2018/12/28, Fri.

 一二時まで長く寝坊する。上がって行くと台所で茹でた蕎麦を洗っていた母親が、まったくもっと早く起きて手伝ってくれないと、と苦言を呈して来た。まったくその通りで、情けないことで、反論のしようはない。蕎麦と天麩羅(エノキダケ、搔き揚げ、薩摩芋)、前日のサラダの残りに林檎を食べる。料理を手伝えなかったので、皿はすべてこちらがまとめて洗い、風呂も洗った。
 緑茶を注いで下へ。一時。Fabian Almazan『Alcanza』を流す。それで書抜きを読み返して、知識を頭に入れようと試みる。二四日から二六日まで。それから、毎日新聞琉球新報)の、「「戦略的必要性ない」 在沖海兵隊に元米軍高官言及 90年代分析 日本の経費負担好都合 /沖縄」という記事も読む。「日本政府が多額の駐留経費を負担する在沖海兵隊カリフォルニア州での経費より米側の負担は50~60%安く済む」「沖縄の海兵隊駐留に正当な戦略上の必要性はないことが示された。(駐留は)全てお金と海兵隊の兵力維持のためだった」と言う。
 二時過ぎから、大津透『天皇の歴史① 神話から歴史へ』を書抜き。BGMはFabian Almazan『Personalities』『Rhizome』と移して、三時前から日記。前日の記事は出かけたために書くことが多くて、九〇〇〇字ほどを数える。BGM、FISHMANSに移行しつつ書き、この日のことも記して現在は五時前。既に外は暗く、空には仄かな紫色が混じっている。
 上階へ。母親はまだ帰ってきておらず居間が真っ暗だったので、食卓灯を灯し、カーテンを閉める。それからアイロン掛け。その後部屋に一度戻ると母親の帰宅した音がしたので玄関へ。荷物を運び込む。それから買ってこられた小松菜を茹でるために、フライパンに入っていたベーコンと大根の葉の炒め物を小皿へ。フライパンに水を注ぎ、火に掛ける。沸騰を待つあいだに小松菜の、少々突出した白い根の周りを指で擦って泥を落とす。沸騰したら湯を零し、キッチンペーパーを使って汚れを拭き取る。焦げで黒く染まったペーパーを捨て、もう一度水を汲んでふたたび加熱。小松菜は大きかったので半分に切断して投入。しばらくして洗い桶に取り、水で濯ぐ。
 余っていたエノキダケで汁物を作ることに。キノコを切り分け、小鍋の湯に投入。ほか、小さな豆腐も入れて、出汁と醤油で味付け。それから、昼間の天麩羅の、搔き揚げのタネが余っていたので、これをお好み焼き風に焼くことになった。水と粉を追加して、人参や春菊などが含まれたそれをフライパンに広げる。ヘラで液状のタネを搔き出す横で、母親が箸でフライパンのなかのものの形を整える。弱火にして火に掛けておき、そのあいだにサラダを拵える。もう随分と小さくなっているレタスの葉を最後の部分まで千切り、大根をスライサーで下ろして洗い桶のなかで合わせる。ほか、トマトを切り分け、母親が野菜を笊に上げたところに、縁を彩るように円状に配置しておいた。お好み焼きはその頃にはもう焼き上がっており、食事の支度は仕舞いとして自室へ。時刻は六時。Queen『Live Killers』を流す。インターネットを回って少々時間を使ったあと、"Love of My Life"など歌いながら、日記をここまで書き足す。佳曲である。
 書抜きの読み返し。Uさんのブログから、「気分と調律(2)』も読む。考察の理解が難しかったので集中するために音楽は途中で消した。さらに、「悪い慰め」というこの日新たに発見して読者登録したブログから、「読書日記(2018-12-26)」も読む。そうしてまた、Mさんのブログの最新記事。そこまで読んで八時過ぎ、食事へ。天麩羅の残りをおかずに米を食い、その他お好み焼き、サラダ、玉ねぎ混じりの薩摩揚げ、汁物。テレビは『爆報!THEフライデー』。テレサ・テンの死の真相とか、ジャイアント馬場の死体隠蔽の真相とか(「真相」ばかりだ――人間という生き物は、「隠されていたものが明るみに出る」という事柄に弱いのだろうか)放映しているが、この番組に特段の興味はない。食後ちょっと休みながら、椅子に就いたままぼけっとそれを眺めて、それから皿を洗って入浴に行った。腰の両側が痒く、ぼつぼつと赤い発疹が広がっているのにその上からまた搔いてしまう。その他脇のあたりや二の腕の周囲なども痒く、全体的に肌が荒れている年の瀬である。出てくると即座に自室に帰り、過去の日記を読み返した。二〇一七年一二月二六日から、フーコーの言葉――「自己をひとつの芸術品/技法の対象[objet d'art]にすること、それこそが価値あることなのです」。このようにして日記を書くというのは明らかに一つの「技法」である。その対象はまさしく自分自身であるわけだが、己の生を出来るだけ隈なく記し、それに目を配る[﹅4]ことで、文章の鑿によって自己を彫琢し、「ひとつの芸術品」のように変容/洗練させていくことができるだろうか? 二八日の日記からは、だいぶ長くなるが良く書けていると思われる二箇所を引用しておきたい。このような透徹した分析/考察をまた書けるようになりたいものだが、この日の勤務中に訪れている緊張の高まりが、今から思えばその後の変調の端緒だったのだろう。読み返しのBGMはQueen『Made In Heaven』。"I Was Born To Love You"は大層人口に膾炙していると思うが、何だかんだ言って快活で力強く、乗せられて身体を動かす。

 勤務中、この日は目立った出来事があった。と言っても外界的なものでなく、こちらの内部における出来事に過ぎないのだが、久しぶりに突如として緊張が強まってくるということがあったのだ。発生したのは勤務を始めた序盤、おそらく一〇時になるかといったあたりだったように思う。生徒と向かい合って喋っていると、本当に突然、緊張感が高まってきて、そうなると落着いてゆっくりと喋っていることなどできないのでその後の発話もなおざりなものになってしまい、早めに切り上げて一旦その場を引き、自分の心中/身中の様子を観察した。まず、この時の自分の状態として明確に観察されたのは、分離感[﹅3]である。自分の心身が緊張に追いやられて[﹅6]いるのはまざまざと感じており、ことによるとそれがコントロールできなくなり/抑えきれなくなるのではないかという危惧もあったものの、我が身に生じている変事が対岸の火事めいていて、危機感が迫ってこなかったのだ。つまり、自分の身体が何か勝手に[﹅3]本来の状態から逸れているな、というような感じで、今回の出来事はパニック障害が盛っていた頃の症状の発生と感じとして似ていたとは思われるものの、危機感がないということ、緊張に伴って恐怖というものをほとんど覚えなかったということが、今までの精神症状と異なる重要なポイントだと思われる(これは、自己を相対化/対象化する能力の向上を意味しているのではないか)。ただ、そうは言っても、このまま発作のようになったら当然困るという判断もあり、財布のなかにただ一つのみ残っていたスルピリド錠を飲んだ(これで手持ちの薬剤はすべてなくなったわけだ。現在のところは、もう薬がなくても大方大丈夫だろう、どうにかなるだろうと思っているが、今回のような事態に備えて、頓服用に数錠は貰っておいても良いかもしれない)。これは不安を鎮めるのではなく、気分を持ち上げるタイプの薬だったはずだが、それが効いたのか否か、実際時間が経つにつれて、いくらか気分が上向き、口調なども微妙に明るくなっていたようだ。
 もう一つ、症状の目立った特徴として発見されたのは、座ると緊張が増し、立っていると比較的収まる、ということだった。体位の違いによって一体どのような要因が生じているのか、不思議なことだが、これは間違いなく観察された事実である。そういうわけで、立ったままに呼吸を深くして精神を落着かせるようにして、状態が改善されるのを待った。薬を飲んだこともあってか、回復は早く、二時限目には平常に服していたと思う。
 今回の事態を招いた要因としては、やはり眠りの少なさがあったのだろうか、という気がしないこともない。しかし、ヨガの真似事をしたおかげで肉体はほぐれていたはずで、症状の発生していた前後も、意識が眠気によって濁っているということはなく、むしろかなり明晰なほうだったと思われる。頭が晴れているために時間の流れがゆっくりと感じられ、まだこんな時刻か、時間が過ぎるのが遅いなと思った覚えがあるのだ。以前にも記したと思うが、精神が明晰であるがゆえにかえって、不安や緊張を招き寄せるような余計な意味の断片をも明瞭に拾い上げてしまう、ということがあるのでは、という気もする。もう一つには、ヨガの真似事をしたことで肉体の状態が何らかの形で普段のそれから変容していたのではないか、ともちょっと考えられた。具体的にどうということは勿論わからないが、座位と立位によって緊張の度合いが変わるというのは、何かそのあたりが関係していたような気がしないこともない。
 また、この時自分が何に対して不安を覚えていたのか、ということを考えるに、それはやはり、他人とのコミュニケーションなのではないかと思う。座位と立位の差異も、こちらの肉体内部の要因を措いて、相手との位置関係の面から捉えてみると、椅子に座った状態では相手と同じ目線の高さで正面から向かい合って顔を合わせることになる一方、立っていれば、座っている相手をやや見下ろす感じになり、相手がこちらをまともに見上げてこなければその表情も見づらく、視線が合うことも少なくなる。そのような形で、立位においては少々相手との距離が生まれることになるのではないか。
 それでは他人とのコミュニケーションの何が怖いのかと言ってそれも良くわからないが、やはりそこにおいて生じる齟齬ではないかというのが、ひとまずの仮説である。この点自分は、対人恐怖的な(あくまで「的な」に留まるわけだが)性向を備えており、ある程度の大きさを持った「衝突」ばかりか、微細な「齟齬」すらもまったくないユートピア的な(ロラン・バルトが、『いかにしてともに生きるか』でそのようなユートピア的な共同体の可能性を探っていなかったか。あるいは、「可能性を探っていた」というよりはむしろ、「フィクショナルなものとして夢想していた」とでも言ったほうが正確なのかもしれないが)人間関係を求めている、という向きがあるのではないか。こうした精神の傾向がこちらにあると仮定してみて、しかしそれは、ある種「幼児的」で、「甘えた」ものだと言うこともできるかもしれない。なぜなら、言うまでもなく、意味/力の作用のやりとりとそこにおいて生じる齟齬こそがこの世の常態なのであり、まったく齟齬の生まれない関係など現実にはまず存在せず、そうしたものを求めるというのは、おそらく、自分を少しも傷つけてほしくない、という願いに平たく翻訳できるとも思われるからである。

 Uさん、返信をありがとうございます。「哲学」が「生きている」と感じられるような具体的な現場に触れられていることを、とても羨ましく思います。

 今しがた、ブログのほうをちょっと覗かせていただきましたが、なかに、「哲学に共通点などがあるとすれば、それは、問い直してはならないことなど何もないことである」という一節がありました。これはこちらにおいても同意される考え方です。「哲学」とは、気づかないうちに我々を取り囲み、外部から規定している「制度」や「常識」、そういったものに視線を向け、真っ向から対象化して吟味し、それに本当に確かな根拠があるのか、自分自身としてそれに本当に賛同することができるのかと精査する営みのことではないでしょうか。

 このようなことは最近、自分には今までよりも心身に迫って、実感として感じられるものです。一例としては、時間に対する感覚の変化があります。自分には、いつも出来る限り落着いた心持ちで、穏やかに自足して一瞬一瞬の生を送りたいという、おそらく根源的なとも言うべき欲望があります。そこにおいて、「時間がない」という焦りはまったく煩わしく、精神の平静を欠くものであり、何とかして自分の内からこのような感じ方を追い払いたいと前々から願っていました。そのようなことを日々考えるにしたがって、そのうちに自分は、そもそも時間が「ある」とか「ない」とかいう捉え方が間違っているのではないか、それはこちらの感覚にそぐわないものなのではないかと直感的に思うようになりました。我々が非常に深く慣れ親しんでいる何時何分とか、三〇分間とかいうような時間は、数値という抽象概念を外部から当て嵌めて世界の生成の動向を(恣意的に)区分けしたものに過ぎず、自分がその瞬間に感じている感覚とはほとんど何の関係もないと思われるからです。それは実につるつるとして襞のない、(ありがちな比喩ですが)言わば「死んだ」時間であり、こちらはそれよりも、自分がその都度具体的に知覚・認識している個々の時間を優先して捉えるようになり、その結果、最近では「時間がない」と感じて焦る、ということはほとんどなくなったようです。つまりは、例えばこの文章を記している「現在」は西暦二〇一七年一二月二八日の午後一一時五六分ですが、この瞬間がその時刻であることには、根本的にはまったく何の根拠もないはずだ、ということです(このことをさらに別の言い方で表すと、「未来」などというものは純粋な観念でしかないということが、自分のなかでますます腑に落ちてきている、ということではないでしょうか)。

 こうした事柄は、多少なりとも抽象的な思考をする人間だったらわりあいに皆、考えるものではないかと推測しますが、それを繰り返し思考することで、自分の「体感」がまさしく変わってくるというのが大きなことではないかと思います(驚くべきことに、「思考」には「心身」を変容させる力があるのです)。このようにしてこちらは、大いなるフィクションとも言うべき「時刻」の観念を相対化し、半ば解体することになったわけですが、勿論だからと言って、例えば約束事の時間をまったく気にせず無闇に遅刻して行くということはありませんし、労働にもきちんと間に合うように真面目に出勤しています。社会的な共通観念である「時刻」というものが所詮は「フィクション」でしかないということを理解しながら、それに従うことを自覚的に/意志的に選択しているわけです。この、選択できるようになった、という点が重要なのではないでしょうか。「時刻」を所与のものとして受け入れ、それに疑問を抱かない状態においては、時間を守るかどうかに選択の余地はなく、それに規定されるまま、囚われの身になってしまっているはずです。したがってここにおいて、非常に微々たるものではありますが、こちらの個人的な認識及び生活選択の領野のうちに、物事の相対化による「解放」と「自由」が生まれているのではないかと思います。

 「哲学」とはこのように、相対化と解体の動勢を必然的にはらむものだとこちらは考えます。しかし、そればかりでは純然たる相対主義に陥ってしまい、我々は何事も判断できず、極論すれば何も行動できなくなってしまうはずです。したがって我々は、物事の吟味による相対化と解体を通過しながら、そこから新たに、自分にとってより納得の行く根拠を見つけ、世界の捉え方を自ら「作り出して」いかなければならない。これもまた手垢にまみれた比喩になってしまいますが、このような解体/破壊と建設/構築のあいだを(日々に、あるいは、ほとんど瞬間ごとに、とこちらとしては言いたいものです)往来するその運動[﹅2]こそが、「哲学」と呼ばれる営みを表しているのではないかと自分は考えました。「哲学」とは、凄まじく動的[﹅2]なものであるはずです。

 言うまでもなく、こうした精神の運動は、人生行路の道行きのなかで程度の差はあっても誰もが体験することだと思いますが、武器として活用される言語及び意味と概念に対する感覚を磨き、高度に優れた水準でそれが行われる時、「哲学」と呼ばれるのでしょう。このようなことを考えてきた時に、自分の念頭に浮かんでくる事柄がもう一つあります。哲学は「役に立つ」のかどうか、という非常に一般的な話題が時折り語られることがあると思いますが、こちらとしては、「哲学」とは「役に立つ」云々などという穏当無害なものではなく、場合によっては「危険な」ものですらあり得るのではないかと感じられるわけです。この営みを続けるうちに、共同体の「本流」となっている考え方から次第に逸れていくということは避けがたい事態でしょうが、そこにおいて方向を少々誤れば、人々との関係に齟齬を生む独善に陥り、極端な場合には狂信者や悪辣なテロリストのような人間を生み出しかねないとも思われるからです。だから我々は、自分にとって「確か」だと思われる事柄を探し求めつつ、しかし同時に、その自己が痩せ細った狭量さのなかに籠もらないように、常に外部から多くの物事を取りこんで自分自身を広く、かつ深く拡張していくことを心掛けなければならないのではないでしょうか。

 (最近、このようなことに思いを巡らせながらこちらは、前回お会いした時にUさんが話してくれたRichard Bernstein教授(でしたよね、確か?)の発言を思い出していました。朧気な記憶ではありますが、確かそこでUさんは、哲学とは何なのでしょうと教授に尋ねたところ、物事が本当に確かなのかどうか、繰り返し考え直す[﹅8]、ということだと明快な返答を受けたというエピソードを話してくれたと思います。自分としては、教授のこの短い発言を、上に述べてきたような事柄として敷衍して解釈したいと思うものです)

 精神の変調を被ったこの頃からもう一年間が経ってしまったということに全然実感が湧かない。時間が過ぎて行くということにまるで手応えがない――ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』の一節のことが思い出される。「そんなわたしでも、一日が終われば次の日が来る。水曜日、木曜日、金曜日、土曜日……。朝には目覚め、空を見上げ、公園を歩き、ヒュー・ウィットブレッドと出会ったかと思うと、不意にピーターがやってくる。最後はこの薔薇の花。これで十分だわね。こんなことがあったあとに、死など到底信じられない――これがいずれ終わるなんて。わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……」(ヴァージニア・ウルフ/土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年)。自分がいずれ死を迎え、この意識が消失するということに現実味が感じられないのだ。
 それから、二〇一六年九月八日の記事も読み返してブログに載せておいた。過去の日記も一日一記事のペースで読み返してブログに上げ、あの場所を二〇一四年以来の自分の生の記述の蓄積場所と化し、その道行きを辿れるようにしようと思う――自分がMさんの「きのう生まれたわけじゃない」をすべて読み返したように、こちらの日記を過去からずっと読んでくれる人がもしいれば有り難く嬉しいことだ。その後、ここまで記して一〇時過ぎ。それから翌日の電車の時刻を調べる。明日は兄夫婦と兄嫁の両親と東京で食事会である。一コース一万円くらいする和食の店に行くようだ。待ち合わせは一二時、それでYahooの乗換案内で調べると、一〇時ちょうどの電車に乗れば一一時半には着くのでちょうど良い。それを知らせに上階に行くと、ダウンジャケットを羽織って炬燵に入る父親の姿があったのでおかえりと挨拶し、明日は一〇時と言う。しかし父親が既に調べて知らせていたようだ。それから自室にまた戻ってきて、今から何をしようか迷っている。本を読み進めるか、書抜きをするか、漫画でも読むか新聞を読むか。
 書抜きをした。Fenn O'Berg『Live In Japan Parts One & Two』を流しながら一一時まで(このアルバムは大して気に入られなかったので削除)。それからインターネットを回ってまたブログを探索し、「晩鮭亭日乗」というものを発見してブックマークに加えておく。歯を磨きながらその記事を読んで零時。
 眠る前に読書。大津透『天皇の歴史① 神話から歴史へ』。一時四五分までで、一三九頁から一七六頁まで。第二章「『日本書紀』と『古事記』の伝える天皇」を読み終える。読んでいるあいだ、上階では父親が宵っ張りで起きていて、テレビを前にしながら感心したように唸ったりぶつぶつ呟いたりする声や、時には拍手をしたりする音が聞こえていた。こちらが消灯してからもしばらく起きており、下に下りてきたのは多分二時半くらいだったのではないか。こちらは例によって眠りが遠く、就床から三〇分ののち、二時一五分を見たのは覚えているが、その後何とか一時間を迎える前には眠れたようである。




大津透『天皇の歴史① 神話から歴史へ』講談社学術文庫、二〇一七年(講談社、二〇一〇年)

 三輪山のふもと纒向の地には、箸墓古墳(二八〇メートル)が最初の巨大前方後円墳とされるだけでなく、それに先行する纒向型古墳といわれる帆立貝形の古墳が分布する。(……)
 (51)

     *

 「記紀」によれば、神武天皇に始まり、直系・兄弟継承の差はあれ、血縁により天皇位は継承される。つまり天皇家は始めから所与のものとして成立している。継体天皇は、応神天皇の五世孫といわれ、本当に血縁がつながっているかについて議論があるが、応神天皇の子孫であると称することによって天皇位を継承できるのであり、世襲王権が成立している。
 これに対して「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼の死後の状況を伝えている。

 更に男王を立てしも、国中服せず。更々[こもごも]相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女台与[とよ]年十三なるを立てて、王となし、国中遂に定まる。

 邪馬台国連合は、卑弥呼を共立しその呪術力によってようやく治まったが、その死後、別の男王を立てたが治まらず、ようやく台与(壱与[いよ]とも)という一三歳の少女を王として治まった。卑弥呼の宗女とあるが、卑弥呼に夫はいないので、血縁はあるかもしれないが娘ではなく、やはり呪術力が期待されたのだろう。
 ここではいくつかの国の連合が次の王を選んでいるのであり、卑弥呼と次の男王の間には血縁はない。明らかに「記紀」の伝える「天皇」家のような世襲王権は未成立である。王権の次元が違うことに留意すべきである。つまり天皇家がここに成立したとはいえず、世襲王権の成立にはなお時間が必要であろう。
 (53)

     *

 箸墓については、古墳としてはきわめて例外的だが、『日本書紀』の中に伝承がのる。崇神紀十年九月に、大物主神[おおものぬしのかみ]の妻となった、倭迹迹日百襲姫[やまとととびももそひめ]が、夫の姿をみたいと頼み、小蛇であることをみて驚いてしまい、大神は恥じて、御諸[みもろ]山(三輪山)に還ってしまう。そこで倭迹迹日百襲姫は箸に陰部を撞いて死んだという三輪山伝説である。
 (54)

     *

 律令国家におけるレガリア(威信財)、そして今日にいたるまでの天皇位の象徴は、八尺瓊勾玉[やさかにのまがたま]・八咫鏡[やたのかがみ]・天叢雲剣[あめのむらくものつるぎ](草薙剣)という玉・鏡・剣の三種の神器である。(……)
 『古事記』においては、国譲りがすんだあと、天照大御神[あまてらすおおみかみ]・高木の神(高御産霊[たかみむすひ])の命令で、天孫ヒコホノニニギに対して「この豊葦原の水穂の国は、いまし知らさむ国ぞ、と言依[ことよ]さしたまふ。かれ命のまにまに天降るべし」と詔して、地上の世界に降らせる。このときに、アメノコヤネの命以下「五[いつ]の伴緒[とものお]」という五人の神を従者としたうえで、

ここに、そのをきし八尺[やさか]の勾璁[まがたま]・鏡、また草なぎの釼、また常世[とこよ]の思金[おもいかね]の神・手力男[たぢからお]の神・天[あめ]の石戸別[いわとわけ]の神を副[そ]へたまひて、詔らししく「これの鏡は、もはらあが御魂[みたま]として、あが前を拝[いわ]ふがごとくいつきまつれ」

として三種の神器をニニギに与え、天皇が「天の下」を統治することの正統性を示すものと(end56)位置づけられている。いわゆる天壌無窮[てんじょうむきゅう]の神勅(『日本書紀』第一の一書に「宝祚[あまつひつぎ]の隆[さか]えまさむこと、当に天壌[あめつち]と窮[きわま]り無けむ」とあることからいわれる)とともに三種の神器が与えられるのであり、ニニギの子孫が代々皇位を継承することを象徴するものとしての三種の神器の起源を語る神話である。
 (56~57)

     *

 古代の天皇代替わり儀礼としては、即位式大嘗祭がある。前者は平安時代になって詳しくわかる儀礼がきわめて中国的なものであるため、従来即位式は新しく導入された儀式だと(end59)考えられてきた。しかし実際には平安時代になると、天神寿詞の奏上は大嘗祭のときに行なわれるようになる。また鏡剣の奏上は、譲位の直後に天皇から皇太子へ宝物を渡す践祚儀として、後日に行なわれる即位式とは別の儀礼が成立する。
 践祚儀とは、剣璽渡御[けんじとぎょ]の儀ともいい、三種の神器のうちの剣と璽(玉)および大刀契[だいとけい](節刀や関契[かんけい])が皇位継承者に渡され、譲位と同時に空白なく皇位が継承されたことを示すもので、平安時代には鏡剣の奏上は即位式では行なわれなくなった。
 (……)
 (……)即位式は、『延喜式』などでは毎年元日に行なわれる朝賀儀[ちょうがのぎ]とまったく同じ儀式次第であるとされ、ともに大極殿の高御座[たかみくら]に出御した天皇を群臣が拝礼するもので、朝賀は毎年年頭における即位式の再現、関係の確認であると考えられる。しかもその拝礼は、本来は四拝といって跪いて両手を地面について拝み拍手をする、日本固有の宗教的意味もあるミカドオガミであった。したがって即位式は、中国的儀礼として成立したのではなく、古くからの正月に壇を設けてそこに登って即位する伝統を継承していることがわかってきた。大嘗祭よりも即位式の方が王位継承儀礼の中心であるとの意見もある。
 (59~60)

     *

 なぜ剣と鏡とが大和王権のレガリア、王位の象徴になったのだろうか。記紀神話による意味づけ――八咫鏡天叢雲剣の伝承と天孫降臨――とは別に考える必要がある。神話はもちろん後の時代の解釈である。
 ここで想いおこされるのは魏の皇帝が倭王卑弥呼に下賜したのが「五尺刀二口」と「銅鏡百枚」であったことである。「魏志倭人伝」の中でももっとも史料的価値が高いと考えられる、卑弥呼朝貢に答える景初三年(二三九)十二月の詔書の最後の部分にみえる。(end62)
 (……)
 この詔書で、卑弥呼は、「親魏倭王」に任じられ「金印紫綬」を賜り、魏の臣下となり官職に任命された――これを冊封という――ので、それは魏の権威により倭王の地位を国内・国外に認めさせるためだった。まさにその目的で刀と鏡を特に賜り、刀・鏡は「汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし」とあるように魏(国家)が卑弥呼に権威を与えたことを示すための宝物であり、倭王側の要請により特に下賜されたのだろう。
 五尺刀はおそらく王権のシンボルとして用いられ(卑弥呼と男弟の二人分か)、「銅鏡百枚」は、朝廷から下賜された三角縁神獣鏡が全国の古墳から出土していることから、各地の豪族に配布され、地方の首長の権威を支えたのだろう。
 (62~63)

     *

 天叢雲剣は、草薙剣ともいう。『日本書紀』(景行紀)の伝えるところでは、東征を命じられたヤマトタケル日本武尊)が、伊勢神宮に立ちより、そこで奉仕していた伯母の倭姫命[やまとひめのみこと]から「慎め、な怠りそ」と言われて授けられた剣で、駿河に到り野の中で火ぜめにあったとき、傍らの草を薙ぎ払い、火からのがれることができたので、それを草薙剣と名づけ、その場所を焼津という。さらにその剣は今尾張国の熱田社にあると伝える。
 (65)

     *

 石上神宮は、物部氏の氏社であるとともに、大和朝廷の武器庫として有名である。(……)
 (73)

     *

 倭が百済加耶諸国と密接な関係を保ち出兵した理由は、先進技術や知識とそれを持つ人々の供与であるが、もっとも重要なのは鉄資源の入手であった。
 (78)

     *

 四二〇年、劉裕[りゅうゆう](武帝)により東晋に代わって南朝の宋が建国された。翌年の四二一、永初二年に倭は初めて宋に遣使朝貢して叙爵された。(……)
 (79)