2017/12/11, Mon.

 一二時三五分に起床。二三分間座り、上階へ。冷蔵庫のなかに前夜のカレーの鉢に取り分けられたものが残っていたので、それを取り出し、電子レンジに入れて温める。二分半をレンジの前で歌を口ずさみながら待ち、大皿に盛った米の上に取り出したカレーを流すと、もう一度レンジに入れて熱する。それから卓に就いて、そのカレーライスのみの食事を黙々と取る。新聞は、この日は朝刊を休んでいたようだ。食べ終えると食器を片付け、いつものごとく風呂を洗う。
 室に戻ると、一時半過ぎだったようだ。何かしら日課の類に取り掛かる前に気晴らしに入る(……)。
 二時半を目前にしたところで、洗濯物を取りこみに行ったのだと思う。タオルを畳んで整理し、洗面所に運んでおくと、自室に戻ってくる。勤務の前に音楽を聞かなければまた一日聞けず終いになってしまうという考えがあったので、コンピューターをテーブルの上に戻し、アンプからケーブルを繋いで椅子に腰を据えた。四〇分ほどで、Bill Evans Trio, "All of You (take 2)", "My Romance (take 2)"に、THE BLANKEY JET CITY, "MOTHER", "ディズニーランドへ", "小麦色の斜面", "胸がこわれそう"(『LIVE!!!』: #9-#12)を聞く。この日の聴取も先日と同じように、音がわりあいに鮮明に見えていたような気がする。ここ最近は以前に比べて、全般的な認識の精度が一段階上がったような感じがしないでもない(世界の肌理がより細かくなった)。良く覚えているのは"My Romance (take 2)"の途中の、Scott LaFaroの動きを感知した瞬間のことである。ベースがフォービートを明確に刻みはじめて演奏が弾力を帯びる段に入るその少し前だったと思うが、それまで比較的大人しくしていたLaFaroが突如として三連符を連続で繰り出して拍を埋めだし、Evansがソロを奏でているその向かいで低音部から迫り上がるようにして侵食していく箇所があったのだ。それを耳にした途端に思わず、馬鹿ではないのか、と考えてしまった。一体このベーシストは何をどう考えてここでこのような動きが許されると判断したのだろう、通常はこんな風に振舞ったら安々と均衡が壊れるものではないかと心に浮かんだのだが、それで実際崩れるどころか嵌まっているのだから、不思議な話である。ただその「嵌まり方」(すなわち構築の仕方)は、大抵のピアノトリオのそれとは相当に異なったものではないかと感じられる。何と言うか、Bill Evans Trioのこの音源が発表された当時、人々に与えたに違いない衝撃のようなものが、朧気ではありながらも、多少実感に迫って理解されたような気がする。確かに、一九五〇年代まではこのようなピアノトリオの在り方というのは、この世にほとんどまったく存在していなかったのだろう。
 THE BLANKEY JET CITYのほうでは、"胸がこわれそう"がとりわけ格好良く思われた。ブルース進行のロックをここまで毒々しく鳴らせるバンドというのは、やはりほかになかったのではないか(そうして多分、現在もそうそうないのではないか)。音楽を聞いたあとは、そろそろ軽くエネルギーを補給して外出の支度を始めなければならない頃合いだが(四時半頃には発つつもりだった)、その前にまず肉体を全体的に柔らかくしたかったので、運動を行った。例によってOasisを流しながら体操をしたり、ベッドの上で下半身の筋肉を伸ばしたりするのだが、スクワット風に脚を大きく左右に開き腰を深めに落とした体勢を維持しながら歌を歌っていると、身体が内からほぐれるようになって少々汗ばむくらいに温かくもなった。声を出したことで呼吸が大きくなったのが多分良かったのだろうと思われ、これは要するにヨガみたいなものなのではないか。そういうわけでかなり肉体が軽くなった手応えを感じながら上階に行くと、多分ゆで卵を食ったのだと思う。その後の歯磨きや着替えのあいだのことは細かく思い出せないので省略する。
 出発する。肌に触れる空気の質を見て、さほどの寒さでないと感じられた。前日、前々日のほうがよほど冷たい大気だったと思う。坂を上って行く。平たい道に入ると、辻のところで、あれは測量というものなのだろうか、折々に目にするが、何か黄色い三脚用のものを立てている人がいる。男性二人である。あれを使って何をどうしているのかまったく知らないのだが、一人が何か数値を呟き、もう一人が記録するようなことをしていたらしい。街道まで来ると、光の感触を失った空の色が目に入り、暮れて水色、と思う。本当に、何も視線に引っ掛かるものがないまったくの空漠である。振り仰ぐと西空には、下方は赤みを少々帯びつつ山際からちょっと離れると純白に染まった残照が洩れて、青さのほうへと浸潤しているのだが、そちらもやはり何の乱れも妨害物もない推移の有様で、眼球表面の汚れが見えそうなほどの澄み渡り方だと思った。
 裏路地の道中で、特に記憶に引っ掛かっていることはない。思念を遊ばせていたと思うのだが、何を考えていたのかも覚えていない。労働についても書きたいことは特にない。帰途に就くと、随分と風が生まれていた。駅前の横断歩道を渡っていると後ろから風が寄せてきて、それがちょっと身体を押されるくらいの勢いである。しかし、それほどに迫ってきても服の布地を鋭く貫く感触はなく、ここでも気温がさほど低くないことが実感された。裏路に入って進む。(……)駐車場の向こうでも林が搔き鳴らされており、その音が夜道に泳ぐ。月の見当たらない暗夜であり(既に新月だろうか?)、林も樹々の仔細な形がほとんど窺えない闇色の内に収まって、夜空との境も露わでない。進むと、猫がいる。みゃあみゃあと鳴き声を洩らす。最近新しく出来た焼肉屋の建物の隙間から顔を出しているのを、たびたび見かける一匹で、人懐こい性格のように思われる。この時は、焼肉屋の向かい、もう姿形は完成した新築の家を仕上げている敷地のなかにおり、地面の端に何やら穴を掘っていた。その前にちょっと立ち止まって窺う。構ってやりたい気持ちがあったのだが、道の先を見ると向かってくる人影があったので、気恥ずかしく思われてその場をあとにする。こちらが去ったあとから猫は道路に出て、やはり鳴き声を立てていた。
 裏路のあいだの印象はほかにない。表に出てふとしたところで見上げると、空が青い。夕刻に見た透明度のまま雲は湧かず、群青色の沁みきったなかにオリオン座の七星が斜めに傾いて明らかである。また裏に入って以降は、空がますます青く、深くなる。その鮮やかさのためでもあろう、坂上から見晴らす町並みの果て、地上の灯がうっすらと溶け出して地と空の境界線に朱色を細く重ねているのが、常になく明瞭に見えた。何だかんだでやはり叙情的と言うべき光景だろうなと思って坂を下りて行く。風があれほど吹いていたので当然のことだが、坂の出口付近には葉がふんだんに落ちていて、道の端に寄って嵩むばかりでなく中央にも隙間を小さく散らばっているそれらを、踏んだり蹴飛ばすようにしたりして音を立てながら歩いた。
 帰って手を洗ったり服を着替えたりすると、日記の読み返しをしたらしい。二〇一六年一一月二九日と三〇日の二日間である。三〇日のほうは、「認識の解像度」(これは(……)由来の語法である)が常になく高まっていたらしく、この日に電車内及び立川の街で体験した感覚はわりあいに良く覚えている。読み返してみて結構面白いように思われたので、この日記本文のなかにも引いておく。

 「道を行くと自然と目に入る小さな楓の木は、斜めに射しかかる薄陽のなかで和らいでいる。もう大方唐紅に染まって、内側に淡黄色を残しているが、そうしてみると紅色のほうが常態で、これから黄の色へと移り変わるところのようにも見えてくる。足もとまで近づくと、黄のさらに奥には、新鮮な野菜のような、食べられそうなほどに清涼な薄緑も潜んでいるのが見えて、周囲の葉叢がすべて衣替えしてしまうとかえってその、過ぎた季節の色が貴重に感じられて、こちらのほうこそ特別な装いではないかとの、逆転の感覚がさらに強まる。葉を透かして枝や幹に掛かった陽の色も、かすかに緑に色付いていた。少々立ち止まって眺めてから、離れ際に流れたあるかなしかの風に、ことごとく手のひら型にひらいて振れる葉の連なりの、内から外へ掛けてと言うより、外から内へ掛けて、秘められた淡緑へ向かってのように描かれた色の階調が、目に残った」

 「(……)本をしまって目を閉じたところが、休むというより瞑想のようになって、聴覚が忙しく駆動して周囲の音を追っては拾う。左の奥に一つ、近くに一つ、右の遠くに一つと、あたりでは三つのグループが会話を交わしており、電車の振動音に紛れてそれらの言葉は、意味が切れ切れに分断されてほとんど外国語、あるいは声というよりは音として響くかのようなのだが、それでもそれぞれの声音の色合いによって発する者らの判別が自動的になされる。一つのグループの声の応酬に耳を傾けていると、ほかの者らの声がそこに割り入って来て、それでいてまったく混ざらず絡まずにそれぞれの流れを保っているのに、なぜかひどく驚いた瞬間があった。視覚情報を断った暗闇のなかに生起する音声は、内外で騒がしく揺れる電車の稼働音も含めて、聴覚によって、三次元空間に配置されると言うよりは、むしろ同一平面上に均されて、半ば一つの音楽のようなものとして響いたらしい。またこの驚きには、うまく言葉にすることはできないが、もう一つの意味合いがあって、取得される情報が音声のみに限定された分、周囲の人々の個々としての存在がくっきりと際立つかのようで、ばらばらな声の重なり合いに、自分以外の他者が確かに、それぞれの時間と意識と生活とを持ってばらばらに、自律した時空をくぐっているのだということが、実感されたかのような感じがあった。立川に近づいて、女子高生らしい一団の賑やかな声が乗ってくると、眼裏はただ音に埋め尽くされるばかりでもうそこに分節を設けることもできず、混沌である。立川に着き、降りて改札を抜けるあいだにも、車内の気分が残っていたらしく、そこここから湧き出るかのようにあたりに群れている人々の、その一人一人に目を向け留めるようで、そのどの身体の裏にも積まれた生の厚みがあるのだと、思考がそちらに向くと、時間というものの途方もなさが思われて、その膨大さに気持ちが悪くなりはしないかと、過るくらいだった。駅を出て道を歩いても、近く遠くを行く人々の輪郭が、何か立って映る。その感覚を強めるのは彼らの歩みの調子、正確には脚の動きで、遠くに見れば特に、積極的な人間の意思の働きというよりはむしろ自動的な物質の動きのような、ほとんど個々の差異など見受けられずどれもまったく同じような調子で動いているその脚の上下の揺動が、しかしそれでもばらばらの拍子を持って重なり合うことがないというさまが、彼らの存在を証しているかのように思われるのだった」

 一〇時半前まで読むと、食事。(……)新聞を読もうと食器の横にひらく。夕刊である。「アラブ連盟 米に撤回要求 「エルサレム首都」 外相級会議で」という記事を読もうとする(この記事名を写すためにいま(一二月一三日の午前二時台)新聞をひらいたところ、下方に「ユダヤ人を救った動物園」という映画の広告が入っている。これはダイアン・アッカーマンという作家の本が原作で、この人の本はほかにも立川図書館に通っていた時分に棚で(英米文学のエッセイの類の欄)見かけて面白そうだと感じ、いつか読みたいと思っていた。確か、ソローやエマソンあたりの流れを引く「ナチュラリスト」というような紹介のされ方をしていたような気がする)。しかし、テレビを見やると、『プロフェッショナル 仕事の流儀』が映っている。白っぽい髭の男性が裸木の林のなかに佇んでいる。猟師らしい。新聞のほうに気が行きながらも、どうもこれは面白いのではないかという気がして、テレビのほうに意識の志向性を差し変える。(……)それで、飯を食いながら視聴し、食べ終わったあともその場に留まって番組を最後まで(一一時一五分まで)見たのだが、これがやはり面白いものだった。まず最初に展開されたのは、久保という七〇歳のその猟師が実際に鹿を撃って獲得するまでの映像である。森のなかを探索したあと、平地に鹿がいるのを発見し(場所は北海道である)、森の縁の樹々に隠れながら機会を見て射殺するのだが、そこで銃を構えたまま、鹿が充分に近づいてくるのを五分か一〇分か、あるいはそれ以上待ったということだった。一発で確実に生命を奪うという点に、こだわりを持っているらしい。それは獲物をなるべく苦しませずに殺すという意味も勿論あって、それが猟師としての責任だとこの人は考えているらしかったが、もう一つ実際的なものとして、一発で弾丸を急所に通過させて絶命に至らしめると、そのほうが肉が美味いという話だった。それで実際、この時も一発で仕留めたのだったが、弾丸を撃ちこまれた時の鹿の肉体のその動きが、こちらとしてはやはり強く印象に残っている。まさしくのたうち回るという言葉の意味を体現したもので、地に倒れ伏しながら脚を何度も反復的にバネのように跳ね動かすその撓るような動き、そしてそれによってやはり繰り返し生まれる土の飛散である。凄まじい、圧倒的な[﹅4]具体性、ここにはやはり何かしらの強いものがあると感じ、いつもながらの思考だが、これが小説の領域だろうと思った。実際、番組の終盤に放映された熊を追い求める段もそうだったが、この人が猟(複数人でやるいわゆる「狩り」と、「猟」とは全然違うものだと猟師は語っていた)をするために山に入って獲物を仕留めるまでのあいだに見聞きし感じることを十全に記述することができれば、それでもう一篇小説が出来るのではないかと思われた。
 もう一つ、大きく印象に残っているのは熊猟について語っていた最中の一言で、初めは人間が熊に「挑む」という言い方をしていたのが、直後に付け加えて、挑むというよりは「呼ばれている」という感じだと言っていたのだ。ああ、やはりそういう風な感覚になっていくのだなと、どういうことなのか良くわからないものの得心された。
 いまはちょっとほかの細部が滑らかに頭のなかで繋がらないが、様々な点で、先日読んだErnest Hemingway, The Old Man And The Seaの老人を地で行くような人ではないかと思った(最初に連想が働いたのは、仕留めた鹿に向かって、多分解体する段ではなかったかと思うが、「お前はうまい鹿だ」と(二人称で)呼びかけて[﹅5]いるのを見た瞬間である)。このような人間がこの現代にも存在しており、また昔はもっとたくさん存在していたのだという点、また、番組の途中で映し出された自然環境(降雪もそうだが、岸のすぐ下の川の流れのなかに大きな鮭がうようよと[﹅5]ひしめき合ったりしているのだ)の様子などを見るにつけ、北海道という地は一応日本国と呼ばれる国家のなかの一領域として、何の不思議もないかのような顔をして位置づけられているが、例えば自分が生まれて育ったこの東京などとは本当に、相当に異なった土地なのだということがわりあいに真に迫って感じられたような気がする。そして、ここから先は今日(一二月一二日)に思い巡らせたことなのだが、そのように随分と異なった土地のあいだの歴史的/文化的/地理的差異を均して、一つの国家という抽象観念の下に同じ日本として統合しようなどということを考え、そしてそれを実際に敢行してのけたいわゆる「近代」という時代の凄まじさ、ナショナリズムという思想=物語を心の底から本気で信じ込んでしまった時代のとてつもなさというようなものの、その一端を垣間見ることができたような気がする。
 食後、入浴である。そうして室に下りる。ちょっとインターネットを覗いたのち、作文に入っている。そうして四時前まで三時間を打鍵に費やし、一二月一〇日の記事は仕上げて四日のものもいくらか綴った。終わったあとに思い返すと、この日の作文は文を書いているというよりは、「喋っている」というような感じがしたようだ。自分で自分の口述筆記をしているような感覚で、話すことと書くこととの境が良くわからなくなるような調子だった。これを受けるに、自分は多分寡黙なほうの人間として周囲からは認知されていると思うのだけれど、本当は凄くお喋りな人間なのではないか、とも思われる。実際、起きているあいだはおそらくほとんど常に頭のなかで独り言を言っているような状態で、日記を書くというのも最近ではそれを大方そのまま言語に変換するだけ、というようなことになってきているようだ。これは文を書くということをより自然な営みとして「ただ書くこと」に近づいていくという観点からは望ましいことである。この日の書き物のあとには、何か友人と長時間話したあとのような満足感、楽しさの感覚が残った。(……)が、日記の文章などというのはまったく大したものではない、糞みたいなものであるということをたびたび表明していたと思うが、その言い分が良くわかったような気がする。確かにこれは、「作品」などと位置づけるような代物ではない(「About」の欄に掲げたバルトの言葉もなくしてしまって良いのではないか?)。まさしく「駄弁っている」という感覚とほとんど相違ないものである(ブログのタイトルもシンプルに「駄弁」で良いのでは、という気もしてくる)。
 その後、パク・ミンギュ/ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳『カステラ』を九七頁から一〇四頁まで読んで、瞑想をしてから床に就いた。もう五時も近かったから、瞑想中に外から新聞屋のバイクの音や(夏頃には三時半過ぎに配達していたような覚えがあるが)犬の鳴き声が聞こえてくるのが、眠りを急かされているようで嫌なものだった。