2019/1/26, Sat.

 六時一五分起床。安倍晋三首相がセクハラを容認するような、あるいはむしろ促進するような発言をして、控えめに言ってこいつは阿呆だなと思った、という夢を見た記憶がある。部屋はまだ暗く、明けの青さのなか、曙光の兆しが山際に。明かりを灯してコンピューターを点け、六時二五分から早速前日の日記を書きはじめる。すぐに仕上がって投稿。それからTwitterを覗きつつ、山際の朱色が紅色、薔薇色と変わって行き、部屋の扉にも光線が射し込むようになるなかで、しばらくまた短歌を作る。食後の時間に作ったものも含めて以下に載せておく。

 二二時四五分の鐘が鳴る過[あやま]てる夜の我はいずこへ
 足よりも手よりも頭よりも先に心よ踊れ短き鼓動に
 過ちを忘れ月夜に雨が降る街灯の暈に解けぬ智慧の輪
 死んだ人は二度と生き返らないからピアノを鳴らせ沈黙の日に
 恋をする勇気持たない暇人が口ずさむのさ白髪の唄を
 散歩して悲しさばかり拾い上げ侘しい風に涙枯らして
 明け暮れてまばたきだけが拠り所夜の睫毛に雫垂らして
 儚くて今日も今日とて独り言亡霊讃歌暗む足取り

 七時頃になって上階へ。南窓のみカーテンを開ける。冷蔵庫を覗くと前日の残り(ナポリタン風パスタと鮭)があったので、それらをそれぞれ温め、米をよそって卓に。それから外に出て新聞を取ってくる。親イスラエルドナルド・トランプ政権が発足して以来、ヨルダン川西岸での入植が度を増しているという記事を読みながらものを食べていると、母親が上がって来た。早いじゃない、と言う。うん、と受けてものを咀嚼し続け、食後、薬を飲み、父親が夜に放置した食器も含めて皿を洗った。そうして洗面所に入り、大して乱れていなかったが髪を整え、整髪料もちょっとつけておいて下階へ。まだ八時前である。ポテトチップス・コンソメパンチ味を貪りながら日記の読み返しをする。二〇一六年の日記はブログに投稿しておき、それから茶を注いできて一服したあと、八時二〇分からErnest Hemingway, The Old Man and the Seaを読みはじめた。

  • ●72: the fish came over onto his side and swam gently on his side,(……)long, deep, wide, silver and barred with purple and interminable in the water.――barred: 縞模様のある / interminable: 果てしない
  • ●72: the fish's side just behind the great chest fin that rose high in the air to the altitude of the man's chest.――altitude: 高さ
  • ●72: the sea was discolouring with the red of the blood from his heart. First it was dark as a shoal in the blue water that was more than a mile deep.――shoal: 魚群
  • ●73: Now I must prepare the nooses and the rope to lash him alongside,――noose: 輪縄
  • ●73: Even if we were two and swamped her to load him and bailed her out, this skiff would never hold him.――swamp: 水浸しにする / bail: 水を搔い出す
  • ●73: he could pass a line through his gills and out his mouth――gill: 鰓
  • ●74: The lines all mean nothing now. The boy and I will splice them when we are home.――splice: ロープを繋ぐ
  • ●74: the fish's eye looked as detached as the mirrors in a periscope or as a saint in a procession.――detached: 超然とした / periscope: 潜望鏡
  • ●75: Then he stepped the mast and, with the stick that was his gaff and with his boom rigged the pathced sail drew,――boom: 帆桁

 九時を回る頃合いまで英文を読み、それから隣室に入ってギターを適当に弄り散らかした。そうして風呂を洗いに行く。昨日は洗うのを忘れてそのまま焚いてしまったので、この日は念入りに浴槽の内側を擦る。風呂を洗いながら、それにしても定型とは偉大なものだなと思った。短歌の話である。五七五七七の形に嵌めるだけで、適当に言葉を並べているだけでもそれらしいものになる。言葉を音に当て嵌めていると言うよりは、五七五七七の音調に導かれて、言葉が浮かび上がってくるという感じだ。そうして戻ってきて一〇時直前から日記を書き出し、ここまで記して二〇分ほどが経過している。
 書抜きの読み返し、一二月二八日から二六日まで。さしたる時間も掛からずに終わる。それから、「ウォール伝、はてなバージョン。」の記事を読んだ。なかなか啓発的。「そもそも人間であるっていうところからすでに限界が規定されていて人間であるからこそ自ずと決まってくる真理ってのがある」「人間にとっての普遍性っていうのは物理法則とは違うわけでそれはまぁその存在を介したものにならざるを得ない」「キリスト教が真理なんだったらそれでいいじゃないかって感じもするんだけどそれを真理だと思うには逆説的に全くキリスト教とか宗教的ではない世界観とか主観ってのが必要になる」「キリストに感染してキリストを模倣するようになる。ただそれはすぐにできることじゃないし一生かかってもできないことかもしれないけど模倣しようと努めるということですよね。それがまぁキリスト者になるっていうことだよね」。このブログの記事が長かったため、読み終えると既に一一時を回っていた。そのあと、すぐに上階に行ったのだったか? わからないが、出かけるまでにまだまだ時間もあるし、散歩にでも出ようかなとちょっと思いながら部屋を出た。すると母親が台所で天麩羅を揚げており、やるかと訊くので散歩には出ずに調理をすることにして、人参や牛蒡などの搔き揚げの入ったボウルを受け取り、油の注がれたフライパンに投入して行く。伴奏もなくFISHMANS "チャンス"を口ずさんだり、脚をひらいて筋をほぐしたりしながら、揚がるのを待つ。その後、山芋や人参も揚げて完成、傍ら母親は蕎麦を茹でており、天麩羅が仕上がる頃にはそれも茹で上がっていたので、そのまま食事にした。天麩羅はかりかりとしており、なかなか美味だった。さっさと平らげて食器を洗い、下階に帰ると歯磨きをしたあと、FISHMANSの曲とともに服を着替える。ユニクロの臙脂色のシャツ、グレーのイージー・スリム・パンツ、滋味豊かな海のような深い青のカーディガン。そうして、更新が通知されていたUさんのブログを読む。「「客観性」を追求する人々が行っているのは、それを担保する方法の開発し、その言説を広めることである。これが行き過ぎた思索の問題点は、人間のいない世界、躍動のない世界にしか感情移入できなくなることである。その限りにおいて、人間の営みは「個人の自由」の領域に押し込められ、それについて語ることができなくなる」、「だが、「客観性」なる範疇でしか考えることができない者は、一種の宿命論者であり、自分自身が人間であるにもかかわらず、人間を捨象している」と書かれているのだが、これは上に引いた「ウォール伝」で述べられていたことと軌を一にしているのではないだろうか。Uさんのブログのあとは「ワニ狩り連絡帳2」も読んで一時過ぎ、日記をさっと書き足し、そろそろ出かけようと思っている。
 荷物を整理し、マフラーにコート、リュックサックを持って上階に上がると、一時半だった。便所で排便し、手袋を持って行ったらという母親に良いと言って玄関に出ようとしたところで呼び止められて、マロンケーキほかを忘れるところだったのに気づいた。ビニール袋に入れ替えた品物をリュックサックに収め、玄関を抜ける。午前中には陽の出る時間もあったが今は空には雲が広がっていて、青さは東西それぞれの果てに僅かしか覗いていない。曇り空の下、坂を上って行き、紅梅の咲き誇っているのを横目に見ながら街道に向かうと、視線の反対側、左方の対岸で走る者たちの姿があって、色とりどりの原色の運動着が目につく。街道を向かいに渡ろうとしたところで、後続が多くあるのに気づいて、流れのなかに立ち入って邪魔をしてはなるまいと南側に戻った。走る人々は個人の仲間内の人数を明らかに越えていて、何かジョギング関連のイベントでもあったのだろうか。それも小公園に差し掛かる頃には後続者がなくなっていたので通りを渡り、蠟梅の咲いている角を曲がって裏通りに入る。仄暗さに少々寄ったような無色透明の空気のなかに吹く冷たい風の周囲の庭木をさわさわ揺らして、冷たいと言うよりは何かやはり侘しいようだなと見た。侘しいと出てきたその言葉尻をしかし捉えて、実際に自分は今本当にそう感じているのか否かと問う心が湧いた。鬱病希死念慮以外ほとんど何も感じなくなって以来、こうして日記を書けるようにはなったけれども、やはり感情や感覚が以前よりも全体的に薄いような感じは付き纏っている(元々そんなに感情的なほうではないので、外見からはまったくわからないだろうが)。純粋な感情(そんなものが本当にあるのか知らないが)がなくなったような感じがして、何かを感じてからその感じたものを言語化して書き記すと言うよりは、言語化することによって事後的に、遡行的に「感じる」が生成されるような、そんな感じがある。三宅誰男『囀りとつまずき』のなかにある、「いまやわたしが感じ考えるのではない、この文体が感じ考えるのだ」というのはこんな感覚なのだろうか。また、ヴァージニア・ウルフが日記に書き付けていたことも連想される。

 モーパッサンが作家について書いている(ほんとうのことだと私は思う)。〈以下フランス語原文の引用〉「彼にはもう何の単純な感情も存在しない。彼の見るものすべて、彼のよろこび、たのしみ、苦しみ、絶望はただちに観察の対象になってしまう。あらゆることにもかかわらず、彼自身にもかかわらず、人びとの心や顔や身ぶりや声の抑揚を際限なく分析してしまうのだ。」
 (ヴァージニア・ウルフ/福原麟太郎監修・黒沢茂編集・神谷美恵子訳『ヴァージニア・ウルフ著作集8 ある作家の日記』みすず書房、1976年、316; 1934年9月12日)

 作家の気質。〈フランス語の原文の引用。モーパッサン『水の上にて』(一八八五)から〉「一つ一つのよろこびと一つ一つのすすり泣きのあとで、必ず自分を分析する。そうせずにみんなのように心から、正直に、単純に悩んだり、考えたり、愛したり、感じたりすることは決してないのだ。」
 (317; 1934年9月12日)

 モーパッサンの原書の記述のほうも引いておこう。

 文士には、もはや単純な感情というものは、少しも存在しない。彼が眼にする一切は、その喜びも、楽しみも、苦しみも、絶望も、直ちに観察材料となるのだ。彼は、何がどうあろうと、われ知らず、どこまでも、心情を、顔貌を、身ぶりを、音調を分析する。ものを見たとなると、それが何だろうと、すぐにその理由を知らずにはいられないのだ! 彼にあっては、衝動といい、叫び声といい、接吻といい、淡泊率直なものは、一つとしてない。世間の人が、知らず知らずに、反省もなく、理解もなく、ついで得心することもなくて、単にせずにはいられないからする、といった刹那的な行為ですら、彼には、まったく見られないのである。
 彼は、悩みがあれば、その悩みを記録し、記憶のなかで分類しておく。この世で最も愛していた男なり女なりを葬った墓地からの帰るさに、こう考える、「奇妙な感じがしたな。それは、悲痛な酔い心地とでもいうようなものだった、云々……」と。そして、そのとき、彼は、いろいろと細かいことを思い出す。自分の近くにいた人たちの様子、そらぞらしい素ぶり、心にもない愁嘆ぶり、うわべばかりの顔つきといったような、さまざまのつまらない小さな事柄、芸術家として観察した事柄、例えば、子供の手をひいていた老婆の十字の切り方とか、窓に日がさしていたとか、犬が一匹、葬儀の列を横ぎったとか、墓地の大きな水松[いちい]の下を通った際の霊柩車の感じとか、葬儀屋の頭のかっこうや引きゆがんだ顔つきとか、柩を墓穴におろした四人の男の骨折りぶりとか、要するに、心の底から、ひたすら悲しんでいる律儀な人なら、とうてい眼にもとめなかったろうと思われる、さまざまな事柄を思い出すのである。
 彼は、われ知らず、すべてを観察し、すべてを記憶にとどめ、すべてを記録した。それというのも、彼は、何よりもまず文士であるからだ。そして、彼の精神が、こんな具合にできあがっているからだ――彼にあっては、最初の衝動よりも、反動の方が、はるかに強く、いわば、はるかに自然であり、原音よりも、反響の方が、一そう高く響く、といった具合なのである。
 彼は、どうやら二つの魂を持っているらしい。その一つは、隣の魂――万人に共通の自然のままの魂が感ずることを一々、記録し、説明し、注釈する魂である。そこで、彼は、常に、どんな場合にでも、自身の反映であると同時に他人の反映として生きるべく運命づけられているのだ。感じ、行動し、愛し、考え、悩む自身を眺めずにはいられないのだ。だから、喜びを味わうごとに、またすすり泣きをするごとに、あとで自身を分析などせずに、普通の人間のように、素直に、虚心に、単純に、悩み、考え、愛し、感ずる、というようなわけには決して行かないのである。
 (モーパッサン/吉江喬松・桜井成夫訳『水の上』岩波文庫、一九五五年、75~77)

 こうした感情の薄さというか感情というもののフィクション性みたいなものは、こちらの作家的素質を表すものなのか、あるいは病気の後遺症なのか、それとも単純に歳を取ったというだけのことなのか。それはともかく、歩いているあいだ、書くことによって感情を作り出すということは、こちらは自分を絶えずフィクション化しているようなものか、と思った。テクスト的分身を作る、などと以前には言い表したことがあると思うが、言語的な身体/感官を編み出していると言っても良いだろう。日記の営みというか、自分自身を書くという行為は本源的にそのようにならざるを得ないのかもしれない。そうすると、この日記に表れてある主体というのは、この自分、F.Sに限りなく近い存在でありながら決定的なところで自分ではない主体、もしくは自分にはまったく似ていないが紛れもなく自分であるような主体なのかもしれない。
 概ねそんなことを考えながら裏路地を歩いていて(時折り立ち止まって、その場で手帳に思考の断片を記録した)、目に入ったもの耳に引っ掛かったものの印象はないようだ。駅前まで来て駅に入るとホームに上がって、停まっていた特快東京行きの二号車に乗った。そうして書見、三宅誰男『囀りとつまずき』。荻窪まで一時間ほど。道中は大方ずっと頁に目を落としていたので、特に興味深かった事柄はない。荻窪に着くと降車して、エスカレーターを下り、東改札から出て南口へ。寒風のなか東に向かい、ささま書店へ。来るのは二度目だが、思いのほかに駅から近かったと言うか、もう少し距離があったような記憶があったのだがすぐに着いた。店外の棚を瞥見してからなかへ。入り口付近の文庫の棚を少々冷やかしてからすぐに店の奥へと進んだ。以前来た時と配置が変わっていた。前は奥に小説や詩があり、壁際に哲学や思想の本がずらりと並んでいたのだったが(その時はそれでクロード・シモンポール・リクールの『時間と物語』三巻本なんかを買った)、以前文学だった区画が思想などの棚になって、壁際は文化人類学系の区画になっていた。精神分析関連の棚を最初に見たのは、Mさんが欲しがっていた立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』がきっとここならあるだろうと予想していたからだ。入手できたら二月に会う時にあげるつもりだった(こちらは今のところ精神分析にはそれほど興味はない――と言うか、単純に難しそうで近寄りがたい)。実際、あった。一五〇〇円。それを保持しながら、思想付近を回る。文化人類学の棚にあった野田研一『交感と表象 ネイチャーライティングとは何か』というのが気になって、これも買うことにした。ほか、アドルノの『ミニア・モラリア』も欲しい。また、決定版のパスカル全集の一、二巻があって、パスカルの生涯を語った他人のテクストを集めたような構成らしかったが、これが非常に欲しかったものの(哲学者の伝記的な挿話というものには大いに興味がある)、五〇〇〇円と結構するし、荷物も重くなってしまうので、色々見て回ったあと最終的には断念された。まあそうそう売れるものでもないだろうから、またいずれ買いにくれば良かろう。あとはやはりミシェル・フーコー関連の本が欲しくて、ジェイムズ・ミラー/田村俶・雲和子・西山けい子・浅井千晶訳『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』と渡辺守章フーコーの声 思考の風景』に目をつけておいた。それから海外文学のほうへ。文学の棚がどこにあるかわからず、不審げに店内をうろうろしてしまったのだが、文庫の揃った棚の近く、店の出入口のすぐ傍にあった。それで海外の文学を隅から隅まで見て行く。色々と興味深いものはあったが、ナタリー・サロートの二作――平岡篤頼訳『黄金の果実』と三輪秀彦訳『見知らぬ男の肖像』――がどちらも五〇〇円で安かったので買うことにした。ほか視線を滑らせていると、ヴァージニア・ウルフの伝記がある。リンダル・ゴードン/森静子訳『ヴァージニア・ウルフ 作家の一生』というやつである。これもやはり読まないわけにはいかないだろうというわけで手もとに保持し、振り向いて日本文学系統の書架を今度は見る。『牧野信一全集』の第三巻があり、『群像』だか『新潮』だったか忘れたけれど文芸誌の企画で古井由吉大江健三郎が二人で様々な作家の短篇を読むということをやっていた際に二人が揃って一番だと推していた「西瓜を喰う人」というのが収録されていてやはり欲しかったのだけれど、三〇〇〇円かそこらしたので断念した。日本文学の棚からは金井美恵子が目につく。『岸辺のない海』を見てみれば五〇〇円なので、これは買いだろうというわけで手もとに。ほか、蓮實重彦の『陥没地帯』と『オペラ・オペラシオネル』(だったか?)が一緒になった本もあったが、これは一二〇〇円だかそのくらいしたので見送った。それで、数冊取り分けておいておいた思想の棚のほうに戻る。文学を見ているうちにまさか買われてやしないだろうなと密かに危惧していたのだったが、さすがにそんなことはなかった(そう言えば店内を見て回っているあいだ、結構高年と思われる女性が店員に、岩波文庫マラルメは入っていないかなどと聞いている一幕もあった)。それでひとまず、現時点で買おうという本の値段を計算してみると、合わせて八四〇〇円である。ここにパスカル全集を足してしまうと一三四〇〇円となって、さすがにそれはと思われ、また荷物としても重くなって差し支えるので、今回は見送ることにしたのだった。それで本を手もとに積み重ねて会計へ。八冊で九〇七二円である。以下一覧。

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』: 1500
・野田研一『交感と表象 ネイチャーライティングとは何か』: 800
・ジェイムズ・ミラー/田村俶・雲和子・西山けい子・浅井千晶訳『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』: 2000
渡辺守章フーコーの声 思考の風景』: 800
・リンダル・ゴードン/森静子訳『ヴァージニア・ウルフ 作家の一生』: 1800
ナタリー・サロート平岡篤頼訳『黄金の果実』: 500
ナタリー・サロート三輪秀彦訳『見知らぬ男の肖像』: 500
金井美恵子『岸辺のない海』: 500
 計8冊: 9072円

 どうもありがとうございましたと女性の店員に礼を言って退店。空にはいくらか晴れ間が見えており、西の彼方には薄陽の感触もないではない。吹きすさぶ固い寒風のなか、道を反対に辿って荻窪駅へ。ホームに上がってちょうどやって来た電車に乗車。扉際を取った。それで吉祥寺までのあいだ、北側の空をぼんやりと眺める。建造物の立て込んだ街並みの果てまで続いて広い空である。水色の面積は思いのほかに多く、西の空には瘤のように盛り上がった雲の、裾は溶けて淡く水平線に侵食して右方には一角獣の角のように長く棚引いているのが浮かんでいるのを見つめていた。吉祥寺では結構人が乗ってくる。そうして狭くなった車内で揺られ、三鷹に着くと降りた。ホームから上がって改札を抜け、北口に。群衆の流れに逆らって、駅前のドトールへ。ここに滞在して日記を書くつもりだった。階段を下りて地下に行ってみると席はいっぱいだったので、地階に戻って白線で一人ひとりの区画が区切られているカウンター席に荷物を置いた。そうしてレジカウンターに行き、ホットココアを注文する(三七〇円)。オーダーを聞く店員は発声の調子など聞くとどうやら新人らしく、ほかに女性店員が二人、ベテランらしく声調も物腰も落ち着いている男性店員が一人、補佐をしていた。ココアを持って席に就き、コンピューターを取り出す傍ら、Mさんに、立木康介の本を入手したので二月に会う時にあげますと報告をする。帰ってきた返信によるとMさんは今奈良にいるらしく、彼もちょうど古本屋でムージル蓮實重彦を入手したところだと言う。同じようなことをしてますねと返し、それからしばらくやりとりを続けながら日記を綴った。店内は非常に忙しない。ひっきりなしに人が行き交って、空気が動き、新人の店員の繰り返し、よろしければお伺いします、という声が背後から聞こえる。しかしそんな環境下でも、音楽を聞かずとも結構集中して書けるものだ。そうして現在、五時半前に至っている。約束は六時半から七時のあいだ。まだまだ時間があるので、水中書店にでも行ってみようかと考えている(今日これ以上本を買うのはまずいが、一〇〇円均一で何か良いものがあれば買うくらいの姿勢なら良いだろう。
 コンピューターをシャットダウンして、便所に立った。狭苦しい通路で待っていると、若い女性が出てきたそのあとから個室に入れば、便器の蓋がきちんと閉められてあったのでさすがだなと思った。小便を放って、手を洗い、ハンカチを両手に当てながら室を出て席に戻る。コンピューターをリュックサックに仕舞い、ココアのカップをカウンターに返却すると、新人店員が恐れ入りますと返答してみせた。そうして退店。水中書店へ。到着すると、寒風の厚く横から駆けて顔にぶち当たるなか、店頭の百円均一を見分する。目ぼしいものはなし。入店。入り口から見て右方の奥、哲学や思想の棚から見はじめる。カウンターの向こうには茶髪の女性店員が一人立っているだけで、店主のKさんは不在だったが、棚を見ているうちにまもなく帰ってきた。しかしすぐには顔を合わせず、文芸批評、文学研究、幻想文学関連など書架の列を見定めて行く。それからその反対側、一つ隣の通路に移って、海外文学。ここでアントナン・アルトー/多田智満子訳『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』を発見して食指が動く。八〇〇円。目をつけておきながらひとまず取らず、短歌のあたりの棚を見ているとKさんがカウンターの向こうで姿を現したので、こんにちは、と低く掛けた。ささま書店に行ってきたんですよ、と話す。すると、あそこの奥の人文学の棚なんかは、あれもこれもと次々と手に取れますよね、と言うので、まさしくそうなんですよと同意する。それから、色々と良いものを出していますので、ごゆっくりご覧になってくださいと言ってくれる。それにしたがって鷹揚に書物を吟味していく。短歌の棚からは、岡井隆『人生の視える場所』が五〇〇円で安くて少々惹かれ、また塚本邦雄の、『戴冠傳説――小説イエス・キリスト』というのも気に掛かった。それから俳句、日本文学(後藤明生の『吉野大夫』があった。また古井由吉『仮往生伝試文』も八〇〇円だかで安く置いてあって、買ってしまおうかと思ったのだったが結局これは忘れていた)、詩と見ていく。そうして文庫のほう、それから入り口から見て左方奥の、社会批評などの棚と見て行き、最初の思想の区画に戻ったところで、『現代詩手帖 ロラン・バルト』を発見した。五〇〇円。これは買いだろうというわけで手もとに保持し、アルトーのものも持って書架の上に置き、短歌の区画に戻ってふたたび吟味する。その時点で六時一五分かそこらだった。岡井隆『人生の視える場所』は安いし買うことにした。塚本邦雄は、本来だったら歌集を求めたいところだが、イエス・キリストの小説がやはり気になるので今回はこれを選び、歌集はお預けとすることに。そうして吟味している最中に、ふと目線を横にずらすと書肆侃侃房というところから出ている新鋭短歌というシリーズの本が並んでおり、そのなかに九螺ささらの名前が見える。ピンときた。これは古谷利裕が「偽日記」で以前取り上げていたものである。それで、これも買うことにした(八〇〇円)。それで五冊をカウンターに持って行き、会計。Kさんが値段をレジに打ち込んでいるあいだ、少し前から掛かっていたBGMについて、これ、コルトレーンですかと尋ねる。するとやはりそうであると。わかりやすかった。サックスのトーンが聞き覚えのあるものだったし、折に触れてぐねぐねと空間を搔き回すようにブロウするのもトレーンの作法だ。何でも最近発掘された未発表音源らしく、それがApple Musicで聞けると言うから楽な時代になったものだ。それで会計を済ませるとKさんがあちらから、手近に積んであった現代俳句のアンソロジーシリーズを指して、高浜虚子から何々あたりまで(「何々」の名前は忘れてしまったが、前衛の人だったと思う)の短い範囲のアンソロジーなんですが、前衛までカバーしているので、Fさんはもしかしたらお好きになるかもしれません、と薦めてくれる。それで、最近短歌を作っておりましてとおずおずと口に出すと、おそらくTwitter上でだと思うが、見ましたとあったので恥じるようにして笑う。拙いものだ。定型の枠の便利さと言うか、それに当て嵌めればひとまず形になることの利益をKさんは述べてみせるので、こちらもちょうどこの朝にそうした感慨を抱いたところで我が意を得たりと、そうなんですよね、五七五七七に当て嵌めれば、出鱈目な言葉でも何となくそれらしくなる、と笑い、音のリズムに導かれて言葉が出てくるようだと言うか、とこの朝の感想を繰り返した。それから、最近何か良いものは読みましたかとこちらから振ると、背後の棚からやはり俳句のアンソロジー本を取り出してみせる。色々な俳人の句が一〇〇句ずつ選集されたもので、やはり前衛の人を広くカバーしているようだった。小説のほうはどうですかと話を向ければ、Kさんは小説はあまり読めていないのだがと言って少し考えたあとに、新潮文庫から出た新訳の、『ワインズバーグ、オハイオ』が、以前も読んだことはあったがやはり面白い小説だったと言った。ほか、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』も初めて読んで面白かったらしい。フランケンシュタインが人間の家族の様子を覗き見て人らしい振る舞いを学ぶ場面があるのだが、そのなかに、詩が朗読されているのを目撃して言葉を習得するという一幕があるらしくて、そこが印象的だったと言う(そんなことあるかって思うんですけれど、と言うKさんにこちらは、フランスなどでは幼児教育で詩を丸暗記させるらしいですよねと返した)。そこから、Kさんのなかで最近、「朗読」が一つのテーマとして上がって来ているという話になった。夏目漱石界隈のエピソードなども何かの本で読んだらしく、伊藤左千夫だかが自分の作品を読みながら一人で泣いていたらしいと挿話を紹介するのにこちらは、カフカなんかも、『変身』だったか『審判』だったか、友人の前で朗読したと言いますよね、それで互いに大笑いしていたらしい、と。海外では詩の朗読なんかも日本よりは一般的らしいですねとか、古井由吉も新宿の風花という文壇バーで朗読のイベントを企画していた、町田康とか柄谷行人とかを招いて、自分の作品を朗読させるのだ、などと話しもした。それで互いに言うこともそろそろ尽きて思いつかなくなった頃合いでKさんが、また何か気づいたことがあったら是非お話ししてくださいと丁寧に言ってくれるので、こちらこそと礼を言い、またお願いしますと告げて店をあとにした。以下、購入品の一覧。

・アントナン・アルトー/多田智満子訳『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』: 800
・『現代詩手帖 ロラン・バルト』: 500
岡井隆『人生の視える場所』: 500
塚本邦雄『荊冠傳説――小説イエス・キリスト』: 800
・九螺ささら『ゆめのほとり鳥』: 800
 計5冊: 3400円

 店頭に立って携帯でTにメールを送り(既に三鷹にいるが――時刻は六時半過ぎだった――どこに行けば良いのか?)、マフラーを巻いてとりあえず駅に向かって歩き出す。見上げたビルの切り立ったその屹立の線に沿って視線が夜空に移行して行き、黒々とした闇空の実に深いなと思われた。Tからはすぐに返信があり、T田とMさん(こちらとは初対面)が駅にいるので改札に行ってくれと言う。了解、と短い返信を歩きながら即座に返して、駅へ。通りを歩きながら視線を上げれば、駅前で緑色や白の電飾が、木の形を模して雪崩れるように上下に連なり光っている。その近くを通って駅に入り、階段を上って改札前に向かうと、KくんとT田、そして初対面の女性がいるのが見えた。近づいて行くとKくんがこちらに気づき、指してきたので会釈を交わし合って寄って行き、挨拶をする。Mさんが初めましてと頭を下げてくるので、こちらもワンテンポ遅れて、荷物を地に置き、初めまして、Fですと挨拶を返す。それで、Kくんの宅に向かうことになった。訊けば、徒歩一分の近間だと言う。歩きながら、古本屋に行ってしまって本を買いこんでしまったと言うと、今は本が読めるのかとT田が聞いてきたので、読めるようになったし、文を書けるようにもなったと報告する。駅を出たあたりでMさんに、Tとは、と向けると、学童の仕事をしていた時の同僚だと聞いていた情報が返って来た。アルバイトでやっていたのだが、Mさんは今はそのままそこで正社員になっているらしい。Kくんの家は確かに近かったが、一分というのは言い過ぎだろう、三分くらいは掛かったはずだ。駅からすぐ西に歩き、一軒のマンションの脇を抜けて裏に入ったところのマンションだった。小さなエレベーターに乗って四階へ。扉を開けるとTが出迎えてくれたので、こんばんは、と挨拶をして、お邪魔しますと言いながら上がる。部屋は一室の手前右側にキッチンが設けられており、その向かい、左側は浴室兼便所、奥は右の壁際に大きなテレビが壁と並行に置かれ、向かいはベッドになっており、それらのあいだに五人で囲むには少々狭かったテーブルが据えられていた。ベッドの向こう側の窓際にはギターが一つ置かれてあったので、触って良いかと許可を取って早速弄りだす。チューニングがばらばらに崩れていたので、T田に、T田、A、Aの音、と言ってチューナーの役割を務めさせようとすると、Kくんがチューナーのアプリを起動したスマートフォンを貸してくれた。それでチューニングを仕上げ、Oasisの"Married With Children"を適当にコード・ストロークしていると、KくんとT田は飲み物を買いに行くと言うのでT田に、ジンジャーエールを頼むと注文した。それで適当にブルースを弾き散らかす。そのあいだTはキッチンに立ってほうとうを作っており、Mさんとこちらがちょっと言葉を交わしたあとは、彼女らが職場の話をするのを何とはなしに聞きながらブルース的なフレーズを弾き続けた(Mさんはどうやらここで、今よりも大きな部署と言うか職場に異動になるようだった)。ある程度のところでギターを下ろすと、BGM有り難うとTが言った。それから男性二人が帰ってくるまでのあいだ、どう過ごしたのか覚えていない。Mさんと何かしら話をしていたのだろうか。彼女について覚えていることを先に書いてしまうと、一番印象に残っているのは、彼女は美大出身なのだが、そこでは舞台製作をやっていて、キャラメルボックスという演劇グループが好きでよく見に行っているということだ。そうだ、最初は音楽を聞くかとこちらから話を振ったのだった。あまり聞かず、広く浅くという感じらしい。続けて何が好きなのかとこちらは音楽のことのつもりで質問すると、それに対して芝居が好きだという返答があったのだった。キャラメルボックスというのはオリジナルもやるが、また人口に膾炙している大衆小説などを翻案して演じたりもする劇団らしかった。過去には伊坂幸太郎の『ゴールデン・スランバー』だとか、東野圭吾の作品なども演じたと言う。こちらは、シェイクスピアなんかを見てみたいなと言うと、シェイクスピアだったら色々なところでやっていそうという返答があり、少し前だったら蜷川幸雄もと言うので、藤原竜也ねと俳優の名を出した(その頃にはT田たちがもう帰ってきていた)。その後、文学が好きなんですよと自分のことを言うと、文章で生きていくってTがこちらのことを言っていたと言うので、文章じゃ食えねえよと応じる。大体そのあたりでほうとうが出来上がって、卓に運ばれたのではなかったか。この日の会は一応こちらの誕生日祝いということで(そう言えば書き忘れていたが、T谷は仕事が忙しくて参加できなくなったので、面子は五人だった)、こちらは卓の中央に向かい合って置かれた座椅子を席としてあてがわれ、右にMさん、左にT田、向かいのテレビとの隙間には左側にKくん、右側にTという位置取りになった。そうしてTが、主役のこちらから椀にほうとうをよそってくれる。料理は普通に美味だった。飲み物は、こちらはジンジャーエール、KくんとT田はコーラ、Tは白湯(この選択に彼女の健康志向と言うか、「ロハス」という言葉を使いそうな(彼女自身は多分その言葉を知らないのではないかと思うが)性格が透けて見える――と言って、それは完全なものではなく、あとでKくんのコーラをいくらか貰って飲んでいたが)、Mさんは確かお茶だっただろうか。うどんは味噌味、ほくほくとして熱い南瓜が入っており、麺はもちもちとした食感だったのでそう言うと、良さそうな麺を選んで取り寄せたのだと言う。それで食べるのだが、食事のあいだ、どんな話をしたのか覚えていない。最初はT田が携帯を使って彼ら彼女らの作った曲を流し、それがじきにスピーカーに繋がれたはずだ。それでこの曲のここはどうだったとか感想文に記したことを繰り返して言ったり、Tの作る曲はそもそものコード進行からして結構攻めているとか、そんなことを話し合った。ほうとうはおかわりの分があり、一つ目の鍋が平らげられたそのあとから二つ目の、あれは土鍋だろうか比較的平たい形の鍋がやって来たのだったが、これは残念にも底に麺が貼りついて焦げついてしまっていた(多分量に対して鍋が浅かったのだろうと、のちのち青梅駅に着いた時、T田と話し合った)。それで底から離れようとしない麺に苦戦しつつ箸を使っておかわりをよそり、食べたのがそれが三杯目だったかおそらく。食べ残された麺たちは多分あとで廃棄されたと思う、冷めてしまっていたし、焦げつきもあって美味しく食べられるような状態ではなかったと思う。それで食後、Kくんと(……)が皿洗いをしたあと、デザートの菓子類が用意された。パンナコッタ(苺乗せ)・苺(これはMさんが持ってきたものらしい)・Tが買ってきたモンブラン二つ・こちらが母親から託されたマロンケーキ二種とクッキーである。パンナコッタというものは初めて見て食べたものだが、ミルクプリンの亜種といったような感じで美味く、苺との相性も良かった。それで、このデザートの時間だったか忘れたけれど、Kくんがコンピューターをテレビモニターとスピーカーに繋いで音源を色々と流した時間があり、そう、曲の話をしているなかで、こちらが紹介した小沢健二 "大人になれば"を流すためにそうしたのだった。そこから、小沢健二の別の曲を流したり(Mさんは小沢健二のことを知っているようだった――彼と同時期の、確かスパイラル何とかと言っていたと思うが、そのグループの音楽がキャラメルボックスの公演で使われていて好きなのだと言った。渋谷系、と訊くと、彼女はこの曖昧なジャンル区分を示す単語も聞き知っていたようで、本人たちはそう言われるのを好まないと思うけれど、と返した)FISHMANSの"いかれたBABY"を流したり、あと何を流したんだったか。まあそんな時間もあり、モンブランについて言えば酒のちょっと香ったこれは美味で、一番下の層がやや硬く、さくさくとしたものになっており、それと上層のクリームの柔らかさとの取り合わせが勘所だったと言うべきだろう。どこの何という店のものか訊かなかったので、先ほどLINEで質問をしておいた(「コクテル堂コーヒー」国分寺店のものだった)。それで、九時台か一〇時になったぐらいからだったろうか、"(……)"という曲の登場人物である(……)(仮)の正式な名前が決まらないと、絵のイメージ、MVのイメージが固まらないと言うので(Mさんはイラスト・MV要員として我々のなかに加わったメンバーなのだ)、ひたすら彼の名前を探り続けた。ピーターというのは、曲のイメージの元となったピーター・パンから来ている。"(……)"の世界観がまさしくディズニー版ピーター・パンのそれで、"(……)."と"(……)"も、「(……)」と呼ばれてそれと軌を一にしたと言うかシリーズ化されているものである。『ピーター・パン』の作者は誰だったかと言うとKくんがその場で検索してくれて出てきたのはジェイムズ・バリーという名前で、ピーター・パンでこちらが思いだすのはフィリップ・フォレストの最初の小説、あれは何と言ったか――『永遠の子ども』だった――これは癌だか何だかになった幼い娘が死んでいくまでの親の苦悩を描いたもので、確かフォレストの実体験を小説にしたものだったと思うのだが、そのなかで『ピーター・パン』がたびたび引かれていたのだった。書抜きに残っていたこの作品の(おそらく)冒頭を引用しておこう。フォレストのその小説を読んだ感じだと、子供向けの話に翻案されている『ピーター・パン』だけれど、普通に作品として読んでみても悪くないだろうというような見通しが記憶として残っている。

 《子どもはみんな、たったひとりを除いて、大きくなる》とジェームズ・バリーは書いている。こんなふうにピーター・パンの冒険は始まる。読みながら、ロンドンの瀟洒な界隈や、完璧なまでに非現実的な広い住居、手入れの行き届いた光輝く芝生を思い浮かべる。ウェンディは二歳。両手を開げた母のもとに駆けより、摘んだばかりの花を一輪プレゼントする。この瞬間にまた別の瞬間が続くのだが、二度はなく、これから先、この瞬間が繰り返されることはない。ウェンディは二歳だが、時間というワニのチクタクをすでに知っている。《二歳で、すべての子どもは知っている。二は終わりの始まりなのだ》
 (フィリップ・フォレスト/堀内ゆかり訳『永遠の子ども』集英社、二〇〇五年、10)

 ピーター(仮)の名前を決めるに当たっては、星の名前、あるいはそれに関連するような語から何となく取りたいという意向があるようで、それでKくんがコンピューターを操って様々に検索を駆使し、色々な星の名前を調べて候補を募ったのだったが、ぴったり合うというものはなかった。こちらは、プトレマイオスの略称であるトレミーが一番良いと思ったのだが、学者が由来だと少々硬くて曲のイメージに合わないということで却下された。花言葉のように星にも星言葉というのがあって、その方面からも攻められたのだが、やはり名前からしても意味からしてもこれでばっちりというものは見つからない。ほか、こちらが、星=輝くものという意味素からの連想だったのだろうか、『宝石の国』のことを何となく思い出して、宝石の名前から取ったらどうかと提案して、そちらの方向でも調べられたが、やはりこれも決まらず、結局Tのノートに様々な名前がメモされたものの、これは保留である。BGMに合わせてギターを弾いたり、適当にコードを繋げてみたり、フリージャズの真似事をしてみたりと遊んでいたこちらは、ギターを弄るのにも飽きると、まだ二度しか会っていない相手の部屋だというのにベッドの上に身を倒してくつろぎはじめたのだったが、一一時に近くなった頃、名前の探索にも一区切りがつくとTが、トランプをやると言い出した。それで取り出された平等院ミュージアムのトランプで行われたのが「大富豪」あるいは「大貧民」である。このゲームをやるなどというのは大層久しぶりで一体いつぶりなのかわからないくらいだ。様々なローカルルールは大概採用されず、シンプルな形式で行われることになり、二度やってこちらは一回目は最下位から一つ上、二度目は二位になった。ゲーム中にT田が終電を調べると、一一時四八分だということだった。それで二度目のゲームが終わった時点で既に一一時四〇分くらいになっていたので、急いで帰宅の準備をした。書き忘れていたが、誕生日プレゼントを貰っていた。Kくんからはお香二種、Tからは靴下二種、T田からは細長い黄色の水仙の花である。靴下は、踵のところの角度が直角を成しているタイプのもので、これのほうが履き心地が良いらしい。水仙は、花言葉が「復活」とか「自己愛」という意味らしく、病気をしていたこちらを励ますという意味合いで送られたものだった。それでこちらは荷物が多かったので(紙袋が三つ)、一つをT田が、水中書店の袋をTが持ってくれた。Kくんの部屋を出ると、風がびゅうびゅうと吹きすさんでいた。急いで駅へ。改札に着いた時点で残り三分、T田がICカードを改札に当てると機械が赤く点灯する。残高不足である。それで急いでチャージし、こちらとT田とMさんは改札を抜けた。Tは恋人だからKくんの家に泊まるのだろう。そうしてMさんともありがとうございましたと別れの挨拶を交わして階段を下るのだが、ちょうど上ってくる人波に逆らう形で、電車を逃してしまう。それは最終の一つ前の電車だったのだが、しかし遅れているようで、次の最終電車に乗っても南武線が乗り換えを待ってくれるかどうか心もとない。それで最悪俺の家に来いと言うと、もうそうして良いかなと申し出があったので、勿論了承し、母親にこれから帰る、T田が終電を逃したので一晩泊めてやってほしいとメールを送った。そうして乗車。立川までのあいだに何を話したのかは覚えていない。立川で乗り換え。電車は零時一九分発で、一五分弱も間があった。一番線に移り、最も西寄りの車両に乗って座る。中央線が遅れていて、最初は発車が一〇分ほど遅れることになるとアナウンスがあり、結構遅れるなと笑っていたのだったが(向かいの大学生くらいの若者三人も笑いを漏らしていた)、最終的には二分遅れで発車することができ、速やかな乗り換えにご協力くださって有り難うございますという礼のアナウンスが入った。道中話したことの一つは、T田がpixivで知り合った人のことで、T田は昨年の夏くらいから『Steins; Gate』の椎名まゆりにぞっこん(死語)入れ込んでいるのだが、そのキャラクターの絵を描いているこの人とやりとりが始まって、ちょっとした文通のようになっていると言う。もともとT田が、まとまった量の文章を書くのにどれくらい掛かると聞いてきたところからこの話は始まって、日記だったら一〇〇〇字くらいなら一〇分で余裕だ、先日書いた感想だとあれは一時間半か二時間くらいは掛かったのではないかとこちらは答えて、そのあとに今、こういう人とやりとりをしていると明かされたのだった。T田は文章を書くのが苦手と言うか、苦手ではないのだろうがそれに時間を掛けてしまうほうのようで、一〇〇〇字を綴るのに四時間くらい掛かったりすると言ったので、ともかくもまず自分の考えていることを出力してしまう、そしてそれをあとから繋げて細かく成型していく、自分はそういうやり方でやっていると言い、あとはもし文章がうまくなりたいのだったら、やはり読むことだろうな、自分の場合はそれに加えて書抜きという習慣があって文をたくさん写していたので、それは文章や文体の感覚を養うのに益したと思うと述べた。pixivの人は、あとで(……)から自宅に歩いているあいだに話を聞くと女性で、しかし既婚者だと言う。せっかく恋の予感が芽生えそうなところだったのになと笑うと、既婚者だから恋愛どうこうはまったく考えていないが、しかしだからと言って、相手が男性だったらここまで長くやりとりが続いていないと思うとT田は言った。それで青梅着、降りると東の空に傾いた半月が出ている。駅を抜け、別に母親が用意してくれはするのだろうが、翌日の朝食を買うつもりでコンビニに寄る。こちらは「ホワイトソースの海老ドリア」と、おにぎりを二つ、ツナマヨネーズのものと鶏五目のものを買った(六七五円)。そうして自宅までの道を歩く。静かな裏通りを行くことにした。そのほうが星もよく見える――T田は、これも椎名まゆりが星が好きだからという理由で興味を持ちはじめたらしいが、星に詳しく、歩きながらオリオン座を起点として、オリオン座の左のあれがシリウスだとか、その右上のあれが何々だ、あれが何々だといくつか教えてくれた(しかしそのほとんどは忘れてしまい、覚えているのはシリウスだけである)。歩いているあいだはpixivの人について話したり、あとは何を話したか今思い出せないのでまあ良いだろう。裏路地から表通りへ出るところで、歩きで良かった、星が見られて楽しかったとT田は言った。そうして三〇分ほど歩いて帰宅。ことによると父親が起きているかと思ったのだが、居間の食卓灯は点いていたものの、両親はもう眠ったようだった。風呂は入るのが面倒臭いので良かろうというわけで自室に下りる。T田の寝場所としては兄の部屋のベッドがある。それで二人入るともうそれだけでいかにも狭苦しくなる我が部屋で、二時半頃まで話をした(途中でこちらは着替えとしてジャージを持ってきてやった)。万葉集とか古事記の話などをしたのが一つある。確か最近自分は短歌を作っているというところから始まったのだったと思う。それで、古今和歌集の仮名序などを読むと、歌というものは山をも動かし、目に見えない鬼神=精霊たちをも涙させる力があるなどということが書いてあるものだから、今とは言葉というものに対する感覚が全然違っていたのだろうとか、古事記では最初に一〇体くらい神がいてそのことごとくが何故か身を隠してしまう、そのあとに出てくるのがイザナキとイザナミの男女神で、だから彼らは最初ではない、その二人が海の水を「こおろこおろ」と搔き回して、その搔き回した棒だか何だかの先から滴り落ちた塩が積もってオノゴロ島という陸地が初めに出来るのだと、大津透『天皇の歴史1 神話から歴史へ』を読んで得た知識を紹介したりする。もうだいぶ長くなっているし、記憶がスムーズに自然に蘇ってこないこともあるし、その他の話については良いだろう。ああただしかし、こちらがHemingwayのThe Old Man and the Seaを差し出したり、相手の好みもわきまえずに『ムージル著作集』などを差し出してそれをT田が読んでいるあいだ、あたりが非常に静かで、まるで時間が止まったかのような静寂だとありきたりな印象を覚えたということは記しておく。それで二時四五分頃、就寝。寝付くのはさほど苦労ではなかった。