2017/11/15, Wed.

 起床、正午を過ぎてしまう。(……)睡眠が一二時を過ぎるかどうかというのは、やはり何となく一つの大きな境界線になるもので、なるべくそこは越えたくないと思う。
 (……)
 この日一度目の食事が何だったかは思い出せない。食後は風呂洗いなどをしてから室に帰り、日記の読み返しをした。去年の一一月八日、MさんとH.Tさんと一緒にワタリウム美術館ナム・ジュン・パイク展を見た日で、展示を見ているあいだの様子や感想を長々と綴っているのには、特に批評的な分析などないものの、なかなかしっかりとした言葉で頑張って書いているではないかという気分にもなった。その部分はTwitterに投稿しておいたが、三〇ツイート以上になってしまったので、多分誰も読んでいないのではないか(……)。この日の記事は前日に引き続き、一万字弱になっているので、その一日分を読み返すだけで三〇分以上掛かった有様である。
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 日記を読み終えると上階に行って、アイロン掛けなどを行った。それで戻ってくると、書き物である。まず前日のことを記し、それから三日に遡って、Will Vinson Trioのライブの感想を、当日から一二日遅れということになるが、ようやく綴り終えた。それをTwitterに投稿しておくと、もう四時が過ぎていたので、何かしら腹に入れるために部屋を出た。(……)
 そうしてすぐに下階に戻ると、歯磨きをして(ものを食ってすぐ、歯のあいだに食べ滓がまだ残っているような時点だったので、歯磨きのあとに口をゆすぐと、吐き出した水がピザソースの赤い色にかすかに染まっていた)、tofubeatsの音楽をyoutubeで流しながらスーツに着替えた。出るまでに残った時間で、景気づけに歌でも歌おうと初めは思っていたのだが、すぐに別の意思が割り込んできた。と言うのは、H(N)さんにゴルフボール健康法を勧めるメッセージを送ろうという気になったのだ。(……)お節介な心を発揮したのだった。そうして作ったのが上に記してある文章で、出発の時間が迫っていたため少々急ぎがちになったようで、あまり十分に練ることもできなかったが(特に、ゴルフボール健康法の推奨そのものからフーコー的な「自己への配慮」へと結びつけているのは、間違ってはいないのだろうが唐突な感じはする)、Twitterのダイレクトメッセージを介して相手に届けておいた。(……)
 (……)
 そうして家を発ち、坂に入ると、左方の林から虫の音が乏しく湧くのみの静けさのなかに、右のほうからは川の音が昇ってくるのが妙に耳を惹く。そちらの方向に目をやると、眼下の道の中途に街灯の明かりを捉えて、ちょうどあそこに銀杏の樹があるのではなかったかと思い出した。この時期には黄一色に染まって燃えるようになっているのを毎年見留めて、何かしらの形で日記にも記しているものだが、この時は暗さのためにあまり色がわからなかった。街道まで来ると、車の流れの引いてくる風が前から身体に掛かってくるが、肌寒さというほどのものもなく、顔に触れても強めの涼しさ、と言い表す程度の感触である。裏路の途中では、エンマコオロギの鳴き声がただ一つ、先日と同じ一軒の前で聞こえ、やはり先日と同じように、実際にはすぐ手近から立っているのに、何か遠くから響いてくるような気味が微かにあった。ほかには、カネタタキだと思うが、短く味気ないような打音が折々に散るのみである。見上げた空は雲に広く占められており、灰色と普通には言うだろうし、また白っぽくもあるが、暗さのためにその実何とも言えないような色味になっている。色の詰まった球がローラーか何かで潰されて、一挙に塗りひろげられたような、そんな印象を得た。
 (……)
 帰路に就いたのは八時前だが、夜道を行きながら空に視線を放てば、当然のことだがその色がやはり夕刻とは違うもので、行きの道もよほど暗いと感じたが、この時の空はさらに黒く、闇の色に変化していて、樹々の姿も深く籠っている。風の動きが少々あり、気温も落ちたようで、今度は明確な肌寒さが服を通ってくる。道端にたくさん散った落葉の、路面の端から中央へとはみ出して波線を描いているのに、黴の侵蝕めいたイメージを持った。歩くにつれて身体が温まってくるかと思いきやそうではなく、風が吹くというほどでないが空気の動きが絶えず身の周りについてきて、冷気に浸透されるから、むしろ次第に寒さが増した。脇の家並みが途切れて駐車場に掛かると、線路の向こうの林まで空間がひらいて繋がったために、そちらから蟋蟀の声が届いてきて、それと同時に背後の遠くで、巡回の消防車が鳴らす火の用心の鐘の響きも薄く伝わってきた。暗色の空に星は半ば埋もれて瞬きもはっきりしない。空と森の影の境も、闇がもっと濃ければその分かえって際立つのだろうが、視界を遮る電灯に乱されて黒い宙空の希薄化したようで、暗視カメラで撮った映像をモニター越しに見ているような、曖昧なざらつきの感覚があった。街道を行っていると、火の用心の鐘の音がふたたび遠くからうっすら広がってきたのに、何か灰色の侘しいような意味素を得たのだろう、聞いた途端に意識もせずに自ずと弔鐘の語が浮かんできたが、しかし弔鐘など、耳にしたことはないではないかと、直後に自分でとりなした。自宅の傍へ通ずる坂に入ると、川向こうの町並みの一角から光の仄白さが漂い昇って、宙に籠るようになっている。そちらのほうからまたもや鐘が渡ってきて、今度は火事への注意を促す男の声も不明瞭ながら添ってきたのに、耳を向けながら道を下ると、頭上でさやぎの音が始まって、既によほど散り集まっているその上に、更なる落葉がはらはらと降って重なった。
 帰宅すると、疲労を和らげるために足の裏をほぐしながら、Ernest Hemingway, The Old Man And The Seaを三〇分ほど読む。そうして九時頃になってから飯を食いに行く(……)。(……)。食事を取っているあいだには、『家、ついて行ってイイですか?』という番組が掛かっていたのをそれなりに関心を持って眺め、色々と思ったことはあったのだが、それらについては現在、面倒臭い気分のほうが優勢になっているので記すのは省略する。その後、入浴に行き、浸かっているあいだ、湯の表面に浮いている数本の短い毛に目が寄せられて、何の変哲もないそれをまじまじと凝視した。奥の壁の天井近くに掛かっている電灯の白さが液面に映りこんで、それがゆっくりと推移する毛の背景で丸くなっており、同時に上からも光が浴びせられるから、毛は上下から明るさに挟まれるような形になって、浅く曲線を成したその形に応じて液体が僅かに変形し、線の中途で両側から微小な水のへこみが生じているのが見受けられる。身体を動かさずに(湯をちょっとでも揺らすと、背景幕となっている電灯の像が途端に壊れて、ばらばらに崩れてしまう)じっと視線を寄せていると、視覚の比率が変化し、背後に敷かれた純白の幕(船の帆のような?)の上を漂っている一本の毛の図が切り取られて拡大されるかのようだった(ロベルト・ムージルが「グリージャ」で書いていた蝿だか何だかの挿話がそんな主題ではなかったか? また、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』にも、海岸へ遊びに行った少女が(名前が思い出せないのだが、ナンシーとか言っただろうか?)水溜まりを覗きこんでいるうちに、見ているものの縮尺が変化し、小さな水溜まりが広大な一世界のように錯覚されて、そこにいた蟹だったか何だかの生き物を動かすことで、自分が神にでもなったかのような気分を感じる、というような場面があったはずだ)。勿論自分はここで、ムージルの小説の登場人物のように何かしらの「啓示」や深淵めいた意味の訪れを体験したわけではない。とは言え、上に記した以上にもう少し、何らかの具体性の気配を覚えたようではあったのだが、それはその場で言葉にならなかったので、今更探り寄せることはできない。その後、外から虫の音が届いてくるのに気がついた。上の記述のうち、帰路の最後に書き記すのを忘れていたのだが、自宅のすぐ傍まで来ると、林のほうから蟋蟀(あれは多分、ツヅレサセコオロギという種だと思うのだが)の声が立ってきて、この声は、それこそ夏の終わり頃からずっと聞いており、近寄る冬の気配にほかの虫がほとんど消えてしまった今になってまで、随分と長く残っているなと思ったのだった。
 風呂を上がって室に帰ると、多分インターネットを回って、その後、岡崎乾二郎「抽象の力」を少々読み進めたのではないか。疲労が結構あったようで、零時前から三〇分ほど微睡んで、それから音楽を聞いた。Bill Evans Trio, "All of You (take 2)", "Alice In Wonderland (take 1)"、Will Vinson, "The Clock Killer", "Perfectly Out Of Place"(『Perfectly Out Of Place』)である。それで一時を迎えて、書き物に掛かった。まず一四日の記事に、勤務中に体験した緘黙めいた心理的現象について記しておき、それから一一月六日の記事に遡って、「雨のよく降るこの星で」用の記述を作ったのだったと思う。そうして三時、その後は古井由吉『白髪の唄』を読み、四時一〇分から瞑想を長く、三〇分も行ったのちに消灯した。