2016/10/13, Thu.

 覚醒が確かなものとなったのは一〇時三五分、何度目かの目覚めである。初めのほうの睡眠の内で、夢を見た。まどろみのあいだに反芻したものの、その大方はいまとなっては知れないが、この朝の内にも印象的だった一つ、暴力的な一場面は記憶に留まっている。すなわち、相手はおそらく中学校の同級生である稲葉という男と認識されていたのだが、何かの報復をするようにしてその身体の上にのしかかり、顔面を殴りつけた瞬間があったのだ。この日は瞑想をせずに、床を離れて上階に行った。朝食は確か、前夜のカレーが残っていてそれを食べたのだと思う。気温の低く冬の先触れの香りも空中に湧き漂い出しているかのような昼前で、卓に皿を運んで椅子に就くと同時に、冬のあいだの習慣で、足もとに置かれているはずの電気ストーブを点けようと、身体を傾けて左腕を伸ばしかけたところで、手の到着先がないので、そうかまだ出していないのだと気付き、自然とそのような行為を取ってしまった事実に肌寒さが余計に意識された。とはいえ耐えられないほどではないので、上下のジャージの防寒性のみに頼って食事を取り、新聞も少しは読んで、食器と風呂を始末してから室に帰った。一一時五六分から、Herbie Hancock『Speak Like A Child』を流し、『失われた時を求めて』五巻の書き抜きを始めている。初めは地道にかたかたとやっていたのだが、一時間も経ったところで、何かをきっかけにして思い出したことがあった――少し前の朝日新聞に、とある若手の考古学者が紹介されていて、曰く、膨大な量の文献を読み、印象に残った部分をコンピューターに打ちこみ記録しておいて、それらの資料を活用して論文を書く方式を取っていると言う。それが自分の取り組みと同じだったので、軽い親近感のようなものを覚え、その時は読むだけで終わったが、著作があるなら読んでみたいと前々から考えていたのだ。名前を既に忘れていたので、「朝日新聞 考古学者」などの語でインターネットを漁ったが、なかなかそれらしい人が見つからない。そのうちに朝日新聞のホームページの、過去記事検索欄に行き当たって、並ぶ記事列のタイトルを眺めながら、次のページへ次のページへとクリックして辿っているうちに、目当てのものが発見された。下垣仁志、と言った。濱田青陵賞という考古学の賞を得たのを機に、新聞に紹介されていたらしい。それでAmazonでその名を検索したのだが、出てくるものは少なく、翻訳にしても研究本にしても値段がやたらと高く、手の出せるようなものではなさそうだった。それから書き抜きに戻って、一時半を過ぎたところで『失われた時を求めて』五巻から写す分はすべて写し終えた。音楽は、Herbie Hancockを続けており、『Maiden Voyage』を通過して『Empyrean Isles』に入ったところだった。ドレフュス事件についての文献もちょっと探ってから、メールアカウントにアクセスすると、名古屋の知人からの返信が来ている。こちらに劣らず段落を作って長く書いてきており、それを読み、さらにもう一度読んでから、過去のやりとりなども読み返しながら返信をどうするかと考えているうちに、いつの間にか時間が過ぎて、時計へと視線を上げると二時四〇分あたりになっていた。しまったと思いつつ、腹も軽くなってきていたので書き物の前に身体を動かすことにして、小沢健二『LIFE』を流して、椅子から下りて屈伸をした。それから柔軟、腕立て伏せ、腹筋に背筋と軽く行って、ちょうど三時に終えたのだが、そこから書き物が始まるのに二五分のひらきがあるのは何故だか知れない。音楽はPaul Motianが参加しているMarylin Crispell Trio『Live In Zurich』を掛けた。フリージャズを耳の隅に置きながら、しかし頭の大半は記憶を翻訳するのに集中して、一時間弱で前日の記事を仕上げることができた。本当ならばこの日のものも覚えているうちに綴りたかったが、既に四時二〇分とあっては準備を始めなくてはならない。上に行くと母親は、下にカーペットを敷いて布も取り付けた炬燵テーブルに就いて、タブレットを弄っている。味噌汁を熱してゆで卵とともに卓に持ってくる際にちょっと覗くと、二日前のテレビドラマを編集した動画らしく、新垣結衣星野源やらその他の役者たちが、星野の曲に合わせて躍動的にダンスをしているのが見えた。母親は炬燵の縁に、正座を横に崩したような座りをして、脚はなかに入れていないようである。大根の味噌汁を飲みながら点けているのかと訊くと点いていないと言い、それを機に電源を入れて温まりはじめた。こちらも椀を空にして卵も食うと、母親作の大きなホットケーキを持ってきて炬燵のほうに移り、脚をなかに入れた。それでホットケーキを分けながら一皿平らげたのち、食器を片付けて下階に戻った。先に仕事着に着替えてしまい、ベストまで着込んで、それから歯を磨きながら英語の本をちょっと読んだ。裸足の足先や、本を持つ指先が冷える感触は、久方ぶりのものである。ゴルフボールを踏み付けて多少血流を良くしながら読んだあと、早めに上がって行って靴下で温もりを守った。そうして便所に入り、ゆっくり用を足すとちょうど良い時間である。玄関をくぐると、母親もついてきて戸口に出た。自転車を道まで持ってくると、こちらがこれから向かう先から、中学の制服だったろうか、子どもが一人帰ってくる。母親はその子におかえりなさいと声を放って、坂を下りかけた相手に続けて、ちょっと待って、隼人瓜があるからと残して室内に行った。子どもは惑ったように止まって、こちらはもう出かけることにしてその横を自転車で通ったが、かすかに会釈をするようにしながら顔を見ても、五時半の黄昏れが深くて相手はほとんど輪郭の定かならぬ影の塊だった。どこの子だか知らないし、あとで訊こうと思ったのも忘れたままだが、予想は付く――坂を下ろうとしたのを見ると、坂下の家の末っ子だろう。そこの母親がもう何年か前から、我が家の前の古屋を使って、何だか良くわからない商売をやっているのだ(というのは、その母親のまた母親が、古屋の持ち主だからである)。道中は明確に寒く、走るこちらの身を冷たさが取り囲んで、本来ならば上着を着るべき夕方だった。この日も街道前を右に折れて裏道を行く。中学校裏の急坂を下りながら、先に見える黒いわだかまりが、人が歩いているのか単なる木の蔭なのかも、よほど近くに行かなければ判別できず、半ば夜に入りかかっている。身体を温めるために立ち漕ぎで進み、市民会館前の坂を横切って、また少し行ってから表へとギアを軽くして駆け上がった。街道へ続く角から顔を出して、右を向いた瞬間に、はっとするような明るさの感覚を感知した。道路を占める車の列がライトを膨らませながら連ね、それを越えた向こうからは街灯がやはり点々と繋がって歩道を縁取っており、人工光の固いような、鉱物めいたような感触の白さが、所狭しと灯って空間に充満していた。それを見ながら横断歩道に就き、信号が変わって渡ると職場はすぐそこである。この日は予定の時刻に遅れることなく、準備も余裕を持ってして、労働に臨んだ。終えたあと、何だかんだでやはり記録を書くのに時間が掛かる。それが終わって上司にちょっとした報告もして帰ろうというところだが、同僚が二人、残っていて、彼らと上司とのやりとりに自ずと加わった。一度もう帰ろうと戸口まで行ったところで、上司にまた、何か共有することないですかとわざわざ訊いて、それでまたちょっと話してから出たので、一〇時一五分くらいにはなっていたようである。冷たい夜のなかを、帰りは普段の、上の道の裏を行くが、曲がりなりにも動いたあとで肌寒さは行きよりは小さい。帰り着くと室に下り、ジャージになって瞑想を始めた。窓を開けると、少し前まであれほど、鈴の音のように鳴り響いて空気を揺らしていた秋虫の音がかき消えて、立つのは木で凸凹した板を擦っているような短い声だけで、これも気温が低くなったせいだろうかと思われた。夜気が寒いので窓を閉め、自分の脳内を見つめていると思いのほか長くなって、目を開けるとちょうど一一時だった。その間に父親は帰ってきて、風呂に行ったらしい。上がって行って台所に入ると、オーブントースターに餃子の皮を使ったピザがあったので、それをかじりながら食事を運んだ。メニューは昼の残りの味噌汁に、大根の煮物、それに隼人瓜とベーコンの炒め物か何かがあったはずである。食っていると父親が出てきたので、お先にと来るのにおかえりと詰まったような声で返した。それがちょうどテレビドラマが終わりの頃合いだったようで、ニュースが始まり、ノーベル文学賞の受賞者が伝えられようとする。今年度の受賞者は意外なあの人、と煽りが出るのに、何だかんだで気にはなるもので、胸を少々わくわくさせたのだが、その期待は、まだ日本で知られていない実力のある作家をまた一人知ることができるだろうという希望から来るものだった。その点、それが裏切られることは、この煽りが出た時点で明らかなことだったのだ――意外なあの人、などという文句が使われるからには、既に大衆に膾炙した名前が出るに決まっているからだ。受賞者は、ボブ・ディランだった。大衆音楽、あるいはカウンターカルチャーサブカルチャーの分野から受賞者が出たことは、ノーベル文学賞の今後の展開にとって一つの画期的な出来事ではあろうが、先のような望みからすると少々がっかりするような気持ちが湧いたのは確かだ。テレビから "Blowin' In The Wind" が流れるのに合わせて口ずさみながら皿を洗い、風呂に行った。既に日付を回っていたかもしれない。この日も血を滲ませんばかりにたわしで身体を激しく擦り、出ると緑茶を持って室に戻った。Enrico Rava『Tati』を掛け、日記の読み返しをしようとして二〇一四年のものを見ると、ヴァージニア・ウルフの「キュー植物園」の私訳を読み返したとあって、そちらもちょっと眺めた。いまからしてみるとやはり日本語としてなっていない部分が多く、いずれは訳し直さなければならない。それでついでに、Amazonの「ほしいものリスト」にウルフ関連の著作も入れておこうとインターネットに入り、洋書も含めて追加するともう一時である。二〇一五年の一〇月四日もさっと読んでから、やっと読書に入ることができた。マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラⅡ』である。肌寒い空気のなかで一時間半読み進め、三時になったが、眠気らしい眠気がなく、頭は晴れていた。それで瞑想を長くしてから眠ることにして、枕に腰掛け、瞑目した。室内の何から発されるものなのか、それともこちらの三半規管の作用なのか、耳鳴りめいた音が薄く細く伸びる。そちらにあまり意識を集中しないようにして、高速で移り変わって行く思念を追いかけ、多少この日のことを回想してもおいて、そろそろいいかと終わらせるとちょうど三〇分が経っていた。それで消灯は三時三五分である。横になってからも脳内を言葉や声が駆け巡り、それらを放っているうちに、詩のようなものが生まれそうな雰囲気になった瞬間があった。それに気付いて、瞑想をするたびに詩を書ければ良いなと憧れたのだが、言葉を手繰り寄せようと意識してしまうとかえって流れが詰まり、およそ貧困な語句しか出てこない。諦めて考えを滑らせ、じきに眠りに入った。



 友人のひとりは、隊長が新しい馬を一頭買った、と言う。「あれは欲しい馬をみんな買える人(end155)なんだ。ぼくは日曜日の朝アカシア通りでサン=ルーに出会ったけれど、彼が馬に乗ってるところはシックさがちがうよ!」と別な男が答えたが、それは事情を心得た上でのことだった。というのも、これら若者たちの属している階級は、たしかに同じ社交界人士とつきあってこそいないにしても、金も余暇もあるので、買えるものならどんなエレガンスでも経験しており、その点で貴族階級とちがってはいないからだ。ただし彼らのエレガンスは、たとえば着るものについていうと、私の祖母をたいそう喜ばせたサン=ルーの気ままで投げやりなエレガンスに比べて、どことなく真面目すぎて寸分の隙もないといったところがあった。これらの大銀行家や株式仲買人の子弟たちにとっては、芝居がはねたあとで夜食の牡蠣を食べている最中に、隣のテーブルに下士官サン=ルーを見かけるのは、少しばかり胸をときめかせることだった。そしてみなが週末の休暇からもどった月曜日の兵営では、ロベールと同じ中隊で彼から「とてもやさしく」おはようと声をかけられた者や、中隊はちがっても、サン=ルーが二、三度その片眼鏡[モノクル]を自分の方に向けたので、きっと自分のことをおぼえているにちがいないと信じこんだ者が、なんと多くの話を提供したことだろう!
 「そうなんだ、ぼくの兄が《ラ・ペー》であの人を見かけたんだけれどね」と、愛人のところで一日を過ごした別のひとりが言う、「なんと、だぶだぶの身体にあわない燕尾服を着てたらしいよ」
 「どんなチョッキだって?」
 「白じゃなくて、薄紫[モーヴ]色のチョッキで、棕櫚の葉みたいなものがついてるんだそうだ。いやはや、(end156)驚きだね」
 古参兵たちにとっても(彼らはジョッキー・クラブなど知りもしない庶民の出で、サン=ルーをただ非常に裕福な下士官のカテゴリーのなかに数えていたが、そのカテゴリーに彼らが入れるのは、破産した者もしない者も含めて、かなりの暮らしをしていた人たち、相当な収入なり借金なりがあって、兵卒に対して寛大な人たちなのであった)、サン=ルーの歩き方や、片眼鏡や、ズボンや、軍帽は、たとえいっこうに貴族的とは思えないにしても、やはり興味をそそり、多くの意味を持っているのだった。彼らは、そのような特徴こそ、連隊中の下士官のなかで最も人気のあるこの人物の性格や型なのだときめつけてしまい、こうして他のだれとも違ったサン=ルーの物腰や、上官たちにどう思われようとかまわないといったその態度を、兵卒に対する彼の好意の自然の結果のように見なすのであった。分隊の者が、部屋で朝のコーヒーを味わっていたり、午後のんびりとベッドで休息したりしているときに、古参兵のだれかがサン=ルーのかぶる軍帽について面白い点を披露すると、そうした一時の楽しみがいっそう増すように思われた。
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方Ⅰ』集英社、一九九八年、155~157)

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 そうこうするうちに、冬も終わりかけていた。にわか雨や嵐のつづいた数週間の後に、ある朝、暖炉の奥の方から――無性に海辺に行きたい気持をかきたてるあの形のない風、弾力的で暗い風のかわりに――壁のどこかに巣を作っている鳩の、くうくうと鳴く声が聞こえた。虹の色に輝く思いがけないその鳴き声は、さながら最初のヒヤシンスが、自分をはぐくむふくらんだ胸をそっと押し開いて、薄紫[モーヴ]色のサテンのような音のする鼻をとびださせたごとく、まだ閉ざされた暗い部屋のなかに、まるで一つの窓が開かれたように、うららかに晴れた最初の日の温かさ、まばゆさ、けだるさを、はいりこませるのであった。その朝、われながら驚いたことに、私はカフェ=コンセールで歌われるある曲をくちずさんでいたが、それはフィレンツェヴェネツィアに行くはずだった年いらい、すっかり忘れていた曲だった。それくらいに大気は、その日その日の偶然にしたがって、私たちの身体の深いところにまで働きかけ、薄暗い貯蔵庫に書きこまれたまま忘れられていたメロディ、記憶も判読できなかったメロディを、引き出してくるのである。そのうちに、もっと意識的な夢想家が、この歌手の伴奏を始めた。それまで私は自分の内部の歌声に耳を傾けながら、何が歌われているのかすぐには分からなかったのである。
 私ははっきり感じていた、以前バルベックに着いたとき、それまで知らないあいだは素晴らしいものだと思っていたそこの教会に、もう魅力を感じることができなかったが、それはバルベックだけに限られた特別な理由からではないということを。フィレンツェや、パルムや、あるいはヴェネツィアに行っても、やはり同じように、想像力が目にとってかわって周囲のものを眺めるわけにはいかないだろう、ということを。私はそれを感じていたのである。同様に、ある年の元日の夕方、そろそろ夜が落ちてこようとする時刻に、芝居の広告塔の前で私が発見したのは、祭日が本質的にほかの日と異なっているように思いこむのは錯覚であるということであった。にもかかわらず、聖週間はフィレンツェで過ごすのだと信じていた時期の思い出のために、後になっても私は依然として聖週間を花の都の雰囲気のようなものと思いつづけずにはいられなかったし、復活祭の日に何かフィレンツェ的なものを結びつけると同時に、フィレンツェに復活祭的なものを与えつづけずにはいられなかった。その聖週間もまだ遠い先である。けれども私の前に広がっている日々の連なりのなかで、聖週間は、そこまでに至る日々の先にくっきりと浮かび上がっていた。あたかもはるか遠方に認められる、影と光の効果に包まれた村の家々のように、聖週間の日々は一条の光に照らし出されて、太陽のすべてをたたえていたのである。
 (240~241)

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 間もなく使いの者が来て、ロベールが個室で彼女を呼んでいると伝えた。彼は、あらためてレストランのなかを通らずに、別の出入口からその部屋に行き、そこで昼食をすませたのである。(end288)そんなわけで、私はたったひとり残されたが、そのうちにロベールが、私にも来てほしいと言ってきた。見れば彼の愛人はソファの上に横になって、ロベールの振りまくキスや愛撫を、笑いながら受けている。二人とも、シャンパンを飲んでいた。「あなた、こんにちは!」と彼女がロベールに言う。彼女には、最近おぼえたばかりのこの言い方が、愛情と機知の極みであると思われたからだ。私は昼食も充分に食べていなかったし、そこにいるのも居心地が悪かった。そのうえ、ルグランダンの言ったことに影響されたわけではないけれども、ようやく春らしくなったその日の午後を、こんなふうにレストランの一室を皮切りにして、最後は劇場の楽屋裏で終えることになると思うと、残念でならなかった。彼女は、遅刻しはせぬかと時計を見たあとで、私にシャンパンをすすめ、東方[オリエント]のタバコをさしだし、その胸許から薔薇を一輪、私のために引き抜いた。そのとき、私は考えたのである、「今日の一日を台なしにしたなんて、あまり悔やむ必要もないんだ。この若い女のそばで過ごした幾時間かは、無駄に失われたわけではないのだから。だって、彼女のおかげで、いくらお金を払っても高いとは言えないような優雅なものをもらったんだもの。薔薇や、においのいいタバコや、一杯のシャンパンを」 私がそう考えたのは、そんなふうに自分に言いきかせればこの退屈な時間に美しい性格を与え、そのためにこの時間を正当化して救い出すことになると思われたからだ。けれども、ことによると退屈を慰めてくれるような理由が必要だと感じること自体が、何も美しいと感じてなどいないことを充分に証明していると考えるべきだったかもしれない。(……)
 (288~289)

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 私はサン=ルーに声をかけたいと思ったが、彼はダンサーに対してかんかんになっていて、怒りがまさにその瞳の表面にまでまといつくほどだった。まるで内側に芯でも入れたように、怒りで頬が突っぱっており、こんなふうに内心の嵐が、外側では完全に硬直した形であらわれているので、私の言葉を受け入れ、それに応えるために必要な気楽さ、「ゆとり」すら、彼は持ちあわせていないのであった。(……)
 (307)

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 (……)けれども一つの著作は、たとえ知的でない主題だけにあてられていても、やはり知性の作り出したものだ。そして本のなかで、またはそれとあまり変わらない会話のなかで、完全な軽薄さの印象を与えきるためには、一服の真面目さが(end313)必要になるのであり、ただひたすら軽薄であるだけの人間にはそれが不可能なのだ。ひとりの女性が書いたもので、傑作とされているある回想録においては、軽い優美さの典型として引かれる文句が、かならず私に想像させたものである、このような軽さに到達したのは、作者が以前に、いくらか重すぎる知識、うんざりするような教養を身につけていたからにちがいない、そして若い娘時代の彼女は、たぶん友人たちにとって、鼻持ちならない文学かぶれ[ブルー・ストッキング]に思われたことだろう、と。(……)
 (313~314)

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ドレーフュス裁判の再審派 ドレーフュスの無罪を主張して、裁判のやり直しを要求する人びと、の意味で、いわゆる「ドレーフュス派」を指す。この事件は、今後の小説の展開のなかで絶えず問題にされ、重要な背景を構成することになるので、簡単に概要を説明しておく。
 一八九四年十月十五日に、陸軍参謀本部ユダヤ人大尉アルフレッド・ドレーフュスは、反逆罪容疑で逮捕された。その少し前に参謀本部の入手した「明細書[ボルドロー]」と呼ばれる軍事機密漏洩文書の筆蹟が、ドレーフュスのものと思われたためである。同年十二月十九日から二十二日にかけて開かれた軍法会議は、全員一致でドレーフュスの有罪判決を下し、彼は大尉の位を剝奪されて、翌年二月二十五日に南米の仏領植民地ギアナの悪魔島に流刑になる。この判決に疑いを持ったアルフレッドの兄マチウ・ドレーフュスは、ユダヤ人の知識人ベルナール・ラザールの支援を得て真相解明を試みるが、手がかりは得られない。
 ところが一八九六年春、その前年七月から参謀本部情報部長に就任したジョルジュ・ピカール中佐は、ふとしたことで、この「明細書[ボルドロー]」の筆蹟がドレーフュスのものではなく、もと参謀本部情報部に勤務していたエステラジー少佐のものであることに気づく。ピカールは、同年八月五日、このことを参謀総長ボワデッフル将軍に報告するが、これは握りつぶされ、かわりに種々な形でピカールへの圧力が始まる。ピカールは情報部長の椅子を追われて翌九七年一月にチュニジアに左遷され、さらに九八年二月には退役に処せられることになる。
 その間に、一八九六年十一月十日の「ル・マタン」紙に「明細書[ボルドロー]」のコピーが掲載され、これが真犯人発見の決定的な手がかりを与えることになる。ドレーフュスの妻は直ちに再審を要求し、翌一八九七年十一月十五日には、確証をつかんだマチウ・ドレーフュスが、「明細書」の真の筆者であるエステラジーを告発する。(end555)
 しかし、一八九八年一月十、十一日に開かれた軍法会議は、かえってエステラジーを無罪にし、ピカールを告発する。その直後の一月十三日に、小説家エミール・ゾラの有名な「われ弾劾す」が「ローロール」紙に発表され、ゾラはドレーフュスの無罪を主張して、陸軍参謀本部の責任を激しく糾弾する。このゾラの訴えに刺激されて、多くの知識人がドレーフュス裁判の再審要求に加わり、こうしていわゆる「ドレーフュス派」が形成されたのである。
 陸軍大臣ビヨは、このゾラと「ローロール」紙の発行責任者を重罪裁判所に召喚。ゾラは有罪判決を受け、さらに七月には欠席裁判で再度の有罪判決が下されて、イギリスに亡命を余儀なくされる。しかし、真相の一端はすでに暴露されて、隠すことは不可能になっていた。その年の七月、エステラジーは文書偽造と行使の疑いで逮捕され、八月三十一日付けで退役になり、九月四日にイギリスに亡命。またその少し前の八月十三日には、ドレーフュスの有罪証拠ともなるある文書が、実はピカールのあとの参謀本部情報部長に就任していたアンリ中佐によって、ピカールをおとしいれるために偽造されたものであることが発覚。アンリは逮捕され、八月三十一日にモン=ヴァレリアン監獄の独房で自殺死体となって発見される。
 これはドレーフュス事件の転回点だった。この後も事件は紆余曲折があり、最終的にドレーフュスの無罪が言いわたされるのは一九〇六年七月十二日を待たねばならなかったが、事件の方向はこのときに決定されたのである。
 (555~556; 一七六ページ註)

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ソーシエ フェリックス・ギュスターヴ・ソーシエ(一八二八 ― 一九〇五)。一八八四年から九七年一月まで、パリ軍管区総司令官だった人物。彼は初め、ドレ(end556)ーフュスにかんする軍法会議の召集を回避するように、当時の陸軍大臣メルシエに進言したといわれるが、最終的には一八九四年十二月四日に開廷命令書にサインしている。また一八九七年十一月十五日にマチウ・ドレーフュスが、「明細書[ボルドロー]」を書いた真犯人としてエステラジーを告発すると、翌々十七日にソーシエは、セーヌ県衛戍司令官ペリウ将軍に調査を命じ、三日後にエステラジーの潔白はまったく疑いがないとの報告を受けている。ところが十一月三十日付けの「ル・フィガロ」紙は、「明細書[ボルドロー]」とエステラジーの筆蹟のコピーを発表、その酷似した筆蹟証拠に窮地に陥ったエステラジーは、敢えて軍法会議を利用して無罪をかちとるという一か八かの作戦に出て、ペリウ将軍に働きかけ、十二月三日にそのペリウ将軍の要請を受けたソーシエ総司令官は、翌十二月四日に、エステラジーに対する調査を命じ、さらに翌一八九八年一月二日には、軍法会議の開催を命じる。これはまったくの形式的なもので、軍法会議は一月十日に開かれ、翌十一日に全員一致でエステラジーの無罪を宣告する。ソーシエはそのような形で、真犯人だったエステラジーの無罪にひと役買ったわけである(主としてアンリ・ギユマン『エステラジーの謎』、ミシェル・ドルアン『ドレーフュス事件のすべて』及びマチウ・ドレーフュス『事件の回想』などによる)。
 (556~557; 一七六ページ註)