2016/12/17, Sat.

 目覚めると、部屋にはまだ朝が満ちきっておらず、向かいの壁の時計は薄暗く沈んでいたが、針が六時半あたりを指しているらしいことが窺えた。はっきりとした寝覚めだった。左向きだった姿勢を、右に寝返りを打ち、カーテンをひらいてちょっと身体を持ち上げると、南の山の稜線が、橙色をうっすら帯びているのが見えた。五時間の睡眠だったので、もう少し眠りたかったが、身体を戻して瞼を閉ざしても、意識が確かな輪郭を持って冴えて、混濁の気配が欠片も匂わないので、もう一度寝付くことはできないと如実にわかった。それでも布団を抜ける決心が付かず、窓を眺めたり、狸寝入りのようにして意識だけは確かなまま、瞼を落としてじっとしたりしていた。空は、まだ控えめに、おずおずとしているような調子で、和紙のような淡さの水浅葱である。窓のすぐ外に残った朝顔の蔓の残骸の、窓枠に接したてっぺんのあたりに、昨夜は眠る前に床で読書をしながら風の音を聞いた覚えがあるので、明けないうちに飛んできたものだろうか、赤茶色の腹を晒した葉が一枚、引っ掛かっていて、輪郭のそこここにちょっとした尖りを作って平たいその姿が、気付いた時には大きな甲虫の一種のように見えて、瞬間ぎょっとした。しばらく視界を閉ざしてからまたひらくと、時計の針は七時を回っており、そのすぐ横の、扉の上には、山の端を越えて空に膨らみはじめた朝陽が、窓によって整然とした矩形に切り取られて宿り、萎びた蔓の影もそのなかに散り混ざっているのが、のっぺりと平坦に陥るのを防いで、いくらかの装飾となっている。光の通り道にはまた、卓上に積まれた本の小塔があり、真ん中あたりに三巻並んで挟まっている『フローベール全集』の、白い背表紙がさらに一際白くなっているのが目についた。

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 朝七時の空気はまだよほど冷たく、枕に腰掛けながら布団を身体に掛けても、身が内からがたがたと震えるのを止められない。朝陽は左側から顔にまっすぐ当たって来て、閉ざした視界に明色を染みこませるとともに、仄かな温もりを頬に貼るが、顔の右半分はくっきりと温度が分かれて、冷え冷えとした感触に包まれている。

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 新聞は、昨日の日露首脳会談の話題に大きなスペースを割いている。ものを食ったあと、それを読むのにもあまり身が入らずに、流れている連続テレビ小説のほうを見やって、視線がついでに窓のほうに行った瞬間に、先ほど母親が随分汚れていると嘆いたものだが、その表面に溜まった点状の埃汚れのなかの一つが、緑色をはらんでいるのに気付いた。それは、窓際に吊るされた水晶玉の反映が宿っているらしく、ほかにも緋色を帯びたものも見られて、こちらが顔の位置を移せば、それに応じて反映の度合いも変わる。ガラスを埋め尽くす汚れは陽に浮き彫りとなって、その一つ一つが白く締まって満ちるように艶めいて、例によって馴染みのイメージの反復だが、星屑の集合のように目に映り、宇宙の一画を切り取って縮小したかのようで、現実の夜空の表面は、どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに、白昼の太陽のなかでのみ目に映る紛い物のこの星空は、それが紛い物であるがゆえに星天の理想的な像をいっとき受け持って具現化してみせるのだろう、本物よりもかえって、星屑という言葉を付すのに似つかわしいような感じがするのだった。

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 布団を干そうとベランダとの境に立って、外を見やると、陽を受けて葉に白い覆いを被せている柚子の木の、その樹冠の横を、快晴で光が渡っているとはいえ確かに冴えた冬の空気のなかなのに、小さな蚊柱のようにして羽虫が集まり飛び交っているのが見つかって、あれ、すごい、虫が、などと、思わず腕を伸ばし指を立てて、その場にいた母親に知らせるという、まるで純真な小学生のような無邪気な振舞いを演じることになった。布団を持ったまま、それを干しに移ろうとせずに見つめていると、何の虫なのか知らないがその集団は、入れ代わり立ち代わり靄のように柔らかく形を変えて蠢いて、ほとんどただの点としか映らない一匹一匹が集まるとしかし泡の立ち騒ぎのようで、吹き出されて直後の、連なって宙に漂う細かなシャボン玉の粒を連想させるのだが、しかしこの極小の泡は勿論、いつまで経っても破裂して消えることはない。遠くでは午前一〇時の純な光に濡れた瓦屋根が、かすかに陽炎を立ててじりじりと揺動している。

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 一二時四五分に家を発った。床屋から帰ってきた父親は先ほど、寒い寒いとしきりに言って、ソファに就いてジャンパーの前を搔き合わせるようにしていたが、路上には陽が広く敷かれて、足もとから温もりが立って身がほぐれるように気持ちが良く、寒さの感触など感じられない。坂に入ると正面で、立ち並ぶ木と樹間に染みる空の青さを後ろにして、ひらひら飛ぶものがあって、ほとんど水平に、緩急を付けながら流れてなかなか落ちないそれが、枯葉とわかってはいてもあまりに蝶に似ていて、まさか本物ではないかと思わず目を凝らしてしまう。坂を抜けて表に出て、街道脇の歩道を行っていると、短い鳥の声が頭上から落ちて、見上げれば電線に止まったものがある。手で掴めるくらいの大きさの、薄白い鳥が、その腹を晒しているのをすぐ下から見たが、その先の空が甚だ明るくて、鳥の姿形のその細部がうまく捉えられない。目を寄せている鳥が飛び立って行ったあとは、自然と視線が空の高くに向かって、澄明極まりない青さに思わず周囲を見回してみれば、どの方向も果てまで何の瑕疵もなく清い一色が湛えられて、視線の抜ける広大さに、これは凄いなと遅れ馳せに驚き、高揚するようになった。そのなかに見つかった唯一の闖入物はと言えば、直上の遠くに、あれは飛行機だったのか、旅客機らしくはなく、むしろまるで、個人が操るハンググライダーのようにも見えたのだが、小さく白い物体が浮かんでいて、飛行機のように後方に軌跡も残さず、唸りも落として来ずに、たびたび見上げてもただ貼りつけられたように浮遊しているのに、本当に進んでいるのかと足を停めてみれば、確かにゆっくり、水に浮かんだように流れて行くのがわかった。裏通りに入ったところでふたたび、その飛行物の進む西の方角に目を向けてみると、しかし空には光が撒かれて濡れた布巾で擦り磨いたかのように艶っぽくなっているだけで、先の物体はもうどこにも見えなかった。

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 途中で、本のページの上に、外を滑っていく建物の途切れ目から素早く射しこんだ昼下がりの陽が乗って、その一瞬に紙の表面が、埃が一面に付着したかのようになって、文字を読み取ろうとする視線を遮るのに、いまのは何だ、と不思議になった。それから、ふたたび陽の射しこむ僅かな時間を狙って目を凝らしてみると、紙の繊維が明るく温和な照射に浮き彫りになったものらしい。指先をちょっとずつ動かして紙の角度を変えてみると、陽の当たり方によって、表面の陰影が異なった模様を描くのが面白くて、その変幻に捕らわれて、文の続きになかなか戻れないような有り様である。ページを反らせば、繊維が伸びるようで、一面まっさらな、暖色混じりの白さに統一される。ところが窪みを生むように曲げると、途端に繊維の紋様が細かな蔭とともに明らかに浮かんで、その筋が文字の上に覆いかぶさって視認を妨げる。無数の引っ搔き傷のようなその緻密な構成は、石盤の表面に付されたそれに似通ったようでもあり、人間の肌の肌理を間近から眺めているような質感でもあった。