2017/5/11, Thu.

 寝床で覚めた時から、柔らかくほぐれた空気の爽やかさが触れるようだった。気温は二八度まで上がると言って、その割に暑さの勝るでもなく、朗らかな初夏の日和である。昼下がりから雲が多くなって、四時頃には空の大方が白い曇りとなり、するとやはり多少の蒸し暑さが出てくるようだった。出かける頃には隙間が生まれていくらか青さが見えていたが、それでも雲は大きく湧き広がって、西の空では夕陽が止められていた。両側の家々の庭木や、丘の緑に目を向けながら裏道を行くその足取りが、一歩一歩、ゆっくりと着実に踏まえて行くようで、靴裏が砂利を擦る音の随分としっかりしているように聞こえた。世の尋常な勤め人に比べればよほど緩やかに暮らしてはいるはずだが、と言ってやはり時間に追われ追われて、何と取り立てて言うでなくとも生とは、生活とはままならぬもので、こちらもいまから勤めに出るところでいずれ目的地に縛られた移動の内にはあるけれど、せめて歩く時間くらいは前後なくその都度の一歩の現在に留まりたいと、そんな心か。中年の、髪を薄く刈り揃えたサラリーマンがはきはきと威勢良く歩いてこちらを抜かし、見る見る先に行くのに、そんなに急いでどうするのか、と思ったものだ。じきに薄陽の洩れてくる時間があって、家の壁に電線の影がうっすらと付されたのが、すぐに消えてしまう。鴉の鳴き声が聞こえたと思うと、低く流れるように飛んできたのが、住宅会社の旗のいくつも立てられて揺れている空き地と、作業場か何か、閉鎖的で無骨な感じのする建物とのあいだの柵に、がしゃりと音を立てて着地する。過ぎてからまた聞こえた鳴き声が、鳥というより、とぼけた猫のような感じだった。道の終わりに近くなってまた陽が、雲の端から空に出たようで、夕日影を踏むこちらの姿が路上に長く伸びる。周囲はまだよほど明るく、落ちているのも粘りのなくて滑らかな光の色だった。
 帰路は一一時も近く、遅くなった。北の丘の方から、あるいは西の行く手から風が流れてきて、上着を羽織っていない身体に涼しい。久しぶりに風というものを浴びた気がした。満月の夜で、雲は流されてかすかに残ったものもすぐに視界から消え、空は青々と深い。裏に入って坂の上まで来ると、月がちょうど正面にぽっかりと掛かって、あたりの物蔭にまで光の仄かに渡って見える。木々の樹冠の影が青い夜空に定かに刻印されていた。
 遅い入浴も済ませて部屋に帰り、眠る前に古井由吉『ゆらぐ玉の緒』 をひらいた。カーテンの裏で窓はいっぱいにひらいており、南の少々下ったところを流れる川の響きがくぐもって伝わってくる。初めはそれで身体に障るものもなかったが、二時を目前にして、空気が冷えてきた。窓を閉ざすと、不健康なような、あまりに静かな静寂が満ちる。そのなかで心安らかに落着くものでもあるが、愛想がなさすぎて、外の物音があった方が親しみやすいようである。時折り意識の零れそうになる眠い頭を押してもう少し読んだのち、布団を被るとふたたび窓をひらいて、眠りを待った。

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