2018/3/16, Fri.

●八時起床。四時直前に一度目覚めている。前夜は一一時の直前に床に就いたので、一応、五時間は続けて眠れたことになる。七時に覚めたが、何だか身体が重いようで起き上がることができず、目を閉じていた。頭が何か勝手に言葉を生み出しているのを切れ切れに感じた。天気は曇りである。
●朝食は、前夜のカキフライの残り。母親がそれを、カツ丼の具のような感じで作り直してくれたのを、丼の米の上に載せる。『あさイチ!』に、NHK連続テレビ小説のヒロイン役を務めた葵わかなという人が出ている。母親によると、今日は夜から気温が下がって寒くなると言う。新聞の天気欄を見ると、午前中の部分に雨のマークが含まれており、降水確率は六〇パーセントを示していた。
●食後、家事を諸々済ませて、自室へ。横山貞子訳『フラナリー・オコナー全短篇 上』を読む。一時間弱。「七面鳥」の篇がなかなか面白かった。特に、七面鳥を捕まえることが出来なかったララーが、「神さまのばか」「神さまのくそったれ」と悪態をつき、続けて、「くそったれ頭」「くそったれ鶏」「くそったれ首」と色々な言葉に「くそったれ」を付して羅列する場面はちょっと笑いそうになった。そのように笑いながら悪態をついていたのに、偶然七面鳥がまた見つかると、途端に神に感謝する気持ちになっているのも、子供の気まぐれさを良く表現していると思う。その後、ララーは意気揚々とそれを担いで街に戻り、皆の注目を浴びるのだが、最終的にその七面鳥を奪われてしまうというのも、オコナー的な安定した落ちとなっている。
●読書後、母親が草取りをすると言っていたのを思い出し、外へ。フォークを使って草取りを行う。途中、(……)がやってきて世間話(こちらはあまり発言できなかった)。彼女が去って行ったあと、今度は(……)が回覧板を届けにやって来た。受け取ってこちらは一旦中に入り、靴下を履いて、散歩に出た。
●天気は相変わらずの曇天だが、寒さはない。保育園まで来ると、園児たちが園庭に出て遊んでおり、子供らの声が響いている。先生と一緒になって土管の上に並んで座ったり、砂場の土をすくいあげたりしている。フェンスの際を歩いていると、女児が一人歩いてきて、おはようございますと声を掛けて来たので、思わず笑みを浮かべて、おはようございますと返した。それからちょっと行ったところにある白梅の樹に、抹茶色の鳥が何匹かとまっている。メジロである。鳥が枝の上を動き回るそれに応じて、もういささか古くなった花びらがぽろぽろと宙に落ちる。
●殺害の観念、もしくはイメージの発生はまだあって、散歩中、人を見るとそれが浮かぶことがあったのだが、だからと言ってもう不安を覚えたりはしない。自分は他者を傷つけたいとは思っていないし、人を殺したいなどとは勿論思っていない、これは確実なこと、揺るがない結論であると歩きながら考えた。あとは妙な思考やイメージが自ずと収まってくれるのを待てば良い。実際、最近はほとんど浮かばなくなっていたはずだから、そのうちに多分忘れることができるのではないだろうか。
●帰宅すると、正午前。母親がカレーを作っていた。こちらは室に下りて、Bill Frisell & Thomas Morgan『Small Town』を流しながら、スワイショウを行った。これは腕を前後にぶらぶらと振るだけの簡単な運動で、リズム運動がセロトニンを増やすのに効果があるということで、パニック障害初期の頃にはよくやっていたものだ。それをふたたび毎日の習慣に取り入れることにして、この時は一曲分だけ行い、食事を取りに行った。
●カレーのほかには、蜜柑の類があったのだが、これが、新鮮ではあるもののとても酸っぱいものだった。一二時半頃になると食器を洗って下階に下り、ギターを弄った。母親は、「子どもプラス」の仕事に出かけて行った。
●その後、書抜き。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を終わらせ、そのままルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』も一気呵成に、といった感じで終わらせる。そうして、二時半頃になったところで一旦上階に行った。洗濯物を畳もうと思ったのだが、まだあまり乾ききっていなかった(雨が降り出していた)。それでもタオルだけは畳んでおき、洗面所に運んでおくと、ソファに就いて、しばらく息をつきながら惑った。何をすれば良いのかわからない、というような状態だったのだ。かつては、時間がいくらあっても足りない、一日のうちにできることはあまりにも少ないと思っていたはずが、書くことに対する欲望が希釈化されてしまった現在、今日は労働があるのだが、それまでの時間、一体何をして過ごそうと思い惑うようなところがある。自分にこのような状態が訪れるとは思ってもみなかった。やはり、書くことに対する欲望が生の中心として据えられ、それを経由するようにしてすべてが価値づけられていたようなところがあるのではないか。その欲望が希薄になってしまった今、生そのものに対する欲望も全体として薄くなったような感じがする。気持ちが殊更に落ち込むというわけではないが、端的に言って、張り合いがないのだ。欲望がないというのは、苦しいことである。書くことに対するそれでも良いし、何か別のそれでも良いのだが、何とかして何かしら、次の欲望を見出したい。
●室に帰ると、二〇一六年一〇月の日記を大雑把に読み返して、ブログに投稿した。その後、また頭があらぬ方向に回って不安を感じたので、早めに服薬しておき、ギターを弄った。その後、不安な気分を払いのけようと運動を行い、それから読書に入った。『フラナリー・オコナー全短篇』の上巻は最後まで読み終えて、下巻にも入って、六時前まで。二時間弱、音読をしたわけだが、音読をするとやはり気分がいくらか落ち着き、すっきりとするような気がする。
●そうして上階に行き、居間のカーテンを閉めると、カレーと即席の味噌汁を食べた。皿を片付けてすぐに下階に戻ると、Oasisを流して歌いながら服を着替え、歯磨きをした。