2018/2/8, Thu.

 二時前だったろうか、一度覚めて時間を確認した覚えがある。久しぶりにそこそこの緊張感が身に湧いていたのだが、起き上がるのが面倒でそこでは薬を飲めず、寝付いてもう一度覚めた時に服薬した。そうして、切れ切れではあったと思うが、一応八時まで眠った。カーテンをひらくと雲のない晴天で、窓外のネットに絡まったアサガオの残骸が、空気の流れに触れられて僅かに震えている。
 起床して上階へ行くと、ストーブで温まった。食事は、米がもう炊飯器に残り少なかったので、すべて払って前夜と同じく茶漬けにし、また、鍋料理にゆで卵である。その後、前夜の土産物であるショコラ風チーズケーキをいただいたが、これが濃厚なものだった。その後に苺を二粒食べたが、前日と同じく美味いと感じられ、そう感じられたことに感謝した。
 窓の上方、山の姿の上に覗いている空はまだ青の色が薄く、澄み切っている。風呂を洗ってから室に帰ると、インターネットを覗いてから読書を始めた。ベッドに乗って音読をしていると、途中、眠いような感じが出たが、それを越えると頭と身体が軽いようになった。陽射しが顔の左側に熱かった。
 一一時一五分頃まで読書をすると、その後、久しぶりに書抜きすることにした。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』である。三〇分ほど打鍵をして正午を回り、そのまま日記を記しはじめた。一時間ほどでここまで綴って、現在一時過ぎに至っている。
 その後、ギターを弾いた。楽器を弄っているあいだも、自分の意思が働くのではなく自動的に手指が動くというか、指と頭の赴くままに任せるといった感じがあった。二時前になると、上階へ行き、炬燵に入っている母親の隣に入れてもらった。テレビには、録画してあった『マツコの知らない世界』が流れていた。前半は、コーヒー焙煎の世界チャンピオンを獲ったという人が招かれており、コーヒーの美味しい淹れ方や様々なコーヒーメーカーを紹介する趣旨だったが、それを見ながら炬燵の安穏さに眠いようになって、そのように不安なく穏やかな気持ちになれたことに感謝し、これが幸福というものかもしれないと思った。
 そのうちに炬燵から抜け出して、食事を取ることにした。母親が鍋料理に素麺を入れて煮込んでおいてくれていた。それを食べる頃には、テレビの企画は片手袋研究に移っており、街に片方だけ落ちている手袋を一三年間、見つけるたびに必ず写真に収め、その傾向を分類するなどという妙な趣味を持つ人が出演していたのだが、なかなか面白いなと思いながらそれを眺めた。
 そうしているうちに、母親の携帯に着信が入り、出て声を高めて謝っている様子からすると、料理教室の日程を一週間勘違いして、すっぽかしてしまったらしい。この当日にあったものを、一五日と思い込んでいて、料理教室のメンバーたちから着信がいくつも入っていたのだが、散歩に出ていた母親は気づかず、ここでようやく連絡が繋がったという形だった。各方面に謝りの電話を入れたあと、母親は、駄目だな、という風に嘆きを漏らしたが、それを聞きながら以前のように苛立ちを覚えず、そういうこともあるよと穏やかに宥める自分がおり、このように落着きを持って母親に接することができるようになったのはありがたいことだと思った。
 その後、何か面白いテレビ番組でも見ようということで、録画されてあったなかから『しゃべくり007』を選び、笑った。前半は坂口健太郎という人と綾瀬はるかがゲストで、後半は二階堂ふみという女優がゲストだった。二階堂ふみは冒頭で、最近生活スタイルが変わったと語り、また湯葉が大好きなのだという風に話した。その後、しゃべくりメンバーとのあいだで、初対面の人と友達になることを目指すという寸劇が行われたわけだが、やはりホリケンの瞬発力が随一で、先の湯葉の件を踏まえて、(今井美樹 "PRIDE"の冒頭の「私はいま」のメロディーに合わせて)「私は湯葉」といきなり歌いだしたところが一番面白く、大笑いしてしまった。テレビの前でスクワットをしながら番組を眺め、その後、炬燵に入って歯を磨きながら四時前まで視聴した。
 その後、洗濯物を畳み、ストーブの石油を補充する。勝手口に出ながら空を見上げると、まだ青さが明るいものだった。室内に戻ると自室に下がり、メモを取って四時二〇分である。着替えをしたあと、出るまでにまだちょっと時間があったので、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を少々音読した。この日の読書では、書抜きをしたい箇所が見つかったのだが、そのうちの一つに、最近の自分の状態にほとんどぴったり当て嵌まるような記述があったので、ここに引用しておきたい。

 そんなことを考えているうちに、私は無意識のうちに両手で顔を覆っていた。孤独、不安に満ちた探求、日々出会う不条理な出来事、そうしたものが私の世界の一部を作り上げていたが、ものを書く上では何の役にも立たず、むしろ苦しみを増すだけだった。ほかの作家たちが自分の不安を大いに活用して小説を書いていることは知っていた、というかそういう話を聞かされていた。ところが、私は自分の不安を生かして作品を書くためにどうすればいいのか見当もつかなかったのだ。私は両手で顔を覆ったまま、床に敷いてあるぞっとするようなマットレスの上に倒れ込み、これ以上何も考えないでおこう、意識を消し去り、理解も分析もしないようにしようと心に決めた。知恵というのはおそらくそういうことなのだと考えた。しかし、何も考えまいとすること自体何かを考えることなのだと思い当たったとたんに、苦々しい思い、不安といった苦悩がふたたびよみがえってきた。あの頃の私はそうしたものを自分の文学に移し替えるすべをまだ知らなかった。
 (234~235)

 そうして時間が来ると上階に行き、ホットカイロを背に貼って出発した。坂を上って行き、辻まで来るとトラックで移動販売する八百屋が来ており、老女が一人いて、少々やり取りをした。コートを着ているのを指摘されたのに、雪が降って以来寒いですからねと答えると、今日もちょっと降った、ぱらぱらっと散ったと八百屋が言ったので、そうでしたかと受けた。それから、以前は帰りも歩いていたが、最近は寒いから電車に乗ってしまうなどと話して、じゃあ行ってきますと告げて別れた。このように、実に些末で何でもないやりとりだったのだが、そのような何でもないやりとりができるということ自体に、感謝の気持ちが湧き上がってきた。と言うのは、年末年始の変調以来、自分の感情や気持ちに確信が持てず、何かを感じることや考えることそのものが不安だというようなところがあり、自生思考が自走して思ってもいないはずの言葉や妄想が湧き上がってきたりして、端的に言って自分というものがわからなくなっていたからだ。そんな状態だから、テレビ番組を見て素直に笑えたり、他人と問題なくやりとりができるということ、それ自体が実にありがたいことのように感じられるのだった。ナイーヴにも、そのことに涙を催すほどだったのだが、一番感謝するべきことは、感謝の気持ちや言葉が自然に湧いてくるということ、自分のなかにそれが確かにあるということだと思った。このようなことで涙するというのは、やはり自分の精神が不安定であることを証しているものではないかと思うが、それは端的に、不安に冒されているからである。しかしこの時、街道を歩きながら、このような感謝の気持ち、尊いような気持ちになれるのならば、不安というものも、悪いものではないのかもしれないという考えが湧き、そう思えたということは、多分自分は大丈夫なのではないかと思った。自分は、この他者や様々な事柄への感謝の気持ちを決して忘れたくない、何とかそれを、この先もずっと持続させて行きたいと思う。
 街道から振り見た西空には、いくつかに分かれた雲が浮かんでおり、紫を帯びて縁取りされていた。その後、歩きながらまたどうしても考えが巡ってしまう。この思考すること、ものを感じるということによって苦しみが生まれるのは間違いない。釈迦の「一切皆苦」という考え方にはそのようなことも含まれているだろう。しかし人は、そして自分は、どうしても感じ考えてしまう存在である。考えないということは無理である。したがって、ものを感じ考えることによって生まれる不安や苦しみと共存していくほかはない。パニック障害になった最初の頃にも考えた考え方だが、この苦しみが自分に割り当てられたもの[﹅9]なのだ。何らかの意味で苦しまない人間などこの世におそらく一人としておらず、誰もが固有の苦しみを抱えている、そしてそれを生きることこそが生なのだと、この時はそんな風に考えた。
 職場に着くと、働きはじめるまでにちょっと時間があったので、先ほど感じたことを手帳にメモし、それから準備を始めた。勤務のあいだはだいぶ落着いており、以前とほとんど同じようにゆったりと働くことができたと思う。余計な思考、妄想もあまりなく、またよく笑えたようだった。しかし一方で、言葉を発すること、物事を説明するのが何かどこか苦しいような、そんな感じも途中にはあった。
 帰りは駅でSUICAに金をチャージし、電車に乗ると瞑目して到着を待った。降りた最寄り駅には、ホームの真ん中に雪がまだやや残っており、取り除かれないまま幾日も経ってしまったので、縁が凍りついていた。帰宅すると、一〇時前だった。水道の工事か何かの関係で、一一時から水が濁るという話だったので、野菜炒めだけをちょっと食べて、先に風呂に入ってしまうことにした。父親もじきに帰ってきたので、温冷浴は繰り返しやって、束子は全身でなく腹や腰回りだけを擦り、一〇時半には上がった。出ると父親が、こちらはもう食事を済ませたと思っていたようで、牡蠣を食べてしまったと言ったが、笑って、いいよと受けた。食事は、米に納豆を用意し、キクラゲの入った汁物に野菜炒め、また里芋の煮物である。テレビは最初、『カンブリア宮殿』でライザップの社長が話をしていたが、卓に就くと『ダウンタウンDX』に変えて、見ながらものを食べた。その後、一一時になると、『OUT×DELUXE』を映すと、野村克也が出演して、昨年亡くなったサッチーこと沙知代夫人についてなど話をする。夫人の最期の様子が語られたのだが、曰く、食堂で突っ伏しているのをお手伝いさんが発見して、向かった野村が背を揺らしたところ、「大丈夫だよ」と答え、それが最期の言葉になったと言う。様子が明らかにおかしいので救急を呼んで、心臓マッサージなどを施したがそのまま逝ってしまい、本当に五分くらいで亡くなったとのことで、マツコ・デラックスが言った通り、まさしく大往生だったらしい。
 歯を磨きながら番組を最後まで視聴し、その後、自室に下りてメモを取ると零時前になった。眠気があまりないようだったので、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を一時間、ゆっくりと、小さな声で読み、一時を回ったところで就床した。