2016/9/11, Sun.

 相も変わらず、目は繰り返し覚めるもののいつまで経ってもその起床の可能性を掴み取れない怠惰な午前である。この日も意識がまとまるのには一一時半を待たねばならなかった。携帯電話で他人のブログを読んでから立ち上がり、便所に行ってきてから、焦るようでもあったが落ち着いて瞑想はやろうと部屋に戻った。まどろみのあいだから祭り囃子が川向こうから届いていたようで、この時にも聞こえていたと思う。九分座って上へ、瞑想の習慣のおかげか、朝寝坊をしてもそれほど身体がこごらなくなったようである。それで真っ先に風呂を洗い、それから台所に立って、素麺の入った鍋を温めた。ほかに肉じゃがの残りやゆで卵で食事を取って、ちょっと新聞を読んだと思う。食器を母親の分までまとめて片付けて室に帰ると、すぐに書き物を始めたらしい――それなりに時間が掛かるだろうことがわかっていたのだ。音楽はJacqueline du PreとDaniel Barenboimの演ずるベートーヴェンチェロソナタを昨夜から引き続けて、一時一五分から打鍵に掛かった。それで綴って、音楽が終わってイヤフォンを外してからも黙々と指を動かしていると、母親が部屋にやってきてごみを持ってきておいてとか、草取りをちょっと手伝わないとか言う。無言で目線も動かさずに指を素早く滑らせていると、顔をちょっと横に傾げるようにして戸口に立っていた母親は離れて行った。正直なところ、そうしたことを、特に打鍵中に求められるのはうんざりと言うほかなかった――以前から何度も繰り返し得ている苛立ちではあるが。とはいえ、手伝わないというのも薄情で恩知らずなようでもあるし、結局母親を黙らせるには、(独立して生活を営む経済的基盤が整っていない現状)こちらから積極的に家事を分け持って先回りして母親の求めを満たすしかないのだ――そうした思考に至るたびに、フランツ・カフカが作った「おまえと世界との闘いにおいては、かならず世界を支持する側につくこと」というアフォリズムを思い出すものだ。それで三時直前に至ったところで部屋を出て、一度上に行った。母親は何やら隣家に行って老婆と話しているらしい。一旦部屋に戻って腕立て伏せをしてから、外に出る前にと歯を磨いていると、上で電話が鳴った。鷹揚と階段を上がって取ると、立川の叔母である。元気かと訊くのに何とかやっていると答えて、皆はどうかと言うのには、一瞬兄夫婦に子が出来たことが頭を過ぎったのだが、言わないほうが良いのだろうと黙って、変わりなくやっていると受け、母親を求めるのに少々待つように告げてからサンダル履きで外に出た。隣家の方に下って行き、敷地に踏み入って建物の角を曲がると、縁側に座っている老婆と話をしている。こんにちはと老婆に挨拶をしてから、電話が来たことを告げると、じゃあすいませんと母親は辞去して、子機を受け取った。こちらは母親が持っていた梨を貰って(あとで聞いたところによると、隣家の南隣の若夫婦に渡そうと思ったところが、留守だったらしい)、小走りに家に戻り、歯磨きに戻った。口内をすっきりさせると階段を上がり、母親が洗面所で通話を続けているのを置いて、軍手を嵌めてサンダルで外へ出た。ポケットには腕時計を入れていた。家の南側に出ると、三時二五分を確認し、二〇分だけと決めて、窓を覆うアサガオの棚の脇の細い地面の草を取りはじめた。土の上には若緑色の苔が広がってはいるが、生えているというほどの雑草はどれもごく小さなもので、一体こんなものを必死になって取る必要がどこにあるのかわからない。そもそも自分は草が生えている状態を汚いとか醜いとかは感じず、生えているにしろ生えていないにしろそれが自然そのままであるのだから、手を加える必要など認められないのだが、母親にはおそらく、その同じ草たちが土から僅かに顔を出しているさまが、早く取れと強迫的に訴えかけているように見えるのだろう。それはどちらかと言えば、美的感覚の問題ではなく、自意識の問題である、と言うのは以前から母親が語るには、家のことをきちんとしていないとみっともないと思われ、非難されるように感じるらしいからだ。実のところ、誰もそんなことを思ってはいないし、誰もそんなに我が家のことをじろじろと見つめていたりなどしない。いま草を取っているここの地面だって立ち入って目にする者など家族以外にいないのだが、神経症というものはそういうもので、自身のうちに幻想を作り出してそれをもとに状況を解釈してみせるのだ(神経症患者のみならず、そもそもすべての人間がそうなのだろうが、幻想の程度が甚だしかったり、その種類が世間一般と外れていたりして生活上困難が生ずるものを神経症と呼ぶのだろう)。そんなことを考えながらもしゃがみこんで、草をつまんでは放る。向こうのほうから耕運機のエンジン音が響いているのは、梅の木枝に遮られつつ見たところでは、ちょっと先の家でも畑に出ているらしい。あたりには風が通って、草むしり自体は面白い作業でもないが、その柔らかさに触れるのは心地が良かった。アサガオはもう大半黄ばんで萎び、種の入った袋がそこここにできている。まだ緑に留まっているものも多いが、なかには茶色に枯れたものも見えはじめていて、それを指で掴むとくしゃくしゃと破れて糞のような種がぱらぱら落ちた。三時四五分になったのを見たところで帰ろうと家の角を曲がると、そこに母親がしゃがんでフォークで地面を掘り返していて、近くに立つと音楽を聞いていた母親はびっくりして声を上げた。脚が痒いと蚊に刺されて赤くなったのを搔いていると、母親は大袈裟に、エプロンのポケットから痒み止めを取りだして、いいと言うのに脚に塗りつけた。自分はもう入ると言ってなかに戻り、手を洗い、軍手を洗面器に浸けておいてから、豚汁を作ることにした。玉ねぎ、人参、ジャガイモと肉のそれぞれを切り分け、鍋に油を引いた上にチューブのニンニクを落とした。さらに生姜もすりおろして、最小の火加減でそれらが熱されるのを待ち、良いところでまず玉ねぎだけを投入した。火をほとんど強めずに、ちょっと素早くかき混ぜるとじゅうじゅういう音が途切れてしまうくらいの具合で、とろとろと、大層時間を掛けて炒めて、玉ねぎが柔らかくなるのを待った。それからさらにほかのものも加えて、適当なところで水を注いだ。洗い物を済ませ、灰汁も取ると新聞をひらいたが、立ったままだと読みづらいので卓に移り、築地市場移転先の一部敷地に汚染土壌防止用の盛り土がなされていなかったとの記事を読んだあと、台所に戻った。ジャガイモを楊枝で刺してみるともう柔らかいので、味噌を目分量で溶き入れて完成させると、自室に帰った。ちょうど五時くらいで、豚汁一つ作るのにも一時間掛かるものだなと思った。寝床に休みながらまず『族長の秋』をひらき、六ページを読んだ。次に『吾輩は猫である』に持ち替えたが、空っぽの腹が切なく呻いて仕方がないので、六時前にはもう食事を取ろうと上がって行った。するとカウンターの上に野菜の盛られたトレイがあって、焼き肉をするらしいさまである。と言うのは、この日の午前に自分が友人の結婚式で獲得した松阪牛が届いていたからだ。テーブル上に新聞紙が敷かれ、ホットプレートが準備されると、こちらは勝手に米と豚汁を並べ、野菜を焼きはじめた。牛肉以外にも豚肉が用意されて、それも焼きながら米と一緒にばくばく食っていると、母親も食事の用意をしてきて牛肉が運ばれた。どんなものかと焼いて食ってみると、確かに柔らかく、凝縮されていた肉の味と風味が噛むにつれて溶け出すようで、美味である。ちょうど帰ってきて、風呂に入る前に一枚口に入れた父親も、旨いと洩らしていた。と言って、狂喜乱舞したり感じ入ったりするほどかと言うとそうでもなく、低俗な舌しか持っていないので、どのあたりが高級な味なのかわからず、自分は弾力のある生姜焼き用の豚肉でも充分満足できるなと思った。それでも丼に盛った米をおかわりしてきて、野菜と合わせて両方とも焼きながらたらふく腹に詰めこみ、普段の三倍くらいはものを食ったところで満足した。体重計の電池の切れていたのを取り替えて、五七キロくらいにはなったかと測ってみると、五六. 四五キロである。洗い物を済ませて室に帰ると、Stevie Wonderを歌ったり動画を眺めたりと、遊んで時間を使ってしまった。八時半に腕立て伏せをしてから風呂に行った。風呂場では鏡に顔を近づけながらT字剃刀で念入りに髭をあたり、出てきて九時二〇分から書き物である。音楽は前日に買ったLightnin' Hopkins『Lightnin'』を聞いた。途中に母親が部屋に来て、何とか訊いたのだがその内容は忘れたものの、去り際に母親がこちらの後ろに視線を飛ばして、カーテンをちゃんと閉めなと言ったのは覚えている。振り向いてみると合わせがちょっと悪いだけで、ほとんど隙間とも言えないような黒線が僅かに差しこまれているのみで、どうでもいいではないかと大層うんざりした。非常に些細なことなのだが、こちらにはくだらないとしか思えない些末な事柄であるがゆえに、それをいちいち指摘され、要求されると苛立ちを抑えがたいのだ。この時はうんざりのあまりに涙の気配が目の奥からかすかに湧いて、結局自分が他人に、周囲に求めるのは、頼むからこちらに何かを求めないで欲しいという一点なのだと考えたが、そうは言ってもいられない、他人と暮らす以上、求め求められるのは必定だろう。一方的な共感も含んだ怪しい推測ではあるが、ロラン・バルトもおそらく、生活上の諸々のささやかな齟齬に憂鬱になる性質があって、それが高じてそうした煩わしさのないユートピア的共同体を夢想し、コレージュ・ド・フランスの講義で取りあげたのではないかと思う。しかし我々の世俗的な現実にそのような美しい関係が成立する可能性は極めて低い。そうなるともはや開き直って、逆の極に向かい、従順に世界の味方をしてやろう、他人にはいくらでも求めさせてやろう、ただせめて自分のほうから他人に何かを求めることはするまい、と妙な道徳律のようなものを打ち立てたりもする――しかし、時々の気分によってはそんな奉仕的な思考も一掃されてしまうものだ。ともかく一〇時を回って書き物を済ませ、それから山川偉也『哲学者ディオゲネス』の書き抜きに入った。Sam Rivers『Contours』を流したが、この作品は売却に分類された。一一時前で区切ると、おそらくは歯を磨いたあと、日記の読み返しを行った。二〇一四年の分はほとんど一、二分で読み、二〇一五年のものはもう少し長い時間を使って箇条書きを並べた。そして一一時半から、寝床での読書である。『吾輩は猫である』を読んでいたが、同時に、火曜日に迫る授業のために日本史の勉強もしておかなくてはなるまいなと考えてもいた。それで零時一五分で一度区切って、問題集を取りあげ、大問一つに含まれている事項の関連情報を用語集で細かく追って行ったのだが、これに大層時間を掛けて、一時間四〇分も使ってしまった。日本史の勉強をするにしても、一日に一時間くらいが充てるに妥当な量だろう。用語集を読み漁っていてはとてもそれに収まらないので、ひとまずは問題集の解説に即して知識を記憶し、用語集の参照は適度に事項を選んで行うことにした。それからふたたび『吾輩は猫である』に戻り、三時一五分まで読んでから、瞑想をして床に就いた。寝付くのにはやや時間が掛かった記憶がある。