2019/1/9, Wed.

 二時半に就床し、まだ暗いうち、多分五時台だかに一度覚めたと思う。それから最終的な起床は九時前。ここ最近の日々では遅くなった。カーテンを開けると青空を滑っていく雲の動きが速い。ダウンジャケットを着て上階へ。両親に挨拶をしてストーブの前に立つ。父親は仏事のために今日明日と休み、おじやを食べはじめるところだった。こちらも台所に入り、前日の鍋を用いて作られたおじやをよそり、電子レンジで加熱したあと卓に就いた。新聞を読みながら食べる。七面、エリック・カウフマンのインタビュー――「想う 2019 揺らぐ「白人」 危機の根源 米ポピュリズムは「闇市」 異なる構造の東アジア 「ベージュ」を受け入れよ」。「左翼モダニズム」によって圧迫され、不満を溜めてきた白人の「右翼ポピュリズム」が噴出していると。「日本や韓国は、いわば「閉鎖的な民族ナショナリズム」が政治風土の基盤です。他の民族との結婚は比較的少なく、民族間の境界も明確なため、多数派の優位性が揺らがない。例えば、外国生まれの人口比率は、日本では1・5%、韓国では3・4%だという数字があります。欧米では10~20%が普通なので、社会状況がかなり違うのです」とのこと。また、「白人としてのアイデンティティーを抑圧し、過去の歴史への罪悪感をあおることは、白印を追い込み、ポピュリズム的な不満をかきたて、テロに発展する恐れすらあります」との危惧も。ほか、「壁を越えて」シリーズ、「黒人社会 白い肌に生まれ 根強い差別 正しい理解訴え」という記事と、「政治展望2019 語る 憲法 国民巻き込み熟議を」の記事も読みたいが、まだ読んでいない。
 抗鬱剤を飲んだあと皿を洗っていると母親が、今日の朝、雪が降っていたんだよと言う。そうして、車の上に薄く積もったのを写した携帯電話の写真を見せてくれた。驚きだが、ここ最近のはしたないまでの快晴のなかでは、今日は確かに雲が多い。風呂を洗ったのち、緑茶を用意した。両親は今日、Y家の通夜に行く。それで母親はこの時、花屋に電話して、五〇〇〇円ほどの仏花のフラワー・アレンジメントを送ってくれるよう頼んでいた(そしてその電話のなかで、それまで「Y」だと思っていた漢字が「Y」であることを知った)。それを聞きながら茶を注ぎ、自室に戻ると飲みながら日記を書きはじめた。前日のものを完成させ、ブログに投稿すると、この日の分をここまで綴って現在は一〇時一五分。BGMはJose James『No Beginning No End』。"Trouble"など口ずさむ。冒頭の"It's All Over Your Body"もやはり格好いい(ここのドラムはChris Daveだったか?)。
 それから長々と、最近の自分の日記を読み返してしまって一一時を越える。まあわりあいに頑張っていると思う。その後Mさんのブログを読む。「きのう生まれたわけじゃない」の記事はすべて読んだ、あのブログは最高だった。特に印象に残っているのは「祝福された貧者の夜に」と題された日の記事で、確か当時はSがMさんの元に滞在していた時期で彼女との関係が透明感のある、仄かな感傷と綯い交ぜになった筆致で記されていたと思うのだけれど、あれを読んで自分は、このブログは日記で小説をやっていると感じ、自分も同じようなことをやりたいと思いはじめたのだった。「きのう生まれたわけじゃない」と出会っていなければ、明確に今の自分は存在しなかっただろう。それから自分の日記の読み返し、まず一年前。例によって考察を引用する。

 何故そんなにも呼吸の実践をがんばってしまったかというと、これは明らかに自分の、常に万全の体調でありたいというような願望(これこそまさに我執である)から来ている。そして、なぜそんなに万全さを求めるかと言えば、不安が怖いからであり、なぜなら不安は自分の場合、最終的には発作へと帰着するものだからだ(そしておそらく、自分にとってパニック発作は、象徴的に、「死」「発狂」といったような、「不可逆的に外へ出て戻れなくなること」というような意味を含んでいる。「死」はともかくとしても、そのような元に戻れないような急激な、一挙の変化などこの世にはまずあるまい、と理性的に考えても無駄である。なぜなら最初のパニック発作そのものが「不可逆的な変化」として体験されてしまっているからであり、「一瞬の不可逆的な変化によって戻れなくなること」がこの世に存在するということを、自分の心身は知ってしまっているからである。発作体験が強固なトラウマとなっているわけだろうが、これを克服する方策はひとまず二つ考えられる。一つは、「あの発作は不可逆的な変化などではなかった、パニック障害によって自分は大して何も変化していない」という認識=理屈=物語を新たに作り出すことだが、これは端的に言って不可能だろう。もう一つは、パニック発作と「不可逆的な変化」という意味の連結を現在時点において切り離すことだが、これは結局、上と同じことを言っているのか? ともかく、不安は単なる不安にすぎず、それはそうそう発作につながるものではない、よしんばつながったとしてもそれで自分は本質的にどうにかなるものではないという考えのもとに、不安を受け入れ、それと共存していく、ということだ。こうした認知を自分はとうに構築できているつもりでいたのだが、やはりそうはうまく行っていなかったらしい。ここにおいては(呼吸の存在を中核に据えた)ヴィパッサナー瞑想の観察 - 受け流しの方法論がやはり有力な手法となるだろう。我々不安障害者は不安から逃れることは絶対にできない、しかし不安とは、そもそも逃れる必要すらないものなのだ。

 食後、入浴中は、瞑想について考えた。まず、瞑想の大別としてサマタ瞑想というものと、ヴィパッサナー瞑想があるらしい。前者は「止」の瞑想と呼ばれ、後者は「観」の瞑想とも呼ばれるようだが、要は集中性のものと拡散性のもの、という風にひとまず理解しておきたい。ずっと昔にインターネットを検索して得ただけの情報なので、確かでないが、流派によって、観察をするのに必要な集中力を養うためだろう、サマタを訓練してからヴィパッサナーに移るものであるとか、最初からヴィパッサナー式でやるものだとか、ヴィパッサナーをやるにしても補助として「サティ」の技法、すなわち気づきをその都度言語化する「ラベリング」を用いる派、用いない派と様々にあるようだ(ラベリングは必須なのかとか、ラベリングをすることに囚われてもまずいとか、それは自転車に乗る際の補助輪のようなものに過ぎず、慣れてくれば不要になるとか、当時覗いた2ちゃんねるのスレで色々と議論されていた覚えがある)。それはともかくとして、集中性/拡散性の二分を、能動/非能動(ここではひとまず、「受動」という言葉は使わずにおく)と読み替えてみたいのだが、そのように考えると、サマタ瞑想は一つの対象に心を凝らし続ける能動性の瞑想であり、それに専心するとおそらくドーパミンがたくさん分泌されるのではないか(そして今回、呼吸法の形でそれをやりすぎたためにこちらの頭は少々狂った)。対してヴィパッサナー瞑想は、能動性がほとんど完全に消失した状態として考えられる。以前、瞑想とは「何もしない、をする」時間なのだと考え、日記にもそんな風に記したことがあったと思うが、これはおそらく正解なのだと思う。したがって、ヴィパッサナー瞑想を実践するにあたっては、多分、身体を出来る限り動かさず、静止するということが重要なポイントになると思うのだが、そのように能動性を排除したところで何が残るかと言うと、感覚器官の働きや、心のなかに自動的に湧き上がってくる思念などの、「反応」の類である。そして、ヴィパッサナー瞑想は、能動性を退けたからと言って、純然たる受動性に陥ってこれらの反応に対して無防備に晒されるがままになることを良しとせず、それらに(比喩的な意味ではあるが)視線を差し向けることによって(視線=眼差しには(どのようなものであれ何らかの)「権力」(力)が含まれている)、それらと静かに対峙し、それらの反応をただ受け止め、受け流すことを目指すものである。まず能動性を消去し、その次に完全な受動性のうちに巻き込まれることをも拒むその先に、能動/受動の狭間において露わになってくるもの、それが「実存」ではないかと、この時風呂に浸かりながら考えた(ここでは「現実存在」という言葉から、実存主義的な意味合いを剝ぎ取ろう)。あるいは「存在性」と言っても良いと思うのだが、要はただの「ある」という様態がそこに残る/浮かび上がってくるのではないかと思ったものであり、そこで中核となるのがおそらく呼吸、及びそれと結びついた身体感覚ではないか。そして、「悟り」というか、ヴィパッサナー瞑想が目指している境地というのは、このただ「ある」の様態、「存在性」の様態を常に自らの中心に据えて自覚しながら生きる、というような生存のあり方ではないかと思ったのだが、この議論がどの程度確かなのかはわからない(國分功一郎が取り上げて最近とみに知られるようになっていると思われる、「中動態」というものと、このような議論はやはり関係があるのだろうか?)。

 さらに二〇一六年八月二八日の日記も読み返してブログに投稿した。そうして読書に入る。鎌田道生・古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』から「トンカ」の最終盤一〇頁である。ベッドに乗って胡座を搔きながら読み進め、一時間掛けて読了し、鎌田道生のあとがきも読んで時刻は一時前、食事を取るために上階に行った。台所に入っておじやをよそり、一方で豆腐を電子レンジに入れる。熱されたものには鰹節と、この日は麺つゆではなくて「すりおろしオニオンドレッシング」を掛け、卓に就いて食べ出す。両親は二時半頃出かけるらしい。先の二品とゆで卵を食ったが、まだ何か腹に入れたい心持ちだったので戸棚から「明星チャルメラ」の味噌味を取った。湯を注いで待つあいだに自室から新聞を取ってきて、記事を読む。上にも記しておいた、「黒人社会 白い肌に生まれ 根強い差別 正しい理解訴え」である。南アフリカで生まれたアルビノの女性の苦境が語られたものだが、いい加減に人類は肌の色で他人を差別することをやめるべきだと思う。しかし、アメリカで黒人が差別されるのと同様に、黒人が多数派のところでは肌の白い人が抑圧されるわけで、どこであれ人間はマイノリティを自ずと迫害する心性、傾きを持ってでもいるのだろうか? 「国連によると、アフリカの28か国では過去10年間、アルビノに対する襲撃事件は600件を超えた。タンザニアマラウイなどでは、アルビノの骨や臓器に魔術的な力があるとの迷信があり、臓器を抜き取られる事件が相次ぐ」と言う。この世界はガルシア=マルケスの小説ではないんだぞ、と言いたくなる。
 その後、食器乾燥機のなかを片付け、自分の使った皿を洗う。父親は南の窓辺に寄って、歯磨きをするでもなく畑を見下ろすでもなく、視線を虚空に漂わせながら何か考え事をしている風だった。それを見て母親が、お父さん、何考えてるのと言うが、父親は別に何も考えていないと薄く笑う。こちらはその後、緑茶を用意し、海老の混ざった煎餅を一袋持って自室に帰った。煎餅は三鷹のKさんから貰ったものらしい。「坂角」というメーカーのものだった。それを食べ、茶を飲みながらここまで書き足して二時前を迎えている。Jose James『Love In A Time Of Madness』を作業の裏に掛けた。そして以下、読了した「トンカ」からの抜書き。

  • ●315: 「突然ふたりの眼に、泣きわめいている小さな女の子の顔がうつった。その顔は蛆虫のようにくしゃくしゃにゆがんで、真向から日を浴びていた。光の中にあるこの顔の無残な鮮明さは、彼には、彼らがその圏内から出てきた死にもまがう、生の啓示であるように思われた。だがトンカは、単純に「子どもたちが好き」なのだった。彼女は(……)この一件をおどけたこととしか感じていないらしかった。どんなに彼がむきになっても、この光景が外見ほど簡単なことではないのだと、彼女にさとらせることはできなかった」――「啓示」。しかし、その内実、彼が何を受け取ったのかはあまり明らかでない。また、トンカの鈍さ。「外見ほど簡単ではない」――そこには何か深遠なものがあるらしいが、トンカにはそれが見えない。トンカ=表層的、「彼」=深層的?
  • ●317: 「「でもわたくし、お給料をいただかなくては、ならなかったものですから」/ああこれはまたなんと簡単なこと!」――感嘆。この語り手は大袈裟で、感情的[﹅3]である。
  • ●317: 「日が暮れると、空気が顔や手とちょうど同じくらいの温度に感じられ、歩きながら眼を閉じると、からだが溶けて無限の中をただようような気がした」――良い表現。
  • ●318: 「しかし彼は疑い深く、きみ自身のことばでそれを話してごらんといった。彼女にはできなかった。/それではやはり、きみにはわからないんだ。/いいえ、わかります――そして突然彼女はいった――歌をうたわなくては」――トンカは「自身のことば」を持たない。彼女は「ロゴス」の人ではない。その代わりに「歌」がある?→●316: 「しかし、彼女が返事をしようとしながら、いつも最後の瞬間に口ごもってしまうのが、彼にはわかった」「あなたのおっしゃることは前からわかっていましたわ。けれど、それがうまくいえませんの」
  • ●319: 「そしてトンカは、世間なみのことばで話すかわりに、いつも一種の全体を表示することばで語ったので、愚かな鈍感な人間と思われるのを避けられなかった」――「全体を表示することば」とはどんなものだろうか、そしてそれによって何故「愚かな」人間と思われるのか。
  • ●319: 「ある時褐色の蝶が彼らのそばを飛びすぎて、長い茎の上に咲いている花にとまった。とまるはずみに花はふるえ、何度か左右にゆれ、そして急に、中断された会話のようにぴたりと静止した」→連想、●磯崎憲一郎『肝心の子供』39~40: 「タマリンドの老木の、分厚いコケの生した大人の両手ふた抱えもある太い幹には、雪崩れるようなうすむらさきの藤の花が幾重にも巻きつき、そのむらさきが途切れるところから下は、桃色や赤や白の芝桜が流れ広がって、ブッダたちの座るまわりまでを囲んでいた。こぼれ落ちそうになりながらスズメバチが必死に、なんとかかろうじてひとつの赤い花にしがみついていたのだが、風に揺れて、とうとう花から振り落とされてしまうと、今度はあっさりと、何の未練も見せず橙と黒のまだらにふくれた腹を曝けながら、直角に、頭上の空へ飛び立って行った」
  • ●320: 「どの男でも、少しことばをかわしていればすぐ、甘言で誘いよせようとするのが、彼女を憤慨させた。彼女が今、連れの男をながめていた時、突然その思い出が針のように胸を刺した。この瞬間まで、彼女は、ひとりの男といっしょにいるのだとは全然感じなかった。なぜなら、ほかの男たちといる時と、まったくちがっていたのだから」――突然の想起と気づき。トンカは唐突に、「彼」が「ひとりの男」なのだと気づく。
  • ●320: 「自分の靴の恰好がどんなに不細工に見えるか、そもそも、トンカとこうしていっしょに森のはずれに寝そべっていることが、どんなに無意味なことであるか、彼にわかっているのは確かだった。だが彼は、こういう状況の何ひとつとして変更しようとはしなかった。個々に見れば醜いものでも、全部まとめるとそれは幸福というものだった」――印象的なアフォリズム
  • ●320: 「彼女の頭は急にかっと熱くなり、胸がどきどきした。彼が何を考えているのかわからなかったが、彼の眼を見るとすべてが読みとれた」――トンカには彼のことが「わからない」が、しかし「眼を見るとすべてが読みとれ」る。直観? ロゴスによる把握ではなしに?
  • ●321: 「あなたのおっしゃることがわかるかどうか、そんなこと、どちらでもいいのです。わかったところで、ご返事できないでしょう」――「わかるかどうか」は「どちらでもいい」。そして、「返事できない」。三一八頁や三一六頁との親和性。
  • ●321: 「これらはみな、たしかにささやかな出来事だった。しかし奇妙なことには、トンカの生涯においてこれらの出来事は二度、しかもまったく同じかたちでくり返されたのだった。(……)さらに奇妙なことは、二度目に起きた時、それは最初と反対の意味をもっていたということである」――「奇妙」さ。→●321: 「ずっと後になって起きたことにしても、もう千回も世界で起こったことなので、ただそれがトンカをめぐることだったばかりに、不可解なように思われたのだった」――「不可解」。奇妙さとの親近性。→●346: 「奇妙なことにそれは彼の研究が大きな成果を収めた時期だった」
  • ●323: 「なんとトンカは無口だったことか! 彼女は話すことも泣くこともできなかったのだ」――トンカの「無口」、沈黙。
  • ●325: 「それどころか、トンカが彼の申し入れをあっさり承知したことが、この瞬間、彼の心を疑念でみたしたのかもしれなかった」――「承知」による「疑念」という逆説。磯崎憲一郎もこういう論理の作り方をたびたびしていたような気がする。
  • ●325: 「しかしその時彼は思った。「どうしておれは、あんな申し出を彼女にしたんだろう?」 すると、彼女の承諾の理由と同様、この理由も彼には不可解だった。彼女の顔にも彼の顔にも、同じような途方にくれた表情が浮かんでいたのだ」――理由不明。また、連想――→●磯崎憲一郎『終の住処』6~7(書き出し): 「彼も、妻も、結婚したときには三十歳を過ぎていた。一年まえに付き合い始めた時点ですでにふたりには、上目遣いになるとできる額のしわと生え際の白髪が目立ち、疲れたような、あきらめたような表情が見られたが、それはそれぞれ別々の、二十代の長く続いた恋愛に敗れたあとで、こんな歳から付き合い始めるということは、もう半ば結婚を意識せざるを得ない、という理由からでもあった。じっさい、交際し始めて半年で彼は相手の実家へ挨拶に行ったのだ。それから何十年も経って、もはや死が遠くないことを知ったふたりが顔を見合わせ思い出したのもやはり同じ、疲れたような、あきらめたようなお互いの表情だった」
  • ●326: 「母は、みたされなかった自分の生涯の夢を、息子に実現してもらいたいと思った」――しかしこの母の「夢」はその詳しい内実が明らかではない。
  • ●326~327: 「この男は母に対して、長年のあいだ、根気強い、敬慕の心をこめた無私の愛情をささげていた。おそらくそれは、軍人の娘としての彼女が堅持していた栄誉と節操の観念と、その観念のかがやかしい照射のさなかにある確固たる主義を、彼が自分の書物の理想として必要としたからだろう」――母は「軍人の娘」であるらしい。
  • ●327: 「つまり彼は、自己の文体の暢達さと(……)」――「暢達」。初見。意味は「のびのびしていること」。
  • ●327: 「つまり、このような人間を信用できる人間というのだ。彼らは精神と性格を通じて、確固たるものを示しているのだ」――話者の「意見」が開陳されている。
  • ●328: 彼は、「感情を破壊することをよろこび、詩、善意、美徳、単純素朴、といったものを敵視した」――「詩」を「敵視」するわりに、「彼」はノヴァーリスの日記を読んだりしている。また、「啓示」を受け取るというのは明らかに「詩的」な感性だと思うのだが?
  • ●328: 「トンカは荷物をまとめ、なんの感情も見せず、至極当り前のようにして故郷をはなれた」――トンカの無感情。→●323: 「あの子の情の薄いことったら。おばあさまのご臨終の時にも、お葬式の時にも、涙ひとつこぼさなかったのよ」→しかし一方で、彼女は「顔を赤らめ」たりもしている。●316: 「「だってお仕事ですもの」とトンカは答えて、顔を赤らめた」「「ええ」とトンカは小声でいった。そしてまっ赤になった」→●325: 「彼が立ち去ったあとで、彼女はボール箱の中のものを、ひとつずつゆっくり取りだして、もとの場所へ置いた。まっ赤になり、何を考えているのかわからず(……)」
  • ●330: 「すべての粗野なもの、非精神的なもの、下品なものが、どのような扮装をこらして近づいてきても、彼女はきっぱりと拒否することができた。理由を聞かれても答えることのできない、この自若たる態度にはまことに驚くべきものがあった(……)」――理由不明。
  • ●331: 「どうしても、完全におたがいのものにならねばならない。なぜなら、その時はじめて、二人の人間が本当にそれぞれの秘密をひらくことになるのだから(……)」――「秘密」、隠されているもの[﹅8]への志向。
  • ●331: 「そしてトンカは来た。苔緑[たいりょく]色の上着を着(……)」――珍しい色の表現。
  • ●332: 「トンカは身をまかせたのか? 彼は彼女に、愛を誓いはしなかった。それだのになぜ彼女は、至上の希望を拒否するような状況に対して抵抗しなかったのか?」――自分の語る物語に対する語り手自身の疑問。
  • ●333: 「つまり、彼のものになりさえすれば、それでもう彼女は彼の一部分だったというわけだ。/どうしてそのようになったのか、後になっていくら考えても、彼には思いだすことができなかった」――理由不明。
  • ●333: 「ふしぎなのは、どの場合にも潜伏期と発病の時期がぴったり一致しないことだった」――「ふしぎ」さ。
  • ●334: 「もしきみが商人のところへ出かけて、彼の商売気をそそるようなそぶりはすこしも見せずに、ながながと時局について論じたり、金持の義務について語ったりするならば、彼は、きみが金を盗みにきたのだと思うだろう」――二人称。読者への呼びかけ。語り手は透明な存在ではない。
  • ●336: 「秘密を聞きだそうとすると、たちどころにトンカは否認した。どうしてこうなったのか、自分でもわからないというのだった」――理由不明。
  • ●336: 「第一、彼の疑いに気づいてからというもの、彼女はまるきり口をきかないようになったのだから」――トンカの「沈黙」。「黙る」「言わない」のテーマ。→●318: 「そのまま二人はしばらく黙ったまま歩いていった(……)」→●319: 「何かいわねばならないと思ったので、彼女の息づかいはときどきせわしくなったが、結局気おくれがして、黙ったままでいた」→●320: 「彼はトンカの腕をとった。そして、自分が黙っていたことを詫び(……)」→●323: 「母の叱責にあって彼は黙った」→●323: 「なんとトンカは無口だったことか! 彼女は話すことも泣くこともできなかったのだ」→●324: 「彼は無言で部屋を立ち去り、トンカに、自分が彼女の面倒をみるつもりだということを伝えにいった」→●324: 「部屋の戸があけ放しだったので、彼はしばらくのあいだ自分が来たことをいわずに、何も知らぬトンカをながめていた」→●325: 「彼女は、はいとも、いいえとも、ありがとうともいわなかった」→●328: 「母は危険を予感していたが、確信はなかったのでそれをあからさまに口にすることはできなかった」→●329: 「実は彼女が黙っているのをいいことにして、当然の昇格もおあずけになっていたのだ」→●330: 「つまり彼が仕事をしている時、黙ってその身近につきそっているのが、彼女の幸福のすべてだったのだ」→●331: 「彼らはその時、「完全におたがいのものになる」ことについても話をした、というのは、彼がしゃべり、トンカが黙って聞いていたということである」→●331: 「ほとんどひと言も語らずにすませた食事のあとで、ふたりは並んですわった」→●332: 「しかし彼女はええともいわず、あなたを愛しているともいわなかった」→●332: 「彼女はまるで、「旦那様」のご威光に打ちひしがれたかのように、黙々と行動した」→●339: 「彼女は返事をせず、ただ眼に涙をうかべた。彼女がひと言もいえないのを見ても、分別のある男は別段感動しなかった」→●339: 彼は、「店員や丁稚のあいだで上等な服を着てすわり、真剣な、誠実な態度で、口はあまりきかず(……)」→●343: 「トンカの不実に対する確信には、何か夢のようなおもむきがあった。トンカは哀切な、こまやかな無言の従順さでもって、この確信をじっと耐えていた」→●343: 「彼女は極端に口をきかなくなっていたが、無邪気なのか強情なのか、どちらともとれそうだった。同様に、策略とも苦悩とも、後悔、不安ともとれたが、あるいは彼に対する羞恥心かもしれなかった」――トンカの「沈黙」の多義性。→●350: 「以前とほとんど同じくらい頻繁に、二人はいっしょの時間をすごした。話はあまりしなかったが、おたがい寄り添うようにしてすわっていた」→●350: 「口を[ママ]出してはいわなかったが、二人はまたおたがいにからだをもとめあうようになっていた」→●352: 「それゆえ、トンカのベッドにつきそっている時、彼はむっつりしていることが多かった」→●353: 「そこで彼は彼女の枕もとにすわり、やさしく親切だったが、きみを信じているよ、とは決していわなかった」→●353: 「トンカの枕もとではほとんど口をきかなかったかわりに、彼は彼女に手紙を書き、いつもは黙っていたことをそこで打ち明けた」
  • ●340: 「彼はよそ者だった。するとトンカはなんだったのか? 彼の精神から生まれた精神? そうではない、彼女は自分だけの秘密をもった別の生きもので、ある象徴的な照応関係において彼の道づれになっていたのだ」――語り手の自問自答。また、トンカは「秘密」を持っている。
  • ●341: 「心のうつろさを感じたのは、無益な番号表を買うためのわずか二十ペニヒの支出も、彼の今の経済状態では楽ではなかったからかもしれない。突然彼は、自分に悪意をいだいている眼に見えぬ力の存在を、自分が敵意にとりかこまれているのを感じた」――「突然」の「敵意」。
  • ●345: 「もしも世間を、世間なみの眼で眺めず、あらかじめすでに眼の中に収めているならば、世界は、夜空の星のように散りぢりになってさびしく生きている、個々の無意味なものに解体してしまう」→●319: 「もし彼女が、連れの男のような考えかたに慣れていたなら、この時トンカは、自然というものが、夜空の星のように散りぢりになってさびしく生きている、ささやかな醜いものばかりでできていることを感じただろう」
  • ●348: 「しかし彼がよく馬のことを考えたのは、それと関係のある、何か特別の意味をもつことにちがいなかった」――この前の段落には、夢のなかでのトンカの姿、彼の抱く愛情、その曖昧さなどについて語られているのだが、それと「馬」が「関係」している「特別の意味」とはどのようなものなのか、明らかではない。言わばここでは論理が見通せなくなっており、その内実は読者の手の届かない「深層」に隠されている[﹅6]。
  • ●348~349: 「彼の幼時の思い出(……)そのような子どもの心が、ときどき彼の中でにわかに燃えあがった。しかしおそらくそれは、消えなんとする前の最後のかがやき、癒着しつつある傷痕のうずきにすぎなかったのだろう。なぜならば、馬はいつも材木をはこんでいたし、蹄の下で橋は鈍い音をたて、下僕たちは紫と茶の碁盤縞の短い上着を着ていたのだから」――「馬」の姿、その「蹄」の「音」、「下僕たち」の服装などが、彼の「子どもの心」の燃焼が「最後のかがやき」であることの理由として書かれているわけだが、何故それが理由になるのか論理の繋がりが不明である。この理路の連結の「緩さ」のようなものは、音楽に例えるとフリージャズの演奏に似ているかもしれない。あるいは、フリーと定型のあいだを越境し、行き来するEric Dolphyのプレイを思わせるかもしれない。
  • ●349: 「妊娠というふしぎな過程のあらゆる変化が現れ、娘の肉体を遠慮会釈もなく蒴[さく]のような形にし、すべての部分の大きさを変え、腰の幅をひろげて下にずらし、膝から鋭角な線を奪い、首を太くし、乳房を張りきらせ、腹の皮膚に細い赤や青の血管を浮き出させた。血があまりにも外界に近いところで動いているのを見ると、それが死を意味しているように思われて、彼は、愕然とするのだった」――生々しい描写。
  • ●350: 「ある時母は新しい医師の説明をわざわざ書き送ってきた。それを読むと、当時トンカが不実をはたらいたのは、なんといっても疑いようがないらしかった。(……)当時どんなことが起きたのか、まるで自分と無関係なことのように彼は考え、たった一度の、はかない心の惑いの結果、これほど苦しんでいるトンカをあわれだと思った」――ここでは「彼」は、トンカは「不実」を犯したのだと考えているように見える。しかし、→●351: 「ひとつの小さな古いカレンダーが、まるでトンカがたった今めくっていたように、ひらかれたままになっていた。その一ページの大きな白い表面には、その日を記念する思い出のピラミッドのように、小さな赤い感嘆符がつけられていた。(……)ただこのページだけ、感嘆符のほかには何も書いてなかった。これが、トンカが秘密にしているあの日の思い出なのだということを、彼はひと目で直観した。時日もほぼ符号するようだった。しかし、実はその確信は(……)次の瞬間にはそれは後退し、消えてしまったのだ。もしこの感嘆符を信じようとするならば、同じように奇蹟を信じてもよかったろう。しかも致命的なことは、彼が両方とも信じようとしなかったことだ。驚いたように、一方から他方へと眼を移すだけだったのだ」――「彼」は一度はトンカの「不実」を「確信」するが、その「直観」は「次の瞬間には」「消えて」しまう。そして「彼」は、トンカが「不実」を犯したのだとも、あるいは「奇蹟」が起こり、彼女が処女懐胎したのだとも信じることができない。
  • ●351: 「おそらくトンカの力は弱すぎたのだ、彼女はいつまでたっても、生まれかけの神話だった」――「生まれかけの神話」。格好良い表現。
  • ●352: 「つまり、トンカを信じさえすれば、彼は病気になったのだ」――トンカが「不実」を犯していないと信じるならば、「彼」は実際にはそうではなくても、彼女が感染した「病気」(これが一体どのようなものなのか、その内実もまたあまり明らかではない)を保有していたことになる。→●353: 「そこで彼は彼女の枕もとにすわり、やさしく親切だったが、きみを信じているよ、とは決していわなかった。実をいえば、もうとうの昔から信じていたのだが」――「彼」は結局、トンカを信じていた。
  • ●353: 「そこでまた彼は、思うことを表現できる自分はなんと幸福なことかと思った。トンカにはできなかったのだ。この時、彼は彼女を完全に理解した。夏の日なかにひとひら舞い落ちた雪片だったのだ」→●323~324: 「なんとトンカは無口だったことか! 彼女は話すことも泣くこともできなかったのだ。だが、話すこともできなければ釈[と]き明かされもしないもの、世界の中で黙って消えていくもの、人類の歴史をしるした板に搔き傷のように刻みつけられた小さな線、このような行為や人、夏のさなかにたったひとひら舞い落ちてきた、このような雪片、これらはいったい、現実なのか夢なのか、よいものか、無価値なものか、それとも悪いものか?」
  • ●354: 「すると、眼に涙がわいてきた。涙は天球のように大きくなり、眼の外へ出ることができなかった」――良い表現。
  • ●356: 「その時思い出が彼の心の中で叫んだ。トンカ! トンカ! 彼は、足もとから頭までまるごとの彼女の存在を、彼女の全生命を感じた」――トンカの死後、究極的な離別のあとに彼女の「全生命」を感じるという逆説(皮肉?)。

 上記を記し終えると四時直前だった。Joshua Redman『Compass』を流しており、その七曲目、"Insomnomaniac"が途中だったので、椅子に就いて目を閉じ、最後まで聞いた。そうして音楽の再生を止めると上階に行き、日が完全に暮れてしまう前に散歩に行くことにした。玄関の鍵はまだクリーニング屋から戻っていないので、勝手口から出る。ポストを見ると、夕刊や年金の通知、何やら父親宛ての茶封筒やガス料金の明細が届いていた。それはまだ取らずに道に出て歩き出すと、もう路上に陽がないから冷気がジャージを抜けてきて、上はダウンジャケットを羽織っているから良いが膝のあたりが冷たい。Tさん宅の横の柚子の木は、黄色の果実を太らせて葉枝を垂れ下げていた。陽が当たっているのは遠く南の山や川沿いの木々のみである。ムージル「トンカ」のことを考えながら坂を上り、裏路地を行っていると、鼻から吸いこむ空気の乾いて冷たく、鼻孔の奥に砂を差しこまれたようにつんと来る。風が吹き、曲がり角の脇に生えた椿の低木が弱く揺れる。見上げて、あれ、雲がないではないかと気づいた。西の空には飛行機の、機体は見えないがその白い軌跡が走っていて、燃え上がる彗星のように、あるいは水中を一心不乱に渡る微生物のように、斜め右下へ渡っていく。街道を渡りふたたび斜面に接した裏道に入って、逸れた頭をふたたびムージル「トンカ」に戻す。この小説の語りの特徴は、ほか二篇に比べて語り手の姿が表に現れていることではないだろうか。話者は物語の内容に対してたびたび大袈裟な感嘆を放ち、疑問を投げかけ、時にそれに自ら答え、また意見や評価のような発言を表明する。自らが語る語りを対象化し、そのように自己言及的な「突っ込み」を入れることによって、語りが独特の推進力を得ているように感じられる。この語り手は「感情的」であり、積極的に物語の前面に出てくる、言わば「目立ちたがり屋」なのだ。また、「沈黙」「無言」「言わない」などのテーマが頻出することも気になった。「彼」と「トンカ」の二人はたびたび「黙って」いるのだが、そのうちでも特に黙りがちなのがトンカのほうで、彼女は重要なところで自分の意志を言語的に表明することをせず、言わば「口下手」で、「無言の従順さ」で「彼」に付き従う。しかしそうしたテーマの連鎖が一体どのような意味の射程、象徴の磁場を構成しているのかは良くわからなかった。あとはちなみに、三篇のなかで最も書抜きをしたい箇所が多かったのはこの篇だった。描写や記述の凝縮度で言ったらほか二篇のほうが高いのではないかと思うのだが、それと感性的に惹かれるかどうかは別ということだろう。
 保育園を過ぎながら視線を上げると、丘陵の上部に陽が掛けられて熟したような、甘やかなオレンジ色に染まっており、その上の空はただ一枚の紙を広げたように表面に繊維の乱れなく、一様に仄かな水色でなだらかに連なっている。子犬を散歩させている老人とすれ違い、駅前を通り過ぎ、横断歩道を渡ってから街道を行く。普段入る裏道の手前でもう右に折れてしまい、下り坂になった細道に入った。頭上で竹の葉がさらさらと、弱いせせらぎのような、遠い雨のような響きを立てるなかを、木に囲まれながら下りて行き、道に出るとポケットから鍵を取り出して、その輪を右手の人差し指に引っ掛けてくるくるやりながら帰った。
 郵便物を持って家のなかに入る。アイロンを掛けようと思っていたのだが、居間の片隅、炬燵テーブルの脇を見ると、母親がもう処理したのかそこにあったはずの衣服がなくなっていたので、何もせずに自室に戻った。そうして日記を綴って五時。五時半になったら飯を作りに行こうというわけで、それまで書抜きの読み返しを行った。一月五日、そして一二月三一日から二九日まで、合わせて四日分。音読でぶつぶつと呟く合間、TwitterでHさんという方とメッセージをやりとりした。こちらのツイートにたびたび「いいね」を付けてくれるので、お礼の言葉を送ったのだ。今まで読んだなかで一番好きな作品は何かと尋ねたところ、色々と名前を挙げてくれて、そのなかに山下澄人が含まれていたのがほかの名前とちょっと毛色が違う気がした。『コルバトントリ』はこちらも随分と前に読んだのだが、こうして名前を聞くとまた読み返してみたくなるものだ。五時半頃になると上階に行き、台所に入って冷蔵庫から豚バラ肉、玉ねぎの余り、椎茸を取り出した。もう一つ、新しい玉ねぎをまず切り、一方で味噌汁のために水の入った鍋を火に掛け、玉ねぎと椎茸を切って投入した。フライパンにも油を引いて、チューブのニンニクを落とし、肉を一パック分すべて投入、蓋をしながら時折り振って、概ね熱されたところで玉ねぎとこれも切っておいた葱を加えた。味噌汁の味付けは「まつや」の「とり野菜みそ」で、これは元々鍋用のものだが鍋には使わずこうして味噌汁にばかり用いている。溶く必要がなくて楽である。肉のほうには味付けをせず、よそってから焼き肉のたれを掛けることにして、丼に米をよそってその上に焼いたものを乗せた。そうして卓に運び、自室からコンピューターを持ってきて、Twitterでやりとりを続けながらものを食べる。合間には自分のブログを読み返した。Twitterでのやりとりはもう一人、Aさんという方とも行っており、こちらの方は今までで一番好きな作品は伊東静雄の定本だということだった。この世には読まなければならない本がいくらでもある。食事を終えて、薬を飲む水を汲もうと台所に入ると、味噌汁の火がつけっぱなしになっていて、沸騰している鍋に寄って危ない危ないと消した。弱火だったので支障はなかった。それでもう一杯飲むかという気になり、おかわりをして、飲み干すと皿を洗ったのだが、結局薬を飲んでいないのではないか? どうも記憶にないが、まあどちらでも良いだろう。そうして下階に戻ると六時半、三宅誰男『亜人』を読みはじめた。蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』も読んで、さっさと『特性のない男』にも取り組みたいが、ムージルを読んでいるとどうしてもこの作品を読み返したくなったのだ。以前確か三回読んでいるはずで、今回、四回目だと思う。コンピューターの前の椅子に就き、時折りAさんとやりとりをしながら、ムージルと同様にメモを取りつつ読む。七時頃になって両親が帰ってきた。こちらは八時前まで読書を続け、それから入浴に向かう。上階に上がると両親は炬燵テーブルに並んで入っており、食事を取りはじめていて、母親が夕食を作っておいたことに対して礼を言った。通夜にはYちゃん(立川の叔父)も来ていて、先日払沢の滝に連れて行ってもらった時のことを、あいつは良く三時間も歩けたな、と話していたと言う。それを聞いてから風呂に入り、相変わらず痒い身体――しかし一時よりはましになってきている――を搔きながら浸かり、早々と出ると自分の穴蔵に戻ってきて、ここまで日記を書いて八時半過ぎである。それからふたたび『亜人』を読んだ。読みながら同時に、Aさんとのやりとりを続けて、時間についてだとか、自分がどのように虚無主義を乗り越えたかなどといったことを話した。一時間強読むと一旦中断し、『亜人』からの抜書きを行おうかと思ったのだが、キーボードに触れはじめたところで気が変わって、鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』の書抜きを行った。四〇分間。そうしてふたたび『亜人』の書見。ノートには色々とメモを取ってあるが、それを写すのは明日以降にしよう。今はただ、三一頁から三七頁に掛けての完璧な記述を、非常に長いがここに書き抜いておきたい。初めて読んだ時からここは完璧だと言い続けて来たが、四度目を読んでみてもやはり完璧だとしか思えず、一部の隙も一滴の瑕疵もない最高度の精度で書かれている。この小説がほとんど注目されていないのが信じられない。ここだけでも世に出す価値は充分にあると思うのだが。

 おそらくは異国の習俗かと思われる亜人の弔いを前に、大佐の手は腰にさした太刀にかけられたまま動かなかった。神秘とは常に正邪の蝶番に位置するものだった。侮りと蔑みの対象であった諸々の特徴はまばたきのはやさで選民的な紋章へとうらがえり、あるいは本物の亜人かもしれぬとのおそれにも似た疑いが大佐の四肢を麻痺させた。愚にもつかぬことを! 吹きこまれたばかりのおとぎ話をくりかえし耳にこだまさせる幼子のような感度でおよそ馬鹿馬鹿しいこと極まりない事態の可能性について真剣に疑ってみせるおのれの気の迷いを、大佐はすぐさま恥じた。二度目の含羞が直視を耐えがたくさせた。我知らず逸らしたまなざしが、潮風に重くなった砂浜にそれでもかすかにきざみこまれてある亜人の足跡を、彼方の密林から手前にむけて点々と追った。その道筋のなかばを一匹の小蟹が横断しつつあった。あるかなしかの窪みをなす砂地の足跡の、その周縁をふちどるかすかな盛りあがりをかたわらに控え、小蟹はまず節くれだった四対の脚のいっぽうを砂の斜面にかけて半身をかたむけると、地面と平行に伏せてあったはさみをこころもち高く掲げて重心をととのえながら、探るような脚つきでおそるおそるふちの頂点にむけてよじのぼりはじめた。さしこんだ脚の根元からさらさらと流れおちる砂のせせらぎにときおり甲羅をふるわせながらも、小蟹は一歩また一歩とやわらかな砂地にくさびをうちこみ、みずからの体躯を堅実にひきあげていった。そうしてとうとうふちの頂点に這いあがると、どことなくおぼつかないようにも見える足踏みをいささかせわしなくくりかえし、すり鉢状の窪みに真正面から相対するようにむきなおるがいなや、不意に、なにかしら思うところでもあるかのようにじっと動かなくなった。思うところ? この小さな存在に? きざすものがきざしはじめていた。風景にきたしつつある縮尺率の奇妙な狂いを、大佐は認めないわけにはいかなかった。小蟹は穴の底にむけてふたたびはすかいにむきなおると、甲羅を低くかたむけて傾斜の急な斜面におもむろに脚をさしこんだ。重力のたやすいまねきに歯止めを利かせるべく、さしこんだほうの脚を突っ張りながら、残る脚を器用に折りたたんだりのばしたりして釣りあいをとり、慎重な横歩きをくりかえしてじわじわと穴の底にむけて急斜面をくだりつつあるその一部始終を、島の生きものを愛でる好奇心とは似ても似つかぬ、それを目にするみずからの胸のうちで萌動しはじめたなにごとかにたいするおそれおおさから、大佐は息を詰めて見守りつづけた。馬上からはそれとして一目で見わけることもままならぬあるかなしかの砂地の凹凸が、一匹の小蟹の赤い軌跡によってみるみるうちに地図となって浮かびあがった。木々のさやぎによって風の通り道がなぞられるようなものだった。それどころか、小蟹の一足ごとに押印されるごくかすかな足跡さえもが、さらには針のひと突きにも劣る小さなその足跡を前にしてうろたえる極小の砂蟻どもの動きまでもが、大佐の目にはいまやあますところなくはっきりと見てとれた。亜人の足跡のひとつひとつは火口であった。浜は切りたった峡谷であり、海からの風はあたりいったいの地形を切り崩す壊滅的な突風だった。潮を吸いこんだ砂にほおずりするようにしてはじめてその嶮しさが理解されるような極小の断崖や山脈、吹きさらしの谷底や枯れた水脈などが、だれひとりとしてその設計を把握していない古代文明の遺産のように地平線の果てまできりもなく繰りひろげられているのを大佐は見た。馬上から落ちる影にも満たぬその空間は、巨龍の化石の発掘現場などとは比較にならぬほど深く、広く、ほとんど絶望的な汲みつくしがたさにひらかれていた。常ならば決して意識にのぼることのない根源的な前提がその巨大な輪郭をはじめて浮きあがらせる稲光の一瞬があった。小蟹が窪みのふちにたっていちど体を硬直させたのは、火口の底にひそむ巨大さそのものによってはるか眼下から射すくめられたからではなかったか? そしてほかでもない同様の硬直によっていま、大佐はみずからの四肢がきつく縛りつけられていることを認めないわけにはいかなかった。耽溺しすぎると狂いをもたらすたぐいの緊張、名づけた途端に口をふさぎ、首を絞め、息をせきとめにやってくるにちがいない親殺しの張りつめた感情が胸骨のあたりでたちさわぎ、つぼみのおおきく開花するようにそのむき身を外気にさらそうとつくづく強いた。大佐は亜人を見た。おのれ自身を含むなにものに急かされたわけでもなければうながされたわけでもない、意図や欲望から遠く離れた神話の摂理がかくあるべきと舞台をととのえた、そんなふうなまなざしの送りだしだった。亜人は花びらを全身に散らした若い兵士の脇に手をすべりこませ、海にむけて遺体をひきずり運びこもうとしているらしかった。腱を切られ肉を削がれたその体では塩水にふくれあがった一兵士の重く地面にたれさがった遺体を運びだすのは至難のわざらしく、咳病にかかった老婆のうなり声のような吐息をとぎれがちにしかし激しくふるわせながら、言い分をきかぬ四肢にそれでも厳命を強いる亜人のその顔がいつ、みずからの影に沈んだ死に顔から晴天を後光に背負う馬上のこわばりへとむけられるのか、助けを請うまなざしが日暮れを知らぬこの光線に相対してどのように細められさしむけられるのか、必ず来るその瞬間を不動のまま待ちうけるだけの無限に延長されつづけるいっときがひとつの死のように、隠者の送る余生のように、大佐をつくづく責めた。こっちを見るなと強く思った。強く思うあまりうらがえって口をつくのが呼びかけというものだった。
 「きさまの連れあいであったか」
 遺体の周囲をむらがる蠅どもの羽音がよせかえす波のすきまを縫って明瞭な輪郭をともない聞こえるだけの、一陣の風のようなしずけさが円陣を吹きぬけた。世界が午睡についたかのような、島の生命が一時的に活動を自粛したかのような、あやうい均衡によって司られた間であった。ひとをからかう悪ふざけのようにも聞こえる蠅の羽音は、あるいは書きこみのないその空白を方向づけるのにうってつけだったのかもしれない。岸壁を打つ波のような、低く、力をはらんだ男どもの笑い声がどっと沸いた。絶体絶命の罠にかけられた状況をある奇抜な策を弄することで見事に切りぬけてみせたときに下腹の底からおもわずせりあがるもののような、すでに遠ざかった苦難のあっけなさを安全圏からおおいにあざけり笑ってみせる口元から我知らずこぼれおちるもののような、群衆だけが帯びることのできる共犯者めいた野太さを芯とする哄笑だった。沸きかえる一同にむけて亜人はちらりとまなざしをめぐらした。大佐の硬くひきしまったくちびるから軽薄な発言をひきだすにたるだけの言外の迫力や凄みなどとはまったくもって無縁の、虐げられたものの卑しい鈍光が宿った、まずしい一瞥だった。大佐はようやく太刀から手を離した。四肢の麻痺が解けたかわりに、行き場のない軽蔑の念が銀髪を逆立てた。笑声はなおもとぎれなかった。自虐が勢いをつけたか、呼吸さえためらわれる厳粛な空気にのまれてしまっていたみずからの体たらくを嘲笑的にふりかえる士官らの声の響きは次第に哄笑から高笑いへとのぼりつめ、安心感は優越感へと装いを変えつつあった。士官のひとりなどは馴れ馴れしくも大佐の肩に手をかけ、くしゃくしゃに破顔してみせさえしたが、当の大佐はその手をふりはらうようにして馬のむきを変えると、落としどころの見つからぬ感情を無理やり壁ぎわに片寄せるような宙ぶらりんの手つきで手綱をとり、亜人のほうを見向きもせずに帰路の続きをたどりはじめた。
 (三宅誰男『亜人自費出版、二〇一三年、31~37)

 特に素晴らしいと思うのは、大佐が含羞から視線を逸らしてそれが小蟹の姿へと導かれるところ、そしてまた彼が亜人のまなざしを迎えかねて思わず声を出してしまう箇所、それぞれの実に滑らかな、美しいとまで言っても良いほどの整地ぶりである。三宅誰男はこちらの友人なので積極的にブログで宣伝をしていくが、この作品はBCCKShttps://bccks.jp/store/160461)で購入することができる。上の記述を断片的にでも読んでみて何かしら感じた人は、買って全篇読んでみることをお勧めする。ムージル『三人の女』を踏まえた作品だが、文体・描写の凝集力で言えば本家を越えているのではないかとも思える(しかしそれは翻訳の問題もあるだろう――仮に古井由吉が『三人の女』を訳していたら、おそらくもっと稠密な文章になっていただろうし、原文を読めばそれよりもさらにやばい[﹅3]のかもしれない)。
 ここまで記して時刻は零時四〇分、ふたたび読書を始めた。一時半を迎える頃には空腹だったので、腹にものを入れるために本を持ったまま上階に行った。白々と明かりの広がる天井の電灯ではなく、オレンジ色の小さな食卓灯を灯し、両親は既に眠っているので大きな音を立てないように注意しながら戸棚をひらき、「赤いきつね」を取り出した。湯を注ぎ、文を追いながら五分待って、蓋をひらいて麺をほぐす。左手に文庫サイズの『亜人』を持ち、汁が飛んで頁を汚さないように右手の箸では意識してゆっくりと麺を持ち上げ、息を吹いて冷ましてから口に運ぶ。そうしたことを繰り返し、食べ終えると容器を洗って片付けた。この食欲は何なのだろうか、カップ麺を食べてもまだ何か食べたいような感じがして冷凍庫を探ったのだが、適したものがなかったので今夜は良かろうと自室に帰った。そうして二時一〇分まで書見を続けた。終盤はベッドのヘッドボードに凭れて目を閉じる時間もあって、そろそろ眠るようだなと判断され、それで歯も磨かず便所にも行かずに明かりを落とした。入眠に苦労した覚えはない。


・作文
 9:43 - 10:15 = 32分
 13:29 - 15:56 = 2時間27分
 16:28 - 16:55 = 27分
 20:14 - 20:35 = 21分
 23:51 - 24:38 = 47分
 計: 4時間34分

・読書
 11:25 - 11:49 = 24分
 11:50 - 12:55 = 1時間5分
 16:57 - 17:30 = 33分
 18:37 - 19:54 = 1時間17分
 20:35 - 21:49 = 1時間14分
 22:02 - 22:41 = 39分
 22:51 - 23:49 = 58分
 24:43 - 26:10 = 1時間27分
 計: 7時間37分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-01-07「最果ての後ろめたさに騙される硬貨を数える赤子を撫でる」
  • 2018/1/9, Tue.
  • 2016/8/28, Sun.
  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』: 346 - 362
  • 2019/1/5, Sat.
  • 2018/12/31, Mon.
  • 2018/12/30, Sun.
  • 2018/12/29, Sat.
  • 三宅誰男『亜人』: 9 - 64
  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年、書抜き

・睡眠
 2:35 - 8:50 = 6時間15分

・音楽

  • Jose James『No Beginning No End』
  • Jose James『Love In The Time Of Madness』
  • Jose James『Yesterday I Had The Blues - The Music Of Billie Holiday
  • Joshua RedmanCompass
  • Joshua Redman『Trios Live』
  • Joao Gilberto『Joao』
  • Jochen Rueckert『We Make The Rules』
  • Joe Henry『Scar』
  • Joe Henry『Tiny Voices』




鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年

 (……)朝の三時半にはもうすっかり明るかったが、太陽はまだ見えなかった。山道をたどっていくと、近くの牧場の上で牛どもが、なかばめざめ、なかばうつらうつらしながら寝そべっていた。乳白色の石のような大きな図体をして、脚をたくしこみ、臀[しり]をいくぶんわきにずらして彼らは横になっていた。人間が通りすぎても彼らは、まじまじと見つめるでもなければあとを見送るでもなく、ただ、やがてさしのぼる日の方向に凝然と顔をふりむけたままでいた。ゆっくり単調に反芻する彼らの口は、祈祷の文句をとなえてでもいるかのように見えた。茫漠たる高貴な存在の世界を突っきるように、この牛どもの圏内を横断して、さらに高いところからふりかえると、彼らの背骨と後脚と尾で構成された線は、散乱する白い沈黙のト音記号のようだった。(……)
 (鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年、274; 「グリージャ」)

     *

 今彼は、自分の身にどういう変化が起きたのか、いいあらわすことができなかった。そしてトンカは、世間なみのことばで話すかわりに、いつも一種の全体を表示することばで語ったので、愚かな鈍感な人間と思われるのを避けられなかった。彼女の心に歌が思いうかぶとは、何を意味しているか、あの時彼にははっきりわかっていた。彼女はひどく孤独であるように思えた。もし彼がいなければ、誰が彼女を理解するだろう? 二人はいっしょにうたったのだった。トンカは彼にまず歌の文句を原語で語ってきかせ、それからドイツ語に訳してみせた。そうして二人は手を取りあって、子どものようにうたったのだ。息をつぐために途中で切らねばならなかった時には、彼らの前にいつも小さな沈黙があった。夕闇が彼らの行手にひろがっていた。こういうことすべてが取るに足らぬことだったにせよ、その夕暮は、彼らの感覚とぴったりひとつになっていた。
 (319; 「トンカ」)

     *

 そしてまた別の時、二人はとある森のはずれに腰をおろしていた。彼は眼を細くして、何もいわず、考えにふけっていた。トンカは驚いて、自分がまた彼の気持をそこねたのではないかと心配した。何かいわねばならないと思ったので、彼女の息づかいはときどきせわしくなったが、結局気おくれがして、黙ったままでいた。長いあいだ、きこえるものはただ、そのつど別の場所で起きたりしずまったりする森のざわめきの、心を疲らせるようなわけのわからぬ呟きばかりだった。ある時褐色の蝶が彼らのそばを飛びすぎて、長い茎の上に咲いている花にとまった。とまるはずみに花はふるえ、何度か左右にゆれ、そして急に、中断された会話のようにぴたりと静止した。トンカは足もとの苔を指で強くおさえつけた。しかし、しばらくたつと、小さな茎はつぎつぎにおきあがり、またしばらくすると、そこに残っていた手のあとはぬぐうように消え去ってしまった。なぜということなく、泣かねばならぬような気がした。もし彼女が、連れの男のような考えかたに慣れていたなら、この時トンカは、自然というものが、夜空の星のように散りぢりになってさびしく生きている、ささやかな醜いものばかりでできていることを感じただろう。美しい自然、というのか。角灯のような頭をした一匹の雀蜂が、彼の足のまわりをはっていた。彼は蜜蜂の方を見やり、それから自分の足を見た。大きな黒いその足は、褐色の道にはすかいに突きだしていた。
 (319; 「トンカ」)

     *

 (……)彼は片眼をつぶり、もうひとつの眼で自分のからだを上から下へと見おろしていった。自分の靴の恰好がどんなに不細工に見えるか、そもそも、トンカとこうしていっしょに森のはずれに寝そべっていることが、どんなに無意味なことであるか、彼にわかっているのは確かだった。だが彼は、こういう状況の何ひとつとして変更しようとはしなかった。個々に見れば醜いものでも、全部まとめるとそれは幸福というものだった。(……)
 (320; 「トンカ」)

     *

 (……)不信の眼で見れば、貞節のもっとも歴然たる徴証が、ほかならぬ不実のしるしに見えるし、信頼の眼で見れば、不実の一目瞭然の証拠が、大人の仲間からしめだされて泣いている子どものような、誤解された貞節のしるしともなる。ひとつだけきりはなして単独に説明のつくことは何もなかった。どれもみな他のものに依存していた。全部そのまま信ずるか信じないか、愛するか嘘だと思うか、どちらかだった。トンカを知るとは、彼女に一種の返答を与えねばならぬこと、彼女にむかって、きみはこういう人間だよといってやることだった。彼女がなんであるかは、ほとんど彼次第できまることだった。するとトンカの姿はおぼろにかすみ、静かにまばゆい光を放ちながら、メル(end343)ヒェンの世界にはいっていった。
 (343~344; 「トンカ」)

     *

 (……)奇妙な室内の光の中で、家具類は今それら自身のミイラのように見えた。からだは冷え、指先はこごえ、内臓は熱い糸玉のように、体温をしっかりととらえて放さなかった。万一のことがないように、トンカをそっとしておいてやらなくてはいけない、医師はそう忠告していた。しかしまさにこの時、医師ほどあてにならぬものはなかった。別の側へむかおうとするすべての努力も空しかった。おそらくトンカの力は弱すぎたのだ、彼女はいつまでたっても、生まれかけの神話だった。
 (351; 「トンカ」)

     *

 (……)あるいは、悲しげな調子で口に出していってみた、考えてもごらん、ひとりの人間が、一匹の犬だけを連れて、星の山を、星の海をさまよっているんだ!――すると、眼に涙がわいてきた。涙は天球のように大きくなり、眼の外へ出ることができなかった。
 (354; 「トンカ」)