2018/2/20, Tue.

 二時台、四時台あたりにそれぞれ一度ずつ覚めたと思う。二度目の覚醒時に薬を服用した。何度か覚めながら、最終的に八時五〇分まで寝床に留まった。起き上がって上階に行く。母親の姿がなかったので、もう(……)出かけてしまったのかと思ったところ、洗面所で顔を洗っていると、下階から階段を上ってきたので挨拶をした。冷蔵庫に、自分用に作った弁当の残りらしく、ハンバーグが少々あったのでそれを電子レンジで熱する。ほか、前夜から続く納豆とエノキダケの味噌汁に、生のキャベツのサラダである。
 卓に就いて食べはじめるのだが、久しぶりに新聞をめくって大雑把に記事に目を通しながら食べたため、食事に意識を向けられず、あまりよく味を感じずに食べてしまったことに気づいた。それで最後に残ったキャベツだけは、ドレッシングを掛けて、ゆっくりと集中して咀嚼した。食事を終えた頃には、母親は既に出かけていた。食後、卓に就いたまま窓外の景色を眺めた。見ているものをその場で意図的に言葉にしようとせずに、ただ見つめることを意識して、川沿いの樹々の風にちょっと揺れるさまや、川向こうの屋根に溜まった光や、まだ太陽が低めで光の感触の強い空の青さを眺めた。そうして穏やかな時間を過ごしたあと、台所に食器を運び、ヨーグルトを食べてから洗い物をした。
 皿を洗うと、居間の炬燵テーブルの上に落ちている明るみに惹かれてそちらに寄り、窓辺に立って陽射しの温かさを感じた。それから、掃除機を掛けた。台所や玄関のほうまで掛けておき、さらに外に出て、家の前を掃き掃除した。中くらいの箒を使って、塵取りに葉っぱを掃きこんでいると、名前を何と言うのか知らないのだが、向かいの家に集っている人の一人がおはようございます、と声を掛けてきたので、こんにちは、とこちらも返した。葉っぱをある程度片付けると、林のほうに捨てておき、そうして屋内に戻る。
 洗面所で手を洗い、そのまま風呂も洗った。そして下階に下りるとコンピューターを立ち上げた。数日前にAmazonアソシエイトへの申し込みを行っており、その審査結果が届いているかとメールボックスを見たが、まだだった。大体三日くらいで届くという話を聞いていたのでおかしいなと調べてみると、即日届いていた「Amazon.com Associates プログラム-アプリケーションが承認されました」というメールが、審査OKの知らせだったらしい。それからここまで日記を記して、一一時過ぎである。
 Amazonの審査が通っていたということで、直近の記事で感想を書いたり引用したりした作品について、早速リンクを貼った。それから、読書に入った。ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』である。と言ってもう本篇は読み終えていて、中山元の解説を音読で追って行く。太陽はもう窓の端に昇っており、その陽射しを求めるようにしながら読んだ。最後まで読み終えると一時前、そのままクッションに頭を預けて、少々微睡みに入った。目を閉じているなかで、うとうとと微睡んで意識が定かでなくなるたびに、呼吸に焦点が戻されるということが繰り返された。二〇分ほど微睡んだようだった。それからまた日記をここまで書き足した。
 そのまま一八日の記事も綴って完成させ、二時を過ぎて、それから豆腐などで昼食を取ったと思うのだが、このあたりのことはよく覚えていないので省略する。
 出勤は三時半である。陽の温もりを背に受けながら街道を行く。歩くあいだに思考が巡ったのだが、脳内に勝手に考えや言語が湧き上がってくるとは言っても、考えは考えに過ぎず、言語は所詮言語に過ぎない。それは明らかに自分そのものではなく、完全に切れているわけではないが、完全に繋がっているわけでもない。実際自分は、道行く人を見て、その人を殺すというイメージ、あるいは殺すという言語を考えたとしても、それを行動に移すことは勿論ないわけで、自分の頭に生じてくる思念や思いを拾い上げ、それに同意し、行動の面に反映させるという段階、その領域の原理が存在していなければならないはずである。そして、今のところ自分のうちでは、その同意の原理は自動的に、概ね正しく働いているようだ。考えは自分そのものではないのだから、どのような考えが湧いてきても自分はそれに、完全に影響を受けないということはないだろうが、少なくとも飲み込まれることはない。馬鹿げた考えが浮かんだとしても、自分はそれに説得されない。このようなことを考えて、自分は適切に行動できるだろうと言い聞かせた。
 そうした考えが説得的だったのだろうか、この日は勤務をしているあいだ、どこか明るいような気持ちでいられ、言葉を発することにも支障を感じなかったと思う。退勤すると、電車に乗り、座席に座って瞑目し、呼吸に意識を向けた(この日は全体的に、呼吸によく立ち戻ることができたと思う)。降りた最寄り駅のホームに、もう雪はなくなっていた。
 帰宅すると、八時頃である。職場から貰ってきた菓子をテーブルの上に出した。母親は、食べている蕎麦を示した。これはカップ蕎麦を鍋で煮込んだものである。いつも通りストーブの前に座って身体を温めるのだが、勤務中、気分は良かったものの、何だか疲れたなという感じはした。しかしそのためか、着替えてきて取った食事(おじや、蕎麦、小松菜や人参など)は自ずと美味いと感じられた。父親がもう帰ってくると言って、母親は風呂に行った。テレビは外国にいる日本人に会いに行くという番組をやっていたが、さほどの興味関心は惹かれなかった。そのうちに父親が帰宅し、母親も風呂から出てくると、九時前である。『マツコの知らない世界』があると言うので、父親が風呂から出てくるとテレビを取られてしまうだろうが、それまで見ようかということになり、皿を洗って炬燵に入った。番組は親子丼の紹介で、これを見ながら自然と笑えたようだ。父親が出てきて食事の支度をすると、こちらは炬燵から離れて、風呂に入ることにした。すぐに番組を変えるかと思いきや、父親は、最近の新たな親子丼の紹介をちょっと眺めていた。
 この日の帰宅後はまた、心が落着いている感じがして、思念があっても気にならなかった。入浴のあいだも呼吸を意識し、出てくるとテレビにはノルディックスキーの様子が映っている。自室に戻って、手帳にこの日のことをメモした。時刻は一〇時半、そこからW・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』を読み出し、零時過ぎまで読書を続けた。小さな声で音読をするわけだが、この読書もあまり余計な思念が湧かず、かなり集中できた覚えがある。と言って余計な思念が湧かないということは、考えを巡らせる時間もなかったということで、あまり特別に印象に残っていることもないのだが、全体的な感触としては、ゼーバルトのこの本は読んでいてなかなか手応えがあるものである。書抜き箇所としては、冒頭近くの、フローベールについての一挿話をメモしたが、これはもういまここで書き抜いてしまおうと思う。

 (……)ちなみに自分の考えを話しながらときにこちらが心配になるほどの興奮にたびたび陥ったジャニーンが、ことのほか個人的な関心を込めて探究していたのが、書くことに対するフロベールの懐疑についてであった。ジャニーンの言うには、フロベールは嘘偽りを書いてしまうのではないかという恐怖に取り憑かれ、そのあまりに何週間も何か月もソファーに座ったまま動かず、自分はもう一言半句も紙に書きつけることはできない、書けばとてつもなくみずからを辱めることになってしまう、と恐怖していたという。そんな気持ちにかられたときには、とジャニーンは語った、フロベールはこの先将来、自分はいっさい執筆などしまいと思ったどころか、過去に自分が書いたものはどれもこれも、およそ許しがたい、測り知れない影響をおよぼすだろう誤謬と嘘がたてつづけに並んでいるだけのものだ、とかたく思い込んでいた。ジャニーンの言うのは、フロベールがこのような懐疑を抱いたのは、この世に愚鈍がますます蔓延していくのを目にしたからであり、そしてその愚かさがすでに自分の頭をも冒しつつあると信じていたからだった。砂のなかにずぶずぶと沈んでいくような気がする、とフロベールはあるとき語ったという。(……)
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』白水社、二〇〇七年、11)

 歯磨きをしながらまたちょっと読んで、零時を回ったところで就床である。

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