2018/4/8, Sun.

●読み書きを失った時点で、自分は象徴的に死んだようなものなのだと思う。以前の自分の脱け殻のようにして生きている自分がいる。自殺を考えないと言ったら嘘になる(と言うか、自生的にそうした思考も湧いてくることがままある)。しかし、気分がさほど落ちこむという感じもない。とにかく平板なのだ。
●文を考えることも難しくなってしまった。今日は高校の同級生らと会ったのだが、その何時間かの経験、そこにあったはずの幾許かの豊かさを書こうとしても、記憶もうまく秩序だって出てこず、考えをまとめてうまく文章化することができない。あるいはそうした意欲が湧いてこない。
●とにかく欲望が欲しい。読み書きでなくても良い、何に対するものでも良いのだ。最近の自分は、食欲や性欲といった身体的・本能的な欲求すら薄れてきているように思われる。腹が空になってくるのはわかるが、しかしそれで何かを食べたいという食欲や空腹感を覚えることがない。
●「何かが印象に残る」ということが絶えてなくなってしまった。
●以前のように書くことはもはや不可能だと思う。それでもせめて、五年後でも十年後でも良いので、読むことが、そちらのほうだけは復活してくれないだろうか。
●こうなってみると書くことが自分のうちに占めていた大きさというものがよくわかる。おそらく自分の体験はほとんどすべて、書くことを経由して価値/意味の秩序を構成していたのだろう。根幹にある書くことが失われたいま、そこには空虚だけが残り、その周囲を経巡る体験群もばらばらになってしまった。
●これらのツイートの文章も、きちんと意味の論理を作れているのか、それすら定かでなく感じられる。書けている感じがしないのだ。
●今日は「N」という地元の喫茶店に行ったのだが、そこでBGMに、John Coltrane『Blue Train』が掛かっていた。タイトル曲のサックスソロの入りに聞き覚えがあって(テーマは聞き逃していた)気になったのだが、次に"Moment's Notice"が流れてそれとわかった。
●不思議なもので、頭が今のようなごちゃごちゃの状態にあっても、このトランペットソロを聞きながら、これはどうもLee Morganらしいなという判断は付いた。