2018/1/10, Wed.

 例によって五時過ぎに寝覚めし、ボディスキャンを試みるものの眠れず、薬に頼る。薬の作用なのかドーパミンの作用なのかわからないが、ここのところ夢を大量に見ている。一〇時五〇分に覚醒。
 食事を取りながら新聞。韓国、慰安婦合意を巡って、「自発的な真の謝罪」を求める、と。風呂を洗ったのちに室に戻り、コンピューターを立ち上げて、神経症状を警戒しながら、不安とドーパミンの関係などについてインターネットを検索した。その過程で、PC用の眼鏡を使わずとも、コンピューターの設定でブルーライトを削減することができるということを知り、四〇パーセント削減の設定を施しておいた。
 一二時半から古井由吉『白髪の唄』の読書。薬によって頭もまとまっていたようで、文がかなり明晰に追えたらしく、また、呼吸も軽いものだった。そのうちにゴルフボールを踏むのも飽いてベッドに転がると、窓の向こうに覗く空は青々と明るく、雲はちょっと粉を零した程度のものしかない。ガラスの傍に掛かった朝顔の、とうに枯れ尽くした蔓のその縁が光を帯びており、正面、西の窓のほうに視線を移せばカーテンが明るく陽をはらんでいて、全体として大変に寛ぎの気分を覚えた。
 一時半過ぎから書き物。紙のノートに日記を記す。そののち、運動を行うが、腹が空になっており、胃の動く音が聞こえるくらいだったので、体操と柔軟運動のみであまり筋肉に力を入れるようなことはしなかった。上階に行って洗濯物を取りこむ。ベランダに日影は通らず、風が冷たい。その後、ハムエッグを焼いたり、汁物の残りなどで食事を取る。食事中にはまた、言語が自動的に脳内に湧き上がってくるのが微細なストレスとして感じられたようである。しかし、このように不安やストレスが小さなうちに気づき、それを微分して処理するというのは精神衛生にとって良いのではないか(と言うか、ヴィパッサナー瞑想の方法論というのはそういうものなのではないか)。
 タオルを畳み、身体性に目を向けながらアイロン掛けをする。その後、肌着なども畳んでおくと、ハムと卵を焼くのに使ったフライパンを掃除して、下階に帰った。メモを取っておくと四時になったらしい。勤務に出発するまでにふたたび読書をしたが、この時、眠気があったようである。それで、久しぶりに、五分足らずではあるがその場でじっと瞑目して瞑想めいた振舞いを取った。イメージや声が無秩序に流れて行くのが感じられたらしい。
 着替えて上階に行くと、靴下を替えて出発した。五時前である。坂を上っていると、弾くような鳥の声が聞こえる。街道まで出て、正面から吹きつける風に煽られながら進む。一軒の窓に目が留まり、歩を進めるにしたがって移って行くその色の変化を見つめて過ぎる。なかに西の残照の反映された時間がちょっとあった。
 裏通りに入って歩いていると、前方を行く二人連れの、一方の衣擦れが静かな道に響き続ける。運動服用の、輪郭の緩く太めのものを履いており、足を送り出すたびに左右の布地が擦れ合うのだろう。右手の家並みの合間から覗く雲を見かけて、数瞬のうちに、アザラシのようだとか、毛筆で半紙に押した点のようだとか、太くふさふさとした眉のようだとか、三種類のイメージが頭に展開される。そちらを見やりながら行くと、表に折れる横道の角で、二階家の上の窓と下の道とで会話を交わしているところに出くわす。二階の窓から顔を出しているのは声の大きな老人であり、杖を突いて道から声を上げているのも年嵩の老女である。そちらに目を向けて通り過ぎながら、このような何でもない場面が目に留まり、しかもそれが頭のなかで記述されて記憶に残されるとは、と思った。
 森のほうに続く坂になった辻の手前で、犬のような動物の姿が見られた。誰かが連れているわけでなく、姿態を定かに見分けられる距離に来る前に、辻のほうへ退いていき、そのまま坂上のほうに上がって行った。道の交差部まで来て動物の行ったほうを見やったのだが、やはりかすかにしか見えない。まさかとは思うが、犬ではなくて、鹿の子だったかもしれないと思った。以前、電車に乗っている時に、森の縁のちょっとひらいた場所に鹿が佇んでいるのを一度のみ見かけたことがあるので、山のほうから降りてこないとも限らないだろう。
 さらに進んで一軒の塀上に、蠟梅が黄色く咲いているのに目をやって、一年前にもこの同じものを眺めて日記に書いたなと思い出した。
 勤務を済ませると電車の発車が間近だったので走り、乗り込むと扉際に立って瞑目した。最寄りで降りて入った坂の、前日と同じ場所で同じように空を見上げると、昨日と似た色合いだがより暗くなったように感じられた。坂は静かで、葉擦れが一瞬たりとも立たず、ちょっと立ち停まって耳を張ってもやはり聴覚に入ってくる音がない。歩みを再開すると、木屑を踏む足の音が定かに響く。平ら道に出ると、顔に前から冷たさが寄せてくるが、風というほどのものでなく、耳が痛くなるような冷気もなく、と何でもない身体の感覚を言語化して確認しながら不安が生じてこないのに安息を覚え、自己とこの上なく一致しているような気分になった。
 その後のことはメモを見てもよく思い出せないので省略する。