2019/1/17, Thu.

 目を覚ましていても布団から抜け出すことができず、八時四五分頃起床。快晴。寝間着の上にダウンジャケットを羽織って上階へ。母親は台所で洗い物をしていた――彼女に向けて低くおはようと呟き、便所に行って糞を垂れる。それから前日の残り物であるスープにマカロニソテーを加熱する。電子レンジに入れたマカロニがじきにぽん、ぽんという音を立てて跳ねたので、加熱を中止し、散ったものを皿に集めて卓へ運ぶ。新聞からはイギリスのEU離脱案が大差で否決されたという話がやや興味を引くが、まだ本格に読んではいない。食後、薬を飲み、食器を洗うと服をジャージに着替えて風呂を洗いに行く。栓を抜くと蓋を取ってその表面から、あるいは裏から滴が落ちるのを待ち、汲み上げポンプも持ち上げて静止させ、切れの悪い小便のようにじょろじょろと細い水流が降下するのをぼんやりと眺める。それからブラシを使って浴槽のなかを擦り出すのだが、前夜に入浴した際に左右の下辺が少々ぬるぬるとしており、洗いが甘いようだったので、この日は念入りに擦った。それで出てくると緑茶を用意して自室へ、早速日記を記しはじめた。前日の記事を仕上げて投稿し、この日の分をここまで綴って一〇時半を迎えようとしている。昨日に引き続き図書館に行こうかどうしようか迷っている――ヘミングウェイの『老人と海』を借りたい気はするのだが。
 日記の読み返し。まずは一年前。そのさらに一年前の日記から埃にまみれた居間の南窓の描写が引かれていた。「ガラスを埋め尽くす汚れは陽に浮き彫りとなって、その一つ一つが白く締まって満ちるように艶めいて、例によって馴染みのイメージの反復だが、星屑の集合のように目に映り、宇宙の一画を切り取って縮小したかのようで、現実の夜空の表面は、どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに、白昼の太陽のなかでのみ目に映る紛い物のこの星空は、それが紛い物であるがゆえに星天の理想的な像をいっとき受け持って具現化してみせるのだろう、本物よりもかえって、星屑という言葉を付すのに似つかわしいような感じがするのだった」。「白く締まって満ちるように艶めいて」いるのがなかなか良い。また、「言語の慈悲深さ」について考えた次の記述も引いておく。

 勤務中、読んだ資料にベケットの言葉が引かれており、正確に覚えていないのだが、「どのようなことでも、言語に移すとその瞬間にまったく違ったものになってしまう」というような言で、どちらかと言えば嘆きのニュアンスを含んでいたように思う。これは言語を操ることを己の本意と定めたものならば誰でも実感的に理解しているはずのことで、言わば言語の無慈悲さとでも言えるのかもしれないが、こちらがこの時思ったのは、しかしそれは同時に、大袈裟な言葉を使うならば言語の救い、言語の慈悲深さでもあるのではないかということだ。大きさも違う、性質も異なる、体験者に与える影響も様々であるこの世のあらゆる物事が、ひとたび言葉になってしまえば、言語という資格において等し並に並べられてしまう。その言語の平等主義を自分は好ましく思うことがある。つまりは、言語などというものは最終的には単なる言語に過ぎず、所詮は言語でしかない[﹅10]、そして物事を単なる言語でしかないものにしてしまえる、というのが一種の慈悲深さのように感じられることがあるのだ。自分でも何を言っているのか(と言うか、何をどう感じているのか)よくわからず、理屈として的の外れたものになっているのではないかという気もするが、そのように思うことはある。そのような、所詮は言語でしかないようなものにまさしく耽溺し、深くかかずらって生きることを選んだ作家という人種は、だからひどく倒錯的な人間たちなのだろう。

 それから、二〇一六年八月二〇日の分。以下の描写がなかなか珍しい現象を写し取っている。

 それで窓を眺めていると、外の電灯が流れて行く時に、白であれ黄色っぽいものであれ赤みがかった暖色灯であれみなおしなべて例外なく、その光の周囲に電磁波を纏っているような風に、放電現象の如く細かく振動する嵩を膨らませながら通過していく。それは初めて目にするもので、なぜそんな事象が起こっているのかしばらくわからなかったのだが、途中の駅で少々停車している際に、ガラスに目をやると先の雨の名残りが――と言ってこの頃にはまた降りはじめていたのだが――無数に付着していて、その粒の一つ一つが、いまは静止している白い街灯の光を吸収して分け持っているのを発見し、これだなと気付いた。灯火が水粒の敷き詰められた地帯を踏み越えて行く際に、無数の粒のそれぞれに刹那飛び移り、それによって分散させられ、広げられ、また起伏を付与されて乱されながら滑り抜けて行くので、あたかも乱反射めいた揺動が光に生じ、実際にそうした効果が演じられているのは目と鼻の先のガラスの表面においてなのだが、街灯のほうに瞳の焦点を合わせているとまるで、電車の外の空中に現実に電気の衣が生まれているかのように見えるのだった。

 それで一一時四〇分、腹が減っていたので上階に行き、戸棚からカップラーメンのカレー味を取り出して湯を注いだ。新聞を読みながら三分間待ち、麺とカレールーの混ざったスープを搔き混ぜて食べはじめる。新聞からは英国のEU離脱案関連の記事を三つ読んだが、今図書館にいて手もとに新聞がないので、あとで帰ってから情報を記しておこう。カップラーメンを食べ終えると三個一セットの小さな豆腐を一つ温め、また母親がどこからか貰ってきた銀杏ご飯も頂いたが、これは銀杏の実が少々苦いようだった。皿を洗って下階に戻り、UさんのブログやSさんのブログを読むとFISHMANS "チャンス"の流れるなかで服を着替える。(書き忘れていたが、日記を読み返しているあいだはJunko Onishi『Tea Times』を流していて、このアルバムはもしかしたら名盤なのかもしれないという直感があった) 歯磨きはせずにバルカラー・コートと荷物を持って上階に上がり、靴下を履いてから、そう急ぐものでもないし出かける前にアイロン掛けをすることにした。シャツを二枚、自分の白いものと母親のサーモンピンクのものとを処理する。そのあいだテレビでは『サラメシ』が流れており、新潟県五泉市という場所が取り上げられていて、この町はニット製品の生産が日本一で市内の企業の三割もがニット関連の会社なのだと言う。番組に目を向けながらアイロン掛けを仕舞えるとBrooks Brothersのハンカチを引き出しから取り、便所に行ったあとコートを着込んで出発した。日向の広く敷かれたなかを歩き出す。前方では柚子の木が陽のなかで黄色の実をいくつもぶら下げており、その手前には楓の木が、もう葉はとうに消滅して幹も枝も薄白く裸になって晒されている。坂を上って行くと途中の家ではこの日も布団が干してあり、出口付近から見えるもう一軒も同じで、ベランダに掛けられた布団の表面が僅かに膨らみ、漣を作っている。風は時折り流れてくるものの大した威力もなく、マフラーを巻いていると少々暑く思われるくらいの陽気だった。空には雲がひとひらもなく隅から隅まで完全に青さが浸透して、木々の木叢の小さな隙間にも水色が注ぎ込まれてくっきりと満ちている。梅の木のフラミンゴ色の装飾の織りなされているのを見やりながら街道に出て、ちょっと行くと灰色のマフラーは外してリュックサックに仕舞った。裏路地に入り、白線に沿ってかつかつと歩いて行く。時折り風が踊るもののその感触は鋭さに転ずることはなく冷涼さがかえって爽やかなようで、道には人もほとんどなくて幼気[いたいけ]な鳥の声が忍び入り、空気の結合が緩くなったかのように穏和な昼下がりの静けさだった。
 駅に着くとホームに出て、先頭近くまで歩き、ちょうどやって来た電車に乗ると蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』を取り出した。二駅分、僅かに読んで河辺で降車し、エスカレーターを上がって改札を抜ける。駅舎を出て高架歩廊を歩いていると、背後、首のあたりに暖気が漂い触れてくる。図書館に入り、昨日借りたばかりのCD三枚をカウンターに返却した。それから文芸誌の区画を見に行ったのは、文芸誌というものにさしたる興味はないものの、「新潮」だか「群像」だかで蓮實重彦ポスト・トゥルースの時代について一文書いていると聞いていたのをちょっと見てみようと思ったのだったが、どちらも誰かが読んでいるらしく場にはなく、それならば良かろうと払って階段を上った。新着図書を確認してから窓際の通路に出ると、一番端の席が空いていたのでそこに荷物を下ろし、コートも脱いで椅子の背に掛ける。それから海外文学の書架に入ってヘミングウェイ/中山善之訳『老人と海』を手に取り、フロアを渡って機械で貸出手続きをした。それから席に戻って早速この本をちょっと覗いてみたところ、こちらの感覚では会話や老人の独り言の部分など、言葉が少々硬すぎるところがあるように思われたが、しかし参考になる部分もまたあるだろう。それでコンピューターを取り出し準備して、この日の日記をここまで書き足して現在は二時を越えている。以下、Ernest Hemingway, The Old Man and the Seaから英単語のメモ。

  • ●40: A small bird came toward the skiff from the north. He was a warbler and flying very low over the water.――warbler: ムシクイ
  • ●40: He was too tired even to examine the line and he teetered on it as his delicate feet gripped it fast.――teeter: よろよろと歩く、ふらふら揺れる
  • ●40~41: Just then the fish gave a sudden lurch that pulled the old man down on to the bow and would have pulled him overboard if he had not braced himself and given some line.――brace oneself: 心の準備をする
  • ●42: He put one knee on the fish and cut strips of dark red meat longitudinally from the back of the head to the tail.――longitudinally: 縦方向に
  • ●43: 'How do you feel, hand?' he asked the cramped hand that was almost as stiff as rigor mortis.――rigor mortis: 死後硬直

 次に、気になった箇所。

  • ●40: But he said nothing of this to the bird who could not understand him anyway(……)――鳥に対して"who"が用いられている。つまり、鳥は人と同じような扱い方をされている。
  • ●41~42: (……)he washed his hand in the ocean and held it there, submerged, for more than a minute watching the blood trail away and the steady movement of the water against his hand as the boat moved.――細かな観察。大した細部ではないが、何故か少々気になった。
  • ●43: 'What kind of a hand is that,' he said. 'Cramp then if you want.(……)'How do you feel, hand?' he asked the cramped hand(……)――自分の「手」に対する呼びかけ。この老人は魚に対してにせよ、鳥にせよ、手にせよ、たびたび「呼びかけ」を発する。

 続いて、『「ボヴァリー夫人」論』から。

  • ●296: 「実際、エンマは、自分の「華奢な足」の素肌を、夫とは異なる男たちにしか見せようとはしていない」
  • ●297: 「このときならぬ変容を誇示してみせる妻を、シャルルが「新婚当時のようにうっとりと眺めては、ただただ得も言われぬ美しさにうたれた」(Ⅱ-12: 311)というのはいかにもありそうなことだ。すでに見たように、彼は、あたりに拡がりだす目には見えない存在の気配にはことのほか敏感な存在だからである」
  • ●301~302: 「実際、『ボヴァリー夫人』のテクストが読むものにしいる苛酷さは、彼が寡夫となるのを待っていたかのように、その行動の意図や目的がにわかには読みとりえない存在へと変質させていることにある。ロドルフやレオンはいうにおよばず、オメーやルールの場合でさえ、彼らが何を考え、何を目ざし、何を目的として振る舞っていたのかはきわめて見きわめやすい作中人物として描かれており、その振る舞いを前にして「話者」が戸惑うことはない。だが、エンマの死後、その夫だった免許医は、いったい何を考え、何を目ざして行動しているのか誰にも読めない人物へと変貌しつくしており、「話者」による語りもそれに追いつけずにいるかにみえる
  • ●312~313: 「(……)異性のしかるべき肉体の一部がシャルルに所有への欲望を煽りたてることはごく稀であり、それは彼の視線が集中化を好むものではないからだったといえる。あるいは、たとえば、女性の足首なり踝なりがちらりと人目に触れるとき、それが彼女の肉体そのものを象徴しているといういわば換喩的な想像力が、彼にはそなわっていないからだといえるかもしれない。この田舎医者が覚える快楽の予感は、一点への集中とは異なる周縁への拡がりに対する敏感さに支配されているからだ。(……)」
  • ●313: 「(……)視覚によって対象を背景から浮きあがらせ、視界の中心にすえることはいたって苦手でありながら、聴覚に視覚と同じ資格を与えながら、対象そのものを構図の中心にではなく、あたりに散在する無数の表情のうちにその気配ともいうべきものとしてさぐりあてているシャルルは、ひたすら拡散するものに敏感な文字通り「偏心」する存在なのだといえる」
  • ●315: 「(……)二つの中心ともいうべきものが共進会という儀式的な空間を二つに分割している(……)。あるいは、分割というより、潜在的な中心と顕在的な中心とが二重の時空をかたちづくっているというべきかもしれない」
  • ●339~341: 「そこには、フローベールの作中人物がしばしば示す「超=顕微鏡」的ともいえそうな事象へのたぐい稀な感性が語られていると見ることもできる」
  • ●342~343: 「あるいは、そのとき、世界がその塵埃のかすかな流れに還元され、見ている主体までがそれに同化していることに反応しうる知覚が不可欠だといえるかもしれない。その点において、これからエンマの夫になろうとしている医師と、たえずその家に入りびたることになる薬剤師の見習いとは、ほとんど同じ姿勢を共有しているといえる。それは、主体の溶解という現象のうちに、フローベール的な愛の一形式をきわだたせていると見ることもできる」

 上記まで記したあと、さらに『「ボヴァリー夫人」論』から書抜きを二箇所。それから同書を読み進める。テクスト空間を縦横無尽に駆け巡って、そのあいだに無数の文を差し挟んでいるはずの遠く離れた部分同士を繋げてみせるその手つきにはやはり驚嘆せざるを得ない。言うまでもないことだが、『ボヴァリー夫人』のテクストをこれ以上ないほどに高度に読み込んでいることが如実にわかる。ものを読んでいるあいだ、この主題は前にも出てきたなとか、この語が現れるのは三度目だなとかいう気づきならこちらにもあるが、それを実際に結び合わせてそこから整然とした脈絡に収まる意味を導き出してみせることなど、大抵の人間には出来ようはずもない。蓮實重彦という人は「主題論」的な類似や同一性、はたまた対比性などに対する感覚がずば抜けているのだろう。テクストを読んでいるあいだの彼の頭のなかには、そうした様々な細部の「意義深い」饗応と差異の構図が奔流のようにして渦巻いているのではないかと想像される。筆致はあくまで正確で厳密であり、テクストからして断言できないことは「~だろうか」と疑問の形で可能性を列挙したり、「~と想像される」などの表現を用いて記述が上滑りすることを周到に回避している。
 途中、エッセイの区画に蓮實重彦『随想』があったはずだと書棚に立つ。ついでに中井久夫のエッセイもないかと探してみたが見当たらず、『随想』のほうももう書庫に入れられてしまったようで棚には見られなかった。読んでみたいものとしては堀江敏幸のエッセイと、辺見庸のもの。それで便所に行ってきてから席に戻り、五時半前まで読み進める。その少し前に携帯電話を見ると母親からのメールが入っており、まだ帰らないかと訊くのでもう少し本を読んでいくと答えた。そうして五時半ごろになって帰路に就くことにして、席を立ち、既に羽織っていたコートのボタンを留めてマフラーもつける。そうして退館へ。階段に差し掛かると大窓の彼方に、山際から微粒子のような赤い残光が僅か漏れているのが見られる。退館して歩廊の上に出ると、西南の山際に同じ茜色が、窓を通して見た先ほどよりも強く厚く、しかしもうあと十数分もすれば消えてしまうだろうかそけさで漏れ出していた。河辺TOKYUへ渡り、スーパーに入って籠を取る。椎茸に茄子をまず入れて、それから豆腐を取りに行き、続いて「すりおろしオニオンドレッシング」を入手して、最後にポテトチップスの大袋を二種類保持した。そうして会計へ。研修中らしい若い女性がチーフとともに立っているレジを選ぶ。品物を読み込むのは新人が、その後の会計はチーフのほうが担当していた。一六一〇円を払い、礼を言って釣りを受け取り、整理台に移って荷物をリュックサックとビニール袋に取り分けた。

1681 カルビー BIGBAG ウスシオ  \238
1681 カルビー BIGBAG コンソメ  \238
130 生しいたけ  \196
150 なす  3本パック  \176
3201 一丁寄せきぬとうふ  \69
1511 スリオロシオニオンドレ380  \448
 自動割引4  20%  -90
3201 絹美人
 2コ × 単108  \216
小計  \1491
外税  \119
合計  \1610

 そうして退館。館内にいるあいだに暮れが進んで、山際に見えていた赤さは暗い青に追いやられてもはや潰え去っていた。歩廊を渡っていると顔に吹き付けてくる風がさすがに少々冷たい。駅に入り、エスカレーターをゆっくりと歩いて下り、ホームに入って掲示板を見やれば前日と同じく青梅で奥多摩行きを待つようだった。『「ボヴァリー夫人」論』を取り出して読みはじめ、まもなくやって来た電車に乗ると座席の上に袋を載せて、自分はその前に立って手すりを掴みながら八〇〇頁超の重たい本を片手で支える。持ち手を変えつつ揺られて青梅着、ホームを辿って待合室に入った。先客が二人いたものの席にはまだスペースがあったが、ここでも座らずに入り口近くの角に立ち尽くしたまま書見を続ける。じきに男女の高校生カップルが入ってきて、それからも二人、入客があって席は埋まる。待合室内には天井の角に二箇所、スピーカーが設けられているのだが、そこから漏れ出すアナウンスが思いのほかに大きな音で少々うるさかった。この日読み返した二〇一六年の日記にも書かれていたことだが、中島義道がこうした類の「騒音」を嫌ってそれについての本まで一冊著したのが頷けるようだ。いくらもしないうちに奥多摩行きが入線してきたので室を抜けて乗車し、リュックサックを背負ったまま優先席に就いた。荷物をいちいち下ろしてはまた背負うのが面倒だったためだが、本を読んでいると背中で携帯が振動するのが感知され、結局背から下ろすことになった。メールはまたもや母親で、今西友にいるが乗っていくかと問うものに、今もう奥多摩行きに乗っていると返して仕舞い、リュックサックをふたたび背に負った。そうして発車、最寄りに着くと時計を見やって読書時間の終了、一八時一一分を記憶し、降車して本を右手にビニール袋をその下の指に掛けてホームを歩く。階段をゆっくりと上り下りし、横断歩道でスイッチを押し滔々と流れる車の列を停止させて坂に入った。見上げれば晴れた宵空に半月を越えた月が白々と明るい。電灯に照らされた緑葉の艶めきを見やりながら木の間の坂を下りて行き、平ら道に出ても殊更急がず進んでいると、踏み出して足を地につくたびに右足の土踏まずが電気の走るようにぴりぴりと痛む。筋が傷んでいるのだろうか、ともかくそれでさらに歩調を緩めて帰宅した。母親はまだ帰っていなかった。真っ暗な居間に電灯を灯し、買ってきたものを冷蔵庫に入れてからカーテンを閉めて下階に下りた。コンピューターを立ち上げながら服を着替え、Twitterを覗いたりしているうちに母親が帰宅して台所で作業を始めたらしかったのでこちらも階を上がった。食事は炒飯にしようということになった。その前に野良坊菜をさっと茹で、次にピーマンと椎茸を切り、ストーブを点けてその上に置かれたスープの鍋が加熱されるようにしてから、フライパンで野菜を炒めた。冷凍の炒飯と同じく冷凍保管されていた古い米を合わせて炒めて行き、塩胡椒を振って仕上げると早々と食事を取ることにした。ほか、照焼きチキンのピザを温め、キャベツは母親がスライスして簡易なサラダにする。夕刊を寄せると、EU離脱案を巡って割れていた英国議会だが、メイ政権への不信任案はひとまず否決されたとあった。朝に読んだ朝刊からの記事をここに引いてしまおう。目を通したのは、「英下院 EU離脱案 大差で否決 首相、代案提示の意向」(一面)、「英政権 見えぬ出口 追い込まれたメイ首相 EUと再協議 国民投票 合意なき離脱」(三面)、「英議会分断 鮮明に EU離脱案否決 「強硬」「穏健」「残留」歩み寄れず」(九面)の三記事。最初のものから――「英下院(定数650)は15日夜(日本時間16日未明)、欧州連合EU)から抜ける条件などを定めた離脱協定案を採決し、賛成202、反対432の230票の大差で否決した」「英政治の混迷で、3月29日に迫るEU離脱の先行きは不透明さを増している」「採決では、野党の反対に加え、与党・保守党の4割弱にあたる118人が造反した」「英国は2016年6月の国民投票EU離脱を決め、双方は昨年11月に離脱協定案に合意した。協定案では20年末まで事実上、現在の英EU関係を続ける「移行期間」の設定や、20年までの英国のEU予算分担などを定めている」。また、夕刊から読んだのは次の記事たち――「英不信任案を否決 EU離脱 代替案 与野党協議へ」、「シリアテロ 米兵ら19人死亡 「イスラム国」犯行声明」、「米、ファーウェイ捜査 米紙報道 ロボ技術盗んだ疑い」、「米に韓国照射問題説明 岩屋防衛相 国防長官代行と会談」。テレビはニュース。阪神淡路大震災から二四年と。各地での追悼、黙祷の様子を眺めながら皿を洗い、そのまま入浴した。湯のなかでは前日と同様、書抜きの読み返しで得た知識を頭に想起させ、それにも飽きると頭を浴槽の縁に凭せ掛け、右膝のみ立てて左足は寝かせてゆったりと浸かる。聞こえるのは勤勉な時計の刻みと、こちらの薄い呼吸音のみである。そうして頭を洗って上がり、緑茶を用意して即座に自室に帰った。買ってきたポテトチップスを食いながら、Uさんのブログを読む。以下引用。

 思索が成り立つ事実そのものが、考えようとしているものを拒否してしまうのは、戦争映画を鑑賞し、知人と一緒に「戦争はダメだ」と納得した途端、戦争で生じた無限の暴力を覆い隠す様相と似ている。善、悪、真、聖、美など、全ての領域で同じことが言える。特定の真理や美学を持つこと、悪を弾劾すること、善を追求して倫理的に生きることなどは、その限りにおいて、追求する原理とまさに逆行する。

 仮に宗教が、世界の起源を明らかにしつつ、現代をいかに生きるかを明らかにする営みだとしたら、特定の典拠だけを信頼し、その外の学びを拒否するのは、宗教的な生き方と逆行する。仮に政治が、共同体共通の運命を方向性を判断するための結束と対話だとしたら、特定の党派に入信してそれだけを推進するというのは、政治的ではない。最後に、仮に哲学、問い直してはならないことは何もない思索と言論だとしたら、その学派に入信し、異なる視点を排除することは、哲学的ではない。

 それから「「辺野古」県民投票3割投票できず、“憲法違反”の指摘も」の記事をインターネットで読み、「ワニ狩り連絡帳2」も読んだあとに日記を書きはじめた。BGMはJunko Onishi『Musical Moments』。そうしてここまで記して九時半前。
 その後、「ウォール伝」の大層長い記事を三〇分間掛けて読んだあと、Ernest Hemingway, The Old Man and the Seaのリーディングに入った。図書館で借りてきた中山善之訳をたびたび参照しながら読むのだが、この人の翻訳は妙に固いと言うか、日本語としてあまりこなれていないように思われて、あまり良くない意味での「翻訳小説らしさ」というものが出てしまっているように感じる。それでも意味の良くわからないところなど参考にしつつ一時間ほど読み進め、そうして今度は『「ボヴァリー夫人」論』を読み出した。しかし、あまり記憶が確かではないのだが、いくらもしないうちに意識を失ってしまったようで、気づけば二時前を迎えており、手帳に時間をメモしてからそのまま眠りに就いた。歯を磨き忘れたのではないか。


・作文
 9:47 - 10:28 = 41分
 13:39 - 14:49 = 1時間10分
 20:17 - 21:24 = 1時間7分
 計: 2時間58分

・読書
 11:01 - 11:38 = 37分
 12:08 - 12:13 = 5分
 13:13 - 13:22 = 9分
 14:49 - 15:21 = 32分
 15:24 - 17:23 = 1時間59分
 17:39 - 18:11 = 32分
 19:39 - 20:02 = 23分
 20:05 - 20:17 = 12分
 21:29 - 22:00 = 31分
 22:03 - 22:59 = 56分
 23:14 - 25:57 = ?
 計: 5時間56分+α

  • 2018/1/17, Wed.
  • 2016/8/20, Sat.
  • 「思索」: 「1月16日2019年」; 「1月16日2019年2」
  • 「at-oyr」: 「台北暮色」; 「アンコウ」
  • 蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』: 350 - 406, 761 - 764
  • 「「辺野古」県民投票3割投票できず、“憲法違反”の指摘も」
  • 「ワニ狩り連絡帳2」: 「「カタストロフと美術のちから」@六本木・森美術館」; 「2019-01-14(Mon)」; 「「言葉と歩く日記」多和田葉子:著」
  • 「ウォール伝、はてなバージョン。」: 「キリスト教に目覚めていく私。」
  • Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea: 43 - 49

・睡眠
 1:15 - 8:45 = 7時間30分

・音楽




蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』筑摩書房、二〇一四年

 ここで重要なのは、『ボヴァリー夫人』の歴史的な背景として再現さるべき「七月王政」期のノルマンディー(end307)地方に、いかにもこうした寡黙な老農婦が実在したであろうと納得させるにふさわしい描写の的確さにあるのではない。家畜に同調するかのように生きている農婦の存在そのものの寡黙な雄弁さともいうべきものを、ブルジョワ的な儀式の無益な饒舌や、絵に描いたような色事師の誘惑の言葉のさなかにまぎれこませるという発想そのものの皮肉の効いた効果が、ことのほか刺激的だというのでもない。肝心なのは、読むものがここで奇妙な事態に遭遇するという事実につきている。それは、注がれる視線を排してひたすら収縮する存在の生きられた「硬さ」、あるいは「頑丈さ」と思われたものが、ここでの集団的な孤立にもかかわらず、ほとんど擬態によってあたりの環境との融合にふさわしい風土をかもしだしている、という事態にほかならない。
 実際、「語り」の進行を思いきり滞らせている老婆の「手」の「硬さ」が執拗に描写されるとき、物語の時間的な秩序を超えて、それはいきなり「新入生」シャルルの「節くれだ」った「赤い手首」と親しく共振し始めている。冒頭の「自習室」においても、「僕ら」とは同じ思考も感性も共有しえない愚かさを身にまとった「新入生」が、その愚鈍な異質性によって描写の中心的な対象となっていたのであり、いわば表象された人物の偏心による描写の中心化がテクストを組織しているという事態をここで想起しておきたい。老いたる農婦が擬態によって泥水や家畜とほとんど同化しているように、「柏の木のように成長」したという少年もまた、擬態によってほとんど植物に同化している。つまり、ここでは二つの愚鈍な偏心による融合が起きているのである。では、その二つの融合とは、具体的には何か。
 まず、物語の論理を超えて、「頑丈な手」の持ち主である「自習室」の「新入生」と「農業共進会」の「小柄な老婆」とが遥かに反響しあい、物語の中心からは思いきり離れた場所でひとつになるという主題論的な偏心性がそこに確立している。いうまでもなく、その偏心的な饗応性は話者の知識の多寡を超えた主題論的な必然であり、細部が描きあげるその融合を組織しているのはあくまで「テクスト的な現実」の力にほかならず、話者の裁量とはいっさい無縁のものである。また、人間にとってはあくまで異質な動物や植物や鉱物と触れあうという体験を通して、いささかも似ているところのない「新入生」と「小柄な老婆」との間にも否定しがたい類縁性が生(end308)じていることにも注目せねばなるまい。これまで主題論的な体系と呼んできたものは、日常生活ではまず生起しがたいこうした融合の風土を招きよせるにふさわしい言葉の配置にほかならない。
 このとき、『ボヴァリー夫人』の物語が、その主題論的な体系から見てどのようなものとして語り進められていたかが改めて明らかになる。「Ⅱ 署名と交通」で指摘しておいたように、そこでは誰が署名したのか明らかにはされていない一通の「手紙」が物語を不意に活気づけていたのだが、ここでは、少年時代には「頑丈な手」の持ち主だった医師が、農場主であるだけに「頑丈」なものに違いない老人の折れた「足」に触れることで、物語をさらに異なる段階へと移行させようとしている。あえて想起しておくまでもあるまいが、「手紙」によって往診を依頼された医師は、少年時代に「百姓たちのあとをつけ、土くれを投げては鴉を追い払い、[中略]溝に沿って桑の実を食べ歩き、竿を持って七面鳥の番をし」(Ⅰ-1: 16)ていたというのだから、もっぱら地面や草木に手をそえることで成長した人間である。日々の田園生活で「手は節くれだ」っていたという少年シャルルは、「新入生」として都会の中学に編入したときは袖口から「赤い手首」をのぞかせていたが、その「頑丈な手」の少年が長じて医師となり、農場主の骨折した「足」を診断することで、物語をさらに加速させていたのである。だとするなら、ここでは「足」の主題と「手」の主題とが緊密な連携関係に入ることで、説話論的な持続からはいったん離脱するかに見えながら、かえってその構造的な類似を強固なものとしているのだといわざるをえまい。
 (307~309)

     *

 エンマはまた腰をおろして縫い物をつづけた。白木綿の長靴下をつくろっているのだった。彼女はうつむいて針を運んだ。黙っていた。シャルルも黙っていた。ドアの下から吹き込む風が石畳の上にかすかなほこりを立てた。シャルルはそのほこりが床を走るのを見ていた。彼の耳には、こめかみが脈を打つ音と、遠くの庭先で卵を産む雌鶏の鳴き声しか聞こえなかった。エンマはときどき両方のてのひらを当てて頬を冷やし、それからこんどはそのてのひらを大きな薪掛けの鉄の頭で冷やすのだった。(Ⅰ-3: 38)(end339)

 みごとな文章である。ここでの二人が共有しあっているのは気詰まりな沈黙ばかりであり、これといったできごとなど何ひとつとして描かれてもいないにもかかわらず、すべてが語りつくされているとしか思えないからだ。石畳の上を滑ってゆくわずかな「ほこりの流れ」《un peu de poussiere》(Bovary 81)を彼は見ていたと書かれているが、もちろん、その「ほこりの流れ」がいまここにはいない貴重な存在を象徴しているわけではない。事実、エンマは医師の目の前に坐り、縫い物の針を動かしたり、掌を頬に持っていったりしている。他方、シャルルはといえば、その知覚を身近にいる女性へと向けようともせず、もっぱら床の表面を音もなく移動するかすかな「ほこりの流れ」に惹きつけられている。その運動を導きだしているのは、別れぎわの彼女の「ほつれ毛」を乱していたのがそうだったように、薄暗い炊事場の床を吹き抜けるあるかないかの大気の流れである。ものいわぬシャルルは、「こめかみが脈を打つ音」と「遠くの庭先で卵を産む雌鶏の鳴き声」という内部と外部とから響いてくるもの音を受けとめながら、同時に、細かな土の粒子の流れるさまをしかと見とどけている。
 そこには、フローベールの作中人物がしばしば示す「超=顕微鏡」的ともいえそうな事象へのたぐい稀な感性が語られていると見ることもできる。たとえば、エンマがレオンにつきそわれて川沿いの道を歩くとき、「燈心草の先や睡蓮の葉に、細い肢[あし]の虫が歩いていたり、じっととまっていたり」(Ⅱ-3: 147)するさまが語られたり、林への馬での散策に誘われたエンマが、唐突に恋を告白するロドルフにともなわれて沼の畔を歩くとき、「草を踏むふたりの足音に、蛙がはねて水にかくれ」(Ⅱ-9: 254)るさまが描かれてもいる。しかし、床の上を音もなく流れる「塵埃」のイメージが「細い肢の虫」や「蛙」のそれと異なっているのは、「シャルルはそのほこりが床を走るのを見ていた」《il la regardait se traîner》(Bovary 81)と書かれているように、その運動をとらえている視線の起源が、ここには明確に記されているからだ。「細い肢の虫」や「蛙」の場合は、話者による非人称的な描写かとも思える文章の中に姿を見せており、エンマやレオンやロドルフがその小さな生物の存在に気づいていたかどうかはきわめて微妙な問題となる。説話論的な「焦点」は明らかにエンマとかさなりあっているかに見えながら、昆虫や小動物に向けられた視線の起源は曖昧なまま伏せられているからである。それにくらべて、薄暗い(end340)台所の床をはう細かな砂ぼこりを見ているのは、まぎれもなくシャルルなのである。
 (339~341)