2016/10/7, Fri.

 長々とまどろんでいるあいだに、母親が部屋に来た記憶もあるが、はっきりとしない。一〇時半になるとようやく意識が固まったようだが、例によって寝床でだらだらと時間を潰してから、上に行った。台所には、生ハムのかけらが混ざったチャーハンが作られてラップを被っている。顔を洗ったり用を足したりしてから、ラップを外してそれを電子レンジに突っこみ、ほかには即席の味噌汁を用意し、冷蔵庫に入っていたピザパンも温めた。卓に就くと、新聞を少々読みながらの食事である。皿を洗うと蕎麦茶を持ってねぐらに戻り、インターネットをちょっと確認したあとは、飲みながら読書を始めた。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『休戦』を、この日で読み終えてしまうつもりだったのだ。Jacqueline du Pre & Daniel Barenboim『Beethoven: The Five Cello Sonatas』を流し、ベッドに寝転がって読んでいると、母親がベランダから窓をどんどん叩くので、起きあがって鍵を開けると、薄布団を取りあげて柵に掛けた。またこのあとで戸口にやってきて、草取りを手伝ってくれないかと言った時もあった。加えて隼人瓜が鳴っているのが高くて取れないから取ってくれとも言うのだが、率直に言って勘弁してほしい、草などどうだって良いだろうという気持ちで、面倒くさそうな様子を前面に出しながら床から動かず、適当に追い払って本を読み続けた。読了したのは、一時四〇分である。記録を付けて、本来そこから書き物に向かうべきところだが、夜更かしのためだろう、気力がいまいち涌かなかった。もう一つには、昼間の室内で文を綴ることと、夜も更けてからのそれとを考えてみると、後者のほうに心が傾く。それはやはり、母親が家内を動いている気配が煩わしかったり、それどころか、ものを書いているあいだに母親が部屋に来る可能性を考えると、落ち着かないためだろう――しかしこの日の夜には、邪魔が入ろうが何だろうが、やはり書き物を優先して早めに綴るのが望ましいと考えることになる。この時はまだベッドに転がっていたかったので、日本史の一問一答を取りあげて、江戸時代の語句を確認していった。第八章「幕藩体制」――元禄あたりまでの時期である――は、どのページも思い出せないことはなく復習を終えられたので、九章の「封建社会の動揺」に入った。最後のほうは少々うとうとしながら、享保の改革やら田沼意次やらを確認し、二時半を過ぎて風呂を洗いに上に行った。すると母親が、出かけるのかと訊いてくる。立川に行きたい気持ちがあって、CDを売りに行こうかなと口に出すと、実際にその心が固まってきて、下りたあとは売却CDを整理した。二〇枚かそこら既に溜まっていたのに、さらに加えて行こうと、聞かずともこれは売却とわかるものを探して、室内の各所を探った。長いこと手を付けていなかった、埃まみれの棚なども見分し、なかには懐かしのアルバムも含まれたものたちをコンピューターの横に積んで、音源を削除しては売却予定リストにタイトルを追加していった。そうしていると母親が部屋にやってきて、ベッドのほうに行き、薄布団をカバーに包みはじめたのだが、それが終わってもまだちょっと留まっている。久しぶりに見かけた気が向いたHalford『Live Insurrection』を、最初は消していたのが、なかなか出ていかないので面倒くさくなってイヤフォンからまた耳に流した。やはり自分以外の存在が室内にあるだけで、何となく不快を覚え、邪魔くさい感じがするものだ。あれもこれもと足していると、CDは結局五一作品になった。それらを大きな紙袋に収めたのち、さらに本も整理することにした――あるものは紙袋に入れられ、あるものはその上に重ねられて、床にいくつも並べられて氾濫した水のごとく盛り上がっている本たちをどうにかしなくてはと思っていたのだ。窓際のベッドから床に足を下ろしてすぐ左には、その銀色もざらざらといくらか錆びついた数段のラックが設置されている。そのなかの一段がいまはズボンの置き場になっているのを、本の居場所にすることにして、履き物を一旦どけて、過去のファイル類やもはや不要な書類なども始末し、床に置かれていた本をどんどんと載せていった。段の上には、前後で二列にするだけの余裕がある。前を文庫、奥を単行本にして背表紙をこちらに向ければ、前後に並んでいても奥の判別もできるではないかというわけで、そのように設置し、上の二段にも新しく本を足していった。『川本真琴』を流しながら作業を進め、それでベッドから扉まで足を運ぶあたりの床のものは片付けることができたが、実のところ、押入れのほうにまだ三つの袋が残っている。それらはひとまずそのままにしておき、服を着替えて、電車の時間を調べると四時二三分だったので、まだ大丈夫だなと音楽を聞いていると、母親がやってきた。外に出てきたらしく、活発なような調子になっており、ジュースを飲むよう勧めて持ってきたミニグラスに炭酸飲料を注いで、隼人瓜を取って近所に渡してきたとか何とか言う。酸っぱいジュースを飲むと、もうあまり時間もないので、荷物とグラスを持って上階に行った。そうして、靴下を履いたりハンカチを用意したりしてから、家を発った。本と手帳を入れた小型鞄は、袋のCDの上に置いて、縦に長いそれを提げながら行くのだが、五〇枚あっても先日の本よりはまだ軽く、片手で持てないことはない。一枚二〇〇円と考えても売却益は一万円には達するのだから、そう考えると本を売りに行くより、労力に対して割が良いなと思った。とはいえ提げているとやはり、紐が手に食いこんで痛いので、時折り持ち替えながら道を行く。市営住宅の前に掛かって、ふと道端に目をやると、民家の庭に猫がいて、思わず立ち止まった。黒っぽく暗い、植物的なような色の縞を体に纏わせた猫で、目つきは鋭く、あまり友好的な雰囲気ではない。それでも手を差しだして口笛をちょっと鳴らしてみたが、何の反応もないし、ここで時間を使って電車に遅れるのも馬鹿らしいので、戯れるのは諦めて先を進んだ。林中の坂を上って行き、腕に力を入れて袋を持ちあげながら階段を上り、ホームに渡って先のほうで立ち止まった。東は灰色の雲が一面に埋めて空が厚くなっているなかに、仄かに薄紫の風味が混ぜこまれている。そのうちの一部分に、鋏で切って左右にちょっと引っ張ったような隙間がひらいていて、その先には弱い淡水色が塗られ、そのなかに浮かぶ雲は周囲のものとは違って、白さを保ったちぎれ雲だった。それを見ていると電車が入線してきたので乗りこみ、袋を脚のあいだに置いて待った。座席は埋まっており、なかには山帰りだろう、杖を差したリュックサックを身体の正面に抱えた高年の姿がちらほら見られ、目を閉じると汗っぽいような臭いがかすかに香った。降りると乗り換え、先頭車両に行って席に就くと、時間を手帳に記録して、エドワード・W・サイード/デーヴィッド・バーサミアン: インタヴュアー/中野真紀子訳『ペンと剣』を読みはじめた。立川へと向かうあいだ、平日の夕刻前ということで上りの車内は混まず、隣は空席のままで、脚を組みながらゆったりと本を読むことができた。立川に就くと他人が降りるのを待って、再度手帳に時間を記してから、降りて階段を上り、便所に寄った。改札を抜けると左へ折れて、中古CD屋へと向かう。歩廊から下へ移り、駅ビルの前をそぞろ歩く人々に混ざりながら後ろを振り返ったが、空は青灰色に閉ざされるばかりで、夕暮れの陽の色は見られず、薄青さに入りこみはじめた空気のなかで、ビルの上階に取り付けられたテレフォンクラブの看板が、四角い枠を銀色にけばけばしく光らせていた。まだ人の少ない居酒屋などを覗きながら道沿いに進み、CD店に入ると、The Beatles "Please Mister Postman" が掛かっていた。店主に挨拶して買い取りを、と申し出た。数を見て、三〇分ほど頂きますけど、と言うので了承し、棚のほうに移った。まず、Joao Gilbertoの作品を確認したあと、店の最奥の、ブルースの棚を見分し、それからちょっと引いてジャズに移って、とはいえここは先日かなり詳細に見たのですぐに奥に戻って、ブルースの下にあるソウルの棚を見ていると、声が掛かった。カウンターに向かうと、五三枚で(二枚組が二作品含まれていたのだ)一三八三〇円と言う。妥当だろうと了承し、書類に住所や名前などを記入して、左手の人差し指を使って拇印をした。金を受け取り、袋も返してもらうとふたたび棚に移って、The Beatlesの曲に身体を軽く揺らしながら見分した。興味のあるものを一枚だけ買って、残りの金はこうした機会でもないと買えない高めの本に変えてしまおうと考えていた。Lightnin' Hopkinsにするか、Big Joe Williamsにするか、Joao Gilbertoにするかと迷った末に最後の『Joao』に決めて、会計をし、頭を軽く下げながら礼を言って店をあとにした。時刻は六時過ぎ、既に暮れ切ってあたりは宵の暗さのなかに突入していた。道を戻って駅を越え、反対側に出て、歩廊を通って百貨店へと向かった。瀟洒なフロアに入るとエスカレーターに乗って上り、本屋に踏み入った。それで最初は美術の棚を久しぶりに見たが、取り立てて目ぼしいものは、マルセル・デュシャンの書簡集くらいである。通路を移って西洋史の棚の前に行き、ナチスホロコースト関連の著作を見分した。ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』が念頭にあったが、上下巻で一冊六〇〇〇円ほどして、これを買うとそれだけで売却益が飛んでしまう。実際に手に取ってめくってみるとあまり気が向かなくなって、その他の歴史の本も見分してから、文化人類学に移った。レヴィ=ストロースの並びで『野生の思考』を見つけて、なかを覗いてみると「具体の科学」という章がある。これは『悲しき熱帯』でもちょっと触れられていた考えの敷衍だろうと推測されて、興味を持っていたところだし、値段も五〇〇〇円だからもう一冊買えるというわけで、有力候補に決まった。それから哲学の棚に移り、長い棚を一画ずつじっくりと見て行く。読んでみたい本はいくらでもあるのだが、いざ買うとなるとどれが最善なのか、自分の欲望がどれを指しているのか、なかなか決意が固まらず、古代ギリシアまで戻っても決まらなかった。それで海外文学のほうに移って見ているうちに、トーマス・ベルンハルト『消去』を発見し、そうだこれが欲しかったのだと思い出して傾いた。それから棚をたどっているうちに、一度は、しかし買ってもいますぐ読むわけではないのだから、今日は金を使わないで持ち帰り、溜めておいたほうが良いのではないかと気持ちが引きかけたが、思い直してやはり『消去』を購入することに決めて、ビニールに包まれたそれを保持して、今度は文庫本のほうに移った。京都の知人がやたらと推しているフラナリー・オコナーがもしあればと思ったのだが、どの文庫で出ているのか記憶がなく、ひとまず新潮文庫を見てみたものの、見つからない。それで諦めて岩波文庫の本などを見分してから、やはりもう一冊は『野生の思考』にするかと心が固まって、戻って二冊目を手もとに保持した。それで合わせて一一〇〇〇円ほど、あと一〇〇〇円くらいなら売却益の内で賄えるので、残り一冊何かの文庫でも買うかとまた文庫本のコーナーに戻り、見分したが、食指が向くものも特に見つからないし、既に七時半になって随分と時間も使ってしまったので、もう帰ろうと会計に行った。七時で百貨店自体は閉店、エスカレーターの前にはシャッターが下ろされて使えなくなっていたので、エレベーターでもって下階に下りて、高架通路に出た。集合する車の赤いテールランプや、町並みの花咲いたような光を横目に歩道橋を渡り、駅に行って、改札をくぐった。電車はどれも東京のほうから来るもので、立川発のものがない。地元での乗り換えがちょうど良いのはどれかと携帯電話で調べると、直近のものだったので、座って帰るのは諦めてホームに下りた。来たものに乗ると、なかなかに混んでおり、扉際も取れず、本を読むような気にもならない。発車して、手持ち無沙汰に周りを見ると、ほとんど誰も彼もが顔をうつむかせて携帯電話を覗きこんでおり、本を読んでいる者など座席の一人しか見当たらず、少し左にいる腹の突き出した男は、その上にタブレットを載せるようにしてゲームか何か操作していながら同時に、その画面の左端にスマートフォンも載せてそちらも弄っていた。携帯電話を操っていない者も、ある者はがくりと項垂れて眠りに落ち、ある者はそこまでは行かなくとも無為に目を閉ざしているが、誰も口もとを無表情に固めて、到着を待つのに厭いたような顔である。みな気詰まりに黙って内に籠ったような雰囲気であり、何しろ、こちらのように顔を上げてあたりを見回したりしている人間などおらず、誰とも視線が合わないのだ。じきに目の前の扉際が空いたので、そこに入ってこちらも本に沈みはじめた。それで地元に着くと乗り換えて、最寄りに降りると人々の一番後ろからゆっくり駅を抜けて、自宅へと下って行った。帰り着くと台所のラジカセから広瀬香美の歌唱が騒がしく流れており、母親は洗面所でチョコレートクリームのような髪染めを頭に付けていたが、誤ってクリームを足もとのマットに落としたらしい。それを拭き取ってと言うのでキッチンペーパーを取って拭い、手を洗うと室に帰った。それで服を脱いで瞑想をしようとしたところが、母親が下階にやってきてばたばたとやっており、気が散るので瞑想は諦め、食事を取ることにした。上に行くと、調理台の上に鮭が焼いてある。それを電子レンジに入れ、ほかに汁物や、隼人瓜の煮物や寒天のサラダなどを用意して、食事を始めた。新聞を読みながらものを食い、食べ終わると風呂は母親が入っていたため、食器を洗って室に下り、『川本真琴』を流した。それで支出を計算して記録を付けたり、インターネットを回ったりしていたが、小沢健二『ライフ』に音楽を移してから、ベッドの上に乗って爪を切りはじめた。歌を口ずさみながら手の爪を切り、次にだいぶ放置していた足のほうも処理して、そうして風呂に入りに行った。出てくると、一〇時半前である。ねぐらに戻ると書き物の時間、ここでの音楽はまず、Cyminology『Saburi』である。前日の記事を綴っているうちに、今日売却したCDに、購入したCDと本を記録していないことに気付き、一時中断して記録し、一一時から再開した。音楽は途中で、Stephan Oliva, Bruno Chevillon, Paul Motian『Interieur Nuit』に繋げ、こちらは保持と決まり、打鍵を続けて一一時四五分には六日の分は済んだ。それからこの日の記事も書きはじめたが、こちらは零時二〇分を迎えたところで、このくらいで良いかと切りを付けた。音楽が二曲分残っていたので、それを聞きながら二〇一五年の日記の読み返しをし、そうして歯ブラシを取りに部屋を出ると、上階には明かりが灯っていて、父親の気配がある。またテレビを見ながら燥いでいるらしいが、何か感動したようで、感極まったような呻きや、ちょっとすすり泣いているような鼻の音が聞こえた。何をやっているのかと呆れながら室に戻り、歯磨きをすると『ペンと剣』を読みはじめた。二時頃にまた便所に立つと、上階には相変わらず明かりが点いているが、人の気配がない。まさか死んではいないだろうなと――こう文字にしてみると唐突に過ぎるのだが――不吉な思いが過ぎったが、さすがにないだろうと払って室に帰ると、酒に寄って眠りこんだのだろう、しばらくしてから天井の向こうに動きが立った。読書は二時半まで続けられた。それから一六分の瞑想をして、就寝である。