2019/1/5, Sat.

 七時一〇分頃起床。ダウンジャケットを羽織って首もとまで閉ざし、コンピューターを点け、Twitterを確認してから上階へ。母親におはようと挨拶。そうしてストーブの前に座り込む。熱風の刺激が肌にじりじりとする。洗面所にいた藍色の寝巻き姿の父親も出てきたので、おはようと挨拶。母親が前日のカレーの余りをドリアにしてくれている。便所に行き、ドリアが完成するとガラスめいた皿に入ったそれを卓に持ってきて、食事。ほか、中くらいのトマト一つ。新聞から、立憲民主党が脱リベラル層を目指しているという記事と、一面、首相の年頭報告の記事を読む。そうして皿を洗い、急須に湯呑みを自室から持ってきて、緑茶を用意する。小さな器に注いで仏壇に運び、こちらの湯呑みにも注いで、急須のなかには二杯目を入れて下階へ下りる。川本真琴 "タイムマシーン"を掛けて昨日の記事を読み返しながら、ポテトチップスを食う。袋を斜めにして最後の欠片を口に注ぐと、ティッシュで指を拭ってから日記。音楽は途中、Sarah Vaughan『Crazy And Mixed Up』に。前日の記事を仕上げ、ここまで記して八時五〇分。
 昨日の記事に記し忘れたが、夜、本を読んでいるあいだに、fuzkueの読書日記メールマガジンの登録をした。月額八〇〇円ほど。
 上階へ。母親は新聞を読んでおり、青梅東部の英語マップだってと地域面に載せられていた我が町のニュースに言及してみせる。ああ、と受けてこちらは風呂場に行き、浴槽をブラシで擦って、出てくると早々と下階に戻った。Sarah Vaughanを掛けっぱなしで部屋を出ていたところ、プレイヤーが自然に移行して、階段を下りるとライブラリでVaughanの下に位置していたscope『自由が丘』が流れ出していた。久しぶりに聞くものだが、AOR風味の入った良質なロックで、東京事変で叩いていた刄田綴色畑利樹)が昔からサポートしているバンドだ。こちらは畑のファンだったW.G――大学時代にやっていたバンドの同僚のドラマー――にその存在を教えてもらった。彼も元気でやっているのだろうか。もう服を着替えてしまい、インターネットを覗き、冒頭、"自由が丘"に一度戻して歌ったあと、日記の読み返しを始める。二〇一八年一月五日。激しい自生思考による不安に対する考察。

 (……)今次の自己解体騒ぎは実に色々な側面から考察することができるのだが、この時考えた理路からは、今回の危機はこちらの相対化傾向が極点まで至ったことによるものだろうと考えられた。元々自分は、中学二年生になったあたりから、どうもこの世の中というものはくだらないなと思いはじめ(まさしく「中二病」的なのだが)、高校生の時期には、特段死にたいわけでもないけれど、大して長く生きたくもない、まあ四〇歳程度で死ねれば良いかな、という風に考えており、大学時代には完全にニヒリズムの病に冒されていた。要は、青年期にありがちないわゆる「実存の危機」だが、自分が生きている意味がわからない、ということで、大学四年の時には卒業論文を担当してもらう教授に相談に行き、本を読んだり勉強をしたりするというのは、何のためにやるのでしょう、などという問いを発してもいたのだ(教授の返答は、自分のような歳と立場になってくると何のためになどと考える前に、まず目の前のことをこなさなければならない、という実際的なものがまずあり、その次に、でもやはり、楽しいからとか、何かを知りたいからとかでは、というものが返ってきた)。しかし結局、こちらはこの時この返答には共感することができず、例えばイラクあたりの歴史の本を読みながら、相変わらず、これを読んで何になるのだろう、などとその「意味」を探し求めていたのだ。そんな具合で卒業論文にも身が入らず、今から考えると糞尿以下の代物を提出してしまったのだが(それで学位取得が許されるのだから、都の西北、などと誇らかに言われていても、たかが知れている)、その後、いつ頃になってからだったか、ニヒリズムなどというのは単なる観念論(当時はこのような言葉遣いをしなかったと思うが)に過ぎない、と気づく時があった。自分が生の意味を感じられないのには、いずれ自分は死んでしまうのだから、というありがちな論拠があったのだが、自分が死ぬことが決まっていても、いま現在ここで自分が何かを喜んだり、食事を取って美味いと感じたりしているということは否定できない、と考えたのだ。すなわち、自分はニヒリズムを相対化することに成功したのだが、それ以来段々と、この「いま・ここ」への集中、現在の時間を味わい尽くす、というような姿勢が自分の基本的な生存様式になり、それは書くことに対する欲望と結びついて、現在時点を絶え間なく言語化する営みへと結晶したわけだが、それによって、この「いま・ここ」の実在さえもが解体されかかった、というのが今回の危機だと考えられる。
 言語化とはそのまま相対化である。しかし、ほかの人々が例えば、自己などというものは存在しないのではないか、いま自分が見ているこの世界は実在しないのではないかなどと考えたとしても、それで少々不安を覚えるようなことはあっても、実際に自我の解体の危機を感じるなどというところまでは行かないはずだろう。実際、そのような議論を行っている哲学者たちは、実に理性的に、その自我を保ちながら論を考えているはずだ。ところがこちらにあっては、こちらが考えたこと、こちらの頭のなかに浮かんできた言語が、そのまま強い不安という身体症状を引き起こすわけである。こちらが感じ考えたことを言語に移し替えているのではなく、言語として浮かんできたことがそのままこちらが感じ考えていることになるかのようだったのだが(ここ数日の自分の体験を言い表すのには、「言語が第六の感覚器官になった」という比喩よりぴったり来るものを思いつけない)、これは明らかに異常であり、この点にこそ自分の狂いがあるのかもしれない。しかし、実際には、これはやはり不安障害が寄与しているものだろうと思う。不安に襲われている脳と身体というのは、瞬間瞬間に自分の思いつくことの影響を、非常にダイレクトに受けてしまうのだろう。あるいは、不安障害自体を、意味論的体系が現実的体系と畸形的にずれ、あまりに過剰になりすぎる病状として定義することもできるのかもしれない(何しろ、ほかのほとんど誰もが危険や不安を感知しない場において、「不安」の意味を読み取ってしまい、それが高じて発作を誘発するくらいなのだから)。だから、最初のパニック発作の時点でこちらの頭はどこか決定的にずれてしまい、その後ずれにずれ、意味論的体系が膨張しすぎて今に至っているのかもしれない。

 話をちょっと戻すと、相対化のことを説明した際に、自分にはそもそも性質として、どうしても「確かな」ものを求めようとしてしまうところがある(格好良く言えば「真理」への愛であり、すなわち哲学=フィロソフィアである)、しかし同時に、(普遍的に)確かなものなど存在しないのだということもわかっている、しかし、その都度その都度「確かだと思われたもの」で良いので、そうしたものをその都度その都度発見して行きたいのだが、それが今回、不安性向と結びついて極地に至ったのではないか、という自己分析を話した。つまり、その時々の「確かな」事柄を判断するために自分の精神は瞬間的な物事の相対化を行うが、直後にはすぐさま、それが本当に「確か」なのかと疑いはじめてしまい、不安を呼び起こす、そしてその不安から逃れるために/不安から追い立てられて、精神は高速で次の「確かさ」を探り当てようとし、発見したかと思えばそれをまたすぐに相対化しはじめる、といった具合で、自分の頭は永遠の循環に陥っているのだろう。実際、今回の危機でもそのままこれが起こって、目の前の世界の実在を疑い不安が生じるやいなや、身に湧き上がってくる不安こそが「リアル」なものとして感じられ、それで自分はまだ正気であると確認する、しかしそのすぐあとにはまた自らの正気を疑いはじめる、というような反復が何度も繰り返されたのだ。どうもそのように非常に分裂的な傾向が自分にはあるらしいと説明し、しかしもうそれで仕方がないと思っている、自分は不安を感じながらでも、その都度の確かさを求めて行きたい、それが自分なのだと先ほど図書館で開き直った、ということも話し、ただ、その分裂の幅をもう少し狭くしたいので、その点、薬で調節できたらと思っていると告げた。つまり、三日にMさんとの通話で出てきたキーワードで言えば、自分の精神は明らかに「動きすぎて」いたのだが、「動きすぎず、動き回りたい」というのがこちらの望みなのだ。また、この「分裂」を主軸として自分の不安の意味論的体系を(ある程度まで)読み解くこともできると思われるのだが、それはここでは触れない。さらにまた、自分のこのような特性を観察した結果として、むしろ「不安」こそが自分を自分として成り立たせている第一/最終原理、つまりはそれ以上相対化できないものとして定位されているのではないか(中世のキリスト教神学者たちが「神」に与えていた地位が、自分においては「不安」になっている)と考え、さらにそこから、「悟り」というのはこの「不安」でさえも相対化/解体しきったその先にあるのではないかということも考察したのだが、それもここで細かく述べる気にはならない。しかし今回のことで、仏教の言う「一切皆苦」という考え方がこちらには身に染みて理解できた。釈迦は不安障害患者だったとしか今の自分には考えられない。

 それから二〇一六年九月一日の分も読み返し、ブログに投稿。日記を非公開にした時期の最初の記事ではないか。読み終えると隣室に入って久しぶりにギターを弄る。ブルースの真似事をしばらく適当にやってから戻ると一〇時、ここまで日記を書き足した。母親が出かけるから送って行ってくれると言うがどうするか。
 コンピューターを仕舞い、リュックサックに荷物も入れて(財布、携帯、『ムージル著作集 第七巻』、読書ノート)上階へ。南の窓辺に寄って外の風景を見やる。額に太陽の光線が当たってじりじりと熱される。大根の生えている畑を見下ろして、次に斜面に生えた棕櫚の木を見れば、蓑のような枯葉の乏しくなってほっそりとしており、頂上の緑葉も少なくて松明のようである。梅の木には蕾がつきはじめているようだ。見ていると、隣家の敷地に猫が現れる。鼻から腹のあたりまでが白く、あとは黒い体の猫である。日向ぼっこではないのだろうか、ちょうど柚子の木の影に入ったところで立ち止まり、鷹揚とした調子であたりを見回している。耳がぴくぴくと動く。口笛を吹いたり、窓をリズミカルに叩いたりしてみるとその音に気づくのだろう、こちらのほうを見上げて目が合う。しばらく観察して、母親に猫がいるから見てみ、と呼び掛ける。すると見ていた母親がこっちに来た、と。こちらももう一度窓に寄ってみれば、猫は我が家の敷地のなかをゆっくりと闊歩しており、その姿が見えなくなるまで追った。そうして出発。猫が家の南側から上がって来ているかと思えば、こちらが玄関から出てきた瞬間、家の脇から駆け出して、正面の家の横に入った。売る本の入った大袋(United Arrows green label relaxingの深緑色のものである――実に久方ぶりに行きつけの古本屋に行くつもりだったのだ)を地面に置いて猫に近づくが、いくらも近寄らないうちに逃げられてしまう。さらに追いかけて落葉の散り積もった宅の裏側に入るが、猫は姿を消していた。それで戻って、車の後部座席に乗る。発車。運転しながら母親は、メルカリでコメントを返さない人がいることについて、文句を言ってみせた。神経質なことだが、値引きを求められてこちらがメッセージを送ったところ、何の反応もないのが釈然としないらしい。そういう人もいるだろう。じきにラジオが流れはじめる。丸みを帯びたジャズギターの演奏。わりと良質なスムース・ジャズで、Lee Ritenourフュージョンではなくて純ジャズをやっている時の雰囲気を連想した。空はこの日も雲が一片も見られない快晴である。青梅図書館に寄って母親が本を返し、その後駅前まで送ってもらう。
 駅に入ると東京行きはまだ先だったので(荷物が重いので立川で乗り換えず、一気に三鷹まで座って行きたかったのだ)、ベンチに就いてメモを取り、それから鎌田道生・古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』を読みはじめた。「静かなヴェロニカの誘惑」。
 ・169。
 ・「くりかえしめぐりくるもの」「彼はあの存在にむかって、一人の人間に話しかけるように呼びかけたものだった」――「めぐりくるもの」=「あの存在」。これは何かしらの存在ではあるが、おそらく「あの存在」と名指すことしかできないもので、人間ではない。
 ・「あなたが僕の外側にも存在していてくれれば」――その「存在」はヨハネスの内側に存在している。
 ・170。
 ・「あなたは神だと言えれば」――ヨハネスはその存在を、「神」だと断言することができない。
 ・「(……)さだかならぬ力強い存在の、そのたくましい、まだ顔というもののまったくない頭部があらわれた」――「力強い存在」=「あの存在」。それには「頭部」がある。「すると、その頭[かしら]の下へ両肩を入れてその中へと生い育ち、その頭を自分の頭とすることができそうな、自分の顔をその隅々にまで浸透させることができそうな、そんな感じがしてくるのだ」――「力強い存在」との合一?
 ・「あるとき、彼はヴェロニカに、それは神なのだと言った」――ここでは「存在」を「神」の語で名指している。神なのか、神でないのか、一体どちらなのか? ヨハネスがそれを「神」だと言いたいのは上記箇所から確かだ。
 ・「しかし彼がその思いを口にすると、それはもう価値もない概念でしかなく、彼の言わんとするところを何ひとつあらわしていなかった」――言語還元不可能性。
 ・「それはちょうどときおり人の顔に浮かんで、当の顔とはすこし結びつかず、あらゆる目に見えるものの彼方にいきなり推しはかられる異なった顔と結びつくあの奇妙な表情と同様に(……」――「あらゆる目に見えるものの彼方に」――超越性?
 ・171。
 ・「それは感情というよりもむしろ、あたかも彼の内で何かが長く伸びて、その先端をすでにどこかにひたし、濡らしつつある、そんな感じだった。彼の恐れが、彼の静けさが、彼の沈黙が。ちょうど、熱病の明るさを思わせる春の日にときおり、物の影が物よりも長く這い出し、すこしも動かず、それでいて小川に映る像に似てある方向へ流れて見えるとき、それにつれて物が長く伸び出すように」――印象的な記述。真ん中に挟まれた「彼の恐れが、彼の静けさが、彼の沈黙が」の一節は特にファインプレーではないか? 古井由吉の力量もあるだろう。
 ・172。
 ・「「それは現実の物」と彼は言った、「意識の地平の彼方にある物なのだ。意識の地平の彼方を、しかも目にありありと流れ過ぎていく物なのだ」――それは超越的なものでありながら、同時に「目にありありと」見えるものでもある。
 ・「それは精神の濁りでもなければ、魂の不健全さのしるしでもなくて、ひとつの全体への予感、どこかしらから尚早にあらわれた予感であり、もしもそれらの予感をひとつにつかねることに成功すれば、そのとき何かしらが、一撃のもとに地を裂いて湧き出すように、想念の細かく分かれてたその先端から、戸外に立つ樹々の梢にいたるまで、物すべてをつらぬいて昇り、ごくささやかな身ぶりにも、帆にはらんだ風のようにみなぎるだろう」――言っていることは良くわからないが、実に精度の高い記述。しかし「分かれてた」はなぜ「分かれていた」ではないのか。あるいは「分かれた」の誤植か。
 ・「あたしの中にも何かがあるの……」――ヴェロニカのなかにも何かの「存在」がある。
 ・「それを彼女はまのあたりに見ていた(……)何でもない出来事なのに、まったく理解のつかないことのように。雄鶏がなんとも言いようのない無頓着さでふわりと飛びかかり(……)精気のない朽ちた光の中に立っている」(173)――事物の二重性。
 ・「あのあとであなたはあたしに、僧侶になりたいと言ったわね……そのとき、あたしは悟ったのだわ、デメーターではなくて、あなたこそ獣[けだもの]だって……」/ヨハネスは跳びあがった。彼には理解できなかった」――突然の「悟り」および「獣」の導入。ヴェロニカの理屈は、ヨハネスには「理解できなかった」とある通り、通常の論理を越えていて困惑させるものだが、この突然の断言は鮮やかで印象的である。
 ・「僧侶にはどこか獣じみたところがあるわ。(……)この空虚な穏和さ。(……)あたし、それを悟ったとき、とてもうれしかった」――この「うれしさ」も半ば意味不明である。
 ・「(……)実際にあなたはどことなく獣なんだわ。(……)あなたこそ、毛につつまれた空っぽの部屋なんだわ。そんなもの、獣だって願いやしない。獣というよりも、あたしにはもう言葉であらわせない何かなんだわ」――言語還元不可能性。
 「合一」の二篇は実に抽象的・思弁的で晦渋だが、以前読んだ時よりも、良く理解できるとは言わないまでも、読むこちらの負担が減ったような気がしないでもない。一文一文の意味は一応概ね取れる。ただそれらの組み合わせとして、一つのまとまりがどのようなことを言っているのか、それが良くわからない。
 それでは、以下に長くなるが、「テルレスの惑乱」の「沈黙」一覧を作成しようと思う。全四〇箇所。
 「(……)肉体的記憶(……)そうした記憶はあらゆる感覚に語りかけ、あらゆる感覚の内に保たれているものだから、なにを行なうにしても沈黙し姿の見えぬ他人が傍らに居るのを感じてしまう」(9)
 「古い地方貴族の城にただよう沈黙、宗教の勤行の際の沈黙が、まだいくばくか彼には付きまとっているように思われた」(11)
 「それはつまり、声の抑揚、物を手にとる時の格好、いやそれどころかその人の沈黙の音色、またある空間に自分を順応させる肉体の姿勢を通して他人を識り楽しむことを彼に教えてくれたのである」(11)
 「今彼は、眼前に燃えさかる網しか感じなかった。(……)それはまったく沈黙したもの――いわば喉につかえる感覚、ほとんどそれと気付かぬ思想だ」(19)
 「彼[ライティング]にはテルレスの沈黙と暗い眼差しが気になっていたのだ」(19)
 「[テルレスとバイネベルク]二人のあいだの沈黙はほんの十分も続かなかったが、テルレスは自分の反感がすでに極限にまで高まっていることを感じた」(23)
 「沈黙が破れるとともにテルレスにのしかかっていた重圧も砕かれた」(24)
 「なんなのだ、ぼく達の耳には聞こえない言葉のようなこの不意の沈黙は?」(26)
 「中ではアコーデオンが不意に沈黙し、騒がしい声が一瞬待ち受けるように止んだ」(31)
 「ぼくが何も言わないうちにバジーニが――沈黙に疲れきったのであろう――泣き始め、許してくれと縋った」(51)
 「また、身を屈め、力を溜め、息を殺す瞬間が、つまりは二人の人間のあいだに心の極度の緊張のあまりに、そと目には沈黙している一瞬が存在すると主張されたりもする」(52)
 「彼は天が巨大な姿をして沈黙したまま自分をじっと見下ろしているのを感じた」(74)
 「そこにはまずあの子供時代の思い出があり、そこでは木々がさながら魔法にかけられた人間のように深刻な面持ちで沈黙したまま立っていた」(74)
 「バジーニの身に起こったことについての観念がテルレスの心を真っ二つに引き裂いた。それはあるときはまともで、ありふれたものであったが、またときにはさまざまなイメージが掠め過ぎる沈黙に包まれていた。この沈黙はこれらすべての印象に共通しており、次第にテルレスの知覚の中に染み通り、今や不意に現実的なもの、生命を持ったものとして扱われることを要求した」(74)
 「テルレスは今、その沈黙が八方から自分を取り囲んでいるのを感じた」(74)
 「恐ろしいまでに静かな、もの悲しい色に包まれた幾晩かの沈黙の記憶が、夏の正午の熱く震える不安とたちまちに入れ替わった」(75)
 「ついでわが家の暗くなってゆく部屋の沈黙がちの光景が現われ、それが後に彼の失った友人のことを不意に思い出させた」(75)
 「しかし今は白昼そのものが突き止めがたい隠れ家となったように思われ、生き物のような沈黙がテルレスを八方から取り囲んだ」(77)
 「短い沈黙が訪れた。すると不意にテルレスが、小声で優しそうな口振りで言った。「言えよ<ぼくは泥棒だ>と」」(84)
 「もう一度、測ることのできないほど短い沈黙が訪れた。やがてバジーニが小声で、一息に、そしてできる限り無邪気な口調で言った。「ぼくは泥棒だ」」(84)
 「テルレスは教授が沈黙したとき嬉しくなった」(90)
 「とうとうテルレスの中で一切が沈黙した」(98)
 「確かにバイネベルクを沈黙させたのは思いも掛けなかった自分の威勢のよさに過ぎない……」(100)
 「その特性は、生命のない事物、単なる対象に過ぎないものによってすら不意打ちにあい、時としてそれらを沈黙の内に問い掛ける数百の目のように感じてしまうのだ」(106)
 「建物の沈黙が、いわば彼らを呑み込み(……)」(110)
 「沈黙――期待がテルレスを過敏にしていた――そして絶え間ない注意が彼の精神力を消耗させ、彼にはどのような思考もおよそ不可能となった(112)
 「すべての廊下には、沈黙の暗い潮がじっと動かずに眠っているように思われた」(126)
 「彼は自分を取り戻そうと思った。しかし、黒服の番人のように沈黙の潮がすべての門の前に横たわっていた」(126)
 「お前の沈黙は、ぼくにはその答えとなるだろう。心の内から目をそらすな……!」(142)
 「「おい、バジーニ、うまくいったか?」/沈黙。」(142)
 「遂にテルレスが沈黙を破った。彼は早口で話し、まるで、とっくに片付いた要件を形式的にもう一度処理しなければならないかのように退屈そうに言った」(145)
 「(……)遂に黒々として熱気の籠もった、陰惨な情欲を孕んだ沈黙のようなものがクラスの上を重苦しく覆った」(152)
 「そして、とうとう血まみれ埃まみれになり、獣めいたガラスのような眼をして崩れるように倒れる。その瞬間に沈黙が侵入し、みんなが床に倒れた彼を見ようと前に押し寄せる」(153)
 「失踪の動機を聞かれても、テルレスは沈黙したままだった」(157)
 「(……)いわば二重の形をとって我々の人生に入り込んで来るように定められたある種の事柄が存在している(……)。ぼくは、人間も出来事も、暗くて埃っぽい片隅も、高くて冷たく、沈黙していながら不意に生気づく壁も、そのようなものに見えました……」(158)
 「ぼくは、ある思想がぼくの内部で生命を得るのを感じますが、それと同様に、さまざまな思想が沈黙する時に事物を見つめていると、なにかがぼくの内部で生命を得るのも感じるのです」(161)
 「この沈黙する生命がぼくを圧迫し周りを取り巻き、それを凝視するようぼくを常に駆り立てたのです」(162)
 こうして写してみて気づくのは、「沈黙の語とともに、たびたび「不意」の語が用いられているということである。その組み合わせが見られるのは四〇の「沈黙」のなかで全七箇所。下に改めてそれらを抜き出しておく。
 「なんなのだ、ぼく達の耳には聞こえない言葉のようなこの不意の沈黙は?」(26)
 「中ではアコーデオンが不意に沈黙し、騒がしい声が一瞬待ち受けるように止んだ」(31)
 「バジーニの身に起こったことについての観念がテルレスの心を真っ二つに引き裂いた。それはあるときはまともで、ありふれたものであったが、またときにはさまざまなイメージが掠め過ぎる沈黙に包まれていた。この沈黙はこれらすべての印象に共通しており、次第にテルレスの知覚の中に染み通り、今や不意に現実的なもの、生命を持ったものとして扱われることを要求した」(74)
 「ついでわが家の暗くなってゆく部屋の沈黙がちの光景が現われ、それが後に彼の失った友人のことを不意に思い出させた」(75)
 「短い沈黙が訪れた。すると不意にテルレスが、小声で優しそうな口振りで言った。「言えよ<ぼくは泥棒だ>と」」(84)
 「その特性は、生命のない事物、単なる対象に過ぎないものによってすら不意打ちにあい、時としてそれらを沈黙の内に問い掛ける数百の目のように感じてしまうのだ」(106)
 「(……)いわば二重の形をとって我々の人生に入り込んで来るように定められたある種の事柄が存在している(……)。ぼくは、人間も出来事も、暗くて埃っぽい片隅も、高くて冷たく、沈黙していながら不意に生気づく壁も、そのようなものに見えました……」(158)
 以上である。話を青梅駅に戻すと、東京行きの電車の入線のアナウンスが入ると本を閉じて立ち上がり、ホームを移動して二号車の三人掛けに座った。そうしてふたたび書見。本に傾注していたため、電車内で特に印象に残っていることはない。三鷹に着くと降り、手帳に読書時間をメモしておき、歩き出す。エスカレーターを上がり、客引きの声が掛かるパン屋の横を抜け、改札を通って駅を出る。配られているポケットティッシュを受け取って通りを渡り、S書店へ。街路に連なる銀杏の木はもう大方裸で、葉を残しているものも、乱暴されてずたずたに引き裂かれた女性の衣服のように無残に乏しく垂れ下がっている。書店着。外の百円均一は見ないで入店し、店主にこんにちはと挨拶をする。買い取りを頼む。思想の棚をしばらく見ていると声が掛かった。三五〇〇円だと言うので了承し、書類に住所ほかを記入する。売ったのは以下の四〇冊(漫画を含んでいるため、冊数としては多く見える)。

石井遊佳百年泥
・南直哉『日常生活のなかの禅』
・トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』
・ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』
・ティク・ナット・ハン/島田啓介訳『リトリート ブッダの瞑想の実践』
芦奈野ひとし『コトノバドライブ』一~四
芦奈野ひとしカブのイサキ』一~六
・岡田睦『明日なき身』
朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』
・『多田智満子詩集』
藤原カムイドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章 ~紋章を継ぐ者達へ~』六~一一
・デュマ・フィス/西永良成訳『椿姫』
夏目漱石『門』
・カガノミハチ『アド・アストラ スキピオハンニバル』一~一三
panpanya『枕魚』

 そこで改めて、ご無沙汰しておりましたと挨拶し、明けましておめでとうございます、今年もよろしくどうぞ、と交わす。Kさんは忙しくしていて、あまり本を読めていないということ。また、三鷹にKさんの知り合いが店をひらくらしく、それもいずれ知らせてくれると。そうして、またちょっと見させてもらいますねと言って、店内を見分。ほとんど隅から隅まで回って、何冊だっただろうか、今喫茶店で場が狭く、本を取り出せないのであとで一覧を記しておくことにする。会計は九六〇〇円。本を持って行き、Kさんがレジに値段を打ち込んでいるあいだ、いやあ、と小さく呟き、やっぱり買っちゃいますねと告げる。たくさん見つけていただいてありがたいですとあちら。久しぶりに来ると店内の棚も変化していて、目新しいものもあるでしょうから良かったのではと続く。その後、新刊を買うとしたら近いのはどこかと訊くので、立川のオリオン書房淳久堂だと答え、オリオン書房は海外文学が非常に充実しているんですよねと話を交わす。フィクションのエル・ドラードという水声社のシリーズがあるが、あれが充実しているのはオリオン書房くらいで、あとは新宿の紀伊國屋書店にでも行かないと見つからないとAくんも言っていた。
 礼を言って退店。もう少し話せば良かったか、最近気になっているものはありますかとか訊けば良かったかとあとから思う。時刻はちょうど一時。道の先、午後一時の粉っぽい太陽の光が掛かって空中が薄く霞んでいる。駅前に戻り、ドトール・コーヒーに入店。早々と日記を書こうと思ったのだ。地下に下り、角のカウンター席を取り、上に上がってコロッケサンド(二九〇円)とアイスココア(三二〇円)を買う。戻って席に就き、ココアを啜って喉を潤す。そうしてお手拭きを使ってからサンドウィッチを食べ、終えるとトレイを端に寄せてコンピューターと本を取り出した。そうして日記の作成、一時二〇分から。ムージルの小説から諸々写したので時間が掛かって、現在は三時直前。
 以下、購入本の一覧。

・ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ/仲澤紀雄訳『徳について Ⅰ 意向の真剣さ』国文社、二〇〇六年
・ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ/仲澤紀雄訳『徳について Ⅱ 徳と愛 1』国文社、二〇〇七年: 二冊で三八〇〇円
古井由吉『山躁賦』集英社、一九八二年: 五〇〇円
井上輝夫『聖[サン]シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行 <新版>』ミッドナイト・プレス、二〇一八年: 一〇〇〇円
管啓次郎『ストレンジオグラフィ Strangeography』左右社、二〇一三年: 八〇〇円
大江健三郎『懐かしい年への手紙』講談社、一九八七年: 五〇〇円
・ミシェル・ピカール/及川馥・内藤雅文訳『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』: 二五〇〇円
山本利達校注『新潮日本古典集成 紫式部日記 紫式部集』新潮社、一九八〇年: 五〇〇円
 計八冊: 九六〇〇円

 一番最初に目についたのは、ミシェル・ピカール『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』だった。次が紫式部日記管啓次郎『ストレンジオグラフィ Strangeography』は、彼の名は以前から知っていたものの一冊も読んだことがなかったところに、Mさんが最近彼の作品を読んでいたのでこちらも惹かれたものである。井上輝夫の紀行文は見たところ、管啓次郎と同じく詩人らしい、瑞々しい言葉で綴られているようだったので購入。古井と大江は安かったので。古井の『仮往生伝試文』もあって欲しかったが、これは解説付きの講談社文芸文庫のものをいずれ買うかということで見送った。ジャンケレヴィッチは、『徳について』などとは実に古代ギリシア的なテーマだが、徳とか善とかこうした古典的なテーマにこちらは興味があるのだ。ほか、金子光晴の紀行文なども買おうかと思ったが重くなるので断念。
 トレイを片付けて退店。横断歩道を渡り、先ほどと同じ人の配っているティッシュを今度は受け取らず、駅に入る。改札を抜けて掲示板を見上げると、電車は三時四分発。エスカレーターを歩いて四番線に下りて行き、先頭車両の位置に就く。乗車。扉際を取り、リュックサックから携帯電話を取り出して、Mさんのブログを読む。外はすっきりとした青空が地平の果てまで続いており、北の先に飛び魚のような細長い雲が連なっている。整然とした窓に風景の映りこむマンションを過ぎて、立川着。一番線に乗り換え。席に就いて、ムージルを読みはじめる。しばらくすると一人の女性が、身体を奇妙に揺らしながら車両のなかを通り過ぎて端に行く。何やらぶつぶつと独り言を呟いている。その女性がこちらの横に腰掛けてきて、息をはあはあとやや荒くしながら、同時に身体を前後に揺らしつつ、「太田くん」(太田光のことらしい)とか「役所くん」(役所広司のことらしい)とか、「諫早市」とか、一体彼女のなかでどのような意味を持っているのだろうか、断片的な語を呟き、一人で喋っている。こちらの身体にも擦れ合うその動きと声が気に掛かって本に集中できなかったのだが、じきに女性は立ってまた車両の端に行き、最終的に拝島で降りて行ったようだ。女性が席を立つと今度は右方の端の方から、幼児に絵本を読み聞かせているらしい声が伝わってきた。そのようななかでムージルを読み進める。
 ・「たった一人の人間が、いや、ときにはたったひとつの言葉や、ひとつの暖かみや、ひとつの吐息が、渦巻きの中のひとつの小さな岩のように、いきなり君に中心点を、そのまわりを君が回る中心点を、示してくれることがある」(181)→「僕の中で何かがじっと動かず中心点の静けさで横たわっている、それがあなたなのだ、と言えればよいのだが」(170)――「中心点」。
 ・「そして彼女がその強い異様な官能性を、人の知らぬ病いのように身にまつわりつけて彼のそばを通りすぎるとき、彼はそのつど、彼女がいまこの自分を獣のように感じていることを、思わずにいられなかった」(182)――ヴェロニカの「官能性」。
 また、以下の二箇所が印象に残った。ほとんど完璧と言いたいまでに磨き抜かれた、冴えに冴えた記述だと思う。特に前者の、「胸の上には(……)静止している」の部分は、意味とリズムとが完璧に結びつき統合された最高の音調を実現しているように思われる(古井由吉の仕事ぶりときたら!)。この圧倒的な具体性、これこそが小説というものではないか?

 彼女はあのころ、一頭の大きなバーナード犬の、ふさふさとした毛が好きだった。とりわけ前のほうの、ひろい胸の筋肉が骨のふくらみの上で犬の歩むたびに二つの小山のように盛りあがる、そのあたりが好きだった。そこにはいかにもおびただしい、いかにも鮮やかな金茶色をした毛が密生して、見渡すこともできぬ豊かさ、静かな果てしなさに似ていて、たったひとところをひっそりと見つめていても、その目は途方に暮れてしまう。そのほかの点では、彼女はひとまとまりの強い親愛の情、十四歳の少女のいだくあのこまやかな友情を感じていただけであり、あれこれの物事にたいする情とさほど変りもなかったが、この胸のところでは、ときおりほとんど野山にいる気持になった。歩むにつれて森があり、牧草地があり、山があり、畑があり、この大きな秩序の中にどれもこれも小石のようにじつに単純に従順におさまっているけれど、それでもそのひとつひとつを取り分けて眺めれば、どれもこれもおそろしいほどに内に入り組んで、抑えつけられた生命力をひそめている。それだもので、感嘆して見つめるうちに、いきなり恐れにとりつかれる。まるで前肢をひきつけてじっと地に伏せ、隙をうかがう獣を、前にしたときのように。
 ところがある日、そうして犬のそばに寝そべっているとき、巨人たちはこんなじゃないかしら、と彼女はふと思った。胸の上には山があり、谷があり、胸毛の森があり、胸毛の森には小鳥たちが枝を揺すり、小鳥たちには小さな虱が棲みつき、そして――それから先のことはもう知らないけれど、それでおしまいにすることはなく、すべてはまたつぎからつぎへ継ぎ合わされ、ひとつまたひとつと内へ押しこまれ、そうして強大な力と秩序に威[おど]されてかろうじて静止している。そして彼女はひそかに思ったものだった。もしも巨人が怒りはじめたら、この秩序はいきなり幾千もの生命へ、大声をたてて分かれ、恐ろしいほど豊かな中身を浴びせかけてくるのではないかしら、と。さらに巨人が愛に駆られておそいかかってきたなら、山鳴りのように足音が轟いて、樹々とともにざわめいて、風にそよぐ細かな毛が自分の肌に生えて、その中に毒虫が這いまわり、言いあらわしようもない喜びにうっとりと叫ぶ声がどこかに立ち、そして自分の息はそれらすべてを虫や鳥や獣やの群れとひとつにつつんで、吸い寄せてしまうことになるのではないかしら、と。
 (鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年、183~184; 「静かなヴェロニカの誘惑」)

 そしていま、今日のうちに出立するはずのヨハネスと並んで、彼女は立っていた。あの少女の頃からすでに十三年か十四年に近い年月が流れ、彼女の乳房はとうに、当時のように好奇心に満ちて赤く尖ってはいなかった。いまではこころもち垂れ下がり、ひろい平面におきざりにされた紙帽子に似て、すこしばかり哀しげだった。彼女の胸郭はひらたく横へ伸びてしまい、彼女をつつむ空間が胸郭からはみだしたかに見えた。しかし入浴や着替えの際に裸になったわが身を鏡に映して、それでそのことを知ったわけではなかった。とうの昔からそんな際によけいなことはしなくなっている。そうではなくて、彼女はそのことをただ肌で感じ取っていた。昔は着物の内にからだをぴったりと、どちらの方へもきっちりつつみこむことができたように思えるのに、今ではただ着物でからだを覆っている感じしかないのだ。わが身を内側からどんなふうに感じ取ってきたかを思い出してみると、昔はまるく張りきった水滴のようだったのに、今ではとうに、輪郭のぼやけた小さな水たまりでしかない。いかにもだらりと伸びきった、張りのない感覚で、物憂さとけだるい安易さ以外の何ものでもないはずだった。もしもときおり、たぐえようもなく柔らかなものがゆっくり、ごくゆくり[ママ]と、幾千ものやさしく細心な襞を畳んで内側から肌にひたりとまつわりついてくる、そんな感触がなかったとしたなら。
 (鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年、185; 「静かなヴェロニカの誘惑」)

 頁の上に時折り、去りつつある太陽が送りつけてくる黄金色の光線が放たれ、コートの上や座席の周囲もぱっと一瞬彩られてはすぐにまたその色は消えて行く。青梅着、奥多摩行きの乗り換えまで三〇分以上あったので、歩くことにした。駅を抜ける。道端に立った二人の老年女性が、漬け物を持ってきた、あらあ悪いじゃないの、いや一口だけだから、一口だけ、などと話している。コンビニの角を折れ、裏路地を進み、図書館前の細道から表に出た。道は全面日蔭に覆われ、山の先に向かう太陽の色が掛かるのは、通りの南側の建物の側面のみだ。道を歩くうちに時折り、建物のあいだから明かりが抜けて辛うじて目を射って来るが、大した威力もない。くるり "グッドモーニング"を低く呟きながら歩く。空はこの時間になっても前日と同様、四囲の端から端まで雲の消滅して水色に満ち満ちている。歩くうち北側の家々の窓に、もう山の稜線に掛かった太陽が金色に映り込み、それに瞬間目を向けて逸らすと視界の内に緑色の痕跡が印されるが、その反映も段々と下降して行って、家に続く裏路地に入る頃には巨大な光球は山の彼方に入り込み、空の色が淡くなったなか山際に漂白されたような純白が漂う。首もとは灰色のマフラーで守られて、午後四時だけれど寒さはなかった。木の間の坂を下って出ると、道端に生えた柚子の木が、黄色の実をいくつもつけて枝を撓らせ、木叢を垂れ下げていた。
 帰宅。母親にいくらで売れたか、と訊かれる。三五〇〇円と。それでいくら買ったのと言うので、一万円と答えれば、母親はえっと苦笑し、何で売れた範囲内に収めないのと苦言を呈する。知ったことではない。下階に下り、リュックサックやポケットから荷物を取り出し、コンピューターを点けて服を脱ぎ、上階の洗面所に置きに行った。それでジャージに着替えると、母親が、これを半分食べるかと言って苺ミルク蒸しケーキに言及するので頂くことにした。半分を貰い、緑茶を用意してきて自室で日記を書き出す。しかしじきに気づけば五時を回っていたので、一旦中断して夕食を作りに行った。居間が真っ暗ななかで母親はタブレットを見ているので、明かりを点けてカーテンを閉めた。飯を作る前にアイロン掛け。シャツ、ハンカチ、エプロンを処理し、それから台所に入って、茹でられていた大根を鍋へ。水を少々、それに麺つゆを入れた上から切り落としの豚肉を投入。それを火に掛けて、今度は大根の葉を絞り、細かく切り分ける。さらに葱と肉も切って一緒に合わせて炒める。それが終わると味噌汁を作ることにして、小鍋の水を火に掛け、葱の余りを細く切り分けて投入、さらに豆腐も加えた。味付けは先日ららぽーと立川立飛で買ってきた「とり野菜みそ」でつけた。そうして残るはサラダだけとあったので(おかずとしてはほかにカニクリームコロッケを母親が買ってきていた)、こちらは下階に戻ると言って自室に帰り、六時前から日記を書き足して一時間が経った。
 書抜きの読み返し、一二月二四日。その後、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』から今日の記事に三箇所引用しておき、それも読む。さらに、一二月三一日の分も読んで、そうして食事へ。カニクリームコロッケ、大根の葉の炒め物、大根の煮物を大皿に。その他米、昼の残りの蕎麦、味噌汁。新聞の国際面を読みながらものを食べ、食後に皿を洗ってそのまま即座に風呂に入ろうというところでしかし父親が帰ってきた。それなので湯浴みは譲って、緑茶を持って自室へ戻る。そうしてムージルの書抜きをしたのち(Bobby Timmons Trio『In Person』を流す)、Uさんのブログ。「思考が欠如した証とは、その残滓と対峙しなくとも内容が簡単に予想できることである。逆に、優れた思索者は、常に思考をしているので、その人の表現は読者の予想を超える」「思索者の責任(responsibility)とは、思索の豊かさに関する反応の機敏さ(responsiveness)を保つことである」「脱構築は、結局、ハイデガーのプロジェクトを、独特の思考様式と哲学史よりも広い射程を持って語り直した賜物である。二元論とは、ハイデガーの語彙で言えば、形而上学である。簡単に言えば、ここでいう形而上学とは、原理化のことである。世界を理解するために、原理を提起する語りをした途端、それは世界の写し鏡のようになり、二つの世界が生まれるー形而上学を始めててしまうーわけである」「プラグマティズムは、アクティビズムへの関心が高まると関心が再燃し、行動の哲学としてもてはやされるが、私の理解によれば、それは、行動「のための」思索ではなく、行動(というか否定しようのない物事の動き)「において」考える思索である。つまり、あくまでもプラグマティズムは思索の方法なのである。それを提起したパースに至っては、自らを客観的観念論者と呼び、複雑な帰結の群ー私たちが常識的に現実と呼ぶものーを、帰納(個別事象を積み重ねることで原理に到達する論理的様式)に着目することで、概念化しようとしている。晩年のプラグマティズムに関する講義においては、もしヘーゲルが観念の世界に後退せずに思索をしていたら、彼はプラグマティズムのヒーローになり得たとすら言っている」。読み終えて入浴へ。肌はまだ赤くぼつぼつとしており、痒いには痒いが、痒みの度合いは段々減じてきている気がする。出ると母親が、林檎を食べたらと言うのでちょっと頂き、階段を下ると父親と目が合う。そうして彼は、お前これ、とダウンジャケットのポケットから金の入った封筒を差し出してみせた。受け取ろうかどうしようか一瞬迷う心が働くが、上手い断り方も思いつかないので、ありがとうと言って受け取る。去年の一月から一年分、と言うので、林檎の入った口を閉ざして「ん」の音だけで「本当に」を表現し、一月から働けなかったから、と続くのには、すみませんと受ける。有効に使ってくれと言うのをあとに部屋に戻り、封筒の中身を覗く。一か月五万円が一二か月分で六〇万円である。一万円札が見たことのない厚さに重なっていた。有効に使ってくれと言うが、使わずに取っておこうと思う――そうして、一月に少しずつ母親に与えて、食費や何かに充ててもらうのが良いだろう。この歳になってこのような大金を貰うなど、決まりが悪い――いかにも甘やかされている。
 読書。合間にTwitterで感想などを呟く。「ムージル「静かなヴェロニカの誘惑」。記述が相当に抽象的で、今自分が作品世界中のどこにいるのか、いつにいるのかわからなくなる。どことも知れない場所、いつもと知れない時間のなかで、イメージと思弁のみが執拗に、豊穣に膨張していく」「ムージル「静かなヴェロニカの誘惑」で最も頻出する語は、間違いなく「獣」だろう。数えてみると、今のところ二五頁で二五回出てきている」「ムージルは彼独特の口癖のようなものとして、「そうなのだ」という言い方を文頭で前置き的に使うことがある。「テルレスの惑乱」と「静かなヴェロニカの誘惑」で、今のところ三度見かけた」。書見に二時間半。BGMはBojan Z『xenophonia』(削除)、Bon Jovi『One Wild Night 1985-2001』(まあまあ)、Jakob Dinesen『Everything Will Be All Right』Kurt Rosenwinkel参加。結構良質)。そうして日記を綴り、日付が変わった。
 ・「さまようものが、さすらうものが、彼女の内にあった。それが何であるか自身にもわからなかった」(188)
 ・「そして風が満ち上げると、彼女には、彼の血が裾から肌をつたって昇ってくる気がした。それは彼女を肉体にいたるまで、星のかたちの、盃のかたちの、青や黄の花、そして幾筋もの細い雄蕊のそっとさぐる感触、野の花が風の中に立って受胎する、じっと動かぬ官能の喜びで満たした」(193)
 ・「自分がこうして手で触れるばかりになまなましく感じているものは、ヨハネスの存在ではなくなって、自分自身にすぎないのだ、という予感がすでに彼女の内にあった」(200)
 それからベッドに移ってさらに書見を続け、「静かなヴェロニカの誘惑」は最後まで読み終わったが、結局記述が抽象的過ぎてこの作が何を意味しているのか最後までわからない。しかしそれが故にこの本を売っ払ってしまう気にはならず、またいずれ読み返すだろうと思うし、上記に引いたようなほとんど完璧な小説的描写があるだけでもこの篇の価値は高いというものだろう。「獣」の語は結局、全篇で三三回用いられていた。それからそのまま「愛の完成」もちょっと読み出したのだが、その頃には眠気が湧いて視界がぶれるようになってきたので眠ることにして消灯した。零時五〇分。入眠には苦労しなかったらしい。
 ・「扉のこちら側では肌着しか身につけず、ほとんど裸に近い恰好で下はあらわなままに立つそのあいだ、表では人がすぐ近くを、たった一枚の戸板に隔てられて過ぎていく。それを思うと、彼女はもうすこしでうずくまりこみそうになった。しかし何よりも不思議に感じられたのは、扉の外にも自分自身の何がしかが存在するということだった」(206)


・作文
 8:09 - 8:53 = 44分
 10:00 - 10:07 = 7分
 13:20 - 14:54 = 1時間34分
 16:40 - 17:11 = 31分
 17:51 - 18:49 = 58分
 23:55 - 24:10 = 15分
 計: 4時間9分

・読書
 9:19 - 9:43 = 24分
 10:42 - 11:45 = 1時間3分
 15:05 - 15:48 = 43分
 18:51 - 19:23 = 32分
 19:55 - 20:09 = 14分
 20:18 - 20:57 = 39分
 21:26 - 23:48 = 2時間22分
 24:20 - 24:50 = 30分
 計: 6時間27分

  • 2018/1/5, Fri.
  • 2016/9/1, Thu.
  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』: 169 - 211
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」; 2019-01-04「千の夜を越えて指折り数えるが何を数えているのか知らない」
  • 2018/12/24, Mon.
  • 2019/1/5, Sat.
  • 2018/12/31, Mon.
  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年、書抜き
  • 「思索」; 「気分と調律(6)」; 「気分と調律(7)」

・睡眠
 2:00 - 7:10 = 5時間10分

・音楽

  • 川本真琴 "タイムマシーン"
  • Sarah Vaughan『Crazy And Mixed Up』
  • scope『自由が丘』
  • Blue Note All-Stars『Our Point Of View』
  • Bobby Timmons Trio『In Person』
  • Bojan Z『xenophonia』
  • Bon Jovi『One Wild Night Live 1985-2001』
  • Jakob Dinesen『Everything Will Be All Right』




鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年

 しかしながら、彼が一つの考えに落ち着くたびに、またもや、おまえは嘘をついているというあの不可解な抗議が起こった。それはまるで、なん度繰り返してみても執拗に余りが出る割算をいつまでも続行しなければならないかのようでもあり、あるいはまた果てしない結び目を解こうとして火照る指を傷つけるほどに熱中することにも似ていた。
 (76; 「テルレスの惑乱」)

     *

 たった今経験したばかりのことをもっぱら取入れた考えだった。つまり、遠くから見れば大層大きく、秘密に満ちているように見えるものが、近くに来ると常に単純で、歪みも見せず、自然のありふれた釣り合いを示すという考えであった。まるで人間の周囲には目に見えぬ境界線が張り巡らされているかのようだった。その境界の外で用意され、遠くから接近してくるものは、霧の海にも似て巨大な、変化する形象に溢れている。一方、人間に歩み寄り、行為となり人間の生に突き当たるものは、明白で小さく、人間にふさわしい次元と、人間にふさわしい輪郭を持っている。人が生きる人生と、感じ、予感し遠くから眺める人生との間には狭い門のような目に見えない境界が横たわり、その門を通って人間の中に入って行くには、様々な出来事の映像は圧縮されねばならないのだ。
 (124; 「テルレスの惑乱」)

     *

 (……)そうなのだ、彼の内には、言葉によってそれを求めればまだとうてい感情とはいえぬ、感情があった。それは感情というよりもむしろ、あたかも彼の内で何かが長く伸びて、その先端をすでにどこかにひたし、濡らしつつある、そんな感じだった。彼の恐れが、彼の静けさが、彼の沈黙が。ちょうど、熱病の明るさを思わせる春の日にときおり、物の影が物よりも長く這い出し、すこしも動かず、それでいて小川に映る像に似てある方向へ流れて見えるとき、それにつれて物が長く伸び出すように。
 (171; 「静かなヴェロニカの誘惑」)

     *

 それは理想なのだ、と彼はあの時すでにそう思っていた。それは精神の濁りでもなければ、魂の不健全さのしるしでもなくて、ひとつの全体への予感、どこかしらから尚早にあらわれた予感であり、もしもそれらの予感をひとつにつかねることに成功すれば、そのとき何かしらが、一撃のもとに地を裂いて湧き出すように、想念の細かく分かれてたその先端から、戸外に立つ樹々の梢にいたるまで、物すべてをつらぬいて昇り、ごくささやかな身ぶりにも、帆にはらんだ風のようにみなぎるだろう。(……)
 (172; 「静かなヴェロニカの誘惑」)