断片#29

 乗客がすべて降りて、電車のなかにひとりきりになった――その瞬間の解放感! 君は知っているか? そのとき一瞬にして、夜はすばらしいものへと変わる。公共の場所で自分以外の人間がいないということは、なんと自由なことか! この夜が、窓の外にきらめく夜が、ぼくのもの、ぼくだけのものなのだ。車内の薄明るい、無機質な、冷酷といってもいい明かりや、鳥か小動物の鳴きかわしのような列車のきしみ音、それがぼくのものになったのだ。踊り出したい気分ではないか、そしてお望みならば、そうすることだってできるのだ! ぼくが踊ったところで、くるくる回ったところで、誰も邪魔する者はいない。お望みならば服を脱いで全裸になることだってできる。もちろんぼくはしない、ぼくは公序良俗を乱すようなことはしない、だがもしお望みならば、それができるのだ。君だって、この幸福な時間に立ち会うことができれば、そのとき君はおそらくこの夜で一番幸福な人間にちがいないのだが、もしそうした幸運に恵まれて、なおかつ君がそれを望めば、できないわけではない、むしろ十分に可能だ、なぜって君はそのとき電車のなかにひとりなのだから! もしお望みならば、座席に寝そべることだってできる、座席でなくたっていい、床に寝そべることだってできる、大の字になってもいられる、いつもは無数の足が、堅苦しい足やだらしない足や、毛の生えた男の足や余分な脂肪のついた女の足が並んでいるこの床にだ。そのくらいのことはしてもいいのではないか? さらにお望みならば、その床を例えばなめまわすことだってできる、もちろんぼくはやらない、床はやはりガムなどがこびりついているから汚いわけだし、ぼくはやらないが、しかし君が望めばそれは決してできないことではない、もし君がお望みならばそれができるということ、そうした可能性が確保されている、床をなめまわすことさえできる、確かなものとして自由が目の前にあるということは、実際に行動を起こすことよりも幸せなことではないか? 君がもしそれを決してやらないとしてもだ、お望みならばいつだってできるということ、それを幸福というわけだ。そうだろう、そうだろう! そうに違いない! そんな幸福が実現される瞬間がはたしてどれだけあるのか、もしかしたらこのとき以外にはないのかもしれない。つまり、電車のなかでひとりになるそのとき以外には。ぼくは本を読んでいた。座席に座って静かに文字を追っていたのだが、自分以外の乗客がいなくなったことに気づいたときの胸のときめき――ぼくは思わず立ちあがったのだ、そして窓の向こうに目をやった。外では町の明かりが、儚い赤や透きとおった黄色の明かりが流れていく、その美しい夜がぼくだけのものになったのだ。窓には室内の様子が鏡写しになっていた、当然ぼくの姿も映っていた、髪はぼさぼさでひげもそっていないし、着ている服だって色がくすんだようなものだが、しかしだからどうだというのだ? そんなことはどうということでもない、重要なのは、その窓に映った情けない像でさえ、いまはぼくだけのものだということなのだ。なんてすばらしい夜なのか! ぼくは走り出したくなった、車両の端から端まで駆けたくなった、そしてお望みならば、いつでもそれができたのだ。ぼくはやらなかったが、やろうがやるまいがぼくの高揚に変わりはなかった、君にこのときの気持ちがわかるだろうか? 夜はすばらしい、もしこれが朝だったとしてもそれはもちろんすばらしいだろう、そのときには射しこむ陽の光や、午前中のまぶしさや、まだねむたげな町のささやきや、清涼な、夜のそれとはまたちがった清涼さの空気がぼくのものになったのだ、それはそれで魅力的にはちがいない。しかしやはり夜がすばらしいのだ、暗闇のなかに包まれた箱のなかにひとりでいる、その静けさはあたかも世界中がぼくひとりだけになったようだ。ぼくは明かりが消えてくれないだろうかと思った。夜の電車のなかでひとりになり、さらになおかつ明かりが消える、それはこれ以上ない幸福にちがいない、明かりが消えれば町の輝きがよりはっきりと見えるし、また月の光が射しこむのではないか? 緑色の水槽のなかに幕がはられるように、かすかな光が、仄白さが射しこむ、ぼくはそれを想像しただけでうっとりとしてしまった。しかし光は消えないのだ。困ったことだ! ぼくはこれほど、このときほど車両の明かりが乗客の手によって制御できればいいと思ったことはない。明かりを消すには、やはり運転室までいかなくてはならないのだろうか? 運転手あるいは車掌に頼むしかないのだろう、この善良な、職務熱心な、この夜更けにも勤勉に働いているこの連中がぼくの幸福をいわば保証しているのだ。なぜって、彼らがこの長い箱を動かしているあいだは誰も乗ってくることができないのだから――ぼくは感謝する。そしてできればいつまでも次の駅につかないように願うのだが、この電車も世界の物理法則に従う以上、やはりそうはいかないのだ。ぼくにとって重要なのは、次の駅について扉がひらく瞬間だ、そのときこの幸福な密室は破られてしまう。はたして誰かが乗ってくるのか? だとしたらそれまでに、やりたいことはやっておかなければならない、やりたいことはできるときにやっておかないといけない、それは正しい、一般的な人生訓としても正しいし、いまこの状況においても正しいが、しかしやらなくたっていいのだ、結局ぼくが自由であることに変わりはないのだから。ところがこの自由は危ういものでもある、なぜって次の駅で誰かが乗ってきただけでそれは泡がはじけるように散ってしまうのだ。どうしたものか? なんとか妨害できないだろうか? 扉が開かないでいてくれればいいのだが。車掌に頼みこみにいこうか? あるいは、駅で待っている乗客に頼みこむこともできるかもしれない、どうか乗らないでほしいといって彼らを説得できないだろうか、そのくらいの意志の強さと力はあるのではないか、なにしろいまぼくは自由なのだから。なんでもできる状態にあるのだ、お望みならば、そういうこともできるかもしれない、その可能性は決して低くない、むしろ高いといっていいだろう。しかし困ったことだが、電車の乗り口はひとつだけではないのだ。ひとつの入口で乗客を説得できても、そのあいだにほかの入口から乗りこまれてしまうかもしれない、そうしたら終わりだ、ぼくも乗りこまれてしまったものを押しかえすほどの勢力はない、そもそも誰かが乗ってきたその時点で、いまのこの自由は終わってしまうのだ。どうしたものか? ――こうした悩みを抱えながらも、ぼくは自由を満喫していた。この話を聞いてくれたひとたちには、ぼくがそのときどれほど自由だったのかがよくわかってもらえることと思う、もっともそれはやはり、この世において稀有以上に稀有である純粋無垢な自由そのものだったのだ。そうした薄氷にも似た美しいものはそうそうあらわれるはずもないし、一度あらわれたとしてもそう長く続くはずがない。しかしそれだけにぼくはそのことをよく覚えている。まったく、なんと美しい夜だったことか! もしお望みならば、もう一度最初から語ってもいいくらいだ。
 (2015/1/26, Mon. 2:21)