2019/1/13, Sun.

 九時半頃まで寝てしまう。それ以前に覚めた時に、前日と同じく暴力的な気配の夢を見たような記憶がないでもないが、忘れてしまった。ダウンジャケットを羽織って上階へ。母親は掃除機を掛けているところだった(ロシアに旅立った兄夫婦から貰った、メタリックな赤色のやつだ)。レコードプレイヤーからはThe Beatlesのベスト盤が流れており、この時は"Please Please Me"が掛かっていたので合わせてちょっと口ずさんだ。洗面所に入って顔を洗い、台所に出ると野菜スープがある。ほかにおかずはないと言うので例によってハムエッグを作ることにして、ベーコンの残りを冷蔵庫から取り出し、細かく切った。そうしてフライパンに油を引いて投入、卵も二つ割って熱しているあいだにスープをよそり、卓に運ぶ。この時には曲は"I Want To Hold Your Hand"に移っていた。それで焼けたものを丼の米の上に載せて卓へ、そう言えばこの朝は新聞を見なかった。ものを食べはじめると、南の窓の向こう、近所の瓦屋根の角に光が溜まって丸い光球が生まれている。音楽は"All My Loving"に移行して、正面、それが流れ出してくるステレオセットのほうを見ながら、醤油と黄身をぐちゃぐちゃに混ぜた米を食っていると、次に目を窓の外に向けた時、太陽の位置がこの短いあいだにも変わったのか、それとも薄雲が流れてきたのか、光球は消えて瓦の上に僅かな明るみが残るのみだった。曲目はその後、"Can't Buy Me Love"。そうしてものを食べ終えると抗鬱剤ほかを飲み、食器を洗い、そのまま風呂も洗った。部屋から急須と湯呑みを持ってくる。一杯目を急須に注ぎ、待つあいだに母親の使った掃除機を洗面所に運んでおき、一杯目をつぐと二杯目以降の分も急須に注いで、そうして自室に帰った。前夜に応援メッセージを送ったfuzkueの店主さんから返信が届いていたので再返信し、そうして日記に取り掛かった。前日の記事は一行足したのみ。人名を検閲したり、はてな記法に合わせて箇条書きを作ったりして投稿し、この日の日記もここまで書いて一一時。空は淡い雲が混ざっているようで白いが、時折り暖かな色の光が射す時間もある。BGMはFISHMANS『ORANGE』だが、このアルバムは名盤と言って良いのではないか。
 その後隣室に入って、何となくギターを弄る。「楽曲未然の定かならぬ旋律」(三宅誰男『亜人』を弄び、適当なアドリブに合わせてハミングをしながらしばらく弾いたあと、自室に戻ってきてFISHMANS『空中キャンプ』を流しはじめた。それでは、Ernest Hemingway, The Old Man and the Seaから、前日に読んだ箇所の英単語を抜書きしておこう。

  • ●16: (……)he dreamed of the different harbours and roadsteads of the Canary Islands.――roadstead: 停泊地
  • ●18: He fitted the rope lashings of the oars onto the thole pins(……)――lash: 縛る / thole pin: 櫓杭
  • ●19: (……)as he rowed he heard the trembling sound as flying fish left the water and the hissing that their stiff set wings made as they soared away in the darkness.――stiff: 固い
  • ●19: He was sorry for the birds, especially the small delicate dark terns that were always flying and looking and almost never finding(……)――tern: アジサシ
  • ●20: Today I'll work out where the schools of bonita and albacore are and maybe there will be a big one with them.――bonito: カツオ / albacore: ビンナガ
  • ●20: Each bait hung head down with the shank of the hook inside the bait fish(……)――shank: 軸

 そうして次に、蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』からも。

  • ●72: 「フローベールが、のちに詳しく触れる「散文は生れたばかりのもの」という認識から、近代の散文形式が古典的な表象体系の秩序にさからうかたちで認識論的な切断を惹起せしめるはずだとの確信に達していたことを、「フィクション世界」を提起する理論家たちはいささかも考慮しえずにいるからだ」
  • ●73: 「フローベールもまた、その言葉で、「散文」を書くことの不可能性、あるいはその根拠のなさを指摘しているからであり、その当然の帰結として、『ボヴァリー夫人』が「何も書かれていない書物」 《un livre sur rien》 ――無についての書物、すなわち「指示対象」を持たぬ作品――への夢として構想されたことも、「フィクション」論の理論家たちによって無視されるしかないだろう」
  • ●76: 「マラルメもいっているように、「物語ったり、指示したり、更に、描写することさえも、これらは何の造作もなく事が運ぶ」(マラルメ、ステファーヌ、「詩の危機」、松室三郎訳、『マラルメ全集Ⅱ』、筑摩書房、1989年、241)かに見え始めた時代、つまり誰もが書けば書けてしまう時代における作家と言葉との不可能な関係が、詩においても散文においても「書く」ことの苛酷さをきわだたせているのであり、そのことに、この小説家と詩人は敏感に反応しているのだといえる」
  • ●77: 「あるいは、フーコーのいう「文学の出現」(フーコー、ミシェル、『言葉と物――人文科学の考古学』、渡辺一民佐々木明訳、新潮社、1974年、321)なるものは、「もはや自己以外の何ものをも指示しない書くという行為のうちに、自分自身のために姿をあらわす」(同書 323)という「言語の再出現」(同書 322)そのものとして、詩学」という概念を葬りさろうとする言葉の「反乱」でもあるような「氾濫」だといえるかもしれない」
  • ●82: 「ジャック・ネーフは、すでに引かれた一八五二年四月二十四日付けのルイーズ・コレ宛の書簡で述べられている「散文は生れたばかりのもの」をめぐって、それを敷衍しながら、「『優れた散文の文章』とは、その限定が当の文章以外の何ものをも参照させることのないもの、その均衡が当の文章の内部から必然化されるようなもの、当の文章の充足ぶりと同調するような文章である」(ILLOUZ Jean-Nicolas et NEEFS Jacques (sous la direction de), Crise de prose, Saint-Denis, Presses Universitaires de Vincennes, 2002, 140)と書いている」
  • ●90: 「つまり、題材となった物語――存在や事物やできごとが、それぞれの置かれた時間的かつ空間的な背景とともに言語的に表象されることで一定の秩序におさまり、かつ一定の状況から他の状況への変化をこうむることを示す複数の文章の集合――にとどまらず、それを語る形式そのものにかかわるものがこれから問われることになるのだが、それをとりあえず「説話論」的な構造と呼ぶことにする」
  • ●91: 「退役軍人が「法」の体現者であるのは、「家父長」的な秩序の中で、その臣下たる妻が、どうすればその許しを得られるかという規則を読みとりえない脈絡のなさで振る舞うことによってなのである。妻は、いわば「命令」の不在によって「法」にからめとられており、彼女がその夢を実現するのは、もっぱら理由の推測しがたいときならぬ「報酬」としてでしかない」

 ここまで綴って正午直前、日記の読み返しを行った。まず一年前――「駅舎内に設けられた店舗の合間を通ると、アコーディオンのBGMが聞かれる。ヨーロッパの瀟洒な街路風アコーディオン、とありがちなイメージではあるが言葉を当て嵌めながら便所に向かうのだが、そうしつつ、何だかシニフィアンシニフィエが逆転しているようだな、と思った。通常の図式で言うと言語がシニフィアン=記号表現であり、それに包まれて伝達される意味=内実がシニフィエ=記号内容とされるはずだが、何か自分の関心を惹くものを感知するなり、ほとんど自動的にそれが言語に変換される自分にあっては、この世界の様相そのものがシニフィアン=記号表現であり、そこにおいて自分は、湧き上がってくる言語表現そのものをシニフィエ=意味として受け取っているかのようだと感じられたのだ」。そうして二〇一六年八月二四日水曜日の分も読んでブログに投稿し、投稿通知をTwitterのほうにも流しておき、さらに書抜きの読み返しを行うことにした。一二月二五日と二四日、二四日が一応遡行の上限ということに定めているので、そこまで行って今度は最新の、一月一三日本日の記事に、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』から二箇所引用し、それも読んで記憶に収めようと試みた。それで三日分になったのでOK、時刻は一二時四〇分で、散歩に出ることにした。上階に行き、母親に散歩に行ってくると告げて、短い灰色の靴下を履いて外に出る。道を歩きはじめると、太陽の光が視界を霞ませて眩しい。正面から乾いた風が流れてくるがさほどの寒さはなく、近所の家の庭木に光が落ちててらてらと白く発光し艶めいている。桜の木の生えた小公園を過ぎて坂を上がりはじめながら、日記についての散漫な思考が頭のなかに遊泳した。連日引用も含めて二万字に及ぶほどの長さになっていて、これほど長いと読むほうも大変なのだが、断片的にでも読んでいただけると嬉しいというのが一つ。また、欲を言えば自分がMさんの日記をすべて読んだように自分の日記にも嵌まり込む人が出てきて、過去記事の最初から(現在、過去記事を一日一つずつ読んで投稿しているので、その「最初」は日々古くなっている)すべて読んでくれたら余計に嬉しい。さらに欲を言えば、それで読んだ人が自分でも日記を書きはじめ、書き続けてくれれば、これは「感染」が成功したということになって、それを目的にしているわけではないがもしそうなれば自分の営みは成功だと言って良いのではないか。そうした「感染」を起こすにはやはりこの日記の価値を高度なものに高めて行かなければならないわけで、要は生きることと書くことの一致を体現しなければいけないのではないかと思うのだが、しかしそれはどういうことなのか、ただ記録的熱情に従っているだけで良いのか。ミシェル・フーコー『真理とディスクール パレーシア講義』プラトンの文献を分析して、ソクラテスは言葉と行動が調和している、自分の生についての考えが行動としてすぐに、直接的に見えるように[﹅6]なっていると述べていたと思うが、自分のこの「日記」において、比喩的にであれそのような状態は実現しうるのか、あるいは既に実現しているのか。よくわからないが、ともかくも『真理とディスクール』はいずれまた読み直さなければならないなと簡単な結論を出した。ともかくも、「生きることと書くことの一致」を体現するには一つだけ確かなことがあって、それは書き続けなければならないということだ。なぜなら、生きることが続くのならば、その限りにおいて、それに応じて書くことも続かなければならないからである。そんなようなことを考えながら、温みを浴びつつ陽射しのなかを行く。街道に出て横断歩道で止まると、冷たさが横から走って身体の側面に当たって薄く溜まる。道を渡り、ふたたび裏道に入って視線を正面上に上げれば、空はメロンのような甘やかさ、柔らかな青さで広がっており、そのなかに電柱が長く突き出しているその先端を見やりながら先に進んだ。保育園を過ぎて駅も通り、街道をちょっと行ってから車の隙をついて渡り、木の間の坂に入った。落葉を踏んで音を出しながらゆっくり下りて行くと、左の石壁の上には蔦がいくつも垂れ下がっており、くすんだような緑葉のついているその上に薄褐色の枯葉が大量に引っ掛かって、蔦が見えないほどになっている。そうして下の道出て帰宅した。
 自室に帰って日記を綴り――いや違う、Ernest Hemingway, The Old Man and the Seaを読み進めたのだ。英単語の抜書きはあとにして今は先を進もうと思うが、四〇分ほど読んで二時を迎えると、食事を取りに行った。野菜スープがあったが、夕食に取っておいたほうが良かろうということでカップラーメンを食べることにした。豚骨醤油味の横浜家系ラーメンである。湯を注いで、新聞の書評欄など眺めながら五分待ち、蓋の上で温めた液体スープを入れて食べはじめる。既に食事を取った母親も、米と汁物だけでは足りなかったようで、まだ何か食べたいと言って餅を用意していた。一月二日の日記にも書いたが、こちらは餅は一生食わないことを決意している、喉につまらせて死ぬのが怖いからだ。そうしてスープも半分ほど飲んで食事を終えると容器を片づけ、母親が使った食器も洗って下階に戻ると日記を記しはじめたのだが、一〇分ほど経ったところで母親が、大根を取りに行こうと言う。それで了承して書き物を中断し、軍手をつけて下の物置から外に出た。陽射しはまだ地面の上にある。畑に下りて大根を抜き、三本を持って家の前へ、水場でブラシでこすり洗い、野菜に白さを取り戻させたのだが、やってきた母親が葉っぱも洗わなければと言う。面倒臭いのでそれは家の中で(風のある外で水を使うのは寒かったのだ)母親にやってもらうことにして、勝手口の外に三本を置いておき、下階から室内に戻った。そうして階段を上がり、茶を用意していると台所に入った母親が、もう泥のついたもの触るのは嫌だよ、何でこんなことやらなきゃならないんだろう、とお決まりの繰り言を漏らす。最近、二〇一六年八月の日記を読み返していて判明したのだが、彼女のこうした愚痴というのはその頃からまったく内容が変わっていない。完全な進歩の不在、純然たる停滞である。むしろかえってエスカレートしているというか、不満が二年半まえよりも鬱積しているような気がしないでもない。しかし、こちらに一体どうしろと言うのか? 家事をすべて肩代わりしてやれとでも言うのか? わからないが、ともかくそれで茶をついで自室に戻り、ふたたびキーボードに触れてここまで記してちょうど三時となっている。
 上階に上がって、アイロン掛けをした。シャツを二枚、ハンカチを一枚処理して下階に戻ると、三時半から読書を始めた。蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』である。ベッドの上に乗って胡座を搔き、その足の上に毛布を載せて読んだり、あるいはベッドの縁に腰掛けてストーブで温風を送りながら読んだりした。そうして五時に到ると今度は食事を作りに行く。夕闇の忍び込むなかで母親が炬燵に入り、タブレットを操作していたので、電灯を点けた。そうして台所に入り、まずフライパンを掃除するために湯を沸かす。待つあいだは新聞に目をやって湯が沸騰するとそれを零し、キッチンペーパーでフライパンの汚れを拭き取った。それから同じように湯を沸かして、半分に切った大根の葉を茹でる。合間に目を通したのは、「米政府閉鎖 解消見えず 過去最長22日 生活・経済 影響広がる」(二面)、「「スパイ 日本関与」 中国 3邦人判決で認定 日本側否定」(二面)、「中国 新兵器開発急ぐ 「闘争に備えよ」 米をけん制」の三つである。最後の記事から情報を引いておくと――「(……)中国中央テレビは3日、巨大な艦載砲の写真を報じ、米軍が実用化できていない「レールガン」(電磁砲)の開発に海軍工程大学の研究者が成功し、「まもなく大型艦艇に装備される」と予告した。/電磁砲は砲身内部のレールに電気を流し、電磁誘導で弾丸を超音速で発射することで、破壊力を高める最新兵器だ。射程は200キロ・メートルに達するとされ、火力を使う通常の艦載砲の10倍ほどに伸びる」とのこと。茹で上がった葉っぱを水に晒すと、両手で掴み絞ってから細かく切った。そうして玉ねぎも切り、炒めはじめる。ある程度炒められたらシーチキンを投入し、それで一品完成、次に自家製のほうれん草を鍋で茹でた。それを取り分けておき、今度は鯖である。元々煮付けにすると母親は言っていたのだが、面倒なので焼けば良かろうというわけで、二尾を三つに切り分けて六枚をもう一つのフライパンで焼く。焼いているあいだに大根を、綺麗な水を張った洗い桶のなかに細かくスライスして、それで仕事は終いとして、母親にあとは頼むと言って早々下階に戻った。そうしてふたたび読書。

  • ●120: 「この九月四日の月曜日(……)がついに晴れの日となることなく、ロドルフの不意の遁走によってあえなく潰えさり、エンマの無為が確立したことを知っている読者は、シャルルの中学入りやオメーの受勲とはまったく逆のことが彼女の身に訪れているというかもしれない。夢は挫折し、「計画」は「失敗」に終わり、その衝撃でエンマが重篤な病気で床に伏し、みずからの死さえかいまみることになるという点でなら、物語は確かに正反対の結末を迎えたことになる。だが、重要なのはその事実ではない。結末が対照的だということは、物語の諸要素が同じ原理で分節化されていることを示唆してもいるからだ」
  • ●130: 「『物語のディスクール』(ジュネット、ジェラール、『物語のディスクール――方法論の試み』、花輪光、和泉涼一訳、書肆風の薔薇、1985年)のジェラール・ジュネット Gérard Genette もいうように、「語り手はいつでも語り手として[﹅6]物語言説に介入できるのだから、どんな語りも、定義上、潜在的には一人称で行われている」(同書 287)のである。あるいは、あらゆる物語は、みずからそう名乗るか否かにかかわりなく、「僕」あるいは「私」にあたる一人称の《Je》を潜在的な主体として言表されるのだといってもよい」
  • ●136: 「テクストのある細部が物語をにわかに活気づけ、しかるべく「反復」されることで物語に否定しがたい変化を導入するとき、そうした細部の意義深い配置を「主題論」的な体系と呼ぶことにする」――「「主題論」的な体系」の定義。

 七時直前まで。それからTwitterをちょっと覗いたり、自分のブログを読み返したりしたあと、食事を取りに行く。白米・野菜スープ・鯖・大根の葉の炒め物・大根と人参のサラダ。テレビは『ナニコレ珍百景』だが、この番組に特段の興味はない。どこかの山の上に暮らしている自給自足一家の生活を放映していた。炬燵に入った母親が携帯電話を弄りながら話した話のなかで覚えているのは二つあって、一つは新聞のことである。朝日新聞の局員(?)が洗剤やら何やらを持ってきて、読売のあと(我が家はこの一月から、それまで朝日新聞だったのが読売新聞に替わった――家族全員、特段のイデオロギー的立場を自認しているわけではないので、付き合いで新聞を時期ごとに変えるのだ)半年間、朝日を取ってくれるように頼んできたのだと言う。しかし母親は、こちらにはその差異がよくもわからないのだが、朝日よりも読売のほうがぱっと見た感じでも読みやすいと断言する(母親はそんなに新聞記事など読んでいないと思うのだが)。それで相手が重そうな荷物を持ったままでいるところにしかし申し訳ありませんと平謝りして断ったのだと。こちらとしては新聞はどちらでも良い――どちらかと言えば自分は「リベラル」に寄っているほうだと思うし、その点朝日のほうを取ったほうが良いのかもしれないが、先にも記したように政治的な立場について特段のこだわりがあるわけではない(つまり、そうした「立場」が構成されるほどに勉強していない)。もう一つの話というのは先日亡くなったYさんの息子のことで、この人はTちゃんと言うのだが(本名を先日聞いたけれど忘れてしまった)、そのTちゃんが葬式で、母親の棺桶に最後花を入れる場面で、遺体の額に自分の額をくっつけて泣きに泣いていたのを見て、母親は印象を受けたという話だった。この人は自分でも、俺は駄目なんだ、昔からマザコンなんだなどと言っているらしいのだが、それほどの悲しみ、あるいは愛を示しているのに対して、母親は、普通そんなことやらないよねと漏らし、偉いなあと思ったと述べていた。そんな話を聞いたあと、薬を飲んでから入浴する。身体の痒みは着実に弱くなっている――まだいくらか腕には発疹が残っているが、それでもじきに快癒するだろう。風呂を上がると寝間着の上にダウンジャケットを羽織り、緑茶を用意してねぐらに帰って、ここまで記して八時四〇分である。BGMはEnrico Rava『New York Days』。なかなかのアルバムのように思われる。三曲目、"Outsider"でのベースが何となくLarry Grenadierを思わせる雰囲気があってEvernoteに記録されているパーソネルを見てみると果たしてそうだった。サックスはMark Turnerで、Fly TrioのJeff Ballardを除いた二人が参加していることになり(ちなみに『New York Days』のドラムはPaul Motian)、雰囲気としてもちょっと似ているところがあるかもしれない。
 九時からふたたび読書。一〇時半前まで。それからはしばらく娯楽に遊び、歯磨きをして零時過ぎからまた書見に入ったところが、眠気に刺されていつの間にか意識を失っていた。目覚めると二時半だかそのくらいで、そのまま就眠した。

  • ●154: 「『ボヴァリー夫人』におけるフィクション的な言説の新しさは、とりわけその冒頭部分におけるエンマとシャルルとが、ことによったらバルザックの小説で描かれても不思議ではないと思われる父親や母親の鮮明な人物像より、心理的にも、行動の面でも、その意図のいかにもとらえがたい曖昧な輪郭におさまっていることに存している。その曖昧さをきわだたせている細部のひとつは、彼らの直接話法による台詞の再現の異例なまでの少なさにほかならない」
  • ●157: 「不機嫌な妻に向かって「おまえはほんとうにあれにひまを出したのかい」(Ⅰ-8: 88)と切り出すシャルルに、「そうですとも、いけませんの?」(同前)と彼女は切り口上にいうばかりだ」――「切り口上」。自分の語彙にはなかった言葉。意味は、「一語ずつ区切ってはっきりという言い方。堅苦しく改まった言い方。また、形式的で無愛想な言い方」。
  • フランス復古王政: 1814~1830 - ルイ18世: 1814~1824 / シャルル10世: 1824~1830
  • 七月王政: 1830~1848 - オルレアン家ルイ・フィリップ
  • 第二共和政: 1848二月革命~1852ナポレオン3世皇帝即位
  • 第二帝政: 1852~1870普仏戦争


・作文
 10:28 - 11:03 = 25分
 11:25 - 11:55 = 30分
 14:20 - 14:29 = 9分
 14:39 - 15:00 = 21分
 20:05 - 20:43 = 38分
 計: 2時間3分

・読書
 11:55 - 12:41 = 46分
 13:13 - 13:55 = 42分
 15:30 - 17:04 = 1時間34分
 17:45 - 18:57 = 1時間12分
 21:05 - 22:22 = 1時間17分
 24:10 - ?
 計: 5時間31分+α

  • 2018/1/13, Sat.
  • 2016/8/24, Wed.
  • 2018/12/25, Tue.
  • 2018/12/24, Mon.
  • 2018/1/13, Sun.
  • Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea: 21 - 27
  • 蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』: 120 - 178, 743 - 749

・睡眠
 2:05 - 9:40 = 7時間35分

・音楽