2016/9/17, Sat.

 まどろみのなかで、窓の遠くから空気に響いて伝わってくる賑やかそうな音声を聞いて、そういえば今日は中学校の運動会だったなと思った記憶がある。何度かの眠りの途切れのたびに、夢を見ていた。自分も通った地元の保育園で、同じく地元の同級生(いまは自宅の飯屋の手伝いをしているはずである)と会った場面――相手はやたらと陽に焼けており、人種が変わったかのように随分と濃褐色の肌をしていた――、その後、雨のなかずぶ濡れになりながらそこから坂を下って行く場面などが辛うじて記憶に残っている。ほかに自宅で親戚たちと何やら集まっていたような覚えもあり、また、居酒屋かどこかで四人ほど集ってギターを持って爪弾いていた記憶もある――この後者のほうには、かつての意中の女性が出てきていたはずである。その夢は唐突に、何か衝撃を受けたような鈍い感触を頭にもたらし、それから視界がずるずると下に滑っていくようになり、するりと扉を一枚抜けるような具合でそのまま眼裏に意識が戻った。その瞬間に、いま現実に戻ってきたのだなという気付きがはっきりと訪れ、同時に先ほどまで自分が位置していたあの場は夢のなかだったのかと意識されて、まだ記憶も鮮やかな数瞬前の居酒屋にいた自分が、自らがいま夢を見ているなどとはそれこそ夢にも思っていなかったのが不思議に思われ、夢を抜けたというよりは一つの現実からもう一つの現実に移動してきたかのような感じがしたのだった――が、この最後の夢とそれに続く少し奇妙な感覚は午前のものではなく、午後の読書中のうたた寝で得られたものだったかもしれない。九時台にも一度覚めたはずだが、意識が固まるのは結局は一〇時四五分となった。他人のブログを読んでから、寝床に横たわったまま読書である。この午前に残った一時間のうちに、J. アナス・J. バーンズ/金山弥平訳『古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式』を読了してしまうつもりでいた。空は青さと淡く粉っぽい白さを行き来していたようである。望みどおり、ほぼ正午ちょうどに読み終わり、そしてギターを二〇分かそこら弄ってから上階に行った。前夜も食った唐揚げをトマトソースと絡めたと言う。それをおかずに米を咀嚼し、茄子の味噌汁を飲みながら新聞を読んだ。新聞の一面には、目を引く記事が出ていた――米軍普天間飛行場移設先の、名護市辺野古の埋め立て問題で、福岡高裁那覇支部が国の言い分を認めて、翁長雄志沖縄県知事が埋め立ての承認を取り消したのは違法にあたるとの判決が下されたのだったが、この時にはテレビに映るバラエティ番組の音声のほうにも気を取られて、きちんと読むことはできなかった。ゆるりゆるりと過ごしたのち、皿を洗って風呂を洗いに行った。浴槽を擦って洗剤を流し、中腰になって風呂の蓋をもとに戻してから視線を上げると、時計は一時二〇分ほどを示している。随分と悠長に過ごしてしまったものだと浴室を抜けて部屋に帰り、美容室に予約を入れた二時半まで本を読むかとベッドに転がった。新たに読みはじめたのは、マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて』の六巻である。およそどうでもいいようなことしか書かれていない月報をさっと読み、本篇に入っていくらもめくらないところで二時一五分になったので、中断して上階に行った。肌着のシャツを脱いでデオドラントシートで肌を拭っておき、自室に帰ると外着を纏った――暗めの群青色のシャツに、古着屋で入手したLevi'sの、薄雲の混ざって淡い空のような色のズボンである。それでちょっと時間を見てから出発、玄関を抜けると、風が強いわけでもないのに、林の縁からまだ薄緑を残した葉が、ゆらりゆらりと地に向けて緩慢に宙を渡っている。左を向いても右に視線を戻しても、あちらこちらで自ずから葉が落ちるのが見られて、そういう時期を迎えたのだなと多少の季節感を滲ませた。ゆるゆると歩いて坂に入り、上りながら見上げると、葉が重なって天蓋となっており、行く手の右側にややひらいた空間にも、無数に緑が点じられて色が空気を包むようになっている。左手には土壁があって、竹が並んで伸びてはいるものの、緑の統一のなかに少々の崩れをもたらしている。その斜面を越えた先はやはり林で、そちらのほうを見上げると白さを押し広げる太陽が浮かんで、木と木や葉と葉のあいだの細かな隙間を輝きで満たしており、こちらが歩を進めるのに応じてその輝きがちらちらと震えまたたき、まるで川面を見ているような思いを生じさせるのだった。坂を抜けると通りを渡り、美容室に入った。先客は一人、こちらと同年代くらいと見える男性のみで、一見したところ暇な日らしい。洗髪台に横になって髪を洗ってもらっているあいだに(首はほぐしてきたので苦しさはなかった)男性が店主と話しているのが聞こえたが、低い声で言葉は聞き取れなかった(あとで聞いた話では、今年で卒業だかの大学生で、川の近くの家に住んでいると言う)。彼が去ったあと、一人で鏡の前に座り、頭を美容師の婦人に委ねた。三人しかなかにいない店は静かで、クラシック音楽が薄く背後に掛かっているのがさらに閑散とさせるようで、会話はいつもの通り、こちらはうん、うん、と――口をひらいてはい、と発するのも面倒なので――相槌を打つ立場に安んじ、時折りもう少し意味のある言葉を返した。美容師は夫の自分に対する無配慮ぶりや、自営業を営む生活の苦労などについて話し、それは雑談というよりは少々愚痴めいたトーンだったのだが、うん、うん、と単調にこちらは受けた。終盤、何かの流れで、金がなかなか貯まらないと口にすることになった。何故かと問われて、やはり一番使ってしまうのは本だろうなと返すと、相手も自分も本を買ってしまうという話がちょっと始まった。と言って相手が読むのは勿論通俗的な類の書籍なのだが、しかし小説は読まないと言う。架空の話は、何だか読んでいて馬鹿らしくなってしまう、というようなことを言うので、仮にもその架空の話を書きたくて日々を生きている人間の前で、と苦笑するようになった。僕は架空の話ばかり読んでますよ、と言うと、どういうところが面白いの、と訊くのだが、真面目に考えて真面目に答えるのも面倒だったので、何でしょうね、よくわかりませんねと流して、それで確か二度目の散髪が終わって会計となったはずである。金を支払いながら、美容師に、いま何キロ、と訊かれたので、先ほど量ったら五六キロ台だったと告げると、助手と並んで二人、あまり言葉も発さずに苦笑のような空気を醸していた。いまだんだん増えてきてます、五五キロを保てるようになったので、と付け加えて会計を済ませ、礼を言って店をあとにした。緩く歩いて通りを渡り、ふたたび林の内の坂道に入った。厚い緑の苔がほつれたカーペットのように染み付いている上を通り、下って自宅に帰ると、ちょうど一時間ほど経って三時半だった。室に帰って気楽な格好に着替えると、ベッドに転がって『失われたときを求めて』六巻を読みはじめた。それが続いたのは四時半前までなのだが、それから書き抜きを始める五時半までのあいだに何をしていたのか定かでない――確か何かのタイミングで上階に行って、母親に、今日の飯は自分はうどんを食うと話した。それだからおかずはいいと言って、料理もせずに下に戻ったのではないか(あるいは、何か一品だけ、非常に簡単なものを手早く作ったような気もする)。それで音楽プレイヤーの履歴によると、五時一五分あたりから歌を歌っていたようである。そうして、Mark Soskin『17』を共連れて、ジュリア・アナス/大草輝政訳『プラトン』の書き抜きを始めた。一時間弱でそれを終えると、夕食に上がる前に、売却候補として、ベッド脇に置かれた棚の漫画を整理したのだ。往々にしてあることだが、整理しながらなかを覗くとちょっと読みはじめてしまい(清家雪子月に吠えらんねえ』や、沙村広明『幻想ギネコクラシー 1』である)、夕食に行ったのは八時前くらいだったのではないか。うどんは既に母親が煮こんでいた。何らかのおかずとともにそれを食べ、室に戻ってからもまた漫画をちょっと読み、九時から書き物に入った。ここで流したのは、Greg Osby『9 Levels』である。一曲目の無骨なベースの音色と、機械的で混迷させるような譜割りのテーマを一聴して、残す価値がありそうだなと思ったのだが、聞き進んでいるうちに最初の印象に疑問符が付いた。天井が鳴るのを無視して打鍵を続けていたところが、母親が部屋にやってきて風呂はと訊くので、入ることにして、九時四三分で中断した。入浴を済ませてくると、一〇時半からまたキーボードを叩きはじめたのだが、手の爪が僅かながら出っ張ってきたのが気になったので、すぐに止めて、Bill Evans『Alone』を掛けながら爪を処理した。それから先ほど売却予定に含めるのを忘れていた石黒正数それでも町は廻っている 1』を取り、例によってちょっと読んでしまい、そして一一時から書き物を再開した。二七〇〇字で美容室を出たところまで綴り、零時になる前に中断して、英語のリーディングと日本史の勉強をそれぞれ行い、零時半である。それからインターネットを回り、さらにポルノも閲覧して長く時間を使い、射精した頃には二時をだいぶ過ぎていた。ちょっと休んで、股間を洗ってきてから、床でしばらく脚をほぐし、そうして三時に消灯した。睡眠に向かう時間を前日より早めるという目標は、僅か五分の差だが辛うじて達成できたことになる。