2019/10/5, Sat.

 ちがう
 ぼくが言う くだけちったガラス
 あらゆるものが萎れるんだ
 ほんとうに宇宙は
 なにもない
 一人の女から産まれて
 ここにいる それじたいが 暴動だ
 (岡本啓『グラフィティ』思潮社、二〇一四年、7; 「コンフュージョン・イズ・ネクスト」)

     *

 地上の紫の夜は
 やっと
 こみあげてくるほどすずしくなった
 だからか、どんな男女も
 まあたらしい精霊のふりだ
 (18~19; 「濃いピンク」)

     *

 ふいにぼくは
 ここにいないやつのことを
 ここにいないからこそ書かなくてはとおもう
 さっきまで
 肩をぶつけあってたやつらを
 背のたかい少年は
 ひかりのぐあいでみうしなって
 つばをのむ
 広大な駐車場をすべりきり
 それでも まだ、ひとりなら
 たぶん
 股間をたしかめる
 その一瞬の ふかい青空

 ぼくはなにもいうことがない
 ひろがりに
 ひとはきえていくのに
 ひろがるそれをまえにすると
 なぜことばがうしなわれてしまうのか
 砂ぼこりをしずめるのではない
 ただ、むねをひく
 雨のにおいがした
 (28~29; 「ペットボトル」)


 七時半に目覚めた。四時半に床に就いたので三時間ほどの睡眠、そのわりに頭も身体も軽く、意識は晴れていて、カーテンを開ければ空も晴れ晴れと、雲の一片もなくて見事な秋晴れ、しかし今日はまた三二度くらいまで上がると聞いたから秋晴れと言うには少々暑さが勝るかもしれず、夏の名残りが長く続く年である。床を抜けると部屋を出て、便所に行けば母親は既に上階にいるようで、父親も起きたところで衣装室でラジオを流しながら着替えをしていた。トイレで放尿し、出ると手を洗い、口を濯いで顔も洗って室に戻れば、窓から入口まで一直線に、朝陽が床を這うようにして床に宿っている。コンピューターを点けると早速日記に取り掛かった。何と勤勉なのだろう! 何の無理もなく、腹が減れば自然と食事を取るように、消化をすれば自ずと排泄に向かうように、文章を吐き出している自分にびっくりするくらいだ。ひたすら文を綴り、生を記録するだけの自動筆記機械になる日も近い。一時間弱で前日分を仕上げてこの日のものもここまで綴り、八時半を回ったところである。
 寺尾聰のライブ音源を流し、"I Call Your Name"を合わせて歌ったあと、英文記事を読みはじめた。Jonathan Beale, "Wittgenstein’s Confession"(https://www.nytimes.com/2018/09/18/opinion/wittgensteins-confession-philosophy.html)とRobert Zaretsky, "What We Owe to Others: Simone Weil’s Radical Reminder"(https://www.nytimes.com/2018/02/20/opinion/simone-weil-human-rights-obligations.html)で五〇分くらいだろうか。後者の、シモーヌ・ヴェイユについての記事の途中で、何となくMr. Big『Get Over It』を思い出して、と言うか実は何となくではなくて"succor"という単語が出てきた時に"Suffocation"という語が連想されて、Mr. Bigにこのタイトルの曲があるものだからそれの入っている『Get Over It』を想起して流したのだったが、実際には"Suffocation"が収録されているのは『Get Over It』ではなくて次の『Actual Size』だった。それで『Get Over It』を、数年ぶりどころか一〇年ぶり以上になるかと思うが流してみると、これがなかなか良い作品だった。このアルバムはMr. Bigの作品のなかではおそらく一番地味な扱いをされているもので、こちらも入手した当時、ハードロックに明け暮れていた頃でも大して聞きもせず、確かに地味だなと簡単に払ってしまっていたように思うのだが、今になって聞いてみると地味と言うよりはむしろ滋味深いようなブルージーさ、ソウルフルな色合いが心地良く、加えて明朗なキャッチーさが上手い具合に添加されてまとまっている佳作ではないか。それで聞いている途中で、LINEでT田に向けて、もの凄まじく久しぶりに聞いているがなかなか良い作品だぞと送っておいた。以下に英単語リストを載せ、一つ目の、ウィトゲンシュタイン信仰告白についての記事からの引用も付す。

・unsparingly: 容赦なく
・reverence: 畏敬
・interrogation: 尋問、取り調べ
・acclaimed: 高く評価された
・perjury: 偽証
・ruminate: 時間を掛けて真剣に考える、熟考する
・beyond measure: 計り知れないほど、並外れて
・injunction: 禁止命令
・askesis: 自己鍛錬、克己
・ascetic: 禁欲的な
・penance: 自己処罰
・elicit: 引き起こす
・no man's land: 緩衝地帯、中間地帯
・precipitate: 引き起こす、促進する
・relish: 享受する、味わう
・executor: 遺言執行人
・exemplar: 模範、手本
・assembly line: 工場の組み立てライン
・succor: 援助する
・blurt: うっかり喋る、口走る
・sanity: 健全さ、正気
・seminal: 影響力の大きい、独創性に富んだ
・position paper: 方針説明書、政策方針書
・entrenched in: 定着している、凝り固まった
・enshrine: 祀る
・codify: 成文化する
・vendible: 販売可能な
・clout: 影響力
・browbeat: 威嚇する
・ludicrous: 滑稽な、馬鹿げた
・electronic benefits transfer card: カード形式の困窮者用食料切符
・fetus: 胎児
・panacea: 万能薬、解決策
・predicament: 苦境、窮状
・barrage: 弾幕放火、集中砲火、一斉射撃

Despite the reverence Wittgenstein inspires in intellectual history, he remains an enigmatic figure. But a few biographical points are helpful here. In 1919, straight out of the Austro-Hungarian army, he trained to be an elementary-school teacher and taught in Austria from 1920 to 1926. Believing he’d solved all the problems of philosophy in his soon-to-be-published “Tractatus Logico-Philosophicus” (1921), his focus turned to self-improvement. Influenced by Tolstoy’s romanticized vision of the self-cultivation developed by working and living among peasants, Wittgenstein began teaching in poor, rural villages.

Like Socrates, Wittgenstein saw philosophy as at least as much an exercise in self-honesty as an intellectual endeavor. In a 1931 remark among the collection of notes posthumously published as “Culture and Value” (“Vermischte Bemerkungen,” 1977), Wittgenstein writes that philosophy’s difficulty lies “with the will, rather than with the intellect.” The same goes for confession. Wittgenstein didn’t lack the insight to locate and define his own failings; rather, as Rhees says, Wittgenstein found it difficult to recognize that he had been behaving “in a character that was not genuine … because he hadn’t the will.” To escape self-deception Wittgenstein needed to do “something that needed courage” — to confess.

Admitting wrongdoing and seeking forgiveness weren’t Wittgenstein’s main concerns; his concerns were escaping self-deception and changing himself. Confession fulfills this role because it requires courage and askesis — self-discipline. Wittgenstein’s demands on himself were high: during his confession Pascal asked, “What is it? You want to be perfect?” — to which he proudly replied, “Of course I want to be perfect.”

 さらに続けて、「週刊読書人」のウェブサイトから、「特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」」(https://dokushojin.com/article.html?i=1580)を読む。なかなか興味深い論点が色々と見られる対談である。『中動態の世界』も買って以来積んであるので、さっさと読みたいものだ。

大澤 この本でいろいろな方について言及されていて、一番重要な役割はバンヴェニストですが、彼を別にすると、スピノザともう一人の重要な主役としてハンナ・アレントが出てきます。アレントによる意志の定義が素晴らしくて、意志の概念は実はギリシャにはなくて、アリストテレスには意志の概念はないんだと。よく似たような概念はあるけれど、それは我々の言っている自由意志の概念とは違うんだということをアレントは言っていて、なるほどとすごく納得しました。國分さんもそれを利用しながら進めていくのですが、しかし結果的にアレントと國分さんは真逆の立場になる。アレントはある意味で意志の概念を救い出そうとしていますが、國分さんはむしろ意志は特殊な世界観の中でしか現れないものであって、それを立てた途端見えなくなるものがあるんだという立場で考えていく。國分さん風の考え方のラインのほうが普通だと思いますが、アレントは逆方向で行く。國分さんから見たときにアレントをどういうふうに評価するのか。ハンナ・アレントの立場から考えてみると、アレントは新しいものを人間が創り出すことにものすごく高い価値を与える。

偶然にもシンクロしていて面白いなと思ったのですが、僕はひと月前から朝日新聞の書評コーナーで「古典百名山」というエッセイを書いていて、担当の第一回はカール・マルクスの『資本論』、第二回はハンナ・アレントの『革命について』を書こうとしていたんです。そうしたら、この本の一番最後も『革命について』で終わる。能動・受動・中動の問題と少し関係があって、簡単に言うと、アレントフランス革命よりもアメリカ独立革命の方が偉いと書いてあるわけです。なんで偉いかというと、彼女がすごく重視している問題があって、アメリカはヨーロッパと違う仕方でポリティカル・ボディを立ち上げていると。どういうことかというと、アレントは新しい政治のシステムを創ることは素晴らしいことだと思っていて、それがなぜ正統性、権威を持つかということに関心を持っている。例えばフランス革命だと王権もカトリックも潰して正統性の調達に苦しんで、「理性の祭典」をやったりする。最後には、エキセントリックな展開になっていってテロの嵐に至る。 それに対してアメリカ独立革命はどうしたのか。アメリカはヨーロッパから離れているのでヨーロッパ風の方法で自分たちを正当化できない。ここで能動態の問題が出てくる。つまり彼女はゼロから建国したことが、えも言われぬオーソリティーを宿すんだと。簡単に言えば神が世界を創造したのと同じようなことを人間が行う、永続性のあるものを人間が作ることがものすごく素晴らしいんだと。そこにオーソリティーが宿っていくのだと彼女は言う。彼女からすると本当は中動態の発見というのは困ることです。でも彼女は勘がいいからアリストテレスの中に意志の概念は無いんだと発見してしまう。でも彼女はむしろ意志の概念を救い出したいんです。ゼロからの創造を支える意志を救い出そうとする、それがある種人間を価値付けることだと。アメリカの憲法は能動態的に作られていて、そこに独特の輝きがある。アメリカで最高裁が重要な意味を持つのは、憲法を能動態で作った記憶を裁判所が保存し続けているという方法で人間は政治が出来るんだと。

大澤 実は、意図があって聞いているのですが……我々の憲法である「日本国憲法」が念頭にあるんです。アレントアメリカの憲法がなぜ権威を持ったのか考えている。憲法の正統性に関して普通は神様に与えられたとか、自然法に適っているとかそういう法や政治の外部にある絶対的なるものに参照する方法をとっている。つまり受動態なんです。それに対してアメリカはヨーロッパのように伝統に頼ることができなかったから、創設したということが権威の源になった、ゼロから能動的に創ったということがえも言われぬオーラを発揮したんだという説明なんです。

そこで僕は我が国の憲法のことを思った。この国の憲法がうまくいかない理由はアレントを読むとよくわかる。我々日本人は戦後体制を創った時に創設したという感覚は持っていない。創設するということが持っている輝きがゼロなんです。アメリカが能動的に作った憲法に対して、日本人は押し付け憲法と言うように受動態なんです。受動態だから自分たちは何となく気に入らないということになっている。しかし、第三の態として中動態的に我々の憲法というものを我がものにする手があるのではないかと僕は内心思っているんです。そういうふうに考えるとこの概念、言葉は一つの哲学としても文法の理論としても面白いけど、日本人にとってすごくポリティカルな意味を持ってくるという気がしている。

國分 非常に興味深いご指摘です。伺っていて思ったのは、アメリカの憲法がなぜそこまで権威を持つことができるのかというと、自分達で自分達に憲法を与えたから、つまり、能動態というより中動態で記述されるべき過程がそこにあったからではないでしょうか。日本国憲法の場合は、仮にそれが押しつけられたものだとすると、押しつける側と押しつけられる側の対立、つまりいわゆる能動態と受動態の対立にあることになる。すると、能動と受動の対立の中にあるものを、なんとかして中動態のもとで引き受けられるようになったとき、憲法を権威あるものとして受け止められるようになるのかなと、いまお話をお伺いしながらそのようなことを考えていました。

大澤 本書でアレントのカント批判に少し触れていますが、カントは実践理性において人間の意志の自律について徹底的に考える。そしてそれは定言命法、厳格な法則に従っていることなんだとなるのですが、アレントからすると意志の自由を救い出そうとしているのに、カントの定言命法では意志がないということになっているということで否定するわけです。能動性の極限に徹底した受動性があるといった構造になっている。つまり、カントでは能動の方を追求すると受動に到達するという形式で、見ようによっては中動態に到達しているわけです。印欧語の一番古い、プレ・ソクラテスよりもさらに前みたいなところに中動態のオアシスがあるんだけれど、同時にこれほど遠く離れたところはないというところに辿り着いたら(カント)また中動態に出会っているようなことがある。

大澤 アレントにはどう付き合ったらいいかわからないところがあるんです。例えばアレントの師のハイデッガーは難しいけれど、西洋の思考の体系、形而上学からどうやって抜け出すかみたいなことにすごくこだわっていて、そのプロセスに乗っかりたい、身を委ねたい気持ちになるから読みやすい。アレントはあまりにも西洋を基本は全面的に肯定してしまっているので、思考の全体に付き合うことは難しい。ところが彼女はすごくセンスが良くて、例えば「あらわれ」とか「あらわれの空間」というアレントの言い方、これは一人ひとりをかけがえのないものとして尊重しましょうということなんだけど、「あらわれの空間」なんて言われるとグッとくる。

國分 詩的なところがありますよね。

大澤 彼女のそういう言い方に惹かれてしまう感じがあります。ただ、アリストテレスギリシャ哲学に彼女が見つけ出したかった「無からの創造」がないということに気付いたとき、急にクリスチャンになってキリスト教アウグスティヌスの研究をしたりする。狙いを定めて外して迷走する。そのアレントが揺れていく感じというか、迷走感が面白い感じがする。

國分 彼女自身が迷走していてそれがある意味では親しみやすさを感じさせるのかもしれない。

大澤 アレントの創設という考え方は全体としてみれば中動態の構造なんです。でも彼女としては「無からの創造」という能動性を強調する感がある。

憲法の話に戻ると日本人は自分の憲法について押し付け、使役感が強い。細かい論点になりますが、柄谷行人さんが『憲法の無意識』(岩波書店)を書かれたときに対談したのですが、その本のあとがきのエッセイが面白くて、押しつけ問題のことなんです。押し付けだから納得できないというのが僕らの憲法に対する感覚ですが、それに対して柄谷さんは押し付けこそ真実だと。具体的には内村鑑三のことが書いてあって、内村鑑三は最初はキリスト教が受け入れられなくて結局押し付けられる。ところがその後状況が変わったときに押し付けた方はみんなキリスト教を捨てていくのに、一番押しつけられ感が強かった内村鑑三だけが最後までキリスト教を貫いた。柄谷さんは、押しつけられたものだから我がものではないというのは本当だろうかということを問題にしていて、結論が書いてあるわけではないのだけれど、そのエッセイについては昔、加藤典洋さんが「柄谷の奇説」と引用している。普通の人は憲法をどうやって主体化するか考えているのに、柄谷さんは主体化できない方が偉いんだみたいなことを書いているわけです。

 一〇時一〇分に記事を読み終えたあとはLINEでT田としばらくやりとりをした。『Get Over It』を貸してくれと言うので、ディスクは多分売り払ってしまったと思うと答え、代わりにデータを送ることにした。ついでに今日は七時半に起きてもう日記を済ませた、何と勤勉なのか! と自画自賛すると、T田はもう読んだと言う。こちらも早いが、あちらも早いものだ。
 それから上階に上がって、母親を探せば玄関の外にいるようなのでサンダル履きで扉を開けて、家の前の水場で何やらまごまごしているのに、先ほど彼女が部屋に来た時に蕎麦でも食べに行こうかと言っていたので、蕎麦屋に行くのかと訊けば行かないと笑うが、こちらは店の蕎麦というものを久しぶりに食いたかったので行こうと押した。行くなら早めに、一一時頃には行かなくてはと言うのを受けて屋内に戻り、上階に来たついでに風呂を洗って下階に戻ると、蕎麦屋に行くつもりで服を着替えた。赤褐色の幾何学模様が入ったTシャツに、下は最初は黒一色のスマートなズボンを履いたのだが、シャツとの色合いがあまり相応しないように感じられたので、いつも通りオレンジ色のパンツに替えた。そうして一〇時半から日記。途中で母親が部屋にやって来て、蕎麦屋に行きたくはないようだったがこちらが行こうよと我儘を言うと、宅配便が来ると思うから一一時半くらいまで待とうと言うので了承した。それからすぐに今度はベランダに続くガラス戸がどんどん叩かれたので、開けて母親とともに布団を干し、ついでにコート二着も日に当てるということで物干し竿に吊るした。音楽はMr. Big『Actual Size』を流しはじめている。
 四曲目の"Arrow"を歌ったのが一一時直前である。それから音楽を止めて上階に行き、冷蔵庫のなかで冷やされた水をコップに注いで飲むと、下階に戻って階段下のスペースに置いてある掃除機を取り、自室に持って行って床の埃を手早く軽く吸い取った。掃除機を元の場所に戻しておくと、蕎麦屋に出掛ける一一時半までまた記事でも読むかというわけで、奥泉 光×小森陽一「二十世紀文学の流れを先取りしていた漱石」(https://dokushojin.com/article.html?i=1996)をひらく。夏目漱石の『草枕』も早いところ読んでみなくてはならない。これは確か三宅さんが漱石のなかで一番好きな小説だと言っていた作品でもあったはずだ。二つ目の引用でいわゆる「意識の流れ」を漱石が取り入れた実践例として取り上げられている『坑夫』はこちらも読んだことがあって、と言って当時はまだまだ目が磨かれていなかったからその真価は掴めていなかったはずで、この作品もいずれまた読み返したいものだ。『坑夫』がなかなか変な小説だったという話は、前回Mさんと通話した時にも話題に上がったと思う。

小森 『吾輩は猫である』の集大成が『草枕』というのはすごい認識ですね。『草枕』はこの『漱石辞典』の中でもいろいろなところに登場していて、その旅がなかなか面白いのだけど、その中で私の同僚の松岡心平さんという能の専門家が『草枕』は能そのものだと書かれているのです。確かに実際に能仕立てになっていて、能舞台で演じるように那美さんは行ったり来たりしている。それで能の世界だと考えてみると、能では旅の僧であるワキが画工で、この場所にはこういう言い伝えがあると説明する茶屋の婆さんが前ジテ。そして後ジテとして那美さんが出てくる。

奥泉 であるならば、本当は那美さんは死者の霊を担って出てこなくちゃいけない。

小森 そこで大転換があって、彼女はこれから死にに行く久一さんを送っていく。しかも那美さんはシェイクスピアのオフィーリアとも重なる。

奥泉 長良の乙女=オフィーリアという死者たちを担って、つまりシテとして彼女が登場するのが本来の能の構造なんだけど、しかしそれはやらない。

小森 岩から飛び降りるのかなと思うと向こう側に飛び移るだけ。長良の乙女は二人の男に惚れられたから自ら身を投げて自殺するのだけど那美さんは、二人とも「男妾にするばかりですわ」と。

奥泉 漱石は物語の構造をわざと脱臼させているんですね。

奥泉 ですね。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」と同じで、あの二つは降りてきた感がある。それともう一つは『坑夫』です。あれもやっぱり突発的に出てきた感じがする。漱石の小説の創作に理解できる流れはいちおうあるんですよ。『草枕』を書いて、それから新聞社に入って『虞美人草』を書いた。『虞美人草』は『草枕』の流れをくんでいるんだけれど、あまり評判が良くなかった。

小森 というか自分でもあれは失敗したと判断したのだと思います。

奥泉 それでもうちょっと都会風俗など入れ込んだ『三四郎』を書く。『三四郎』にも『草枕』っぽいところがいっぱいあるんだけれど、しだいにリアリズムに近づくような形で『それから』や『門』が書かれていく。しかし『坑夫』だけは全然違うじゃないですか。あのスタイルは相当変ですよ。

小森 ごく僅かな時間差の中で、「私」がここまで理解したことを語るという、非常に限定された世界の作り方ですね。微妙な語りの位置と現在進行系の物語の位置をずらすという、この技はやはり『坊っちゃん』で獲得しているわけですが、その意味では漱石の小説の中では『坑夫』が一番新しいですよね。ほとんど意識の流れ小説で、もっとも二十世紀的な小説だ思います。

奥泉 意識の流れの技法を漱石は学んで書いたということでいいのかな。

小森 それは意識していたと思いますよ。文学理論ベースの一つがウィリアム・ジェイムズだから、弟のヘンリー・ジェイムズが意識の流れ小説家。まあどこまで実証できるか課題ですけれど、そのあたりもこの辞典を交錯読みすると見えてくると思います。

奥泉 でも意識の流れの技法をその後は漱石はそんなに使わないですよね。

小森 それは新聞小説でどこまでやれるかということがあったのではないですか。それと『虞美人草』で作者というのを前面に出したけど、世界を構築出来ず、ある種敗北するわけです。小説は作家の思い通りにならないものなのだという経験が大きかったんのではないか。だからむしろ設定だけ作っておいて、中の言葉の自然体に任せてどこまで行けるかというのが『坑夫』で、その両方がやれたので、『三四郎』で急にうまくなった感じがするわけです。でもそのベースはやはり『坊っちゃん』の一気書きにあるというか、あれは漱石の無意識が吹き出していると思います。

 それから続けて「柄谷行人氏ロングインタビュー 「ルネサンス的」文学の系譜 『定本 柄谷行人文学論集』刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=2104)を読み出したのだが、あとほんの少しで読み終わるというところで天井が鳴って、行こうという母親の声が聞こえたので、中断してコンピューターをスリープさせ、クラッチバッグに財布と手帳のみ入れて階を上がったが、予期された通り母親はまだ支度を済ませておらず、また何やらぐずぐずとするものだから、そのあいだ卓に就いて新聞を読んだ。一面には香港で抗議活動の過激化を受けて緊急条例とやらが発動されたという報があって、これは行政府に立法権限を与えるものらしく理解したが、それでマスクをつけて顔を隠しながらデモに参加すると罰則というような禁令が早速発布されるらしくて、最悪ではないかと思った。二面をひらけばそちらにも香港関連の記事があって、その末尾には、警察の武器使用基準に関してもちょっと変更があって、正確な文言は忘れたが、警察官が死亡したり重傷を負ったりする恐れがあると判断される場合は銃火器を使っても良い、というような感じになったらしくて、これも結構やばいのではないか、乱用されるのではないかと思われた。
 新聞を読むと、母親はまだぐずぐずしているので先に外に出た。家の前の道路には日向が敷かれて、向かいの家を縁取る垣根の、一部葉が真っ赤に色づいているあれは何という名前の植物だったか、ともかくその葉の緑の上に光の白さが乗って随分明るく、一〇月とは思えない。振り向いて我が家の屋根を越して空を見上げれば、青空に雲は厚みなく希薄で、白粉をはたいたように淡く流れている。陽のなかに出てみると、ちょうど風が通って林が揺れて、色を薄めた葉がぱらぱらと落下するが、林全体で見ればまだまだ青く、と言って一番外縁の木の、毛細血管状に垂れて分かれた枝についた葉は水気を失って萎んでいるように映る。
 じきに母親が来たので車を出してもらい、助手席に乗り込めば実に暑く、完全に夏時の車内の空気である。発車して、裏道を辿っていき、途中母親は、K.Hさんという同級生の家に寄りたいようなことを言っていて、何でも以前菓子を貰ったのでそのお返しとして朝に獲ったミョウガを持って行きたいということだったが、その人の宅の前まで来るとしかし車がないから出掛けているのだろうと素通りして、表道に出ると一路西へ走る。M田さんの話などを母親がするのを聞き流しながら到着を待っていると、二俣尾駅が近くなった頃、母親が、新緑がどうのと言って、それは新緑ではなくて紅葉と言いたかったらしく、兄かT子さんが写真を送ってきたのだろうロシアではもう紅葉が始まっているとかいう話だったが、こちらは「新緑」という語に釣り込まれて彼方に連なる丘陵に目を振れば、青さは残っているもののさすがにそろそろ盛りも過ぎて幾分黒っぽく、深いような色になっているのに、新緑の逆を考えるならば差し詰め、そんな言葉があるのか知らないが、「晩年」のような用法を援用して「晩緑」というところだろうかと考えた。そうしてじきに目的地、二俣尾傍の「かわしま」という店に入った。混んでいるのではないかと母親は頻りに言っていたが、案に反して駐車場に車は、おそらく従業員のものだろう店舗の脇に停まった一台しかなくて、客のものはまだ一つも見られなかった。降りてなかに入れば、中年の女性がにこやかに、丁寧に迎えてくれて、しかし暖簾を分けて客席のフロアに入るとやはり客は一人もいない。隅の二人掛けに入ろうとしたところ、店員が、どうぞ広いお席へと言ってくれたので好意を受けて四人掛けに移り、蕎麦茶を受け取って天せいろと野菜の搔揚げせいろを注文した。待つあいだは手帳を取り出してメモを取り、向かいの母親も何やら手帳に書きつけている。店内のBGMはアコースティック・ギターで奏でられるイージー・リスニングの類で、曲目は「ふるさと」などの童謡をやっているようで、穏やかと言うか非常に微温的だった。じきに母親が、昨日は二時二〇分頃だったね、と呟く。父親のことである。ソファで寝ていたと言うので、上がったのかと訊けば、ちょっと目が覚めたから見に行ってみたら眠っていたのだと言った。それで何だかばたばたしていたのかとこちらは受けて、一二時頃に俺が茶を注ぎに上がった時には本を読みながらうとうとしていたようで、ぐったりと頭を落としているのに声を掛けても返事がないから一瞬死んでいるのかと思ったが、それから起きたので安心したと笑った。お前は何時に寝たのと訊くので四時半と言い、それで七時半に起きたと続ければ、じゃあ三時間しか寝てないのと言わずもがなのことを訊く。それは良くない、と母親は言ったがそれ以上特に苦言は続かなかった。
 じきにこちらが頼んだ天せいろが届く。母親の野菜搔揚げせいろは結構遅れて届いて、来た頃にはこちらはもう半分以上食い終わっていたが、店員はきちんと、遅くなって申し訳ありませんと愛想良く声を掛けてくれた。蕎麦など食いつけないし、舌も肥えていないから、上等な品なのかどうかこちらには判断がつかない。普通に美味いが滅茶苦茶に美味いというほどでもなく、果たして一四三〇円を出す価値があるのかどうかはわからなかった。天麩羅はエノキダケに鱚、オクラに人参、南瓜に茄子に海老で、あと一つくらい何かあったような気もするが、記憶が蘇ってこない。先に食べ終えたこちらは蕎麦茶を啜り、また蕎麦湯で割ったつゆも口にしながら、また手帳にメモを取って待ち、母親が結構お腹いっぱいになるねと言って、搔揚げを食べて良いと言うのでほんの少しだけ頂いて、つゆに浸けて食った。会計は合わせて二七一〇円で、こちらが全額払うつもりが、母親は細かい銭があると言って七一〇円を揃え、さらに一〇〇〇円札も取り出して、こちらの分は一〇〇〇円で良いと言うので甘えることにした。それでこちらが席を立って、ぴったり揃った金と伝票を持ってレジへ行き、会計を済ませてありがとうございました、ごちそうさまでしたと頭を下げて退店した。外はまだまだ陽射しが染みて、一〇月には似つかわしくない語だが炎天と言うに相応しい。車に戻れば車内もふたたび温まっていて、随分と暑い。
 近くに餡ドーナツの美味い店があると聞いたとか言って、そこに寄ることになった。店の前に着けば、たくさん立ち並んだ旗には「きび大福」と記されていて、今時黍とは、昔話みたいではないかとこちらは口にした。母親が店に行っているあいだは車内で待ってまたメモを取る。戻ってきた母親に訊けば、餡ドーナツはもうやっていないらしく、と言うのもどうも細君が亡くなったらしく主人一人でほそぼそ回しているのでということで、代わりに素甘に大福、それに青梅煎餅を買ったと言った。店内には天皇陛下、と言ってこれは勿論現天皇ではなくて前天皇のことだろうが、その写真がたくさん飾ってあったと言うが、こんな田舎の店に皇族がわざわざ立ち寄るだろうか、とそんな話をしている頃には軍畑駅付近の橋まで来ていて川を見下ろせば絹糸を流したように光が細い筋となって水面を流れている。川向こうへ渡ると、スーパーマーケット「パーク」に向かい、着くとそれほど買うものはないと言うのでこちらは車内に残ってまたメモを取ることにしたところが、陽射しが強すぎてとてもでないがなかにいられないので、母親が置いていってくれた車のキーをポケットに入れて外に出て、軒下の日蔭に入って自販機の横に寄り、立ったままペンを紙上に走らせた。
 母親が戻ってくると車に乗って帰路へ就く。道中、バス停などに中学生の制服姿が目につく。信号で停まっているあいだ、オレンジ色の蝶がひらひらとフロントガラスの向こう側、車のすぐ目の前を横切っていった。橋を渡りながらまた川に目をやって、水面を彩る微細で緻密な襞模様のその精妙さに、川というものはまこと凄いものだなと思った。裏道に入って進んで行って、Kさんの宅を通りすがりに見てみれば今度は車があったので帰っていると見えて寄りたかったが、狭い道に生憎後続車が来ていて停まれない。坂を下って道が広くなったところで脇に寄り、後ろから来た車をやり過ごし、Uターンして停まると母親は先ほど買った菓子をいくつか取り上げて紙袋に取り分けていた。そのあいだこちらは外を眺めて、黄色の蝶が漂うその背後の草木が白昼の光に照らされて、明るすぎるくらいに艶々と輝いているのに、まるで春の情景だなと思った。坂を上ってKさんの宅の横につけると、こちらはまたメモを取って待ち、用事が済んで母親が戻ってくると帰途に就き、坂をまた下りれば道の先にY田さんの家の前の柿の実の、空間に点々と描かれたオレンジ色が周囲の緑のなかで際立っているのに、あの橙を、あの鮮やかさを、例年この時期、見落としてきたかとまた不思議に思った。
 帰宅して降りると母親のバッグを持って玄関を入り、持ったものを手近の台の上に置いておくと戻って買い物袋を受け取りなかへ、冷蔵庫に品物を入れると下階に下った。時刻は一時頃だった。LINEでT田から、書抜きを打ち込むのは時間が掛かるだろうにと来ていたのに、まあもう習慣だからと受けて、柄谷行人のインタビュー記事をふたたびひらいて五分で読み終えた。

柄谷 (……)最初に書いた漱石論は、冒頭にも書いてあるけれど、漱石の小説、特に長編小説の主人公が、小説の構造から言えば、やるべきことがあったのにやらないで、途中で逸脱していく。そうしたねじれ、構造的亀裂について論じたものです。たとえば『門』がそのひとつの例です。主人公の宗助はいろいろ問題があったはずなのに、すべてを放り出して参禅してしまう。そういうところが、漱石のどの長編においても当てはまるのです。『こころ』の先生も、一人で自殺してしまう。そのような共通性に気づいて、それが何なのか考えるようになった。そういう意味で、「わかりかけてきた」と言っているんでしょうかね。

その頃の漱石の長編小説への批評では、江藤淳の『夏目漱石』が典型的ですが、主人公の振る舞いを、「他者からの遁走」と言って批判していました。しかし、「他者」と言っても、「他なるもの」は様々です。たとえば、『門』の主人公は、ある意味では、「他なるもの」に向かったのです。それが妻のような他者を無視することになるとしても。しかし、それによって、漱石の小説が破綻していると言うことはできません。それで、僕はエリオットの『ハムレット』論を引用したのです。

エリオットはシェークスピアの『ハムレット』は、「客観的相関物」が欠けているから失敗作だと言っている。たとえばハムレットは復讐しなければいけないのに、変なことを考え始めて、復讐の課題をめちゃくちゃにしてしまう。しかし、そこが『ハムレット』のおもしろいところです。たんに復讐を実行するのであれば、よくある復讐劇、勧善懲悪の道徳劇です。それが『ハムレット』では、とんでもない方向にずれていった。しかもシェークスピアは、おもしろくしようと思ってそうしたのではない。そこはシェークスピア自身の感受性から出てきたんだと思います。同じような問題が漱石の小説にもあるのではないかと、僕は考えた。漱石の長編小説は、根本的には『虞美人草』のような道徳劇なのですが、それがいつも壊れてしまう。道徳的な次元と存在論的な次元の亀裂がそこに露出する。

それ以後も漱石については沢山書きました。観点は大分変っていますが、基本的に、最初に抱いた関心の延長です。たとえば、漱石に関して、「ルネサンス的」という見方をするようになった。それはバフチンの影響です。しかし、最初の「漱石試論」でも、「ルネサンス的」なものを見ていたと思います。“ルネサンス”は、極めて近代的な面をもつと同時に、あくまで前近代的です。つまり、それは前近代と近代のあいだの亀裂においてある。『ハムレット』もそうです。中世的でありつつ、極めて近代的に見える。ある意味で、前衛的に見えるけれども、古めかしいものでもある。『虞美人草』に始まる漱石の長編小説も同様です。その意味で、漱石は「ルネサンス的」な作家だと思います。そして、今回の「文学論集」をまとめたときに気づいたのは、漱石だけではなく、これまで自分が好んで対象に選んできた作家たちが、総じて名付けるとすれば「ルネサンス的」であったということですね。

――一部と二部、両方で取り上げられている作家が、漱石坂口安吾です。漱石と同様に、安吾に関しては、柄谷さんは繰り返し評論を書かれています。柄谷さんにとって、なぜ坂口安吾が「特別」な存在であるとお考えでしょうか。

柄谷 坂口安吾のメインの仕事というのは、すべて一六世紀の日本に関するものです。彼はまさに日本の「ルネサンス的」時代について考えようとした人だった。後に花田清輝が同じ時代について書きますが、これも安吾の影響であり、「ルネサンス的」ということを、戦前から安吾を通して考えるようになったんだと思います。一方で、フランス文学者の渡辺一夫が、フランス・ルネサンス期のラブレーをやっている。「ルネサンス的」という点から考えると、いろんな繋がりが出てきます。戦前に左翼が弾圧された時期に、そこに可能性を見ようとした人たちがいたということです。ただ、ルネサンスというと、やはり、イタリアやフランスに限定されてしまう。そして、狭い感じになってしまう。

僕は、日本文学における「ルネサンス的」なものは、むしろ別の地域から来たと思うのです。先ず、イギリスです。それがシェークスピアですね。もっと後では、ジョナサン・スウィフトとローレンス・スターンです。これらを日本にもってきたのは誰か。漱石です。さらに、ロシアにも「ルネサンス的」作家がいました。ゴーゴリです。そしてゴーゴリの「『外套』の下から出てきた」と自称したドストエフスキー。彼らを日本にもってきたのは誰か。二葉亭四迷です。その意味で、漱石と二葉亭はルネサンスについて一言もいっていないが、誰よりもルネサンスにかかわる者です。
ルネサンス的」という観点に立つと、普通の文学史においては、バラバラに存在していた作家たちが一斉に並んで見えて来ます。しかも、そこに、東西を区別する必要はありません。その点で、たとえば、中国の魯迅も「ルネサンス的」な作家だと言えます。魯迅漱石のものも読んだでしょうが、特に柳田国男の影響を受けた。自分で郷里の昔話の採集をしています。だから、彼の小説は、近代小説家にはないような多様な要素を含んでいて、簡単には扱えない作家なんです。

 それから便所に行って糞を垂れると、トイレットペーパーの芯が放置されていたので持って階を上がり、玄関の戸棚のなかの雑紙用の紙袋に入れておき、戻って寺尾聰『Re-Cool Reflections』をYoutubeで流して、窓を閉めてエアコンを点け、いつものように"HANABA EXPRESS"、"渚のカンパリソーダ"、"ルビーの指環"と歌うと、さらにMr. Childrenの、"PRISM"、"アンダーシャツ"、"#2601"と『DISCOVERY』からの曲目を歌う。"#2601"はMr. Children史上おそらく最も激しく毒々しい曲ではないかと思われて、この曲を聞けば軟弱なポップバンドとしてのイメージも幾分刷新されるのではないだろうか。何だかんだ言ってもそこそこ幅の広いグループではあり、もっとこういう曲もやれば良かったのにとも思われる。次に"ファスナー"を歌い、最後にcero "Yellow Magus (Obscure)"を歌って一人歌唱大会は終いにすると時刻は二時前、コンピューターをシャットダウンしてリュックサックに入れ、しかしこの陽射しのなかをリュックサックを背負って歩くのは難儀だなとクラッチバッグと迷ったが、立川に出て書店に行くつもりだったので本を買ったら入れやすい方が良いかとやはりリュックサックを取って、荷物を持って上階に上がり、ハンカチを取って母親に、行ってくると告げて玄関に向かえば、戸を開けるその前から林の葉擦れが耳に届いて、風は吹いているなと扉をくぐれば午後二時でもよほど陽が下がるようになったか、家の周りの路上には日向はもう少ない。道を歩いていき、公営住宅の前まで来るとしかしここにはまだまだ日向がひらいており、なかに入れば当然暑く、光線が重く、逃げるように木の間の坂に入って上っていると、足もとを緩慢に動くものがあって、見れば細く小さな円柱に柏の葉を隈なく巻きつけたような形と色の芋虫で、先端に濃い緑色の部分が、顔なのか何なのか僅かに覗いているのが男性器を思わせてグロテスクだが、それにしてもあと一月二月で冬も来ようというこの時季に芋虫かと過ぎて、汗を搔き搔き駅へ上っていく。
 駅前は道路工事を執り行っており、整理員が三人いて、そのうちの一人は髭を生やしてサングラスを掛けた、これは市民会館跡に出来たあの施設、何と言うのか名前が一向に覚えられないのだが、文化交流センターみたいな名目のあの建物を造っていた現場にも出張っていた老人で、母親が「亀仙人」と呼んでいた人だがその人だった。ホームに向かって階段通路を行きながら、風が通ってTシャツをくぐって脇腹を涼めてくれるその感触に、陽射しは夏だが空気はやはり秋だなと季節の汽水域を思って、ホームに入ると人が何人か就いているベンチの端に入り、汗を乾かしながら手帳にふたたびメモを取る。電車がやって来ると手近から乗り、山帰りらしい格好の人々が席を埋めてあたりにはあの独特の、香水と汗が混ざったものなのだろうかそのような臭いが漂って鼻につくなかを渡って行き、先頭車両まで来ると扉際に寄って持っていたリュックサックを床に置き、引き続き手帳を埋めたがすぐに発車したので読む方に移行し、一九二三年一一月にミュンヘン一揆とか一九一九年七月にヴェルサイユ条約調印とか頭に入れて、青梅に着けば乗換え、外国人が散見されるホームを歩いて向かいの電車の先頭車両に入って座るとまた記録である。じきに発車して、揺れで文字が書けないので読んでいたが、河辺と拝島ではちょっと停まる時間があったのでその隙をついてまたメモを進めた。床には光の矩形がひらくがそれが以前見たのとは違って北側の、こちらの座っている席の方に寄っており、前回見た時にはもっと南側に近かったのだがあれを見たのはいつの日の何時頃だったかと思っても記憶は覚束なく、その時には光のなかに席に座る乗客の影が立っていたのだが今日はないのは土曜日のわりに空いていて、七人掛けの席の端しかほとんど埋まらず窓の前に人がいないからだ。手帳を読んでいると、さすがに三時間ではさもありなん、睡気が湧いて頭が落ちて目が閉じて、微睡みながら立川に着いたので道中あっという間だったような感が残った。電車は東京行きだったので三・四番線ホームに降りて、階段を上がって改札を抜けると、ごった返す人波のなかで傘を深く被って顔の見えない雲水が一人、杖を突きながら覚束なく歩いていて、停まったと見ればその杖で何やら床に貼りついている小さな、あれは何なのかガムを包んだ紙か何かに見えたが、それを剝がそうとしているのは一体何の意図なのか。こちらは人の川を渡ってATMに辿り着き、既に今月は赤字なのに五万円を下ろしてますます乏しくなった残高に嘆息し、財布を仕舞うと踵を返して歩きはじめたところに、立川駅のコンコース内で献血を呼びかけているのはいつものことだが、今日は一人なかに威勢の良い職員があって、威勢の良いと言うよりは拡声器を通じてざわめきを割って響き渡るその声の、男なのだが妙に甲高く、お時間を作って献血をお願いしますと悲痛気に訴えかけているのが物珍しかった。厚いざわめきのなかを北口広場に出て、高架歩廊を進んで歩道橋を渡り、高島屋の前まで来れば何やらサウンドシステムから流れ出るらしき巨大な音楽の、重いビートが聞こえてきて、ビルのなかからと聞こえたが違うなと見ればどうやら歩廊の下の、一階入口の正面で何かイベントを催しているらしく、ビル側面のあれは何と言えば良いか鏡のようになっている部分があるのだがそこに下方の様子が映りこんで、人が集まり蛍光色のベストをつけた警備員も立っているのが見える。音楽は太いビートのヒップホップだった。それを聞き流しながら高島屋に入館すると、館内は都会的な雰囲気のポップスが掛かってヒップホップも届かなくなり空気が変わって、街という場所のこうした明確な切断線のない時空情報の素早い切り替わりというのには時に面食らうなと思いながらエスカレーターに乗った。数階上って淳久堂書店に入ると、まずは詩の棚を見に行った。MUさんに贈る詩集を見繕いに来たのだった。例によって日本で最もメジャーな詩人、谷川俊太郎のキャッチーさに頼ることにして彼の作品を見分して、なかに『あたしとあなた』だったか『あなたとあたし』だったかそんなような名前の小さな本があって、帯に「贈る詩集」とか書かれていたからこれが良さそうではないかと思ったがビニールが掛かっていてなかを覗けなかった。それから棚の前をずれていって文芸批評の区画をちょっと見て、さらに壁際に移って海外文学を見分すれば、書架の端のあれは幻想文学とかが集まっているあたりと思うが、そこに若い男女のカップルがあって男性の方が女性の方に、得意気にと言うほどでないけれどこれはどうとかあれはどうとか語っていた。こちらは棚を見て、プリーモ・レーヴィの『リリス』を買ってしまおうか、あるいはベケットの新訳かなどと考え、そう言えば最近新訳された『ブヴァールとペキュシェ』も大変欲しいのだがこの時は見かけた覚えがないのは見逃したのか売れてしまったのか、ともかくほかに海外文学評論の欄も見ていると、なかに巽孝之『メタファーはなぜ殺される 現在批評講義』という作を初めて見つけて、この巽という人は確かポール・ド・マンなどを研究している人でやや注目しているのだが、やはり批評、と言うかテクストをどう読むかということについては興味があるからこれがなかなか面白そうで、裏面を見れば値段は税別で二七〇〇円だからわりあい手頃であって、頭に入れておくことにした。
 それから次に、フロアを渡って思想の棚に行く。書架の入口にあるみすず書房の取り揃えられた棚をちょっと見て、新着も瞥見し、それからポストコロニアルスタディーズあたりの区画を見分し、サイードもやはり欲しいなとか今福龍太の著作が結構あるなとか見たなかに、正確な名前を今失念したが苗字は確か早尾と言って、イスラエルパレスチナ関連の本を訳したりしている人だったはずだが、その人がイスラエルパレスチナ問題に取り組んだらしき著作があって、これも三〇〇〇円弱でまあそこまで高くはないし欲しいものだ。それから表紙を見せて置かれている新着の本を中心に見ていき、日本の現代の思想の区画に至って、東浩紀の『ゲンロン10』が重ねられてあって、これはTwitterなどでも結構評判になっているからちょっと読みたいが、しかし『ゲンロン』は『0』と『4』が積んであるのでまあまずはそちらを読んでからだろうというわけで今日は捨て置き、それで思想の棚は出て、そろそろ四時も近いので買うものを買ってさっさと喫茶店に行こうと詩の区画に戻り、谷川俊太郎の先の著作を取ろうとしたところが、先ほどは気づかなかったが表紙を見せられて置かれてある本のなかに、文庫の『愛について/愛のパンセ』があって、詩集とエッセイを一つにまとめたものらしく、これで良いではないかと気を変えた。値段も九〇〇円と廉価で、先の本は二〇〇〇円だったので比べれば随分と安い。それでこの文庫本を、贈る本を自ら読まないというのも何だか変な話だから、自分が読む分と合わせて二冊取り、それから海外文学の棚に寄って、先ほど見つけた巽孝之『メタファーはなぜ殺される』をこれも出逢いだと購入することにして、合わせて三冊を持って会計に行った。レジの前に着くと坊主頭の、ほかの店員と違って深緑色のエプロンと言うか腰巻きと言うか、あれをつけていない人なので役職が上なのだろうか男性が、手を挙げて招いてくれたので本を差し出し、カバーは掛けますかと言われるのにリュックサックを下ろして財布を取り出しながら、カバーは良いのだが、文庫本の方を一冊、包装して頂きたいと申し述べ、先に会計を済ませれば四九五〇円、包装は紙のものと布袋に包むものとあるがと言われるので紙の方を選び、リボンの色のみ決めてくれと言うのは愛が主題の本だからと、安直だけれど緑を措いて赤に定めて、それで七番の札を渡されてレジカウンター近くのベンチに腰を掛け、手帳にまたメモを取りながら包装が終わるのを待った。しばらくすると店員がやって来て、このような形で包装しましたと差し出すのに頷いて、ビニール袋に入れてくれたのを礼を言って受け取ると、相手は綺麗で丁重な礼を返してカウンターの裏に戻っていった。
 エスカレーターを下りて退館すると、下のイベントはまだ続いているようで、相変わらず重いビートのヒップホップが掛かっているなかを歩廊を通り、歩道橋を渡りながら催し物の方に首を曲げるが、見えるのは客の集団のみで詳細はわからず、歩道橋を渡ったところで左に折れて階段を下り、ビルの合間の細道を抜けて表に出ると、時刻はちょうど四時頃なので書き物に二時間で六時、そこから青梅まで三〇分と考えて、帰宅は七時だなと計算した。PRONTOの二つほど隣の、鰻の寝床めいて小さな細い入口のビルに、新しく「Tapista」という店が出来たと見えて人が並んでいるのは、どうやら昨今流行りのタピオカの飲み物を提供する場所らしいが、当然こちらに興味はない。PRONTOに入店し、階を上がって見回せばカウンターが空いていたので、フロアの奥の一番端から一つ隣の席にリュックサックを置き、財布だけ持って階段を下り、いつもだったらココアを頼むところだが、カフェインを摂っても平気な身体になったからたまにはほかの品でも飲んでみるかとメニューを見下ろし、カフェモカを注文してみることにした。こちらの声が低くて飛ばず、聞き取りにくかったらしく、女性店員はサイズを聞き返してきたので、Mで、アイスでと答えて四四〇円を払う。レシートは貰えなかった。深緑色のトレイの上に背の高いグラスが乗って、そこになみなみ注がれたカフェモカを受け取り、礼を言って場を離れ、零さぬように注意しながらゆっくり階を上って席に行った。座るとコンピューターを取り出し、マウスとモニターとキーボードをハンカチで拭いてからスイッチを押して、起動を待つ間に飲み物の上に乗った生クリームの、さらにその上からチョコソースを格子状に掛けられたものをちょっと掬って舐め、啜ってみればなるほど確かにココアとは違ってほろ苦い。余った生クリームをストローで突いて液体に混ぜ、そうしてコンピューターの準備が整うと早速日記を始めたのが四時五分だった。手帳を傍らに置いて参照しながら苦もなく書いていく。途中、BGMで、コンガか何か入ったちょっとラテン風の、詰まって弾力的なビートが始まったのに、Stevie Wonderの原曲ではないがこれは"Don't You Worry 'Bout A Thing"だなと聞けば女性ボーカルが歌い出したのは果たしてそうだった。PRONTOはわりあい音楽のセンスが良い。
 カフェモカを時折り吸い込みながら打鍵を進めていたのだが、そのうちにどうも腹に内から圧迫感が生まれ、突き上げてくると言うと言葉が強すぎるが胃のなかから圧が掛かって、昔は空きっ腹に茶を飲んだ時によくなったが空気が上がってきて喉がぐるぐると鳴り、吐き気とまでは行かずとも愉快でない。それで結局、やはり慣れないことはするものでなかった、カフェインは駄目だったと後悔して飲み物を残した。しかもやはりコーヒーのためかいつか尿意が高くなっていて、それでも勢いを削ぎたくないので打鍵を続けていたところが、一息ついてそろそろトイレに行こうと思った時になかには人が入っていて、それが何をやっているのか随分と長く待てども出てこない。尿意の高潮が身に響くなか、頭から今日の日記を読み返しながら待っているその頃には席を一番端に移っていたが、それは途中で女性客が隣にやって来たので、あちらも狭苦しく隣り合うのでなくて一席あいだに空いていた方が良かろうとずれたのだった。そのうちにようやくトイレが空いたのでなかに入り、長々と放尿して水を流し手を洗うと、ハンカチは使わず備え付けのペーパーを使って水気を取って、席に戻るとふたたび作文に邁進したが、六時を越えた頃、突如としてバッテリーが残り五パーセントしかないと警告が表示された。まだ現在時に追いついていなかったが、計算通りぴったり二時間文を進めたことになり、しかし二時間でエネルギーが尽きるとはこちらの相棒ももはやよほど衰弱している。絶息するのも近いかもしれない。
 それで仕方がないので帰ることにして、コンピューターを落として仕舞い、外してトレイに置いてあった腕時計を手首に戻し、リュックサックを背負うとトレイを持って席を離れ、厨房近くにいる店員に寄っていけばその女性がありがとうございますとトレイを受け取った声がやたらと大きく元気だった。礼を言って階段を下り、カウンターの向こうの店員にも会釈を送って退店すると、時刻は六時過ぎだが既に暮れきって空は宵の黒さに浸ったなかに雲の姿形が淡く見分けられるほど、通りの端にはバス待ちの人々がまっすぐ列を成しており、歩いていくとスーツ姿の男が二人、何やらティッシュを配っていて、何の店のものか仔細に見なかったがその格好の、一見折り目正しく決まっているものの何となく胡散臭い。過ぎてエスカレーターに乗るとすれ違う下りの段に乗っている人から中国語らしき言葉が聞かれた。高架歩廊に上がれば駅前はオレンジ色のライトが宙に通っていかにも街の明るさで、眼下には黒塗りのタクシーが集まっている。駅舎に入りながら、正直に言って、俺の日記は、なかなか面白いのではないか? と思った。最近は何だか知らないが記述に勢いがあるなと思いながら人波のなかを泳いでいる途中、グランデュオに寄っていくかと決めたのは、母親がいちじくチョコとやらを買ってきて、とか言っていたのを思い出したからだ。グランデュオのなかに「銘菓銘品」という店があってそこに売っているのだった。それで改札の前を過ぎて駅ビルの方に運ぶその足取りが、随分と確かに踏まえるようになっていてのろく、こちらのように暢気に生きていない人々は足早に周囲を抜かしていく。入館すると最初に目についたのは婦人用の服飾店かと思えばずらりと並んでいるのは帽子で、続いてスカーフやマフラーが出てきて、さらに『ダロウェイ夫人』を想起されるが手袋も多数陳列されて、そこを過ぎると財布やハンカチが現れる。それらに目をやりながらフロアを進むあいだ、目指すべきはやはり小島信夫だなと考えていた。別にとぼけたような、生理的な破格を文章に取り入れたいわけでなく、推敲をまったくせずにほとんど一筆書きのようにして書いていたというその軽さ自然さを見習いたいのだ。しかしあるいは、さらに目指すべきは小島信夫と、古井由吉のハイブリッド、と言うか二人のあいだのような位置なのかもしれないとも思いついた。つまりは一筆で一気に流れながらも、同時に文の密度もそれなりに保って、古井のように日常の、機微と言うと彼の場合少々違う気がするが、差異の襞に細密に分け入るような文章を書きたいとそんなところだ。
 「銘菓銘品」に着いたところで気づいたのだが、自分はいちじくチョコという語を考えていながらその実想起していたのは別の品で、「ポーム・ダ・ムール」と言って林檎のチョコレートだった。そもそもいちじくチョコは以前来た時も売っていなくて、代わりにこちらも母親が好きな「ポーム・ダ・ムール」を買って帰ったのだったが、その品を念頭に置いていたところ、こちらも今日は何と完売しているとの表示があった。それで別に、何も買わなくたって良かったのだが、折角来たから何か買っていくかと定めて、以前も買った「夕子」という生八ツ橋を一つまずは選び取り、もう一品を何にしようと迷って店内を回り、良い品を探ったが決定打が見つからない。一つ気になったのはフルーツチョコボックスというもので、直方体の容れ物に小さなチョコレートが無数に詰まったもののようだが、一粒がよほど小さく、それらの包装をいちいち剝がして食わねばならないのも面倒そうだと思い直して、代わりに隣に「プティ・ガトー」というクッキーがあったので、値段も六〇〇円ほどだしこれにするかと手に取ってレジに行った。一二四二円を払って礼を言って去り、通路の脇でリュックサックに袋を入れて、そうしてビル内から続く改札を通って、遠くの電光掲示板に悪い目を凝らせば、電車は六時三一分のようだ。一番線のホームに向けて階段を下りると、下段の方で実に小さな幼児が一人、まだ歩きはじめていくらも経たない年頃だろうか母親に両手を取られていたいけに、ゆっくり足を持ち上げて段を上って微笑ましい。ホームに入ると一号車の位置に立ち、手帳を出してメモを取っていれば電車はじきにやって来て、席に座って文字を書き続け、発車してからも書いていると、座って手帳を腰のあたりに置いていれば意外と揺れず、綴れることが判明したので読む方に移行せずに記録を続けた。そもそも多少字が乱れたって読めれば良いのではないか、記録を取ることの方が優先されるべきではないのか。
 途中で記録が現在時に追いついたので読みに移り、ホロコースト関連の情報を頭に入れていく。青梅に着くと降りて乗換え、奥多摩行きは何故か結構混んでいて席に隙間もあまりなかったので、扉際に立って読み続け、最寄りで降りれば今しがた読んだ情報を脳内で想起し反芻しながら駅を抜けた。細い月が夜空の高みに、白々と映えて刻まれている。坂道に入ってからも頭のなかでぶつぶつ呟きながら下りていき、平ら道に出た頃ようやく手帳のことは忘れてあたりに耳を張れば、風の動きがほとんどなくて静かな夜道で、公営住宅を過ぎるとしかし、どこか川向こうでやっているものか祭りに集まる人々のような明るいさざめきが伝わってきた。
 帰って家に入ると母親に挨拶して、買ってきた品を取り出し、いちじくチョコは売っていなかった、「ポーム・ダ・ムール」も売り切れだったと告げてカバー・ソックスを脱ぎ、洗面所の籠に入れると塒に帰って、コンピューターを取り出して机上に据えながらズボンを脱いだ。起動するとTシャツに下着の妙な格好でTwitterを覗き、Evernoteをひらいて今日の支出を記録して、二〇一九年に購入した書籍も記事を作って一覧にしているからそこに情報を書き加えて、今日の分を足せば今年は既に一二六冊を買っていて、いくら使っているのかは明かせない。さすがに阿呆でないかと思うがこれも業、どうせ一生掛けて読むのだからと言い繕おう。それで記録を終えると勤勉なことに日記の続きを書き出して、音楽は伴わず無音のなかでここまで記せば始まりから一時間弱が立って八時半を前にしている。
 食事へ。上がって行くと父親の姿がない。先ほど帰ってきた気配を確かに聞いたと思ったのだが、訊けば帰宅後ふたたび出たと言う。自治会長なので運動会の練習に顔を出さなければならないとか。食事はフライパンにエノキダケとはんぺんを炒めたものがあったので、半分皿に取って電子レンジへ、ほか、素麺に生野菜のサラダ、サラダには茹でた豚肉を載せ、さらに冷蔵庫を覗けば前日にこちらが作った葱と舞茸の味噌汁も残っていたのでそれも火に掛けた。それぞれ卓に運んで席に就き、テレビは男子バレーボールがワールド・カップを開催中らしく、日本とアメリカが試合しているのを、そんなに興味はないけれど見やりながらものを食べる。途中で父親が帰ってきた。時間は前後するが、一度目に帰ってきた時にはYさんから野菜を色々と貰ったらしく、茄子などが入った紙袋が炬燵テーブルの上に置かれてあった。
 食事を終えるとアリピプラゾールを飲み、セルトラリンの方はもう残りが少ないのでこの夜は省くことにした。月曜日か火曜日には医者に行かなければならない。それから食器を洗って、風呂は父親が入っていたので緑茶を用意して下階へ、九時過ぎからFISHMANSCorduroy's Mood』とともにMさんのブログを読み出した。読んだのは一〇月三日と四日の記事だが、なかに学生らから誕生日おめでとうのメッセージを送られたという情報があって、それで今日、一〇月五日が彼の誕生日であることを思い出したので、こちらもTwitterのダイレクトメッセージで言葉を送っておいた。昨年と一昨年はAmazonのギフト券を贈ったのだったが、毎年それでも味気ないし、また冬にでも彼が来京した際に、何か贈りますよと付け加えておき、それからSさんのブログに移行して、緑茶を飲んで汗を背中にだらだら搔きながら読むその頃には、音楽はSonny Rollins『Saxophone Colossus』に移っていて、Rollinsのソロに合わせてメロディを、勿論追い切れないが口ずさみながら五日分を読み、二曲目の"You Don't Know What Love Is"の途中で切ると急須と湯呑みを持って階を上がった。すると階段の上にいた寝間着姿の父親が、お母さんが先に入るからと言ってくるのだが、当の母親の方は髪を染めるからそのあいだに入れるでしょと言うので湯を頂くことにして、下着を持って洗面所に行き、裸になって浴室に入るとまず窓をひらく。そうして湯に浸かり、昼間はあれほど暑かったが夜を迎えればやはりよほど涼しくて、ひやりとした涼気が漂って身に触れるなか、脚を前に伸ばして両腕を浴槽の縁に置き、拳は緩く握って身は低くせず、背はわりあいに立てて頭は縁に預けず、そうした姿勢で静止しながら食事の時間のことを思い返していると、そう言えばエノキダケを電子レンジで温めたままなかに忘れたのではないかと気づいて、扉の向こうの洗面所で何やらがさがさ音を立てながら髪を染めている母親にその旨伝えれば、父親が見つけて食べるとそういうことだった。それからまた静止して目を閉じ、物思いに入って、いくつかの事柄に思い巡らせた。一つには、書くことの対象にならないものなどこの世には何一つないという言わば「信仰」を、自分は二〇一四年かその頃から抱いていて、当時のような熱情はさすがになくとも今も基本的にそれは保たれているのだが、この頃ますますそのことがわかってきたと思った。しかしこの世はほとんど無限だから、自分の手腕が習熟して世界の襞に細かく分け入れば分け入るほどに、しかしその奥の襞がさらに見えてきて記述は止めどなく膨張し、勿論人間としての限界はあるが途方もない。もう一つには、日記も突き詰めて行けばいわゆる「意識の流れ」に近くなると言うか、その瞬間瞬間の自分の知覚や認識を常に追って脳内で反芻しながら実況中継するようなことになってくる。しかしそれは、「意識の流れ」と言うと主体の内面的な心理ばかりに焦点が当たってしまう気味があるから、言葉をちょっと変えてこの世の差異の生成の流れを追いかけていると言うか、自分自身もそのうちの極小の一片として属している世界の流れを追っているようなものかなと考えた。そのようなこちらの日記は、前にも書いたことがあるけれどそれを通してテクストと主体とのあいだに相互関係を、絶え間ない往還を打ち立てるようなものであって、それによって自己を芸術作品のように磨き抜いていくという機能をおそらく持つ点で、ミシェル・フーコーの言うところの「生存の技法」に当て嵌まるだろう。そのあたりをもう少し掘り下げて考えるために、やはり晩年のフーコーの主体論を読まねばならないなと改めて認識した。
 そのようなことを考えながら頭を洗い、身体も擦って、そうして出ようと立って浴槽の蓋を閉じれば、洗面所にまだいた母親がそれを聞きつけて、もう出るのと言うので肯定すれば、ちょっと待ってと来るので扉の前で、フェイスタオルで身体を拭いて水気を除き、母親が洗面所を出た音がしてから扉を開けた。バスタオルで身体を拭って、髪のもう伸びてきて鬱陶しい頭をがしがしと擦って、それから灰色にドットの模様が入ったパンツを履いてドライヤーを取り、頭を乾かすと室を抜けて便所に行った。膀胱を軽くしてからふたたび緑茶を用意していると、母親が、あれを飲んでよ、飲むヨーグルト、と言って、期限はいつまでかと訊けば今日までと言うが、今は冷たい飲み物を貰う気にはならないと払って、温かい緑茶を湯呑みに注ぐ。テレビはレイドローとか言ったか、スコットランドラグビー選手らしい人を映して、「甘いマスク」で日本でも人気と伝えてみせるのを、炬燵テーブルに置かれた膳を前にした父親が、昨晩とは変わって今日はいつも通り、うんうん頷いて声を漏らしながら見ている。
 時刻は一〇時ぴったり、まず一年前の日記を読んだ。冒頭に、フローベールの手紙からの引用があって、曰く、「いくらか仕事ができるようになりました。今月の終りには、宿屋[﹅2]の場面がおわるだろうと思います。三時間のあいだにおきたことを書くのに、二カ月以上かけることになります。(……)」(工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年、168; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五二年十月七日〕木曜夜 一時)と言って、この人も大概だが、しかし今『双生』の初稿を終えようとしているMさんの方も、まるで前世がフローベールその人であったかのように、なかなか負けていないのだろうなと思い、日記本文を読んでみれば、Mさんの誕生日について言及されていて、続けて鬱症状に襲われていた時期の時間の空虚さを漏らしている。

MさんがTwitterで誕生日だと呟いていたので、本日一〇月五日が彼の生誕日であることを思い出した。それで、Amazonのギフト券を贈る(中国にいてはあまりAmazonを利用しないのかもしれないとも思ったのだが、ほかに手段もないし構うまいと振り切った)。前年と同様、味気の無い簡素なプレゼントだが、あれからもう一年が経ったのかと、そう思わざるを得なかった。この一年、正確に言えば年末年始以来の今年二〇一八年の九か月は、自分が何一つ目立ったことをしなかったように、空白の時間のように思えてならない。実際、少々狂った頭を抱えながらも曲がりなりにも労働を続けていた三月まではともかく、少なくとも四月以降は、精神の変調にやられて休んでいたばかりで、進歩や肯定的変容の不在、むしろ退化の実感、というわけだろうが、そういうことでもなく、うつ症状に苦しんでベッドに寝転がってばかりいたあの夏場の時間までもがまるでなかったことのように、記憶の、過去の手触りが稀薄だとでも言おうか。

 それからfuzkueの「読書日記」を一日分読んだあと、書抜きに入った。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。BGMはRollinsが終わったあとはConrad Herwig『Another Kind Of Blue: The Latin Side Of Miles Davis』、それに続けて最近のジャズでも何か聞くかというわけで、Mark Guiliana Jazz Quartet『Family First』を繋げて、打鍵を進めているうちに、何か興が乗ったと言うか、集中力がやたらと続いて気づけば一時間以上文を写していた。最近は何だかやたらと意気軒昂で、あまり怠けもせずにやるべきことを出来るだけやれているのは良いのだが、この活発さは、自分がまさか双極性障害なのであって、今が躁期に当たっているのではないだろうなとちょっと疑いが過ぎったりもする。
 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』の記述によれば、一九四一年当時のゲットーの食料事情はとんでもなく悪い。五月二九日から六月二九日には、ウーチ・ゲットーに一九万二五二〇個の卵が供給されたと言うが、ウーチ・ゲットーの人口は一五万人ほどだからそれで割ると、一か月に一人当たり一・二八個しか卵が貰えなかったということになる。信じられない、とても想像できない窮状である。
 さらに、SS少佐のヘップナーという者が一九四一年の七月一六日に、アイヒマンに書簡を送っているのだが、そのなかに次のような発言が見られる。「この冬にユダヤ人全部にはもはや食事をあたえることができなくなる危険がある。労働配置が不可能なユダヤ人はなにか速効性のある方法で始末するのがもっとも人道的な解決ではないのか、真剣に考慮する必要がある。いずれにせよ、このほうが彼らを餓死させるよりも気持ちがいいだろう」。ここにおいては「人道的」という言葉の意味が完全に剝奪され、概念が根底から捻じ曲げられてしまっている。究極的に独善的な理屈である。この発言をTwitterに引用して投稿すると、M.Yさんという方からリプライが来て、恐ろしい発言だと言うので返信を送り、そこから二、三、やりとりを交わし、そのなかで、人類の苦難の歴史を自分に出来る限りで広く、かつ深く知ることが一人の人間としての責務のように感じていると大袈裟なことを言ってしまって面映く、ちょっと大きなことを言い過ぎたなと思う。
 零時前、Mark Guilianaの音楽をヘッドフォンで聞いていたその外から何やら響くものがあって、片耳の覆いを外してみれば窓外はいつの間にか雨らしく、しかも大雨と言って良いくらい結構な降りで、ちょっと経つと濡れた土と草の匂いが漂ってきたが、じきに止んだ。零時頃にはMさんからダイレクト・メッセージの返信が届いており、やりとりをしながらこの日の書抜きの最後の箇所を写したのだが、ゲットー撤去作戦に対する各ゲットーの指導部の対応を記したもので、これは四頁分もあるから非常に長々しくて恐縮だが、是非読んでほしい。せめて後半の、仲間を売ることを良しとせずに自ら死を選んだ指導者たちの記録だけでも読んでいただきたい。これがまさしく地獄というもの、極限状況というものだ。Mさんが先日ブログで、トロッコ問題の思考実験を取り上げてその空虚さについて批判していたけれど、そうしたほとんど抽象的とも思える条件、誰かを助けるために必ず誰かを殺さなければならないという状況が現実化してしまったのが一九四二年のゲットーだった。

 最初の試練はユダヤ人評議会によるリストの作成・提出である。リストはウーチのように撤去要員のみを記載したリストをユダヤ人評議会が作成・提出する場合と、年令、職業、労働可能性などを記載した全員のリストをユダヤ人評議会が作成・提出して、ドイツ側が選別する場合の二つがあったようである。このリストによってゲットーのユダヤ人一人一人の運命が決まる。労働が運命を分ける基準である。労働によって自らを救おうとするものは、我が身を救うために同胞と、結局のところ、我が子を差し出さなければならなくなる。しかし、圧倒的多数のユダヤ人評議会はリストを提出した。
 東部オーバーシレジエン・ユダヤ人共同体中央ユダヤ人評議会議長メリンは、一九四二年五月のソスノヴィエツ・ゲットーの撤去行動を前にして、約三〇人のおもだったものを招いて会議を開いた。会議の冒頭にメリンは、ドイツ側が要求するものは何であれユダヤ人自身が行なうべきであるというのが原則であり、この原則に従わなければならないと述べた。これにたいして、ベンジンユダヤ人評議会員ラスキエールは、ユダヤ人の歴史にいまだかつて、数千人もの同胞を敵に差し出した例はない。ドイツ側が選別のために示した基準、すなわち、「病人、不具者、老人」は、何がおこなわれるかについて疑いを抱かせない。ドイツ側自身に選別させるべきだ、と反対した。数人がこれに賛成した。しかし、ベンジンユダヤ人評議会議長モユチャツキーはメリンの意見に賛成した。メリンは、ゲットーが社会的に無用な分子から解放されるか、それとも外国人にそれをやらせて、最も価値のある個人を失うかであり、彼は、真面目で賢明な政治家として、選択する道に迷いはないと強調した。それにもかかわらず、ソスノヴィエツではドイツ人に選択させる道が選ばれたようである。
 五月半ばに今度はベンジン・ゲットーの番になった。メリンはまず移送の志望者をつのった。誰も志望しなかった。次いで、彼はラビたちの意見をきくための会議を催した。メリンは、ゲシュタポの命令に自分が従えば、多くのユダヤ人が救われ、通報者、泥棒、不道徳者、病人、精神病者、知恵遅れ児童を選別して移送することができる。そうでなければ、ゲシュタポはソスノヴィエツで行なわれたようにアトランダムに多くの「尊敬すべき人たち」を連れ去るであろう、と述べた。会議では、ユダヤ人は移送にかかわるべきでないとの意見も出されたが、支配的な雰囲気は、メリンが実行したほうが良いということであった。最後に、ラビ・グロイスマンがラビを代表して、メリンの提案は基本的にユダヤ人の倫理と宗教に反しているが、しかし、さしあたりより小なる悪をとる以外ない、と述べて、これを支持した。こうして、メリンとユダヤ人警察はベンジンユダヤ人の移送を自らの手で積極的に実行したのである。
 しばしばラビの意見が聞かれた。すでに一九四一年一〇月末に、ハイデミューレ・ゲットーで移送者のリストを作成するよう命令があったとき、ユダヤ人評議会議長は四人のラビに意見をきいている。彼らの意見は政府の命令に従うのは義務である、ということであった。カウナス、オシミアナ、ソスノヴィエツでも同様であった。ヴィリニュスのラビだけは絶対に従うべきでないと主張したが、しかし、彼の意見は無視された。ヴィリニュス・ゲットーのユダヤ人評議会議長ゲンスは、撤去行動の間中、ゲットーの出口に頑張って行動の指揮をとり、誰が移送され、誰が残るべきかを決定した。
 ビアウィストク・ゲットーのユダヤ人評議会議長バラシュは、「もしひとが毒に侵されて手足を切断しなければ命が危ないということになれば、そうするであろう」と述べて、自ら移送者のリストを作成した。ズオチュフ・ゲットーの評議会は、「劣等な分子(病人、虚弱者、老人)だけが引き渡され、若者、健康者、インテリが助かるのだから、……むしろ有益であろう」として、ゲシュタポに協力した。
 スカウァト・ゲットーのユダヤ人評議会の多くも、人間は死ななければならないのだから、老人が最初にゆくべきだ、彼らはすでに十分生きたのだから、として、ユダヤ人警察とともに老人と乞食の狩りだしに熱中した。しかし、スカラトでは第一回の行動のあと、三人の評議会員から異論が出され、激しい議論となった。結局、評議会はゲシュタポに賄賂を贈って交渉してみようということになり、そのための金をもう一度集めてみることになった。
 おそらく、この賄賂作戦が一定の成果をあげたのであろう。スカウァト・ゲットーでは一九四二年一〇月二一・二二日の撤去行動に際して、SS中佐ミュラーと評議会及びユダヤ人警察の代表者との間に取引が成立した。ミュラーは彼らが協力すれば、彼らとその家族の安全は保証すると約束した。評議会とユダヤ人警察のおもな仕事はユダヤ人を隠れ家から発見することであった。行動が終わったあと一群のSS隊員はユダヤ人評議会へ出かけた。宴会が彼らを待っていた。楽しそうな高笑い、音楽、歌声が夜通し聞こえた。その時、約二〇〇〇人のユダヤ人があるいはシナゴーグに封鎖され、あるいは寒さのなかを草原の道路添いに監視されて、移送を待っていた。
 ソスノヴィエツ、ベンジンの撤去行動に際しての議論からも明らかなように、ユダヤ人評議会が自ら撤去行動に協力しようとする理由の大きな一つは、ゲシュタポに任せたのでは「尊敬すべき人たち」――その中には当然、評議会員やラビが入る――が移送される危険があるからである。彼らが移送に協力しようとするのは決して自らを移送するためではない。しかし、ここには少なくとも一つの例外があった。一九四一年八月、ロシア・ユダヤ人の射殺が行なわれていたときのことである。ヴォルヒニアの小都市カミエン・コシュラーキのユダヤ人評議会議長ヴェルブレは、ドイツ側の命令にしたがって、八〇人のゲットー住民のリストを提出した。彼はその用途を知らなかったのであるが、あとでそれを知ったとき、彼は出頭して自分もリストに加えてほしいと頼んだ。ドイツ側は彼の願いを受け入れ、彼は八一人目に射殺された。
 ユダヤ人評議会が撤去行動とリストの作成に抵抗した少数の例は、一般に人間関係が相互に緊密な中小都市のゲットーに限られている。ルブリン地区の小都市ビユゴラーユのユダヤ人評議会の副議長ヤノヴァーと三人の評議会員は、移送者リストの作成を拒否したかどで、移送の前日に射殺された。バラノヴィッツェ・ゲットー評議会議長イジクソンはリスト作成を拒否したため、秘書とともに射殺され、カルーシン・ゲットー評議会議長ガンズはリスト提出を断固として拒否し、自宅で射殺された。ドンブローヴァ・ゲットー評議会議長ワインバークは移送リストの提出を拒否したため、家族全員とともに移送された。ルヴネ・ゲットー評議会議長ベルクマンは、ドイツ側から移送者リストを提出するよう命じられたとき、彼が引き渡すことのできるのは、かれ自身と彼の家族だけであると答えたが、その直後自殺した。
 ルヴネ・ゲットー評議会員スハルチュクは、移送者リスト作成のための会議で、いかなるリストも提出するべきでないと強く訴えたが、評議会の圧倒的多数は提出を決定した。彼はひとり家に帰り、自殺した。グロドゥノ・ゲットー評議会員兼統計部長マルダーは、彼の統計資料がドイツ側に移送者決定の資料にされることがわかったとき、これに抗議して辞任した。評議会は彼を次の移送者リストに加えた。マルダーはこれを知って自殺した。残った彼の家族は移送された。
 ベレザ・カルトゥスカ・ゲットーは、一九四二年一〇月一五日に「ロシアでの労働」のために広場に出頭するよう命じられた。ユダヤ人評議会は直観的になにが行なわれるかを悟った。一〇月一四日の評議会の席で、評議会員ほぼ全員が首をくくって自殺した。一九四二年一一月一日、プルジャーナ・ゲットーがドイツ人によって封鎖されたとき、評議会員を含む四一人が評議会副議長シュライブマンの家に集まり、毒を呑んで集団自殺をはかった。しかし、明らかに毒は不十分であった。翌朝、この光景を見た人々の介抱で一人を除いて全員蘇生した。しかし、彼らは二ヶ月余りのちの一九四三年一月には「行動」によって絶滅されたという。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、194~197)

 書抜きに区切りを付けると時刻は零時四六分、そこから日記を書き足しておよそ一時間、未だにパンツ一丁の格好で肌を夜気に晒しているが、暑くもないし、と言ってさほど涼しくもない。ここ数日日記のなかの引用の量が甚だしくて、こんな調子だと一年後に自分が読み返すのも大変だと思うのだが、読者の皆さんにおいては無理に頑張って全部読もうなどとはせずに、軽く斜め読みで流すか、断片的に拾い読むか、やりやすい方策を選んでいただきたい。こちらも出来ればやはり、どうせなら長くお付き合いしていただきたいと思っているから、流し読みだろうが拾い読みだろうが、自分が読み続けられるやり方で読んでくださるのが、この日記との上手い付き合い方だと思う。
 それから二時ちょうどから読書を始めた。文学大系のカフカの巻を読んでいる途中だが、一時そこから離れて、TとKくんに贈る予定の谷川俊太郎編『祝婚歌』を、やはり自分で読んでいないものを贈るのも妙だから、読んでしまうことにして、閉じたコンピューターの上に本をひらき、立ったまま、時折り前屈みになってテーブルに肘をついたりしながら読んでいくと、二時四〇分頃読了した。それからカフカに移行したが、この夜は立って読んでいてもどうも睡気が湧いてきて、読みながら目が閉じてくるような調子だったので三時二〇分で切って床に就いた。そういうわけで僅か三、四頁しか読み進められなかったが、今日読んだその箇所というのはKに対する弁護士の「訓話」が非常に長々と続く場所で、三段組の版で六八頁冒頭から七三頁の二段目まで及んでいるから結構なものだ。この「訓話」が、訴訟手続きの詳細や弁護士や役人の役割などについて述べているのだが、しかし全体として何を言っているのかさっぱりわからず、煙に巻かれているような感じで、読んだそばから前の内容が失われていき、あとにはほとんど何も残らない、といった調子である。全体的に内容を俯瞰して要約出来ない、つまりは一つの意味の秩序が形成されない見通しの悪さがそこにはあり、言わば迷宮的と言うか、地図のない迷路に放り込まれて彷徨っているような感覚である。カフカの作品に特有の特徴というものは色々あると思うが、最もカフカらしい記述というのは、文章が横滑りしながら絶えずひらいて意味が新たに付け加えられていくけれど、それが決して明瞭な全体像を結ぶことのない、このような「攪乱」の記述なのではないか。それはおそらく、サミュエル・ベケットなどにも受け継がれているものだろう。


・作文
 7:46 - 8:31 = 45分
 10:29 - 10:48 = 19分
 16:05 - 18:04 = 1時間59分
 19:35 - 20:24 = 49分
 24:51 - 25:47 = 56分
 計: 4時間48分

・読書
 8:53 - 10:10 = 1時間17分
 11:00 - 11:20 = 20分
 13:00 - 13:05 = 5分
 21:05 - 21:30 = 25分
 22:00 - 24:46 = 2時間46分
 25:59 - 27:19 = 1時間20分
 計: 6時間13分

・睡眠
 4:30 - 7:30 = 3時間

・音楽

  • Mr. Big『Get Over It』
  • FISHMANSCorduroy's Mood』
  • Sonny Rollins『Saxophone Colossus』
  • Conrad Herwig『Another Kind Of Blue: The Latin Side Of Miles Davis
  • Mark Guiliana Jazz Quartet『Family First』

2019/10/4, Fri.

 私は『邂逅』を、かならずしも「文学的に」読んだわけではない。シベリヤから帰って三年目の私は、およそ文学的にものを読める状態ではなかった。私にとって、自由と混乱とは完全に同義であり、混乱を混乱のままでささえる思想をさがし求めていた。たぶんそれが〈愛〉というものなのだろう。だが、愛という言葉ひとつを口にするためにも、じつに多くのまわり道をしなければならない。それが椎名氏のいう「自由」ということなのであろう。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、188; 「『邂逅』について」)

     *

 帰国後しばしば私は、シベリアで信仰が救いになったかとたずねられた。実は、信仰というものがそのような、危機に即応するようなかたちで人間を救うものではないことを痛切に教えられた場所こそシベリアであったと、すくなくとも私にかぎっていえそうな気がする。
 (200; 「聖書とことば」)

     *

 私は強制収容所で、多くのカトリックギリシア正教の聖職者に会ったが聖職者といえども危機に対しては、他の囚人とおなじ態度でのぞまざるをえないさまをしばしば目撃した。人間には、救済「されてしまった」という安堵は永遠になく、つねに新しく不安と危機に対処しなければならないことを、私は痛感した。
 (201; 「聖書とことば」)

     *

 話をすこし戻しますと、こういった混乱状態のなかで詩を書き出したとき、私は詩によって一体なにを伝達しようと願っているのかということを、しばしば考えました。つまり、その時期の私には、詩という表現形式へ追いつめられたものが、他者へ伝達されることに大きな不安があったわけです。つまりその時期の私にとって、詩を書くということは、先ほどお話しした、牢獄の壁に姓名、名前を書きのこすという行為とほとんどおなじであったと思います。たまたまそれを読んだ別の日本人がいたにしても、その名前が担った運命の重さというものは全く伝わらないかもしれない。というより伝わらないのが本当です。にも拘らず人は、さいごに辛うじて残せるものとして、その名前を書きのこす。あるいは人に伝える。これが、伝達ということの、いわば原点であると私は思います。
 そしてこれを受け取る者は、名前の内容は分らないけれど、ひとつの重たい事実として、記憶に刻みこんでどこかへ行く。私にとって、詩を書くという行為は、その時期には、ほとんどそのような行為であったと思います。
 (211~212; 「詩と信仰と断念と」)


 明晰夢を見た覚えがある。設定としては高校三年生の卒業前なのだが、自分の認識としては今の年齢のままと言うか、要は「強くてニューゲーム」ではないけれど、高校三年生時点の自分の肉体に今の自分の精神が宿っていて、それに気づいているのはこちら自身のみ、というような状況があって、そうした夢を見ながらこれは夢だと気づいており、これは面白い、起きたら是非とも日記に書かなくてはと思ったのだったが、起きてから時間も経った今から考えると別にそれほど面白くはない。その夢が破れてカーテンを開けると、雲のまったくない澄み切った秋晴れとは行かないが、太陽を押し留めるほどの勢力も雲にはなくて、空気に陽の色が宿り、本体は南の空で光を四方に広げ、膨張している。その光を受けながらふたたび眠りに入って、するとまた明晰夢が続いて、という形で何度も短く夢を見ては覚めてを繰り返したのだが、それらの詳細はもはや失われてしまった。一〇時半頃に意識が定かになり、それから少々経って起き上がると上階に行き、母親に挨拶をして洗面所に入って顔を洗うとともに髪を梳かした。髪もそろそろ切りたいほど伸びてきていて、もさもさとして野暮ったい。
 食事は前日の炒め物と米のみを卓に運んで取っていると、母親が大根や人参の漬物と煮昆布を持ってきてくれたのでそれも頂く。食後、抗鬱薬を飲み、皿を洗って風呂に行き、寺尾聰 "HABANA EXPRESS"や"渚のカンパリソーダ"を口ずさみながら浴槽を洗って、出てくると下階に帰った。あと、時間が前後するけれど食後には梨も食った。父親がどこかで買ってきたらしいもので、母親は、あんなにお土産を買ってこなくても良いのに、勿体ないよ、もっと考えて買えば良いのにとぶつぶつ漏らして、この梨はどこで買ってきたものなのかどこかの土産なのか知らないが、のどぐろ入りの蒲鉾とかあたりめとかが調理台の上にはあって、これは多分先日自治会の旅行で新潟に行ってきた時の土産なのだろう。梨は甘く瑞々しく、美味いものだった。
 急須と湯呑みを持って上に行き、流し台に茶葉を空けて、排水溝の物受けに溜まった茶葉を生ゴミの袋に始末する。物受けを持って流し台の縁にがんがん打ちつけて茶葉を落とそうとするのだが、なかなか出てこないので結局手指を使って搔き出した。そうして茶を注ぐと自室に帰り、コンピューターを起動させ、日記の記録を付けると、前日の夜のことを書きはじめる。途中でYoutube寺尾聰『Re-Cool Reflections』の音源を流して歌う。茶を飲んでいると暑くて汗が湧くので、窓を閉めてエアコンを入れた。途中で茶をおかわりしに行くと、台所には烏賊の匂いが漂っている。先ほどのあたりめを大根と一緒に煮物にしたのだと言う。茶をまた三杯分用意して自室に帰り、日記を書き続けるあいだ、LINE上でTが、MUさんに対する誕生日プレゼントとして、『ハイキュー!!』という作品のジャージを皆で贈るのはどうかと提案しており、『ハイキュー!!』というものをこちらは全然知らないが、異存はないぞと受けた。この作品に出てくる学校のジャージが市販されていて、簡単にコスプレ出来るからしてみたいというような発言を、以前MUさんがしていたらしい。
 "ルビーの指環"を歌い終わって、母親が仕事に出掛けた頃、音楽を止めた。と言うのは、今日はAmazonで注文した谷川俊太郎祝婚歌』が届くことになっていて、自室で音楽を流しているとインターフォンが聞こえない可能性があるからだ。母親の上階にいるうちに荷物が届いてくれれば手っ取り早かったのだが、そうは行かなかったようなので、音楽を消して入口の扉も開けて上階の音や気配を聞き取りやすいようにしながら、ここまで綴って一時前である。
 インターネット上に一〇月三日の記事を放流したのち、Mさんのブログ。三日分を読んで最新記事まで追いつく。続けて過去の日記。一年前の日記は箇条書きではあるが、そこそこ書いていて、さらに一年以前の日記も読み返しているようで、二〇一七年一〇月四日の記述が引かれており、なかなか上手く書けていると評しているのが次の描写である。「裏路地を行きながら見上げた夜空に、コーヒーに垂らしたミルクのように、微妙に揺らいだ乳色の筋のただ一つのみ流れているのは、そこに雲があるのではなくて、ほとんど隈なく敷かれた雲の幽かな切れ目のほうであり、中秋の名月とは言うものの生憎の空模様に、さすがの月も自己の存在を示す頼りをほかには何も持てなかったのだ」(2017/10/4, Wed.)。今読んでみても、確かになかなか良く流れているのではないかと思う。
 続けてfuzkueの「読書日記」を読んだのち、Sさんのブログ。八月一六日の記事に書かれていた溝口健二の映画の要約が面白く、そうか、恋愛ってそういうものなのか、と思った。

溝口健二近松物語」の登場人物の二人は、大変な恋愛モードの只中にいるのだが、一緒にいるときに必ずしも幸福そうではなくて、むしろ今の事態に恐れ慄いてその不安に耐えきれなくて、とくに男の方はせめて相手だけでも助けたいと思って、突如として一人で逃走をこころみて果たせず泥にまれてまた性懲りも無く二人抱き合うみたいなことをくりかえすばかりで、外部的な力によって引き離されることには絶対に抵抗するしどこまでも逃げるし、そこまで行くなら心中しかないでしょというレベルはお話の前半くらいで軽く越えてしまって、死ぬことさえ拒否、地獄だろうが何だろうがどこまでも行くのみの体制で進みまくるのだが、しかしくりかえすが二人一緒にいるときが最上の幸福ではない。それはむしろ興ざめで只の「日常的」な時間でしかない。目の前のこの相手はなんと凡庸でどこにでもいる只の男だろう、こいつはどれだけありふれたただの女に過ぎないのか、お互いはきっと相手のことをそう思っている。それをまざまざと感じる。馬鹿馬鹿しい、ムダだ、滑稽だとさえ思う。にもかかわらず、相手がいないときには、その相手のことばかりで頭がいっぱいになる。昼も夜も、寝ても覚めてもそれだけになる。会わない時間が信じられない。世界のすべてを喪ってもかまわないから、あの人に会いたいと思う(「天気の子」にもしかしたら含まれていたのかもしれない、そうであってほしかった狂気)。その病気に罹っている。恋愛は端的に病気であり、治癒の対象ではあるのだが、それを発病することを生きるよろこびのように感じる部分がどこか人間のなかにあるのはなぜなのか。(……)
 (「at-oyr」; 「恋愛論と紛失論」 https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/2019/08/16/000000

 そうして二時までSさんのブログを読んでから上階に行き、洗濯物を取り込む。その頃には空には雲が蔓延って空気は脱色されているが、右手を額に翳して見上げれば西の空の、もうだいぶ林の樹冠に近いところで雲の向こうから太陽は白光を放ってはいる。見下ろせば畑の斜面には緑のなかに彼岸花の紅色がいくつも群れて、梅の木の葉は萎えたように力なく垂れ下がり、梢が軽くなっている。洗濯物を室内に入れると、まずタオルを畳んで洗面所に持っていき、足拭きマットも浴室の入口の前に敷いておき、それから肌着や靴下や両親の寝間着を畳んでソファの背の上に並べておいて、次にアイロン掛けだというわけでアイロンのスイッチを入れ、器具が温まるのを待つあいだに玄関を抜けた。谷川俊太郎祝婚歌』が、直接手渡しかあるいはポストに投函しておくという風に知らされていたので、知らないうちに配達員がやって来ていて既にポストに入っているのではないかと疑ったのだ。しかしサンダル履きで階段を下り、ポストをひらいてみるとなかは空っぽ、仕方なくまた待つことにして屋内に帰り、炬燵テーブルの縁にしゃがみこんで、父親のズボンを一つとハンカチを二枚、処理した。そうして下階に戻ってくるとここまで書き足して二時半前。
 二時半から英語。Paul Bloomfield, "What ‘Justice’ Really Means"(https://www.nytimes.com/2018/10/10/opinion/justice-moral-epistemic-principles.html)。語彙は以下に。

・take a beating: 敗北する; 大損害を受ける
・bear witness of: 証言する
・feat: 妙技; 特別な技能
・apotheosis: 頂点、極致; 典型、見本
・unduly: 不当に
・thumb on the scale: こっそりと自分に有利にすること
・desert: 功罪
・vigilantly: 油断なく、用心深く
・bond: 契約; 拘束
・common denominator: 公分母、共通点
・imposter: 詐欺師
・circumspect: 慎重な、用心深い

 さらに間髪入れず続けて日本語のインターネット記事を読むことにして、最初に、「週刊読書人」のウェブサイト上に掲載されている過去の記事をなるべく毎日一つずつ読んでいくことに決めているので、「東浩紀氏インタビュー(聞き手=坂上秋成) 哲学的態度=観光客の態度」(https://dokushojin.com/article.html?i=1253)を読んだ。気になったところを下に。

坂上 その中でとりわけ聞いておきたいのがドストエフスキーを論じた部分です。「子どもたちに囲まれた不能の父が観光客の主体になる」という書き方をされていますが、不能の父というのは無力な父とは別なわけですよね。そして無力でないのはなぜかと言ったら、子どもたちに世界を託すことが出来るからだと。

東 これは簡単な話で、要は、父といってもだいたい子供からは馬鹿にされるしいいことない、でも父になるしかないでしょってことですよ。ヨーロッパ的な父、特に哲学の概念として話題になるような「父」は、非常に強い家長的存在でしょう。でも現実に父親になるというのは、そんなことではない。

坂上 もっと俗的な存在というイメージでしょうか。

東 世俗的というか、現実として、父というのは情けないものですよ。べつに生物学的な父でなくても象徴的にも、父なんてのはたいてい弟子たちに馬鹿にされ捨てられて終わるものです。それがイヤならば弟子を作らないしかない。でもそれは空しいしそれではシニシズムから抜けられないよ、というのがぼくの本のメッセージです。じつはこの議論はジェンダーは関係ないので父じゃなくて「親」にしたくて、入稿の直前まで迷ったのだけど、どうも「不能の親」だと表現がしっくり来なかったんですよね。あと、これも本には書いていないんですが、ぼくの考えでは生きることそのものが「観光」なんです。ぼくたちはこの現実に観光客のようにやってくる。たまたまある時代ある場所に生まれ落ち、ツアー客がツアーバスで見知らぬ他人と同席するように、見知らぬ同時代人と一緒に生きていく。ツアーは1年で終わることもあれば80年続くこともあるけど、いつかは終わり、元の世界に戻っていく。そしてそんな観光地=この現実に対して、ぼくたちはほとんど何もできない、何も変えられないし、ほとんどのことは理解できない。でもちょっとだけ関わることができる。人生ってそんなもんだと思いますね。

坂上 「観光客の哲学」は普遍性を持っていると東さんは考えているわけですよね。

東 当然です。そもそも哲学的な態度とは観光客の態度のはずだ、というのがぼくの考えです。ぼくがなぜこの本でヘーゲルを批判しているかといえば、彼こそが、哲学を国家にとって「役立つもの」にしようとした張本人だからです。あともうひとつ、今日はぜんぜん話題にのぼりませんでしたが、ゲンロン0はポストモダニズムのアップデートです。ポストモダニズムはいまでは古い思想だと思われていますが、実際には二〇一〇年代のいまこそ社会のポストモダン化が徹底した時代であり、したがってその読み直しには大きな可能性があると思います。たとえば、普遍性について、近代においては、家族、社会、国民、そして人類全体へといったように、全体性の拡大としてしかイメージされてこなかった。しかしそういう拡大は必ず全体から排除されたものを生み出すので、自己矛盾を孕むことになる。リベラリズムの限界はまさにここにあったわけですが、ポストモダニズムはまさにそこで、充実した全体性とは違う穴の開いた全体性があるといったことを論じてきた。そのような思想はいままでは言葉遊びだと思われていたけど、トランプの時代のいまこそ、もっと実践的かつ具体的に論じられるべきではないか。国民という充実した全体性に対して、ウィトゲンシュタイン的な家族的類似性で組織される、穴だらけの全体性として人類を考える。それはかつては「リゾーム」なんて呼ばれていたのだけど、あまりにも曖昧なのでそれをアップデートする必要がある。これも本のなかに書いてあります。

 次に、Kieran Devlin「ファンカルチャーは批評のあり方をどう変えたか?」(https://i-d.vice.com/jp/article/9kxbx8/how-stan-culture-has-changed-the-critics-role)。同様に引用を以下に。

変わりゆく批評において起きている、もうひとつの重要な変化。それは今や、アートそのものを批評するのではなく、アーティスト自身の背景にフォーカスすることが強く求められているということだ。

作品のリリース数が増加の一途をたどる現在、アルバム、映画、書籍、展覧会の発表のさいは、メディアやライトなファン層の注目を確実に集める必要がある。そのために、PRや代理店、マネジメントを駆使し、作品の背景にある物語を打ち出す。そうなると、それが感動的な物語をよろこんで受け入れる準備ができているファンベースを反映したものになるのは当然だろう。しかし歴史的には、物語の考察ではなく、作品を作品としてしっかり考察することこそが、ジャーナリストの責任だった。

「Pitchfork」に掲載されたリゾのアルバムレビューは、ボディポジティブ、メンタルヘルスの回復など、アルバムを取り巻く物語に敏感に反応している。ただ物語に言及しているわけではなく、むしろ支持している。ただ、収録曲が少々均質で、ベースラインやビート、ハーモニーには、リゾが実生活で実現してきた勝利の数々に似た迫力や喜びが欠けている、という指摘もあった。

それがリゾのファンに、リゾの物語への攻撃ととられた。彼らは物語のなかにいないライターによる、リゾの名誉を毀損しようとする意図を感じ取ったのだ。「Pitchfork」によせられた批判では、このレビューがアルバムを「理解」していないとする意見がみられた。作品自体の質と、作品にまつわる物語やパーソナリティが、切り離されづらくなっているのだ。

 その後、「普天間軍用地料、地主半数超100万未満 政府が答弁書」(https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-245595.html)、「「たったの62人」大富豪が全世界の半分の富を持つ、あまりにも異常な世界の現実」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47989)、木澤佐登志「欧米を揺るがす「インテレクチュアル・ダークウェブ」のヤバい存在感」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59351)の三つの記事を立て続けに読み、時刻は三時半過ぎ。上階へ行き、母親の負担を微小ながら減らすために味噌汁でも作るかということで、冷蔵庫を探ると葱と舞茸があったのでこれで良かろうと調理台の前に立った。小鍋に水を汲んで火に掛けているあいだに、牛乳パックの上で葱を斜めに輪切りにしていく。切っているうちに湯が沸いたので、葱を投入し、粉の出汁を振るとともに醤油をちょっと垂らして、それから舞茸も細かく切って加えた。しばらく煮たあと、パックから押し出して投入するチューブ型の、お玉の上で溶かす必要のない味噌を適当に、目分量で入れて完成、早速椀によそり、その他半球形のゴマチーズのパンを一つに、ゆで卵と朝に食った梨の残りを持って卓に就いた。パンを千切って口に運びながら、どうも風がないなと見た。ベランダに続くガラス戸は開けてあるのだが、そこに掛かったレースのカーテンも少しも揺らぐ様子がない。空気が停止しており、そのなかでアオマツムシか、透き通った金属の球を擦り合わせるような鳴き声が立つものの、あたりは実に静かだった。味噌汁はまあまあの味。食事を終えると台所に立って手早く食器を片付け、肌着を脱いでボディシートを一枚取り、腋の下や背や腹を拭いた。そうして肌着を身に戻さず、上半身裸のまま下階に帰ってくると、勤勉なことにまたもや日記に手を付けて、ここまで綴れば四時九分。荷物はまだやって来ない。
 歯ブラシを持ってきて口に突っ込み、口内をごしごしと掃除しながらまたインターネット記事を読もうというわけで、今福龍太・中村隆之・松田紀子「ポスト・トゥルースに抗して 〈パルティータ〉版『クレオール主義』(水声社)刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=1310)をひらいた。今福龍太という批評家も以前から読みたいと思っているのだが、まだ触れたことはない。こちらが彼の名前を本格的に意識したのは、二〇一七年に『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』が読売文学賞を取った時で、この著作については当時、ソローが好きなUさんにこういうものがあるらしいですよと情報を知らせたはずだ。確か彼はその後、啓発的だったというような評価を下していたような記憶がある。それ以来こちらもこの本は読みたい読みたいと思って図書館にもあるのだが結局手を出せていないわけだ。以下、鼎談から引用。

松田 「亡命者」という概念は、後の「難破者」というテーマにも繋がってくるのでしょうか。

今福 まさしくそうです。サイードに示唆されながらずっと「亡命者」の問題を考えてきて、最近ではそれを家郷や言語から切り離された「難破者」と言い換えながらさらに深めようとしているところです。サイードは元々、「亡命者」のモラルの問題をアドルノの思想から受け継ぎました。アドルノは「自分の家にいながらアットホームと感じないこと、これが現代世界に生きる我々のモラルの基本である」と言った。つまり自分の国で市民権を持って生きている人間だとしても、そこでぬくぬくとくつろいで(アットホーム)生きているわけにはいかない。どこにいてもアットホームではないと感じることから人間のモラルが生まれる。それが現代社会であるとアドルノは言ったわけです。亡命者や難民、あるいは国内におけるマイノリティにたいする共感や理解は、家でぬくぬく暮らしていたのでは決して生まれない。サイードは亡命者としての大きな政治的な葛藤を通してこうした倫理的地点にたどり着いた。あえて言えば、この亡命者の深い悲嘆に立ったオプティミズムから、僕は大きな勇気を与えられました。サイードはこんなことも言っています。社会における想像力や寛容さの供給量は本質的に少ない。影響力のある人間が誰かを敵対視し、「奴らは敵だ」と言いつづければそれはたやすく事実化してしまう。だから耐えざる努力によって、想像力や寛容さの社会的供給量を高めていかなければならない。これは、グリッサンの言う美的・詩的要求としての「高度必需」の考えにとても近いと思います。(……)

今福 ホワイトやグリッサンに学んだのであれば、歴史が時の連続体としてそこに自明に存在しているかのように語ることだけは避けたいと思ってきました。『クレオール主義』という本に対しては、初版刊行以後、それが非歴史的・非政治的であり、現実政治の状況にたいしてオプティミスティックすぎるという批判が多方面からありました。八〇年代後半から「ポジショナリティ」という言葉が盛んに使われるようになったわけですね。言説の発信主体が、どの時代にどういう歴史状況、民族性、ジェンダー偏制の中で存在し発話しているかを立論の根拠として厳しく問う。そこでは、歴史的・社会的マイノリティとしての自分のポジョションを明確に引き受けることで、ある言説の正統性が保証された。そんな言説の歴史化や、ポジショナリティの規定の窮屈さに逆らって、サイードのいう「亡命者」として、僕は越境的・対位法的に考えようとした。『クレオール主義』の成立の最後の段階における重要なアクターとなったトリン・ミンハも、同じような意識を共有していたと思います。彼女は母国ヴェトナムのことを語るという自らの正統的なポジションから飛びだして、あえてアフリカについて代弁・表象しようとした。しかし、なぜアジアの人間がアフリカのことを語るのか。ポジショナリティの理論が依拠するアイデンティティ政治学からでは、そうした越境は説明することが困難なのです。

中村 お話をうかがっていて、『クレオール主義』に流れる思想の一貫性が、はっきりと示された感じがします。つまり「亡命者」という精神的境位に自分を置くということ。そして、絶えずポジショナリティをずらしていく。そこから批評行為を立ち上げていくのが、今福さんのスタイルである。本を読んでいても強く感じることですけれども、文化的な正統性や本質性と戦っていく。僕にとって『クレオール主義』は、「文化の政治」を実践する本という位置づけにあります。当時は、学問も強い制度を持ち、権威的であった。そういうアカデミズムのあり方と格闘しながら、これまでになかった新しいものを立ち上げていく。それが今福さんのお仕事であった。

中村 最後に、今福さんが言及されていた「ポスト・トゥルース」の話をしたいのですが、ここ数年で、「フィクションと現実」という問題系が随分進んだという気がしています。つまり一九七〇年代までは、フィクションはフィクションであり、事実は事実であるという明確な二分法があった。だから事実として認められるものが歴史要素になり、それ以外は物語であるとされた。そのことを、ヘイドン・ホワイトは七八年に出した本で批判したわけです。今はバーチャルな世界が一般化してきて、「現実」と「フィクション」の関係がよくわからなくなってきている。そうなったとき、どういう言葉を紡いでいけばいいのか。これは、僕にも切実な課題です。今福さんもグリッサンも、あえて「現実」と「フィクション」を混ぜ合わせて書いていく。そのほうが読み物として面白いし、そうした書き方にこそ大きな可能性を感じます。しかし、現在は、そういう時代の反作用であるかのように、嘘であろうがなんであろうが、言ったもの勝ちだ、という風潮が強まっている。嘘をついたとして、それが一年後に真実ではないと判明しても、もう手遅れです。あまりにも情報量が多く、人は極度に忘れやすくなってしまっている。だから権力者も、嘘を言うことに悪びれない。戦略的に嘘をつく。そういうあり方に対して、どうやって抗っていけばいいのか。自分の中に答えがあるわけではありませんが……。

今福 重要な問題ですね。昨年、OED(オックスフォード英語辞典)が「今年の一語」に「ポスト・トゥルース」を選んで話題になりましたけれど、前年と比べて二千倍の使用頻度になったそうです。おそらくブレグジットトランプ大統領の誕生が、その背景にある。OEDでは「ポスト・トゥルース」は次のように定義されています。「客観的な事実よりも、感情や敵意を煽るだけの公的な虚言の方が、世論の形成により影響を持つような状況」。「ポスト・ファクチュアル・デモクラシー」といえば、まさにトランプ的なものであり、「事実無根の民主主義」のことです。事実ではない、あるいは実現不可能なことを、大衆受けする主張として掲げて、選挙に勝利したり大衆の支持を得たりする。どんな虚言を弄しても、それが検証・批判されることなく、いつの間にか既成事実化されてしまう。そういうごまかしですね。いまの日本も同じ状況にあります。この問題について考えるとき、やはりヘイドン・ホワイトの議論を参照すべきでしょう。ホワイトが教えてくれたことは何だったのか。事実や実体、あるいは歴史的過去、そういうものは、つねに政治的で詩学的なプロセスを含んだ表象であるということです。我々はこうした議論から、事実や真実というもの自体の「不透明な厚み」について学んだ。それは、真実や事実は存在しないという議論ではまったくない。 

今福 事実や真実といわれているものは、様々な揺れと厚みを持って構築されているという、まさにそういう「事実」を学んだわけです。それが、我々がものを考えるための重要な根拠となった。ファクトというものが持つ様々な変容可能性、あるいはそのレトリカルな存在のあり方を、きちんと認知できるかどうかが重要だったわけです。そのことによって、事実というものの力が衰えたのではありません。むしろ事実というものに、より強い力が与えられたのだと思います。「ポスト・トゥルース」の現象を見ていて情けないと思うのは、我々の社会が学びとったはずのことが、まったくなかったかの状態に差し戻されてしまったということです。客観的な事実、唯一の事実なるものを捏造し、その痩せ細った事実への感覚が、さらに嘘を自分にとっての事実であると開き直る態度を助長する。だから「ポスト・トゥルース」というのは、「事実なんていうものはない」という時代が到来したということではなくて、あらゆる人間が「これが自分にとっての絶対的な事実である」と主張し合っている状態を示しているだけのことです。完全にホワイトの議論以前に戻ってしまった。結果として事実が痩せ細れば、欺瞞がはびこる。事実ではないものが、嘘やごまかしとしてたくさん出てくるのは、我々の、事実や真実というものの不透明さや厚みへの信頼が失われてしまったからなのです。私たちの思想には、根拠が必要です。それは決して実証的な事実を根拠にするという意味ではない。事実が持っているポエティックな側面と政治的な側面を深く認知し、それを議論の根拠にしなければいけない。「ポスト・ファクチュアル・デモクラシー」には根拠がありません。トランプ政治や安倍政治が持っている無根拠さに、我々は耐えられない。(……)

 そうして四時半、寺尾聰 "ルビーの指環"を流しつつ服を着替えて、廊下の鏡の前に立ってネクタイも締め、首周りを狭くした。それで余った時間は二〇分、その猶予で何をするかと迷った挙句、普通に本を読もうということで、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』をひらいた。カフカという人は記述や、記述の元となるイメージの全体図を予め頭のなかに作り上げてからそれを文章化するというプロセスを踏んでいる作家では明らかになく、書きながら考える、と言うか、考え吟味するというほどの頭の働きもなしに、ほとんど思いつきのようにして情報を付加していって、あとで無理が出てきても強引な後付けを施して、その無理をまさしく無理矢理に道理として通してしまうような人だと思う。要は頭よりも筆あるいは手の方が先行していて、強烈な力で飼い主をあらぬ方向に引っ張っていく犬のような言語の自律性に従うタイプということだが、そのあたりを具体的なテクスト、具体的な文言に即してもう少し分析できないものかと考えている。
 カフカを読んで五時に至ると荷物を持って上階に行き、真っ黒な長靴下を履いて玄関を抜けた。ポストに入っているのは夕刊のみで、やはり本は届いていない。道に出ると途上の空に月が細く、あたりに漂う雲と同じ希薄な白さで既に浮かんでおり、道の先には誰かが何かを撒いたのか、鴉が四匹も降りて周囲をつつきまわっていた。歩いていくと、さほど近づかないうちにもうこちらの存在を嗅ぎつけて鳥たちは順番に飛んで逃げていった。通りながら地面を見回してみたが、特に餌らしきものは落ちてはいない。もう少し進むとSさんが、宅の向かいの道の端の、木の下の葉を履いているので、こんにちはと、足を停めて挨拶すると、ちょっと遅れてぎこちないような答えが返った。続けてKさんも、宅の脇でしゃがみこんで草を取っているので、やはり足を一瞬停めて挨拶し、会釈も送って過ぎれば柿が、Yさんの宅の前、門のところに生えているものだが、無数につけた実をもうだいぶ色濃くして、なかによほど熟して赤味がかっているものも見られる。坂に入って足を緩めながら、しかしあの柿は、いつからあそこにあったのだろうなと訝った。いつからも何も、そんなにすぐに大きく伸びて実をつけるものでもあるまいし、例年あったはずなのだが、今年になるまで見かけた記憶がなく、日記に書いた覚えもない。今までずっと見逃していたとするならば、よほど注意散漫だが、ほかの道では柿の木に目を留めることもあったのだから、ここで見ないのは不思議である。
 坂は小暗く、既に街灯が点けられていて、足もとには黒ずんだ濡れ痕が残り、左右の端に散らばった葉の、やはり段々多くなってきているらしいその下は特に湿って、雨が降ったのはいつだったかと思ったけれど、毎日細密な日記を記しているのに、あるいはむしろそのためか、直近の天気も思い出せない。出口が近づくと、風が身に触れた。道に沿って吹いているようで、絶えず身体の前面に寄ってくる感触の、包むというほどでないが柔らかい。
 駅に着くとちょうど奥多摩行きがやって来たところで、降りてきた人らとすれ違いながら通路を行き、ホームに下りればベンチに就いて手帳をひらいた。この日は既に書いてあることを読むのでなく、日記のためにとにかく頻繁にメモを取っておくことが肝要だと心掛けて、道中のことを簡易に記録しはじめた。歩いてくるとやはり汗が肌を包んでおり、と言って五時にもなればわりあい涼しいのでそれ以上盛ることもない。西空には雲が千切れて橙色を宿しているが、ペンを走らせているあいだにも暮れが進んで、次に目を上げた時には赤味も薄れており、あたりの空気には暗色が忍び寄っている。五時半が近づけば、五分経っただけでも空気の色が変わっていく。
 電車到着のアナウンスが入っても書き続け、停まる間際に立って手近の口から入り、電車のなかでは揺れで字が乱れるからペンは仕舞って文を読み、青梅に着いて駅を抜けると、南の正面に月が、先ほどよりも白味を強めてはっきりと刻まれて、雲が払われてすっきりと広がる空の青さは和紙のように淡く、西の際は純白が漏れ出てその上に僅かに残った雲は残光を受けて煤煙めいて沈んでいる。
 職場に入り、すぐさま準備を始めたが、大してやることもないのですぐに終わってそのあとは、また手帳にメモを取ったものの、最寄り駅で既に結構書いていたらそれもすぐに終わって、暇になったのをばれないように授業のことを考えている風に装って教科書などひらいていると、(……)先生がやって来た。こちらは鬱病で一年間休職、あちらも就活で、こちらが復帰したこの春から今まで仕事にはほとんど入れていなくて、一緒になる機会もなかったので、顔を見るのは実に久方ぶりである。彼が近くにやって来ると立ち上がって、お久しぶりですと挨拶し、復帰したのだと伝えていると、相手の顔が以前よりも、やはり一年半も立てば男子変わるものか、大人びて見えたので、大人っぽくなった、と思わず手を差し向けてしまったが、もう大学四年にもなる相手に向かって大人っぽくなった、もなかったかもしれない。
 授業は一コマ、相手は(……)くん(中三・英語)に(……)さん(中三・英語)の二人のみで楽な仕事である。(……)さんは、こちらが休職する前にもいた生徒で、彼女の方もその後塾を辞めていたようだが、最近また戻ってきたらしく、まず最初に、その旨訊いて、辞める前に当たったと思うけれど、改めて、と名を名乗って挨拶した。あちらも礼儀は正しい女子である。しかし、こちらの些細な行動に対してもたびたびありがとうございますと言葉を送ってくれて、確かに非常に礼儀正しくはあるのだが、何となく不思議な雰囲気やリズムを持っているような感じもして、しかしその不思議さが一体どういう不思議さなのか、まだ明晰に捉えられないでいる。ともかく今日は、テストも一週間後に迫っているので当然その対策をして、扱ったのは関係代名詞、本当はもっとたくさん復習したかったのだが、室長の要望でアンケートを書く時間などもあって一頁しか扱えなかった。
 (……)くんはテストはもう終えたので、テスト範囲の次の単元を予習。長文読解のところだったので教科書を持ってきて一緒に訳を確認したのち、問題に取り組んでもらった。二人相手で余裕があるからそういうことが出来るのだが、授業は全体としてわりあい上手く行ったのではないか。
 八時前に退勤すると、駅前の路上には乾いて萎えたような薄色の葉っぱが散らばっているのが目について、季節の進みを感じさせる。駅に入ってホームに出ると、例によって二八〇ミリリットルのコーラを買って飲んだのだが、勤務のあとはこうしてコーラを飲むのが習いになっているのは、糖分摂取の観点からあまりよろしくないのではなかろうか? しかし今日も飲んで、飲んでいるあいだは手帳を読み、というところで突如として往路のことで書き忘れがあったのに気がついたが、それは駅を出るために通路を辿っている時のことで、青梅駅の通路には時折り音楽が流れているのだけれど、今日聞いた哀愁的なメロディは、無論以前にも聞いたことがあるものの日記にそれを記すのは初めてなのだが、フランコ・ゼフィレッリ監督の一九六八年の映画『ロミオとジュリエット』の劇中歌として使われていたものだと思う。確か、ジュリエットの宅で催されたパーティーの佳境で一人の男によって歌われるものではなかったかと思うのだが、今、ウィキペディア記事を見てみたところ、この映画の音楽を担当していたのはNino Rotaであることが判明した。そして続けて検索して、この曲が"What Is The Youth"という歌であることを簡単に突き止めたのだが、これは劇中で歌われるだけではなくて、どうも映画全体のテーマソングだったようだ。劇中で歌われているのはこの動画の場面である(https://www.youtube.com/watch?v=EuVu9bb0gHQ)。ところで、この映画のジュリエット役を担っているのは、オリヴィア・ハッセーという人で、当時一七歳くらいなのだが、これが凄く美少女である。映画なんて見つけていなかったし、今もそうだが、『ロミオとジュリエット』を図書館で借りてきて見た当時、いつのことだったか定かでないが、その時には、美少女というのはこういうものか、と、本物の美少女というものを見せられた気がして感銘を受けた覚えがある。
 帰りの駅での話に戻ると、手帳を読んでいるうちに目の前の電車が発っていき、線路が露わになるわけだが、あたりには風が吹いて、身には寄ってこないが結構走っているようで、その線路の周りに生えた草葉の、まるで夏のように未だ青々と色を湛えて伸びているのが大きく震える。奥多摩行きが着くと立って、いつもの通り三人掛けの席に入り、ここで手帳を読むのを止めて、また日記のためのメモを取っていると、外で一斉に虫が鳴き出し、電車の壁を通して減じられてもなおその盛んさと広がりが迫ってくるのに、まるで切ないような、何かに耐えかねるような鳴きぶりではないかと、これも手帳に記録した。
 最寄り駅に着いて降りた瞬間から、ホームの上には風が通っていて、一定でなく方向が乱れて、歩くあいだ前から寄せてくるかと思えば後ろからうねる。まっすぐ正面、西の空には月が掛かっており、階段通路の途中でまじまじと目を向ければ、ありきたりなイメージだが、まさしくバナナの房を思わせる形に湾曲した三日の月である。駅を抜けて、車の来ない隙を見て通りを渡って坂に入れば、ここでも風が下りの先から浮かび上がってきて、結構厚いが重みはなくて、肌に滑らかに触れて軽く、道端の木々に葉鳴りを起こして、秋虫の音を包み込んでその背景を成す。進めば消えたが、通ったあとに少し名残っているようで、林の一番外側の葉が音もなく揺れて、その無音の動態を見ていると不思議な気分が催された。闇を籠めた林のなかでは虫が鳴きしきっていて、夏の蟬時雨にも負けぬ勢力で、蟋蟀やらアオマツムシやらの類ではなくて、秋の夜を彩る特殊な蟬の一種であるかのようだ。
 坂を抜けてすぐの小公園に生えた桜の木の、街灯の白い光の暈に入って枝先の黄色を露わにしているのが、随分裸になっているなと停まってしばし見上げた。幹に近いところにはもはや葉はなく、梢の方にはまだ残っているがよほど薄く、貧相なように枝を晒している。そこから少々歩いて家の前まで来て、風はまだ吹いているかと首を傾け耳を張れば、小川のせせらぎめいて淡いものの、やはり林の高みから葉擦れの響きがあって、闇に紛れて見えないが、梢は揺らいでいることだろうと思いながら玄関の鍵を開けた。
 居間に入り、母親に挨拶をして、ネクタイを外しワイシャツを脱いで洗面所に持って行こうとすると、階段横の腰壁の上に小包があるのに気づいて、本が来たかと声を上げた。ワイシャツを籠に入れてきてから早速鋏で切り開き、なかから出てきた箱入りの谷川俊太郎祝婚歌』を持って自室に下りる。コンピューターを点けて待つあいだ、品を確認してみると、箱の帯の裏側に目次代わりに選集された詩人たちの名が一覧されているのだが、そのなかに「ダリーオ」とあって、ルベン・ダリーオではないかと思った。『族長の秋』のなかに名前が出てくる、ガルシア=マルケスの好きな詩人である。おそらく『族長の秋』でも読まなければ、大抵の人は知ることのない名前だろう。随分とマイナーなところの詩人も読んでいるもので、さすがは谷川俊太郎である。
 服を脱いでスラックスを廊下に吊るしておき、コンピューターに寄って日記用のメモを取ると、上階に行ったが、食事ではなくて先に風呂に入ることにした。浴室に踏み入ると窓を開け、蓋をめくって湯に立ち入り、身を包まれながら静止していると、しかし風というほどのものはなくとも空気は流れてくるらしく、水面は緩くうねって停まることがない。当然の話で、こちらの心臓の拍動からだって、幽かな波が生まれているのだ。浸かりながら、風呂に入っているあいだのことをもっと詳細に書きたいなと考えるのだが、しかし動きがなくて、情報も限られているから印象に残ることがなくて、密度を高めるのは難しいのだ。入浴中の時間を緻密に書いた作家というのは、あまりいないのではないだろうか。
 出ると母親は食事を取り終えてソファに就き、炬燵テーブルの上に脚を伸ばしながらリモコンを持ってテレビをザッピングしている。こちらは食事を用意、鯖のソテーに米、自分で作っておいた葱と舞茸の味噌汁に、マヨネーズを掛けて電子レンジで蒸したエリンギである。卓に就くと夕刊を引き寄せ、あまり興味深い記事がなくて社会面に辿り着きながらものを食ったが、テレビでは出川哲朗の生い立ちを紹介していて、さして興味があるわけでないのにそちらにも目が向く。蔦金商事とかいう会社の坊っちゃんだったらしく、幼少期、家にはお手伝いさんが何人もいて、そのなかの一人を専属として当ててもらっていたと言う。何だか忘れたが親戚血族を遡ると、衆議院議員もやったことがある名士がいると言い、その息子は八幡製鉄所の初代社長だとか何とか。それを見ながら一方では社会面に目を落として、目黒の女児虐待死事件、船戸結愛という子をシャワーを浴びせて殴って敗血症で死なせた例の事件だが、その事件の、養父の方の裁判員裁判があったという報を読んだ。弁護側も被告の躾は「独善的」だと厳しい言葉を送ったらしい。
 食後、抗鬱薬を飲んで皿を洗い、茶を用意していると、風呂に入る前の母親が、Every Little Thingのアルバムをウォークマンに入れてくれと言う。面倒臭いので首を振って断っていたのだが、今日中にいれてとあくまで強く押すので仕方がないなと折れて、茶を室に運んだあとまた上に行ってCDとウォークマンを持ってきて、ウォークマン用のUSBケーブルを久しぶりに引っ張り出して、SonyのX-Applicationをひらいたところが、これが何だか良くわからないがスクリプトエラーというものを絶えず吐き出し、処理を続けますかとの問いが出るのにひたすらいいえ、いいえ、と答えても一向に収まらない。これでは駄目ではないかと思い、母親にはエラーが出て駄目だったと伝えれば良いかとも思ったのだが、まあでも頼まれたからと律儀なもので一応動作出来るか試して、絶えずウィンドウが湧くがその隙を突いて必要な項目をクリックすれば、一応作業は進められるようだったので、まずはCDのデータをソフトに取り込んだ。何故なのかわからないが、そのようにソフトが何らかの作業を動作しているあいだはエラーは出てこないのだった。一方で寺尾聰『Re-Cool Reflections』の音源をYoutubeで掛けて、また歌を歌いながら取り込みを待ち、終えるとさらにキーボードのNのキーとクリックを駆使してエラーの隙を縫って、ウォークマンに音源を移すことに成功した。仕事を終えるとアプリケーションは閉じて、CDとウォークマンを上に持っていっておき、"ルビーの指環"を歌ったあと、さらにMr. Childrenに流れて"PRISM"、"NOT FOUND"、"マシンガンをぶっ放せ"と歌い、もう一〇時も過ぎていたから音量を下げたけれど引き続きRichie Kotzenに移行して、"Losin' My Mind"、"Fantasy"、"World Affair"、"Wave Of Emotion"、"Stoned"と歌って終いにした。Richie Kotzenはギターもともかく、そのソウルフルな歌唱の力は実に羨ましい。そうして音楽をインストに変えて日記を始めようというわけで、例によって世紀の名盤であるSonny Rollins『Saxophone Colossus』を流して、一〇時半からここまで茶のおかわりもせずに一気に打鍵すると、二時間近くが経って既に零時二〇分を過ぎた。
 一つ書き忘れていたのは二一日のことで、何でも兄夫婦が来るのだが、その日は色々手続きもあるし、会いたい友達もあって都心の方に行かねばならないので、Mちゃんを一日面倒を見ていてくれないかと頼まれたと母親は言った。それでその日は休みにしたらしい。こちらも仕事が入らなければ夜まで一緒にいるだろうし、仕事があっても夕方からなのでそれまでのあいだはいくらか世話をすることになるだろう。
 茶をおかわりしようと上階に上がると、父親が炬燵テーブルに就いて食事を取っていたが、おかえりと掛けても反応がなく、見れば背を丸め顔を伏せてぐったりと項垂れたようになっているので、寝てんの、何やってんのと続けて掛けながら、まさか死んでいるのではなかろうなと不穏な疑いが一瞬過ぎったものの、直後に、ん? と顔を上げたので安堵した。どうも微睡んでいたようなのだが、酒を飲んだためだろうか、しかし珍しくテレビは点いておらず室内はやたら静かだったし、酒を飲んだら燥いでいるのが常の父親なのにその様子もない。不可解に思いながらも茶葉を台所に開け、便所に行って放尿し、戻って電気ポットから急須に湯を注ぎ、茶葉がひらくのをちょっと待つあいだに伸びをして背をほぐしていると、右方の父親が何を食っているのかものを咀嚼する音がくちゃくちゃと、やたらに立つ。いつもはそんなこともないのに今日は随分妙な食い方をしているなと耳をやりながらまた不可解に思ったあと、ポットの湯が少なかったから薬缶を持って台所に行けば、位置関係がカウンターを通して正面に父親の姿を見る角度になって、それでわかったがどうやらあたりめを食っているらしい。硬いのをほぐすためにやたら咀嚼をしていたようだ。こちらは急須と湯呑みを持って下階に戻ると、早速今のことを書いておこうというわけで、先ほど現在時に追いついたばかりなのにまたキーボードに触れてここまで打鍵した。俺はまだまだ書けるな、と思った。書くことが尽きることはない、まだこの日記は面白く、豊かになる余地がある。
 書抜きに掛かった。 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。BGMとして聞いたのは、Conrad Herwig『Another Kind Of Blue: The Latin Side Of Miles Davis』。なかなか上質なライブで、きちんと耳を寄せてはいないが、特に"All Blues"でのトロンボーンのソロなどなかなか凄いのではないかと思われた。書抜きしたあとは、何故かここ数日の自分の日記を読み返してしまい、そうして一時半前になると、読書を始めた。辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を読みながら歯磨きをする。実はカップラーメンを食いたかったのだが、そっと廊下に出てみると、階段の上から明かりが漏れていて、テレビの音もせず動きの気配もないが父親がまだ上階にいるらしいのでひとまず諦めた。テーブルの前に立ったまま、閉じたコンピューターの上に本を載せて読み進める。
 腹が減って仕方がなかった。内臓が動く音がぐるぐると腹から立つ。しかしそのうちに、二時半頃だったが、ようやく父親が階段を下りてきて寝室に下がったので、それから三〇分、彼が寝入ってからと思ってちょっと待って、三時直前に上へ行った。食卓灯を灯し、玄関の戸棚から「カップスター」の塩味を取り出して、電気ポットで湯を注ぐ。熱い容器を持って忍び足で階段を下り、廊下を渡り、自室に帰ると音を立てないようゆっくりと静かに扉を閉めて、三分待つと、カフカを読みながら麺を啜った。スープも飲み干してしまうと容器をゴミ箱に突っ込み、引き続き立ったまま書見に邁進する。Kは気持ちが高ぶった時や、何か物思いや思案を巡らせる際に、「行ったり来たり」、うろうろと歩き回るのが癖のようで、七二頁までのところ少なくとも五回、「行ったり来たり」する姿を披露している。

 Kはもう返事をしなかった。こんな下っぱの連中――彼ら自身がそう認めているのだ――とおしゃべりして、これ以上頭を混乱させる必要はないではないか、と彼は思った。(……)彼は部屋の中のあいた場所を二度三度行ったりきたりした。(……)
 (辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ筑摩書房、一九六〇年、8; 「審判」)

 Kは監督の顔を見つめた。(……)逮捕の理由や令状の出所については、何も聞けないというわけなのか? 彼は一種の興奮状態におちいり、行ったりきたり歩いて――これはだれも妨害しなかった――、カフスをおし入れてみたり、胸のところにさわったり、髪をなおすようになでたりし、三人の男たちのところを通り過ぎながら、「無意味なことだ」と言った(……)
 (11)

 (……)もの思いにふけって、控室を自分の部屋ででもあるかのように、大きな足音をたてながら行ったり来たりしていたK(……)
 (17)

 (……)Kは今目にした情景で、その暴行ぶりが証明されたと思い、立ちあがって部屋の中を行ったり来たりしはじめた。学生のほうを横目で眺めながら、どうやったらできるだけ早くこの男を追っぱらってしまえるだろうかと、その算段を考えめぐらしていた。(……)
 (36)

 グルーバッハ夫人はただうなずいた。しかしこの黙りこくって途方にくれている様子は、はたの目からは強情そのもののように見え、Kの気持をいやが上にもたかぶらせるのだった。彼は部屋の窓とドアのあいだを行ったり来たりしはじめた(……)
 (48)

 あとは、以前も触れたことだが、「審判」の登場人物たちはたびたび、ほとんど無意味とも思えるような、しかし完全に意味がないわけでもなさそうな、余剰的な「仕草」を見せる。確かに現実に人間はこうした動作を行うもので、例えばこちらも過去には電車のなかで、自覚しているのかいないのか、無意味に足をぱたぱたと動かす人を見て、そうした主体的な意図に還元されない意味のない行動こそが、目の前の人間が機械ではなく本当に意識を持って実在しているのだということを実感させる、という感慨を抱いたことがあるが、しかしカフカの小説における余分な「仕草」は、そのような現実感を与えるものとしては機能していないような気がする。先にはそれによって、彼の世界は現実的と言うよりも、リアリズム的な現実感とは幾分位相をずらしたような「ちぐはぐな」印象を与える、という風に考えたのだが、しかしここにはそれにも留まらない射程がまだ隠れていそうな気がする。
 例によって睡気は身に寄ってこず、読書に耽りこんだまま徹夜をしてしまおうかとも思ったのだが、眠れないとしてもやはり一応床に就くだけは就くことにして、四時半に至ると書見を切り上げて明かりを消し、寝床に入った。仰向けになって両腕を身体の横にだらりと垂らし、そのままじっと動かないでいると、身体の表面が細かくぷつぷつと泡立つような疲労感に包まれて、やはり長く起きればそれなりに肉体は呻くらしい。それでもじきに、そうした感覚もなくなってよほど軽く滑らかな身になった。眠りを待っていると、窓外から突然、何かの叫びが立つ。最初は赤ん坊の悲鳴かと思ったのだが、すぐに人間のものではないとわかり、それでは何の動物かと言ってしかし判然とせず、実に形容しにくい音声で、発情した猫を思わせもするが今は季節でないだろうし、猫とは少々異なってもいて、鳥のようにも思えたがそんな声など今まで一度も聞いたことがないし、鳥にしては飛び立ったり移動したりする気配もない。何の動物だろうかと考え巡らせているうちに、しかし声は小さくなっていき、収まってその後現れなかった。それからまもなく、寝についたようだ。


・作文
 11:34 - 12:57 = 1時間23分
 14:17 - 14:26 = 9分
 15:56 - 16:09 = 13分
 22:29 - 24:25 = 1時間56分
 24:31 - 24:38 = 7分
 計: 3時間48分

・読書
 13:14 - 13:32 = 18分
 13:33 - 14:01 = 28分
 14:30 - 14:49 = 19分
 14:50 - 15:35 = 45分
 16:12 - 16:30 = 18分
 16:41 - 17:02 = 21分
 24:48 - 25:11 = 23分
 25:26 - 28:26 = 3時間
 計: 5時間52分

・睡眠
 ? - 10:30 = ?

・音楽

2019/10/3, Thu.

 詩は不用意に始まる。ある種の失敗のように。詩を書くいとなみへ不可避的につきまとうある種の後悔のようなものは、いわばこの不用意さに関係しているのかもしれない。
 私たちはことばについて、おそらくたくさんの後悔をもっていると思う。私たちが詩を書くのは、あるいはそのためかもしれない。
 「いわなければよかった」ということが、たぶん詩の出発ではないのか。いいたいことのために、私たちは散文を書く。すべては表現するためにある、というのが散文の立場である。散文に後悔はない。
 詩とはおそらく、表現すべきではなかったといううらみに、不可避的につきまとわれる表現形式ではないのか。それにもかかわらず、なぜ詩が書かれるのかといえば、ある種の不用意からだとこたえるしかない。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、149~150; 「私の部屋には机がない――第一行をどう書くか」)

     *

 風の流れるさまを、私たちは現実に見ることができない。ただ水が波立ち、樹木がざわめくとき、風が流れることに私たちは気づく。風は流れることによって、ものたちの輪郭をなぞり、ものたちに出会う。それが風の愛し方である。私にはそれが、風がそれぞれのものを名づけて行く姿のように見える。それが風のやさしさである。辞書のページをひるがえすように、これは海、これは樹木と、手さぐりで世界を名づけて行くとき、風は世界で最もうつくしい行為者である。(……)
 (153; 「辞書をひるがえす風」)

     *

 私は私以外のものであることを断念することによって、まぎれもない私として、今この場に存在している。
 (170; 「断念と詩」)


 睡気が露ほども滲まず、甘美な夢のなかに入れないことが火を見るよりも明らかだったので、一時間のあいだは一応床に臥すけれど、それだけ経ったらまた起きてしまおうと決めていた。布団のなかでじっと身を止めながらカフカの小説について散漫な思念を巡らせ、良い具合に思考が無秩序にほどけてきてもしや眠れそうかと思った時間もあったのだが、結局やはり意識は落ちず、終盤には寺尾聰のカバーした"I Call Your Name"や"Only You"を頭のなかに流して時間が経つのを待った。五時半に至れば空も白んで、東南の一画に千切った綿飴のような薄雲が流れるそのなかに、曙の紫も差されているが、雲は多くて大方空を覆って、晴れ晴れとした陽は今日は見られないようだ。起き上がってコンピューターを点けると、谷川俊太郎祝婚歌』が地元の図書館にないかと検索したが、見当たらなかった。淳久堂書店のサイトにもアクセスして、立川高島屋店に在庫があるか調べたが、こちらもないようだったので、心を決めてAmazonで注文した。TとKくんがまもなく籍を入れるので、その祝いにこの詩集を贈ろうと思っているのだ。そうして六時直前から前日の日記を書きはじめ、勢いに任せて打鍵すれば記述はなかなか滑らかに流れて、しかし時間は掛かって前日分を仕上げたのちにここまで書けば、打鍵の開始からもう二時間が経って八時を越えている。朝も早くから勤勉な仕事ぶりだ。
 前日の記事をインターネットに発表してから食事を取るため上階に上がると、ソファの後ろで洗濯物を弄っていた母親が早いじゃないと掛けてくるが、眠れなかったなどと言えば余計な心配を掛けてしまうので、ああ、と無愛想に受け、何か食べ物はあるのかと訊いた。前日の唐揚げにサラダが残っていると言うので、台所に移動してそれぞれ冷蔵庫から出し、唐揚げは電子レンジへ、"I Call Your Name"を口ずさみながら米をよそってサラダとともに卓に運ぶ。温まった唐揚げも取ってきて醤油を掛け、それをおかずに米を咀嚼しながら新聞を見れば、一面には北朝鮮がまた弾道ミサイルを発射したとの報が目につく。ひらいて二面は、高校生が至近距離で実弾発砲されたことを受けて、香港の抗議活動がますます盛んに高まっていると伝えられていた。食後、抗鬱薬を服用し、台所に移って、母親が使ったものだろう洗い桶に浸けられていた皿も合わせて食器を洗い、その後風呂を洗いに行った。
 そうして緑茶を用意して自室に帰り、窓を閉めてエアコンを入れ、「寺尾聰 ライブ NHK FM 1981 年8月9日ON AIR」(https://www.youtube.com/watch?reload=9&v=RkxS1KkwB7A)を流しながら、T田の日記を読んだ。文体がなかなか堅実に安定しており、違和感や支障なく滑らかに流れていて、風景描写なども結構整っているように思われたので、読み終えるとその旨LINEで送っておき、九時半頃から英文記事を読みはじめた。それから正午を越えるまで三時間弱ものあいだ、音楽はSonny Rollins『Saxophone Colossus』、Sonny Rollins『There Will Never Be Another You』、Art Blakey & The Jazz Messengers『At The Cafe Bohemia, Vol.1』と移行させながらひたすら英語に触れ続けた。一日でこれほど多くの英文を読んだのは初めてかもしれない。New York TimesのThe StoneからGuardian、そしてJapan Timesのコラムへと読み継いでいったそれらの記事の一覧と、随分と長々しい表になったが意味を調べた英単語も下に載せておく。このくらいのレベルの英文ならばわりあいスムーズに読めるようになってきたようで、単語の意味がわかれば意味の理解できない箇所はあまりないと思う。一日最低でも三〇分は英文に触れる習慣を、これから一年ほども続ければ語彙はかなり身につくことだろう。洋書で小説作品の類を読んでも良いし、実際以前はそうしていたのだったが、紙の本だと如何せん厚くて量があるから、どうしても毎日触れる習慣を続けにくい。その点、インターネットのニュース系記事は一日で、長くても二日あれば読み終えることが出来るので、費用対効果が良いと言うか、やりやすいのだ。まずはこれらのニュースサイトを利用して語彙を固めたい。

・Serene J. Khader, "Why Are Poor Women Poor?"
https://www.nytimes.com/2019/09/11/opinion/why-are-poor-women-poor.html
・Martha C. Nussbaum, "What Does It Mean to Be Human? Don’t Ask"
https://www.nytimes.com/2018/08/20/opinion/what-does-it-mean-to-be-human-dont-ask.html?rref=collection/spotlightcollection/the-big-ideas
・Emma Graham-Harrison, "Hong Kong: thousands protest over police shooting of teenager"
https://www.theguardian.com/world/2019/oct/02/hong-kong-protests-police-teenager-shooting-students-violence-
・Jonathan Ruga and Scott Young, "We are businessmen in the 1%. It's time to increase taxes on us"
https://www.theguardian.com/commentisfree/2019/oct/02/patriotic-millionaires-who-want-to-pay-more-taxes
・Bernard-Henri Lévy, "We Are Not Born Human"
https://www.nytimes.com/2018/08/22/opinion/we-are-not-born-human.html
・George F. Will, "The Korean Peninsula: A dangerous neighborhood"
https://www.japantimes.co.jp/opinion/2019/10/02/commentary/japan-commentary/korean-peninsula-dangerous-neighborhood/#.XZVYoH7APIU
・Michael Hoffman, "The swift rise and fall of Japanese anarchism"
https://www.japantimes.co.jp/news/2019/09/14/national/history/swift-rise-fall-japanese-anarchism/#.XZVY4n7APIU

・inextricable: 切り離せない
・self-importance: 尊大さ、自信過剰
・culpable: 責められるべき、非難に値する
・obtuseness: 鈍感さ
・shellfish: 甲殻類
・on the wane: (月が)欠けはじめて; 衰退しつつある
・reciprocal: 相互関係の
・domesticated animal: 家畜
・puppy mill: 劣悪な環境の[大量生産工場のような]犬のブリーディング施設
・feral cat: 野良猫
・hideous: 恐ろしい、おぞましい
・manifold: 多種多様の
・endemic to: ~に固有の、特有の
・confinement: 監禁
・depletion: 減少、枯渇
orca: シャチ
・poach: 密猟する
・impede: 遅らせる、妨げる
navel-gazing: 黙考
・a host of: 多くの
・ably: 上手に、巧みに
・gratuitous: 不当な、根拠のない
・standoff: 膠着状態
・copious: 多量の
・tender: 若い
・alumni: alumnusの複数形; 卒業生
・file out of: 揃って出ていく
・molotov cocktail: 火炎瓶
・choreograph: 演出する
・gala: 祭り、祝祭
・cumulative: 累積の、蓄積された
・delusional: 妄想的な
・K-12: K-12(ケースルートゥエルブ、kay-through-twelve)あるいはK12(ケートゥエルブ)は、「幼稚園(KindergartenのK)から始まり高等学校を卒業するまでの13年間の教育期間」のことである。もちろん特別支援学校も含まれている。無料で教育が受けられるこの13年間の総称として米国やカナダの英語圏で用いられたのが始まりである。
・walk of life: 職業; 社会的地位
・confound: 当惑させる、狼狽させる
・vantage point: 有利な地点; 見晴らしの良い場所
・cavalierly: 傲慢に、尊大に
・spin master: 情報操作屋
・substantive: 実質的な、かなりの
・unequivocally: 明白に、はっきりと
・negation: 否定
・boil down: 要約する
・sliver: 薄片、ほんの一部
・cusp: 先端; 幕開け
・synthetic: 合成の、人工の
・intentionality: 志向性
・akin to: 同種である
・bleak: 荒涼とした、殺風景な
・prophesy: 予言する
・final say: 最終決定権
・wager: 賭ける
・shrapnel: 爆弾の金属片、榴散弾
・artillery: 大砲
・fresh from: ~したばかりである
・opaque: 不透明な
・restitution: 補償、賠償
・spat: 些細な喧嘩
・perimeter: 防御線
・sanguine: 楽天的な
・toil: 骨折る
・conjugal: 結婚の、夫婦の
・cajole: おだてる
・lubricate: 円滑にする、潤滑油を塗る
・bribery: 賄賂
・writ large: 特筆された、はっきり示された
・polarize: 二極化する
・afflict: 苦しめる、悩ます
・cleavage: 亀裂
・hyperbole: 誇張
・run its course: 自然な経過をたどる
・bemused: 困惑した、戸惑った
・larger-than-life: 伝説的な
・knack: 才覚
・steeped in: ~に夢中になっている
・unfettered: 拘束されない
・anathema: 忌み嫌われるもの
・unabashedly: 恥ずかしげもなく、臆面もなく
・watchword: 合言葉、標語
・at each other's throat: 激しく争う
・promptly: 即座に
・rickshaw: 人力車
・hail: タクシーなどを呼び止める、拾う
・blandly: 穏やかに
・insurgency: 反政府活動、反乱
・spirited: 活発な
・suffrage: 選挙権
・strangle: 窒息死させる、抑圧する
・restive: 反抗的な
・beleaguered: 窮地に陥った

 母親は買い物に出掛けていた。武蔵村山イオンモールに行くとか何とか言っていた。食料品などを買うと言うよりも、ショッピングを楽しむ目的だろう。こちらは英文のリーディングに切りを付けると、そろそろ腹も減ったので食事を取ろうと階を上がり、簡便にカップ麺で済ませることにして玄関の戸棚を探り、マルちゃんの鴨出汁蕎麦を発見したのでそれを選び取った。加薬を入れて電気ポットから湯を注ぎ、蓋の上に液体スープを載せて零さないようにしっかり持って下階に下る。自室に入ると机の上に容器を置いて、ティッシュ箱を上に載せて待つあいだ、三宅さんの日記を読みはじめた。そうしてまもなく三分が経ったので蕎麦を啜り啜り、九月二七日から二九日の記事まで三日分を通過する。いよいよ『双生』が仕上がりかかっているらしい。実に楽しみだ。
 即席蕎麦を食い終わると背中に汗を搔きながら汁も休み休み飲んで、空になった容器はゴミ箱に突っ込んでおくと今度は一年前の日記を読み返す。一〇月二日分と三日分、特筆するほどの内容はないが、この頃の自分は鬱症状から逃れはじめつつもまだその圏域にあったから、自分の書いた文章など当然面白いとも思っていなかったし、記述も一日のすべてをカバーしておらず箇条書きの形を取っており、全然書けないという失望と諦観があったと思うのだが、今の目から見れば風景描写など思いの外に、現在の自分と比べても別に遜色ないくらいに、と言って勿論際立って整っているわけでもないが、しかし病中にしてはそこそこ上手く書けている。「午後二時、干された布団を裏返すためにベランダに出る。快晴と言って良いだろう、柔らかな青空の昼下がり。雲は淡い断片が西の方にいくつか集って水面[みなも]の波紋めいており、直上にはいくらかまとまった量のものも浮いていたが、それも厚みや弾力を欠いて気体らしく、いずれ宙空に粒子として零れ消散していきそうな弱い質感である」(一〇月二日)といった具合だ。部谷さんの小説、『四つのルパン、あるいは四つ目の』も読んでいて、それについての感想と言うか半端な分析めいた小文も綴っており、「面白いものが書けたとはまったく思わない」と漏らしているものの、これも現在の明晰さを取り戻した頭で見てみれば内容はともかく、文章の形はわりあい整っている。
 その後、この日の日記を書き足した。キーボードに触れはじめてまもなく、上階に人の気配が立ったので、母親が帰ってきたかと顔見せに行けば、イオンモールには行かず、カインズホームに行って帰りに食料品などを買い込んできたと言う。雑多な品物たちが袋のなかでばらばらに崩れながら台所の床に置かれていたので、そこから味噌やら酢やら取り上げて冷蔵庫に入れたあと、下階に戻ってきてここまで書けば、ちょうど一時半を迎えている。
 続けて、John Coltrane『Blue Train』とともに、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』から手帳にメモを取りはじめた。一九三三年の三月にナチスドイツは内閣に立法権を委託するいわゆる全権委任法、「国民および国家の危機緩和のための法律」を定めるのだが、これが今まで三月の二三日に成立したものだと思っていたところ、この本では三月二四日に成立したとされていて、インターネットを探ってみてもやはり資料によって二三日と書かれたものと二四日と記されたものと双方あって、一体どちらが正しいのかわからない。それでTwitterに事情を記してご教示下さいと情報を乞うたのだが、それ以後そのツイートに対する反応は来ていない。この日記を読んで下さっている人のなかに、このあたりの仔細をご存知の方があれば、教えて頂きたい。途中でまた緑茶を用意して、汗を搔きながらちょうど一時間ほど手帳にメモ書きして切りとすると、情報収集の過程で行き当たった東京新聞の記事、「ナチ党台頭に学ぶ憲法改正 熊倉逸男・論説委員が聞く」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2018021702000235.html)を読んだあと、インターネットにちょっと遊んだ。
 それからSさんのブログにアクセスして、音楽は『Blue Train』を再度冒頭から流して、各人のソロに合わせてメロディを口ずさみながら、と言ってジャズの複雑で緻密なソロの旋律など当然追えるはずもないから適当だけれど、下手くそに鼻歌めいた声を出しながら記事を読んだ。八月一日分から半ばまで、一五日分もの記事を一気に通過して、なかでは以下の記述が良かった。面白く、素晴らしい。

夏季休暇3日目。ひたすら暑い。業務的マンネリズムの過酷さ、非人道性、零れ落ちるものを見捨てよと諭す一方性のむかつくような厚かましさ、すーっとしたくて、午前中は久々に地元のジムで泳ぐ。水泳もさいきん、すっかり週一ペースになってしまったが、またぼちぼち頻度を上げていきたい。それにしても、この休暇ならではの手持ち無沙汰感。このぎこちなさこそが休みというものだ。僕もすでに、勤め人をもう20年も続けていることになるけど、ということは週末の休みだの夏季休暇だのも、その年月の合間に何度も取得しているわけで、休暇というオブジェクトを勤務日数に対して多いとか少ないとか考える思考形式はそれをきちんと与えていただける純白な時間だとみなしている時点であまりにもピュアすぎるというか純朴な奴隷人の精神に思えて、僕はむしろ労働時間を正当に確保するよりも労働時間そのものをなしくずしに溶かすような感覚で自らの日々を組織する方が資本家に対するカウンターとしてはまっとうと考えているのだが、でもそれがそんな自分の思うように今までやってこれましたと断言できるとは到底思えなくて、とはいえまあ、それはおいといて、それとは別に、こうしてふいに限定の時間だけぽいっと放り出されたような「お暇」をあたえられるというのを、思えば20年間にもわたってたびたび繰り返してきたのだなあと思って、これはこれで、日々の合間におとずれる他ではありえない不思議に特有な時間であって、その時間のなかにいるとき、いつもながらきっとそんなときの僕は、おそらく何か得体の知れない幻想を見てしまっている。いつもとは違う特殊な可能性が急に降り注いできたような気になっている。それで、いつもなら出来ないことが今日に限ってはできるんじゃないかと思ってしまっている。しかしそんなはずはないのだ。今これも、いつもとまったく同じ時間に過ぎないのだと、それでもすでによくわかっている。納得できている。そのはずなのだが、その心ではない箇所が強情にそんなはずはないとまだ思っているかのように、体の動きが往生際悪く、意地きたなく何かを待っているかのような歯切れの悪さになる。なんの根拠も手がかりもないのに、ここにとどまっていれば何かありそうだと目だけ動かしている浅ましい人に成り下がっている。それが休日だ。
 (「at-oyr」; 「day3」 https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/2019/08/09/000000

 『Blue Train』の三曲目、"Locomotion"が終わる頃にSさんのブログを離れ、それから一時間、先には英語の記事をいくつも読んだが、今度は日本語の記事にまたたくさん触れた。一挙に羅列すると、絓秀実・鵜飼哲 「共和制という問いの不在」(https://dokushojin.com/article.html?i=1057)、「蓮實重彥氏に聞く(聞き手=伊藤洋司) 鈴木清順追悼」(https://dokushojin.com/article.html?i=1051)、徐台教「'GSOMIA終了'が文政権にもたらす二つの「リスク」」(https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20190824-00139646/)、飯塚真紀子「米ロサンゼルス慰安婦像毀損事件、その後 「中国よ、出て行け。殺すぞ」 ヘイト・クライムか」(https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20191002-00145009/)、「森永卓郎さん「とてつもない大転落」」(https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/interview/interview_02.html)である。最初の絓秀実と鵜飼哲の対談からは以下に一箇所を引く。伊藤洋司による蓮實重彦へのインタビューは、鈴木清順の映画のあれが好きだ、ここが凄いというような話に概ね終始しており、この人たちは本当に映画というものが好きなのだなと、幸せな語り合いだなと思った。また、森永卓郎によれば、世界経済のなかでの日本のGDPのシェアが、一九九五年には一八パーセントだったところが、直近では六パーセントまで落ちていると言う。

鵜飼 私自身は基本的に反天皇制ということでやってきました。問題は、日本の戦後の文脈では、「反天皇制=共和制支持」ではかならずしもないということですよね。新左翼内部の議論では、共和制をストレートに唱えると一国革命路線になってしまうという問題がありました。一九八〇年前後、菅孝行さんが反天皇制運動のなかで議論をリードされていた時代に、共和制の問題は繰り返し議論されていました。共和制を掲げるべきという声は必ずあった。しかし安定した体制としての共和制の樹立を戦略目標として立てるよりは、「国家の死滅」という展望に突き進む傾向が強かったと思います。日本でも横井小楠以来共和制を唱えた人はいるし、木下尚江などはこの点で相当踏み込んだ思想を抱いていたようです。現在はこうした系譜自体、適切に語りうる言説が欠如した状況になっているのではないでしょうか。堀内哲さんの『日本共和主義研究』はそのことを直截に突いていると思います。堀内さんの本から学んだことのひとつは、通常言われていることとは裏腹に、現憲法が徹底的に天皇中心の憲法だということです。一条から八条だけではなく、構造的に天皇が中心的な位置を占めている。九六条二項には次のように書かれています。「憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」。つまり、改正憲法公布の主体は、現憲法がそもそもそうであったように、天皇なのです。かりに改憲手続きを経て共和制にしようとしても、それを宣言するのも天皇であるという構造。堀内さんはこの条項をまず変えることなしには改憲手続きによる共和制樹立は原理的に不可能であることを指摘されています。そういう法的条件の中で、共和制を希求する思想的エネルギーをどこに見出すべきか。単に天皇制より共和制が好ましいという話にとどまらない、大変難しいポイントだと思います。そういう現実を踏まえたうえで絓さんは今共和制の問題を出されたわけですが、非常にタイムリーな提言だと思いますね。

もう一点。この本には十二年間に起きた重要な政治的出来事が細大漏らさず盛り込まれています。しかし、あえて取り上げられていないポイントを挙げるとすれば、たとえば二〇一三年四月二八日、「主権回復の日」を記念する政府主催の式典がありました。ここで抜き打ちの「天皇陛下万歳」の三唱があった。その瞬間、明らかに天皇夫妻は驚いて立ち止まっていました。一方にこういう事態があり、他方に天皇制批判ができなくなっているという状況がある。この同時性をどう考えるべきなのか。この本の中で興味深い指摘がなされています。小泉純一郎は明らかに天皇を敬っていなかった。現在の首相の安倍晋三にしても、その復古的思想の裏にあるのは、天皇制は日本の支配者が民心を掌握するために使うものだという観念です。一君万民などまったく信じていない。「尊皇」も「攘夷」に劣らず方便だった倒幕運動指導者たちの系譜に連なるとみずから信じている人々にとって、天皇(制)は使うものであって、天皇が個人としてどんな意向を持っていようとそれに従う必要などまったく感じていないでしょう。このことが次第に明白になるにつれて、それと軌を一にしてリベラルの側が天皇賛美になだれ込んでいく、それが現在進行中の事態の特徴だと思います。

 四時四〇分を過ぎたところで部屋を出た。母親はまた出掛けるようなことを言っていたからいないのかと思ったところが、階段下の室で電気も点けずにコンピューターの前に座り、また洋服の通販サイトか何か見ていたようだ。そろそろやるかと問うので、何を作ると問い返せば、豚汁でも作るかと言う。こちらはとりあえず便所に入って放尿し、飯の支度は五時になってからで良かろうと室に帰って、今度は岡﨑乾二郎「聴こえない旋律を聴く」(http://www.webchikuma.jp/articles/-/1808)を読んだ。今日の日記は引用ばかりになってしまうが、以下にまた気になった箇所を引く。

 音楽=旋律は、耳という感覚がとらえることのできる現在という時間、場所に属す音ではなく、その現在から離れた《たましい》の中に響いている。音楽=旋律はその意味で現世から疎外されている(現在という時間からも場所からも)。しかしこの疎外、つまり直接には聴こえない、見ることができない、という不能性こそが音楽ひいては芸術を理解する能力、何かと共感する能力の源になっている──キーツはそれを、ネガティブ・ケイパビリティと呼ぶ(ネガティブ・ケイパビリティnegative capabilityは〈消極能力〉と訳されているが、意味としてはむしろ〈負にとどまる能力〉だろう)。

えらい仕事を仕遂げた人を構成する性質、シェイクスピアが多量にもっていた性質──私が消極能力という性質のことです。この消極能力というのは、人が、事實や理性などをいらだたしく追求しないで、不確定、神秘、疑惑の状態にとどまっていられるときを言うのです。
(『キーツ書簡集』、佐藤清訳)

 レキュトスの壷絵に戻せば、その絵の中で死者と生者を隔てていたものは、それぞれの時間に縛りつけられた感覚だった。少女は聴くことができても見ることはできない、青年は見ることができても聴くことができない。それが少女と青年が此岸、彼岸という二つの場所に隔てられていることを示す。同じ時間と空間にあるものしか人は見ることができないし聴くことができない。だから二人は別の世界に隔てられている。
 ネガティブ・ケイパビリティとはこの《できない》という否定性を受け入れる能力である。それを受け入れたとき《たましい》は直接的な感覚(そして、それが位置する特定の場)から離れた音楽=旋律を奏でることができ、共振させることができる。
 キーツの論を敷衍させれば、それぞれが、あらかじめ共有されていると信じられた場から疎外されていること、つまりそれぞれ固有の《できない》という否定的条件、お互いの不可能性を認めたとき、その否定性から、はじめて共感能力は作動し共感が可能になる、ということもできる。そしてその共感はもはや、どこの場にも属さない。

 現実において不在=ネガティブの場所、その場所を経験させることこそが芸術作品のもつ力であり可能性である。しかしこの不在の場をただ想像的な場所だということはできない。キーツは前出の書簡のなかで、さまざまな政治的な力学、論争に翻弄されたとき、そこから抜け出す力を与えてくれる特殊な感覚について述べている。

私はどんな幸福もあてにした覚えはありません。私は幸福というものを現在に求めるのでなければ求めたことはありません。──私をびっくりさせるものは瞬間だけです。落日はいつも私の調子を整えてくれるし、雀が窓の前に来たりすると、その雀の生命にとけこんでしまって、砂利などをついばむのです。
(『キーツ書簡集』、同前)

 キーツは逆にこうした瞬間こそが、わたしたちが現実と信じている世俗的な世界、わたしたちの言動をしばる政治的な力の葛藤する場所よりも強いリアリティを感じさせるという。この瞬間は人間社会の秩序からすれば些細な事象だけれども、それは決して、単なる瞬間ではなく、むしろ日常社会から周縁にあることで時間を超えたものである=だからそれは何度反復してもつねに新しいという感覚を与える。その経験は自分が人間社会その時間と空間に属しているという自覚を放棄させる。それを可能にするのがネガティブ・ケイパビリティである。そこでわたしはもはや誰でもなく、小鳥たち、雀たちと《たましい》において溶け込み、気づくと一緒に砂をついばんだりしている自分を発見したりもする。

 芸術作品が開く可能性は、いま、この場所、この現在に属する鑑賞者たちからのみ同意を受け取ることにあるわけではない。現在という限定された時と場所(それは政治によって分割され統治された場所である)に属す人間からは排除されたすべての存在(それは死者たちを含むあらゆる人間、のみならず、動物たち、鳥たち、魚たち、地上に存在するすべて)に開かれた場所、いいかえればこの世には位置づけられない、不在の場所を開示する力によってである。

 岡崎の記事をちょうど読み終える頃に母親が上に行った気配があったので、そのあとを追ってこちらも上がれば、居間に電灯は点いておらず、暗いなかで母親はソファに就いてまたタブレットか何か弄っていたと思う。台所の明かりを点けると調理台の上に茄子が置かれてあったので、これを肉と炒めれば良いかと合点して、切りはじめた。蔕を取り、真ん中から横に切断して、半分になったそれぞれの塊を薄切りにして、ボウルに張った水のなかに浸した。それから冷凍庫で凍らされたすき焼き用の豚肉を取り出し、電子レンジに入れて回して、あいだは"I Call Your Name"を口ずさみながら待って、解凍されると数枚残して塊を剝がし牛乳パックの上に置き、長細い形のものを小さく分割し、そうしてフライパンに油を垂らして、ニンニクはあるのかと訊けば野菜室だと言うから見てみると、生のものがあったので一欠片取って、皮を剝ぎ取ってスライサーで薄くおろせばぱちぱちと油が弾けて特有の香りが立つ。ちょっと熱してから笊に取った茄子を放り込み、あまり混ぜもせずに強火に掛けて、時折りフライパンを振りながら合間は腰を落として左右に開脚し、太腿の筋を伸ばしほぐした。そうして肉も投入して、しばらく炒って赤味がほとんどなくなると、焼き肉のたれを注いでまた少々熱せば完成である。続けて、大根の煮物を作るから切っておいてくれと母親が言うので、大根を適当に、銀杏切り風に切り分けておき、それを終えるとあとは母親に任せることにしてこちらは台所を抜け、吊るされたままだったタオルや肌着や寝間着を畳んだ。時刻は五時半、既によほど暮れているが、今日の大気はあまり青さを孕んでおらず、全面に掛かった雲が厚いのか、雨は降っていないようだが霧が混ざったようなくすんだ白さを帯びており、なかからアオマツムシの音が持続的に響いて、ベランダに続くガラス戸の、僅かにひらいた隙間から薄風が寄って背が涼しい。
 洗濯物を畳み終えると三ツ矢サイダーの缶を一つ持って塒へ戻り、爽やかな刺激の炭酸飲料を飲みながら日記用のメモを取って、そのあと今度は書抜きに入った。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。Sade『Lovers Live』が背景に広がるなかで打鍵を進めて、四〇分ほどぶっ続けで打って六時半を迎えると、そろそろ日記を書かねばと思いながら、その前にfuzkueの「読書日記」を読むことにした。さらに続けて、ふたたびインターネット記事。今日の自分は本当に良く、ひたすらにものを読んでいる。何故だかわからないが、集中力が途切れるということがほとんどないようだ。
 徐正敏「人文学のススメ(1)それは怠惰な者のためにある」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019080500013.html)、徐正敏「人文学のススメ(2)知識への執着と冷静な別れ」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019082800004.html)、村上隆則「「民主主義の危機」ってどういうこと?東京大学宇野重規教授に聞いた 「自分たちで決める」社会の難しさ」(https://blogos.com/article/392002/)、村上隆則「安易な「独裁」批判はなぜ起きる?京都大学佐藤卓己氏に聞く 政治参加を求める社会の落とし穴」(https://blogos.com/article/393115/)と四記事を読んで、七時も越えて日記に掛かった頃、LINEでT田から返信が届いた。それでやりとりしながら、傍ら日記を進める。Slack上に上げられていた"C"の最新音源を流しながら、Tのボーカルに余計な力みが入っていて少々空回っているなと印象を述べると、T田もまだまだ歌い方が馴染んでいないと、同意のようだった。Tはどうもここで初めて、地声とかミックスボイスとかを意識しながら歌ってみたようで、多分それで喉の使い方が定まらず、音程にしてもトーンにしても不安定になっているのだと思う。今後、自然に無理のない発声を習得することを望む。
 また、三日後の一〇月六日に「G」のメンバーは録音スタジオに入って"C"を録るのだけれど、こちらも日曜日で空いているので顔を出そうかとスタジオの場所をT田に尋ねれば、吉祥寺の何とかいうところだと言ったのが、その後T田がグループ上に貼ったスタジオのサイトへのリンクを見てみると、吉祥寺ではまったくなく、綾瀬と言って、田舎者のこちらなどは出向いたことのない遠方の地にあるようだったので、苦笑しながらT田にグループ上で、吉祥寺じゃねえじゃんと「笑」の文字も語尾に付して差し向ければ、T田は仕方ない、吉祥寺から綾瀬までの電車賃は払うよと良くわからないことを言ってきて、良いよそんなもんとまた「笑」を付けて払っていると、そのやりとりを見ていたTが、何だこれは、コントかと突っ込んできた。そんな風にLINEにもたびたび顔を出し、またSlackの方にも音源の感想など発言していたものだら、ここまで書くのに一時間以上掛かって既に八時半を越えている。
 食事へ。メニューは米、先ほど作った茄子と豚肉の炒め物、キャベツの生サラダ、前日の味噌汁の残り、そして母親が買ってきてくれたツナマヨネーズのおにぎりに、同じくツナマヨネーズの挟まった薄いパンである。炒め物と一緒に米を口に入れ、キャベツのサラダには焼き肉のたれを掛けて食う。新聞の夕刊を引き寄せてひらいてみると、バーニー・サンダースが動脈閉塞で入院したとのこと。もう七八歳だと言うから、さもありなんといった感じではある。食事中、母親は、父親が定年を迎えてずっと家にいるようになったらどうしようと漏らしてみせる。確か父親は、来年の六月で今の職を終えることになっているはずである。おそらくまた何か別の職を見つけてもう少し働き続けるつもりで本人もいるとは思うから、収入がまったくなくなることはないにせよ、しかし今よりも少なくなるのは確実だろう。そんななかで息子はいつまでものうのうと、月に幾万も稼げないフリーター暮らしを続ける心づもりでいるわけだが、果たしてそれで生活を立てていけるのか。それを措いても母親は、もし父親が働かなくなってずっと家にいるようになって、四六時中顔を合わせていなければならないとすると、それは具合が悪くなる、頭がおかしくなると漏らして、確かにもはや中年も越えて高年に掛かろうという年台の夫婦だから、往時の恋情も愛情も乾いて消えている。「夫源病」、などというものの噂を耳にする昨今でもある。しかし父親の方だって、そんなに常に一緒にいたくないのは同じだろうから、やはり何かしらの職を見つけて働き続ける頭ではいるだろうとこちらは推測を述べたが、母親は、いやわからない、今まで充分働いてきたから、一年か二年くらいは休んで家にいて畑などやるかもしれないと言う。いずれ父親の意に委ねられた話ではある。
 食事を終える頃、テーブルの上に大きな羽虫が一匹現れているのに気がついた。弱っているのか何なのか、動きは鈍かった。こういう時には『トリストラム・シャンディ』のなかの叔父のこと、この世界にはお前と俺と、両方ともの存在を許す余裕が確かにあるはずだと言って虫を殺さず逃してやった叔父のことを思い出す。この小説を読んだのは、Evernoteの記録によると二〇一三年六月のことだから読書歴のまだまだ初期、最初の年である。今読めばまた当時には気づけなかった面白さを色々と味わうことが出来るのだろう。しかし岩波文庫版で上中下と三巻あるからなかなか長く、当時も上巻しか読めなかったはずだ。

 ――行け――ある日の食事の時、叔父は、食事の間中鼻のまわりをブンブン飛びまわって散々に自分を悩ました、やけに大きな一匹の蝿――いろいろ苦労したあげくにそばを飛び過ぎるところをやっとつかまえたその蝿にむかって言ったものです。――おれはおまえを傷つけはしないぞ、叔父トウビーは椅子から立上って、蝿を手にして窓のほうに歩みながら言いました――おまえの頭の毛一すじだって傷つけはしないぞ――行け、と窓の上のほうに押しあげて、手を開いてにがしてやりながら――可哀そうな奴だ、さっさと飛んで行くがよい、おれがおまえを傷つける必要がどこにあろう、――この世の中にはおまえとおれを両方とも入れるだけの広さはたしかにあるはずだ。
 (ロレンス・スターン/朱牟田夏雄訳『トリストラム・シャンディ(上)』岩波文庫、215~216)

 この叔父の寛容な精神に倣ってこちらも羽虫を殺さず静かに放っておこうと、意に介さずに食事を進めて抗鬱薬を飲んだのだったが、しかし母親が出して出してと頻りに言うので、仕方なく、羽虫が乗っていた紙を持ち上げて、そのまま窓に寄って網戸を開けて、外に突き出してちょっと振って逃がしてやった。それから食器を洗って風呂である。寺尾聰 "HABANA EXPRESS"のメロディを口笛で吹きながら湯に浸かり、それほど長くは留まらず、さっさと洗い場に出て髪と身体を洗って上がった。身体の水気を取るとバスタオルで頭を包んで、前後にがしがしと動かして水気を散らす。鏡に映る自分の裸体を見ながら、実に貧弱な、貧相な身体だなと思った。
 パンツ一丁で外に出て、一旦自室に下りて急須と湯呑みを取ってきて、上に上がると食卓に出しっぱなしだった焼き肉のたれを冷蔵庫に片付け、緑茶を湯呑みに一杯注ぎ、急須のなかには一杯半分くらい入れて二つを持って部屋に戻り、John Coltrane『Blue Train』の流れるなかで、一〇時までと定めつつインターネット記事をまたもや読む。村上隆則「なぜ格差は自己責任といわれるのか?社会学者・橋本健二氏に聞く 現代日本格差社会」の歴史」(https://blogos.com/article/393799/)、「なぜ日本と韓国は仲たがいしているのか、韓国がGSOMIA破棄」(https://www.bbc.com/japanese/49443635)、「【解説】 なぜ香港でデモが? 知っておくべき背景」(https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48618554)、倉数茂「遊戯する龍と孔雀 ──山尾悠子『飛ぶ孔雀』小論」(https://shimirubon.jp/columns/1694843)、デービッド・アトキンソン「日本人の議論は「のんき」すぎてお話にならない」(https://toyokeizai.net/articles/-/275028)の五つである。それで一〇時に達すると歯ブラシを取ってきて、歯磨きをしながらGuardianにアクセスし、興味深い記事を見繕った。GuardianにはThe Long Readというコラムシリーズがあって、これが一記事がやたら長いものでまだ当分手は出しづらいが、それでも結構面白そうな記事が色々あるのでそのなかからいくつかEvernoteの「あとで読む」記事に、タイトルとURLを写しておいた。いわゆる加速主義についての"Accelerationism: how a fringe philosophy predicted the future we live in"(https://www.theguardian.com/world/2017/may/11/accelerationism-how-a-fringe-philosophy-predicted-the-future-we-live-in)も興味があるし、"Denialism: what drives people to reject the truth"(https://www.theguardian.com/news/2018/aug/03/denialism-what-drives-people-to-reject-the-truth)もホロコーストに対するこちらの関連からして避けては通れない。あと、やはりホロコーストナチスドイツやスターリンなどについての著作をものしているティモシー・スナイダーもGuardianには寄稿しているので、彼の記事もいくつか拾っておいた。ホロコーストカテゴリからも同様。Guardianは主題ごとに記事をまとめて表示するシステムが確立されていて、そういうところを見ると日本の新聞社などはやはり全然まだまだ、質の低いものだなと厳しい評価を下さざるを得ない。記事中に差し挟まれる画像などもセンスの良いものが多いし、やはり蓄積が全然違う。
 さらにNew York Timesにもアクセスして、哲学関連のコラムシリーズであるThe Stoneの記事も見繕った。頁下部に表示される"Show More"のボタンをいちいち押して遡っていかなければならないのが面倒で、時期を指定してその頃の記事を一気に表示する機能があれば良いのだが、仕方なくいくつか記事を見分してはぽちぽちボタンを押してまたいくつか新しく出てきた記事を吟味するという形で遡っていると、途中でブラウザが停まった。こちらのコンピューターはいい加減寿命が近いらしく、ここのところ動作がめっきり鈍くなった。再起動させることにして、合間はカフカを読んで待ち、ふたたび準備が整うと、Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』をヘッドフォンで聞きながらThe Stoneをひたすら、二〇一三年の分までだっただろうか、遡った。スラヴォイ・ジジェクの寄稿した文章を二つほど発見できたのは収穫だった。
 その後、零時二〇分までだらだらと過ごしたあと、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』の書見を始めた。最初のうちは椅子に乗って読んでいたのだが、今日は随分と多くのものを読んで、椅子に就いている時間も長かったし、一時間床に臥したとは言え、まんじりともせずほとんど寝ていないに等しいので、さすがに疲れと睡気が湧いてきて、これは多分力尽きるなと思いながらもベッドに移れば、予想通りまもなく意識を失ったようで、気づくと夜明けだった。明かりを落として就床。


・作文
 5:58 - 8:08 = 2時間10分
 13:02 - 13:30 = 28分
 19:14 - 20:32 = 1時間18分
 計: 3時間56分

・読書
 8:48 - 9:27 = 39分
 9:32 - 12:19 = 2時間47分
 12:35 - 12:52 = 17分
 12:55 - 13:02 = 7分
 13:40 - 14:39 = 59分
 14:40 - 14:44 = 4分
 15:08 - 15:39 = 31分
 15:42 - 16:43 = 1時間1分
 16:49 - 17:07 = 18分
 17:49 - 18:31 = 42分
 18:36 - 19:13 = 37分
 21:21 - 22:04 = 42分
 24:23 - ? = ?
 計: 8時間44分 + ?

・睡眠
 4:30 - 5:30 = 1時間

・音楽

2019/10/2, Wed.

 私にとって最も重大な感覚は疲労である。疲労においてこそ、私は明晰であることができた。「労働とはつねに肉体労働だ。精神労働というものはない」という一友人の言葉は、今なお私には有効である。私は疲れつつあった。疲れることにおいて、かろうじて安堵することができた。だが、かつて安堵した位置へ、もう一度安堵してうずくまることができるだろうか。放棄したかにみえたものを、理由もなくもう一度放棄するだろうか。
 衰弱。それがすべての弁明ではない。だが衰弱は、弁明の必要のない、最後の有力な弁明だと思う。なんびとも衰弱を避けることはできないからだ。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、139; 「海を流れる河」)

     *

 僕らが一つの場面に遭遇して強い関心を持つのは、それがかならず一つの物語をもつということ以上に、それが同時に無数の[﹅6]物語をもつということのためである。そのような同時性に対する関心が成立するのは、その物語を自己と関わるものとして見るという実存的関心の故であって、作品と読者が真剣に結びつく個所は、その一個所を除いてはありえない。それ以外の結びつきはもはや好奇心でしかない。
 この場合、俳句は否応なしに一つの切口とみなされる。俳句は他のジャンルに較べて、はるかに強い切断力を持っており、その切断の速さによって、一つの場面をあらゆる限定から解放する。すなわち想像の自由、物語への期待を与えるのである。そこでは、一切のものは一瞬その歩みを止めなければならない。「時間よ止まれ」という声が響く時、胎児は産道で息をひそめ、死者に死後硬直の過程は停止する。愛しているもの、憎んでいるもの、抱擁しているもの、犯罪を犯しているもの、一切はその瞬間の姿勢のままで凍結しなければならない。そこでは、風景さえも一つの切口となることによって、物語をもちうる。
 (143~144; 「俳句と〈ものがたり〉について」)

     *

 第一行は〈訪れるもの〉だといったが、これは正確ではない。私は多くの第一行と路上ですれちがっているはずである。私にかかわりのない第一行は、そのまますれちがうだけだが、もし重大なかかわりがある一行であれば、それはすれちがったのちふたたび引きかえしてくる。この「引きかえしてくる」という感じは、説明しにくいが、私にとって大へん大事な感覚である。それはいちど通りすぎたのち、やっと私の顔をおもい出した、というように引きかえしてくる。とすればそれは、かつて記憶のなかで、予感のようにめぐりあった一行かもしれないのだ。
 (149; 「私の部屋には机がない――第一行をどう書くか」)


 正午前にようやく床を抜け出した。コンピューターを起動させ、Twitterを少々覗いてから、高潮する便意に耐えかねて便所へ。腹を軽くしたあと上階へ上がり、洗面所で顔を洗うとともに、後頭部で跳ね上がっている髪に整髪ウォーターを振りかけて寝癖を直す。それから台所に出て、冷蔵庫から前日の残り物であるところの炒飯とワカメの汁物を取り出し、それぞれ電子レンジに入れたり火に掛けたりして温めた。加えて、うどんを食べるから湯を沸かしておいてくれと母親が言うので、深底のフライパンに水を汲んで焜炉の上に置いておく。そうして卓に移動して食事。新聞一面を見れば、香港の抗議運動のさなかに警官が至近距離から実弾を発射し、一八歳の高校生が一人、重体になっているとの報がある。頁をひらき、国際面から中国の建国七〇周年を伝える記事なども読みつつものを食ったあと、台所に立てば母親が茹でたうどんを水に晒しているので、戸棚から新しい麺つゆを出してきて汁を用意した。卓に戻ってふたたび食事、うどんのほかにはやはり前日の残り物である素麺のサラダと、餃子が数個用意された。追加の品々も平らげてしまい、先日買ってきたコンビニのミルクレープを半分に分けて食べると、食器を洗い、それから風呂も洗った。さらに、兄夫婦が今月一時帰国して一八日から我が家に滞在するとかで、布団を干しておきたいと母親が言うので、元祖父母の部屋に置かれた敷布団を二つ、ベランダに運んで手摺りに掛けた。陽射しは溢れんばかりに重く肩に伸し掛かり、まだまだ夏が名残っている。そうして下階に戻ると、寺尾聰の『Re-Cool Reflections』から三曲歌って、その後、SIRUP『SIRUP EP』を流しながらここまで日記を書いた。
 Muddy Waters『At Newport 1960』とともに二時一九分まで日記作成に邁進し、そこで一旦切ったのは、確か母親がベランダに続くガラス戸を開けて、干してあった兄の布団を取り込みはじめたからではなかったか。ベッドの上に置かれた掛け布団を二つ、隣の兄の部屋に運び、さらにマットとシーツも受け取って、兄の寝床を整えた。そうしてさらに階を上がって、上のベランダの柵に掛けられた敷布団も肩に担いで、元祖父母の部屋に運んでおく。それから自室に戻るとふたたび日記に取り掛かり、Various Artists『Hellhound On My Trail: Songs Of Robert Johnson』を背景に三時一五分まで進めるそのあいだ、傍らLINEでTとやりとりを交わしていた。先日T田にも教えたものだが、Sarah Vaughanの歌う"Autumn Leaves"を、これは凄いぞと言って紹介したのだった。Tはちょうど今日、音楽の歴史を学びはじめたところで、音楽史と言っておそらくクラシックは除いてポピュラー・ミュージックの方だろうが、フィールド・ハラーやワークソング、黒人霊歌などの音源を聞いたと言う。先日の通話で話したことにも繋がるけれど、感性やセンスを磨き向上させるためにこそ、技術や知識が必要なのだとこちらは言って、どんどん知見を広げていって欲しいとエールを送り、もし興味があれば吉祥寺のジャズ・ホールで生のジャズ・ボーカルを観に行かないかと誘ったところ、ジャズを学んでみてから行きたいとの返答があったので、行きたくなったらいつでも言ってくれと了承した。それで三時一五分に達したところで溜まっていた日記の負債を何とか完済することが出来たが、当日から四日も経ってしまった二八日の記事はだいぶ適当な書き殴りになってしまった。九月二八日から三〇日までの記事をインターネットに投稿したあと、確か一旦上階に上がったのだったが、すると洗濯物がベランダの前にごちゃごちゃと置かれたまま放置されてあったので、タオルや肌着を畳んで整理した。ものを食おうかと思って上がってきたのだったが、思いの外にまだ時間が早かったので気を変えて部屋に戻り、英文を読むことにして、Serene J. Khader, "Why Are Poor Women Poor?"(https://www.nytimes.com/2019/09/11/opinion/why-are-poor-women-poor.html)をひらいた。二〇分読めば四時を越える。

・off the hook: 責任を免れて
・culprit: 容疑者; 犯罪者、罪人
・foist: 押し付ける
・patent: 特許
・expenditure: 支出、出費
・pick up the slack: 代わりを務める、不足を補う
・serf: 農奴
・all the rage: 大人気である、大流行している
・funnel: つぎ込む
・precarious: 不安定な
・teem with: 満ち溢れている

 そうしてふたたび階を上がって、カボスのジュースとゆで卵を一つ、冷蔵庫から取り出して、卓に就くとジュースを一気に飲み干してから卵の殻を剝き、塩を振って乏しい食事を即座に終えた。そうして下階に下りると、歯磨きをしながらMさんのブログを読み出した。いや、その前に伸びていた手の爪を切ったのではなかったか。ベッドに乗って胡座を搔き、ティッシュを一枚目の前に敷いて爪を切り落とし、バックに流したSonny Rollins『Saxophone Colossus』を満喫しながら、鑢を掛けて整えていると、天井が鳴ったので鑢掛けを中途で切って部屋を出た。「目玉の親父」の電池を取り替えてくれと言う。「目玉の親父」と母親が呼ぶのは、駐車場の隅に設置されているセンサー式の小さなライトのことで、『ドラゴンクエスト』に触手を生やした大きな目玉のモンスターがいたと思うが、ちょうどあれのような外見をしている。それで元祖父母の部屋に入って窓際に置かれた棚をどかし、表の通りに面した窓を開け、柵に足を掛けながら身を伸ばして、触手状の掛け具によって樋の上に設置されたライトを取ったところが、電池が切れているはずのものがどうやらまだ残っていたようで明かりが点いたので、そのまま元に戻した。そうして自室に帰り、途中だった爪の鑢掛けを完了してからMさんのブログを読んだのではなかったか。九月二六日の一日分を読むと仕事着に着替えて、その後、この日の日記を五時まで書き進め、それから財布に携帯に手帳の入ったバッグを持って階を上がった。仏間に入って靴下を履けば出発である。
 玄関に行くと、外から数人の話し声が聞こえてきた。誰が話しているのだろうと思って出れば、名前も知らない人々、婦人が二人に老人一人が、どうしてそこで立ち話をしようと思ったのか我が家の駐車場の前に集まっている。婦人の一人は大きめの犬を二匹連れていて、これは数日前に公営住宅前で見かけたのと同じ人のようだった。もしかすると老人の方も、その際婦人と話し込んでいたその人かもしれない。こんにちはと挨拶をしながら傍を過ぎ、道を進むと今度は帽子を目深に被った高年の女性が、道路の上を掃除している。Sさんのようにも見えたが、掃いている場所がしかし、彼女の宅からはちょっと離れた位置である。掃き掃除をするだけでなく、Tさんの家の傍に生えた、あれは柚子ではないと思うがそれに似た柑橘類の丸々と膨らんだ実が地面に落ちているのを、拾って林の方に投げ捨てているところにこんにちはと掛けると、老女は果物をもう一つ放ってからゆっくりとこちらに振り向き、恥ずかしいところを見られて決まりが悪いような笑いを漏らした。その様子を見ても、如何せん帽子が顔に深く掛かって、Sさんかどうか確信が持てなかったが、こちらも笑みを返して過ぎ、進んで坂に入ると、風が柔らかく寄せて身体の表面に涼しく貼りついてくる。そのなかを足を速めず鷹揚に上っていくが、しかし上りきった頃には、今日は一〇月に入ったからクールビズの期間が終わってネクタイを締めていることもあって、汗がまた湧いているだろうとそう思って進むと、出口近くで老人が一人、狭い歩幅でゆっくりちびちびと下りてきたのに、こんにちはと声を合わせれば、老人はにこやかに、福々としたような笑みを浮かべてみせた。挨拶ばかりしている道だ。
 駅に入ると早めに出たので電車にはまだ間があって人もおらず、一人ベンチに就いて手帳を読む。しばらく経って、電車到着のアナウンスが入っても、この日は何となく、ホームの先まで出るのが億劫なようで立たず、ベンチのすぐ前の車両に乗って、扉際で手帳を読みつつ到着を待った。青梅で降りてホームを行けば、その足取りも何だか重く、自ずとゆったりと運ばれて、胃も疲れているような感覚が兆していた。
 今日は室長が不在の職場である。当たる教科は英語に社会で、予習の必要もないので、準備を軽く済ませたあとは椅子に就いて手帳に道中のことをメモ書きしていた。担当した生徒は、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中三・社会)だったが、(……)くんは授業が始まってからしばらくしても姿が見えず、家に電話を掛けてみたが繋がらず、結局その後も現れることはなかった。宿題はやってこないが授業中はそこそこ真面目に取り組む生徒だし、気も弱そうでサボることもなさそうなので、何故欠席したのか不可解である。三年生の(……)くんは最初公民を扱い、終盤には歴史を少々復習した。小選挙区制と比例代表制のそれぞれの仕組みや長所・短所などについて解説。(……)くんは当たるたびにやる気がなくなっている。今日の授業中はカッターを使って鉛筆を削ったり、丸いマグネットを転がして遊んだりしており、姿勢も悪くて机に正面から向かうのでなく、真横を向いて足を投げ出しているし、それに応じてノートも完全に横向きにしている。本人曰く、そうしないと文字が書けないのだと言う。今日は過去の授業と比べてもとりわけ態度が散漫だったような気がするが、それは奥の席で周囲に人がいなかったことも理由としてあるのかもしれない。
 七時四五分頃退勤。駅に入ると連絡電車が遅れていて、奥多摩行きが停まっており、間に合ったのだがしかし、手帳を読む時間を取るために敢えて見送ることにして、いつも通り二八〇ミリリットルのコーラを買ってベンチに就いた。漆黒色の炭酸飲料を胃に注ぎながら手帳の情報を確認しているうちに、遅れていた連絡電車が着いて人々がこちらの周りを通り過ぎて目の前の電車に乗り込み、奥多摩行きは発車した。こちらは静かに目を閉じ、読んだ事柄を頭のなかで反芻し、記憶に定着させようと試みる。じきに例の、サッカークラブか何かの仲間らしい、揃いの運動着を着た中学生らがやって来て、ベンチに溜まることはしなかったがホームの先の方で騒いでいて、マンコとかチンコとかおっぱいとか卑語を叫ぶ声が聞こえてきたので、馬鹿だなあと思った。
 奥多摩行きが来ると三人掛けの席に入り、引き続き瞑目して手帳に書かれた内容を頭に入れ、最寄りに着いて降りれば今日は風が吹かない。ゆっくり歩いて駅を抜け、坂道に入って目を上向かせれば、空は雲を敷かれたらしく灰色にくすんでいるが暗夜ではなく黒影と化した木々との境が明瞭で、電灯に抜かれたこちらの影もくっきりと濃く路面に伸びる。坂を下りながら風が、流れるというほどでなく路傍の葉の先も揺らがないが、それでもやはり淡く動いて肌に涼しい。
 帰宅すると父親が寝間着姿で居間におり、母親も既に風呂を済ませたようでパジャマの頭にタオルを巻いている。こちらがワイシャツを脱いでいるうちに父親は風呂に入りに行ったので、洗面所では今服を脱いでいるところだからと遠慮して、ワイシャツは階段横の腰壁の上に掛けておいた。下階へ下り、室に入ると服を脱ぎ、コンピューターを点けて寺尾聰の、『Re-Cool Reflections』をYoutubeで流し、"HABANA EXPRESS"に"渚のカンパリソーダ"にご存知"ルビーの指環"の三曲を歌い、加えて例の、一九八一年のライブ音源も流して冒頭の"I Call Your Name"と、掉尾を飾る"Only You"、これはThe Plattersというグループが五五年にヒットさせたのをJohn Lennonがカバーしたそのバージョンをまた真似たものらしいが、その二曲を聞いてから部屋を出て食事に行った。
 唐揚げを電子レンジに、一方で米をよそり、大根の葉を具にした味噌汁を熱して、細くスライスされたキャベツの生サラダを大皿に盛り、炒めた蓮根に、これも大根の葉の、あれは和え物と言うのだろうかそれらしき品を、それぞれ皿に載せて卓に運ぶ。父親も既に風呂から出て、食事の支度を始めている。卓に就けばテレビは九時のニュースを流して、北朝鮮情勢に関して、先頃解任されたジョン・ボルトン米大統領補佐官の強硬発言が伝えられ、その次に関西電力の幹部連による金品受領問題に関して記者会見の様子が流された。それらをぼんやりと眺めながらものを食い、平らげると抗鬱薬を飲んで、母親の分もまとめて食器を洗うと風呂に行った。掛け湯をしてから縁を跨ぎ越えて浴槽のなかに踏み入れば、父親が温めたものか、湯が随分と熱い。靴が合っていないようで足の指が擦れていくらか傷ついているのに、湯の熱が染みて少々痛む。しばらく浸かったあと、髪を洗いながら"I Call Your Name"を口ずさみ、出て髪を乾かすと下着一枚のしどけない格好で扉をくぐり、すると母親が梨があると言うので一切れだけ貰って下へ、室に入るとコンピューターに寄ってすぐにメモを取った。とにかく折に触れてメモを取りまくる、それが自分を救うのだ。
 メモを終えるとcero "Summer Soul"を歌い、すると何故かインターネット回線が繋がらないので、再起動すれば直るかと命令を下し、最近はこのコンピューターももうがたが来ているようで動きが大変鈍重なので、本を読みながら立ち上がるのを待ったが、これが数年前だったら動作の鈍さに苛々させられて仕方がなかっただろう。再起動されると、Art Blakey & The Jazz Messengers『At The Cafe Bohemia, Vol.1』を掛けて前日の日記を読み直し、しかしもう文の質にこだわるのは止めたから直すところもあまりなく、仕上げるとインターネットに投稿した。その後、一〇時四〇分から一一時まで二〇分、読書の時間が記録されているのは、これは栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』の書抜きである。
 それから久しぶりに緑茶を飲むかというわけで、用意をするため上階に行った。居間では父親が歯磨きしながらテレビを見ていて、映っている番組は『歴史秘話ヒストリア』、渋沢栄一を取り上げているらしい。茶壺に茶葉が入っておらず、近くに深蒸し茶の袋が一つあったので鋏で切り開けたところがよく見ればティーバッグ型のもので、そんなものが美味いはずがないから捨て置いて、新しい茶の在り処がわからなかったので下階に下り、両親の寝室に行って寝床でうとうとしていた母親に訊けば、仏壇の横の袋のなかと言うので階段を引き返し、仏間に入って、Kのおばさんの葬式の返礼だという目当ての品を見つけ出した。それで緑茶を支度していると、テレビは王子と言って、渋沢の作った製紙会社が王子にあったのだけれど、あ、王子じゃん、あれじゃん、とこちらが漏らしたのは、もう一年も経とうか昨年の秋に、その頃はT子さんがまだ王子に住んでいたところに一家三人遊びに行って、飛鳥山公園内にある紙の博物館なる施設を訪れたことがあったからだ。
 塒に戻り、温かな緑茶を飲んで背に汗を搔きながらインターネット記事を読む。汗が湧くと、体臭が匂い立つ。もっと歳を取ると、これが加齢臭になるのだろうと切ないことを考えながら読んだのは、まず「無意識の超自我としての憲法九条 「憲法の無意識」(岩波書店)刊行を機に 柄谷行人氏ロングインタビュー」(https://dokushojin.com/article.html?i=791)である。次にWeb論座から、高山明「「あいち」補助金不交付は、なぜ危険なのか」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019092800003.html)、米山隆一「あいちトリエンナーレ補助金不交付の支離滅裂」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019092700007.html)と読み、さらに入管関連のニュースを二つ、「入管施設での外国人死亡は餓死 入管庁「対応問題なし」」(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191001-00000031-asahi-soci)と「「安全な国、日本しか…」 終わりない収容、募る不安」(https://www.asahi.com/articles/ASMB165WLMB1TIPE01Z.html)を読むと、それでもう零時を越えた。高山明の記事の一部を以下に付す。

 税金を使うなら多数派の気に入るように。そう考えられがちな日本とは反対に、ドイツでは、多数派とは異なる意見を発表することや、小さな声を尊重するために公金を使うべきだという考え方が、社会で共有されています。
 ドイツは、検閲や弾圧によって徹底的に異論を排除したナチスの独裁がどんな結果を引き起こしたか、歴史から学びました。あの悲劇を二度と繰り返さないために、戦後は、異論を尊重する社会を作ろうとしてきました。
 少数派の、たとえそれが多数派にとって愉快でないものであっても、様々な考えや表現を発表する自由を公的なお金で支えることによって、社会の健全さを保とうと考えてきたのです。その方が社会という「身体」にとってよい。だから公金を使えるわけです。

 ドイツの公共劇場では劇場長(責任者)と弁護士が緊密に連絡を取り合い、「いかに警察に介入されないですむか」と考えて、様々な事前準備をします。表現の自由を、法律で守っている。どんなに多数派や政治家が気に入らない表現でも、法律に違反しない限り、守るべきは守る、という姿勢です。
 それに比べて、日本では、根拠のはっきりしない「世間の声」が法律より上にあるように感じます。声の大きな人たちが「自分たちが多数派だ」「これが世間の常識だ」と主張して、異なる意見を封じこめようとする。政治権力がそれと一体化している。

 続けて、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』の記述を手帳にメモしていく。傍ら聞いたのはArt Blakey & The Jazz Messengers『At The Cafe Bohemia, Vol.1』だが、このなかの"Minor's Holiday"がなかなか凄いのではないかと思われた。Art Blakeyの煽りまくるドラミングも面白い。
 栗原の本によればヒトラーユダヤ人絶滅を元々構想していたというのは間違いで、絶滅政策は独ソ戦が進む過程で、食糧事情の悪化などの要因もあって、戦争政策の一環として実行されたものだと言う。そこにおいては労働可能なユダヤ人と労働不能ユダヤ人とが区別され、後者は絶滅対象になったが前者は生かして労働力として使い潰す方針が取られた。まずもってラインハルト作戦の開始当初、総指揮官のグロボツニクという幹部は、ヒムラーに宛てた報告書にて作戦の具体的な任務として、ユダヤ人の移住と並べてユダヤ人の労働力の活用という項目を作っており、従って当初から作戦の目的が単なる「絶滅」のみならず、労働力の利用にもあったことは明らかだとのことだ。
 そういったような事柄を手帳に書き付け終えると一時過ぎ、茶をおかわりしに上階に行けば、父親も既に寝室に下がって、電灯は落とされて居間は無人、そのなかで侘しい明かりを点けて緑茶を用意し、居室に戻ればヘッドフォンをつけながら読書を始めた。花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』で、これはまもなく読み終わり、音楽も仕舞えて一度コンピューターを落としたが、思い直してふたたび起動して、Sonny Rollins『Saxophone Colossus』を聞きながら、ナチスホロコースト関連とその他の本と交互に読む方針を一応立てているので、次には何か小説を読もうというわけで辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』をひらいた。辻瑆訳の『審判』、これは岩波文庫にも入っているものでそれもこちらの書棚に収められているが、それを読み進めながら『Saxophone Colossus』の二曲目、"You Don't Know What Love Is"の、実に太く重々しいベースが耳を寄せようとせずとも自ずと迫ってきて素晴らしい。ここでベースを担当しているDoug Watkinsは、先ほど聞いたArt Blakey & The Jazz Messengers『At The Cafe Bohemia, Vol.1』でも弾いている。ドラムのMax RoachはBlakeyに比べるとだいぶスマートな叩きぶりで、「歌うドラム」と言われるように技が多彩で、巧手といった言葉が似つかわしい。
 読書ノートに気づいたことを書きつけながらゆっくり読んで、『Saxophone Colossus』が終わったあとはCharlie Parker『Bird At The Hi-Hat』を流したが、じきに音楽にも疲れたので止めて時間を見ればもう三時半を迎えていて、そのくせ読書は、三段組とは言っても五頁から一二頁までしか進んでおらず、それはたびたびノートを取って文言を引用してはコメントを付しているからなのだが、カフカはやはり興味深く、気になることが色々とあって考えが湧いてくるのだから仕方がない。
 『審判』の冒頭近くで気に掛かったのは、余剰とも感じられるようなほとんど意味のない細部が散見されることで、例えばKは彼を逮捕しに来た二人の「監視人」に対して、「まるで身をもぎ離しでもするかのような仕草をしてみせ」(6)るし、彼らの「知能程度」の低さに呆れて、「部屋の中のあいた場所を二度三度行ったりきたり」(8)、落着かずにうろついたりもする。Kの向かいに住んでいる老婆は、「自分よりもっとずっと年をとった老人を、窓のところにひっぱってきて、これを抱きかかえて」(8)やりながら、Kの部屋で繰り広げられる逮捕劇を見世物のようにして覗いている。Kと対面した「監督」は、会話の最中に、「一方の手をしっかりと机におしつけ、それぞれの指の長さを比べてみている様子」(12)だと言うし、また、「二人の監視人は飾り覆いのかけてあるトランクの上に坐り、膝をこすっていた」(12)。これらの何を意味するとも思えない奇妙な動作は、文章を切り詰めた結果として厳密に取捨選択され、物語世界に必要不可欠な素材として残されたのではなく、その場の思いつきで即興的に書きつけられたかのような気配を帯びており、ある種冗長で、むしろ削ってしまった方が語りはすっきりと整うようにも思われる。ロラン・バルトによれば、物語の構造上意味を持たないように見える具体的でささやかな描写というものは、写実主義の記号表現として機能するというのだが、しかしカフカにおけるこれらの無意味さは、現実らしさ、自然らしさの確保とは違う機能を持っているように感じられる。それはリアリズムを担保するものとしての無意味さと言うよりは、カフカ自身が『審判』のなかに書き込んでいる表現を借りると、「意味深長らしくはあるがわけのわからぬ」(7)ものとしてあり、作品世界の位相を僅かに動揺させ、意味を取りとめもなく拡散させて体系的な言語秩序の構築を阻むようなものではないか。平たく言って、こうした細部を含む諸要素の特殊な取り合わせ方によって、カフカの世界はちぐはぐな[﹅5]感触を与えるものとなっている。カフカの記述は体系的に整序されて過不足のない物語秩序を形作るのではなく、半ばばらばらな意味の小片がぎこちなく、強引に繋ぎ合わされることで、美しい写実を逸脱したいびつなモザイク画のような様相を得ているのだ。
 四時二五分に達したところで、さすがにそろそろ休もうと本を閉じ、明かりを消して寝床に入ったが、緑茶を何杯も飲んだためだろうか、睡気が訪れる気配がまったくなかった。


・作文
 13:13 - 14:19 = 1時間6分
 14:28 - 15:15 = 47分
 16:42 - 16:59 = 17分
 22:10 - 22:27 = 17分
 計: 2時間27分

・読書
 15:42 - 16:02 = 20分
 16:23 - 16:38 = 15分
 22:41 - 23:00 = 19分
 23:17 - 24:08 = 51分
 24:18 - 25:07 = 49分
 25:15 - 28:25 = 3時間10分
 計: 5時間44分

・睡眠
 ? - 11:55 = ?

・音楽

2019/10/1, Tue.

 密林[タイガ]のただなかにあるとき、私はあきらかに人間をまきぞえにした[﹅10]自然のなかにあった。作業現場への朝夕の行きかえり、私たちの行手に声もなく立ちふさがる樹木の群に、私はしばしば羨望の念をおぼえた。彼らは、忘れ去り、忘れ去られる自我なぞには、およそかかわりなく生きていた。私が羨望したのは、まさにそのためであり、彼らが「自由である」ことのためでは毫もない。私がそのような心境に達したとき、望郷の想いはおのずと脱落した。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、130; 「望郷と海」)

     *

 私がたたずんだ地点から上流は、河の過去であり、下流は河の未来であり、たたずんだ私のはばだけが河の「現在」として、私の目の前にあった。そして私がたたずんでいるそのあいだも、河はつぎからつぎへと生れかわるようにして、三つの時間帯を通過しつつあった。
 音という音が扼殺されてしまったような静寂のただなかで、私をとりかこむ時間の、この不思議な感触を、いまだに私は忘れることができない。河は永遠の継続、永遠の未完了として私の前を、ひたすらに流れつづけた。
 (137; 「海を流れる河」)

     *

 海よりもさらに海を流れる河。私はこの言葉に一つの志向を託送したかったのだと思う。怨念ともいうべきものはその時の私にも、今の私にもない。私が思ったのは、河は海にまぎれずに流れつづけることが自然[﹅2]であり、北を目指しつづけることが自然だということであった。北への指向になぜそれほどこだわったのか、今ではほとんど不可解だが、私にそのとき、母国を目指す南への指向とほとんど等量に、北への指向があったことを不思議に思わずにはいられない。おそらく等量に、母国へ向おうとする志向と、母国を遠のこうとする志向があったのではないかと思う。それはいわば、ある種の予感のようなものであったのかもしれない。
 河に終焉があってはならない。なにごとにあれ終焉に至る思想を、私は本能的に回避したと思う。病ですら、終焉に至ってはならなかった。いま病む者は、その病いを終ることなく病まねばならぬ。
 (138; 「海を流れる河」)


 寝床に光の射しこむなか、意識の混迷に苦しんだのち、一一時一五分に至ってようやく身体を起こした。階を上がり、母親の書置きを確認してから洗面所で顔を洗って髪を整える。鮭や大根の煮物があると書置きには記されていたが、それらは置いて卵とハムを焼くことにした。フライパンにオリーブオイルを垂らしてハムを四枚敷き、その上から卵を二つ、割り落とす。フライパンを傾けて卵を滑らせながらしばらく熱したあと、丼によそった米の上に取り出し、それだけ持って卓に移動すると新聞を引き寄せて食事を始めた。醤油を垂らしながら黄身を崩し、ぐちゃぐちゃと搔き混ぜて米に絡めてから口に運ぶ。新聞は国際面をひらくと、パレスチナ自治区ラマッラで名誉殺人に反対する抗議活動が行われたとの報があった。同じ自治区内のことだったか場所は忘れたが、先般、二一歳の女性が交際相手との写真をSNSに上げたことで、一族の名誉を汚したとして親族に殺されたと言う。
 ものを食べ終えると冷蔵庫から、前日に買った三つのケーキのうち、チョコレートスフレを取り出してきてフォークで細かく千切りながら食った。そうして皿を洗うと風呂に行ったが、残り湯が浴槽の半分ほどまで余っていたので、今日は洗わずこのまま沸かすかと一人で決めて、汲み上げポンプだけ水から出してバケツに入れておき、浴室を離れて下階に下った。コンピューターを起動させると、寺尾聰『Re-Cool Reflections』の音源をYoutubeで流し、歌を歌う。その後、SIRUP『SIRUP EP』を流し出し、前日の記録を付けてこの日の記事も作成すれば、早速日記に取り掛かる。一二時一〇分から始めて歌を口ずさみながら、ひとまずここまで綴った。二七日の記事は推敲しなくてはならないし、二八日の記事はほとんど何も書いておらず、昨日の三〇日の分も記憶が失われないうちに記しておかねばならず、なかなか切羽詰まっている。
 まず、二七日の記事を推敲することにしたのだが、これに時間が掛かる掛かる。音楽は、「寺尾聰 ライブ NHK FM 1981 年8月9日ON AIR」(https://www.youtube.com/watch?v=RkxS1KkwB7A)を流した。これは前日に見つけたものなのだが、冒頭のThe Beatlesの"I Call Your Name"など格好良くて、なかなか上質の音源である。それで二時まで重たるい打鍵を続け、部屋を出て上階の洗濯物を取り込むと畳まないですぐさま戻り、さらに四五分ほど二七日の記事を推敲して、ようやく仕上がった。音楽はその頃には、cero『Obscure Ride』に変わっていただろうか、それともさらに進んでSuchmos『THE BAY』に入っていただろうか。ともかく九月二七日の記事をようやくインターネットに投稿することが出来、その後、まだ前日分に二八日分も残っていたのだが、一旦日記作成は中断し、前夜にコンビニで買ったポップコーンを食いながら、ここのところ触れられていなかったMさんのブログを読んだ。続けて自分の一年前の日記も、九月二八日から一〇月一日まで読む。九月二九日に次のような記述があった。当時はまだ鬱症状の圏域から逃れていなかったと思うが、そのわりに随分と冷静に、自己を客観視して分析している。この諦観の籠った平静さ。

夜、緑茶をおかわりしに居間に上がって来た際、父親に通院の報告をする。症状の特段の変化はないが、ロラゼパムがなくなったと。それは何かと問うので、安定剤だと答える。現状、不安という症状はなくなったので、それはいらなくなったのだ。ロラゼパムにしろスルピリドにしろ、それで言えばクエチアピンにしろ、飲んでいても自分に何らかの効果を及ぼしているという実感は全然ない。薬が減ったにせよ、本を読んでいて楽しいとかそういう感情はやはりないのだろうと父親が問うので、その点は変わっていないと返答する。そうしたらまたそのあたりを改善する薬なり方策なりを相談してみて、と父親は言うが、賦活剤としては多分エビリファイぐらいしか選択肢はないのだろうし、メジャー・トランキライザーの類をこれ以上使うのも気が引けるものではあるし、そもそも自分にはもはや精神病薬の類はほとんど効かないのではないかというような気がする。何というか、心身が全般的に鈍感化しているのだ。それはそれとして、まあ精神疾患は長いものだろうし、例えば一年後に今よりも多少楽しくなっていたり、感受性が戻ったりしていればいいとそのくらいのスタンスではいると言うと、お前がそうして余裕のある心持ちになっているのだったらそれは良かったと父親は安心したようだった。比較材料として春から夏頃のこちらの「焦り」を彼は挙げてみせたのだが、当時のこちらは確かに自分の症状が一向に変化しないことに打ちひしがれていた。それは「焦り」というよりは、もう数か月の時間が経ったのに何の改善もない、自分はおそらくずっとこのままなのだろうなというちょっとした絶望感のようなものだったのだが、それでまともに自殺を考えていた頃に比べれば、まあ一応精神的に良くなったとは言えるのだろう。しかし、現在は現在でやはり、今の状態からこれ以上明確に良くなることも多分ないのだろうなという諦観を抱いてはいる。良くなるというのは、芸術的感受性や思考力や創造性のようなものが戻ってくるということだが、自分の状態はそうした点では多分これ以上向上することはないだろうと予測している。それは絶望というよりは、自分の体感を鑑みて下した冷静な判断である。勿論、一時期文を全然読めず、読書の能力は自分から永遠に失われたと思っていたところがまた一応はものを読めるようになったように、予測が外れることもあるかもしれないが、いずれにせよ、年始以来の自分の病理は心理的なもの、ストレスなどによるものというよりは、ほとんど純粋に器質的なものである。つまり原因はわからないものの、端的に言って脳がどうかなったということで、脳内の問題など、人間の力で直接的にどうにかなるようなことではないのだ。だから、人事を尽くして天命を待つというか、今の自分に出来ることをやって結果が出ればそれで良し、結果が出なければもう仕方がないと、そうした割り切りの心境に今はおおよそ至っている。欲望や情熱、感受性の類が戻ってくればそれは当然有り難いが、戻ってこなくともこのままで生きられないでもあるまい。それは言ってみれば退屈な、阻害/疎外された生かもしれないが、まあ最悪のものだというわけではないだろう。

 九月三〇日の記事には、さらに一年前の日記からの引用として、以下のような文章が載せられていた。当時はこれでよほど頑張っていたはずなのだが、今の目から見るとやはりまだまだ推敲の余地がある。

 道にまだ日なたの明るく敷かれている三時半、坂への入り際に、西空から降りかかる露わな陽射しに背中が暑い。上って行きながら温んだ空気に、シャツのボタンを一番上の首元まできっちり留めていることもあってか、息苦しいような感じがちょっとあった。街道に出るとまだ新鮮な、剝かれたような太陽が浮かび、光の空に満たされたその膜に呑まれてあるせいだろう、西の雲は実体を抜かれて純白の空とほとんど同化するほど稀薄になっていた。その下に、トタンのものだろうか小屋のような建物の屋根が、激しい輝きの凝縮に襲われている。
 この日は薬を飲まずに出た。もう四日間飲んでいないが、それで体調に乱れが生じるでもなく、気は怖じず心身はまとまって歩みも落着いている。パニック障害というものを患ってもう八年ほどになるから、考えてみればそこそこ長いものだ。一時は相当苦しめられたが投薬によって回復し、ここ二、三年は日常生活にもほとんど支障もないまでになっていたものの、何だかんだで止められずにいた服薬と、いよいよさらばの時が来たのか。
 長めの労働を済ますあいだも不安に触れられることもなく過ぎて、帰る夜道は風が時折り湧いて、なければ空気は揺らがず止まって随分静まる。そんななかを歩きながら虫の音も大して聞かず、昼間に聞いた毒々しいようなロックミュージックの叫びが頭のなかに繰り返し回帰し、途中で見上げれば夜空には雲間があって星が見え、その傍らを同じくらいの大きさの飛行機の光が通って行く。欠伸は湧いて来るものの、あまり夜のなかにいるという感じもしなかった。深い夜更かしの常態となった生活のせいもあろうが、そもそも自分がいまこの地点にいるということそのものに釈然としないような現実感の稀薄さがあった。前日にも風呂から出たあと髪を乾かしながら、鏡に映る自分の顔の、見馴れたはずのそれであることが不思議なような、腑に落ちないような感じがあって、これは離人感と呼ばれるもののごく薄い症状だろうと思う。ことによると、独我論にも通じてくるような気分のようだが、瞑想を習いとしているそのことがあるいは影響しているのだろうか。仏教における最終到達点であるはずのいわゆる「悟り」と呼ばれる境地など、知ったことでなく目指してもいないが、方法論としては現在の瞬間を絶えず観察し続けることとされており、それには一応従って続けてきた結果、観察する主体としての自己が強く優勢になりすぎたと、そんなことがあるものだろうか。主体的自己と対象的自己の分裂、などとちょっと思ってもみたが、ともかく大したものでなく、単に歳月を重ねて時空が摩耗したのだと、三十路に達せぬ若輩でそれもないものだが、つまりは曲がりなりにも歳を取ったのだと片付けてしまいたくもなる。そうは言いつつも、歩く自分の身体の動きもこちら自身から独立して勝手に動いているような分裂感があり、それを見ながら、狂いの始まりとはあるいはこういうものかもしれないと、また大袈裟なことが浮かんだ。不安障害の長かった余波からいよいよ完全に逃れるかと、昼にはそう思った同じ期に、縁起でもないことではある。しかし続けて、人が狂うという時に、一挙に果てまで発狂するよりも、気づかぬうちに忍び寄られて静かに、徐々に狂っていくものではないかと、そんな馬鹿なことを思いながら玄関の戸をくぐった。

 日記を読んで三時半に掛かると、前日の記事を書き進めたのだが、この時はもう推敲などという七面倒な仕事は抜きにして、自分の本分は文の質ではなくてやはり記録なのだと、一筆書きでがんがん記していこうと、そういうモードに手と頭が切り替わったようで、文体を整えることなど気に掛けずにどんどんと書き進めていった。それで一五分ほど書いたところで喉が渇いたので、一旦切りとして上階に行き、冷蔵庫で冷やされた水を飲んで身体を潤したあと、取り込んであった洗濯物を畳んだ。タオルを整理し、足拭きの類は洗面所やトイレに運んで設置しておき、下着を畳んでソファの背の上に置いておくと、下階に戻ってきて、この日の記事をここまで書き足して四時を越えている。
 四時半前から、歯磨きをしながら英文を読み出した。Richard J. Bernstein, "The Illuminations of Hannah Arendt"(https://www.nytimes.com/2018/06/20/opinion/why-read-hannah-arendt-now.html)である。三〇分も掛からず最初から最後まで読み終えたのが、自分ながら意外だった。少しずつでも英語の読解能力が上がってきているのだろうか。以下に覚えておきたい語句と、気になった箇所を引く。

・exhortation: 奨励
・intractable: 解決困難な
・comity: 礼譲
・dwell on: 深く考える、思案する
・farce: 茶番
・blatantly: あからさまに
・take one's bearings: 自分のいる方角(位置)を知る
・doomsayer: 悲観論者

In her 1951 work, “The Origins of Totalitarianism,” Arendt wrote of refugees: “The calamity of the rightless is not that they are deprived of life, liberty and the pursuit of happiness, or of equality before the law and freedom of opinion, but that they no longer belonged to any community whatsoever.” The loss of community has the consequence of expelling a people from humanity itself. Appeals to abstract human rights are meaningless unless there are effective institutions to guarantee these rights. The most fundamental right is the “right to have rights.”

Many liberals are perplexed that when their fact-checking clearly and definitively shows that a lie is a lie, people seem unconcerned and indifferent. But Arendt understood how propaganda really works. “What convinces masses are not facts, not even invented facts, but only the consistency of the system of which they are presumably a part.”

People who feel that they have been neglected and forgotten yearn for a narrative — even an invented fictional one — that will make sense of the anxiety they are experiencing, and promises some sort of redemption. An authoritarian leader has enormous advantages by exploiting anxieties and creating a fiction that people want to believe. A fictional story that promises to solve one’s problems is much more appealing than facts and “reasonable” arguments.

 記事を読むと四時五〇分、廊下に吊るされたワイシャツを取るために部屋の扉を開けると、上階に人の気配がある。母親が帰ってきたようだと見てワイシャツを着込みながら階段を上がり、挨拶をしておくとすぐに下に戻って、四時五五分からほんの少しだけとキーボードに触れ、六分間だけ前日の記事を書き足すと、財布や携帯や手帳の入ったバッグを持って部屋を出た。仏間に上がって生地の薄い黒靴下を足につけると、母親に行ってくると告げて玄関を抜けた。道に出ながら行く手の空に目を向ければ、西の端の雲のなかに、ほとんど見分けられないほどに幽かな紫の色が孕まれて、転じて頭上は雲が薄れて、青さがいくらか透けている。歩いて行くと近所の庭の垣根の裏や、林の縁の茂みのなかに、彼岸花が何本も顔を出して群れている。
 公営住宅の前まで来ると、Kさんが、何をしているのか自宅の敷地に停まったトラックのなかに乗っていたので、会釈を送って過ぎ、坂に入ると片手をポケットに突っ込んで足を鷹揚に運んだが、しかし上っているとやはり、ワイシャツの下の腕に汗が滲んで、その蒸し暑さに夏がまだ名残っているなと見た。坂を抜けて駅のホームに入ると、ベンチにはスーツ姿の高年と、良くも目を向けなかったが若そうな女性がいて、二人のあいだに腰を下ろせば、ベンチの端に荷物を置いて座らず立っていた高年の男性はじきに去って、淡い桃のような落着いた色合いのスカートにヒールを合わせた女性のみが残ったが、この人が何だか挙動不審で、たびたび立ち上がっては線路の先を見通したりして、こちらにも視線を送ってくるような気配があった。鴉が数匹、線路を挟んで向かいの道の電柱の上に集まって、ざらついた声を降らしているのを見上げていると、女性もこちらの視線を追って、鳥たちの方を見ていたらしい。電車を待っている様子でもなく、土地の者でもないような雰囲気で、こちらに視線を差し向けるのは、何か尋ねたいことがあるのだろうか。どうかしましたかと、声を掛けてみようかとよほど思ったが、持ち前の引っ込み思案を発揮して、目も合わせずに手帳に記された情報を追った。ホームには風が横に流れて涼しげで、服の内に醸された汗を引かせてくれる。
 女性はじきに立って階段の方へ行き、そのまま駅を出るのかと思いきや、階段口で止まって何やら迷うような素振りを見せていた。そのうちに老人が階段を下りてやって来ると女性は何か尋ねて、答えを受け取ると問題は解決したらしく、ようやく階段を上って駅を出ていった。こちらはその後、手帳を見続け、電車到着のアナウンスが入ると手帳を片手に持ったまま立ち、頁に目を落としながらホームの先へ出て、電車に乗ると扉際で引き続き紙の上に記された事柄を脳内で反芻し、青梅で降りると乗換えの客をやり過ごしてから駅を出て職場に行った。
 今日も一コマの楽な労働、相手は(……)くん(中三・英語)に(……)さん(中三・英語)、(……)さん(高三・英語)の三人である。なかでは(……)さんがやはり、進みがいくらか鈍くて手が止まりがちで、今日はテスト範囲の最初の方を復習したのだけれど一頁しか扱えなかった。もっと傍に就いて促しながら一緒に解いてやりたいのだが、勿論ほかの生徒にも当たらねばならないし、ノートにコメントを記す時間などもあってなかなかそうも行かない。(……)くんも、最近は宿題をやって来ないし、彼も復習をしたけれどどれだけ頭に入ったか覚束ないところだ。(……)さんは自主的に進めてくれるので問題はないが、解いてもらって間違えたところの解説をするだけの、少々漫然としたような授業になってしまったので、もう少し突っ込んだ工夫が出来ないものだろうかとは思う。
 退勤して駅に入ると、券売機に寄ってSUICAに五〇〇〇円をチャージした。改札を抜けて階段を下り、線路の下をくぐる道に入ると、誰か乗客の身体についてきたものだろうか、黄色い蝶が通路の真ん中を漂っていて、こんなところで蝶を見かけるのは珍しく、壁に展示されている映画看板を背景に、随分と明るいような黄だなと注視した。ホームに上がると今日も自販機で二八〇ミリリットルのコーラを買い、無人のベンチの端に就いて、炭酸飲料を飲みながら手帳を眺めた。飲み干すとボトルをボックスに捨て、席に戻ると手帳を取り上げ、今度は読むのではなくてこの日のことを記しはじめた。とにかく記憶が薄れないうちに、メモ書き程度のもので良いから書き留めておくことが、日記を正式に作成する時の自分を救うと、そう学んだのだ。それで手帳を斜めに傾けてペンを滑らせていると、こちらの背後、反対側のベンチの前に、モスグリーンの長いコートを羽織った若い女性が現れて、彼女はしゃがみこんで何やら待合室の方にカメラを向けていたようだ。観光客だろうか。
 メモを取っているあいだに奥多摩行きがやって来たので三人掛けの席に乗り込み、引き続きメモ書きをしていると定刻に達し、発車すると揺れで文字が乱れるから書くのはそこまでとして、ふたたび読む方に切り替えて到着を待った。最寄り駅のホームに降りると風が正面から、結構な厚さで流れて涼しい。駅舎を抜けて木の間の道に入ってからも、風は下り坂の暗がりの奥からふわりと上って来て、頭上の木々の内に安々と入りこんで葉鳴りを引き起こす。電灯の明かりのなかで揺らぐ葉に目を送り、まだまだ随分青々と、塗られたような色を籠めているなと見て過ぎて、平ら道に出れば方角が東西に変わるので風は止むかと思ったところが、緩くほどけた質感になったがまだ背後から寄せてくる。さらに進んで道の片側に家もなくて木々が沿ってくるあたりで身に触れるものはなくなったが、左方の林の高みの闇から、秋虫の音に紛れながらも、静かではあっても確かなざわめきが漏れてきて、やはり木のなかに、風は吹いているなと聞きながら家に着いた。
 なかに入ると居間に仕事着姿の父親がいて、ただいまと言えば俺も今帰ってきたところだと言う。母親は入浴中だった。ワイシャツを脱いで丸め、洗面所の籠のなかに入れておくと下階に下り、服を脱ぎながらコンピューターを点けて、寺尾聰『Re-Cool Reflections』の音源をYoutubeで流していくらか歌った。「寺尾聰 ライブ NHK FM 1981 年8月9日ON AIR」にもアクセスして冒頭の"I Call Your Name"を口ずさんだが、このThe Beatlesのカバーは原曲の軽妙さに比べて随分とレイドバックしていると言うか、寺尾のボーカルの気怠いような気味も相まってブルージーに格好良く、上質なカバーになっている。それからThe Beatlesの原曲の方も流し、横滑りして"Twist And Shout"に合わせて叫び散らし、さらに"I Saw Her Standing There"も歌ったあとにこの曲のカバーをちょっとYoutubeで探ると、アコースティックギター一本で弾き語っているものがあった(https://www.youtube.com/watch?v=Z4cmBHLsw1s)。このくらいの演奏と歌唱が出来れば自分は満足なのだが、練習している余裕もなく、そもそもアコギを持っていない。
 九時を越えたあたりで上階に行き、食事である。メニューは炒飯に、ワカメが大量に入った汁物、おかずは餃子とヒジキの煮物、それに生野菜と素麺のサラダである。それぞれ用意して卓に運ぶあいだ、テレビのニュースは今日から始まった消費増税を伝えており、それを見ながら父親が、カードを使えばポイントが還元されるとか、飯屋でも持ち帰りならば八パーセントのまま、店内で食べれば一〇パーセントになるとか母親に教えていたが、実にくだらない話だ。誰も彼も踊らされている。卓に就くとそそくさと飯を食って、抗鬱薬も服用すればさっさと皿を洗い、入浴に行った。寺尾聰の曲を口笛で吹きながら湯に浸かって、出てくると下着一枚で下階に帰り、また"I Call Your Name"のカバーを流して歌ったり、寺尾のライブ映像を眺めたりしたあと、何となく連想してMr. Childrenの"Heavenly Kiss"の、あれは確かMotion Blue Yokohamaで演じた時の映像だろうか、それをYoutubeで閲覧し、それから"NOT FOUND"のライブ映像なども見て、最後に"Prism"を流して歌うと時刻は一〇時半、ようやく日記に取り組んで、この日の記事をここまで進めればちょうど一時間が経っている。
 時刻は一一時半である。それからはインターネットを回って過ごし、零時半に至ったところでふたたび日記に手を付けて、前日の記事を書きはじめたが、すぐに面倒臭くなって二〇分も経たないうちに切り上げて、Sonny Clark『Cool Struttin'』を聞きながら書抜きに移行した。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』から三箇所抜いて一時を越えると読書である。花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』をひらき、最初はコンピューター前の椅子に腰を据えていたのだが、段々と尻の座りが悪くなってくるからベッドの方に移り、ここでも最初は縁に腰掛けていたのだけれど、じきにいつものようにヘッドボードに寄って身体を伸ばすようになって、そうするとやはり睡気に捕らえられたようだ。それでも二時半頃までは多分意識を保って読み続けていたのではないか。正気づくと、もはや未明と言うよりは早朝に近い時刻だったと思うが、入口近くのスイッチで電灯を落として眠りに就いた。


・作文
 12:10 - 14:00 = 1時間50分
 14:05 - 14:49 = 44分
 15:30 - 15:44 = 14分
 15:53 - 16:06 = 13分
 16:55 - 17:01 = 6分
 22:31 - 23:32 = 1時間1分
 24:31 - 24:48 = 17分
 計: 4時間25分

・読書
 14:59 - 15:30 = 31分
 16:24 - 16:50 = 26分
 24:49 - 25:07 = 18分
 25:12 - ? = ?
 計: 1時間15分 + ?

・睡眠
 4:40 - 11:15 = 6時間35分

・音楽

2019/9/30, Mon.

 囚人にとって、およそ不幸な[﹅3]過去というものは、ありえない。すべての囚人にとって、過去は絶対に幸福でなければならない。このことは、囚人の見る夢が、例外なく過去の夢であり、例外なく幸福な夢であることからもわかる。彼らにとって幸福とはなにか。たとえばそれは、朝起きて一人で[﹅3]排泄することであり、街路を自分の歩速であるくことであり、あるきながら任意に立ちどまることであり、行きあう一人一人に鷹揚な関心を示すことができる[﹅3]ということである。彼は思いついたように立ちどまることができ、そこから引返すことさえもできるのだ。私自身、しばしばそのことに思いおよんだとき、呼吸がとまるような驚きをおぼえた。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、108~109; 「沈黙と失語」)

     *

 望郷とはついに植物の感情であろう。地におろされたのち、みずからの自由において、一歩を移ることをゆるされぬもの。海をわたることのない想念。私が陸へ近づきえぬとき、陸が、私に近づかなければならないはずであった。それが、棄民されたものへの責任である。このとき以来、私にとって、外部とはすべて移動するものであり、私はただ私へ固定されるだけのものとなった。
 (124; 「望郷と海」)

     *

 四月三十日朝、私たちはカラガンダ郊外の第二刑務所に徒歩で送られた。刑務所は、私たちがいた捕虜収容所と十三分所のほぼ中間の位置にあった。ふた月まえ、私が目撃したとおなじ状態で、ひとりずつ衛兵所を通って構外へ出た。白く凍てついていたはずの草原[ステップ]は、かがやくばかりの緑に変っていた。五月をあすに待ちかねた乾いた風が、吹きつつかつ匂った。そのときまで私は、ただ比喩としてしか、風を知らなかった。だがこのとき、風は完璧に私を比喩とした。このとき風は実体であり、私はただ、風がなにごとかを語るための手段にすぎなかったのである。
 (127; 「望郷と海」)


 例によって一一時五〇分まで寝過ごす。カーテンをひらくと、空は雲の隊列に埋め尽くされているが、窓の端に陽もいくらか灯っている。起き上がって階を上がり、まず便所に行って腹を軽くした。それから洗面所に入り、顔を洗うとともに櫛付きのドライヤーで頭を梳かす。そうして台所に出て、冷蔵庫からうどんと、前夜の鶏肉にミートソースを絡めた料理を取り出して、鶏肉は電子レンジに入れた。そのあいだに麺つゆを用意し、冷凍庫で凍らされた葱と山葵を加える。そうして卓にものを運び、新聞の一面を見やりながら食事を始めた。関西電力の幹部連が、福井県高浜町の元助役から金品を受領していたとの報。明日から消費税が一〇パーセントに増税されるとの記事もある。それらを読みながらものを食べると、水をいっぱい注いできて抗鬱薬を飲み、台所に移って食器を洗った。その後、風呂も洗ってしまうと玄関の戸棚を開けて、柿の種を二袋持って下階に下り、コンピューターを点けた。起動を待ちながら柿の種をつまみ、Evernoteを立ち上げて前日の記録を付けると、しばらくインターネットに遊んだ。そうして一時一八分から日記に取り掛かって、まずここまで一〇分も掛からずに記している。
 それから二時二〇分まで、総計で一時間ほど文を綴ったあと、多分洗濯物を取り込みに行ったのではないだろうか。しかしそのあたりの記憶はもはや定かでない。次に日課の時間が記録されているのは四時半過ぎからの作文だが、それまでのあいだは確か、インターネット徘徊のあいだに『ウォルテニア戦記』という漫画に行き当たって、公式ホームページで二五話ほど無料で公開されていたものだからそれを読んだ。いわゆる異世界転生物であり、また主人公無双物と言うのだろうか、主役の能力が無闇に高すぎるという点もあるが、そうした物語上のご都合主義を措けばそこそこ楽しめる。それを長々読んで四時半を越えると、ふたたび作文に入り、五時を回るまで文を拵えて、そうして上階に行った。まず取り込んでおいた洗濯物を畳んだと思う。それから台所に入って米を三合磨ぎ、六時五〇分に炊けるようにセットして、夕食のためには簡単に、豚肉を炒めることにした。冷蔵庫を覗くとエノキダケがあるのでそれも炒め物に加えるとともに、いくらか分けて味噌汁も作ることにする。それで玉ねぎと茸を切り、豚肉もすき焼き用で長細くなっているものを切断し、フライパンで炒めはじめた。強火に掛けてフライパンを振り、搔き混ぜながら加熱して、一方では小鍋にエノキダケと豆腐を煮て、味噌もチューブに液状で入っていて溶かす必要のないものを簡便に押し出して加える。炒め物は塩胡椒を振っておき、醤油を各々食卓で掛けてもらうことにして、完成すると下階に戻った。それからまた七時前まで作文である。
 米の炊ける六時五〇分に達すると、いい加減腹も減ったのでもう飯を食おうということで部屋を出た。母親はまだ帰っていない。丼によそった米の上に炒め物を載せ、味噌汁を椀によそって卓へ、取っておいた夕刊を読みながら豚肉に醤油を垂らして米を貪ったが、どんな記事があったのかは覚えていない。オーストリアの国民議会の選挙で極右自由党が大敗したと知らされていたのはこの夕刊だっただろうか? 
 ものを食い終えて皿を洗っていると、母親が、バイクに乗って行ったから玄関ではなく下階の物置きから帰ってきて、階段を下りれば暑い暑いと嘆いて荷物を運んでくれと言うので、何かの袋を階上に持っていった。それで自室に戻ると、七時二〇分からふたたび作文の時間が記録されているが、二〇分ほどですぐに途切れて、そのあとはコンビニに行ったのだった。年金の支払い期限がこの日までだったのだ。肌着のシャツにハーフパンツの軽装のまま着替えず上階に上がり、母親にコンビニに行ってくる、年金の支払いが今日までだからと告げて、サンダル履きではさすがに頼りないから裸足に靴を履いたが、そのおかげで足の指が擦れてあとで少々痛くなった。
 坂に掛かって見上げると、雲は青味を含んだ夜空に黴のように蔓延っているが、その雲間に星が一つ、灯っている。坂を上りきって木の間の裏道を行けば、前方に、オレンジ色の暖色灯を点けたトラックが停まっていて、行商の八百屋と知れた。旦那が傍の宅の婦人と話を交わしているところに近づいていき、こんばんはと告げれば、最初はこちらとわからなかったようだがまもなく見分けて、今日は仕事じゃないのと訊くので、こんなところで会うとはと言って、今日は休みで、今コンビニまで行こうと思ってと受けた。遠いな、まだ半分あるぜと旦那が言うのに、遅くまでご苦労さまですと掛けると、とんでもない、俺はまだあと一時間くらいはあると返るので、そうなんですかと驚いて、頑張ってくださいと励ましを送って通り過ぎた。
 過ぎてしばらくしてから、どうも急いているようだなと気づいて、足を緩めた。人っ子一人おらず、車通りもほとんどなく、虫の音を孕んだ静寂のみが満ちる夜道に、夜気は涼しいものの汗はやはり湧いてくる。表に出ると車の通り過ぎていく横を歩き、コンビニに入るとまず年金の支払いを済ませた。それからオレンジ色の籠を持って飲み物のスタンドに寄り、コカ・コーラ・ゼロを一本籠に入れると次に棚のあいだに入って、ポテトチップスにポップコーンを取り、さらに冷凍保存の区画から、チョコーレトとバニラが半々に混ざったソフトクリームを拾い上げた。そのほか、たまには両親にケーキの類でも買っていってやるかというわけで、一つ三〇〇円するスイーツを三つ選び取った。チョコレートスフレにショートケーキにミルクレープである。そうしてふたたび、会計を済ませて退店し、アイスを包んだプラスチックの容器を取って食いながら歩き、家に帰った。
 帰宅するとケーキやコーラを冷蔵庫に入れ、それからすぐに風呂に入ったのだったか否か。記憶が覚束ないが、ここで風呂に入ったにせよそうでないにせよ、結局一一時を過ぎるまで、買ってきた菓子を食い、またコーラを飲みながら、だらだらと怠けたことは確かである。そしてようやくJason Stanley, "Germany’s Nazi Past Is Still Present"(https://www.nytimes.com/2018/09/10/opinion/germanys-nazi-past-is-still-present.html)を読み出した頃、同時にLINEでTとちょっとやりとりをしていた。Tの家で今日の夕食にエイヒレが出たという報告を彼女はしてきたのだったが、それは先般仲間で集まった際、中野の路地裏の「目利きの銀次」で、エイヒレは美味いと言ってこちらが勧めたその経緯を踏まえてのことだった。その他愛ない報告に返信をしていたところ、今ちょっとSkypeは出来るかと要請されたので了承し、英文のリーディングを中断してSkypeにログインした。通話はすぐに始まった。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 通話内容で覚えているのは大体そんなところだ。ボーカルについてのことなどは良いけれど、グループに関係するような事柄は書かないでほしいと、話している最中にTに言われたので、書きはするけれど公開はしないということで手を打った。ボーカル関連の事柄は書いても良いとは言われたが、当然二つの話題は繋がっているものでもあり、どれが公開可能でどれが公開してほしくないのか厳密に区別することが難しいため、この夜のTとの会話の内容はすべて検閲することにする。
 それで通話を終えると、時刻は一時半に近くなっていたと思う。Jason Stanley, "Germany’s Nazi Past Is Still Present"を最後まで読み終えた。

・drone: 怠け者
・sow: 種を蒔く
・reap: 収穫する
・inexplicably: どういうわけか、不可解なことに
・swallow hard: ごくりと唾を飲む、懸命に涙をこらえる
・expedient: 都合が良い

 その後、一時間ほど日記を書いて、二時半から読書である。記録によるとそこから二時間、四時半頃まで花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』を読んだらしいのだが、そのあいだの細かいことは覚えていない。


・作文
 13:18 - 14:21 = 1時間3分
 16:38 - 17:02 = 24分
 17:36 - 18:51 = 1時間15分
 19:22 - 19:48 = 26分
 25:34 - 26:30 = 56分
 計: 4時間4分

・読書
 23:22 - 23:31 = 9分
 25:21 - 25:30 = 9分
 26:35 - 28:32 = 1時間57分
 計: 2時間15分

・睡眠
 3:20 - 11:50 = 8時間30分

・音楽

2019/9/29, Sun.

 私は戦争が終った昭和二十年の冬から、昭和二十八年の冬まで抑留されて、その期間のほぼ半分を囚人として、シベリアの強制収容所で暮した訳ですけれども、実際に私に強制収容所体験が始まるのは帰国後のことです。と言うのは、強制収容所の凄まじい現実の中で、疲労し衰弱しきっている時には、およそその現実を〈体験〉として受け止める主体なぞ存在しようがないからです。したがって、私に内的な〈体験〉としてのシベリア体験が始まるのは、帰国後、自己の主体を取り戻してきたときからですけれども、〈体験〉そのものは、言わばその時まで準備されていたということが言えるだろうと思います。これは私たちの間では、普通、〈追体験〉と呼ばれている過程ですけれども、私はおよそ〈体験〉と言えるものは、この〈追体験〉しかないように考えます。〈体験〉のあるなしが問われるのは、言わばこの過程に於いてであると言えます。
 〈追体験〉に対して、〈原体験〉という言葉がありますけれども、これは様々な記憶の形での、言わば潜在的な、今、申し上げた準備された状態での〈体験〉の予感のようなものだと私は思います。簡単に言えば、情況または事件が起ると同時に[﹅3]〈体験〉は起らないということです。それは少なくとも〈体験〉に結びつく情況や事件はその規模の如何にかかわらず、深い衝撃を伴うはずであり、その衝撃によって、主体は一時、喪失するか、またはその均衡が破壊されるからであります。したがって、もし私たちに〈体験〉が始まらなければならないなら、この〈体験〉を受け止めるための主体の回復の確立ということが絶対に必要な訳ですけれど、この過程は長い困難な孤独な闘いによって行われる訳です。極く図式的に言いますと、最初に訪れる衝撃は、おそらく偶然なものであって、言わば運命のように人を訪れる。これに対する私たちの反応は、多かれ少なかれ肉体的、防衛的なものであって、起ったことの意味を理解し得ないままで、記憶となって私たちの内部にその痕跡を残す訳です。しかし、〈体験〉の現場を遠ざかった時点で、〈追体験〉として私たちが起す行為は、それはもはや意志的な必然性を持った行為となる訳です。したがって、〈体験〉の現場で最初に起った衝撃は、偶然なものであっても、これを主体的に受け止めて、追って行く、追跡して行く過程は必然的な過程とならざるを得ないということが私の、これは考え方と言うよりは感じです。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、85~87; 「〈体験〉そのものの体験」)

     *

 (……)私にとって、〈詩〉とは、混乱を混乱のままで受け止めることのできる唯一の表現形式であったと言って良いと思います。(……)
 (89; 「〈体験〉そのものの体験」)

     *

 シベリヤの密林[タイガ]は、つんぼのような静寂のかたまりである。それは同時に、耳を聾するばかりの轟音であるともいえる。その静寂の極限で強制されるもの、その静寂によって容赦なく私たちへ規制されるものは、おなじく極限の服従、無言のままの服従である。服従をしいられたものは、あすもまた服従をのぞむ。それが私たちの〈平和〉である。私たちはやがて、どんなかたちでも私たちの服従が破られることをのぞまなくなる。そのとき私たちのあいだには、見た目にはあきらかに不幸なかたちで、ある種の均衡が回復するのである。
 (106; 「沈黙と失語」)


 一〇時一五分に床を離れた。尿意が最高潮に達して今にも溢れんばかりだったので、起きるとすぐに便所に行って、真っ黄色の尿を実に長々と放って下腹を軽くしてから階を上がった。母親はどこに行っているのか、大方買い物の類だろうが不在で、父親の方は自治会の旅行で、日帰りで新潟まで赴いている。冷蔵庫を覗いて、前日に立川で買ったパンのなかからメロンパンとカレーパンとを取り出して、カレーパンは電子レンジで温め、メロンパンの方は冷たいままに卓に持っていき、椅子に就くと新聞をめくりながら二つのパンで食事を取った。食後に抗鬱薬も服用すると、食器は使っていないから今日は皿を洗う用はなく、風呂場に行って浴槽を洗って自室に帰った。二七日と二八日の分と、大層長くなるに相違ない日記がほとんど手を付けられないままに溜まっているのだが、取り掛かるほどの意気が湧かず、コンピューターの前で背を丸めながら長々と、無為な時間を過ごし続けた。
 ここまで怠けたのも久しぶりのことで、数時間ものあいだ椅子に乗りながら怠惰に耽って固まった身体を宥めようと、二時四五分からベッドに移動した。花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』を読みたいところが、例によって例の如く、いくらも文字を追わないうちに睡気が差してきて、瞼と身体が重くなり、とろとろと微睡みに引き込まれているうちに、四時を越えた。意識の晴れを幾分取り戻すとちょっと読み進めて、四時半を迎えて家事を済ますために上階に上がった。まずはアイロン掛けを行う。前日、立川に着ていったフレンチ・リネンの濃青のシャツと、母親の洋服二着にアイロンを当てたあと、サンダル履きで玄関を抜け、家の南側に下りていく。すると母親が先んじてホースを取って植木に水をくれているので、その傍で腕組みしながら待ったあと、ホースを受け渡されて畑に続く階段の途中まで下りていき、遠くまでまっすぐ長く水が飛ぶ直射モードで、あれは何なのかほうれん草か何かなのか、畑に植わっている菜っ葉に水を与えた。見上げれば空には雲が淡く溶けて青味が和らげられており、日もよほど短くなったようで、五時前でも陽は低く、既に山の向こうに降りてしまったか、西の雲に留められているのか宙に光線の色もない。水やりを終えてなかに帰ると、台所で手を流し、牛乳パックの上に鶏肉の笹身を載せて切り分けはじめた。さらに葱とエリンギも薄く切る傍ら、小鍋ではポテトサラダを作る用にジャガイモが茹でられ、隣の母親は加えて大根などの煮物を拵えようと、狭苦しい調理台の端で野菜を切る。こちらはフライパンを手に取ってオリーブオイルを少量垂らし、焦がしニンニクとローズマリーか何かハーブの類を油に混ぜて炙ったあと、葱にエリンギ、鶏肉をしばらく炒め、火が通れば塩胡椒を振って酒を垂らし、味付けには即席のミートソースを混ぜて沸騰させて仕上げた。その次に、ポテトサラダをボウルのなかで搔き混ぜる。マヨネーズや辛子を混ぜながら木べらで芋を潰して柔らかくして、弁当箱に移して冷蔵庫に入れておくと支度は終い、下階に戻って日記を書くはずが、コンピューターの前に就くとまたもや怠惰の虫が始まって、無益な時間を長く過ごして、腹は減ったが食事に行く気も起こらずに八時を越えた頃、なまった身体をまた休めたくて寝床に移って『アウシュヴィッツの沈黙』をひらく。九時直前まで読んでから、食事に向かった。父親も既に帰宅済み、炬燵テーブルに就いて膳を前にしながらテレビを見ていた。こちらは台所でフライパンを温めているあいだに、チーズを載せられた丸パンの、母親が食ったあとらしい半分を立ったまま平らげ、クロワッサンは電子レンジで軽く炙って、フライパンの鶏肉は丼の米の上に掛けた。ほかの品目はポテトサラダに大根や薩摩揚の煮物、料理を運んで卓に就くと、テレビは当初ニュースを報じていたが、すぐに九時に掛かって韓国ドラマが始まって、父親は好きだがこちらに興味はないので、新聞に向けて視線を落とし気味にものを食う。食後に大きな玉の葡萄を数粒食べると、抗鬱剤を服用してから食器を洗い、風呂に行った。入浴前に洗面所の鏡の前で、電動の髭剃りで口の周りや顎先をあたり、それから湯を浴びて出てくると下着一枚の軽装で自室に帰って、そろそろいい加減に書くものを書かねばならないが、その前に三〇分だけ英文を読むことにして、Jason Stanley, "Germany’s Nazi Past Is Still Present"(https://www.nytimes.com/2018/09/10/opinion/germanys-nazi-past-is-still-present.html)をひらいた。

・reckon with: 清算する
face down: 勇敢に立ち向かう
・atone: 償う、罪滅ぼしをする
・cantor: (聖歌隊の)指揮者; (ユダヤ教で礼拝の)主唱者
・unconscious: 気を失った、気絶した
・Budenstag: (ドイツ連邦共和国の)連邦議会
・deputy: 代議士
・asunder: 離れ離れに
・amputate: 切断する
・stump: 義足
・leave with: 率直に語る
・dwarf: 小さくする
・ire: 憤怒、深い憤り

 そうして一〇時二〇分に達しようかというところでようやく日記に取り掛かり、まずはこの日の記事をここまで綴れば一一時も目前となっている。
 その後、二七日の記事を、相変わらず筆の運びが鈍くていくらも進まないものの綴って、零時前で切りとして、続けて日付が替わってから栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』をひらいた。読書ノートを参照して書抜き候補の箇所を確認し、文言を吟味して、繰り返し振り返って頭に入れたいような内容があれば、手帳に写す。作業の傍ら、Isao Suzuki Quartet『Blue City』をヘッドフォンで聞いていた。一時手前までメモ書きを続けたあと、今度は同じ本の書抜きである。二〇分ほど文章をコンピューターに写すと、歯ブラシを取ってきて口のなかを掃除しながら、花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』を読みはじめた。最初はコンピューター前の椅子に就いていたが、段々と腰や尻が固くこごって、身体が疲れてくるものだから、口を濯いでからはベッドに移り、しかしまた眠ってしまうからといつものようにヘッドボードには寄らず縁に腰掛けて、背後に置いたクッションに向けて半身になり、腕を乗せて凭れ掛かりながら読み進め、三時を越えるといい加減に睡気も満ちてきたので本を置き、この一日を終わらせた。


・作文
 22:19 - 23:53 = 1時間34分

・読書
 14:46 - 16:25 = (1時間引いて)39分
 20:15 - 20:55 = 40分
 21:45 - 22:17 = 32分
 24:06 - 24:50 = 44分
 24:50 - 25:12 = 22分
 25:18 - 27:14 = 1時間56分
 計: 4時間53分

・睡眠
 ? - 10:15 = ?

・音楽

  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Sonny Rollins『Saxophone Colossus』
  • Isao Suzuki Quartet『Blue City』

2019/9/28, Sat.

 ただ私たちには、うしなうということは奪われることだという、被害的発想がげんとしてあります。失語というばあいでも、それはおなじです。しかし、ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。見はなされる主体としての責任は、さいごまで私たちの側に残ります。これが、失語という体験を一般的状況のなかへ風化させないで、だれがことばを失ったかという問いを、さいごまで自分自身へ保留するための、いわば倫理であると私は考えます。
 いま私は、ことばは自分自身を確認するためのただ一つの手段であるといいましたが、それは、ことばがその機能を最終的に問われる、もっとも不幸な場においてのことです。もし、もっともよろこばしい場でそれが問われるのであれば、それは、一人の人間が一人の人間に語りかけるためのことばでなければならないと、私は考えます。
 私たちには、ことばはつねに、多数のなかで語られるものだという気持がありますから、ことばをうしなうことは、人間が集団から脱落することだと考えるわけですけれども、ことばはじつは、一人が一人に語りかけるものだと私は考えます。ことばがうしなわれるということはとりもなおさず、一人が一人へ呼びかける手段をうしなうことだと考えます。
 いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散して行くだろうと思います。腐蝕するという過程をさえ、それはまちきれない。たとえば怨念というすさまじいことばさえ、あすは風俗として拡散される運命にあります。ことばが徐々にでも、腐蝕して行くなら、まだしも救いがある。そこには、変質して行くにもせよ、なお持続する過程があるからです。持続するものには、なおおのれの意志を託することができると、私は考えます。私自身、そのようにして、戦争を生きのびて来たと思えるからです。
 私事になりますが、私がなぜ詩という表現形式をえらんだかというと、それは、詩には最小限度ひとすじの呼びかけがあるからです。ひとすじの呼びかけに、自分自身のすべての望みを託せると思ったからです。ひとすじの呼びかけと私がいうのは、一人の人間が、一人の人間へかける、細い橋のようなものを、心から信じていたためでもあります。
 いずれにしても、ことばのこのような機能をうしなうということは、とりもなおさず私自身を確認する手段をうしなうことであり、また一人の相手を確認する手段をうしなうことであります。それはこの世界で、ほとんど自分自身の位置をうしなうにひとしい。位置をうしなって無限にただよって行くことにひとしいことです。これが、失語という状態のさいごの様相であると私は考えます。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、70~72; 「失語と沈黙のあいだ」)


 八時の目覚ましで床を離れることに成功した。上階に行くと、仕事着姿の父親がいたのでおはようと挨拶をして、洗面所に入って顔を洗うとともに髪を梳かす。食事は米がないから素麺だと言う。冷蔵庫からガラスの器に入った麺を取り出し、麺つゆを椀に作って、山葵と葱を添えて卓に運んだ。テレビはNHK連続テレビ小説なつぞら』を映しており、どうも最終回らしかったが、特段の関心はない。いくらか固まった素麺をつゆに浸けて啜り、平らげてしまうとゆで卵も一つ食って、抗鬱剤を飲んだあとから皿を洗った。そうして下階へ戻り、『SIRUP EP』を流して九時前から早速、日記に取り掛かった。二五日の記事の確認である。時間を掛けたところでいくらも変わるわけでないのに、文を頭から読み返して直すところは直していき、終えると二六日の分も同じように推敲するとちょうど一時間が経った。二日分の記事をインターネットに投稿し、それから前日の日記を書かねばならないところだが、億劫さが勝ってひとまず本を読むかと布団もマットもベランダに取り払われたベッドに乗った。古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を、最初は縁に座ってひらいていたが、すぐに枕もなしに横になってしまい、そうすると知れたことで、朝いくらも寝てもいないから、睡気が差してくる。気づけば微睡みに入って、虚しく本を持ったまま正午前まで横になっていた。その頃、母親がやって来てベランダの布団を入れはじめたので寝床から退き、洗ったシーツも持ってきてくれたので敷くのを手伝って、母親が昼食に去っていくとそのあとからコンピューターに寄ってこの日の日記を書きはじめた。ここまで打って、一二時半が近づいている。
 現在、一〇月二日に至っており、この土曜日の一日から四日もの時間が経ってしまっており、四日も前の記憶を想起して細かく綴るのが面倒臭くて仕方がないので、この日は例外的に簡略化して記録する。俺の負けだ。やはり如何に記憶が薄れないうちに、と言うことはなるべくその日のうちに、あるいは遅くとも翌日にはということだが、綴れるかどうかが日記における勝敗に掛かっている。この日は立川RISURUホールという場所、これは立川市民会館のことであり、昔にはアミュー立川と呼ばれていた施設だが、そこで渡辺香津美村治佳織のギター・デュオ・コンサートを観覧した。曲目は、前半冒頭がこちらの知らない導入曲のような短いもの、次にルネサンス期の歌曲、三つ目にバッハのリュート組曲村治佳織がアレンジしたもの、四曲目は、渡辺の細君である谷川公子が作った、"Shadow And Light"という曲、五曲目は村治佳織作曲のアフリカはタンザニアにちなんだ曲、次にBireli Lagreneの"Made In France"だが、Bireli Lagreneなどという名前は実に久しぶりに耳にしたものだ。超絶技巧のギタリストで、昔聞いた時には、あまりに上手すぎ、技術が高度すぎてそれがかえって嫌らしいように感じたものだ。
 その後、渡辺のソロに入り、The Beatlesの"Come Together"が演じられた。これが全体を通してこちらとしては最も良かったように思う。前半の最後は渡辺のオリジナルで、"Jammin' Iberico"と言っていたと思う。
 休憩を挟んで後半は村治のソロから始まって、ジブリ映画『ハウルの動く城』のテーマ曲だった"人生のメリーゴーラウンド"がまず演じられ、次に"Moon River"、そして"アルハンブラの思い出"である。デュオに戻ったあとは"When You Wish Upon A Star"、"Stella By Starlight"、"Waltz For Debby"とジャズスタンダードが続き、それが終わると"Tico Tico"という、アストラ・ピアソラがやっていそうなタンゴ風の曲が演じられ、最後に"Nekovitan-X"という渡辺のオリジナル。アンコールは"Moon River"をもう一度、今度はデュオでやり、最後に"川の流れのように"が演じられて終了。
 観覧中、印象を受けたことは色々とあったのだが、それらを細かく綴るのが面倒臭いので泣く泣く省略。コンサートを観たあとは立川のA家に帰って夕食を頂く。その席で話したことももう大して覚えていないので割愛するが、ただ、母親と一緒になって父親の悪口を言ったり、隣にいる母親を前にして彼女の悪口を言ったりして、これは帰りに夜道を歩きながらちょっと反省した。他人の前で自分の親のことを悪く言うものではない。しかし他人の前でと言ったって、他人の前でしか言う機会はないに決まっていて、それ以外にはこの日記に書くくらいしか出来ないわけだが。ともかく、もう少し殊勝に生きようと思ったものだ。
  "Ai Weiwei: Can Hong Kong’s Resistance Win?"(https://www.nytimes.com/2019/07/12/opinion/hong-kong-china-protests.html#)を読んだ際に調べた英単語を以下に付してこの日の記事は終える。これでやっと負債を完済することが出来た。推敲などという難事にかかずらうことはもうしないぞ。毎日書く文章に推敲などしていたら切りがなくて書けなくなる。

・recourse: 頼み
・populace: 民衆、一般大衆
・concur: 同意する、同一歩調を取る
・notify: 通知する、知らせる
・shoddily: 粗悪に
subversion: 転覆
・encroach: 侵入する
・muzzle: 口を封じる


・作文
 8:51 - 9:51 = 1時間
 12:08 - 12:25 = 17分
 13:08 - 13:32 = 24分
 計: 1時間41分

・読書
 13:33 - 13:59 = 26分
 14:30 - 14:54 = 24分
 23:21 - 24:08 = 47分
 25:46 - 26:38 = 52分
 26:39 - ? = ?
 計: 2時間29分

・睡眠
 3:15 - 8:00 = 4時間45分
 10:30 - 11:50 = 1時間20分
 計: 6時間5分

・音楽

2019/9/27, Fri.

 (……)強制収容所という場所は、外側からは一つの定義しかないが、内側からは無数の定義が可能であり、おそらく囚人の数だけ定義があるといっていい。私なりに定義づければ、そこは人間が永遠に欠落させられる、というよりは、人間が欠落そのものとなって存在を強制される[﹅8]場所である。(……)
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、63; 「無感動の現場から」)

     *

 自覚された状態としての失語は、新しい日常のなかで、ながい時間をかけてことばを回復して行く過程で、はじめて体験としての失語というかたちではじまります。失語そのもののなかに、失語の体験がなく、ことばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験があるということは、非常に重要なことだと思います。「ああ、自分はあのとき、ほんとうにことばをうしなったのだ」という認識は、ことばが取りもどされなければ、ついに起らないからです。
 (67; 「失語と沈黙のあいだ」)

     *

 では、ことばというものは、一人きりになった人間にとって、どういう意味をもっているのでしょうか。通常ことばは、人間と人間を結びつけるための手段と考えられています。しかし、私がそのとき置かれていた条件のなかで、ことばの機能をもう一度うたがいながら追いつめて行くと、ことばは結局は、ただ一人の存在である自分自身を確認するただ一つの手段である、という認識に到達せざるをえません。ことばは結局は、自分自身を納得するために、自分自身へつきつける疑問符とならざるをえません。
 (69; 「失語と沈黙のあいだ」)


 八時のアラームで一旦起き上がったが、コンピューターに寄ってTwitterを覗いたあと、寝床にふたたび舞い戻った。カーテンの隙間から覗く空に雲はなく、一面青を注ぎ込まれたそのなかで、太陽が意気揚々と光を広げていた。少し休んでからまたすぐ起き上がろうと考えていたが、結局正午まで止めどなく、寝床に留まる仕儀となった。ようやく床を離れて上階へ行くと、卓に就いた母親に挨拶をしてから便所に行って、黄色い尿を長々と放ち、次に洗面所に移動して、顔を洗うとともに髪を整える。台所の小鍋には即席の蕎麦がくたくたに柔らかく煮込まれていた。そのほかおにぎりや、前日の炒め物の残りや野菜を卓に運んで食事を始めると、テレビは御嶽山の噴火から五年を伝えて追悼式の模様などを映してみせる。母親はまもなく仕事に出るところで、こちらは今日は暮れ方からT田と、吉祥寺SOMETIMEに行くことになっている。日本ジャズベース界の重鎮、御年八六歳に達した鈴木勲のグループ、OMA SOUNDのライブである。出掛ける前に、ベランダの洗濯物を入れて行ってくれと母親は言うので了承した。
 食事を終えて抗鬱剤を飲んだ頃、母親は出掛けて行った。残されたこちらは食器を洗い、台布巾で卓を拭き、それから風呂場に入る。空に雲は乏しくて、湿気もさほど空気に籠らず、陽射しの明るさのわりに爽やかな日和と感じられたが、身を屈めて浴槽を擦っているとやはり、襟足のあたりに汗が滲み出す。出てくると冷たい水を一杯飲んでから下階に帰り、Evernoteを起動させ、『SIRUP EP』を背景に日記を書きはじめた。
 それからぶっ続けに二時間半、言葉を画面上に落として、三時を越える頃には一応、二五日も二六日も仕上がった。仕上がったと言ってしかし、仮に最後まで辿り着いたというほどの話で、これからまた文を整えなくてはならない。推敲など、身の丈に合わぬ難儀な仕事と思ってはいるのだが、どうも気楽に流すような書き方が出来なくなったようだ。いずれにせよ、文を直すのは帰ったあとか翌日の自分の仕事で、昼間の作業はここまで、上階に行って洗濯物を取り込み、タオルや肌着や寝間着を畳んだ。居室に戻るとSonny Rollins『Saxophone Colossus』を流して、ベッドに乗って身体をほぐしながら耳を寄せたが、これはどうにも、傑作ではないかと思った。随分と今更のことだ。『Saxophone Colossus』と言えばジャズ入門として定番中のまた定番、Rollinsの代表作として、また世紀の名盤として評価もとうに確立されていようが、この明朗な豪放さは、自分の思っていた以上のものだった、と遅れ馳せに耳を張った。
 それから歯磨きをしつつ英文を読む。 George Yancy and Judith Butler, "Judith Butler: When Killing Women Isn’t a Crime"(https://www.nytimes.com/2019/07/10/opinion/judith-butler-gender.html)を一五分で読み終わると、口を濯いできて街着に着替える。GLOBAL WORKの色とりどりの格子縞のシャツに、下はオレンジ、あるいは明るい煉瓦色のズボンである。それからさらに、ノーム・チョムスキーのインタビューなり対談なりを読もうかと思ってChomsky.Infoにアクセスしたが、記事の数が多すぎて目移りしてしまい、選べないので結局捨て置いて、代わりに"Ai Weiwei: Can Hong Kong’s Resistance Win?"(https://www.nytimes.com/2019/07/12/opinion/hong-kong-china-protests.html#)をひらいた。こちらも一五分きっかり読んで、あるいはこのあと着替えたのだったかもしれないが、どちらでも良いことだ。

・interdiction: 禁止
・stairwell: 階段の吹き抜け
・wilt: 萎れる
・slander: 名誉毀損、中傷
・droop: 垂れ下がる
・observe: 祝う
・oil: 円滑に運営する
・cog: 歯車の歯
・incompatible: 両立しない
・piggyback on: 便乗する
・iniquity: 不公正

 それから出発までの僅かなあいだで一年前の日記を読もうとEvernoteを遡ったが、ひらいてみるとこれが僅か三行ほどの簡素なもので、読むというほどの量でもない。鬱症状に陥っていた昨年中は、夏場のピークを越えたあと、秋に掛かって一時日記を再開し、いくらか書き継いだのだけれど、まだ病気はこの身を離れていなかったようで、じきに文を書く意味もわからなくなり、気力も失せて止めてしまい、今に続く二度目の再開のためには結局年末を待つことになる。この頃どうやら、いよいよ力が尽きてふたたび沈黙の期間に入ったようだ。一年前の日記をさっと流したあと、続けてfuzkueの日記も一日分を手短に読んで、ここのところ推敲などという仕事にこだわっているこちらだが、さほど文の密度を強く固めようとしなくとも、緩い文でも、記憶に引っ掛かっている事柄を一つずつ着実に記せばそれなりのものになるのではと思った。
 cero "Summer Soul"を歌ってから部屋を抜け、上がって仏間でカバー・ソックスを履き、Brooks Brothersのハンカチを取って居間を出ながら腕時計を見れば、ちょうど四時半だった。正午に起きた頃には晴れて大気に光が通っていたはずが、いつか雲が湧いて空を覆って、青さもさほど見えなくなっている。道の左右に彼岸花が顔を出しているそのあいだを通り、公営住宅の前まで来ると、犬を散歩に連れた婦人と杖を突いた老人が二人で、立ったまま道端で話し込んでいる。犬は二匹、大きめの体躯で、婦人の足もとに大人しく伏せっていた。
 空気は涼やか、しかし空腹が極まっており、身体は軽く頼りなく、重心が平常とちょっとずれたような感覚があり、"Summer Soul"のメロディを頭に流して坂を上りながら、息が切れるようだった。駅前に出れば頭上に低く掛かる桜の木の葉が、枝先で薄い黄に色づいている。階段通路を抜けないうちに電車が入線してきたので、急ぎホームに下りて、まもなく発車するだろうと先頭車両に至らないうちに途中で乗り込んだが、電車は少々遅れていた。扉際で携帯を出してメモを取るあいだ、涼しい大気と思っていたが歩けばやはり身体が芯から熱を持つようで、汗の玉が背中に垂れて肌をくすぐる。
 青梅に着くと降りたその瞬間から向かいの発車ベルが鳴っており、先の方まで歩く猶予もないのですぐ目の前の車両に乗り込んで、左右に身体を揺らされながらよたよたとした足取りで先頭車両へ向かった。こちらの前にはポロシャツに短パン姿の男が、同じく先頭へ向かって車両を移りながら、何か両腕に抱いている。初めは赤ん坊かとも見えたが、動く気配がなく、どうもキューピーのような人形ではなかったか。男はいくらか挙動が不審で、席に就いた女子高生の一団の前で時々立ち止まり、歳のわりに化粧の派手な少女らに抱いたものを見せるような素振りを取っていた。女子高生らは男が去ったあとから笑い転げていたものの、どうやら気色悪がっていたようだ。こちらが先頭車両に着くと、男はそのなかのさらに一番前の、車掌室に接した端に立っており、荷物を隅に置いたまま、車掌の仕事を代行するかのように、駅に着くたび駅名を宣していたが、小作に着いた頃、通路を戻ってこちらの前を通り過ぎ、後方の車両に移っていった。
 席に就いたこちらは携帯電話で道中のことをメモ書きしたあと、古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を読み出した。雲は空一面に薄く膜のように広がって、雲間というものもなく、あるのは青と白の混ざった濃淡の偏差のみで、車両のなかでは既に電灯も点いて、乗客の顔がのっぺりと均されて影も差さない。緩く腰掛け脚を組んだ上に本を載せ、両手で支えながら目で文字を追う。立川に着く前、視線を振れば、正面の空は青いが端の窓には赤味が覗き、電車が駅に近づくにつれて線路の角度が変じるようで、落日の色が隣の車両の窓へ流れていくのを見ていると、やがて遠ざけられて視界から消えた。
 国分寺を発った頃、ガラスの先の街並みはよほど黄昏れて、青緑色に浸っている。三鷹を過ぎたあたりで首を曲げて背後の窓を見やるとしかし、西の雲に残光が触れて、茜の色を差し込んでいる。吉祥寺に着くと本を片手に持ったまま降り、ベンチに寄って腰を下ろして、一行開けの挟まって切りの良い箇所まで読んだのち、手帳に時間を記録した。空はくすんだ縹色に暮れて、駅前の通りを縁取るビルのあいだに宿った信号やネオンの光が際立ちはじめ、蟻の隊列のようにぞろぞろと並んで横断歩道を渡る人々が眼下に見える。
 改札を抜けると、ここにいれば目に留まるだろうと手近の柱に寄って、携帯電話でメモを取りながらT田が来るのを待った。こちらの寄った柱の側面には、顔も服装も良くも見なかったけれど、大学生ほどかと思われる若い女性が二人、やはり待ち合わせをしている様子で佇んでいたところに、じきにこちらも若い男性が一人やってきて、よろしくとか何とか頭を下げて挨拶をしているのでどんな関係かと見れば、どうも女性のうちの一方が、自分の恋人を友人に紹介した形ではないか。男が頻りに可愛い可愛いと、軽薄ぶって口にして、女の方もそんなこと思ってないでしょと当たりながらまんざらでもないようにしているのは、自分の彼女をからかっていたらしい。男女はじきに、残った一人の女性と別れて去っていった。それからまもなく気配を覚えて右方に目を上げれば、T田がこちらに向けて携帯を構えながら近づいてくるところで、写真を撮ったらしく見せてもらうと、こちらの背後の壁に、あれは何の表示だったのか、「犯人」という言葉が見えて、まるでこちらが何かの犯人であるかのように写っているのだったが、髭も剃らず伸ばしっぱなしで口周りはいくらか汚れており、伏せた目つきも陰気そうで人相が大して良くもないので、それらしき雰囲気に見えなくもない。
 駅を出て通りを渡りながら、実は一昨日も同じ店に来たのだと口火を切り、大西順子の名前を出し、しかし予約をしていなかったところが満席で入れず、仕方ないので空いた時間で三鷹荻窪と古本屋を巡ればまた一〇冊も本が自己増殖したと話した。サンロードの賑わいのなかをまっすぐ進み、紳士服店の角で曲がってSOMETIMEの階段を地下へ下ると、リハーサル中で客は誰一人おらず、女性店員も電話中だったのでちょっと待って終わってからもう入れますかと訊けば、店は六時半からだと言う。二〇分ほど間があった。それで了承して引き返し、地上に出て開店までどうするかと訊けば、「らしんばん」に行くとT田は言う。「らしんばん」というのはアニメグッズを扱った店で、そこで同人誌を見分したいと言う。正確な場所がわからなかったが、以前吉祥寺でスタジオに入った際に近くにあったと朧気な記憶を頼りにこちらではないかと路地を辿っていると、ビルの二階の窓一面に設えられた店の表示が現れて、ここだと行き当たった。それでビルに入り、階段を上って入店、こちらはこうした店には来たことがないので物珍しい。T田は同人誌の区画に立って、小さな区画だが、と言っても同人誌は「薄い本」と呼ばれるように一冊が薄いから、二、三歩で前を通れるほどの小さな棚でも無数に並んでいるのを引き出し引き出し、確認を始めた。以前(……)くんと話をしていた『GUNSLINGER GIRL』の作品を探しているのだなと思ってそう訊いてみると、その通りだった。しかしもうだいぶ昔の作品なので、予想通り、その二次創作品はない。こちらも適当に棚から本を引き出して表紙を眺めてみたりもしたが、じきに場を離れ、中古のアニメDVDを売っている棚を隅から隅まで見分して時間を潰していた。大友克洋の『AKIRA』などあればちょっと欲しいような気もしたのだが、見当たらなかった。端までタイトルを見終えるとT田のもとに戻ったが、彼は新着やサービス品の区画を調べはじめていたので、こちらは店の奥の壁際の、漫画のコーナーに足を運んで、何か興味深い作品はないかと見回ったものの、日記に書けるほどに印象に残るものはなかったようだ。じきにT田がやって来て、時刻も六時半に達しようとしていたので退店し、サンロードに戻ってSOMETIMEにふたたび下りて、一番乗りで入店した。予約をしておりますFと申しますと名乗って、希望を伝えていた通り、ピアノやウッドベースの置かれた演奏場に面したカウンターに通された。とにかく腹が減っていた。飲み物は、こちらは勿論ジンジャーエールを頼むつもりで、食事をどうするかとメニューを見れば、鶏挽き肉と野菜のカレーというのがあったので、これにしようかと口にすればT田もそれを食うと言う。そのほかシーザーサラダも頼んで分けることにして、寄ってきた若い女性の店員に注文を伝えた。T田は酒もジュースも飲まず、飲み物はお冷で済ませるつもりだった。カレーは辛味は全然なくて、その代わりに滋味深くてなかなか美味いものだったが、それを食ってもまだ腹に余裕があったので、続けて何か食うかとT田に持ちかけ、茸のピザとソーセージのオーブン焼きを追加で頼んだ。
 演奏が始まるまでに一時間ほどあったはずだが、そのあいだに何を話したのか、良くも覚えていない。何が発端だったのか、最近こちらの関心の、ホロコーストに関する話がいくらかあったはずで、先日塾で、ユダヤ人大虐殺について説明し、アウシュヴィッツという収容所の名前を教えたら、それは覚えた方が良いですかと生徒に訊かれて嘆息したと、T田はこちらの日記を読んでいるからもう知っているのだが、改めて話した。今では悲劇的なまでに有名なアウシュヴィッツ強制収容所の名も、ワークの説明のなかでは太字になっていなかったし、それを言えばそもそも、ホロコーストという語句すら出てこなかった。六〇〇万のユダヤ人が殺されたと一般的に伝えられるホロコーストだが、ガス室に送られる自らの妻子の髪を切らねばならなかった床屋のエピソードにしてもそうだけれど、相手が人間ではないと、動物と変わりないと思わなければ出来ないことだなとT田は言う。それはそうだとこちらも受けて、「人間と猿の距離よりも、ユダヤ人とドイツ人の距離のほうが大きい」という言葉を紹介した。そもそも何故そこまでユダヤ人は憎まれたのかとT田は問うたが、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の根深さについてはこちらの仔細に理解出来ている事柄でない。それだけ裕福で、経済的に高い地位を得て、恨まれているユダヤ人が多かったのだろうかとT田は言うが、必ずしもそうとも限らないのではないか。ただ、一九一八年の大戦末期にドイツ帝国が革命で倒れ、ヴァイマル共和国へと移行した際に、共産主義者に加えてユダヤ人が裏で革命を煽動したと、そのように見做されてはいたらしく、ナチスからすればユダヤ人というのは共産主義者と並んで国益を損なう好ましくない対象で、二〇年代の経済の混乱のさなかにも彼らが一種のスケープゴートとして、不満の捌け口として利用されたということはあるのだろう。とは言えナチスも、一番初めからユダヤ人を完全に絶滅させようと目論んでいたわけでなく、当初は国外追放路線を取っていた。マダガスカル計画というものがある。四〇〇万のユダヤ人を、当時フランス領だったマダガスカル島に移送するという計画で、しかし戦時中にそのような大規模な事業を敢行することは不可能だから、終戦を待ってフランスとの講和でマダガスカル島を引き渡してもらってから実行するという見通しになっていた。ヒトラーは途中まで、かなりの程度、これに乗り気だったらしい。しかし戦争が長引くにつれて食糧事情の困窮などもあって、労働の役に立たないユダヤ人は抹殺するという要求が高まってきたのだと説明した。
 ホロコーストから逸れて、無論アウシュヴィッツほどではないだろうが、現在の日本でも入管施設で外国人がかなり劣悪な扱いを受けているらしいとちょっと触れると、そのあたりのことを詳しくとT田は求める。こちらだっていくつかインターネットの記事を読んだのみで全然詳しいわけでないが、東日本入国管理センターという施設が茨城県は牛久にあって、そこには滞在資格を持たない外国人などが収容されているところ、どうも職員から虐待じみた処遇を受けたりと、かなり手酷い環境になっているらしく、その改善を求めて五月には一人のイラン人がハンガーストライキを初め、七月には参加者が一〇〇人に達したと言い、ハンガーストライキで一〇〇人と言うと結構な規模ではないかと思うのだが、その後も身命を賭した訴えが続けられているようだ。なかに自殺した人も幾人かいると言う。また、ストライキによって仮釈放を勝ち取った者も数人あるようだが、仮釈放の期間はせいぜい二週間ほどで、それが尽きれば再収容されてしまうから何にもならないと、こちらが知っているのはそのくらいのことである。あまり待遇を良くして快適な環境を整えてしまっても、日本に不法に入国しようという人が増えてしまうだろうから、どこかで折り合いをつけなければならないのだろうとT田は言うが、こちらが思うところそれ以前に、人間存在に値するような、最低限尊厳のある待遇が確保されていないということが問題で、どこまで環境を整備するかということより前に、まずもって伝えられているような虐待的な扱い方は禁じられなければならないはずだ。いかにも左翼的な気味が出てこちらはあまり好きではないが、これは最低限の「人権」の問題なのだと言ってみても良いかもしれない。
 ほか、こちらが貸しているものだが、T田が持ってきていた梶井基次郎檸檬』を渡されめくり、「冬の日」は良いとか、「蒼穹」や「闇の絵巻」などもなかなか良い、という話をしたことくらいしか覚えていない。こちらの左方、一つ開けて向こうの席には、坊主頭の四〇代くらいの男性が就いていたのだが、彼は柄谷行人『帝国の構造』を読んでいたので、結構インテリだったのではないか。左隣にもそのうちにサラリーマンらしき中年の男性がやって来て、この人はどうもサックスの中山拓海の知人だったらしく、言葉を交わしていた。彼もまた、待ち時間にカバーを掛けた文庫本を読んでおり、めっきり目が悪くなって視線を送っても文字が良く見分けられなかったが、頁の上端に記された小さな章題のなかに「ポーランド」の語が見えたような気はするので、多分歴史の本だったのではないだろうか。
 七時半を少々過ぎてから開演した。現在のOMA SOUNDのメンバーは、ベースが言わずと知れた鈴木勲、アルトサックスが中山拓海、ギターが小山道之、ピアノが板垣光弘、ドラムが岡田佳太で、不勉強なことで御大の鈴木以外は全員、初めて耳にする名前だった。御年八六歳の鈴木は隅まで白く染まった髪を後ろで結わえて、脚には片方が赤、片方が緑とそれぞれ派手な色合いのタイツを履いており、随分とファンキーな爺さんである。一番年少だろう中山拓海は、縦横に蔦の這ったような模様のなかにミッキーマウスの姿が描かれている、結構攻めた柄物のシャツを着ていたが、それがなかなか似合っていた。
 曲目は大方、鈴木のオリジナルで占められていたようだ。冒頭はやや変則的なブルースで、ショップ何とか、あるいはショット何とかと言われていたと思うが、曲名を定かに聞き取れなかった。二曲目は一六ビートの"D Minor"、三曲目はスタンダードの"Body And Soul"、次に"ザ・シング"と言っていたと思うが、これは"The Thing"ということだろうか? フリージャズに少々寄ったような感じの曲だった。五曲目はキーボードをバックにした鈴木のソロでの"Love Is Over"。前半最後の曲は、"パライーソ"という、同音の連打が印象的な、これも変則的なブルースである。
 後半冒頭は"紫式部"という、これもアヴァンギャルドと言うかフリー風味の曲で、次が"My Life"、三曲目はファーストアルバム『Blow Up』からタイトル曲の"Blow Up"だが、これが大層ファンキーで格好良い一六ビートのブルースだった。四曲目はバラード、"In A Sentimental Mood"が演じられ、五曲目は"Overture"、アンコールとしてドヴォルザーク作曲の"家路"が最後にあっておひらきとなった。
 鈴木のベースは低音を主にして地を這いながら堅実に土台を支えると言うよりは、細かな動きを挟んで旺盛に動き回る種のもので、高音部にもたびたび上っていき、また時に勢いをつけて弦を弾く際のばちっと激しい音も演奏のなかに混ぜ込まれ、それはドラムやほかの楽器を煽る役割も果たしていたと思うが、良くも悪くも個性が強すぎるのだろう、アンサンブル全体に上手く混ざって同化するのではなく、ある種ほとんど常に前面に浮かび上がってくるような気味があった。縦が終始きっちりと嵌っているわけでなく、時にリズムは僅かにずれる場面もあったようで、音程も正確無比とは言えないが、それは彼にあっては、あるいはジャズにあっては問題ではない。激しい打弦時のノイズにせよ、音程やリズムのファジーさを越えた強烈な存在感にせよ、ジャンルは違うが同じ弦楽器の扱い手であるPablo Casalsを連想させるようなところがあった。いわゆる通常の、ランニング・ベースによるフォー・ビートという演じ方はほとんどしなかったように見受けられ、一六ビートや八ビートの曲目が多かったようだ。右手の薬指には指輪がつけられており、手指を細かく蠢かせて弾くあいだ、宝石が照明を反射して、赤や青の煌めきを放っていた。
 中山拓海は我々よりも年若か、せいぜい同年代というところだろうが、堂に入った吹きぶりで、T田は彼を気に入ったようだった。シーツ・オブ・サウンドって生で聞くと凄いんだなとT田は漏らしたが、その語の起源であるJohn Coltraneのように長々と、大蛇めいてひたすらにうねりまくるのでなく、節度というものを弁えている吹き方で、音使いもコードからさほど外れず、派手にアウトするでなく、いかにも現代的と言うよりは比較的オーソドックスなスタイルのように聞こえたが、ソロの終盤など佳境ではハイトーンを、音高を過たずぴたりと当てて熱情的に絶叫して、盛り上げ方のツボを心得ているという様子で、熱情的と言っても今時の若い者のあり方で、冷静さを失わないスマートな演じ方である。隣に立った鈴木も、曲の合間にはたびたび中山と顔を寄せて何か言葉を交わしたり、脇を小突いたりしていたので、おそらく六〇年ほどの年齢のひらきがあるだろうこの若者を気に入っているのではないか。ドラムスも、意外と、と言うべきかこちらはちょっとそういう感を受けたのだが、やはり現代的に卓越した技術を縦横無尽に駆使すると言うよりは、奇を衒わず直情的に連打して音を細かく埋めていくような、わりあいスタンダードなタイプと見えて、とは言え、ソロの合間にはポリリズムと言うか、曲の主となるビートから一時外れつつテンポを段々に変じる技なども披露していたが、演奏内容に加えて特筆すべきは彼の表情で、額に皺を寄せて目を大きく見ひらいて、あれで瞳が乾いて痛くならないのだろうか瞬きも長いことせず、ベースやほかの奏者の方を強く見つめて、これから獲物を喰らわんという猛獣のような顔貌を浮かべ、唸り声も上げながら叩くその様子をT田は、本当に音楽を心底楽しんでやっていることが如実に伝わってくると評していた。
 セットのあいだの休憩時間は、持ってきていた古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を取り出して、T田に紹介した。冒頭を読んだT田は、よくもまあ天気や気候の変化だけでこれだけ書けるものだと言った。T田も最近は、昨年の一二月にT谷やらKくんやらと行った奥多摩での流星観測の機会のことを日記に認めているらしく、文を書くということの労力と奥深さを感じはじめているようだ。コンピューターに打ち込んで計ってみると総計で七〇〇〇字に達していて、自分としては相当書いたつもりだったが、Fはこの量を毎日やっているわけだからその異常さがわかったと話した。
 公演が終了したあと、鈴木がカウンターに座っていた近くの人に手を差し出したので、こちらも握手を受けて、ありがとうございましたと礼を言い、続けて中山拓海とも握手を交わした。T田も彼と手を握りあって、滅茶苦茶良かったですと好評を伝えていた。それでしばらく、レジに並ぶ人が途切れるのを待ってから、そろそろ行くかと立ち上がって、ひとまずこちらが全額まとめて払ってしまうことにしてT田を外に送り出し、会計を済ませた。チャージ代二五〇〇円の二人分、五〇〇〇円を含めて、一一一七八円だった。支払いを終えて扉をくぐるとそこに中山拓海がいたので、ふたたび握手を交わし、また観に来ますと残して階段を上り、T田と合流した。金を払おうにも、持ち合わせが大きいものしかないと言う。時刻は一〇時過ぎ、終電までまだ猶予があったので、それで金を崩しがてら喫茶店にでも寄って行くかということになり、ちょうど手近に現れたエクセルシオール・カフェに入った。入口近くに座り心地の良さそうな革張りの、一人掛けの席が二つ並んで空いていたが、そこを並んで占領してしまうのも気が引けたので、と言って閉店時間ももう近く店内がこれから混むわけでもないので別に良かったのだろうが、ともかく代わりに壁際のカウンター席に並んで入った。財布を持ってレジへ向かうと、こちらが頼むのはいつものようにココアである。T田は流行りに乗って、タピオカの入った抹茶味の飲み物を注文していた。それで席に戻って金を要求すると、五〇〇〇円で良いと言ったところがT田は五〇〇〇円札に加えて一〇〇〇円札を一枚足して寄越してみせるので、これではお前の方が多くなるが良いのかと一応訊きながらも、良いと言うのでありがたく頂いた。
 喫茶店で何を話したのか、記憶にない。いくらか話が乗ってきたところで、間が悪く一一時の閉店を迎えたのではなかったか。店員がフロアを回って、閉店のお時間ですと客に声を掛けはじめたので、我々も行くかと立って、トレイやグラスでいっぱいに埋め尽くされた返却棚の僅かな隙間に何とか容器を返し、退店した。サンロードを抜けて駅に渡り、改札をくぐってホームに上ると、電車は遅れていた。なるべく空いている場所に入りたかったので、端まで行くかとT田に呼びかけ、一号車のあたりまで歩き、そうして乗ったのはしかし二号車の端だった気がする。道中T田は、『Steins; Gate』の二次創作小説を同人誌にするつもりだと話した。来年三月、大阪のイベントで発表する予定で、その頃にはT田も大学助手の職を得て大阪に移っている見込みだと言う。一人でやるのかと訊けばそうではなくて、知り合いの同人作家と組んで作る。そうでもなければ、素人がなかなか一人で出来るものでもないだろう。T田はこの作家の人と、もう随分長いことで一年くらいにはなるのだろうか、文通のような形でやりとりを交わしており、何度か顔も合わせたことがあり、先日の月曜日にも大阪出張の合間に会って五時間くらい話し込んだと言っていた。先に書いたようにT田は今、昨年一二月の流星観測のことを日記に拵えているところで、と言うかこの文章を書いている九月三〇日現在、既にそれは仕上がって、LINEを通して仲間内に発表されたのだが、その際の体験を元にして二次創作を書く目論見らしい。
 立川に着くと、奥多摩行きの最終が一番線で待っているとアナウンスが入る。既に時刻は零時近くなっていたが、電車が遅れていたおかげで、乗換えの客を待ってまだ停まっているらしい。それで階段を上ってT田と別れ、間に合わないだろうと思いながら一番線に向かったところが意外と乗れて、扉際で本を出した。この日と翌日の帰りは電車内でメモを取らずに読書に時間を充てたのだが、それで日記を綴るのに苦労している現在、やはり遠出をした日の帰りは出来る限り書いておくべきだなと思う。
 東青梅駅で電車は、向かいの線路を過ぎる回送電車か何かを待っていたらしく、長く停まった。ひらいた扉の向こうから、秋虫の音が大挙して入りこみ、液体のように車内を浸していた。奥多摩へと向かうのは先頭四両のみで、あとの六両は青梅で切り離されて回送になる。こちらが乗っていたのは後方の端の車両だから、移動に時間が掛かって奥多摩行きの発車に間に合わないと困るので、青梅に着く前に立って車両を渡った。到着して降りてすぐ傍の四両目に入ったところ、車両の端で床に膝をついて、まるで這うように伏している人がいる。サラリーマンの風体だったが、折しも金曜日の夜半で、夜街に繰り出した末に酒に呑まれたのだろうか。通りすがりの人々も何かと目を向けながら、しかし止まらず過ぎていき、なかの一人、こちらもどうやら酒を飲んできたらしい中年の男などは、頑張れと気安く掛けながら、やはり手助けせずに素通りした。こちらも数歩行ってから振り向いて様子を見守ったあと、引き返して一応、大丈夫ですかと掛けてみたのだが、するとサラリーマンは返事とも呻きともつかない声を漏らして、よろよろと立ち上がりはじめた。酒に酔っている、という雰囲気でもなく、妙な様子だったが、水でも買ってこようかと思いつつ、しかしそろそろ発車が近いから乗り遅れてしまうと事だとぐずぐずし、結局特に手助けもせず、一応立てるようなのでと場を離れて車両のもう一方の端に行った。扉際で本をひらきながら、たびたび車両の向こう端を見やってみると、男は疲労困憊といったような風情で項垂れながら席に就いているが、ひとまず大丈夫らしい。それで最寄り駅で降りると、夜半も過ぎたこんな夜更けに線路の脇に作業員が集まって、なかの二人くらいはヘッドライトを灯していて、その白い光が闇を切り裂いていた。ホームを歩いていると表の道路の方ではバイクが何台か、野太い響きを散らしながら走っていき、それが過ぎると静寂が満ちて、通路を渡りながら頭上から、飛行機が空を泳ぐくぐもった音が落ちてきた。
 坂道で風が流れ、道を縁取る木々の群れが音を孕み、その一番外縁の草木は虫の足のように緩慢に蠢く。平らな道に出ると秋虫の音が、右からも左からも、木があればどこからでも響いてきた。道中、家の間近で軽自動車が一台、路肩に停まってエンジンを蒸かしている。カップルが逢引きに励んでいるのか、それにしてもこんなところで、と疑ったところが、どうもそんな様子でもなく、なかに乗っているのは一人のみと見えたが、しかし何をやっているのかわからない。ともかく過ぎて、家に入った。
 この日も三時過ぎまで夜を更かしたが、このあと特段に興味深いことはなかったと思う。入浴後、一時半から一時間ほど日記を書いて、それから読書を進めて眠ったようだ。

2019/9/26, Thu.

 私は八年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく三年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体験は、ほとんど問題でないといえる。苛酷な現実がほとんど一つの日常となってしまった状態から、もう一つの日常へ一挙に引きもどされたとき、否応なしに直面せざるをえなかった二つの日常の間のはげしい落差は、めまいに近いものであった。そしてこのようなめまいのなかで、かつて問われつづけた自分自身をもう一度問いなおして行く過程は、予想もしなかった孤独な忍耐とかたくなな沈黙を私に強いた。恢復期、正常な生命の場へ呼びもどされる時期の苦痛は、それ以後私の最大の関心事となったといっていい。
 苦痛そのものより、苦痛の記憶を取りもどして行く過程の方が、はるかに重く苦しいことを知る人は意外にすくない。欠落したものをはっきり承認し、納得する以外には、この過程をのりこえるどのような手段ものこされてはいなかったのである。
 そしてこれらの過程のすべてを通じて、私たちはのがれがたく、日常にとらえられており、およそ日常となりえないどのような悲惨も極限も、この世界にはないのだという認識に、やがては到達せざるをえないのである。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、47~48; 「強制された日常から」)

     *

 (……)実際、強制収容所の囚人にとって、彼らの現実にもかかわらず世界(自然)が美しいということは、それ自体がパラドックスであり、やりきれない現実であって、あと一歩で嗟歎は敵意に変りかねない。それは、いってみれば無責任きわまる美しさであって、自然のその無責任にまさに対応するかたちで、人間の側の無感動がある。そこでは、感動を欠落したままで美が存在しており、人間が自然と対峙するのは、いわば無感動の現場においてである。
 極度に無感動をしいられた環境で、唐突に、そしてひときわ美しく自然がかがやく時がある。その美しさは、その環境にとってはむしろいぶかしい。「どうして」という問いは、そのいぶかしさへのまっすぐな反応である。たぶんそれは、無関心なるが故の[﹅8]美しさという、ある種の絶望状態への反証のようなものであろう。およそ人間に対する関心が失われても、なお自己にだけは一切を集中しうるあいだはこのような問いは起らない。自己への関心がついに欠落する時、そのとき唐突に、自然はその人にかがやく。あたかも、無人の生の残照のように。
 感動をともなわない美しさとは奇妙なものだ。それは日常しばしば出会う、感動する程ではないという美しさとはあきらかにちがう。感動する主体がはっきり欠落したままで、このうえもなくそれは美しい。そしてそのような美しさの特徴は、対象の細部にいたるまではっきりと絶望的に美しい、ということである。いわばその美しさには、焦点というものがない。
 感動とは、情動の最も人間的な昂揚であるから、感動をともなわない美しさとは、いわば非人間的な美しさといわざるをえないが、しかしこの、非人間的であることの最大の理由は、見られるもの、たとえば自然の側にあるのではなく、見る人間の側にある。見るものの主体、感動の主体が欠落しているのである。
 人は戦場で、しばしばこのような美しさに、面[おもて]をあげた瞬間に向いあう。ミンドロ島の戦野を彷徨した大岡昇平氏に、いきなり向きあった緑の美しさはその例であろう。この美しさは、おそらく荒涼と記憶され、荒涼たるままで回想の座へ復帰する。違和そのものとしての復帰である。
 昂揚をもって戦場の生を終らなかったものが、もしかろうじて殺戮の場をうべなえるとしたら、それはこの、主体が故意にはずされた美しさによってである。私たちが永遠に参加できないことによって、たしかに美しいという瞬間はあるのだ。いわばそれは、美しいものの側から見捨てられた、美しい瞬間である。
 (61~62; 「無感動の現場から」)


 一一時五五分まで長く寝過ごした。コンピューターに寄って起動させ、Twitterを確認してから階を上がり、便所に行って糞を垂れてから洗面所で髪を梳かして寝癖を整え、それから食事の用意に掛かる。ガス台の上に置かれたフライパンの蓋を開けると、ハムがたった一枚入っていた。そのほかに冷蔵庫から、昨夜の残り物、ナメコとエノキダケの味噌汁とアメリカンドッグを取り出し、それぞれ火に掛けたり電子レンジに入れたりして温めたあと、米をよそって品物をそれぞれ卓に運んだ。新聞の一面の経済記事に目を通しつつものを食べる。テレビは『サラメシ』を流している。食事を仕舞えて、冷蔵庫で冷やされた水を水筒からコップに注ぎ、抗鬱剤を服用すると、台所に立って皿を洗った。そうしてそのまま風呂も洗いに行き、戻ってくると玄関の戸棚から海苔塩味のポテトチップスを取り出して、母親の分を皿に取り分けておいてから、袋を持って自室に帰った。前日の記録を付けたあとは日記に取り組まなければならないところを、長くなるのがわかっているから億劫で、cero『POLY LIFE MULTI SOUL』や16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』を背景にひたすら無益な時間に耽り、そうして三時二〇分に至ってようやく、Sonny Rollins『There Will Never Be Another You』とともにこの日の文を記しはじめた。コンピューターの前に長時間、背を丸めて座っていたから身体がこごって、椅子から下りて背を伸ばし、立ったままに打鍵を進めた。
 二五日の記事を四時過ぎまで進めたところで、身体の固さに耐え難くなって、ベッドに移って身を休めることにした。古井由吉『ゆらぐ玉の緒』をひらいたものの、クッションと枕に凭れて身を伸ばしているとじきに睡気に瞼が閉じて、寝転がってもおらず上体を起こしたままに意識を落とすことになった。五時半過ぎまで休んで上に行き、アイロン掛けをしようと炬燵テーブルの端に台を出すと、アイロンは良いからこっちをやってくれと台所の母親から掛かるので、そちらに移って包丁を取り、人参を小さな拍子木型に切ってさっと茹でた。それから玉ねぎを二つ、細く切り分けてフライパンで炒めて、しばらくしてから生姜焼き用の豚肉も、切らずにそのまま箸で一枚ずつ摘み上げて投入していき、蓋を閉ざしてしばらく火を通したあと、味付けは砂糖代わりに栗の渋皮煮に使ったシロップと、ニンニク醤油を垂らした。仕上げると台所を出て下階に戻り、六時一三分から日記に取り掛かったが、どうも筆の運びが重い。自然に無理なく流れるような書き方を忘れてしまったようだ。どのような文言を打ち込んでも違和感が拭えず、正解とは思われず、いくらか書いては遡って直すことになる。そもそも「正解」などという評価軸を、毎日の文章に持ち込む自体、危ういことだ。しかしその危うさから逃れられず、文言を直し直し進めて八時に至る頃、ようやく切って食事に行った。
 米の上に肉と玉ねぎを重ねて丼にして、そのほか野菜や、ワカメの汁物や、コンビニのメンチカツを卓に並べて、丼の米を貪るように搔き込むと、急ぎすぎたか妙なところに入って噎せる。食後に精神科の薬を飲み、皿を洗ってから布巾で卓を拭くと、早々と入浴に行った。温かな湯のなかに身を沈めて、汗をだらだらと首筋に流しながら安息に浸って、下着一枚で部屋に戻ってしばらくののち、一〇時から過去の日記の読み返しをした。二〇一八年の九月二五日と二六日、特別に印象に残ることは書かれていない。それから日記を書くのか、インターネットの記事を読むのか、書抜きをするのかと迷った挙句、三〇分だけ英文を読もうと定めて、George Yancy and Judith Butler, "Judith Butler: When Killing Women Isn’t a Crime"(https://www.nytimes.com/2019/07/10/opinion/judith-butler-gender.html)にアクセスした。オンラインの辞書サービスを用いて英単語を調べながらきっかり三〇分を英文に触れ、読み終えられなかった分はまた翌日とした。

・unvarnished: 率直な
・bracing: 元気づけてくれる
・mobilization: 動員
・underscore: 強調する
・paramount: 最重要の
・prerogative: 特権
・precarity: 雇用不安
・retribution: 報復
・as a matter of course: 当然のことながら、勿論
・abet: 幇助する
・way of the world: 世の常
・defection: 離脱
・well-meaning: 善意の
・deflect: そらす
・exonerate: 免除する

 そうしてふたたび日記に掛かるが、筆の運びは変わらず重たるく、二五日の記事を五〇分綴ったけれど文がいくらも増えないうちに力が尽きて、インターネットに遊んだあとに、零時半から寝床に移った。裸の上半身に薄布団を引き上げ、肌を包まれながら古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を読んでいたはずが、例のごとくいつか眠って、気づけば三時に掛かっていた。肌着のシャツを身につけて、入口横のスイッチで電灯を切って、暗闇のなか床に潜り込んで正式な眠りに向かった。


・作文
 15:20 - 16:04 = 44分
 18:13 - 19:55 = 1時間42分
 22:48 - 23:38 = 50分
 計: 3時間16分

・読書
 16:05 - ? = ?
 21:59 - 22:47 = 48分
 24:32 - ? = ?
 計: 48分 + ?

・睡眠
 ? - 11:55 = ?

・音楽

  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL』
  • 16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』
  • Sonny Rollins『There Will Never Be Another You』
  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Sonny Rollins『Saxophone Colossus』

2019/9/25, Wed.

 [一九五〇年]十月のなかば、私は所内の軽作業にまわされていた他の数人とともに、ハバロフスク郊外のコルホーズの収穫にかり出された。ウクライナから強制移住させられた女と子供ばかりのコルホーズで、ドイツ軍の占領地域に残ったという理由で、男はぜんぶ強制労働に送られたということであった。だが小声で語る女たちの身の上ばなしに、ほとんど私は無関心であった。他人の不幸を理解することが、私にはできなくなっていた。周囲が例外なく悲惨であった時期に、悲惨そのものをはかる尺度を、すでにうしなっていたのである。このことは、つぎの小さな出来事がはっきり示している。
 正午の休憩にはいって、女たちはいくつかのグループに分れ、車座になって食事の支度をはじめた。私たちはすこしはなれた場所から、女たちのすることをだまって見ていた。小人数の〈出かせぎ〉には昼食は携行せず、帰営後支給されることになっていたからである。食事の支度を終った女たちは、手をあげて私たちを招いた。「おいで、ヤポンスキイ。おひるだよ。」
 それは私たちにとって、予想もしなかった招待であった。そのようにして、他人の食事に自分が招かれているということは、ほとんど信じられないことだったからである。私は反射的にかたわらの警備兵を見あげた。このようなかたちでの一般市民との接触は、むろん禁止されている。警備兵は、女たちの声が聞こえなかったかのように、わざとそっぽを向いていた。「いきたければいけ」という意味である。
 私たちは半信半疑で一人ずつ立ちあがって、それぞれのグループに小さくなって割りこんだ。われがちにいくつかのパンの塊が私の手に押しつけられた。一杯にスープを盛ったアルミの椀が手わたされた。わずかの肉と脂で、馬鈴薯とにんじんを煮こんだだけのスープだったが、私には気が遠くなるほどの食事であった。またたくまに空になった椀に、さらにスープが注がれた。息もつがずにスープを飲む私を見て、女たちは急にだまりこんでしまった。私は思わず顔をあげた。女たちのなかには、食事をやめてうつむく者もいた。私はかたわらの老婆の顔を見た。老婆は私がスープを飲むさまをずっと見まもっていたらしく、涙でいっぱいの目で、何度もうなずいてみせた。そのときの奇妙な違和感を、いまでも私は忘れることができない。
 そのとき私は、まちがいなく幸福の絶頂にいたのであり、およそいたましい目つきで見られるわけがなかったからである。女たちの沈黙と涙を理解するためには、なお私には時間が必要であった。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、40~41; 「強制された日常から」)

     *

 「おなじ釜のめしを食った」といった言葉が、無造作に私たちを近づけたかにみえた。おなじ釜のめしをどのような苦痛をもって分けあったかということは、ついに不問に附されたのである。たがいに生命をおかしあったという事実の確認を、一挙に省略したかたちで成立したこの結びつきは、自分自身を一方的に、無媒介に被害の側へ置くことによって、かろうじて成立しえた連帯であった。それは、われわれは相互に加害者であったかもしれないが、全体として結局被害者なのであり、理不尽な管理下での犠牲者なのだ、という発想から出発している。それはまぎれもない平均的、集団的発想であり、隣人から隣人へと問われて行かなければならないはずの、バム地帯での責任をただ「忘れる」ことでなれあって行くことでしかない。私たちは無媒介[﹅3]に許しても、許されてもならないはずであった。
 私が媒介というのは、一人が一人にたいする責任のことである。一人の人間にたいする罪は、一つの集団にたいする罪よりはるかに重い。大量殺戮[ジェノサイド]のもっとも大きな罪は、そのなかの一人の重みを抹殺したことにある。そしてその罪は、ジェノサイドを告発する側も、まったくおなじ次元で犯しているのである。戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命にたいする罪である。およそその一点から出発しないかぎり、私たちの問題はついに拡散をまぬかれない。
 私たちはこの時期に、あらためてひとりひとりの問い[﹅2]とならなければならないはずであった。肉体的には、私たちは、ほとんどおなじ条件で、いわば集団として恢復した。しかし精神としては、私たちはひとりひとりで恢復しなければならない。なぜなら、集団のなかには問いつめるべき自我[﹅9]が存在しないからである。そしてこの、問いつめるべき自我の欠如が、私たちを一方的な被害者の集団にしたのである。
 人間の堕落は、ただその精神にのみかかわる問題である。肉体は正確に反応し、適応するだけであって、そのこと自体は堕落ではない。堕落はただ精神の痛みの問題であり、私たちが人間として堕落したのは、一人の精神の深さにおいて堕落したのであって、もし堕落への責任を受けとめるなら、それは一人の深さで受けとめるしかないのである。私たちはさいごまで、一人の精神の深さにおいて、一人の悲惨、一人の責任を問わなければならないはずであった。だが、精神の密室でそれが問われるとき、私たちは自己にたいして恣意に寛容であることができる。なぜか。私たちはこのようにして、ついに〈権威〉の問題につきあたる。
 緩和されたとはいえ、私たちはなお拘禁状態にあり、外側から加えられる拘束にたいしては、いぜん集団として対応せざるをえなかったことが、単独な場での追求を保留させたということもできる。だがもっとも大きな問題は、私たちにのがれがたく責任を問う真の主体である権威が、ひとりひとりの内部で完全に欠落していたことであり、この欠落が私たちを、焦点をうしなったまま、集団的発想へ逃避させたのである。
 (45~47; 「強制された日常から」)


 八時に仕掛けたアラームに先立って、目を覚ましていた。昨晩の、寝入る前の頭の固さがいくらか名残っていた。薄布団の下でもぞもぞと身を折り曲げながらカーテンを開けると、大陸じみて広く蔓延りなかは青褪めた雲の端に太陽が掛かって、抑えられた光がそれでも瞳に明るい。八時に至って携帯が鳴り出すのを待ってから、起き上がってコンピューターの前に立つと、四時間半も眠っていないわりに、睡気の残滓の香らない、乾いて軽い朝だった。Twitterをちょっと覗いてからすぐに上階に行き、母親に挨拶をして食べ物は何かあるのかと尋ねれば米は炊いたと返るので、芸もなく、今日も卵とハムを焼くことにした。いつもの四枚入り一パックのハムを使うのではなくて、発泡スチロールのトレイに何枚も重ねて保存されたものの方が期限が先だからと、母親がそこから四枚取り出したのを受け取って、油を引いたフライパンに敷いたその上から卵を二つ割り落とす。フライパンを傾けて白身を広げ、いくらも加熱せず黄身が固まらないうちに丼に盛った米の上に取り出し、卓に就いて食事を始めた。NHK連続テレビ小説なつぞら』の方には目を向けず、新聞の一面に視線を落としながら、丼に醤油を垂らし、液状の卵をぐちゃぐちゃと搔き混ぜ、米と絡めて食べる。英国で最高裁が、ボリス・ジョンソンの決定した議会閉会は違法行為だとの判決を下したと言う。食べながら、一二時には出ると母親に告げた。吉祥寺SOMETIMEで昼間から大西順子のライブを観たあと、夕刻には労働を控えている。母親も今日は料理教室か何かで午前から出掛ける用があって、それだから出る前に洗濯物を入れて行ってと言うので了承した。丼の飯を平らげると、水を汲んできて抗鬱剤を服用し、食器を洗ってさっさと下階に戻るとコンピューターの前に立ち、Evernoteをひらいて前日の記録を付けたあと、八時四〇分頃から早速日記を書きはじめた。そうして前日の記事を仕上げる頃には一時間余りが過ぎて、一〇時を目前にしていた。どうもまずいな、と思った。文章にこだわりすぎている。毎日のものにあまりこだわれば終いには書けなくなる、それが最も危惧されるところだ。推敲などと身の丈に合わない業に時間と労を費やすのはこの一日分に留めて、今日からはまた楽に、気負わず軽く書き継ぐべきだろう。目指すべきは彫琢の鬼と化した古井由吉の厳密さではなく、推敲など廃して一筆書きに流れる小島信夫の自然さのはずなのだ。cero "POLY LIFE MULTI SOUL"を流して口ずさみつつ、前日の記事をインターネットに投稿したあと、FISHMANSCorduroy's Mood』を共連れてここまで綴ると、一〇時半に至っている。しかしそれから、ちょっと適当に書きすぎたなと虫が疼いて、また結局文を直して、一一時に近づいた。背後の寝床の枕の上に、窓に切り取られた陽射しが斜めに掛かって薄明るい矩形を宿していた。
 階を上がる。肌着を脱ぐと、制汗剤の染み込んだボディシートを一枚取って、汗の臭いの籠る腋の下を念入りに拭き、それから洗面所に入って髪を梳かす。さらに、上半身を晒したままの格好で風呂を洗い、そのあとベランダに行って吊るされたものに触れると、洗濯物は既に早くも水気を散らして乾いている。ベランダに立っているあいだ、注ぐ陽が身を包み込んで肌にまつわり、折角拭き取った汗がまた滲み出してきた。
 下階に帰ると歯を磨きながら、Saul Isaacson, "Noam Chomsky: Hopes and Anxieties in the Age of Trump"(https://www.foreignpolicyjournal.com/2018/08/17/noam-chomsky-hopes-and-anxieties-in-the-age-of-trump/)を読む。傍ら流す音楽は、例によってFISHMANSCorduroy's Mood』である。歯磨きを終えると淡い青のワイシャツに深い紺色のスラックスを着込み、引き続き英文を読んで、仕舞えると一一時四〇分過ぎ、電車は一二時一二分で猶予があったがもう出ることにして、荷物を収めたクラッチバッグを持って階を上がり、仏間で黒の靴下を履いた。玄関を抜けるとツクツクホウシの鳴きが林から響き出て、陽射しは清かに通って路面に敷かれ、道の奥から来た車の鼻面に光は白く凝縮されて、夏に戻ったかのような正午だった。歩いていくと一軒の庭先、門の外に立った低木に、若緑を既に過ぎて黄色く丸く膨らんだ実の連なっているのを、柿ではないかと目に留めた。角の小公園に生えた桜の葉っぱが幾枚も十字路に散らばって、粉のように微小な羽虫が風に乗って周りを何匹も流れていくのに、大きさはよほど違うが来たる時季の蜻蛉を重ねて見るようで、陽射しは夏だが乾いた空気は既に秋だなと幾許かの季節感も滲む。坂道を上る途中で、店は予約でいっぱいではないだろうなと、今更その可能性に思い至った。電話を一本掛けて訊いてみれば良いだけの話だが、何となくその気にならず、空いていなかったらそれはそれで一興だ、喫茶店で本でも読めば良いと捨て置いた。
 駅舎内の階段を下りていくあいだ風が流れて、線路を挟んだ先の桜の、黄色くなりかけた葉がこともなく、実に容易に落ちていく。ホームに入ると、陽射しが渡っているのでまだ先には出ずに屋根の下に留まって、携帯を取り出してメモを取る。ワイシャツの裏の背を、汗の玉が転がって撫でる。線路の周りの草は先端まで、まだまだ明るい緑に染まっており、オレンジ掛かった色の蝶がその上を漂っては翻っていた。
 電車に乗って青梅まで行くと、向かいの東京行きの先頭車両に乗り換えて、発車と同時に古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を読み出した。いつもは手帳を眺める車中だが、今日は少しでもこの老作家の小説を読み進めておきたいとそちらに興が向いたのだった。河辺に至ると白いスーツケースを伴って、八分丈ほどのジーンズをぴったりと履いた若い女性が乗ってくる。席に就くと、黄色い卵の挟まれたコンビニのサンドウィッチを取り出し、少しずつ口に運んでいた。人々の腹が空いてくる昼時である。その後、本に目を落としていると、プラスチックの擦れるような音が耳に届いて、視線を上げれば女性の手もとにピンク色のパッケージのようなものがあり、そこから何かを取って口に入れ、続けてペットボトルの飲み物を飲んでもいたので、あれは何かの薬かもしれないと見た。
 雲は薄く平らかに浮かんで太陽を妨げるものもなく、陽射しは窓を貫いて床には淡い光の四角がひらき、席に並んだ乗客の影がそのなかに立つ。拝島で客が増えて、座席の隙間が減った。なかで体格の良い、肩の厚い女性が一人、オロナミンCを飲んでいた。結構、電車内で飲み食いする人の目につく時間だ。中神あたりで、勤めの同僚か若い男女の二人連れが乗ってきて、いくらか気怠げな声音をしている女性の方が隣に就いた。黒いロングスカート姿で、レース風の編み模様が表面にあしらわれたヒールを履いていた。女性はじきに俯いて、長い黒髪で顔を隠して休みはじめ、男性の方も、いつか目を閉じていた。立川を過ぎれば電車は高架に上り、広くなった青空に雲は低く伸べられて、床に宿った光の四角は幾分傾きを強くして、目を振れば遠くの銀の手摺りが純白を吸い込むように収束させては線条を放射状に撒いているその脇に、ベビーカーが置かれて赤ん坊が声を上げていた。
 目的の吉祥寺が近くなると、傾き気味だった姿勢を正して背を伸ばし、腰の置きどころを直して椅子に深く座った。それから両腕を前に伸ばして、筋のこわばりをほぐしたあと、本を目に近く、高く持って文字を追う。「人違い」の一篇を読み終えたところでちょうど駅に着いた。隣の女性を起こさないようにゆっくり静かに腰を上げ、降りると手帳に時間を記録し、ホームを去って改札を抜けると、出口へ向かうこちらの横を、三人の少女が連れ立って燥ぎながら駆けていく。私服に包まれた身体は細くかつ薄く、中学生か、行ってもせいぜい高校生ほどと見えた。時刻は午後一時過ぎだが、学校は引けたのだろうか。
 北口を出て通りを渡ると、道の左右で旗を立てて、社会福祉団体の類らしく南房総市への義援金を募集している。顔触れを見れば大抵が高年の年寄りのなかに、若者が二、三人、立ち混ざっている。サンロードに入り、頭上から洒脱なジャズが落ちてくるなかを歩いていると、店の並びのなかにふっと小さな古書店が現れて、こんなところにあったのかと目に留まった。紳士服店の角で折れれば、目的のジャズクラブ、SOMETIMEはすぐそこである。入口にいた女性二人のあとについて地下への階段を下りていくと、店に入らないうちに早くも、満席との声がなかから聞こえた。それでも一応番を待ってから戸口をくぐって、満席ですかと店員に訊いてみると、当然肯定が返ったので、わかりましたと受けて階段を引き返した。予感が当たったなと心中苦笑したが、と言うよりも、大西順子ほどの演者なのだから、賑わいを当然のことと予想して予約を取っておいてしかるべきだったのだ。
 思わぬ時間が生まれたものだった。サンロードに引き返して、ひとまず先の古書店に入った。法政大学出版局・叢書ウニベルシタスの著作など棚にいくらか並んでいたが、値段は全体的に高めにつけられていたので、すぐに出た。空いた時間で行きつけの古本屋に行くか、という気になっていた。それでサンロードを抜け、義援金を求めて呼びかけているあいだをふたたび通って駅へ渡ると、通りの縁には交通整理員が立っている。この暑いなかで制服を着込んだ高年の女性で、バスが来たのに応じて、腰につけた拡声器を通して、危ないですよ、入らないでください、と通行人に声を送っていた。
 三鷹の水中書店に行くか、荻窪ささま書店に行くかと迷っていた。改札を抜けて階段を上がりつつ、本好きにとっての魔境にも等しいささまに行くとまた金を際限もなく使ってしまうだろうからと、まだしも規模の小さい水中書店の方に行くことに決めた。もっとも、金が掛かるのはまだ良い。辛いのは嵩んだ荷物を運ぶことで、帰ったあとの自室の狭さを考えてみても、そろそろ本を置く空きも乏しい。それでホームに上がるとちょうど来た電車に乗りこみ、窓の外に連なる街並みの、その果てに塗られた薄白い雲を扉際から見つめて一駅、三鷹で降りて駅舎を出ると、駅前に立ち並ぶ銀杏の木々はまだ青々と緑を葉の内に籠めて、風にも揺れずに静まっている。東西に長く伸びる通りの途中、横断歩道でもないところで渡ったその前に、ちゃんぽん屋が立っていた。こんなところにこんなものがあったのかと見たが、あるいは新しく出来た店かもしれない。
 高いビルの作り出す影が道路に広く掛かって、水中書店はそのなかに入りこんでいた。店外の一〇〇円均一の棚をさっと見分したあと、なかに入って海外文学の作品から吟味を始め、どれくらいの時間が掛かったものか、ほとんど隈なく見て回った。頭上から流れる音楽は初め、女声の混じったアンビエント風のものが聞かれていたが、そのうちに穏和なギターのジャズに変わった。最初に食指が動いたのはみすず書房の、マックス・ブロート/辻瑆・林部圭一・坂本明美訳『フランツ・カフカ』だったと思う。五〇〇円の安さで売られていた。作家の唯一無二の親友ブロートのカフカ観は、彼を宗教的な側面から英雄視しすぎたものと聞いたことがある。今やほとんど顧みられることもない、古臭いものでしかないのかもしれないが、カフカ関連の著作は大方何でも読んでみるべきだろうというわけで、目をつけておいた。次に目についたのは、エドワード・サイード四方田犬彦訳『パレスチナへ帰る』である。サイードとの出会いは大学時代に、ちくま学芸文庫の『ペンと剣』に『文化と抵抗』を買ったのが初め、それ以来関心のある人で、著作もなるべくすべて読んでみたいというわけで折に見かければ集めている。訳者の四方田犬彦に関しては、『見ることの塩――パレスチナボスニア紀行』という本も棚に見られ、パレスチナ関連の文献なのでこれも読むべきだろうが、最後部の頁をひらいても何故かこれには値段の表示がついておらず、荷物も多くなるので今回は見送った。
 思想の区画の棚の上に、徳永恂『ヴェニスのゲットーにて 反ユダヤ主義思想史への旅』という本が置かれてあった。書架に組み込まれず、上に取り出されているものだから、誰かが買おうと思って一旦取り分けておいたものかと疑ったが、店内を一通り回って戻ってきてもまだそこに置かれたままだったので、そういうわけでもないらしい。ゲットーだとか収容所だとか、ホロコーストに通ずる類の文献には興味が働く。それでこちらが貰ってしまおうというわけでこれも手もとに加えて、最後に文庫の区画から、プリーモ・レーヴィ/関口英子訳『天使の蝶』を取った。レーヴィという作家も、邦訳されている作はすべて読んでみようと思っている。
 気づけば店内には、音楽以外に赤子の声が響いていた。ベビーカーに子を載せた女性が漫画の棚の前あたりに留まって、赤ん坊が折々泣き叫ぶのに何か絵本でも読んであやしていたようだった。四冊を持って会計に行くと、レジカウンターの上には大量の本が積み上げられて、書物の帝国といった威容で場を大方占領しており、辛うじて空いたスペースには金受けが置かれているから、こちらの持ってきた品を置く余地もない。本を差し出しながら凄いですねと言うと、文学が色々と入ったところなので、と店主は受けた。本の山の頂上付近には確かに、井上究一郎の『幾夜寝覚』などが見られた。これも確か蓮實重彦の文章で知って以来、昔から読んでみたい著作で、二巻とも揃えて積んである『井上究一郎文集』のなかに入っていたと思うが、取り掛かるのはいつになることか。
 四冊で二七五〇円になった。今日は雑談を交わす気分でなく、お互いに話題を切り出さず、またお願いしますとだけ言い合って茶色の紙袋を受け取った。会計の少し前から店を去る際に掛けて流れていたのはギターによる"All The Things You Are"で、丸みを帯びた柔らかなトーンでの静かな演奏は、あれはJim Hallだったかもしれないなと振り返りながら道に出た。
 労働に向かうまで、まだまだ時間が余っていた。それだから喫茶店にでも入って本を読めば良いものを、四冊買っても何だか満足感が薄かったようで、欲望に任せてささま書店にも行こうという頭になっていた。通りを引き返して駅まで戻ると、駅前広場で女性が一人、ポケットティッシュを配っている。ジムの宣伝らしい。先ほど往路には男性が無愛想に配っていたのを素通りしたのだったが、今度は若い女性からにこやかな、満面の笑みを向けられたので、思わず受け取ってしまった。駅に入り改札をくぐって、東京行きに乗り込むと携帯を取り出して日記用のメモを取る。荻窪までは数駅、いくらも掛からない。降りてエスカレーターを歩き、改札を抜けると、二月にMさんとここで会ったなと思い起こされ、外へ続くエスカレーターを上りながらその前の晩に会ったSさんの印象を話し合ったと、そんな細かな記憶まで蘇ってきた。駅舎を出ると通りを渡り、商店街には入らずに線路沿いの道を東へ向かう。風は折々あるものの、汗を止めることは出来ない。
 ささま書店に到着すると、ここでも店外の棚を手早く見て回り、それからなかへ入って日本文学や海外文学のあたりからじっくりと吟味を始めた。文庫の棚を見上げている最中、朝にちょっとものを食ってから今まで飲まず食わずだったものだから、そろそろエネルギーが枯渇してきたらしく、くらくらと眩暈の気配が兆さないでもなかったので、せめて水分だけは取ろうと一度店を出て、自販機に寄って一〇〇円のカルピスを買い、その場で何口か、ごくごくと急いで飲むと、戻ってふたたび探索に入った。欲しいものはいくらもあった。みすず書房のロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』というのは、先日「ほしいものリスト」に追加したばかりの著作である。これは三〇〇〇円だった。三〇〇〇円と言えば新刊書店ならばさほど高価とも思えないが、古書店で一冊に三〇〇〇円は結構高く感じられ、分厚いので荷物としても嵩むことを考慮して、この日は見送ることにした。思想の棚にはサイードの『文化と帝国主義』が上下巻とも揃えられてあり、これも前から欲しい著作で、二冊で四〇〇〇円は安いのだろうけれど、安々と踏み切るには躊躇する価格だ。焦ることはあるまい、サイードの著作は既にたくさん家にあるのだから、まずはそちらを読んでからだと考えて、しかし『故国喪失についての省察 1』の方は一五〇〇円だったので購うことにした。そんな風にして結構厳選して、金井美恵子の小説や、ディディエ・エリボンの『ミシェル・フーコー伝』なども落として、六冊を選び取って会計へ向かった。五七二四円である。女性店員が三冊を取って小さな紙の袋に入れたところで、こちらに入れましょうか、袋があるのでと、床に置いていた水中書店の紙袋を持ち上げた。結構大きな袋で、既に四冊が入っていてもまだまだ余裕があったのだ。それで残りの三冊をそちらに収め、紙に包まれた上にさらにビニール袋に入れられた三冊を受け取って、店員に礼を掛けて退店した。
 二つの古本屋で買った書物の一覧を、以下に記しておく。

・マックス・ブロート/辻瑆・林部圭一・坂本明美訳『フランツ・カフカ
エドワード・サイード四方田犬彦訳『パレスチナへ帰る』
・徳永恂『ヴェニスのゲットーにて 反ユダヤ主義思想史への旅』
プリーモ・レーヴィ/関口英子訳『天使の蝶』
浅田彰『ヘルメスの音楽』
・芝健介『ホロコースト
・ノルベルト・フライ/芝健介訳『総統国家 ナチスの支配 1933―1945年』
・P・ヴィダル=ナケ/石田靖夫訳『記憶の暗殺者たち』
エドワード・W・サイード大橋洋一・近藤弘幸・和田唯・三原芳秋共訳『故国喪失についての省察 1』
・高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学 『判決』と『変身』を中心に』

 汗を肌に溜めながら駅へと戻る途中、立ち止まってビニール袋の方も紙袋にまとめて収めてしまい、嵩んだそれをバッグとともに提げながら線路沿いを歩いた。駅に入ってホームに出れば、西から注ぐ陽射しがホームの端に帯なして溜まり、ガラスめいて透明な液体質の光に身体が浸される。携帯を取り出してメモを取り、電車に乗ってからも続けて、三鷹で特快に乗り換えた。その後、立川で青梅行きに再度乗り換え、引き続きメモを取りながら揺られて拝島に掛かると、西南に傾いた太陽が建物の合間から姿を見せて光を送り、視界が折々橙に染まり、車のガラスや建物の側面が焼けつくように輝いている。
 しばらくして西の光が来なくなったので、陽はもう沈んだのかと見れば、雲が引き伸ばされて広く横に掛かったその後ろに入ったところらしく、雲は裏から照らされて一様に青灰色を、遠くの淡い山影と同じ色を全面に溜め、その下端から南の山に向かって光が洩れていた。携帯にメモを取り終えると手帳を眺め、青梅に着いてもすぐには降りない。車両の端の優先席には皺ばんだ顔に灰髪の老婆が就いていて、瞑目していると降りるのと聞こえたので目を開けてみれば、息子だろうか男性が腕を取って引き連れていくところだった。降りるの、と言った時の不安の滲むような声色に、あるいはいくらか惚けているのかもしれないなと見た。
 ちょっと経って手帳を切りの良いところまで読んでから電車を降り、重い紙袋を支えながら改札へ向かい、駅を出ると職場に入った。室長がデスクに就いていたが、本が一〇冊も入った重い紙袋に関しては、見えなかったのか何も触れられなかった。奥のスペースに荷物を置いておき、財布だけ持ってまた外に出て、コンビニへ行くと甘ったるいような旋律がBGMとして掛かっている。ツナマヨネーズのおにぎりと、チキンカツの挟まれたサンドウィッチを購入し、店員に礼を言って退店して、戻る道々あのメロディーは何だったかと考えて、Stevie Wonderの"My Cherie Amour"が出てきたがこの曲はあそこまで甘くはなかったと払ってすぐに、そうか、Bee Geesだと思い当たった。"How Deep Is Your Love"である。
 職場の奥で食事を取って、準備を済ませて六時から授業に入った。この日の相手は、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中一・英語)に、(……)くん(中三・英語)。前者二人はここのところ、ほとんど毎週当たっている。授業はいくらか散漫だった。まず、(……)くんは相変わらず宿題をやって来ていない。(……)くんも同様で、彼は授業中も最初のうちは、睡気にやられてふにゃふにゃしており、のちにはこの二人は友達同士なので雑談を旺盛に繰り広げもして、その雰囲気にやられたのか(……)くんも何となく滞りがちで、途中で机に突っ伏しながら問題を進めるような始末だった。雑談の合間に、(……)くんは、学校に行っていないのだと明かしてみせた。そのあたり、他人に言うことに抵抗はないのかと、こちらは少々意外に思ったのだが、毎週授業で当たって相応に馴れてきたということなのかもしれない。その後さらに、心理カウンセリングを受けているということも何かの折にふっと言って、何故かとこちらが問えば、精神を病んでいるからだと冗談めかして返してきた。しかしいわゆる精神疾患という風には見受けられない。何らかの学習障害があるらしいということは以前室長に聞いていたが、それはもしかすると、読み書きなどの障害というより、アスペルガー症候群ADHDの類なのかもしれない。
 声のあまり上手く出ない勤務だった。授業中もそうだが、生徒たちを迎え見送る際の挨拶が細く掠れて、力がなかったようだ。ここのところ、秋草の花粉にやられているのか、鼻水が鼻腔の奥に引っ掛かる日が多いそのためかもしれない。退勤して駅に入り改札を抜けたところで、間の抜けたことに買った本を職場に置き忘れてきたことに気がついた。それで駅員のいる窓口に寄って、職場に忘れ物をしてしまったので出たいのだと申し出て、機械でSUICAの処理をしてもらって道を戻った。こちらの姿を見ておかえりと言う室長に、忘れ物をしてしまいましたと照れ笑いを返して奥のスペースに行くと、忘れていたのは紙袋だけでなく、何と手帳も机の上に出しっぱなしだった。随分と迂闊なことだ。生徒たちの散漫さを、意に介さずに粛々と働いているつもりでも、知らず引きずられていたかと思った。それで荷物を整えて再度退勤し、ふたたび駅に入るとベンチに就いて、余っていたカルピスを飲み干してしまい、古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を読んでいると、入線してきた電車が耳を聾さんばかりのけたたましい警笛を轟かせて、あたりの人が皆一斉に何事かと視線を向ければ、どうやら中学生がホームの端を歩いていたか、警告を受けたものらしい。サッカークラブか何かの集まりなのだろう、同じ紺色の運動着を着て、いつもこの時間に駅に来る集団である。子供らは人々の注目を集めても懲りず、うるさいうるさいと燥いだ声を上げ、なかの一人などは警笛を向けられた仲間に向かって、そのまま死ねば良かったのに、と酷い冗談を言っていた。
 奥多摩行きに乗り込み、三人掛けに座って引き続き本を読むあいだ、アオマツムシの声が車両の壁を挟んで多少減じても、なおも盛んに響き通ってきて、線路の周りの草にいるものか、小学校の校庭の木々にいるものか、あるいはそこもさらに越えて闇に浸された丘の方からも鳴いてくるのか、外で野もせに鳴きしきっているのが知られる。最寄り駅に着いて降り、ホームを行けばこちらの脇で電車が発って、動物の鳴き叫びじみた線路の軋みを残して去っていく。そのあとから階段を上り、駅舎を抜けて坂道に入れば、秋虫の鳴きが幾分穏やかな風だった。車内でガラスを通して聞いた際の方が、かえって広く膨らんで響いたようだ。
 帰り着いた玄関には、見慣れないオレンジ色のスニーカーがあった。立川のいとこのYが来ているからで、と言うのは、彼はこの春から近間の中学校で体育の教師をしているところ、翌日が運動会で朝が早いから、立川までわざわざ帰るのではなく手近の我が家に泊まらせてほしいと、そういう願いだったのだ。居間に入ると母親と並んで卓に就いているYがいたので、よう、ともおお、ともつかぬ声を出し、続けてお疲れさまですと労働者ぶった。自室に帰って服を取り替え、食事に向かえば、Yが来るからといくらか豪華に調えられた食卓だった。と言っても唐揚げや、コンビニのアメリカンドッグやメンチカツのレベルではある。鶏肉をつまみにして米を食っていると、既に帰っていた父親も風呂から上がってきて、Yと二人で酒を飲みはじめた。こちらはボウルの生野菜を取り皿に盛り、黙々とものを食って大した会話は交わさなかった。辛うじて目立った話題と言えば生徒の話で、Yの勤めている中学校からもこちらの勤務先に通っている子供がいくらかいるところ、なかで(……)さんの名前が出た。Yは彼女と最近仲良くしていると言う。あの子は良い子だと頻りに褒めてみせるのだが、こちらはまだ一度しか当たったことがないので、仔細な人間性を掴めておらず、下の名前も思い出せないほどだった。
 テレビはクイズ番組、放送開始から五〇年にもなるという『ザ・タイムショック』を映して、父親とYは出題される問題に応じて熱心に声を上げて答えていた。途中でYに、立川図書館の利用カードを持っているかと訊いた。すると大学四年生の時に作った覚えがあると言うから、まだ最近のことで、好都合な話だ。良ければ貸してもらいたいと打診すると、全然良いよと軽い返答があったので、どうやら立川図書館の輝かしい蔵書をまた利用できることになりそうだった。一〇時に至ればテレビは『クローズアップ現代+』に移り、ジェフ・クーンズの、風船を膨らませて作った人形を模したような銀色の兎の像が、オークションで一〇〇億円ほどで落札されたと伝える。ジャン=ミシェル・バスキアの絵も、一つで一二三億円だかの値がついたものがあるらしく、バスキアの方はまだしも納得の行くような気がするが、往々「キッチュ」と言われるクーンズの、玩具じみた作品にそれほどの高値がつくのはこちらには理解できない領域の話だ。
 食後、風呂に行き、上がると挨拶もせずさっさと下階に帰ってしまったが、Yも翌日が早いので酒盛りはまもなくおひらきとなったらしく、隣の兄の部屋に下りてきて眠りはじめた。こちらは一一時から、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』の書抜きをしたあと、宮台真司苅部直渡辺靖「分断化された社会はどこに向かうのか」(https://dokushojin.com/article.html?i=479)を読んで零時を迎えた。以下、非常に長くなるが引用を並べる。

宮台 厳密には、金持ち白人が共和党候補に入れ、貧乏人とマイノリティが民主党に入れる構図は変わらなかったけど、ラストベルトを中心に没落労働者層がトランプに入れて結果が動いた。そこもローティに引きつければ「人権のユニバーサリズム」も「うまく回る近代国民国家」も幻想です。全ての等価交換は、起点での巨大な<贈与=剥奪>を前提する。この思考をフィジオクラシーと言います。ウォラーステインの世界システム論が典型です。「うまく行く国民国家」はフィジオクラティックな前提の上にある。ユニバーサリズムとフィジオクラシーが両立しないのは当たり前。分厚い中間層が続くはずもない。だから中間層の再生可能性もない。そこで既得権益をシェアできたはずの没落中産階級が「座席数の急減」で「誰かを叩き出すゲーム」を始めた。そこに出てくるのがセクシズムやレイシズム。差別主義に“戻った”のではない。誰かを叩き出す段になって仲間だと思えない奴を名指すのは当たり前。ローティによれば「誰と誰は平等だ」という言葉は無意味。性別・民族・宗教の異なる連中とフュージョンして遊ぶ感情教育がなければ、イザというとき性別・民族・宗教の違いでいつでも「叩き出し」が始まる。これまで既得権を得ていた白人が六割以上いるから、「誰と誰は平等」という言葉に過剰な意味を見出す文化左翼がのさばる間は、ヘイト現象こそが自然である、と。

だから僕自身トランプ当選の可能性が高いと思ったし、トランプ勝利を待望しました。待望の理由は、(1)野放図なグローバル化がもたらすものへの気付き、(2)正しいだけで楽しくないリベラルの愚昧への気付き、(3)対米追従を前提に座席争いするヘタレ官僚による引き回し(TPP、辺野古移転、原発再稼働…)への気付きに繋がるから。(2)と(3)は後で触れますが、(1)のグローバル化の野放図を放置してきた責任はリベラルにあります。三十年前のリベラル・コミュニタリアン論争で「正義」と「善悪」の差異が主題化されます。「善悪」は各人各様でも「正義」は“誰からも”支持され得る。さて“誰からも”とはどの範囲かと。九三年に論争が決着。所詮は国民国家内の話だとなりました。日本のリベラルは国民国家内でさえなく、九条護持を掲げて平和主義を気取りつつ、安全保障を米国に依存して負担を沖縄に押しつけた。「見たいものしか見ない」御都合主義の典型です。リベラリズムユニバーサリズムどころか所詮はコミュニタリアニズムの変種に過ぎない。これが論争が与えた気付きです。ならば問題を覆い隠すユニバーサリズムを諦め、コミュニタリアニズムとコスモポリタニズムの両立可能性という細い道を歩むべきです。九三年以降のロールズが言う「重なり合う合意」とはそういうもの。鈴木邦男氏が言う「右翼国際主義」が典型です。その場合、コミューナルな範囲は沖縄差別問題が示すように国民国家より小さい。ヒラリーが勝ってたら、九三年に思想としては敗北したリベラル・ユニバーサリズムがゾンビのように延命し、“茹で蛙”よろしく留め置かれた我々は、どこかで巨大な揺り戻しを経験したはず。野放図なグローバル化にどう制約をかけて、コミューナルなコスモポリタン化というグローバル化の新たなステージに向かうべきか。それを考える機会を提供してくれたトランプ当選は歓迎されるべきです。

宮台 もう方向性は示されました。(2)の「正しいだけで楽しくないリベラル」が関連します。世界中でリベラルや左翼が退潮する理由がそれ。「正義」の軸と「享楽」の軸があります。昨今のリベラルは「正しいけど、楽しくない」。河野太郎と洋平の区別も付かずに河野談話問題で太郎を批判するウヨ豚が、勘違いを否定されて直ちに「それでも太郎は気にくわねえ」と居直るように、「享楽」に向けた疑似共同性の樹立が賭けられている以上、「正しくない」との批判は痛くも痒くもない。「正義」と「享楽」の一致が稀という問題を伝統的に主題化してきたのは大衆社会論です。中間層が空洞化して、分断された個人が、これから貧困化していくという不安に苛まれる場合、「正義」と「享楽」が分離して「享楽」へとコミットするようになると。「権威主義的パーソナリティ」を論じたフロムが、絶対的貧困度とは別に見出した全体主義化の集合的な主観的条件です。ならば、中間層の分解過程では自動的にリベラルよりウヨクが有利になる。この流れの中で「正しさ」に粘着すると、「正しさ」を口実にマウンティングしたいだけの浅ましい輩に見えます。それに気が付かずに「正しくない」と批判し続けるのは、ユニバーサリズムも所詮「仲間内の平等」に過ぎないという(1)の問題を横に置いても、能天気過ぎます。戦後の効果研究が示した通り「正義」と「享楽」の一致条件は分厚い中間層が支えるソーシャル・キャピタル(人間関係資本)。仲間に自分が埋め込まれているという感覚があれば、仲間を傷つける奴に憤ることが「正義」かつ「享楽」になる。

夏の参院選で解散したSEALDsの奥田愛基氏にも申し上げて来たけど、人が「正しさ」から離れているのは、こうした一致条件を無視して「正しさ」をベースにマウンティングするばかりで「享楽」の輪を少しも拡げられないリベラルのせい。リベラルに必要なのは「正義」と「享楽」の一致だけど、既に申し上げた理由で一致条件を中間層の復活には探れない。ならばテクノロジーを駆使して工夫するべきです。ただし「正しいけど、楽しくもある」じゃ駄目で「楽しいけど、正しくもある」が必要です。鬱屈した人は「享楽」が欲しいのだから「同じ楽しむなら、正しい方がいいぜ、続くし」と巻き込むのがいい。(……)

渡辺 トランプの場合、発言の七五パーセントぐらいが、事実に基づかないという調査もある。だけど彼のコアな支持者からすると、そんなことにはあまり拘泥しない。そこにカリカリするのはリベラルであって、トランピストが求めているのはそういうことではない。ポリティカル・コレクトネスに反することをズケズケと言う。そこにトランプの誠実さを見出し、なおかつそれだけの度胸を兼ね備えたタフガイであると見なす。エリート・メディアがトランプを叩けば叩くほど心情的にトランプにシンクロしてゆく。そうした歪んだコミュニタリアンまがいのネットワークができてしまうのが、今の時代のややこしいところです。フェイクニュースも厭わないフェイクコミュニテイというか……。

ただ、やはりもう一度考えてみたいんですが、新自由主義に象徴される今日のグローバル化した社会の中では、ミドルクラスが瓦解し、格差が拡大し、取り残され、忘れられてしまう人たちがどうしても出てくる。そういう人びとに対して、もう一回社会の中に然るべき尊厳と居場所を与えることは可能なのか。たとえば富裕層の累進課税率を高くして、再配分する。結果としてミドルクラスが育っていけば、購買力もつき、消費も盛んになるのでビジネスのマーケットも広がる。治安も改善するかもしれない。中長期的にはいろんな恩恵がある。そのことに富裕層の人も気づくはずだと思いますが、この時代においては説得力がない。

トランプがやろうとしているのは、まさにレーガノミクスの再来、トリクルダウンです。しかし理論通りにはトリクルダウンはしない。上は上で溜め込んでしまうし、タックスヘイブンを介して税逃れもできる。レーガン時代からアメリカの格差社会は顕著になりました。そうなると、トランプノミクスによって、この傾向が繰り返されることになる。つまりミドルクラスはますます縮小する。さらにロボットやAIが進化すれば、持てる者はさらに高度な生産手段を持ち、低学歴・低スキルの労働者たちはますます太刀打ちできなくなる。おまけに再分配も敬遠されるとなると、末恐ろしい世の中になる気がします。

宮台 繰り返すと近代は資本主義・主権国家・民主政のトリアーデですが、資本主義のグローバル化が中間層を貧困化させて社会が空洞化すると、Brexitが象徴するように選挙や国民投票が「資本と主権とどちらが重要かを、民主で決める」図式に陥る結果、主権が選ばれて排外主義化する。するとグローバル化する新興国に抜かれて貧困化がさらに進み、ますます排外主義的に主権化し、経済的に沈下する。トリクルダウン策を採らなくても必然的に悪循環が回ります。必要なのは主権を制約してグローバル化を制御するグローバル・ガバナンスだけど、EUのドイツ民間銀行一人勝ちの帰結や、TPPの米国富裕層一人勝ちの図柄が、希望を挫きました。トランプ選出は気付きの機会だけど、トランプ自体はコミューナルなグローバル化に向かう政策を持たない。

でも、世界の貿易量が減り、グローバル化が新フェーズに入りつつある事情を見逃せない。賃金や土地が上がった中国が消費社会化で内需が膨らんだ結果、中間生産財から最終生産財までを中国国内で作るようになり、中間生産財輸出型ビジネスモデルが終わりつつあります。インドやミャンマーが中国の道を追走できるわけではありません。テクノロジーの高度化が、コスト面で資本をワザワザ他国に持ち出す必要を免じるだけでなく、物やサービスの安価さよりも微細なサービスの質で勝負をするゲームをもたらすからです。長い目で見れば地産地消型のローカル経済を回すグローバルなIT産業を前提としてグローバル化を回すという新フェーズに入ります。六〇万都市の米国ポートランドが象徴的ですが、今は胡散臭くてもクリエーティブ・シティの方向に向かうしかない。共同体を空洞化させる旧式のグローバル化にブレーキをかけ、新式のグローバル化のスロットルを踏む政策的選択肢が採用される必要があります。テクノロジーの発達をコミューナルなものの刷新に結びつけられない限り、民主政が妥当な政治的決定を出力し続けることは今後不可能です。

人文系の学者が不得意なテクノロジーの要素に注目するべきです。トランプ支持のオルタナ右翼は馬鹿だけど、中には「新反動主義者」と呼ばれるシリコンヴァレーの有力テクノロジストが含まれていて馬鹿じゃない。ピーター・ティールのような人たちです。彼らは「制度による社会変革」を信用せずに「技術による社会変革」に思いを託します。結局は他人を傷つけずに幸せになれれば――「享楽」できれば――良いのです。かつては制度的再配分しかありませんでしたが、今は<世界体験>をテクノロジーで制御できます。我々には<世界>(現実界)が直接与えられることはなく、我々が手にするのは<世界体験>(想像界)で、それは言語プログラム(象徴界)に媒介されています。<世界〉を<世界体験>に媒介する関数が言語プログラムとしての社会。この媒介を言語が作り出すテクノロジーが支援する割合が膨らみつつあります。ポケモンGOのような拡張現実が示すのは、かつて物の配分が可能にした幸せという<世界体験>へのアクセスが、情報の配分で平等化される可能性です。制度と違って技術は個人ごとにカスタマイズ可能だから多様な幸いを保障できます。元々はマルクーゼが五十年前に示した、テクノロジーが高度化すれば人間は理性的な存在である必要を免除されるとする思考です。このビジョンを小説化したJ・G・バラードの原作を映画化したのが『クラッシュ』と『ハイ・ライズ』。映画を観ると現実的だと思えます。このビジョンをコミューナルなコスモポリタニズムと結びつく形に展開できれば、支配・被支配関係の非倫理性をある程度退けつつ地域社会の持続可能性を確保できます。

苅部 宮台さんは『まちづくりの哲学』(蓑原敦との共著、ミネルヴァ書房)の中で、「顔が見える我々の再設定」ということをおっしゃっていましたよね。そういう試みを通じて、経済的に下層へ落ち込んでいるような人たちを、地域のつながりの中に引き止め、政治的な判断力を養っていく。それは有効な選択だと思いますね。

宮台 素朴だけど「仲間になる」のは大事です。進化生物学や分子考古学が示す通り、『宇宙大作戦』のスポック博士的にはノイズでしかない感情をヒトが持ち続けて来たのは、自発性(損得勘定)を超えた内発性(内から湧く力)がなければ、言語が支える社会の存続に必要な動機付けを調達できないからです。知れば為す(孫子)つまり合理的ならそれを人は意志するという立場が「主知主義」で、不条理ゆえに我信ず(テルトゥリアヌス)つまり端的な不合理を人は意志するという立場が「主意主義」ですが、比較認知科学が示す通り「他人のために命を投げ出す」という貢献性や利他性を支える“不合理な”感情の言語以前的な遺伝基盤を考えれば「主意主義」に軍配が挙がります。そこでもテクノロジーが役立つ。テクノロジーが支える関係が感情的な絆をもたらす可能性。「インターネットでの性別・年齢・収入を捨象した不完全情報のコミュニケーションが、昔あり得なかった匿名的関係をもたらしたものの、所詮は損得勘定優位で絆には程遠い」というのは確かだけど、感情の働きを踏まえたテクノロジーが未発達な現段階の話てす。ギテンズが二十年前に述べた通り、家族は大切でも、昔ながらの血縁主義的家族や安定した二世代少子家族を維持するのは不可能だから、「疑似家族」でしかないものも“一定の機能”を備えたら家族として認めるべきで、さもないと社会が続かない。その“一定の機能”をテクノロジーが支援できます。そうした機能主義的思考、「機能の言葉」が必要です。「家族」の項に「恋愛関係」や「友人関係」や「共同体」を入れても同じ。かつてのミドルクラスが戻らない以上、それが支えた共同性やソーシャル・キャピタルも戻らないけど、テクノロジーを踏まえた「機能の言葉」が希望を与えます。ただ「それは真の家族ではない」と「真実の言葉」に粘着するイメージ保守が邪魔する。

宮台 欧米の公は、内集団(所属集団)と外集団(非所属集団)を含んだ包括集団(市民社会)の原則だけど、日本の公は、滅私奉公の公で、所詮は内集団(所属集団)の原則に過ぎません。だから家庭生活が公になったりします(笑)。さて、なぜ社会で実体験を積むことが良いのか? 人は記憶の動物です。昔あったはずのプラットフォームを取り戻そうとするのは自然です。でもプラットフォームの前提が崩れれば取り戻しは現実化できない。家族も地域も崩れて来たけど、「機能が同じだから、これを家族として新たに認めよ」と迫ったところで疑似家族・疑似地域への同意は得られません。ならば、家族的だ、地域的だとかつての境界線を参照せず、別の境界線を持つ「仲間」を自在に作り出すことも大切です。ならはSEALDsがやろうとしたことには意味があったと思います。彼らが組織した国会前デモに参加した人には各人の動機があったけど、多くの人が言っていたのは、大学や会社では出会えない人と出会えるのが楽しかった。これは重要です。今まで仲間になれないと思っていた人と仲間になれるとわかる。そういう機会を作ってくれたのは誰だろうと考えて、社会的な想像力を開いていくことがあり得ます。その意味でSEALDsは一定の成果を残しました。安保法制を止められたかはさして重要ではない。どんな政治的なコミュニケーションをして、どう楽しさを持ち帰れるかを、示しました。

渡辺 トランプの集会に来ていた青年たちにインタビューしたテレビ番組をアメリカで観たのですが、「なぜここに来てるのですか?」と聞かれて、「女の子に会えるから」と答えている人がいましたよ(笑)。

宮台 大事です。それをリベラルが理解していない。関連しますが、今回LGBTの十五パーセントがトランプに入れている。ゲイに限ればかなりの割合がトランプに投票しました。「LGBTと言えば権利獲得」という先入観がリベラルにありますが、思い込みです。日本でもゲイバーに女連れで遊びにいくと「マ◯コ臭い」と嫌がられるでしょ(笑)。どこの国にもミソジニスト(女嫌い)のゲイが多数います。その現実を知らないから「LGBTと言えば権利獲得」と誤解する。権利獲得は大切でも、性愛の幸せは権利獲得では得られない。性愛こそ「正しさ」より「享楽」だからです。権利獲得で幸せになれると考える輩はゲイ界隈で嫌がられます。

宮台 天皇を御意思なき存在に留めることが「聖なる力」を奪いますが、政治的発言の失敗も「聖なる力」を奪います。木村草太氏が言う通り、明治はじめに井上毅伊藤博文の戦いがありました。井上は天皇をドイツのカイゼルのような元首にしようとした。伊藤は天皇は人形でいいと考えた。結果的に「人形でいい派」が今日までメインストリームであり続けています。「田吾作による天皇利用」のためです。でも我々は近代社会を営んでいるはずです。ならば天皇も意思する存在であるのを無視しちゃいけない。天皇は意思も価値観もお持ちだけど、日本人のために極力表に出さないようにしておられる。そのお気持ちに応えなければいけない。コール&レスポンスが必要です。さもないと「ならば言いたいことを言わせてもらう」「天皇をやめるわ」という話になりかねない。実際「天皇をやめる」と宣言されたら、制度ではどうしようもありません。天皇「制」と呼ばれていますが、憲法第一章を熟読すれば分かる通り、制度ではなく、陛下がそのようにして下さっているという事実性です。近代憲法に聖なる存在の事実性が書き留められるのは奇妙ですが、さもないと日本人は立憲主義的な近代社会の体裁を保てないんです。

 そうして次に、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』のうち、書抜き候補の箇所を確認しながら気になった文言を手帳に写していった。黙々と作業を進めて一時半を過ぎたあと、コンピューターを停止させ、ベッドに移って読書に入ると、カーテンの向こうのひらいた窓から流れ込んでくる夜気が、思いの外に涼しく脚に触れる。肌寒さを嫌って薄布団を身に引き寄せているうちに、いつものことで意識が消えて、正気を取り戻した頃には何と、午前五時をだいぶ越えていた。朝空は既に白みはじめて、カーテンを閉ざしていても淡白な明るみが部屋に入りこんでくるなかで、構わず横たわって眠りに入った。


・作文
 8:38 - 9:56 = 1時間18分
 10:13 - 10:57 = 44分
 計: 2時間2分

・読書
 11:06 - 11:42 = 36分
 12:17 - 13:10 = 53分
 19:55 - 20:19 = 24分
 23:00 - 23:26 = 26分
 23:27 - 24:00 = 33分
 24:10 - 25:36 = 1時間26分
 25:39 - ? = ?
 計: 4時間18分 + ?

・睡眠
 3:30 - 8:00 = 4時間30分

・音楽

2019/9/24, Tue.

 死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側――私たちが私たちであるかぎり、私たちは常に生の側にいる――からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること、それが一切の発想の基点である。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、11~12; 「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」)

     *

 最初の淘汰は、入ソ直後の昭和二十一年から二十二年にかけて起り、私の知るかぎりもっとも多くの日本人がこの時期に死亡した。死因の圧倒的な部分は、栄養失調と発疹チフスで占められていたが、栄養失調の加速的な進行には、精神的な要因が大きく作用している。それは精神力ということではない。生きるということへのエゴイスチックな動機にあいまいな対処のしかたしかできなかった人たちが、最低の食糧から最大の栄養を奪いとる力をまず失ったのである。およそここで生きのびた者は、その適応の最初の段階の最初の死者から出発して、みずからの負い目を積み上げて行かなければならない。

 すなわちもっともよき人びとは帰って来なかった。  (フランクル『夜と霧』)

 いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまったのである。
 適応とは「生きのこる」ことである。それはまさに相対的な行為であって、他者を凌いで生きる、他者の死を凌いで生きるということにほかならない。この、他者とはついに「凌ぐべきもの」であるという認識は、その後の環境でもういちど承認しなおされ、やがて〈恢復期〉の混乱のなかで苦い検証を受けることになるのである。
 (28~29; 「強制された日常から」)

     *

 このような食事がさいげんもなく続くにつれて、私たちは、人間とは最終的に一人の規模で、許しがたく生命を犯しあわざるをえないものであるという、確信に近いものに到達する。第二の堕落はこのようにして起る。食事によって人間を堕落させる制度を、よしんば一方的に強制されたにせよ、その強制にさいげんもなく呼応したことは、あくまで支配される者の側の堕落である。しかも私たちは、甘んじて堕落したとはっきりいわなければならない。ハバロフスクでの私たちの恢復期には、おおよそこのような体験が先行している。
 (38~39; 「強制された日常から」)


 七時四〇分頃に、既に意識は朧に現に戻っていた。しかしすぐには起きられず、八時のアラームを待ってベッドから離れ、コンピューターを点けてTwitterを確認したのち、上階に行った。洗面所に入って顔を洗うとともに櫛付きのドライヤーで髪を梳かし、それから冷蔵庫のなかのフライパンを取り出す。中身はカレーである。大皿に盛った米の上に、冷えたカレーを掛け電子レンジに入れて二分半、待つあいだは卓に就き新聞を眺めていた。テレビが映しているのはNHKの朝の連続テレビ小説、『なつぞら』である。電子レンジが加熱終了の音を立てると台所に行き、高熱を宿した皿の両端を持って落とさないように慎重に運び、食事に取り掛かった。カレーには何故か、不似合いなものを、竹輪が入っていた。食べ終えると冷蔵庫で冷やした水を汲んできて抗鬱剤を服用し、食器を洗ってから下階に帰って、そうして八時四〇分からベッドに乗って読書を始めた。早く起きることが叶ったこの午前中で、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を読み終えてしまう意気込みだったのだ。姿勢をあまり低くしなければ眠気に刺されて力尽きる可能性がいくらか減じると気がついたので、クッションと枕に凭れて脚を伸ばしながらも身体を水平に倒さず上体を持ち上げたまま保つように心掛けた。窓の向こうに覗く空には綿の集合のように細かく寄り集まった鱗雲が掛かっており、太陽はそのなかに引っ掛かっているものの、陽射しを薄く突き通してベッドの上に宿らせて、脚を温める時間もあった。眠らないための努力にもかかわらず、いつか気づけば瞼は閉じて意識は消失しており、断続的な混濁に見舞われて、一一時一五分まで苦しむことになった。おそらく、一〇時頃から眠っていたのではないか。その後は意識の平明さを取り戻し、覚醒を保って書見を続け、一二時一〇分に至って本を仕舞えた。ベッドから降りてコンピューターに近寄ると、『SIRUP EP』を流し出してAmazonにアクセスし、『ナチスの戦争』に付されていた参考文献を中心に、ホロコーストナチス・ドイツ関連の書物を次々と「ほしいものリスト」に加えていった。それが終わると時刻は一二時半を過ぎ、母親から雨が降ってきたとのメールが届いたので上階の洗濯物を取り込みに行った。ベランダに出てみると確かに、雨は細かくはらはらと散っているのだが、同時に陽射しも斜めに渡って床を明らめている、不可思議な天候だった。それでも一応、吊るされたものをすべて屋内に入れておき、バスタオルや足拭きマットなどはソファの背の上に広げておいて下階に戻ると、一時前からMさんのブログを読み出した。続けて過去の日記も二日分読み返し、二〇一六年六月八日水曜の記事をブログに投稿しておくと、fuzkueの「読書日記」も九月一一日の分を読んで時刻は一時二〇分、日記を書き出し、ここまで記すと一時半を回っている。そろそろ腹が、空虚さに呻いている。
 食事を取ることにして上階に行けば、母親はもう帰宅済みだった。洗濯物をまた出したのかと訊けば、足拭きだけ湿っているようだったから出したと言う。台所に入ってカレーのフライパンを冷蔵庫から取り出し、大皿によそった米の上にすべて払ってしまって、電子レンジに突っ込んだ。二分半を待つあいだは何をするでもなく居間に立ち尽くし、『ごごナマ』に美川憲一が出演しているのを眺めたりしていたが、じきにレンジの前に移って首をゆっくり回したり、肩を上下に回してほぐしたりしながら加熱を待った。そうしてカレーが温まると皿を運んで卓に就き、スプーンで掬って口に運ぶ。加えて母親が、キャベツなどを和えたサラダを小鉢に用意してくれたので、それらを食いながら新聞の三面、英国ではジョンソン政権に対抗するはずの野党がしかし不揃いで一致団結出来ていないという趣旨の記事に目を通した。食後には、母親が注いでくれた緑茶を口にした。先日も、葬式の返礼で貰ったという茶を飲んだのだが、それは全然美味くなかったところ、今回のこれも別の機会のお返しで貰ったものらしいが、先日のものよりはまだましであっても雑味が多くて後味がすっきりしない点では大して変わりもなかった。カフェインを摂っても何の問題もない身体になったし、これから暑さも減じて来ようから食後の一服や作業の供として緑茶を飲みたいが、葬式の返礼品の茶というものはどれもこれもあまり美味くもない。品のない苦味の緑茶を飲み干すと台所に移って母親の分もまとめて食器を洗い、それから風呂も洗った。そうして続けてアイロン掛けに入る。父親のシャツを何枚も、加えて母親のエプロンやハンカチ類を処理したのだが、その傍らで彼女はやはり先日の、Kのおばさんの葬式で貰ったという緑茶を出してきて、これは高いんじゃない、などと漏らしている。静岡産の茶葉らしく、箱のなかに缶が三つ入っているもので、一万円あげたお返しなので五〇〇〇円くらいはするのではないかと言う。三缶で五〇〇〇円なら結構なものだが、所詮は法事の返礼品なのであまり期待は出来かねるだろう。
 炬燵テーブルの縁に向かって膝立ちになってアイロンを操っていると、ソファに就いていた母親が、雨が降ってきた、と訊いて、耳を澄ませてみれば確かに窓外に静かな打音が立っている。それでベランダに干してあった足拭きマットは取り込まれ、アイロン掛けを続けているあいだに雨は本降りになって、石灰水の色をした雨粒が秋を控えて幾分和らいだ濃緑の木々を背景に、ことごとく地を指して柔らかな針のように流れた。
 アイロン掛けを終えるとシャツをソファの上に放置して階段を下り、居室に戻るとJunko Onishi『Musical Moments』とともに日記を書きはじめた。前日分を早々と仕上げ、この日の記事にもここまで文を書き足すと三時を回っている。雨は早くも止み絶えたようだ。
 出勤の支度を始めるまでの猶予で英文に触れることにして、Verna Yu, "Riot police fire teargas at Hong Kong protesters as unrest escalates"(https://www.theguardian.com/world/2019/sep/21/pro-china-supporters-tear-down-hong-kongs-lennon-walls)をまず読んだ。苛烈さを増す香港での抗議運動に際して、まだ僅か一三歳の少年少女が二人、逮捕されたという報だ。それから次に、George Yancy and Noam Chomsky, "Noam Chomsky: On Trump and the State of the Union"(https://www.nytimes.com/2017/07/05/opinion/noam-chomsky-on-trump-and-the-state-of-the-union.html)を読み出したが、一日三〇分が目安のはずが、触れているうちにすべて読み通してしまおうと興が乗り、しかし結構長い談話で四時半を前にしても仕舞えなかったから、一旦切って湯を浴びに行った。居間に吊るされたタオルを一枚取って洗面所に行き、肌着を脱いで浴室に踏み入ると、温かなシャワーを流し出し、汗の臭いの付着した身体を洗っていった。シャンプーを用いて頭も洗うと外に出て、下着を替えてパンツ一枚で下階に戻ってくると、歯を磨きつつ英文記事の続きを追った。四時五〇分には読了した。チョムスキーの英文は明快かつ平易で、こちら程度の読解力でも滑らかに視線が流れ、読みやすいものだった。それからceroの音楽を響かせながら仕事着に着替えたあと、インターネットに繰り出して、ほかにもチョムスキーのものした記事を探すと、Chomsky.InfoというオフィシャルページにインタビューもArticlesも対談もまとめられていたので、URLをメモしておいた。英文を読んでいるあいだはオンラインの辞書サービスを用いて語彙を次々と調べては記録していたのだが、以下にそれをまとめて掲げ、さらにチョムスキーのインタビューで気になった部分も引いておく。

・riot police: 機動隊
・drawn-out: 長期に渡る
・vandalistic: 公共物破壊の
・light rail: 路面電車
・hurl: 投げつける
・desecrate: 冒涜する
・cat-and-mouse game: いたちごっこ
・offering: 捧げ物、奉納の品
・projectile: 投射物
・morph: 変化する、姿を変える
・trash: 滅茶苦茶に壊す
・gracious: 丁重な、快い
・gnat: ブヨ
・apropos: 適切な
・precipice: 断崖、絶壁
・hitherto: これまで
・unpretentiously: 見栄を張らずに、気取らずに
・bleak: 暗い、希望のない
・entrance: 夢中にさせる、うっとりさせる
・antic: 滑稽な態度
・prerequisite: 必要条件、前提条件
・shenanigan: 不正行為、ペテン
・make inroads: 入り込む、侵入する
・bluster: 大言壮語
・cower: 縮こまる
・by a factor of: ~倍で
・reflexive: 反射的な
・contrive: 作り出す、考案する
・oblivious: 気が付かない、無関心でいる
・huddle: しゃがむ、うずくまる; 身を寄せ合う
・second: 賛成する
・reserved: 控えめな
・given to: ~する傾向がある、~しがちだ
・oscillate: 振り子のように揺れる
・surreal: 超現実的な
・not least: とりわけ
・servile: 卑屈な
・deference: 服従
・affluent: 裕福な
・cast aside: 見捨てる
・dire: 緊急の、切迫した

On nuclear war, actions in Syria and at the Russian border raise very serious threats of confrontation that might trigger war, an unthinkable prospect. Furthermore, Trump’s pursuit of Obama’s programs of modernization of the nuclear forces poses extraordinary dangers. As we have recently learned, the modernized U.S. nuclear force is seriously fraying the slender thread on which survival is suspended. The matter is discussed in detail in a critically important article in Bulletin of the Atomic Scientists in March, which should have been, and remained, front-page news. The authors, highly respected analysts, observe that the nuclear weapons modernization program has increased “the overall killing power of existing U.S. ballistic missile forces by a factor of roughly three — and it creates exactly what one would expect to see, if a nuclear-armed state were planning to have the capacity to fight and win a nuclear war by disarming enemies with a surprise first strike.”

The significance is clear. It means that in a moment of crisis, of which there are all too many, Russian military planners may conclude that lacking a deterrent, the only hope of survival is a first strike — which means the end for all of us.

G.Y.: (……) Should we fear a nuclear exchange of any sort in our contemporary moment?

N.C.: I do, and I’m hardly the only person to have such fears. Perhaps the most prominent figure to express such concerns is William Perry, one of the leading contemporary nuclear strategists, with many years of experience at the highest level of war planning. He is reserved and cautious, not given to overstatement. He has come out of semiretirement to declare forcefully and repeatedly that he is terrified both at the extreme and mounting threats and by the failure to be concerned about them. In his words, “Today, the danger of some sort of a nuclear catastrophe is greater than it was during the Cold War, and most people are blissfully unaware of this danger.”

In 1947, Bulletin of the Atomic Scientists established its famous Doomsday Clock, estimating how far we are from midnight: termination. In 1947, the analysts set the clock at seven minutes to midnight. In 1953, they moved the hand to two minutes to midnight after the U.S. and U.S.S.R. exploded hydrogen bombs. Since then it has oscillated, never again reaching this danger point. In January, shortly after Trump’s inauguration, the hand was moved to two and a half minutes to midnight, the closest to terminal disaster since 1953. By this time analysts were considering not only the rising threat of nuclear war but also the firm dedication of the Republican organization to accelerate the race to environmental catastrophe.

 既に五時を回っていた。cero "POLY LIFE MULTI SOUL"を流して歌い、三分ほど余して途中で切ると、バッグを持って階を上がった。黒くて薄い生地の長靴下を仏間で履き、ハンカチをポケットに持って玄関をくぐり、道を歩き出すと行く手の奥に、杖を突いて歩幅も狭いらしくゆったりと歩く老人の姿が見える。近所に住んでいる、I.Kのお祖父さんだろうかと見た。リウマチで一度死にかけたものの息を吹き返して養生していたところ、先般父親が畑仕事のあいだに散歩に出会ったと言っていたのを思い出したのだ。また歩いているのならば結構なことではないかと距離を縮めていくとしかし、顔の形など見るにどうも件の人ではない。空には防災放送が渡って尋ね人の知らせを聞かせるそのなかで近づくと、見知らぬ老人は突然こちらを振り向き目を合わせて来たので、無言で会釈して追い抜かした。そうして入った木の間の坂は、足もとがじめじめと暗く濡れて湿り気が湧き昇るようであり、落葉も水を含んで繊維を崩し、路面に汚く貼りついている。ツクツクホウシが、九月もよほど押し詰まったこの夕べにもまだ聞こえた。道を急がず上りながら不意に、何というきっかけもないが、古井由吉という名前を思い出した。それで『ナチスの戦争』を読み終えたその次に、最新の『この道』でなくて一つ前のものになるが、古井の『ゆらぐ玉の緒』でも読み返そうかという気になった。尋ね人の知らせは放送位置を変えて繰り返されており、八八歳の老人が自転車で家を出たきり行方不明、髪は白髪で何色の服を着て、と間をたっぷり置きながら述べられる一言一言が乱されず明瞭に耳に届いた。
 駅の階段に掛かり見上げた西空に、霙っぽいような細かな雲が合間に青を流し込まれながら群れ集まって、下腹の方から浮き上がる陽に触れられて一斉に薄明るんでいる。ホームの先まで行ってからもう一度西を振り向けば、空の端に浮かんだ雲はほかより幾分色が強くて、熾火のように暖まっている。それを見てから手帳を取り出し、まもなく着いた電車に乗ると扉際で視線を落とし、降りるとベンチの前に立ち尽くしてほかの客が捌けるのを待って階段口に向かった。通路を行きながら、捲った袖の縁の肌に汗が滲むのを感じるが、同時に粘っこい鼻水も右の鼻腔に引っ掛かっていた。
 授業の準備を済ませてから入口傍で生徒を出迎えれば、たびたびひらくドアの彼方、ビルの上端に触れて残照の終末の一帯[ひとおび]がくゆって、空は大方紺青に濡れ沈んだなかにそこだけ幽か、明るんでいる。授業は一齣、(……)くん(中三・国語)、(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中三・英語)の三者を相手にした。英語の二人は単語テストの勉強をしてこなかったと言うのでそれは省略した。その場で勉強の時間を取ったところで長期記憶に残るものでもなく、率直に言ってその分の時間が勿体ない。生徒が学習してこなかった場合はテストを実施しない方針を取ろうかと考えている。二人とも、今日扱ったのは関係代名詞だが、(……)さんはまだしも復習も一頁扱えたところが、(……)さんはこちらが近くにいなければやはり手が止まりがちで、最近切ったようで短くなった髪の毛で俯いた横顔を隠しながら何をやっているのか、携帯を弄っている風でもないのだが、手を遊ばせているのが困り物である。(……)くんは森鴎外の「高瀬舟」、及び俳句について扱って、特段の支障はないがそろそろテキストの問題の方が尽きる。
 授業後、帰っていく生徒たちを見送ってふたたび入口傍に立っていると、扉が開くたび、野などないのだけれどまさしく野もせにといった勢力で鳴きしきっている虫の音が広がった。八時前に職場をあとにした。駅に入ってホームに上ると自販機に寄り、いつもの習慣で二八〇ミリリットルの小さなコカ・コーラを買い、ベンチに就いて手帳を出すとともに封を開けた。ぽん、と小気味良い音が鳴ると同時に漆黒の炭酸水の、その縁を取り囲むように微小な泡が大挙して湧き、空気を求めて這い上がってくるが、口から噴き出すほどの勢いはない。手帳を眺めつつ、ゆっくりと間を置いて一口ずつ飲み、飲み干すとボトルを捨てて、まもなく来た電車の三人掛けに入れば、腰を下ろすと同時に向かいの男子高校生が、思春期にありがちなことで無意味な反感を籠めたような視線を上目がちに送ってきてすぐに逸らした。瞑目しながら手帳の文言を反芻しているうちに発車も近くなって、間際に乗り換えてきた客のなかに軽薄そうな男があり、見れば学生の隣に座る。彼女が出来たか云々と話すのを聞けば同級生らしく見えるが、キャップを被った私服姿なのはあるいは高校に行っていないのだろうか。和やかに笑いながら一頻り喋ったあと、二人はふっと沈黙に落ちて、間を持て余したのかそれぞれの携帯を見つめ出し、私服の方は両耳に白いイヤフォンも挿していた。
 最寄りの駅舎を抜けるあいだ東西南北どちらを向いても、夜の背景を金属の壁のように埋め尽くす秋虫の音に突き当たる。通りを渡って坂に入ってからも壁は続き、なかからそれと似て凛と澄明だが、幾分変音気味に撓む声が揺蕩うのは、これがおそらく鈴虫のものらしい。この日は木の間に風は吹かず空気は停まって木も鳴らず、下りていって沢の近くでは昼間の雨の名残か、濡れた草の匂いが淡く香った。
 帰り着いて居間に入るとワイシャツのボタンを外して服を身から剝ぎ取る。炒飯が美味しくてこれだけになっちゃったと母親が言うのを見れば、台所の調理台の上の皿に炒めた米が入っており、その隣には厚揚げも用意されてあった。洗面所の籠にワイシャツを突っ込んでおくとねぐらに帰って、スラックスを脱ぐとともにコンピューターを点け、肌着姿で起動を待ちつつ書棚から古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を取り出して、冒頭を読んだ。一読しただけでも感じ取れる文の切れだった。流石、身を削るようにして、夜叉の如く、緻密な推敲を何周も重ねているだけのことはある。この文章の密度であれば、おそらく何を書いてあっても自分は愉しめるだろう。それに感化されたということもあるか、コンピューターが整うと日記をひらいて、この日の文を頭から読み返し推敲を始めた。毎日ただ書けば良いだけの営みに、わざわざ推敲の労を掛けるなど、馬鹿げている。内容も内容で地味で退屈な日常だから、文言を少し取り替えたところで文章が急に華やぐものでもない。しかし止まらず、音調を掴むように誘い寄せるようにして、読点の有無や位置にまで気を配って直していく。
 九時過ぎまで文を弄ると上階へ、先に湯を浴びることにして仏間の簞笥から下着を取り、風呂場に行った。温みのなかに身体を浸しながら、文章の要となるのはやはり音なのだろうと考えた。音と一口に言って、いわゆる聴覚的なリズムのみのことではない。意味の順序と流れ方も合わせての話だ。意味と音とはどちらが損なわれてもならない二つながらのものであり、意味が音律を誘い招き、音調が意味を引き寄せる、そのような調和と拮抗の相関こそが文章の要諦と見た。
 出てくると夕食に入る。炒飯に厚揚げ、それに鮭と惣菜の乗った皿をレンジで温めてから卓に就く。夕刊を見やりながら厚揚げを千切って口に運ぶと珍しい味がして、これは何かと訊けば、カレーの余りに麺つゆを混ぜて味付けたものだと言う。惣菜の揚げ物は、南瓜で満たされた甘く柔らかいコロッケに、メンチカツにイカフライで、それぞれにソースを掛けて食べ、最後に炒飯を平らげてから薬を飲むと、皿を洗って居室に帰った。cero『POLY LIFE MULTI SOUL』を流して九時四〇分からふたたび文章に取り掛かり、書き進めながらたびたび前に戻って文の流れ方にこだわっていると、あっという間に一一時を過ぎた。それどころか、再度の推敲を施してここまで辿り着くと二時間が経って、九月二五日も間近になっている。
 織田朝日「自殺未遂、ハンスト……。入管に収容された外国人たちが、命をかけて訴えるもの」(https://hbol.jp/200449)を読んだ。続けて姜尚中宮台真司・堀内進之介「感情が動員される社会を生き抜くには 堀内進之介著『感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか』(集英社)刊行記念鼎談載録」(https://dokushojin.com/article.html?i=190)も読んだが、この鼎談には引いておきたいと思うほどの発言はない。既に夜半を越えて夜気は涼やか、寝床に移って古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を読みながら、裸だった上半身に肌着のシャツをつけた。丑三つも近くなって、いくらか雨が通ったようだ。三時を控えて、蟋蟀の声のひとときも途切れず立ち広がっている窓外からまた雨の音が始まって、粒の結構大きな降りらしく聞こえたが、一分も持たず、あとが続かなかった。古井の文は、読点を折々に挟んで鷹揚に、ゆったりと歩み継がれ、通常言うところの息の長さとは心地が違うが、結構長息の箇所が時にあるのだよなと、その泰然とした律動に惹かれるように読み耽っていた。

 公苑の奥の庭に大池と小池があり、その小池の岸から老いた桜の木が節榑[ふしくれ]立った大枝を水の上へ低く伸べ、春には花をこぼれるばかりにつけて、池に舞う桜色の大鳥を想わせるのを、それまでにも十年二十年と、これには目もそむけずに眺め入って来たが、それもその雪にだいぶの傷手を受け、それ以来、年々瘦せて、花を咲かせる間はそれでも寂びた色を見せていたが、花が散ればまた一段と朽ちた姿をあらわし、やがて根本から切られて、新しい木に植えかえられた。(……)
 (古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、16~17; 「後の花」)

 風景やら天気やら事物やらの描写と、人間の物事の経緯を語る足運びとの、その関係が尋常の小説と異なるようにも思われた。普通の作ならばここは風景、ここは出来事、ここは述懐、ここは内省と、それに応じて起伏が生まれ、記述の種ごとの区分けが明らかにつきそうなもので、古井にも勿論、程々の区別と波打ちはあるが、しかしそれぞれの要素が互いに細かく有機的に絡み込んでいるような、と見るうちに、文章の孕み持つ情報の量、描写の密度のようなものが、どこを取っても一定に均されているのではないかと気がついた。これが度重なる推敲の、手の跡というものだろうか。無論作家の念頭としては、流すところと勘所とそれぞれに軽重はあろうが、少なくとも外見上、隅から隅までおしなべて、一様に整っている。かつてガルシア=マルケスと、古井由吉とを綯い交ぜにしたような文を書けないかと夢想したことがあった。自分が今まで、最も感化されたであろう二人である。共に時空の操作に卓越してはいても、コロンビアの作家の記述が四角く截然と区切られるのに対し、古井の往還はもっと融解して液体的に絡み合うもので、まったく異なる二者だから所詮夢は夢に過ぎないと払っていたが、文の密度の均一さという点では、思いの外に共通しているのかもしれない。
 いつか頭痛が差していて、眠気は来ない。それでも三時半に至る頃にはそろそろと明かりを落とし、薄布団の下で身体を伸ばした。ここのところ、こちらから眠りに向かっていくまでもなく、読み物の合間に自ずと意識が消えていることが多かったところを、久方ぶりに目の冴えた夜だった。暗闇のなか、耳を澄ませるわけでもないのに、窓を埋める虫の音とは反対側、家の内の方から、音声を伴わない携帯の震動のみを宙に取り出して浮かべたような響きが、虫声を被せられて聞こえづらいが、どうも耳につく。気のせいのような幽かなものだ。何の音かは知れない。あるいは部屋の内に入り込んでくる蟋蟀の声の、人間の可聴域を超えた倍音でも反響して残るのを知らず聞き取っているのか、と気づけば耳を張るようになっていて、そんな調子ではますます眠れなさそうだから、とたしなめて力を抜いた。入眠は、思ったよりも早かった。


・作文
 13:20 - 13:34 = 14分
 14:18 - 15:06 = 48分
 20:42 - 21:05 = 23分
 21:40 - 23:51 = 2時間11分
 計: 3時間36分

・読書
 8:40 - 10:00 = 1時間20分
 11:15 - 12:10 = 55分
 12:53 - 13:20 = 27分
 15:15 - 15:32 = 17分
 15:36 - 16:24 = 48分
 16:36 - 16:49 = 13分
 23:59 - 24:22 = 23分
 24:41 - 27:25 = 2時間44分
 計: 7時間7分

・睡眠
 3:35 - 8:00 = 4時間25分
 10:00 - 11:15 = 1時間15分
 計: 5時間40分

・音楽

  • SIRUP『SIRUP EP』
  • FISHMANSCorduroy's Mood』
  • 16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』
  • Junko Onishi『Musical Moments』
  • Junko Onishi『Glamorous Life』
  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL』

2019/9/23, Mon.

 ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死[﹅8]がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、3; 「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」)

     *

 栄養が失調して行く過程は、フランクルが指摘するとおり、栄養の絶対的な欠乏のもとで、文字どおり生命が自己の蛋白質を、さいげんもなく食いつぶして行く過程である。それが食いつくされたとき、彼は生きることをやめる。それは、単純に生きることをやめるのであって、死ぬというようなものではない。ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった。すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感は、その後ながく私の記憶にのこった。はかないというようなものではなかった。
 「これはもう、一人の人間の死ではない。」 私は、直感的にそう思った。
 (6~7; 「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」)

     *

 「これはもう、一人の人間の死ではない」と私が考えたとき、私にとっては、いつかは私が死ぬということだけがかろうじて確実なことであり、そのような認識によってしか、自分が生きていることの実感をとりもどすことができない状態にあったが、私の目の前で起った不確かな出来事は、私自身のこのひそかな反証を苦もなくおしつぶしてしまった。
 しかし、その衝撃にひきつづいてやって来た反省は、さらに悪いものであった。それは、自分自身の死の確かさによってしか確かめえないほどの、生の実感というものが、一体私にあっただろうかという疑問である。こういう動揺がはじまるときが、その人間にとって実質的な死のはじまりであることに、のちになって私は気づいた。この問いが、避けることのできないものであるならば、生への反省がはじまるやいなや、私たちの死は、実質的にはじまっているのかも知れないのだ。
 人間はある時刻を境に、生と死の間[あわい]を断ちおとされるのではなく、不断に生と死の領域のあいまいな入れかわりのなかにいる、というそのときの認識には、およそ一片の救いもなかったが、承認させられたという事実だけは、どうしようもないものとして私のなかに残った。
 (8; 「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」)


 例によって一一時四〇分まで寝坊に耽る。上階へ行くと台所に入っている母親が焼きそばを作ってくれと言うので了承し、洗面所に入って顔と手を洗った。それから台所の調理台の前で、古くなって表面が少々黒ずんだ人参の皮を剝き、千切りにすると続いて玉ねぎと白菜を切った。フライパンに油を引いてそれらを炒めはじめ、肉は電子レンジのなかで解凍された小片を投入し、野菜に火が通ると麺を三袋分加え、水を掛けて木べらでほぐし搔き混ぜる。麺がほぐれて柔らかくなると、粉末状のソースをこれも三袋分振り掛けて、全体に混ぜると完成、大皿に盛って卓に運んだ。そのほか、父親が前日の飲み会で同級生に貰ってきたと言う竹筒入りの高級な豆腐を母親が小鉢にそれぞれ取り分けてくれた。卓に就いてものを食っていると、ニュースは並び立つ屋根のことごとくにブルーシートの掛けられた千葉の漁村の風景を映す。台風の接近によって折角取りつけたシートが剝がれたり、風に舞って用をなさなかったりしているとのことだった。食事を終えると抗鬱薬を飲んで食器を洗い、さらに風呂も洗ってから下階に下りた。コンピューターを点けてTwitterにログインするとHさんからメッセージが届いており、二七日の件だがアルバイトの欠員により出勤しなくてはならなくなったとのことだったので、また連絡を下さいと返信しておき、LINEにもログインしてみるとUくんからもメッセージが届いており、「めちゃ最高」なお勧めのミックスをアップロードしたファイル転送システムへのURLが貼られていた。それを早速ダウンロードして流してみると、「めちゃ最高」と言うだけあって非常に御機嫌な音源だった。16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』というものである。それで早速、気持ちが良いですねと返信を送っておき、ついでに二七日金曜日夜の予定を訊いてみたのだが、やはり予定が空いていないとのことだった。続けてHMさんにもメッセージを送って訊いてみたところ、彼も予想通り仕事、最後にT田にも伺いを立ててみたが、彼も二七日は多分まだ大阪にいるのではないかという気がする。予約のキャンセルは勿論出来ると思うが、御年八六だかになるオマさんの姿と演奏はやはり見たいものなので、共連れの相手がつかまらなくとも一人で観に行こうかと今のところは思っている。二五日昼の大西順子も、間に合う時間に起きられれば一人で行くのも良かろう。
 そうして一二時四〇分から英語を読みはじめた。前日にも読んだCornel West and George Yancy, "Power Is Everywhere, but Love Is Supreme"(https://www.nytimes.com/2019/05/29/opinion/cornel-west-power-love.html)の続きである。これを読み終わると二〇分ほどが経っていて、英語のリーディングは一日三〇分が目安なのであと一〇分何かを読もうということで、GuardianのThe Long Readコラムの記事をいくらか探ったあと、"The Guardian view on Japan and South Korea: neither side will win"(https://www.theguardian.com/commentisfree/2019/sep/19/the-guardian-view-on-japan-and-south-korea-neither-side-will-win)を読んだ。The Long Readの記事たちも非常に充実していて興味深そうなものが多いが、"The Long Read"という表題の通り何しろ長い。今の自分の英語力ではなかなか太刀打ちできないように思われるので、今のところはひとまずNew York TimesのThe Stoneを中心として英語に触れる時間をなるべく毎日取ることが目標である。
 それで一時半まで英文を読んだあと、図書館に出かけることにして服を着替えた。外は基本的には曇りのようだが雲はさほど厚くなく、時折り薄陽も見えて明るめの中性的な天気である。空気も結構蒸し暑いようだったので、赤褐色を基調とした幾何学模様のTシャツ一枚を身につけ、下はオレンジ色のズボンを履いた。それで本やコンピューターをリュックサックにまとめて上階に行き、ソファに就いてタブレットか何か弄っている母親に図書館に行くと告げ、仏間に入ってカバー・ソックスを履いたあと居間の引出しからハンカチを取って、行ってくると残して出発した。父親もどこかに出掛けたようで車はなかった。
 道を歩いていると背後から車の走行音が近づいてきたので、脇に避けて停まり、軽自動車が追い抜いて行くのを見送る。どこかで見たことのある車だなと思っていたところ、少し先の地点でウィンカーを出して曲がるのが見えたので、ああ、Nさんの車かと思い当たった。もう八〇何歳かになっているはずだが、まだ車に乗っており、しかもその運転ぶりも先の様子を見ると結構スピードを出していたものだから、大丈夫だろうかと心配される。宅の前まで来るとちょうどNさんが車から降りてきたところで、こちらの姿を認めて会釈をしてきたので、こちらも礼を返した。そうして坂に入り、昨晩の雨の痕が路面に残って落ち葉は道の端でくすんだ色に沈んでいるなかを上がっていく。木の葉の天蓋が途切れると、足もとから斜めにこちらの影が路上に浮かぶこともあり、上りきって坂を抜け街道に突き当たっても淡く白っぽい光がアスファルトの上に敷かれていた。駅に入り、ホームに下り立つと自販機に寄って二八〇ミリリットルのコーラをSUICAで買い、ベンチに就いた。電車は二時一四分、この時は一時五〇分かそこらでまだまだ余裕があったので、手帳を取り出して読みながら時間を潰す。低気圧の近づいている証か、風が良く流れるが、汗もまた湧いており、首筋をハンカチで拭う。
 小泉純一郎政権期の出来事などを復習しているうちに、しばらく経つと電車到着のアナウンスが入ったので立ち上がってホームの先に行った。先頭車両に乗り込み、手帳を見ながら到着を待つ。青梅に着くと乗換え、ホームに降り立ち向かいの番線に移って先の方へと歩いていく。今日は一号車でも二号車の三人掛けでもなく、三号車の適当なところに座った。リュックサックを背から下ろさず前屈みに腰掛けて手帳に目を落とし、河辺まで待つ。河辺に着いて降りるとホームからエスカレーターを昇って改札を抜け、駅舎を出る。高架歩廊を渡っていると、山帰りらしき格好をした男性らが、こんな駅前に温泉があるんだねえ、などと呟いていた。図書館のビルの上層階に入っている「梅の湯」のことだが、こちらは行ったことがない。図書館に入るとカウンターに行き、五冊を取り出して、そのうち三冊はもう一度借りたいと申し出て、一度返却手続きをしてもらって再度受け取り、礼を言ってCDの新着を見に行ったが、特に目ぼしいものはなかったのですぐに離れて階段を上がり、新着図書を見分したあと書架のあいだに入った。それからまず外交の区画に向かって、木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』を発見し、借りることにして手に持った三冊に追加した。さらにイスラエルパレスチナ史の区画を見たり、ドイツ史の棚を見分したり、中公新書の並びを調べたりしたあと――芝健介『ホロコースト』が見当たらなかった――、フロアを横切って文学の方に行き、そこでもアウシュヴィッツホロコースト関連の文献を探ったが、結局決めきれないままに、やはり新書あたりの手軽なところから触れていくべきかということでフロアの反対側の端に戻ってふたたび中公新書の並びの前に立ち、迷った挙句に對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』を選び出した。それで貸出手続き、借りたのは先の二冊に加えて元々借りていた三冊、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』、イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』、花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュビッツの沈黙』を合わせて計五冊である。手続きを済ませると、本当は図書館で書き物をして行きたかったのだが、フロアを巡っているあいだに見たところでは席が空いておらず、大窓際のみならずテラス側の長テーブルも埋まっているような有様だったので、ひとまず向かいのビルに入ったイオン――以前は河辺TOKYUだったビルである――の喫茶店に行ってみることにした。それで退館したが、歩廊を渡っているあいだから、立川に行ってしまえば良いのではないかという考えが兆していた。と言うのも、このイオンの喫茶店には確か電源がなかったと思ったのだ。何のためにわざわざ出掛けてきたのかと言って、インターネットなどに浮気を出来ない環境に自分を持っていくことで長時間日記に取り組み、二一日の記事をなるべく完成に近づけることが目的だったのだから、電源を使って長時間いられなくては意味がない。そういうわけでひとまずイオンに入って喫茶店の様子を窺ってみたところ、席に空きはなかったがやはり電源はないようだったので立川に向かうことに決めてビルを出、歩廊を駅に向かって渡った。改札をくぐりエスカレーターでホームに下りて、先頭車両の位置まで行くと、ベンチに座った高年の女性と、黒髪の裾を少しだけ赤く染めた若い女性が話を交わしていて、何だか珍しいような組み合わせだなと思った。どういった知り合いなのだろうか? ベンチにはまた白人の男性二人も座っていて、英語で会話をしていた。こちらは立ったまま手帳を取り出して電車を待ち、入線してくると乗り込んで七人掛けの端に就いた。引き続き手帳を眺め、目を閉じて文言を頭のなかで反芻しながら立川に着くのを待っていると、昭島あたりで家族連れが乗ってきた。両親と三人の女児の一団である。女児のうち、おそらく一番年少の一人がこちらの隣に座ると、苺の香りの混ざってあどけない、乳臭いような匂いが鼻に届いた。その後女児たちは扉際に集まって吊り革にぶら下がって遊んだりと賑やかにしていて、こちらの隣には母親が就いていた。
 立川に着くと降りて階段を上る。駅通路に出ると精算機に向かい、SUICAに五〇〇〇円をチャージしてから財布を片手に掴んだまま改札を抜け、向かいの壁の隅に設えられたATMに寄って五万円を下ろした。そうしてやはり財布を右手に持ったまま人波のあいだを通り抜けて行く。LUMINEの前ではシュークリームを売っているスタンドが出ており、若い男性の売り子が鼻に掛かったような、甘えたような声で品物を売り込んでいた。北口広場に向かってさらに進んでいくと、駅舎出口の脇に立った托鉢僧が腰の横で振り鳴らす鈴の音が、煙の幕を割る風の一閃のようにして人々のざわめきを越えてくる。広場に出て通路を辿っていくと、銀色の手摺りの途中にありふれたチェック柄のシャツだかスカーフだかが巻きつけられており、風にひらひらと揺らいでいた。エスカレーターに乗って下の道に下りると、通りをそぞろ歩く人々のなかを抜けてPRONTOに入店した。店は混んでいる雰囲気だった。女声のレゲエが掛かっているなか階段を上がっていくと、カウンターにはほとんど空きがなく、テーブル席の方も埋まっていた。ひとまず左右を人に囲まれたカウンターの辛うじて空いていた一席にリュックサックを置き、下階に引き返してアイスココアのMサイズを注文した。三三〇円である。PRONTOのココアは値段のわりに結構美味いと思う。そうして品物を持って階段を上ると、テーブル席が一つ空いていたので、あとでカウンターに移れば良いかと――何故なら電源があるのはカウンターだけだからだ――判断してとりあえずそこのテーブルに入った。コンピューターを取り出し、ハンカチでモニターを拭いてからスイッチを押し、立ち上げるとEvernoteと起動させ、ココアを飲みながら早速今日の日記を書きはじめた。ここまで綴るとちょうど一時間ほどが経って、四時台も最後の四半期に入っている。
 それから七時一五分までぶっ続けで二一日の記事を書き綴り、最後まで仕上げることが出来た。終えるといい加減に空腹が極まっていたのでここで夕食を取っていくことにして、席を立ち上がり、厨房の方に行ってすみません、と声を掛け、応じた店員にメニューを頂きたいのですがと要求した。少々お待ち下さいと返されたので席に戻り、コンピューターをシャットダウンさせて仕舞うとまもなくメニューが届いたので、しばらく眺めて、ローストビーフとトマトソースのパスタを頼むことにした。それで階段を上がってきた店員に向かって手を挙げてすみませんと声を掛け、彼が手に機械を持って近づいてくると二品を注文した。食事が出てくるのを待っているあいだは、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を読んでいた。いくらも掛からずにローストビーフが届いたので、添えられているマッシュポテトと一緒に箸を操って口に運んだ。美味だった。あれは何の味なのだろう、多分山葵ではないと思うのだが、タレとともに仄かな辛味が舌を刺激して、それが程良いアクセントになっているのだった。ローストビーフを平らげてまた本を読んでいると失礼しますと言いながら店員がやって来て、パスタも届いたかと思いきやそうではなくて、トマトソースを切らしているのでパスタが作れないと言う。それで何かほかにご注文はと訊くので、あ、そうですかと言いながらメニューをひらき、ちょっと迷った挙句に、以前も食べたことのある海老とアボカドのバジルソースのパスタを代わりに頼んだ。それでまた本を読んでいたが、やはり短時間でパスタが届いたので新書を閉じ、フォークをくるくる回してパスタを巻きつけ、口に運んでいった。海老とアボカドも摘み、すべて食べ終わるとものを入れたばかりの腹を落着けることもせずに帰路に向かうことにして、席を立ち、厨房付近にいた店員にごちそうさまでしたと告げ、伝票を求めた。渡されたものを受け取って礼を言い、下階に下るとレジカウンターに伝票を差し出して、一四七〇円を支払うとここでも礼を言って退店した。ドラッグストアの灯が明るく際立ち、人々の流れでざわめいている通りを歩いてエスカレーターに乗り、高架歩廊に上って通路を行くと、先ほど手摺りの途中に縛りつけられていた布がなくなっていた。駅前広場に入ると西から風が渡ってきて、半袖のTシャツから露出した腕の肌に柔らかく絡みつく。駅舎に入ると群衆の一員と化して改札に向かい、くぐると一・二番線のホームに下りた。一番線の青梅行きがちょうど発車の頃合いだったが、二番線にも数分後に発車の青梅行きが停まっており、まだ人がほとんどいなかったのでそちらに乗り込んだ。席に着くと、ここでは手帳を見るのではなくて本を読み進めることにして、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を取り出しひらいた。電車は混まず、発車した時点でも席の両端が埋まっている程度の乗客数だった。
 身体をなるべく動かさないように静止させながら頁に目を落として文字を吸収しているうちに青梅に着いた。降りるとホームを辿っていき、木製のベンチに腰を下ろした。こちらの背後、反対側の番線に面した席には老人が一人、ビニール袋などの荷物をいくつも足もとに置いて座っていた。何となくホームレスの人だろうかというような気がしたが、それ以上は追及せず、引き続き本に目を落として奥多摩行きを待った。電車がやって来ると例によって三人掛けに入り、さらに書物を読み続けてじきに最寄り駅である。時刻は九時前だった。駅舎を抜けて車の来ない隙に横断歩道を渡り、坂道に入ると今日も鈴虫の音が揺らぎ漂うその周囲を覆い囲むようにして、あれはアオマツムシのものなのだろうか、一聴すると鈴虫のそれと間違えてしまいそうな凛とした声が群れなして響き渡っている。そのなかを歩いていくとここでも風が上ってきて、街灯に照らし抜かれて路上に映る木の影を静かに揺らめかせる。坂を抜けて平らな道に入っても秋虫の音は続いて、林の抱く暗闇そのものが鳴き声と化したかのような満々とした歌いぶりだった。
 帰り着くと母親に飯は食ってきたと告げた。夕食はカレーにしたと言う。あとで食っても良いけれどと受けながら洗面所に入ってカバー・ソックスを籠に入れておき、下階の自室に行って服を着替えた。コンピューターを点けてLINEにログインすると、T田から返信が届いていた。二七日の夜ならもう東京に戻ってきている、夜なら空いていると言うので、それでは吉祥寺にジャズのライブを観に行こうと誘い、了承を得た。話し合いの結果、六時に吉祥寺駅北口に集合し、そこから店に向かって開演の七時半まで美味いものでも摘みながらくっちゃべるということになった。
 九時半過ぎから三宅さんのブログを読みはじめた。二五日に大西順子を観に行くつもりというわけで、Junko Onishi『Musical Moments』を背景に流していたと思う。そしてこの時多分、織田朝日「「入管は自分たちを殺したいのかな?」入管収容所で抗議のハンストが拡大」(https://hbol.jp/198820)の記事も読んだのではないか。そうして一〇時を越えると入浴に行った。さほど時間を掛けずに出てきて部屋に戻ると、間髪入れずに過去の日記を読み返した。昨年のものと、二〇一六年六月九日のものである。さらにfuzkueの「読書日記」も読めばそれで時刻は一一時、書抜きをしようというわけでまだ読んでいる途中のリチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』の序盤からいくらか文言を写しておくと、一一時一七分からふたたび読書に入った。
 それで午前三時半まで本を読み続けたのだが、途中、地元の図書館の蔵書を検索したり、もじゃもじゃと煩わしく伸びてきていた陰毛を鋏で短く処理したりと別の行動が挟まれた時間もあった。さらには例によってベッドに乗っていたために、二時頃から一時間くらいは意識を失っていたのではないかとも思う。三時半を回るといい加減に眠ることにして本を置き、入口横のスイッチに手を伸ばして明かりを消すと、暗闇のなか扇風機にぶつからないように慎重にベッドに戻って、横になった。


・作文
 15:48 - 19:14 = 3時間26分

・読書
 12:41 - 13:02 = 21分
 13:17 - 13:30 = 13分
 19:44 - 20:49 = 1時間5分
 21:33 - 22:11 = 38分
 22:40 - 23:00 = 20分
 23:02 - 23:16 = 14分
 23:17 - 27:33 = (1時間引いて)3時間16分
 計: 6時間7分

・睡眠
 ? - 11:40 = ?

・音楽

  • 16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』
  • Junko Onishi『Musical Moments』
  • ものんくる『RELOADING CITY』

2019/9/22, Sun.

 そこへゆこうとして
 ことばはつまずき
 ことばをおいこそうとして
 たましいはあえぎ
 けれどそのたましいのさきに
 かすかなともしびのようなものがみえる
 そこへゆこうとして
 ゆめはばくはつし
 ゆめをつらぬこうとして
 くらやみはかがやき
 けれどそのくらやみのさきに
 まだおおきなあなのようなものがみえる
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、74~75; 「ポール・クレーの絵による「絵本」のために」; 《選ばれた場所》1927、全篇)

     *

 かわりにしんでくれるひとがいないので
 わたしはじぶんでしなねばならない
 だれのほねでもない
 わたしはわたしのほねになる
 かなしみ
 かわのながれ
 ひとびとのおしゃべり
 あさつゆにぬれたくものす
 そのどれひとつとして
 わたしはたずさえてゆくことができない
 せめてすきなうただけは
 きこえていてはくれぬだろうか
 わたしのほねのみみに
 (80~81; 「ポール・クレーの絵による「絵本」のために」; 《死と炎》1940)


 一二時四〇分まで惰眠を貪った。両親はKのおばさんの葬式で不在である。上階に上がって冷蔵庫を覗くと、エノキダケの炒め物が小鉢に入っていたのでそれを取り出し、電子レンジに突っ込んだ。電子レンジが回っているあいだに便所に行って放尿し、戻ってくるとゆで卵やよそった米とともに卓に運び、椅子に就くとエノキダケに醤油を垂らして食べはじめた。この日の新聞が見当たらなかった。それなので前日の夕刊を引き寄せ、一面に載っていた記事――サウジアラビア駐留の米軍が増派される見込みとの報――を読みつつ、エノキダケとともに米を食った。終えると抗鬱薬を飲み、台所に行って食器を洗い、それから風呂も洗うと居間に出てアイロン掛けを行った。ハンカチやエプロンをいくつか処理しておくと階段を下り、自室に入ってコンピューターを前にして、いつも通り前日の記録を付けるとともにこの日の記事を作成した。それから、後回しにすると自分の首を締めることになるとわかってはいるのだが、前日の長い日記に取り組む気力が身になかったので、ベッドで読書をすることにした。リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』である。一時半前から寝床に移って、クッションと枕に凭れて脚を伸ばしながら読んでいたのだが、例によって例の如く、眠気が重苦しく引っ掛かって瞼を閉ざそうとする。しばらくそれと闘っていたが、四時前になったところで抗うことを諦めて、手帳に時間を記録しておいて薄布団を被った。その頃には両親も帰ってきていたかもしれない。五時半まで休んだあと、上階に行き、薄暗いなかソファでテレビを見ている母親の横に座ってこちらもしばらくテレビを眺めた。母親が父親に、何時の電車で行くのかと訊いた。六時一五分だと言うが、どこに行くのかと尋ねると、福生で同級生と会食があるとのことだった。しばらくすると食事の支度をしようと立ち上がって冷蔵庫を探り、葱とワカメの味噌汁を作ることにした。そのほか、おかずとしては餃子を焼けば良いかということになっていた。冷凍された塩蔵ワカメの塊を鋏でちょっとずつ切り落として、水を汲んだ椀のなかに入れて戻す。そのあいだに母親が葱を刻み、豆腐も切ってくれたので、小鍋の湯が湧いたところでそれらを投入した。一方で王将の冷凍餃子をフライパンに並べ、火に掛けた。味噌汁の方は粉の出汁に椎茸の粉、味の素を入れたあとチューブの味噌も投入して完成、餃子は羽根の部分がなかなか茶色くなってこないので火を強めて加熱していると、段々と焦げてきた。完成するとまだ六時一五分頃だったがもう飯を食ってしまうことにして、母親が作った胡瓜とトマトのサラダとともにそれぞれの品をよそり、卓に就いた。そうして餃子に醤油を掛けて、それをおかずに米を貪る。テレビは風光明媚なアルプス山脈周辺の地域を走る列車を紹介していたが、そのうちに母親が番組を替えてニュースが映し出されたと思う。ものを食べ終えると薬を服用して食器を洗い、下階に戻った。
 Cornel West and George Yancy, "Power Is Everywhere, but Love Is Supreme"(https://www.nytimes.com/2019/05/29/opinion/cornel-west-power-love.html)を読みはじめた。一日三〇分を目安に英語を読んでいきたいと考えている。それでこの時も、John Coltrane『Blue Train』を背景に三〇分だけこの記事を読み――最後まで読み終わらなかったがそれでも良いのだ――、それからNew York TimesのThe Stoneの記事をEvernoteの「あとで読む」欄にストックしておこうと記録を遡りはじめた。ベルナール=アンリ・レヴィやマーサ・ヌスバウムの名前が見られたので早速メモしておこうと思ったのだが、そうすると、無料でアクセス出来る記事数の限度に達しているとの表示が出てきたので、仕方ない、subscribeしてやるかというわけで登録した。一週間で一ドルだから大した出費ではない。それで記事をいくつかストックしておいたあと、入浴に行った。湯のなかで身体を寝かせて浴槽の縁に頭を預け、降りはじめた雨の音やそのなかを貫いてくる虫の音に耳を傾けながら身を休めた。出てくるとパンツ一丁で下階に戻り、燃えるゴミの袋を持って上階に引き返してゴミを合流させておき、ふたたびねぐらに帰ると大層久しぶりにfuzkueの「読書日記」を読んだ。なかなか読む時間が取れずにここのところは購読だけ続けながらも放置していたのだが、やはり送られてくるからには読むべきだろうと思い直し、一日で一日分ずつゆっくりと読んでいくことにして、この日は九月九日の分を読んだ。これならばさしたる時間を取らないので続けられるのではないか。それからさらに自分の過去の日記、まず二〇一八年九月二二日のものを読んだ。「この日は合わせて一五時間もの時間を寝床で過ごすことになったわけだが、大して何も行動していないのに疲労感を身に帯びてこれほどまでに休んでしまうというのは明らかに異常であり、だいぶ回復してきたと思っていたものの、自分はその実、うつ症状の圏域からまだまだ逃れていないということなのかもしれないと思った。とにかく気力というものが心身に湧いてこず、眠気がなくとも起き上がることができずに、目を閉じて臥位のままに時間が流れて行くのだった」とのことである。また、「卓に就き、出川哲朗の充電バイクの旅を見ながらものを食ったが、やはりテレビを見ていて興味を惹かれるとか面白いと感じるという心の働きがまったく生じず、心身にあるのは疲労感と空虚感のみだった」とも述べているので、回復してきてはいるのだろうがやはりまだ本調子ではないようだ。
 続けて、二〇一六年六月一〇日金曜日の記事を読んだ。この頃は鬱病になるなどとは夢にも思っておらず、まだどちらかと言うとパニック障害の圏域にある頃である。「緊張感などはどうですかと問うのには、苦笑のようにしながら、結構緊張しやすい質なので、些細なことでも緊張することがありますね、コンビニで店員とやりとりする時とか、あとは生徒の相手をしている時なんかも、と答えた。コンビニでも緊張しますか、と相手は意外な風に返して、生徒にも、と加えるので、やりづらい生徒なんかは、と笑って返して、でもまあ、と置いた。その緊張が発作に繋がることはないな、というのが、もうわかってますから、と繋げて、日常生活を送る分には、問題はないですね、と結論を述べた」とあるので、大きな支障はないけれど緊張しやすさはまだ幾分残っているというところらしい。またこの時期はまだ感傷的な質[たち]が残っていたようで、『ドキュメント72時間』を目にしながら感動して涙を催している。そのような時期もあったのだった。「一一時になるとテレビは、七二時間同じ場所に密着取材する番組を始めた。今回は再放送のようで、先ごろ亡くなるまでは日本で最高齢の象だったはな子と、彼女を見に来る様々な人々を映したものだった。米やジャガイモを咀嚼する一方、人々の表情だったり、人生の断片だったりを眺めながら、一体何がそんなに感傷的な気分にさせるのかわからないが、瞳が奥から濡れてきて、その水量があまり多くならないように気を付けた。両親は、しみじみとした感じではあるが、平然として見ている。そのあと風呂に行きながら、どうも自分は、馬鹿げているほどに、あまりにもナイーヴ過ぎるのではないかと思った。実際、何に感動しているのか明瞭にわからないが、あまりに安易な感動の罠にはまっているのではないか」。
 過去の日記を読み返してブログ上に投稿したあとは、この日の日記を初めから書き出し、ここまで綴って九時一〇分である。何もやっていないにもかかわらずどうにも疲労感が身にこごっていて、前日の日記に取り掛かる気力がなかなか起こらない。
 しばらくだらだらしたあと、ひとまず本を読むことにして、ベッドに移ってリチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を手に取った。それで読んでいたところが、一体何度眠れば気が済むのか、ここでも途中で意識が弱くなる。それでもそこそこ読み進めていたのだが、途中からもう今日は日記は良いやという気になって、コンピューターもシャットダウンしてしまい、今日は出来るだけ本を読もうということで日付を越えても読書を続けた。零時四〇分に達したところで一旦本を置き、手帳に時間を記録しておいて、上階に行ってカップ麺を用意した。湯を注いだ即席麺を持って戻ってくるとコンピューター前の椅子に就き、引き続き本を読みながら麺を啜り、健康に悪いがスープも飲み干してしまうと容器をゴミ箱に放って、ふたたびベッドに乗って書見を続けたのだが、またいつの間にか気を失っていて、何時まで読めていたのかわからない。眠りに就いたのは四時頃だったのではないかと思うが、これも記憶が曖昧である。


・作文
 20:38 - 21:10 = 32分

・読書
 13:23 - 15:55 = (1時間引いて)1時間32分
 18:48 - 19:18 = 30分
 20:13 - 20:33 = 20分
 21:47 - 24:40 = 2時間53分
 24:53 - ? = ?
 計: 5時間15分 + ?

・睡眠
 ? - 12:40 = ?

・音楽

2019/9/21, Sat.

 どんなおおきなおとも
 しずけさをこわすことはできない
 どんなおおきなおとも
 しずけさのなかでなりひびく

 ことりのさえずりと
 ミサイルのばくはつとを
 しずけさはともにそのうでにだきとめる
 しずけさはとわにそのうでに
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、68~69; 「ポール・クレーの絵による「絵本」のために」; 《ケトルドラム奏者》1940、全篇)

     *

 とりがいるから
 そらがある
 そらがあるから
 ふうせんがある
 ふうせんがあるから
 こどもがはしってる
 こどもがはしってるから
 わらいがある
 わらいがあるから
 かなしみがある
 いのりがある
 ひざまずくじめんがある
 じめんがあるから
 みずがながれていて
 きのうときょうがある
 きいろいとりがいるから
 すべてのいろとかたちとうごき
 せかいがある
 (72~73; 「ポール・クレーの絵による「絵本」のために」; 《黄色い鳥のいる風景》1923、全篇)


 八時にアラームが鳴り出すより二〇分ほど前から目覚めていた。目覚ましが響き出すとベッドから起き上がって携帯を止め、部屋を出た。階段口でパジャマ姿の母親に遭遇したのでおはようと挨拶し、階段を上ると便所に行って放尿したあと、洗面所でドライヤーを操り髪を梳かした。米がないので食事は冷凍のおにぎりか、あるいはパンだと言う。そのほかに炒め物を作ろうというわけで母親はキャベツを取り出してざくざくと切り、そのあとを引き継いでこちらは玉ねぎを切って、炒めはじめた。菜箸で搔き混ぜながら炒めている横から母親が豚肉をいくらか投入する。そうすると火を強めて、フライパンを振りながら加熱していき、塩胡椒をちょっと振って完成とした。冷凍されていた五目御飯のおにぎりを電子レンジで温め、野菜炒めを中皿に盛り、母親が僅かに用意してくれた胡瓜とトマトの小鉢を持って卓へ、新聞を読みながらものを食べはじめた。するとあとから母親が、温かいゆで卵とヨーグルトを持ってきてくれた。食事中、突然母親が、お兄さんも鬱病なんだって、と口にした。こちらが新聞から視線を上げて向かいの母親を上目遣いに眺めると、O.Sさん、と名前を続ける。父親の姉であるO.Mさんの旦那さんである。鬱病と言って、医者に診断を下されたのか自己判断なのかで変わってくるが、何でも薬を飲んでいると言う。父親が昨晩O家に寄ってきて、ちょっと話をしたらしい。正月に山梨の祖母宅に集まった際に、Sさんは急遽体調不良で不参加となったのだが、あれはもう既に患っていたということなのだろう。現在、ようやくいくらか良くなってきているという話だった。
 サウジアラビア主導の有志連合軍が、イエメンのフーシに対して攻撃を仕掛けたという報を読んで新聞を閉じたあと、立ち上がって台所で食器を洗った。流し台には昨晩父親が使った食器が水に浸けられたままに放置されていたが、俺は洗わんぞと宣言しておき、自分で洗わせれば良いじゃないかと提案した。そもそも何故夜に一人の宴会が終わった時点で洗っておかないのか疑問なのだが、時間が遅いので食器をがちゃがちゃやっているとうるさいから、という理由があるにはある。しかし、母親も文句を言う通り、テレビを見ながら一人で燥ぎ回って大声を上げているような様なのだから、皿洗いをしようがしまいが結局うるさいのには変わりないのだ。だから夜中のうちに自分で自分の食器くらいは始末させ、それから下階に下りてこい、という風にすれば良いと思うのだが、母親はおそらくそうは言わずに自分が代わりに朝片付けることを甘受するだろうし、仮に言ったところで父親も素直に聞くかどうかは不明である。
 皿洗いを終えると下階に下って、自室に帰るとカーテンをひらく。昨晩は雨がいくらか降っていたようで空は引き続き真っ白であり、予報によると今日も五〇パーセントか六〇パーセントで雨となっている。コンピューターを点けてEvernoteを立ち上げ、九時直前から早速日記を書き出した。ここまで記すと九時一四分に至っている。今日はHIさん及びKJさんと新宿で読書会である。一二時前には家を発たなければならない。
 九時半から読書に入った。リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』である。しかしやはり四時間では眠りが少ないようで、じきに瞼が閉じてしまったので、読んでいたのは実質一〇時頃までだったと思う。一一時一五分まで休むと、部屋を出て上階に行き、風呂を洗うことにした。浴室に向かうと洗い場にマットが寝かされていて、漂白されているようで漂白剤とブラシが傍らに出されてあり、特有の鼻をつく匂いが漂っていた。ゴム靴で踏み入るとまずシャワーでマットを流し、それからやはり洗い場に立てられていた蓋の裏側を擦り、そうして浴槽を洗った。終えると出てきて、仏間で灰色のカバー・ソックスを履いてから下へ戻り、SIRUPを流しながら服を着替えた。濃青の麻のシャツにガンクラブチェックのパンツである。SIRUPの曲をちょっと歌い、歯磨きをしながら過去の日記を読み返した。二〇一六年六月一一日の分である。それほど大した描写ではないが、以下の一節の、梅の木を「大きな機械仕掛けの楽器」――おそらくパイプオルガンか何かが念頭に置かれているのではないか――に喩えているのがまあまあ良いと思われた。

 雨が物静かに降っており、雨滴に満たされた空間の遠くからは鳥の声が間歇的に薄く伝わってきた。目をひらくと一七分が経っており、手帳に瞑想を行った時間をメモしてから放心したようになって窓のほうに顔を向けていると、梅の木の葉叢のなかのところどころで、上の葉から溢れた雫が落ちて当たるのだろう、たびたび縦に揺れるものがあって、大きな機械仕掛けの楽器の部分部分が入れ替わり立ち替わり鳴っているかのようだった。

 それから多分この時既に、一年前の記事も読み返したと思うのだが、そのなかにさらに一年前、つまり二〇一七年九月二一日の記述が引かれていて、二〇一七年の自分もまあなかなか頑張っているなと思われたので改めてここにも写しておく。この頃は短い風景描写を――ブログのタイトルが暗示するようにまさしく「天気読み」の主体として――時間を掛けて練って書いていた頃なので、記述の精度は勿論今よりも高いと思うが、ただ読み返してみると主格の「の」を使いすぎではないかという気はする。一つ目の段落の最後の「雲の紫色に沈みはじめている」は「雲が」で良いだろうと今からは思われるし、二段落目の序盤の「空気の軽やかに流れて」も「空気は」で良いと思う。

 茶を用意しながら居間の南窓を見通すと、眩しさの沁みこんだ昼前の大気に瓦屋根が白く彩られ、遠くの梢が風に騒いで光を散らすなか、赤い蜻蛉の点となって飛び回っているのが見て取られる明るさである。夕べを迎えて道に出た頃にはしかし、秋晴れは雲に乱されて、汗の気配の滲まない涼しげな空気となっていた。街道に出て振り仰いでも夕陽の姿は見られず、丘の際に溜まった雲の微かに染まってはいるがその裏に隠れているのかどうかもわからず、あたりに陽の気色の僅かにもなくて、もう大方丘の向こうに下ったのだとすれば、いつの間にかそんなに季節が進んでいたかと思われた。空は白さを濃淡さまざま、ごちゃごちゃと塗られながらも青さを残し、爽やかなような水色の伸び広がった東の端に、いくつか千切れて低く浮かんだ雲の紫色に沈みはじめている。
 裏通り、エンマコオロギの鳴きが立つ。脇の家を越えた先のどこかの草の間から届くようだが、思いのほかに輪郭をふくよかに、余韻をはらんで伝わってくるなかを空気の軽やかに流れて、それを受けながら歩いて行って草の繁った空き地の横で、ベビーカーに赤子を連れてゆったり歩く老夫婦とすれ違うと、背後に向かって首を回した。夕陽が雲に抑えられながらも先ほどよりも洩れていて、オレンジがかった金色の空に淡く混ざり、塊を成した雲は形を強め、合間の薄雲は磨かれている。歩く途中で涼しさのなかに、気づけばふと肌が温もっている瞬間があったが、あの時、周囲に色は見えなくとも光線の微妙に滲み出していたらしい。それから辻を渡って、塀内の百日紅が葉の色をもう変えはじめていると見ていると、もう終わったと思っていた樹の枝葉の先に、手ですくわれるようにして紅色が僅かに残って点っていた。

 読み終えるとSIRUP "SWIM"を歌ってからコンピューターを閉じ、上階に行った。ハンカチを尻のポケットに入れて出発である。
 天気は曇りで、雨が降るようなことも言われていたが、傘は持たなかった。涼し気な秋の気である。道を歩いていると白い蝶が一匹、林の縁の茂みのさらに外縁、小さな草の先端に止まっては離れてうろついていた。Tさんの宅の横の斜面には人足が何人も出張って木を斬っていたようだ。あれにも結構な金が掛かるだろう、家を持って保っていくということは大変なことだ、と見て過ぎる。白い宅の一階を全部使った車庫は開け放たれており、なかからラジオの音声が流れ出していた。SIRUPを頭のなかに流しながら行くと、小公園の桜の木が葉をところどころ黄色に変えている。それから入った木の間の坂道に雨の痕はほとんどないが、一部道の端に湿り気が残ってそのなかに落ち葉がゴミのように散らかっている。静けさがあたりに充満していた。耳を澄ませると多様な虫の音が道の左右から代わる代わる立つが、それに縁取られているからこそ、かえって静寂が空気のなかに際立って浸潤するようだった。
 駅に着くと風が流れるなかホームの先に歩いていき、手帳を取り出すとまもなく電車がやって来た。乗ってしばらく過ごし、青梅駅で降りると目の前のベンチに就いた。向かいの一番線には立川行きが停まっておりまもなく発車だが、それには乗らず、次の東京行きに乗って座ったまま一気に新宿に行こうという目論見だった。携帯電話を取り出してここまでのことをメモに取りながら待つ。周りには身体の小さくて背を曲げたような高齢者が多いそのなかで、大学生くらいの若い男性の一団が奥多摩行きに乗りこんだ。御嶽か奥多摩にでも遊びに行くのだろうか。東京行きがやって来ると立ち上がって先頭車両に行き、席に就くと引き続きメモを取った。
 手帳を読んでいると新宿まであっという間である。降り、大挙してホームを移動する人々をしばらくやり過ごし、電車が発車して危険がなくなってから歩きはじめた。待ち合わせの店は銀座ルノアール西口ハルク横店である。細かい場所はわかっていないが、前日にグーグルマップで大方の位置は確認してあったので、とりあえず西口から出ればどうにかなるだろうと判断し、そちらに向かった。ホームから出て改札をくぐると、ハルクの表示に従って適当に歩いていき、百貨店の地下から表に出た。前日に確認しておいたマップの記憶を頼りにして、こちらの方だなとハルクの角を曲がると、何か祭りの類を催しているらしくて道の端に台がいくつも出されてあり、賑やかな呼び声が辺りに響き、屋台のたこ焼きめいた匂いが漂っていた。
 店には無事に着くことが出来た。地下の店舗に向かう階段の横、手すりに凭れて立ちながら携帯にメモを取った。時折り顔を上げると、目の前の道を外国人の集団やら自転車に乗った子供連れやらが通り過ぎていく。メモを取っていると、じきに寄ってくる人があって、こんにちはと話しかけられた。顔を上げて相手と目を合わせてこんにちはと返し、KJさんですかと訊いてみると、果たしてその人である。Fですと言って挨拶をし、握手を交わしたあと、しばらく立ったままもう一人がやって来るまで会話を交わした。KJさんの本名はKWさんと言った。それなのでここからはKWさんの表記で行こうと思うが、「KJ」というハンドルネームは、日本の四三県にちなんでいるとのことだった。彼はこちらよりも早く周辺に着いていたらしい。方向音痴なので早めにやって来て、途中で飯も食ってきたとのことだった。こちらは腹を空かしており、このルノアールで食事を取るつもりだった。KWさんは背がこちらよりも幾分高く、痩せ型で顔も細く、やや面長と言って良いだろうか。事前に聞いていた通り眼鏡を掛けており、視力はかなり悪いらしくて眼鏡がないと生活が出来ないレベルだと言った。
 出身は兵庫県で仕事で東京に出てきており、居住地はあとで聞いたところ、西武線沿いのNという場所だと言った。仕事は出版関連と言うか、構成・校閲のような仕事をしており、場所は高田馬場だと言う。仕事に行くにもほかのどこかに行くにも、西武線なのでまずは高田馬場に出なくては始まらないとのことだった。新宿にはそこまで来ないらしいが、こちらが二月ぶりだと言うと、そこまで足が遠ざかっていたわけではないと言う。
 会話を交わしているあいだ、KWさんは顔を上げて遠くに視線を飛ばしていた。目の前の道には都営のバスがやって来て停まり、降りてきた家族連れがまだまだ幼くよちよちと歩く子の手を引いて、幼児の方は発っていくバスに向かってぎこちなく手を振っていた。牧野信一はあまり上手く乗れなかったとKWさんはじきに漏らし、記述がいびつでしたよねとこちらも受けて話していると、そのうちに青年がお待たせしてすみませんと言いながらやって来た。やはり眼鏡を掛けているが、KWさんとは対象的にやや丸顔の若い男性で、この人がHIさんことISさんだったのだが、彼は着くや否や、女子トイレに入り間違えたという話を始めた。駅のトイレは汚かったり人がいっぱいいたりするから、出来れば使いたくない。それですぐ近くのビルが都合良くちょっと知っているビルだったので、ここに来る前にトイレに寄ろうということでそこに入ったところが、眼鏡をしていなかったためだろう、トイレの入口で左右を間違えてしまったらしく、個室に入っていると外からコツコツという足音が響いてきて、ヒールのそれではないかと気がついた。それで外に出ると、待っていた女生と鉢合わせしたのだが、特に慌てられたりはせず、大丈夫だったようだ。合流してすぐにそのような話をして一笑いさせてくれたのだが、そのような話しぶりは、Twitterで見かけるツイートから得ていた雰囲気とはちょっと違うように思われた――と言って、ではどんなイメージを持っていたのかと言われても、それは判然としないのだが。
 その話が終わったところで、店に入りましょうということで階段を下ってガラス扉をくぐり抜けた。店舗はなかなかに広いもので、入ってすぐ左に扉とガラスで区切られた喫煙席があり、奥に向けてフロアが広がっていた。店員がなかなか出てこなかったが、じきにやって来た女性に指を三本立てると、女性はフロアの奥の方に行き、見渡して、上司らしき男性と話したあと戻ってきて、今禁煙席が空いていないのだと告げた。それで、名前を書いてお待ち下さいと言われたので、ISさんが用紙に記入してくれ、脇に設置されていた待機用の席に三人並んで腰掛け、雑談を交わした。話しているあいだにそう言えば、と言ってロラン・バルト特集の『現代詩手帖』を取り出し、これ、良かったら、と二人の方に差し出した。間違えて二つ買っちゃったので、お二人のどちらかが欲しければ、というわけだったのだ。初めにこちらの隣に座っていたISさんが受け取ってめくると、冒頭の記事の文字がやたらと小さく、目に良くないですねと二人は漏らした。二人とも揃って目が悪いのだ。目次を見ていたISさんが千葉文夫の名前を目に留めて、エッセイ集を出すらしいですよという情報を教えてくれたのだが、これはあるいは、ミシェル・レリスのエッセイ集を訳すということだったのか? 詳細が上手く聞き取れなかった。
 そのうちに入口から最も近間にあった席が空き、店員がそこのテーブルを二つ接続して椅子も三つ用意してくれ、そこに入ることになった。注文はこちらがコーラとピザトースト、KWさんがブレンドコーヒー、ISさんは確かアイスティーのストレートだっただろうか? まず最初に、それぞれの自己紹介として、読書歴などについて話した。KWさんは高校生くらいまでは活字をほとんど読んだことがなかったのだが、漫画は幼い頃から好きで、保育園時代から母親の自転車の後ろに乗りながらジャンプやサンデーなどを読んでいたと言う。かなり早熟である。活字に初めてきちんと触れたのは高校三年生の頃、そろそろ書物というものでも読んでみなくてはという焦りのようなものを感じたのだと言う。それで本を読みはじめたのだが、最初に何を読んだと言っていたか忘れてしまった。ただそのあとしばらくしてから、赤瀬川原平尾辻克彦名義で書いた作品を読んで、それが大層面白かったのだと言っていたのは覚えている。本人曰く、天邪鬼的な性質がいくらかあって、それで順当に直木賞ではなくて芥川賞方面のものを読んでみようと取ったらしいのだが、そこで面白いと思えたのが凄いですよねえ、とこちらは受けた。
 正確な時系列の順番ではないのだが、KWさんに関わることとして、ナタリー・サロートとの出会いもここで記してしまおう。彼はTwitterのプロフィール欄にも、ナタリー・サロートが好きだと表明しているほどにこの作家のファンなのだ。ヌーヴォー・ロマンならばともかくとしても、ピンポイントでサロートをフェイヴァリットに挙げる人というのはなかなか珍しいのではないだろうか? しかし本人が話すには、最初はサロート当人に目をつけていたわけではなく、ロブ・グリエを読もうとしたのだと言う。それで、例の有名な名前だが、『去年マリエンバートで』が入っている筑摩書房の世界文学全集の六三巻――と彼は言っていたと思うが――、すなわちアンチ・ロマンの巻を入手したところ、そこにロブ・グリエと並んでサロートが入っていた。一回目に読んだ時にはあまりピンと来なかったと言うか、乗り切れなかったような感じだったのだが、しかしある時もう一度読んでみようという気になって再読してみると、これが大変面白かった。そこから嵌って、邦訳されているものはすべて読んだほどだと言う。なかでは、『黄金の果実』という作品が面白いらしく、これは確かこちらもいつだったかささま書店で購入して積んであるのではなかったか? サロートには未邦訳の作品もいくらかあるらしく、KWさんはフランス語が読めないにもかかわらず、原語の全集も購入したと言うから、まさしく筋金入りのファンである。
 KWさんが自己紹介をしたあとは、ISさんが、じゃあFさん、どうぞと手を差し出して振ってきたのだったが、こちらは、日記に全部書いてあるんで、とへらへら笑って受け流した。特に言っておきたいことは、と続くので、ないですよそんなの、と笑いながらも、日記を書きはじめたきっかけについて少々話した。こちらが文章というものを本格的に書き出したのは――それは同時にこの日記を綴りはじめた起点でもあるわけだが――二〇一三年一月のことで、当時はまだ「きのう生まれたわけじゃない」のタイトルで一般公開されていたMさんのブログに遭遇したのが発端だったのだ。形式的にはこちらのそれと同じような形で、朝起きた瞬間のことから夜床に就く時のことまで、一日の生活を隈なく詳しく綴っていくというもので、それを読んでこういう風にやれば良いのだと目をひらかされ、真似をしはじめたのが始まりだった。それ以来自分の人生を記録する文章を書き続けて――鬱病に冒されていた昨年の一年間は休止していたが――六年半余りになる。
 これもこの時ではなくてのちのことだったと思うが、読書遍歴のようなものも話した。――文を書きはじめたのと同じ、二〇一三年の一月に文学も読みはじめました。卒論も終わって時間が出来たので、前々から興味のあった文学というものに触れてみるか、と。就職活動はまったくせず(と言いながらへらへら笑うと、ISさんは素晴らしい、と受ける)、一応地元の市役所を受けていたんですが、当然の如く落ち、将来が不定なふわふわとした身分になったわけですね。それで文学でも触れてみるか、となったんですが、最初は文学作品というものの読み方が知りたかったんですよ。と言うのも、当時もTwitterをちょっとやっていたんですが、そうすると、自分と同年代の大学生らしい人が、哲学なんかを引用しながら格好良く文学について論じているわけですね。これは何だか面白そうだな、と。それで最初に読んだのが、筒井康隆の『文学部唯野教授』だったんですよ。あれは小説仕立てで、文学理論について簡単に紹介するというようなものでしょう。そこから嵌っていったんですが、でもまあその後、読み方はまあいいかという感じで、作品そのものに触れる方が楽しくなりましたね。初めのうちは色々と手を出してみて、確か四月頃には詩に触れて、中原中也とか長田弘とかを読んでいました。それで、七月ですよね、ガルシア=マルケスの『族長の秋』と出会うわけです。――最初に触れた時は、どんな感じでした? 読めましたか? ――まあ、勿論、訳がわからない。何をやっているのかまったく訳がわからんけれど、凄いということだけはわかるぞ、と。それでまたすぐに二回目を読んだんだったかな。その時の方が楽しめましたね。何となくやっていることがわかってきたんで。……ガルシア=マルケスを読むのに最初に『族長の秋』というのは、他人にはお勧め出来ませんけど、僕には良かったみたいですね。それで完全に呑み込まれた、っていう感じです。
 ISさんは保坂和志の小説論を読んで以来、読み方と言うか「心構え」のようなものが身についたような気がする、と言った。それでこちらも、小説論は僕も初めの頃に読んで、あれで読み方がちょっとわかったような気はしますねと受けた。物語だけを読む読み方から離れていくという観点からはまあわりと良い入門書なのではないだろうか。KWさんも小説論は読んで面白かったが、実作の方はどうもあまり乗れないと言い、ISさんもそれに応じて、解離がありますよね、エッセイと小説と、と受けていた。こちらは小説の方もわりと好きだが、もうだいぶ彼の作品を読んでいないので、最近の作を読んだり、『カンバセイション・ピース』を今読み返したりしたらどう感じるのかはわからない。
 途中でローベルト・ヴァルザーの名前も出た。ここに集まった三人とも、ヴァルザーが好きで、素晴らしいと言を合わせた。こちらはTwitterなどのアイコンにしているくらいだ。ISさんは原文で読んでみたいと言うので、こちらもそれには強く同意し、何しろ全部で一〇〇〇とかあるらしいですよ、小品が、と燥いだ。著作集も五巻すべて出揃ってしまったし、全集のようなものは当分は出ないだろうとISさんが見通しを述べるので、それはそうだろうなとこちらも同意した。読みたければ自分でドイツ語を勉強するしかないわけだ。こちらとしてはしかし、一〇年後でも二〇年後でも良いので、小品をすべてと、あとは日記や書簡などを訳してくれる人が現れるのを待ちたいと思うが、それも相当な労力で、一生の仕事になるだろう。そこまでヴァルザーに人生を捧げようという人間、彼の存在を引き受けようとする人間が日本に現れるだろうか?
 ヴァルザーの話題を書いたのでついでにここに記してしまうが、ISさんは最近、ヴァルザーとクレーの詩画集を読んで実に良かったと言った。確か昨年末あたりに出ていたものだっただろうか。立川図書館で借りて読んだと言うので――ISさんは現在、立川近辺に住んでおり、職場も立川にある――立川中央図書館のあの宝庫を利用できることを羨ましがって、僕も立川にいとこがいるので、カードを借りて不正利用しようかなと目論んでいますと笑った。ヴァルザーの詩とクレーの絵はとても調和していたらしい。ヴァルザーは雪とか灰などの儚いものをよく歌っており、散文と少々異なって柔らかな感じだったとISさんは話した。
 それで確か、こちらが昨年鬱病になっていたという話から今回の課題書である町屋良平『愛が嫌い』の話に入っていったのではなかったかと思う。昨年鬱病を患い、感情や感受性がまったく消失したような状態に陥ったのだが、町屋良平の「しずけさ」がそのあたりの感覚を上手く書いているように思った、とこちらが言い、どういう流れで課題書の話を始めようかと機会を窺っていたISさんがそれを拾って、そのあたりから本の話に入っていっても良いですか、と話題が展開したのだったと思う。以前も日記に記したことだが、町屋良平は、予想していた以上に描写力を持っているように感じられたとこちらは話した。数年前に作品を読ませてもらった時よりも、実力は着実に、格段に上がっているのではないか。当時は敢えてスカスカと言うか、幾分雑に書いたような記述が散見された覚えがあるのだが、今作は全体的に文章が整っており、上でも述べたように特に鬱病の描写が、平易な言葉遣いではありながらも通り一遍でなく充実していたように思う。鬱病の感覚、と言うよりは無感覚[﹅3]、あるいは感覚や感情が自分から分離してしまうような離人症的感覚をよく捉えられているようだった。ISさんも一時期、鬱病のようになったことがあると言った。とにかく無気力になってしまい、例えば本を読んでいても面白いということはわかるのだけれど、面白いから何なのだろうという思いが湧いてくると言うか、次、何かの本を読んだとしてもきっと面白いんだろう、だけどそれで終わるんだろうな、というような思いに囚われて、本を読む気力がなくなったのだと言う。それもある種の離人症と言うか、自分の感覚に自分で埋没出来ない、というようなものだったのではないだろうか。
 ISさんは町屋良平をほかにも何作か読んだらしいが、そちらも合わせてみると彼には「分身」のような主題が結構多く見られるとのことだった。今作にもそれは垣間見られたと言い、ISさんはその主題の散らばり方を鬱病の感覚と結びつけて読んでみたいようだった。つまり、登場人物が互いに分身同士として、共通性を持って捉えられるようになると、作品世界が狭まって息苦しくなってくると言うか、解釈の取り掛かりや道筋が限定されていくような感じがするのだと言う。
 ほか、こちらは、ちょっと今手もとに本そのものがなくて引用を正確なものに出来ないが、「ノスタルジーが徴兵みたいに襲いかかってきて、ショックだった」みたいな一文を取り上げて、この「ノスタルジー」と「徴兵みたいに」という比喩の組み合わせはなかなか凄いのではないかと言った。するとISさんは、これは現代川柳の言葉遣いに似ているような気がすると応じた。彼が紹介していた名前を忘れてしまったが――笹井、とか笹塚、みたいな名ではなかったか?――最近話題の現代川柳作家として何とかいう人がいるらしい。そこから、比喩のイメージと物語や世界観のイメージが衝突したり矛盾したりするのは駄目だ、という話に流れた。それで言えば、町屋良平のこの比喩は「徴兵」という語がそれまでに表象されてきた物語のイメージとは幾分ずれており、唐突で、あるいは前後の文脈から浮いているのかもしれないが、そうだとしても上手い具合に浮いているのだと思う。読んでいるとちょっとドキッとすると言うか、印象的な一節である。
 牧野信一の方に関しては、KWさんは先ほども記したようにあまり上手く乗れなかったとのことで、こちらも古井由吉大江健三郎が揃って褒めているという情報から来る期待が強すぎたのか、それほどに印象深い部分はあまりなかったというのが正直なところである。描写がいびつでしたね、という点で三者とも一致した。記述の順番などが、有り体に言ってしまえばちょっと下手くそなようにも思えたのだったが、ISさんが評したように、一言で言えば「ヘタウマ」と言うのが相応しいのだろう。ただ、岩波文庫の表紙に記された広告文のなかに、「無類の文学世界」という文句があったのだが、これは確かにその通りですねとKWさんは評価した。ほかに誰が似ているというような要素があまりない。坂口安吾小島信夫が影響を受けているらしいという話がISさんからあったが、確かに、彼らの源流となるような雰囲気が部分的に見受けられたような気はしますと彼は言った。古井由吉牧野信一について、やたら反射するような文章だが、時には実に端正な一節がある、と評しているらしい。それで言えば、古井と大江が揃って評価していた「西瓜を喰ふ人」(だったか?)の作の方が、ISさんによると、今回読んだ諸作よりも端正に整っているとのことだった。
 牧野信一に関しては、「演じる」というテーマが結構良く見られたということもこちらは指摘した。古典文学などの登場人物に自分を擬えてみせる箇所が散見されたのだ。そのようにして自己を物語のなかの登場人物に擬してフェンシングの剣を持ち出してみせたりするのは、妻子を持っている一人前の男性としては幾分子供っぽい振る舞いのようにも思えたのだが、そのあたりに自己の戯画化が施されているような感じがするとこちらは話した。『ゼーロン・淡雪 他十一篇』に含まれていた諸篇のなかでは、「天狗洞食客記」が良かったという点で三人とも一致した。これもわりとわかりやすいすっとぼけたような滑稽譚なのだが、それが後半ではちょっと幻想風味の美しいような話になってきますよねとISさんは言った。この篇はこちらがこの本のなかで唯一書抜きしようと思った描写が含まれていた篇でもあるので、その部分を以下に紹介しておこう。

 それから私たちは食事の度ごとにそれとなく四方山のことなどをはなすようになったが、顔つきや口つきを全く動かすことなしに言葉を吐くということは妙なもので、「言葉」というものが全然発声者とは関わりなく、それぞれ游離して、明らかに空間における別個の存在物と感ぜられた。私は、私と小間使がとり交す言葉のすべてが、眼にこそ見えないが、眼に映るあらゆる物象と同様に、あれらの転生宗教家連が信ずる如くそれぞれ命を持ってたゆとうていると思われた。――と考えれば何もそんな顔つきで会話を交える私たちの場合に限らず、宇宙間のあらゆる音響がそれぞれ別個の命あるものと信ぜられるのだが。
 (牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』岩波文庫、一九九〇年、168; 「天狗洞食客記」)

 おまけに間断もなく鉛のような酔に閉されている私の眼に、華麗な花の合間からちらちらと映るうつつであるが故に、無何有[むかう]の風情が突っぴょう子もなく、嫋娜[たおや]かに感ぜられるのであろ(end168)うが、藤の花のようにすらりと丈の伸びたテルヨが、いつもうつむき加減でひらひらとする両[ふた]つの振袖を軽やかに胸の上に合せて土橋の上をゆききする姿が真に幽かな蕭寥[しょうりょう]たる一幅の絵巻ものと見えた。――もうこの頃はどちらもすっかり言葉に慣れてしまって、睨み合い端坐したまま、
 「テルヨさんが居なかったら僕は一日だってこんなところに居られるものか、馬鹿馬鹿しい!」
 「もっと胸を張っていなければ駄目ですよ、しっかりと腕をあげて、そして、もうせんのように落ついて頤を撫でて、――それが下手になったら片なしじゃないの……」
 などと囁き合うのであったが、どうしてもそれらの言葉が、あの向方の藤棚の下をゆききする冷々と美しい娘の口から吐かれるものとは感ぜられぬのであった。その姿は私などの言葉は断乎として届かぬ遥かなもののまぼろしとうかがえるのみだった。私の慣れ慣れしい言葉は、ただ彼女の口先から洩れる数々の言葉とのみ慣れ親しんでどこかの空をさまようているだけで、あの姿に向っておくりつたえたものとは、私には考えられなかった。
 (168~169; 「天狗洞食客記」)

 ほかにも色々と話したのだったが、こちらの記憶に残っている事柄はそのくらいのものである。あとはそうだ、ロラン・バルト特集の『現代詩手帖』は結局、ISさんが貰ってくれることになった。『偶景』の名を挙げてこちらは、俳句が好きなら『偶景』は面白いかもしれません、バルトが俳句をやってみた、みたいな作なんでと紹介した。ISさんもやはりバルトのなかでもそのあたりに一番関心があると言う。それでこちらは、バルトにとって俳句っていうのは意味の最小性を実現するものなんですよね、日本だと、俳句は極小の形式のなかにいかに言葉を上手く重ねて意味の重層性を生み出すか、というような風に語られると思いますけど、バルトはそういう風には見ないんですよね、などと話した。それで五時頃に至って、このあと紀伊國屋書店に行きましょうかということになった。それでそれぞれ財布を取り出して金を出し、KWさんに一括して支払ってもらうことにした。彼が支払いを終えて戻ってくると席を立ち、退店して駅の方に向かって歩き出した。ハルクの一階に入っている何とか言う喫茶店――名前を忘れてしまった――にISさんは良く来ていたのだと言った。その前を通り過ぎ、角を曲がると、彼は飲み物を買いたいと言ってドラッグストアに寄った。彼が店内で買い物をしているあいだにこちらとKWさんは店舗の外で待ち、そこの棚に陳列されていた顔にぴったり貼りつくタイプのマスクを手に取って、最近この型のマスクをつけている人が多いですよねと話したり、「ONAKA」という整腸用品か何かのような品物のネーミングセンスに突っ込みを入れたりしていた。ISさんが戻ってくると彼について人波のあいだを歩いていき、やけに幅の広い交差点を渡ってガード下を抜け、東口あるいは歌舞伎町の方面に行った。紀伊國屋書店には裏口の方から入る形になったが、そちらの道から来るのはこちらは多分初めてだったと思う。当然目当てとなるのは二階、文芸のフロアで、まずハードカバーの新刊が並べられている一角を見分した。トニ・モリソン追悼で彼女の著作がいくつか平積みにされてあり、バラク・オバマ元大統領も読んだ、というような宣伝文が付されていた。それから海外文学の方に移動して棚を見分。フランクルの『夜と霧』の新訳が出ていたが、これは初めて見るものだった。ただの新訳ではなくて、旧訳とは違う新版に依拠したもので、記述にもいくらか異同があるらしい。『夜と霧』は先日、中野ブロードウェイまんだらけで見つけて入手してあるところ、新訳が出ているのだったらそちらを読めば良かったか、と思ったが、まあ名高い作品なので両方とも読んでみたって悪くはないだろう。海外文学の書架を辿っていくと、次には文芸批評の区画などを見て、やはり『論集 蓮實重彦』が欲しいけれど六〇〇〇円くらいするので諦めたり、隣にあった工藤庸子との対談本もい一三〇〇円でわりと安いけれどこれも見送ったりしたあと、最終的に日本文学の区画に平積みにされていた後藤明生『挟み撃ち デラックス解説版』を買うことにした。二二〇〇円くらいだった。これを選び取ったのはやはり、蓮實重彦の批評文が付録についていたからである。そのほか、平岡篤頼の解説なども含まれていて、なかなか豪華である。そう言えば海外文学の棚を見ているあいだのことだったが、こちらの傍らにカップルがやって来て、女性の方を見ると、顔は見えなかったがマロン色めいた長い茶髪の幾分ギャルっぽい雰囲気の人で、彼女が海外文学など読むのかと去っていくその後ろ姿を視線で追ったところ、手に持っている本のジャケットに見覚えがあって、今正確な名前を思い出せないのだが、以前Yさんに教えられた「東欧のボルヘス」と呼ばれている作家のものだったので、人を見かけだけで判断してはいけないけれど、あのような人があのような本を読むのか、とちょっと意外に思われたのだった。
 それから文庫の区画に行ってここも長々と見分した。こちらは岩波現代文庫の棚から熊野純彦の『レヴィナス』が目に留まったので、これを買ってしまうことにした。熊野純彦には以前からわりと興味があるが、だからと言ってさすがにいきなり岩波文庫の『存在と時間』を読んだりする気にはなれない。ISさんは文庫の区画の入口あたりに表紙を見せて並べられていた島尾敏雄及び島尾ミホの評伝らしき文庫本を購入していた。それでこちらもレジに行って会計し、KWさんは何も買わないと言うのでそれで店をあとにした。通りに出たところで、このあとどうするか、飯でも食っていくかということになったのだが、今日はここで解散しようということに決定され、西武線の方に行くKWさんとはここで別れ、ISさんとJRの方に向かった。新宿ではこの日、祭りが催されていたようで、歌舞伎町の方へと続く間道の途中に提灯が並べられてあったり、その奥から下手くそな歌唱が聞こえたりしており、辺りの宙には何かの煙が漂っていたので、煙が、煙が、とこちらが漏らすと、ISさんはこのことも日記に書くんですか、と訊いてきたので笑った。印象に残っていれば書き記すと答えたのだったが、見事記憶に残って記録されたわけだ。群衆のなかの小さな一片と化して横断歩道を渡り、地下通路に下りて、日記の話などしながら改札に向かった。改札に入る手前で、Fさんは、と番線を訊かれたので、ご一緒しますよと受けて、総武線に乗るというISさんと西荻窪まで路程を共にすることにした。彼は今日は立川に帰るのではなく、西荻窪の知人の家に行くのだということだった。それで工事中の通路を辿っていき、新しく出来たらしい階段からホームに上って、ちょうど来ていた電車に乗り込むと、三人掛けの席を取ることが出来た。ここで出身を訊いてみると、茨城県の下館という町だと言った。結城市の隣らしい。その後、お互いに買った本を見せ合い、さらに今何を読んでいるのかと訊くと、ISさんはスマートフォン読書メーターを見せてくれたのだが、文芸を中心に実に色々と読んでいるものだった。最近は建築関連にも興味が出ているらしく、その関連の写真集や、『物語としてのアパート』などという本なども読んでいると言った。って言うか、読むの速いですよねと訊くと、普通の人よりは速いと思います、という言が返ってきて、速ければ三日に一冊だと言った。きちんと働いてもいるのに、大したものである。しかし長ければ一週間以上掛けることもあるし、これからはもうゆっくり読むようにしますと彼は笑った。
 電車に乗ってからのISさんは何となく元気がなくなったと言うか、声が小さくなってこちらの耳に届きにくくなったので、こちらも姿勢を前屈みにして彼と顔を並べて発言を耳に拾った。疲れてしまったのだろうか、それとも電車が苦手なのだろうか。僕の日記をまだ読んでくださっているんですかと尋ねると、読んでいるとの返答が来たのでありがとうございますと笑って礼を言った。ただ、やはり全部は読めていないと言う。当然のことだ。Twitterで流れてきたら「いいね」を押して記録しておいて、そうした記事はあとで読むとのことだった。最近はこちらの記事もやたら長くなりがちでなかなか追いつけないようで、読むのが追いつけないくらいのものを書くのって凄いと思います、と言うので、こちらは笑い、あれを毎日読める人はよほどの暇人ですよと受けると、ISさんはいやいや、と応じて、楽しんで読んでいる人は一定数いますよと言ってくれた。
 その時点で荻窪を過ぎた頃合いだったが、西荻窪に着くあいだまで話が途切れて沈黙が漂った。窓の外はもはや暗闇が浸透しており、扉際に立ってスマートフォンの画面に指を滑らせている人の姿がガラスに反映していた。西荻窪に着く直前でISさんは立ち上がったのでこちらは手を差し出し、握手してありがとうございましたと言葉を交わした。また立川の方で、と言うので、是非是非、と受けて、いつでも連絡してください、と言い、ふたたびありがとうございましたと手を挙げて別れた。
 三鷹に着くと総武線から中央線に乗換えである。水中書店に寄っていきたいような気がしたが、寄ればまた一万円くらいは使ってしまうことになるので自制し、改札は出ずに大人しくホームを替えてやって来た八王子行きに乗った。一駅乗って武蔵境で目の前の座席の端が空いたのでそこに入った。隣の高年の男性がひらいて持っている本に視線を送ってみると、カバーの折返しの欄に司馬遼太郎の名前が見えたが、彼はうとうととしているようで、視線を俯かせたまま頁を進めずにじっとしていた。
 携帯にメモを取りながら立川まで乗り、降りるとラーメン屋に寄って夕食を済ませてしまうことにした。それで改札を抜け、人波のあいだをくぐっていき、北口広場に出て通路を辿り、エスカレーターを下りていつもの如く「味源」に向かった。ビルの二階に上がって入店すると、食券機で今日は醤油チャーシュー麺の券を買った。そのほか一〇〇円で白髪葱のトッピングも選び、カウンター席に着くと近寄ってきた男性店員に券を渡して、サービス券は餃子を頼んだ。水をコップに注いで口をつけ、携帯にメモを取りながら食事が来るのを待つ。ラーメン屋では今日は珍しく、J-POPではなくて洋楽が掛かっていた。メロコアと言うのだろうか、メロディアスな旋律の明るいパンクめいたロックという感じのものばかりが続けて流れていた。ラーメンがやって来ると、丼の縁に乗せられたチャーシューをスープのなかに沈め、山盛りにされた白髪葱も崩してその下から麺を持ち上げて啜った。餃子も一気に食ってしまい、ラーメンの方も平らげると、蓮華で一口ずつスープを掬って、葱やチャーシューの細かな破片を残さず口に入れた。そうして水を飲み干すと、長居はせずにすぐに立ち上がって背後の出口に行き、出る間際に店員に向かってごちそうさまですと告げて店をあとにした。ビルから出ると向かいの伊勢丹の一階に入っているスター・バックスの前の段に若い男女が腰掛けてたむろしていた。表に出ると階段を上がって通路を辿り、駅に入ると改札をくぐって一番線である。一番端の車両に乗り、座席に腰を下ろして相変わらず携帯を操り、メモを取りながら青梅に到着するのを待った。
 青梅に着くと乗換え、奥多摩行きは確かもう来ていたのではなかったかと思う。電車に乗ると座って引き続きメモを取り、最寄り駅に着くまでのあいだに九五〇〇字くらいは記録できたようだ。駅を抜けてこの日の記憶を反芻しながら夜道を歩き、帰宅すると多分九時前だったのではないだろうか。
 その後、九時半からMさんの日記を読んだ。そうして一〇時に至るとインターネット記事、まず猪瀬直樹・三浦瑠麗・小谷賢・ケント・ギルバートグローバル化と国家 英国のEU離脱と米大統領選挙、これから日本が進むべき道 日本文明研究所シンポジウム載録」(https://dokushojin.com/article.html?i=191)を読む。それから、この日からなるべく毎日英文にも触れていこうと方針を決めて、Pico Iyer, "The Beauty of the Ordinary"(https://www.nytimes.com/2019/09/20/opinion/aging-marriage-autumn.html)も読んだ。それであっという間に一一時を越えて、風呂に行った。湯浴みして戻ってくるとハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』と牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を続けて書抜きしたが、その途中、ちょうど零時になった頃合いにLINEの通知音が鳴り、見てみるとT田がHMさんとのグループを作ってくれていた。これで無事、LINEでHMさんと繋がることが出来たわけである。
 その後、この日は日記を書くのが面倒だったので仕事は翌日以降の自分に任せることにして、Twitterで話し相手を募集した。するとTNさんという方が応じてきてくれたので、ダイレクト・メッセージでやりとりをした。好きな詩人を最初に尋ねられたので、岩田宏石原吉郎が好きだとこちらは受け、石原吉郎について短く紹介したあと、音楽の話などをした。ジャズを聞くと言うと、何かおすすめはありますかと訊いてくる。付け加えて、あちらは映画を見るらしいからそれで聞き知ったのだろう、"Mack The Knife"が好きだと言うので、その曲が入っている定番のアルバムだったらSonny Rollinsの『Saxophone Colossus』なんかがありますねとこちらは教え、そのほかにもMiles Davisの『Relaxin'』なんかから入るのが良いんじゃないかと思いますと紹介した。そうこうしているうちに二時に至ったので、そろそろおひらきにしましょうとこちらから言って、礼を言い合ってやりとりを終えるとコンピューターを閉ざしてベッドに移った。リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を読んでいたはずが例によっていつの間にか意識を失くし、何時まで読んでいたのか、何時に眠ったのかはわからない。


・作文
 8:55 - 9:15 = 20分

・読書
 9:29 - 10:00 = 31分
 11:34 - 11:47 = 13分
 21:26 - 21:54 = 28分
 22:04 - 23:13 = 1時間9分
 23:47 - 24:07 = 20分
 24:11 - 25:22 = 1時間11分
 26:11 - ? = ?
 計: 3時間52分

・睡眠
 4:10 - 8:00 = 3時間50分

・音楽

  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Art Pepper Meets The Rhythm Section』