2017/5/25, Thu.

 前日よりもさらに、均された白い窓の目覚めだった。日中、居間の窓から見通すと、山の向こうの低い空にちょっと、暖色を帯びた明るみが見られもしたが、そこを残してほかはこちらの頭上まで灰青色の雲が敷き伸ばされて、近間は仄暗く、雨の降り落ちてきても不思議でない。夕刻に到って玄関を出ると途端に、湿り気をはらんでしっとりとした空気が、肌に寄ってきた。街道から見上げる空はなだらかに雲が埋めて、地上に陽の気配は粒子一つ分も窺えない。風は、吹かない。木々をそよがせるにも弱いほどの、かすかな空気の揺らぎが、間遠に、身の周りに立つのみである。裏通りを行く足が自ずと白線の上を逸れず辿りながら、踵を付けて足先まで下ろして行くその踏まえ方のゆったりと、知らず柔らかくて丁寧なように、仄かなようになっていた。周りを帰る高校生らの方が、ひと目にはだらしなく投げやりなように歩いてはいても、よほど速く、はたはたと先を進む。歩みののろさは、高校の時分にもよく言われたが、当時のそれは時に自足をもはらむ今のものとは違って、単に、心身がともに重たるかったのだ。あとから見ればあの重さはその前兆だった精神の病を、その後数年掛けて通過し、活力の回復とともに速まった足を、次第にまた緩やかに抑えてきたが、鷹揚なような足つきが習いとなった今からしてみると、過去の自分の足ぶりは、友人と並んで行き帰りした高校の時であれ、一人でいるのが常だった大学の時であれ、慣れ親しんだ四季の道の往復を繰り返すここ何年かであれ、随分と、速かった。殊更に老いづいたつもりはない。自分とて、何にと定かなものはなくとも、あとからは追いまくられ、前からは引っ張られてやまない趨勢のなかに、生まれた時から囲われて育ってきたのではある。こちらを追い抜かして距離を離して行く高校生らにはあるいはもっと、その牽引が強いのかもしれない。
 空き地に掛かって視界がひらいたのに促されてふたたび見上げると、ところどころに畝が作られてもいる空の、低くにはいくらか黒ずんだ表層雲がほつれてもいるが、その隙間から覗くのはまたまっさらな白で、雲は天上に掛けて厚く何層にも、高山を覆う雪の堆積めいて積み上げられているらしい。この日はしかし、雨はなかった。夜、勤めを済ませて出てくると、風が流れるようになっていた。戸口のところで触れられたそのなかに、乾きの感触がちょっと含まれていた。行くうちに、両耳が詰まったのは、このところよく起こる現象である。今月の一三日に初めて訪れがあり、以来何度か再訪されているが、やはり気圧が何か影響しているのか、来るのは決まって曇り空の下だったような覚えがあり、また、腹の軽くなった夜でもあったようだ。鼻の呼吸音が耳に近くつき、ちょっと咳をすれば、顔の内側に閉じこめられたその音を耳が裏から受けて拾っているような閉籠感が、室に帰って服を替えたあとも続いていた。