2017/10/12, Thu.

 午前中には晴れた空が広がっており、寝床から見上げた窓の端にも白く収束する太陽の姿が見えたが、午後に入るとじきに曇って、厚くて固い布を掛けられたかのように一面曖昧な白に塞がった。暮れ方になって道を行くと、近間の八百屋が行商に来ている三つ辻で、昨日も会ったそこの宅の婦人とふたたび行き会うや否や、夜はまた降るよと忠告をされたが、この日も傘は持っていない。昨日は気遣いを頂いてと礼を言い、ちょっと話してから離れてまもなく、確かに額に触れるものがあった。
 深い曇りのわりに気温は上がって羽織るものは着ずにシャツのみだったが、それでも服の内が多少蒸す。丸皿のようにまっさらな光で目を皓々と満たした車の引いてくる風を受けながら、五時でも随分と暗くなったものだと暮れ行く街道を見渡した。裏通りに入ってからは歩くほどに、ほとんど一分ごとにも黄昏に向けて推移して行くそのなかに、森の方に立つエンマコオロギの鳴き声の遠く小さくて鳥のそれのように響く。自然光の手触りの完全に消え去ってしまう直前の、丘の樹々の肌理がまだ辛うじて見て取れて空の一部に雲の白さも留まって、果てには鈍くはあるもののほんの幽かに赤の色素の嗅ぎ分けられる微妙な過渡期の、路地の中途に差し挟まって心憎い。それを過ぎての道の終盤、空から地上まで一律に暗んで灰の黄昏が完成すると、平板な終止感に少々退屈な感じを覚えて、先ほどの狭間の時間の興趣というのは、要はサブドミナント・コードの浮遊感と同じようなものだったかと、言わずもがなの音楽的な類比が浮かんだ。すると現在の退屈さは、トニックに解決してしまったがゆえの収まりの良さだが、数分ののちに駅前まで来てまた見上げれば、空のどこからか水が湧き出して隅まで広がり満たしたように、深い青さを被せられていて、色の均一さは先と同じでもこれはこれで調が転じたかのようで面白かった。