2018/9/10, Mon.

 七時のアラームの時のことは何も覚えていない。九時半頃から意識は浮上していて、起きようと思えばスムーズに起きることができたと思うのだが、どうもやる気が湧かず目を閉じたまま過ごしているうちに、一一時を迎えた。空は白く、太陽の光線はあったが雲に遮られて、身に届く頃には弱々しくなってほとんど温もりももたらさなかった。一一時一五分になると起床し、ステテコパンツを履いて、急須と湯呑みを持って上階に行った。母親はテーブルの上でレシートなど広げ、家計の整理をしていたようだ。顔を洗い、朝に作ったというおじやと、前夜の残りの餃子と茄子の味噌和えを取り出し、温めるものは温めて卓に就いた。黙々とものを食べ、薬やサプリメントを服用し、食器を洗ってしまうとそのまま風呂も洗った。そうして茶を持って自室に戻ると、早速日記を書きはじめたいところだったが、一服しながらインターネットを回って、またサプリメントの情報など求めてしまった。そのうちに「凹凸ちゃんねる」というまとめサイトに道が繋がって、発達障害統合失調症や色々な精神疾患についてのスレをまとめているのをいくつも眺めてしまった。発達障害にも様々あってこちらはそれを良くも知らないのだが、妄想癖があるとか、常に頭のなかで会話が繰り広げられるとかそのあたり、脳内に常に言葉や独り言があるというのはこちらの状態ともちょっと似ているなと思った。しかし自分はおそらく発達障害とは診断されないと思う。ほかはやはり離人症関連のスレに書かれていたことが、わりあいに当てはまるような気がした。また、一月にも発見したことだが、スキゾイドパーソナリティ障害の診断基準にも自分はかなりの程度当てはまると思われる。しかしいずれにせよ、自分の精神症状は今はどれも軽度なほうで、日常生活を送る上での支障はあまりない。先の五月から七月頃に掛けては無力感と甚だしい希死念慮に押さえつけられて(何しろ自分は途中までは本気で冬になったら練炭を買おうと考えていたし、アモキサンという薬を処方された時期は、過量服薬での死亡例があると言うから自分もオーバードーズを試みようかという誘惑を感じたことも何度かあった。自殺を選択肢から外してともかくも生きるほかはあるまいと考えるようになったのは、死ぬことや死の前の苦痛が恐ろしいということもあったが、それよりもさらに決定的だったのは死にきれる自信がなかったこと、自殺を敢行しても後遺症などを持って半端に生き残ってしまうことへの恐れだった。自分が、言ってみれば「死に選ばれる」とはどうしても思えず、自殺を試みても失敗するだろうということがほとんど確信されたので、いつか自ずと死ぬべき時が来るまではともかく生きてみようと思うようになったのだった)、パニック障害の時とは違った形でのどん底を見たと言って良いだろうが、いまはそこからも回復した。こちらの問題は日記にも再三記している通り、感受や欲望、思考や興味関心の面での衰退、感情や精神作用全般の希薄化・平板化が見られるということで、これは自分としてはアイデンティティの下降的変容あるいは欠如を表すものだが、そこに明確な苦痛が伴う類のものではなく、言わば空虚感や不満といった程度のことに過ぎないのだ。まとめサイト閲覧に切りを付けると時刻は午後一時過ぎ、ようやく日記に取り掛かりはじめた。前日の記事を仕上げるまでには一時間が掛かり、長くなってほとんど一万字に達していた。それからこの日の分も綴って、現在は三時が目前、先ほど空気が石灰水のような色に染まる土砂降りの雨が急に始まったが、いまはまた収まっている。続けて、一時間も掛けて二〇一七年初の日記を三日分、読み返した。前夜にちょっと目にして、時間を取ってきちんと読んでみようと思っていたのだが、この頃のほうが生活の記述のあいだに物事に対するちょっとした考察のようなものを挟んでいたり、読んだもの聞いたものの感想を書いてみたりと、明らかに今よりも頭が働いている――その時々の自分の状態は日記に如実に表される、言わばテクストはこちらの分身であり、写し身[﹅3]である。風景の描写や感想の類を見ても事物に対して細かく感応しており、書きぶりも全体として饒舌で、熱意を持っているようで、闊達に、うまく流れていると思われる。この頃に比べれば現在は自分は明らかに退化しており、どうにかしてかつての能力を取り戻したいと最近はそればかり頭に浮かんでいるのだが、果たしてそれが可能なのかどうか、覚束ないことだ。過去の日記からは三箇所をここに改めて引いておきたい。

 この日記を記すという営み――一日過ごしたその現実をパラフレーズ=翻訳したり、そのうちの各部分を取りあげて考察を付したりという行為――も、おのれの生活をテクストとして読んで、それに対して感想や批評を書きつけていると見なすことができるだろう。それにより深化をもたらすためには、対象に対する観察を磨くことは勿論だが、同時に、自分自身に対する観察、何かに触れた時に自分の内で蠢くものに対する明晰な視線を鍛えることが必要である。先にも触れたように、何か面白いことや独特なことを殊更に感じようとしたり、考えようとしたりする必要はない。と言うのも、本日一月三日の夕食中、新聞を読んでいるあいだにも考えた(と言うよりは自然と思い浮かんだ)ことなのだが、我々人間は、必然的に何かを感じたり考えたりしてしまう存在である。思考や感覚という動きは、常に既に起こっており、いついかなる瞬間においてもそこにある(そうした論理の路線で、思考や認識とは事後的なものにならざるを得ないのではないか、とも思いついたのだが、この思いつきがどういう意味合いを持っているのかは自分でもまだよくわからない)。そこで重要なのは、考えをある一定の方向に導いたり、一定の枠のなかに制限しようとしたりすることではなく、自由に動き回るそれの流れを自分自身で追いかけて、そのなかに気づき――自分がいま何かに気づいた、何かそれなりの厚みを持った印象を受けた、という気づき――を得ることである。要するに、生活のなかで遭遇する外界の事物の連なり、その持続のなかに生まれる起伏を観察するのと同様、自分の内側の精神の動きのなかにも描かれている起伏を観察するということが肝要なのだ。このようなことを考えていたところ(繰り返すが、それは考えようと意図して考えたのではなく、自然と頭のなかで言葉が巡るうちに湧き生まれてきたものである)、「偽日記」で紹介されていたパースbotの文言のなかに、こうした事柄と同趣旨のことを言っているのではないか、あるいはそうでなくとも、少なくとも関連はしているのではないかと思われる文章があったので、それをここに引いておく(本来これは、三日の日記に書きつけるべきことなのだろうが、忘れてしまいたくないので)。《思考は意識の中にあるものとして想定されることが多い。しかし実際は、思考を直接意識することは不可能である。思考とはむしろ、文章がそれに従うのと同様に、意識が従うところのものである。それは、現実化され得るものが、実際に現実化されたときのあり方を決定する習慣の本性を持つものである。》、また、《「運動が物体の中にある」(motion is in a body)とは言わず、「物体が運動中である」(a body is in motion)と言うのと同様に、思考が私たちの中にあるのではなく、私たちの方が思考の中にあると言うべきである。》と言う。

 こちらはほかの皆の準備が整うのを待って、居間に立ち尽くしていると、南窓の外の、太陽の光が染み通った空気のなかを、極々小さな、粉のような虫が群れて飛び回っているのが視界に浮かぶ。何匹か入り乱れながら、柔らかい軌跡で緩く斜めに落ちて行くのが、淡雪の降るのを見ているようでもあるがこの雪は、窓枠の裏に隠れて見えなくなったと思うと、すぐにまた方向を変えて巻き戻って、宙にいつまでも漂っている。遠くでは、家屋根をいくつか越えた先に立つ木の、緑に浸されきった葉に光が灯って微風とともにゆらゆら揺れているのが、一面蝶が止まって翅を震わせているようにも映る。空には雲がいくらかあって、しばらく陽が陰るとそのざわめきもなくなってしまうのだが、そうすると今度は、青空の山際に嵌まっている雲だけに光の感覚が残って白さを純化しているのが、随分と明るく際立つのだった。陽がまた現れて大気が仄かに色づけば、ふたたび輝きによって象られた蝶々たちが騒ぎはじめる。

 こちらの意識のなかでは、本を読むのが好きだという言明には、あまりぴったり来ないものを覚えるものである。もはや自分にとって読書は、そして作文は、好きとか嫌いとかいう腑分けに適合する事柄ではなく、単純に生活であり、(義務としてではなく自発的な使命のようなものとして、あるいは自分自身に対する責任として)やらなければならないことなのだ。

 そうして、モニターの前に座っていたために身体がちょっと固くなった感じがしたので、身を休めようとベッドに移って金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読みはじめた。この小説を読んでいてもやはり、退屈でつまらないというわけでもないが、取り立てて面白いと感じるわけでもなく、特段の感想も浮かんでこない。気になる事柄がまったくないわけでもないが、強い印象を与えるものではなく、そのことについて考えようという意欲を起こさない。先ほど読んだ過去の日記のなかでは、(……)さんの小説を読みながら気になった箇所のいちいちを取り上げて熱心に注釈を付しており、文を読むあいだに今よりも遥かに様々なことに引っかかりや気づきを覚えていたことがわかるが、今ではそうしたことができなくなってしまった。寝床で小説を読んでいるうちに、段々と瞼が下りはじめた。それで時計を見やって四時五〇分の時刻を確認するだけして、目を閉じ、布団を引き寄せて身体に巻き、休むがままに任せた。六時頃だったろうか、日暮れに至っても雨は続いており、しかし雲の裏の太陽の色もちょっと混ざっているのか、鈍く白濁した空には黄色か赤の色素も微かに窺えるようだった。部屋が暗んでいくなか電灯も点けず、寝床には七時一五分まで留まったのだが、そのあいだ何度か天井が鳴った。夕食の支度をしなければならないことはわかっていたが、やる気がまったく起こらなかった。六時半頃になるともう特に眠くもなく、目を閉じている必要もなかったのだが、とにかく気力というものが身に湧いてこなかったので、じっと動かないまま眠りに落ちることもなく瞑目し続けた。七時一五分に至ると食事を取りに行くかということで起き上がり、上階に行った。メニューは鯖のソテーにシチュー、茄子の味噌和えとモヤシだった。鯖を付け合わせにして米を食らうあいだ、テレビはテレビ東京『YOUは何しに日本へ?』を映しており、八二歳に至って日本人と国際結婚したスウェーデン人とか、大企業の副社長を辞めて田舎に移り住み、自給自足の生活を学ぶために奄美加計呂麻島を訪れるフランス人などが紹介されたが、詳細は省く。食後はすぐに入浴に行き、雨の音が窓から響くなか、冷水シャワーを下半身に繰り返し浴びせた。出ると緑茶とバターサブレを用意して自室に帰り、一服しながら(……)さんのブログを読んだ。九時に至るとさらに、数日前の新聞から情報を写し、続けてサルトル書簡集の書抜きも行った。ナポリの街路の特徴――小さな断片的な事物の集合によってその意味が成り立っており、刻々と異なった様相に移り変わって、ローマの街路のように一つの固定的な意味を持ち合わせないと言う――を批評的に分析しているのを写しながら、このように物事に触れて芸術作品を鑑賞するかのようにその特質を批評的に見極める眼力をぜひとも身につけたいものだなと羨んだ。この手紙は一九三六年だからサルトルは三一歳の時に文章を書いたことになるが、自分もあと三年でそうした鑑賞眼を持てるものだろうか? 以前はとにかく毎日の生活を、そのなかで感知したことを文章として書き続けていれば自分は自ずと成長できると信じており、実際そうだったのだが、病気のことがあって精神の鈍麻を招いた現在では、そうした単純な進歩主義からはいくらか説得力が欠けている。定かにものを感じるという感覚がないものだから、知識や経験が自分のうちに入りこみ、積み重ねられ蓄積されていくことで自分自身が変化していくという感じもなくなってしまったようなのだ。書抜きのあいだには、Donny Hathaway『Extension Of A Man』を流しており、七曲目、"Love, Love, Love"が少々気に入られて繰り返し流した。また、緑茶を何度もおかわりして飲みまくり、六杯は飲んだと思うのだが、それだけ摂っても心身にまったくカフェインの作用を感じない。不思議なことに、病気以来精神だけでなく身体のほうも鈍感になったようで、疲労感とか肉体の凝り固まりなども以前よりも薄いのだ。書抜きのあとはこの日の日記を書き足して、一一時を越えた。それから古谷利裕の「偽日記」を訪れると、showmore "circus"という楽曲が紹介されており、記事にリンクが貼りつけられていたスタジオライブの動画を閲覧した。これもなかなか悪くなかったが、こちらとしてはそこから自動的にリンクの繋がって再生の始まったSIRUP "SWIM"(https://www.youtube.com/watch?v=TmjGdJD8i5E)という曲が気に入られて、動画を繰り返し頭に戻しながら、ヘッドフォンを頭につけた状態でモニターの前で身体を揺らした。そうしているうちに時刻は零時に至った。引き続き音楽に触れることにして、椅子に腰を落ち着けてDonny Hathaway "Love, Love, Love"から聞きはじめた。以降、Keith Jarrett Trio "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)、"I Hear A Rhapsody", "Little Girl Blue", "Solar"(『Tribute』)、Bill Evans Trio "Solar"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』)に耳を傾けた。一曲の演奏時間が長いのでそれでもう一時を迎えて、そろそろ床に就くべきだったが、眠る前に金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読み出すと、そこからまた一時間ほど物語を追ってしまい、明かりを消すのは午前二時になった。布団のなかでのことは覚えていないから、わりあい寝付きは良かったのではないか。



朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年

 そしてこれがナポリの街路がどんなものであるかということだ、つまり右や左に薄暗い洞穴が立ち並ぶ、爽やかで、しかも臭気にみちた間道〔家々のあいだを貫き通る、いわば街中の切通し〕、まったくムフタール通りと同じように人々がざわめきうごめきながら雑踏する間道であり、おびただしい数の物が人々の頭上に張りだし、垂れさがり、揺れていて、その動きは街頭の人々の動きを、二階より上の階で繰り返しているのだ。そして時どき、大きな白いシーツが干してあって頭上に垂れさがり、風が吹くと船の帆のようにふくらむ。あるいはまた、日よけの鎧戸、ペンキを塗った美しい鎧戸であって、そのあるものはこまごました物語を語っている。ある意味で、これらの街路はみな互いに似ている。しかしそれでいて、きわめて変化に富んでもいる。第一に、街路は初めに全体の展望を人にあたえたかと思うと、見る間にこまごました挿話的な細部に分散してしまうからだ。そのため同じ街路を十遍通っても、同じと気付かないほどだ。ナポリの街路はローマの街路のようにそれぞれが一つの意味を持ってはいない、その街路全体に附属していて、他のすべての街路からそれを区別し、そこの住人にさえ認めさせる一つの意味を。というのも、それらはローマの街路のように窓の少ない壁〔立ち並ぶ建物の外壁〕――その色と高さと方向がその街路固有の意味を成り立たせる壁――で構成されてはいないからだ。ナポリの街路を構成するのは、人々であり、移動する屋台店であり、一日中垂れさがっているが乾くと突然姿を消す洗濯[ほし]物、要するに動き廻り、過ぎ去る事物なのであり、それは一つの均衡をもたず、絶えず形成されては崩れる小さな断片の集合なのだ。ルワンのシャレット通りが、午後ほとんど人けのない時と、晩方に大勢の水夫たちがぶらついている時とで、どれほど異なるかを思い出してもらいたい。そうすれば、ナポリの街路で一日に百回も起こることを(end91)少しは想像することができるだろう。そういうわけで、ぼくたちがここで散歩するとき、別の街路を通っているのか、それとも様相の変わった同じ街路を通っているのか、決して判らないのだ。ぼくたちはそれぞれの街路を一日のあらゆる時刻に散歩したいものだと思った。朝、あらゆる小職業が屋外で活動している時、午後の暑い時刻、男たちが椅子の上にまたがり両腕を椅子の背にもたせ頭を両腕の中に埋めて午寝[ひるね]をしており、母親たちは倦み疲れた様子で子供の虱をとっている時、夕方、食卓を街路に持ち出して人々が食事をしている時、夜、すべての鎧戸がとざされ、すべての胃がふたたび体内に戻り、そしてもはや二つの大きな裸の壁のあいだに人けのないじめじめした不潔な場所しか残っていない時に……。(……)
 (91~92; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)

     *

 (……)ゲーテ街を上って行くと、ぼくの後で誰かがおならをするのが聞こえた。何の不思議もないことだ。ぼくはふり返らなかった。ところが、次から次へと何百とないおならが音高く続く。ぼくはおなら狂を見ようとしてふり向き、鳥打帽をかぶった、人相のよくない蒼い顔の、大きな赤い手をした男を見た。その男は自分のおならに悪態を[﹅3]つき始めた。《下種[げす]ども、いいかげんにしろ。うんざりだ、云々》と言うのだ。彼が悪態をついている間は、おならはやむ。しかし彼が黙ると、一段とさかんに出る。彼は言った、《てめえら、おれをなぶりものにしやがって!》 《こいつは、いっしょに笑うためには信じるほかないって奴だ[﹅26]》。彼は気が狂っているに違いない。幻覚における呼気の役割を研究したラガッシュも、おならの役割を研究することまでは考え及ばなかったに違いない。グロテスクではあったが、男は苦しんでいたし、極めて険悪な顔つきだったから、いささか無気味だった。ぼくは帰って寝た。彼はおならを続けながら、そしてぶつぶつ言いながらぼくの前を通って行った。そしてホテルの呼鈴を鳴らしているぼくに言った、《どうだ? 哀れな男だろ?》
 (129; ボーヴォワール宛; 1937年5月2日日曜日夜)

     *

 (……)ぼくはあなたへの愛情にしっとりとひたりきっている。(end157)あなたが一人でマルセーユや車中やストラスブールにいて、ぼくが一人でパリにいたあの夜とあの昼の間、ぼくは絶えず内面であなたと一体になった自分を感じていた。あなたに話しかけている気がしたし、ぼくの考えることは、すべてあなたに語りかけているように、というより、あなたがぼくと一緒に考えているように思われた。列車の中でも、二人の意識が融合して一つになってしまって、リヨン市あたりの大地と空の間をふわふわただよい、肉体は二つのロボットみたいに、一方はマルセーユの街を、一方は列車内の通路を、外見は忙しそうに、しかし中身は空っぽで、歩きまわっているところを想像したら、とても愉快だった。(……)
 (157~158; ボーヴォワール宛; 1937年9月15日)