2017/6/21, Wed.

 目覚めると、雨の響きのなかにいた。枕に腰を乗せ、瞑目して耳を寄せるうちに宙を走る雨音の拍車を掛けて迫るのに、耐えるようにしていたが、じきに音がほぐれたようになって空間に沁み、耳にも馴れたなかから、救急車の音が薄く伝わってきた。雨はなかなかに厚く降り続いたが、三時頃に外を見ると山の姿が霞まずにあって、その頃にはもうそれほど密に詰まってもいなかった。
 疎らになった雨のなか、坂を行くと風が走って、煽られた木の葉が裏返って薄色を覗かせる曇天に、大気は蒸すともなくて馴染みやすい。街道に来ると雨はさらに衰えてほとんど消えかかっているところ、しかしその衰退の急調子に不規則を感じてまたすぐに来るのではと、傘も持たずに髪を濡らした女児の、何かを待つようにして道端に佇んでいる傍を過ぎて見ていれば、果たしてまもなくふたたび始まって駆けるのに、あの子はさらに濡れそぼっただろうなと背後を思った。雨はそれから、道中幾度か不安定に満引きを繰り返した。裏路地の初めにはもう弱まっていたが、中途、電柱に乗った鴉が背を伸ばし、羽を後ろにちょっと広げながら飛ばず、間の抜けた声で鳴いているのを見た直後、また盛って、前から傾いて流れるものにスラックスを濡らされているうちに、空き地に掛かる頃には早くも落着いて、耳も空いたなかに届いてくる虫の音の、蟬のそれに似て撓み波打つのを聞けば、アスファルトから陽炎の立つ炎天の景色が眼裏に映り、夏が香った。その後、降りながらも影が薄く浮かぶ間もあり、職場に着けばほとんど止んでいて、傘をばさばさやりながら見た空に雲は素早く滑って、なかに入ってしばらくすると陽の気配も見えた。
 夕方は雨中に涼しさが馴染んでいたが、帰路に雨はなくなって、いくらか蒸した感覚が出てきていた。裏路地を抜けてきて表を行きながら、蟋蟀らしき虫の音の間遠く渡ってくるのに秋めいて、稀薄に拡散するようによく鳴いているのはやはり、三〇度まで上がった気候に活発化するものかと思ったところに、直後、いや今日の昼は雨だったのだと気づいて打ち消した。前日の暑気を引きずっていたらしい。緩い上りを定かに踏みしめて萼紫陽花を過ぎ、街道が僅かな下りとなっても変わらず丹念なような足取りに、道が長いなと浮かんできた。それは苦しさではない。またどうせすぐ、気づかぬうちに流れ過ぎるようになるのだろうが、いまこの時ばかりは長いなと、充実のようなものが幽かあるなかに、自足とは結局、存在の感覚ではないか、現在を見つめ続けることとは、世界のそこにあることを通して己のそこにあることを絶えず確認し、感得し続けることに等しいのではと、分岐路を入りながら思念がどこからか飛躍してきたが、それからいくらも経たないうちにその存在の感覚も、流され忘れられたのだろう。