2019/1/22, Tue.

 まだ夜も明けず真っ暗な四時二〇分頃に一度覚めた。その後、だんだんと薄明るくなってきた六時半頃、もう陽が山から出てきて充分明るい七時半頃と覚め、最終的に八時半の起床を見た。インターネットをちょっと覗いてから上階へ。母親がおはようと挨拶してくるのに、ああ、と簡潔に受ける。前日のフライの残りがあると言う。それで、海老フライと手羽先を一つずつ皿に載せて電子レンジに突っ込み、白米をよそり、大根の味噌汁を温めた。そうして食事。新聞からは芥川賞の選評と、一面の韓国レーダー照射事件関連の記事を読む。母親は今日、着物リメイクで一日仕事らしい。図書館に行くと言うと、洗濯物を入れて行ってとかいややっぱり入れなくていいとか言っていたが、良く聞いていなかった。食事を終えて抗鬱剤ほかを飲み、食器も洗うと自室へ。日記に取り掛かる気力があまりなく、しばらくTwitterを覗いてフォローを増やしたりしていたが、九時五〇分から気を入れて記しはじめた。そうして前日の記事を仕上げ、ここまで書いて一〇時四〇分。図書館に行くとは言ったものの、実のところどうしようか迷っている。
 日記の読み返しを行った。まず一年前。まだまだ神経症状が抜けきれておらず、この明け方も相変わらず不安と緊張に苛まれている。またこの日は雪が降っていて(初雪だろうか?)、白いものが降り積もったなかを足を濡らしながら職場に出向き、しかし結局仕事は休みとなっていてただの散歩をすることになったという一幕があった。その道中の描写。

 道は静かだった。足音や道端の家の雪かきの音、時折り裏路に入ってくる車の音など、さまざまな音が、雪が降っているというその響きがあることによって、それぞれくっきりと輪郭を立たせるようであり、その合間の時間も実に静かに感じられるというのは、どういう効果なのだろう。さらに進んで空き地に掛かると、一面白く埋められたそのなかに男児が二人遊んでおり、目を振れば女児の姿も二つあって、水色とピンクの傘をそれぞれ指した彼女らが白さのなかをゆっくりと、少しずつ横切っていくそのさまを真横から眺める視線になって、ここでも、これだけでもう映画ではないかとの感を得た。その場を離れながら、やはりこの世界そのものこそがこの世で最も豊かな映画、音楽、小説、そしてテクストなのだと前々からの考えを繰り返したのだが、これらの極々日常的でささやかなシーン/偶発事に、そんな風に殊更に感じ入ってしまって良いものだろうか?

 また、職場から電車に乗って最寄り駅に戻ってきての観察――「足もとの雪は至る所からちらちらと煌めきを放っており、その上に降り続く雪片の影が舞い乱れるのだが、実のところ、それらのうちのどれが電灯に照らされた影なのか、どれが地に落ちる直前に揺動する実物なのかまったく見分けがつかなかった」がそこそこ良いのではないか。
 続いて、二〇一六年八月一五日。両親が立ち働いているなかで自分だけのうのうと本を読んで好きなことをやっているのに、軽い罪悪感のようなものを覚えており、「両親の気配が知覚に届くとそのかすかな物音などが棘と化したかのようにちくちくと自分を責めるのだった」と言う。また、「実際に自分が図書館を訪れて、周りに他人がうろつくなかで文を綴ることを考えると、何か忌避感のようなものを覚えたのだ」とか、「レジで店員とやりとりをするのが、たかが二、三の言葉を交わすだけのことにもかかわらず、億劫に思われて仕方がなかった」とか書いてあり、色々な面で今よりも「繊細」であると言うか、やはり不安障害の圏域にまだあるのだろう、他人とのコミュニケーションにあって交わされる意味=権力に無駄に敏感であるらしい。今は不安障害も消えて、家にいても両親の言動などに煩わされることもなく、家事も大したことではないが以前よりは率先して取り組んでいて、病気を通過してよほど図太くなったようである。しかしもう消え去ったパニック障害がまた復活するということだって、まったくないとは言い切れないだろう。自分としてはおそらくもう不安に苛まれることはないだろうと思ってはいるが、一年前に変調を招いた時だって自分はもう治ったと思っていたわけだから、自身の体感など完全には当てになるものではない。何が起こるのかわからない不確定性のなかに否応なしに飲まれているのが人生であり、これから先、ふたたびパニック障害に悩まされたり、また鬱病に陥ったりすることだって可能性としてはあり得るだろう。
 その後、書抜きの読み返し――一二月二七日から二五日まで。一度読むだけで大方内容を復唱できる。一九六〇年六月四日の安保改定阻止第一次実力行使には全国で七六単組四六〇万人が参加したと言うのだが、今からはまったく考えられない、想像もつかないとんでもない規模の抗議運動ではないか。まさしく政治の時代というわけだろうか――読み返しを終えるとちょうど一時間が経って正午前だった。ものを食べることにして上階に上がった。母親が弁当を作っておいてくれたと思っていたのだが、台所や冷蔵庫のなかなど見てみてもどうも見当たらず、それであれはこちらに対してのものではなく、自分用のものだったのかなと判断した。仕方なくこちらは日清のカップヌードルを食べることにして、シーフード味を戸棚から取り出す。そのほか、大根の味噌汁を温め、あとはバナナとゆで卵である。新聞を読みながら食べる――国際面。読んだのはフィリピンのミンダナオ島におけるイスラム自治政府への参加を決める住民投票の記事、イスラエルがシリア国内のイラン関連施設に空爆を仕掛けたという記事、英国のEU離脱関連の記事の三つ。そうしてものを食べ終えると食器を洗う。出かけようかどうしようか迷う心があった。『「ボヴァリー夫人」論』を返しに行きたいは行きたかったが、せっかく自宅に一人でいられる機会だから、思う存分本に読み耽るのも良いのではないかとも思われた。とりあえず、差し当たりどちらにしても髭を剃ることにした。それで洗面所に入って電動髭剃りで口の周りや顎をあたる。それから風呂も洗った。ブラシを使って浴槽全体を泡で覆わせ、特に内側の下辺は念入りに擦っておく。それで下階に戻る頃には、ひとまず出かけるだけは出かけようと心が固まっていた。インターネットをちょっと覗いてから、FISHMANS "チャンス"を流して服を着替える。白いコットン・シャツにグレーのイージー・スリム・パンツ、それにモスグリーンのモッズ・コートである。引き続き、"ひこうき"、"BABY BLUE"も流して歌ったあと、荷物をまとめて――コンピューター・蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』・三宅誰男『囀りとつまずき』・読書ノート――上階へ。靴下を履き、出かける前にアイロン掛けをすることにして、アイロンをコンセントに繋ぎ、器具が温まるのを待つあいだにベランダの洗濯物をなかに入れる。そうして自分のシャツと母親のシャツと二枚を処理すると、便所で用を足してから出発した。風がよく吹く日なのか、駐車場や階段を下りたあたりに薄褐色の落葉が散っている。掃除をしなくてはならないだろうがひとまず放って歩き出し、連想から"Autumn Leaves"の旋律を頭に流しながら坂に入る。正面から冷気が流れてきて、髭を剃ったばかりの口の周りにやや冷たい刺激をもたらす。空は水色、最近の快晴とは違って雲が少々黴のように蔓延っているが、それも少なく、西空にまだ高い午後一時の太陽を侵すほどの量はなく、当分のあいだは陽射しが遮られずに続くだろうと思われた。街道を進むと小公園の入り口で、人足が数人、屋根の上に乗ってそこに乱雑に生えた枝を切り落としていた。あれは確か藤棚だったはずである。日向が広くひらいているので、裏には入らずそのまま表を進むことにした。陽射しは透き通っており、空気には洗われたような匂いが一瞬香ることがある。青梅坂下のT字路では道路工事を行っており、アスファルトを突き崩すものだろう、ドリルのような器具でもってがががががが、と地面を打ち、大きな音が発生していた。さらに進んでいき、商店街に掛かり、眼鏡屋兼時計屋のなかを覗き込みながら過ぎ、駅前で八百屋に掛かると、また風が出てきたねという声がなかから聞こえた。確かに、日蔭のなかに風が走って、少々冷たかった。そうして駅に入り、ホームに上がって――ホームの向かいの小学校の校庭では、ちょうど昼休みなのだろう、また黄色い帽子を被った一年生から高学年の生徒まで子供たちが出ていて敷地全体を覆っており、わいわいと賑やかに遊んでいるなかに時折り、花火の上がる際のしゅるしゅるという音を思わせる響きで、きゃーきゃーという女児の叫びが上がるのだった――一時半発の電車に乗る。リュックサックを下ろすのが面倒だったので座席には座らず、人っ子一人いない先頭車両のなかで扉際に立ち尽くし、手帳にメモを取るのだが、電車が発車するとがたがた揺れてペンの照準が定まらず、書きにくく、文字が震えて乱れる。それで河辺に着くまでのあいだ、いくらも記録できずに降車した。ポケットに手を突っ込んで仁王立ちをしながらエスカレーターを上り、改札を抜けて駅舎を出る。通路が円形歩廊に繋がる角のところで、道を左右から挟むようにして二人、白人が立って何かを配っているようだった。何かと思いながら差し出されたものを受け取ってみると、二つ折りになっており四頁ある小さなパンフレットで、裏には英会話教室の広告が載せられ、一番最初の頁には「わたしはモルモンです」と書かれている。それで、モルモン教徒なのか、と思った。詳しいことは何も知らないが、名前だけは聞いたことがある。折り込まれた内側の二頁に記されている文言を、ここに写しておく。

 (左上に大きな文字で)
 わたしはモルモンです
     (末日聖徒イエス・キリスト教会

 (上記の右側、右頁の上部に)
 わたしたちは末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。イエス・キリストの教えを中心として生活するクリスチャンです。
 聖書と共に、モルモン書と呼ばれるイエス・キリストのもう一つの証を学ぶことからモルモンと呼ばれています。
 わたしたちは家族が最も大切であり、家族の絆は永遠に続くと信じています。

 (左頁に)
 Q
 ・どのように伴侶と子供にいつも愛を示すことができますか?
 ・子供に正しい価値観と道徳観を教えるにはどうすればよいですか?
 ・幸せな家庭を築くために神様はどのような助言をくれますか?
 ・私の家族も幸せになれますか?

 Q
 ・宗教にはどのような意義があるのでしょうか?
 ・イエス・キリストを信じることが、どのような人生の助けになるのでしょうか?
 ・真の人生の目的とは何なのでしょうか?
 ・死後の世界は存在するのでしょうか?
 ・聖書にはどんなことが書かれているのでしょうか?

 (右頁に)
 Q
 ・天国はどんなところですか?
 ・どうすれば将来に希望をもてますか?
 ・死ぬのはとても怖くないですか?
 ・神様はいますか?
 ・亡くなった両親や家族にまた会うことができますか?

 →質問を通して感じた感想を
 宣教師に聞かせていただけませんか?
 (また宣教師と共に、教会の見学や聖書の勉強をすることができます)

 その他右下に、メールアドレスや電話番号、ウェブサイトのURLが載せられている。それで受け取ったものを眺めてからポケットに入れると、図書館に入り、カウンターに『「ボヴァリー夫人」論』を返却した。そうしてジャズの棚を見に行く。Junko Onishi Trio『Glamorous Life』があることを知っていた。それで一枚目はそれを借りることにして、ほかに何かあるかと棚を見分すれば、Wynton Marsalis『Live At Blues Alley』がある。それで二枚組のこれも借りることに。最後は棚の上に目を滑らせていると、Sinne Eeg『Dreams』を見つけて、これもScott ColleyとJoey Baronがリズム隊を務めているので聞いてみたかったのだというわけで三枚決まり、貸出機で手続きをした。それから上階へ。新着図書にはアラン・ロブ=グリエの、『もどってきた鏡』だったか、何かそんな風な、「鏡」という言葉が入っているのは確実の、水声社から新しく出たらしい翻訳本があった。それを確認してから日本文学の棚に入り、滝口悠生の作品をチェックする。それから、先日Twitterでその存在を知ったばかりの、鴻池留衣という人の作品も見に行くと一冊あった(この時あったものとは違うが、『ジャップ・ン・ロール』何とか、みたいな題の作が、確か今回、芥川賞の候補になったのではなかったか?)。いや違った、彼らの作品を見る前に文庫の棚に行って、山本健吉『俳句鑑賞歳時記』がないかどうか確認したのだった。これは先日Twitterでフォロワー各位に、俳句か短歌でお薦めの作家があったら教えてくださいと呼びかけたところ、Sさんという方が知らせてくれたものである。それで今日は、特に目的もなく図書館のあとに立川の本屋に出向くつもりだったところ、これを買えば良いではないかと歩いている途中に思い出したのだった。図書館には件の本は所蔵されていなかった。それで立川に向かうことにして退館し、眩しい光の反映する歩廊を渡って駅へ、ホームに下りるとふたたびメモを取った。それでやって来た電車に乗り、席に就くと『囀りとつまずき』を読み出す。やはり「まなざし」とか「視線」のテーマが目立つ。この話者は何かを良く見ている、何かの瞬間を目撃している「目撃者」である。それでは何を目撃しているのか? それは「意味の変容」の瞬間ではないかというのが差し当たりの仮説だが、そのあたりもう少し細かく読んでみないといけないだろう。この作品はまた、「ぴしゃり」とか「がたぴし」とか意外と擬音語・擬態語が使われていて、それが長い装飾を付した古めかしいような文体のなかで一抹の軽さを生み、良いアクセントになっているのではないか。さらにはまた、各断章の最初の文に、「~である」あるいは「~がある」と「ある」で終わる形が結構多いのも気づいた。その点もどのくらいの断章がそうなっているのか測ってみたいところである。
 二時半前に立川着。ホームから階段を上り、改札を抜ける。群衆のざわめきのなかでも、駅舎の出入り口に立つ托鉢僧の鳴らす鈴の音が、煙のなかを一閃走って切り裂く光のように伝わってくる。その前を通って広場に出ると、角のところで何やら、これもキリスト教を布教しようと試みているらしいが、台の上にスピーカーを取りつけてそこから声を出させている、キリスト教を奉じているにしてはいかにも胡散臭い雰囲気の男が一人立っている。今までにも何度か目にしたことのある姿で、先日新宿で見かけたのもこの仲間ではないだろうか。スピーカーからは、我々は罪深い存在だけれどキリストを信じれば救われるのだ、的な単純な文言が流れ出ているようだった。怪しい風体なので通行人もあまり近づきたがらないのか、パンフレットらしきものを差し出している男の周りにはちょっと空隙が生まれていた。そこを過ぎると今度は、アムネスティ・インターナショナル日本の黄色い旗が通路の柵に掛けられていて、ここでもやはりものを配っている人が二人いたが、こちらの近くにいた男性が何故か差し出してくれなかったので、ここではパンフレットを受け取らなかった。そうして歩廊を進み、三階からLOFTのビルに入る。フロアを渡って階段を上り、四階に出たのは、そろそろ手帳の頁が尽きるので新しいものを買おうと思ってのことだった。それでノート類やメモ帳類を見分するのだが、今使っているモレスキンの小型ノートが見当たらなかった。以前この店で買ったもので、買う時には値段を良く見ずにレジに持って行って、そこで初めて二千円だかいくらだか高額なのに気づき、しかし自意識の病から今更止めるとも言い出せずに購入に至ったのだったが、やはり高いだけあって使ってみるとこれが結構使いやすく、もう一度同じものを買おうかと漠然と考えていたのだったけれどしかし同じ品はなかった。それでほかに、KUNI何とかいうメーカーのものが結構良さそうだったのだが、これも一〇〇〇円だか二五〇〇円だかして結構値が張る。そのくせサンプルが置かれておらず、なかの様子が確認できなかったので、躊躇された。それで次善の案として、MDノートというやつが良さそうに思われた。これはもう結構くたびれたようなものだがサンプルがきちんと置かれてあって、見る限りサイズもちょうど良いし、特に書きにくいこともなさそうだろうというわけで、これを買うことにした。一冊がそれほど厚くはないが、三冊組で五四〇円とリーズナブルである。それで会計し、階を下ってふたたびフロアを通り、外に出る。それから歩廊を辿ってオリオン書房ノルテ店に向かった。ビルのなかに入ると、Lester Youngめいたまろやかなサックスの流れ出しているSUIT SELECTの前を通り、星野源の音楽が鳴っているHMVの前も通り過ぎ、エスカレーターに乗って入店。まず、角川ソフィア文庫を見に行ったのは、例の『俳句鑑賞歳時記』を買うためである。所蔵されていた。それでそれを持って海外文学のほうに向かう途中で、後藤明生の存在を思い出して、日本文学の書架のあいだで止まり、蓮實重彦と後藤が交わした座談や対談を立ち読みする。これが含まれた本や、あと『壁の中』というのも面白そうで欲しいのだが、ひょいひょい購入に踏み切れるほど潤沢な財政ではない。読んでいるあいだ、平積みにされた書籍の上には何やらいくつも本が積み上げられた塔が三棟ほどあって、女性店員がそれを運びに来るたびに近くにいるこちらを慮って、失礼しますと声を掛けてくれるのだった。それから海外文学を見た。『ヴァルザー・クレー詩画集』がないかと思ったのだが見当たらず、それどころか以前はあったはずの『ヴァルザー作品集』全五巻すらない。ほか、気になったものが何かあったような気もするのだが、忘れてしまった。それでそれから思想の棚を見に行こうかなというところで、そう言えば『ヘミングウェイ全短編』がほしいのだったと思い出した。新潮文庫のものである。しかし一九九五年くらいに出たものだからもう新刊書店には置いていないかなと思いながら文庫のほうに行ったところが、これが三分冊の三つとも所蔵されていたので有り難く購入することに。そうして哲学の書架へ。並んだなかではやはり『ミシェル・フーコー思考集成』だったか、あの全一〇巻のものが欲しくて、このオリオン書房には何と最初の一巻を覗いてすべて揃っているので素晴らしいと同時に、いかに世の人間がミシェル・フーコーなど読まないのか、彼の集成が買われないのかと証してもいるわけだが、ともかくこのシリーズは一冊が六五〇〇円くらいしてさすがにおいそれと手を出せるものではない。荻窪ささま書店に売っていないかと期待するのだが果たしてどうか。ほかにも色々と気になるものはあったが(ロラン・バルトのインタビュー集、『声のきめ』が特に欲しいが、これも六〇〇〇円くらいする。図書館に入ってくれないだろうか)やはり今購入するものではないなと決めて(ここにはなかったがカンギレムの著作など少々欲しい)、会計に行った。四冊で三四七四円。それで店をあとにしてビルを抜け、『囀りとつまずき』のことを考えながら歩廊を辿り、歩道橋を渡ったところの階段から下の道に下りる。道の左岸、シネマシティやその隣のビルの半ばあたりまで、道の向かいのビルの影が山影のように掛かって、時刻は三時半、そろそろ陽も低くなってきているようだ。それでPRONTOに行った。入店し、先に二階に上って席を確認すると、結構空いていた。壁に接した一席に入る。荷物を置き、ストールを首から取って下階へ、アイスココアのMサイズを注文(三三〇円)。眼鏡を掛けた女性店員から品物を受け取って戻り、喉が渇いていたので上に乗っていたクリームを食べるとココアを一気に吸いこんだ。そうしてコンピューターを取り出し、ソウル風の音楽が色々と流れるなかで日記を書きはじめたのが三時四〇分、現在は五時をちょうど回ったところで、ここまでで今日の記事はおそらく八〇〇〇字くらいにはなっているだろう。ラーメンを食って帰ろうかどうしようか迷っている。それにしても文章を書いているあいだのことというのは多くの文章にはならず、「日記を書いた」くらいのことしか言えないものだ。
 それから図書館で借りてきた三枚のCDの曲目や録音情報などをEvernoteに記録した。テーブルが一つでは狭かったので、隣のテーブルをこちらのほうに寄せて繋げ(それができるほどに店内は空いていた)、広くなった卓上にコンピューターを跨がらせながら打鍵した。

Junko Onishi Trio『Glamorous Life』

1. Essential
2. Golden Boys
3. A Love Song (a.k.a Kutoubia)
4. Arabesque
5. Tiger Rag [Nick LaRocca / Eddie]
6. Almost Like Me
7. Hot Ginger Apple Pie
8. Fast City [Joe Zawinul]
9. 7/29/04 The Day Of [David Holmes]

Junko Onishi 大西順子: p
Yosuke Inoue 井上陽介: b
Shinnosuke Takahashi 高橋信之介: ds

Recorded at Sound City A-Studio on September 4 & 5,, 2017,
and Sound City Setagaya on September 6.
Recorded & Mixed by Shinya Matsushita (STUDIO Dede)
Assisted by Taiyo Nakayama (Sound City)
Mastered by Akihito Yoshikawa (STUDIO Dede)

Produced by Junko Onishi
Co-Produced by Hitoshi Namekata(Names Inc.) & Ryoko Sakamoto(diskunion)

(P)(C)2017 SOMETHIN'COOL
SCOL-1025


The Wynton Marsalis Quartet『Live At Blues Alley』


1. Knozz-Moe-King [W. Marsalis]
2. Just Friends [J. Klenner / S. Lewis]
3. Knozz-Moe-King (Interlude)
4. Juan [J. Watts / M. Roberts]
5. Cherokee [R. Noble]
6. Delfeayo's Dilemma [Marsalis]
7. Chambers Of Tain [K. Kirkland]
8. Juan (E. Mustaad)

1. Au Privave [C. Parker]
2. Knozz-Moe-King (Interlude)
3. Do You Know What It Means To Miss New Orleans [L. Alter / E. Delange]
4. Juan (Skip Mustaad)
5. Autumn Leaves [J. Kosma / J. Mercer / J. Prevert]
6. Knozz-Moe-King (Interlude)
7. Skain's Domain [Marsalis]
8. Much Later [Marsalis]

Wynton Marsalis: tp
Marcus Roberts: p
Robert Leslie Hurst Ⅲ: b
Jeff "Tain" Watts: ds

Produced by Steve Epstein
Executive Producer: George Butler

Recording: Friday, 19 and Saturday, 20 December 1986,
live at "Blues Alley", Washington, D.C.
Engineer: Tim Geelan
Assistant Engineer: Phil Gitomer
Mixing Engineer: Tim Green

(P)(C)1988 Sony Music Entertainment
SICJ 45~6


Sinne Eeg『Dreams』

1. The Bitter End [Sinne Eeg / Soren Sko]
2. Head Over High Heels [Eeg / Mads Mathias]
3. Love Song [Eeg]
4. What Is This Thing Called Love [Cole Porter]
5. Falling In Love With Love [Richard Rodgers / Lorenz Hart]
6. Dreams [Eeg]
7. Aleppo [Eeg]
8. Time To Go [Eeg]
9. I'll Remember April [Gene De Paul / Patricia Johnston / Don Raye]
10. Anything Goes [Porter]
11. On A Clear Day [Burton Lane / Alan Jay Lerner]

Sinne Eeg: vo
Jacob Christoffersen : p
Larry Koonse: g
Scott Colley: b
Joey Baron: ds
Sinne Eeg, Warny Mandrup, Lasse Nilsson, Jenny Nilsson: add vo

Recorded on January 12th and 13th, 2017
by Mike Marciano at Systems Two, Brooklyn, NY

Produced by Sinne Eeg

Vocals Produced by Boe Larsen
at Millfactory Studios, Copenhagen
Mixed and Mastered by Lasse Nilsson
at Nilento Studio, Goteborg

(P)(C)Sinnemusic
VICJ-61764

 そうして五時半、少々早いがラーメンを食いに行くことにした。母親に食べてくるとメールを送り、繋いでいたテーブルを元に戻し、ストールは巻かずにリュックサックのなかに仕舞って席を立つ。手近にいた女性店員にトレイを渡して、ありがとうございましたと礼を言って退店した。通りを歩く。片隅で居酒屋の客引きたちが、同じ店の仲間ではなくてそれぞれ違う店の人員だと思うのだが、仲良さそうに、大袈裟な身振りで何やらジャンケンをしている。そこを横に折れ、裏に入ってさらに左に折れて、階段を上り、「味源」立川北口店に入った。味噌チャーシュー麺(一一五〇円)を選んで食券を買い、席に就くとともに女性店員に食券とサービス券を渡す。サービス券は一〇〇円のキャッシュバックか餃子の小皿かを選べるのだが、いつも餃子にしている。それで三宅誰男『囀りとつまずき』を読みながら待っているといくらも読まないうちに品がやって来た。割り箸を取り、スープをちょっと飲んでからモヤシや葱を搔き混ぜて麺をその下から引っ張り出すと、灰白色の湯気がけたたましく湧き上がる。麺を持ち上げるたびに息を何度も吹きかけて、ゆっくりと食べて行った。具を大方食べ終えると、丼を傾け、蓮華を使ってスープを飲んで行き、最後は丼に直接口をつけて(帽子のつばが丼のなかに入る)すべて飲み干した。汲んでいた水も二口飲んで空にして、余計な時間を使わずにすぐに席を立ち、ご馳走様ですと言って退店した。ビルの外に出、写実的なハンバーガーの写真がプリントされているマクドナルドのバイクの横を過ぎ、表に出ると階段を上って駅前広場へ。駅舎に入り、群衆のなかを通って改札を抜け、五・六番線のホームに下りた。そうしてふたたび『囀りとつまずき』を読み出す。やって来た電車に乗ると二人に挟まれて南側の扉際に寄り掛かる。じきに目の前の人が下りたのでそこに入って角を取った。そうして書見を続け、青梅に着くと乗り換えはすぐ、ホームを歩いているあいだに口を大きく開けて息を吐き出してみるが二酸化炭素はほとんど染まらない。奥多摩行きに乗り、書見をしながら到着を待って、最寄りに着くとここでは息が薄白く色づくようになっていたが、寒さは身体を震わせるほどではない。たまには違う道を取るかというわけで駅正面の坂は下らず、ちょっと東に――そう言えば、駅の階段を上り下りしている最中、東の空の、山際の低みに満月が出ていて、随分と大きいなと、表面はつるつるとして模様がなく幽かに赤味を含んだバター色のそれを見つめた時間があった。それを見ながらちょっと東に歩いて、家の前に続く林のなかに入ったのだが、ここの階段は薄々そうではないかと気づいていた通り、もう使われていないものだから街灯がなくなっていて、途中からまったくの純然たる暗闇で足もとなど少しも見えやしない。それで転ばないように慎重に、靴をほとんど地を撫でさせるようにしてゆっくりと下りて行き(重なり合った落葉のなかに足を突っ込む感触)、道の灯りも届くようになったところで安堵して家の前に出た。帰宅。すぐに自室に帰って服を着替え、インターネットをちょっと覗いてから入浴に行った。身体の痒み、発疹はもうほとんどなくなっている。出てくると八時頃だったようだ。おにぎりを作って部屋に持って行き、コンピューターの前でそれを食べたあと、この日の記事に引用を四箇所分、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』と、大津透『天皇の歴史1 神話から歴史へ』から引いておき、繰り返し読んで覚えるようにした。『日本にとって沖縄とは何か』の引用は今日の分で終わり、書抜きの読み返しということを、遅いペースではあるが折に触れてやっているわけだが、こうしたほうがただ一度本を読んで終わりでなく、知識が頭に入るのでやはり良いだろう。沖縄の歴史については、簡単な程度ではあるが多少の年代記的な知識は得ることができている(例えば一九九五年の九月に少女暴行事件があったとか、それを受けて一〇月二一日には宜野湾市海浜公園で八万五〇〇〇人が集まった県民大会がひらかれたとか、さらにそれを受けてSACO=沖縄に関する日米特別委員会というものが組織されて基地返還計画が示されたとかそういったことだ)。その後、fuzkueの「読書日記(119」を最後まで読み終える。この時だったかどうか定かではないが、また一つ、「退屈な映画みたいな人生さオレンジ潰して燃えてさよなら」という短歌を作った。そうして時刻は九時半頃、Ernest Hemingway, The Old Man and the Seaを読みはじめたが、街に外出したためだろうか、ベッドに転がっていると一〇時にもならないのに早くも眠気が湧くようだった。それで三〇分ほど読んだところで切り上げ、それから本を読む気が湧かなかったので漫画でも読むかというわけで、幸村誠『ヴィンランド・サガ』の一巻を取った。そこそこだが、今のところは『プラテネス』のほうが良い気がする。続けて二巻も持って読んでいたのだが、半ばあたりに達したところで力尽き、ちょっと休もうと本を逆さにしておいて目を瞑っていると、いつの間にか眠っていたようだ。気づくと三時になっていたので、歯も磨かずにそのままこの一日を終わらせることにした。
 書き忘れていた。立川から帰る電車のなかで、気持ち悪くなると言うか、通常の気持ち悪さではないのだが、喉元が迫り上がるようになった瞬間があった。要するに、不安障害の症状の軽いものが一瞬回帰してきたということだ。そうしたことは久しぶりで、緊張とともに、ちょうど昭島に着いたところだったので、ひらいた扉のほうを見てこの場から逃げ出したいという気持ちが生じるのを感じたが、いや、落ち着けと自分に言い聞かせて自己の身体感覚を観察すると、以前王子から帰ってきた際に吐いた時のような、車に酔ったような気持ち悪さは感じられないなと確信を持ち、だからこの吐き気(?)というのは幻影的な、あくまで緊張から来るものだと理解され、その緊張だってそれほどのものではないから大丈夫だろうと本に目を戻したのだった。それからしばらくのあいだも、喉元がやや苦しいような感じが続いて、時折り緊張の芽が伸びかける時があったが、こうした感覚の時に吐いたことは実際一度もないので大丈夫だろうと確信があり、大したことにはならなかった。


・作文
 9:49 - 10:39 = 50分
 15:41 - 17:04 = 1時間23分
 計: 2時間13分

・読書
 10:43 - 11:44 = 1時間1分
 13:59 - 14:23 = 24分
 18:04 - 18:46 = 42分
 20:13 - 21:21 = 1時間8分
 21:35 - 22:01 = 26分
 計: 3時間41分

  • 2018/1/22, Mon.
  • 2016/8/15, Mon.
  • 2018/12/27, Thu.
  • 2018/12/26, Wed.
  • 2018/12/25, Tue.
  • 三宅誰男『囀りとつまずき』: 16 - 42
  • 2019/1/22, Tue.
  • fuzkue「読書日記(119)」

・睡眠
 1:00 - 8:30 = 7時間30分

・音楽