2018/1/15, Mon.

 最近の習いで、夜の明ける頃に一度覚めた。数日前とは違って、心身が不安に苛まれている、緊張によって覚醒しているという感覚があまりなかった。それでボディスキャンというか、臥位でのヴィパッサナー瞑想を行う風にしていると、恐怖もなく意識が深いところまで潜って行って、手の感覚がなくなったり、あるいは痺れるようになったりしつつ、頭は心地の良い感じに包まれる。どうやら何らかの脳内物質がたくさん出ている状態らしいな、と思われた。そのまま薬を服用せずとも再度眠れるかとも思ったのだが、意識は観察の動きに明るくなっていて、非常に落着いてはいるが眠りの方向に進もうとしない。一度、時刻を確認すると、六時一〇分か二〇分かそのあたりだった。姿勢を変えながら何度か同じように試みても、やはりうまく入眠できないので、薬を服用したところが、それでも意識が落ちて行かない。もう起きてしまっても良いのではないか、そうすればむしろ時間が多く生まれて色々なことができるのではないかとも思ったが、五時間程度の短い睡眠で自分は大丈夫だろうか、日中、不安や神経症状に苛まれないだろうかという危惧もあって、やはりもういくらかは眠っておきたい。時刻を再度確認すると七時が間近だったので、しかし七時を越えてしまったらもう眠ることは諦めて、一度起きることにしようと決めて、ふたたび非能動の安楽さに浸っていると、ここでようやく寝つくことができた。
 二度寝をするといつもそれが長くなってしまって、この日も結局、一一時を越えるまで眠ることになった。少々寝床で待ってから起き上がり、ダウンジャケットを羽織って便所に行く。便器に向かって黄色い尿を放ちながら心身の調子を窺ってみたところでは、朝方に寝床で瞑想めいたことを行ったためだろうか、かなり落着き、整然とまとまっているような感じがした。それで、この日は起床時の瞑想はやらなくても良いのではないかと思ったのだが、やはり一応習慣として実行しておくことにして、部屋に戻ると窓をひらいて枕の上に腰を掛ける。瞑想中の意識の状態にも当然波があり、何と言えば良いのか、頭のほうにわだかまる感覚が引っ掛かって、それが溶けていかないのが僅かに苦しい、煩わしい、というような時があり、しかしそれをも怖じずに見つめていると、次第に心が落着いて行く。心身が静まっているな、と判断されたところで切り上げると、一六分を座っていた。自分の感覚に合わせて行うと、大体いつも一五分ほどになるようである。
 上階に行くと、卓の前で、脚を左右にひらいて腰や股関節を伸ばしたり、大きく背伸びをして背中の筋をほぐしたりする。それから台所に入り、食事を用意しはじめる。前夜の惣菜の残りでイカフライが一本あったので、それをいただくことにして、電子レンジで温める。ほか、白米に、やはり前日から引き続く玉ねぎの味噌汁、モヤシの炒め物や大根の菜っ葉の和え物が卓に並んだ。新聞は食卓では読まないことにして、見出しを確認するに留め、閉じるとぼんやりテレビのほうを眺めたり、母親の話すことを漫然と聞いたりしながら、イカフライを細く切り分けて、米と一緒に咀嚼する。(……)
 食後、風呂を洗い、白湯を持って自室に帰った。ひらいたままだった窓を閉めるとともに、カーテンをいくらか開けておくと、晴れの日ではあるが空には薄雲の広がりが見られ、陽射しは純に透き通っているわけでなく、言うなれば斑状の、やや淡いものだった。そうしてコンピューターを点け、前日の記録を付けるとともにこの日の記事も作成したあと、日記の読み返しをした。毎日二日分ずつ読んでいけば、いずれは一年前の時点に追いつくだろうというわけで、二〇一六年の一二月一三日と一四日の二記事を読み返した。一四日のほうでは、夜、自宅の近くに何やら消防車が出張ってきたのだが、入浴しながら窓越しにその色を見た時の描写、「浴室に行っても、磨りガラスに原色に近い赤さが宿っている。その下に白さも土台のようにしてあるのは、テールライトらしく、それに乗ってどぎついような赤の色が鼓動のようにして収縮するのは、それ自体、窓の外で炎が燃えているかのようでもあった。その紅の光によって磨りガラスの凹凸が露わに浮かびあがり、上端から水滴が流れ落ちると、赤さのなかに一筋、暗い水路がひらかれて一瞬夜の色に沈むのだが、すぐにまた乾いて起伏と色味を取り戻してしまう」というのがなかなか良いように思われた(とりわけ最後の、水滴の通過による色味の変化と復元の動きである)。
 日記を読み終えるとちょうど一時、そこから間髪入れずに作文に入り、前日の記事を早々と仕上げ、この日のこともここまで記して、現在は二時を目前にしている。
 そこから、tofubeatsなどの音楽をyoutubeで再生して、運動を行った。二時半までである。さらに歌をちょっと歌ってから、ふたたび日記の作成に入る。一月一一日のものである。
 一一日の記事を完成させると投稿し、そのままブログにて、年末年始の記事群を大雑把に読み返した。ゆっくりと読んだわけでなく、さらうような感じで、脳内に流れる言葉も早口だったので、言語に引かれて頭が回る感じがしたが、不安はさほど感じなかった。その後、上階に行って食事を取る。雑多に野菜の入った汁物に、朝と同じモヤシ炒め、そしてゆで卵一つである。時刻は四時くらいだったはずで、テレビには夕方前のワイドショーのような番組が映っており、温泉を紹介していたが、特段の興味を惹かれなかった(そう言えば自分はそもそも、温泉という場所に行ったことがない)。ものを食べながらも何か腹が痛かったので、母親が前日にこちらの誕生日だということでミルクレープのケーキを買ってきてくれていたが、それは夜にいただくことにした。
 下階へ戻ると、歯磨きをしながらほんの一〇分ほど読書をして、そうして四時半に至る。ジャージから服を着替えたあと、外出前にということで瞑想を行った。そうして上階に行き、便所に入って放尿すると、便意の蠢きをもかすかに感じたので、下半身を露出させて便器に座り、しばらく訪れを待ったが、結局出てこないので諦めて出勤に向かった。
 前日に引き続き、午後五時の空気は冷たく、ストールの内側に口もとを隠しながら行く。坂を上って平ら道に出ると、先の三つ辻にこの日は行商の八百屋が来ているのが見える。それで、もう結構日が長くなったな、と思った。先月にはこの辻で人々と遭遇していた時間には、もうよほど暮れきって宵に掛かるくらいの暗さだったが、この日はまだ空が薄い青さだったのだ。近寄って行き、こんにちはと挨拶を掛ける。青いジャンパー姿の八百屋の旦那と、(……)と、ほかに二人ほど、近隣の老人がいたようである。(……)が寒いから、気をつけてね、などと返してくれるので、行ってきますと受けて過ぎた。
 街道を行く。車道の果てから黄みがかった白の光を皓々と灯して連なる車の列の、ほとんど隙間なく密着していた明かりが次第に分解しながら近づいてくるさまの、これももう何度も見ては書いたものだから特段の印象も与えられないなと見ながら、しかしその「何度も見ては書いた」という印象のためにまた書くような気になって、反復の事実そのものが一つの新たな差異になるというこの事態はどうもややこしい、よくもわけがわからないなどと思い巡らせながら歩き、そのようにしてまたいつの間にか思弁が頭のなかに展開されていることに気づいて、自分はこのような概念の操作を書きたいのではなくて、この世の直接性をもっと感じたいのだと払い、見えるものなり脚の動きの感覚なりに傾注しようとしたが、しかしいずれまた考えが湧き出てしまうものなのだ。
 時間が前後するが、街道に入る直前から、入ってすぐ、道を北側に渡ったあたりで思ったのは、自分のテクストには「不安」という語が本当にたくさん書きつけられているだろうなということである。生身の人間として不安に追い立てられる結果、「不安」にまみれたテクストを自分は生み出している。この不安とは一体何なのか、それはどこから生まれて来るのか、そのあたりの問いを根本的な地点まで「解読」し、意味論的(ということはすなわち、認知/心理的)に納得の行く解釈を打ち立てれば、不安障害は消滅するというか、解決されるのではないかと思ったのだが、それを行うことにもまた不安感が付き纏いそうである。
 裏通りを行きながら考えていたこととしては、やはり観察技法に精進することによって、自己を高度に統御し、不安感が出てきてもそれを怖じずに見つめ、対峙できるように訓練する方向で行きたいということだ。不安障害だったに違いない釈迦は、やはりそれに苦しめられて、それから解放されるような(?)哲学的体系を作らざるを得なかったのではないかとひとまず推測してみるとして、釈迦の生涯や釈迦の残した言葉のなかにも自分にとって何らかのヒントになるような事柄があるかもしれない。そのあたりはいずれ触れてみたいとして、もう一つ気になるのは、「見ること」の力というものである。「見ること」及び「メタ認知」によって不安や恐怖が抑制され、あるいは消滅するに至るとは一体どういうことなのか、「視線/眼差し」に含まれている(意味論的な)力というものについてもう少し学んでみたい(こうした関心からすると、先日フーコーの著作を買った際に、『言葉と物』を選ぶのではなく、『監獄の誕生』のほうを選ぶべきだったのかもしれない)。「視線/眼差し/見ること」と言っているのは、内面的な事柄を対象とした場合は比喩であって、正確にはおそらく「意識の志向性」と言うべきものであり、とするとこれは認識理論とか現象学の分野になるはずで、さらに本当は脳科学とも当然関連する事柄なのだろうが、そちらの方面の素養は自分にはなさそうなので、ひとまず現象学的な方向を探索してみたいと思う(欲望や企図ばかりが過大に膨れ上がって、実状がまったくそれに追いつかない)。
 道中はそのように、思考を展開させてばかりだったようなので、具体物として印象に残ったものはいま思い出されてこない。勤務中、最初のうちはやはり腹が痛かったが、じきに収まった。(……)クッキーを、この日も三枚、ティッシュに包んでポケットに入れ、そうして退勤すると駅に入った。電車に乗って座席に就き、例によって瞑目しながら発車と到着を待つ。最寄りで降り、坂に入ると、前方に女性の二人連れがいて、同じ道を辿っている。追い抜かす気も起こらなかったので、歩調を緩めて先に行ってもらうに任せ、宙に目をやると、電灯を掛けられた葉が硬いように光っており、ほかにも道の脇から出てきている枝の、葉を落として姿態を露わにしたのが、これも馴染みの比喩だが毛細血管のような、あるいは骨のようなと思われた。そのように物々から即座にイメージを引き出して、そのもの自体から距離を取ってしまうこちらの認識性向も、どうにかならないものかなあと退屈さを覚えた。自分はそもそも、物々の「具体性」をより豊かに捉えたくて、身の周りのものをよく見るように心がけてきたのだが、その結果、その物自体に迫るというよりは、それを即座にイメージに横滑りさせてしまう性向が身についてしまった気がする。しかし、あるものやある瞬間の「具体性」というものも、結局は、そこに生じる「意味」の組み合わせのその形とか、豊かさとかで決まるのだろうか、という気もし、要は、ある一つのものにいくつものイメージが重ね合わせられて感知されるというのも、そのものの「具体性」の一つになるのだろうか、などと、そのようなことをまた考えながら道を行ったのだが、このような抽象的な思弁にはもはや飽き飽きである。自分はもっと、自分の身ぶり、動作、行動とか、そこにただ何かがあった、何かが動いていた、というような単純さを書きたい。要は、自分はもっと「叙事」をやりたいと思うのだが、個人的な性質としてどうしても思弁のほうに流れてしまうのかもしれない。
 帰宅すると、母親は風呂に入っているところだった。ストーブに少々当たってから洗面所に行って手を洗い、自室に下がって着替えを済ませてくると、母親は風呂から上がって洗面所で着替えをしているようだったので、横開きの扉を細く開けて、なかを覗かないように脱いだシャツを持った腕だけを差し入れ、洗い物として受け取ってもらう。それから、食事の用意をし、卓に就いてものを食べる。新聞の夕刊をめくると、明治天皇の和歌の英訳集が完成したという記事があったので、これはあとで読むかと目星を付けておいた。テレビは、『しゃべくり007』を映しており、見ながら時折り笑いを立てる。食後、入浴し、出ると久しぶりに蕎麦茶を飲むことにした。用意して自室に帰ると、一一時半頃である。コンピューターは点けず、新聞を読む。朝刊から、「米軍機事故 悩む政府 北朝鮮情勢 待ったなし 迫る名護市長選に影響」と、「エルサレムにトランプ駅? 「首都宣言」感謝 命名の動き パレスチナは反発」の二つの記事を、夕刊から先ほどの、「明治天皇の心 触れ30年 自然、平和…和歌311首英訳 米教授「神官との約束」」の記事をそれぞれ読んだ。それから、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionを五ページ読み、そうすると零時半頃、さらに本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』の読書に入った。文を読んでいるあいだは、就床前なのに(そしてコンピューターに触れてもいないのに)妙にくっきりと精神が張っているのが感じられ、文字が明晰で読み取りやすく、意識がまた少々覚醒のほうに傾いていたようである。そのように明晰でありながらしかし同時に、眠気が兆してくるのだ。それで何だかまた良くなさそうな気配を感じながら、眠気にしたがって一時一五分頃消灯した。入眠にはほとんど時間が掛からなかったと思う。