2019/1/10, Thu.

 まだ暗いうちに一度覚め、七時台にも覚めながら床を離れることができず、ベッドから抜け出した頃には八時半を迎えていた。床に立ち、ダウンジャケットを羽織ってコンピューターを点け、Twitterを覗く。コンピューターはプログラムの更新のために再起動する必要があるようだったので、そのように操作しておいてから上階に行った。母親に挨拶。食事はおじやかパンだと言う。それで丼に収められたおじやを電子レンジに突っ込み、二分加熱するあいだに新聞記事をチェックする。そうして熱されたものを持ってきて、食べながら(おじやはまだぬるかったが、面倒なので構うまいとそのまま食した)新聞を読む。一一面の「論点 試練のリベラル民主主義」、それに四面の「語る 政治展望2019 国際秩序維持へ指導力」である。どちらも写しておきたいと思うほどにぴんと来る部分はなかった。おじやを食べたあと、それだけでは少なかったので冷蔵庫から豆腐を出し、やはり電子レンジで加熱して、鰹節と麺つゆを掛けて食す。この頃には父親も起きてきており、階段から上って来た彼はこちらがおはようと掛けると、二日酔いででもあったのだろうか、顔を、目のあたりを強く顰めながら返事をした。食事を終えると薬を飲み、皿を洗って部屋から急須と湯呑みを取ってきた。古い茶葉を流しにあけ、新しく茶を注ぎ、急須にさらに湯を加えておいて下階に帰る。風呂は湯が多いので洗わなくて良いとのことだった。そうしてコンピューターの前に立ち、Queen "Need Your Loving Tonight"をリピート再生させた。朝起きた時からこの曲が頭のなかで流れて仕方がなかったのだ。次の"Crazy Little Thing Called Love"も一度掛けて歌うと、日記に取り掛かりはじめた。引用が多いために連日二万字を越すようになってきている。読む方はよほどの暇人でもなければたまったものではないが、断片的にでも読んでいただけるならば有り難い。
 この日は久しぶりに快晴とは行かず、居間の南窓から外を覗くと、空には細かな畝を設けた雪原のような薄雲が広がっていて、陽射しは薄く、空気は無色だった。それでは早速だが、三宅誰男『亜人』からの抜書きを行っておこう。

  • ●9: 「地図にも年表にも載らない話だ。そのような切り出し方が許されるだろうか? ひとを食ったような無礼さからはじまるひとつづきの言葉にわざわざ耳をかたむける奇特な人物がいるとでも? だが、その種の無礼を前提にすることでしか語れないなにごとかがあるはずだ。地理に見放され歴史からもはぐれた辺境によりそうことを決意した言葉だけが浮かびあがらせることのできる諸相というものが。事物にひそむ崇高さがおしなべてまがいもの扱いされる世からは遠くへだたることではじめて可能になる啓示の舞台が。それがアルシドだった。意味とは群れをなすでもなく束になるともなく、それでいてこぞってこちらのあとをつけるうすぎたない追いはぎどもの別名である」――書き出しの一段落。格好良く、実にきまっているものだ。冒頭から早速の自己疑問、自己言及がある。ムージル「トンカ」の書き出しを連想させる―― → ●鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』310: 「とある生垣のほとり。一羽の鳥がさえずった。と思うと太陽は、もう藪かげのどこかに姿をかくしていた。鳥の歌がやんだ。夕方だ。百姓娘たちが歌をうたいながら野をこえてきた。こんな書きかたはくだくだしいか? だが、このような一部始終が、まるで服に取りつくいが[﹅2]かなんぞのように、人の心にまつわりついてはなれないとしたら、それは些細なことだろうか? それが、トンカだった。無限というものは、しばしば、ひとしずくずつ滴り落ちるものである」
  • ●9~10; 「アルシドという呼称が熱帯の海洋に浮かぶ二十三の島々からなる群島全体を名指すものであるのか、それとも領主の館を中心に栄えた城下町といくつかの村落から構成されている主島を名指すものであるのかは定かでない。定かにする必要もないだろう」――まるで必要ならば「定かにする」ことができるかのような口振りである。
  • ●10: 「森は影よりも深く、谷は骨よりも嶮しく、沼には龍がひそんでいた」――「龍」。ファンタジー的な要素。
  • ●11: 「独立不羈の十全なるあらわれか、肌はとりわけ白く、頭髪までもが四十路を待たぬうちに銀色に輝きだすのは[領主]一族共通のしるしであった」――「四十路」の言葉選び、「一族共通」の特徴、同質性。ムージルポルトガルの女」を連想させる。 → ●鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』288~289: 「幾年幾百年を通じて、それがどういう人物だったにしても、褐色の頭髪や髭に時ならぬ白髪をまじえ、六十路の声をきく前に世を去ったという点では、彼らはすべて共通していた」
  • ●12: 「大佐」は、「戦に燃やす細胞の数が人一倍多いがゆえに老いのおとずれもまた人一倍はやいのだろうか?」――自ら語る物語への疑問。語り手は、物語の全域を把握してはいない?
  • ●12: 「(……)太刀筋を競わせるさなかにさえのぞくその危うさに射ぬかれると、進んで斬られたい心地になった。/大佐は完璧な詩人だった。言葉の誤りを指摘されるたびに、むしろその言葉によって指示しようとした当のものを誤用された言葉に見合うべく変形してみせる、しなやかで強情な鑿の振るい手だった。戦の大半は海戦だった」――「(……)振るい手だった。戦の(……)」の部分で、話題の転換、飛躍が起こっている。前段落の最後は「大佐」の武的鋭さについて述べられているわけで、次の段落は「戦の(……)」から始まったほうが繋がりが良さそうな気がするものだ。しかし、「大佐」の「詩人」性についての説明がその前に挟まれている(これは前段落にある、「魂の感受性の異様な繊細さ」を受けているのだろう)。一瞬、記述が迂回していると言えるかもしれないが、しかしそれで違和感を覚えるわけではない。
  • ●13: 「沈没はいつもおおうずをともなった。(……)うずの中心にはまだだれも見たことのない海底への入り口が開けていた」――「おおうず」「うず」。意外な平仮名へのひらき。漢字でも良さそうなものだが。
  • ●14: 「そのとき大佐は三十もなかばをまわったところで、かたわらにはまだ亜人の姿はなかった」――「三十もなかば」。「大佐」の年齢による時間の明示。 → ●12: 「四十もなかばをまわるころには一族の例にもれず、総白髪に白髭をたくわえた隠者の体をなした(……)」
  • ●16: 「左目の視力を失ってもなお大佐は戦の先陣を切りつづけた。片目となった大佐のかたわらにはすでに亜人の姿があった」――「亜人」の現れの時点。
  • ●16~17: 「夜のうちの黒い嵐が乱れがちな潮の流れを一時的にただしたその間隙を偶然に突くかたちで群島の北端に位置する小島に上陸した大陸の船団を返り討ちにした際に、相手方の虜囚であったらしいその[亜人の]身元を大佐が気まぐれからひきうけたのだった。(……)敵船上陸の報せが夜目の利く伝書鳩によって館内にもたらされたとき、大佐は太刀を片手にだれよりもはやく馬上のひととなった」――「夜のうちの(……)」で一度、「大佐」が「亜人」を「ひきうけた」経緯が俯瞰的に距離を取られて簡潔に要約されて語られ、以下に引く話者の疑問が差し挟まれたあと、「敵船上陸の(……)」からはより具体的で詳細な語りが始まっている。ガルシア=マルケスムージルも使う「先取り」の技法である。
  • ●17: 「それをただの気まぐれで片づけてしまっていいものだろうか? 世にあるものごとがおしなべて脈絡なく生じるものだとすれば、およそありとあらゆる行為は気まぐれをその動機とすることになる、そういう意味での気まぐれではなかったか?」――自己の語る物語に対する自己疑問。「世にある(……)することになる」の部分は、持論のような感じか? 物語に疑問を投げかけるということは、話者は自ら語る物語のすべてを把握しているわけではなく、物語は話者にも見通せない領域を含んでおり、語り手は物語から距離を取っている。
  • ●17~18: 「館の門前に敷かれた硬い石畳から夜露に濡れて冷えた大地、密林のなかを蛇行する黒々としたやわらかな湿地から星明かりに青白く照りはえる微風の浜辺へと、蹄の音色がめまぐるしく変わりつづけた。生きるということは期せずして奏でられる音楽であった。はじまりからおわりへと心を方向づける旋律を厭い、なにごとかへの同期にむけて駆りたてるむきだしのリズムとささやかな音色の持続する変容だけがたしかな、ちょうど先住民らのあいだに代々伝わる儀式の伴奏を思わせる、そのような音楽であった」――美しい箇所。「はじまりからおわりへと心を方向づける旋律」とはいわゆる「物語」のこととして取れるのではないか? それに対して、「なにごとかへの同期にむけて駆りたてるむきだしのリズムとささやかな音色の持続する変容」とは、要約的な「物語」に対する一瞬の「出来事」、その差異に触れた時の事物や主体の変容のこととして考えてみたい。つまり生とは本来、「物語」に要約しきれるものではなく、そのような「出来事」の無数の、無限の連なりによって構成されているものだが、「物語」とは事物の複雑性を捨象し、最終的にはそれらに一つの「意味」を付与するものである。そのような「意味」に囚われることなく、「出来事」の「意味」を超えた「強度」とそこにおける変容を称揚しているのだとすると、この部分は冒頭に掲げられた「意味とは(……)別名である」の箇所と並んで、この小説自体の読み方を示唆しているようにも思えて来ないだろうか?
  • ●19: 「ランプの炎がゆれるたびに陰影は濃くなりうすくなり、長くなり短くなりしたが、石のようにかたくななその表情が崩れることは一瞬たりともなかった。そのような存在を前にしていったいだれが息をのまずにいられよう?」――反語。
  • ●20: 亜人の「容貌の醜さが拷問によってきざみこまれた悪意の痕跡であるのか、彼の地で蔓延する未知の風土病によってもたらされた呪いのしるしであるのかは定かでなかった」――「定か」でない事柄。 → ●9: 「アルシドという呼称が熱帯の海洋に浮かぶ二十三の島々からなる群島全体を名指すものであるのか、それとも領主の館を中心に栄えた城下町といくつかの村落から構成されている主島を名指すものであるのかは定かでない」
  • ●21: 「おそらくは(……)大陸の船団によって発見され、母国へのいっぷう変わった手土産にと(……)」――「いっぷう」。ここも自分だったら漢字にしてしまうだろう。
  • ●22~23: 「奥行きの深さがむしろ表面に結実したかのような、透明度の高さがそのまま色づきと化したかのような、どこまでも鉱物的なそのまなざしは相対するひとびとにいやおうなく針のひとつきにも似たうしろめたさをおぼえさせた。野生の動物が逃げもせずにじっとこちらを見返しているときにおぼえるような、人間であることの羞恥と戸惑いを亜人もまた対面者にもたらすのだった」――「人間であることの羞恥と戸惑い」。良い表現。
  • ●24: 「鈴の音ひとつ許さぬ白々とした静寂が昼もなく夜もなく降りしきる大広間はだだっぴろくがらんどうとしており(……)」――「鈴の音ひとつ許さぬ白々とした静寂が昼もなく夜もなく降りしきる大広間」。ほとんど完璧なまでの意味とリズムの結びつき、最高度の音調。
  • ●25: 「(……)本来ならばこのうえなく豪奢な印象をともなうはずのそうした可視性も、生きた墓場のような館のしずけさのうちにあってはさしずめ逃げ場のどこにも見当たらぬ不気味にはなやかな閉塞感、死角のことごとくが漂白されたおそるべき八方ふさがりとしてうらがえしに結実するほかなかった」――「さしずめ逃げ場のどこにも見当たらぬ不気味にはなやかな閉塞感」。ここも素晴らしい。体言止めが上手い。ファインプレーではないか。
  • ●25: 「磨きあげられた大理石に滴りおちる黄金色の光彩がなめらかにはねかえり、風のある日の木漏れ日のようにたえまなくゆれては輝かしくせめぎあうその逐一がまったくの無音のもとではじまりもなくおわりもなく亡霊の手まねきのように謎めきくりかえされる大広間を、亜人は高みからふりそそぐ瞳の欠けた騎士の睥睨を左右に受けながら足音ひとつたてずに、むしろ沈黙をより厳かにきわだたせるつつましさでうつろに徘徊した。好奇心や探究心とはおよそ無縁の、強いられるものでもなければ試みるのでもない、意味も目的ももたぬ、因果の鎖からはぐれた行為ならぬ行為としての徘徊だった」――「はじまりもなくおわりもなく」ということは、「因果の鎖からはぐれた」ということと同義ではないだろうか。また、「謎めき」、「沈黙」も「亜人」の特徴として形容するにふさわしい。「亜人」は言葉を発することなく、意志を表示することなく、暗く「沈黙」した一種の「謎」、ほとんど純粋な「他者性」としてこの小説世界に現れている。それは「因果の鎖」から外れており、「はじまり」と「おわり」のある一つの「物語」=「意味」に還元することができない。それは「物語」を持っていない、いや、持っているのかもしれないが、それは読者には(そして小説のほかの登場人物たちにも)決して見えないようになっているのだ。ここの描写は、そのような一つの「謎」として現れる「亜人」の性質と調和的に書かれているのではないだろうか。
  • ●25~26: 「腕をあげたり足を踏みだしたりするだけのなんでもない身ぶりひとつとっても人間には常に表情というものがつきまとうのだということが逆説的に理解されるような徹底した無表情性(……)」――的確な表現。
  • ●26: 「ときおりなにかに耳をすませるかのようにしてたちどまることもあったが、真意は読みとれなかった。真意そのものの欠落を思わせぬところに、あてどないその歩みを機械じかけの産物として看過することを許さぬあやしげな余白が嗅ぎわけられた」――「亜人」は「謎」ではあるが、答えのまったくない、完全に純粋な「謎」ではないのだ。もし動物ならば、「真意」などというものはないだろう。人間ならば、表面の裏に「真意」や「内面」が存在する。「亜人」はそのどちらでもない、「真意」があるのかないのか、それを決定できない一つの「謎」、まさしく動物と人間のあいだに位置する「亜人」として定義されているのだ。
  • ●27: 「亜人の姿それ自体が、おそれと軽蔑が交差するかすかな領域にあてがわれた特別な感受性の持ち主にのみ働きかけるひとつの作用であった」――「特別な感受性」。 → ●12: 「大佐」は「魂の感受性の異様な繊細さにも恵まれていたが、これは当代領主のみに見られる突然変異のあらわれと見なされていた」
  • ●28: 「罰の予感がすでに罪であり、罪の実感がつねに罰であった」――段落冒頭にある抽象的な一節。どういったことを指しているのか、どこに繋がるのかわからず、語りのなかで浮かびあがっている。
  • ●28: 「骨の谷で発見されたという巨龍の化石見物が、大佐がみずからの用向きに亜人をともなう最初のできごととなった」――「巨龍の化石」。ファンタジー的な要素。
  • ●28: 「(……)一同の前に、一個の腐乱死体がたちふさがった。顔ははがれ落ち、四肢は海水にふやけて蛭のように輪郭をなくし、男か女か、子供か年寄りかさえ見たところ判別できなかったが、ふくらんだ体をぴったりと包みこむ藍色の軍服が、大陸の兵士のものであることは疑いなかった」――「顔ははがれ落ち」、「男か女か、子供が年寄りかさえ見たところ判別できな」い。「亜人」の性質との共通性。「亜人」はこの同質性から、この死体を水葬するのか、などと想像してしまいそうになるが、しかし―― → ●29: 「居合わせた士官のなかには、腐乱死体も亜人も崩れた容貌にかけては似たり寄ったりであると、事の一部始終を品の悪い皮肉の大箱にたやすくしまいこんでそれきりにせんとするものもあった(……)」――先の読みは著者自身によって作品内に書き込まれている。そして、 → ●30: 「かたちをととのえているのだと気づいたときには、遺体はすでに若く勇敢な兵士の無念の表情をとりもどしていた」――男か女かは明らかでないが、少なくとも死体が若者のものであることは判明する。したがって、この死体は「亜人」の仲間ではない(「亜人」は若いのか年老いているのかすらわからない)。
  • ●29~30: 「亜人は(……)やがてゆっくりと息を吐きながらひざを折り、たっぷりとした、それでいてひとしずくのためらいもない動作で、前も後ろも定かならぬ塩漬けの肉体を手のひらでぺたりぺたりと押さえつけはじめた」――「ひとしずくのためらい」。良い言葉選び。
  • ●32: 「小蟹は(……)すり鉢状の窪みに真正面から相対するようにむきなおるがいなや、不意に、なにかしら思うところでもあるかのようにじっと動かなくなった。思うところ? この小さな存在に? きざすものがきざしはじめていた」――自分の語りに対する自問。ムージルから受け継いだであろうこうした「疑問」の投げかけは、独特のリズムを生み出しているようで印象的だが、その効果の射程は自分には未だ充分に明らかではない。
  • ●34~35: 「耽溺しすぎると狂いをもたらすたぐいの緊張、名づけた途端に口をふさぎ、首を絞め、息をせきとめにやってくるにちがいない親殺しの張りつめた感情が胸骨のあたりでたちさわぎ、つぼみのおおきく開花するようにそのむき身を外気にさらそうとつくづく強いた」――「むき身」。 → ●11: 「いざ真正面から相対するとなるとその刀身からほとばしる輝く湯気のような凄みに四肢をからめとられ、気づけばむき身の命をあられもなくさしだしてしまうのだった」。 → ●31: 「馬上の一同に言葉を追いつかせなかったのは(……)美の類型におさまりきらぬむき身の印象、なまなましく滴りおちる営為の凄みのほうであった」
  • ●この小説には「視線」のテーマ、殊に「まなざし」という語が頻出する。 → ●12: 「四十もなかばをまわるころには(……)隠者の体をなしたが、体格はあくまで屈強で眼光はするどく(……)」 → ●12: 「世界と詩と魂が三位一体となってとりむすぶ崇高な共犯関係をたどるその目つき(……)」 → ●14: 「(……)敵兵でおもが徐々にその円周運動をせばめながら無限の胃袋へと接近していくむごたらしさには、血も情けもない歴戦の兵[つわもの]らでさえもがおもわず目を背けた。義務とも権利ともつかぬ一語に影が縫われていたのか、ただ大佐だけがそうした一部始終を直視しつづけた」 → ●15: 「(……)ただ大佐だけが例のごとく、巨鯨が迂回し海獣どもが祈りをささげる未踏の海域へとしずかに沈みさっていく神々の姿にむけて不動のまなざしを送りつづけていた」 → ●19: 「亜人」は、「大佐の手にしたランプのひかりを真正面からむけられてもまぶしさに目を細めることもなければ視線を逸らすこともなく(……)」 → ●22: 「亜人は声を発することもなければ身ぶりでなにかを訴えることもなかった。言いつけや命令にもおとなしく従い、呼びかけには直視でもって応えた。(……)どこまでも鉱物的なそのまなざしは相対するひとびとにいやおうなく針のひとつきにも似たうしろめたさをおぼえさせた」 → ●24: 「亜人」は「館の外には見向きもしなかったが、それでも逃走の意欲や害意の在処を探ろうとするまなざしの傾注が絶えることはなかった」 → ●30: 「円舞はすでに停止し、一同は強い力によって黙視を強いられていた。馬までもが足踏みひとつすることなく、(……)茂みの奥にひそむ未知の気配の正体を見極めんとする顔つきで、硬く強ばったまなざしをひとところに送りだしていた」 → ●32: 「二度目の含羞が直視を耐えがたくさせた。我知らず逸らしたまなざしが、潮風に重くなった砂浜にそれでもかすかにきざみこまれてある亜人の足跡を、彼方の密林から手前にむけて点々と追った」 → ●35: 「大佐は亜人を見た。おのれ自身を含む含むなにものに急かされたわけでもなければうながされたわけでもない、意図や欲望から遠く離れた神話の摂理がかくあるべきと舞台をととのえた、そんなふうなまなざしの送りだしだった」 → ●35: 「(……)亜人のその顔がいつ、みずからの影に沈んだ死に顔から晴天を後光に背負う馬上のこわばりへとむけられるのか、助けを請うまなざしが日暮れを知らぬこの光線に相対してどのように細められさしむけられるのか(……)」 → ●36~37: 「沸きかえる一同にむけて亜人はちらりとまなざしをめぐらした。大佐の硬くひきしまったくちびるから軽薄な発言をひきだすにたるだけの言外の迫力や凄みなどとはまったくもって無縁の、虐げられたものの卑しい鈍光が宿った、まずしい一瞥だった」 → ●40: 「沈没する敵船の背骨の折れる音が雷鳴のようにとどろくと、亜人は大佐と同じく、海の彼方にむけてまなざしを投げかけた」 → ●50: 「野次や笑声をたたえた無数のまなざしが大佐へとそそがれたが、それらのどれひとつとして焦点のはずされていないものはなかった」 → ●57: 「死屍累々たる一面にむけて大佐は、朦朧と濁った、それでいて芯のまだ鈍りきってはいないかぎ爪型のまなざしをめぐらせた」

 以上、ここまで記すともう正午も近くなっている。二時間半のあいだ、打鍵をしていた。
 それからMさんのブログを読み、上階に行った。冷凍庫から冷凍食品のスパゲッティ、「四種のチーズのカルボナーラ」を取り出し、外袋を開け、その裏に書かれてある説明を見ながら品を電子レンジに突っ込む。六分半の設定をして稼働させてから一度部屋に戻り、新聞を取ってふたたび居間に上がると、食器乾燥機のなかを片づけたり新聞の一面を読んだりしながら待った。電子レンジが加熱完了の音を立てるとともに立って取りに行き、火傷をしないように注意して袋の端を持ちながら開封して(開けた時に吹きだしてくる空気が大層熱かった)、皿に盛る。そうして卓に就き、新聞の一面を読みながら麺を啜る。記事は「iPS細胞でがん治療 理研など 「頭頸部」患者治験へ」である。それよりも大きく扱われている「徴用工 日韓協議を要請 政府 請求権協定 基づき」のほうも途中まで読み、皿を洗うと自室に戻って鍵を取ってきた。散歩に出るつもりだったのだ。靴を勝手口に運んでそちらの扉を開けると、外に燃えるゴミのゴミ箱と生ゴミを入れる黄色のバケツが干してあったので、水気をまだ帯びているそれらを室内に入れ、バケツのほうにはビニール袋をセットしておいた。そうして道に出る。
 曇りの日とあってさすがに風が冷たい。歩き出してすぐ、Hさんの家とTさんの宅の境にある低木から鳥が一羽立って、通りの向かいの林の縁に飛んで行き、葉のところどころ赤紫色に染まっている南天の茂みに移った。そちらのほうに目をやりながら過ぎれば短い声を落としながらふたたび立って飛んでいったものの、どうやら鵯らしい。空は一面曇り、頭を後ろに巡らせれば東南の方角、毛布で覆い尽くしたような質感の、茫漠とした雲の広がりが柔らかな壁のようだった。いつものごとく坂を上り、裏道を行く。この日も鼻で呼吸すると、鼻孔の奥に冷気がつんと来る。周囲に視線を送りつつ家並みのあいだを歩きながら、生成という点では外界も内界も変わりない、この世界が絶えず変容し続けているように自分の内側も絶えず思考が巡り、生成を続けているわけだなと考えた。書き記すという点においては内も外も大して違いはない、と言うか、書く働きによって両界はまとめて対象化され、それらのあいだの境は消滅するのではないか、などと。緩い曲がり角を曲がって街道に出る頃には思考は移って、やはり毎日少しずつでも英語を読むべきではないかと考えていた。こちらは以前からヴァージニア・ウルフの著作をいつか翻訳したいという夢を抱いている――小説作品はともかく、エッセイは翻訳されていないものが多くあるし、書簡や日記も同じだ(日記は一部訳されているが完全版ではなかったはずだ)。そうした文化的未発展とも言うべき状況はやはり改善されなければならないわけだが、もし自分がウルフの翻訳をできるとしても、それにはこれから一〇年のあいだ英語を読み続けて、その先の一〇年で取り組むことになるだろうなと漠然と考えた。ひとまず今は、またHemingwayのThe Old Man And The Seaを読み返してみようか――ちょうど一年と少し前、二〇一七年の一一月あたりに読んでいた記憶がある(そうして、物語として読んでも具体性を持っていてなかなか魅力的でありながら、文学に触れたことのない人間にも楽しめるほどわかりやすいように思われたので、その年の一二月の父親の誕生日には光文社古典新訳文庫小川高義訳を送ったのだ)。もう長いこと英語に触れていないので、英単語など基本的なものも忘れてしまっているだろう。今小説を読みながらやっているように、意味のわからなかった表現はノートにメモして、ある程度のまとまりとともに日記に写しておけば良いのではないか? 時間は掛かる、しかしやはり時間を掛けたほうが定着は確かなのではないか――そんなことを思いながら進んでいると、通りの向かいの家からクランチ気味のギターのコードストロークが流れ出てきて、思わず立ち止まった。Queenではないか?と思った。それで耳を澄ましたが、しかし車の途切れて静かだったところにすぐまたやってくるものがあって、音楽はその走行音に塗りつぶされてしまったので、諦めて先を行った。氷の冷たさを持つ寒風のなかを歩き――歩くあいだ、自分に辛うじて出来るのは日記を措けば、翻訳なのではないかと考えた。自分は体験を日記の形で言語化することはできるのだが、いわゆるフィクションの物語を綴る才能はない。作ってみたいとは思うのだが、まったくそういった方面に頭が働かず、まるでアイディアが思いつかないのだ。批評も、ちょっとした感想のようなものなら書けるが、「作品」と言うほどのものを作るのはおそらく無理だろう。そうなると残るは翻訳、ということになる。翻訳ならば元となるテクストがあり、古井由吉の言ったようにそれは逃げて行かない。そもそもこの日記の営みだって、世界の動向を元にしてそれらを言語的に翻訳しているようなものではないか、などと考えていたのだ。――しばらく行ってから右へ折れて、昨日と同じ細道に入る。鳥の声が林のなかに散っている。古めかしいような緑青色の竹を過ぎ、周囲を囲む濃緑の葉叢へと目をやると、いくらも離れていないそれがぼやけて見えたので、目が悪くなったなと思った。本ばかり読んでいるせいだろう、しかしまだ眼鏡を作るほど困ってはいない――コンタクトレンズのような異物を眼窩に入れるつもりはない、それに眼鏡のほうがファッション性があるというものだ。斜面の落ち葉の合間で鳥たちが跳ねるなかを下って行き、道に出ると鍵を取り出し、くるくるやりながら帰宅してなかに入った。
 緑茶と「坂角」の煎餅を持って自室に帰り、飲み食いしながら日記の読み返しをした。一年前のものは大したものではなかった。二〇一六年八月二七日の分からは、以下の描写がなかなか良く思われた。

 既に暮れて地上は暗んでいながらも空はまだ青さの残滓を保持していたが、それもまもなく灰色の宵のなかに落ちて吸収されてしまうはずだった。雨は降り続けており、坂に入ると、暗がりのなかを街灯の光が斜めに差して、路面が白く磨かれたようになっている。前方から車がやってくると黄色掛かったライトのおかげでその時だけ雨粒の動きが宙に浮かびあがり、路上に落ちたものが割れてそれぞれの方向に跳ね、矢のような形を描いているのが見えた。街道に出ると同じように、行き過ぎる車のライトが空中に浮かんでいるあいだだけ、無数の雨の線が空間に刻まれているのが如実に視覚化されるのだが、それらの雨はライトの上端において生じ、そこから突然現れたかのように見えるため、頭上の傘にも同じものが打ちつけているにもかかわらず、光の切り取る領域にしか降っていないように錯覚されるようで、テレビドラマの撮影などでスタジオのなか、カメラの視界のみに降らされる人工の雨のような紛い物めいた感じがするのだった。道を見通すと、彼方の車の列は本体が目に映らず、単なる光の球の連なりと化しており、それが近づいてくると段々、黒々とした実体が裏から球を支えていることがわかる。濡れた路面が鏡の性質を持っているために光は普段の倍になり、二つの分身のほうは路上の水溜まりを伝ってすぐ目の前のあたりまで身を長く伸ばしてくるのだが、その軌跡は水平面上に引かれているというよりは、目の錯覚で、アスファルトを貫いて地中に垂直に垂れながら移動してくるように見えるのだ。横断歩道が近づくと、信号灯の青緑色が、箔のようにして歩道に貼られる。踏みだすたびにそのいささか化学的なエメラルド色は足を逃れて消えてしまい、自分もその照射のなかに入っているはずなのに、我が身を見下ろしても服の色にはほとんど変化がないのだった。

 また、「職場全体で見ても、このような文章を積極的に読みそうな人種は存在しない――別に彼ら彼女らに知られたところで面倒な問題や軋轢を生まなければ構わないのだが、連日数千字も文を綴ってわざわざ自分の生活を人目に晒しているなどということが明らかになると、端的に頭がおかしいと思われそうなので、こちらから知らせるつもりはない」という一節の、「頭がおかしいと思われそう」という懸念に思わず笑ってしまった。そうして読み終えると即座に日記を書きはじめて、ここまで二五分で綴って一時半である。BGMはMarcos Valle『Samba '68』。軽快で清爽な、良質のブラジル音楽。
 洗濯物を取り込みに行った。書き忘れていたが、日記を読み返しているあいだにインターフォンが鳴ったので、部屋を急いで抜けて階段も一段飛ばしで上り、受話器を取ると宅急便だった。ありがとうございますと告げて玄関に出ていくと宅配員は女性、品は父親が折に触れて買っている炭酸水の箱だった。何がそんなに美味いのか知らないが、父親はいつも炭酸水を飲んでばかりいる。それでお運びしますねと言ってきたところが、重いのでこちらがすぐに受け取って椅子の上に置き、差し出された紙に簡易印鑑を押した。礼を言って扉を閉める間際、階段を下りて行く宅配員が、良かった、と暢気そうな声で独り言を言ったのが耳に入った。やはり重いものは女性にとっては負担なのだろう。炭酸水の箱は抱えて元祖父母の寝室に運んでおき、そうして下階に戻って日記を読んだというわけだ。
 日記を記してから、書抜きの読み返しを行った。一二月二八日から二六日まで。新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』ほか、沖縄を中心とした現代史の知識。各日の記事に引用してある記述の音読をしてから目を瞑って今しがた読んだ情報をぶつぶつと呟き、記憶を確認するという風にしてやっているのだが、通常二回ずつ読むところ、このあたりの日付だったらもう何度も読んでいるので音読が一回だけでも(場合によってはまったく読まなくても)情報を思い出せる。その後Uさんのブログも読み(しかし自分は本当に読んでばかりいると言うか、家事や散歩や外出の時間を除けば読み書きしかしていないのではないか?)、それからErnest Hemingway, The Old Man and the Seaに取り掛かりはじめた。比較的簡易で読みやすい英語なのだが、やはり語彙は結構忘れている。以下にノートにメモした英単語を、それを含むまとまりとともに写しておく。

  • ●前書き: but it was the satirical novel, The Torrents of Spring, which established his name more widely.――torrent: 奔流
  • ●3: It made the boy sad to see the old man come in each day with his skiff empty and he always went down to help him carry either the coiled lines or the gaff and harpoon(……)――gaff: 魚かぎ、やす
  • ●3: his hands had the deep-creased scars from handling heavy fish on the cords――creased: 皺の寄った
  • ●5: The successful fishermen of that day were already in and had butchered their marlin out and carried them laid full length across two planks(……)――plank: 板
  • ●5: Those who had caught sharks had taken them to the shark factory on the other side of the cove where they were hoisted on a block and tackle(……)――hoist: つり上げる / tackle: 巻き上げ機
  • ●6: I can remember you throwing me into the bow(……)――bow: 船首、舳先
  • ●8: there was a bed, a table, one chair, and a place on the dirt floor to cook with charcoal――charcoal: 木炭
  • ●8: On the brown walls of the flattend, overlapping leaves of the sturdy-fibred guano(……)――sturdy: 頑丈な / fibre: 繊維
  • ●11: The boy had brought them in a two-decker metal container from the Terrace.――two-decker: 二層の、二段重ねの
  • ●13: 'When I was your age I was before the mast on a square-rigged ship that ran to Africa(……)――square-rigged: 横帆式帆装の

 以上。Hemingwayを一五頁まで読むと、四時前から間髪入れずに今度は三宅誰男『亜人』を読みはじめた。そうして五時まで読むと、上階へ。両親は法事から帰宅済み、二人とも炬燵に入って、父親は眠っており、母親はタブレットでメルカリを見ているようだった。ストーブの前に座り込み、温風によって乾かされていたタオルや肌着を畳む。タオルは洗面所に持って行って、それから台所に入って夕食の支度を始めた。まず味噌汁を作ろうというわけで、水を汲んだ鍋を火に掛けて葱と椎茸を切り、沸騰したところで豆腐とともに投入する。もう一品は、両親が葬式のお返しなのか何なのか知らないが色々な缶詰を貰ってきており(マンゴーを食べたらと言われたが夕食前なので断った)、そのなかにスイートコーンのものがあったのでそれで炒め物を作ることにした。それで玉ねぎを切り、冷凍庫から豚肉の切れ端とひき肉を取り出してそれらは解凍しておき、コーンの缶も缶切りを使って苦闘しながら開けると炒めはじめた。玉ねぎ、コーン、肉の順番に投入し、箸でしばらく搔き混ぜる。隣の焜炉には汁物が掛かって鍋のなかで泡が踊っている。各々食べる時に醤油を掛ければ良かろうということで炒め物には味付けをせず、炒め終わると汁物のほうも、「とり野菜みそ」を混ぜ入れて簡単に味を付けた。それから下階に下り、物置を通って外に出て、自転車などが置いてある家の脇のスペースに大根を取りに行く。薄暗がりのなかにあるものを見分けて、数本あったうちから一本取り、台所に戻るとまだ泥のついているそれをブラシで擦り洗った。そうして適当な大きさに切ってからスライサーで細かくおろす。水のなかで洗って笊にあげておくとこちらの仕事はそこまでで良かろうというわけで、あとは頼むと母親に任せて自室に帰った。日記をここまで綴って六時一五分である。
 それから三宅誰男『亜人』を読みはじめた。ベッドではなくコンピューターを置いたテーブルの前の椅子に座って、BGMはElla Fitzgerald『Mack The Knige - Ella At Berlin』である。"Gone With The Wind"、"How High The Moon"あたりはかなりの好演ではないか。『亜人』で最も頻出する語は間違いなく「まなざし」だろう。この小説の登場人物はまなざしを何かに送りつけてはまた周囲から送られている。今一〇七頁まで読んだのだが、そこまでで「まなざし」は計一七回出てきている。しかしそれらのまなざしが何らかの集団的意味の領分を構成しているのかどうかはこちらには良くもわからない。ただ、単なる印象ではあるけれど、この小説の展開のなかで何か大きな事件と見えるものが書かれる時には、そこに「まなざし」の語が導き入れられているような気がしないでもない。「まなざし」の次によく出てくるのは「不意に」「とつぜん」という「唐突さ」を表す語群ではないか。こちらは今までに九回を数えている。これらは多分「啓示」と親和的だろうと思い、いわゆる「啓示」の場面にしか使われていないのではなどと考えてもみたが、どうもそういうわけでもなさそうである。ほか、「極まる」関連の表現が六回、「滴りおちる」が四回出てきている。あと、「むき身」も四回。さらには数えていないけれど、「瞳」と「くちびる」も結構出てきていると思う。
 シシトが「もとめていた響き」を探り当ててのち大佐の寝室で楽器を弾き子守唄を歌う展開とか、その後に亜人を解放する流れとか、どのような論理で彼が動いているのか、シシトの「心理」が読めないのだが、鋭く彫琢された文体も相まって「事件」としての「強度」が描かれているのは確かだ。このあたりムージルから学んだところだと思うのだが、そこでは「深層」を探ろうとせず、深読みしようとせず、作中の言葉を借りれば「ただのそれ自身」としてある「事件」をそのままに読み、味わえば良いということではないのか。冒頭の「意味」を「追いはぎ」に喩えている場所とか、一七頁から一八頁の音楽の比喩など、そうした読み方を示唆しているのではないだろうか。
 七時二〇分に至って食事を取りに行った。台所では父親がフライパンから炒め物をよそっているところだった。大根は玉ねぎや人参を加えられ、シーチキンとマヨネーズで和えたサラダに拵えてあった。父親と入れ替わりにものをよそり、卓に就いて夕刊に目を落としながら食事を取る。皿を持ち上げて炒め物を搔き込んでは白米を頬張る。新聞記事は一面から、「正恩氏「非核化を堅持」 習氏と会談 米との会談 意欲 新華社報道」、「北方領土 首相発言 露が抗議 年頭会見「住民の帰属変更」を読み、さらに「韓国大統領 徴用工「判決を尊重」 年頭会見 日韓で対応検討を」の記事も途中まで読んだ。そうして抗鬱薬ほかを飲み、食器を洗って風呂へ。動作がいちいち鷹揚で、落ち着き払っているような感じだった。湯に浸かりながら小説のことを考えたりして、出てくると身体を拭いて肌着を纏い、水色のチェックの寝間着を身につけ、ドライヤーを手に取ると浴室から湧き出してきた湯気で曇った鏡に熱風を送って曇りを取る。そうして頭を乾かして居間に出、緑茶を用意して自室に帰った。Butter Butlerのガレットも持ってきて一つ食し、茶を飲みながら日記を綴る。現在は九時前になっている。Twitter――「毎日また日記を書けるようになってみると、書けなかった昨年の時間は一体何だったのだろうと思えてならない。何故まったく書けなかったのか不思議である。それが鬱病だと言えばその通りなのだが、今から考えてみると、確かに鬱症状と呼ぶべきものに襲われてはいたものの、自分が鬱病であるという実感は一貫して薄かったように思う。「鬱病」と一口に言っても、本当に人それぞれ発現の仕方が違うのだろう。一人ひとりの脳内で何が起こっているのか、どのような機序でもって「鬱病」が現れているのか、そこにはかなりの多様性があるのではないか。こちらの感じとしては、もっと科学が発展して細かな分類がなされればまったく違う病気になるような事々が、今は「鬱病」として一括りにされているように思う。テジュ・コールの言葉を引こう――「私はよく驚かされるのだが、この類に属する人は個人差が大きいので、私たちが診察しているのは多様な類のまとまりであり、それぞれの差異は、正常ならざる人間の類と普通の人間の類との差異に等しいのだ」(テジュ・コール/小磯洋光訳『オープン・シティ』新潮社、二〇一七年、220)」。
 九時半前からふたたび三宅誰男『亜人』を読みはじめた。コンピューター前の椅子に就き、時折りTwitterを覗きながら日付が変わる少し前まで読み、読了した。読むのは四度目だが、やはり大傑作であった。本当にテクストの全体、どの一行も、作品の隅の隅まで透徹した視線が配られ、まさしく磨き抜かれている、隙なく彫琢されている、それが今まで読んできて今回最もまざまざと感じられたような気がする。圧倒的な才能だ。しかしだからと言って無益な難解に堕してはいない。いや、難解は難解であるのだが、文体の激しさ厳密さ、そして「啓示」などに見られる論理の見通せなさに騙されなければ[﹅7]、物語としてのリーダビリティを充分以上に備えているとすら思う。物語展開としてもやはり高度に整えられており、一文一文の厳密さと物語の脈絡の厳密さとが非常に緊密に調和し、結合しているように感じられる。そうした意味で、形式と内容のあいだに必然的な結びつき――それは初めから、予めのアイディアとして求められるものではなく、一行一行を書くうちに事後的に生産されるものだと思うが――が存在するという、名作に対してよく述べられるあの称賛が、ここでも当て嵌まると思う。そうした意味で、本作は小説として実に正統的な「傑作」なのではないか。読んでいるあいだ、当てずっぽうの曖昧な印象だが、Eric Dolphyを連想するところがあったので、彼の『The Illlinois Concert』を流していた。
 その後、零時過ぎから今度は蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』。Twitterではまず一つ、先日メッセージを送っておいたHさんから返信があり、メールアドレスを教えてもらえたので、メールを送った。もう一つ、『亜人』を読み終えたその勢いを駆って、Mさんにもメッセージを送り、久しぶりに通話をしませんかと持ちかけるとじきに返信があって、明日か明後日に話しましょうと言う。今日(一一日)、おそらくこのあと話すことになると思う。蓮實重彦の読書は二時直前まで続けた。二時間弱掛けて三〇頁も進んでいないのにこの大著は八〇〇頁もあるわけで、これは骨が折れる読書になるなと思った。二時就寝。この日は久しぶりに少々入眠に時間が掛かって、床に就いてから三〇分後の時計を見たのを覚えている。一時間経っても眠れなかったらもう起きてしまって本を読もうと思っていたのだが、その後無事に寝付けたらしい。


・作文
 9:12 - 11:41 = 2時間29分
 13:03 - 13:34 = 31分
 17:46 - 18:13 = 27分
 20:27 - 20:49 = 22分
 計: 3時間49分

・読書
 11:44 - 11:57 = 13分
 12:48 - 13:03 = 15分
 13:42 - 13:55 = 13分
 14:09 - 14:34 = 25分
 14:34 - 17:01 = 2時間27分
 18:21 - 19:21 = 1時間
 21:24 - 23:46 = 2時間22分
 24:07 - 25:55 = 1時間48分
 計: 8時間43分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-01-08「寄る辺ない生きるも死ぬも罰当たり犬猫畜生おれも逝くかも」
  • 2018/1/10, Wed.
  • 2016/8/27, Sat
  • 2018/12/28, Fri.
  • 2018/12/27, Thu.
  • 2018/12/26, Wed.
  • 「思索」; 「1月8日2018年」; 「1月9日2019年」; 「1月9日2019年2」
  • Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea : 3 - 15
  • 三宅誰男『亜人』: 64 - 157(読了)
  • 蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』: 3 - 30

・睡眠
 2:10 - 8:20 = 6時間10分

・音楽