2018/12/22, Sat.

 例によって怠惰に、長く床に留まる。一一時起床。クリーニング屋に出かけていた母親から、雨が降ってきたようなので洗濯物を室内に入れてほしいとの電話があって、それで寝床を抜け出す。寒々しいような曇天。食事は混ぜご飯、菜っ葉の味噌汁、林檎。
 一時前外出。傘持たず、立川の家に贈る大根や菓子の入った袋を提げる。一面真っ白で偏差のない空。裏通りの途中から雨が降り出す。森にはくすんだオレンジ色が諸所に差し込まれている。雨粒の染みをシャツの上に作りながら歩く。
 一三時二五分発東京行き。電車内では新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』を読み進める。
 Yさん(叔母)と立川駅グランデュオの前の時計下で待ち合わせをしていた――母親が先日立川の宅に忘れたマフラーを受け取るためである。改札を抜け、グランデュオのほうに歩いていると、待ち合わせ場所に着くまでもなく前方から声を掛けられた。Yさんである。調子はどうかと問われたので、まあまあと返す。マフラーは「身延山ロープウェイ」と記されたビニール袋に入っていた。前日にYの運転で身延山まで行ってきたと言い(三時間ほど掛かったらしい)、マフラーとともにその土産――「桔梗信玄ビスキュイ」――をくれたのだ。山梨県身延山とは、日蓮宗の総本山久遠寺がある場所である。あとで聞いた話によると、六月頃にYちゃん(叔父)が身延山に「修行」に行き、庭石を一つ貰ってきてYが教員になれるように願掛けをしたのだと言う。霊験あってか、Yは見事教員採用試験に合格したので、その御礼参りに行ってきたとのことだった。
 夕飯を食べに寄ったらと誘われたので了承し、あとで連絡することにしてYさんと別れ、北口のルノアールに。南武線が遅れているので先に店に入っていてほしいとAくんから連絡が入っていた。それで入店し、三人掛けが空いていなかったので、ひとまず二人掛けの席に就いた。ホットココア(六五〇円)を注文し、牛乳の膜が薄く張ったそれを啜りながら『日本にとって沖縄とは何か』を読んでいるとAくんが現れ、それと同時にKくんもやって来た。未だ席の空きはなかったので、仕方なく喫煙席のほうに移らせてもらい、無事テーブル席を確保する。
 五時頃まで会話を交わすが、喋っているのは大方Aくんで、こちらとKくんは聞き役に回っていることが多かった。最初の話題はAくんがいま読んでいる塩野七生ローマ人の物語』シリーズについてだった。ネロ帝が実母アグリッピーナを殺した時のエピソードなどが紹介される。ローマ史の話を聞いているあいだ、そう言えばアントナン・アルトーローマ皇帝を題材に小説を書いていたなと連想が働きながらもその名を思い出せなかったのだが、これは『ヘリオガバルス、または戴冠せるアナーキスト』という作品で、もう随分前だが、書き出しがすこぶる格好良いとMさんがブログに書抜きを載せていた覚えがある。ほか、Aくんの好きな大河ドラマの評価など。彼は二〇〇一年から欠かさず大河ドラマを見ているのだが、今期の『西郷どん』は終わり方があまり良くなかったとのこと。今まで見たなかで最も評価するのは『平清盛』で、前期の井伊直虎の物語も良かったと言う。清盛に関しては、父親の代から権力や政策を受け継いで行く過程が丁寧に描かれており、直虎に関しては、一族滅亡の危機からほとんど知略のみを武器に戦国の世をともかくも生き残って行くというのがリアルだったのとこと。ローマ史のエピソードにしても、大河ドラマのそれにしても、Aくんの語りを聞きながら、良く覚えているものだなと感心させられた。ものを読んだり見たりして印象に残るということがあまりなくなってしまったいまの自分には余計にそう思われる。
 また、『ハリー・ポッター』シリーズや『ロード・オブ・ザ・リング』についても言及された。Aくんはこれらの作品の熱心なファンで、登場人物の生没年など設定を細かく調べたりするのだと言う。逆に言えばこれらの物語は、世界観の設定がそのように細かく辿れるほど緻密に組み立てられているわけで、Aくんの評価ではそのクオリティはやはり一つ頭抜けており、それと比べるとそのあたりのファンタジー作品はチープに思えてしまうとのこと。『ロード・オブ・ザ・リング』の作者であるJ・R・R・トールキンは、一九世紀生まれの文献学者かつ軍人であり、それを聞いたところでまたもや連想したのは『千夜一夜物語』を英訳したリチャード・フランシス・バートンで、彼も大英帝国の軍人かつ言語学者という身分だったはずだ。この人に関しては、イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』という小説作品が扱っているようで、前々からちょっと読んでみても良いかもしれないと思っている。
 Aくんはまた、最近は日本の名城百選のスタンプラリーを行っていると言い、そのなかから多賀城碑の写真を見せてもらった。多賀城というのは宮城県にあった砦で、奈良時代あたりに蝦夷討伐の拠点となった城塞である。Aくん、Kくんとも古代日本に興味があるらしく、次回の会合の課題書はそちらの方面が良いかもしれないという話になった。
 こちらの変調で中断していた月一の読書会を再開することに。五時頃にルノアールを退店して書店へ。高島屋淳久堂である。初めは日本史の棚をちょっと見分したのだが、講談社学術文庫などのほうが良いのではないかということになって新書や文庫の区画へ。諸々見て、大津透『天皇の歴史 1 神話から歴史へ』を読むことになる。日程は一月一四日月曜日。成人の日であり、こちらの誕生日でもあるのだが(二九歳になってしまう)、アピールするのが嫌だったのでそれに関してはおくびにも見せずに黙っていた。その後、ちくま学芸文庫などを見分して六時頃退店。
 このあと、Aくんは立川の映画館で『ボヘミアン・ラプソディ』を見る予定があり、Kくんは飲み会に向かうために六時一三分の電車に乗らなければならなかった。駅前まで三人で歩き、まずAくんと別れる。その時点で電車まで三分ほどしかなかったので残った二人で小走りになり、ルミネの入り口でKくんに慌ただしく挨拶をして別れた。ルミネに寄ったのは、立川の家を訪問するのに土産を求めるためである。地下一階まで下りて用を足してから、一階に上がって多種多様な甘味の店のあいだを練り歩く。過去、こちらがA家を訪問する時には、よくロールケーキを買って行った。それで今回もそうするかと思ったが、ロールケーキを売っている店があまり見当たらない。「東京ミルクチーズ工房」という店だったか、そこに「マロンロール」が売っていて良さそうだったが、立川の家族五人の分と考えると少々小さく思われた。それで迷いながらも、「ユーハイム」のバウムクーヘン、ショコラ味のが七つ入っているものに最終的に決定した。一〇八〇円で、比較的安上がりである。そのほか、グランデュオのなかにある「銘菓銘仙」で、「ポーム・ダムール」(林檎のチョコレート)なり八ツ橋なりをさらに求めようかとも思ったのだが、寄るのが面倒だったし、既に母親から菓子を贈っていることもあったので、ほんのちょっとのものだが今日はバウムクーヘンだけで良かろうと定めた。Yさんにこれから伺いますと連絡を入れて、街を渡り、柴崎町へ。
 招かれて炬燵に脚を下ろす。Yちゃんには、先日よりも顔色が良くなったようだと言われた。食事のメニューは、温かな豆腐、南瓜の煮物(冬至なので南瓜にしたとYさんは言った)、大根の甘酢漬け(Yちゃんは「かぶら」と言っていたが、うちから贈った大根のはずだ)、豚肉の味噌焼き、肉うどん。飲み物はコーラを何杯も頂き、うどんもおかわりして良く食べた。
 いとこ三人のうち、いたのはYのみで、KとK子は不在だった。Kは仕事だが、週末はほとんど帰ってこないらしい。何でも、彼女のところに泊まっているという話だ。彼に恋人がいるというのは初耳だったが、それがどうやら三〇歳くらいで年上らしく、それはYちゃんも知らなかったようで、もうちょっと若い人と付き合ってほしいなどと漏らしていた。
 四人で、テレビ東京出川哲朗の『充電させてもらえませんか?』を観る。と言うのは、この日の放送で我が町Oが映るという話だったのだ。既に一か月ほど前、この番組の収録で、近所のコンビニの駐車場に出川哲朗が出没したという情報は得ていた。秩父・狭山あたりから始まって、川越を経由してOへ。赤塚不二夫記念館などが映される(地元民だが、訪れたことはない――赤塚不二夫に特に愛着はないし、地元にいるとかえって行かないものだ)。その後、小池百合子都知事奥多摩湖方面へ(前述の出川が現れた日に、小池知事の目撃情報ももたらされていたのだが、まさかこの番組に出演しているとは思わず、別件で偶然Oに来たのだと思っていた)。我が家の周辺の映像や近所のコンビニであったはずの一幕は、見事にカットされていた。
 九時を迎える直前になって、Yさんが突然声を上げた。町内会の仕事で火の用心を呼びかける役目があったのだが、それをあやうく忘れるところだったのだ。それでYさんとYは外出して行き、しばらくYちゃんと二人になった。ここで少々真面目なような話が交わされた――と言うのは、こちらの病気のことなどである。毎日本を読んで文を書いていればそれで良かったはずが、文章がうまく書けなくなった、また、小説作品も作りたかったのだが、それもどうもできなくなってしまった、それがやはり一番残念だなどと話す。と言って、二日前あたりからこのようにまた日記を書きはじめているわけだ。以前のように精度の高い描写をしたり、思考をまとめて考察をものしたりということはできなくなり、いかにも日記然とした簡潔な、緩い文体で記しているわけだが、これだって捨てたものではないのではないかという気持ちに今はなっている。死ぬまで毎日日記を綴るという試みも、挫折したと思っていたが、以前のような文体や形式でそれができなくなっただけであって、完全な挫折とは言えないだろう。本当に死ぬまで毎日文章を書き続けられるのだとしたら、それが仮に一日にたった一行であっても、そこそこ大したものではないだろうか? 挫折したのはむしろ、「日記で小説をする/日記を小説にする」という試み、日々の生活のなかに小説的な、強度に満ち溢れた輝かしい瞬間を見出し、それを文章化するという営み、あるいは自分の生を隈なく(と言って勿論、自ずと限界はあるわけだが)ドキュメント化するという試みだと言えるかもしれない。そうした事細かなドキュメント化の挑戦はMさんに任せるとして、自分はいまの自分に書ける範囲でまた日記を記していこうと思っている――一日数百字程度の短いものだって、死ぬまで綴れば結構なものだろう。勿論その前に、いずれ飽きるかもしれないが。
 Yちゃんは、こちらに関して、「面倒臭え」ことを考えている、もっと楽に生きたらいい、と言った。しかしこちらの実感としては、こちらはそんなにものを考えていない――と言うか、考えたいことを考えたいように考えられなくなったのが困りどころなのだが、しかしそういったこととは離れて、Yちゃんからしてみればこちらは悩み深き青年のように映るのかもしれない。彼は、自分はもっとシンプルに生きていると言い、生きているだけでいいんだと力強く告げた。考えてもみろ、お前が生まれる時には、お父さんお母さんは、五体満足で生まれて来てくれればもうそれで良い、万々歳だったわけだ、それがあとから親がその初心を忘れて、がちゃがちゃと自分の期待を押し付けたりするからおかしなことになる、そうじゃない、生きているだけでそれでもういいんだ、というわけだが、これはなかなか説得力のある言ではないかと思う。自分も概ねそうした心境に至っているというか、プラスの情は相変わらず明確に感じられないが、かといってマイナスの情があるわけでもなく、何か苦しいわけでもないので、今の状態で、とりあえず生きているだけでまあ悪くないのではないかと、割り切り/受け入れの気持ちに至ったようだ。勿論、これに加えていくらかなりともプラスの情が自分のうちに生じてくれば、それは大歓迎なのだが。
 泊まっていけばとYさんには言われたが、この日は帰宅することにした。その帰宅が、Yのドライブ練習がてら、彼が運転する車で送ってもらうということになった。それで一〇時頃にA家をあとにし、こちらは助手席に、Yちゃんは後部席に乗り込む。立川からこちらの家までは、ほぼまっすぐな道のりだった。Yちゃんはこちらのことを、Yの車に乗るとは「チャレンジャー」だと言ったが、彼は安全運転を心掛けていて、危なげなところもなく、恐怖や緊張を覚えることはなかった。Yちゃんはまた、黙っているこちらにたびたび、声が聞こえないぞと言って、何か喋るようにと促すのだが、特に話すことも思いつかず、何を喋れば良いのかわからなかった。車内には「ニューミュージック・セレクション」とかいうような音楽が掛かっており、松任谷由実やら松田聖子やら歌謡曲の類が流されていた。井上陽水(だと思うのだが)の"夢の中へ"が掛かった時には、唯一こちらのわかる曲だったので一緒に口ずさんだ。
 自宅に着いたのは一一時過ぎだった。家に入るとドライヤーの音が聞こえており、母親がちょうど風呂を上がったところで、洗面所を開けてYちゃんとYが来ていると告げる。そのあいだにYはもうリビングにずかずかと入りこんで来ていた。母親は髪を染めたのだと言って、寝間着姿に髪の乱れた風呂上がりの格好で恥ずかしがり、こちらは玄関の戸棚からビール缶を一つ取り出してYちゃんに渡す。持って帰ってくれと言ったのだが、これはすぐその場で飲まれることになった。Yにも、運賃としては乏しいが缶コーヒーを一本贈呈し、さらに二人に茶をついだ(が、Yちゃんは酒だけで茶は飲まなかったので、彼の分はこちらが頂いた)。母親は林檎を用意し、こちらもそれをつまんでいるあいだ、居間の片隅に置かれたステレオセットに目を留めたYちゃんは、これはいいねとしきりに繰り返した。それでセットされていたBee Geesのレコードを流したりしたあと、一一時台も後半になって二人は帰路に就いた。母親と二人で外に出て去っていく車を見送ったあと、入浴。
 その後、久しぶりに三時過ぎまで夜更かしをした。二時頃に自慰をしたのだが、これがまったく気持ち良くなかった。一応射精はできるのだが、性欲はほとんどないし、もう性的な快感を味わえなくなってしまったのだ。それから本を読みたい気分になって、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』を読み進めたあと、三時一〇分に消灯した。仲間三人でFに飲み会に行っていた父親も、多分そのあたりまで起きていたのではないか。