2018/8/22, Wed.

 八時のアラームで一度目覚めて立ち上がり、携帯を手に取ったのだが、アラーム解除の操作をしながら身体の重さに引きずられてまっすぐベッドに戻ってしまった。そしてそこから正午あたりまでずっと身体を起こせずに寝過ごすこととなった。カーテンをひらくと斜めに傾いた光の矩形がシーツの上に生まれ、そこに身体が入って暑かった。
 母親は図書館に出かけていた。電子レンジの前に置かれた皿に鮭の切り身が乗っていた。飲むヨーグルトを一杯飲み、冷蔵庫から前日の味噌汁を取り出し、鮭と同時に温めた。椅子に座ると、暑さのために扇風機を点けた。少しばかり秋めいた涼しさの日々は終わり、また夏の暑さが戻ってきたようで、居間の気温計は三五度あたりを指しているようだった。鮭を千切りながら米と一緒に咀嚼し、味噌汁を飲んで食事を済ませると、水を汲んできて抗精神病薬サプリメントを服用した。それから皿を洗い、風呂洗いも済ませて浴室から出てくると、暑気によって首筋が汗で濡れていたので洗面所のタオルで水気を拭った。
 自室に戻ってすぐ、便意を催したので便所に行き、出すものを出して室を出るとちょうど母親が帰ってきた音が聞こえたので階段を上り、本や梱包材などの荷物を居間に運び入れた。それから下階に戻り、この日は日記に取り掛かるより先に本を読みはじめた。Becca Stevens『Regina』を背景にして保坂和志『未明の闘争』をちょうど一時間読んだ。読むあいだはベッドに腰を掛けて、足の裏でゴルフボールを踏み転がしていた。相変わらず小説を読んでいても、つまらないという感じもないが、特段に面白い感じもしないし、何かが取り立てて印象に残るということもない。精神的不感症は継続中である。
 日記を記したのち、瞑想を行った。それから中原昌也『名もなき孤児たちの墓』から書抜きをしたあと、四時前まで何をしていたのか定かではない。四時を間近にして前日に読んだ夕刊から日記に記事を写したのち、ふたたび読書に入った。その途中でまたしても寝入ってしまった。五時を知らせる市内放送が流れたあたりまで文を追っていたのは覚えているのだが、そこから先は意識が薄くなって、結局また部屋の暗くなった七時まで寝床で動けないままだった。随分と怠けた時間の使い方をしてしまっている。
 上階に行くと食事より先にアイロン掛けをした。父親のシャツとズボン、それにエプロンやハンカチを処理してから台所に入った。夕食のメインはカレーだった。その他ポテトサラダと茄子の味噌和え、また鮭と胡瓜を混ぜた寿司飯を卓に運んで食べはじめた。赤いパプリカやズッキーニの入ったカレーはなかなか美味かった。食後、薬剤の類を飲むと皿を洗って、すぐに風呂に行った。
 出てくると自分の部屋の燃えるゴミを上階のそれを一緒にしておき、それから娯楽的な動画を閲覧した。それで一〇時近く、日記を書くのだがつい数時間前のことをあまりよくも思い出せず、細かく書くような気力も湧かず、すぐに記述が現在時に追いついた。
 喉が渇いていたので、何か水分を補給しようと上階に向かった。階段を上がり、飯を食っている父親におかえりと掛けて、冷蔵庫をごそごそと探っていると「キレートレモン」が発見されたのでこれを飲むことにした。母親も飲むと言うので、氷の入ったコップを二つ用意して卓上に置き、それぞれ液体を注いだ。両親は『家、ついて行ってイイですか?』を見ていたようだ。時刻は一〇時、それは終わって次に『未来世紀ジパング』という番組が始まり、噴火したハワイはキラウェア火山のその後の様子を報道しはじめた。いまだ溶岩の噴出は止まっておらず、臓器のようなマグマがぼこぼこと盛り上がりながら流れているさまを上空から捉えた映像が映った。マグマは海まで流れ出ており、溶岩が水に触れたところからは、気体というよりは実体に満たされているような巨大な煙の柱が立ち昇っていた。死者が一人も出なかったというのが奇跡的に思われた。今回の大噴火も島民のあいだでは、彼らが「彼女」と呼ぶ火の女神ペレの行いだと信じられており、人々はこの災害を受け入れているという話だった。飲み物をコップに継ぎ足して飲みながらそうした映像を眺め、すべて飲み干してしまうとペットボトルを片付けてから階段を下った。
 部屋に戻ると、活字を読みはじめた。本の前に新聞の朝刊と夕刊を両方読み、それでもう時刻は一一時に達した。それから保坂和志『未明の闘争』を読んで、日付が変わると中断して歯を磨いた。音楽は聞かず、早めに眠るつもりだった。それで一五分ほど瞑想に座ると、薬を服用してきて早々と明かりを落とした。零時四〇分頃だった。



中原昌也『名もなき孤児たちの墓』新潮社、二〇〇六年

 (……)誰もいないはずなのに、わざわざ空調によって管理された空間ほど、淋しさを感じさせるものはないだろう。誰のためにもなってはいない、単なる電力の浪費。俺の人生は、所詮これと似たようなものかもしれない。誰からも何も期待されず、椅子にすわらされたまま特に何もできず、誰かの興味も引かないつまらぬことしかできない。そのような世界にさしたる必然性もなく存在しつづけなければならぬ不毛な義務感が、形容できぬ不安とないまぜとなり、それが永遠に癒されることのない徒労感へと慌ただしく変貌するのを嫌々見せつけられる。また再び不毛な義務感に苛まれ、そしてまた癒されない徒労感へ。その反復を俺はただ黙って見守るしか成す術はないのだろうか。
 (187; 「点滅……」)

     *

 それにしても、ある程度覚悟はしていたものの、やはり小説であろうが何であろうが文章を書く仕事というものは、何故このように退屈極まりないものなのか? 自分に特別な才能など皆無であることを知っていれば知っているだけ、その仕事内容の意味のなさに辟易させられる。にもかかわらず、それを続けなければ生活して行けないという矛盾。ようするに自分のやっている仕事は正直中身が何もなくサギそのものであるのをきちんと読者に提示しつつも、結局のところは「私の書くことは活字に印刷されるに足る立派な内容」です、みたいな確信を少しでも持っていなければ続けられない仕事である。俺は残念ながら、そのような確信はいままで一瞬たりとも持ったことがない。いくらやっても自分には何も関係のない仕(end228)事としか思えないし、いくら原稿を書こうとも単に「字が埋まった」くらいの満足感しか得られないのだ。
 (228~229; 「点滅……」)

     *

 そして何よりもこの仕事のせいで、自分の中の欲望の扱い方がまったくわからなくなったのだ。好きで書く以外にあり得ない小説というものに、まるで興味もないのに関わってしまったばっかりに起きる恐ろしい病である。自分が何故生きているのかわからない。何が楽しくて生きているのかもわからない。だから、とりあえず無駄遣いをする。入ってきた金は、文学以外のものに思い切り使う。まともに生活する以外のことに使う。明日のことなんて一切考えない。そもそも文学など、碌でもない人間が志す物だ。金持ちのボンボンとか……少なくとも自分のような工場とかで働いた経験のある人間がやるものなんかではない。自分を完全に破綻させる方向に持っていかなければ、何も書くことなんて思いつかない。のびのびと表現をしたいなあ、なんて考えているような余裕なんか持っていては駄目だ。ゾッとするようなおぞましい自分。自分が忌み嫌う自分。それが小説を書く自分。どうでもいい、つま(end232)らないことを何十枚にもわたって書ける自分だ。そんな人間になるには、自分が「こうでありたい」という自分になってはいけないのだ。あくまでも自分が軽蔑する人間になり切らなければならない。自分をまるで与[あずか]り知らぬ領域に持っていかなければ、こうして無駄で面白くもなんともないことを饒舌にバカバカと書いたり出来ない。そこまで苦労して、やっとまっとうな人間の半分くらいしか稼ぐことが出来ない。
 (232~233; 「点滅……」)