2017/1/22, Sun.

 新聞に落としていた目を上げて窓のほうを見やると、景色が随分と稀薄化しているように見えた。川を越えた対岸にあるものらが、木々であれ町並みであれ山であれ正午前の太陽のもたらした明るい霞のなかに籠められていた。川沿い――と言って川面それ自体は低みに隠れて見えないのだが――に聳える薄緑の木立の一本一本の境もあまり露わならず、その向こうで何が光っているのか、茂みを通して点々と埋めこまれた煌めきがある。眺めているあいだに、目が馴れてきたのか、木々や町並みの像はいくらかはっきりとしてきたようだったが、それらの向こうの山は相変わらず膜を貼られており、光によって張りだした部分は均され、引っこんだ部分は補完されて、窪み盛り上がりによる起伏は遠近感を伴った日向日蔭の差異として視認されるのではなく、麓の爽やかな淡緑も含めただ同一平面上に散らばる色調の違いとしてのみ現れていた。

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 坂道を上って行くと、右手の斜面の茂みから飛びだして、空中に軌跡を波打たせながら道を渡ったものがあって、追えば反対側の茂みのなかに止まったのは青と褐色で彩られた鳥である。その色が精妙らしく見えて近づこうと思ったのも束の間、斜面の表面にやや露出した古ぼけた竹の柵の残骸のようなものの上に止まっていたのが、草の内のほうに入ってしまって見えなくなった。それから数歩進むと今度は、右の斜面下から伸びた一本の高い木の途中に、つかまっている人間がいる。七〇くらいか、結構な歳と見える老人で、枝を間引いているらしく、周りには断たれた枝の根元だけ残って瘤のようになった痕がいくつもあり、老人はそこに腰から出たバンド様のものを引っ掛けて身を支えているらしい。見るからに危険そうだが、随分な身軽さで、巨大な蟬のようなと物珍しさに無遠慮に見上げていると、相手も見下ろしてきたが、特に何か言われることはなかった。過ぎざまに、下の道から近所の家の人らしい、こちらも年嵩と聞こえる女性の声が聞こえて、もう終わるかとか、気をつけてとか何とか掛けていた。最後に一度振り向き見てから坂の出口に掛かったところで、またもや左手の短草の生えた小さな斜面から、がさがさと音が立ったのでそちらを向けば、今度は冬気に褪せた草のなかに、鮮やかな薄抹茶色の小鳥の背が覗いており、周囲と比べて一際浮かぶその色の明るさに目を惹かれた。二匹連れ立っていた。凝視しようとしたところでやはりまた各々飛んで、草々の向こうの見えないところへと逃げられたのだが、まさしく抹茶の粉を振ったような色合いが目に残っていたので、帰ったあとに調べてみようと考え、先を進んだ。太陽は出ているが、空を切る風はなかなかに固く、街道に出たところでクラッチバッグを抱えていた右手を握ってみると、水で洗ったあとのように冷たかった。それで、コートのポケットに両手とも入れて、鞄は脇に挟んで歩道を進む。まだ二時台で陽はそこそこの高度を保っており、こちらの行く道の北側にも日向が多い。表をそのまま行こうかと迷ったが、過ぎる車の音が実にやかましいなと嫌われて、裏に入った。そうすれば、靴裏のゴムが地に擦れる間の抜けた鳥の鳴き声のような音が、一歩ごとによく聞こえる静けさである。

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 電車内。外は光が満ちた晴日で、煌めきがそこここに灯りながら流れて行くのと、組んだ脚を包むジーンズの薄水色とを見て、いつかいまよりもずっと歳を取って老い、生の終末も近くなった頃に、こうした何でもないような、穏やかな明るさに浸った瞬間のことを思いだすこともあろうかと頭によぎるが、その思い巡りそのものが既に一種の老いの感覚なのかもしれない。床の上には窓を透けてきた陽が、平たく細くなって薄蜜柑色を宿しており、線路が斜めに折れて窓が陽射しを受ける角度も変わると、進むにつれてその四角形がこちらの足もとをじりじりと這って過ぎながら、厚みを取り戻して平行四辺形へと復帰していく。市役所周りの敷地にいくつも停まった車の列の上を輝きが膨らみながら、一つの屋根からまた一つの屋根へと移って行くのが、歩みの様子にも似ていた。

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 交差点。前を過ぎ去って行く車の窓ガラスに、沼に沈んだような色合いでもって、信号待ちに呆けたように立ち尽くしているこちらの、モスグリーンのコートを羽織りストールを巻いた像が、一瞬だけ映しだされて目に定かに留める猶予もないうちにまた掻き消える。

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 駅へ戻る。既に陽は下降の途を半ば以上辿ってあたりには蔭の色が強い。駅の手前にはビルが二つ、通りを挟んで立っており、大方日蔭に浸されて寒々しいが、二つの角の縦線に切り取られた道の出口の宙空は、西陽の色を絡められて、左側のビルの側面にも射しこむものがある。淡い青緑色のガラスに、明るみのなかに包まれて歩む人を乗せている駅前歩廊の様子が反映し、緑の色味はほとんど失われて、窓を縦長の細い長方形の連なりに区切っている縦横の枠が橙に発光しているのだが、明暗の境は劃然と分かたれており、そこを越えてこちら側は普段通りの色調にいかにも静まっていた。向かいの通りを歩きながらそちらを眺めていると、出口に近づくにつれて、西陽の分身もガラスに反射して、映りこみはじめた。

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 歩廊に出ると、西南の空の果てに朱色に凝った塊が浮かんでいて、瞳を灼かれるのを怖れてそちらに視線を振ることができず、瞼の隙間を細めて正面を見ていると、金属線のような熱色の切れ端がきれぎれに空中に漂っている。駅舎のほうへ進むうちにまもなく、眩しさの圧がふっと引いて、太陽が山の向こうに落ちたのかと見れば、塊が随分と小さく、稜線のあたりに収束するように縮んでいた。山際に沿っては撹拌された卵白のような雲が塗られていて、そこに差し掛かったらしい。