2017/1/27, Fri.

 往路、大層春めいて清朗な日だった。風に固さ冷たさはなく、肌の上をさらさらと流れて行くばかりで、心身がほぐれるような穏和さである。歩調も柔らかになり、身体の力が抜けるようで、裏通りを行きながら頭上を見上げると、丸いような青のひらいたなかに小さな航空機らしい白がひとひら点じられていて、機体というよりは紙の切れ端のようで緩く浮かんでいるのが音もなく静かだった。視線を吸いこむ空は実に明るく、見ていると、空が視線を吸いこむというよりは、こちらが視線を伝って逆流してくるその淡青を身体に取りこむかのようで、見ているというよりは、飲んでいるような感じがするほどの爽やかさであった。そんななかをこれから待ち受ける労働の存在も問題にならないような自由な気分に浸されて、呆けたようになりながら行っていると、「痴呆のような幸福だ」と、梶井基次郎が何かの小篇でやはり冬の明るさに満ちた道行きのことを書いていたのが思いだされて、それはこんな日和のこんな解放でもあろうかと思われた。

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 帰路。行きと同じ裏通りを戻っていると、倉庫めいた建物の脇にくすんだような茶色のものが落ちていて、布か何かかと思いながら近づくと、猫である。住宅街のなかに一軒、小寂れた、普通の家と変わりないようなスナックがある場所なのだが、その脇の駐車場に停まった車の下にいつも、そこが自分の居場所だとばかりに入って占領しているのを見かける。毛並みの乱れてうらぶれたような風情の野良猫だが、誰かが世話をしているのか、この時は下水道に通じるらしい小さな蓋の上に餌が撒いてあって、背を丸めて顔を見せずにそれをむしゃむしゃとやっていたのが、動物というよりは物体のように見えたのだった。傍らに立ち止まって口笛を一つ鳴らすと、猫は顔をこちらに向けたが、また食事に戻ったので、それ以上こだわらず、先を進んだ。

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 田舎町で、街道は午後一〇時にもなれば、昼よりよほど車の通りは間遠になるのだが、それでも、現れてこちらの横を過ぎて行った姿が道の先に見えなくなって、尾を引いて流れて行く走行音も細って消えようという頃合いに、それを絶やすまいと繋ぐようにして、丁度良いタイミングでまた新たな走行車の響きが前後のどちらかから忍び入って来る。信号や街灯の光を受けて黙りこくった左右の家々の壁がそれを反射させて、遠くまで届くタイヤの擦過と風切りの音が去って行ってはまた繋がれるわけだが、時折りにそれが途切れる時間があっても――それをこちらは秘かに待ち望んでいるわけだが――靴の音のなかに、小さいが確かに反響があって輪郭線が厚みを持ち、鼻から出入りする空気の音も聞こえるその静寂はいかにも短く、またすぐに遠くから線状の響きが伸び寄ってくるのが、惜しい。