2019/1/3, Thu.

 二時台だか三時台に一度覚めた記憶がある。その後、五時半頃にふたたび覚醒。寒さに怯んで布団のなかにしばらく留まり、五時五五分になったところで起き出し、ストーブを点けておいて便所に行った。震えながら排尿を済ませ、戻って読書。『後藤明生コレクション4 後期』より「しんとく問答」。読みながら、Twitterに感想を呟く。「『しんとく問答』収録各篇の後藤明生は歩く。歩くことから小説が生まれる。中上健次もどこかで歩かないと小説にならないと言っていた。車でさっと移動できるところを、敢えて時間を掛けて歩くから小説になると。この点で小説とは、アナログ的な形式である」。「自分の体験を綴っている点で私小説的でもあるが、しかしここには近代文学的な自意識の発露や心理の分析などは存在しない。あるのは資料(他者のテクスト)の引用による歴史的な記述と、歩き、見たものの克明な記録である。記述はこまごまとしており、日記的であるかもしれず、独特の素っ気なさがある」。「歩くところから小説が生まれるというのは体験的にもよく理解できる(こちらが書いているのは日記だが)。三〇分間散歩をすれば、二〇〇〇字くらいは書くことができよう。哲学者や作家は歩くものが多い。ヴァルザー然り、古井由吉然り」。「昭和二〇年三月と言うと東京大空襲の時期だが、同じ月に大阪大空襲もあったのだ。後藤明生の小説のなかに、ほんの一言だが出てきた」。読書はベッドに腰掛けて布団を膝に乗せ、脚を温風に晒しながらやっている。その後、最後の篇、「麓迷亭通信」。話題の移り変わりが速い。以下引用。

 (……)大阪から追分に来るようになって、もう何年になりますか。食道癌の手術を受けたのが五十五のときです。「五並びのゾロ目」は危険だといわれておぼえているのですが、いま六十四ですから九年前になります。大阪へ行くことになったのは手術の翌年ですから、八年前ということになります。追分行きは東京からよりも大阪からの方が不便です。距離も違いますが、それでも最初のうちは直行の夜行列車が出ていました。「軽井沢シャレー」とかいう夏の臨時列車で、神戸発だったと思います。全車寝台で通路の両側に二段ベッドが並んでいます。上段の方がいいと思って予約したのですが、細長い梯子の途中で足が止まりました。アナカシコ、アナカシコ、ヤンヌルカナ! 食道癌の手術は癌部を切除し、胃袋を釣り上げてつなぎ合わせるというもので、全身麻酔で九時間かかりました。『首塚の上のアドバルーン』の連作七篇のうちの第三作を書いたあとでした。雪の多い年で十二月の大雪の日に退院、数日後に地震がありました。かなり大きな地震で、幕張のマンションの十一階の仕事部屋の二段重ねにしておいたスチール製ロッカーの上段が滑り落ちて、床の絨毯に突きささっていました。退院後は小型座布団を紙袋に入れて、近くの公園や遊歩道を散歩しました。歩行訓練で、ベンチからベンチへ約五百メートル歩いては一休みするのですが、尻の肉がなくなっているので、公園のベンチにじかに坐れません。小型座布団はそのためです。入浴のときはタオルを四折りにして尻に敷きます。これはいまでも習慣化しております。歩く力はほぼ回復しました。近鉄大阪線の駅から大学まで約一キロ、学生、自転車、小型トラックなどが入り乱れる商店街を鞄をさげて歩きます。九十分授業も立っ放しで平気ですが、どうも階段がいけません。JR、私鉄、地下鉄、登り下りとも、混んでいないときはつい手摺りを使っています。二年前に改造した山小屋の階段にも手摺りをつけました。夜行寝台列車の梯子はほんの数段です。ところが三段目あたりでとつぜん不安になり、車掌に頼んで下段に替えてもらいました。(……)
 (『後藤明生コレクション4 後期』国書刊行会、二〇一七年、473~474; 「麓迷亭通信」)

 寝台列車にて、「梯子の途中で足が止ま」った理由が明かされないまま、「アナカシコ、アナカシコ、ヤンヌルカナ!」の意味不明な合いの手のような叫びが入り、その前に書かれていた癌の話題が回帰してくる。その後、それに関する記述が続いたあと、しばらくしてから突然また、先ほど取り上げられた寝台列車の梯子の話が戻ってくる。普通だったらおそらく、先の「足が止まりました」の直後に、「夜行寝台列車の梯子はほんの数段です」が続くだろう。そのあいだに癌の説明が嵌入されたようになっており、話題が互い違いに[﹅5]組み合わさっている。ジグザグ[﹅4]のような動き方。
 まだ青の深い空には、爪を押し付けた痕のように細い月が浮かんでいた。山際に塗られた朱色は、七時が近づく頃には幾分控えめに抑えられ、空は和紙のような淡さに変わり、広まった曙光によって月も星も覆い隠されて姿を消した。七時半まで読書をして、「麓迷亭通信」を読み終える。残るはいとうせいこうの解説のみである。そうして、日記。ここまで綴って八時過ぎ。
 上階へ。母親に挨拶。米がないのでパンを食べるようだと言う。食パンを焼くのが面倒臭いので、電子レンジの前にあった胡桃ロールを食べることに。ほか、ハムエッグを焼く。フライパンに油を引き、ハムを四枚敷いた上から卵を二つ割り落とす。蓋をして加熱しているあいだ、立ったまま胡桃ロールを齧る。その他即席の、赤だし蜆汁も用意。また、トマトを一つ、母親が皿に乗せてくれる。このトマトは前日、上野原のスーパー・オギノで母親が買ったトマト福袋に入っていたものである。そうして食事。テレビは和菓子の歴史などやっていた。トマトはどうかと訊かれたので、大した味ではないと答えると、その後に食べた母親も同意する。新聞、一面は改元について。新元号四月一日に公表と決まったらしい。食後、抗精神病薬抗鬱薬を飲み、母親の分もまとめて皿洗い。彼女の方は洗濯物を干している。それから風呂を洗って、ポットに湯を足しておいて下階へ。
 緑茶を用意してきて『後藤明生コレクション4』から、いとうせいこうの解説を読む。読了。印象に残っているものとしては、やはり「蜂アカデミーへの報告」が大作だったのではないか。そのほか、『しんとく問答』所収の、町を歩き式の諸篇も結構良かったように思う。そっけない文体でのこまごまとした記述が散文的・日記的(おそらく通常の意味での日記ではなく、こちらの考える「日記」なのだろうが)かもしれない。それから日記の読み返し。一年前のもの。「前日の記事を書こうと思ってコンピューターに向かい合ったのだが、頭のなかに言語が浮かんでくることそのものが恐ろしく、二、三文書いたところで、どうもこれ以上は続けられないなと判断された(……)」「自分が何を恐れているのかと考えると、まず何よりも、自分の頭が狂うことだった。頭に言語が自動的に浮かんでくるということが怖いというのもそのためで、止せば良いのに(とわかっていながら調べてしまうのが精神疾患の患者というものなのだが)インターネットを検索して、統合失調症の症状として思考が止まらず溢れ出してくる、というものがあるということを知り、自分は統合失調症になりかけているのではないか、このままだと頭のなかの言語がコントロールを失って、そのうちに幻聴のようになってくるのではないかという恐れがあったのだ」。明らかに精神が狂いはじめている。脳内の言語そのものが怖いなどと、常軌を逸しているではないか? 以下さらに、非常に長くなるが、当時の考察を引いておく。自分の「徴候」、不安障害というものを意味論的に読解しようとする試みで、一方で半ば頭が狂いながらも、他方ではこのようにして自分の変調を客体化し、明晰に分析してみせる理性が保たれていたわけだ。

 (……)気が狂うことが怖いと言って、それでは気が狂うことの何が怖いのかと考えた時に、解答として浮かんできたのが「他者」の存在である。要は、他人から、例えば彼は統合失調症なのだという風に明確なレッテルを貼られて、完全に共同体の「外」の存在として疎外されることが怖いのだと判明した(統合失調症と呼ばれる病理を現実に生きている方々を愚弄するつもりはまったくない)。もう一つのイメージとしては、自分の主体が解体し、それによってこの世界そのものも解体した時に、完全に何も見えない、何も聞こえないような、あるいはそのような「無」ではなく「混沌」の様相なのかもしれないが、ほかの人々とまったく共有できない世界像のなかに放り込まれ、その「ほかの人々」の存在すら認識できなくなり、まさしく極限的な、純粋な孤独[﹅5]に陥るのが怖い、というようなものがあった。
 これはそこそこ、意外な話ではある。と言うのも、自分は、「他者」の存在に配慮をせねばならないという多少の倫理観は持ち合わせているものの、実際のところ、わりあいに他人のことなどどうでも良く、社会の「本流」からずれていようが何だろうが、あまり致命的な迷惑を掛けない範囲でこちらのやりたいようにやらせてもらおう、というつもりでいたからだ。しかしここに至って、自分は「他者」の存在を無視できない、ということがわかった。このことから考えるに、こちらは物心ついて以来、どうも自分はほかの人々とちょっとずれているのではないかということを折に触れて感じてきたし、この社会共同体に流通している最大公約数的な「物語」に安住してやまない人々を、多少は軽蔑もしてきたと思うのだけれど、自分はことによると本当は、彼らと世界観を共有したかったのかもしれない、彼らの仲間になりたかったのかもしれない、と思われた。
 ここで話がのちの時間、風呂に浸かっていた時間のことに飛ぶのだが、主題がちかしいので、「他者」に対する恐怖についても触れておこう。風呂のなかでは、今までのパニック障害の体験からして、自分が何に不安を覚えてきたのか、ということを整理した。そのなかの一つに、「他者」の存在がある。これは「恥」の観念に結びついたものなのだが、正確には、「他者」とのあいだに齟齬を起こすこと、として帰結するものである。つまり、パニック障害の前期には、症状は主に電車のなかで発生していたわけだが、そこにおける不安の主な現れ方は、このまま呼吸が止まって倒れるのではないか、あるいは胃のなかにあるものを嘔吐してしまうのではないか、というようなものだった(したがって、大学時代には、空腹が頂点に達しても昼食を取らず、帰ってくるまで何も口に入れないという生活を続けていた時期が長くあった)。それは結局、そのようなことを招いてしまうのは恥ずかしい[﹅5]、周囲の人たちに迷惑を掛けてしまう、という危惧である。
 こうしたことを鑑みるに、自分はいわゆる「承認欲求」、他者と仲良く協調し、他者に認めてもらいたいという気持ちが結構強かったのかもしれない。そうした気持ちを持ちながらも、現実に多数の人々とのずれを感じるなかで、一方では承認欲求が強化される方向に向かい、他方ではそれを抑圧して彼らの外に出ようとするという二方向に自己が分裂し、そのあいだの葛藤がパニック障害として顕在化したと見ることもできるだろう。(……)

 (……)自分の最近の症状と言うのは、不安障害の症候そのものだったのだと気づく瞬間があった。それまでは、自分は本当に、統合失調症か何かになりかけているのではないかと危惧していたのだが、このままだと気が狂うかもしれないという不安というのは、パニック障害の特徴の代表的な例として良く紹介されているのだ。それでは、自分は根本的には一体何を恐れているのかと問うてみた時に、確かな解答はわりと速やかに出てくる。それは、不安という心的状態そのものである[﹅16]。おそらく不安障害も一番初めは具体的な何かに対する不安から始まるのだろう。しかし、症状が進むなかで不安は転移していき、次々と新たな不安の対象を発見していき(あるいは作り出していき)、最終的には不安そのものを怖がる不安不安症、恐怖恐怖症に至ってしまう。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がこのようなことを言っていたらしいのだが、これは自分には非常に納得される考えである。自分は明らかに、こうした地点にまで至っている。
 こちらが今まで不安や恐怖を感じてきた対象を大まかに区分すると、一つには上にも挙げた「他者」がある。もう一つは、「死」である。三つ目が、不安そのものである。これらに共通することは、「受け入れるしかないもの」だということである。「他者」はこちらから独立自存して存在しているものだから、その存在は受け入れるほかなく、また彼らは自分と異なった存在なので、彼らとのあいだに齟齬が生じることも仕方がない。「死」は言うまでもなく、どうやら誰の身にも訪れるものらしく、またそれがいつ来るかはわからないのだから、どうにもならない。そして不安という心的現象は、不安障害者である自分にあっては、コントロールできるものではない。
 このように、自分は「受け入れるしかないもの」を受け入れることができていなかった、それが不安の根源ではなかったかとまず考えた。これらのうち、最も根源的なものだと思われるのは、不安そのものに対する不安である。おそらく初めは、「他者」やそこから生じる齟齬そのものが怖かったはずだが、その後、病状が不安不安症と言うべき様相に至った時点で、不安そのものを軸として関係が逆転し、「他者」や「死」とは、不安を引き起こすから怖い[﹅12]という同義反復的な論理の認知が生まれたのだ。そして、ここから先が重要なポイントだと思われるのだが、不安の発生そのものを怖がる不安障害患者にとって、この世のすべてのものは潜在的に不安に繋がる可能性を持っている[﹅30]のだ。言い換えれば、彼にとっては、すべての物事の最終的な帰着先、究極的なシニフィエが不安だということである。したがって、彼にあっては、生きていることそのもの、目の前に世界が現前していることそのもの、自己が存在していることそのものが不安となる。生の一瞬一瞬が不安の色を帯び、ほとんど常に不安がそこにある状態を体験することになるのだ。
 自分がこのような状態に至っていることをまず認識した。そして、ここから逃れる方法は一つしかない。それを受け入れることである。すなわち、不安からは絶対に逃れられない、ということを心の底から確信して受け入れられた時、初めて自分は不安から逃れることができる。まるで禅問答のようだが、これがこちらの根底的な存在様式なのだ。こうしたことは、パニック障害を体験する過程で考えたことがあるし、自分はそれをわかっていたはずだったのだが、薬剤に馴染んで症状が収まるにつれて忘れていたのだろう。今回、自分は改めてこのことを定かに認識した。自分は自分が思っていた以上に不安障害患者だったのだ。ここ数日、頭が狂うのではないかなどという恐れを抱いていたが、何のことはない、上のような意味で、自分の頭ははるか昔に既に狂っていたのだ。

 そのほか、Mさんとの通話で話したフローベール文学史的位置づけについて。

 (……)まず、小説作品に「描写」的な細部がはっきりと取り入れられるようになったのが、概ねフローベールあたりからだという正統派文学史的な整理があると思う(これが確かなものなのか、それすらこちらは知らないのだが、ここではひとまずそういうことにしておいてほしい)。そうした理解では、「描写」とは現実世界の様相を緻密に、克明に写し取るための技術として認識されており、多分その後のゾラなどは実際にそういうつもりでやっていたと推測され、フローベールもゾラの先行者的な位置に置かれている気がするのだが(つまり、「リアリズム」の作家として位置づけられていると思うのだが)、しかし同時に、「描写」とはまた、物語的構造に対して過剰な細部として働くものでもあり、大きな構造に対する抵抗点として機能させることができるものでもある(絵画を遠くから一度見たあとに、近寄って様々な細部に目を凝らし、諸要素の配置を把握してのちふたたび距離を置いて眺めると、まったく違う様相として映る、そのようなイメージである)。ここで思い出されるのが、フローベールが書簡に記した(のだったと思うが)有名な言葉(と言いながら、引用を正確なものにできないのだが)、自分は何一つ言わない小説、何一つ書いていない小説を書きたいという宣言で(確か、「言語そのものの力によってのみ支えられている(だったか、「浮遊している」だったか)」というようなことも言っていたはずだ)、ここから推測するに、フローベールは現実世界のある側面を「そのまま」克明に写し取ろうなどとは考えていなかったのではないか? つまり、彼は「リアリズム」の作家などではなかったのではないか。こうした路線でフローベールを読み、正統派文学史の神話を解体しようとしているのが、蓮實重彦の試みなのではないかと思ったのだが、例の『「ボヴァリー夫人」論』も読んでいないので、確かなことは良くわからない。

 その後、ブックマークしてあるブログ類をすべて読む。Uさんのブログから――「「勇気を持って」世界に参加し続けなければならない理由は、新たな経験は不快だからである」。「しかし、恋愛漫画を読んでも恋愛が上手にならないのと同様に、いくら先人の優れた文章を読み解いても世界についての理解は深まらないことを忘れてはならない」。「ウォール伝」では、ニヒリズムを打倒するには理性と悟性に根ざした非合理的なものによるほかはない、と考察されているが、自分のいわゆる「信仰」(すべての瞬間は書き記すに値するのだという信念)はこの「理性と悟性に根ざした非合理的なもの」に相当するのではないかと思う。それはまた、欲望でもあるのか? ロラン・バルト曰く人は自分の欲望によって書くらしいが、こちらの場合、もうあまり欲望に基づいて日記を綴っているという感じもしないのだが。
 ものを読むあいだはFISHMANSの一枚目から三枚目を流していた。上階へ。母親はメルカリで売る品の準備に追われ、父親はテレビのすぐ前で箱根駅伝を視聴していた。石油ストーブの上には鍋が置かれて、醤油風味の野菜スープが熱されている。それに素麺を入れて煮込むのが昼食だと言う。散歩に出てくると言い残して、玄関を抜けた。ダウンジャケットのファスナーを首もとまで上げて歩き出す。この日も快晴の、陽の暖かな日和である。道の果てまでアスファルトは白さを帯びて、脇の草々も小さな葉の上に煌めきを乗せる。Tさんの宅の手前、あれは柚子ではないのだろうか、黄色の柑橘類がたくさん丸々と実っているのを見上げて過ぎる。風が吹いても寒さはない。
 FISHMANS "いかれたBABY"を脳内に鳴らしながら裏路地を行く。冬になって太陽が低いため視界の端に引っ掛かり、光線が斜めに入りこんで、虹色の模様を帯びたセロファンのような膜が眼球の表面にいくつも生まれる。夏にも同じものが生まれるだろうか? 道は全面日向に覆われ、底冷えのして足の冷たい室内よりもかえって暖かいくらいである。街道に出ると自転車が四台やって来たので、端に寄って彼らが過ぎるのを待ち、東へと方向を変えて歩き出す。空には擦り傷のような僅かな雲が散るのみである。正面から風が寄せて身体の前面は冷やされるが、背後は陽光が降って背に溜まるのが暖かく、身体の前後で二つの異なる感覚が同時に、混じり合わずに共存する。最寄り駅を過ぎたあたりで、部厚い風が長く、連なり流れて身を貫き、そうするとさすがに寒々しかった。ふたたび裏に入ろうとしたところが、家の建て込んだところで下り坂が全面日蔭になっていて、それを厭うて遠回りになるがまだ街道を歩く。日向のある迂回路から路地に入り、葉叢の白い木の間の坂を下って行く。坂を抜けるとまた日向がひらいて、腋の下などちょっと汗ばむくらいの朗らかな陽気が身の周りに戻ってきた。空には雪の塊のような雲が浮遊し、太陽の光を受けて清涼に白い。
 歩いているあいだに素麺が出来ているかと思いきや、両親の配置は変わっておらず、鍋もまだスープだけである。それでこちらがやろうと冷蔵庫を探るが素麺が見つからない。ところへ母親が玄関の戸棚から持ってきた。「湧水の糸」というものである(一袋一七八円くらいだったのではないか?)。鍋つかみを両手につけて白鍋をストーブから焜炉に移し、素麺を三束入れて煮込んだ。一方で豆腐を電子レンジで加熱し、鰹節と麺つゆを掛けて卓に運ぶ。父親は何故か椅子にも座らず、テレビのすぐ傍に立ち尽くして駅伝に注目していた。こちらは駅伝には特段の興味はない。早々とものを食べ終えると皿を洗い、アイロン掛けをする。両親のものとこちらのもの、三枚のシャツを処理し、ベランダに出てもう乾いたハンカチも持ってきて皺を伸ばすと、下階に戻って日記を書き足した。BGMはFISHMANS『Oh! Mountain』
 書抜きの読み返し、一二月二八日途中から二六日まで。一箇所につき二度ずつ音読したあと、文章を隠して覚えている限りのことをぶつぶつと呟き、確認する。一日に三日分ずつできれば良いのではないか。時刻は二時に到る。鎌田道生・古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』を読み出す。「テルレスの惑乱」。ムージルの記述は時に抽象的で晦渋であり、何を言っているのかわからないことがままあるが、だからと言ってそれで退屈になるのでなく、つんと鼻に利く山葵を食べた時のような、一種の痛みと綯い交ぜになった刺激の快感があるかもしれない。
 ・「公子との交際は、そこでテルレスにとって微妙な心理学的な楽しみとなった。そのお陰で彼の心の内に一種の人間を知る道が切り開かれた。それはつまり、声の抑揚、物を手にとる時の格好、いやそれどころかその人の沈黙の音色、またある空間に自分を順応させる肉体の姿勢を通して他人を識り楽しむことを彼に教えてくれたのである」(11)――「沈黙」に「音色」がある。
 ・「その当時の彼は、性格というものを全然持たないように思われた」(14)――「特性のない男」?
 ・「手の動きの中でしか彼の精神は生きていなかった」(14)→「彼はこの手紙の中でのみ生きていた」(8)――テルレスは執筆者である。
 ・「彼の全生活は、事実、自分より粗暴で男らしい友人達に遅れを取るまいとする努力の絶え間ない繰り返しと、その一方、心の奥底でそうした努力を冷淡に見つめることの連続にほかならなかった」(15)――分裂。自己客体化。
 ・「バイネベルクの体から衣服を剝ぎ取った様子を想像すると、静止したしなやかな肉体の像を心に留めて置くことはテルレスには全く無理なことであった」「その手にはなにか淫らな感じがつきまとっていた」(23)――テルレスの同性愛的志向?
 書見は五時直前まで。上階に上がって夕食の支度。まず大根を千切りにして味噌汁を作ることに。大根を煮ているあいだ、凍った雪花菜を電子レンジで熱し、解凍してボールに入れて粉状に解体する。人参をスライサーで細かく下ろし、葱や鳴門巻きも細く切る。母親が友人から貰ったという麦味噌で味噌汁に味を付けると、桜海老や油揚げがさらに混ぜられた野菜たちをさっと炒める。そこに雪花菜を追加して、水も垂らしてかき混ぜ、しっとりとした感触になるまで炒めた。砂糖、醤油、酒などで味付け。三品目は大根の葉。水を絞って細かく切り分け、ハムも同様に細く切って一緒に炒める。塩胡椒。それで支度は良いだろうと。あとは鮭を焼くらしい。
 この日二度目の散歩に出ることに。灰色のPaul Smithのマフラーを巻きつけて玄関に行くと、年賀状を郵便局に出しに行った父親が帰ってきたところだった。散歩に出ると言うと、鍵を持って行けと渡される。ポケットに入れて出発。昼とは反対方向、東側に向けて歩き出す。空には青味が僅か残っており、暗い色だが氷の壁が立ち塞がっているように澄明で、乱れなく均一なその色のなかに塵のように小さな星が埋めこまれてちらちらと光っている。坂に入ると川の響きが南側から上って来るが、そちらに目をやっても闇に包まれて流れの姿は見えない。木の間の坂を上って行く。そうして左折し、今度は建て込んだ家並みのあいだの坂を上る。途中、脇の家からぱっとセンサー式の白光が投げかけられて、路上に柵の影が浮かび、その上を斜めに伸びたこちらの影も推移して行く。歩調はやや速め。最寄り駅を過ぎて先、冬木立の遥か彼方に山が黒く沈んでおり、その影が抱く宵闇のなかに町灯りが、間隔を開けて乏しく花開いている。空気は静止しており、動きがあればすぐに冷たさとなって感じられるが、それもない。Y屋の先で左に折れて裏に入った。空が広い。坂を下ってしばらく行き、昼にも見上げた柑橘類の木をふたたび見上げ、野球ボールのような黄色の実を見つめながら過ぎる。マフラーを巻いた首の後ろが温もって、正面から風が流れても揺らがず立ち向かうことができる。
 帰宅すると、両親は玄関にいて何やら戸棚を探っていた。父親がフランクフルトを買ってきたと言う。彼に鍵を渡して自室に帰り、ここまで日記を書き足した。BGMはJimmy Rogers『Chicago Bound』。明日は図書館に行くつもりだが、きっと天気も良いだろうから電車ではなく時間を掛けて歩いて行こうと思う。また、スーパーで緑茶や油などを買うこと。
 それから、一二月二五日の日記に引用した沖縄関連の記述を読み返し。書抜きは一日の記事に基本三箇所ずつくらい引用してある。それらを読み返して行くわけだが、一日三日分できれば良いだろうと上には記したものの、この日はそれに一日分追加したことになる。さらにムージルを少し読んでから食事へ。フランクフルト・白米・大根の葉の炒め物・雪花菜・大根の味噌汁。フランクフルトにケチャップとマヨネーズを掛けて最初に食い、その後炒め物をおかずに米を頬張る。父親は入浴していた。テレビは最初ニュースが掛かっていて、熊本でまたもや起きた地震の報を伝えていた。発生から一時間ほど、まだ詳細な情報が入ってきていないようだったが、いくつか伝えられた各所の役場職員の証言によると被害はさほどでもないような印象を受けたものの、果たしてどうか。食後、皿を洗っているあいだ、母親がスルメイカをオーブントースターで焼く。それにマヨネーズを掛けて口に運び、固くて容易に噛み切れないのをもぐもぐと咀嚼しながら洗面所に入った。そうして入浴。相変わらず身体は痒い。風呂に入ると余計に痒くなるようなのは、やはり熱されて体温が上がるからだろうか。がしがし、がしがしと、赤くなった肌を発疹の上からさらに搔きながら湯に浸かる。出てくるとふたたび烏賊を頂いて、緑茶を用意して下階に帰った。Chris Potter『The Sirens』を流しながら、九時過ぎからムージルを読み出すのだが、じきに眠気が湧いた。一〇時半くらいには横になって休んでいたのではないか。気づくと、一時過ぎを迎えていた。上階からは酒に寄った父親がテレビに向かって一人で頻りに、そうだよなあ、などと呟いている声が聞こえていた。しかしまもなく父親も下階に下りてきた音がして、こちらは尿が溜まっていたがものぐさに、便所にも行かず歯も磨かずにそのまま就眠した。


・作文
 7:35 - 8:07 = 32分
 8:54 - 8:58 = 4分
 11:37 - 11:47 = 10分
 13:08 - 13:27 = 19分
 18:03 - 18:41 = 38分
 計: 1時間43分

・読書
 6:04 - 7:31 = 1時間27分
 9:10 - 9:33 = 23分
 9:42 - 10:02 = 20分
 10:08 - 11:37 = 1時間29分
 13:31 - 14:04 = 33分
 14:08 - 16:57 = 2時間49分
 18:42 - 19:18 = 36分
 21:11 - ?
 計: 7時間37分+α

  • 後藤明生コレクション4 後期』: 458 - 496(読了)
  • 後藤明生コレクション4 後期』国書刊行会、二〇一七年、書抜き
  • 2018/1/3, Wed.
  • 2016/9/3, Sat.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」; 2019-01-01「きのうライオンが鹿にキスするのを見たよ」
  • 「悪い慰め」; 「読書日記(2019-01-03)」
  • 「思索」; 「気分と調律(5)」
  • 「ワニ狩り連絡帳」; 2019-01-01 (Tue); 2019-01-02 (Wed)
  • 「ウォール伝、はてなバージョン。」; 「新年一発目。」
  • 2018/12/28, Fri.
  • 2018/12/27, Thu.
  • 2018/12/26, Wed.
  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』: 7 - 58
  • 2018/12/25, Tue.

・睡眠
 1:15 - 5:55 = 4時間40分

・音楽

  • FISHMANS『Chapppie, Don't Cry』
  • FISHMANS『KING MASTER GEORGE』
  • FISHMANS『Neo Yankee's Holiday』
  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Jimmy Rogers『Chicago Bound』
  • Jimmy Rogers『Blues Blues Blues』
  • Chris Potter『The Sirens』




後藤明生コレクション4 後期』国書刊行会、二〇一七年

 つい話がそれたようです。お許し下さい。ただ、例の(新聞に出た)「いたずら電話」事件(原因はピアノあるいはテレビあるいはレコードの騒音だったか? それとも犬猫類の鳴き声だったか? あるいは何か他のものであったか、いまちょっと思い出せませんが、もちろん必要とあらば調べるにやぶさかではありません)、あの事件でおどろいたのは、一万数千回(これも正確な数字を調べるにやぶさかではありませんが)という、小生ら一般市民の常識を超えた回数であります。そして小生が、「いたずら電話」調査の申し立てを断念したのも、その超常識的回数によるものです。
 それにしても、一万数千回という回数は、どうやって記録されたのでしょうか。いや、もちろん「正」の字をつけたのではありますまい。何かレコーダーのような装置があることは小生も知っております。しかし記録するのは機械だとしても、受話器を取り上げたのは人間でしょう。つまり彼は、一万数千回、「いたずら電話」を待っていた[﹅5]わけです。まさか、その一年間だか二年間(これも正確な年月を調べるにやぶさかではありません)、「いたずら電話」以外の電話がかからなかったわけではないでしょうから。したがって彼は、ベルが鳴る度に受話器を取り上げ、「いたずら電(end33)話」とそうでないものを区別し、記録したわけです。つまり、そうやって彼は、「いたずら電話」を一万数千回、待ち受けていた[﹅7]ということです。
 (33~34; 「謎の手紙をめぐる数通の手紙」)

     *

 スズメ蜂が「肉食」であることもわたしははじめて知ったが、これにもおどろいた。しかしファーブルはどうやらスズメ蜂よりも、「獲物を目的として剣を帯びた蜂」、つまり「猟師蜂」の方がお気に入りらしい。そしてその代表がきばねあなばち[﹅7]とラングドスあなばち[﹅4]とべっこうばち[﹅6]だといえる。では「殺し屋」と「猟師蜂」とはどう違うか。「殺し屋」のスズメ蜂がその大腭で獲物を咬みくだき、幼虫のための「肉だんご」を作るのに対して、「猟師蜂」はその針で獲物を殺すのではなくて「仮死」させるのである。
 そしてファーブルは、その「仮死」させるための「手法がまったく同じである二種類の猟師蜂」はいないという。すなわち、つちばち[﹅4]ははなむぐり[﹅5]の幼虫の胸部に毒針を一刺しして「仮死」させ、べっこうばち[﹅6]は毒ぐもを二刺しで「仮死」させ、ラングドスあなばち[﹅4]は、きりぎりすもどき[﹅8]の雌(雄はまったく狙わないらしい)を三刺しで「仮死」させる。そして決してそれ以外の「方法」は用いないという。
 「仮死」させてどうするのか。それを巣に運んで、「仮死」状態にある「生餌」に卵を生みつける。やがて卵は孵化してウジが生れ、何万匹かのウジは「仮死」状態のままの「生餌」をついばむ。そしてそれはウジが幼虫となり、サナギになるまで続く。その間およそ二週間~二十日間らしい。「生餌」はウジと幼虫に内部からついばまれて、ほとんどガランドーになっている。それでもなお(end165)「仮死」状態のままだ。もしウジが幼虫となり、サナギに変化する以前に死んでしまったならば、その死体はたちまち腐敗して「生餌」の役に立たなくなるからだという。
 (165~166; 「蜂アカデミーへの報告」)

     *

 聖マリア大聖堂のすぐ裏は越中公園で、春は桜の名所である。ある日、私が通りかかると、満開の桜の下で、大阪のディオゲネスが、コンクリートのベンチの上に電話帳ほどの部厚い雑誌をひろげて読んでいた。樽を背負いズダ袋をさげて歩いたコスモポリテース=ギリシア犬儒派の末裔である。彼は越中公園の、マリア大聖堂寄りの片隅に古ダンボール箱を組み立てて住んでいるが、ある晩のこと私が公園の前を通りかかると、彼のダンボール住宅の中から、かすかにラジオ音楽がきこえて来た。
 (327; 「マーラーの夜」)