2017/5/9, Tue.

 往路、この日はジャケットまで羽織った身体に、一様に白い曇天の大気は暑くもなく、風が流れても涼しいというほどでもない。街道を向かいに渡ると、行き過ぎる車の生む風に煽られて、石壁の上から迫り出した白躑躅の茂りが上下に撓んで、そのあとから一つ、花が落ちた。首を落とされたようにもとからすっと離れて、ゆっくりと柔らかく降って、地に触れても形を微塵も崩さず、生々しく張っていた。裏通りに曲がったところの一軒の庭内にも、白い花の集まっているのを見るともなしに目に入れて、遅れて、あれも躑躅か、と気付かされた。白い集合の、無性に滑らかに、一つひとつの境もそれほど明白ならず繋がって映り、ほとんど寒天か何かでできた拵え物じみて、さらりと食べられそうな、との幻想の立つほどだった。進む歩調は緩く、速まることなく抑えられて、背も自ずからまっすぐ立って心身が、何にということもないが満ちて、心が落着きに静まっているようだった。
 夜半前から雨が始まり、風呂場に入って湯に身を下ろしたところで、硝子の先から響く音に気付いて窓を開けた。林の竹の上に、何が落ちるのか、かーんと乾いて冴えた鳴りが、雨音のなかからひとすじ響いた。部屋に帰ってからも雨の響きはあって、夜半も丑三つも過ぎた頃、降り自体は止んだようだが、ベランダの、おそらく上階の下端から下階の柵に向かって雫が滴るものか、金属的な雨垂れの音が、いくらか間遠に続いていた。三時を過ぎて床に就くと、こつこつと、ひどく弱いが、何かの刻みが聞こえる。壁に掛かった時計の、一分六〇回のそれよりも遅く、横たわった自分の身体の内から響くようで、まるで機械仕掛けの心臓を持ったような気になる。しかし、音があまりに硬く、姿勢を変えても一定に続くので、心臓の鼓動ではない。まるでいま読んでいる小説のようではないかと、古井由吉の「時の刻み」に、やはり就床時に謎の滴りの音に悩まされた体験が書かれているのを連想して思った。壁の時計と、ベランダの雫と、由来の知れない微小の拍動と、暗闇のなかで、三つの刻みが交錯する。横になっていると胸に埋めこまれたようによく聞こえて、身体を起こすとかえって響きが遠くなるようだが、窓をちょっとひらいて隙間に耳を寄せてみると、雨降りに湿って薄白いような未明の空気の、そのどこかから渡って来るらしい。雨垂れかもしれないが、それにしては音の調子が、それこそ時計の刻みのように一定に過ぎる。機械的なものの働きと考えた方が得心の行くようでもあるが、こんな夜更けに他人の家の物音が伝わってくるとも思えず、いままでに聞いたことのない音でもあって、解せなかった。