霊が追いかけてくるおれはコンバースの踵を踏み」; 2019-08-05「恩寵を丸めて投げる子らの手にこそ聖痕は宿るものとす」

・睡眠
 ? - 10:15 = ?

・音楽

2019/8/5, Mon.

 村上(……)今日のわれわれの科学の源流を遡ったときに、十七世紀が直接的なオリジンになっている。従来の図式からいえばそれで済むわけですが、今日それで済まなくなってきているのは、これもごく単純な話になりますけど、十七世紀に生きていた連中というのは、それじゃいまわれわれがイメージとして描く合理主義とか、あるいは自然科学的な立場とかいったようなものと、本当につながっていたのか、という問を立てたときに、そうしたイメージは、われわれが十七世紀に対して投げかけた一種のファントムにすぎないのではないか、という考え方が出てきた。じゃあ、そこにあるのは何かというと、理性と情念、しかもまさにおっしゃったように理性と情念が単に正反対のものとして拮抗し合ってるんじゃなくて、むしろそれがアマルガムというか、適当なことばがないんですけれども、とにかく決して二つのものではなくて、むしろひとつのものだ。
 中村 よじれていますね。
 村上 よじれてる。その認識というのが自然科学の歴史を遡る場合にも非常に重要なことになってきたわけです。たとえばニュートンを考えた場合に、ニュートンは典型的な十七世紀の人間の一人かもしれないけれども、最近、ニュートンについて〈スケプティカル・アルケミスト?〉というタイトルの論文を書いた人もいるわけです。これはもちろん『スケプティカル・ケミスト』という、例のロバート・ボイルの著作のもじりなわけですね。ボイルも十七世紀ですけれども、こういうことはイギリスでも、いままであんまり言われてこなかった。ニュートンの恥部みたいなものとして、目をつぶられてきたんだけど、実はニュートンは三十代以後はほとんどアルケミーや神学に対しての関心ばかりなんですね。これは今日のわれわれからみれば、非常に非合理な話だと思われるわけですが、そこにあるのは、実をいうと、中世的な、あるいは中世末期からルネサンス期あたりの、たとえば薔薇十字団とか、ロバート・フラッドとか、それからフアン・フェルモント――やっぱりこれも一種の、普通では神秘主義的な科学者のなかに入れられている、つまりほんとうの意味での近代科学者じゃないけれども――そういう連中の考えていた、今日からみれば神秘主義で片づけられるような、そういうものが実は近代の初期の自然科学的な仕事に組み込まれていることを示している。決してそれはニュートンのなかで分離していたとか、非合理なものと合理的なものとが二つパラレルにあったということではなく、むしろそれがニュートンのなかでアマルガメーションを起こしているということ自体のほうが十七世紀の特徴をよく現しているのではないか。(……)
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、196~197; 渡辺守章中村雄二郎村上陽一郎「十七世紀の風景」)

     *

 蓮實 正直いって、われわれがフランスへ行く場合、見たくないものは見まいと決意しない限り、これは気ちがいになるほかはないといった情況が間違いなくありますよね。日本にもそのようなことはあると思うけれども、やはりフランスの場合には、皮膚の色とか、顔つきとか、言葉とか服装とかとにかくシニフィアンとして違っちゃってる連中が、しかも違ってることであからさまな差別を耐えている連中ってのがたくさんいる。つまりフランス人の革命騒ぎからも排除されてしまう外国人の未組織労働者たちですね。その人たちがなにをやってるかというと、ゴミ掃除とか、地下の下水でネズミ取りをやってひどい生活しながら場末に住んでいる。何しろ政府が外国人労働者の入国制限を発表するとすかさずラジオがわれわれフランス人もとうとうゴミ掃除というひどい仕事を始めねばなりませんといった解説を流す国ですから。ところでそうした人たちというのはフランスで生活している限り見まいと思ったって見えてきちゃう。それをみんなは見ないつもりでいるのか、それとも見ざるをえないものを見ないでいられる神経のずぶとさを身につけて、それがいまや習慣化しちゃってるということがあるのかもしれないが、実際そうでもしない限り、まともな人間なら耐えきれない何かがあるわけですね。フランスで生活するにはとにかく残酷さか鈍感さのどちらかを選ばねばとてもやってけないって気が最近パリに行くたびにするわけです。
 ところで、いまのドイツ政府のやり方に関しては残酷さの方が一致して選ばれたという感じが強かった。最初に出たジャーナリズムの反応というのは、左翼系の一部の新聞をのぞいた一般紙をとってみると、ドイツはよくやったといってその断乎たる姿勢を手離しで称賛していたし、それからフランス政府もそれを助けた、これはヨーロッパの一体性の勝利であるということが非常に強調された……。
 豊崎 ハーグのときフランスができなかったことをよくやったという意味じゃ、そこに相通ずるものがありますね。
 蓮實 少くともヴィクトワール(勝利)ということばがあらゆる新聞の一面トップに全部出てきて、文明と野蛮の戦争が勝利したという雰囲気にみちていました。また一体性という点にしてもシュミット首相の決断をドイツ政府の閣僚はユナニミテとして(全員一致で)認めたし、ドイツ国民は与党も野党もユナニミテで支持しているし、われわれもフランスも政府から国民までユナニムであるという、そのユナニミテということが非常に強調されてました。よく考えてみればドイツは全員一致でシュライヤー氏を犠牲にしてしまったのだからずいぶん怖しいことをやったなと思う人がいるはずなのに――事実そうした反応は少しずつ出てはきましたが、ユナニミテとヴィクトワールという言葉ばかりがずっと前面に出てきていたと思います。その前にフランスで小さなハイジャック事件があって、これはまさにフーコー的な主題だと思うけれども、ずっと親に虐げられてきた四十男、そいつはたしか父親を殺しちゃったやつなんですが、なんか自分の政治的な発言をしたいからテレビを呼んでこいというので、パリのオルリー空港でハイジャックをやって、これがあっさり捕まっちゃったときの翌日ですね、街を歩いてて「気狂いは殺せ」というのがほとんどすべての人の言ってることで、いささか怖しくなりました。やっぱり気狂いは殺さなくちゃいけないと。だからフーコーがなにを言おうが、――フーコーに影響されて、そういう人たちに対する関心を高めたなんて人はまずいないと思うけれども、にもかかわらずフーコーのやってることと全く反対のファシスト的な自己保存の体制がかなりの人によって共有されてると思うんですね。
 それはもともとそうだといえばそうなんですけれども、いわゆるフランスの中華思想みたいなものが、いまあるひとつの神話的な域に達しつつあるような気がする。これはジャン=ピエール・ファーユが『全体主義的言語』という重要な著作の中で非常によく分析していることだと思うけれども、フランスの中華思想とひと口にいってもそれはある力がフランスという中心から世界に向かって波及してゆくといった中心の概念ではなく周囲を外敵に包囲された幽閉状況としての中心概念が問題なのだ。彼がよく使うキー・ワードというかその小説の主題にもなったりしている比喩として、フランスという六辺形の内部の精神状態というのは、たえずトロイヤ的な立場だというのがありますね。いつも周りから攻められて包囲されている。だから、フランスの国はヘクトールの子供フランシオンが建国したとする神話が周期的に文学の主題として姿をみせる。そうした視点にたつとここ数十年間というもの、一九三九年から五〇年代の末まで、フランスは主に国外でドンドンパチパチやってて、だいたい植民地戦争のあと始末でみんな敗けてしまったけれども、少くともそれは外に向かっていく時代だった。ド・ゴールがそのあとを継いでもフランスの栄光というので、なんとなく視線が外に向いていたので、いまやド・ゴールも死に、国外のドンドンパチパチもコンコルドに代表されている偉大なるフランスという大時代的な政策も終ったとなると、やはり内側の退却が静かに始まって包囲してくるものに対して自分を守ろうとする力が、すごく陰惨な形で出てきてるような気がする。それは十九世紀の後半、コミューヌが崩壊した後に一度見られた現象だと思うんですが、それを特徴づける一つの符牒は一種の「フランス論」の流行ですね。現在のフランスのベスト・セラーの上位は、だいたいフランス人による「フランス論」によって占められている。ぼくとしてはどうしても危険な兆候だと思いますが〈新哲学派〉の登場もそうした傾向の一つとして存在しているように感じられてなりません。
 (291~294; 渡辺守章豊崎光一+蓮實重彦「猿とデリディエンヌ」)


 一〇時四〇分起床。汗の感触。起き上がってコンピューターを点け、Twitterやメールをチェックしたあと――H.Mさんから半年越しでメールの返信が届いているのに、前日気づいていた――上階に行った。母親は仕事で不在。素麺があると書き置きにあったので冷蔵庫を覗き、南瓜の煮物とプラスチック・パックに入った素麺を取り出した。南瓜を電子レンジに入れて温めているあいだに便所に行って放尿し、戻ってくると麺つゆを用意した。椀に注いだつゆのなかに冷凍庫に刻まれて保存されていた葱を少々入れて溶かし、そうして卓に行った。新聞は一面で、米テキサス州エルパソで起こった銃乱射事件を伝えている。二〇人が死亡したと言い、犯人は白人至上主義的な思想を持った人物のようで――二一歳と書いてあったと思う――ヘイトクライムの疑いが強いとのことだった。また、同日、オハイオ州でもやはり銃乱射事件が起こり、こちらは九人が死亡、犯人も射殺されて動機は解明されていないと言う。頁をめくって国際面からもテキサス州の事件の記事を読みながらものを食べ、食べ終えると台所に移って、冷蔵庫で冷やされた水をコップに注いだ。外からは、鶯の鳴き声が頻々と響いていた。八月になっても鳴いているとはなかなか長いもので、鳴きぶりも堂に入っていると言うか、闊達かつ旺盛なようだった。汲んだ水を一杯飲むともう一杯注ぎ、それでもって抗鬱薬を服用してから皿を洗った。そうして風呂も洗うと自室に下りてきて、Evernoteを起動させ、前日の読書時間の記録や支出の計算などをしたあと、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめた。一一時四五分だった。そこから一時間強、前日の記事を綴って一時に達したが、Mさんとの通話の記述が一向に終わらなさそうだったので、途中でこちらに移って、先にこの日の日記をここまで書いた。今日は労働は三時から、従って二時半頃の電車で行かなければならないので、猶予があまりないのだ。
 その後も前日の記事を書き足して、一時四七分に至ったところでそろそろ支度をしなければ危ないなというわけで書き物を中断した。上階へ。食事を取ったのだが、何を食ったのだったか? 素麺が少々残っていたのでそれを食べたのだ。そのほか、やはり残り物のゴーヤ・チャンプルーと、棒々鶏の素で味付けされたサラダ。外は快晴、大気に光が通って山の緑が鮮やかであり、川沿いの木々が風に左右に揺らいでいるのが視認された。ものを食べて食器を洗うと、ベランダに吊るされていた洗濯物を室内に取り込んだ。本当はさらに取り込んだものをいくらか畳んでおきたかったのだが、既に二時を過ぎていて時間的猶予がなさそうだったので取り込んだだけで放置し、下階へ戻った。歯磨きをしたあと、ワイシャツとスラックスの姿に着替える。そうして便所で糞を垂れるともう出発の時間である。クラッチバッグに財布や携帯や手帳を入れて上階へ行き、ハンカチを引出しから取って後ろのポケットに収めると、玄関を抜けた。隣家の百日紅は直立した枝の上端に、まだまだ重そうに紅色の花を膨らませている。西へ向かって歩いていく。日向に出ると熱線がじりじりと肌に触れてくるが、数日前のような重みが感じられず、風も通ってわりあい爽やかな陽気のように思われた。坂道に入ると、ここでも風が道の縁を埋める木々をざわめかせている。路面に宿った木洩れ陽が足もとで震えているのを踏みながら上っていき、出口間際でふたたび日向に出ると、ここでは先ほどと違って陽射しがやはり重く、厚く感じられた。辟易しながら横断歩道を渡り、駅舎に入ってホームに渡ると、屋根の下に入って手帳を取り出した。ハンカチもポケットから取り出して、首筋を拭きながら手帳を読んだ。風が西から東へと、あるいは東から西へと緩やかに走った。
 アナウンスが入ると手帳を持ったままホームの先に行き、入線してきた電車に乗り込んだ。電車内は結構混み合っていた。こちらの乗った口の周囲には若者が四人くらい集まっていた。それで扉際は取れなかったので車両の奥の方に入って、引き続き手帳を読みながら電車が青梅に到着するのを待った。着くと降り、ホームの対岸に雪崩れていく人々をやり過ごしながら階段に向かい、通路を辿って改札を抜けると熱線に目を細めながら職場に行った。入ってデスクに就いている室長に挨拶すると、(……)さんが八月八日付で教室を去るということを告げられたが、本人から聞きましたと答えた。本来はお盆明け、八月一九日までということだったらしいのだが、室長やマネージャーがさっさと新天地に赴任するように働きかけたのだ、というようなことを言っていた。
 それで準備をして、授業。一コマ目は(……)さん(小学生だが学年は忘れた――五年か六年だろうか?・国算)に、(……)さん(高三・英語)。前者は初顔合わせ。この子は、特別支援学級の生徒なのだと言う。と言うことは多分、多少の知的障害があるということなのだろう。実際、今日の算数は、宿題に出ていた単位の計算がわからなかったと言うので、そこを扱っただけで終わってしまったのだが、一キログラムが千グラムであるということ、これを踏まえて、それでは三キログラムは? などと問うても、なかなかすぐに答えが出てこない。完全に理解できていないわけではないと思うのだが、しっかり理解できているとも思われない。しかし最後の方では、四〇六〇グラムをすぐに四キロ六〇グラムと変換できたりもして、どれくらい理解しているのか良くわからない。出来るところと出来ないところの差が激しいような印象である。国語の方は漢字だった。こちらは特段の問題はないだろう。(……)先生が当たっている時には、すぐに先生、先生、と講師を呼んでばかりいるような印象があったのだが、今日はこちらがもう一人に当たっているあいだも静かに待っていて、性急に呼ばれるようなことは一度もなかった。(……)さんに結構密着してやっていたので、(……)さんの指導の方はやや薄めになってしまった。今日やったのは前置詞の箇所。byとuntilの使い分けなどについてノートには記入してもらった。
 二コマ目は(……)さん(高二・英語)、(……)さん(高二・英語)、(……)くん(中三・英語)。(……)さんは自ら進めてくれ、ノートも自発的に記入してくれるのでやりやすい生徒である。多少放っておいても問題ない。彼女のやるペースに合わせて、時折り解説をしたり、質問を受け付けたりした。(……)さんも、最初Next Stageの問題の解説をしている時から、こちらが何も言わなくともノートに表現を記録してくれて、何だか意欲的だなと思った。そんなに意欲のある子だっただろうか? 今日扱ったのは受動態で、その後はmade ofとmade fromの違いなどについてメモしてもらったのだが、最初はこの二種の表現の区別を逆に書いていた。指摘すると、いくらか戸惑っていたようだが、最終的には多分理解出来たのではないか。(……)くんは何だかいつも疲れているようなイメージ。今日は疑問詞の箇所を扱ったが、ミスはほとんどなく、あっても細かいもののみで出来に文句はない。それなのでノートにはbe afraid ofの表現をメモしたのみとなった。
 三コマ目は二コマ目から引き続き(……)さんと、(……)くん(小六・社会)、(……)さん(中三・社会)。(……)さんは先ほど述べたように自分からどんどん進めてくれるし、ほか二人も真面目なのでやりやすかった。(……)くんは運輸や貿易などについて扱い、(……)さんは関東・東北・北海道について。二人ともノートを充実させることが出来、(……)さんは復習も一頁行うことが出来た。
 それで終業。机の掃除などをしてからタイムカードを押し、ロッカーからバッグを持って退勤した。駅舎に入り、例によって自販機に寄り、一三〇円で二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買ってベンチに就いた。それほど暑気がもやもやと蒸さないような印象だった。あるいは身体が暑さに慣れてきたのだろうか。コーラを飲みながら手帳を読み、飲み干したボトルを捨てたあとも引き続き手帳を繰って、奥多摩行きが来ると乗車し、席に就いて手もとに目を落とし続けた。
 最寄り駅で降りると、西空の低みに薄雲に包まれた月が、夜闇のなかにうっすらと浮かんでいて、巨人の親指で空に押しつけられた曇りのように映った。カメムシのぶんぶん飛んでいる階段通路を抜けて、横断歩道を渡り、坂道に入りながらふたたび夜空を見上げると、晴れている箇所では星が一つ、明々と灯っており、月は今度は殻に包まれた卵のように見えた。昨晩のMさんとの会話などを思い出しながら、林から蟬の声が散発的にギイギイ響いてくる家路を辿った。帰宅するとワイシャツを脱いで洗面所に入れておき、下階に戻ると着替えて食事を取りに行った。品目はトマトソースとズッキーニを絡めたラタトゥイユめいた料理に、素麺のサラダ。それぞれを皿に盛って卓に行き、食事を取ると皿を洗った。食事を終える頃には母親が風呂から出てきたのだと思う。こちらも続いて入浴し、出てくるとソファに就いて涼みながらひとときテレビを眺めた。コシノミチコの友人である酒造会社経営者のとある婦人が、イギリスにある元貴族の館を購入したとか何とか紹介されていた。二〇億円だとか言う。その人はさらにロンドンにも高層マンションを借りていて、その家賃が月二〇〇万円とのことだった。いかにも得々とした様子で、こちらなどには想像も出来ないような別世界の人間の暮らしだが、それだけの金があるのだから、こういう人たちがもっと貧困層に対する支援などをしてくれれば、世の中もう少しは良くなるだろうになあと思われた――もう既に支援しているのかもしれないが。テレビをちょっと見たあと、下階に下り、一〇時前から日記を書き出した。Alex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』とともに前日の日記を書き進めて、一時間掛けてようやく完成させることが出来た。累計で二万字ほどになったようである。それからこの日の記事も本来ならば早めに書きたかったのだが、既に長い記事を一つ拵えたためになかなか気力が足りなかったので、Twitterを眺めたり、LINE上でやりとりをしたりした。それで零時になったところでベッドに移り、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読みはじめたが、いつものようにまもなく意識を消失した。正気に戻ると既に三時台だったと思う。そのまま就寝した。


・作文
 11:44 - 13:47 = 2時間3分
 21:51 - 22:53 = 1時間2分
 計: 3時間5分

・読書
 24:00 - ? = ?

・睡眠
 3:20 - 10:40 = 7時間20分

・音楽

2019/8/4, Sun.

 ところでそのデリダが〈エクリチュールの学〉として構想する〈グラマトロジー〉、それは単に文字言語としてエクリチュール復権させようとするものではないが、しかし差し当たり、〈生きた音声言語[パロール]〉によって〈死んだ言葉〉として排除され、単なる〈補完物〉、しかも危険な[﹅3]補完物に過ぎないと貶められてきた〈文字言語〉が、何故、どのようにしてそのような抑圧を蒙ってきたか、その系譜学を企てようとするものだ。彼が〈現前性[プレザンス]の形而上学〉と呼ぶプラトン以来の西洋世界の〈知〉の根底を成すものの形成とその君臨の地平のなかで、デリダが掘り起こし読み直すテクストは、まずはルソーの『言語起源論』であり、プラトンの『パイドロス』であり、更にはニーチェの『悲劇の誕生』のテクスト圏、フロイト精神分析の言説、あるいはアルトーの〈残酷演劇〉の要請であった。ルソーの『言語起源論』における始原的言語への幻想と、文字言語の断罪とは、それが拠って立つ基盤もろとも、読み直されるのであるし、ニーチェにおけるディオニュソス的言語の体験、フロイトにおける〈夢〉という〈エクリチュールの舞台〉の発見と読解作業、そして、アルトーにおける音声=分節言語の廃絶と、〈生きた象形文字〉の実現とは、いずれもこの〈エクリチュール〉と呼ばれる怪しげな、危険な影=分身との関係で論じられていた。
 このような音声=分節言語の君臨を、デリダは〈音声 - ロゴス - 中心主義〉と呼び、その〈存在 - 神 - 学[オント・テオ・ロジー]〉の構造を暴くわけだが、その際に、西洋世界にあっては歴史的に言って、演劇の場が、このような構造の規範的な顕揚の場であっただけに、それは同時に、このような存在 - 神 - 学的構造関係を超克する企てにおいて、ほとんど特権的な闘いの場と見做され得るのであった。特にこの点は、アルトー論において尖鋭化される。アルトーが拒否したのは、まさに、舞台の外に、それを超えて、作者の言葉として書かれ、舞台上に君臨する言葉だったが、それはさながら天地創造の神の言葉が被造物に対して持つのと同じ関係に立つと考えられたのだ。デリダは主として〈分節化=ずれの発生〉に対する反抗として、ルソーの言説もアルトーの主張も読み直そうとする。しかし、アルトーが分節言語である限りの音声言語を拒否して、純粋に空間的な言語を要求し、肉体の深層から発する「叫び」によって演戯体を「生きた象形文字」に変容させようとしたのは、時間的に先行しかつ超越する存在=始原の拒否であり、従ってその帰結として時間の目的論的神学構造をも拒絶することであり、〈時間〉という神学的圧制者から自由になるための戦略でもあった。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、176~178; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 ハムレットの夜、または空間と演戯」)

     *

 しかし、この〈空間の君臨〉も、単なる文芸批評や哲学の任意的・偶発的選択に基づくものではない。デリダの『グラマトロジーについて』の出発点が、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』第二十八章「文字の教授」の批判的読解であったことは、この際思い出しておいてよいことだろう。如何にもレヴィ=ストロース自身、自らの「構造的人類学」を確立するに当たって、マルクス主義に代表される〈歴史の呪物崇拝〉を排し、〈時間〉の暴政から〈知〉を解き放とうとしたのであるから。優れて音楽的想像力の持ち主でもあるレヴィ=ストロースにとって、直線的な、しかも普遍的に通用すべき発展段階説に基づく史観――それは進歩的イデオロギーの部品であろうとなかろうと、いずれにせよ西洋近代が作り上げた「進化論」の文明版には違いなかった――から、自己の研究領域を切り離し、自立させることが急務だったのである。
 それは、地球上の空間の意味の変化とも深い関わりがあるだろう。もはや地球上の諸文明に進化論的上下関係はなく、すべては等価であるとする一つの倫理を彼は自らに課した。言いかえれば、それらの文明を担う諸空間もまた等価なのであった。この〈空間〉の復権が、西洋型文明の植民地支配の、少くともその十九世紀型支配の終焉と重なっていたことは恐らく偶然ではない。と同時に、すでに垣間見たように、〈空間〉の幻惑は、ヘーゲル的時間の神学構造の拒否と表裏一体をなす。そこには革命の挫折や幻滅から来る目的論的時間の神話の崩壊が、さし当たりは重なっているように思える。フーコーも「権力の目」のなかで強調しているように、〈空間の問題〉が西洋社会において、歴史的・政治的問題として立ち現われるのには長い時間を要したし、そのような空間の軽視には、哲学の言説の偏向が大いに与って力があった。十八世紀末に、政治的テクノロジーと物理学を中心とする自然科学の実践が空間を自己の領域とするや、哲学から「世界を、宇宙[コスモス]を、有限あるいは無限の空間を論じる権利」が奪われて、哲学は〈時間〉についての問題意識のなかに追い込まれることになったと言うのである。カント以来、ヘーゲルにとっても、ベルクソンにとっても、ハイデッガーにとっても、哲学者が思考すべきものは〈時間〉であって〈空間〉ではなかったのだ。そこから、相関的に、空間についての蔑視が生まれる。フーコーの証言によれば、十年前に「空間の政治学」を語ったところ、空間に固執するのは大いに反動的だと非難されたと言う。(……)
 (178~180; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 ハムレットの夜、または空間と演戯」)


 一二時まで寝坊。扇風機の風を浴びながらごろごろと床に横たわり続けた。起きていき、母親に挨拶。食事は炒飯。その他、前日の茄子の味噌汁の残りや茄子焼きの残りやサラダなど。冷蔵庫のなかで冷やされた水を、氷を入れたコップにたびたび注いで飲む。食べ終えて抗鬱剤を服用すると台所で皿を洗い、それから風呂も洗った。そうして下階へ。エアコンを点け、コンピューターを起動させ、インターネットを少々覗いたあと、日記を書きはじめると一時五分だった。そこから一時間ほどで前日分を仕上げ、この日の記事もここまで。BGMはAlex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』。
 前日の記事をインターネット上に投稿すると、腰が疲れていたのでベッドに寝転んだ。そのまま本を読むでもなく、完全に眠りに落ちるでもなく、エアコンの風で冷やされた快適な室内で、薄布団にくるまって何もせずにだらだらと休み続けた。そして三時半頃になってようやく起き上がり、歯磨きをしながらMさんのブログを読んだ。合間に服を着替え――モザイク調の絵がプリントされた白いTシャツと、ガンクラブ・チェックのズボン――二日分記事を読んで三時五〇分を過ぎると、コンピューターをシャットダウンして、リュックサックを肩に掛けて部屋を出た。上階に行っても母親の姿はなかった。それで階段を下り、両親の寝室に入ると、そこに布団を支度している母親がいたので、どうするのかと訊いた。自分も出かけようかな、というようなことをちょっと漏らしていたのだ。しかし、やはり行くのは止めたと言うので、それでは出かけてくると告げて室を抜け、電車の時間までまだだいぶ余裕があったが早めに出ることにした。道を西へ行くあいだ、林からは数種の蟬の合唱が拡散し、降り注いでくる。通りを行っていると道脇の、すぐ傍の、緑の枝葉を織りなしている木々からもカナカナの鳴き声が近く立って、その姿を捉えようと視線を向けて目を凝らしたが見つからなかった。道の上では日蔭がもうだいぶ多くなって日向を駆逐しているが、それでも明るみのなかに入れば熱線が重い。坂に入ると、光を受けて鮮やかな緑に明るんでいる木々の天蓋がそのまま蟬の声と化したようにアブラゼミの鳴き声が頭上や四囲に広がった。そのなかから時折り、ミンミンゼミの声が波打ち、鈴を細かく振り鳴らすような蜩の鳴きも飛び出してくる。坂道を上りきって横断歩道に出ると西陽が激しく、視界は眩しく、渡って駅の階段を上るあいだも、まだまだ高くて丘に接するまで間のある太陽が斜めに光を降らせて、日の盛りを過ぎてもかえって旺盛なような熱気を肌にもたらした。ホームに入ればベンチは西陽に浸されているので座る気にはならず、その後ろの蔭のなかに立って、手帳を取り出した。肘の内側に出来た汗疹が汗に触れられてぴりぴりとした。暑いとは言ってもしかし、Tシャツ一枚の軽装でもあり、風も吹き、陽が傾いて空気に籠った熱もいくらかましになっているようで、汗の搔き方は普段出勤時にワイシャツを着込んでいる時よりは苛烈でなかった。それでも背面の下部など隙間なく濡れるので、Tシャツを引き上げてハンカチを当てて水気を拭う。
 電車到着のアナウンスが入ると、リュックサックは肩当ての片方のみ掛け、手帳を持ったまま陽射しのなかを歩いてホームの先に行った。乗り込むと、電車内は山に行ってきた人々で混み合っていたものの、満員というほどではない。扉際を陣取って、扉に対して正面から向かい合うのではなく、横を向いて左に体重を預け、手帳の文言を読み続けた。青梅に着くと降りて、一斉になだれ出てはホームの対岸に向かっていく人々のあいだを通り抜け、ホームの先頭の方へと向かった。乗り換えの立川行きはまだ着いていなかったので、陽射しのなかには出ず、屋根の端の日蔭で止まり、手帳を眺めながら電車が来るのを待ってから、乗り込んで二号車の三人掛けに腰を下ろした。そうして河辺まで手元に目を落とし続ける。
 降車すると、横の壁に設えられた北海道旅行の広告を横目で眺めながらエスカレーターを上り、改札を抜けて歩廊に出た。眼下を見下ろすと、コンビニ前のベンチがあった場所にはカラー・コーンが置かれており、それが囲んでいる木の幹に紙が貼られてあって、ベンチは撤去しましたというような文字が悪い視力でも辛うじて認められた。紙はもう一種か二種貼られていたが、そちらに書いてある文字は細かくて視認出来なかった。事情は知れないが、何となく、ここで素性のあまりよろしくなさそうな男たちがたびたび酒盛りをしていたのに苦情が入ったのではないかという気がする。酒盛りと言うほどに大規模で騒がしいものでもなかったのだが、得体の知れないような感じの高年の男たちが――時折り女性も混ざっていたと思うが――昼間からよく集まって、ビール缶を手にしているのが見かけられたのだ。周りに明確な迷惑を掛けていたわけでもあるまいし、もしその程度のことでベンチが撤去されてしまったのだとしたら、こちらも時たま使っていたものでもあるし、勿体なく思うとともに、こうした小さな事例にも現代社会に蔓延する不寛容の空気が表れているように思わないでもないが、当の男たちはベンチが撤去されてもへっちゃらというわけか、コンビニの横の道の端に地べたにそのまま座り込んで集まっている姿がこの時も見られたのだった。
 図書館に入るとカウンターに行き、本を三冊差し出して、一冊は返却で、二冊はもう一度借りたいと申し出た。再度借りることにしたのは、ヤン=ヴェルナー・ミュラーポピュリズムとは何か』と、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』である。前者は書抜きが終わっておらず、後者はまったく手をつけていないのだが、返却期限が訪露中の時日に当たっていたので、一度返却するために図書館までやって来たのだった。それで三冊を返却手続きしてもらい、そのうち二冊はふたたび受け取ってカウンターを離れ、CDの棚を見に行った。新着の区画に目当てのR+R=NOW『Collagically Speaking』があったのですぐさま手に取った。それからジャズの区画に移って見分すると、Brad Mehldau『After Bach』も見つかったので、これも借りないわけには行かない。そうして最後の三枚目を何にしようか、はっきりと惹きつけられる候補を見つけられずに迷っていたところで、最後にJohn Scofieldの『Combo 66』を発見した。Gerald ClaytonにVicente Archer、そしてScofieldとは長い付き合いになるが、
Bill Stewartがドラムを叩いているとなればやはり借りないわけには行かない。それで三枚が決まって、上階に行き、新着図書を眺めたあと、文庫本の区画へ向かってフロアを長く横切った。借りようと思っていたのは講談社学術文庫ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』で、これは八月二五日に控えている読書会の課題書なのだ。以前所在を確認しておいたので難なく見つけ、三枚と三冊を持って自動貸出機に寄り、手続きを済ませるとさっさと帰ることにした。退館して歩廊を渡り、改札を抜けてエスカレーターを下りた。今度は左の壁に設えられているのは、山梨の広告だった。ホームに下りると一号車の端の位置に立ち、自販機に裏から寄り掛かりながら手帳をひらき、文言を読んでいると、車椅子の人が電車を降りる際にホームと車両とのあいだに渡される補助板を持った駅員がやって来た。それで邪魔になるまいと、電車がやって来ると乗り場の場所を一つずらして二号車の一番前の口に寄った。ここではベビーカーを伴った女性が降りようとしていて、慎重にそれを持ち上げて前の車輪をホームに下ろしてから押し手を持って後部も持ち上げて降りていくのを眺めていたのだが、そのあとから乗車してから、手伝ってあげれば良かったかと思った。青梅までのあいだは確か立っていたのではなかったか。
 降りるとホームを移動して屋根の下に入り、自販機に寄って例によって二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。そうしてベンチに就いて手帳をひらきながら飲みだすと、隣の女性がキャリーバッグを伴った白人の婦人に、何かを訊かれており、女性は狼狽したようになっていた。それからしばらくして、奥多摩行きがやって来ると、コーラをゆっくり飲んでいるこちらの元にも婦人はやって来て、奥多摩行きの電車を指しながら、ミタケ? ミタケ? と訊くので、Yesと答えた。すると婦人は電車に乗り込んでいき、こちらもコーラを飲み干してそれをダストボックスに捨ててから、遅れて乗り込み、婦人と同じ七人掛けの端に就いた。話しかけようかどうしようか迷っていた。御嶽に行きたいらしいが、きちんと正しい駅で降りられるだろうか、目的地までの行き方はわかっているのだろうかと心配を抱いた。相手も結構な歳の婦人なのだし――四〇代か五〇歳くらいではなかっただろうか――子供ではないのだから、そんな心配はいらなかったのだろうけれど、こちらはもし相手が誰にも尋ねられずに困っているようだったら何か手伝えることはないだろうかと思いつつも、英語でのコミュニケーションにまったく自信がないから、話しかける踏ん切りを付けられずにいた。じきに電車は発車した。さっさと席を立って相手の傍に移動し、Excuse me, can I help you? と尋ねれば良かったのだろうが、丁度こちらの向かいには女児と母親の二人連れが座っていて、自意識過剰にも彼女らの存在が気になった。それで話しかけられないままに最寄り駅に着いてしまったのだが、こちらはそこで降りず、何と電車のドアが閉まるまで動かずに静止して席を離れなかったのだ。婦人が御嶽できちんと降りられるかどうか、話しかけるかどうかは別にしても、見届けようと思ったのだ。それでそのようなにわかストーカーじみた振舞いに出て、手帳も読まずに婦人の方を時折り窺いながら電車に揺られた。彼女は地図やパンフレットの類を取り出して眺めたり、身体を横にして窓の外の森深い風景に目をやったりしていた。軍畑で向かいの席に就いていた母子が降りていった。それで車内にはこちらの挙動に視線を向けるような人もいなくなったので、婦人の方に手を振ってこちらに気づかせ、Can I help you? とようやく尋ねた。大丈夫だと彼女は答えた。Where do you want to go? と既に答えを知っているはずの質問を向けると、当然Mitake、と返る。What do you see in Mitake? と続ければ、Shrine、との返答があった。山の上にある御嶽神社である。御嶽山など、明治神宮やら伊勢神宮やらと比べると、日本全国的には全然有名でない神社のはずだが、こういう外国の人は一体どうやってその存在を知るのだろう? How did you know、と尋ねてみれば良かった。それで、Do you know how to go? と訊けば、Yesと返り、bus、と続くので、OK、と言って右手の親指を挙げ、笑みを浮かべた。それでやりとりは一度終わったが、しばらくすると婦人が何かこちらに声を掛けてきた。繰り返している言葉をよく聞くと、bears, bearsと言っているのがわかったので、bears、と受けて笑った。外の青々とした広大な深い森が、まるで熊が出そうだと言うのだろう。それでThere are many bearsと言うと婦人は怖がるような素振りを見せた。And... deer? と続けると、婦人は、Ah, deer, nice、と言った。そのあたりで御嶽に到着したので、こちらと婦人は別々の扉口から降りた。丁度向かいに青梅行きが停まっていたのでこちらはそちらへ向かいながら、婦人に手を振った。彼女はGoodbye、とか何とか言いながら――距離があって正確に聞こえなかったが――手を振り返してくれた。それでこちらは登山の帰りの客で席の埋まっている青梅行きに乗り込み、扉際で手帳をひらき、婦人とのやりとりのことを考えながら文字を追った。それにしても、御嶽の方など近くに住んでいても普段まったく行かないけれど、改めて見てみると山がとても近く、緑も青々として鮮やかに美しかったものだ。住んでいる場所から僅か二〇分か三〇分程度でこうした深い自然の真っ只中に入っていくことが出来るというのは、都会人には得られない一つの資産なのかもしれない。
 最寄り駅で降りて駅舎を抜け、カナカナの鳴きしきるなか坂道を下っていき、平らな道を家まで帰った。Hさんの旦那さんが家の外に出ていたが、この人は無愛想で、こちらから挨拶を掛けてもまるで不機嫌であるようなぶすっとした返答しか返さないので、この時は声を掛けなかった。自宅の玄関は開け放たれており、鍵を使う必要はなかった。入っていくと母親はソファに就いてタブレットを弄っていた。台所には天麩羅が揚げられていた。ゴーヤの種を天麩羅として揚げたのだと言った。こちらはカバー・ソックスを脱ぐと洗面所の籠のなかに入れておき、自室に帰ってエアコンを点けた。Tシャツは脱がず、ズボンだけ脱いでハーフ・パンツに着替えると、TwitterでMさんのメッセージに返答した。先ほど、今日の夜に通話しませんかと誘っておいたのだ。夜は深夜出勤の父親が隣で寝ているから通話しづらい、零時以降だったら良いが、と言うので、こちらはいつも三時頃まで起きているので大丈夫であると送り返しておいた。それから上階に上がって、訪露のための荷物をキャリー・バッグに入れはじめた。と言って、こちらの荷物となるのは大方衣服くらいのものである。三セット程度持っていけば充分だろうというわけで、自室からシャツやズボンを運んできて、折り畳み、バッグのなかに詰めていった。そのほか肌着・下着の類だが、肌着のシャツが何故か仏間のタンスのなかに見つからなかった。パンツは新しいものを二枚下ろすことにしたが、母親が、水にくぐらせておいた方が良いと言うので、洗ってもらうことにして洗面所にネットに包んで置いておいた。そうして新しい歯ブラシをバッグに入った衣服の上に放り投げておき、それで大方荷物は完成した。あとほかに何が要るのだろうか? 旅行などほとんどしたことがないので、勝手がわからない。まあ着るものさえあればどうにかなるだろうというわけで払って、下階に戻り、日記を書きはじめた。Mさんとの通話は、零時半から始めることになった。FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなか、四〇分ほど打鍵して、七時半前になったところで食事を取りに行った。天麩羅とゴーヤ・チャンプルーを電子レンジで温め、南瓜の煮物を小皿によそった。台所にはサラダの支度が成されていたが、材料がまだ混ぜられていなかった。それなので、トマトに鶏肉、胡瓜に玉ねぎ――書き忘れていたが、先ほど荷物を作ったあとに台所で紫玉ねぎをスライスしておいたのだった――をボウルのなかに入れて、菜箸で混ぜた。味付けは、と訊くと、棒々鶏の素があるからそれでと言うので、冷蔵庫から素を取り出し、細長い袋の口を切って中身を押し出し、菜箸で上に下に野菜を搔き混ぜた。そうして出来たものを大皿に盛り、白米をよそって卓に行った。テレビは『モヤモヤさまぁ~ず』。ハワイを訪れているらしい。本物の斧を投げて的に刺して競うゲームなどが行われるのを眺める。食事を終えると薬を服用し、食器を洗って、便所に行って糞を垂れてから風呂に入った。綺麗な一番風呂の熱い湯に浸かり、しばらく経つと出てきて、台所で冷たい水を一杯飲むと、エアコンの掛かった居間で汗を涼めた。そうして自室に下りてくると、ふたたび日記を書き出して、ここまで書き足して九時前である。
 それから詩を書こうと試みた。現代詩文庫の『大岡信詩集』をひらき、なかの詩篇を瞥見しながら詩句を作ろうとしたのだが、結局自分の場合は幻想域に高々と飛翔する詩的想像力みたいなものは持ち合わせていないし、日常的な貧しい経験に基づいたものを作るほかはないのかもしれない。三〇分ほど掛かって出来たのが以下の詩篇である。

 駅の階段に
 斜めに射しかかる西陽の
 その粘っこい光が細胞の隙間に浸透していくのが
 憤ろしくはないか

 夜の道でカナカナが
 木々の合間からたった一匹で
 鈴を激しく振り鳴らすようにわめき出すのが
 悲しくはないか

 ベッドルームから革命を
 なんて九〇年代イギリスのバンドは歌ったけれど
 二〇一九年 時代も変わって 僕らの若者は
 寛容と不寛容
 自由と不自由
 誠実と不実の
 戦いの狭間でどちらにもつけず
 アニメを見ながらポテトチップスを貪るばかりさ

 ああ 森には熊がいるだろうし
 その隣には鹿がいるかもしれない
 鹿は熊に喰われずに隣り合って共存できるのだろうか
 アウシュヴィッツ収容所跡の
 門のアーチの上には
 「労働は人を自由にする」という文字が
 未だ残されているのだと言う

 「ガス室があろうとなかろうと、俺たちの人生に何の影響があるんだい?」

 駅の階段に
 斜めに射しかかる西陽の
 その粘っこい光が細胞の隙間に浸透していくのが
 寂しくはないか

 夜の道でカナカナが
 木々の合間からたった一匹で
 鈴を激しく振り鳴らすようにわめき出すのが
 恐ろしくはないか

 それから冷たい水を飲むために上階に行ったところ、ロシアの兄夫婦からビデオ通話が掛かってきていて、タブレットの画面に映ったMちゃんの姿を前に両親が話していた。そこにこちらも加わり、しばらくMちゃんの様子を眺めた。どこか行きたい場所はあるかと言うので、特にないが強いて言うなら美術館だろうかと曖昧に答えると、モスクワにはトレチャコフ美術館というものがあるという返答があった。それはロシア国内の美術品を主に集めたものらしく、今しがたウィキペディア記事を見てみたところ、カンディンスキーの絵画など収められているようなのでそれはちょっと見てみたい。ほか、プーシキン美術館というものもあると言い、こちらはロシアだけではなくてヨーロッパの絵画が様々収蔵されているとのことだった。
 通話を終えると一〇時頃だったと思う。水を飲んでから自室に戻り、aiko『暁のラブレター』の流れるなか、ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』の書抜きを行った。ポピュリストは「真の人民」という観念的で擬制的な存在に依拠し、それを代表すると主張する。「人民」概念はカール・シュミットによって理論化されたものらしいが、ハンス・ケルゼンといったシュミットの敵対者はそれに反対し、諸党派を超越した統一的な人民の意志などというものはそもそも認識不可能なのだと主張した。ルソーの「一般意志」の概念とも関わってくる話だろうか。
 書抜きに切りを付けると一一時直前だった。音楽を今日借りてきたばかりのR+R=NOW『Collagically Speaking』に替えて、ベッドに移り、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読みはじめた。フォークナー全集はひとまず打ち切りとしたのだ。最近は何だか、小説に向かう気分があまり湧かず、それよりはエッセイや教養書の類に関心が向かっているようだ。この本は読書会の課題書となっているものだが、ここから始めてアウシュヴィッツホロコーストに関連する文献をとりわけいくつか読みたいと思っている。先日『溺れるものと救われるもの』を読んだプリーモ・レーヴィの、『これが人間か』という作――『アウシュヴィッツは終わらない』というタイトルで発刊されていたものの、改訂完全版――も図書館で借りてきているし、所有しているなかでは栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』というミネルヴァ書房の本もある。そのほか、余裕があればアーレントの『エルサレムアイヒマン』に、岩波現代文庫から出ている『アイヒマン調書』も読んでみたいと思っている。『アウシュヴィッツ収容所』はひとまず編者の序文を読んだが、この時点で結構興味深かった。まず、ルドルフ・ヘスと表記されるナチスの高官が二人いることを初めて知った。一人はこの手記を綴ったアウシュヴィッツ収容所元所長のRudolf Höss。それにもう一人、ナチスで総統代理を務めたRudolf Hessという人物がいるのだった。序文によれば、この手記に描かれている収容所長ルドルフ・ヘスの姿は、「すべてに平均的で、まったく悪意はなく、反対に秩序を好み、責任感があり、動物を愛し、自然に愛着を持ち、それなりに「内面的な」天分があり、それどころか「道徳的にまったく非難の余地のない」一人の人間」(33)なのだと言う。要するに、ナチス体制下でなければ、大虐殺などという史上未曾有の犯罪に手を染めることもなく、特に糾弾されるようなことはなかったであろう一般的な小市民の姿というわけだ。「普通の人間」こそがあのような、ほとんど我々の思考と想像力を超越したかに思える凶悪犯罪を唯々諾々と実行したということに、ナチス体制の恐ろしさと凄まじさがあるわけだが、この点はプリーモ・レーヴィも『溺れるものと救われるもの』の末尾で強調していた。彼によれば、アウシュヴィッツの獄吏やSSの人間は、「素質的には私たちと同じような人間だった」(242)。「彼らは普通の人間で、頭脳的にも、その意地悪さも普通だった」と言う。ナチスの教えを狂信的に信じている人間は僅かで、「多くは無関心か、罰を恐れているか、出世をしたいか、あまりにも従順であった」。ただし彼らは「悪い教育」を受けていた、とレーヴィは指摘する。それと照応するように、教育という点に関してはヘスの文書の序文においても言及されている。「彼らは、無批判に服従するよう教育を受け、批判精神も想像力もなく、何十万という人間の「抹殺・粛正」こそが民族と祖国のための職務だと、誠心誠意自らそう信じ、あるいは信じ込まされたのである」(37)。
 ヘスの文書は、「理想主義や責任感から熱心にことにあたった人間と、(……)生来残忍で、他の人の善意をその悪魔のような手仕事で損なった人間を、カテゴリー的に区別することをもはや許さない」(33)。ここに我々を当惑させ、狼狽させる事実があるだろう。ヘスの手記や、プリーモ・レーヴィの報告が示しているのは、ホロコーストの被害者と加害者のあいだに、一見して判別できるような明々白々な境界線がどうやらなかったらしいということなのだ。こうした考察からは、ドイツとソ連で国は違えど、同じく強制収容所の生活を体験した石原吉郎の思想が連想される。彼もまた、人間が単に一面的に被害者であるのではなく、被害者であると同時に加害者でもあるような、人間がそのあいだを瞬時に入れ替わり、入り乱れるような極限的な状況を目撃してきたのだった。
 序文を読み終え、メモを取っているうちに零時二五分に達したので読書を切り上げ、コンピューターや電源コードを持って隣の兄の部屋に移動した。Mさんと通話をするためだが、自室で話していると両親の寝室まで声が届いて眠りを妨げてしまいかねないので、距離の遠くなる隣室に移ったのだった。ベッドの上に乗り、壁のコンセントに電源コードを接続する。そうしてコンピューターを前に手帳を読みながらMさんがSkypeにやって来るのを待った。零時四〇分になったところで、「おる?」と来たので、「お待ちしておりました」と返すと、着信があったので応答した。元気か、とまず訊かれたので、まあ体調は良いですよと答えると、そうみたいやねと笑いが返った。最初のうちに、Hさんの話をしたはずだ。彼と会っているかと言うので、会っていない、以前ダイレクト・メッセージでやりとりをしたがと言って、五月の末日に交わされたその文言を少々読み上げた。小説や文学に関しては自分はもう「門外漢」ですが、と言っていると伝えると、門外漢って、とMさんは笑った。Hさんはそのメッセージでは、小説や読み書きにもう興味が向かなくなってしまったようなことを言っていたのだが、まあ彼も今までも何回かそういうことがあったし、またそのうち戻ってくるんちゃうのというのがMさんの見立てだった。
 それから、最近こちらが読んだなかで一番印象深かったものは何かと訊かれたので、考えながら、やはり石原吉郎だろうかと答えた。詩もそうだが、散文もやはり良い、また、細見和之という人の書いた評伝も面白かったと紹介した。石原吉郎と言うと、覚えていることが一つあるとMさんは言った。日本人を代表してソ連において戦争責任を――まさしくその肉体をもって――果たしてきたと自負していたところが、日本に帰国するとそうした考えが受け入れられることはなく、反対に「アカ」のシンパではないかと疑われて新たな迫害を受けたという苦境のエピソードがそれだが、まったく同じようなことが、Mさんが小説の資料として読んだ戦争証言の本でも語られていたのだと言う。そこからさらに、最近はプリーモ・レーヴィなども読んだとこちらは言って、ホロコーストなどの「シリアスな」話になった。レーヴィはどうやったと訊かれたので、面白かった、と言って良いのかわからないが、興味深くはあったと答え、先日の日記にも書いたことだが、ナチス体制の目的の一つというのは、「敵」であるユダヤ人に対して最大限の苦痛を与えることにあったというレーヴィの指摘を紹介した。彼らはただ単に死ぬのではなく、極限的に苦しみながら死ななければならなかったのだ。何なんだろうと言うか、よくもまあ、あのような体制がこの世に存在できたなっていう感じですよとこちらが漏らすと、Mさんは沈痛そうなトーンの相槌を打った。
 さらに、ルドルフ・ヘスアウシュヴィッツ収容所』という本を今日から読みはじめたところだと話した。アウシュヴィッツの元所長が書いた手記なのだと紹介すると、加害者側ってことや、とMさんは受けた。どう、と訊かれるので、まだ序文を読んだだけだが、やはり凄そうですよと答える。ホロコーストに関しては、Mさんが語ってくれた一つの非常に強烈なエピソードも是非とも記しておかなければならないだろう。彼はそれを、佐々木中のエッセイか何かで知ったのだと言うが、アウシュヴィッツにいた床屋の話である。彼はガス室送りになる前の囚人の髪を切る仕事をしていた。彼の方は今自分が髪を切っている囚人たちが、このあと殺されるのだということをわかっているが、囚人の方はそれを知らずにいる。ちなみにこうして切られた髪というのは、ドイツの企業に買い取られて製品の材料になったという事実も先日の日記に記しておいた通りだが、ある時、その床屋の下に、自分の妻と娘がやって来た。しかしどうしようもない。これから自分の妻子が殺されるのだということをわかっていても、助けることは出来ない。そこで、床屋が彼女らに対して出来たことというのは、通常の囚人相手には三〇秒で髪を切っていたところ、四五秒を掛けてやることだけだったという話だ。思い出したが、これはクロード・ランズマンの『ショアー』のなかに語られている証言の一つであるらしい。それを佐々木中が引いているのをMさんは読んだのだった。やばいよな、と彼は漏らした。言葉もないとはこのことで、とてつもないと言うほかない、凄まじいエピソードである。
 ホロコーストの話から、中国のウイグルでも似たような状況になっているらしいという話題に移ったので、収容所に入れられて「思想教育」「職業教育」をされているっていう話ですね、一〇〇万人とか言うじゃないですかとこちらは受けた。香港の件にしてもそうだけれど、学生たちは――Mさんは中国の大学で日本語教師をしており、今は夏休みで帰国中である――どこまで知ってるんやろ、と思うねと彼は言った。でも、Oさんは香港の件については呟いていたみたいじゃないですか、と彼の日記経由の情報を差し向けると、そう、でも彼女も日本語で書いていて、仄めかすような文面やったし、やっぱり中国語で直接は書けないってことやろなとMさん。
 日本もますます胡散臭いと言うかきな臭いと言うか、妙で嫌らしいような雰囲気になってきている。中国にいると学生たちが日本のニュースをたびたび知らせてくれると言うのだが、京都アニメーションの事件には勿論驚いたし、その後には吉本の件とジャニーズの件が重なって、アニメ業界・お笑い業界・アイドル業界のすべてで大きな事件が起こっているやん、となったと。それに今は、あいちトリエンナーレの件でしょうとこちらが受けると、今の日韓関係の悪化も残念だとMさんは言った。彼の仕事の関連から言っても、日本語教師という職は政治的な両国の関係によって一気に需要がなくなる可能性がある。日韓関係と同様に、日中関係も何がきっかけで途端に悪化するかわからないから、日本語教師という職も不安定と言えば不安定だという話もあった。
 そうした話をしているところで、我々、今日は何だか凄く「シリアスな」話をしていますねとこちらは笑ってちょっと気を抜いた。君が最近そういうものを読んでいるからねとMさんも笑って受ける。ここでそうした「シリアスな」話や本の話から離れた話題を記録しておこう。一つには、年齢の話があった。Mさんは三四歳である。三四という年齢の数字を改めて考え直してみると、相当なものだという風に感じるのだと言う。不謹慎だがと断りながら、京都アニメーション事件の報を読んでいた際に、そう実感したと彼は話した。被害者の氏名と年齢が先日公表されたわけだが、その一覧を見ている時に、二〇代だったら若い女の子とか、三〇何歳だったらおじさん、おばさん、などと無意識のうちに、数字を目にした瞬間瞬時に分類している自分がいた、そこに丁度三四歳という被害者の人がいて、それも即座におじさん(あるいはおばさん)と判断したのだったが、直後に、三四歳って自分もそうではないか! と気づいたのだと言う。Fくんは今度三〇、と訊くのでそうだと肯定する。二〇代っていうとまだ若い感じがするな、とMさんは言う。こちらももう三〇歳かと考えると、だいぶ歳を取ったなあという気持ちになるものだが、Mさん自身は三〇の大台に乗った時にはさほどの印象も受けなかったのだと言う。しかしそれから四年経って三四という数字を目の前にすると、もうおっさんやん! という感慨を禁じ得ないらしい。いや、まだまだ若いでしょとこちらは執り成したが、服装など、自分は全然年相応でないんではないかという気がする、柄物のシャツなんか着ていると、これ一〇代後半の格好じゃないかと思ったりすると言うので、似合っていれば良いんですよ似合っていれば、とこちらは再度執り成した。
 授業準備の話もあった。Fくんは授業準備どれくらいやってると言うので、事前に早めに教室に行って予習をするくらいだと答える。それで何とかなるんや、まあもう長いもんなあ。Mさんも早くそれくらいに仕事に慣れたいと言った。今は授業準備に結構時間を掛け、力を入れているのが日記を読んでも観察される。Mさんの生徒は幸せ者である。来期は三年生のクラスで閲読という長文読解と、新聞を読む授業を同時に担当するらしいのだが、その二つが似通った授業になってしまいそうなところに頭を悩ましていると言った。閲読は教科書に沿って――その教科書というのが、全然面白くもないような文章ばかり揃っている類の代物らしいが――行うつもりだが、新聞を読む授業の方は、題目は脇に置いておいてひたすら自由にやってやろうかなと考えていると言うが、その自由なやり方というのがうまく思いつかないらしかった。今日一つ考えついたと言って説明してくれたのは、音楽の簡単な批評文を生徒に読ませて、その後実際にその音楽を聞かせるという方式で、それは良いじゃないですかとこちらは受けたのだったが、その場合、学生たちにもわかるような難易度の批評文を探すのが難しく、面倒だと言う。ブルー・ノートの昔のライナー・ノーツなどどうですかとこちらは提案したが、どうだろう、元々英語で書かれているものだから、それを訳したものを読ませるということになってしまうし、ジャズはあまり受けないかもしれない。
 また、「本屋さん計画」はどうなったのかと訊かれた時もあった。病気になる以前に、塾講師の職を離れて古本屋でアルバイトさせてもらおうかと思っていた時期があったのだが、今は全然それについては考えなくなったとこちらは答えた。他人の店でアルバイトするならばともかく、自分には自ら店主となって一個の店を運営するような才覚はないと思うのだ。面白そうなのにとMさんは言ったが、こちらはすげなく払った。そこから繋がったのだったか忘れたが、中国では書店が増えてきているという話があった。セレクトショップみたいな感じでしょう、と言うと、そうそう、結局キュレーターになっていくんよな、それかカフェも併設して半コミュニティみたいな感じに、とMさんは言って、それが健全なあり方だと思うと述べた。それから、昔は一つの書店が小さな出版社を兼ねているようなところも結構あった、そこから大手では出せないようなものを発刊したりもしていた、これからまたそういう風な形態が生まれてくるのではないかと彼は見通しを述べた。その例として、横田創の名前が挙がった。Mさんが以前日記に引いていたのをこちらもちょっと読んだことがあるが、結構面白そうな作家で、その人の二〇一八年に出た『落としもの』という本は、大手ではなくて全然名前の知られていないような小さなところから出ていたのだと言うので、ウィキペディア記事を探ってみると、確かに「書肆汽水域」という名前のところから出版されているらしかった。Mさんも、パトロンを見つけられればとこちらが向けると、まあでも、今俺もう飯食えて書けてるからね、と言い、昔に比べると早く出版に漕ぎ着けなくては、自分の文章を金にしなくてはという焦燥感のようなものは全然なくなったと話した。まあそうは言ってもやはり、この時代に何かを発表するとなると、自分を宣伝するような媒体が何かしら必要なんですよとこちらは言い、結局Twitterでフォローをしまくればそれで良いんですよと提案したが、Mさんはそのあたりやはり面倒臭いらしかった。こちらも、今フォローは三三〇〇ほど、フォロワーは一二〇〇くらいいるけれど、結局そのうちこちらのツイートやこの長々しい日記を読んでくれている人がどれだけいるのかと言うと、ほんの僅かであると認めざるを得ないだろう。そんな自分が、Twitterでもっと自己宣伝をしていかないと、などと言っても説得力がないのかもしれないが――とは言え、多く読まれなくとも、たった一人の熱心な読者を生み出せればそれで良いのかもしれない。Mさんの日記に対してこちらという人間がいた、と言うか生まれてしまったように、こちらの日記も、それを深く楽しんでくれる読者が一人生産されればそれで良いのかもしれない。とは言っても、やはり金は欲しいものである。noteで記事が売れたという話もして、投げ銭システムについて説明した。今はまだ微々たるものではあるが、これが五年、一〇年と続けばまた違ってくるのではないか。
 最近こちらは小説を全然読めていない。先日はジュネの『葬儀』を読みだしたけれどすぐに中断してしまったし、フォークナー全集の『八月の光』も同様だ。『八月の光』はMさんも読んだことがあるらしかったが、読書歴の本当に初期の頃だからもうほとんど何も覚えていないと言った。そこから横滑りして、ジョン・スタインベック怒りの葡萄』の話が出てきた。Mさんはその作品も読んだことがあるらしいのだが、それがRPGのようでなかなか面白かったのだと言う。アメリカ内を放浪しながら農園などで働く、おそらく季節労働者と呼ばれるような人々の生活を描いたものらしいのだが、色々な人々がパーティーに加わっては離脱していくその感じが、RPGゲームのようだったと言うのだ。『怒りの葡萄』をRPGとして読んだ人間は自分以外にいないだろうとMさんは述べたのだが、主人公の弟だか兄だかが、わりと重要だと思われたキャラクターなのにどうでも良いような理由でもって突如として一団を去っていく、その合理的な物語の筋から外れたような意想外の感が残っているのだと言う。そういう時に、人生を感じさせるよなと彼は言うので、こちらは、夏目漱石の『坑夫』にもそんなような趣向がありましたねと受けた。こちらが『坑夫』を読んだのも大概昔なのでもう正確には覚えていないのだが、鉱山に向かって旅をする主人公の道連れとして、赤毛布(これで確か「赤ゲット」と読んだはずだ)と呼ばれる少年だか男だかがひととき仲間に加わって、いつの間にかまたいなくなっている、という筋があったはずなのだ。しかも、夏目漱石はそこで、Mさんと同じような、こうした一夜の夢のような儚い一時の共連れの存在こそがよくある物語めいておらず、人生を感じさせるというようなことを述べていたと思う。それからしばらく、『坑夫』の話をして、Evernoteに記録されてある書抜き文を参照して一部読み上げたりもした。読んだのは次の箇所である。

 ……自分は暗い所へ行かなければならないと思っていた。だから茶店の方へ逆戻りをし始めると自分の目的とは反対の見当に取って返す事になる。暗い所から一歩[ひとあし]立ち退いた意味になる。所がこの立退が何となく嬉しかった。その後色々経験をして見たが、こんな矛盾は到る所に転がっている。決して自分ばかりじゃあるまいと思う。近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分った様な事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏[まとま]ったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古ずる位纏まらない物体だ。然し自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人[ひと]も自分同様締りのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れない。それでは失礼に当る。
 (夏目漱石『坑夫』岩波文庫、一九四三年第一刷、二〇一四年改版第一刷、14)

 自分は自分の生活中尤も色彩の多い当時の冒険を暇さえあれば考え出して見る癖がある。考え出す度に、昔の自分の事だから、遠慮なく厳密なる解剖の刀を揮って、縦横十文字に自分の心緒[しんしょ]を切りさいなんで見るが、その結果はいつも千遍一律で、要するに分らないとなる。昔しだから忘れちまったんだなどと云っては不可[いけ]ない。この位切実な経験は自分の生涯中に二度とありゃしない。二十[はたち]以下の無分別から出た無茶だから、その筋道が入り乱れて要領を得んのだと評してはなお不可ない。経験の当時こそ入り乱れて滅多矢鱈に盲動するが、その盲動に立ち至るまでの経過は、落ち着いた今日の頭脳の批判を待たなければとても分らないものだ。この鉱山行だって、昔の夢の今日だから、この位人に解る様に書く事が出来る。色気がなくなったから、あらいざらい書き立てる勇気があると云うばかりじゃない。その時の自分を今の眼の前に引擦[ひきず]り出して、根掘り葉掘り研究する余裕がなければ、たといこれ程にだって到底書けるものじゃない。俗人はその時その場合に書いた経験が一番正しいと思うが、大間違である。刻下の事況と云うものは、転瞬の客気[かっき]に駆られて、飛んでもない誤謬を伝え勝ちのものである。自分の鉱山行などもその時そのままの心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、気取った、偽りの多いものが出来上ったろう。到底、こうやって人の前へ御覧下さいと出された義理じゃない。
 (55~56)

 読んでいただければわかると思うが、小説や日記などの文章を書くという営み、その際の自己に対する距離感という点に夏目漱石は小説内で批評的な視線を向けているのだ。『草枕』にも同じような箇所がありましたよねとこちらは述べた。と言ってこちらは『草枕』を読んだことがないのだが、主人公の画家が、初めから終わりまで物語を順々に読んでいくのではなく、頁を出鱈目にひらいて偶然当たった箇所をランダムに読む、という読書方法を実践していて、宿の女性とそれについて問答めいたやりとりを交わす、という場面があるのを聞き及んではいる。この場合は読むという行為に関して、漱石は作者の設定した筋を従順に追う読み方とは別の読書の実践方法を提起しているわけだ。さらに『坑夫』は、これも曖昧な記憶だが、後半で意識の流れめいたことをちょっとやっていた覚えがあると言うか、心理の解剖を結構な密度でやっていたような覚えがあるので、それについても触れた。Mさんは夏目漱石はほとんどすべての作品を読んでいるらしいが、『坑夫』はまだ読んだことがないのだと言った。なかなか興味深い作品だと思う。数年ぶりにまた読み返してみても良いかもしれない。
 そのほか、どういったきっかけからだったか忘れたが、大江健三郎の話にもなった。村上春樹村上龍のダブル村上が対談している本があるらしいのだが、その対談のなかで二人とも大江健三郎を高く評価していたということだった。大江健三郎もこちらがまだ一冊も読んだことのない作家の一人である。文体が読みにくいということはよく聞くが、Mさんもやはり同じことを言っていて、ただその読みにくさ、ある種のうねうねするような感覚というのは、クロード・シモンなどのような技巧的なそれではなくて、おそらくは大江の「生理」に基づくものだろうということだった。彼はまた、ほとんど自分の過去作の引用とそれに対する考察・註釈のみで作品を作ってしまう、というようなこともやっているらしく、そう聞くと非常に面白そうである。それを聞いてそう言えば、と思い出したのは(……)先生のことで、先日職場で話した際に彼は大江健三郎は嫌いですと断言していたのだったが、その理由が、過去の作品を読まないとわからないような書き方をしていて不親切だということだったので、あれはそういうことだったのかと納得が行った。
 そのほか通話の後半は、こちらがここ三か月くらいのあいだに読んだ小説の紹介などをした。ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』や、金原ひとみ『アッシュベイビー』、岸政彦『ビニール傘』、山尾悠子『飛ぶ孔雀』などである。こうして名前を挙げてみてもすべてそれぞれに特徴の違う作品たちであり、この作品はあんな感じだった、あそこが良かったという感慨がそれぞれに滲んでくるものだが、そう考えるとやはり小説というものは非常に豊かで多様な営みだという感じがする。このなかで一つ目だったものを挙げるとしたら、それは山尾悠子『飛ぶ孔雀』だろうか。これは小説世界の秩序がどう織り成されているのかまったく掴めないような作品で、戸惑いをもたらされる読書というものを久しぶりにしたような気がしたものだった。
 それからMさんが最近読んでいるものの話にもなった。彼は最近は千葉雅也『アメリカ紀行』などを読んでいることが日記に記されてあったので、どうでしたかと尋ねると、まあバルトの『遇景』なんかにちょっと近い感じはあるなということだった。相当に力を抜いて書いているのがよくわかる、と。Mさんも異国で教師生活をするなかで千葉雅也が書いているのと同じような体験を味わったこともあって、結構「共感」したという話だった。Mさんが良いと思ったエピソードの一つには、次のようなものがあると言う。ホテルのベランダかどこかに花が植えられているのだが、その花が異国のものなので名前や種類は勿論わからない、しかしそれが何らかの季節の象徴であるということだけはわかる、というものだ。そのエピソードはしかも、ホテルの部屋で水道か何かが壊れていて、スタッフを読んで直してもらおうとしてレバーを捻ったところ、そのレバーが折れてしまって二人で大笑いした、という何でもないような挿話の直後に書かれているもので、その連なり方が良かった、小説っぽいなと感じさせたということだった。
 千葉雅也に関しては、彼が博士論文を執筆しているあたりから見かけていたのだとMさんは言う。一〇年ほど前の話だが、当時京都に住んでいたMさんは、京都造形大学で催される舞台芸術などのイベントにたびたび足を運んでいた。ある時、ダムタイプの公演があって行ったところ、トーク・イベントが同時に開催されていたのだろう、演壇にいた浅田彰が、客席にいる二人の観客に向けてコメントを求めた時間があって、そのうちの一人がモブノリオであり、もう一人が千葉雅也だったのだと言う。当時、千葉雅也などという名前はまだ全然知られていなかったので、Mさんも当然、あれは誰だ、となった。しかも、立ち上がったのはガチガチのギャル男だったわけである。そのギャル男が、ドゥルーズの概念などを使ってばーっと喋りだしたものだから、Mさんも面食らって、何だこのギャル男! となり、帰ったあとにインターネットで早速検索して、千葉雅也のTwitterに辿り着いたという話だった。
 Mさんはまた、最近日記上で、中島隆博『『荘子』―鶏となって時を告げよ』という本が欲しいと漏らしていた。中島隆博と言えば、小林康夫との共著『日本を解き放つ』を読んで以来、こちらが最近その名を追っている学者で、上記のような著作が刊行されていることは知らなかったのだが、Mさんに、中島の名前をどこで知ったのかと尋ねたところ、それも千葉雅也関連で知ったのだという答えがあった。と言うのも、彼は千葉の師匠筋に当たるらしい。それで、千葉雅也について検索していた時に、どこかしらで名前が引っ掛かったのだと言う。上の著作もその頃から読みたいと思っていたものなのだが、ずっと忘れたままに過ごしていたところ、今回千葉の『動きすぎてはいけない』を読んでみるとそのなかで中島が言及されていて、そう言えばあれも読みたかったのだと思い出したのだということだった。
 それからまた、書き忘れていたが、音楽の話もほんの少しだけ知った。最近何かいいのあったけと訊くので、今日ちょうどRobert Glasperの新しいバンドの音源を借りてきて先ほど流したが、結構格好良かったと告げた。R+R=NOWという、何を意味しているのかよくわからない名前のバンドである。Robert Glasper Experimentの延長線上みたいな感じだと紹介すると、Mさんは、それなら俺、好きかもしれんなと言った。彼は確か、『Black Radio』のなかに入っている"Smells Like Teen Spirit"のカバーに一時期嵌まっていたはずである。あの曲の再構成と演奏は確かに素晴らしい。そのほか最近聞いているものとして、こちらはWynton Marsalisの名前を挙げた。Septetのライブ音源、『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』を結構良く流しているのだが、それはまあわりとジャズジャズしているジャズだと話した。MさんはMarsalisの名前を知らなかったので、九〇年代以降に出てきて活躍したトランペッターなのだと紹介した。七〇年代あたりからフュージョンがブームになって、ジャズの方にもエレクトリック化の波というものが押し寄せ、純粋なアコースティック・ジャズは一時期下火になる。しかし、その後九〇年代あたりになるとふたたび純ジャズが復活してくるのだが、その際に潮流の一翼を担ったのがWynton Marsalisなのだと、正確な歴史的理解かどうか不安だが、そのように話した。確か、新伝統派、とか呼ぶのだったか? このあたりはSさんの方が百倍くらい詳しいと思うのだが、多分Joshua RedmanとかBrad Mehldauあたりも、そうしたアコースティック・ジャズ復権の流れのなかで役割を果たしたプレイヤーということになるのだと思う。
 終盤ではMさんがこの日既に読み終わったと言うマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』の話をした。マーク・フィッシャーという人は、以前から本屋で表紙を見せて置かれているのを見かけていたのでこちらも名前は知っていたのだったが、聞けばニック・ランド周辺の人間なのだと言う。ただし、ニック・ランドが資本主義の流れをそのまま肯定し――いわゆる「加速主義」と呼ばれる考え方だろう――反民主主義的な思考を形成しているのに対し、マーク・フィッシャーは「左」をあくまでも少々引きずっていると言うか、反資本主義的なところがあると言う。元々は自分で運営していたブログの記事が広く読まれるようになって火が点いた人らしく、優れた才能というのは本当にたくさんいるのだなと思われた。ドゥルーズ=ガタリジジェクの名前なども頻繁に出してくるのだが、それだけではなく、大衆的な映画作品なども考察に絡めてくる、ただしそこまでならばハイカルチャーサブカルチャーのどちらにも目を配った幅広い批評文ということでわりとよくあるものだけれど、マーク・フィッシャーはさらに、教師としての自分の経験も考察の材料として加えてきて、その三位一体のような形で繰り出される思考が非常に面白かったと言う。自分の力で理解できるか覚束ないが、そう言われると読んでみたくなるものである。マーク・フィッシャーはしかし、鬱病を患ってもいた人のようで、もう数年前に自殺してこの世にはいないのだということだった。
 そのような話をしているうちに三時に達し、Mさんが腹が減ったから何か食物を探しに行くと言ったので、通話を終えることになった。有難うございました、おやすみなさいと挨拶して通話を切ると、Twitterなどを少々眺めてから、コンピューターを持って自室に戻った。そうして消灯して、扇風機を掛け、寝床に寝そべった。枕元には携帯と手帳を置いてあった。眠りを待つあいだに、先ほどMさんと話した話題の断片が思い出されるたびに、目を開けて、携帯の弱い明かりを点けてその薄い光のなかで手帳に短いメモを取った。それを繰り返しているうちに思い出される話題も尽きてきて、じきに眠りに就いたようである。


・作文
 13:05 - 14:12 = 1時間7分
 18:47 - 19:26 = 39分
 20:13 - 20:54 = 41分
 計: 2時間27分

・読書
 15:38 - 15:52 = 14分
 20:55 - 21:04 = 9分
 22:05 - 22:56 = 51分
 22:58 - 24:25 = 1時間27分
 計: 2時間41分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-28「懐かしいという感情の下品さを知らないおまえと話したくない」; 2019-07-29「留守番をしている雨はでたらめに神が打った句読点である」
  • 「at-oyr」: 2019-06-27「夢の中で」; 2019-06-28「晩餐」; 2019-06-29「思春期」; 2019-06-30「ヘテロトピア」
  • ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、書抜き
  • ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』: 3 - 52

・睡眠
 2:30 - 12:00 = 9時間30分

・音楽

  • Alex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』
  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • aiko『暁のラブレター』
  • R+R=NOW『Collagically Speaking』

2019/8/3, Sat.

――クローデルにおける《音声言語[パロール]》の荘厳化には、その対部というか、あるいはアルトーにならって《分身》と呼んでもよいようなもの、それを己れの《外部》として排除していく何物かがあって、それをあなたに倣って《エクリチュール》と呼ぶことは許されると思うのですよ。さっきおっしゃっていた私の論文の礎になるものは幾つかあって、たとえば未発表草稿の文献学的研究とか、神話的想像力の系譜学とかがそれですが、しかしそれらのなかで、《音声言語[パロール]》と《エクリチュール》の問題という、あなたによって拓かれた地平は、測り知れない重要さを持っていたのです。恐らく、それは私が日本人で、しかもフランス語教師であるという二重の言語体験に引き裂かれて生きていたからかも知れない。
――それはそうでしょう。あなたの国では漢字という表意文字を使っている。
――ええ、ですが、中国人とは違うようですね。中国語の専門家は、漢字の視覚性や表意性ばかりを云々するのは素人の俗見だと言いますし、漢字における音声性はそれで重視すべきものでしょう。ただ、日本人は、そのような形で漢字を自分のものにしなかった。一つの漢字に、中国伝来の――しかも変形された――複数の発音が可能な上に、更にそれに日本固有の読み方を貼りつけるなどという、表音文字文化から見たら気違い沙汰としか思えないことを、我々は今でも平気でやっているのですから。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、138~139; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 三日月を戴くヘルマプロディートス」; ここはデリダとの対話)

     *

 ところで、さっきの話の続きですが、『監獄の誕生』で「身体の政治的テクノロジー」と呼ばれているものですね。私はあの命題は他人事ではなく、切実に面白いと思ったと、私の個人的な読み方を説明する。それは自分が演劇に関わっていて、演劇は身体なしでは発動しないし、また、過去十年ぐらい、演劇を中心に日本でも《身体論》は盛んだった。特に日本では、伝統的に《からだ[﹅3]で覚えさせる/覚える》という考えがあって、それは今でも、伝統芸術と言われる部分には一応機能している。六〇年代末の《異議申し立て》の運動のなかで、新劇と呼ばれる西洋型近代劇が批判されたのは、そのイデオロギー上の進歩的な外見や立場にもかかわらず、結局この演劇が日本人の身体とその知を無視してひたすら貧困化の道を辿っていたからだ。そこに、グロトフスキやリヴィング・シアターなどの運動や、それらを介して読み直そうとしていたアルトーの言説などが、ある種の触媒、あるいは場合によっては起爆剤となって《西洋型ロゴスの演劇》を乗り越える《日本型身体の演劇》という見取図ができたのだと思う。その幻想の部分まで含めて、当時の前衛の戦略としては正しかったのだが、しかしそういう形で、日本人の身体というものを一つの文化的本質として顕揚していく美学的操作が、その身体をつうじて作用する権力について再び盲目になったままで、ほとんど一つのイデオロギーにまでなろうとする奇妙なことが起こった。まあ、それと、理窟と現実のずれ[﹅2]ということはこういう場合につきものだから、理論のレベルだけでは論じられないのですが、とにかく、《身体にかかる力》によって成立する演劇の持つ幻惑力の裏側のようなものを感じ始めていたところなのだ、と。
――恐らく私の抱いている感情は両義的なので、一方では、確かにからだ[﹅3]で習得する知というものがあると信じ、他方では、陛下の戦士ではありませんでしたが、国民学校の生徒として、当時の軍国主義教育を狂信した教師から、いわれのない体罰を加えられた経験があるからです。
――というと?
――フランスではなかったのでしょうかね。日本では、日本の旧軍隊では、たとえば一人が過失を犯すと、精神を入れかえてやるとかいって、集団の全員が一列に並ばせられて、往復ビンタというのを食うのです。それを小学校でも十二歳の少年に対してやるのですからね。それは性的なレベルのことではなかったけれど、それが当節の芸術的前衛では、なにもグロトフスキでなくとも、身体にかかり、身体を貫く暴力が主題となり、しかもそこでは、性は最も幻惑的な台本作者=演出家となっている。
――フランスでは、小学生に対するそういう体罰はないと思うな。
――でも、今でも鞭を持っている母親は多いと、郊外の団地に住んでいてフランス人と結婚している女性の友人が言っていましたが。
――いや、だからそれは個人対個人のレベルの話でしょう。学校のような集団的制度の場合には、むしろ《懲戒の仕組み》を精密にしていく。悪い生徒は教師から教務主任に送られ、それから校長に送られ、という風にして、自尊心を傷つけるようになっている。言わば、やすりですりへらす[﹅9]ようなやり口だな。
――そういう心理主義のほうが《文明》だし、《近代化=西洋化》の規範になるわけですね。戦時中の日本の教育は、帝国軍隊の兵士を作る身体と精神の改造術をモデルにしていましたから。
――軍隊はそうでしょうね。
――あなたのお書きになるもののうち、十九世紀に関する部分は、いつでもそう思いますが、日本の近代化つまり十九世紀西洋型社会への変形過程の規範を読まされているようでとても面白いのです。『監獄の誕生』の冒頭にある《死刑の演劇化》が如何に廃せられるかと言う話にしてもそうですし、また、告白が文学の中心を占める、しかも性の真実の克明な告白がそうなるというのは、日本の近代文学のなかで最も重要な系譜をなす自然主義小説のオプセッションでもありましたし。
――禅などでは、精神指導に告白というような手続きは取らないのでしょうね。そうすると、どのようにして主体についての真実が成立していくのか、それを日本へ行ったら調べてみたいとは思っていますが。
――禅のことはよく知りませんが、やはり違うのではないですか。少くとも近代化のイデオロギーの地平では、儒教思想とある種のプロテスタンチズムが短絡して倫理的な規範が出来ましたから。その内部で、確かに「性の科学」というのは、我々の子供の頃までの遠くかつ生々しい記憶でいうと、「衛生博覧会」的なイメージであった。それは「性愛の術[アルス・エロチカ]」とは質の違う性の視角ですね。その意味でも、宗教的禁忌と法律的禁止と社会的禁止との間のずれゆき[﹅4]のようなものは、性に関しては特に顕著なのではないでしょうか。たとえば同性愛は宗教的にも法律的にも禁じられていないのに、近代日本のなかでは、社会的な恥となるのはどうしてか。三島由紀夫が『裸祭り』というアルバムに寄せた文章で書いているように、日本人が裸体を本質的に恥とするようになったのは、西洋近代の目差しに対して[﹅12]だったわけですから……。
 (143~146; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 三日月を戴くヘルマプロディートス」)


 一一時一五分まで長く床に留まった。寝床にいるあいだ、背中や脚に汗を搔いていたので途中で扇風機を点けて、微風を浴びて肌を乾かしながらさらに留まっていた。身体を起こすと一旦ベッドの縁に腰掛けて息をついた。昨晩、帰ってきたあと、汗疹が酷くなっており両腕の肘の裏側、腕を折ると内側に畳み込まれるあたりの一帯に赤い発疹が広がっていたのだったが、それはいくらかましになっていた。まだ少々痒みと、皮膚のざらざらとした感覚が残ってはいる。ベッドの縁で背伸びをしたあと、上階に行くと、買い物に出かけていたらしい母親が帰ってきたところだった。食事は前夜の鶏肉のソテーの残りに加えて、厚めのハムを炒めたものがあったので、それらを電子レンジで温め、白米とともに卓に運んだ。肉をおかずにして白米を食していると、何時に出るのかと訊かれたので、二時頃と答えた。それじゃあまた送っていくようだねと言う。この酷暑のなか、汗をだらだら流しながら歩くのはやはり難事なので、送っていってもらえるならばそれに越したことはない。そうして食事を終えると冷蔵庫のなかで冷やされた水を水筒から汲んできて抗鬱剤を服用し、食器を洗って、"頼りない天使"を口ずさみながら風呂場に入った。そうして風呂桶も洗い、戻ってくると下階に下りて、エアコンと扇風機を部屋に点けた。コンピューターも起動させ、昨晩部屋に持ってきてあったペットボトルの水が温くなっていたので、冷蔵庫に入れておこうというわけで上階にそれを持っていくと、新聞を袋に入れてくれと頼まれたので、新聞を収納するための紙袋を卓上に広げ、そこにたくさんの古新聞を収めていった。それから便所に行って糞を垂れてから下階に戻ってきて、インターネットを回ってあいちトリエンナーレの騒動などについて少々眺めたあとに日記を書きはじめたのが一二時一四分だった。音楽は、FISHMANSCorduroy's Mood』を流し、一二時五〇分に至っている今現在は『Oh! Mountain』が始まったところである。
 前日の記事をインターネット上に放流したあと、一時過ぎからMさんのブログを読みはじめた。三日分を読んで一時半が目前になると、FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなか、ベッドに移って僅かなあいだだけ「船のポーズ」を行って、腹筋をいくらか刺激した。それから歯磨きやら着替えやらをしたと思う。いや、歯磨きはMさんのブログを読んでいるあいだに既にしておいたのだった。そんなことはどちらでも良いことではあるが。仕事着に着替えたのち、今度はSさんのブログを読んだ。一〇分間で五日分を読み、二時が近くなったところでクラッチバッグを持って上階に行き、母親にそろそろ出ようと告げた。そうして玄関に行くと、母親がクーラー・ボックスを持ってくれと言うので、大きな箱を片手に持って外に出た。階段を下りると激しい陽射しの眩しさが目を刺し、日蔭に入っても空気全体に熱が籠っているので顔に向かって暑気が群がってくる。クーラー・ボックスを車の後部に積むと、助手席に乗ってシートベルトを締めた。そうして発車。Air Supplyが掛かっているのに合わせて少々口ずさんでいると、母親がこれ知ってるのと言ってきたので肯定した。すると彼女は、この曲がいいんだよねと言っていくらか曲目を送って、"Without You"を流しはじめて音量を上げた。それを歌おうとしたが、高音がこちらの喉の音域を越えていてうまく出すことが出来なかった。そうこうしているうちに市街に至り、駅前に入ると、道の端に「青梅マラソン」と記された赤いカラー・コーンが並べられていた。今日は青梅マラソンではなく、花火大会が予定されている。おそらくそれを見物しようとする人々が道路の端に座り込むことのないようにコーンが設置されているのだろう。八百屋の前付近で車を降りたこちらは、職場に向かった。
 職場に入ると出迎えてくれたのは(……)さんで、今日も室長は不在らしかった。授業開始まではだいぶ余裕があった。高三生の現代文に当たっていたが、おかげでテキストを悠々と読んでおくことが出来た。一コマ目は(……)くん(高一・英語)と(……)さん(高三・国語)。どちらも特段の問題はない。(……)くんは今日は基本時制の章を扱ったが、ミスは一頁につき一、二問と好成績だった。それなのでノートにはほとんど書くこともなかったような感じだが、hereやthereが副詞で、「~へ」という意味まで含んでいるから、その前にtoはいらないという事柄を記してもらった。ノートはやはり、問題を解き、解説をしたらその直後に、その場で書かせてしまうのが良い。(……)さんも国語はあまり知識を習得するという感じではないのでノートを書くのが難しいのだが、漢字と、短い文章――水村美苗のものだった――の要約をしてもらった。塾で扱っている高校生の現代文のテキストは、わりと選ばれている作家が良いと言うか、多分過去の入試問題から選別しているのではないかと思うが、大岡信だったり、桑原武夫だったり、澤地久枝佐多稲子といった名前が取り上げられていて、わりあいに印象は良い。
 二コマ目は(……)くん(高一・英語)と(……)さん(中三・英語)。前者は初顔合わせ。事前に少々問題児であるという情報を得ていた。実際当たってみても、問題を解くように指示しても一向に取り掛かりはじめずに机上に突っ伏して眠っていたりだとか、そこから起きてちょっと問題を解いたと思ったらふたたび眠りはじめたりだとか、そのような調子だったが、こちらは無理に起こしたり叱ったりするのではなく、本人のペースに任せることにした。何しろまだ当たるのは一回目であるから、まずは肩慣らしと言うか、互いにどんな生徒と講師なのか探るような感じだろう。コミュニケーションは取れないわけではない。最終的には大問を二つ解き、ノートにも二文、書いてくれた。しかし、解説をしても全然聞いている様子がないのが気には掛かる。勉強に対する意欲がまったくないと言うか、わからないことをわかるようになりたいという気持ちが全然ないような印象だ。
 (……)さんは無口ではあるが、問題は真面目に取り組んでくれるし――少々スピードは遅いが――ノートもこちらの指示通りに書いてくれるので、問題はないとは思う。理解力もそんなに悪くはないと思うが、今日は、writeやlistenといった基本の単語のスペルが書けなかったのが気になった。一応それらの単語は、一行分練習させたあと、授業ノートの方にメモしてもらったが、果たしてそれで効果があるかどうか。
 二コマ目の少し前から(……)さんが塾に現れていて、こちらが授業をしているあいだ、と言うか二人が問題を解いたり眠ったりしていてこちらは国語のテキストを読んで時間を潰していたあいだなどに、こちらの方にちょこちょことやって来て構ってくるのがとても愛らしく、思わず笑顔になってしまう。彼女は今日は髪を後頭部の上に引っ張って丸くまとめた髪型にしていた。頭をちょっとぽんぽんと撫でてやったりすると、座っていたこちらにも同じように仕返してくるのがとても可愛らしい。いつも口を弓形にひらいてニコニコしている子である。
 授業後は(……)さんに報告。その場で彼女が八月八日付で職場を離れることが明らかにされた。もっと都会の方の教室で教室長をやることになったと言う。報告を終えてロッカーから荷物を取り出し、携帯を見てみると、母親からメールが入っていた。クリーニング店に行くから拾おうかと言うので、もう終わると送っておき、入口近くのデスクにいる(……)さんの元へ行き、月曜日の勤務の相手の生徒を教えてもらったのち、どうやら会うのがこれで最後のようだったので、有難うございましたと礼を交わした。またいつかお会いできたらとこちらは言った。別れ際に彼女は、F先生の優しさにはたびたび救われていました、というような大袈裟なことを言ったので笑いを返し、入口の扉を開けると振り返り、お疲れさまですと言って別れた。
 駅前は花火大会の見物客で賑わっており、ロータリーの縁には「KEEP OUT」と記された黄色いテープが張られ、駅舎のすぐ前の通路などは群衆が犇めき合っているような有様だった。母親からは、先ほど下ろした場所で良いかとメールが返ってきていたので、了承を送り、横断歩道を渡って八百屋の前を過ぎ、そこの路傍に立ち止まって手帳をひらいた。時刻は六時過ぎ、太陽が落ちて空中から光の色は薄れているが、大気には熱がまだまだ籠っており、空は褪色したように淡い青さを広げ、その元で人々がそぞろ歩きをして蠢いていた。立ち尽くして手帳を読んでいるうちに母親の車がやって来たので、乗り込み、シートベルトを締めた。凄い人だねと母親は言う。そうして東へ走り、西分の踏切りを過ぎたところで北へ折れ、さらにコンビニの前で右折した。こちらは喉が渇いていて、何か飲み物が飲みたかった。そう言うと、自販機のある場所で停まろうかと言って、通りの向かいに二つ自販機が並んだ地点で車は路肩に寄せられた。降りたこちらは、通り過ぎる車たちの流れが途切れた隙を見て通りを渡り、自販機に寄って品物を見分した。その結果、一二〇円で三〇〇ミリリットルの三ツ矢メロンを買うことにした。購入して車に戻ると、ハンカチを滑り止めにして蓋を捻って開け、香料の風味の強い炭酸飲料を飲んだ。そうしているあいだに、車はクリーニング屋に到着した。千ヶ瀬のクリーニング店が閉じてしまったので、こちらまで来なくてはならなくなったのだったが、この店は建物の外観は褪色しており、随分と古びたようなちっぽけな店だった。預けていた父親のワイシャツやスラックスを受け取って母親が戻ってくるのを待ち、ふたたび発車すると道を戻って、途中でコンビニに寄った。こちらが籠を持って、飲み物やビールや柿の種やポテトチップスやアイスを入れていき、会計は母親から差し出された一万円札で済ませ、車に戻るとこちらは買ったばかりのチョコレート・ケーキ・アイスバーを食した。そうして帰路に就いた。
 帰宅すると七時を過ぎた頃合いだったと思う。買ってきた飲み物を冷蔵庫に入れ、柿の種とポテトチップスは独占することにして自室に持っていき、服を着替えて食事に向かった。メニューは茄子の炒め物に同じく茄子の味噌汁、それにキャベツメンチなど。ものを食うと入浴した。肘の内側に蔓延した汗疹を熱い湯でひりひりと刺激しながら湯に浸かり、出てくるとひととき居間で扇風機の風を浴びたのち、自室に帰った。柿の種を食いながら、星浩拉致被害者「8人」死亡の情報に沈痛な小泉首相 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(13)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019032800010.html)を読んだ。手帳にも主な事柄をメモし、続けて田中信一郎アベノミクスの果実は下まで来ない。必要なのはボトムアップ社会への転換」(https://hbol.jp/187880)を読むとそれだけでもうほとんど九時半に達していた。音楽はFISHMANS『空中キャンプ』やAlex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』を流していた。九時半からベッドに移って須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』を読みだしたのだが、どうも一一時頃には例によって意識を失くしていたようである。気づくと二時半前で、そのまま就寝した。


・作文
 12:14 - 12:50 = 36分

・読書
 13:05 - 13:27 = 22分
 13:42 - 13:53 = 11分
 20:13 - 21:26 = 1時間13分
 21:30 - ? = ?
 計: 1時間46分+?

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-25「瞬間を引き延ばす今われわれはほかの誰にも似ていない無名」; 2019-07-26「解読をあきらめたものから順に死んで嘶く愚者の肥溜め」; 2019-07-27「通り雨みたいな軽薄さでかつて奇跡はばらまかれていたかも」
  • 「at-oyr」: 2019-06-22「言葉」; 2019-06-23「圧力鍋」; 2019-06-24「残雪」; 2019-06-25「明るさ」; 2019-06-26「タロウ」
  • 星浩拉致被害者「8人」死亡の情報に沈痛な小泉首相 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(13)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019032800010.html
  • 田中信一郎アベノミクスの果実は下まで来ない。必要なのはボトムアップ社会への転換」(https://hbol.jp/187880
  • 須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』: 20 - 40

・睡眠
 ? - 11:15 = ?

・音楽