2019/1/6, Sun.

 五時二〇分頃一度覚める。ふたたび眠りに入り、七時二五分頃起床。ベッドを抜け出しダウンジャケットを羽織り、上階へ。母親におはようと挨拶をしてストーブの前に座り込む。おかずは特にないと言うので、例によってハムエッグを作ることに。便所に入ろうと思ったら父親が入っていた。それで先に台所に入り、フライパンに油を引き、ハムを四枚敷いて卵を二つ投入する。熱しているあいだに丼に米をよそり、ハムエッグが良い塩梅になったところでその上に搔き出す。ほか、前夜の味噌汁の残りを温め、卓に就いて食事を取ろうというところが、新聞が見当たらないので玄関を抜ける。息が白く染まる。戻って新聞記事をチェックしながらものを食べる。食べ終えて薬を飲んだあとも椅子に座ったまま記事をいくらか追う――「改憲戦略 仕切り直し 首相・自民 国民投票法を優先 公明・野党に配慮」(三面)、「公営住宅 遺品放置1093戸 単身者死亡後 相続人捜し苦慮」(一面)、「仮設なお4800世帯 西日本豪雨半年」(一面)。そうして、正面で納豆ご飯を食べ終えた父親が皿を洗ったあとから台所に入り、こちらも食器を片付ける。時刻は八時頃。両親はそろそろ出かけると言う――王子の兄夫婦がロシア行きのために引っ越し準備に追われているのだが、そのあいだにMちゃんの世話をする係を受け持ちに行くということだったのだ。こちらは遠慮した――本を読みたかったためである。それで、まあすぐに自室に籠ってしまわずに、彼らが出かけるその見送りくらいするかというわけで、窓辺に寄って両親が出立するのを待つ。畑の斜面、薄緑色の下草は露を帯びて、草のなかにガラス玉が埋め込まれたようになっている。空は快晴、雲は南の山際に低く、横に広く連なったのが、昇りはじめた太陽を受けて翳を帯びており、左方には刷毛でひと塗り、さっと走らせたような鱗状の雲が掛かっていた。外を眺めるのにも飽きると、椅子に就いてふたたび新聞をひらき、「壁を越えて 3 プラごみ撲滅の戦い 回収と予防 美しい海守る」(七面)を途中まで読んだ。米国とハワイ沖のあいだの海域は「太平洋ごみベルト」と呼ばれており、そこに溜まるプラスチックごみの総量は約八万トン、ジャンボジェット五〇〇機分の重さを持ち、面積は日本の四倍以上になると言う。
 それで両親を見送ったあと、緑茶を用意して下階へ。Ambrose Akinmusire『The Imagined Savior Is Far Easier To Paint』を流し、早々と前日の記事を書き足す。仕上げてブログに投稿するとこの日の日記もここまで綴って九時一一分。たくさんの引用をしているため、連日記事が長々しくなっているが、これほど長いものを好んで読んでくれる人などいるのだろうか。
 それから日記の読み返し。まず一年前のもの。それほど書いていないし、光る記述もない。そうしたものがあったのは自分の文章ではなくて、その日の日記に読んだものとして引かれていたMさんのブログの文章で、こちらの頭が狂いかけていた昨年の一月三日、彼と通話をして話を聞いてもらったのだが、そこでの会話から導き出されたMさんの考察が面白かったので以下に引用させて頂く。

主体の解体=地盤の喪失というのがきわまった先にあるのはなにかといえば、それはこの世界がこの世界であることになんの根拠もないという無根拠性の実感にほかならないはずで、ハイデガー的にいえば根拠律の欠落ということになるのかもしれないし、ムージルの可能性感覚とも多少なりと響きあう話になるわけだが、この世界がこの世界である根拠がないというのは、換言すれば、この世界は別様の世界でもありうるという「信」、すなわち、この世界そのものの相対化という域である。ただ、相対化を果てまできわめてしまえばそれでおしまいかといえば、そうではなくって、ここからは完全に後期フーコーめいてくるのだが、問題はそこにおいてあらたにたちあげることが可能となる別なる「制度」「権威」である。この世界(という「制度」「権威」)を相対化しきった先にある、すべてがフィクションでしかないという「悟り」に達してはじめて、ひとはみずからを律する「制度」「権威」をみずからの手で作り出すことが可能となる(真なる自律!)。F田くんはそのあたりを後期フーコーと仏教の交点として見出すことができるのではないかと考えているらしかった。しかしながら、それだからといってそこであらたにうちたてる別様の「制度」「権威」が、いわば既存の「制度」「権威」とまったくもって異なる姿をとるとはかぎらないだろう。一休宗純の逸話など拾い読みしていると、あれは相対化の極北=自己解体=悟りの域に達したものの、あえてそこで別様の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をたちあげず、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をいわばある程度模倣する格好で倒錯的にたちあげたのではないか、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をあえてふたたびよそおうにいたったのではないかという感じがおおいにするのだ(というかそういうふうに彼の生涯が「読める」)。一休宗純だけではなくほか多くの風変わりな逸話をのこしている僧・仙人・宗教家・哲学者・芸術家などもやはり同様である気がするのだが(彼らはみな奇人・変人ではあるかもしれないが、決して狂人ではない)、しかしながらそれならばなぜ彼らはそのような擬態にいたったのかとこれを書いているいま考えてみるに、それは、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)からおおきく逸脱した「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)というのが、ほかでもない狂人でしかないーーそのような存在様態としてしかこの世界という「制度」「権威」内では認識・解釈できない主体になるーーからなのではないか。物語に対抗するために有効なのは非物語ではない。意味に対抗するために有効なのは無意味(ナンセンス)なのではない。物語に対抗するために有効なのがその物語の亜種に擬態しながらも細部においてその大枠をぐらつかせ、亀裂をもたらし、内破のきっかけを仕込むことになる致命的にしてささやかな細部(の集積)であるように(体制内外部!)、既存の「制度」「権威」に変化を呼び込むのは(「くつがえす」のではない)、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)に擬態する狂人なのではないか(これは蓮實重彦が想定する「物語」と「小説」の対立図式を踏まえた見立てだ)。狂人でありながらこの世界を生きるために狂人でないふりをするほかない役者の芝居、演技、その上演の身ぶりこそが、いわば革命の火種をいたるところに散種する。芸術にかぎった話では当然ない。政治経済を含むこの社会全域において応用可能な話だ。革命は「転覆」ではなく、「変容」あるいは「(変容の)誘導」として、いわば永遠のプロセスとして試みつづけられている。という論旨になるとなにやら『夜戦と永遠』めいてくるわけだが、これはしかし換言すれば、「動きすぎてはいけない」(千葉雅也)ということでもある。狂人としてふりきれてしまうのでもなく、かといって既存の主体におさまるでもない、既存の主体に擬態しながらも部分的にその枠からはみだしてしまっている、そのような「中途半端さ」(これは今回の通話におけるキーワードである)にとどまるという戦略。

 それから二〇一六年八月三一日。当時のブログに公開していたなかでは最後の記事である。最後の日に相応しく、ブログや日記について自分が考えるところを考察しているので、これもまた長くなってしまうが以下に引いておく。

 書きながらブログについてふたたび考えたのだが、結論としては、少なくともいまのブログは引き払うことに決めた。なぜなら、隠遁によってテクストが生の記録としてより完全なものへと近づくと思われるからで、だとしたら迷う余地はない、人目から隠れることは必須である。しかし同時に、ひらかれた場所にテクストを置いておきたいという気持ちも残っていて、それにはいくつかの理由がある。そのなかには単純な自己顕示欲のようなものもあるのだろうが、もう一つ挙げられるのは、文学的(芸術的?)野心のようなもの――すなわち、以前から折にふれて表明していることだが、自分が死ぬまでのすべての一日を記し、集積した文章、生そのものと同じくらい長く続く絵巻物、ほとんど永久と思えるまでに続く一冊の書物のようなものを、世界の一角にごろりと転がって座を占めている巨大な畸形生物のようにして、電脳空間の片隅に鎮座させたいという欲望があるのだ。そして、いま物質的な肉体を持って現実に生きているこの自分の存在が、生身を離れて匿名的な言葉の上だけの存在と化し、自分の生に現れたさまざまな人間たちもまるで虚構の小説の登場人物のように、実際のその人のことを誰も知ることができないまま、ただ文字のみで構成された人間として立ち現われ、漂流していく――そうした事態を考えるのは魅力的なことだ(こうしたロマンティックな誇大妄想を排除できない、ナイーヴな性向を持っているのだ)。ほかには単純に、完全に外界から切り離された場に引き籠るよりは、かろうじてひらかれた場で、他者に対して何らかの作用を及ぼす可能性が(少なくとも可能性だけでも)確保されていたほうが良いのではないかという気持ちもあるし、その延長で、自分の文章を読んでくれていたはずの、具体的に名も顔も知っている個人や、名も顔も知らない誰かとの、ある種の密かな連帯感のようなものが失われてしまうことにも多少の寂しさを覚えないでもない(親しみという観点から言って、この文章を読んでいる人間は明らかに肉親よりも自分のことをよく知っているし、こちらの気持ちとしても、家族よりも強い親近感を覚えるのだ)。孤独と連帯という二つの相剋する道を繋ぐ折衷案は、二つある。一つは制限公開で気の許せる人間にだけ読んでもらうこと、もう一つは、こちらの具体的な素性に繋がるような情報は排して、公開して支障のない部分――そして公開する価値のあるほど良く書けたと思える部分――だけを断片的に公開することである。後者の場合、それはロラン・バルトが試みた「偶景」のバリエーションの一つのようなものになると思われるのだが、どちらかと言えばこちらの案には魅力を感じない、というのも、この種の文章はやはり一日一日が全体として欠けずにまとまっていて意義を成すものではないかという気がするからだ。実行するとすれば前者だが、こちらの道を実際に取るかどうかも、いまのところは未定である――この八月三一日の夜の時点でもそうだったし、この文章を書き付けている九月一日の夜においてもそうだが、別に誰にも読まれなくても良いかな、という消極的な気持ちが立っているのだ。完全に隠遁して自分のコンピューター内に引き籠ったところで、自身がいまと変わらず、性懲りもなく毎日を記し続けるだろうことを、自分は既に知っている――なぜなら、人は読まれることによって書くのではなく、自分の欲望によって書くからだ。その場合、生の記録は、(現在と未来の)自分自身のみを読者とした閉鎖的な営みと化すわけだが、しかしこの「読者」はそれに尽きないものをもはらんでいるのではないか――純粋な観念としての「読者」が、自分の頭のなかに存在しているような感じがするのである。そのことに気付いたのは、ブログから離れたあとの自身を考えてみたとして、自分はそれでもいまと変わらず、文体を整え、自分自身だけに向けて書くのなら不必要なはずの生活の背景的な説明などを、懇切丁寧に綴るだろうと思われたからだ。ある種の作文者は、こうした観念上の「読者」を頭のなかに抱いており、それは現実には親しい友人や単なる知人や赤の他人など、さまざまな水準で具体化されるものの、究極的にはその人の文章は、最も抽象的なレベルの「読者」に向けた報告のようにして綴られるものなのかもしれない。こうした態度はおそらく宗教的なもの、信仰のそれに近いものだと思われる――そう考えた時にうっすらと光を放って共鳴しはじめるのは勿論、フランツ・カフカが日記に書き残した、「祈りの一形式としての執筆」という言葉である(ここでいう「読者」を「神」に、日々言葉を綴り続けることを、敬虔な信仰者の毎日の祈りに置き換えても整合するはずだ)。そしてそれとともに連想されるのは、ヴァージニア・ウルフが小説のなかで、なぜパーティをひらくのかと自問するダロウェイ夫人に独語させた「捧げ物」の一語、「捧げ物をするための捧げ物」という一言であり、また、作家生活晩年のローベルト・ヴァルザーの執筆態度である。いわゆる「ミクログラム」――掌大の紙片に、一、二ミリほどの、常軌を逸したかのような微小な鉛筆文字として綴られた原稿――をヴァルザーは、誰にも読ませるつもりがなかったはずなのだが(なにしろその内容を明らかにするのに研究者による長年の「解読」が必要だったわけだし、また、W・G・ゼーバルト『鄙の宿』には、精神病院で彼の看護人だった人物の証言として、「人に見られていると思うや」、「まるで悪いことか恥ずかしいことでも露見したかのように、そそくさと紙片をポケットに押し込んでしまった」ヴァルザーの姿が紹介されている)、それにしてはその時期の文章には、「読者」に対する呼びかけが頻繁に見られ、その存在を前提とした書き方がなされている。その不思議について知人との会話で触れた時には、未来に自分の原稿が陽の目を見ることを期待していたのか、それとも単なるそれまで築いてきたスタイルの(いささか惰性的な?)持続に過ぎなかったのか、と話したのだが、おそらく事態はそのどちらにも留まるものではない。ヴァルザーはきっと、「読者」を前にしていたのだ、といまの自分には思えるのである。

 それでは今から、前日にムージル「テルレスの惑乱」の「沈黙」一覧を作ったように、今度は「静かなヴェロニカの誘惑」の「獣」一覧表を作ろうと思う――しかし、こんなことをして果たして何か意味はあるのだろうか? とは言え、読むこととはきっと、ここにこれがある、と明確に指差すことから始まるはずだ。
 ・「ところがそのとき、あなたは相手のすごんだ顔を見て、痛みをひときわ強く感じはじめて、とたんに相手にたいしてひどい恐れをいだいたのだわ。(……)そしてふいにあなたは微笑みだした。(……)あのあとであなたはあたしに、僧侶になりたいと言ったわね……そのとき、あたしは悟ったのだわ、デメーターではなくて、あなたこそ獣[けだもの]だって……」(174~175)――初出。これ以降、このテクストには「獣」の文字が折に触れて、場所によってはほとんど一、二頁ごとに現れ出す。
 ・「「あなたはなぜ僧侶にならなかったの。僧侶にはどこか獣じみたところがあるわ。ほかの人なら自分自身のあるところに何もない、この空虚さ。着物にまでその臭いのまつわりつく、この穏和さ」(175)――ヴェロニカにとって「獣」じみているとは、「自己」の消失と関連しているらしい。
 ・「上[かみ]の村の農家のおかみさん」「あの人はもう愛する人というものがなくて、二頭の大きな犬だけを相手に暮らしていたの。(……)この二頭の大きな獣がときどき歯をむいて立ち上がるところを思い浮かべてみて。(……)かりにあなたがおなじ獣だとしたら、と考えて。実際にあなたはどことなく獣なんだわ。獣たちの肌をおおう毛をたいそう恐れるけれど、あなたの内側にのこされたごく小さな一点を除けば、そうなんだわ。ところが、いい、次の瞬間主人がちょっと身ぶりをしてみせると、もうだめなの。おとなしく、這いつくばって、ただの獣にもどってしまうのですって。それは獣たちばかりのことじゃないわ。あなたこそそうなのよ。そうしてひとつの孤独を守っているのだわ。(……)あなたこそ、毛につつまれた空っぽの部屋なんだわ。そんなもの、獣だって願いやしない。獣というよりも、あたしにはもう言葉であらわせない何かなんだわ」(176)――「毛につつまれた空っぽの部屋」――「獣」は「空っぽ」なものであるらしい。上記の「空虚さ」と相同的だろう。また、ヨハネスは、ヴェロニカにとっては言語を越えた存在であるらしい。
 ・デメーター。「俺の内にはときどきわけもなく突っ立つものがあるんだ、樹のように揺れるものが、およそ人間離れしたすさまじい音が、子供のガラガラ[﹅4]みたいな、復活祭の叫喚みたいな……俺は屈みこみさえすればもう自分が獣になったように思えてくる……ときどき顔に色を塗りたくりたくなる……」(178)
 ・デメーターはヴェロニカにとって、「男としては、あたしにとってほかの誰かれとおなじ疎遠な人のままだったのよ。だけど、あの人の中へ流れこんでいくさまを、あたしはふと思い浮かべたの。そして唇の間から滴となってまた落ちてくるのを。水を呑む獣の口の中へ吸いこまれたように、どうでもよく、ぼんやりと……」(178)
 ・「それほどまでに自分をなくしたものに、人間ならば、なれるものじゃない、そんなふうになれるのは獣だけ……どうか助けて、この話になると、なぜあたしはいつも獣のことばかり考えるのかしら……」(180)
 ・「それほどまでに自分をなくしたものに、人間はなれるものじゃない、そんなふうになれるのは獣だけよ……」(181)
 ・「彼女がその強い異様な官能性を、人の知らぬ病いのように身にまつわりつけて彼のそばを通りすぎるとき、彼はそのつど、彼女がいまこの自分を獣のように感じていることを、思わずにいられなかった」(182)
 ・「バーナード犬」「胸のところ」「この大きな秩序の中にどれもこれも小石のようにじつに単純に従順におさまっているけれど、それでもそのひとつひとつを取り分けて眺めれば、どれもこれもおそろしいほどに内に入り組んで、抑えつけられた生命力をひそめている。それだもので、感嘆して見つめるうちに、いきなり恐れにとりつかれる。まるで前肢をひきつけてじっと地に伏せ、隙をうかがう獣を、前にしたときのように」(183)
 ・「さらに巨人が愛に駆られておそいかかってきたなら、山鳴りのように足音が轟いて、樹々とともにざわめいて、風にそよぐ細かな毛が自分の肌に生えて、その中に毒虫が這いまわり、言いあらわしようもない喜びにうっとりと叫ぶ声がどこかに立ち、そして自分の息はそれらすべてを虫や鳥や獣やの群れとひとつにつつんで、吸い寄せてしまうことになるのではないかしら」(184)
 ・「身を起そうとした瞬間、犬の舌が生暖かくひくひくと触れるのを、顔に感じた。独特なふうに彼女は痺れた、まるで……まるで彼女自身も獣になったように」(184)
 ・「彼女が求めるものにすでに近づいたかと思うと、そのつど一頭の獣がその前に立ちはだかる。そのことが彼女を不安にさせ、苦しませた。ヨハネスのことを思うと、しばしば獣たちの姿が心に浮かんだ。あるいはデメーターの姿が」(188)
 ・「彼女にはヨハネスが一頭の大きな、力つきた獣、どうしても自分の上から転がしのけることのできない獣に思われ、自分の記憶を、ちょうど小さな物を手に熱く握りしめているふうに内に感じた」(191)
 ・「そうして二人は並んで立っていた。そして風がいよいよ豊かに道を渡ってきて、まるで一頭の不思議な、ふくよかな、香りのよい獣のようにいたるところに身を横たえ、人の顔をおおい、うなじへ、腋へ入りこみ、そしていたるところで息をつき、いたるところで柔らかなビロードの毛を流し、人の胸のふくらむそのたびにいよいよひたりとその肌に身を押しつけ……」(192)
 ・「そして二人は肩を並べて立ち、大きな真剣な姿を浮きあがらせた。まるで夕空の中に背をまるめて立つ二頭の巨大な獣のように」(193)
 ・「子供たちと死者たちには魂というものがない、あのような魂はないのだ。そして獣たち。獣たちはその威嚇する醜悪さによってヴェロニカをぞっとさせるけれど、点々と刹那ごとに滴り落ちる忘却を目にたたえている」(196~197)
 ・「ヴェロニカもまたつねにどこだかに一頭の獣がいるのを知っていた。誰でも知っているとおりの、悪臭をたてるぬらぬらとした肌の獣がいるのを。しかし彼女にあっては、それは目覚めた意識の下をときおり滑っていく、落着きのない、姿かたちもはっきりしない暗い影、あるいはまた、眠る男に似てやさしくはてしない森、そんなものでしかなかった。それは彼女の内ではすこしも獣じみたところがなく、ただ彼女の魂におよぼすその影響が、いくすじかの線となり、どこまでも長く伸びていくだけだった。するとデメーターは言った、屈みこみさえすれば俺はもう獣になる……と」(197~198)
 ・「彼女は思った、神とこの人が呼ぶのは、あの異なった感触のこと、その中で彼が生きたいと願っているひとつの空間の、おそらくその感触のことなのだ、と。そんなことを考えるのも、彼女が病んでいるからだ。しかし彼女はこうも考えた。獣というものも、そんな空間と同じなのかもしれない、と。そんな空間と動揺に、すぐ近くを通り過ぎていく時には、目の中に入った水のようにさまざまな大きな姿かたちへ散乱するが、外にあるものとして見れば、小さくて遠いものでしかない。なぜ、童話の中ではあんなふうに、姫君たちを見張る獣のことを考えることがゆるされるのだろう。あれも病いなのか」(198)
 以上である。結局こうしてすべての箇所を抜き出してみてもやはり、「獣」の意味と射程は判然とせず、謎めいていて、脳内に何の考察も構成されず困惑させられるばかりである。
 それから、棚に積み上げられている本類のなかから、岩波文庫版の『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』を取った。松籟社の『ムージル著作集』の版は一九九五年、文庫版は一九八七年なので、松籟社版も新訳かと思いきや、読み比べてみると違っている。文庫化に当たって、相当に改稿したようだった(ヨハネスの「神」に対する呼びかけなど、「あなた」だったのが「おまえ」に変わっている)。新訳のほうもいずれは読み返してみなければならないだろう。それから古井由吉『ロベルト・ムージル』も手に取って、「静かなヴェロニカの誘惑」についての考察を流し読みしたあと、上階に上がって風呂を洗った。時刻は一一時半というところだったろうか。散歩に出るか、ものを食べるか迷ったが、空腹で外に出ては寒いだろうと先に食事を取ることにした。戸棚からカップ蕎麦を取り、粉末スープを入れて湯を注ぐ。合間に前日から残った大根の葉の炒め物を温め、生野菜のサラダも冷蔵庫から取り出す。それぞれ卓に運んで、まず大根の葉に醤油を掛けて食べてしまい、それからカップ蕎麦の蓋をひらいて搔きまぜた。七味を入れ、搔き揚げも乗せて、新聞を読みながら麺を啜る。先ほどのプラスチックごみ関連の記事を読み、さらに同じ国際面から、「「台湾の核心的利益と衝突」 蔡総統、習氏演説を批判」、「海底地名 中国活発申請 沖ノ鳥島南方 4件受理されず」の記事も読んだ。そうして食器を片付け、散歩に向かう。
 部屋に鍵が見つからなかったので――前日に履いたズボンに入れっぱなしのままだったかと思うのだが、そのズボンは両親がクリーニング屋に持って行ってくれているので確認できない――勝手口の鍵を持って、靴を玄関から台所のほうに運んで出かけた。朝は光の通る快晴だったところが、昼前から曇り出し、雲は毛布のような襞を成して空の全面を覆っている。風が吹けばやはり冷たく、張りのある空気だった。小公園では桜の木が二本、皮膚病のような緑の苔に覆われ、裸の枝を広げて静まっている。坂を上り、裏路地を行く。FISHMANS "チャンス"が頭に流れていた。太陽は雲の薄らいだ部分に辛うじて白さを引っ掛けており、路上に日向と日蔭の境も生まれないが、肩口に暖気が淡く漂うように感じられた。街道に出たが通りを渡ってふたたび路地に入る。日曜日で人のいない保育園を過ぎる。道の途中の諸所で柚子の木が、丸々とした実を垂らし、その黄色ももういくらか煤けたようになっている冬の日和である。駅にまっすぐ向かわず道を折れて、線路の上を掛かる短い橋を渡った。そうして駅を過ぎ、悪魔の手のように節張っている梅の木の前を通りながら、Hさんにメールを送ろうかなと考えた。頭のなかで散漫に文言を回しながら歩き、坂を下ると、歩いてきたいくらか温まった身体に微風が流れて、顔の冷たさが心地良いようだった。
 帰宅すると緑茶を用意して室に帰り、WITTAMERの、マカデミアナッツの入ったチョコレート・クッキー(先日の会食の時にT子さんから頂いたものだ)を食べ、茶を飲みながら、Hさんへのメールを綴った。一〇分ほどでさっと書き、口に出して読み返して推敲してから送ったが、アドレスを見て半ば予想していた通り、もはやこのアドレスは使われていないと返ってきた。彼女はTwitterもやっているのだが、こちらをフォローしていないためダイレクトメッセージを送ることができない――Tumblerのほうにコメントしてみようかとも思ったが、ひとまず機会を待つことにしてこの問題は措いておいた。
 それから他人のブログを読む。その後、沖縄関連の書抜きの音読での読み返しも行い(一二月三〇日から二八日まで)、Twitterをちょっと覗いてから鎌田道生・古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』を読みはじめた。「愛の完成」に入っている。「静かなヴェロニカの誘惑」と比べるとまだしも読みやすく、意味が取りやすいように感じられる。「ヴェロニカ」は記述がとにかく抽象的・観念的で神秘的と言っても良いかもしれないが、「愛の完成」のほうは観念的なイメージと具体的な描写との配分がバランス良く、地に足ついた安定的な記述が折々に配されており、作品世界のなかで時空を見失わないで済むようだ。その点、「愛の完成」のほうが小説的と言えるかもしれないのだが、これはもしかすると傑作ではないのだろうか。それに対して「ヴェロニカ」のほうは通常の意味での「傑作」の枠を越えたもののように思われる――その点で、ウルフの『波』とか、同じムージルの『熱狂家たち』を連想させる。説得したり納得させたりするのではなく、読む者をただひたすらに困惑させ続ける類のテクスト。ロラン・バルトの次の記述が想い起こされる。

 『S/Z』の中で、ある対立関係が提案された、すなわち、《読みうること》/《書きうること》である。《読みうる》テクストとは、私がふたたび書くことのできるとは思われぬテクストである(今日(end181)私に、バルザックのように書くことができるか)。《書きうる》テクストとは、私が、自分の読み取りの体制をすっかり変えてしまわないかぎり、苦労しながらでなければ読めないテクストである。ところで、いま思案中なのだが(私のもとへ送りつけられるある種のテクスト群から示唆を受けてのことだ)、もしかするとテクスト的実体として第三のものがあるのかもしれない。読みうるもの、書きうるものと並んで、《受け取りうる》ものとでもいうような何かがありそうなのだ。《受け取りうるもの》とは、読みえないものであって、挑発するもの、そして、あらゆる真実らしさの外にあって絶えず産出されつづける、燃えあがるテクストである。また、その機能は――あきらかに見て取れるとおりその書き手が引き受けている機能は――著作物をめぐる金もうけ主義の制約に対して異議申し立てをするところにあるらしい。そのテクストは、《刊行不可能》という思想によって主導され、武装されており、みずからのもとへ次のような返信を呼び寄せそうである。すなわち、あなたの産出なさっているものは、私には読むことも書くこともできません、しかし私はそれを《受け取ります》、火として、刺激剤として、謎めいた組織破壊作用として。
 (佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルト』みすず書房、一九七九年、181~182; 読みうること、書きうること、そしてそれを越えて Lisible, scriptible et au-delà)

  • ●213: 「彼女にとってこの男の背後からすでにほのかに顕われはじめた何ごとかを話しているのだということが見えた」――ムージルの登場人物は、「背後」にある何ものかを見ようとする。
  • ●215: 「現実には、あたしはあなたのそばにいたのよ。だけどそれと同時に、ぼんやりとした影ほどにあたしは感じたの、あなたから離れても、あなたなしでも生きられるように」――「現実」(そば)と「影」(離れて)の共存、同時性。
  • ●215: 「ときどき物という物がいきなり、二度にわたって現われることがあるものよ。一度はふだん知っている張りのある鮮やかな姿で。それからもう一度、今度は蒼白くて、ほの暗い、何かに驚いた姿で」――「物」の二重性。→●「テルレス」74: 「事物も出来事も人間も、なにか二重の意味を持つものとして感じ取るという感覚が狂気のようにテルレスを襲った」。
  • ●215: 「あたしはあなたをつかんで、あたしの中へ引きもどしたかった……それからまたあなたを突きはなして、地面に身を投げ出したかった」――両義性。相反する感情の同時性。愛する気持ちと遠ざける気持ち。
  • ●216: 「彼女は長いあいだ見たところいつも誰かしら男に完全に支配されていた。ひとたび男に支配されるとなると、やがて自分を投げ棄てて、自分の意志というものをまったく持たなくなるまでに、男の言いなりになれたものだった」――過去のクラウディネの男への服従。自己の放棄。
  • ●216~217: 「いずれ屈従にまで至りつく強い情熱の行為を彼女はさまざま犯し、それに苦しめられた。にもかかわらず、自分のおこないはどれも結局のところ自分の心には触れないのだ、ほんとうは自分と何のかかわりもないのだ、という意識を片時も失わなかった」――離人感?
  • ●217: 「現実の体験のあらゆる結び目の背後で、何かが見出されぬままに流れていた。彼女は自分の生のこの隠れた本性を一度としてつかんだことはなかった」――「背後」への志向。ムージルにおいて、物事の本質・本性は事物の背後に隠されている。「物の二重性」もそれと関わるだろう。すなわち、事物は表層と深層=真相を持っていて、本質はいつも深いところ/裏のほうにある。そしてその本質は、言語によって完全に捉えきることができない。→「テルレス」70: 「彼が先ほどバジーニのことを思い浮かべたとき、その顔の背後に二つ目の顔が朧げに見えはしなかっただろうか?」
  • ●217: 「彼女は何が起ころうとそれについて客人のよそよそしい気持しかいだかなかった」――離人感?
  • 218: 「見たところ落着きはらった慇懃な物腰で人々の間を歩みながら、じつは自分が是非もなくそうしているのを彼女は感じ、そのことを屈辱のように心の底で病んだ」――「心の底で病んだ」の言い方が珍しい。
  • ●219: 「彼女はようやく夫のことを思い、その思いは雪の湿りをふくんだ空気のように柔らかでけだるい幸福感につつまれたが、あらゆる柔和さにもかかわらず、なにやらほとんど身動きをさまたげるものがあった。あるいは、病が癒えかけて、ながらく部屋になじんだからだが、はじめて戸外へ足を踏みだすことになったときの、思わず立ち止まらせ、そしてほとんど苦痛をあたえる幸福感が。その背後にはひきつづき、漠として揺らぐあの音色が、彼女にはとらえられぬままに、遠く、忘却の中から、呼んでいた。幼い日の歌のように、ひとつの痛みのように、彼女自身のように」――「背後」及び「音色」のテーマ。
  • ●219: 「感覚は冴えざえとさめて、物に感じやすくなっていた。しかしその感覚の背後で何かが静まろうとし、伸びひろがろうとし、世界を滑り過ぎさせようとしていた」――「背後」のテーマ。そこには「何か」がある。
  • ●220: 「彼女は夫とともにこの世界の中で、ひとつの泡だつ球体の内に、真珠と水泡と、羽毛の軽さでさざめく雲片とに満たされた球体の内に、生きている心地がした」――「「球体」のテーマ。クラウディネは今電車のなかにいて、夫とは離れているが、それにもかかわらず「夫とともに」球体に包まれている。→●213: 「木々があり、草原があり、空があり、そしていきなり、なぜすべてがここでは青く輝いて、かしこでは雲に覆われているのか、わからなくなる。二人はこれらの第三者がそろって自分らを囲んで立っているのを感じた。ちょうどわれわれを包みこみ、ときおり、一羽の鳥が不可解に揺らぐひとすじの線を刻みこんで飛び去るそのとき、見なれぬ透明な姿でわれわれを見つめ、そして凍えさせる、あの大きな球体のように。夕べの部屋の中にひとつの孤独が、冷たい、はるばるとひろがる、真昼の明るさの孤独が生じた」――世界の不可解さ。疎外感? 先の部分では、クラウディネは列車の外を風景/事物が流れ過ぎて行くのを見ながら、「陽気で軽快なもの」「心やさしい感じ」を覚えているが、この部分では「球体」に包み込まれることは、「凍えさせ」、「孤独」をもたらすものである。前者では、夫と離れていながら「夫とともに」「生きている」のに、後者の箇所では夫とともにいながら「孤独」が生じている。
  • ●220: 「何かしら圧迫が身から除かれたように感じられ、彼女はふと、一人でいることに気がついた」→●219~220: 「そこにはなにやら陽気で軽快なものがあった。壁がひらいて視界がひろがったような、なにやら解きほぐされて重みを取り除かれたような、そしていかにも心やさしい感じが」――「圧迫」や「重み」が取り除かれる。
  • ●220~221: 「愛する人間への関係の中には、たくさんの問いが考えつくされぬままにのこるものだ。共同の生活はそのような問いが考えつくされるのを待たずに、問いを乗り越えて、築きあげられなくてはならない。そしてのちになると、ひとたびできあがった生活は、ほかの可能性をただ思い浮かべるだけの力さえ、もう余してはおかない。それからある日、道端のどこかに一本の奇妙な杭が立ち、ひとつの顔があり、なにやら香りがためらい、石がちの草むらの中へ、まだ踏み入ったことのない小径[こみち]が消えるのが見える。ほんとうはひきかえさなくてはならない、見にいかなくてはならないのだとはわかっている。しかしすべては前へ前へと走ろうとする。ただ蜘蛛の糸か、夢か、さらさらと鳴る枝か、そんな何かが歩みをためらわせ、まだ生まれない思いから静かな痺れが放射してくる」――「愛する(……)余してはおかない」まではわかりやすい。一種のアフォリズムと言うか生活訓と言うか、ともかくも容易に納得の行く言明である。ところが、その直後、「それから」以降は突然イメージの世界へと飛躍しており、全体としてどのような意味を指しているのか途端にわかりにくくなる。記述の位相がまるきり変化している。
  • ●221: 「クラウディネは幸福のさなかにあってもときおり、これはただの事実にすぎない、いやほとんど偶然にすぎない、という意識におそわれることがあったおそらくもっと違った、遠く思いもおよばぬ生き方が、自分のために定められているにちがいない、と思った」――ここで言う「幸福」とはおそらく、夫との生活のことだろう。それに根本的なところで必然性がないことをクラウディネは予感している。その「幸福」と違った、「遠く思いもおよばぬ生き方」とは、この小説中で起こる姦通を暗示し、記述のレベルでそれを下準備しているのかもしれない。そしてその事件は「定められている」。避けられない運命としてあるということか?
  • ●221: 「あるいは、それはひとつの孤独な幸福、何よりもはるかにすばらしいものなのかもしれない」――夫から離れて、「遠く思いもおよばぬ生き方」をすることは、「孤独な幸福」なのかもしれない。今ある愛の生活とは異なった生き方。
  • ●221~222: 「ときおり、彼女には自分が未知の愛の苦しみへ定められた者のように思われた」――「事件」の暗示か?
  • ●222: 「赤裸な、力なく生と死との間に掛かる冬の日々に、彼女はなにやら憂愁を感じた。それは通常の、愛を求める心の憂鬱とはならず、いま所有しているこの大いなる愛を捨て去りたいという、憧憬に近いものだった。まるで彼女の前に究極の結びつきへの道がほの白み、彼女をもはや、愛する人のもとへは導かず、さらに先へ、何ものにも守られず、せつないはるけさの、ものすべてが柔らかに枯れ凋[しぼ]むその中へ、導いていくかのようだった」――「大いなる愛を捨て去りたいという、憧憬」。夫との愛は「大いなる」ものでありながら、しかし彼女はそれを捨てることを夢見ている。「究極の結びつき」というのは、あとに出てくる「究極の結婚」と同義だろうか。愛を捨て去り、姦通を行うことによってクラウディネは逆説的に究極の愛の地点に到る? そんな風にこの物語が書かれていたかどうかは、残りの部分を再読してみないとわからない。
  • ●222: 「この途方もない鮮明さにおののくひと時の中にあって、もの言わぬ従順な物たちがいきなり二人から離れ、奇妙なものになっていくかに感じられた。物たちは薄い光の中に屹立し、まるで冒険者、まるで異国の者たち、まるで現ならぬ者たち、いまにも響き消えていきそうにしながら、内側ではなにやら不可解なものの断片に満ちていた」――世界からの疎外感? 「物たち」が馴染みのない、不可解なものになっていく。
  • ●222: 「そんなとき彼女は、ことによると自分はほかの男のものにもなれるのかもしれない、と思うことができた。しかも彼女にはそれが不貞のように思えず、むしろ夫との究極の結婚のように思えた。どこやら二人がもはや存在しない、二人が音楽のようでしかなくなる、誰にも聞かれず何物にもこだまされぬ音楽にひとしくなるところで、成就する究極の結婚のように」――この小説のメインテーマがここで明らかにされているはずだ。「どこやら」以降の音楽の比喩は美しい。「誰にも聞かれず何物にもこだまされぬ音楽」。
  • ●223: 「自分たちはことによると、ほとんど狂ったように心こまやかに響いてくる、かすかな、せつない音色を、そんな音色を耳にすまいとする声高な抵抗によって、ようやく愛しあっているのかもしれない、という思いにおそわれながら、彼女は同時にまた、いっそう深いもつれあいを、途方もないからみあいを予感するのだった」――「音色」のテーマ。ここの「音色」は、違った生き方をすること、あるいは姦通への誘惑を指しているのかとも思ったが、そう明示されてはいない。「ようやく愛しあ」いながら、同時に「深いもつれあい」を想像する。相反する事柄の同時共存がムージルの小説には多い。姦通が「究極の結婚」となるのはその最たるものではないか。
  • ●223~224: 「彼女の思いのせいか、それともほかの理由からか、なにやら目にさからうものが、空虚ながら頑なに風景の上をおおい、不快な乳濁した薄膜を通して物を眺める気持がした。あのせわしない、あまりにも軽やかな、まるで十本もの肢でうごめく賑わいが、いまでは堪えがたいほどに張りつめられていた。その内には侏儒[こびと]の小走りのようにあまりにも活発なものが、はしゃぎきって、人をからかうように、こまかくうごめき流れていたが、それも彼女にとってはやはり物言わぬ、生気もないものだった」――離人感? 「風景」は「賑わ」っており、その内に「活発なもの」が「うごめき流れて」いるが、クラウディネはそれを生き生きと感じることができない。
  • ●224: 「その虚無を前にして一枚の薄膜となり縮まりこみ、自分のことを思う不安を、この声なき不安を指先に感じ、そしてさまざまな印象が粟粒とこびりつき、さまざまな感情が砂と流れるその間、彼女はまたしてもあの独特な音色を耳にした。ひとつの点のように、一羽の鳥のように、それは虚空に浮かんでいるようだった」――「音色」のテーマ。何を指しているのかは判然としない。姦通への欲望のことだろうか?
  • ●225: 「そのとき、彼女は何もかもがひとつの運命であるように感じた。(……)そして彼女には自分の過去が、これからようやく起らなくてはならぬ何ごとかの、不完全な表現に見えてきた」――「事件」の予感だと思われる。
  • ●225: 「彼女の思いは、まわりの人間たちがいかにも大きく、甲高く、揺ぎなくなっていくのを感じた。それに怯えて彼女は自分の内へ這いこみ、自分の無と、重みのなさと、何かをひたすらめざす衝動のほかには、何ひとつ知らなくなった」――「知らなくなった」という言い方は古井由吉『白髪の唄』にも出てくる――「(……)人に棄てられた防空壕の中へ、お父さんには申訳ないけれど、火が吹きこんだら三人一緒に死にましょう、と飛びこんだきり、周囲のことは知らなくなった。妹の息のほかは、何も知らなくなった」(338)。「何ひとつ」「何も」の類同性から見ても、ここが元ネタだろう(意図的に取ってきたかどうかは知らないが)。/また、「重みのなさ」。→●225: 「家の中でさまざまな物音が部屋から部屋へさまよい歩き、自身はどの部屋にもなく、魂の重みを取り除かれて、なおもどこかしらに浮游する生をいとなんでいる、あの心地」→●225: 「そら恐ろしいまでに未知なものの重みを受けて、彼女の心はしだいにあらゆる拒絶の構えを、克服の意志の力を恥じはじめた」→●220: 「壁がひらいて視界がひろがったような、なにやら解きほぐされて重みを取り除かれたような、そしていかにも心やさしい感じが。彼女のからだからさえ、おだやかな重みがのぞかれていった」――クラウディネは「重み」を失い、軽くなって「浮游」する。
  • 226: 「彼女は夫のことを思い出そうとした。しかしすでにほとんど過去のものとなりかかった自分の愛を、長いこと窓をとざした部屋のような、いぶかしいものとしてしか思い浮かべられなかった。(……)そして世界は、ひとりのこされて横たわる寝床のように、ひんやりと冷たくて心地よかった。とそのとき、彼女にはひとつの決定が自分を待っていると思われた。なぜそう感じたか、自分でもわからなかった」――「愛」からの疎外。そこにあって「世界」は「心地よ」いものである。「ひとつの決定が自分を待っている」というのは、やはり「事件」の予感ではないか。
  • 226: 「この男が誰なのか、彼女は知らなかった。この男が誰であろうと、どうでもよいことだった。ただ、相手がそこに立って何かを求めているのを感じた。そしていまや何かが現実となりはじめているのを」――やはり姦通の予感か。
  • ●227: 「そしてさまざまな事実が不可解にも流れ動きはじめるとき、感じやすい人間たちが多くそうであるように、彼女はもはや精神のはたらきをもたぬことを、もはや自分ではないことを、精神の無力と、屈辱と、苦悩とを愛した。あたかも弱い者を、たとえば子供や女を、かわいさのあまり叩いてしまって、それから着物になってしまいたい、着物になってたった一人で自分の痛みを人知れずつつんでいたいと願うように」――「着物になってしまいたい」とは、唐突で不思議だが印象的な比喩。

 こうして気になった部分を写してきてみると、二番目のパートは繰り返し事件の「予感」を書き込み、全篇を通じてゆっくりと、クラウディネが姦通を犯すことの下準備を敷いているという印象を受ける。注意深く読めば、情事は予告され、ほとんど定められている。
 読書はBGMはAndre Ceccarelli『Carte Blanche』。ライブ音源を収めたディスク二の"All Blues"が相当に充実している。書見は四時過ぎまで。そうして日記を綴っていたが、ムージルの文章を写して考えを付していくのに時間が掛かり、五時を迎えてしまったので家事をやりに行く。上がると、まず食卓灯を点けてカーテンを閉ざす。南窓のみそのままにしたのは、外の風景が宵闇に包まれていくのを見たかったからである。そうしてアイロン掛け。海底にいるように青く暗い空気が、刻々と暮れて行く。背後からは食卓灯のオレンジ色の光が射し、目の前に置かれたアイロン台とシャツの上に、こちらの影が掛かって左右に動く。アイロン掛けを済ませると、食事の支度に掛かった。鶏肉のソテーを作ることに。葱と玉ねぎを切り、鶏むね肉も一口大ほどに分けて切り込みを入れる。そうして肉からフライパンに投入。蓋をして熱しているあいだに小鍋を火に掛け、椎茸と玉ねぎをもう一つ切る。味噌汁である。それらを鍋に投入しながら、フライパンには野菜も入れて、良いだろうというところで塩胡椒を振った。味噌汁のほうは「とり野菜みそ」で味付けをして、最後に溶き卵を垂らして完成。時間はまだ六時前だったが、腹が減っていたので早々と食べてしまうことにした。作った二品に米を加えて卓に並べ、新聞を読みながら食べる。「レーダー照射 「反論」映像 韓国で詳報 日本と関係悪化 懸念も」(二面)。食後、薬を飲み、食器を片付けて下階へ。緑茶を飲みながら日記の続きを作成する。そうして七時一五分。
 それからMさんのブログを読んだ。八時になったら風呂に入ろうと思っていたところ、まだ間があったのでそのまま、Mさんが紹介していた行方不明者の日記も読むことにした。特定非営利活動法人日本行方不明者捜索・地域安全支援協会という団体のホームページに載せられているものである。Mさんが推していた「アオエさんのダイアリー」をなかなか面白く読んだ。特に二〇〇四年一一月の二つの記事が良かった。放置されたパウンドケーキを見つけた「食わなきゃ餓死するんだしどうせなら食って死にたいというペシミスティックな自答」というのは生々しいし、「死ぬよりは生きるほうがいいと売春をし、いろんなひとのいろんなところを舐め、よってわたしは今スプーンをねぶることができる」という一節の「スプーンをねぶる」という言葉選びも印象的。一一月七日の記事は全篇を通して一つのリズムを持っているように感じられるので、以下に引用する。

鈍感であるのならいっそのこと不感だったらよかった。引っ越し引っ越しって全然うかれてない。ただ同じ業種でも東京ならもっと割のいい手取りになるから、それだけ。やさしさなんて言葉で言い表す自分からアクション取ろうとしない面倒くさがりの恋人さんとのセックスがどうしてもどうしても受け入れられなくなった、それだけ。綺麗に持っていくもの捨てるもの判別しちゃって、いつ出て行くことになってもいいようにって物は必要最低限に収めようとしてる生活態度、「進学したけど辞めました」って言う屈辱、保証人不用の安いとこ安いとこ探して、どこでもいいなんて本当は思ってない。石川啄木ですな、働けど働けどってな。まったくだよな、何もかも上手くいきやしねえよ。わたしは悪い事したよ、年齢不相応だとかそんなの悪いことなんてひとつだってしちゃあいけないのは知ってるよ、分かってる、だからもうしないって頑張ってるけど悪い事する前からどうしてわたしを傷つけたの、そんなに嫌いなら捨ておいたままにしておいてくれればよかったのに、どうせわたし男の子じゃなかったもの、みんなの望む通りの女の子じゃないもの、もうやだ、ぜんぶやだ、努力してるもの、でも羅針盤自体が狂ってたらどうしたらいいの、そんな誤差、正しい真北知らないもの、誰か教えてくれなきゃ修正できない
 (http://www.mps.or.jp/diary01/diary.php?year=2004&month=11&user=aoe22

 それで八時を迎えたので風呂に行った。浴室に入ると同時に、帰ってきた父親の車の静かな動作音が聞こえた。身体はやはり痒いが、ましになってきてはいる。それでも腰回りや二の腕などの赤くなっている箇所をぼりぼりと搔きながら浸かり、出ると櫛付きのドライヤーで頭を撫でて乾かした。居間に出て両親におかえりと挨拶をする。コンビニの焼き鳥を買ってきたと言うが、腹が減っていないので翌日頂くことにした。それでねぐらに帰り、ムージル「愛の完成」の続きを読みはじめた。BGMはJohn Coltrane『Live Trane - The European Tours』(Disc 1)に、Martha Argerich『Schumann: Fantasie In C, Fantasiestucke, Op. 12』John Coltraneも大概だが、Eric Dolphyもわりと頭のおかしいプレイをする。

  • ●227: 「やがて、彼女は自分たちがいま二列に並ぶ高い樹々の間を走っていることを知った。目的地に近づくにつれて狭まっていく暗い通路のような」――クラウディネが姦通へと追い込まれていくことの暗示か?
  • ●227: 「この男が誰なのか、彼女は知らなかった。この男が誰であろうと、どうでもよいことだった」――男の匿名性。その像は曖昧で、判然としない。
  • ●228: 「そしていきなり自分自身について、無力な、取りとめのない、まるで切断された腕でも振りまわしているこころもとなさを覚えた」――「無力」のテーマ。→●226~227: 「彼女はもはや精神のはたらきをもたぬことを、自分ではないことを、精神の無力と、屈辱と、苦悩とを愛した」→●225: 「彼女は自分の内へ這いこみ、自分の無と、重みのなさと、何かをひたすらめざす衝動のほかには、何ひとつ知らなくなった」
  • ●228: 「しかしすべては、まどろみの中で重苦しい夢を見ながら、それが現実でないことを、たえずすこしばかり意識しているのと似ていた」――現実感喪失、稀薄さ。
  • ●228: 「そのうちに、男が窓のほうへ身をかがめて空を見あげ、「われわれは雪に降りこめられることになりそうですな」と言った。/そのとき、彼女の思いは完全な目覚めへ、たちまち跳び移った」――突然の覚醒。なぜ男のこの発言が彼女の覚醒を呼んだのか、それは書かれていない。読者が読み取れるのは、発言がともかくも何らかの作用をクラウディネに及ぼし、覚醒の引き金になったということだけである。ここでは論理が読者の届かない深層に隠されている[﹅6]。あるいは隠されていると言うよりは、深層=真相があるように見えながらも、本当はそんなものは存在しないのかもしれない(つまり、ムージル自身にも作用の内実は不明だということだ)。
  • ●228: 「そして彼女は現実を、奇妙にひややかに、しらじらと意識した。しかし気がついて驚いたことに、それにもかかわらず心を動かされて、この現実の力を強く感じていた」――離人感? 現実からの疎外? しかしそれに留まるものでなく、「現実の力」に影響されている。
  • ●229: 「一瞬、細いうなりを立てて、心ならずも淫蕩な驚愕が、まだ名づけようもない罪を前にしたように、彼女の心をかすめた。(……)そして彼女の肉体はかすかな、ほとんどへりくだったような官能に満たされて、魂の奥処[おくが]をつつみかくす暗い覆いのようだった」――男を前にして彼女は「淫蕩」「官能」を覚える。男に性的に惹かれているということだろうか? だとしても、男の存在は情報が少なく曖昧なものであり、彼の「個性」の故に惹かれているわけではない――彼女は今のところ、男を魅力的な特殊性を備えた個性ある人間としては見ておらず、彼女が惹かれているのはおそらく、男自身ではない。
  • ●229: 「彼女は自分に言いきかせようとした。これは何もかも、見も知らぬ人間たちの間にまじって行く、この突然の一人旅の、幻覚とまぎらわしいまでに混乱した心の内の静けさのせいにすぎないのだ、と。またときには、これは風のせいなのだ、そのきびしい、焼けつく冷たさにつつまれて、自分は硬直し、意志を失ってしまったのだ、と思った」――彼女は「官能」と「不安」を覚えているが、それは「心の内の静けさ」によるものである。これは特殊な表現だと言うか、普通官能を覚えたり興奮したりする時は、それを例えば炎などの比喩で表し、その激しさを強調するものだと思うが、ここでは「静けさ」が用いられている。「風」も同様。/「焼けつく冷たさ」――両義性。/また、意志の放棄。自己放棄は彼女にとって、男に支配される生活を送っていた過去と結びつくものだと思われる。→●216: 「彼女は長いあいだ見たところいつも誰かしら男に完全に支配されていた。ひとたび男に支配されるとなると、やがて自分を投げ棄てて、自分の意志というものをまったく持たなくなるまでに、男の言いなりになれたものだった」
  • ●230: 「そしてこの弱さと官能こ彼女の愛におけるひとつの神秘な感情であるかのように、思われた」――「弱さ」は男に屈服=姦通したがっている自分の心というところだろうか? 官能と神秘の結びつき。性が「超越」と結びつくのは、「テルレス」以来のムージルの中心的なテーマだろう。
  • ●230: 「そして男のほうをまたしても眺めやり、おのれの意志の、つれなさと侵しがたさの、この呆然たる放棄を感じたそのとき、あかあかと彼女の過去の上に一点の光がかかり、彼女の過去をまるで名状しがたい、見知らぬ秩序をもつ遠方のように照らし出した。とうに過ぎ去ったはずのものがまだ生きているかのような、奇妙な未来感だった」――意志の放棄。おそらく彼女は自分の過去を想起している。「未来感」というのは、その過去(男に屈服していた過去)がこれから先の未来に起こるかのように感じられるということではないか。
  • ●230: 「(……)この橇の中にあるという取るに足りぬ現在(……)/それから、夜中になって、彼女は目を覚ました。(……)自分が獣のように素足を床におろしたのがぼんやりと見えた」――段落替えを挟んで場面が「橇」から宿の「部屋」に転換している。「素足」や「床」によってそれは書き込まれているし、あとには「部屋」や「戸棚」「寝台」などが出て来て明らかに判明するが、ちょっと注意を怠っているとまだ橇のなかにいるかのように読んでしまう箇所である。場面転換の素っ気なさ。また、「獣」のテーマ。
  • ●231: 「彼女はいきなり幻想的な興奮に熱くなるのを覚えた。低い声で呼んでみたかった。不安と欲情にかられて叫ぶ猫のように、真夜中に目覚めてここに立ちつくすこの身で」――「興奮」に「欲情」。彼女は男を求めている。
  • ●231: 「それから彼女はあの男の姿を思い浮かべようとこころみたが、それはうまくゆかず、ただ自分の思いの、用心深く前へ伸びていく獣じみた歩みを感じるばかりだった。わずかにときおり、あの男の何かしらを、実際にあったがままに浮かべた。髭を、輝き出た片方の目を」――男の外貌情報は「髭」と「片方の目」だけでその像は曖昧模糊として判然としない。また、「獣」のテーマ。
  • ●231~232: 「自分はもう二度とほかの男のものにはなれない、と彼女は感じた。ところがまさにそのとき、まさに彼女の肉体がただ一つの肉体をひそやかに求めて、ほかのあらゆる肉体に嫌悪をいだくそのとき、それとともに彼女は――まるで一段と奥深いところで――なにやら低く身をかがめていく動きを、眩暈を感じた。それはおそらく人間の心の不確かさへの予感、おそらくおのれへの危惧、あるいはただ、不可解にも無意味にも淫らをこころみる心、なおかつあのもう一人の男のやってくるのを願う心にすぎなかったのかもしれない」――実にムージル的な記述ではないだろうか? 一方の極限に達したかと思ったまさにその時、もう一方の極に振れる動きが起こる。
  • ●232: 「自分の心を誘うのはあの男ではなくて、ここに立って待っているというそのこと、自分であるという喜び、人間として、生命[いのち]なき物たちの間で傷口のようにぱっくりとひらいて目覚めてあるという、この鋭敏な、奔放な、捨て身の喜びにほかならぬことを」――クラウディネは男自身に惹かれているわけではない。
  • ●232: 「そして自分の心臓の鼓動を、どこからか物に驚いて迷いこんできた獣を胸に抱き取る心地で感じるうちに(……)」――「獣」のテーマ。→●231: 「それから彼女はあの男の姿を思い浮かべようとこころみたが、それはうまくゆかず、ただ自分の思いの、用心深く前へ伸びていく獣じみた歩みを感じるばかりだった」→●230: 「彼女は素足のまま、爪先立ちで窓辺に忍び寄った。何もかもすばやくあいついでおこなわれた。自分が獣のように素足を床におろしたのがぼんやりと見えた」→●214: 「そして彼女たちがこの花環を感じ取るだろうかと、しばらく心やさしくためらい、それから花環を捨てて決然と昇っていく。孤独の秘密の、はばたく翼に運ばれて。見なれぬ獣のように、神秘の満ちた空無の中へ」
  • ●232: 「奇妙にも肉体は静かに揺らぎながらふくらみだし、かすかに揺れる大きな見なれぬ花となり心臓をつつみこみ、突然この花をつらぬいて神秘な愛の結びつきの、目に見えぬ彼方まで張りひろげられた陶酔がおののき走った。愛する人のはるかな心臓がさまよい歩くのを彼女はかすかに耳にした。定めなく、安らぎなく、故郷もなく、境界を越えてたえだえに運ばれ遠くから星の光のごとく顫える音楽の一片のように、静けさの中へ鳴り響きながらさまよい歩くのを」――離れて存在している夫との合一? また、「音楽」の比喩は「究極の結婚」のところでも出てきた。→●222: 「どこやら二人がもはや存在しない、二人が音楽のようでしかなくなる、誰にも聞かれず何物にもこだまされぬ音楽にひとしくなるところで、成就する究極の結婚のように」
  • ●232: 「そのとき、彼女はここで何ごとかが完成されなくてはならないのを感じた」――姦通の決意? 「愛の完成」。
  • ●234: 「そしてだんだんに、自分がどんな姿かたちをしているのか、感じ取れなくなり、現在の内にあって自分の輪郭が、暗闇にあいた奇妙な穴にしか見えなくなった。そしてごくおもむろに、自分が現実にはここに存在していないかのように思えてきた」――離人。自己の希薄化。
  • ●234: 「そのとき、愛する人のために操を守りたいと、小心翼々とすがりつく願いの真只中からせつなく差し伸べられた両手をゆっくりと力萎えさせながら、ひとつの思いが浮かんだ。<あたしたちは、お互いを知りあうその前から、お互いを裏切りあっていた>と。(……)いや、それは、<わたしたちは、お互いを知りあうその前から、お互いを愛しあっていた>という思いとほとんど変りがなかった」――両義性。「裏切り」と「愛」の相似。
  • ●235: 「不実であること、それは雨のようにひそやかな、天のように大地を覆う悦び、不可思議にも生をつつみ取る悦びにちがいない」――「不実」=姦通の「悦び」。
  • ●235: 「そしていきなり、自分の手がいまこの目覚めの、朝のうつろさの中で上へ下へと動くさまが、自分の意思には従わず、なにかどうでもよい、見も知らぬ力に従っているかのような、奇妙なものに見えた」――まさしく離人感。自己の意思の希薄化。
  • ●237: 「彼女はごく事務的なことだけを話し、ごく事務的なことだけを聞いた。しかしときおり、それさえもほとんどひとつの自己放棄と思えた。彼女は驚いた。なぜといって、ここの男たちに彼女はなんの好意も覚えなかった」――彼女にとって「自己放棄」は男に支配され、屈服させられていた過去と、つまりは姦通と結びついているのではないか。寄宿舎の教師たちとただ話しているだけで、彼女は姦通しているかのように感じられる?
  • ●237: 「独特な屈辱感が彼女の立居振舞いにいちいちつきまといはじめた。話題のささやかな転換にも、やむをえずとっている傾聴の姿勢にも、そればかりか、そもそもここに坐って話をしているというそのことにも」――「屈辱感」。上と同様。
  • ●238: 「鈍い光の中で、黒服を着て口髭をはやしたこれらの男たちが、彼女にとってはいかにも遠い生活感のつくりなすほの暗い球体の、その内に閉じこめられた巨大な像に見えた。そして、わが身のまわりにこんな球体の閉じるのを感じるのは、どんな気持だろうか、と思い浮かべてみようとした」――「球体」のテーマ。
  • ●238: 「彼女は自身の声が欲情の中でこなごなに砕かれて深みへ滑り落ちていくときどんな音[ね]をたてるか、それを思い浮かべてみようとした。(……)荒唐無稽な半獣神を彼女は感じ取ろうとした、まるでそんなものを信じている女のように。彼女の生活にはすこしも縁のない、見なれぬ生きものが、毛むくじゃらの、気の遠くなる臭いを吹きかける獣が、彼女の前に真近から大きく、おおいかぶさるように立ちはだかる」――「獣」のテーマ。
  • ●239~240: 「おそらく、ものごとの意味を定める大きな連関というものは、独特なさかさまの道理によってしか体験できないのかもしれない。それにしても、かつては肉体のように親しく自身をつつんでいた過去を、今では無縁のものに感じることができるという、移り気の軽々しさが、彼女にはいまや理解できない。また一方では、そもそも今とは違った何かが、かつてありえたという事実が、理解しがたく思える。これはどういうことなのか、と彼女はこだわった。人はときおり遠くに何かを見る。無縁のものだ。やがてそちらへ近づいていく。そしてある地点まで来ると、それはむこうから生活の圏内に踏みこんでくる。ところが、今まで自身のいた場所は、今では妙なふうに空虚なのだ」――古井由吉を思わせる記述だが、むしろ古井由吉ムージルを思わせると言うべきなのだろう。
  • ●241: 「愛する不安からたった一人の人間にすがりついていることにほかならぬ、この自分の揺るぎなさが、このとき彼女にとっては、恣意のものに、本質的ではなくてただ表面的なものに思われた」――夫への愛の不確かさ。
  • ●241: 「獣姦という言葉が浮かんだ。あたしは獣と淫らごとをおかすことになるのだろうか……。その奥にはしかし彼女の愛の試みがひそんでいた。/<あなたが現実の中で思い知るよう、あたしは、あたしはこの獣に身をゆだねる。(……)>」――「獣」のテーマ。

 
 読書後、ここまで日記を書いて現在は零時四五分。読んでいて気になった箇所を、ロラン・バルト『S/Z』のように細かく区分けして写してきたが、これは時間と労力が掛かりすぎるのでどうしたものか。気になった事柄とそこで駆動された思考についてはすべて記録したいというのがこちらの意向だが、考えものである。今はニートだから良いが、また働きはじめたらこうは行かないのではないか。
 その後、音楽。まず、Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"。ベースソロに合わせて旋律を口ずさむ。それから、Chris Potter, "The Dreamer Is The Dream"。バスクラ。暖かみのある曲調。ベースソロ長し。二曲を聞いただけでこの日を終わらせることにして、ベッドに移った。消灯は一時一五分。入眠には苦労しなかった。段々と普通に眠れるようになってきているらしい。


・作文
 8:30 - 9:11 = 41分
 9:46 - 10:39 = 53分
 12:17 - 12:51 = 34分
 16:13 - 17:00 = 47分
 18:03 - 19:15 = 1時間12分
 22:57 - 24:46 = 1時間49分
 計: 5時間56分

・読書
 9:27 - 9:45 = 18分
 12:52 - 14:05 = 1時間13分
 14:13 - 16:13 = 2時間
 19:18 - 19:59 = 41分
 20:51 - 22:50 = 1時間59分
 計: 6時間11分

  • 2018/1/6, Sat.
  • 2016/8/31, Thu.
  • 「ワニ狩り連絡帳」; 2019-01-03; 2019-01-04; 2019-01-05
  • 「at-oyr」; 「冬の日々」; 「飛ぶ夢」; 「なんとなく、クリスタル」
  • 2018/12/30, Sun.
  • 2018/12/29, Sat.
  • 2018/12/28, Fri.
  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』: 211 - 242
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」; 2019-01-05「自炊する肉と野菜を切り刻む死んで償え来世の分まで」
  • 特定非営利活動法人 日本行方不明者捜索・地域安全支援協会「行方不明者ダイアリー」; 「アオエさんのダイアリー」; 2004-02-06; 2004-02-07; 2004-08-19; 2004-11-07; 2004-11-25; 2004-12-05; 2004-12-12; 2005-03-28; 2005-03-29; 2005-04-01; 2005-04-06; 2005-04-07; 2005-04-08; 2005-04-14; 2005-04-29; 2005-05-01; 2005-11-21; 2005-12-31; 2006-03-20

・睡眠
 0:50 - 7:25 = 6時間35分

・音楽

  • Ambrose Akinmusire『The Imagined Savioir Is Far Easier To Paint』
  • Ambrose Akinmusire『A Rift In Decorum: Live At The Village Vanguard
  • Amos Lee
  • Andre Ceccarelli『Carte Blanche』
  • John Coltrane『Giant Steps』
  • John Coltrane『My Favorite Things』
  • FISHMANS, "ひこうき"、"チャンス"、"MELODY"
  • John Coltrane『Live Trane - The European Tours』(Disc 1)
  • Martha Argerich『Schumann: Fantasie In C, Fantasiestucke, Op. 12』
  • Chris Potter『The Sirens』
  • Aaron Parks Trio『Alive In Japan』
  • Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: #1-5)
  • Chris Potter, "The Dreamer Is The Dream"(『The Dreamer Is The Dream』: #3)