2016/11/30, Wed.

 道を行くと自然と目に入る小さな楓の木は、斜めに射しかかる薄陽のなかで和らいでいる。もう大方唐紅に染まって、内側に淡黄色を残しているが、そうしてみると紅色のほうが常態で、これから黄の色へと移り変わるところのようにも見えてくる。足もとまで近づくと、黄のさらに奥には、新鮮な野菜のような、食べられそうなほどに清涼な薄緑も潜んでいるのが見えて、周囲の葉叢がすべて衣替えしてしまうとかえってその、過ぎた季節の色が貴重に感じられて、こちらのほうこそ特別な装いではないかとの、逆転の感覚がさらに強まる。葉を透かして枝や幹に掛かった陽の色も、かすかに緑に色付いていた。少々立ち止まって眺めてから、離れ際に流れたあるかなしかの風に、ことごとく手のひら型にひらいて振れる葉の連なりの、内から外へ掛けてと言うより、外から内へ掛けて、秘められた淡緑へ向かってのように描かれた色の階調が、目に残った。

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 電車の一番前の車両に乗って、腰を下ろすと、読書を始めた。川端康成『雪国』である。初めのうちはページの上に掛かって、柔らかい色を付与する陽の射しこみもあったが、次第に車内は色気のない無色に落ちた。二〇分ほど読んだところで、ちょっと眠気が湧いたものだから、残りの路程は休むかと本をしまって目を閉じたところが、休むというより瞑想のようになって、聴覚が忙しく駆動して周囲の音を追っては拾う。左の奥に一つ、近くに一つ、右の遠くに一つと、あたりでは三つのグループが会話を交わしており、電車の振動音に紛れてそれらの言葉は、意味が切れ切れに分断されてほとんど外国語、あるいは声というよりは音として響くかのようなのだが、それでもそれぞれの声音の色合いによって発する者らの判別が自動的になされる。一つのグループの声の応酬に耳を傾けていると、ほかの者らの声がそこに割り入って来て、それでいてまったく混ざらず絡まずにそれぞれの流れを保っているのに、なぜかひどく驚いた瞬間があった。視覚情報を断った暗闇のなかに生起する音声は、内外で騒がしく揺れる電車の稼働音も含めて、聴覚によって、三次元空間に配置されると言うよりは、むしろ同一平面上に均されて、半ば一つの音楽のようなものとして響いたらしい。またこの驚きには、うまく言葉にすることはできないが、もう一つの意味合いがあって、取得される情報が音声のみに限定された分、周囲の人々の個々としての存在がくっきりと際立つかのようで、ばらばらな声の重なり合いに、自分以外の他者が確かに、それぞれの時間と意識と生活とを持ってばらばらに、自律した時空をくぐっているのだということが、実感されたかのような感じがあった。立川に近づいて、女子高生らしい一団の賑やかな声が乗ってくると、眼裏はただ音に埋め尽くされるばかりでもうそこに分節を設けることもできず、混沌である。立川に着き、降りて改札を抜けるあいだにも、車内の気分が残っていたらしく、そこここから湧き出るかのようにあたりに群れている人々の、その一人一人に目を向け留めるようで、そのどの身体の裏にも積まれた生の厚みがあるのだと、思考がそちらに向くと、時間というものの途方もなさが思われて、その膨大さに気持ちが悪くなりはしないかと、過るくらいだった。駅を出て道を歩いても、近く遠くを行く人々の輪郭が、何か立って映る。その感覚を強めるのは彼らの歩みの調子、正確には脚の動きで、遠くに見れば特に、積極的な人間の意思の働きというよりはむしろ自動的な物質の動きのような、ほとんど個々の差異など見受けられずどれもまったく同じような調子で動いているその脚の上下の揺動が、しかしそれでもばらばらの拍子を持って重なり合うことがないというさまが、彼らの存在を証しているかのように思われるのだった。そんなことばかり感じていても疲れるばかりなので、道を行く途中に、そうしたことはもう考えないことにした。四時頃だがあたりは既に仄暗く、横断歩道で停まった際に横の道を見通せば、通りに掲げられた照明の明るさが滲んでいる。

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 店をあとにしたのが五時前だったかと思う。黄昏は進んで、あたりはさらに暗んでいた。駅のほうに戻りながら、見上げると、水でよく溶かした絵具でさらさら塗ったかのような薄青い空に、雲が素早く動いているのが歩きながらでも、身体の振れとは別に視認されて、雨の気配がかすかに匂うようでもある。駅に戻って電車に乗り、三鷹に向かった。発車して駅舎内を出ると、宵掛かる外と内の明るさとの対照で、ガラスが車内の像を映しこむ。半透明の、ガラスを境にしてそのまま反転した模像が、外の空中に浮かんでいるかのように奥行きを持って浮かびあがり、そのなかを町中に光る白色灯が次々とすり抜けて行くのが、まさしくちょうどいま読んでいる、川端康成『雪国』の冒頭に書かれた「夕景色の鏡」の主題と同様である。しかしこの鏡に映って扉際に立つこちらの対角線上にいるのは、病人を甲斐甲斐しく看護する美しい女性などではなく、くたびれた佇まいにつまらなそうな顔で、首と身体を傾けながらスマートフォンの画面を見下ろしているサラリーマンである。室内に目を移してみても、座席の前には似たような顔の男たちが並んでおり、それぞれにあるいはやはり携帯の液晶を覗き、あるいは目を閉じているが、彼らは決して横を向こうとせず、絶対に周囲と関係するまいとばかりにただ前のみを見つめて、まるで一人ひとり見えない箱に収められて区切られ、独立しているかのようだった。

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 降りて駅舎を抜けると、駅前の広場の中央の木々に、白光りの電飾が仕掛けられて縦に連なって、足もとの植込みも青く立ち騒いで、周囲では携帯電話を向けている人もいる。ちょっと立ち止まって見てから踏みだすと、ロータリーの周りに並ぶちょうど満開の銀杏の木にも電飾が掛けられているのだが、先のものにしても銀杏のそれにしても、頂点から四方にただ垂らしたようなもので、いささか安直なように映る。あるいは裸木になってからも、明かりの輪郭でもって木の形姿を保とうという意図だろうか、それにしても、黄色く膨らんだ銀杏の葉叢が縦に切断されているのは、いかにも不調和の感があった。ただ一つ、広場中央の木々の下で、どうやっているのか、白い筋がいくつも、水がゆっくりと落ちていくように空中に垂れるのを各々繰り返すのは、目に楽しく、それをもう一度振り見てから、書店へと向かった。

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 階段通路を抜けると、楓の絨毯はなくなっており、地に伏しているものは少ない。木の下から見上げるとそれでも、いくらか前にはあれほど地を埋め尽くして散っていたのに、葉叢がまだ結構残っている。横断歩道を渡ってから振り返るとやはり、棚引く雲のように、ほつれが見受けられるが、夜闇のなかでも、少し離れた緑樹との対照もあって、橙の色味が窺われた。