2017/6/9, Fri.

 道に出た夕刻、薄緑に染まった楓の横で、正面を走ってきた風の内に植物の匂いを嗅いだ。坂にはまだ多少距離があったが、その入口を通ってすぐ脇の、伐採された斜面の樹々の香りが乗ってきたものと見えた。傍まで来ると、かえって香りは立たずに消える。鵯が一匹、電線に乗って随分と切ないように、ざらついた声でしゃくり上げているその下を抜けて街道を行くあいだも、風に混じってさまざまな匂いが、数秒ごとに替わるがわる嗅がれる時間があった。風のなかの涼しさが肌にいくらか固まる刹那もあったが、曇天はやはり蒸して、歩くうちに汗も滲んで来る。
 夜になると空気の湿った感触も心地良く、捲った袖を肘の上まで引っ張ればさらに快く、肌に水気がはらまれているのがよく感じられる。満月の夜だが姿はなく、空にその在り処を指し示すほどの偏差も窺えず、雲はなかなかに厚いようだがその裏に光が渡っているのはわかると空の明るさに見ていたところ、徐々に現れはじめた。初めは繭の奥に籠った趣で朧だったが、家の程近くに来る頃には、やはり霞みが挟まってはいるものの、前日よりも黄に橙に明って燃えるように盛った円月が、暈もあまり広げずにぽっかりと露わになっていた。それから坂を下って、出口に掛かると伐られた樹の先の見晴らしが良くて、川音が立ち昇るなかのこちら側には近所の屋根の合間に街灯が忍び入り、対岸の灯も黒い壁と化した林に見え隠れして呼吸めくのを眺めるうちに、こうした夜があってそのうちに死んで行くのだろうと、思うともなく思われて、自分が既に晩年にいるかのような覚えが心安く点った。