2017/5/26, Fri.

 夜の白んだあとからいつか降り出した雨のなか、窓を開けたままに眠っていた。肌着一枚の格好で、腕に肌寒さがついてきた。居間の窓に視線を通しても、雨粒の宙を搔く線は視認されず、空気は石灰色に濁って、空が稜線を侵して山の表面へと浸潤している。午後に掛けて雨は、強弱の振れもあまりないらしく、単調に、勤勉なように降り続いた。昼がだいぶ下ってからふたたび食卓に就いても、梅雨寒が先取られたか、久しぶりに足もとに暖房が欲しくなるような具合で、即席うどんの汁の温みが腹に染みた。
 食い物を身に入れて服も整えて出れば、数日前と比して気温はだいぶ下がったのだろうが、あまり涼しいという感じもない。前日の、玄関を抜けた途端に貼り付くように寄ってきた湿り気の、しっとりとした感触の記憶がまだ肌に残って、それを思っていた。坂で木の下にいるあいだには、合わさり大きくなった雫に傘が鳴るが、出れば音もなく、軽く、優しいような雨である。堪えなく風に押され、東から西に傾いて流れるものに、街道に出る頃には服の前面がわりあいに濡れていた。水と風の響きを混ぜこんだ車の走行音は、空間を紙と化してびりびりと破るかのようで、すぐ横を過ぎればちょっと怯まされるほどに、耳にいかにも激しい。裏路地に入って、あたりが静まると、あるかなしかの雨音が頭上から染みてきた。傘が揺れるに応じて耳の周りの空間の形が変容するからだろう、歩を踏むのに合わせて響きは僅かに、撓み、波打ちながらついてくる。そのうちに、両膝の上の布が濡れて、踏み出すたびに膝頭に貼り付くようになってきた。
 風は、時折り走る。涼しさが、しかし肌に通ってこない。傘を持つ手首のあたりなど触れれば、いくらか冷たくなってもいるくらいの雨ではある。ところが、肌に覚える感触はあって、それを明確に、涼しさと認識してはいても、何かしっくりこないような、言語と身についてくる感覚とのあいだに矛盾が生じているような乖離の感が拭えなかった。至極軽くはあるが、いわゆる離人感というものだろうか。三、四年前には、折に触れて小さく感じ、多少の不安を呼んだことがあったようである。何かを感じているのは間違いないが、その感覚とのあいだに空白が差し挟まれて定かに触れることができないようなと、そんな風に思いながら横断歩道を渡った。
 夜に入っても降りは続いて、風がなくなったかわりに雨脚は強まっていた。直下的に落ち下るものらの包む裏路地は暗く、軒が左右に迫って電灯から離れた場所では足もとに水溜まりがあるかどうかもわからず、靴が黒い塊と化す。しばらく進んで見通しのよくなった先には、連ねられた街灯の光の一本一本が、路上を斜めに長く渡る帯となって表面を滲ませながら宿り、隙間なく合わさって引かれ、アスファルトの一画を薄金色に塗り替えている。雨夜の裏路地に生まれるそうした光景を目にするといつも、フィンセント・ヴァン・ゴッホの、月夜の河を描いた絵のなかで、街明かりの反映が川面の上に引かれて、揺らぎながら長く伸びているその様子を、思い出すものだ。
 裏から表に曲がる角も近くなって、前から車がやってくると、放たれたライトが路上いっぱいに撒き散らされて、目の粗いアスファルトのあらゆる起伏にやすやすと入りこみ、艶めく純白の輝きが足もとを席巻した、と目を落としているうちに、車は過ぎて、もっと凝視していたかったところがそれは許されず、夜の底に瞬間敷かれた白昼の明るさは、すぐさま失われてしまった。それからまもなく、裏を出る直前から、雨がさらに強く、激しくなった。アスファルトの僅かな盛り上がりに降り掛かる光によって露わにされる水のうねりが、沼のなかに沈んでいる魚の影のように、こちらの横をついてくる。飛沫を纏うようにしながら駆ける車の音は、苛烈なほどである。対岸に渡る隙を掴めず、家に続く分かれ道の向かいまで来てから、車が途切れるのを待って停まったところが、目の前の道路にまた生まれている街灯の、楕円の反映のなかに、流線と波紋の交錯した複雑極まりない水の紋様がひとときもうねりをやめず生成しているのに、目を惹かれた。車が通ればタイヤにぐしゃりと潰されて、その時だけは襞がいくらか均されるが、直後にまた、肉のような弾力を取り戻して復活する。その周囲にも、降り落ちる雨粒に分散するのだろう、光の断片が無作為に点じられており、中心の楕円から分かれ出て飛び散っているようにも、母体の方に合流するべく吸いこまれていくような風にも、映った。雨は聾されるような拡散性の響きを持っていて、身の周りを包んで閉じるようで、裏通りに入って静かになればほかの音は聞こえない。一つの音響にひたすら侵され閉ざされる、これもある種の無音、ある種の沈黙だろうか。耳が濃霧を掛けられたかのような、車が後ろから迫る音も聞こえない状態のなかで、坂を下った。